1 :
考える名無しさん:
言葉じゃないけど,なにか思想的なもの表現しようとしてる感じすんだけど.
どう思う? そういうモーションだけかしらん.
過去ログにエヴァや絵本ネタがあったので,立ててみた.
2 :
考える名無しさん:01/09/05 21:26 ID:9PwhGa.M
ファンタジー礼賛の思想?
3 :
考える名無しさん:01/09/05 21:29 ID:DTqekRA.
ラピュタはイイネ
4 :
考える名無しさん:01/09/05 21:34 ID:doaepdSk
アニヲタと軍ヲタの特殊な世界観を知らずして、
宮崎駿ワールドは語り得ないものだよ、キミ達。
テツヲタの世界観だけの安易な三文レスは控えるように。
5 :
考える名無しさん:01/09/05 21:39 ID:szuaagE.
宮崎関連のアニメ作品の流れって、
自然と人間が対立して、主人公はその争いに巻き込まれつつも
人と自然の共生を模索していく、ってなのが多い。
(ナウシカ、もののけ姫等)
これが彼の思想なのかも知れないが、
こういうテーマってなかなか一筋縄ではいかない気がする。
メッセージを単純化しすぎると某グリンピースみたいな
ヒステリックな連中を勢いづけそうで怖い。
6 :
考える名無しさん:01/09/05 21:49 ID:9PwhGa.M
芸術から哲学を抽出しようとするのはむなしい作業だよ。
しかし、細部を追うことで思想をなぞる事はできる。
宮崎駿作品は細部においても優れているのではないか。
登場キャラを、作品をざっと見た印象にそって捉えるのでなく、
人物デザインの全容を余さず追うことで捉えるとよくわかる。
7 :
にいなな(本物) は氏ね:01/09/05 21:56 ID:N3yUSlFY
>>6 それはまったく正当だよ。しかし、あまりにも正当すぎて、生産性がない。
「ああ、そうだね」で終わってしまう。
しかし本当に、オタクはファッションに疎いねえ。
疎いというかそれ以前の問題なんだけど。
前に、とらのあなに行った友人が「みんな似たり寄ったりの格好なんだよね」
と漏らしていたが、まあ、確かにもうちょっと何とかしてくれた方がいいよな。
8 :
にいなな(本物) は氏ね:01/09/05 21:57 ID:N3yUSlFY
オタクの特異性は、不細工を差別(差がある別である)したいという
集合的欲求とメディアが結びついた為に存在するのではないだろうか。
ずっと、何で描かれた二次元記号に対してのみ風当たりが強いのか考えていたけど
網状言論F読んでいたら急に閃いたよ。
解決、スキーリしたよ。
9 :
にいなな(本物) は氏ね:01/09/05 21:59 ID:N3yUSlFY
それは生の音を聴かずに、CDばーっか聴いてるヒトに良く見受けられる
発言です。
おまえら
島村抱月の音楽美についての論文でも読んでなさい
音楽は音と音の間にあるのではないか.
音と音の関係が音楽であって,音自体に魅力は無いでしょう.
音楽を音の集合体であるかのように考え,音自体に魅力を求める
というのは,それ自体が間違っているように思う.
10 :
1:01/09/05 22:11 ID:F1whmQJk
>>6 >人物デザインの全容を余さず追うことで捉えるとよくわかる。
もうちょっと説明していただけますか.
11 :
考える名無しさん:01/09/05 22:27 ID:s3WC99jA
手塚が氏んでから大家を気取りだした夜郎自大野郎、逝ってよし。
12 :
スリムななし(仮)さん:01/09/05 22:28 ID:vqye6QEU
宮崎駿の思想らしきものは文字に起こされたものを読んだかぎりでは
まったく興味がわかなかったな。
ただ宮崎駿のアニメではなんでいつも同じような女の子が出てきて
わざわざぱんつを見せるのかとか、そういうのを考えるのはいいヒマつぶしになるな。
13 :
考える名無しさん:01/09/05 22:33 ID:9PwhGa.M
>>10 哲学書の書評を読むことによっては、哲学書の内容がわかっても、
その内容を習得することができないでしょう。
これと同じでおおまかな捉え方では伝わらないという事。
それに加え、
おおまかな捉え方というのは全容を捉えていないというのを
>>6 で言ったんです。
14 :
考える名無しさん:01/09/05 22:36 ID:1e1UAGKA
千と千尋の神隠しはどうなの?
思いっきりエンターテイメントだと思うが。
15 :
考える名無しさん:01/09/05 22:46 ID:MZpC8mN.
宮崎自身は子供の本来的な生命力を表現したいと言っていたが、
これまでのアイデンティティを失いかつ親を養う立場に立つというのは
奔放な子供から責任ある大人への変身の描写に他ならないよな。
16 :
5分前:01/09/05 23:47 ID:6OTwSHf2
宮崎駿は物語れないアニメーターの代表格。
だけど、あそこまで彼の作品が支持されるのは圧倒的画力のためだ。
って、言ってた批評家がいるけど、それは賛成。
その場しのぎの話の展開がなんだか思想的に見えたりするんじゃないの?
登場人物は人間という設定なのに時に人間以上の力を何の力も借りずに引き出したりするのがおかしい。
そういうことが物語れないということ。
ちなみに物語れない代表格としては村上春樹があまりにも有名。
17 :
1:01/09/05 23:53 ID:F1whmQJk
>>6,13
ありがとうございます.
「芸術から哲学を抽出するのはむなしい」という
ことは,おっしゃるとおりだと思います.
ただ「もののけ姫」は僕のなかで,いつまでも未消化で
のこっていて,どうもしっくりこないのです.もや
もやが晴れない.
あわよくばヒントが得られるかもしれないと思い,
スレッドたてたのですが,「早わかり」的な安易
さがあったかもしれないですね.13さんの言われ
るとおり細部を丁寧に読み解いていく必要がある
のかもしれませんね.
彼の作品で気付いたことなどありましたら,書き込
んでいってください.
18 :
考える名無しさん:01/09/05 23:56 ID:b3DS6Wno
>>16 物語れないことは大したことじゃないよ。
何かを物語ろうとしてできた作品がかならずしも何かを語っている訳じゃない。
ちなみに現代の小説家では春樹が一番好きだ。
映画板の千と千尋〜スレ(初期)がおもしろいぞ。
ジブリの舞台裏もけっこう大変らしい。
とにもかくにも宮崎無しでは日本のアニメはゴミ以下の評価しかもらえん。
20 :
考える名無しさん:01/09/05 23:59 ID:K6L4QXvo
>16
物語れる人は誰なの?
宮崎の思想らしきものは漫画版のナウシカ読んだら分かるのでないかしら。
もののけ姫の真骨頂は、あえてそれを日本の歴史のうちに組み込んだ攻めの姿勢ではないかしら。
22 :
20:01/09/06 00:00 ID:j8DCy94g
撤回↑
23 :
5分前:01/09/06 00:06 ID:.x6dDIWg
>>18
たしかに。
それに物語れてないかもしれないけど、ジブリは大好き。というか宮崎駿は良い。
だけど、村上春樹は良くわかんない。スプートニクの恋人はちんぷんかんぷんだった。
>>20
漏れもそれ気になって、そいつ(大学の非常勤講師)に聞いてみたんだ。
そしたら、手塚治虫だって。あとなんかいろんな漫画家とかの名前出してた気がする。
小説家とかの話はしてなかった気がするな。
24 :
20:01/09/06 00:16 ID:j8DCy94g
あり得ないことに必然性をくっつけるのがおもしろい、と言うのは陳腐かしら
25 :
:01/09/06 00:18 ID:0fAcKkOQ
>>17 もののけ姫は失敗作でしょう。多くの人が認めているように。
その原因は最初から物語を語ろうとした姿勢にあると思う。
そして観客へのエクスキューズ。
語りべは憑き物状態に陥らないと観客を物語の世界へは導けない。
物語の理由を考えながら作った時点で宮崎はすでに失敗していたと思う。
それはおそらく宮崎自身気付いていたのでしょう。
だからもののけ姫で引退すると言っていたのにまた復活してきた。
あれを最後の作品にはしたくないという現れだと思う。
26 :
18:01/09/06 00:22 ID:BcKkR2sI
たしかにスプートニクは評判悪い。
俺もかなり好きじゃない。
27 :
考える名無しさん:01/09/06 00:34 ID:0fAcKkOQ
村上春樹は初期の短編がイイヨ!
28 :
考える名無しさん:01/09/06 04:41 ID:i6ABfCh.
コナン以外は駄作ともとれる作品が多かったと思う。
「千と〜」で初めて宮崎作品を劇場に見に行ったが、
これは久々に面白い宮崎作品だ、と思った。
29 :
考える名無しさん:01/09/06 04:50 ID:AbcYQXPU
>>6 「芸術から哲学を抽出するのはむなしい」
というのは美学を否定してるのでしょうか。
>>16 「物語れない」
とは具体的にどのような状況を指すのでしょうか。
理解できない=くだらない
ってのは莫迦のすることですよ。
あらゆる方策を講じて理解を創り出すことこそ、
知的な営み。
30 :
考える名無しさん:01/09/06 05:33 ID:u6tRJ.7A
神的狂気は、新しい思想の出発点としては必要ではなかろうか。
論理的思考のみでは、既存の思想をいじくることの
繰り返ししかできない。
哲学からみた芸術の価値はそこにあると思う。
31 :
考える名無しさん:01/09/06 09:07 ID:ajh7mDPs
ナウシカの原作が好きだ。
思想も好きだけど、何より面白いよ!映画とは全然違うから
読んでない人はどうぞ〜。
32 :
考える名無しさん:01/09/06 13:23 ID:DkZPGs0g
トルメキア王はなかなかの傑物だよね。
>>19 日本以外のアニメって話にも聞いたことないんだけど、
どういうのがあるの?
33 :
千と千尋について:01/09/06 15:33 ID:H9wThuWI
今日は2回目を見た。
最初見た時は、正直、ラストがあっさり気味かなあと感じたが、
2回目はそれほど疑問には思わなかった。
それでも、電車(片道しか運行していない)で銭婆の所へ行くのは何の隠喩か、
カオナシをあのまま銭婆の家に置き去りにしたのは、アッサリしすぎてて、
もしや、脚本の手詰まりじゃなかったのか疑問に感じてもいたが、
スタッフロールの最後の、「おわり」の絵、監督自身が描いたものと思うが、
あれは、「川に流される幼い頃の千尋の靴」だったのだが、
この意味を考えたとき、監督の投げかけたすべての謎が解けたような気がした。
もしかしたら俺の妄想かもしれない。でもあえて書こう。
「神隠し」って何も人間が行方不明になった事とはかぎらなくて、自分が大切にしてた物、
靴とか本とか、おもちゃとか、そういう自分にとって大事な宝物を無くしたこと、
それも「神隠しにあった」と、言えることなんだろう。
さらに、宝物でなくても、思い出、情熱、希望、やさしさやピュアな精神といった、
昔の自分ならいつでも心に感じていたこと、それが、いつしか、
川に流される靴のように、記憶の彼方へおいやられていき、思い出すこともなく、
そういう心を持っていたことさえも忘れているとしたら、これもきっと神隠しなんだろう。
そう思うと、俺自身の、本当の自分の心こそが、
「今このとき」神隠しにあっているのだ! と、気付いてしまったのだ。
替わりにいつのまにか、心に住みついていたのは、まさしく「カオナシ」なのだ。
片道電車は、「覚えていても、思い出せない」自分自身の心の深層への旅だったのだ。
そこへ旅することが、今このとき神隠しにあっている自分を取り戻すことであり、
替わりにカオナシを心の底に静かに導くようにと、監督はメッセージを込めていたのだ。
途中の駅で生活している暗い影の人々は、日々の生活に追われ、
生きる気力を取り戻せない状態を比喩しているのだろう。
「生きる力」とは、「気力に満ちていた頃の自分を取り戻す」ことなんだ。
34 :
考える名無しさん:01/09/06 16:00 ID:l0bOWHM2
>>29 もちろん、美学を否定してるんじゃないです。
哲学書の書評の例挙げましたよね。つまり、
作品から作者の思想を抽出するのはむなしいっていう話です。
芸術的な事と芸術についての事との違いです。
>>33 2回目って納得しやすい気がします。1回目見た印象に縮約して見るから
なのでしょうか。
35 :
オッカム:01/09/06 16:08 ID:609sbkx6
宮崎駿つまんない。大概、主人公は王家の末裔の少女とか魔女とかで、超人的な
力をもってたり、非日常的な生い立ちだったりするよな。そんな設定ならだれでも
物語作れるぜ。しかも奴のアニメは歴史性を無視している。さらに完全な悪人を登
場させないってのもヌルイ。宮崎がどんなテーマでアニメ作ろうとも、どんなメッ
セージを込めようとも、共通していえるのは「ぬるい」。欺瞞的で反吐が出る。
宮崎アニメの薄っぺらさが今の日本を反映している。仮借なき生の現実を直視する
強靭な精神、何ものからも目を逸らさない透徹した眼差しが全く欠落している。
あれを酸いも甘いも噛分けた50過ぎの男が作っているかと思うと暗澹たる気分に
なる。日本人の背骨はどこに逝ったんだ?ああ?
36 :
悲しみ ◆k3mXtRVE :01/09/06 16:24 ID:k8GOyRr2
最近俺も露出度が高いからな。AERAにも出てやったし。
でも俺が「ガキの使いやあらへんで」のバス釣り大会に出演したら、
それってファンに対する裏切りにならへんかのう?
今まで俺は色物とは棲み分けてきたしな。
それから浅田とネタ合わせはせんよ。
たいがいシンポジウムの前夜はオールで飲んでるし、ネタ合わせする気力なんて
ないよ。
それにしてもシンポジウム二日酔いで出るのは俺ぐらいだな。
この前のシンポジウムでは浅田の野郎が寝坊で欠席しやがってのう。
スガと俺ではボケ同士で話が進まんのよ。
じゃ、昼飯に行ってくるからな。何喰うかって? 生姜焼き定食にきまっとるやないかい。
37 :
考える名無しさん:01/09/06 21:54
>仮借なき生の現実を直視する
>強靭な精神、何ものからも目を逸らさない透徹した眼差しが全く欠落している。
それを「アニメ」に求める時点で、あなた自身に現実を直視する姿勢が欠けてるんじゃないの。
現実を直視したかったら、ドキュメンタリーを見るか、それこそ、
パソコンやテレビの電源を切って外に出たら?
直接現実を見ただけではなかなか考えないことを、
考えさせるところにフィクションの真髄がある。
そして、示すところの問題が、本当に時代の先端をいっているものならば、
おそらく、作っている人間は問題を明確に捉えているわけではない。
そこにあるのは「思わく」あるいは、その魁となる予感のようなものだけだ。
論理的な思考で捉えられる問題であるならば,そもそもフィクションという
手段に訴える必要は無いからだ。
その意味で、フィクションは常に思想に先行しているが、
製作者の思想は、思想の専門家(哲学者など)に先行することは無いのだ。
だから、フィクションから、「製作者の思想」を汲み取ろうとするのは、
愚かな行為だ。
その行為者が専門の哲学者であるならなおさらだ。
思想が汲み取れないから作品として評価できないという考え方も、
同様に愚かであるといえる。
38 :
二酉 ◆GJWEv1no :01/09/06 21:57
HN 極南2号 由来 適当に付けた名前。気に入ってないがめんどくさいので
そのままにしてる。いずれ変更するかも。
お住まい 銀河系地球日本
誕生日 9月6日
年齢 30代半ば
性別 ♀
学校 私立
学科 特進
趣味 映画(週に5本以上見る)と、学校でやるかる〜いバスケ(お昼休みと補習の前の
休み時間only)、ネットゲーム(DCとPSOを買ってから日常に支障をきたすほど
はまる)それと任天堂アイランドの人達との交流。
好きな教科 なし。
嫌いな教科 すべて。
好きなテレビ STAR CHANNEL,AXN,CSN1,famiry劇場,NHK衛星第2
好きなゲーム会社 任天堂、セガ、エニックス。
好きな有名人 堀井雄二、宮本 茂、山内溥、DAPUMP、ジェニファーラブヒューイット、亀井静香
アンソニーエドワーズ、ピアースブロスナンその他多数。
好きなゲーム マリオシリーズ、ゼルダシリーズ、PSOシリーズ、カルドセプト、
ドラゴンクエストシリーズ、シェンムーシリーズ、セガカラ。
あだ名 下の名そのまま。
嫌いなもの Play Station2、ソニー、自己表現できない人、偉そうな人。
将来なりたいもの デトロイト辺りでクルーザー生活。その日暮らし。
その他 まだ、他にも書くかも。いつかは未定。
>>37 別に思想性が汲み取れないアニメは評価に値しないなどとは一言も
言っていない。ナンセンス大いに結構。ドタバタ劇に終始している
「トムとジェリー」は俺も大好きだ。
俺が言いたいのは、宮崎のタコの作品からは、単なる娯楽の提供で
はなく、何ごとのおわすか知らねどなにやら意味ありげなモノを作品
に込めてますってな勘違いも甚だしい自負が感じられるってことだ。
「もののけ姫」の「生きろ」というコピーを見て、「何が生きろだ
、一介のアニメ屋に人間の生を語られとうないわ」と俺は思ったね。
妙なリアリティを衒ってる奴の作品には反吐が出る。所詮アニメです
っていう逃げ口上のたまうぐらいなら、はじめっから終わりまでトン
デモない空想を貫けよ。中途半端なリアリティはバブル期のトレンデ
ィドラマに似た嫌悪感を催させる。
それから奴の作品から、未だ思想として明確に言語化されざる予感
なんていうご大層なものをあんた感じたか?ナウシカなんていう戦闘
系美少女を主人公にする時点で宮崎はDQN決定。
やっぱアニメは「トムとジェリー」と「クレヨンしんちゃん」だね。
40 :
考える名無しさん:01/09/06 23:18
>>39 >に込めてますってな勘違いも甚だしい自負が感じられるってことだ。
それを感じさせるのは、あなたの過剰な思い込みじゃないのかな。
被害妄想による幻視みたいなもんだよ。
私は、宮崎アニメに思想性なんてものを感じたことはほとんど無いよ。
(労働者の描写が労働文学臭いとか、
ナウシカ(マンガ)が文明批判っぽいってぐらいかな)
宮崎アニメはまず第一に娯楽でしょ。
テーマは、娯楽を載せる骨組みをとしてのストーリを支える
ために存在しているに過ぎないよ。
現在の状況において、観客が喜ぶような娯楽を盛り込めるストーリを
支えられるようなテーマを探したらああなったってことでしょ。
娯楽のためのテーマを、純粋な思想の訴えと受け取ったところに、
あなたの誤解の本質があるのだよ。
>それから奴の作品から、未だ思想として明確に言語化されざる予感
>なんていうご大層なものをあんた感じたか?ナウシカなんていう戦闘
優れた娯楽は、娯楽として優れているが故に、
そういったものをもっているのではないかな?
ただ、「もののけ姫」が娯楽として優れていたかどうかは、
別の問題だけどね。
私が言っているのは、ありもしない「自負」を作品から読み取って
難癖つけてるあなたの被害妄想的態度が無意味だということだよ。
41 :
心脳問題(13) ◆RaVD21x6 :01/09/06 23:47
もののけ姫は失敗作でしょう。多くの人が認めているように。
その原因は最初から物語を語ろうとした姿勢にあると思う。
そして観客へのエクスキューズ。
語りべは憑き物状態に陥らないと観客を物語の世界へは導けない。
物語の理由を考えながら作った時点で宮崎はすでに失敗していたと思う。
それはおそらく宮崎自身気付いていたのでしょう。
だからもののけ姫で引退すると言っていたのにまた復活してきた。
あれを最後の作品にはしたくないという現れだと思う。
>>40 宮崎の作品に思想性は無い、単なる娯楽だっていう意見には反対し
ないむしろ賛成。ただ娯楽としてもいかがなものかと思う。要するに
つまらん。
おれは宮崎に難癖つけてるけど別に被害妄想は抱いてないぞ。純粋
な思想の訴えなんていうご立派なものを奴の作品から受け取った覚え
も無い。ただ奴にはいやらしい欺瞞の香りが感じ取られる。変にリア
リティを追求する態度も鼻につく。「魔女は血で飛ぶの」って、馬鹿
かお前。架空の魔女に妙なリアリティを付与すな。むしろ「魔女っ子
メグちゃん」の方が荒唐無稽で無邪気に楽しめるね、俺は。
「トトロ」は許すが「魔女の宅急便」「ナウシカ」「ラピュタ」は
逝ってよし。
43 :
考える名無しさん:01/09/07 00:04
>>42 しかしもう、それはすでに趣味の問題なのでは?
単に、あなたの趣味に宮崎の仕掛けが合わなかったってだけでしょ。
娯楽だから、ファンタジーだから、リアリティを出しちゃいけない、
って義務もないし、「リアルにしない」ことが目的ではないのだから。
リアルにしたほうが面白いのに、娯楽だから、ファンタジーだから、
あえてリアルにしないなんて本末転倒だよ。
「魔女は血で飛ぶの」って言葉から、あなたはリアルを読みとって、
なおかつ不快に感じたのかもしれないけれど、リアル以外のものを感じた人も、
リアルと感じたけれど不快に感じなかった人もいたわけでしょ。
そして多くの人が、リアル云々依然に面白いと感じたから、
数字に出たわけではないの?
あなたのように、ある作品において、なされるべきこと、なされるべきでないことに、
最初から厳しい制約をつけていたら、楽しめる作品が減っちゃうよ。
>>43 ああ、単なる趣味の問題だとも。そりゃそうさ。でもそれを言っちゃ
あ哲学の一分野たる美学を語れなくなっちゃうじゃん。あんた、それを
言うのはご法度だったのにい。ここは「哲学板」なんだからさあ。デリ
カシー持ちなよ。話終わっちゃうじゃん。このスレ「終了」じゃん。
>>1の立場はよ?え?「数字」とか「興行収入」とかそんな話じゃねえ
だろ。せっかくいいスレになるかと期待してたのに。流産したね。
45 :
考える名無しさん:01/09/07 00:15
宮崎の作品って、すごく説教くさいと思うんだけど、どうですか。
>>42 典型的な極論厨房ですなあ。
その「いやらしい欺瞞」を言語化してみいや。
似而非リアリスト君。
ファンタジーやフィクションは本来現実と切りはなされてるもの
で、その虚構性や幻想性がそのもっとも美味しい所。
だが、現実と混在させても面白みは出る。
折衷具合を楽しむ方法だってある。
たしかにそこは好みの問題かもしれないね。
47 :
考える名無しさん:01/09/07 00:20
オッカムさ、
君ただ宮崎アニメが嫌いなだけでしょ。
48 :
考える名無しさん:01/09/07 00:21
>>44 美学の議論として製作者のリアリティ追求を遡上に挙げるためには、
少なくとも、製作者が「リアリティを追求した」という意図が
明白でなければならいのではないか?
あなたは、その意図としてあげているのは、
作品を見て、あなたが抱いた予断だけだ。
だから、「趣味の問題」だといっただけのことだよ。
49 :
考える名無しさん:01/09/07 00:51
感傷は娯楽に成り得ない。
オナニーはセックスに勝てない。
そうゆうことですか?>オッカム
>>46 似而非リアリストという言葉の意味がわからん。42はへたな煽りしか
できないクズなのでこれ以上相手にする価値は無い。
>>47 そのとおり、で、そこからその嫌悪感の因って来るところを論じる
のが哲学板の本領であろう。
>>48 で、今のところ、論議の相手となりうるのは48氏だけであり、他の
者たちはあまりに水準が低く、不適格である。
無論、宮崎はリアリティの追求を明白に主題化しているわけではない
だろう。しかしながら、宮崎は自作に単なる空想物語以上の含意を込め
ていると解釈するのは不適当だろうか?
アニメが現実逃避であること、娯楽であること、これには何らの異論
もないし嫌悪感もない。おおいに結構。しかし現実から逃れつつもその
現実から力を借りようとするそのスケベ根性、女好きのホモのような
煮え切らなさ、最低である。
たとえば「もののけ姫」。あくまでも時代と場所を確定しないという
点で現実から意図的に乖離している。にもかかわらず、「たたらを踏む
苦労」とか「ライ病を病みつつも生きねばならない辛さ」といった
生のリアリティを援用する。欺瞞的である。現実と空想の両者に同時に
仕え、そのいいところだけを頂こうとするいやらしさ。このあたりだけ
はさすが50過ぎの男。老獪である。
今
>>47が良いこと言った!
そしてオッカムは「その嫌悪感の因って来るところを論じる」ことに
かなしいくらいに全く成功していない!!
>>51 だから、どこがどう成功しとらんのか言わんと哲学板の議論に
ならんだろっつううの。お前本当に馬鹿だな。少なくとも論証の
まねごとぐらいしろよ。それもできねえならこの板に来るな、アホ。
お前は単なる板汚しだからよそ逝け、カス。
>>50 似而非リアリストと揶揄したのは、
リアリティの追究ならリアリズムをやってればよい、
ファンタジーの追究ならファンタジーをやっていればよい、
と言ってるようにしかみえなかったんでね。
グレーゾーンに焦点を当てれられない極論厨房ってこった。
>女好きのホモのような煮え切らなさ
実はこのあたりが日本人のメンタリティを鋭く言い当ててるのかもよ?(稾
よって大衆に支持されましたとさ。
理性によって性を確定/規定するなんてことは精々近代からのこと。
しかもセクシュアリティ=西洋学だったとさ。
たしかに宮崎作品には鼻につく部分がある。
俺にとってそれは一言でいえば
「女性(少女)に対する過剰な期待」ということだ。
なぜ宮崎は異常とも思える程に少女にこだわるのだろう?
彼の描く少女は純粋、無垢、神秘の象徴であり
世界の変革者であり時には世界そのものである。
彼の思いの根源には「男は駄目だ」「女は強い」という信念があり
それを臆面もなく表現しているところに少なからずの人が反発を
覚えるのだろう。
まあ、多くの人に指摘されてるように宮崎はロリコンなのであろう。
自らは少女の幻想に逃げ込んでいるくせにそのような立場から
偉そうな説教なんてされたくはないという人の感情はよく理解できる。
>>52 アワワワ......ムキになってるよぅ〜w
じゃあ言うけどさ、そもそも、どこがどう、って言えないレベルで成功しとらんよ。
論になってないものに反論をぶつけることは不可能です。
だから
>>47に対して「良いこと言った!」って書いたんだろが。
あらゆる意味で、まだ「宮崎駿が嫌いだにゃ〜」から脱却できてない。
理屈(として成立していればだが)が全てそこに帰着してるだけだもん。
「哲学とは!」と語るのが好きみたいだけど、俺は、それって哲学じゃないと思うよ。
age
ageそこねた。すまない。
sage
sageそこねた。すまない。
宮崎駿は常に自分が「高次元」だと思う世界を見る人に与えたいんじゃないのかな?
宮崎駿の独りよがりの美学や思想を押し付けてかれこれ数十年。
「平成狸合戦・・・」で「もう作りません」とか言ってたのに。
多分、「電車で席を譲らない若者が増えた」とか聞くとアニメが作りたくなっちゃう人だと思う。
62 :
考える名無しさん:01/09/07 13:01
宮崎駿って言葉を口にするだけで
恥ずかしいんですけど。
なんでかな。
トトロとか・・・耳まで真っ赤になって
背中に汗流れる。
>>56 とにかく嫌うために言えそうな理屈をパッチワークしてるだけつーかね。
そんなかんじ。
>直接現実を見ただけではなかなか考えないことを、
>考えさせるところにフィクションの真髄がある。
という言葉にすごく魅力を感じた。
しかしフィクションから思想を汲み取ることは愚行だ、とは考えたくない。
ノンフィクションでは、過去の話をすることしかできない。
でもフィクションで主人公が敵の銃弾を不自然にかわしながら走っていくシーンとか、
どう捉えれば良いんだろう。
65 :
考える名無しさん:01/09/07 19:11
びっくりした。ここではこうも宮崎駿氏が批判されているなんて。
66 :
考える名無しさん:01/09/07 19:41
みんなまじめね。嫌いだったらみなきゃいいのに。
67 :
考える名無しさん:01/09/07 20:10
>>50 おそらくこういう前提があるのではないかな、
リアリティ = 高尚
フィクション = 下賎
従って、下賎なフィクションであるのに、
リアリティを持ち込んで高尚なもののように見せようというのは、
のはあさましい行為であると。
それなら、あなたに聞きたいのが、その
リアリティ = 高尚
フィクション = 下賎
という定義の根拠は何かな?
私にはそのような定義に根拠を見出せないし、
したがってフィクションにリアリティを持ち込む
ことは、単にドラマに迫力を持たせるために
異質な(というか適切な)表現を導入した
というだけのことであって、そのこと自体に、
なんら特別な意味を見出すことはできない。
>>67 別にリアリティが高尚でフィクションが下賎とは言ってないだろ。お前全然読解力
ないな。それと「定義の根拠」なんていうめちゃくちゃな表現使うなよ。「定義」
と「根拠」っていう言葉の意味を辞書でいっぺん調べろスカタン!
>>66 そうそう、嫌いなら見なきゃいいんだよ。でも「嫌いだ」という感情の来歴を探る
ってのが面白いんじゃん。そもそも批評の根底にあるのは好き嫌いの感情だぜ。
だれだって嫌いな奴の一人二人いるだろ。で、そいつのどこが嫌いかって考える
だろ。ま、それと一緒かな。
>>55 まあ、多くの人に指摘されてるように宮崎はロリコンなのであろう。
自らは少女の幻想に逃げ込んでいるくせにそのような立場から
偉そうな説教なんてされたくはないという人の感情はよく理解できる。
この55氏の発言はいいとこ突いてると思うね。宮崎は現実逃避してる分際で
説教じみてて確かにそこが嫌だね。
>>50 女好きのホモのような煮え切らなさ
実はこのあたりが日本人のメンタリティを鋭く言い当ててるのかもよ?(稾
よって大衆に支持されましたとさ。
理性によって性を確定/規定するなんてことは精々近代からのこと。
ってことは俺が憂慮するように日本人は完全にeviscerateされて背骨なんて
どっか逝っちゃったってことかな。
それにしても「理性によって性を確定/規定するなんてことは精々近代から
のこと」ってのはフーコーか誰かの受け売り?君って無邪気で可愛いね。
69 :
考える名無しさん:01/09/07 21:55
>>68 >別にリアリティが高尚でフィクションが下賎とは言ってないだろ。お前全然読解力
じゃあ、現実から離れたフィクションにおいて、
リアリティを導入することがスケベ根性になる理由はなんだい?
リアリティとフィクションが等価なら、それを導入したところで、
スケベ根性などと見なす必然性が見当たらないが?
>ないな。それと「定義の根拠」なんていうめちゃくちゃな表現使うなよ。「定義」
これはあんまり言葉の意味を考えずに使った私が悪かった。
そういう定義(というか解釈)は存在しなかったということみたいだから、
忘れてくれ。
70 :
考える名無しさん:01/09/07 22:23
稲葉振一郎の『ナウシカ解読 ユートピアの臨界』窓社(1996)はどう?
漫画版「ナウシカ」を社会哲学の方向から分析していて読み応えはあったけど。
まずフィクションの定義と意義が分からない。
フィクションは単なる夢物語の娯楽に過ぎないとは、思わない。
例えば「A.I」(まだ観てないけど)など、未来の社会問題予測系は、
社会への警告という意味で、ただの娯楽とは呼べないのではないのか。
また、「2001年宇宙の旅」なども、SFフィクションとはいえ、
強烈な思想を持っているし、同時に未来予測でもある。
フィクションは、未来予測という、学問の重大な使命を
メディアにして人々に訴える、ただ一つ手段とも言えるのではないか。
もちろん哲学書にでも、いくらでも未来予測は書けるのだけど、
ストーリーが必要であるという点で異なる。
この未来予想フィクションの場合、リアリティの追求は絶対必要になってくる。
つまり、単純にSF映画だけにしぼったら、
娯楽として観客を楽しませるためストーリーがあるのか、
作者の未来のイメージを映像化する時、
ストーリーがあったほうがいい、というだけの話か。
後者には思想を追求しても良いと思うが、
問題はその見分け方か。
72 :
考える名無しさん:01/09/08 22:19
>>71 フィクションの定義は「作り話」、でそれほど難しいと思わないけど。
意義という点では、「ノン・フィクションではできないことができる。」
としか言いようがない。
フィクションにしても、ノン・フィクションにしても、
メッセージ伝えることを目的に物語を作る場合、
直接語るのではなく、物語にしなきゃならない必然性ってのも
問題になるように思う。
物語には、メッセージをこめなきゃなんないってわけじゃないしね。
73 :
考える名無しさん:01/09/09 14:10
つまり、「完全な娯楽作品」というものが存在しえたとしても、
おそらくは、メッセージを読み取ることは可能だと思う。
ストーリを成立させるためには枠組みが必要だ。
しかし、それは、娯楽を水に例えるなら、
コップのようなもので、それがなきゃ水は飲めないが、
水か飲みたいひとは、コップが欲しいわけではない。
オッカム死んでいいよ。
態度でかくてウザイから。
つまり「完全な娯楽作品」だとしても、
リアリティを表現することはしっかりした枠組みを作る手段だし、
(リアリティを出さずにおもしろいストーリーを作る事はある意味偉大かもしれない)
メッセージを作品に持たせたいなら、
逆にリアリティを持たせなければ、現実社会への意見でもなんでも無くなってしまう。
問題はオッカムの言うとおり、
宮崎駿夫の作品には、例えば「超人的な主人公」や「歴史性の無視」のような、
言ってみれば二流アニメの様な設定が、ほとんどの作品を通して見られるってとこ。
76 :
考える名無しさん:01/09/09 19:21
なんで核爆弾の化身だったナウシカの巨神兵が、
もののけ姫では自然神の象徴でいだらぼっちに…
そこに対アメリカ姿勢のあの世代のゴマカシを感じる。
77 :
考える名無しさん:01/09/09 19:36
>>75 >(リアリティを出さずにおもしろいストーリーを作る事はある意味偉大かもしれない)
まったく同意。
>逆にリアリティを持たせなければ、現実社会への意見でもなんでも無くなってしまう。
それは、いちがいにはいえない。リアリティを排除することで、
メッセージ性を高める手法というのも無くはないだろう。
というか、フィクションでメッセージを伝えようとする場合、
必要なリアリティだけを選択して導入することで、
テーマを明確にするというのが常道ではなかろうか。
その意味では、「不必要なリアリティの削ぎ落とし」
という見方もできるだろう。
>問題はオッカムの言うとおり、
>宮崎駿夫の作品には、例えば「超人的な主人公」や「歴史性の無視」のような、
>言ってみれば二流アニメの様な設定が、ほとんどの作品を通して見られるってとこ。
「超人的な主人公」や「歴史性の無視」が、なぜ「二流」なのだろう?
>>77 「不必要なリアリティの削ぎ落とし」には賛成する。
しかし、「ご都合主義」や「予定調和」とどう見分けるの?
79 :
考える名無しさん:01/09/09 22:07
>>78 「ご都合主義」や「予定調和」はフィクションである以上、
ある意味必然ではなかろうか。
よしんば、その誹りを受けないように作ることが可能であったとしても、
そのことが目的になってしまったら御仕舞だ。
ここで「何のために、直接かたらずに物語にするか」という問題が
からんでくるように思う。
80 :
考える名無しさん:01/09/09 22:17
なんでみんなリアリティを簡単に前提してるの?
前提されるリアリティ自体論争的なのに。
>>75 じゃあ「一流」って何よ?
つうか、それで言うなら、そもそも本作の主人公って
全然「超人的な主人公」じゃないでしょうが。
なら「千と千尋の神隠し」は一流か?
82 :
フヘフヘフヘ:01/09/10 05:02
基本的に宮崎駿はナチュラリストだからなあ。
特に裏付けや理由もなく、宮崎は自然還元主義というか原始回顧主義というか。
>>79,81
二流と表現したのは間違いでした。
「ご都合主義」も多少は必要ではないのか、という話はよく解ります。
ただフィクションにも2種類あるような気がするんです。
ご自分でいくつか映画化なんかイメージしてもらえると分かりやすいんだけど、
作り話だけど、リアリティを徹底的に追及してるものと、
「超人的な主人公」が出てくるようなものとで、分かれるんではないでしょうか。
一般的に、前者に思想を求める事は簡単なような気がするけど、
後者はいわゆるファンタジーとか子供アニメの類が多いから、
思想を探し出したとき、ご都合主義や予定調和が喉に引っかかる。(オッカム氏)
僕はその種類のフィクションの、さらに少しありふれたようなものを意識して、
「二流」と呼んだつもりだったんだけど。
さて、宮崎駿夫の作品のいくつかは、
二流ではないとしても、後者の方に分類されるんではないの?
84 :
考える名無しさん:01/09/10 21:30
あいてが標榜してもいない主義を勝手に相手の立場として
位置付けるのは、議論としては姑息でないの?
85 :
考える名無しさん:01/09/10 21:43
>>83 結局何がどうだから問題になるのかよくわからない。
ファンタジーを作ることも、子供向けに作るということも、
それだけをもって非難する筋合いのことではないだろう。
フィクションにおいては、
リアリティの追求とファンタジーの追求は
等価であって上下などないはずだ。
ご都合主義を問題にするのならば、
作品のどのような内容が、
宮崎のどういった意図について、
ご都合主義的なのかを提示することが先決ではないのかな?
86 :
考える名無しさん:01/09/10 21:44
>>83 じゃあ、現実から離れたフィクションにおいて、
リアリティを導入することがスケベ根性になる理由はなんだい?
リアリティとフィクションが等価なら、それを導入したところで、
スケベ根性などと見なす必然性が見当たらないが?
87 :
考える名無しさん:01/09/10 21:44
>>85 ありがとうございます.
「芸術から哲学を抽出するのはむなしい」という
ことは,おっしゃるとおりだと思います.
ただ「もののけ姫」は僕のなかで,いつまでも未消化で
のこっていて,どうもしっくりこないのです.もや
もやが晴れない.
あわよくばヒントが得られるかもしれないと思い,
スレッドたてたのですが,「早わかり」的な安易
さがあったかもしれないですね.13さんの言われ
るとおり細部を丁寧に読み解いていく必要がある
のかもしれませんね.
彼の作品で気付いたことなどありましたら,書き込
んでいってください.
88 :
考える名無しさん:01/09/10 21:50
>>86 >>87 同一スレ内のコピペだと、検索一撃でわかるんだよ。
[ ][ ]
手を抜いちゃいけないね。
89 :
考える名無しさん:01/09/10 22:00
90 :
考える名無しさん:01/09/10 22:28
そもそもある対象がご都合主義的でないか?
と問題設定する時点で、議論にバイアスがかかるんですが。
>>84に賛成。
91 :
考える名無しさん :01/09/10 22:53
ラピュタの飛行石は、暴走する科学技術のメタファーで男性原理の結晶。
ラピュタは飛行石のおかげで飛翔・浮遊できるが、生産性の大地である女性原理
を離れているので、当然のごとく滅ぶ。
ムスカ大佐は、技術をもてあそぶ人間の象徴で、シータは、エコロジカルの息を
吹き込む母の象徴。
物語は、シータとパズーのタントラ的少年少女愛によって、
ラピュタは、全てから解き放たれ宇宙へと解脱する・・
>>91 >タントラ的少年少女愛
タントラ的?どういう意味だろう。
神話的とか、宗教教義的ってこと?
そうそう、ヒンズー強の教えでは性の規定はどのようになってるん
ですか?神々の性交の彫刻は見たことあるんですが、どうなんでしょう。
聞きたいのは同性愛、幼児性愛、乱交、そのあたりかな。
「もののけ姫」にはもともとダーティなものが他の強烈な
要素によって中和されるというカタルシスがないのが問題なのでは?
94 :
考える名無しさん:01/09/11 09:05
リアリティーを徹底的に追求?ドキュメンタリーもどき?
タイタニックはどう? 地獄の黙示録はどう? キューブリックはどう?
ウッディー・アレンはどう? 黒沢明はどう? ピーターグリナウェイはどう?
貴方の映画の好みは知らないが一体何を一流と感じるの?
御都合主義や予定調和を飲み込ませる力量?
映画と言う時点で、、、 因みに私は「悪魔の館」にも「千と千尋」にも哲学・思想を感じるが。
読み取り手に解釈は委ねられていると言う姿勢が一番映画を損なわないと思わん?
>>94の最後の一行に同意。
オッカム(先哲のオッカムが可哀想だ)は宮崎アニメが鼻につくらしいが、
俺にはオッカムが鼻につく。
97 :
考える名無しさん :01/09/11 15:09
>92
タントラ的愛とは、私の定義では、一人の対象に集中し制限されている性衝動を
限りなく上昇させ、その対象のアイデンテティも自分のアイデンテティをも
破壊して、到達すべき宗教的な愛である。
しかし、この領域は、実行するのはとても難しい。所詮、想像の世界に留まる。
いわゆる上質のエンターテイメントは、だいたいがこのテーマを扱っている。
これ以上はこのスレで述べるのは、もったいない。
ちなみにシータとパズーは、結局、人間の地上の世界に帰って行った。
ごめんなさい。83のスレの「(オッカム氏)」と書いたところは、
書いた後、オッカム怒るかな〜とか思ってました。
訂正→「(オッカム氏?)」
「超人的な主人公」で言ってみれば、
例えばラピュタで言う、パズーは子供なのに、
何人も敵兵士を倒していくようなとことか。
ストーリーに面白みを持たすためだけならば良いんだけど、
それが話の思想に影響すると、どうなるの?
91の解釈は合っていると思うけど、結局
ラピュタは、その映画ごと一つのでっかいメタファーみたいなものなのかな。
だったら、やはりファンタジーにする以外手は無いのでは。
メタファーを使うことの美しさが、ファンタジー哲学作品の良さ?
そこにご都合主義も何も、その手の話は無意味なのかな。
(付け足し)
ご都合主義とかその手の話は、ストーリーが面白いか面白くないかという問題には有効でも、
作品の思想にとっては無意味なのかな。
101 :
考える名無しさん:01/09/11 22:26
全ての作品に(メッセージとしての)思想があるとは限らないからね。
無いものをあるかのように考えて批評するのは無意味だ。
102 :
考える名無しさん:01/09/12 00:23
おい、誰だ。
宮崎を大した根拠無く貶したがる知的スノッブは!
今日千と千尋を観たが最高だったぜ。
103 :
考える名無しさん:01/09/12 13:07
生きる力を実感しました。
104 :
考える名無しさん:01/09/12 14:39
顔無しのバケモノを媒介にして
千と千尋が入れ替わるというダイナミズム。
千尋という人格とその影が奇妙な形で統合されることで、
親に気付かれぬ間に(文字通りの意味で)千尋が成長する様子を
描いた傑作と言えよう。
宮崎作品にはメッセージ性が欠けているという輩は
二重に意味で愚かである。
105 :
考える名無しさん:01/09/12 17:11
ヘンゼルとグレーテルを思い起こさせるね。
千尋と琥珀(?)は兄弟のようでもあり、
恋人のようでもあるが、日本神話にポツポツある
近親相姦と何か関連があるのだろうか?
106 :
考える名無しさん:01/09/13 01:41
とはいっても完全にヘンデルとグレーテルに重なるわけではない。
そこのところに西欧人と日本人との違いがあるわけで。
たとえば『ヘンデル』の場合に森が舞台であるのに対して、
『千と千尋』では異界が舞台である。
中世以前の未開の土地であり同時に恐怖の対象でもあった森は
西欧人にとって邪悪なものが棲む世界であるから。
一方日本人にとってはこの世界は多くの層を持つと考えられるから、
神や化け物、あるいは幽鬼といったものが住む世界、
鳥居や四つ辻の向こう側が物語の舞台となる。
ではそれぞれの物語の世界における魔女の地位はどのようなものなのだろうか?
『ヘンデル』から見ていこう。
魔女と言えば魔女狩りであるが、西欧においては魔女は悪魔と関係を持つ者であり、
神を冒涜する者として異端審判の対象であった。
そもそもプラトニズムの流れを汲むキリスト教においては
神と悪魔を対置すること自体が既に異端の考えであるように思えるが、
(この辺よくわからんままに書いてる、詳しい人こっそり教えてたもれ)
ともかくこの世は聖と邪に分けられると言う前提が
『ヘンデル』の特徴と言えよう。
『ヘンデル』の魔女は邪悪な存在であり、
お菓子の家に迷い込んだ子供たちを食べてしまう。
そんな魔女につかまってしまった兄妹のうち、
兄は牢獄に押し込められ、妹は盲目の魔女に仕えることになる。
物語の間中兄はただ太らされるために食べるだけであり、
妹の機転によって魔女は滅び、兄妹揃って帰還するところで話は終わる。
この物語において魔女は圧倒的な力をもっている。
が、何故か盲目でありそこに付け入れられ、
グレーテルに暖炉の中に突き落とされて焼け死ぬ。
こうした終焉の激しさは西欧の物語に共通しており、
秩序を重んじ悪を滅ぼす性向を表している。
この性向は聖邪の区別がはっきりついていないと
成立しないということは言うまでもあるまい。
この盲目というところに重要な意味があると思うのだが、
さっぱりわからん。
『千と千尋』の魔女も子供への盲目的な愛情を利用されてるし。
書いててようわからんくなってきたので次いく。
『千と千尋』の魔女は少女千尋をさらって働かせるところまで
『ヘンデル』の魔女に似ている。
しかし、魔女湯婆(?)は邪悪な存在ではない。
住んでいる場所も鳥居の奥の異世界であり、
聖にも邪にもなりうる場が舞台となる。
日本人にとって神とはニュートラルな存在であり、
清浄なものに触れては聖なるものとなり、
不潔なものに触れて邪となるのが日本の神々なのだ。
物語は千尋の家族が異世界に紛れ込み、
豚になってしまった両親を救うために働くところから始まる。
異世界に紛れ込み、両親もいなくなってしまって途方にくれる
千尋を謎の少年ハクが助ける辺り、記紀神話のイザナギ・イザナミの話を思い出した。
たぶん重要な関連はなかろうが。
そう言えば『ヘンデル』で兄妹が森に入っていくのは
乱暴な父から逃げるためであったかな?
そうだよねえ。もともと日本にはアニミズム的仏教観(?)
の根付く土地柄だからね。
清浄なるもの(浄め)と不潔なもの(穢れ)が乖離してない。
ってのに胴衣。
わざわざポストモダンを経なくてもそこには多様性が転がってたのだったとさ。
今回のテロ事件もそうだけど、一神教の為せる技だね。
まあ、一神教的価値観がなければ、現在の科学の発展や合理的思考
に基づく社会構築もなかったわけで。諸刃の剣だなや。
もっといいほうにmixedされることキボン。
てかまだ映画見て無いんだよね、、、、見にいきたいyo
>>110 援護射撃うれしいよ〜。
日本古代からのアニミズムは、
中国からの五行説を経て洗練されていく。
もともと日本人は、死者は穢れているといった思想を持つ
現世主義的で奔放な民族であったらしい。
死者の穢れという観念は、死体が毒ガスを撒き散らしているイメージが
最も良く合うであろう。
つまりほっておけばみんな穢れるのである。
神話の世界でも黄泉の国は醜く汚れた国である。
現代では化け物、幽霊、鬼、荒ぶる神の区別が無いが、
これらがはっきりと区別され始めたのは中国との関係が始まってからだと思う。
化け物とは読んで字の如し、何かが化けたものである。
何が化けるのかは時代・地域によって異なり、
もっとも有名なものには柳の精がある。
現代での妖怪がこれに相当する。
幽霊という観念は中国から輸入されたらしい。
死んだ人が何らかの形に転生するという思想はもともと日本には無い。
中国ではこうした存在を「鬼」と呼ぶ。
鬼門からこの世界へ入り、人門から出ていくため、
鬼門には汚れたものを置いてはいけないという信仰はここから。
日本に入ってきた当時「穏」と呼ばれており、
これが「オニ」の語源である(らしいよ)。
牛の角に虎の袴のいわゆる鬼は民間伝承の産物であり、
丑寅の方向が鬼門であるため。
近代まで幽霊による祟りといったものは無かった。
祟りは神が行うものであり、たかが怨念にそのような力は無いからである。
このことから以前の心霊ブームのいかがわしさが知れよう。
ことの発端は福沢諭吉の合理的精神にあり、
日本人は超自然的なものについて俗的な理解しか示せなくなった。
>>111 みなさんの知識の泉を垣間見る子。
そうですよね。
一神教ってのは「来世的」で垂直=天を目指す=絶対価値、
というかキリスト教に到っては「原罪」ですもんね。
生きる=罪を自覚して清らかに過ごす。
文化的にいえば日本人は指摘の通り「現世的/快楽的」
水平=アニミズム=多様性受容、なんでしょうね。
世界中でも「吉原」みたいな売春文化が栄えたところなんかないでしょうに。
(局地的にはあったかもしれませんが、誰か知ってたら御指摘ください)
穢れは「禊」で洗い落とす清浄思想。
教会にも聖水ってあるけどね。
>幽霊という観念は中国から輸入された
へえ、そうなんですか。
確かに、妖怪と幽霊ってなんか全然ちがいますよね。
有形の妖怪に対し、幽霊の無形さは中国の思想と繋がるだろうか。
>牛の角に虎の袴のいわゆる鬼は民間伝承の産物
ありましたね。
黄泉の国の門番牛頭鬼(ごずき)、馬頭鬼(めずき)。
あと鬼といえば秋田の「なまはげ」を思い出します。
各地の神楽でも出てきそうだけど。(あまり知らない。)
こういうのが今でもあるのがすごいですよね。
113 :
考える名無しさん:01/09/14 19:24
>>112 絶対価値を掲げるのは一神教だからなのかな?
ペテロに賛同して初期のキリスト教徒となったローマ人たちは、
それほどキリストや神の価値を絶対視していたのか?
あるいはキリスト本人は?
キリスト教徒が抱く善悪=良悪の構図は
プラトニズムから派生したものであると思うけど。
宮崎駿の描く世界は,アミニズムが息づいているということ?
思想になる前の,日本人の原世界観かな.
こんなコンクリート世界に住まう現代人でも,
そうした世界に懐かしさを伴う親しみを感じるのは,
この国土の自然がなせる技なのでしょうか?
無宗教と言いつつ,自然観だけは太古からちゃんと
受け継がれている.
言葉や文字じゃない・・・国土そのものによって・・・
そう思うと,国土の霊性って,まだ死んでないんだね!
話しの流れとは全然違うけど・・・
「宮崎映画とは、それを見た後に自分が今まで見てきた世界に当の自分が属してないという絶望感から思わず引き蘢ってしまいたくなるような世界だ」
というような文章を雑誌の評で読んで(相当意訳)、今まで自分が宮崎作品に対して抱いていたうすぼんやりと感じてきたモヤモヤをズバリ言い当てられたような気がした。
「一見オタク文化から遠く離れているかに見える宮崎作品がどれほどオタク文化の王道を行くものであったか」という東クンの言葉以来の衝撃だった。
そして、今回の「千と千尋の・・・」の「カオナシ」の扱いに、何か作り手としての責任感(あるいは無責任さ)を感じた。
「もののけ姫」製作当時のインタビューにおける、「カリオストロ」「コナン」ファンからすればよーわからん「社会、世界への苛立ち発言」は、いつ「文部省推薦」を取り付けてもおかしくないような企画にまぶして
「メカ+美少女+ファンタジー」という「アニメ・オタク文化の王道」を大量生産してきた自らへの身悶えが感じらた。
「千と千尋・・・」は「紅のブタ」以来自ら課していたであろう「禁じ手」の引き算の果てから搾り取ったギリギリの自己模倣(要するに自家中毒)作品だったように思う。
なんか見てて辛かった。
それにしても、あの異世界描写における宮崎さんの「ガロ」コンプレックスはわかりやすすぎ。
「バブル期に社会を喰い散らかし、今じゃアウディーに乗ってるブタどもの子供がもう10歳」的メッセージわかりやすすぎ。
あと、自分の隣に座ってた仮想ターゲットであり「10歳前後の女の子」はぐーすか寝てた。
哲学版らしい流れだったスレに、シニカルな発言申し訳ない。
要は「ボトルバリバリメカ、キャラクターの体重ゼロ」みたいな「キャラが空飛ぶアニメ作らせれば日本一」の職人アニメーター宮崎駿と、
監督作品におけるアニミズムやエコロジー思想とは全く関係ないし、そこが宮崎さんの落とし穴だったんじゃないかと思う、ということなんだけど・・・。
116 :
幼児的全能感:01/09/17 23:17
Cut9月号で「「千と千尋」を「ナウシカ」で読み解く」という企画があったよ。
117 :
考える名無しさん:01/09/20 03:13
118 :
七と名無しの神隠し:01/09/20 13:41
>115
それは結局「キャラが空飛ぶアニメ」を宮崎は作るべきだった、ということですか?
私は『もののけ姫』は反吐がでるほど嫌いですが、今回のは好きですよ。
「宮崎はオタクだった」というのは単に「宮崎は美少女や飛行機が好きだ」という
だけの話で、そこにこだわる必要は全くないと思うんですけど。
119 :
考える名無しさん:01/09/20 22:53
>>117 ユング派の分析のようですな。
人類共通の童話のひとつ『ヘンデルとグレーテル』と『千と千尋の…』とを比較し
そこから西欧と日本の相違を浮き彫りにする手法はなかなかですな。
おれは宮崎駿について語るか。
>>118さんのいうとおり、宮崎の一面を見てお宅だってのもあまりにも早計。
彼が描く幻想的な世界は、現代人がそこで遊べるようなひとつの可能性では?
昔話で王侯貴族の生活が描かれるのは物語を語る主体が貧しい人たちだからであって、
既に誰もが同じくらいの高水準の生活を送れる現代人にとっては
ファンタジーや何の取り柄もない一般人、あるいは昔の人々を題材に小説を書くのは当然。
宮崎の映画は自然と聖性との結合が前提となってるけど、
むしろこの部分が彼の作品を読み解くのには重要であろう。
自然により高い価値を見出す人たちが消えてしまった現代、
彼の作品にはいかなる意味があるのかを問題視したい。
彼はオタクくさい、で終わるのはだめだろう。
age
121 :
考える名無しさん:01/09/23 01:00
宮崎作品は、いかにも『ファンタジー』なのだろうが、あんなので『癒され』てる
人がいまだに多いのが現状。
122 :
考える名無しさん:01/09/23 01:05
>>121 つうか、宮崎作品で「癒し形」って「魔女宅」と「トトロ」ぐらいじゃないの?
「千と千尋」は癒し形なの?(未見)
(「パンダコパンダ」も含めるのか?)
123 :
考える名無しさん:01/09/23 01:44
124 :
考える名無しさん:01/09/23 16:59
「もののけ姫」はそのキャッチコピー「生きろ」が表明するように、
具体的な解決策のない、曖昧な話で、無責任だと思った。
あれならまだ「バトルロワイヤル」が「走れ」といったように
デタラメでも具体的なメッセージを出せばよかったのに、と。
ただ、「千と千尋」を見た後で言うと「もののけ」の方が
真剣のような気はする。
どっちもあまりよくないけど
。
125 :
考える名無しさん:01/09/24 19:32
>>124 なぜ解決策がないと無責任なのだ?
メッセージの必然性も不明だ。
あれは娯楽作品ではないのか?
ナウシカ>千と千尋>ラピュタ>トトロ>魔女>紅豚
127 :
考える名無しさん:01/09/24 19:46
ナウシカは漫画の方がいいな。
映画は下手すれば安っぽい宗教だが、漫画の方がもう少し
奥行きがある。
128 :
考える名無しさん:01/09/24 20:14
トトロは火垂るの墓と同時上映であってこそのトトロだろう。
あの落差は犯罪だ。
129 :
控えた無知厨房:01/09/24 20:36
千と千尋の日本の神道を描いてるが、一神教(上位概念)
である西洋やイスラム圏で通用するのか。?
130 :
考える名無しさん:01/09/24 20:47
131 :
考える名無しさん :01/09/24 22:29
>>129 「八百ヨロズの神」ったって、正確なものじゃないし、ギリシャ神話の
神々とか、妖精たちとか、よほど信仰教育のキビシイところの子供たち
以外は好きなように想像するんじゃないかな? 「親が豚に変わる」なん
てのはちょっと普遍的にコワイと思うしな。
132 :
考える名無しさん:01/09/24 22:51
たとえ『娯楽』作品であっても、それを見た子どもたちの精神に
『何らかの感化』を与えている。
かわいそうな子どもたち・・・。
133 :
考える名無しさん:01/09/25 00:14
>>132 それはえらく子供の人格を侮蔑した発言ではないかな。
「千と千尋の」何がダメかって、あの世界観だ。
資本家、労働者、消費者、がバッキリ分かれてるなんて。
で、そんな世界観を背景に、労働者として誠実に働くことの
美徳を語られてもな。
今はみんな、その3つをそれぞれの個人の内面に抱えざるをえず、
そうした内面の分裂から生じる矛盾に苦しんでるんじゃあないか。
パヤオは生涯一アニメーターを自称し、自らを純粋な労働者であると
思ってるふしがあるんだけど、それはパヤオさんの圧倒的な
アニメーター、労働者としての能力、体力がその他を覆い隠しているだけだ。
あれを観た子供たちが、ああした理想化された労働者の世界(蓄財すべき
理由を持たない、消費すべき動機も持たない、只黙々と働いていれば
人生はかなり保証され幸せな世界)を夢に見ることで、ますます内面での
分裂を深刻なものにしないことを切に願う。
135 :
考える名無しさん:01/09/25 00:43
千と千尋はビジュアル面での勝利だろう。なんでみんな
テクストにこだわるかなあ。
136 :
考える名無しさん:01/09/25 00:51
>>134 >「千と千尋の」何がダメかって、あの世界観だ。
だから、それを、「ダメじゃなく」作る義務がなぜ、
宮崎に課されているのかがよくわからん。
137 :
考える名無しさん:01/09/25 01:10
>>136 元左翼の意地を見せろということでは?
左翼を辞めたからといって、その反対の
思想に染まるのは余りに馬鹿すぎるからね。
まあ宮崎ごときに多くを期待すること自体あやまり
なのは、その通りなんだけどね。
>135
ンなこたぁわかっとる。大傑作だっつーの。
>136
義務があるなんつってねぇ。
「ダメな」っつーのは、現実の問題に対して全く無力っつーことだ。
現実逃避としてなら、あんな良い世界は無いっつーの。
TVシリーズ化して永遠に続いてくれっつーのよ。
139 :
考える名無しさん:01/09/25 01:16
>>138 >「ダメな」っつーのは、現実の問題に対して全く無力っつーことだ。
現実の問題をどうにかする義務があるってこと?何故?
もともと現実の問題をどうにかするために作られたものではないのでないの?
>現実逃避としてなら、あんな良い世界は無いっつーの。
>TVシリーズ化して永遠に続いてくれっつーのよ。
永遠に続いたらさすがに飽きるんじゃないの。
>139
義務なんっつってねーの!!
だから、パヤオさんが
「この映画は40年前に労働運動に関わった人々が抱いた幻想です。
労働運動は雲霧消散してしまいましたが、しかーし!!
ファンタジーは永遠なのです!! さぁ!!レッツ・現実逃避!!
いまなら一分あたり15円!!
観終わったあと、現実に対する幻滅から激鬱になったら
ハルシオンでも処方してもらってね!!」
とか言ってくれてれば納得だったっつーの!!
141 :
考える名無しさん:01/09/25 01:35
>>140 だから、そういう要求をするということは、
義務があると主張しているのとどう違うの?
個人的な願望を述べているだけなの?
>労働者として誠実に働くことの
>美徳を語られてもな。
はぁ?千と千尋はそんなこと語ってないけど?
>観終わったあと、現実に対する幻滅から激鬱になったら
>ハルシオンでも処方してもらってね!!」
ハルシオンは眠剤だぞ?激鬱に処方してどうすんの(っぷぷ
143 :
考える名無しさん:01/09/25 01:50
>>142 ハルシオンてアルコールとかリポビタンDと一緒に飲んで、
眠気をこらえるとトリップするんだよ。
まあ、ダウナー系の飛び方だから激鬱には処方しないね。
144 :
考える名無しさん:01/09/25 02:23
どうでもいいけど、千尋の成長に目を向ける人は少ないんだな。
これまでの作品と違うのは、焦点が一人の少女に向けられていることに
あると思うんだが。
145 :
考える名無しさん:01/09/25 08:38
あの、頭ぶつけるカットとか、「グズ」の描き方が抜群にうまいんだよなあ。
もっとも本当にその通り描いたら話が進まないわけで、そこは本人も
「階段を下りてくれてよかった」なんて何かでいってたけど。
この点がファンタジーたる所以。
146 :
考える名無しさん:01/09/25 17:57
自然と神の結合について語るのは日本では宮崎一人。
自然崇拝を説く神社は無いし、自然の聖性について語る環境団体も無い。
といってもこれが宮崎の独特の味というわけでもない。
一昔前ならば西欧人の描写の一つに食前の祈りやミサへの参加などが
あったであろうが、今ではそれらは描かれない。
昔の西欧人は祈りを捧げるべしとは言わなかっただろう。
何故ならそれらはやって当たり前の事だから。
現代の西欧人も祈りを捧げるべしとは言わない。
それらは生きる上で不要なものだから。
昔の日本人がしてきたこと、危機に際して念仏を唱えたり、
旅先の社や寺に詣でることなどは今では語られない。
既にそのような習慣が失われて久しいからである。
しかし、宮崎一人がその必要を語る。
何故なら宮崎は旧い習慣が完全に失われたことに気付きながらも、
それらが我々の生活に必要であると思っているから。
この微妙な回帰主義こそが、独特な宮崎テイストの本質である。
147 :
考える名無しさん:01/09/25 19:08
>>146 >しかし、宮崎一人がその必要を語る。
わたしには、そのようなことが語られているという印象を受けたことはないが、
どの作品のどのような部分で語られているのか?
148 :
場違いの、始めまして。:01/09/25 19:50
宮崎さんの他と違うと関心する点は、子供の頃に夢で見た場所やらの体感を描くとこ。まあ解りきった評価なのでしょうが…。
たとえば千と千尋を例に上げ、あの銭湯も幼児期に印象した「閻魔大王、地獄、龍宮城の話。中華料理屋、場末のホテル…」などが混合した「どこかで見た奇妙な風景」。
女中が寝ている海の上の角部屋も、裏口の非常階段やパイプも。
「さっき遊んだ子が横にいるんだ」言い聞かせても無償の不安に潜るかび臭い布団や「暗いだけで高くはないんだ」と言い聞かせて下りた錆びた階段の冷気など、それらの体感を甦えさせることだけでも凄いと人と思う。
149 :
↓ネタバレあるよ:01/09/25 21:12
成長してないじゃん。帰りのトンネルでもお母さん怖いよー
とか言ってるし。ただのファンタジー映画をごちゃごちゃ
深読みするのは無粋☆
150 :
考える名無しさん:01/09/26 01:24
>>149 いや、あれをただのファンタジー映画とは読めないから困る。
それ以前に、映画とその作者を切り離せないように、
作品自体とそこに込められた思想を切り離すことなどできないのだから、
あれほどの作品ならば深読みしてもしすぎるということはないんだよ。
151 :
考える名無しさん:01/09/26 01:31
ある程度レベルの高い作品は、作者の意図と無関係に、
思想バカに深読みされて因縁をつけられる運命にあるのかね。
なんか、ジョディ・フォスターのような知的な
美人がストーカに狙われやすいのと似てる気がする。
152 :
考える名無しさん:01/09/27 20:14
@
____
/\ \
/ | \ \
/ | \ \ (´ー` ) 千尋ちゃんおいで…
/ | \ \ ノ( )\('-')
ヽ./ | \/ \/ ノωヽ 只ヽ....
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
A
____ ギッシ
ギッシ // \\ \\
// | \\ \\
// ‖ \\ \\ ギッシ
// ‖ ギッシ \\ \\
// || \\ \\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
153 :
考える名無しさん:01/09/27 21:28
>>148 「千と千尋の」の場合、その「どこかで見た奇妙な風景」というのが、ある種の人間にとっては自分の原体験を呼び覚ますもの、というより「つげ義春のあの作品」だったり、その他ちょっと前流行った個人製作のCGムービー作品だったりしたからとまどった。
154 :
考える名無しさん:01/09/29 23:14
子どもにファンタジーを与えようとするのは良いが、
その質が問題。
あんなの、教室で集中いじめ食らってる小学生なんかは、
感情移入できないよ。
宮崎作品には、肝心な何かが欠けている気がする。
155 :
考える名無しさん:01/09/29 23:38
子供に「与える」という発想自体が歪んでるんだよ。
宮内洋を見習え。
156 :
考える名無しさん:01/09/29 23:51
あれは大人向けの童話だろう。
157 :
考える名無しさん:01/09/29 23:59
なんか面白くなかったなー
ここで擁護している連中の言い分の方に、
むしろシンパシー感じるんだが、
でも面白くなかった。
なんでだろ。
もののけ姫よりはよかったかな?
158 :
考える名無しさん:01/09/30 00:26
159 :
考える名無しさん:01/09/30 00:52
擁護してるつもりはないな。
娯楽作品について、思想的な観点で批判することが見当違いだと
いっているだけだ。
160 :
考える名無しさん:01/09/30 00:57
6,13,115かな。
ユングとか民俗学風なのはダメっぽいよ。
は157、でした。因みに159はシンパシー感じない(笑
>娯楽作品について、思想的な観点で批判することが見当違いだと
一般に「娯楽作品」と呼ばれるものには、思想なんか何も含まれていないと?
映画なり小説なり、作者が何を「娯楽」と考えるか、それをどういう形で切り取って
観客に提示するか。それは思想以外のなにものでもないと思うけど。
もしくは批判することが見当違いだと?
作者が提示した「娯楽」に対して、観客に許される反応は
「気持ち良い」か「そうでもない」かぐらいしか許されないと?
つまり作者なり誰かなりの「これは娯楽作品だ」と宣言は、
観客に思想的な批判をするなという抑圧的メッセージなのだから、
それに盲目的に従えと。
そういうことか?
163 :
考える名無しさん:01/09/30 13:49
>>162 論法が強引過ぎるね。
論理的に「見当違いである」ということと、
「してはいけない」ということは直接関係無いんじゃないの。
どんなに見当違いなことでも、他人に迷惑をかけない限り、
する権利は誰にでもあるよ。
>>163 >論理的に「見当違いである」ということと、
その論理はどのようなもので?
165 :
考える名無しさん:01/09/30 15:57
>>164 「存在しないものを批判することは無意味」
>「存在しないものを批判することは無意味」
っったく、イチイチ曖昧な書き方しかできんやつだな。
「存在しないもの」って何がヨ?
コピペで引用ぐらい出来ッだろーが。
167 :
考える名無しさん:01/09/30 16:23
>>166 >っったく、イチイチ曖昧な書き方しかできんやつだな。
質問が曖昧だからしょうがなかろう。
こちらはそちらの質問にあわせてあえて一般化して答えているだけだ。
>コピペで引用ぐらい出来ッだろーが。
そう思うなら前スレを読む方が筋だろう。
168 :
考える名無しさん:01/09/30 16:24
>>167 訂正
×そう思うなら前スレを読む方が筋だろう。
○そう思うなら前レスを読む方が筋だろう。
「娯楽作品」には「思想」は無いと?
そのことなら
>>162の前半で書きましたが。
>映画なり小説なり、作者が何を「娯楽」と考えるか、それをどういう形で切り取って
>観客に提示するか。それは思想以外のなにものでもないと思うけど。
この論法が強引であるとは、いかなる理由で?
あぁ、バカのために箇条書きにして具体的に質問したげるね。
1・「娯楽作品」には「思想」は無いのですか?
(それぞれの意味は辞書でも引いてね)
2・無いと言うなら、その理由を説明してね。
()
3・有るというなら、何故それを批判してはいけないのか説明してね。
(せめて3つぐらいのトートロジーでお願いね。一個じゃだめよ)
お願いね。
一つのトートロジーだけで、論理、とか言うの、やめてね。
なんでトートロジーにこだわるわけ?
172 :
考える名無しさん:01/09/30 19:08
>>169 そういう意味では言葉が足りないかもしれんね。
「思想の主張」が無いということだよ。
人間を描けば、そのなかにいろいろな思想が含まれるのは当然だ、
だが、それらは、論文における思想のように、
作者の主張であるわけではない。
それを、あたかも作者が「こうせよ」と主張しているかのごとく批判するのが
見当違いだといっているのだよ。
>>170 >1・「娯楽作品」には「思想」は無いのですか?
あるね。
>2・無いと言うなら、その理由を説明してね。
よって略
>3・有るというなら、何故それを批判してはいけないのか説明してね。
批判してはいけないとはいっていない。
無意味だといっているだけだ。
>>163 で、すでに、
>どんなに見当違いなことでも、他人に迷惑をかけない限り、
>する権利は誰にでもあるよ。
といってるでしょ。
あぁゴメン。うっかりしてたね。じゃ
3・有るというなら、何故それを批判することが無意味なのか説明してね。
「存在しないものを批判することは無意味」と言ってたよね。
というか君は「これが僕の主張でース!!」と誰かがハッキリ言ってくれないと、
作品内に自明のものとして仕込まれた思想を読みとろうだなんて思いもつかないんだね。
二人ともまともな議論をしてくれ。
煽り愛ならやめろ。
175 :
考える名無しさん:01/09/30 21:53
アニメーションは最高だけど
主張が人間の否定や今の現日本の否定になってしまうと
作品に矛盾をかんじてしまう
だから単純に希望の持てる作品は好き
もののけ姫で矛盾を感じてしまったので千と千・・・
はまだみていない。まだ見れない
手塚治は問題提起はするけど否定はしない
治ぐらいレベルがたかければ良いと思う。
176 :
考える名無しさん:01/09/30 22:00
□□□□■□□□□□■□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
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□□■■□□□□□■■■■■■□□□□□□□□□□□□□■■□□
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□■■□■□■□□□□□□□□□□□□□□□□□■□□□□□□□
□■□□■□□□□■■■□□□□□□□□□□□□■□□□□□□□
□□□□■□□□□□□■■■□□□□□□□□□□■□□□□□□□
この人は哲学者ではないですよね。少し誤爆と思われ。
興業的に成功しているアニメ監督なのですが哲学があるとは思えないのですが
弟子の土器○司さんがエロアニメ製作に関わったのを
えらく怒ったらしい。自らの潔癖を他人に押しつけるべきではないでしょうね。
その時点で私の中ではこの人はあかん。
2ちゃん的にはDQN決定でした。
作品としてはそこそこ楽しめるものもあるが所詮そこまで。
まあ、彼の作品は戦後民主主義に毒されたほとんどの日本人には
エコとか入っていて心地よいのかもしれんがね。
そういう意味では山田君がおもろかった。彼の思想とか関係ないものね。
いしいひさいちマンセー。
178 :
考える名無しさん:01/09/30 22:30
よんでいるーむーねーのーどーこかおーくでー
今日映画見てきた。
「もののけ奥さん」よりもずっと楽しめた。
「働く」ってことをテーマに据えたのは、面白い着眼点だと思った。子供だけじゃなくて、大人も関係する話題だから、広い客層から関心を呼べるし。
でも、千が「働く」ことを通じてたくましく成長していくことを無条件に「良い」ことみたいに描いてるのが気になった。
「なぜ働かなければならないのか?」「働かないことは悪いことなのか?」「働くことを通じて人間が成長するなんてありえるのか?」といったレベルまで掘り下げてくれると、「哲学的」と呼んでもよい作品になったと思う。
ま、それはそれとして、ゆばあばが一番いいキャラだった。
「ゆやいちばんのこころをこめてー」
180 :
考える名無しさん:01/09/30 23:10
>煽り愛
いい言葉だ!
181 :
考える名無しさん:01/09/30 23:33
>>173 >3・有るというなら、何故それを批判することが無意味なのか説明してね。
その思想を主張している人物、つまり、
批評の対象となるべき人物が存在しないからだよ。
あえて言えば、作中の人物が、作中において主張している
思想について、その作中の人物を、批判することはできるかもしれないね。
でも、あなたのいう「批判」は、そういうことではないんでしょ?
おれが「煽り愛」に火をつけちゃったかな?
だったら、すまん。
思想はどうかしらんが、宮崎さん、メッセージ性は明らかに強いだろ。
現代のアニメ作家のみならず、映像作家全体とくらべてもな。
むしろそれは人気(と不評)の一端を担ってさえいる。
>>182 あなたは悪くないと思うよ。
彼は、私の
>>159 が多分、
お気に召さなかったのでしょう。
>思想はどうかしらんが、宮崎さん、メッセージ性は明らかに強いだろ。
>現代のアニメ作家のみならず、映像作家全体とくらべてもな。
私は、「メッセージ性が強い」というのは「作風」程度にしかとらえていない。
なぜなら、
あなたも、
>むしろそれは人気(と不評)の一端を担ってさえいる。
といっているように、
娯楽作品のメッセージというのは、
メッセージ自体の妥当性以前の問題として、観客から、
面白いか、面白くないかで取捨されてしまうものであり、
そのことを覚悟の上で作り手が作っている以上、
純粋に自分の意見ではなく、観客に歓迎されることを
第一に考えざるをえないものであると思う。
(つまり、プラトンいうところの「迎合」)
極言すれば、娯楽作品のメッセージというのは、娯楽を成立させるための
舞台装置にすぎない。
したがって、作品から読み取られる思想を、製作者の思想として、
批判することには意味を感じない。
メッセージそのものについて考えてみることまで無意味だというつもりは
ないけどね。
184 :
考える名無しさん:01/10/01 01:41
なんせ共産党員ですから。
185 :
考える名無しさん:01/10/02 19:32
>>155 『与える』というのは、『提示する』という程度の意味で使ったもの。
上から『与える』の意味ではない。
ともあれ、あの作品を、宮崎自身が純粋な娯楽と見なしているかどうか
は疑問。結構『いい事』やっている気持ちでいる。そこが問題。その
意図とは無関係なところで、あの作品で無意図的に表現されている
所のものが子どもに与える感化に問題がある。
社会における問題の所在がわかってない作者の作品は、見当外れで、
他にある有意義な作品から、子どもを遠ざけてしまうという点で有害で
すらある。
186 :
考える名無しさん:01/10/02 23:12
>>185 >社会における問題の所在がわかってない作者の作品は、見当外れで、
>他にある有意義な作品から、子どもを遠ざけてしまうという点で有害で
>すらある。
作者が社会における問題の所在がわかっていないとなぜ問題なのだ?
アニメ監督は、哲学者でもジャーナリストでもないよ。
問題の所在が明確にわかっているのなら、
論文なり、ノンフィクションなりを書けばいいだろう。
娯楽作品はその目的で存在するメディアではない。
あなたの主張は、メディアの特質を無視して、
均一な機能を要求するもので、
文化の多様性の否定に他ならないのではないか?
逆にいえば、アニメ監督が、本来の職分を侵して、
哲学者や、ジャーナリストの機能を果たそうとする
ことの方が問題だろう。
187 :
考える名無しさん:01/10/03 17:08
よくわからん議論だな。
作品作るのに『いい事』やっているという感覚が伴うのは
普通の事じゃないのか?
これは(誰にとってというわけでもないが)ためになると思わないか?
それとも『いい事』をしていると感じる事を特別視したいのか?
だとすれば、通常の意味での『いい事』とこの場合の『いい事』を区別して欲しい。
それから哲学者の機能って何?
問題の所在を明確にするのが哲学者の目的だと言いますが
社会的に認められる哲学者の機能って、社会の問題を浮き彫りにすることで
問題解決の糸口を見つける事だよね。
哲学者達がどう言おうと社会はこのような機能を期待するだろう。
だとしたら、哲学者とアニメ監督とに求められる機能がどう違う?
宮崎作品があれほど一般に受けるのは、誰もが興味を持たざるを得ない問題、
社会に受け入れられる問題を示し、それに一定の回答を与えているからじゃないの?
188 :
考える名無しさん:01/10/03 17:15
それにしても宮崎駿という男、自分の作品についてペラペラと
ようしゃべるのう・・・・・・。
189 :
考える名無しさん:01/10/03 20:50
>>187 >それから哲学者の機能って何?
誤解を恐れず単純化して、私の考えを言えば、両者の(求められる、あるいは持つべき)機能は、
哲学者 = 真理を追究すること。
アニメ監督 = 面白いアニメを作ること
ということだ。
アニメは面白ければ必ずしも真理を示していなくてもいいし、
哲学は真理に近づきさえすれば、一般の人にとって面白くある必要はない。
(いちおうここでいう「アニメ」は娯楽作品に限るわけだが)
※念のために書いておくけど、私は、「面白さ」について、
単なる刹那的な快楽でなく、一定の意味のあるもの、
と考えているので、「面白ければいい」は批判的な
意味で言っているのではない。誤解の無い様。
>哲学者達がどう言おうと社会はこのような機能を期待するだろう。
>だとしたら、哲学者とアニメ監督とに求められる機能がどう違う?
なら、なぜ、哲学者とアニメ監督が両方この世の中に存在するのだ。
機能が同じなら、哲学者がアニメを作るか、アニメ監督が哲学をすれば事足りるだろう。
社会が期待するというが、社会が期待することは、
かならず、それの本来あるべき姿であると思うかい?
私は、宮崎アニメにそのような機能を期待する風潮自体が間違っていると思う。
宮崎アニメに触発されるのは結構だが、答えは自分で探すべきだ。
190 :
考える名無しさん:01/10/05 08:28
そんな表現形態に社会的意味付けしたら堅苦しくてしょうがない。
映画(アニメ)が哲学的内容を含んでいても可笑しくないでしょう。
ただ表現の一つなんだから。
哲学者がアニメ作ったってアニメーターが哲学書を執筆したっていいじゃない。
肩書きなんて表現者に然程重要じゃないんと思うよ。
191 :
考える名無しさん:01/10/05 08:33
哲学者はアニメを作れるの?
>>191 訓練すれば漫画くらい描けるんじゃないのかな。
漫画の人気が出れば、アニメとかゲームになることはまま有るし・・・
只、哲学者になる様な精神の傾きをもった人間が
エンタテインメント性を創出できる可能性は低いだろうね。
まぁ脚本家とかでも良いけど、作品のコントロールが難しいだろうし
原作作家を目指すのが最短かな。
193 :
考える名無しさん:01/10/05 10:34
>>191 スレ違いかもしんないけど、「哲学者」って何? どういう定義?
つまり、「アニメを作ったら」それは「アニメ作家」ではないのかね?
宮崎駿の著作は実に哲学的だと思うんだけど、それは「哲学的に深い
ものを感じる、思索の後を感じる」というイミで「宮崎駿は哲学者だ」
ということにはならないよね。
191の言い方は「哲学者」という定義が(たとえば哲学の博士号をもっ
いる、とか)まずありき、という気がする。
まあ、博士号だったらたそれなりに通用するかも知れないけど、大学
の哲学科で、ゼミで哲学をやったからって、「哲学者」かい?
何がいいたいかといえば、哲学はもっと幅広いものだから、「哲学者」
という定義が「これは哲学的か?」という議論をすればするほど狭まっ
ていってる気がするよ。
もっと正直にいいましょう。宮崎駿が「哲学者っポイ」に批判され
てるのが気にくわね〜。
194 :
考える名無しさん:01/10/05 20:04
>>190 >そんな表現形態に社会的意味付けしたら堅苦しくてしょうがない。
私だってしたくはないが、そうしないと、
全ての表現に社会的責務を押し付けようとする
人がいあるからしょうがないだろう。
>映画(アニメ)が哲学的内容を含んでいても可笑しくないでしょう。
>ただ表現の一つなんだから。
よく読んで欲しいのだが、私はそのことを否定してはいないよ。
むしろ、含まれているのは当然だと言っているはずだ。
私が言っているのは、哲学が含まれていたとしても、それを製作者の
主張と見なすのは無意味だということだ。
>哲学者がアニメ作ったってアニメーターが哲学書を執筆したっていいじゃない。
>肩書きなんて表現者に然程重要じゃないんと思うよ。
もちろん、そのとおりだよ。
しかし、哲学者が、自分の哲学を表現するのにアニメを使ったり、
アニメータが論文で人を楽しませようとするのは、
あんまり効率のいいやりかたではないのではないか?
つまり、肩書きではなく、「機能」の話だよ。
それよりさ・・・。
ナウシカの漫画版について語ろうよ・・・。
どう?
196 :
考える名無しさん:01/10/06 23:48
ナウシカ、アニメよりマンガのほうがイイ!
深い!
197 :
考える名無しさん:01/10/06 23:52
>>195 どうぞ。
私は後半退屈でつらかった。
というか、最終巻読むとき、前と間が空きすぎて
ストーリを把握するのがきつかった。
わー!みんな答えてくれた!
うれしいじゃん!
僕は宮崎駿の全ての作品の中であれだけあれば
基本的には満足なんだよね。
でも稲葉の「ナウシカ解読」が本屋に無い・・・。
読んでみたいのに。
さて・・・どこからはじめる?
>>197 >私は後半退屈でつらかった。
何故?どんなところが?後半が一番よかった気がする。
200 :
考える名無しさん:01/10/07 00:03
映画版よく見るとさ、ナウシカってノーパンじゃなかった?
いやほんとに!
スパッツはいてるジャン!
も・もっと内容について語ろうぜい。
202 :
考える名無しさん:01/10/07 00:06
>>199 後半というか、最終巻のなかでは、中盤かな。
なんか、賢者みたいな人に会おうとする辺り。
なんか、抽象的なシーンが多かったので。
>>202 そうかなあ。あそこは最も美しいシーンの
一つだと思うけども。絵的にもね。
3巻から最後までが凄く好き。
204 :
考える名無しさん:01/10/07 00:19
>>203 美しいシーンではあったけれど、ストーリ的には停滞してたような気がする。
(いや、うろおぼえなんす。)
私的にはドンパチ期待していたもんで。
もはやそれを維持する力もないのに、
未練たらしく保持されてきた、過去の力(過去の技術の産物)の、
腐り具合ってのが、感覚的には面白かったけどね(最終巻後半)。
>>204 >ストーリ的には停滞してたような気がする.
それは、あそこの部分が抜けてもストーリー的には特に
問題が無い、という意味なのかな?
そういえば「ナウシカ」と竹宮恵子の「地球へ」は少し似
てるよね。
「ナウシカ」という作品は哲学的なのかな?
とりあえず「存在論的」ではないよね。
このあいだ、ドルク帝国に侵攻したんです。ドルク帝国。
そしたらなんか敵がめちゃくちゃいっぱいで進めないんです。
で、よく見たらなんか兄の将軍が前線に出てて、全滅するまで戦え、とかほざいてるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、父王の命令如きで人の私軍を指揮してんじゃねーよ、ボケが。
第三軍だよ、第三軍。
なんか兄とかもいるし。兄妹二人で骨肉の争いか。おめでてーな。
よーし兄さん撤退しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、鉛玉くれてやるからさっさと死ねと。
ドルクってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
城壁の向かいに座った奴らといつ踊り合いが始まってもおかしくない、
殺るか殺られるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。臆病者は、すっこんでろ。
で、やっと落ち着いたかと思ったら、隣の奴が、巨神兵を復活させようとしてるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、巨神兵なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、巨神兵、だ。
お前は本当に巨神兵を復活させたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、自国を焼き滅ぼしたいだけちゃうんかと。
ドルク通の私から言わせてもらえば今、ドルク通の間での最新流行はやっぱり、
ナウシカ、これだね。
風の谷のナウシカ。これが通の人選。
ナウシカってのは叡智が多めに入ってる。そん代わり乳が少なめ。これ。
で、それに王蟲と会話。これ最強。
しかしこいつを連れてくと次からオーマにマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らは、蟲使いでも殴ってなさいってこった。
あはは。207は天才だね。次クロトワやってよ。
209 :
考える名無しさん:01/10/07 04:33
age
「ナウシカ」について。
腐海が毒を出したりするのは、不毛の地と化した地球に適応
した訳ではなく、人間が世界を再生するためにプログラム
した事だった。
そして、墓所の主は世界を浄化し、清浄な世界をもたらす
ための核として描かれているよね。
それに対してナウシカは「世界を清浄と汚濁に分けてしまって
は何も見えない」といって、それこそが、「闇の中の瞬く光」
こそが生命だという。
そしてナウシカは粘菌や王蟲の中に、それも彼らがプログラム
した事なのかもしれないけども、「生命それ自体の力」や、
「虚無の深淵から生まれた」「いたわりと友愛を見る」。
そうすることで、世界の残酷さや苦しみ・愚かさをも肯定
するんだね。これってものすごく現代的な考えだと思うんだ
けど、みんなどう思う?
ちなみに6巻のナウシカが清浄の地を訪れるところって、
すんごい綺麗なシーンだよねー。
あー、ナウシカとえっちしたい・・・。
211 :
考える名無しさん:01/10/07 18:37
>>210 世界の残酷さ、苦しみ、愚かさの肯定を現代的だと言うのには賛成できない。
というのはこれらを肯定せよというのは古代から人生論の一つのあり方として
説かれてきたにもかかわらず、いまだに実践する人は少ないからだ。
もしもこの事が実践されれば、残酷さ、苦しみ、愚かさに対してそれを回避しようと努力することもなくなり、
随分と幸せな人生が送れるに違いない。
そして現代人はこうした清浄な考えを否定するだろうし、トルメキア王も否定した。
これはナウシカにおいても否定されるだろうと思う。
結局あの世界が救われたのは偶然なんだよね。。
ナウシカ自身、もう世界は救われないんだということを中盤で悟ってからは、
ただ事態の把握にのみ努めてるわけだ。
世界を救おう、少しでも犠牲を減らそうということに積極的に関らないからこそ、
あの物語には独特の深みが伴っている。
>あー、ナウシカとえっちしたい
ここには激しく同意。
212 :
考える名無しさん:01/10/07 20:12
宮崎はかつて、手塚治虫が表現に徹するために作品中で
あるキャラクターを意図的に殺したことに対して、
手塚には『神の視点』があり、それは『恐ろしい』と感じた。
(それで手塚プロを離れた)
というようなことを述べていた。(内容は記憶によるので
不正確)
私は、手塚氏のあり方に深く共感しています。
>>211 >世界の残酷さ、苦しみ、愚かさの肯定を現代的だと言うのには賛成できない。
というのはこれらを肯定せよというのは古代から人生論の一つのあり方として
説かれてきたにもかかわらず、いまだに実践する人は少ないからだ。
うーん、なあるほど。確かにそうかもしれない・・・。
でもさ、現代になって、そういう見方が顕著になってきてる
とはいえるんじゃなあい?なんてゆうか、世界のマイナス
の側面も無視できなくなってきたというか・・・今まで
無視してきたわけでは無いと思うけど。
>>211 >世界を救おう、少しでも犠牲を減らそうということに積極的に関らないからこそ、
あの物語には独特の深みが伴っている。
そういえば、そうだね。いいレスじゃん。フムフム・・・。
216 :
考える名無しさん:01/10/07 23:23
宮崎駿、寅さん(てか山田洋次)化しそうで、なんかヤなんだよなー。
言ってることは確かに正論。
正論なんだけど、なんか共感できない。
ファンの人多そうなので、ちょっくら否定的意見を述べてみました。
217 :
考える名無しさん:01/10/07 23:29
正論なのかな〜。
大衆的な正論が存在しがちな問題を導入しているために、
正論を「言っている」ことに誤解されがちであるということのような気がする。
ナウシカでも、「自然との共存」とかいった俗なメッセージを読み取る人が多いみたいだけれど、
映画でも漫画でも、解決しないまま終わってるし、そういった問題自体については、
突き放していると思う。
でも、そういうメッセージを「読み取りたい」人は多いんだろうね。
>>216 何故?詳しく説明して欲しいな?
でも、ナウちゃんかわいいと思うでしょ?
219 :
考える名無しさん:01/10/07 23:37
そういう大衆批判っぽいのも、ある種インテリ層?向けの
正論って感じがするのよ。
突き放しているように見えて、そこにはありがちな結論を
容易に導く暗示が実際にはあるんでは、なかろーか。
もののけ姫見て、
「共に生きることは出来る」っていう
”結論”に異議を唱えられるかどうかっていうと、
難しいと思う。
220 :
考える名無しさん:01/10/07 23:38
それからなうしか見て「自然との共存が大事だ!」としか
思う奴はさすがにいないと思う。
221 :
考える名無しさん:01/10/07 23:41
>>びたみんサン
>でも、ナウちゃんかわいいと思うでしょ?
ん〜、可愛いのとは違うと思う。
てゆうか、
>>207の
>ナウシカってのは叡智が多めに入ってる。そん代わり乳が少なめ。これ。
これは絶対違うと思う
222 :
考える名無しさん:01/10/07 23:43
>>219 >突き放しているように見えて、そこにはありがちな結論を
>容易に導く暗示が実際にはあるんでは、なかろーか。
そこまで深読みするのは邪推ってもんでは?
なぜそこまで暗示を求めるの?
>もののけ姫見て、
>「共に生きることは出来る」っていう
>”結論”に異議を唱えられるかどうかっていうと、
>難しいと思う。
その「異議を唱えにくくさせているもの」が、
なんなのかというのが問題だと思う。
少なくとも、
論証による論理的正当性では無いだろう。
>>220 でも、感想文書けって言われたら、
「自然との共存が大事だ!」という事を
書く奴ってけっこう多そうでない?
「あー、おもしろかった。」で、多くの人は
たいして考えないんだね。
224 :
考える名無しさん:01/10/07 23:46
>そこまで深読みするのは邪推ってもんでは?
>なぜそこまで暗示を求めるの?
ん〜、あんまり邪推とは思わない。
大衆が陥りやすい「物語」があるように、
インテリ?が陥りやすい「物語」もあるんでは!
と思うだけ。
>その「異議を唱えにくくさせているもの」が、
>なんなのかというのが問題だと思う。
>少なくとも、
>論証による論理的正当性では無いだろう。
すいません。難しくてよくわかりません。
225 :
考える名無しさん:01/10/07 23:50
>>224 >インテリ?が陥りやすい「物語」もあるんでは!
>と思うだけ。
わたしもそれは否定しないけど、宮崎監督がそれを意図しているかどうかは、
わからんでしょ。
226 :
考える名無しさん:01/10/07 23:50
>>223 ナウ四華の映画だけ見たらそう書く人は、多いかもしんない。
漫画を最後まで見てら、ちょっと違うと思う。
もののけ見て、それしか書かないヤツは、ちょっと考えられない。
>わたしもそれは否定しないけど、宮崎監督がそれを意図しているかどうかは、
>わからんでしょ。
??? 監督サンの意図は、問題じゃないと思う・・・。
228 :
考える名無しさん:01/10/07 23:54
>>224 >大衆が陥りやすい「物語」があるように、
インテリ?が陥りやすい「物語」もあるんでは!
だろうね。インテリも大衆の部分だ。ってなことを
誰だったかが言ってなかったけ?
最初から、監督の意図とかいうようなことは、問題にしていない、
ということでありまするよ。
232 :
考える名無しさん:01/10/08 00:00
>>230 いや、それはよくわかったのだが・・・・(困;
そうすると、あなたが問題にしていたことは何だったのだろう?
>だろうね。インテリも大衆の部分だ。ってなことを
>誰だったかが言ってなかったけ?
そうですね。よくいいますよね。
>>232 え〜と、監督の意図というのは貴方様が言い出したことでありまして、
ワタクシは関知しないのであります・・・。
ワタクシの最初の言い分はこれ。
↓
216 :考える名無しさん :01/10/07 23:23
宮崎駿、寅さん(てか山田洋次)化しそうで、なんかヤなんだよなー。
言ってることは確かに正論。
正論なんだけど、なんか共感できない。
ファンの人多そうなので、ちょっくら否定的意見を述べてみました。
思うに現代では「サブカルチャー」などという、
わかったようなわからんような名前で呼ばれるようになった分野では、
この種のことはよく起っているのではなかろーか!
大衆批判的に「物語性」を批判しながら、実際には自らも
別の種の「物語」を語っているに過ぎないということは。
236 :
考える名無しさん:01/10/08 00:16
物語に多く曖昧さを残し受け手の想像力を刺激する
いわばテキスト主義?とでもいうべき作品があります。
それは一般にテキストの豊穣さをもたらすものとして、
肯定的に語られます。
しかし、そのように語られること、あるいは語られ方自体に
「物語」「紋切り型」を感じさせられることが、
最近は多くなったように思います。
>>235 >大衆批判的に「物語性」を批判しながら、実際には自らも
別の種の「物語」を語っているに過ぎないということは。
それは不可避的なことでもあるんじゃなあい?
「物語」は語らざるをえないって感じ・・・どう?
>>221 いや、ナウシカは胸が小さいと思うけど…
>それは不可避的なことでもあるんじゃなあい?
> 「物語」は語らざるをえないって感じ・・・どう?
実際的に言えば、みんなが言いそうなことはなるべく
言わないようにすることが一つ。
もう一つは、「所詮、自分も物語っているに過ぎないのだ」
という見極めが肝要なんだと思います。
>>239 でも、みんながそう言うようになったら?
そういう事態も十分考えられるよね。
241 :
考える名無しさん:01/10/08 00:22
>>234 う〜ん。
私の言っていたことは、
>言ってることは確かに正論。
>正論なんだけど、なんか共感できない。
について、監督にはそういう正論を「言う」意図は無かったのではないか?
というものなのだけれど、
ここでいう「言ってることは確かに正論。」の「言ってる」人というのは、
宮崎監督のことではないの?
>>238 あの、小ぶりな胸がいいのよ・・・ウシャウシャ・・・。
243 :
考える名無しさん:01/10/08 00:26
>実際的に言えば、みんなが言いそうなことはなるべく
>言わないようにすることが一つ。
>もう一つは、「所詮、自分も物語っているに過ぎないのだ」
>という見極めが肝要なんだと思います。
誰もが物語を語りがちであるという事実と、
誰かの語ることは物語であるという論理的言明における
「物語」は明らかに意味が違うのだから、
その点混同しないように。
で216さんは宮崎の何を正論と言ってるのでしょうか。
びたみんさんとの意見の違いははっきりしないようですが。
>>238 あなたは何を見ているのですか!
テトが瘴気を避けて入り込めるくらいあるんですよ、
姫様のムネは!
だいたい宮崎アニメといえば母性と処女性が結実した聖性としての
女性が(以下うんちく500行省略)。
>>244 すれ違いですまぬが、俺の個人的経験では
Aカップの女性でも胸の谷間にテトを入れておくことくらいは可能だ。
>>243 >誰もが物語を語りがちであるという事実と、
誰かの語ることは物語であるという論理的言明における
「物語」は明らかに意味が違うのだから、
その点混同しないように。
?これについて、もう少し説明して欲しいな。
興味深そう・・・。
>>240 言い出したら、言い出した時考えましょ。
>>241 作品が言ってる、くらいですかね。
あるいは作品のメッセンジャーとしてわたしたちが想起しがちな
「作者」でもいいし、そもそも「監督の意図」なるものも、
完全には排除できないでしょう。
>誰もが物語を語りがちであるという事実と、
>誰かの語ることは物語であるという論理的言明における
>「物語」は明らかに意味が違うのだから、
>その点混同しないように。
同じ部分もありますよ? まあ枝葉の論議ではありますが。
250 :
考える名無しさん:01/10/08 00:35
>で216さんは宮崎の何を正論と言ってるのでしょうか。
たとえば、
>もののけ姫見て、
>「共に生きることは出来る」っていう
> ”結論”に異議を唱えられるかどうかっていうと、
> 難しいと思う。
なんかですね。
>びたみんさんとの意見の違いははっきりしないようですが。
正直言って、あんまり違いはないかもしれません(笑
251 :
Iridium:01/10/08 00:37
エディプス?
>>245 >すれ違いですまぬが、俺の個人的経験では
>Aカップの女性でも胸の谷間にテトを入れておくことくらいは可能だ。
よく聞いて下さい、245さん。貴方の彼女(か誰か)は変人です。
>>253 すまん。今見なおしたらテトってでかいんだな…。
しかし、ナウシカの場合はデッサンの段階において崩れてるのでは…?
255 :
考える名無しさん:01/10/08 00:48
>>247 >作品が言ってる、くらいですかね。
>あるいは作品のメッセンジャーとしてわたしたちが想起しがちな
>「作者」でもいいし、そもそも「監督の意図」なるものも、
>完全には排除できないでしょう。
なるほど、そのぐらいのとえら得方が、普通なのかな。
では、
---
225 名前:考える名無しさん 投稿日:01/10/07 23:50
>>224 >インテリ?が陥りやすい「物語」もあるんでは!
>と思うだけ。
わたしもそれは否定しないけど、宮崎監督がそれを意図しているかどうかは、
わからんでしょ。
---
は、
---
わたしもそれは否定しないけど、
そういった「暗示」を読み取る人がいたとしても、
そういうことまで作品の「言っていること」だと見なしてしまうと、
きりがないように思う。
---
に訂正します。
>>255 そうですね。
「物語」(紋切型)の問題は、なかば作品の、なかば受け取る側の問題です。
インテリが語りがちな「物語」というのはどちらかといえば、作品そのもの
よりも批評の土壌や、そのとき支配的な「言説の市場価値」とでもいうべき
ものに左右されるのでしょう。
ただ、宮崎作品(特に最近の2作)では、こうした「言説の市場価値」により
シフトしたもののように思われる、ということはありますね。
257 :
考える名無しさん:01/10/08 01:01
236にもちょっと書きましたが、
「テキスト主義」的作品というものは、
時に欠伸が出るほど退屈な批評しかもたらさないことも
このごろでは多いんではなかろーか! と思うこと屡々。
なんだかナウシカから、だいぶ離れてしまった
気がする・・・が、まあいいか・・・。
259 :
Iridium:01/10/08 01:09
>>252 いや、オレ自身は「テトになりてー」とは
思わなかったものだから・・・。
なんか暑苦しそうだし。
そんなにつつまれたいもんかなぁ・・・と。
>>259 あー、なるほどね。そゆこと。
でも、やっぱりナウちゃんは良いよ・・・。
後、カヒミ・カリィと、矢田亜希子!ね・・・。
261 :
考える名無しさん:01/10/08 01:23
>>256 インテリと呼ばれる人の世界
にはそういうものがあるのかもしれないね。 >「言説の市場価値」
そういうものを志向しているという点では、
「エヴァ」とかは、その最たるもののような気がする。
しかし、結局、「エヴァ」と同様、宮崎の最近2作についても、
そういうものって、観客を引き込む状況作りに使われてるだけで、
それそのものを作品から見出す作業は空しいように思う。
ネタを仕込む段階で、
そういった市場価値の発生しているところの分野における
著作(思想書など)を参考にしているはずだから、
ある意味マッチポンプなんだけど、
物語のネタとして採取する立場と、
思想そのものとして読む立場では、
かなり、その言説に対する温度差のようなものが存在する。
そういったことが理解できていれば、意味の無い深読みは
起きないはずなんだけどね。
この点については、
いわゆる「オタク」ほどには、
インテリさんには耐性が無いということはあるかもしれない。
>>261 そうですね。
しかし引き込むための「状況づくり」だけに終始しているのなら、
誰もこうも多弁にはならないでしょう・・・「面白かった」の
一言で終わるはずです。
また、ほんとに状況づくりだけかというと、結構疑わしい。
先にも述べたとおり、「監督の意図」なるものも完全には
排除できないからです(あ〜、これは枝葉ですね)。
言説の市場価値とはつまりはその時その時の正論ということ
です。それを語ることには誰しも抗しがたい。
それは次のような言説にも言えることなのでしょう・・・!
「この作品で述べられているメッセージは、言説の市場
価値を見越した上の、一種のマクガフィンである」(汗笑
>言説の市場価値とはつまりはその時その時の正論ということです。
山田洋次の、たとえば「学校」シリーズなどは、典型的に正論の
映画ではないかと思います。
しかし、この映画を巡って語られがちな言説は、たぶん、現実の
学校の現実(←変な言い方)には、無力でしょう。
宮崎アニメの「寅さん化」を懸念する所以。
264 :
考える名無しさん:01/10/08 01:53
解釈の余地が大きいということは、実は諸刃の剣です。
描かれなかった余白に人は自分の絵を描いてしまうから・・・。
テキストの豊穣さとは、ときに自己言及的・自己閉塞的な
解釈の泥沼と紙一重です。
作品とは、畢竟作者という他者との出会いの場であります。
そこに写るのがナルシスちっくな自画像だとしたら、
これは貧しい。
わかってやっていれば別ですけど、まあそれは極く少数という
気がします。
ニュース!ニュース!
今見てるよ・・・。
267 :
考える名無しさん:01/10/08 02:14
とりあえず王蟲呼べ、王蟲。
268 :
217=261:01/10/08 02:49
>>262 >そうですね。
〜
>排除できないからです(あ〜、これは枝葉ですね)。
そう考えるのは無理からぬこととは思うけど、
あなたのいっている
>言説の市場価値とはつまりはその時その時の正論ということ
>です。それを語ることには誰しも抗しがたい。
は、私が、
>>222 で、
>その「異議を唱えにくくさせているもの」が、
>なんなのかというのが問題だと思う。
>少なくとも、
>論証による論理的正当性では無いだろう。
といった正にその点に対応している。
どういうことかというと、
娯楽作品である以上、そういった「時代の空気」
のようなものの束縛から自由ではいられないわけで、
作り手の選択肢は限定される。
(そういうものに迎合しないと、「面白い」という評価が得られない)
商業作品としての娯楽作品がまさにそれを目的として
作られ、それによって評価されるものである以上、
その「迎合」を「言っていること」と捉えるのは、
あんまり意味がないのではないかということが言いたいのだ。
>それは次のような言説にも言えることなのでしょう・・・!
>
>「この作品で述べられているメッセージは、言説の市場
>価値を見越した上の、一種のマクガフィンである」(汗笑
ああ、なんか、私の言いたいことはそんな感じのことかもしれない。
というか、
「娯楽作品においては、メッセージはマクガフィンである」
ということになるかな。
>>263 >山田洋次の、たとえば「学校」シリーズなどは、
スマソ、見てないのでなにも言えない。
>宮崎アニメの「寅さん化」を懸念する所以。
テーマが陳腐化するのを懸念するか、
娯楽作品としてのパワー(面白さ)が減衰するのを懸念するのか・・・
私は、先述のような理由で、メッセージを求めていないので、
専ら後者を懸念する。
269 :
考える名無しさん:01/10/08 03:05
>>268 ん〜・・・。
ちょっと、申し訳ない、文意が取りづらいのですが、
「迎合」であるのか、作者/作品がほんとうに「言っていること」
なのかどうか、は、まあどうでもいいんですね。
どちらであっても無くても、わたしが上で述べたような懸念は
成り立つからです。
(というか、最初からそのようなものとして書いてきた積もりです)
>テーマが陳腐化するのを懸念するか、
>娯楽作品としてのパワー(面白さ)が減衰するのを懸念するのか・・・
>私は、先述のような理由で、メッセージを求めていないので、
>専ら後者を懸念する。
わたしは両方ですね。
270 :
考える名無しさん:01/10/08 03:12
宮崎アニメのオールド・ファンからは
ときどき「むかしのストレートな冒険ものがまたみたい」
という声が聞かれます。
わたしはまた別の見地から、単純な娯楽性への完成度を
求めたいと思います。これは宮崎アニメに限りません。
それが結局は作品の質を高める早道だから、と思うからです。
269=270=216、ね。
>>269 >「迎合」であるのか、作者/作品がほんとうに「言っていること」
>なのかどうか、は、まあどうでもいいんですね。
まあ、そういう考えかたがあってもいいと思うけど、
だとすると、宮崎作品の問題というよりは、
社会全体の問題意識の問題ということになるね。
「迎合」であるというのは、「作者の意図ではどうすることもできない」
ということだから。
>「迎合」であるというのは、「作者の意図ではどうすることもできない」
> ということだから。
んー。そうでもないと思うよ。
「迎合」の仕方にもいろいろあるし、「迎合」の選択はあくまで作り手の恣意です。
社会というか、受け手や批評ひっくるめての問題、というのは同意。
>>270 私もそう思う。
娯楽作品の質 = 面白さ(のみ)
というのは、極論なのだろうか。
おそらく、「どの作品が一番好きか」ということで、好みがわかると思うのだが、
私は(ルパンを除けば)「ラピュタ」のような作品を、
誰になんといわれようともっとどんどん作って欲しい。
(本人はやりたくないだろうけど)
>>261で
>物語のネタとして採取する立場と、
>思想そのものとして読む立場では、
>かなり、その言説に対する温度差のようなものが存在する。
と、述べられてますが、実はあんまり温度差が
ない場合も多いんではないか! と思ったりします。
>>273 >んー。そうでもないと思うよ。
>「迎合」の仕方にもいろいろあるし、「迎合」の選択はあくまで作り手の恣意です。
恣意は恣意だけど、評価するのはあくまで社会だから、
それは、「うまく迎合できた」、「うまく迎合できなかった」あるいは、
「人気の高い正論に迎合した」、
「人気の無い正論に迎合した」という結論で現れるのではないか。
つまり、「面白い」作品、ヒットする作品にしようとする以上、突き詰めていけば、
選択肢はどんどん限られてくる。
恣意と、「受け」のどちらを優先するか、という選択になったとき、
商業的な責任もある監督が、たいていの場合「受け」を選ばざるを得ないのは
明白だろう。
>>275 まあ、そうかもしれない。
その割には「文化人」のアニメ批評が検討ハズレなのは
どういうわけだろうね。
宮崎監督の場合は、あの人自身が思想やってたバックグラウンドがあるからね。
しかし、もののけのメイキングビデオとか見てると、
ストーリの整合性を保つのに精一杯で、
細かいテーマを表現するような余裕があるようには見えんかったけどね。
>>276 うむむ。困った。だんだん意味不明に。
恣意と「受け」のどちらかを優先するか、そこまで
追い込まれる状況は滅多にないでしょう。
創作手法の選択肢、そんなに狭いようには見えないな〜。
たとえば、宮崎カントクは昔通りの「痛快娯楽大作」路線を
続けることもできた。「市場価値の高い言説」にシフトする
ことなく、そこで大ヒットを得るという選択もあった。
それがいいか悪いかは別としてね。
>>277 まあ熱っぽさと、それぞれが俎上にする思想ネタの方向性は
必ずしも一致はしないんでしょうナ。
>細かいテーマを表現するような余裕があるようには見えんかったけどね。
どうかなあ・・・。細かいテーマ盛り沢山でちょっと消化不良気味、
とワタクシはみましたね。
議論の方向がわたしの興味の方向とはだいぶんズレてきました・・・。
もちろん、「千と千尋」の千尋ちゃんを萌え萌え美少女にするという
「迎合」も選択できたはずですし(このほうが確実に「受け」ます)、
そもそもアニメを作らない、という”迎合”さえあります。
>>278 >うむむ。困った。だんだん意味不明に。
申し訳ない。努力はしてるんだが。
>恣意と「受け」のどちらかを優先するか、そこまで
>追い込まれる状況は滅多にないでしょう。
>創作手法の選択肢、そんなに狭いようには見えないな〜。
う〜ん。感覚的な問題になってきちゃうから、そういわれると
「違う」ともいえないね。
私はその辺り、ギリギリの相克のなかからしか作れないと思うのだが。
>たとえば、宮崎カントクは昔通りの「痛快娯楽大作」路線を
>続けることもできた。「市場価値の高い言説」にシフトする
>ことなく、そこで大ヒットを得るという選択もあった。
>それがいいか悪いかは別としてね。
「痛快娯楽大作」路線が、「市場価値の高い言説」であったかどうかという
問題もあるのだが、その話で発想の仕方について考えなおしたのだが、
順番としては、
製作者の引き出し(意欲を持って作れる作品のバリエーション)がまずあって、
そこから、受けそうなものを選ぶ、という順序になるんじゃないかな。
「痛快娯楽大作」路線への意欲はもう尽きた、
迎合したいのはやまやまだが、無いものは作れない。
(作っても面白い作品にはできないので本末転倒になる)
じゃあ、受けそうな話で、作れる話はなんだ、
という流れなのではなかろうか。
面白さを維持するために、同じ路線は続けない、というのは、
当然の発想だしね。
>>279 >どうかなあ・・・。細かいテーマ盛り沢山でちょっと消化不良気味、
>とワタクシはみましたね。
そういう感じではあったね。
その「テーマ盛り沢山」を「クライマックスを作るための道具立て」と見なすか、
「観客にわかって欲しいこと」と見なすかということだろうね。
284 :
考える名無しさん:01/10/08 04:13
>う〜ん。感覚的な問題になってきちゃうから、そういわれると
>「違う」ともいえないね。
まあそんなところでしょうね。
>「痛快娯楽大作」路線が、「市場価値の高い言説」であったかどうかという
> 問題もあるのだが、
これははっきり言って、違う。端的に言って違う。そもそも違う。
「痛快娯楽大作路線」という語は「市場価値の高い言説へのシフト」と、むしろ対立的に
使っています。
285 :
216(=284):01/10/08 04:15
>その「テーマ盛り沢山」を「クライマックスを作るための道具立て」と見なすか、
>「観客にわかって欲しいこと」と見なすかということだろうね。
これは先程来述べているように、どっちでもいいのです。はい。
>>285 >これは先程来述べているように、どっちでもいいのです。はい。
というか、
「クライマックスを作るための道具立て以外の何物でもない」
ではいけなくて、
「クライマックスを作るための道具立て」でもあり「観客にわかって欲しいこと」でもあって、
その両方の意図が程度の差こそあれ製作者側にはあると見なしていい。
だから、テーマがちゃんとしたものとなるように製作者はがんばって欲しい。
ということでは?
堂々巡りの感があるので少しまとめますが、
それが「監督の意図」であるのか「娯楽作品としての必然性」であるのか、
これがどっちでもいいということは、おわかり頂けるかと思います。
それが作り手の自由な発想であれ、受け手の求めるものが直截に
表されたのかに関わらず、テキスト主義批判は成り立つものです。
次に監督が「受け」を狙う選択の幅ですが、これはあまりにも
作り手の自由度を小さく見積もっているように思えます。
まあこの点は、どうしても主観的な話になるので、同意には
到らないかもしれませんが・・・。
>「クライマックスを作るための道具立て」でもあり「観客にわかって欲しいこと」でもあって、
>その両方の意図が程度の差こそあれ製作者側にはあると見なしていい。
>だから、テーマがちゃんとしたものとなるように製作者はがんばって欲しい。
>
>ということでは?
あってるような、あってないような(悩。
テーマがちゃんとなるかどうかは、努力目標、つーか十分条件ですね。
作品から受け取る「メッセージ」や「意図」をなにもかも
受け手の側(社会の側)に持っていってしまうのは、
作品の思想をすべて監督個人の資質に還元するのと同様、
愚かしいことだと思うんだけど。
なに? そういうことは言ってない? だったら失礼しました。
>>289 >それが作り手の自由な発想であれ、受け手の求めるものが直截に
>表されたのかに関わらず、テキスト主義批判は成り立つものです。
なりたちはするが、「誰が」批判されるかが違ってくる。
「作り手」なのか「観客」なのか。
>まあこの点は、どうしても主観的な話になるので、同意には
>到らないかもしれませんが・・・。
そうだね、最終的には、作ったことのあるものにしかわからないことだ。
ただ、娯楽作品の本質が、
「作り手の恣意」よりも「面白さ」にあることは、
その商品の性質として了解しておくべきことだと思う。
これは、事業家としての、アニメ監督の、出資者、
あるいはお金をはらう観客への責任であるといっていいいだろう。
それが全てだと断言するつもりはないが、
現実の製作における切実さに比して、
作品批判にいては、この点が
あまりにも軽視されすぎることが多いように思う。
テキスト主義が問題なんであって、誰が、って問題じゃない。
敢えて誰が、と言えばだから、テキスト主義を用いる人は全て、って事に
なるかな?
>>288 >あってるような、あってないような(悩。
>テーマがちゃんとなるかどうかは、努力目標、つーか十分条件ですね。
うむう。難しいんだね。
>>289 >作品から受け取る「メッセージ」や「意図」をなにもかも
>受け手の側(社会の側)に持っていってしまうのは、
>作品の思想をすべて監督個人の資質に還元するのと同様、
>愚かしいことだと思うんだけど。
基本的にはそのとおりだけれど、
それは、「純粋な娯楽作品は存在しえない」という文脈においてという話だね。
(実際、存在しえないと思うし)
「作品から受け取る「メッセージ」や「意図」をなにもかも
受け手の側(社会の側)に持ってい」
けるような作品というのは、娯楽作品の究極なのではないか。
なぜなら、そのような作品が存在すれば、誰もが、
その作品の中に、自分の思いを見出し、共感し、楽しめるからだ。
娯楽作品を作るなら、そのような作品を目指すべきだろう。
そこに無関係の恣意を持ち込むということは、「娯楽性」以外の
目的を持ち込むということだ。
つまり、恣意は存在するが、
娯楽性を第一に目指していたのであれば、それは、「受け手の側(社会の側)に持ってい」
けるべく選出されたものであって、
持っていけないのなら、それは「失敗」なのだ。
そのような性質を持った娯楽作品というものについて、
失敗である「受け手の側(社会の側)に持っていけない恣意」について、
ことさら着目することに何の意味があろう。
>>291 >テキスト主義が問題なんであって、誰が、って問題じゃない。
>敢えて誰が、と言えばだから、テキスト主義を用いる人は全て、って事に
>なるかな?
なぜ「誰が」が問題にならないのかがさっぱりわからないのだが、
おなじ質問を繰り返してもアレなので、
お手数だが、
「テキスト主義」というのが、具体的に、
どのようなことを指していて、どう問題なのかを
説明してもらえないだろうか?
これほど食い違うということは、
あるいは、私がなにか勘違いをしているのかもしれないし、
そのあたりを説明してもらえれば、それがわかるように思う。
>娯楽作品の究極
どういうのを娯楽作品の理想型に掲げるか、となると、
それはまあ個人の好みの問題ですな。
わしはそういうことには興味ないんよ。
>なぜ「誰が」が問題にならないのかがさっぱりわからないのだが、
「主義」は「人間」ではない。なぜ問題になるのかわからんのう。
>「テキスト主義」
>235 :216 :01/10/08 00:09
思うに現代では「サブカルチャー」などという、
わかったようなわからんような名前で呼ばれるようになった分野では、
この種のことはよく起っているのではなかろーか!
大衆批判的に「物語性」を批判しながら、実際には自らも
別の種の「物語」を語っているに過ぎないということは。
>236 :考える名無しさん :01/10/08 00:16
物語に多く曖昧さを残し受け手の想像力を刺激する
いわばテキスト主義?とでもいうべき作品があります。
それは一般にテキストの豊穣さをもたらすものとして、
肯定的に語られます。
しかし、そのように語られること、あるいは語られ方自体に
「物語」「紋切り型」を感じさせられることが、
最近は多くなったように思います。
>257 :考える名無しさん :01/10/08 01:01
236にもちょっと書きましたが、
「テキスト主義」的作品というものは、
時に欠伸が出るほど退屈な批評しかもたらさないことも
このごろでは多いんではなかろーか! と思うこと屡々。
>264 :考える名無しさん :01/10/08 01:53
解釈の余地が大きいということは、実は諸刃の剣です。
描かれなかった余白に人は自分の絵を描いてしまうから・・・。
テキストの豊穣さとは、ときに自己言及的・自己閉塞的な
解釈の泥沼と紙一重です。
作品とは、畢竟作者という他者との出会いの場であります。
そこに写るのがナルシスちっくな自画像だとしたら、
これは貧しい。
わかってやっていれば別ですけど、まあそれは極く少数という
気がします。
・・・改めて読み返してみると、「テキスト主義」は「言説の市場価値への
シフト」とはあんまし関係ない話じゃったな。
失敬、失敬。早朝じゃったもんで、頭が混乱してたようじゃ。
>>287や
>>291は「テキスト主義」を「シフト」に読み換えて貰った方がよいかの。
296 :
幼児期って大切:01/10/08 16:08
ここのスレには、幼児期に『となりのトトロ』とか見てしまって、
自己のアイデンティティ形成過程で宮崎作品に多大な影響を受けて
しまった人が多数いる。
そういう人たちにとっては、宮崎作品への否定は、自己への否定に
感ぜられる。
よって、『本能的』というのに近い次元で、宮崎作品を擁護してしまう。
>>294 >どういうのを娯楽作品の理想型に掲げるか、となると、
>それはまあ個人の好みの問題ですな。
>わしはそういうことには興味ないんよ。
どこでそういう話になってしまったのかな、
製作者の選択の幅の話をしていたのではなかったの?
「究極」というのは、個人の好みの問題でなく、あえていうなら、
「市場で成功する」という観点での「究極」だよ、
そういう条件が、製作者を拘束しているということを言っている。
逆にいえば、個人の嗜好は殺さなければならないということ。
>「主義」は「人間」ではない。なぜ問題になるのかわからんのう。
「主義」は人では無いね。
そして、「誰」という問題を除外して「主義」を批判することもできるね。
でもそれは、単なる「○○主義批判」であって、
「誰でもいい」のであれば、「宮崎駿」は必要ないんじゃないの?
>>295 どうも、抽象的な話ばかりで、関係性を把握できない。
いずれにしても、誰でもよい「シフト」批判であるならば、
「宮崎駿」は必要無いのでは?
このスレの文脈で、「シフト」批判を語るなら、
「宮崎駿」作品、あるいはその周辺において、
その存在を具体的に指摘するところから初めてもらわないと、
わけがわからない。
>>297 すまんが、
>>297でお主の話していること、わしには半分もわからぬ。
いったいどうしてこうなってしまったのか・・・。
>「市場で成功する」という観点での「究極」だよ、
わしは市場で成功することが作者/作品の究極の姿とは、別に思わん。市場での成功が制作者を縛っておるのは確かじゃが、それは結局それだけのことじゃ。
宮崎アニメがそのような理想型を志向しているとも思わんし、現実にそのような作品であるとも見えんがのう・・・?
>「誰でもいい」のであれば、「宮崎駿」は必要ないんじゃないの?
じゃからわしは宮崎カントク個人のことなど、問題にしておらん、ちゅうとるじゃろが。
>「宮崎駿」作品、あるいはその周辺において、
>その存在を具体的に指摘するところから初めてもらわないと、
>わけがわからない。
なんじゃ、そんなところにまで戻ってしまうのか。
わしが
>>256で
>ただ、宮崎作品(特に最近の2作)では、こうした「言説の市場価値」により
>シフトしたもののように思われる、ということはありますね。
と書いたら、お主、
>>261で
>インテリと呼ばれる人の世界
>にはそういうものがあるのかもしれないね。 >「言説の市場価値」
>そういうものを志向しているという点では、
>「エヴァ」とかは、その最たるもののような気がする。
>
>しかし、結局、「エヴァ」と同様、宮崎の最近2作についても、
>そういうものって、観客を引き込む状況作りに使われてるだけで、
>それそのものを作品から見出す作業は空しいように思う。
と、このように、とりあえず「シフト」の存在は認めておったではないか。
もう一度説明して進ぜてるのは、正直言って、わしにはかな〜りホネである。
なるべくなら避けたい気分なのじゃが。
テキスト主義批判、ちゅうのがムズカシかったかのう・・・。
要約すると、
「作品を、そこから各人が自由に言説を読みとる「テキスト」と
みなすことは、ときに閉塞的である」
・・・くらいのことじゃ。
わからなんだら、それはいったん忘れてもよい。
さきに書いたようにいまの話には直接関係ないことじゃ。
>>298 >わしは市場で成功することが作者/作品の究極の姿とは、別に思わん。市場での成功が制作者を縛っておるのは確かじゃが、それは結局それだけのことじゃ。
>宮崎アニメがそのような理想型を志向しているとも思わんし、現実にそのような作品であるとも見えんがのう・・・?
現に商業作品として製作され、市場で成功している以上、
そうみなさない理由がみあたらないけれど?
売れないようにしようという志向が存在したとでも?
最も、この問題は、「製作者の意図」が問題になるという前提でやってることだから、
これ以降の話のからみで、「意図は関係無い」ということになれば、
もともと無意味な議論だけどね。
>じゃからわしは宮崎カントク個人のことなど、問題にしておらん、ちゅうとるじゃろが。
もちろん私も、「宮崎カントク個人」の問題でないことぐらいもう分かっている。
「宮崎駿」とわざわざカッコがきしているのは
このスレにおけるテーマとしての「宮崎駿」という意味だよ、
その作品世界を含めて論じるのがこのスレのテーマだと理解しているのだが、
「誰でもいい」のなら、そういったテーマへの関係性さえ存在しないのではないか、
端的にいえば、「スレ違いでは・・・」ということだよ。
>>299 >と、このように、とりあえず「シフト」の存在は認めておったではないか。
だから、その流れで、
「(勝手な解釈をしている観客がいる = )製作者の意図(そのような)は存在しない」
という主張を私はしているつもりだ。
「シフト」しているのは、観客であって、製作者ではない、
という意味に理解して、そのようなレスになっている。
ここで、「シフト」を行っている主体が「誰でもいい」となってしまうと、
以上の理解の前提が崩れてしまうので、
私は困惑しているのだ。
>>300 百科事典でデリダについて斜め読みしたときに、それに近いことが書いてあったように思うけれど、
(たしか「脱構築」がどーとか書いてあった)
そういう意味でいいのかな?
「提出されたテキストは、作者を離れてそれ自体で独立した意味を持つ。」
みたいな話。
それを「批判」しているというのであれば、私もそういうことを主張しているつもりなのだが。
>>302 補則
>それを「批判」しているというのであれば、私もそういうことを主張しているつもりなのだが。
つまり、私の主張は、
「そういう(テキストから独立した意味を見出す)捉え型はおかしいんじゃないの」
ということ。
>>301 >現に商業作品として製作され、市場で成功している以上、
>そうみなさない理由がみあたらないけれど?
>売れないようにしようという志向が存在したとでも?
これは些か以上に頭が固いように思えるのう。
「市場で成功している」ということは、「その作品のすべてが、市場での成功ただそれだけに振り向けられている」ということには、つながらん。繋がるのは、結果論で見たときだけじゃ。
極端に言えば、
「まったく市場での成功を考えなくても、市場で成功を収める」
ことはあるわけじゃ。
>「製作者の意図」が問題になるという前提でやってる
わしはやっとらん。やっとるのはあくまでお主だけじゃ。
>もちろん私も、「宮崎カントク個人」の問題でないことぐらいもう分かっている。
>「宮崎駿」とわざわざカッコがきしているのは
>このスレにおけるテーマとしての「宮崎駿」という意味だよ、
>その作品世界を含めて論じるのがこのスレのテーマだと理解しているのだが、
ここになるともう、なにを書いておるのか、わしにはさっぱりわからん。すまんのう。
わしは作品世界を論じておる・・・もちろん。
>>と、このように、とりあえず「シフト」の存在は認めておったではないか。
>だから、その流れで、
>「(勝手な解釈をしている観客がいる = )製作者の意図(そのような)は存在しな
>い」
>という主張を私はしているつもりだ。
>
>「シフト」しているのは、観客であって、製作者ではない、
>という意味に理解して、そのようなレスになっている。
???
>>261をもう一度引用してみよう。
>インテリと呼ばれる人の世界
>にはそういうものがあるのかもしれないね。 >「言説の市場価値」
>そういうものを志向しているという点では、
>「エヴァ」とかは、その最たるもののような気がする。
>
>しかし、結局、「エヴァ」と同様、宮崎の最近2作についても、
>そういうものって、観客を引き込む状況作りに使われてるだけで、
>それそのものを作品から見出す作業は空しいように思う。
お主の文章では、「シフト」を状況作りに使っているのは、製作者であって、観客とは読めんのじゃが?
まあよい。お主はシフトしているのは観客だ、と考えるわけじゃな。
わしはそうは思わんし(作品自体がシフトしているように見えるし、察するに作者がシフトした可能性がある。もちろん観客もシフトしておろう)、当初からそのように言っておるわけじゃ。
>>302,303
まぁそういうことじゃ。
テキスト主義ちゅーのはポストモダン批評を念頭に置いておる。
斜め読みでなく、しっかり本格的に勉強なされ(←偉そう)。
>>304 >>「製作者の意図」が問題になるという前提でやってる
>わしはやっとらん。やっとるのはあくまでお主だけじゃ。
なるほど、そういうことなら、
とりあえず、「市場での成功」云々の話は無意味だからやめよう。
変な議論につき合わせた挙句、一方的に打ち切って申し訳ない。
>ここになるともう、なにを書いておるのか、わしにはさっぱりわからん。すまんのう。
>わしは作品世界を論じておる・・・もちろん。
わかりにくくてスマソ、
とにかく、作品世界を論じているわけだね。
>お主の文章では、「シフト」を状況作りに使っているのは、製作者であって、観客とは読めんのじゃが?
もちろん、「使った」のは製作者、とういう意味だが、
「観客が「シフト」して読むであろう題材を飾りとしてデコレーションした」
ということであって、製作者側はシフトしていないと考えている。
というか、製作者の段階では、テキスト自体が未だ存在しないので、
シフトしようがないのではないか?
プロットや着想のレベルで自分の考えについて自分でシフトするということ?
>>306 >しっかり本格的に勉強なされ(←偉そう)。
そうします。
ただ、歴史を追って順番に読んでいる、デリダにたどり着くにはかなり時間がかかると思う。
しかし、メディア論のようなことをやろうとすると、最近の人しらないとキツイね。
>「観客が「シフト」して読むであろう題材を飾りとしてデコレーションした」
>ということであって、製作者側はシフトしていないと考えている。
そうか。相分かった。
>プロットや着想のレベルで自分の考えについて自分でシフトするということ?
う〜む。どういったら良いかのう。
作品が「シフト」するよう、作品以前の段階でプロット・着想を組み上げるというべきか?
しかしそれが単なるデコレーションなのか、作り手の想いが直に表現されたものかは、
受け手の側からは、判断できない・・・当たり前のことだが。
だから「作者の意図」は問題とせず、「作品の声」を取り上げるわけじゃな。
309 :
考える名無しさん:01/10/09 23:18
age
>作品が「シフト」するよう、作品以前の段階でプロット・着想を組み上げるというべきか?
それは、単なる「隠喩」とか「暗示」と同じことのような気がするのだが。
フィクションの一般的な技法としての、「隠喩」や「暗示」と、「シフトするように作る」を分ける条件は何になるのだ?
あるいは、同じものなのかな?
>しかしそれが単なるデコレーションなのか、作り手の想いが直に表現されたものかは、
>受け手の側からは、判断できない・・・当たり前のことだが。
>だから「作者の意図」は問題とせず、「作品の声」を取り上げるわけじゃな。
うん、考えてとしてはわかるのだけれど、
「作品の声をとりあげる」
という行為が何を意味しているのかについて、
コンセンサスができていないところに混乱の原因があるように思う。
「作品の声」=「作者の意図」
「作品の声を批判すること」=「作者を批判すること」
だと思い込んでいる人が大勢いる。
「この作品が言っていることは○○である」という発言だけでは、
あなたのように、「作者の意図」を「知りえざるもの」として除外しているのか、
「作品の声」=「作者の意図」と見なしているかが今ひとつつかみずらい。
(つまり何がいいたいかというと、「誰が」云々の混乱のいいわけです。)
まあ、そのあたりはやっとはっきりしてきたので、
作品論に戻ろう。
そういった(作者の意図」を「知りえざるもの」として除外する)考え方で、
「作品の声」というものを考えた場合、
例えば「もののけ姫」を例にとったとして、正直なところ、私は何も感じないのだが、
あなたか感じた「正論」(まあ、「正論」に限らなくてもいいが)
というのはどういったものだったのだろうか?
なんじゃまだ続くのか。終了と思うとったぞい。
>「隠喩」や「暗示」と、「シフトするように作る」を分ける条件
創作技法という括り方をするなら、その枠内にあるという意味で、特に違いはなかろう。
>あなたか感じた「正論」(まあ、「正論」に限らなくてもいいが)
>というのはどういったものだったのだろうか?
>>219,
>>250でも言ったが、
>もののけ姫見て、
>「共に生きることは出来る」っていう
>”結論”に異議を唱えられるかどうかっていうと、
>難しいと思う。
こんなあたりかな。
>>311 >なんじゃまだ続くのか。終了と思うとったぞい。
あなたは「作品論を語っている」といったと思ったのだが、
それにはいる前の段階でなんで終わったと思うかな。
>創作技法という括り方をするなら、その枠内にあるという意味で、特に違いはなかろう。
了解。
>>もののけ姫見て、
>>「共に生きることは出来る」っていう
>>”結論”に異議を唱えられるかどうかっていうと、
>>難しいと思う。
>
>こんなあたりかな。
なるほど、あなたは、
「共に生きることは出来る」と作品が語っている。
と解釈するわけだね。
それについて、私は、「作品に正論が存在する」とういう点に
疑問を呈したわけなのだが、
それは、
「なぜ意義を唱えられないか」とういう点について、
こう考えるからだ。
シフトは、観客の中で起きている。
作品は状況を提示しているだけだ。
つまり、この場合、シフトとは、突きつけられた状況に対して、
我知らず結論(判定)を下してしまうことなのであって、
それによって引き出された「正論」とは、
観客が突きつけられた状況に対して出した観客自身の答えである。
自分自身で出した答えであるから、意義を唱えることは難しいのだ。
つまり、この場合、「正論」は作品の中には存在せず、
観客の中にあるともうのだが。
>それにはいる前の段階でなんで終わったと思うかな。
「市場価値の高い言説へのシフト」が作品/作者にあったのか、観客だけにあったのか、その点で、わしらの見地は食い違った。この前提が共有されないと、わしの主張は本論(テキスト主義の問題)に入ってゆけん。
じゃからして、終わったのかと思うたのじゃよ。
じゃからのう、
>シフトは、観客の中で起きている。
と、決め打ちされてかかると、わしとしてはやりにくくて敵わんのじゃよ。
>観客が突きつけられた状況に対して出した観客自身の答えである。
>自分自身で出した答えであるから、意義を唱えることは難しいのだ。
これはかなりいい所を衝いてると思うぞ。
「物の怪姫」の「状況」とはそうした問いの設定と答えを、我知らずのうちに抱くようなものではないかと思えるのじゃ。一種の誘導、……といったら大袈裟じゃな。
その意味で正論は観客の中にある、というお主の言は的を射ておるのう。
>>313 >「市場価値の高い言説へのシフト」が作品/作者にあったのか、観客だけにあったのか、その点で、わしらの見地は食い違った。この前
〜
>と、決め打ちされてかかると、わしとしてはやりにくくて敵わんのじゃよ。
しかし、
>というか、製作者の段階では、テキスト自体が未だ存在しないので、
>シフトしようがないのではないか?
という私の質問について、あなたは、
>作品が「シフト」するよう、作品以前の段階でプロット・着想を組み上げるというべきか?
と答えたが、これを解釈するに、「シフトするように組み上げる」ということは、
少なくとも、製作者の中でシフトは起きていないというようにとれるのだが、
違うのだろうか?(はやとちり?だったらスマソ)
わたしは、当事者が、製作者と、観客しかおらず、
製作者のなかではシフトが起きていない以上、シフトは観客の中でしか置き得ないと考えたのだが、
どこかおかしいだろうか?
観客の中でないというならどこで起きているのだ?
>これはかなりいい所を衝いてると思うぞ。
>「物の怪姫」の「状況」とはそうした問いの設定と答えを、我知らずのうちに抱くようなものではないかと思えるのじゃ。一種の誘導、……といったら大袈裟じゃな。
>その意味で正論は観客の中にある、というお主の言は的を射ておるのう。
同意いただけて嬉しい、ありがとう。
>一種の誘導、……といったら大袈裟じゃな。
そのようにして引き出された結論が不満であっても、自分がそう考えていたことは事実であって、
いってみれば、不満を感じたひとは自分自身の矛盾に気づかされたことになる。
その不満を解消したければ自分なりの結論を考えるしかないわけで、
そういう意味で、「考えろ!」という誘導は確かに存在するように思う。
>少なくとも、製作者の中でシフトは起きていないというようにとれるのだが、
これは言葉が足りんかったようじゃ。製作者の中では、もちろんシフトは起きておろう。
それが作品に反映としてあらわれるのじゃ。しかしそれを外在的に証明することは無理、だから「「作者の意図」より「作品の声」、とこういうわけじゃ。
さて誘導についてじゃが、誘導、というか、示唆、というか、暗示、というか、はたまた暗喩によるほのめかし、というか、これをして「自分がそう考えていた」というのは、ちと難があるのではなかろうか。
そこにはあるのは、「自分自身の矛盾」ではなく、「自分が元から漠然と抱いていた考え」と「作品の中で仄めかされたものの見方」との矛盾ないかのう。
このとき、自分で考えろ、という誘導はむしろ、誘導を隠蔽し、それがあたかも誘導されたものではないと修飾する機能がある、と考えるのじゃ。
それはいわばジグソーパズルのようなものかも知れぬ。
パズルを組み合わせる行為はあくまで己の仕業じゃ。
しかしパズルの当てはめ方はあらかじめ決まっている――
もっと正確に言えば、パズルの当てはめを比喩として
思わず用いたくなる程度の、パズル的な規定力を感じた、と
こういうわけじゃ。
>>315 >これは言葉が足りんかったようじゃ。製作者の中では、もちろんシフトは起きておろう。
>それが作品に反映としてあらわれるのじゃ。しかしそれを外在的に証明することは無理、だから「「作者の意図」より「作品の声」、とこういうわけじゃ。
というか、「作品の声」ということにした時点で、
「作者の意図」を除外したのであれば、
作者におけるシフトについても除外すべきなのじゃないの?
そのあたりの前提を受け入れた上での
「シフトは、観客の中で起きている。」でもあったわけなのだけど、
シフトに関しては、「作者の意図」を考えなきゃいけないの?
>さて誘導についてじゃが、誘導、というか、示唆、というか、暗示、というか、はたまた暗喩によるほのめかし、というか、これをして「自分がそう考えていた」というのは、ちと難があるのではなかろうか。
>そこにはあるのは、「自分自身の矛盾」ではなく、「自分が元から漠然と抱いていた考え」と「作品の中で仄めかされたものの見方」との矛盾ないかのう。
>このとき、自分で考えろ、という誘導はむしろ、誘導を隠蔽し、それがあたかも誘導されたものではないと修飾する機能がある、と考えるのじゃ。
ここでいう誘導を「考えろ」というものであるとするなら、
誘導の隠蔽がなぜ必要なのかわからない。
作品に示された考えと、自分が漠然と考えていた考えに矛盾を感じた場合に、
その問題について「考える」のは普通のことではないの?
そこに「隠蔽」が必要になる理由がわからない。
この点についても、「作者の意図」に立ち入るかどうかという問題があるように思うけど、
どのあたりで、線引きをすればいいのだ?
>>316 >それはいわばジグソーパズルのようなものかも知れぬ。
>パズルを組み合わせる行為はあくまで己の仕業じゃ。
>しかしパズルの当てはめ方はあらかじめ決まっている――
>もっと正確に言えば、パズルの当てはめを比喩として
>思わず用いたくなる程度の、パズル的な規定力を感じた、と
>こういうわけじゃ。
でもパズルのパーツを作ることはできない。
既存のパーツのなかから、観客がより多く持っていそうなパーツを予測するしかない。
また、パズルというのは、組み立ててもらわなければならない。
出来上がる(であろう)絵に興味がなければ組み立ててもらえない。
つくれるパズルのバリエーションには自ずと厳しい制約が生まれるね。
使えるパーツと、組みあがりの絵について、制約があるなら、
パズルを「作っている」のか、「作らされている」のか、
わからないんじゃないの。
それがわからないのが物語というものの特質だと思うんだけど。
この点についても、製作者の側に踏み込んでいるのだけれど?
「能力」ってのは、
「作品の能力」ではなく、やっぱり製作者の「能力」の話なんじゃないの?
>作者におけるシフトについても除外すべきなのじゃないの?
作者にシフトがあったかどうかについていえば、おそらくあったのじゃろう。
そのように推測は可能だ。しかしそれが本当にあったのか、どのようなシフトであったのか、外在的には(受け手の側からは)判然としない。
だから「作品のシフト」を見てものを言おう、とこれがわしの方針じゃ。
何度も繰り返しておるが、作者(の考え、シフト)など、わしは最初から度外視しておる。
>ここでいう誘導を「考えろ」というものであるとするなら、
>誘導の隠蔽がなぜ必要なのかわからない。
わからぬかのう? そんなに難しい理屈ではないと思うが。
誘導には2種類あるわけじゃな。
>>313 >「物の怪姫」の「状況」とはそうした問いの設定と答えを、我知らずのうちに抱くようなもの
>ではないかと思えるのじゃ。一種の誘導、……といったら大袈裟じゃな。
すなわちある種の正論(たとえば「共に生きることは出来る」)に受け手を導くような誘導が一つ。
>>このとき、自分で考えろ、という誘導はむしろ、誘導を隠蔽し、それがあたかも誘導された
>>ものではないと修飾する機能がある、と考えるのじゃ。
誘導が誘導であるにも関わらず、それを誘導と見せない為の誘導。これがもう一つ。
第2の誘導は第1の誘導に相反している……一見は。それがミソじゃな。
というのも、両者が相反的であることに気づけるのは、あくまで第1の誘導を誘導であると見切ったときときだけじゃからのう。
それが誘導であることに気づかないと、物語を読み解くべく一生懸命考えれば考えるほど、レールの上に乗って走ることになる。これはなんとも皮肉なじゃ!
320 :
考える名無しさん:01/10/14 01:25
>作品に示された考えと、自分が漠然と考えていた考えに矛盾を感じた場合に、
>その問題について「考える」のは普通のことではないの?
もちろん、それは普通じゃ。しかし矛盾を感じないまま「考える」と、正論に誘導される可能性は高くなるんではなかろうか。
>この点についても、「作者の意図」に立ち入るかどうかという問題があるように思うけど、
わしは立ち入る必要はないと思う。
誘導の構造があるのは作品であって、わしはそれを問題としておるからじゃ。
しかしそういう構造がなぜ存在するのか、という部分まで問おうとするなら、「作者の意図」に立ち入る必要があるかもしれんな。
わしはそこまでやるつもりはない。やるとしても、かなり慎重な姿勢で臨むことになろう。なにせ作品はわれわれの目の前にあるが、作者はそこには居らんのじゃからして。
321 :
考える名無しさん:01/10/14 01:26
>>318 このパズルの比喩でも問題にしているのはパズルの構造であって、「なぜそのようなパズルなのか」「このパズルを造ったものの能力はどのくらいか」は問題としておらん。
パズルの構造から製作者の能力を推し量ることは出来ようが、しかしそれはあくまで間接的なものであるし、また「作者の意図は不問とする」というわしの方針に、特に反してはおらん。
(ついでだが、わしは製作者の能力については論じる気は余りない。これは単にその気がないから。)
>>319 >だから「作品のシフト」を見てものを言おう、とこれがわしの方針じゃ。
「作品のシフト」というの、私には思いもよらぬ発想だ。
このあたりが食い違いの大きな原因かもしれない。
「シフト」というのは思考、あるいは意識のなかで起きる現象ではないのか?
主体的な思考能力をもたない作品「が」シフトするという考え方
がさっぱり理解できない。
何が、何を、どうシフトするのか、きちんと対象を挙げて説明してほしい。
>>ここでいう誘導を「考えろ」というものであるとするなら、
>>誘導の隠蔽がなぜ必要なのかわからない。
>
>わからぬかのう? そんなに難しい理屈ではないと思うが。
〜
>それが誘導であることに気づかないと、物語を読み解くべく一生懸命考えれば考えるほど、レールの上に乗って走ることになる。これはなんとも皮肉なじゃ
あなたは、「誘導」およびその「隠蔽」がどのように行われているのか、
というあなたなりの推論を述べているだけで、
「誘導の隠蔽」自体の必然性については、なんら説明していないね。
単にそれが可能であるということを指摘しているだけだ。
「作品」に、「誘導」を「隠蔽」しなければならない、
どういった必然があるのだろうか?
それとも、「そんなことは最初から度外視して」いるのだろうか?
>「作品のシフト」というの、私には思いもよらぬ発想だ。
シフトしているのは、まずもって作品である。これはこの議論のはじめに書いた。
>>256 >ただ、宮崎作品(特に最近の2作)では、こうした「言説の市場価値」により
>シフトしたもののように思われる、ということはありますね。
またこの後でも言及したはずじゃがのう・・・。
>「シフト」というのは思考、あるいは意識のなかで起きる現象ではないのか?
>主体的な思考能力をもたない作品「が」シフトするという考え方がさっぱり理解できない。
>何が、何を、どうシフトするのか、きちんと対象を挙げて説明してほしい。
>主体的な思考能力をもたない作品「が」シフトするという考え方 がさっぱり理解できない。
作品に思考能力はなくとも、シフトはするぞい(苦笑)。
シフトと言うから混乱するのかのう?
「作品の傾向が変わった」とか「今度の作品は違うものを目指している」という言い方は日常でもするじゃろ?
厳密に言えば、作品を受け取るのは受け手の脳味噌じゃからして、シフトは受け手のなかで起こった、といえるじゃろう。じゃがこれはそんな原理的な話ではない。
では具体的にもう一度書いて進ぜよう。
「作品が、その作品傾向を、市場価値の高い言説を誘導?するような形に、シフトした」
どうじゃろか? 分かりやすくなったじゃろうか?
324 :
考える名無しさん:01/10/14 02:19
>あなたは、「誘導」およびその「隠蔽」がどのように行われているのか、
(中略)
>それとも、「そんなことは最初から度外視して」いるのだろうか?
そこに誘導があり、隠蔽がある。その構造を推論するのは当たり前じゃ。
そして、必然がなくとも誘導は起こり得る。まったくの偶然も考えられる。
なぜそこに誘導の構造があるのか……しかしそれを考えると、たしかに
「作者の意図は?」という禁じ手にはぶつかるのう。
しかし最初に禁じ手にした以上、そこにはふみこめん。
じゃから度外視するしか、ないのじゃ。
325 :
考える名無しさん:01/10/14 02:24
とはいえ、もしお主が是非にとも望むなら、わし自らこの禁じ手を破ってみせてもよい。
議論の流れからいって、そうするべきかもしれん。
わしはこの「誘導の構造」が存在するについて、わしの推測する(言っておくがあくまで、推測じゃ)作り手の意図やらなんやらについて、披露する用意はある。
……しかし……やはり禁じ手破りは避けたいものじゃ……。
推測でしか書けない以上、議論が混乱するやもしれん。
また聞いて気分を悪くするようなものであるかもしれん。
困ったものじゃ。
>>323 >
>>256 >>ただ、宮崎作品(特に最近の2作)では、こうした「言説の市場価値」により
>>シフトしたもののように思われる、ということはありますね。
>
>またこの後でも言及したはずじゃがのう・・・。
だから、「思いもよらぬ」といっているのだよ。
あくまでもシフトというのは「人間が」行うものだと考えていたから、
その時点では、「宮崎監督がシフト(させた)」という意味にとっている。
というか、今の「シフト」の意味だと、「宮崎監督がシフト(した)」となるべきだが、
その時点では、そういった「シフト」の概念さえ聞いてないから、
単純に、「宮崎監督がそういう方向へ作品をシフトさせた」という風に理解していた。
その後、「作者の意図」について語っているのはそのためだ。
そういった過程を踏まえて、「このあたりが食い違いの大きな原因かもしれない。 」
といっている。
>「作品が、その作品傾向を、市場価値の高い言説を誘導?するような形に、シフトした」
まったく意味不明。
作品の内容自体を、作品自身が変えることはできないだろう。
人工知能を搭載したアドベンチャーゲームのようなものでない限り、
そんなことは不可能だ。
最初から誘導するように作られているか、
誘導が最初から存在しない以外、ありえない。
「作品」が、何かを「語っている」とみなすのはまだ可能だが、
なんらかの「変化」を自分だけで為しているというのはどう考えても無理がある。
>>324 >そこに誘導があり、隠蔽がある。その構造を推論するのは当たり前じゃ。
〜
>じゃから度外視するしか、ないのじゃ。
「誘導」の存在については異論は無い。
しかし、「隠蔽」については、異論がある。
「目的」という言い方には、問題があるので、
「何」を「隠蔽」しようとしているのかということにしよう、
そのほうが分かりやすくもある。
隠蔽しようとしているというなら、「何を」隠蔽しようとしているというのか?
私には隠蔽しなければならないものがあるとは思えない。
>>325 >とはいえ、もしお主が是非にとも望むなら、わし自らこの禁じ手を破ってみせてもよい。
>議論の流れからいって、そうするべきかもしれん。
くりかえし言っているように、
私の主張は、「そういうことを議論すること自体が無意味だ」
というものなので、あなたが語りたいというのでなければ、
禁じ手のままにしておいて欲しい。
私の希望は、作品の提示した問題や、作品世界について語ることにある。
>>327 もちろん、作品が自分でシフトすることはない。現代のアニメにそんな機能はないからのう。
しかし自分からシフトしなくとも、他からシフトさせられることはある。他から、つまり宮崎カントクからシフトさせられたから、作品はシフトしたのじゃ。
そして作品がシフトしたことから考えて、宮崎カントクもなんらかのシフトをしたのだと推測される。
なにもおかしなことはないじゃろ?
お主、難かしく考え過ぎではないかな。
331 :
考える名無しさん:01/10/14 02:58
>隠蔽しようとしているというなら、「何を」隠蔽しようとしているというのか?
第2の誘導が、第1の誘導を、である。それはもう書いた。
332 :
考える名無しさん:01/10/14 03:01
>私の主張は、「そういうことを議論すること自体が無意味だ」
>というものなので、あなたが語りたいというのでなければ、
>禁じ手のままにしておいて欲しい。
相分かった。では「なぜ」誘導や隠蔽が存在するか、わしに問うて
くれるな。よいかの?
>>330 シフトする前の状態が無いのにシフトした、という理屈がわからない。
最初からそのように作っただけのことじゃないの?
シフトってのは、
(1)シフトする人
(2)シフトする前のテキスト
(3)シフトした後の解釈
の3つが存在するはずじゃないの?
あなたが毎回3つのうちのいずれかを省くから意味がわからなくなる。
>>331 私には明々白々で、隠蔽されているとは思えないが?
>>332 >相分かった。では「なぜ」誘導や隠蔽が存在するか、わしに問うて
>くれるな。よいかの?
それは了解した。
>>333 わしはこういう話はしておらんがのう……?
「シフトする前の状態」というのが、以前の宮崎アニメを指すのなら
その通りじゃ。
>>334 明々白々なのは、そこに誘導があるとわかるもののみじゃろう。
>>336 「こういう」ではなんのことかさっぱりわからないのだが。
>「シフトする前の状態」というのが、以前の宮崎アニメを指すのなら
>その通りじゃ。
観客の行う「シフト」とこの「シフト」は意味が違うように思うのだが、
同じ意味なのか?
>>336 >「シフトする前の状態」というのが、以前の宮崎アニメを指すのなら
>その通りじゃ。
別に「その通り」ではなかったのう。以前の作品があるのだから、
「シフトする前の状態」が「無い」わけではなかったのう。
>>337 元来、物語と言うもの自体がそういうもので、
誘導が無い、と考えるほうがおかしい。
>>338 >「こういう」ではなんのことかさっぱりわからないのだが。
わしは下のような主張はしておらん、ということじゃ。
>シフトってのは、
>
> (1)シフトする人
> (2)シフトする前のテキスト
> (3)シフトした後の解釈
> の3つが存在する
>>341 さっぱりわからなくなった。
一旦、「シフト」の定義を明確に示してくれ。
このままでは混乱するだけで議論がかみ合わない。
混乱してきたので、まとめて答えることにしよう。
>>333 >あなたが毎回3つのうちのいずれかを省くから意味がわからなくなる。
わしは最初に「作品のシフト」であると言明し、また殆どの場合この
意味でしか使っておらんぞい。
>>340 >元来、物語と言うもの自体がそういうもので、
>誘導が無い、と考えるほうがおかしい。
もちろんそうじゃ。これは宮崎アニメに限るまい。
しかし最近の2作ではその誘導力は強く、どうも、
見る側はそれを忘れがちなのではないかのう。
>>343 >わしは最初に「作品のシフト」であると言明し、また殆どの場合この
>意味でしか使っておらんぞい。
つまり、「路線変更」ということでいいのだろうか?
あなたがそのつもりなら反論は無意味だが、
もう少し早く、観客や、製作者のシフトについて私が何度も質問していたときに、
指摘してほしかった。
>しかし最近の2作ではその誘導力は強く、どうも、
>見る側はそれを忘れがちなのではないかのう。
なんか、平均的な観客の思考力についての認識の差だけの問題のような
気がしてきた。
あの程度で洗脳(はちと大げさだが)されてしまうのが普通なら、
作品自体より、そのことの方が問題だと思う。
>>342 >さっぱりわからなくなった。
>一旦、「シフト」の定義を明確に示してくれ。
>このままでは混乱するだけで議論がかみ合わない。
ふむむ。一般的な用語法を逸脱するようなものではないはずだがのう……。
移り変わる、とか、遷移するとか、そういった意味じゃ。
「ルパン」とか「ラピュタ」とかいった「娯楽大作」から、
「物の怪」「千と千尋」は「市場価値の高い言説」へ路線を
移し替えた、変更した、遷移した、というわけじゃ。
これも既に書いていたの。
>>345 やはり、「路線変更」だね。
そうすると、観客で起きる「シフト」というのは、
隠喩からメッセージを読み取る、
というようなレベルの現象ではなくて、
その人の考え方自体が変わってしまうということだろうか。
347 :
考える名無しさん:01/10/14 03:39
>344
>つまり、「路線変更」ということでいいのだろうか?
>あなたがそのつもりなら反論は無意味だが、
> もう少し早く、観客や、製作者のシフトについて私が何度も質問していたときに、
>指摘してほしかった。
>作品自体より、そのことの方が問題だと思う。
しかし実際に、たとえば「共に生きることは出来る」以外の結論≠
聞くのはまれじゃし、「千と千尋」に少女の成長物語という冠詞の
付かぬ評も少ない。
実際に意識している人間はどのくらいいるかのう。
これはもちろん受け取る側の問題でもあろう。しかしなぜそのような
受け取り方は、他の作品では起こらないのか?
とすると、作品の構造を見るのもまた必要な事じゃ。
わしは徹頭徹尾、最初から最後まで、作品のシフトだと言ってきたのだがのう。
どこでボタンを掛け違ったのかのう・・・?
>>347 >わしは徹頭徹尾、最初から最後まで、作品のシフトだと言ってきたのだがのう。
>どこでボタンを掛け違ったのかのう・・・?
おそらく、あなたが
>>295 で、「テキスト主義」を「シフト」に置き換えたあと、
そのことの意味について私がちゃんと理解できていなかったせいだと思う。
「テキスト主義」=「シフト」
としてしまったかもしれない。
347はわしじゃ。
最後の2行は
>指摘してほしかった。
の後に続くものじゃ。
>346
>観客で起きる「シフト」
観客で起きる「シフト」……か。
メタファーを媒介に市場価値の高い言説≒正論を語りたがる傾向、
といったところになるかのう。
ちと爺は風呂に入ってくるのでの。
お待ち願えようか?
>>347 >しかし実際に、たとえば「共に生きることは出来る」以外の結論≠
>聞くのはまれじゃし、「千と千尋」に少女の成長物語という冠詞の
>付かぬ評も少ない。
どちらかというと、そういった「正論」を本気でいっている人と
議論して、その考えを知りたいのだが、哲学板にはいないね。
>実際に意識している人間はどのくらいいるかのう。
>これはもちろん受け取る側の問題でもあろう。しかしなぜそのような
>受け取り方は、他の作品では起こらないのか?
>とすると、作品の構造を見るのもまた必要な事じゃ。
「甲殻機動隊」を見て「これからの電脳化社会への不安を・・・」
みたいなことを臆面もなくいうヤツもいるけど、
それは問題にならないのかな?
考えの無いやつが、作品の内容そのままみたいな感想を言うのは、
どんな作品でも起きることだよね。
つまりは、「電脳化社会」と「自然」の社会的位置付けの違いで、
「自然」についての正論が明確に出過ぎるってだけじゃないの。
「電脳化社会」についてはマスコミも扱いかねているから、
いくら安易ヤツでも、ある程度自分の考えでしゃべるしかないから、
ばらつきがでるけど、「自然」についてはマスコミが旗振ってくれてるからね。
学校でも、今の教育は環境問題踏まえて、「自然との共存」ってことになってるわけでしょ。
もちろん、あなたには、そういういったテーマを「選ぶ」ってこと自体に
言いたいことはあるんだろうけど。
>>349 >メタファーを媒介に市場価値の高い言説≒正論を語りたがる傾向、
>といったところになるかのう。
傾向がシフトなのか、では、
「シフトする」ではなく「シフトを持つ」が正しいんだね。
作品の「シフト」とは全然別の意味だね。
>>350 というか、律儀に即レスしてくれる必要は無いのだが・・・。
(私などかなり遅レスしてるし)
申し訳ないけど、私は寝ます。
また明日(というか今夜)。
ふう。ええ湯じゃったわい。
>>351 >どちらかというと、そういった「正論」を本気でいっている人と
>議論して、その考えを知りたいのだが、哲学板にはいないね。
残念ながら、わしはいまの哲学板にさほど幻想は抱いておらぬ。
すでにこのスレからして、その種の「正論」のオンパレードと
言いたくなるほどじゃ。
わしは
>>219,
>>250,
>>311と三度にわたって、
>もののけ姫見て、
>「共に生きることは出来る」っていう
>”結論”に異議を唱えられるかどうかっていうと、
>難しいと思う。
と書いたが、リプライはなかった。
思うにそれが「正論」であるという認識すら欠けていたのではないか。
たとえば、217よ、お主はどうじゃ。
わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
>「甲殻機動隊」を見て「これからの電脳化社会への不安を・・・」
>みたいなことを臆面もなくいうヤツもいるけど、
>それは問題にならないのかな?
不安が、どうしたのじゃ?
そういった「ヤツ」を見たことがないのでなんとも言い兼ねるのう。
わしがよく聞く攻殻の評と言えば、スタイリッシュとか、作者の蘊蓄の豊富さとか、そういったものばかりじゃ。不安、とかそーゆーのはあんまし、聞かんのう。
>考えの無いやつが、作品の内容そのままみたいな感想を言うのは、
>どんな作品でも起きることだよね。
「もののけ」や「千と千尋」では、相当デキそうな輩でも、作品の内容を一歩でも出るような事をいわんのが、わしには不満じゃ。これはこれらの作品に(だけ、とはいわんが)特有な事であるように思えるのじゃ。
>>352 まあどうでもいいのじゃが、傾向がシフトと言われると些か言葉不足あったかのう。
以前はそういった傾向は少なかったよう記憶しておる。
いまは多くなったように思う。
即ち「メタファーを媒介に市場価値の高い言説≒正論を語りたがる傾向の増加」が
「シフト」(少ない状態から多い状態へのシフト)と言うべきか。
しかしなんか、めんどくさいのう(笑
>353
良き眠りを。でわ、爺も寝ますですわい。
>
>>354 >残念ながら、わしはいまの哲学板にさほど幻想は抱いておらぬ。
〜
>言いたくなるほどじゃ。
もちろん、いっぱいいるんだけど、
そういう人って、「宮崎監督の意図」(まあ、「作品の意図」でもいいけど)
に言及して批判するひとが出てくると、逃げちゃうんだよね。(笑
だから、私は、そういう人と議論しようと何度も試みているのだが、
核心に迫れないでいる。
>わしは
>>219,
>>250,
>>311と三度にわたって、
〜
>たとえば、217よ、お主はどうじゃ。
私の本音で言えば、「作品で提示される思想は面白さを感じさせるための道具に過ぎない」
なので、それを「正論」と解釈すること自体無意味なのだが、
(直のリプライをしてないのはそういうこと)
それを言い出すとまた、話がややこしくなるので、おいといて、
まあ、正論は正論だけど、
批判の文脈でいう「正論」だと違和感がある。
その場合、「反論があるはずなのにできない」
ということだと思うけど、「共存できる」なら、反論しなくても、
「したい人が、そう信じるなら、すればいい」で済んでしまう。
あくまでも、「彼ら」が、「そう信じた」という話に過ぎない。
(私の解釈は大体そう)
つまり、
「ああ、サンとアシタカは共存できると思ったんだ、それで共存することにしたんだね。
がんばるね、ご苦労さん。」
ということだ。「彼ら」が「彼ら自身について」考えたことに反論しても始まらない。
「共存しろ」なら、確かにそういう意味での「正論」かもしれない。
# しかし、私から言わせれば「共存しろ」は、
# その陳腐さにおいて正論たりえないけど。(つまり、いくらでも反論できる)
>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
「暗示」による「誘導」をあなたがすることはないだろう。
「隠蔽」せずに直に言ったら?
>不安が、どうしたのじゃ?
〜
>わしがよく聞く攻殻の評と言えば、スタイリッシュとか、作者の蘊蓄の豊富さとか、そういったものばかりじゃ。不安、とかそーゆーのはあんまし、聞かんのう。
「不安が・・」は言葉を濁しすぎだが「意識をもったネットワークが人間を支配する」、
「人間は将来電子化されてネットワーク上で生きる」
みたいなことを「甲殻機動隊」を引き合いに出していうやつが未来技術板にいっぱいいるよ。
>「もののけ」や「千と千尋」では、相当デキそうな輩でも、作品の内容を一歩でも出るような事をいわんのが、わしには不満じゃ。これはこれらの作品に(だけ、とはいわんが)特有な事であるように思えるのじゃ。
>
言った時点でデキるヤツでもなんでもないのだが。
相当デキそうな輩とはどのような「輩」なのかな?
バカバカしいので、私はよほど興味のある人が書いたので無い限り、
アニメの評論など最近は読まないのだが。
宮崎作品に関しては、評論するような内容自体無いと思うので、
なおさら読む気にならない。(技術論なら面白いと思うが)
>>355 >即ち「メタファーを媒介に市場価値の高い言説≒正論を語りたがる傾向の増加」が
それは、観客となる、社会全体の現象ということだね。
・まず最初に、そういう現象が社会で起きている(観客のシフト)。
・それにあわせて作品の路線が変更されている(「作品」のシフト)。
ということでいいのだろうか。
>しかしなんか、めんどくさいのう(笑
動詞なのか、形容詞なのか、動作なのか現象なのか、
どうもわかりづらい。
それら全ての機能を一つの言葉にもたせようとすることに無理があるんじゃないの。
シフトという言葉を使わず、その都度説明したほうが分かり易いと思うのだが、
なぜこの言葉にこだわるのかな。
>>357 お主がそれを正論と感じないということは相分かった。
わしは、なぜ宮崎作品の評は「正論」の域を出ないのか? というメカニズムについて述べてきた。
しかしもとからそこに「正論」と感じないというのであれば、やはりあまりに見地が違いすぎて、これ以上議論を続けても無駄であるように思う。
お主が、
>「作品で提示される思想は面白さを感じさせるための道具に過ぎない」
というスタンスであるのはわかったが、それは一般的とは言えまい。わしはお主個人の作品論や、作品への接し方には興味がないのじゃ(もちろんそのユニークエンスは尊重するがの)。
宮崎アニメが受容されるにあたっての、一般的な構造を問題とするわしとは、やはり話は合わぬようじゃ。
>バカバカしいので、私はよほど興味のある人が書いたので無い限り、
>アニメの評論など最近は読まないのだが。
>宮崎作品に関しては、評論するような内容自体無いと思うので、
>なおさら読む気にならない。
と、このように受容の構造や言説の語られ方に、無関心であるなら尚更じゃのう(……ああ、これは別に責めているのではない。関心の方向が違うだけのことじゃ)。
>>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
>「暗示」による「誘導」をあなたがすることはないだろう。
>「隠蔽」せずに直に言ったら?
やはり見当は付かぬか……残念だが、致し方あるまい。
>相当デキそうな輩とはどのような「輩」なのかな?
このスレにも若干いたようじゃが、もっと高いレベルを求むなら、「ユリイカ」の千と千尋特集号でも読みなされ。
>>358 わかりにくく感じるのはたぶん、わしが「観客のシフト」について
あまり詳しく論じるつもりがなかったからじゃろう。
ここは宮崎アニメのスレッドじゃからして、現代の映画・アニメ
消費者や知識人評論家全体に起こった/起こりつつある「シフト」
全般については、ごくごく簡単な記述にとどめたのじゃ。
レスを付け忘れておった。
>「不安が・・」は言葉を濁しすぎだが「意識をもったネットワークが人間を支配する」、
>「人間は将来電子化されてネットワーク上で生きる」
> みたいなことを「甲殻機動隊」を引き合いに出していうやつが未来技術板にいっぱいいるよ。
よくわからんが、そのような未来像に不安を感じておるのか?彼らは。
攻殻ではその種の「不安の訴求」はメインでなかったように記憶しておる。
恐らく彼らはズレてはいるが、「誘導」はされておらんじゃろう。
しかしそれは別として、その議論は興味ある。URLを紹介してくれんかの?
>>359 >お主がそれを正論と感じないということは相分かった。
>わしは、なぜ宮崎作品の評は「正論」の域を出ないのか? というメカニズムについて述べてきた。
>しかしもとからそこに「正論」と感じないというのであれば、やはりあまりに見地が違いすぎて、これ以上議論を続けても無駄であるように思う。
感じる、感じないの問題では無い、「論理的に正論たりえない」といっている。
それでも正論が存在するというなら、「共存できる」が正論でないという私の主張に
反論したらいいだろう。
「共存できる」がなぜ正論なのか教えて欲しい。
>お主が、
>>「作品で提示される思想は面白さを感じさせるための道具に過ぎない」
>というスタンスであるのはわかったが、それは一般的とは言えまい。わしはお主個人の作品論や、作品への接し方には興味がないのじゃ(もちろんそのユニークエンスは尊重するがの)。
>宮崎アニメが受容されるにあたっての、一般的な構造を問題とするわしとは、やはり話は合わぬようじゃ。
この場合、一般的でないことは、正しくないということにはならないだろう
娯楽作品の建前からいえば、「面白さ」が本質であるというのは
正統でさえある。
あなたは、
「宮崎アニメが受容されるにあたっての、一般的な構造を問題とする」といっているが、
宮崎アニメが受容されるのは、第一に「面白い」からだろう。
あなたが問題にしている「作品が語ること」の受容は、それを前提にしてしか
なりたたない事柄だ。
もし、「面白さ」を無視して「作品の語ること」を問題にしえるというのなら、
まったく面白くなくても「受容され」、「作品の語ること」があなたが指摘するように、
観客に伝達できるということを説明する必要がある。
それを無視することは、興味云々の問題ではなく、主張の論理的妥当性に関わる問題だ。
>やはり見当は付かぬか……残念だが、致し方あるまい。
だから、「あなた」が、私にそうやって、暗示だけして隠する理由は
いったいなにかな?
それこそが、「示さないことによってあたかも存在するかのようにみせる誘導」ではないか。
>
>>相当デキそうな輩とはどのような「輩」なのかな?
>
>このスレにも若干いたようじゃが、もっと高いレベルを求むなら、「ユリイカ」の千と千尋特集号でも読みなされ。
だから、あなたが問題にしていることがらを教えて貰わないと、
バカバカしくて読む気にならないんだって。いま、それを読むとしたら、
モチベーションとなりえるものはそれしかないんだから。
(つーか、本の場合質問できないからかったるい、ここに語っている人がいるなら、
その人と話したい)
現状では、あなたの言説は、
世間がバカだから作品からバカな影響をうけているのに、
それを作品のせいにして、あたかも社会には問題がないかのように語っている。
としか見えない。
>>362 >感じる、感じないの問題では無い、「論理的に正論たりえない」といっている。
>それでも正論が存在するというなら、「共存できる」が正論でないという私の主張に
>反論したらいいだろう。
>>357を読む限り、お主は、自分は正論と思わない、なぜなら自分はこのような作品の受け取り方をするからだ、と言っておるように見えるのじゃが。
「論理的に正論たり得ない」のはあくまで、お主の見方をとるなら、という条件でしか(つまりお主個人にしか)成り立たぬのではないか?
わしはそういう個々人(たとえばお主)だけに成り立つことを言っておるのではない。
>>359に書いたのはそういうことじゃ。
>「共存できる」がなぜ正論なのか教えて欲しい。
困ったのう。それを正論と共感できないなら、これ以上議論しても無駄だ、と申したのじゃが。
これはあくまで主観や感覚の問題じゃ。お主が悪いわけではない。
>この場合、一般的でないことは、正しくないということにはならないだろう
もちろん、まったくその通りじゃ。じゃからして、お主が「間違っている」といってはおらん。それはわかるな? 繰り返すが、これは関心の方向の違いじゃ。
>宮崎アニメが受容されるのは、第一に「面白い」からだろう。
これ以降の議論、またもわしにはようわからんのう。
お主はまた勘違いしてるのではないか?
ただ一言いうとするなら、正論やらなんやらを語ることも、「面白い」ことなのじゃよ。多くの人にとってはな。
(つづき)
>>やはり見当は付かぬか……残念だが、致し方あるまい。
>だから、「あなた」が、私にそうやって、暗示だけして隠する理由は
>いったいなにかな?
>それこそが、「示さないことによってあたかも存在するかのようにみせる誘導」ではないか。
隠しておるように見えるかのう(笑)。
奇妙な事じゃ。お主がもし正論足り得ない(異議は簡単だ)と、本当に思うのなら、答えをすでにお主は知っておる、ということになる。
わしに隠せるはずがあるまい?
>だから、あなたが問題にしていることがらを教えて貰わないと、
もう何度も述べておるがのう……?
たとえば「共に生きることは出来る」という正論を安易に受け取るような評とかな。千と千尋なら成長物語が云々、このテのものなら新聞の文芸欄レベルにもあるだろう(わしは見た記憶があるぞ)。
>(つーか、本の場合質問できないからかったるい、ここに語っている人がいるなら、
>その人と話したい)
わしにそれを求めるのは無理じゃ。
>現状では、あなたの言説は、
>
>世間がバカだから作品からバカな影響をうけているのに、
>それを作品のせいにして、あたかも社会には問題がないかのように語っている。
>
>としか見えない。
そりゃ偏見じゃよ〜(笑)
ふむむ……読み返してみると、わしは「主観や感覚や問題意識の違い」に逃げておるやにも見えるのう。
しかしじゃ、わしにとっては
・「共生の思想」は、いわば現代の正論である
ということは、あまりに明々白々であって、それを正論とは思えないと言われると、正直言ってどう答えてよいのか、わからんほどじゃ。
それは、空は青い、とか、人類はサルから進化した、というのと同じくらいのいわば、公理であって、まあ公理を疑うのは哲学の常じゃが、しかし議論には限度というものがある。公理はどこまででも疑い得る。
したがって議論の生産性をある一定のレベルで保つには、どこかで公理を――議論の前提を決めておかねばならん。
ATGのTVCFでもいいし、市民運動でも公報でもよい。漫画でも映画でもドラマでもオピニオン誌でも、なんでもいい。
「共生の思想」がいわば常識として、皆がうなずく正論として<いま・そこ>にある、そのような状況さえ前提として共有できないでは、わしは議論を続けるモチベーションが維持できない。これはわかって欲しいと思う。
366 :
エド二スト:01/10/15 10:00
なんか皆難しく考えてるけど単純に『エンターテイメントとして楽しむ』っていうのはダメ?
>>363 >
>>362 >困ったのう。それを正論と共感できないなら、これ以上議論しても無駄だ、と申したのじゃが。
>これはあくまで主観や感覚の問題じゃ。お主が悪いわけではない。
どうも、例によって「正論」というものの定義がズレているような気がする。
あなたのいいたいことはわかるけれども、
「誰かにとっては正論で、他の人にとっては正論でなくてもいい」、
のなら、既に正論たりえないのではないの?
正論と言うのは、「誰もが反論しえない」ことをもって正論となるのではないの?
そして、あなたは正に、そのことを問題にしていたのではないのか?
>ただ一言いうとするなら、正論やらなんやらを語ることも、「面白い」ことなのじゃよ。多くの人にとってはな。
もちろん、そのとおり、
それゆえに、「隠蔽された誘導」などという解釈は無意味なのだよ。
(この点については、「正論」の定義が不明瞭になってきたのでこれ以上のことはいまはいえない)
>>364 >わしに隠せるはずがあるまい?
隠していというなら、指摘を怠っているということだ。
>>だから、あなたが問題にしていることがらを教えて貰わないと、
>
>もう何度も述べておるがのう……?
>たとえば「共に生きることは出来る」という正論を安易に受け取るような評とかな。千と千尋なら成長物語が云々、このテのものなら新聞の文芸欄レベルにもあるだろう(わしは見た記憶があるぞ)。
だから、それは評者の問題であって作品とは関係ないんじゃないの?
>わしにそれを求めるのは無理じゃ。
それは承知、あなたに求めてなどいない。
しいていえば、それができるようにさせてほしいということは望むけどね。
>>現状では、あなたの言説は、
>>
>>世間がバカだから作品からバカな影響をうけているのに、
>>それを作品のせいにして、あたかも社会には問題がないかのように語っている。
>>
>>としか見えない。
>
>そりゃ偏見じゃよ〜(笑)
じゃあ、なんで新聞の文芸欄とか引き合いにだすのかな?
>>365 >「共生の思想」がいわば常識として、皆がうなずく正論として<いま・そこ>にある、そのような状況さえ前提として共有できないでは、わしは議論を続けるモチベーションが維持できない。これはわかって欲しいと思う。
だから、私は、そういう社会的な背景があることを否定していない、
むしろ、その点を積極的に主張してさえいる。
つまり、
明々白々な現代の正論であって、社会的にある程度の賛同が得られる考えであるからこそ、
「作品の主張」とはなりえない、
そういった思想に「迎合」して、作品を面白くする道具に使っているだけだ。
といっているのだ。
常識化した正論というものは誰でもが知っているわけだから、
それを隠蔽するのが無意味であるという考えは
極めて自然だと思うのだが?
>>366 私の主張jは、
煎じ詰めればそれしか残らないということなのだが。
なんかもう、わし、飽き飽きじゃよ・・・。
なんでこんな、本論とは関係ない枝葉の部分で、延々とレスを続けねばならないのだろうか。
>>367 100%反論不可能な言説は存在せず、その意味では100%の正論は存在しない。
お主がそれを「ぼくは正論と思わない。だから正論ではない」といったところで、それは単に「例外もある」ということでしかない。
>正論と言うのは、「誰もが反論しえない」ことをもって正論となるのではないの?
なんというか、わしはこの語を読んで頭が痛くなってきたぞい。現実とは、そんな単純なものか? よく考えさっしゃれ。
わしが「正論」というとき、それは辞書的な意味と大して変わらぬ。このスレの流れでは「市場価値の高い言説」と関連して使ってきた。ニア・イコールで結んだこともあった筈じゃ。そこからニュアンスを感じ取れ。
>>ただ一言いうとするなら、正論やらなんやらを語ることも、「面白い」ことなのじゃよ。多くの人にとってはな。
>もちろん、そのとおり、
>それゆえに、「隠蔽された誘導」などという解釈は無意味なのだよ。
……う〜〜〜〜〜〜む(頭を抱える)。
お主がまた何か勘違いしているに、わしゃ500ガバス。
以後、sageで書くこととする。
>>368 >>わしに隠せるはずがあるまい?
>隠していというなら、指摘を怠っているということだ。
既に何を書いているのかすら意味不明じゃのう……。
「異議アリ」の見当が付かぬなら、付かぬ、それでもよいし、わかったならさっさと口にすればよい。
何を躊躇っておるのじゃ。
>>たとえば「共に生きることは出来る」という正論を安易に受け取るような評とかな。千と千尋な
>ら成長物語が云々、このテのものなら新聞の文芸欄レベルにもあるだろう(わしは見た記憶が
>あるぞ)。
>だから、それは評者の問題であって作品とは関係ないんじゃないの?
なんでじゃ? わしは関係あると思ってるし、その関係についてはもう説明してきた。
いったいなにが不満じゃ。
>>そりゃ偏見じゃよ〜(笑)
>じゃあ、なんで新聞の文芸欄とか引き合いにだすのかな?
なんのこっちゃ。
>>369 >明々白々な現代の正論であって、社会的にある程度の賛同が得られる考えであるからこそ、
>「作品の主張」とはなりえない、
明々白々な現代の正論であり、社会的に賛同される考えであるか/ないか、ということはそれが「作品の主張」になりえるかどうかということと、殆ど関係ない。
われわれは、正論であろうがなかろうが、賛同を得られようが得られまいが、ほぼどんな言説であっても、「作品の主張」として作品に盛り込むことができる。これは当たり前のことじゃ。
>そういった思想に「迎合」して、作品を面白くする道具に使っているだけだ。
>といっているのだ。
それは「作者の意図」に踏み込むゆえ、わしにはなんとも言えぬのう。
道具として使っているだけかもしれんし、本当に作者の心の叫びかもしれん、単なる偶然かもしれん。
それは受け手の側にいる限り、金輪際わからぬ事じゃ。
>常識化した正論というものは誰でもが知っているわけだから、
>それを隠蔽するのが無意味であるという考えは
>極めて自然だと思うのだが?
ふう(溜息)。
お主はわしの文章をちゃんと読んでおるのじゃろうか。段々心配になってきた。
正論が隠蔽されている、などとは申しておらんわい。
隠蔽されているのは正論への誘導である(しかもある条件のもとで)。
これについてはもう何度、繰り返し書いてきた。
「正論」については、※戦争は無くならないのか(マジレスのみ)の
129に面白い意見があるよ。
>>371 >なんかもう、わし、飽き飽きじゃよ・・・。
>なんでこんな、本論とは関係ない枝葉の部分で、延々とレスを続けねばならないのだろうか。
私もだ、なんぜあなたは、暗示とほのめかしに終始して、
言いたいことをはっきりいわないのか?
何が、何を、どうしたといった事実関係を省略して語るのか?
なぜいちいち私があなたの発言を推測で補則しなかえればならないのか?
そのうえそれが間違っているといってあなたに文句をつけられなければ
ならないのか?あまつさえ曲解しているかのように指摘されなければならないのか?
さらに、あなたは、「違う」とはいいながら、
「こうだ」という修正は明示しない、「わかるはずだ」で済ましてしまう。
枝葉末節の話をするのがいやなら、
最初からキチンと説明すればいいだろう。
質問をはぐらかさなければいいだろう。
全てはあなたの無責任な発言態度に起因することだ。
説明するのが面倒なら最初からレスなどしなければいいだろう。
最初から、あなたがきちんと話していれば、
なんら問題無いことだ。
>なんというか、わしはこの語を読んで頭が痛くなってきたぞい。現実とは、そんな単純なものか? よく考えさっしゃれ。
誰もが反論しえないというのはあなたが言い出したことだ、
>>219 >もののけ姫見て、
>「共に生きることは出来る」っていう
>”結論”に異議を唱えられるかどうかっていうと、
>難しいと思う。
(それとも、これは別人なの?)
頭が痛くなりそうなのを我慢して、
なんとかまともな議論にもっていこうとしているのになぜそんなことをいわれなきゃならんのだ。
くりかえし言うが、誤解されるのがいやなら、もう少し、
何がどう問題なのか、分かるように説明することに努力すべきじゃないのか?
私はあなたの不十分説明を一生懸命推測で補則しようとしている。
その挙句にそのようなことを言われたのでは立つ瀬が無い!
>わしが「正論」というとき、それは辞書的な意味と大して変わらぬ。このスレの流れでは「市場価値の高い言説」と関連して使ってきた。ニア・イコールで結んだこともあった筈じゃ。そこからニュアンスを感じ取れ。
>
だから、あなたの主張の中での正論の位置づけをちゃんと筋道立てて語ってくれ。
断片的な説明だけであなたの主張の全貌を推測することを強要されるのは
もうたくさんだ。
>>>ただ一言いうとするなら、正論やらなんやらを語ることも、「面白い」ことなのじゃよ。多くの人にとってはな。
〜
>お主がまた何か勘違いしているに、わしゃ500ガバス。
あなたが問題点をきちんと説明していない以上、勘違いもくそもないだろう。
人が親切でしている推測に、よくそれだけケチがつけられるものだ。
>>372 >>>わしに隠せるはずがあるまい?
>>隠していというなら、指摘を怠っているということだ。
>
>既に何を書いているのかすら意味不明じゃのう……。
>
>「異議アリ」の見当が付かぬなら、付かぬ、それでもよいし、わかったならさっさと口にすればよい。
>何を躊躇っておるのじゃ。
はぁ?
「わからない!」
ってこと何回言わせれば気が済むの?
何度もわからないといってるのに、
>>>わしに隠せるはずがあるまい?
なんてことをいうから
>>隠していというなら、指摘を怠っているということだ。
と言わざるをえなくなったのだ。
もったいぶるのもいいかげんにして欲しい。
>>373 >>373 >>だから、それは評者の問題であって作品とは関係ないんじゃないの?
>
>なんでじゃ? わしは関係あると思ってるし、その関係についてはもう説明してきた。
それは、誘導による隠蔽のこと?
それが無意味だってことはさんざ言ったつもりだけど?
>>じゃあ、なんで新聞の文芸欄とか引き合いにだすのかな?
>
>なんのこっちゃ。
それはこっちがいいたかったセリフだよ。
新聞の文芸欄のアニメ批評なんてものは、ぜんぜんあてにならないなんてことは、
ヤマトやガンダムの時代からの常識じゃないの?
それを引き合いにだして「もののけ姫」のどういった特殊性を
説明できるというのだ?
>>374 >>374 >>明々白々な現代の正論であって、社会的にある程度の賛同が得られる考えであるからこそ、
>>「作品の主張」とはなりえない、
>
>明々白々な現代の正論であり、社会的に賛同される考えであるか/ないか、ということはそれが「作品の主張」になりえるかどうかということと、殆ど関係ない。
なぜ?
>
>われわれは、正論であろうがなかろうが、賛同を得られようが得られまいが、ほぼどんな言説であっても、「作品の主張」として作品に盛り込むことができる。これは当たり前のことじゃ。
もちろん、盛り込むことはできね。
>>そういった思想に「迎合」して、作品を面白くする道具に使っているだけだ。
>>といっているのだ。
>
>それは「作者の意図」に踏み込むゆえ、わしにはなんとも言えぬのう。
>道具として使っているだけかもしれんし、本当に作者の心の叫びかもしれん、単なる偶然かもしれん。
>それは受け手の側にいる限り、金輪際わからぬ事じゃ。
いや、作者の意図ではない、「作品が示す効果」だよ。
作品のあらわす効果として「面白さ」があり、その面白さに、そういった「思想」が関係している以上、
「作者の意図」を除外しても、「思想は面白さの道具である」ということは十分いえる。
>>常識化した正論というものは誰でもが知っているわけだから、
>>それを隠蔽するのが無意味であるという考えは
>>極めて自然だと思うのだが?
>
>ふう(溜息)。
>お主はわしの文章をちゃんと読んでおるのじゃろうか。段々心配になってきた。
>
>正論が隠蔽されている、などとは申しておらんわい。
>隠蔽されているのは正論への誘導である(しかもある条件のもとで)。
>これについてはもう何度、繰り返し書いてきた。
「正論への誘導」でも同じことでしょ。
分かりきったことに導くことを隠蔽することが、
何の意味があるの?
だから、そういうことがどう問題なのかを、なぜあなたは言わないわけ?
私の発言が質問(それもあなたに言わせれば見当ハズレの)に終始するのは
なぜか考えてみたことある?
そういった思わせぶりな物言いが議論を混乱させ、長引かせているということが
わからないとは思えないけど?
>>216 ぶっちゃけた話、今の話は双方の認識のすり合わせに
手間がかかりすぎて収拾がつけようがないように思う。
というかあなた自身話したくなさそうだし。
私としても、あなたの意見を、
一通りわかるように説明してもらわないと議論をつづけられない感じがするし、
あなたは、おそらくそうすることに乗り気ではないだろう。
そこで提案なのだが、
例えば、
「共に生きることはできる」というテーゼの是非
とか話したほうが有意義かつ、
スレの趣旨に合致してるのではなかろうか?
(それがどのような意図で提示されているかはおいておいて、
「存在する」ということでは認識が一致しているわけだから)
まあ、「そんなことには興味は無い、もうこりごりだ」
というなら、完全に中断してしまっても一向差し障りは無い。
また、あなたの方から別のテーマを出して貰ってもいいし、
元の議論を続けてよければそれでもいい。
ご意見を乞う。
381 :
考える名無しさん:01/10/16 22:44
ごめんちゃい。
話しの腰折るようで悪いんですけど。。。
宮崎駿が自分の作品に持込もうとする問題認識ってどうです?
私はこの部分が胡散臭くもあり逆に魅力でも有ると思うんだけど。
主題として扱われなくても、「パンダコパンダ」の頃から、
作品を作るモチベーションとして裏テーマが(インタヴューでは濁すけど)存在してたらしいし。
娯楽性の高い「ラピュタ」や「ルパン3世」ですら。
漫画の「風の谷のナウシカ」読んだ時、いよいよこの人は自分の思想から
逃げられなくなってきたな〜と思ったもんです。
言わば「ナウシカ」が、「太陽神ホルスの冒険」で遣り残したor自分を納得させられなかった、
大塚氏の影響から自分を確立させる作業であり、思想として納得いくモノを求める作業ではなかったかと。
その意味で、「もののけ姫」の帰結部分は宮崎本人の思索の結論と言うよりか、
模索していく過程で段落を付けた(言わば放棄か先延ばし)だけだと思うんです。
アシタカの手に残るアザは、問題が終らない事を暗示するばかりでは無く、
抽象性を帯びた(ダイダラボッチの死?に因ってししの森が自然を組み牽くヨーロッパの
草原の様になってしまう)結末に自分が納得してない、現実がまだその先に
結果をおいて無いと言う事を示すのではないかと思ったんです。
その意味において、アクチュアルな問題提起として(時代設定は室町ですが)機能させようとした様に
感じられたのですがどうでしょうか?
だから私には「共に生きよう。」と言った手にアザを持つアシタカのサンへの呼びかけは、
問題は過去の‘あった’のでは無く今ここに‘ある’んだよって宮崎駿の呼びかけに聞えるんです。
共生を呼びかけると言う解釈はそうだと思いますが、
大切なメッセージは問題がまだ我々の手の中にあるんだと言う事ではないでしょうか?
最後の辺りでアシタカが転ぶ演出意図は、アシタカに感情移入して貰いたくてやったのでは無いですか?
誤解無き様言っておきますが、宮崎駿、大友克洋、押井守、庵野、とアニメと言っても偏って見てるので、
世間様が捉えるようなアニメの見方では無く、ちょっと映画(監督)オタの視点に近いかもしれません。
>>376 どこがどんな風に、暗示とほのめかしなのじゃ? 事実関係の省略とはいったいなんのことじゃ。ん?
わしはわしに出来うる限り、具体的に語ってきたつもりじゃ。具体的に語ってないというのなら、その部分を具体的に語らんでは(指摘せんでは)、一向に先に進まんではないか。
悲しいことを言うのう、お主。
わからないなら、わからないときちんと言えばよかろう。それもせずに、生半可の曲解で、愚にも付かぬ反発ばかりしとるではないか、お主は。
お主は自分の気持ちばかり言い立てておるが、いったい、お主、わしの立場に、気持ちになったことがあるか?
何度わしは「作者の意図はとりあえず、棚上げ」と書かねばならんのだ? 何度わしは「シフトしているは作品だ」と書かねばならんのだ?
「何人たりとも反発できないのが正論だ。ボクはそれに反発できる。だからそれは世の中にとっても正論ではない」だとかなんちゅー、あほらしい議論につきあわねばならんわしの事を、少しでも考えたことがあるか。
だらだらと何度も同じ様な問いをするばかりで、自分で調べようともせん。どこか食いつけるようなことろがあれば何でも食いつき、すると言ったら揚げ足取りまがいのレスばかり。
それでもって「責任は全てお前にある」じゃと?
……………………………………
…………………………
………………………………
……………………かっ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっ。
身の程を知れ。
次。正論について。
>>なんというか、わしはこの語を読んで頭が痛くなってきたぞい。現実とは、そんな単純なもの
>か? よく考えさっしゃれ。
>誰もが反論しえないというのはあなたが言い出したことだ、
>
>>219 >>もののけ姫見て、
>>「共に生きることは出来る」っていう
>>”結論”に異議を唱えられるかどうかっていうと、
>>難しいと思う。
>(それとも、これは別人なの?)
………………
…………
……
お主、ちゃんと、わしの文章、読んで引用しておるか?
上の引用文のどこに「反論し得ない」と書いてあるのじゃ?
「難しい」と書いてある。
「難しい」とは「難しい」ということじゃ。それが(この場合、反論や異議が)とてもしづらい、ということじゃ。
誰一人反論し得ない、ということは全然、別じゃろが〜〜〜!!!!!!!
だいたい、お主が言うように「誰一人反論できない」のであれば、このわしすら反論も、異議の申し立てもできん筈ではないか。ということは、そもそもこのような問題提起を起こすことすら不可能ではないか。
アホらしい。
もっと常識的に考えなされ。
正論について、「辞書的意味+市場価値の高い言説」で、どうしてわからんのか、わしにはよくわからん。
それでもわからんというのなら、「わからないんだけど!」、とただ聞けば良かろう。
ただ謙虚に、虚心になれば、予断を交えず、聞けばよい。それで済むことではないか。そのための匿名掲示板ではないか。
釘を差すためもう一度書いておくぞ。
「反論し得ない」と「異議を唱えるのが難しい」は、まったく別の事柄じゃ!
>>お主がまた何か勘違いしているに、わしゃ500ガバス。
>あなたが問題点をきちんと説明していない以上、勘違いもくそもないだろう。
>人が親切でしている推測に、よくそれだけケチがつけられるものだ。
あのなあ……事態は全く逆じゃろうが! わしが
>>363 >>ただ一言いうとするなら、正論やらなんやらを語ることも、「面白い」ことなのじゃよ。多くの人にとってはな。
と書いたら、お主は
>>367 >もちろん、そのとおり、
>それゆえに、「隠蔽された誘導」などという解釈は無意味なのだよ。
となんの説明も、根拠付けもなしに、否定し腐った。
わしが冷やかし半分、レス待ちで、
>お主がまた何か勘違いしているに、わしゃ500ガバス。
と書いてなんの不思議がある。
それで「親切でした推測」とは、恐れ入るわい(だいたい推測しておるのはわしの方じゃ)。
わしは、そんな変な推測は、してほしゅうない。
>>377 >「わからない!」
>
>ってこと何回言わせれば気が済むの?
>
>何度もわからないといってるのに、
なに?「わからないといってる」、とな?
お主がそんな殊勝なセリフを吐くところ、この爺めは聞いたことござらぬワイ!
わし
>>354 >わしは
>>219,
>>250,
>>311と三度にわたって、
>>もののけ姫見て、
>>「共に生きることは出来る」っていう
>>”結論”に異議を唱えられるかどうかっていうと、
>>難しいと思う。
>と書いたが、リプライはなかった。
>思うにそれが「正論」であるという認識すら欠けていたのではないか。
>たとえば、217よ、お主はどうじゃ。
>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
お主
>>357 >「暗示」による「誘導」をあなたがすることはないだろう。
>「隠蔽」せずに直に言ったら?
わし
>>359 >やはり見当は付かぬか……残念だが、致し方あるまい。
お主
>>362 >だから、「あなた」が、私にそうやって、暗示だけして隠する理由は
>いったいなにかな?
>それこそが、「示さないことによってあたかも存在するかのようにみせる誘導」ではないか。
わし
>>364 >隠しておるように見えるかのう(笑)。
>奇妙な事じゃ。お主がもし正論足り得ない(異議は簡単だ)と、本当に思うのなら、答えをすでに
>お主は知っておる、ということになる。
>わしに隠せるはずがあるまい?
>>368 >隠していというなら、指摘を怠っているということだ。
てゆうか、異議が「わからない」くせに「反発するのは簡単。だから正論ではない」て言ってたの、お主?
わからないならわからないってはやく言えよってカンジ〜、じゃ!!
あ〜、それともなにか、お主、「ボクちゃんがこんなにスネて言ってるんだから、爺はボクちゃんの気持ちを汲み取って、語勢の裏まで読みとってくんなきゃイケナインダ!」
とでもいうつもりか?
甘えるのもいい加減にさっっしゃい!!!!
……………………
…………
………………
……ふぅ。
スッキリした。
久しぶりに言いたいことを、思いきり言ったわい。
217よ。気を悪くしたかもしれんが、これがわしの腹蔵無い本音じゃ。
これを見て怒るも良し、怒らぬも良し。
わしはサッパリしたので、これ以降は通常モードに戻ることにする。
>「作者の意図」を除外しても、「思想は面白さの道具である」ということは十分いえる。
それはそうだが、それは「思想は面白さの道具で「も」ある」とか、「面白さは思想の道具である」ということも出来る。
たいして意味のあることとは思えんがのう。
>「正論への誘導」でも同じことでしょ。
全然、まったく、天地ほどにも、違う。
>分かりきったことに導くことを隠蔽することが、
>何の意味があるの?
>
>だから、そういうことがどう問題なのかを、なぜあなたは言わないわけ?
>
>私の発言が質問(それもあなたに言わせれば見当ハズレの)に終始するのは
>なぜか考えてみたことある?
>そういった思わせぶりな物言いが議論を混乱させ、長引かせているということが
>わからないとは思えないけど?
ひとつには、なぜわからないかが、わからないからじゃよ。
なぜならお主は、具体的に「どこがわからない」と言わないから、わしとしても概論的な話をせざるを得ないのじゃ。
あんまり簡単に話しすぎても、相手が見くびられたように思って怒るからのう。
さて、なぜ、「正論への誘導を隠蔽するのか」?
誤解を招く危険を犯して言うなら、それはズバリ……、
正論や世間的な通念を、いわば「イデオロギー的に」強化するためじゃろうな。
それが誘導された結論に過ぎないことを隠蔽すれば、「正論や通念でなくて、自分が自分の頭で考えたこと」であるかのように錯覚されるじゃろう。
誰かに外的に強制された思想ではなく、あたかも自ら考えたことであるかのように擬装したほうが、「イデオロギー的強化」は自然に行うことができる。
>「共に生きることはできる」というテーゼの是非
さて、ではご要望に添って爺の思うところを書かせて頂こうかの。
予めお断り申し上げておくが、テーゼの是非自体をわしが論じられるかどうかは、さだかではない。
わしが目指すのは、「正論」の論理的ないし事実的正誤を判断するのではなく、「正論」に対して存在しうる、オルタナーティブな考え方を示すことだ。
それはおそらくこれまでの、ファンや評論家たちがしてきた宮崎アニメへの評価で殆ど省みられず、その存在の可能性すら気づかれなかった種類のものだ。
「もののけ姫」の放映は1997年か・・・。酒鬼薔薇の年だ。その二年前にはオウムがあった。いまなら差詰め原理主義テロリストか。
こうした者たちとの共存は可能だろうか?
共存を良しとする社会の、その内部にあって社会を破壊するものとの共存は可能だろうか?
共存すべきというイデオロギーのもとで、そのイデオロギーの陰に生まれた脅威。
こうした「隣人」たちとも、われわれは共存すべきなのだろうか?
いま地球を未知の病原体や巨大隕石が襲って、それで人類が滅び去っても、それは「自然」だ。そんな自然とも共に生きなければならないのか。
しかし結局は共存「するしかない」のかもしれない。狭い地球だ。グローバリズムや情報化、限りないテクノロジーの進化。こういったものはわたしたちの世界に、社会にあらたな「隣人」を招き入れる。混淆は文明の宿命かも知れない。
また、自然そのものには逆らえまい。逆らおうとする無駄な努力が、MRSAや低体温症の問題を生んだのではないか。
そう考えることもできる。
だが一方で、たとえば不登校やDVの問題で典型的だが、「共に生きない」という選択肢もある。そしてそれは現代ではむしろ、「共に生きる」よりも、根本的な解決策であることは多いのではないか。
どうして学校が必要なのか。家族はそんなに大切か。共同体は絶対に保たれねばならないのか。
「共に生きる」という選択は暗に、われわれは共存するか、それとも滅ぼし合うかという二者択一の状況を含むことが多いのではないか。
原理主義テロリストは悪者なのであろう――実際にかれらは先進国市民の安寧を脅かし、命を奪う。しかし誰しも思うことは、変に関わり合うから、こんなことが起こるという感慨だろう。
なぜ彼らを放っておけない? 彼らが――ユダヤ人とアラブ人が、彼らの問題を彼ら自身で解決するに任せておけないのだ?
共に生きよ、という言葉はこのとき、そこに大国が(宗教やら石油利権絡みで)介入する口実に過ぎない。今回はそのしっぺ返しだ。
まあ結局は、パレスチナ問題というやつ、共生だけが解決かも知れない。この場合はそうかもしれない。
しかしどうやっても共生できないものと、どうやって共生できるか?
共生を拒むものと共生できるか?
共生を掲げる社会、その社会を壊すものと共生できるか?
共依存の関係にあるものさえも共生すべきか?
とうてい共生できないような「隣人」と、どうしても共生する必要はないだろう。過酷ないじめに会ってまでも学校にいる必要はない。暴力依存症の夫と、いつまで一緒にいなくたっていい。
これまで見知らなかった隣人を運んでくるこの世の豊かさは、「無理して一緒にいなくてもいい」豊かさにも連なる。
共同体の必要性が高かった昔は、「共に生きる」ことは大切な社会的主題だった。しかし現代では事情が異なろう。
共同体を足かせに感じる人が多くなったいま、無理して一緒にいなくてもいい。まったく見ず知らずの他者として、まったくわかりあうこともないまま終わる他者として、ただ別々に歩んでいっても、それで不都合はあるまい。
共生の理念自体に苦しめられる人々がいるとき、共生を口にすることは正しくない。
人間と自然、蝦夷と倭人、男と女、障害者と健常者、働くものと戦うもの、聖と俗……。
多くの対立項を並べ立て、諍いの内の共存か、決定的な対立による殲滅戦かの二項対立が提示される「もののけ姫」のなかには、「別々の道を、まったく関係を持たずに歩む」という選択肢は、あらかじめ消去されている。
この作品がもたらす戦後民主主義的感触から考えるに、共同体性を積極的に棄揚する立場はたぶん想定外のことだろう。
そんな風にしか生きられない人がいて、そんな風にしか解決できない事柄もあることは、たぶん、視界にはいってはいない。
それはとても淋しいことだ。とても。
もし唯一この点で「もののけ姫」を評価できるところを探すなら、それは主人公の二人・サンとアシタカが最後は別れ別れになるところかもしれない。
もっとも、それすらいつかは訪れるであろう和解を暗示するものではあるが、「共に生きよう」といいつつも共に行こうとはしないこのエンディングに、微かな望みを(無理にでもいいから)見たいと思う。
>>381 >大切なメッセージは問題がまだ我々の手の中にあるんだと言う事ではないでしょうか?
もしかしたらずれているかもしれないが、「問題が我々の手の中にある」と思っていることが、問題なのかもしれない。
その問題は本当に「問題」足り得るのじゃろうか?
それはわれらが考えるべきリアルな問題――リアルな問題の捉え方なのかのう?
レス忘れの付け足し
>>378 >新聞の文芸欄のアニメ批評なんてものは、ぜんぜんあてにならないなんてことは、
>ヤマトやガンダムの時代からの常識じゃないの?
>それを引き合いにだして「もののけ姫」のどういった特殊性を
>説明できるというのだ?
ここでお主の犯している間違いは2つ。
1..新聞の文芸欄のアニメ批評があてにならないのかどうかは、主観的なものじゃ。
常識とは思えないし、だとしても最近は昔と、違ってレベル高いぞい。
2.わしゃ少なくともお主よりはあてになると思うちょるよ!(笑
>>382 >どこがどんな風に、暗示とほのめかしなのじゃ? 事実関係の省略とはいったいなんのことじゃ。ん?
いままでわずかながらもあなたの善意を信用していたけど、
これを読んでマジで胸糞悪くなった。
↓これだけ露骨なはぐらかしをやっておいて、そういうことをいけしゃあしゃあといえるあなたの人間性を疑う。
>>354 名前:216 投稿日:01/10/14 04:42
>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
>>357 名前:217 投稿日:01/10/14 21:57
>>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
>「暗示」による「誘導」をあなたがすることはないだろう。
>「隠蔽」せずに直に言ったら?
>>359 名前:216 投稿日:01/10/14 23:44
>>>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
>>「暗示」による「誘導」をあなたがすることはないだろう。
>>「隠蔽」せずに直に言ったら?
>
>やはり見当は付かぬか……残念だが、致し方あるまい。
>>362 名前:217 投稿日:01/10/15 00:31
>だから、「あなた」が、私にそうやって、暗示だけして隠する理由は
>いったいなにかな?
>それこそが、「示さないことによってあたかも存在するかのようにみせる誘導」ではないか。
364 名前:216 投稿日:01/10/15 01:06
>>それこそが、「示さないことによってあたかも存在するかのようにみせる誘導」ではないか。
>
>隠しておるように見えるかのう(笑)。
>奇妙な事じゃ。お主がもし正論足り得ない(異議は簡単だ)と、本当に思うのなら、答えをすでにお主は知っておる、ということになる。
>わしに隠せるはずがあるまい
>>368 名前:217 投稿日:01/10/15 19:36
>>わしに隠せるはずがあるまい?
>隠していというなら、指摘を怠っているということだ。
>>372 名前:216 投稿日:01/10/15 23:15
>>>わしに隠せるはずがあるまい?
>>隠していというなら、指摘を怠っているということだ。
>
>既に何を書いているのかすら意味不明じゃのう……。
>
>「異議アリ」の見当が付かぬなら、付かぬ、それでもよいし、わかったならさっさと口にすればよい。
>何を躊躇っておるのじゃ。
>>377 名前:217 投稿日:01/10/16 20:21
>>何を躊躇っておるのじゃ。
>はぁ?
>「わからない!」
>
>ってこと何回言わせれば気が済むの?
>>382 >身の程を知れ。
はぁ?あんた何様?
あなたのどこに、人様にそんなえらそうなことをいえる
資格があるの?身の程をわきまえなきゃなんないのはあなたのほうでしょ。
つきあいきれないよ。
>>383 >
>「反論し得ない」と「異議を唱えるのが難しい」は、まったく別の事柄じゃ!
>
ふ〜ん。
で、その「正論」が、どう問題なの?
>>384 >>>お主がまた何か勘違いしているに、わしゃ500ガバス。
>>あなたが問題点をきちんと説明していない以上、勘違いもくそもないだろう。
>>人が親切でしている推測に、よくそれだけケチがつけられるものだ。
>
>あのなあ……事態は全く逆じゃろうが! わしが
>
>
>>363 >>>ただ一言いうとするなら、正論やらなんやらを語ることも、「面白い」ことなのじゃよ。多くの人にとってはな。
>
>と書いたら、お主は
>
>>367 >>もちろん、そのとおり、
>>それゆえに、「隠蔽された誘導」などという解釈は無意味なのだよ。
>
>となんの説明も、根拠付けもなしに、否定し腐った。
だから、それを、真意をただすこともなく、
いきなり、「根拠付けなく」と断定してしまうところが
あなたの傲慢さだ。
「それゆえに」と書いてある文章について「根拠付けもなしに、否定し腐った。 」
という暴言なぜはけるのかわけがわからない。
「根拠が不明」、「根拠が不当」、「根拠が間違っている」ならわかる、
「根拠付けもなしに」ってのは、「それゆえに」という
日本語の意味が理解できていたらできる回答ではないはずだ。
>わしが冷やかし半分、レス待ちで、
>
>>お主がまた何か勘違いしているに、わしゃ500ガバス。
>
>と書いてなんの不思議がある。
>それで「親切でした推測」とは、恐れ入るわい(だいたい推測しておるのはわしの方じゃ)。
>
>わしは、そんな変な推測は、してほしゅうない。
そういうことは質問をはぐらかすのを止めてからいってもらおう。
いまの状態でいくら言っても「盗人猛々しい」としかいいようがない。
>>385 >てゆうか、異議が「わからない」くせに「反発するのは簡単。だから正論ではない」て言ってたの、お主?
>わからないならわからないってはやく言えよってカンジ〜、じゃ!!
ふざけるな、あんたがまともに答えないからに決まってるだろ。
>あ〜、それともなにか、お主、「ボクちゃんがこんなにスネて言ってるんだから、爺はボクちゃんの気持ちを汲み取って、語勢の裏まで読みとってくんなきゃイケナインダ!」
>とでもいうつもりか?
>甘えるのもいい加減にさっっしゃい!!!!
あのやりとりが、「語勢の裏まで読みとる」ような内容か?
あの展開であそこまではぐらかすことにどんな必要性があるっての?
>>387 >>「作者の意図」を除外しても、「思想は面白さの道具である」ということは十分いえる。
>
>それはそうだが、それは「思想は面白さの道具で「も」ある」とか、「面白さは思想の道具である」ということも出来る。
>たいして意味のあることとは思えんがのう。
プロパガンダ映画とかならともかく、商業作品については、
逆はありえないよ。
できると考えているひとは多いみたいだけど。
面白さのために思想を制限することはできても、
思想のために面白さを制限することはできないだろう。
目的がなんであれ、映画は見てもらってなんぼの世界だ。
>ひとつには、なぜわからないかが、わからないからじゃよ。
>なぜならお主は、具体的に「どこがわからない」と言わないから、わしとしても概論的な話をせざるを得ないのじゃ。
>あんまり簡単に話しすぎても、相手が見くびられたように思って怒るからのう。
わかりやすく話してくれる分には、(幼児言葉にするなどの揶揄を使わない限り)怒ったりはしないよ。
哲学板なんだから、長レスは当然だろう。時間の許す限り書きたいことをたっぷり書いてくれ。
>さて、なぜ、「正論への誘導を隠蔽するのか」?
>誤解を招く危険を犯して言うなら、それはズバリ……、
>
>正論や世間的な通念を、いわば「イデオロギー的に」強化するためじゃろうな。
>
>それが誘導された結論に過ぎないことを隠蔽すれば、「正論や通念でなくて、自分が自分の頭で考えたこと」であるかのように錯覚されるじゃろう。
>
>誰かに外的に強制された思想ではなく、あたかも自ら考えたことであるかのように擬装したほうが、「イデオロギー的強化」は自然に行うことができる。
ああ、やっと具体的な話になったね。
(ヒトラーが似たようなこといってたね。
誤解の危惧はそのあたりにあるのだろうが・・・。)
「イデオロギー的強化がなされる」という点については異論は無い。
隠蔽の目的については異論があるが、私に誤解があるかもしれないので、
言う前に、一つ質問させてほしい。
そういった「『イデオロギー効果』の擬装」は、以下の3つのタイプのうち、
どのタイプまでに有効だとあなたは考えているのかな?
1)もともとそういう考えをもっていた人
2)何も考えてなかった人
3)違う考えをもっていた人
私は 3) には無効だと思う。
そして、1)に関してはそもそも「強化されること」を目的に観ていると思うので、
誘導、擬装云々は、演出としての意味しかないと考える。
一番問題になるのは、 2)に関してだろうと思うが、そんな人が
金をはらって「もののけ姫」をみるかなという疑問はある。
400 :
考える名無しさん:01/10/17 20:55
>>399 なんかいい感じにバトルってるけど・・・
要は「物語は観念に奉仕すべきじゃない」ってことでしょ?。
>>388 >>「共に生きることはできる」というテーゼの是非
>
>さて、ではご要望に添って爺の思うところを書かせて頂こうかの。
〜
>もっとも、それすらいつかは訪れるであろう和解を暗示するものではあるが、「共に生きよう」といいつつも共に行こうとはしないこのエンディングに、微かな望みを(無理にでもいいから)見たいと思う。
>
う〜ん。だいたい同意だね。
(生臭い部分の細部にはいろいろいいたいことがあるが、枝葉末節になるのでやめておく。)
私が書くことが殆どなくなっちゃったよ。
作品の語ったことを、どう扱うかが違うだけのような気がする。
物語のテーマなりメッセージと言うもの自体が、
一つの選択肢の提示に過ぎない
(たとえそれが世間で主流になっている考え方だとしても)
という考えではいけないのだろうか?
「彼らが彼らの問題について下した結論」は認めてあげてもいいんじゃないの?
おなじことを我々がやらなくちゃならない義理はない。
>>381 うーん。
私の認識では、「問題意識 = ネタ」なので。
物語を盛り上げるためには、作品世界に「問題」が存在したほうがいい
↓
問題が解決が難しいほうが盛り上がる
↓
問題のインフレ化
↓
問題は解決できない
といった解釈をしてしまうのだが。
>>400 >要は「物語は観念に奉仕すべきじゃない」ってことでしょ?。
つうか、「物語を観念に奉仕させたら受けるものは作れない」ということなのだが。
受けなくてもいいなら、「物語を観念に奉仕させる」のは作者の自由と思う。
>>394 >いままでわずかながらもあなたの善意を信用していたけど、
>これを読んでマジで胸糞悪くなった。
>↓これだけ露骨なはぐらかしをやっておいて、そういうことをいけしゃあしゃあといえるあなたの
>人間性を疑う。
>
>
>>354 名前:216 投稿日:01/10/14 04:42
>>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
>
>
>>357 名前:217 投稿日:01/10/14 21:57
>>>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
>>「暗示」による「誘導」をあなたがすることはないだろう。
>>「隠蔽」せずに直に言ったら?
>
>
>>359 名前:216 投稿日:01/10/14 23:44
>>>>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
>>>「暗示」による「誘導」をあなたがすることはないだろう。
>>>「隠蔽」せずに直に言ったら?
>>
>>やはり見当は付かぬか……残念だが、致し方あるまい。
>
>
>>362 名前:217 投稿日:01/10/15 00:31
>>だから、「あなた」が、私にそうやって、暗示だけして隠する理由は
>>いったいなにかな?
>>それこそが、「示さないことによってあたかも存在するかのようにみせる誘導」ではないか。
>
>364 名前:216 投稿日:01/10/15 01:06
>>>それこそが、「示さないことによってあたかも存在するかのようにみせる誘導」ではないか。
>>
>>隠しておるように見えるかのう(笑)。
>>奇妙な事じゃ。お主がもし正論足り得ない(異議は簡単だ)と、本当に思うのなら、答えをすで
>にお主は知っておる、ということになる。
>>わしに隠せるはずがあるまい
>
>
>>368 名前:217 投稿日:01/10/15 19:36
>>>わしに隠せるはずがあるまい?
>>隠していというなら、指摘を怠っているということだ。
>
>
>>372 名前:216 投稿日:01/10/15 23:15
>>>>わしに隠せるはずがあるまい?
>>>隠していというなら、指摘を怠っているということだ。
>>
>>既に何を書いているのかすら意味不明じゃのう……。
>>
>>「異議アリ」の見当が付かぬなら、付かぬ、それでもよいし、わかったならさっさと口にすればよい。
>>何を躊躇っておるのじゃ。
>
>
>>377 名前:217 投稿日:01/10/16 20:21
>>>何を躊躇っておるのじゃ。
>>はぁ?
>>「わからない!」
>>
>>ってこと何回言わせれば気が済むの?
……………
………
……このどこがはぐらかしなのじゃ?
まとめてみよう。
1.わしが「お主に分かるか?」と聞く。
2.お主には答える変わりに(なぜだか知らんが)「それは暗示だ」の「誘導だ」の、「むしろお前が言え」と言いだす。
3.しょうがないから、「わからんなら致し方ない」とわしが言う。
4.お主はまたもや「暗示だけで隠している」と言う。
5.わしは「隠しておらん。土台、お前が本当に「わかってる」のなら、隠すことならんじゃないか」と言う。
6.お主は今度は「指摘を怠っている」と言い出す(指摘とはいったいなんのことなんじゃか)。
7.またもしょうがなしにわしは「わかんないなら、わからんでええし、わかったなら早く言え」という。
8.お主は突然「わかんないって何回も言ってるだろ!」と怒り出す(どこで、「何回も言って」おるのじゃ?)
要するに、お主が、本当はわかってないにないにも関わらず、わかってるかのように強弁するから、話がこんがらがったんではないか。
それをはぐらかしてるとは、ようもゆうた。
はぐらかしてるのは、むしろお主じゃ。
胸くそ悪い? 人間性を疑う?
それはお主のことじゃな。
>>395 >>身の程を知れ。
>はぁ?あんた何様?
>あなたのどこに、人様にそんなえらそうなことをいえる
>資格があるの?身の程をわきまえなきゃなんないのはあなたのほうでしょ。
>つきあいきれないよ。
身の程知らずが開き直っとるの。
つきあいたくないなら、つきあわんでもよろしい。
わしは、お前様に是非どうしても付き合って欲しいと、頼んだ覚えはない。
止めたくなったらいつでも止めればよろしい。それが匿名掲示板じゃ。
>>396 >>「反論し得ない」と「異議を唱えるのが難しい」は、まったく別の事柄じゃ!
>>
>ふ〜ん。
>で、その「正論」が、どう問題なの?
今度は不貞腐れかいな。
「正論」の意味がわかればそれで結構。
それがどう問題なのか、ついてはすでに述べた。
さらに質問したかったら、もっと具体的に。
>>397 >だから、それを、真意をただすこともなく、
>いきなり、「根拠付けなく」と断定してしまうところが
>あなたの傲慢さだ。
>「それゆえに」と書いてある文章について「根拠付けもなしに、否定し腐った。 」
>という暴言なぜはけるのかわけがわからない。
>「根拠が不明」、「根拠が不当」、「根拠が間違っている」ならわかる、
>「根拠付けもなしに」ってのは、「それゆえに」という
>日本語の意味が理解できていたらできる回答ではないはずだ。
またしても奇妙奇天烈な理屈を持ち出してきおったのう(苦笑)。
お主が「それ故に」で結んだ前後の文、すなわち、
>正論やらなんやらを語ることも、「面白い」こと
と
>それゆえに、「隠蔽された誘導」などという解釈は無意味
には、正当な論理的連結がなんらみられない。
つまり前文は後文の根拠になってない。
したがって「根拠付けもなしに」という語は正しい。
>そういうことは質問をはぐらかすのを止めてからいってもらおう。
>いまの状態でいくら言っても「盗人猛々しい」としかいいようがない。
わしは質問をはぐらかしてない。
質問をはぐらかしているのお主。
いまの状態でいくら言っても「盗人猛々しい」としかいいようがない。
>>398 >ふざけるな、あんたがまともに答えないからに決まってるだろ。
わしはまともに答えとる。逆ギレはよくないぞ。
>あのやりとりが、「語勢の裏まで読みとる」ような内容か?
お主は、そんなことそれまで一言もいってないにも関わらず、最後になって突然、「わからないって何回も言ってるだろ!」と言い出した。
そんな手前勝手な姿勢を、「語勢の裏まで読みとれ」とダダを捏ねる態度だ、と表現したのじゃ。
>あの展開であそこまではぐらかすことにどんな必要性があるっての?
どうして、わしがはぐらかしているように見えるのか?
不思議じゃ。
わかってるのか、わかってないのか、どっちとも答えず、暗示だの隠蔽だのといって誤魔化そうとするお主。
客観的に見て、はぐらかしているのはお主なんじゃがのう?
>>399 >プロパガンダ映画とかならともかく、商業作品については、
>逆はありえないよ。
>できると考えているひとは多いみたいだけど。
>面白さのために思想を制限することはできても、
>思想のために面白さを制限することはできないだろう。
>目的がなんであれ、映画は見てもらってなんぼの世界だ。
面白さを制限、というのがようわからんのう……。
面白さと思想は別に、常に制限しあう間柄ではない。
プロパガンダであろうが商業映画であろうが、思想は面白さに還元されえるし、作者がなにか思想を訴えるために面白さを利用することもあろう。
これについては最後の方に少々詳しく書いたので、それを見て頂こうかの。
>わかりやすく話してくれる分には、(幼児言葉にするなどの揶揄を使わない限り)怒ったりはしないよ。
>哲学板なんだから、長レスは当然だろう。時間の許す限り書きたいことをたっぷり書いてくれ。
では質問するときには、もそっと具体的に頼むぞい。具体的な質問でなければ答えも散漫になる。散漫になれば、わかりやすくできんからのう。
>そういった「『イデオロギー効果』の擬装」は、以下の3つのタイプのうち、
>どのタイプまでに有効だとあなたは考えているのかな?
>
>1)もともとそういう考えをもっていた人
>2)何も考えてなかった人
>3)違う考えをもっていた人
非常に難しいのう。
考えの有無だけでなく、その考えの深さや、実体験に基づいた「思想の確からしさ」の有無、その他その他、考慮すべきファクターは数多い。
そう単純にはわけられん。
>私は 3) には無効だと思う。
>そして、1)に関してはそもそも「強化されること」を目的に観ていると思うので、
>誘導、擬装云々は、演出としての意味しかないと考える。
>一番問題になるのは、 2)に関してだろうと思うが、そんな人が
>金をはらって「もののけ姫」をみるかなという疑問はある。
3)であっても考え方の深浅、「確からしさ」の度合いによって、有効であろう。
1)が『「強化されること」を目的に観ている』というのはどうじゃろう……人によっては逆に、「これって、イデオロギー化されてるんでは? そりゃまずいっしょ」と思うかもしれん。
2)が見に来ないというのも、どうかのう。単に宮崎アニメである、というだけで見る人が大半じゃろう。
>>401 >物語のテーマなりメッセージと言うもの自体が、
>一つの選択肢の提示に過ぎない
>(たとえそれが世間で主流になっている考え方だとしても)
>という考えではいけないのだろうか?
いけない/いい、という話ならそれは結局お主の考え方次第じゃ。お主の好きにすればええのじゃ。
多くの人にとって、「もののけ」「千と千尋」はそうでなかった、わしはそう思うし、それがなぜなのかをここまで述べてきたつもりじゃ。
>>403 >つうか、「物語を観念に奉仕させたら受けるものは作れない」ということなのだが。
おそらくこれが、お主が得心いかぬ事の中核なのではないかな。
似たようなことは既に書いたが、ある観念(たとえば正論や世間的通念)を物語中で提示されたり、またはそれを物語から嗅ぎ取ったり、誘導されたりして再確認することは、それ自体がまた作品の「楽しみ」であり「面白さ」なのじゃよ。
お主は「物語の面白さ」と「思想・観念」や「正論への誘導」が対立していると考えてるように見受けられるが、だとしたらそれは勘違いであると、わしゃ断言する。
両者は必ずしも対立的ではない。
むしろ、「面白さ」と「思想」に限れば、宮崎アニメのように社会的サブジェクトの強い作品では、「思想」は作品の「面白さ」に重要な位置を占めるものなのじゃ。
413 :
考える名無しさん:01/10/18 02:48
ヒトラーとか戦前の軍部とか田中角栄と同じ
農村社会主義の思想。
結局、エコロジーの連中ってヒトラーのワンダフォーゲル運動
の真似事なんだよ。
「優れた人種には優れた大地、山、川、空気、
そして安全かつ自然な食糧が必要である!」
>>405 >2.お主には答える変わりに(なぜだか知らんが)「それは暗示だ」の「誘導だ」の、「むしろお前が言え」と言いだす。
ここが誤解でしょ。
「むしろ」なんていってない。
「直にいったら」といっているだけだ。
ほのめかしはやめろということだよ。
>1.わしが「お主に分かるか?」と聞く。
この段階ですでに真面目な態度じゃないでしょ。
こっちは、それに調子をあわせてるだけだ。
>>406 >身の程知らずが開き直っとるの。
いうだけならなんとでもいえるね。
>>407 >それがどう問題なのか、ついてはすでに述べた。
うん、ずいぶんはぐらかされたけど、やっといってくれたね。
>>408 >には、正当な論理的連結がなんらみられない。
それは、あなたが認識できないだけでしょ。
あなたが認識できないというだけで論理的なつながりが無いと断定してしまう傲慢さは
どこから湧いてくるのだ?
私が言ったのは、
「正論を語ることは『面白い』こと」であるならば、
正論の提示は「面白さ」のために機能していると解釈するのが自然で、
それを、なそれ以外のんらかの意図をもって、隠蔽しているどという解釈は
邪推ではないのか、ということだ。
正論が「面白くない」のなら、なるほど、隠さなければ受け入れられないかもしれない、
面白い、のであれば、隠蔽や誘導は、演出上の効果としての意味しかもち得ないということだ。
それとも、そういう意味(面白さを増すための演出効果)
で隠蔽や誘導が行われているという
ことが言いたかったのかな?
そういうことなら、「『隠蔽された誘導』などという解釈は無意味 」という解釈はなりたたないが、
あなたの言っている、「隠蔽された誘導」は、そういう意味(つまり私の主張に賛同)
であったのだろうか?
>>409 そっくりそのままおかえしする。
私はあなたにあわせて答えているだけだ。
あなたが私のほうにこそはぐらかしがあるというのなら、
それはあなたがはぐらかしているのを鏡に映してみているだけのことだ。
天に唾吐く行為といえる。
>>410 >面白さを制限、というのがようわからんのう……。
>
>面白さと思想は別に、常に制限しあう間柄ではない。
>プロパガンダであろうが商業映画であろうが、思想は面白さに還元されえるし、作者がなにか思想を訴えるために面白さを利用することもあろう。
後に書いてあるというのでここでは何も書かないでおく。
>非常に難しいのう。
〜
>2)が見に来ないというのも、どうかのう。単に宮崎アニメである、というだけで見る人が大半じゃろう。
困ったねえ。
合意できる部分も出来ない部分もあるけど、この方向で認識をすり合わせるのは大変そうだ。
しかし、この問題を明確にしないと、
「自分で考えたかのように錯覚」という現象の解釈がややこしくなるのだが・・・
仕方が無い、
質問の仕方がわるかったかもしれない、質問を変えよう。
申し訳ないが先の質問は忘れてくれ。
>>387 >それが誘導された結論に過ぎないことを隠蔽すれば、「正論や通念でなくて、自分が自分の頭で考えたこと」であるかのように錯覚されるじゃろう。
>
>誰かに外的に強制された思想ではなく、あたかも自ら考えたことであるかのように擬装したほうが、「イデオロギー的強化」は自然に行うことができる。
「ある作品を見て、ある考えを持つようになった」というのはよく言われることだけれど、
それが、「自分で考えたこと」なのか「作品の隠蔽と誘導にによって自分が考えたように『思い込まされた』」ことなのか、
その区別はつけられるのだろうか?
>>411 >多くの人にとって、「もののけ」「千と千尋」はそうでなかった、わしはそう思うし、それがなぜなのかをここまで述べてきたつもりじゃ。
その問題を、「作品の問題」ととらえるか、
「多くの人」の問題ととらえるかの問題だと思うのだが。
私は、作品ではなくて、「多くの人」の観方の問題があると思う。
作中人物と自分との距離が保てていない。
作中の人物の行動を無条件に「自分」の規範と見なすのは危険な考え方だ。
だから、
>物語のテーマなりメッセージと言うもの自体が、
>一つの選択肢の提示に過ぎない
>(たとえそれが世間で主流になっている考え方だとしても)
>という考えではいけないのだろうか?
というのは、私個人の考えというより、
そういった、「多くの人」の考え方(作中人物の行動を「自分達」の規範とみなす)に対して、
いわば、対案として提示したものだ。
>>412 >おそらくこれが、お主が得心いかぬ事の中核なのではないかな。
〜
>お主は「物語の面白さ」と「思想・観念」や「正論への誘導」が対立していると考えてるように見受けられるが、だとしたらそれは勘違いであると、わしゃ断言する。
現実に、成功している(面白い)物語については対立してるとは見なしていない、
思想が面白さに「迎合している」と考えている。
単に「物語から嗅ぎ取ったり、誘導されたりして再確認すること」が
「面白い」思想を選択(あるいはそのように修正)しているに過ぎない。
むしろ、面白くなるように思想を修正する作業(思想を面白さにマッチさせる作業)が、
物語を作る上での重要なプロセスの一つだと考える。
例えば、あなたは、「共存はできる」という「正論」を「面白い」と思う?
おそらく、「誘導や隠蔽」を解析する作業は「面白かった」であろうと思うけど、
それは、「作品の面白さ」とは違うものだよね。
>両者は必ずしも対立的ではない。
>むしろ、「面白さ」と「思想」に限れば、宮崎アニメのように社会的サブジェクトの強い作品では、「思想」は作品の「面白さ」に重要な位置を占めるものなのじゃ。
>
「社会的サブジェクトの強い作品」がどういう意味なのかわからない。
>「思想」は作品の「面白さ」に重要な位置を占めるものなのじゃ。
この点に関してだけいうと、
もちろん、「思想」は、舞台装置の一つ、あるいは物語の骨組みとして、
作品の「面白さ」に重要な位置を占めている。
つまり、あくまでも「面白さ」を支える「道具」としての存在でしかない。
>>414 >>415 >>419 >「むしろ」なんていってない。
>「直にいったら」といっているだけだ。
>ほのめかしはやめろということだよ。
「むしろ」が「直に」でもなんも変わらんと思うがのう……?
ほのめかしとはいったい、なんの事じゃ。
具体的に頼むぞい。
>>1.わしが「お主に分かるか?」と聞く。
>この段階ですでに真面目な態度じゃないでしょ。
>私はあなたにあわせて答えているだけだ。
つまりお主はわしの態度を不真面目と思い、それに合わせただけだ、というのだな?
なぜ真面目な態度じゃない、と決めつけるのだ。
わしは真面目に聞いたのだぞ。
不真面目に感じたのなら、理由を添えて、不真面目だ、とそう言えばよいと思うのだが。
どうもわからん。
質問したのはわしじゃな?
そのわしが、わし自身の質問に答えないと、どうしてはぐらかしで、どうして不真面目なのだ???
?????
>>417 >それがどう問題なのか、ついてはすでに述べた。
うん、ずいぶんはぐらかされたけど、やっといってくれたね。
また「はぐらかし」か……。
正論の何が問題なのかは、
>>263,
>>264,
>>269,
>>270等で述べているのだが、それはお主も納得したのではないか?
そこでわしは何かはぐらかしをしたか?
「やっといってくれた」とは何の事じゃ???
???
>>418 >>には、正当な論理的連結がなんらみられない。
>それは、あなたが認識できないだけでしょ。
>あなたが認識できないというだけで論理的なつながりが無いと断定してしまう傲慢さはどこから湧いてくるのだ?
論理的なつながりが無いと断定してなどおらん。論理的連結がみられない、と書いてあるではないか。
そして実際に、論理的連結を表す文章を、お主は書いてない。認識しようにも、書いてない文章は認識しようがないぞ。
どこがどう傲慢なのじゃ。
で、ようやくいまここ↓でお主は書いたわけだが。
>私が言ったのは、
>「正論を語ることは『面白い』こと」であるならば、
>正論の提示は「面白さ」のために機能していると解釈するのが自然で、
>それを、なそれ以外のんらかの意図をもって、隠蔽しているどという解釈は
>邪推ではないのか、ということだ。
>正論が「面白くない」のなら、なるほど、隠さなければ受け入れられないかもしれない、
>面白い、のであれば、隠蔽や誘導は、演出上の効果としての意味しかもち得ないということだ。
>
>それとも、そういう意味(面白さを増すための演出効果)
>で隠蔽や誘導が行われているという
>ことが言いたかったのかな?
>そういうことなら、「『隠蔽された誘導』などという解釈は無意味 」という解釈はな>りたたないが、
>あなたの言っている、「隠蔽された誘導」は、そういう意味(つまり私の主張に賛同)であったのだろうか?
正論の提示は「面白さ」のために機能している、もちろんそういう面もあるだろう。だがそれだけではないだろう――これは繰り返し書いてきた。
その正論は実際に作者の意見かも知れないし(わしにはこっちのほうが自然に見える)、物語の行きがかり上の産物かも知れない(この可能性は低いだろう)。
作者の意図がわからない限り、それは詮索してもしかたない。
これがわしの考えじゃよ。
だから演出上の効果、といえばそうも言えるだろうし、それ以上のものといえば、
そういう可能性も大きい。
ところで。
作者の意図は問わない、というのが決まりの筈じゃったが、
>それを、なそれ以外のんらかの意図をもって、隠蔽しているどという解釈は
>邪推ではないのか、ということだ。
という箇所を読むと、どうもお主は、どうしても隠蔽の「意図」を気にせずにはおれんと見受けられる。
じゃから言っておくが、わしは作者に明確な隠蔽の意図があってやったのではないと思うぞ。
だから隠蔽がなぜそこにあるのかといえば、それは偶然じゃろう。偶然存在し、結果的に正論の隠蔽という機能を果たすことになったのじゃろう。
(どんな偶然がそこにあったと考えるかは、リクエストがあれば書こう)
>>420 >「ある作品を見て、ある考えを持つようになった」というのはよく言われることだけれど、
>それが、「自分で考えたこと」なのか「作品の隠蔽と誘導にによって自分が考えたように『思い込まされた』」ことなのか、その区別はつけられるのだろうか?
そうじゃのう……。
脱洗脳……というと、まるで「誘導」が洗脳でもあるかのようで聞こえが悪いが、そういう状態(脱洗脳)になれば、区別はつくことじゃろう。
「正論」が現実にそぐわない場面に出会い、その軋轢のなかでなにか気づくとか、そんなことはあるじゃろう。
>>421 >私は、作品ではなくて、「多くの人」の観方の問題があると思う。
>作中人物と自分との距離が保てていない。
>作中の人物の行動を無条件に「自分」の規範と見なすのは危険な考え方だ。
無条件に自分の規範としてしまうかどうか、それは疑問じゃ。しかしそれは置いておいて、しかし誘導されたのだから、ある程度仕方ないんではないかのう。誰しも誘導されようと思って、アニメ映画を見にゆくわけじゃないからのう。
なので
>その問題を、「作品の問題」ととらえるか、
>「多くの人」の問題ととらえるかの問題だと思うのだが。
と問われるなら、わしは両方の問題だと答える。まあこれも以前に言明したことじゃが。
>多くの人」の考え方(作中人物の行動を「自分達」の規範とみなす)に対して、
>いわば、対案として提示したものだ。
それはそれで、よいのではないか。
わしは受け手の問題、作品の問題、両方あると思うし、就中この両者が出会う市場の問題であろうと思う。一番最初の頃に戻れば、これこそがテキスト主義の問題であって、「誰の」問題というものではない。
また、慎重な手つきが必要だが、作者の問題もあるにはあるだろう(あんまりやる気はせんがの)。
お主が「いや、こんな誘導如きに屈する受け手が悪いのだ。自分は自分、キャラはキャラ」と言うのなら、それは一つの立場として尊重する。わしの立場と絶対的に相反するものでもないしのう。
大いに啓蒙したり、しなかったり、好きにしなされ。
>>422 >思想が面白さに「迎合している」と考えている。
>あくまでも「面白さ」を支える「道具」としての存在でしかない。
また繰り返しになるが、わしは「道具」としての存在でしかない、とは思わないわけじゃな。
作品の全てが「面白さ」に振り向けられるのものとは限らない、……とはこれも以前書いたのう。
>例えば、あなたは、「共存はできる」という「正論」を「面白い」と思う?
質問の意図がようわからんが、
1.それが、主人公が物語の中で生きてきた上での実感であり、それを共感した
という点では「面白かった」。
2.わしはおくとして、大多数の観客にとっては「面白い」ことじゃった。
>おそらく、「誘導や隠蔽」を解析する作業は「面白かった」であろうと思うけど、
>それは、「作品の面白さ」とは違うものだよね。
またこりゃ難しいのう。
誘導や隠蔽があるのは作品の中だ。だからそれは作品の面白さと言えよう。しかし解析はあくまで自分でやったことだ。しかし解析のきっかけ自体は作品のなかにあり……(以下略)。
>「社会的サブジェクトの強い作品」がどういう意味なのかわからない。
■subject
1 (思考・議論などの)主題;問題,課題,話題,論題;(研究・説教・物語・美術作品の)主題,テーマ,題材,(音楽作品の)主題,主楽想(theme);主旋律《 of... 》
社会的に話題になりそうなテーマを盛り込んだ作品、ちゅうところかの。
>>423 名前:216 投稿日:01/10/18 23:29
>
>>414 >
>>415 >
>>419 >
>>「むしろ」なんていってない。
>>「直にいったら」といっているだけだ。
>>ほのめかしはやめろということだよ。
>
>「むしろ」が「直に」でもなんも変わらんと思うがのう……?
はぁ・・・あんたにとっては同じことなんだろね。
バカバカシクナッテキターヨ。
>ほのめかしとはいったい、なんの事じゃ。
>具体的に頼むぞい。
これだ。
>
>>354 名前:216 投稿日:01/10/14 04:42
>>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
>>>1.わしが「お主に分かるか?」と聞く。
〜
>質問したのはわしじゃな?
>そのわしが、わし自身の質問に答えないと、どうしてはぐらかしで、どうして不真面目なのだ???
>?????
その質問事態が不真面目だといってるのだよ。
一対一の議論で「お前に分かるか」は既に相手を見下した態度だろ。
それがわからないあなたの神経がわからん。
あいてがわかるかどうか不安があるなら説明すればよいだろう。
それをえてしない態度が「ほのめかし」でなくてなんだというのだ。
>>424 名前:216 投稿日:01/10/18 23:30
>
>>417 >>それがどう問題なのか、ついてはすでに述べた。
>うん、ずいぶんはぐらかされたけど、やっといってくれたね。
>
>また「はぐらかし」か……。
>
>正論の何が問題なのかは、
>>263,
>>264,
>>269,
>>270等で述べているのだが、それはお主も納得したのではないか?
>そこでわしは何かはぐらかしをしたか?
>「やっといってくれた」とは何の事じゃ???
>???
面倒なのだが、
説明しないとなにか不都合があるのか?
>>425 名前:216 投稿日:01/10/18 23:32
>
>>418 >>>には、正当な論理的連結がなんらみられない。
>>それは、あなたが認識できないだけでしょ。
>>あなたが認識できないというだけで論理的なつながりが無いと断定してしまう傲慢さはどこから湧いてくるのだ?
>
>論理的なつながりが無いと断定してなどおらん。
>論理的連結がみられない、と書いてあるではないか。
>そして実際に、論理的連結を表す文章を、お主は書いてない。認識しようにも、書いてない文章は認識しようがないぞ。
>どこがどう傲慢なのじゃ。
その文ではもちろ断定していない。その文はただのいいわけでしょ。
私が「断定」と判断したのは、以下の文だ、
>となんの説明も、根拠付けもなしに、否定し腐った。
「根拠付けもなしに、否定し腐った。 」は断定ではないのか?
>正論の提示は「面白さ」のために機能している、もちろんそういう面もあるだろう。だがそれだけではないだろう――これは繰り返し書いてきた。
>
>その正論は実際に作者の意見かも知れないし(わしにはこっちのほうが自然に見える)、物語の行きがかり上の産物かも知れない(この可能性は低いだろう)。
>作者の意図がわからない限り、それは詮索してもしかたない。
>これがわしの考えじゃよ。
>
>だから演出上の効果、といえばそうも言えるだろうし、それ以上のものといえば、
>そういう可能性も大きい。
可能性の示唆は無意味でしょ。
あくまでも、「作品が語るっていること」に限定するのが、あなたが提示したルールのはずだ。
>>426 名前:216 投稿日:01/10/18 23:33
>だから隠蔽がなぜそこにあるのかといえば、それは偶然じゃろう。偶然存在し、結果的に正論の隠蔽という機能を果たすことになったのじゃろう。
>(どんな偶然がそこにあったと考えるかは、リクエストがあれば書こう)
偶然であるというなら、そのことを語ることにどんな意味があるというのだ?
>>427 名前:216 投稿日:01/10/18 23:36
>
>>420 >>「ある作品を見て、ある考えを持つようになった」というのはよく言われることだけれど、
>>それが、「自分で考えたこと」なのか「作品の隠蔽と誘導にによって自分が考えたように『思い込まされた』」ことなのか、その区別はつけられるのだろうか?
>
>そうじゃのう……。
>
>脱洗脳……というと、まるで「誘導」が洗脳でもあるかのようで聞こえが悪いが、そういう状態(脱洗脳)になれば、区別はつくことじゃろう。
>「正論」が現実にそぐわない場面に出会い、その軋轢のなかでなにか気づくとか、そんなことはあるじゃろう。
なるほど、了解。
>>428 名前:216 投稿日:01/10/18 23:37
>
>>421 >と問われるなら、わしは両方の問題だと答える。まあこれも以前に言明したことじゃが。
なるほど。
>大いに啓蒙したり、しなかったり、好きにしなされ。
このあたりには大きな隔たりはないようだね。
>>429 名前:考える名無しさん 投稿日:01/10/18 23:37
>
>>422 >>思想が面白さに「迎合している」と考えている。
>
>>あくまでも「面白さ」を支える「道具」としての存在でしかない。
>また繰り返しになるが、わしは「道具」としての存在でしかない、とは思わないわけじゃな。
>作品の全てが「面白さ」に振り向けられるのものとは限らない、……とはこれも以前書いたのう。
私も「全てが」とはいっていない、
「選択」が必要な場合、「面白さ」が優先されるといっている。
その意味において「道具」であるということだ。
例えば、後に書いたけれども、テーマの選択にあたって、
「社会的に話題になりそうなテーマ」が選ばれるというのも、そういうことなわけでしょ。
>>例えば、あなたは、「共存はできる」という「正論」を「面白い」と思う?
>
>質問の意図がようわからんが、
>1.それが、主人公が物語の中で生きてきた上での実感であり、それを共感した
> という点では「面白かった」。
なるほど、この点でも、基本的な認識に大きな相違はないみたいだね。
作品における、
「正論」の意味はそれだけであって、それ以上の意味は無いのではないか。
「自分の考えとは違うけれども作中人物の考えとして共感できる」
というのが、そういった「正論」の物語における機能ではなかろうか。
単純な「勧善懲悪」をはじめとして、物語における「正論」と
いうのは、本来そういう機能のために、不可避的に存在する
ものなのではないか。
>2.わしはおくとして、大多数の観客にとっては「面白い」ことじゃった。
その大多数の観客の「面白い」は、「1.」の「共感」とは性質を異にするものなのだろうか?
>>おそらく、「誘導や隠蔽」を解析する作業は「面白かった」であろうと思うけど、
>>それは、「作品の面白さ」とは違うものだよね。
>
>またこりゃ難しいのう。
>誘導や隠蔽があるのは作品の中だ。だからそれは作品の面白さと言えよう。しかし解析はあくまで自分でやったことだ。しかし解析のきっかけ自体は作品のなかにあり……(以下略)。
いや、「大多数の観客」はそういう解析をしないだろうから、
そういった「面白さ」は、ここでは除外してよいのではないか、
ということが言いたかっただけなのだが。
>>「社会的サブジェクトの強い作品」がどういう意味なのかわからない。
>
>■subject
>1 (思考・議論などの)主題;問題,課題,話題,論題;(研究・説教・物語・美術作品の)主題,テーマ,題材,(音楽作品の)主題,主楽想(theme);主旋律《 of... 》
いや、私も辞書は引いたが・・・
>社会的に話題になりそうなテーマを盛り込んだ作品、ちゅうところかの。
それこそが、「迎合」の最たるものだと思うのだが・・・。
>>430 >はぁ・・・あんたにとっては同じことなんだろね。
やっぱり同じようにしか見えんのう・・・?????
>その質問事態が不真面目だといってるのだよ。
>一対一の議論で「お前に分かるか」は既に相手を見下した態度だろ。
>それがわからないあなたの神経がわからん。
「お前に分かるか!」と会話を拒否していたり、「お前は馬鹿だからどーせわかんないだろ?」と煽っていたりするならまだしも、
>>354>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
と、わしゃお主の存念を聞いとるに過ぎん。
お主がわかるなら説明は省くし、わからないなら説明する。それだけじゃ。
見下してなど、おらんじゃろ?
わしには、
>わしがなぜこれに異議アリとするのか、見当が付くかのう?
と言われただけで、「見下している」と断定するお主が、わからん。
>あいてがわかるかどうか不安があるなら説明すればよいだろう。
>それをえてしない態度が「ほのめかし」でなくてなんだというのだ。
いや、別に不安などないのじゃが……?
>>431 >面倒なのだが、
>説明しないとなにか不都合があるのか?
もちろんじゃ。
なにせ、わしゃ正論の何が問題なのかは、
>>263,
>>264,
>>269,
>>270等で、既に述べており、それはお主も納得していたように見えたでのう。
で、なにが「はぐらかし」で、なにが「やっといってくれた」なのじゃ?
(435の続き)
>その文はただのいいわけでしょ。
いいわけ……? いや、全然。
>私が「断定」と判断したのは、以下の文だ、
>>となんの説明も、根拠付けもなしに、否定し腐った。
>「根拠付けもなしに、否定し腐った。 」は断定ではないのか?
お主が、「根拠付けもなしに否定し腐った」のは事実ではないか。
実際、この文↓のあと、お主は418に到るまで根拠を書いていない。
>>367 >ただ一言いうとするなら、正論やらなんやらを語ることも、「面白い」ことなのじゃよ。多くの人にとってはな。
>もちろん、そのとおり、それゆえに、「隠蔽された誘導」などという解釈は無意味なのだよ。
(435の続き・2)
>可能性の示唆は無意味でしょ。
「作者の意図」となると、なんにしろ、可能性で語るしかないじゃろ?
>あくまでも、「作品が語るっていること」に限定するのが、あなたが提示したルールのはずだ。
もちろんじゃ。
で、作品は、それが「ただ面白さを選択した」(演出上の効果)だけなのか「作者の思想」(それ以上)なのかは、語ってくれん。
作品だけでは、どちらとも決められん、というのがここでのわしの趣旨じゃ。
>>432 >偶然であるというなら、そのことを語ることにどんな意味があるというのだ?
???
よくわからんのう。
偶然だろうが必然だろうが、それが自分に興味のあることなら、人は語りもするじゃろう。
>>433 >「選択」が必要な場合、「面白さ」が優先されるといっている。
>その意味において「道具」であるということだ。
>例えば、後に書いたけれども、テーマの選択にあたって、
>「社会的に話題になりそうなテーマ」が選ばれるというのも、そういうことなわけでしょ。
常に優先されるわけではないと思うがのう。
優先されがちだ、ならわかるが。
だから「面白さにおいて優先された結果」なのか、「作者の思想が反映された結果」なのかは、個別的に判断しなくてはならん。そしてそれは判断できない(作者の意図はいったん度外視するから)。
ゆえに「面白さにおいて優先された結果」(迎合)と断言するのは難しい。と、こうなるのではないか。
ただ、まあ……常識的に判断して、宮崎カントクの過去の発言からしても、「共生の思想」は、「宮崎カントクの思想の反映」であった(かつ「社会的に話題になりそうなテーマ」でもあるが)といっていいのではないか、そうは思うがの。
(439の続き)
>作品における、
>「正論」の意味はそれだけであって、それ以上の意味は無いのではないか。
>「自分の考えとは違うけれども作中人物の考えとして共感できる」
>というのが、そういった「正論」の物語における機能ではなかろうか。
>単純な「勧善懲悪」をはじめとして、物語における「正論」と
>いうのは、本来そういう機能のために、不可避的に存在する
>ものなのではないか。
おそらく、他の多くの映画やアニメにおいてはその通りじゃろう。「もののけ」や「千と千尋」では、どうもそうでない場合が多かったようだ、というのがわしの論点じゃ。
なぜ思うのかというと、その証左としていままで、観客やファン、批評家たちの反応を挙げてきたわけじゃ。
>>2.わしはおくとして、大多数の観客にとっては「面白い」ことじゃった。
>その大多数の観客の「面白い」は、「1.」の「共感」とは性質を異にするものなのだろうか?
ある部分までは同じで、ある部分からは違うんじゃなかろうか。
その「共感」でしかないものが、自分の「実感」にすり替えられてしまったケースが多かったんでは、と推測する。
お主の言う、
>作中人物と自分との距離が保てていない。
>作中の人物の行動を無条件に「自分」の規範と見なす
(
>>421)
この状態に近いやもしれん。
>いや、「大多数の観客」はそういう解析をしないだろうから、
>そういった「面白さ」は、ここでは除外してよいのではないか、
>ということが言いたかっただけなのだが。
「解析の面白さ」は一般的には無かった、ということじゃな。相分かった。
>>社会的に話題になりそうなテーマを盛り込んだ作品、ちゅうところかの。
>それこそが、「迎合」の最たるものだと思うのだが・・・。
繰り返しで相済まんが、「迎合」なのか「マジ」なのかは、わからない――しかし、まあ推測するに、その両方だろう――というのが、わしの考えじゃ。
知覚像がなんたらかんたらだって。