脳が考えているのではない私達が脳を考えているのだ

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1考える名無しさん
今ニーチェのこの言葉で鳥肌たちました。
もうニーチェの虜です。(ニーチェが俺の虜というべきか)
2考える名無しさん:01/09/05 08:03 ID:Xh6pJDHI
「脚が歩いているのではない私たちが脚で歩いているのだ」
これとの違いはどこですか?
3考える名無しさん:01/09/05 09:00 ID:g8XZuYhM
>>2
違いません。
まったく同じです。
4名無し:01/09/05 09:27 ID:h8rwOWu2
>>1
ソースは?
5考える名無しさん:01/09/05 14:52 ID:yZ4sKz4U
「クソスレが1に立てさせるのではなく1がクソスレを立てるのだ」

というわけで百回ぐらい真でくれ。
6考える名無しさん:01/09/10 18:01
なんと言う文献の中の言葉ですか?
7考える名無しさん:01/09/10 18:06
脳が考えているのではない私達が脳「で」考えているのだ

の方がすっきりするけど、どうなのかなぁ?
8考える名無しさん :01/09/10 18:14
>>1
だから、ニーチェのどの作品にかかれてんのよ?
原文でチェックしたいから、言ってくれ。
9考える名無しさん:01/09/10 21:03
>>8
これくらいニーチェでなくても誰でも言いそう。

>>2
マジレスですが「脳が云々」の場合は何か「考える主体」のようなものを
「脳という物質」→「私達の心」へと移したいんでしょうな。

もともと脳という物質に主体があるなんて考えている人が
いるのかどうかかなり疑問だが。
10考える名無しさん:01/09/10 21:07
脳で考えているのではない、私たちはとりあえず考えることが出来、
考える仕組みについての説明として、脳という構造を考えたのだ
11考える名無しさん:01/09/10 21:13
>>10
だからそれは「脳で考えている」というのと
結局どう違うんだよ?同じだろ
12考える名無しさん:01/09/10 21:23
考えているということの条件として、脳という概念と、
それにまつわる説明を持ち出す必要がない。

脳で考えている、と言う必要がないという風に人間は考えられる
はずなのに、それを「認めない」のは、おかしい。
13考える名無しさん:01/09/10 21:24
脳という構造を考えて、いろいろ研究してみたところ、
構造の一部の変化と考えることとの間に、因果関係を見出せた。
因果関係を見出せたので、脳という構造が、考える前提となっていると考えた。

しかしどこまでいっても、考えることは、考える前提としての
説明である「脳」を前提としなくても、可能である。
だから、脳で考えている、のではない。単に考えているのである。
14考える名無しさん:01/09/10 21:25
「脳が考えている」という命題も「考え」のうちの1つ。
つまり脳「を」考えてるってことさ。
15考える名無しさん:01/09/10 21:28
>>13
それと同じ議論で「りんごが落ちるのは「引力」を仮定しなくても
可能である。りんごは単に落ちる。」とも言える。
しかしこれはかなり哲学ドキュソ。

ふつうの人ならばやっぱり「りんごは地球の引力で落ちる」と考える。
16考える名無しさん:01/09/10 21:31
>>15
それがドキュソだと言う君は、科学ができる形成過程を理解していないだけだよ。
17考える名無しさん:01/09/10 21:31
>>15
いんじゃない?
「落ちた」ことから全ての仮定と証明が始まって逝くんだ。
1816:01/09/10 21:31
できる形成過程は 〜の形成過程 に訂正します。失礼しました。
19考える名無しさん:01/09/10 21:32
>>15
普通の人が、いきなり「引力でおちると考えるようになる」と
考えるようになると前提する方が、かなりのドキュソ。
20考える名無しさん:01/09/10 21:33
>>14
だったら「脳が考えている『のではない』」とは言えないよね。
「脳が考えている、かつ脳を考えている」だな。
21考える名無しさん:01/09/10 21:37
>>19
街を歩いている人に「あなたはりんごが落ちる原因は
地球の引力だと思いますか?」と聞いたらたぶん「思う」と
答えるでしょ?
(なんでそんな当り前のことを聞くかと怪しむかも知れないが)
ぜんぜんドキュソじゃない。
22考える名無しさん:01/09/10 21:40
脳が考えているという説明を前提しなくても、考えることができるので、
人間は考えることで「脳が考えている」という概念がない世界認識を
することは、原理的に可能である、と言っているのですが。
別に説明を受けいれるか、いれないかを問題にしているんじゃなくて、
説明を実体化する危険性を注意しているんですよ。
2319 ◆l0DtPXyM :01/09/10 21:41
>>21
(゚Д゚)ハァ?
24考える名無しさん:01/09/10 21:41
>>21
それは中世からそうでしたか?
25考える名無しさん:01/09/10 21:41
学生だったころ,一時はまりました.
随分ひどいかかれようですが,科学用語をレトリックとして
使うあたり,けっこう格好良かったけど.正直,読んでて気
持ちよかった.有能なコピーライターの言葉のように,鮮明
なイメージが沸いてくる.それは確かに学術的ではなかった
オナニーをさせられたり、汗臭いオマンコを顔に押し付けられたり、
汗でぬれたタオルや下着を口の中に押し込まれたり、
足をなめさせられ踏まれたりします。当然、騎乗位でセック
スもやらされます。何人の汗臭い女に犯され、
何回も愛液や唾液を吹きかけられます。犯された
けど,僕は好きだった.学術用語をつかった詩的な表現に,
学問の枠にとらわれない自由な知性を感じていました.
26考える名無しさん:01/09/10 21:42
脳が考えているという説明を前提しなくても、考えることができるので、
人間は考えることで「脳が考えている」という概念がない世界認識を
することは、原理的に可能である、と言っているのですが。
答えるでしょ?
(なんでそんな当り前のことを聞くかと怪しむかも知れないが)
ぜんぜんドキュソじゃない。
別に説明を受けいれるか、いれないかを問題にしているんじゃなくて、
説明を実体化する危険性を注意しているんですよ。
27考える名無しさん:01/09/10 21:42
>>1
だから、ニーチェのどの作品にかかれてんのよ?
原文でチェックしたいから、言ってくれ。
2821:01/09/10 21:44
>>24
中世にはニュートン力学はなかったです。だから何?
29考える名無しさん:01/09/10 21:45
なんと言う文献の中の言葉ですか?
30考える名無しさん:01/09/10 21:55
>>20
だからって、「そうだ」ともいえないでしょ?
だから「考え」の1つってわけよ。
同等じゃない。
3121:01/09/10 21:56
>>19
(゚Д゚)ハァ?  (゚Д゚)ハァ?

>>22
そうですね。考えられた理論を「絶対的真実」だと思うのは
宗教の部類に入る。善悪は別として。
ただ>>1 みたいにこの「脳」の話が普通の科学の問題よりも深い
問題設定であるかのように語るのはつまらないな、と思ったわけ
ですよ。
これからちょっと仕事なんで以後レスできません。すまんっす。
32考える名無しさん:01/09/10 21:58
>>31
私はレッテルを貼ったのではなくて、通常のファシズムの手法を
前提として述べたうえで、その手法をあなたがとっているから、
あなたはファシストだと言える、と言ったまでです。

相手の言説の傾向だけ見て「文化ファシスト」というのと、
同じではないし、少なくともあなたは、レッテル貼りをやった
わけです。
3322:01/09/10 22:22
>>28
ニュートン力学がない状態というのは、現代においてもありませんか?
科学は、生まれてくる人間によって学習され続けなければ、維持されないという
視点はありますか?

理論的には常に「ある理論がある」ではなくて「ある理論を考えている人間がいる」が
正しいです。科学を論ずる方の多くは、なぜか、論証できないこと「理論が「ある」」と
言います(ノーベル賞クラスでも平気で)。これは、間違いです。
341:01/09/10 22:43
>>27
チェックしてないのでわかりません。
ニーチェ語録のようなもので読んだので。
3521(仕事中):01/09/10 23:15
>>33=22
たとえばコンピュータの中の半導体は量子力学の知識を
応用して設計されてますよね。でも、もし「量子力学を知らない
社会」の住人が動かしたとしても、やっぱりコンピュータは
正常に動くだろう。

少なくとも毎日あたりまえのようにコンピュータを使っていながら
「量子力学の知識は普遍的でない」と主張するのはかなりDQNな
気がするな。(「普遍的でないのなら、何で誰が使ってもちゃんと
動くんだ?」ということです。)
3622:01/09/10 23:29
>もし「量子力学を知らない社会」の住人が動かしたとしても、
>やっぱりコンピュータは正常に動くだろう。
科学的な理論は、上記の理論構成をもって反駁される、とは
言ってないです。
その理論が「意識される」側面は、明らかに常に理論に付随しているのに、
それを理論を語る際に除外しているのが、間違いだといっているのです。
あと、コンピュータが正常に動くのは、量子力学の理論が
「コンピュータを正常に動かせる技術を支える程度の」正しさを
持っているという根拠にしかなりません。そうした事柄を、
脳についての説明との類比に用いるのも、おかしいです。

>少なくとも毎日あたりまえのようにコンピュータを使っていながら
これは論じ方としては非常に好ましくないやり方なので止めたほうが
いいですよ。お世話になっている人間は、お世話になる元になった
見解に従うべき、は、理論の正しさと関係ないでしょう。

>「普遍的でないのなら、何で誰が使ってもちゃんと
>動くんだ?」ということです。)
この意味での普遍性(理論的正当性と言うべきですが)は、
否定していません。
37考える名無しさん:01/09/10 23:42
なぜか始祖鳥スレを思い出したよ。
38考える名無しさん:01/09/10 23:44
なんで僕の内心の問題に話が移るの?
正直に答えた、というのは正直であることの証明にならないことくらい
君はバカじゃないんだから、わかっているんだろ?
なんで確信犯的にいいかげんなことを言う?

僕の人間性の単調さがにじみ出ている、と、カキコ1つで判断するわけだ。
ずいぶん傲慢な判断だね。自我とは多面的? 多面的であることを
意図する自我は多面的なのかね? 齟齬を是正する必要性の
話をしていることを、必然性にすりかえるのはやめてくれないかね?
3921(仕事中):01/09/10 23:53
>>36
>お世話になっている人間は、お世話になる元になった
>見解に従うべき

なんて言ってはいないつもりです。単に量子力学は誰でも使う
ことのできるコンピュータを設計できるのだから、それくらいの
プラグマティックな普遍性は認めるべきだと言っているだけで。
これに関しては意見が共通しているらしいので問題ないです。
ノーベル賞の物理学者とかが言っているのもその程度の実用的な
普遍性のことだと思いますよ。というかまあ我々の日常見る世界は
みんなその「実用的普遍性」に支えられてるわけだしね。

「意識される側面」はまあその通りで、だから脳に関して言っても
「私が脳を考えている」というのはもちろんそうです。ただそれと
同時に、上記の科学的世界観から「脳が考えている」と結論するのも
否定できないと言っているわけです。
40SMプレイ:01/09/11 00:16
つうかどうよ、
「ニーチェが俺の虜」
この文章だけでこのスレはすばらしいと思わないか?
41考える名無しさん:01/09/11 00:22
>脳が考えているのではない私達が脳を考えているのだ

そんなことはニーチェは言っていない。養老孟司の唯脳論にだいぶおかされてるのかな?
ニーチェは身体と精神という単純な二元論は排除している。

最近の脳研究者の中には、この自己言及の矛盾に
いずれ陥ると予想している人も多いね。
42考える名無しさん:01/09/11 00:24
>>41
>脳が考えているのではない私達が脳を考えているのだ

これだけで二元論をとったと判定できる論拠は?
43考える名無しさん:01/09/11 00:27
>>41
言ってそうな気もするがなあ・・・
案外ニーチェって粗忽だから(笑
4421:01/09/11 01:27
22さんの意見返って来なくなったなあ・・・
まあ、いっか。

ニーチェは断章家だからよく見ると変なこともたくさん言ってる(w
わたしはディオニソスだけれど前世では仏陀だったりするんだよな。
4522:01/09/11 09:21
>>44
レス返さなくて、すみません。

>>39
>お世話になっている人間は、お世話になる元になった
>見解に従うべき なんて言ってはいないつもりです。
私が言い換えをした部分だけ引用するのは、ちょっとずるいですね。
「「毎日あたりまえのようにコンピュータを使っていながら」量子力学の知識は
普遍的でないと主張するのはかなりDQN」では、〜つもりと言ったところで
なんの説得力もないです。コンピュータを使う人間が、コンピュータを支える
理論について口出しするなという風に読むのが素直でしょう。

コンピュータを設計できる云々については、理論的な整合性の問題として
「科学的な理論は、上記の理論構成(脳を考えている)をもって反駁されるとは
言ってないです」と述べました。私が述べているのは、理論の「説明としての」
正当性にかかわる判断についてではなくて、理論によって言える範囲についてだけ
言及すべきである(説明であることを認めるべきである)、そうでなければ、
理論として間違っているのは明らかだ、ということです。

すでに述べましたが、考えているということを言うために必要な要件は、
考えていることだけです。脳研究に基づいて説明された「働き」に基づいた
説明を前提する必要はありません。すでにこの段階で「脳が考えている」というのは
間違いです。単に「考えている」ことは分かっているため、分かっていることについての
説明を考えるという順路をたどったという因果的な経緯は覆せず、そうした経路をたどら
ないである構造が把握できているかのようにいうのは、明らかに科学的に見て間違いだからです。
また、脳という構成に限定して、「考える」というはたらきを認識しなくてはならない必然性が
ないからです(理論的正当性は、常に論証されて確保されるのです)。
そして、脳についての説明は、まるで考えるという機能について「完全に」説明できている
かのように思われがちですが、実際には「脳についての説明」からは、考えられることは、
導かれないからです。現に考えていることがあり、それを脳についての説明が前提している
からです。

実質的にも、還元主義的に脳をもっと細かい単位で構成的に理解する段階がいずれ
来るときがあるとすれば、脳で考えているという構成が不適切であるといえる、
理論上の可能性はありえます。現在までの段階であっても、脳という構成として
あらわされている対象が、色々なはたらきをもつ構造であるということが分かった場合、
はたらきごとに構成を見直し、ある部分だけが「考える機能を生じさせる条件として
はたらいている」と説明できる場合は考えられます(私が言っているのは、現にそういう
説明がなされるかどうかの蓋然性の話ではなくて、原理的な可能性の話です)。もちろん
脳以外の部位が影響しているということもありえます。
それがXと定義されれば、Xが考えていると言えるので問題ないというのはナシですよ。
今の段階で脳が考えていると言える、と>>39さんは言っているのですから。
重要なのは、こういう説明ができる理論上の可能性を、ある総合的な構成(脳)をはなから
認めることで、失わせるはたらきがあるということ、さらに、常にそうした原理的な可能性が
あること自体が、総合的な構成を実体的な対象としてあるとみなす認識が間違っていると示している
点にあります。例えば、本があるという表現を、誰もおかしいとは思いませんが、これは、
本という構成を経験的に承認しているからです。実際には、これは紙と糸と糊とインクです、というのが
正しいです。いや、炭素と・・・いや、分子と・・・いや、原子と・・・
これらのうち、「上位の段階」は、常に構成的に理解されていることはわかると思います。
ところで、構成的に理解されない段階というのは、原理的に確認できないでしょう。

脳が考えているのではなくて、常に「考えられている」ことはわかっており、それが生じる条件に
ついて調べたところ、条件になる部位が見つかり、見つかった部分の「ある構造」が考えるという
はたらきを生み出していると説明され続けている」のです。
「脳が考えている」という構成は、ある対象についての説明を、対象に付着させているということに
自覚的でない表現なのです。
4621:01/09/11 21:12
>45
>・・・するなという風に読むのが素直でしょう。

それは違うなあ。「あなたは日常いつでも・どこでもコンピュータが
動くことを確認している。それはいつでも・どこでも量子力学の原理が
正しく成り立っていると判断しうる証拠を見ていることである」という
意味ですが。
まあこれは本題とは関係ないからどうでもいいです。
「DQNなんて議論する時に使うべき言葉じゃない」と言うのなら、
それはそうかも知れないけれどもね(w

経路をたどって云々は、全く賛成です。でもそれは科学的知識一般に
ついて言えることでしょう?「日本の首都は東京です」という代りに
「日本の首都は東京であると、わたしの経験及び思考から結論付けられ
ます」なんて一々言わなければならないのですか?
我々は通常「日本」とか「東京」というものがあたかも客観的実在で
あるかのように語っているのであって、それと全く同等の権利をもって
「脳が考えている」と言うことができる、と言っているわけです。

((「東京」が「実在」するなんて主張するのは嘘だとか何だとかいった
意見もまああるだろうけれど・・・僕としては実はそれは別に
どうでもいい。前も書きましたけれど本当は僕は単に、この脳の問題が
「通常の科学的命題」以上に重要な問題性をもつように考えるのは
つまらない、と言いたいだけなんですけどね。))

脳の働きの認識に関してあなたの言うように科学的に進歩や変化が
あるだろうことは僕もわかります。でも上述の意味での「脳が考えている」
(=あなたの言葉での「脳が考えていると説明されている」)
という命題が、否定ないし肯定される
(=「その説明が説得力のないものだと思われるようになるorならない」)
のはあくまでも大脳生理学の問題であって、哲学の問題では
ないですね。従って

>そうした原理的な可能性があること自体が、総合的な構成を実体的な
対象としてあるとみなす認識が間違っていると示している

というのが、僕にはわかりません。科学的に他の説明があり得るという
ことは純粋に科学内部の問題です。



追。「考える」ということは科学的認識「以前」だから、
科学的命題にその「考える」ということが出てくるのはおかしい、
というのならそれはたぶん間違いです。
実際に科学実験であなたの脳に電極を差し込んだらあなたの思惟は
たぶんはっきりと電気信号に左右されます。だから原理的には
科学の分野にも「思考」というものがじゅうぶん出て来うる。
更にその操作を精密にしてあなたの思考をあやつれるように
なるかどうかは、くどいですが大脳生理学の問題です。
だから「脳が考えているというのは生理学的にはまだ確かとは
言えない」という主張なら、僕もいちおう賛成です。

長レスすんまそん。
47名無しさん:01/09/11 22:45
>>15
 どっちかというと、

りんごは落下する。――観測事実
落下するものは力に引かれるからである。――前提もしくは仮説
この力を引力となずける。――定義

という思考過程を経ているから、「りんごは引力で落ちる」といってよいが、概念上
の関係は、説明項は「りんごは落ちる」で被説明項が「引力」、引力がある、という
事がりんごの落下を説明する(この場合引力が説明項で落下が被説明項)のではない、
事に注意。
4822:01/09/12 19:20
>>46
>経路をたどって云々は、全く賛成です。でもそれは科学的知識一般について言えることでしょう?
>「日本の首都は東京です」という代りに「日本の首都は東京であると、わたしの経験及び思考から
>結論付けられます」なんて一々言わなければならないのですか?
>我々は通常「日本」とか「東京」というものがあたかも客観的実在であるかのように語っている
>のであって、それと全く同等の権利をもって「脳が考えている」と言うことができる〜
説明の手間をかけるのがどうという話をしているのではなくて、説明の理論的な正当性を問題にして
いるのですから、上の例示は、主張において強調すべきポイントがずれています。
実際にそのような思惟の経緯をたどったことは、確実にあるので、また、それがあとから学ぶひとに
よって繰りかえされなければ、理論が成立しない性質のものであるので、そうした部分のことがらも
理論に含めないと、科学的な理論を形成できたことの説明として不十分である、また、そうした思惟の
経緯は、理論を突き詰めていくと、必ず行き当たる性質のものである(権威的に科学的言説を押し付け
ないなら)と言いたいのです。
東京というものが、あたかも客観的実在のように語られているといっていますが、それは単にある
地域が人間によって命名され、それに従う合意が出来ているだけです。
実在の認識と、それへの命名という段階が区別されていません。

>「東京」が「実在」するなんて主張するのは嘘だとか何だとかいった意見もまああるだろうけれど・・
>僕としては実はそれは別にどうでもいい。
>前も書きましたけれど本当は僕は単に、この脳の問題が「通常の科学的命題」以上に重要な
>問題性をもつように考えるのはつまらない、と言いたいだけ
自分で例示して(論点を作って)それを元に相手の見解を批判しておいて、どうでもいいというのは、
「自分にとって興味がないから、その部分が理論的に自分が関心を持っている領域に関わってくる
 問題があると指摘されても、科学的理論には影響しない」と言っているのと同じです。これは
科学的な態度なんでしょうか。あと、重要性は論じられた結果として出てくるものです。
つまらないというのはただの感情の吐露です。
4922:01/09/12 19:20

>でも上述の意味での「脳が考えている」(=あなたの言葉での「脳が考えていると説明されている」)
>という命題が、否定ないし肯定される (=「その説明が説得力のないものだと思われるようになる
>orならない」)のはあくまでも大脳生理学の問題であって、哲学の問題ではないですね。
これだと、大脳生理学の問題だから、脳が考えているという命題の正否が大脳生理学によって決まると
言っているだけです。「従って・・・」以降に、説明が書いてあるのに、それに触れられていないのは
なぜですか?

>追。「考える」ということは科学的認識「以前」だから、科学的命題にその「考える」ということが
>出てくるのはおかしい、というのならそれはたぶん間違いです。
>実際に科学実験であなたの脳に電極を差し込んだらあなたの思惟はたぶんはっきりと電気信号に
>左右されます。だから原理的には科学の分野にも「思考」というものがじゅうぶん出て来うる。
>更にその操作を精密にしてあなたの思考をあやつれるようになるかどうかは、くどいですが
>大脳生理学の問題です。だから「脳が考えているというのは生理学的にはまだ確かとは言えない」
>という主張なら、僕もいちおう賛成です。
まず、こういう場合に「あなた」の脳に電極をさしたら、とかいうのは、私にとっては愚弄ですし
(入れられて気分が悪いのは明らかなのに、わざわざそうした例示を選ぶのは悪趣味です)、
理論的な正しさを主張したい以外の意図が感じられるので、止めるべきです。

実際に人間の脳に電極を差し込んだら・・・という説明が、実際に成り立つであろうことは、私も同意
します。何度も言いましたが、私は、科学的説明を実体化する・対象に説明を付着させること、が、
科学的でない、といいたいだけなのです。結局のところ、上の理論を説明するのは、絶対に電極を
差し込まれていない人でしょう。その人がいなければ理論はありません。
私の思考が操作される、その「脳」に当たる部分は、本のたとえで書いた通り、常に構成的に
理解されています。構成的に理解されているなら、脳と名前をふった構造について説明されうるだけで
「脳」というまとまりが考えている、と言えるようになるわけではないです。

私の意図は、説明に権力性を持たせることを排除することにあります。科学の名の元になされる
非科学的な言説の社会的な影響を考えたうえで、科学者は、非科学的な言説が社会に流布しても
一般の人が対応がとりやすいような構成(科学的な手法・経緯に従った構成)を、あらかじめ、
理論を「語る」上で、とってほしいと考えているのです。脳が考えているという言い方は、
脳について説明している人間がいるという視点が抜け落ちているので、それにまつわる説明が、
「対象そのものの説明」として理解され、「対象を観察して得た論証」として理解されないうらみが
あるのです。
50考える名無しさん:01/09/12 19:50
申し訳ありませんが はい! 意識こそ自我ではないでしょうか?
51考える名無しさん:01/09/12 19:59
>>50
それだけじゃ、いまいち要領をえない。
5221:01/09/12 23:44
>47
そうですね。「りんご」ではなくて「みかん」にすれば
よかったかな(笑

>48-49
あなたはよく「こういう議論の仕方はやめるべきです」とか言うけれども・・
僕だってそれなりに真面目にレスしているつもりなのだからね。あまり本筋と
関係のない議論を増やさないでほしいです。
この場合は、「人間が」というと何となく3人称になるので「あなた」と
言ったまでですけど?思惟は常に1人称の自分の思惟でなくてはならない。

そっか、今まであなたのことを>>24だと思い込んでました。それでちょっと
話がずれていたかもしれない。僕がもともと言いたかったのは>>31でして、
「脳の問題を普通の自然科学の問題以上に重視するのはつまらない」です。
(「つまらない」という言葉は僕の中では「論理的に不当である」と
 等価です(笑)実は哲学よりは文学の人間でして。すみません)

で、あなたが「中世ないし我々と異質の社会では物理学は成立たない」
と主張しているように思ってしまったので、自分の本題とはずれるけれども
それは違うなと思って、「少なくともプラグマティックには普遍的である」
と言った・・・という経緯なわけですね。

あなたのレスを読む限り「脳の命題が他の命題よりも重要なわけではない」
ということに関してはそれほど異論がないように見うけられます。
(違っていたらごめんなさい。違っていたらそう言ってください。)
だから残る問題は、>>15で僕が「ドキュソ」と言ったことについての
申し開きをしなければならないということです(笑
5321:01/09/12 23:44
何度も言いますが「科学的説明を実体化する・対象に説明を付着させること」
が論理的に不当であるというのは僕は完全に賛成です。でもそれが「科学的
でない」というのには不賛成です。(人文科学は知らんが)自然科学というのは、
たとえ論理的には不当であってもそれがいつでも・どこでも成り立つものならば
それを肯定するという、極めてプラグマティックなものだからです。
(自然科学的認識というのは論理的に成り立つはずはないのに、なぜか成り立って
しまうものだというのはアインシュタインが言っていますね。)だから

>科学者は、非科学的な言説が社会に流布しても一般の人が対応がとりやすい
>ような構成(科学的な手法・経緯に従った構成)を、あらかじめ、理論を
>「語る」上で、とってほしい

というのは自然科学というもののいわば過大評価であることになる。それは
科学者にはできないし、する必要もない。(それを語ろうとすると、
「なぜ論理的に不当なはずの理論がいつでも・どこでも成り立ってしまうか」
についても論じなくてはならなくなる。そしてそれは「わからない」としか
答えようがない。)

で、あなたはそこにある種宗教的な「権力性」を見ようとする。僕はそうは思わない。
これはある意味では単に趣味の相違の問題です。ただ僕に言えるのは、まず第一に
我々はたぶん誰でも現に、ここにある本とか何とかいった物理的対象を客観的実在である
かのように見なして行動している。その意味で物理学者と同じ轍を踏んでいる。
第二に、それがある種「宗教的」であることは認めるにしても、「権力性」というのは
違うんじゃないかなあ?という気がする。自然科学というのは現状では基本的に自分の
守備範囲の中だけで行動していて、それを越権することは比較的少ない気がする。
(つまり、自然科学的な「脳が考える」という命題はもし仮に将来それが大脳生理学で
否定されたらそれを信じる人は僕も含めいなくなるでしょうね。況やその命題をもって
あなたの経緯云々の説を否定してくる人は、少なくともまともな科学者の中にはいない
でしょうね。)
むしろ哲学の方が、「科学的な「脳が考える」という命題」をアプリオリに否定するという
(ないしはこれに類似した)越権行為をよくしている気がします。

あなたの意見に関して僕がどこか誤解していたらごめんなさい。
54チンポ太郎:01/09/12 23:45
チンポです。問題の核心はチンポにあります。
55すずらん:01/09/12 23:49
なるほど…。
私はニューラルネットには入力信号を写像変換する以外の能力
は無いと考えているのですが、心脳問題さんはそれ以外の能力
があると考えていらっしゃるのでしょうか?

つまり、私は確かに「それも写像に過ぎない」と言ったのですが
心脳問題さんはネットワークにそれ以外のものがあると言うことを
暗に意味しているように取れるのですが。

私は物理をやってるものですので、比較して語りますが
例えば、月は地球の周りを回っていますよね(等加速度運動)。
何故回っているのかと言えば、月と地球が引っ張りあっているから
なわけですよ。運動の原因には引力と言う原因があるわけですよ。
同様に、ニューラルネットがあるパターンを示したときに私の意識に「赤が認識される」としてその原因がないのではないか?
と言う問題意識なのですが。         
5621:01/09/12 23:50
私が言い換えをした部分だけ引用するのは、ちょっとずるいですね。
「「毎日あたりまえのようにコンピュータを使っていながら」量子力学の知識は
普遍的でないと主張するのはかなりDQN」では、〜つもりと言ったところで
なんの説得力もないです。コンピュータを使う人間が、コンピュータを支える
理論について口出しするなという風に読むのが素直でしょう。

コンピュータを設計できる云々については、理論的な整合性の問題として
「科学的な理論は、上記の理論構成(脳を考えている)をもって反駁されるとは
言ってないです」と述べました。私が述べているのは、理論の「説明としての」
正当性にかかわる判断についてではなくて、理論によって言える範囲についてだけ
言及すべきである(説明であることを認めるべきである)、そうでなければ、
理論として間違っているのは明らかだ、ということです。

すでに述べましたが、考えているということを言うために必要な要件は、
考えていることだけです。脳研究に基づいて説明された「働き」に基づいた
説明を前提する必要はありません。すでにこの段階で「脳が考えている」というのは
間違いです。単に「考えている」ことは分かっているため、分かっていることについての
説明を考えるという順路をたどったという因果的な経緯は覆せず、そうした経路をたどら
ないである構造が把握できているかのようにいうのは、明らかに科学的に見て間違いだからです。
また、脳という構成に限定して、「考える」というはたらきを認識しなくてはならない必然性が
ないからです(理論的正当性は、常に論証されて確保されるのです)。
そして、脳についての説明は、まるで考えるという機能について「完全に」説明できている
かのように思われがちですが、実際には「脳についての説明」からは、考えられることは、
導かれないからです。現に考えていることがあり、それを脳についての説明が前提している
からです。

実質的にも、還元主義的に脳をもっと細かい単位で構成的に理解する段階がいずれ
来るときがあるとすれば、脳で考えているという構成が不適切であるといえる、
理論上の可能性はありえます。現在までの段階であっても、脳という構成として
あらわされている対象が、色々なはたらきをもつ構造であるということが分かった場合、
はたらきごとに構成を見直し、ある部分だけが「考える機能を生じさせる条件として
はたらいている」と説明できる場合は考えられます(私が言っているのは、現にそういう
説明がなされるかどうかの蓋然性の話ではなくて、原理的な可能性の話です)。もちろん
脳以外の部位が影響しているということもありえます。
それがXと定義されれば、Xが考えていると言えるので問題ないというのはナシですよ。
今の段階で脳が考えていると言える、と>>39さんは言っているのですから。
重要なのは、こういう説明ができる理論上の可能性を、ある総合的な構成(脳)をはなから
認めることで、失わせるはたらきがあるということ、さらに、常にそうした原理的な可能性が
あること自体が、総合的な構成を実体的な対象としてあるとみなす認識が間違っていると示している
点にあります。例えば、本があるという表現を、誰もおかしいとは思いませんが、これは、
本という構成を経験的に承認しているからです。実際には、これは紙と糸と糊とインクです、というのが
正しいです。いや、炭素と・・・いや、分子と・・・いや、原子と・・・
これらのうち、「上位の段階」は、常に構成的に理解されていることはわかると思います。
ところで、構成的に理解されない段階というのは、原理的に確認できないでしょう。

脳が考えているのではなくて、常に「考えられている」ことはわかっており、それが生じる条件に
ついて調べたところ、条件になる部位が見つかり、見つかった部分の「ある構造」が考えるという
はたらきを生み出していると説明され続けている」のです。
「脳が考えている」という構成は、ある対象についての説明を、対象に付着させているということに
自覚的でない表現なのです。
57考える名無しさん:01/09/13 02:22
>>55
コピペ厨房ですか?同じ発言何回も見てるので。
58反心脳同一説論者:01/09/13 15:00
ヨコレスですが
>>46>前も書きましたけれど本当は僕は単に、この脳の問題が「通常の科学的命題」
>以上に重要な問題性をもつように考えるのはつまらない、と言いたいだけなんです
>けどね

 私は、心と脳の関係の問題は、通常の(科学が物理科学を中心とするとして)科
学的問題(命題ではない)とはまったく異質な問題だ、と強く主張します。
 何故なら、物理学等では、法則・関係の両項は何れも物理量です。例えば、「然々
の物体に斯く斯くの運動エネルギを与える」ならば「これこれの速度でその物体は
運動する」であり、その観測報告も物理量がその基準です。

 ところが、心脳問題については事情がまったく異なります。「脳が斯く斯くの状態
にある」ならば「被験者は怒りを感じている」とか(将来的には)「恋人のことを考
えている」とか、といったように法則化されるものでしょう。
 しかし、「脳が斯く斯くの状態にある」は観測機械によって測定される種のもので
するが、「恋人のことを考えている」ことは物理量ではなく被検者の報告によるもの
です。まして、「怒っている」は被験者の報告は勿論、彼/女の置かれた状況、社会
的慣習等々様々な要因からの推定事項に過ぎません。
(対して、もし、「怒っている」とはアドレナリンの上昇等々、というなら、それは
「物理的(生理的)怒り」という新たな概念を創出・定義し、それと脳状態との法則
的連関性を論じているに過ぎません。即ち、それは、我々が現に使用している「心」
という語が意味するものと脳との関係を論じているわけではないのです。)

 要約すれば、心脳問題においては、一方は物理的観測可能な物理量であるのに対し
て、他方は物理的観測には依拠しない非物理量なのです。
59反心脳同一説論者:01/09/13 15:05
 実は心脳問題は、物理科学が扱うかなり多くの(或いは、すべての?)
領域に関わる、未だ未解決な問題です。

 例えば、物理学は「赤さ」について未だ全く何も答えられていません。
物理学は、一見「が赤である」と言うかのように思われます。(或いは
現にそう述べているかもしれない。)しかし、実情は、「波長何Å〜何
Åの間の光波が目に入ったとき(正常な状況下での正常な)人は赤い」
と報告する、という事に過ぎません。ここでは、まず、人が見えている
「赤さ」(感覚質)について、物理学は何も触れられていません。

 第二に、物理学に限定するならば、上記のような文章も受け入れられ
ないはずです。記されるのは、変数と定数と操作(函数等)だけだから
です。物理量として観測されるのは、報告者の音声「AHzの音波――
BHzの音波――CHzの音波」であり、それが「a−k−a−i」と
いう音素として識別されるのも、更にそれが「赤い」という有意味音=
語として識別されるのも、人間の認識作用において、即ち心において、
です。物理量ではなく、物理学が直接扱えるものではないのです。

 という事は、我々が見たり聞いたり触ったり味わったりするすべての
ものについて、物理学は何も語っていない、という事になります。我々
の生活世界・意識にたち現れる世界は未だ物理学の対象にすらなっては
おりません。
 物理学は、物理量だけの世界についての法則記述を行っているのです。
これは、近代物理学はデカルト空間を扱い、デカルト的態度(思惟実体と
峻別された延長実体とその属性をそのものとして扱う)をとっている、
という事に他なりません。
6021:01/09/13 23:40
>>58-59
こんな長いレスばかりのスレ、わざわざ読んでもらえたんですね(笑
ありがとうございます。

初めの方は「そうだなあ」とか思いながら読んでいたのですが、途中から
おや?と思うようになって・・・

>我々の生活世界・意識にたち現れる世界は未だ物理学の対象にすら
>なってはおりません

というところですが、
自然科学者はある波長の光(約700nmだそうです)が赤い色である、という
ようなことを言います。これは「700nmの光を「赤」と定義する」ということ
のみを主張しているのではないですよね。少なくとも彼としては「我々が感
じる「赤」という色は、約700nmの光に対応する」と主張しているわけです。
脳にしたって「ここが視覚の中枢だ」というときにはその部位の電気信号が
「私の視的感覚」とつながっているということを明らかに主張しています。
だからその当否は別として、自然科学者の言うことは我々の感覚的世界を
対象としようとしていることは確かな気がします。

従ってたぶん反心脳同一説論者さんの言うことは、その科学者の仮定(自然
科学は我々の感覚的世界を対象としうる)が不当だということなのだと思い
ます。そして、その意見には僕はもちろん賛成です。(そもそも私にとっての
「赤」と、他の人にとっての「赤」とが「おなじ」赤であるかどうかさえわか
らない・・というのは哲学がよく問題にするところですよね。)
僕の書いたレス(>>53など)を読んでいただければわかる通り、僕の主張は
「自然科学は論理的に不当なものであってもそれが実効性を持つ限り、
それを肯定するものである」です。(実際に700nmの光を見るとかならず何か
赤い感じがする。そしてそれは他の人もそうであるらしい。)

自然科学の認識が論理的に不当であるというのは、我々の感覚に限ったこと
ではありません。「ここにある本」なるものを客観的対象として措定して
しまうことさえ(つまり普通のニュートン力学さえ)すでに不当なのだと
僕は思います。だからその意味で我々の思惟・感情に関する認識と、その他
の自然科学的認識との間に特別な差異はない(どうせどちらも不当なのだから)
という気がします。
61考える名無しさん:01/09/13 23:47
>>1
木城ゆきとのマンガ『銃夢(ガンム)』を読んでみるといいよ。
62名無しさん:01/09/14 02:49
>少なくとも彼としては「我々が感じる「赤」という色は、約700nmの光に対応する」
>と主張しているわけです。
経験的に、「「赤」と我々が言う色と約700nmの光が対応する」、という主張は広義での
自然科学の主張として認めます。しかし、対応する、若しくはより正確には、「〜が入射したときそ
のときに限り、被検者は、赤いと報告する」は正しくとも、だからといって、「約700
nmの波長の光と赤とが<同一>だ」、などどいきなり結論されてはかなわない、と
いうことです。物理学界における同一性定義は知りませんが、少なくとも哲学界における
同一性概念は必然的同一性であり、従って、経験的に例外ナシの随伴現象間の関係をのみ
もってしては到底両出来事間の同一性を言い立てることは哲学的には不可能である、
というのが、私の主張です。

>その科学者の仮定(自然科学は我々の感覚的世界を対象としうる)が不当だということなのだと思い
>ます。そして、その意見には僕はもちろん賛成です。
当然、というほかありません。但し、60さんがこういう見解に同意なさったのは聊か意外
かつ喜ばしいことです。

>僕の主張は
>「自然科学は論理的に不当なものであってもそれが実効性を持つ限りそれを肯定す
>るものである」です。

科学史的には60さんの上記引用は事実認識としてそのとおりです。
科学哲学的には、「肯定する」が道具主義的肯定ならば哲学徒として異論ありません
が、同一性についての形而上学的肯定であるならば断固Nein!という他ありませ
ん。

>自然科学の認識が論理的に不当であるというのは、我々の感覚に限ったこと
>ではありません。「ここにある本」なるものを客観的対象として措定して
>しまうことさえ(つまり普通のニュートン力学さえ)すでに不当なのだと
>僕は思います。だからその意味で我々の思惟・感情に関する認識と、その他
>の自然科学的認識との間に特別な差異はない(どうせどちらも不当なのだから)
>という気がします。
 上記の発言を字面どおりにとるかぎり、特段、異を唱えるに足る問題点は無い、と
私は思います。但し、その様に解釈された限りでの60さんの見解を支持する(特に
心脳問題に積極的に発言する)自然科学者はごく少数だ、と推定しています。
6321:01/09/14 18:40
>62
>・・自然科学者はごく少数だ、と推定しています。

というのはたぶん物理学者を軽蔑しすぎじゃないかなあ。まあ
物理学者一般がどう考えるかというのはあくまで推定の域を出ない
けれど・・・僕は自然科学に関してはそれ以外の考えはあり得ない
と思っているので、まともな物理学者ならそう考えているはずだと
推測します。再び引用しますがアインシュタインは「自然科学の
法則が成り立ってしまうということ自体とても不思議なことだ」
という趣旨のことをはっきり言っていたと思います。

で、もし自然科学者(厨房物理君を相手にしても仕方がないから、
アインシュタインあたりを想定しましょう)に対して「自然科学の
法則はみな道具的・実用的なものだ」といったら「そうだ」と
答えるでしょう。自然科学は徹頭徹尾、道具的なものです。
更にもし「自然科学はあくまで道具的であって哲学的な正当性はない
から、たとえばこの石の運動について何も言明できない」と言ったら
「それは違う」と答えるでしょう。「仮に正当性はなくてもそれは
『なぜか』成り立ってしまうものであって、少なくとも実用的な
連関の中では有用なものなのだ」と言うでしょう。それと同様に、
「自然科学は我々の直接の経験的な世界について何も言及できない」
と言ったら「それも違う。700nmの光は(なぜかは知らないが)実際
に常に私に「赤い」という印象を起こさせるのであって、また更に
不思議なことにそれは他の多くの人にとってもそうであるのだ。
実用的な連関の中では『われわれ人間の経験する「赤」の色は
700nmの光である』と言明することが、なぜかできてしまうのだ」と
答えるでしょう。脳の働きに関しても同じことが言えます。

だから前も書きましたが自然科学その他の「哲学的には正当性のない
実用的な思想」を信じることはある意味で「宗教的」だと言うのなら、
それはそうでしょう。その「宗教的」な態度を肯定するか否定するかは
まあ個人の好みの問題と言えます。(僕個人としてはそれを否定して
日常生活を営むのはかなり難しいだろうとは思いますが。)
ただ、その自然科学の枠内(=道具的連関の中)でのみ語られている
言明(「脳が考える」もその一例)に対して、哲学的な立場から
「それは認識論的に正当でない」と文句を付けるのは、純粋に
カテゴリー・ミステイクなんじゃないかと僕は思うわけです。そもそも
正当でないのは初めから明らかなわけですしね。
64考える名無しさん62:01/09/15 13:23
>その自然科学の枠内(=道具的連関の中)でのみ語られている
>言明(「脳が考える」もその一例)に対して、哲学的な立場から
>「それは認識論的に正当でない」と文句を付けるのは、純粋に
>カテゴリー・ミステイクなんじゃないかと僕は思うわけです

 自然科学の言明としての「脳が考える」であるならば、哲学的な立場から批判するのは
カテゴリー・ミステイクである面がある事には、私も賛成です。

 但し、それを認めてもなお、「脳が考える」という言明には躊躇するものがありますが、
それはまた。

 また、「認識論的に正当でない」と心脳問題について哲学的立場から批判している人は
いるのですか?いるとしても少数ではないか、と思います。
65心脳問題(13) ◆FJQq2cPM :01/09/15 13:45
「道具的正当性」が「哲学的正当性」と合致しない理由がよくわかりません。

自然科学が追求する正当性が「道具的正当性」つまり、
「実用」を目的にしているか?
という問題自体ちょっと疑問がありますが、それは置くとして、

そもそも、「道具的正当性」というのは、正当性の基準を
「実用性」ということに置いただけのことではないのでしょうか?
だとしたら、いろいろな基準に基づく正当性のなかの一つに過ぎないのであって、
前提基準と矛盾していない限り、論理的正当性は当然あるでしょう。
私の認識では「哲学的正当性」とは、
全ての前提基準を包含したものだと
理解していたのですが、
「実用」という前提基準を
除外しなければならない理由は何なのでしょうか?
66反心脳同一説論者:01/09/15 19:07
=62=64
>>65
>「道具的正当性」が「哲学的正当性」と合致しない理由がよくわかりません。
 この一文が誰のどの投稿に対するレスなのか判然としませんが、仮に私がその対象
だ、と仮定し、私の用いる用語法のもとでの解答をしてみます。

 私は何れの語表現も先んじた諸投稿の中で用いてはいない、と思います。(もしあ
ったら事実問題上の誤謬として陳謝)

但し
  道具的正当性=実践的に妥当だ、とされること=実践的妥当性
  哲学的妥当性 不詳
  論理的正当性=論理的に正当であること、
と解し、実践的妥当性と論理的正当性の差異について述べます。

 この両者は全く異なります。その典型は帰納的推論及びそれに基づく予知において
典型的に現れます。

「一昨日も昨日も今日も、日が東から昇った、
(故に、凡そ日は東から昇るものである。)
故に明日も日が東からのぼるであろう」や

「今までずっと歩いていて突然足元の大地がなくなった事はない、
(故に、凡そ歩いていて足元がなくなることは無い)
故に、次の一歩でも足元がなくなることは無いであろう」

 これらは典型的な帰納的推論に基づく応用推論(機能された法則からの応用部分は演繹)
ですね。

 さて、我々は日常また科学においてもこれらの推論を用いており、その推論は妥
当である、と信じています。もし、これらの推論を拒否したら、一歩歩くことすら
極限の不安なしには出来ません。これらの、我々が実践において受け入れている妥
当性が、実践的妥当性です。

 しかし、これらの帰納的推論は論理的には何らの根拠ももっていません。過去に
関わる如何に多くの事実を集めたところで、そこから得られる知見は、何ら将来に
ついて述べるものではないからです。かくして、帰納的推論は論理的正当性を持た
ない、というのがヒューム以来、哲学における主流派の見解でしょう。(カンティ
アンのような批判的立場もありますが。)

 かくして、実践的妥当性と論理的正当性は異なる二つの諸概念です。

  
67心脳問題(13) ◆FJQq2cPM :01/09/15 23:54
>>66
すいません、
複数の人が当然の前提条件のように話されていたので、
だれに聞いたらよいかよくわからなかったのです。

ご説明は、よくわかりました。(わたしがしょーもない誤解をしていない限りは。)
ありがとうございます。

つまり、自然科学における「観測と実験」も、
哲学においては、
論理的根拠とはなりえないということですね。

これは、凄いことですね。
自然科学が保留している問題に、哲学者は正面から
立ち向かっているわけですね。

確かにその意味では、自然科学は、純粋な論理的正当性は保留して、
「より確からしい」仮説を追求しているだけであるといえるでしょう。
ただ、自然科学者がそのことに無自覚であるかというと、
そうでもないように思います。
そうでなければ、「仮説」という言葉自体が存在しないでしょう。
自然科学で得られるものは常に仮説でしかなく、
一つでも仮説と異なる観測事実が認められれば、
その仮説は葬られるわけですから。
つまり、自然科学における法則類は、哲学的な意味における真実としては、
語られてもいなければ信じられてもいないのではないでしょうか?
(少なくとも「まともな」学者の間では)

しかし、
自然科学が行っているような妥協を行わないとするなら、
「脳」の存在を始めとする解剖学的な知識は全部破棄して、
論理的に論証しなおさなければ、「脳と心」といった議論は
それそのものが成立しえないように思います。
68名無しさん:01/09/16 01:24
>自然科学が行っているような妥協を行わないとするなら、
>「脳」の存在を始めとする解剖学的な知識は全部破棄して、
>論理的に論証しなおさなければ、「脳と心」といった議論は
>それそのものが成立しえないように思います。

乱暴にいえば、科学でこれだけうまく生活が言っているのにそんなところやりなおす
なんてかったるいじゃん、と思っているのがまともな科学者、そこを極めなければ心
脳問題の一番重要なところを触れないままにしてしまうのだから、めんどくさいとか
時間がかかるとか役に立たなくともいーじゃん、やるべき、というのが哲学者、の戯
画化された対立だと思います。

 だから、本当は自然科学的探求における心脳問題と、哲学における心脳問題は、とり
あえずはっきり区別して別個の議論として続けた方が生産的だ、と思います。

(そもそも哲学と自然科学では同一性というがいねんの意味すら異っていかねないのですから。)
69名無しさん:01/09/16 01:25
68は反心脳同一説論者の投稿です。
70心脳問題(13) ◆FJQq2cPM :01/09/16 02:17
>>68
>だから、本当は自然科学的探求における心脳問題と、哲学における心脳問題は、とり
>あえずはっきり区別して別個の議論として続けた方が生産的だ、と思います。
基本的にはそのとおりだと思います。

私が、心脳問題関係スレで、何度も繰り返し、
>私は、
>「現在科学的にほぼ確認されている事実を元に、
> それをどのように解釈するか?」
>という前提で議論をしています。
といったことを述べているのは、そういった意味も含んでのことです。

>>67
の後半で述べたのは、「哲学における心脳問題」というもの自体が、
存在し得るのか、存在できるだけの論証がなされているのか?
という点についての疑問です。
もし存在しえるとしたら、「心と脳は同一か」という命題の前に、
「心は存在するか」「脳は存在するか」といった様々な前提条件が
解決されていなければならないのではないでしょうか?
それとも、そういった問題については、
先賢によって既に解決されているのでしょうか?
7121:01/09/16 21:33
>反心脳同一説論者さん

>「認識論的に正当でない」と心脳問題について哲学的立場から
>批判している人はいるのですか?いるとしても少数ではないか

「認識論的」って言葉あまり厳密に使ってません(笑)ごめんなさい。
前のほうのレスで22さんという人が「認識論めいた」ことを言って
いたようなのでそのように、ということですが。

>自然科学的探求における心脳問題と、哲学における心脳問題は、とり
>あえずはっきり区別して別個の議論として続けた方が生産的だ

賛成です。こんなにみんなの意見が合致してしまっていいの
だろうか(笑)


>心脳問題(13)さん

>そういった問題については、
>先賢によって既に解決されているのでしょうか?

解決したと信じた「先賢」はたくさんいるだろうけれど・・・
ある哲学体系を作った人は必ず心身問題ないし心脳問題も
同時に解決しているでしょうねえ。
その意味では「心脳問題より以前にその人の全般的な哲学的立場を
決めることが問題なのであって、それが決った時には心脳問題は
全然重要ではなくなる」と言えるのかなあ。
72心脳問題(13) ◆FJQq2cPM :01/09/16 23:54
>>71
>ある哲学体系を作った人は必ず心身問題ないし心脳問題も
>同時に解決しているでしょうねえ。
なるほど。
しかし、心脳関係スレで(ここは別ですが)、そういった思想を引き合いに出す人が
ほとんどいなかったのはどういうわけなんでしょう。
自然科学的問題として、純粋哲学の立場からの意見は差し控えていてくれたのでしょうか。
(私の心脳問題に関する持論もこのスレでは差し控えるべきなんでしょうね。)

>その意味では「心脳問題より以前にその人の全般的な哲学的立場を
>決めることが問題なのであって、それが決った時には心脳問題は
>全然重要ではなくなる」と言えるのかなあ。
私もそんな印象をもちました。

そういった意味で、「心脳問題」は、純粋哲学の問題では無いのかもしれません。

しかし、自然科学的妥協を前提としても、その解釈については、
いろいろな問題があり、各専門分野(心理学、解剖学 etc)だけには収まらないものがあり、
哲学板で議論する価値はかろうじてあるのではないか、
というのが、心脳関係スレの、哲学板における存在理由だと考えています。
というか、反心脳同一説論者 さんのおっしゃる「論理的正当性」を前提にすると、
自然科学と、哲学の間に、あまりにも多くのものが取り残されるような気がするのは、
私の認識不足のせいでしょうか?
(もちろん「論理的正当性」の正しさは当然ではあるのですが)
73反心脳同一論者:01/09/17 15:37
>もし存在しえるとしたら、「心と脳は同一か」という命題の前に、「心は存在する
>か」「脳は存在するか」といった様々な前提条件が解決されていなければならない
>のではないでしょうか?
>それとも、そういった問題については、先賢によって既に解決されているのでしょ
>うか?

(1)多くの先哲はそれぞれにおのおのの解答を提示してはいますが、結論の収束を
見てはいません。

(2)哲学の諸問題の多くは(他の学問が違う、とはいわないが)、多くの諸問題を
平行して各方向(トピック)に自分なりのアプローチで挑んでいく、という学的手法
が一般的です。

 ですから、「心と脳は同一か」という命題とともに「心は存在するか」「脳は存在
するか」という問題も、さらに「同一とは何か」「存在するとは何か」という問題も
含めて考えていかざるを得ないのだ、と私は哲学の学的手法について了解しています。

 但し、私の個人的な哲学的見解においては、「心は存在するか」「心は存在する」
「脳は存在するか」「脳は存在する」という結論がでています。
 何故なら、「存在する」という語の日常的使用において、「心は存在する」「脳は
存在する」と言われるからです。(問題は、この両者の「存在する」が同義であると
前提したり、そこから「存在する」事一般の特質と人が思い込んでいる性質に訴えて
推論を展開することです。その場合しばしば誤った結論を得る、と私は考えています。)
74心脳問題(13) ◆FJQq2cPM :01/09/20 21:27
>>73
>(1)多くの先哲はそれぞれにおのおのの解答を提示してはいますが、結論の収束を
>見てはいません。
なるほど。

>(2)哲学の諸問題の多くは(他の学問が違う、とはいわないが)、多くの諸問題を
>平行して各方向(トピック)に自分なりのアプローチで挑んでいく、という学的手法
>が一般的です。
うーん、そう考えると自然科学も哲学の一トピックといえなくもないような・・・
(その他の学問もですが。)

> ですから、「心と脳は同一か」という命題とともに「心は存在するか」「脳は存在
>するか」という問題も、さらに「同一とは何か」「存在するとは何か」という問題も
>含めて考えていかざるを得ないのだ、と私は哲学の学的手法について了解しています。
私などの考えはまったくのうわっつらをなでているだけなのでしょうが、
私も純粋論理として考えるためにはそのようにしなければならないだろうと思います。

> 但し、私の個人的な哲学的見解においては、「心は存在するか」「心は存在する」
>「脳は存在するか」「脳は存在する」という結論がでています。
> 何故なら、「存在する」という語の日常的使用において、「心は存在する」「脳は
>存在する」と言われるからです。
これは、自然言語における、「脳」と「心」という言葉、
そして記号としてのその言葉が示す実体(共通認識?)
について追求するというような意味にとれますが・・・。

>(問題は、この両者の「存在する」が同義であると
>前提したり、そこから「存在する」事一般の特質と人が思い込んでいる性質に訴えて
>推論を展開することです。その場合しばしば誤った結論を得る、と私は考えています。)
(1)の点も含めて、スレの冒頭などで、前提条件をある程度整理しておくか、
認識の個人差の前提を参加者が自覚して議論しないと、
かみあった議論が成立しにくそうですね。
75考える名無しさん:01/09/20 22:54
>脳が考えているのではない

ええ、
『「私が考える」=「脳がかくかくしかじかの動作をしている」』
と考えているわけですね。

『』部分は仮説であって、その妥当性を示す証拠は積み上げられ
逆に反証がことごとく失敗するという経験から、強化されこそすれ
絶対的な意味での証明は無し得ないのではないかと考えます。
76反心脳同一説論者
>>74
>これは、自然言語における、「脳」と「心」という言葉、
>そして記号としてのその言葉が示す実体(共通認識?)
>について追求するというような意味にとれますが・・・。

 心脳問題さんによる投稿の上記引用部分は、私にとって、意味不明瞭です。そこで
もう少し、敷衍して御説明願いたいです。

 ただ、私が当該部分から想定した範囲内での理解についてコメントさせていただきま
す。

 「心」も「脳」も我々の自然言語に属する単語である。従って,その意味はその語
が用いられる(文より広い文脈をも含め、またその使用される状況や生活の様態も含
めた限りでの)(哲学的)文法によって与えられるものである。従って、「心」や「脳」
が存在するか否か、という問いは、それらが我々の言語において「存在する」と述語付
けされるか否かにのみかかっている。そして、我々は「心がある」といい「脳が存在す
る」という。従って、「心」も「脳」も<我々の言語においては>存在するのである。
(このことは、他の自然言語なり人工言語なりにおいても「心」や「脳」が存在する事
を必ずしも意味するものではない。)
 但し、それらは「心」や「脳」が、論理的に存在可能であり、少なくとも一部の人や
動物においては現に存在している(若しくはしていた事がある/将来存在するであろう)
ことのみを意味している。(これは「この子には脳が無かった」(無脳児のケース)と
いった表現が可能なことに明らかである。)個別の存在者(コノヒトやアノイヌ)に
「心がある」か「脳があるか」は事実問題であり、それはさまざまな(特に心について
は対象たるヒト・モノのみならず、彼/それをとりまく人々の対応や状況をも含めて)
観察が行われて、「無かった」とも言われえる事例である。
 (現代の我々の言語では、日常の状態にあるヒトは「心をもっている」。但し、それは
特殊な状況下(例えば植物人間状態や,古代における奴隷に対する主人からの見方)
において、「このヒトは心が無い」可能性を排除するものではない。