☆☆☆フッサールに興味があります☆☆☆

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1考える名無しさん
なにから手をつければいいんですか?
今、イデ―ン読んでるんですけど全然わかりません。
現象学を極めるにはなにから読めばいいんですか?
教えてください。
ちなみに哲学初心者です。
2考える名無しさん:2001/08/23(木) 20:18
オデーン

予言。竹田せいじの本勧めるやつが絶対出てくる。3,4人。
3考える名無しさん:2001/08/23(木) 20:44
レスつかないね。
なんでだろ。
4考える名無しさん:2001/08/23(木) 20:47
とりあえず柄谷行人の『内省と遡行』でも読んで、
わかった気になりましょう。
5考える名無しさん:2001/08/23(木) 20:52
とりあえずドイツ語しっかりやってください
6考える名無しさん:2001/08/23(木) 20:57
とりあえずハイデガーは括弧にくくっときましょう。
7考える名無しさん:2001/08/24(金) 01:05
小坂さんがオススメ
8考える名無しさん:2001/08/24(金) 01:06
タケダセイジの本も難しいよう。
9考える名無しさん:2001/08/24(金) 13:45
gea
10考える名無しさん:2001/08/25(土) 13:20
あげ
11考える名無しさん:2001/08/25(土) 13:37
神秘主義とは心外です。私は何も自分の直観理論を神秘的に展開した覚えは
ありません。私は単に、事象がありのままに与えられることに優位を置いただけです。
明証理論は決して「わかる奴にはわかる」などという独断論的見地から為されたものでなく、
我々の経験の理性的根拠を露呈するために為されたものなのです。
我々は根拠というものを、何等の前提も無しに語る必要があります。
何故なら、根拠はそれ自体、何者にも前提され得ないものだからです。
もしこの根拠を否定するとなると、我々は「理性」を放棄さぜるを得ません。
最近では、無根拠から出発するという怪しげな論調があるようですが、
それは懐疑主義の域を出ないものと私には思われます。

アリストテレス以来、第一哲学は「アルケー」を探求する学でありました。
アルケーとは、あらゆるものの根拠となる第一原因であり、我々の知識に理性的根拠を
齎すものです。これはギリシア哲学の開闢以来、紆余曲折を経て、私の現象学に
到達しました。現代では、この第一原因、即ち哲学の根本課題であるアルケーそのものを
否定する論調があり、ギリシア哲学をさえ正しく理解する道を阻害しているように
思えてなりません。アルケーは原初においては客観的に考えられていましたが、
それは近代に至って主観の意識へと移され、全世界の根底に存する純粋自我へと還元されて
行きました。私はこの過程を目的論的に考察したのですが、それは後からのプログラム的な
解釈に過ぎず、私の本来の分析の中では、もっと違った事態が生じていたのです。

それは私の世界論の一端に現れており、世界分析の途上で抗い難く考慮されねば
ならなかったものです。確かに、私は世界の根元的受動性の中に、恒常的に機能する自我の
能動性を取り入れざるを得ませんでした。しかしそれを語る現象学が、もはや「不可能」で
あることも薄々気づいておりました。ここに現象学の限界があるのであって、
私の思想を正しく理解しようと思うのならば、この限界に付き合って欲しいと思うのです。
私の思想は果して「乗り越えられた」のでしょうか。
12考える名無しさん
>>2
>物理的には測定できない事が量子論により証明されているだけです。
>非物質的でしたがって観測の際に物質の状態に影響を与えないような
>事態があるならば、量子論は観測の非決定性をいいたてません。なぜ
>なら、そのような事態は物理的事態ではない(例えば霊的事態?)な
>ので、物理学の範疇外だからです。

物理学は、霊的事態という解釈をとらないで、その事態を
物理学的に解釈するでしょうし、それはなしうるでしょうし、
(確定的な結論が導けるという意味ではありません)、
それは社会的に認められるでしょう。

心理的な事柄に関しての議論なら、そもそも心理は自己の
内的な把握であるに過ぎず、対象的に扱って因果関連を論ずる
根拠とするには、不十分でしょう。