あまり関係ないかもしれませんが、
彼の文章中にでてくるオリエンティーレンという言葉と
プロペドイティークとフェノメノンの意味がわかるというすごい方
いらしましたらおせーてください。
哲学の世界ではこれらの言葉一般常識なんすかね。
誰もわからねんじゃねえ?
おめえもこんなとこで質問すんな!!!
ボォケ!!
本当に誰かご存知の方いませんか?
4 :
考える名無しさん:2001/06/09(土) 14:13
一人芝居・・・・ワラ
5 :
考える名無しさん:2001/06/09(土) 20:07
orientieren [独]=志向する、定位する
Propaedeutik[独]=入門
phenomenon [英]=現象
一般常識です(笑)。
3番目は、Phaenomen のつもりが、つい英語が出ちゃった?(笑)
6 :
考える名無しさん:2001/07/13(金) 04:30
廣松渉を語れー!!
7 :
考える名無しさん:2001/07/13(金) 06:12
疎外論から物象化論へ
俺のコンピュータでは物象化という単語が変換できなかったよ。
8 :
考える名無しさん:2001/07/13(金) 06:39
廣松先生は、松田聖子の先祖の豪族の蒲池氏の本拠地だった
福岡県柳川市蒲池の出身で、アル中でした。
9 :
考える名無しさん:2001/07/30(月) 23:06
東大理一受験に二度失敗!
10 :
考える名無しさん:2001/07/30(月) 23:17
高校は退学処分で、大学検定だ。
11 :
考える名無しさん:2001/07/30(月) 23:59
岩波から出た著作集もってるけど最近ぜーんぜん読んでません。
大森荘蔵のほう買った方がよかったかなと後悔。
12 :
考える名無しさん:2001/07/31(火) 01:56
全集でないかな。
個人では絶対に買えない規模になりそうだ。
13 :
考える人:2001/08/19(日) 16:07
このスレ、人気ないね。
14 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 01:57
廣松が人気がないのか、このスレが人気ないのか。
ていうかどっちもだな。
朝生途中退場事件の前に「異議あり!」っていう番組で
西部が退場した経緯があって、朝生の件に至っている。
「異議あり!」という番組は、田原が司会で左派右派の代表者1名づつ(基本的に佐高と西部)に対し
ゲストがテーマを提示し、一つのテーマに対しディベートするという趣旨の番組。
この番組のゲストが宮台の時に西部は退場するんだけども
確か、宮台が自分の持ち込んだテーマそっちのけで
「アナクロ人間、逝って良し」みたいな内容を宮台お得意の高速言語で一方的にしゃべり倒す態度に
西部が辟易として退場した、という風に記憶している。
西部が退場した後も番組は続いたのだけど、佐高は「私だって帰りたいとき我慢してるのに」と
西部を非難しつつも明らかに困っていた。
田原はスタッフに引き留めの指示を出しつつも、いつもと余り変わらなかった。
宮台は、嬉しそうだった。
結局、この回の放送以降、西部は出演しなくなり
代わりに誰かを引っ張って来たんだけども、番組は盛り上がらず
程なく打ち切りになったと記憶している。
廣松は、世が世だし、凄すぎて廣松哲学を継承できる人がいないせいで、人気が落ちたんだろう。
ただ最近岩波は「物象化論の構図」を文庫化し、「新哲学入門」を復刊したね。また講談社の「今こそマルクスを読み返す」も多く版を重ねている。
根強いファンはいるんだろう。
所詮講壇マルクス主義ですからね。
教師は単位がないと、ただの人です。
18 :
考える名無しさん:01/09/17 18:31
私、廣松の大学院演習の単位とってますが、
彼の顔を一度も見たことがありません。
つまり、一回も授業に出てない。
どうやってとったかというと、
テーマがシェーラーだったので、
西尾幹二がシェーラーについて書いた文を
そのまま写して哲学科の助手に渡しておいたら、
優ついてました。なんでもいいのね。
社会学者の宮台真司さんがひろまつさんの本を頼りに読書経験を
重ねた、と書いてましたが、なんか思想史とかの関連で有名な本
ご存知の方おしえてください。
20 :
考える名無しさん:01/09/17 21:36
知らない。小室直樹の間違いじゃないか。
>>18 おまえ、そんな事してたのか・・・
くそったれめが!
俺も誰かの文を写してやる!
22 :
考える名無しさん:01/10/08 02:10
彼が理論的にどれだけ優れていたかは括弧に入れておきたいのですが、
最近思うに、やはり彼の死と共に左翼の理論言説は、薄まって拡散してしまった気がします。
これは、単にノスタルジーでしょうか?
今回の件についてはなんと言うかなあ。
基本的に「とにかくアメリカ嫌い」というひとなので、あまり生産的な言葉はでてこないかもしれないけど。
23 :
考える名無しさん:01/10/08 08:37
>>19 広松さんはその時代、時代で有名?な哲学者の学説に
常に関与して自論を展開しているように思われ
また、自分のことを「位置付け魔」と言っていたことから
全ての思想を座標にマッピングしたかったのではないか
なので、関わっている学も大変多岐にわたり、
他分野の学者との対談も多い
ざっと、思い出しただけでも、
ハイデッガー、構造主義、分析哲学、
哲学じゃないけど、社会学者、経済学者、生物学者、
考古学者、相対性理論、量子力学etc.
また、認識論を得意?分野としていたので
認知心理学や、AI関係への言及も多し
思想史との関連というと・・ うーん、
ずっと前に小説家の五木寛之との対談の本があって
これは新哲学入門等とは違って、各種哲学のエピソードを
紹介していくようなものなので、哲学の超入門書としてはよいと思います
24 :
考える名無しさん:01/10/20 14:36
「廣松渉」の読み方を教えてください。
25 :
ひろまつわたる、だよ:01/10/23 00:32
今村、ブルデュー、広松で鼎談してたけど、わけわからん。てゆうか
広松ブルデューにかみつきすぎ。10年くらい前の「世界」だったかな?
26 :
考える名無しさん:01/10/23 21:29
>>25 わしもそれ読んだ 闘争心剥き出しでよかったス
あと、何年前かわからんが 広松、大森、黒田(亘)の3名が
認識論かなんかでライブで議論(ケン談が出ない)してるのが
(確か初出「思想」)、広松全集かなんかに出てておもろかったYO
お奨め
ケン談ではなくて「鼎談」?
ちなみに、ぼくちんも読んだよ。
28 :
考える名無しさん:01/10/23 22:47
廣松先生はかなり客観的な哲学研究者だと思う。
経歴
長崎市立竹尾小学校卒
鹿児島ラサール高校卒
東京大学理V医学部卒
同大学院中退
現在東京大学經濟学部經濟学科部長
>28
って死んでるって!
30 :
考える名無しさん:01/10/23 23:08
昔よく読んだなァ。
河出書房新社の『手稿復元新編輯版 ドイツ・イデオロギー』
(いわゆる廣松版ドイツ・イデオロギー)も持っているし。
これって岩波が岩波文庫で、現行の古在版を押しのけて新たに
発行すると、5年ぐらい前にいってたけどどうなったのかな?
>>27 >広松、大森、黒田(亘)の3名が認識論かなんかでライブで議論
こっち読んだの? 俺頭悪いから 対談とか鼎談だと
けっこう分かった気になるんで 上のやつ凄い面白かった
昔はマルクス哲学と現象学と分析哲学の日本のトップが
仲良く?議論できる土壌があったんだよね・・今はどうなんだろ
32 :
考える名無しさん:01/10/23 23:19
ドイデはわかりやすくて面白いよね
俺は広松版とふつーのと比べて読んだけど
違いはよくわからなかったな 頭悪いから
33 :
考える名無しさん:01/10/23 23:24
晩年の廣松を柄谷行人と浅田彰コンビが追いこみ?かけた鼎談が
あったよね。
ここで柄谷・浅田から、西田幾多郎等の京都学派の新の後継者は
いわゆる現在の新・京都学派のバカ学者共ではなくて、廣松渉
その人だと持ち上げられて(ホントはスゴイ皮肉)本人照れてたな。
前後して廣松が朝日新聞夕刊の文化面に「今こそ左翼陣営による
大東亜共栄圏を」なんてブチかましたもんだから、柄谷が烈火の
ごとく怒り「廣松死ね!」なんて公言したらホントに死んじゃった。
34 :
考える名無しさん:01/10/23 23:29
浅田はともかく、柄谷って俺 エチカ21読んだだけ だけど
まともなのだろうか??
ともかく 広松と浅田、柄谷がライブとは知りませんでした
どこに出てるか教えてくだされ >33
あと、例の大東亜共栄圏は一体なんだったのだろう ボケたとか(笑
ちなみに先の「鼎談」(言葉の使い方あってる?)は
『ピエール・ブルデュー 超領域の人間学』(藤原書店)
に再録されてる。
36 :
考える名無しさん:01/10/23 23:55
共同主観性論から共栄圏思想へは
たいして距離はない。
共同主観性とは単純にいえば「言葉が通じる」
ということであり、大東亜共栄圏とは
「漢字」という東アジアの支配的言語の通用領域
と地理的に違わないから。
相対的認識強調するけど、結局学知レベルで都合良く解釈して
るだけに見える。
ヘーゲルとどう違うのか良くわからないと思った(w
38 :
考える名無しさん:01/10/24 00:20
廣松・柄谷・浅田の鼎談は確か『批評空間』(2期)でだったかな?
単行本では柄谷の対談集『ダイアローグ』シリーズの後期の方か、
もしくは『シンポジウム』シリーズに収録されていると思うのだが…
39 :
考える名無しさん:01/10/24 00:55
批評空間以前にも
柄谷、市川、浅田、廣松で対談してたよ>>「近代の超克」について
市川の実父の著作を発見した柄谷がますます「明治昭和平行説」を
膨らませていてなかなか面白かった。
40 :
mimesis:01/10/24 01:01
これはちがう?
柄谷行人編・著『シンポジウム』思潮社、1989
4<近代の超克>をめぐって
廣松渉・浅田彰・市川浩・柄谷行人
初出は「季刊思潮」4号の巻頭シンポジウム。(1989.2.3)
廣松渉は最後に「全体の調和ということに関して、僕は浅田君よりも
もうちょっとオプティミスティックというか、ユートピア的という
かね。」と発言している。
>>31 >>広松、大森、黒田(亘)の3名が認識論かなんかでライブで議論
>こっち読んだの? 俺頭悪いから 対談とか鼎談だと
>けっこう分かった気になるんで 上のやつ凄い面白かった
>昔はマルクス哲学と現象学と分析哲学の日本のトップが
>仲良く?議論できる土壌があったんだよね・・今はどうなんだろ
ぼくちんが読んだのそれ。でもぼくちんのころはマルクス読むのは寮生ぐらいだったよ。
だから、ひろまつっちのマルクス論とかはあまり関心なかったの、ぼくちん。
あの頃の大森さんは「現象学」と言うよりは、現象主義???
>昔はマルクス哲学と現象学と分析哲学の日本のトップが
>仲良く?議論できる土壌があったんだよね・・今はどうなんだろ
今村さん&鷲田さん&野家さんとか。うほほーい。
そういやさ、駒場寮の問題も情けなかったね。
もっと抵抗するのかと思ってると、勧告受けただけで
自主退去します、とか言ってんだもん。そら、そんな弱腰なら
強制一発でやられちゃうわな。
自主退去の用意があるので交渉しましょう、とか言い出した時点で
こりゃだめだわと思ったね。
革マル派は徹底抗戦主張したんでしょ。
就職にさしつかえるのがいやだったのかね。寮自治会は。
いま広場でホームレス状態だけど、あんなのいつまで続くかね。
だめだよ。君らは。ごっこなんだもん。いざとなったら逃げる。
ならはじめからやるな。教官の方が仕事だからな、本気さ。
43 :
考える名無しさん:01/11/07 16:51
多分廣松渉は西田幾多郎よりすごいと思うよ。
彼の主著、『存在と意味』は世界でも超一級品だろうし。
日本人哲学者で彼に匹敵するのは大森荘蔵ぐらいじゃないかな。
ま、『存在と意味』を通読してる(できる)人があんまりいないだろうから、
正当な評価を受けているとは言い難いけど。
あと、文章がイデオロギーちっく過ぎるのも読者の少ない原因だろうね。
30年近く前だと、あの文章は持て囃されてたんだけど、今はねえ。
『いまこそマルクスを読み返す』を呼んだよ!
あのひとまだ共産主義を信じてるの?
45 :
考える名無しさん:01/11/07 22:04
>44
あなたの言うところの共産主義とは何ですか?
46 :
考える名無しさん:01/11/08 00:13
>44、45
付録として, 恥じらいとともに述べるべきものだね。コンミュニズムとは。
廣松渉夫人の妹は、加藤尚武の嫁。キシュツだったらスマソ。
しかし、43はラリってんじゃねえ!!西田幾多郎ちゃんと
読んでいってんのか?西田の内にある青い炎を、廣松の
ガスバーナーみたいな、みえみえのもんとくらべんな!
>>44 いや、ふつうの共産主義だけど……。
広松渉は、どういう意味の共産主義を信じてるの?
やっぱり、どっかひねってあるの?
49 :
考える名無しさん:01/11/08 10:13
広松、文章が魅力ねーっていうかこういうのも学者の文章なの?
50 :
考える名無しさん:01/11/08 10:38
>>49 あそこまでイッてるのは学者の文章でも珍しい。
章立てと題名の文字数にこだわったりとか、
何だか空虚を形式で埋めようとしているような感もあり。
51 :
考える名無しさん:01/11/08 13:30
52 :
考える名無しさん:01/11/08 15:01
文章がメチャクチャ下手な西田幾太郎に比べれば(例『善の研究』)悪文かもしれないが廣松渉は読みやすい。
53 :
考える名無しさん:01/11/08 17:21
ヘタなんじゃなくて、あれは明治40年前後に講義の
草案として、書いてた文章を集めたもんだからでしょ。
54 :
考える名無しさん:01/11/08 20:19
悪文といっても意味が取りにくいとかいうよりもなんか講談調というか・・・
とにかく見たことがないような変な文章に感じたぞ>広松
西田の場合は悪文は悪文だけど、美文風ではある。
もちろん最悪の意味ではあるが。
55 :
考える名無しさん:01/11/08 20:19
明治40年前後か。
言文一致で四苦八苦した近代日本文学は言うに及ばず。
現代に通ずる近代日本語もほぼこの時期には成立し、
哲学が日本語で書くことが出来るようになったその著作
が西田の「善の哲学」でもあったとは、今さらながら
感銘深い。
でも「善の哲学」叙述に回りくどいというか変なところ
が多いのも事実。昔読んでてイライラした記憶がある。
56 :
考える名無しさん:01/11/08 20:22
「善の哲学」(誤) → 「善の研究」(正)
でした。失礼。
57 :
考える名無しさん:01/11/08 21:26
世界一のマルクスヲタだって誰かが言ってた
58 :
考える名無しさん:01/11/08 23:22
昔よく読んだ。この人の本読むと、哲学とか歴史学概論のレポート
書くネタに困らなかった。
もっとも、歴史学徒の端くれとしては
「主客二項対立の地平を端的に超克するマルクス主義」っていうスローガンとか、
それから派生する歴史観・歴史認識・未来展望には全然納得できなかったなぁ。
59 :
考える名無しさん:01/11/09 00:07
ま、広松はマルクス主義者のなかでは
ましなほうでしょう。
少なくとも悌明秀よりは文章は理解しやすい。
60 :
考える名無しさん:01/11/09 00:17
すべてをマルクスに引き寄せて考える広松は
やはりどこかおかしい。
しかし、人はおかしくならなければ生きて
いけないなら、マルクス狂いの広松の生き様も
頷けるものもある。
61 :
考える名無しさん:01/11/09 07:18
スローガンの人って感じで、一時代前という感じは否めない。
62 :
考える名無しさん:01/12/01 21:28
アゲテミル
63 :
考える名無しさん:01/12/01 21:41
旧漢字の使い方は正しいが、シュッツ本の最初に自分のことを夫子と
言っているのがちょっと、、、。
64 :
考える名無しさん:01/12/01 23:15
あの文章好きよん
65 :
考える名無しさん:01/12/02 00:00
>ごとく怒り「廣松死ね!」なんて公言したらホントに死んじゃった。
もう長くはないってのは定説だったときに、しゃれにならんことをいうね(笑
66 :
考える名無しさん:01/12/03 11:23
酔っ払うとよく呑み代おごってくれた。
67 :
考える名無しさん:01/12/03 20:40
1の質問に関連して。「プロペドイティーク」じゃなくて
「プロペドイティク」と延ばさない方が適切であると思
われ。
68 :
あがるかな?あがるかな?あがるかな?:01/12/13 11:54
廣松渉学者っていうのはいないのかね?
これはひょっとして隙間か?
69 :
mimesis:01/12/19 23:58
カメラモデルは正しいかもしれない?
“投影”という言葉は正しい言葉である。なぜなら、この視覚領上では、
テレビのスクリーン上に表示されたビデオのイメージと同じように、絵を
構成する点が水晶上と同じように、分布位置を占めるからである。
(
http://jhfsp.jsf.or.jp/pub/pub98/geometrician.html)
廣松渉の三項図式批判は正しいとしても、カメラの比喩は
生理学的基盤と符合するものであったということか?
この科学的知見は廣松の批判に対してカントを擁護するものでしょうか?
カントの「空間=直観の形式」はやはり正しいのか?
浅薄なことを書いてしまったみたいですが、みなさんの意見は?
麻雀がメチャクチャ強かったってさ。
あら、そんなスレじゃないのか。
スマソ。
71 :
考える名無しさん:01/12/23 19:28
この人のペンネームなんだっけ?
72 :
考える名無しさん:01/12/23 19:42
>>69(mimesisさん)
>この科学的知見は廣松の批判に対してカントを擁護するものでしょうか?
必ずしもそうではないでしょうね。
空間知覚と対象知覚(認知)とは不可分の働きであり、ニューロンシステ
ムが感覚器官からの非空間的な信号を元に環境世界を空間的に再構成する
ためには、(全身に広がっている)感覚器官自体のニューロンシステム内
でのトポロジーが既に確立されていることが必要でしょう。(その限り空
間は純粋直観であり直観形式であるというのは正しい)。しかし、世界―
内−対象の認知のためには、単なる射影ではなく、トポロジカルな変換
(位相反転)が必要ですから、カメラモデルは不当です。
もっとも、廣松渉(故人のため敬称略)のカメラモデル批判は俗流唯物論
の機械的な反映説を批判したのであり、カントはむしろ構成説でしょうか
ら、カント批判とは直接関係ないでしょう。また、彼の三項図式(意識作
用―意識内容―意識対象)批判は(アホくさい「世界の共同主観的存立、
四肢構造」などを持ち出して)<意識>の唯物論的、実践的な位置づけに
失敗しているため、見当違いでしょう。
その点では、上のレスにも出てくる西田幾多郎の方が、意識についてより
深い哲学的考察をしていると言えます(『取り残されたる意識の問題』
『働くものから見るものへ』等)。
74 :
考える名無しさん:01/12/24 00:12
>>26 鼎談=「ていだん」
ケン談ではないので覚えておくように。
75 :
考える名無しさん:01/12/24 23:53
広松の四肢構造論はマルクスの価値形態論
を原型にしていると思う。
所与=使用価値 能知=具体的有用労働
所識=価値 能識=抽象的人間労働
・・・という具合にね。
>>75 それは…改めて言わなきゃいけないことなのか?
77 :
考える名無しさん:01/12/25 00:08
『事的世界観への前哨』のカント論をちゃんと読みましょう
マルクスマンセーのOFW氏が四肢構造論をアホくさい
といっているので、念のためだよ。
四肢構造論の元祖はほかならぬ「マルクス大先生」なのだ
と声を大にしていっておかねばならなかったのさ。
79 :
考える名無しさん:01/12/25 00:27
この人はアル中で死んだのか煙草で死んだのか、どっちなんでしょう。
顔色を見る限りでは肝臓のようにも見えたのですが。
了解。なるほど、OFWって人は手が焼けるんだね。
81 :
考える名無しさん:01/12/25 00:35
OFW氏の廣松批判を是非聴いてみたい>アホ臭い。
OFW氏の過去の発言を見る限り、
氏はレーニンの『唯物論と経験批判論』
を認識論哲学上のバイブルにしている模様。
まさに「手が焼ける」人なのです。
いまだにレーニンの哲学書を信じているのだからね。
他方広松はレーニンが批判したエルンスト・マッハ
を逆に評価しているので、OFW氏には広松が
目障りでしょうがないということだろうね。
まさかOFW氏は
「人間と自然との関係である生産力と
人間同士の関係である生産関係が
アウフヘーベンして生産様式になる」
(マルクスの典型的なスターリン的定式化)
なんてことを真面目に論じてたりしてな。
84 :
考える名無しさん:01/12/25 23:57
いや、このスレ レベル高いと俺は思う
大体三項図式批判が当たり前のように出てくるし
正直73の言ってることはよくわからないし
75は、その筋の人には当たり前だったかもしれないが
そして必ずしも同意しないけど、初めて気がついてなるほどと思った
正月休みの為に、廣松渉著作集買っちった。
30000円です。
俺的には「安いなー」って思ったんだけど、どうなんだろう。
読んだ形跡もなく、帯付いてたし。
何しろ、金がなかった学生時代には手が出なかったからね。
昔は図書館で辞書引きながら読んだっけ、なつかしいなあ・・・
88 :
考える名無しさん:01/12/26 06:15
>>68 高橋順一(早稲田商学?)をのぞけばそうだね
89 :
考える名無しさん:01/12/26 11:59
>>88高橋先生は教育学部で、ドイツ語の教員らしいです。
90 :
考える名無しさん:01/12/26 23:35
大森スレで大森の弟子の名前が上がってたけど
廣松の弟子っていうと誰になるのかね?
大庭某みたいな自称弟子を除くとして。
>>91 えっへへ、それだけは知ってたんだ。
それ以外で誰か教えて欲しかったんだよねえ。
93 :
考える名無しさん:01/12/27 05:42
94 :
考える名無しさん:01/12/27 10:22
小阪、西、川本・・・河本はどうか知らん
95 :
考える名無しさん:01/12/27 11:03
野家は大森筋だろう
96 :
考える名無しさん:01/12/27 11:05
>>95 二人におそわってるらしいよ。大森には厳密に言って!弟子はいないの
では(みんな反旗ひるがえすし)
97 :
考える名無しさん:01/12/27 13:26
高橋順一は左翼だからだめ。哲学的資質は微塵も無い。
大森の弟子は師の学説に反旗を翻すところも含めて「弟子」
なんだよ。
100 :
考える名無しさん:01/12/27 19:31
>>97 高橋は駄目やろうだと思うが、彼は左翼(マルキ師スト?)で満足
してんちゃうん。大森の下で勉強してた人達は異様に論理実証主義
に敵意むきだしなところが(村上、野家、中島etc)弟子と言えるか
どうか
101 :
考える名無しさん:01/12/27 19:39
まあ、大森も論理実証主義からの離脱が課題であった
とも受け取れるので構わないでしょう。
102 :
考える名無しさん:01/12/27 19:43
>>101 そうなのかなあ。まあ生きてたら聞いてみたかったけど・・・・
まあ俺がバークリー(等イギリス経験論)が好きなもんで、論理
実証主義はアホだが嫌いでもないという感じですから・・・・
103 :
野家の・・・:01/12/27 19:57
広松渉訳のマッハ「感覚の分析」と「認識の分析」、それに両書の
巻末に収められた訳者のマッハ論に出会ったことは、私にとって、
決定的な体験となり、自分がやりたかったのはこれだという思い
に駆られた。その意味で、後に大学院で師事することになった広
松先生は私を物理学から哲学へと誘惑するメフィストテレスの役
を果たしてくださったのである。
(95年に買ったaeramook哲学がわかるに書いてあった)
>>75 >所与=使用価値 能知=具体的有用労働
>所識=価値 能識=抽象的人間労働
殆ど理解不能です。マルクス思想との関連も含めて、解説きぼーん。
確か廣松は使用価値、交換価値、価値をそれぞれ有、無、成に対応づけ
て(それ自体誤りだと思うが)いたと思うが?
>>81 廣松は文献学者あるいは紹介者としては優れていると思うが、哲学者と
してはあまり頂けない。ざっと言えば
1「マル存主義者」達の疎外論に対抗して物象化論を強調するあまり、
<物象化>を社会関係の疎外としてではなく、単なる認識上の「錯視」
(錯覚)として矮小化している。
2近代の主観・客観パラダイムを超えるとしながら、物的→事的という
転換は単なる現象主義であり、主観―客観の対立から「役割存在」−
「意味構成態」の「相即」(対応?)への転換は(共同主観的とは言
われても)世界の客観性を廃棄する主観主義である。
3文献学者の割に自らの使う用語にルーズであり、平凡な思想を難解な
言葉で説き、逆に要点となる概念を通俗的なたとえで説明するのみ。
>>82 >『唯物論と経験批判論』を認識論哲学上のバイブルにしている模様。
そんなことはないな。「坊主とバイブルを外せ!」(レーニン)ちゃて。
>エルンスト・マッハを逆に評価している
確かに、廣松はマルクスに共感的だが、認識哲学的にはマッハと共に観
念論者でしょうね。彼の主張のどこに唯物論があるのかな?
>>83 >マルクスの典型的なスターリン的定式化
とは不明であり、「生産力」「生産関係」「生産様式」「アウフヘーベ
ン」という概念について誤解があるような。
105 :
考える名無しさん:01/12/27 22:03
>OFW氏
まさに広松への敵意むきだしですな。
はっきりいって大人気ないと思いますよ。
>>104(OFW氏)
むしろレーニンの「物質とは人間の意識から独立して
その外に存在する」というテーゼを解説してほしいな。
このような前提こそ人を不可知論へと陥れると広松は
考えたはずなのでね。それが彼の三項図式批判の目論見に
ほかならない。
広松が哲学上で闘争したのはその不可知論とあと独我論
だったことは『新哲学入門』(岩波新書)を読めば明白です。
とりあえずレーニンは意識から独立したものを認めている時点で
量子力学の観測問題以前だと思う。
そしてエルンスト・マッハの哲学はのちにアインシュタインの
物理学の誕生に大きく寄与したことを考えるとマッハ批判者
レーニンに分がないことは自明でしょう。加えて、
不可知の実在(客観)を想定しているところでむしろレーニンは
中沢新一のような神秘家の共感を呼んでいることに注意すべき
でしょう(『はじまりのレーニン』参照)。
不可知論は哲学上の「否定神学」にほかならないのでね。
107 :
考える名無しさん:01/12/27 23:00
横槍の蛇足だが
>>106 >むしろレーニンの「物質とは人間の意識から独立して
>その外に存在する」というテーゼを解説してほしいな。
>このような前提こそ人を不可知論へと陥れると広松は
>考えたはずなのでね。それが彼の三項図式批判の目論見に
>ほかならない。
>広松が哲学上で闘争したのはその不可知論とあと独我論
>だったことは『新哲学入門』(岩波新書)を読めば明白です。
禿同。ほんとはもっと壮大な構想を持っていたと思うが
集中砲火を浴びせているのは認識論だから当然だが
前記2者。しかし、この2者を叩ければそれこそ知の基礎付けに
とてつもなく大きな貢献をしたことになる
ところで・・
後段のアインシュタインの成功を論拠にして
広松>レーニンとするところは同意できません
勝てば官軍になってしまふ
>>104(つづき)
>解説きぼーん
まず使用価値は感覚に与えられる。現相的所与も感覚に与えられる。
だがしかし商品としての使用価値には価値形態(つまり価格)が付与
されている。同様に現相的所与にはそれ以上の意味的所識が付与
されている。つまり「als構造」。
まず広松はこのようにマルクスの捉えた商品世界の現象的側面
つまり商品体の使用価値と価値としての二重性を現象体(フェノーメノン)の
現相的所与と意味的所識の二重性として拡張した。
次に使用価値を作るのは具体的労働であるが、能知は経験的主体であり
それ自体、能作の主体である点で具体的労働を担う主体である。
そして価値とは抽象的労働の所産であり、それは社会的労働時間で計測される
ならば、それはつまるところそれは共同主観的である。
なぜなら、社会的労働時間は地域や時代で異なるからであり、そしてそのような地域的
時代的差異つまり非客観性(歴史性)を広松は共同主観性(能識)で基礎付ける。
だから価値とは共同主観性(能識)との対応項であるといえる。
以上がマルクス価値論と広松四肢構造論との関連性の概略です。
109 :
考える名無しさん:01/12/28 01:25
さんくす
110 :
考える名無しさん:01/12/28 06:40
誰か後年のシュッツ論て知りません?
111 :
考える名無しさん:01/12/28 07:54
カブールなどに拠点を持つ日本の非政府組織(NGO)「ペシャ
ワール会」によると、カブールからは多くの市民が北部同盟を恐れて
脱出しているという。同会もカブールの現地スタッフに避難を促して
いる。
現地スタッフからペシャワルにある同会の病院に入った連絡では、
12日夜にカブールからタリバーン部隊が撤退を始めたのを見た市民
が、カブールから避難を始めた。
避難しているのはパシュトゥン人の市民たちで、タリバーンもパシ
ュトゥン人中心。北部同盟を構成するタジク、ハザラ、ウズベク系の
市民たちは北部同盟を歓迎し、カブールにとどまっているという。
タリバーン部隊はカブール撤退前に国連の倉庫を開いて中の食糧の
大部分を市民に配り、一部を部隊自らが持っていったという。
北部同盟の中でもっとも残虐だった一派はヘクマティアルの一派
だが、連中は今回は北部同盟ではなくタリバンに加わっていることを
もっと多くの人が知っておくべきだろう。タリバン穏健派というものが
いたとして、それを政権に加えることはあっても、ヘクマティアルだけは
絶対に入れてはならない。アルカイダ同様、撃滅すべき対象。
結局「これは予言ではない」も大はずれでしたね、
柄谷さん。
「戦後」とは、つまり国連によるアフガン統治という
だけで、なにも新しいものはありません。
アメリカ資本で打撃を受けたのは航空業界だけだし、
むしろあのテロで建設業界は漁夫の利を得ていますよ。
柄谷さんは『トラクリ』でマルクスは資本制がいかに
脱出が難しいものかを『資本論』で示したと言ってますが、
それはまさに本当ですね。
結局この一連のビンラディン騒動が示したことは、
いかにアメリカの資本=ネーション=ステートが無敵で
あるかということでしたね。
いまのところ俺の予想とか当たってるでしょ
すくなくともNAMの人たちよりは
アメリカによる報復そのものを防ぐのは不可能だし
アメリカは基本的に国連の支持のもとにやってるし
タリバンは民衆の支持を得られていないし
圧倒的に米国-北部同盟側のほうが強いし
112 :
考える名無しさん:01/12/28 08:31
はいはいすべて捏造
113 :
考える名無しさん:01/12/28 17:45
村田純一って弟子じゃないの?
>>105 >大人気ない
そうですね。もう故人でもあり、その思想は冷静に評価されるべき。
>>106(75さん)
>「物質とは人間の意識から独立してその外に存在する」というテーゼ
自然の本源性(先在性)に関する唯物論の基本的な主張ですから、それ
への賛否は「唯物論か?観念論か?」という原則的立場に関わる。
無論、<物自体><物質>を抽象的に捉えればむしろ無内容な観念に過
ぎないのであり、その具体性において捉えることが肝要です。
「意識の外」とは現象学風に言えば超越的な客観世界でしょうが、自然
の質料性(物質性)を本源的な存在として見ることは、まさに形相的還
元がなし得ない現実認識への道を開くものです。
>このような前提こそ人を不可知論へと陥れると広松は考えたはず
誰でも物質の外在性、独立性を前提に生活しているが、かと言って別に
不可知論などには陥らないでしょう。機械論的な認識態度が認識対象を
固定的なものと考えることから、その2元論的超越性に悩むことになる
のです。「認識に応じてその対象も変化する」(ヘーゲル)のです。
>量子力学の観測問題以前だと思う。
量子力学の観測問題はマッハとは関係ない。それは不確定性原理に関す
る解釈問題であって、物質の外在性、客観性を否定してはいません。
>アインシュタインの物理学の誕生に大きく寄与した
アインシュタイン自身はそのことを否定しているが、同じ“認識論的構
制”を含んでいるというのはその通り。因みにアインシュタインは量子
力学に反対して「神はサイコロを振らない」と言い、物質世界の創造者
としての神を(ニュートンと同様に)信じていたようですね。
>不可知の実在(客観)を想定している
レーニンは、客観は絶対的だが不可知ではないと考えていた。
彼が言うように、相対性―絶対性の関係は弁証法的な性格を持つのです。
>>114(OFW氏)
あのですね、広松は質料の先在性は否定してませんよ。
彼はそれを(現相的)所与=能知に与えられたものと
いうわけですが、それは<与え「られた」もの>という表現が
示すように、認識過程における受動的契機なわけです。
こんなことなら、唯物論を持ち出すまでもなく、経験論者
も認めるし、カントだって認めるところでしょう。
質料の先在性などはOFW氏のいうよう、生活上の常識です。
机を作るためには木材という質料が先になければならない
ですからね。
ただ広松は木材というのもすでに形相によるカテゴライズ
経て存在していると言うわけですね。もし木材が人類の
誰にも知られていない<質料そのもの>だったら、誰がそれを
そもそも木材だと同定できようか?
そういう<裸の質料>などはないのであって、どんな
プリミティブな質料でも形相(所識)との相関をはなれては
存在しえないと言っているだけですね。
これが広松のいう「フェノーメノンの二肢性」の不可避性
なのです。
質料なき形相も単なる抽象だが、同時に形相なき
質料もまた単なる抽象なのです。
>>108(75さん)
簡便な要約をどうも。そこで・・・
>まず使用価値は感覚に与えられる。現相的所与も感覚に与えられる。
使用価値(物の効用、有用性)は感覚には直接与えられない。<効用>
とは相関的な概念であり、たとえば衣服の効用は人に応じて異なるもの。
「現相」とは曖昧な用語ですが、現れ(現存在)は既に二重のものとし
て「○○の現れ」という存在形態をとるから、直接的所与(実在)では
ない。
>だがしかし商品としての使用価値には価値形態(つまり価格)が付与され
>ている。
商品の使用価値はその非所有者にとってのみ存在するが故に交換の場に
登場するのです。所有者にとって商品とは交換価値の担い手であり、そ
れは<他者にとっての使用価値>だということです。また、価格とは価
値の一般的等価形態であり、価値形態一般ではない。また「付与」とは
曖昧であり、商品に値を付けることは記号に意味を付与することとは異
なる経済的本質(形相)を持っている。
>同様に現相的所与にはそれ以上の意味的所識が付与されている。
何が「同様」なのか不明ですが、<現れ>および<商品>は単なる記号
ではなく、それぞれ存在論的および経済的な本質を持った存在ですから、
表面的・形式的な類似性ではなく、種別的で具体的な議論が欠かせない
でしょう。
>つまり「als構造」。
「として」という用語は多義的で便利ですが、厳密な議論ではドイツ語
としても避けるべきでしょうね。
>現象体(フェノーメノン)の現相的所与と意味的所識の二重性として拡張
>した。
何故拡張する必要があったのかな?マルクスそのままでは不十分?
>>108(75さん)(つづき)
>次に使用価値を作るのは具体的労働であるが、能知は経験的主体であり
>それ自体、能作の主体である点で具体的労働を担う主体である。
趣意不明。具体的労働により有用物(財)を生産する主体は経験的で意
識を持った諸個人(労働者)である、という自明の事実のこと?
>そして価値とは抽象的労働の所産であり、それは社会的労働時間で計測
>される
いわゆる労働価値説を指しているようですが、それは「価値の実体は社
会的必要労働である」ということであり、実体概念の理解が必要です。
>ならば、それはつまるところそれは共同主観的である。
趣意不明。計測(評価?)は人間が行うから客観的ではない、というこ
と?確かに、価値を主観的存在だとするのはブルジョア経済学に共通し
ているが、その正体は客観的に必要な労働力支出だということです。
>なぜなら、社会的労働時間は地域や時代で異なるからであり、そしてそ
>のような地域的時代的差異つまり非客観性(歴史性)を広松は共同主観
>性(能識)で基礎付ける。
どうして地域的時代的差異が非客観的なのでしょう?もしそうなら、歴
史学は客観的学問ではないということになるが。また自然的・歴史的な
条件に応じて生きるために必要な労働時間が異なるのは、主観の恣意に
は依らない必然的で客観的な事柄です。
>だから価値とは共同主観性(能識)との対応項であるといえる。
>以上がマルクス価値論と広松四肢構造論との関連性の概略です。
いかなる対応関係なのか不明(記号論的対応?)ですが、異なるレベル
の対象的本質を表面的な意味関係に当て嵌めて“改釈”しているような。
>>OFW氏
説明したら、また「趣意不明」ですか?
単なる時間の無駄だったようですね。がっかりしました。
(レーニン主義者にはなにを言っても無駄ということかな?)
119 :
考える名無しさん:01/12/31 02:54
弟子の大庭健って人はどうなの?
>>115(75さん)
>ただ広松は木材というのもすでに形相によるカテゴライズを経て存在
>していると言うわけですね。
人間は、森林から木を切り出し(抽象し)、木材として精製し(エッセ
ンス化し)、それを材料(素材、質料)として組み立て(構成し)た後
に、初めて個物(形相と質料の統一)としての机が目の前に現れる
(現象する)わけですね。
>もし木材が人類の誰にも知られていない<質料そのもの>だったら、
>誰がそれをそもそも木材だと同定できようか?
哲学者は目の前に知覚された机の製造過程を追思惟して、形相と質料
から観念<机>を再構成するわけですが、森林自体は人類が地上に
出現する以前の太古から客観的に存在していた<自然>ですね。唯物論
者が言う物質の観念に対する先在性、独立性とはそのことです。
>質料なき形相も単なる抽象だが、同時に形相なき質料もまた単なる
>抽象なのです。
まったく、その通りです。
森林を材料として見ることもあるし、
神聖な畏怖すべき存在とみることもあるし、
美しい風景(美的存在)として見ることもある。
このような森林の"多彩な"現象様式を広松なら
共同主観性論で説明するでしょう。
森林を「木材の束」としてしか見ないことは、一つの
偏見にすぎないのです。経済的−技術論な視野狭窄。
そして「木材の束"として"の森林」「美的存在"として"の森林」
「神聖な畏怖すべき存在"として"の森林」の背後にある
<森林そのもの>は無論、存在しない。
そんなものは、だれも見たことがないので。
122 :
考える名無しさん:01/12/31 15:27
能知、能作、能識ってドイツ語にすろと何?
123 :
考える名無しさん:01/12/31 15:35
あなたの信じているように、あなたはアタマイイとする。
そんなあなたがばったりと、ひとりの馬鹿との不可避な出会いを
遂げるなければならないとする。
そこで語られる言葉は、あなたにとっては陳腐なものと、
彼にとって腹立たしいものだ。
あなたが普通に喋っているだけで、相手を怒らせることになる。
このような時、あなたはナニを選択するかをボクは問う。
あなたは馬鹿なフリをして、相手にハナシをあわせることも
出来るし、肩をすくめて相手をやりすごし、殴られることも出来る。
両者の違いは、単にどちらの存在が無視されるのかということの
違いでもあるだろう。
だが、そこであなたは次のように感じるかも知れない。
なぜ、我々は互いに存在を否定しあわずにはすまされないのか。
この二つは、そもそも答えとして最善だろうか。
そう考えた上で、我々が出会うべきではなかったと悔い、
それを避けられない運命を呪う。
なぜ、馬鹿とあなたは共存できないのか。
馬鹿とあなたを共存させるためにナニが必要なのか。
ちなみに後者は馬鹿とあなたの共有コードを模索する問いになるだろう。
で、あんたら一体、どうおもうのさ
124 :
考える名無しさん:01/12/31 17:54
いや「森林そのもの」見てるんじゃない?
まったく用在としてない物在なんかない。
そんなもんは第一質料みたいなもんだ。
…と、廣松は言っております。
明けましておめでとうございます、とて。
>>121(75さん)
>このような森林の"多彩な"現象様式を広松なら共同主観性論で説明する
実在の多様性と現象の相関性とはカテゴリーレベルが異なり、多様な現
れの根拠として<森林>は本質存在するのです。森林の本質とはそれが
森林である所以のものであり、その構成要素間および外部環境との相互
作用を通して自己を再生産し、歴史的変化を通して発展あるいは衰退す
る全体的な存在です。その客観的な本質は生態学によって研究されてい
ます。
>森林を「木材の束」としてしか見ないことは
まさに近代資本主義の効用主義的な偏見でしょうね。それまでの日本に
は自然と一体化した労働の姿があり、大工職人技の伝統にも生きている。
>「美的存在"として"の森林」「神聖な畏怖すべき存在"として"の森林」
は無論主観的なもの(表象)ですが、実在するあれやこれやの森林から
インスピレーションを受けているからこそそれは「森林」と記号化され、
たとえば「山岳」「海洋」とは呼ばれないわけでしょう。
>その背後にある<森林そのもの>は無論、存在しない
のは当然です(唯物論は唯名論から発展した)が、その理由は
>そんなものは、だれも見たことがない
からではなく、<森林そのもの>は知覚の対象(実在)ではなく、概念
的認識の対象(形相的本質)だからです。
(フッサール流の本質直観の意義については省略。)
>>126(OFW氏)
>フッサール流の本質直観の意義については省略
省略しないで、解説して欲しいですね。
>インスピレーション
これまたOFW氏らしくない曖昧な言い方ですね。
>大工職人
彼らほど森林を木材の束としかみない人たちは
いないのでは?彼らはたとえ「御神木」でさえも
木材として優れているのなら、それを切らしてくれ
と頼むでしょう。NHKの『プロジェクトX』という
番組で伝統的な木造建築の再建のため闘ったある大工職人を
紹介していたが、その職人はある地方で御神木として
祭られていた巨木をその木造建築再建のためだとして、
その御神木を木材として切り倒していましたね。
まあ、地元の人や神主の了承を経てですけどね。
職人はむしろ自然を材料としてしかみない人の代表だと思う。
職人の本性を知りたければ、ビートたけしの本に
色々書いていますよ。職人へのロマンティックな感傷を
一切抜きにした本音が語られていて、面白いですよ。
彼自身の父親が職人だっただけにその発言は確かでしょうし。
>>127(75さん)
>>フッサール流の本質直観の意義
スレのテーマに引き寄せて敷衍的に言えば、本質形相が志向的対象とし
て直観され得るとした点で、それは事物をその記号表象に置き換えて具
体的内実を無意味化してきた、20世紀の「意味の観念論」とでも言え
る哲学潮流のはしりと言えます(ソシュール、ラッセルからデリダ迄)。
『存在と意味』をテーマにした広松もその影響を受けている観念論者の
一人でしょう。
たとえば、件の<森林>を例にとるなら、フッサールは言うでしょう、
「実在するあれやこれやの森林の経験的知覚ではなく、その表象の理念
化的抽象、自由変更を通して直観される<森林そのもの>というイデア
ールな対象こそが<森林の森林性>つまり森林の形相的本質である」と。
しかし、<森林の森林性>(現存在の本質)とは森林が森林である所以
のもの、その根拠のことですから、それはあくまで様々な森林の性質、
関係、成長法則等を具体的に研究した上で得られる総体的な対象です。
それは直観の対象にはなり得ず、概念の対象としての本質存在です。
<森林のイデア>など存在しない以上、彼の<森林そのもの>とは意識
に浮かんだ言語表象でしかなく、その理解のために解釈を要する多義的
な記号存在ということになる。ハイデガーが解釈学的方法により<存在
の意味>への問いに向かったことは、確かに“現象学的”必然性があっ
たと言えるでしょう。
改めて・・・
>>127(75さん)(つづき)
>曖昧な言い方
たとえば、ヘーゲルは美的(芸術的)精神および宗教的な精神を共に絶
対的精神の一段階として位置づけており、美の本質を<自然の模倣>と
捉えた。(但し彼の<自然>とは絶対的精神(神)の自己疎外ですが。)
フォイエルバッハはヘーゲル疎外論を転倒させ、宗教の本質を感性的・
自然的人間の類的本質の自己疎外と捉えた。宗教的人間は本源的自然の
中に自らの類的姿を(逆さまに)投影して見ると言うことです。芸術の
本質(感性論)に関しては、自然とその一部である人間との直接的な相
互反照(類的個体の仮象性)という観点が重要でしょう。
>NHKの『プロジェクトX』
残念ながら、大工職人の例はカキコの直前に見たNHK『人間ドキュメ
ント−かんな削り日本一』(再放送)からの連想でした。その中で一人
の棟梁が、伝統的な数奇屋作りの注文が減って自分の技術を生かせない
ことから、それ自体特別の<実用性>もなく<稼ぎ>にも結びつかない
数ミクロン単位での木材削り競争で、腕の磨きを維持しようとしていた。
非マルクス派の“労働の哲学者”にして環境保護運動家である内山節氏
は、近代(近世)において<働く>ことが<稼ぐ>ことになり、自然と
人間=社会の<時間>が共に収奪されてきたと説いています。しかし、エ
コロジー運動も現代社会の階級的本質にまで踏み込まなければ、資本に
よる自然および労働者の収奪に対する弁解的な補完物にしかならない。
問題は、大工職人や『プロジェクトX』に登場する“日本の男”技術者
の「物象化的錯視」などではなく、資本主義社会の只中にある現実的な
矛盾(階級対立)からくる自然と人間との関係の物象化なのです。
>>128-129(OFW氏)
フッサールの本質直観の解説、どうもです。
>広松もその影響を受けている観念論者
マルクスをヘーゲルという"観念論の権化"から
影響を一生受け続けたわけですよね。『資本論』では
自分はヘーゲルの弟子だとまで公言する。でも
マルクスは観念論者ではない。つまり、観念論者
から影響を受けたことが、その人を必ず観念論者に
するとは限らないでしょう。
広松は確かに「意味」について論じるが、他方マルクス
も『資本論』で「(商品)価値」というおよそ形而上学的
な小理屈に満ちたものの解明に取り組んでいるわけです。
>物象化的錯視
大工職人はその錯視に陥っているから、森林を木材の
束としてしか見ないのではなく、彼らにそう強いている
のは大工という職業(社会的役割)ですね。誰でも
大工になれば、森林という美しい自然を木材として伐採
するほかには自分の生計は維持できない。およそ大工は
太古の昔から森林を木材として伐採してきたわけであって、
当たり前のことです。
ただ問題なのは森林を破壊するほどの「乱伐」であって、
そこに資本の利益重視が一枚噛んでいるということでしょう。
131 :
考える名無しさん:02/01/03 23:24
75さん、OFWさん お二人の議論興味深く拝見してます
厨房の横槍なんですが、OFWさんの
>事物をその記号表象に置き換えて具体的内実を無意味化してきた、
>20世紀の「意味の観念論」とでも言える哲学潮流のはしり
というのは、逆さまから言うといわゆる「言語論的転回」について
語っているということにもなるのでしょうか?(外れだったらすみません)
仮にそうだとすると、現在の哲学は言語論的転回マンセーの状況のように
見受けられるのですが、
それに反対される意見ということでたいへん興味深いのですが、如何?
あげとくか。
>>130(75さん)
>観念論者から影響を受けたことが、その人を必ず観念論者にするとは限
>らない
無論そうですが、廣松が観念論者なのは「世界は主観的なものだ」とい
う立場に立っているからです。
>>131 >「言語論的転回」について語っている
まあ半分そうなのですが、20世紀の認識論が言語を正面に据えるよう
になったのは、直観や内省といった直証を離れて、認識の被媒介性、弁
証に向かうという必然的な動きであり、それ自体は大きな前進です。
しかし現状では、相変わらずの主観主義的な傾向が強い。一方で言語は
恣意的であり、表現あるいは措定された対象世界の客観性は疑わしいと
言い、他方で自らが構成した言語(記号)こそが実在自体であると言う。
1.「対象(事態)は言語的に構成された主観的なものに過ぎない」
(言語構築主義の行き過ぎ)。
2.「共同体の違いを超えた普遍的真理あるいは価値などない」
(文化相対主義の行き過ぎ)。
3.「存在するとは論理式の変項の値となることである」
(論理主義の行き過ぎ)。
4.「自由な市民による誠実な討議が普遍的真理を保証する」
(現実を見ない言語規範主義)
5.「普遍的真理など欺瞞であり、差異の戯れがあるのみ」
(<理性>に反抗するポストモダニズム)
言語(および認識)は一定の社会における諸主体の言語行為(行動)に
おいて現実的である以上、言語(言説、理論)の意味あるいは真偽判定
に関する最終審級は実践的なものであり、具体的に言えば、言語主体の
社会的地位(階級)でしょう。つまり「誰が語るのか?」(ニーチェ)と
いう設問は、唯物論的に言えば、<真理の階級性>(戸坂潤)あるいは
(共同主観ならぬ)<階級主観>といったテーマになるでしょう。
134 :
考える名無しさん:02/01/05 21:16
OFW=素朴実在論者?
135 :
考える名無しさん:02/01/13 01:09
ageる役割
>>134 >OFW=素朴実在論者?
弁証法的唯物論者です。以前にも書いた(『実在論についての調査』ス
レ)が、客観的世界に対する認識態度の発展段階としては、G.バシュ
ラールが『否定の哲学』で述べている
素朴実在論→経験論→科学的合理論→弁証法的唯物論
というものが客観的に妥当でしょう。通常の成人は生活局面および対象
領域に応じて、それぞれの立場を使い分けており、その割合を示す標準
的な<認識のスペクトル>を想定すると、経験論の比率が最も高く、
次いで科学的合理論→素朴実在論→弁証法的唯物論の順で低くなってい
る、という主張は常識的にも首肯できる。無論弁証法的唯物論の比率は
極めて低く、その正しい理解すら稀な現状ですが。
ところでOFWは客観性が実在すると思っているの?
138 :
考える名無しさん:02/01/13 18:16
OFW氏の頭の中では
観念論―主観―恣意
唯物論―客観―真理
という二項対立図式が成立しているようだ。
>>138 レーニンや日本共産党の人たちの頭の中でも
その図式は成立しているね(w
>>137(超絶美少女さん)
「客観性」は実在せず、諸客観が実在するのです。
すべての科学者は自己の研究対象が客観的な存在であることを前提に
仕事をするが、それは学問が理性的営為であることと同義です。
哲学者(主観的観念論者)は科学者とは異なり主観性の優位を説くが、
諸主観の対立(恣意的なおしゃべり)を調停すべくもない。
>>138 >二項対立図式
機械論的な思考は固定した対立しか思惟できないが、弁証法的思考とは
対立の中に統一を見る、動的で具体的な認識です。
「万物は流転する。固定されたものはその固定(否定)により存続でき
ない。」(ヘラクレイトス、パラフレーズ付)
客観は主観による前提的定立という媒介を経て、初めて真なるものとし
ての客観なのであり、機械的に分離することは誤りです。
>>139(75さん)
>レーニンや日本共産党
残念ながら、現在ではレーニンと日本共産党を同列に扱うことは、両者
共が拒否するでしょうね。日本共産党は内向きにはスターリン主義、外
向きには社会民主主義の党であり、既に共産主義の党とは呼べない。
(日本共産党の実情については、下記“有名”サイトを参照。)
さざ波通信
ttp://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/ JCPウオッチ
ttp://jcpw.site.ne.jp/
相変わらずのドグマティズム。
そして教科書的レス。
さすがです(w
142 :
考える名無しさん:02/01/13 22:34
>哲学者(主観的観念論者)は科学者とは異なり主観性の優位を説くが、
>諸主観の対立(恣意的なおしゃべり)を調停すべくもない。
ここが判らんな。
主観=恣意的なのか。純粋に恣意的な主観なんかあるのかね?
それこそOFWの頭の中で機械的に分離された
「抽象的な」主観に過ぎないんじゃないか。
143 :
超絶美少女:02/01/14 01:19
まず始めに言っておかなければならない事は、我々が人、神、国家、歴史、科学についての諸言説を
認識するという事は、それらについて語られた、あるいは記述された記号(コード)を解読する事に他ならない。
そして我々が問題にしてきた対象は、人間そのもの、歴史そのものだったのではなく、それら実体を媒介する
コードそのものであり、物自体、客観性についてのイメージ(疎外的自己同一)そのものだったというのも今更
言うまでもない。そして、言葉が発せられる場には必ず作者(語り部)が存在する。ニーチェによって神が死に
構造主義によって人間(音声主義)が死んだという内実は、神という実体が死んだわけではなく、神という記号
を生産する神学者(作者)に対して、ニヒリズムという新たな差延、神話作用を生産することと同意である。
ここでは、神学者とニーチェという二項(ここには神という実体的第三者は存在しない)、いわば作者と作者との
イマジネールなパロール(発言)が瞬間的に反復するだけだ(ディスクールの現前化行為)。
弁証法的歴史史観もしかり。このことはつまり、我々は、キリスト救済、弁証法的歴史を漸進的に一意的な方向
へと「収束」していくのではなく、ディスクールの現前化、差延、神話作用の反復により、むしろ、目標を回避
する形であらゆる方向へと「発散」していく事を如実に物語っている。
もはやそこに「客観的事実」などは存在しない。
恣意的なのは主体(作者)でもなく、主体が記号のホストなのでもない。むしろ記号が我々主体の強烈なホスト
であるという事を強調したい。そして、なぜ神が死に、人間が死んだのかを良く考えてもらいたい。
それでも諸客観性が存在すると主張するのならば、弁証法的唯物論者であるOFW氏にぜひ伺いたい。
性倒錯者における対象選択の多様性を、生物学的な欲求という水準で理解することができないのはなぜなの
ですか?
過食症患者が「実体としての食事」ではなく、「食事」という記号を欲望し、決して現実の食事そのものに到達
できないのはなぜなんですか?
これらの問題が解決されないのは、欲望する人間があらゆる蓋然的観測から逸脱していく過剰な存在である
ことの証左であるとは思いませんか? これは強烈な現実なんです。
なにもオレは真っ向からあなたを否定しているのではなく、ただ、このえもいわれぬ強烈な『現実』を前に
あらゆる理論的観測の蓋然性を許容するのがあまりにも困難だと思ったからです。あしからず。
>>141(75さん)
>教科書的レス。
抽象的質問(あるいは印象批評)には、当面公式的に答えるしかない。
>>142 >主観=恣意的なのか。純粋に恣意的な主観なんかあるのかね?
思考の真偽判断の基準を思考対象の客観性に置かなければ、各人の恣意
的な意見(ドクサ)間の対立も調停できなくなるだろう、というごく当
たり前の事情を言ったまでです。
>>143(超絶美少女さん)
>諸言説を認識するという事は、それらについて語られた、あるいは記述
>された記号(コード)を解読する事に他ならない。
私はこう考えます。
諸言説を<認識する>という事は、それらについて語られた、あるいは
記述された記号(コード)を解読する事を通して、同時にそれら諸言説
で言及されている対象が客観性をもつものかどうかを確かめる事を通し
て、それら諸言説が<真である>かどうかを判定する事に他ならない。
>我々が問題にしてきた対象は、・・・物自体、客観性についてのイメー
>ジ(疎外的自己同一)そのものだった
というのは誤解です。それが正しいのは対象が虚偽の場合、つまり、
錯誤、幻想あるいはイデオロギーの場合に限るのです。表象の対象とし
ての<物自体>など存在しない。物の本質とは物性的諸関係の総体とし
て科学的研究の対象、つまり科学的概念の対象として客観的な存在なの
です。物自体は実在せず、諸関係の総体として本質存在するのです。
>神という記号を生産する神学者(作者)
それには同意。神学者(僧侶階級)は人類最初のイデオローグであり、
<神>とは上に述べた虚偽の対象(必然的な虚構)の一例ですね。
「虚偽は真理の必然的な契機としては、もはや虚偽ではない」(ヘーゲ
ル)という事は、「神の真理は人間の類的本質である」(フォイエルバ
ッハ)という唯物論的(地上的)な自己認識にも当てはまるのです。
>>143(超絶美少女さん)(つづき)
>記号が我々主体の強烈なホストであるという事
およそ記号とは原物(実在および本質存在)の代わりに立てられた物と
いう存在性格を持ち、人間は記号を操ることに巧みな動物ですが、すべ
てが記号であるわけではない。ポストモダニスト達はそう主張して、子
供でも分かる事情(記号は記号の代わりになれない)を誤魔化したが。
>性倒錯者における対象選択の多様性を、生物学的な欲求という水準で理
>解すること
は無理でしょうね。何故なら、それは社会的・文化的な本質をもつ事象
でしょうから。フロイトの“科学的仮説”を借りれば、エロスの分化は
自体愛(オートエロス)の段階から肛門期を経て成人の対象的愛に至る
そうですが、何を<正常な>エロス形態とするかはその社会の文化規範
によるだけであり、本来エロスという自然は自由なものでしょう。
文化規範からの逸脱は社会の権威主義的(主体性剥奪)性格からくると
言え、現在も<倒錯>しているのは社会の方でしょう。
>過食症患者が・・・「食事」という記号を欲望し、決して現実の食事そ
>のものに到達できない
何故、現物の食物ではなく、その代わりとしての象徴<食事>を求める
のかは、まさに“真に”求めている対象が「満たされた食事」ではなく、
それ以外のもの、たとえば「満たされた愛情生活」であり、その原物自
体は決して「食事」という代用物では満たされないため、かな。
>欲望する人間があらゆる蓋然的観測から逸脱していく過剰な存在である
>こと
欲望には主体の<自由>という契機とその否定である<欠乏>という契
機があり、両者を弁証法的対立ー同一関係として捉える必要があります。
「自由とは必然性(必要性)の洞察である」(エンゲルス)ちゃて。
146 :
超絶美少女:02/01/15 03:36
>諸言説を認識するという事はそれらについて語られた、記述され
>た記号を解読し、客観性を持つかを確かめ、真偽を判定する。
オレは言説の客観的妥当性、真偽の判別が有効だとは思えません。
例えば、マルクスが労働力という新しい認識を生産することができた
のは、古典派経済学の主張する労働の価値(=労働の維持、再生
産に必用な生計財の価値)を以ってしては商品の価値の客観性を
説明できないことに気付いたからだというのはみなさん周知のはず。
つまり、人間の生活条件、様式自体がそもそも質的に異なるため、
これらを客観的基準として商品の価値を設定する事が不可能という
意味ですよね。それに対しマルクスは労働という旧来の概念に認識
論的切断を与える事で商品に対する客観的基準(=労働力)を生
産する事ができた。つまり、人間労働を質ではなく、量として捉え直
す必要があった。
この事はつまり、客観性というものは、既存の言説を解読し真偽を判
別する事で得られるものではなく、旧来の記号(労働)に対して、新た
な記号(労働力)を宛がい切断面を生じさせる事で始めて獲得できる
もののだという事を意味している。
古典派経済学は、既存の言説から客観的妥当性を獲得しようとした
ばかりに、ついぞこの問題を解決する事ができなかった。
例えば、キリシャ社会では奴隷労働に依存していたため、一般市民
と奴隷の労働を同質のものとして抽象化する事はできなかったとマ
ルクスは言っています。このように、社会は複数の異なる矛盾を抱
え込み、絶えず我々のあらゆる客観的標準から逸脱していく存在で
あると言えます(重層的決定)。その渦中にあって、既存の言説内部
から客観的標準を投射し真偽を決定するという事は、換言すれば、
労働のシニフィエを絶えず失っていくという事に他ならず、更には、
浮遊する労働のシニフィエが、加速する重層的決定社会に遅延を
とる事で、完全に純化したシミュラークルとして機能し始める危険
さえ孕んでいると考えます。
147 :
超絶美少女:02/01/15 03:40
>>146で省略された部分です。
浮遊する労働のシニフィエが、加速する重層的決定社会に遅延を
とる事で、完全に純化したシミュラークルとして機能し始める危険
さえ孕んでいると考えます。
148 :
超絶美少女:02/01/15 05:03
>すべてが記号であるわけではない。ポストモダニスト達はそう主張して
>子供でも分かる事情(記号は記号の代わりになれない)を誤魔化したが。
そんな馬鹿な!
では、近代資本制の貨幣はどう説明するのですか?
記号が隠喩でないという事は、商品交換の場へは決して現れてこない
象徴的財、いわばコミュニケーションを拒絶する退蔵貨幣に他ならず
資本として死んでいる。しかし、その貨幣は近代においてはレヴェラー
として、オブジェクトレベル(商品世界)とメタレベル(超越的価値)
を反復している。このことはつまり、オブジェクトレベルにおいては
近代貨幣の隠喩として商品が存在するという意味ではないのですか?
広松は客観的事実を全否定はしない。
ただそれがいかにして"ねつ造"されるかを
物象化の機制で説くのみ。
むしろ我々は「諸客観」という物象に
日常的には支配されまくっていると広松は
認めているからこそ、彼はそのドクサを破壊する
必要にせまられた。
客観という物象のあの独特の「迫ってくる」
という在り方と、我々の五感に印象を「植え付ける」
という客観の暴力的性格を、広松は理論的に解体した。
客観とは生の自然ではなく、それ自体「所与ー所識」
の二重態であり、主観の構成形式(所識)にそもそも従属している
のだと。
普通、客観は我々に印象を植え付ける主導権をもつ
絶対的存在だと日常的に思われているが、その
客観そのものがすでに主観の構成形式の所産だとは
普通気付かれない。
「客観は主観にこそ従属している」。
この転回は我々をオブセッションから解放するだろう。
そしてこの理論的闘争の成果を否定することはただ
物象化された日常意識の単なる肯定でしかないのだ。
「人間的主観こそ主権者だ」。
この「人間中心主義」を広松は認識構造上の"宿命"として
肯定するが、これは思想的にはヒューマニズムを意味す
るだけである。"認識論的主観主義"は認識哲学上の
ヒューマニズムなのである。これのどこに問題があるのか?
150 :
考える名無しさん:02/01/15 22:40
OFWさん 75さんや超絶美少女さん等という論客を相手に
お一人でお答えされているということ、その博識には脱帽です
言語論的転回云々のところでも書いたと思いましたが
OFWさんは、昔読んだマルクス主義の本に書いてあることを
主張されている、良い意味で珍しい方とお見受けしました
いわゆる正統派マルクス解釈は、現在では信奉者の数が激減していますが、
正直、それが誤っていたためか、それとも、単に社会主義(ソ連)が
崩壊したという現実の故なのか、私では判断がつきかねるのです
まず、言語論的転回云々でのレスですが、最終審級は階級であるというのは
一体どのような理由でそれを主張できるのでしょうか?
広松氏もある意味そうだと思いますが、認識論を完結させるために、
実践や、階級を持ち出すと、それらは結局のところ、ブラックボックスに
しかなり得ず、合理的な説得力を欠くように思われるのですがどうでしょう?
151 :
超絶美少女:02/01/17 05:07
>>145(OFW氏)
上で記号の置換を否定しておきながら、それを認めるフロイトの科学的仮説を引き合いに
出すとはいかがなものかと思います。性倒錯者を倒錯する社会の虚偽的所産とし、科学の
対象外とみなす事で、科学とイデオロギーの相違を明確にさせようとする意図が伺われる
のですが、両者の相違を鮮明に乖離させる事はほぼ不可能に近いと思います。
社会が常に要求する経済的土台の再生産を可能にするためには、政府、行政機関、警察
等の国家抑制装置だけでなく、学校、教会、家庭等の国家のイデオロギー装置が必要です。
例えば、学校は技術的な処理能力を教えるだけではなく、階級支配によって確立された秩
序の規則をも教え込む。つまり、イデオロギーとは諸個人の頭の中に存在している観念では
なくて、国家のイデオロギー装置によって与えられる様々な儀式に根差したものと言えます。
このことは、国家装置だけがイデオロギー装置なのではなく、市民社会を形成するありとあ
らゆる物質的日常実践や制度もイデオロギー装置として機能するという事を物語っている。
アルチュセールは「イデオロギーは物質的な存在を保持している」と明言しています。
また、「生産様式は無意識の働きに似ている」とも言っています。
確かに経済の決定権は強力ですが、それは最終審級においてであって、上部構造にも相
対的自立性と独自の有効性を認めるのも必要だと思うわけです。
つまり、社会的全体を、経済的審級を始め、イデオロギー的審級、法的国家的審級が重層
的に折り重なっており、各審級は固有の時間性、独自の運動の仕方、発展傾向を持つよう
な構造として捉え、様々な審級を配慮しつつ、あくまで最終的な審級として下部構造が決定
権を持つような有効性の事です。アルチュセールも経済的次元の最終的な規定力の機構を
明らかにする事はありませんでしたが、ただ、少なくとも、重層的決定社会は非常に現実的
であり、「矛盾」というものが原理的に言って重層的に決定される可能性がある限り、そして
イデオロギーが物質的な存在を保有する可能性がある限り、唯物的単層的審級に拘るのは
非現実的だと思います。更には、唯物的弁証法そのものが新たなイデオロギーを生産する
装置として機能する可能性があると言っても過言ではないと思います。
>>146(超絶美少女さん)
論点を<労働の価値>に関するマルクスの認識、だけに絞りましょう。
言われているのは、多分アルチュセール&バリバール『資本論を読む』
に出てくるもののことでしょうが、当該箇所でアルチュセールが言って
いるのは認識論的切断ではなく、テキストの<徴候論的な読み方>につ
いてでしょう。つまり、彼らは、マルクスが国民経済学のテキスト中に
「労働の価値」という語が現れるその箇所に、むしろその<不在>を読
み取った結果、「労働の価値」概念の“真の”指示対象は<労働力の価
値>であることを洞察したのだ、と見た。確かにそれは
「労働自体に価値はない。何故なら、それは価値の源泉であり、価値の
実体であるから」という、いわゆる<労働価値説>の必然性に対する洞
察が生まれる地点を示していると言えます。
上記のマルクスの認識が<言説の客観的妥当性>(労働の価値という言
説(概念)は客観的に妥当なものなのか?)を巡る<真偽の判定>であ
ることは明白でしょう。ただし肝心な点は、「意識がその対象において、
自らの知と対象が一致しないと気がつくときには、対象自身も持続して
はいないのである。」(ヘーゲル『精神現象学』緒論)と言われるよう
に、最初“真なるもの”(実在)と思い込まれていた対象が<虚偽の対
象>であると気づき、その媒介を通して<真なる対象>が生成する、と
いう弁証法の経験がそこにあることです。
>>148(超絶美少女さん)
>では、近代資本制の貨幣はどう説明するのですか?
それには『資本論』全体(少なくとも第一巻の最初の数章)が必要です。
>近代貨幣の隠喩として商品が存在する
商品は単なる記号ではなく、食べたり着たりできる<現物>でもある。
>>149(75さん)
>客観という物象のあの独特の「迫ってくる」という在り方
まず、本来マルクスの言う<物象化>とは「人と人との関係が物と物と
の関係として現れる」という内容であり、商品・貨幣が作る近代社会の
転倒した性格を指したものです。客観一般が物象あるいは「物象化的錯
視」であるとは言っていない(言うはずもない)。それは廣松の拡大解
釈あるいは拡張ですね。客観は
1.自然科学の対象としての<自然>
2.社会科学の対象としての<社会>
3.人文科学の対象としての<文化>等
に分類され得ますが、本来「物象」(物的事象)と呼べるのは<自然>
ですから、物象化とは人間社会の非本質化を言い、(無秩序な経済法則
が自然法則のように迫ってくる)資本主義社会固有の性格を指すのです。
>"認識論的主観主義"は認識哲学上のヒューマニズムなのである。
>これのどこに問題があるのか?
主観主義であることが理解されていれば、別に問題ないでしょう。
ただし、それがマルクスと関係があるかのように言われるとしたら問題
でしょうが。
>>150>単に社会主義(ソ連)が崩壊したという現実の故なのか
ソ連邦の崩壊を見て、理念的に共感していた人までも「社会主義(共産
主義)の誤りが実証された」と考えたのでしょう。しかし「社会主義の
祖国」などとは上記の<虚偽の対象>以外の何物でもなく、旧ソ連とは
実は国家資本主義の国だった、というのが私の見解です。
>最終審級は階級であるというのは一体どのような理由
(以前、他の板でも言ったことですが)
「科学の中立性」という言葉があります。仮定の話として、階級に分裂
している社会があったとして、その中で<普遍的真理>を探究する
“不偏不党”の科学者(社会科学者)は
1.現在の社会は階級社会であり、中立的立場は不可能である
2.以前の階級社会では中立的立場は不可能であったが、現在の社会は
階級社会ではないから中立的立場のみが正しい
3.階級社会においても、第三者的・中立的立場は可能である
4.社会は普遍的なものであり、論理上階級などは存在し得ない
のうち、どの主張を妥当なものとして採用すべきでしょうか?
>ブラックボックスにしかなり得ず、合理的な説得力を欠く
認識(理論)と実践との関係については、コミュニケーション的相互行為
や合理性の根拠にまで遡る詳細な議論が必要ですが・・・。
<階級>とは無論先験的概念ではなく、経験的社会の本質認識から構成
された対象概念ですから、認識主体として客観的には存在しないブラッ
クボックスです。それはむしろ<不在の主体>であり、実践の場での自
己認識を通してのみ対象化(向自化)され得るものでしょう。
>>151(超絶美少女さん)
>両者の相違を鮮明に乖離させる事はほぼ不可能に近いと思います。
そのためには、弁証法と「批判の武器」が必要でしょう。無論フロイト
とて中産階級のイデオロギーに影響されていたが、それを凌ぐ洞察力を
示している。イデオロギーは社会のいたる所に遍在しているというのは
まったくその通りですが、にも拘わらず<科学>と<イデオロギー>の
区別を固守したのは、他ならぬアルチュセールその人だった。
>イデオロギーが物質的な存在を保有する可能性がある限り、唯物的単層
>的審級に拘るのは非現実的だと思います。
意味が良く汲み取れないが、イデオロギーが物質的な力をもつという主
張はむしろ唯物論のものでしょう? 弁証法的唯物論の主張とは、個別
的な局面において精神的・イデオロギー的要因が事を決めることがある
にせよ、本質的な事柄を最終的に規定しているのは物質的な必然性であ
る、ということであり、単層か重層かという機械論的な設問は2次的な
ものです。
156 :
超絶美少女:02/01/19 04:40
>>152>>155(OFW氏)
商品は単なる記号ではなく、食べたり着たりできるできる現物でもあると仰いましたが
オレは商品とは記号かつ現物だと考えています。なぜならば、マルクスはモノの価値
を使用価値と交換価値とに分類しましたが、実際にはそれらの価値形態では説明し
尽くされないモノの価値が存在するからです。例えば、我々は衣類というモノを単なる
防寒具(使用価値)として使用するだけではなく、コノテーションを表現するモードとし
ても機能させる。つまり、「現物」の衣服をお店で試着して購入するのではなくて、モ
ード雑誌などにある「記述」されたモード、いわばモードの意味作用の体系として構造
化された言語表現を分析して衣類をまとう。もはやそれはモノでは有り得ない。
内容はなくとも、モードとは人間が、意味のないものに意味作用を発揮させようとする
能力を自分に与えるという見世物となる。そうするとモードは、意味作用の一般行為
の模範的な形として現れる。以上のように、商品をモードとして捉える価値生成の構
造をマルクスの価値形態は説明できない。他にも、モノがギフトという形態をとる事で
も同じである。ギフトは使用価値、交換価値のいずれにも属さず独立した贈与の論理
を有する。つまりギフトとしてのモノは、功利的道具(使用価値)でもなければ商品(交
換価値)でもなくいわば「象徴」となる。象徴は象徴であってモノではない。従って贈与
の論理を、商品を現物とみなし具体的な労働力のもとに換算する事はできない。
OFW氏はこれを物神化とみなし、倒錯する社会の虚偽意識として捉えるかも知れな
いが、しかし実際に労働に携わる者は他でもない虚偽意識を有する者達なのです。
「現象の世界とはイメージや見せ掛け、相対主義の世界でしかなく、とりわけ物神化し
た世界でしかない。商品はその生産条件から独立した状態で存在し、本来幻想的な
ものであるという事実を隠蔽している(アドルノ)」
モノの価値形態の多様性を、使用価値、商品価値に回収していく限り、決して資本主
義を分析し尽す事は有り得ない。従って、当然そこには「真の矛盾」も生じない。
正月休みに廣松渉著作集を読んでいた者ですが、
今日来て驚きました。まさかこんなにも多く書き込みがなされていたとはっ!
今年初めてまとまった休みが取れましたので、ゆっくりと拝読させていただきます。
158 :
考える名無しさん:02/01/19 22:43
弁証法的唯物論ってそもそも何??
「虹は七色である」は客観的事実である。
ところで、虹が三色に見える人もいる。
ゆえに「虹は三色である」も客観的事実である。
ところで、客観的事実は「唯一性」と「万人への
普遍妥当性」をその成立条件とする。
であるならば、虹の色に関する客観的事実が二つ
あるいはそれ以上あることは客観的事実の成立
条件に矛盾する。ゆえに虹の色に関する客観的
事実は成立しない。
虹の色という"自然対象"に客観性は存在しない。
存在するのは、虹の色の多様な現象様式(als構造)
だけである。
>>156(超絶美少女さん)
>オレは商品とは記号かつ現物だと考えています。
人が商品にどのような使用価値(効用)を認めるかは経済学にとっては
2次的であり、<記号としての商品>の使用価値を欲しがる人も、それ
を取得するためには貨幣が必要だという点から経済学が始まるのです。
化粧品、占いカードそして哲学書も商品であり、それらはそれぞれ美的
価値、宗教的価値そして学問的価値という使用価値(但しその非所有者
にとっての使用価値)を持っている点では同様です。
>マルクスはモノの価値を使用価値と交換価値とに分類しました
モノの価値ではなく商品の経済的価値であり、分類ではなく両者の対立
的統一として商品の価値形態(相対的価値形態)を捉えたのです。
>象徴は象徴であってモノではない。
再び、象徴(記号)は他の代わりとして立てられたモノである、です。
>従って贈与の論理を、商品を現物とみなし具体的な労働力のもとに換算
>する事はできない。
それは当たり前。資本主義経済(商品交換社会)の本質を研究する場で、
それ以外の非本質的な要素(贈与、再分配、互酬の論理)を持ち出すこ
とは事柄の本質を隠蔽することにつながるでしょう。
>実際に労働に携わる者は他でもない虚偽意識を有する者達なのです。
それ故にその虚偽性の暴露が必要なのです。
>モノの価値形態の多様性
再び、用語「価値」を多義的に使用しないように。
>従って、当然そこには「真の矛盾」も生じない。
意味不明。
1.マルクス的分析のアプローチ(唯物論)では幻想や象徴が支配する
現代資本主義社会の真の矛盾は突き止められない
2.資本主義には真の矛盾などない
のいずれでしょう?
161 :
考える名無しさん:02/01/20 21:17
koueiか?
>>158 古典的な規定(説明)としては、エンゲルスが当時の労働者に向けて書
いた『空想から科学へ』(下記電子テキスト参照)が良いでしょう。
ttp://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/kuso0.html ただし、彼の言う「弁証法は最高の科学である」(『自然の弁証法』)
には異論ありですが。
>>159(75さん)
>「虹は七色である」は客観的事実である。
それは誤り。客観的には虹は波長400nmから800nmまでに広が
った可視光の連続的スペクトルであり、七色か否かは文化的・伝統的な
慣習でしょう。因みにヒトの網膜錐体細胞中には3種類の色素があり、
<光の3原色>説の科学的な対応物と考えられます。
>>162(OFW氏)
>それは誤り
まさに、そうです!
「虹は客観的に七色だ」とは物象化された日常意識
の言わしめる命題なのです。
>七色か否かは文化的・伝統的な習慣でしょう
まさに、そうです!
広松ならそれを共同主観性論で鮮やかに説明する
でしょう。
>可視光の連続的スペクトル
可視光の連続的スペクトルはあくまで可視光の連続的
スペクトルであって、それはもはや虹ではない。
それは人を細胞へと分解したところで、細胞がもはや人で
ないのと同じである。
「波長400nm云々」とは虹が虹であるための単なる
一つの条件であって、それが他の条件を凌駕して特権的
地位を占める理由などどこにもないのです。
それが特権的位置を占めると考えることは単なる科学主義的
偏向にすぎないでしょう。
>>162弁証法的唯物論者のOFWさんの口から
直接説明が聞きたいですね。
それが現代科学の反証に耐え得るもの
かどうかということも絡めて説明願います。
ディアマートの精髄をここに披露してください。
宜しくお願いします!!
165 :
考える名無しさん:02/01/21 00:15
いわゆる唯物論は堅持されえるのか/されるべきなのか?
OFWさん、75さん お二人のやり取りは素晴らしいです
この大問題について、正面から議論することが
お二人になら可能だと思う
このスレは、名スレになっていると思います
このまま、マイペース(?)で議論を続けてください
興味深く 拝見しています
166 :
超絶美少女:02/01/21 03:55
>>160(OFW氏)
>>従って、当然そこには「真の矛盾」も生じないという意味は、
>1.マルクス的分析のアプローチ(唯物論)では幻想や象徴が支配する
> 現代資本主義社会の真の矛盾は突き止められない
具体的には、あくまで唯物論だけに依拠して生産関係を捉えた場合に限ってです。
その理由は下に書いておきます。
>使用価値を認めるかは経済学にとって二次的であり、貨幣の必然性から経済学が始
>まるのです
それは十分分かっています。ただオレが言いたかったのは、上述したように物質経済
とイデオロギー的形態を厳密に隔て、下部構造に一切の決定権を委ねるのではなく、
上部構造にもある程度の自立性と独自の有効性を与えるもの重要なのではないかと
いう事です。つまり、物質そのもの、イデオロギーそのものに着目するのではなく、それ
らを動態的な構造内部の力として、力関係として捉え、そしてそれら物質とイデオロギー
の二項問題がいかにして生成されるかを考える必要性の事でもあるわけです。
例えば余剰価値というものは、利潤や地代、利子などのように経験的に測量できる対象
ではなく、極めて不透明で顕在化されない。古典派経済学はこの問題を人間労働、い
わば可視的な対象を媒体として捉えたがためにこの余剰価値生成の機構を発見する事
ができなかった。マルクスがこの生成機構を発見する事ができたのは、これらを不可視
な動態的構造として捉えたが故に可能だったのです。つまり、生成機構(生産関係)を
モノ(唯物論)ではなく、「構造」としてマルクスは捕らえたのです。従って、この時点で
マルクスは唯物論者というよりはむしろ構造主義的な発想を持っていたと考えられるわ
けです。
オレがこのスレで言いたかったのは主観/客観、物質/イデオロギー、上部構造/下
部構造との境域を鮮明に隔てた地平に立つのではなく、それらが生成される動態的構
造の地平に眼差しを向け、要素間に生じている不可視な「力関係」を顕在化させるとい
う事の有効性です。そしてマルクスはそれを実践していた。オレが古典派経済学とマル
クスを比較したのも、そして精神分析やバルトの記号論、アルチュセールに言及したの
もまさにこの事が言いたかったからなのです(彼らは全て構造主義者)(しかしそれらの
試みはオレが未熟であるがために見事に失敗しましたが)。しかしこの点(このスレでオレ
が言いたかった事の真意)についてだけは決して誤解して貰いたくないのです。そして
これらが決してマルクスを否定するものでもないという事もです。
>>163(75さん)
どうも用語の使い方の問題が大きいので、再度
>>159に戻りましょう。
>「虹は七色である」は客観的事実である。
<客観的存在>という概念は「誰にとっても存在し、かつそれ自体で存
在するもの」という内容を持ち、それに対して<主観的存在>とは「認
知主体にとってのみ存在するもの」という内容をもつ概念です。虹およ
び色それ自体は心理的なもの(色覚の対象)ですから主観的対象(現象)
です。上記言明(「虹は七色である」)が誤りなのは、虹や色それ自体
を客観的としている(素朴実在論)ためです。しかし、それらは物理的
な対応物<光>を持ちます。この場合<光>は物理学の研究対象として
あくまで客観的な存在です。因みに光はエネルギーであり、モノ(物体)
でも物質でもないが、自然的かつ客観的な存在(実在)です。もし<光>
を“共同主観的”な存在あるいは記号的存在だとするなら、「物理学は
客観科学である」という言明は無意味なものになり、物理学は名辞<光>
の意味を研究する解釈学あるいは文化論になってしまうでしょう。
>ところで、虹が三色に見える人もいる。
「虹が三色に見える」と「虹は三色である」との違いは、前者は知覚の
表明、後者は判断の言明であること、つまり前者が主観性それ自体の記
述であるのに対して、後者は客観的事態の定立(主張)だということで
す。判断は知覚の“物象化的錯視”といったものではなく、主観性から
客観性への転換であり、客観が直接的(無媒介的)に立てられることが
判断の本質なのです。また「虹に含まれる色の数」という複雑な概念を
得るには、何よりまず「色を数える」ことが必要ですが、それは判断す
る前に行われる操作であり、およそ習得されなくてはならない社会的な
行為です。その限り<色の数>というそれ自体主観的な存在は社会によ
って異なる相対的な概念(“共同主観的”つまり慣習的)なのです。
>存在するのは、虹の色の多様な現象様式(als構造)だけである。
本質のない現象とは(幽霊と同様)<仮象>と呼ばれる存在性格を持つ
主観的な(自体のない)存在です。本質が現象する、が正しい用法です
>>164(158さん)
>それが現代科学の反証に耐え得るものかどうか
まず逆に質問ですが、如何なる反証があるのかな?
(それによって説明は変わるでしょうから)
>>166(超絶美少女さん)
>マルクスは唯物論者というよりはむしろ構造主義的な発想を持っていた
要は<唯物論>をどう理解するかでしょう。モノ(物体、個物)を重視
するのはむしろ即物主義(俗物主義)であり、資本家を代表とする観念
論者でしょう。唯物論(Materialism)は質料的、流動的な物質を
永遠の観念より基底的なものとしますが、物質は感性的、現実的、活動
的な世界の実在的な基盤です。自然、社会、精神という存在の区分は
相互に連続的であり、その実在性は立体的に構造化されているが、それ
は実在が生成の結果として、その歴史を内在化しているためだと言える
でしょう。確かに、世の自称「マルクス主義者」達の多くは機械論的
(唯物主義?)であり、精神的・文化的な存在のもつ規定力に対して
“基底還元主義”以外の対応しかできずにいるのは事実ですから、唯物
論的構想力とでも言える自在の象徴力は必要でしょうね。
>>168 OFWさん 158=164ではないですし、
こことは別にマルクススレもあって、
OFWさんがお答えいただいているのですが成り行きで・・
ポパーが反証可能性を科学と非科学のメルクマールにして
マルクス主義批判の急先鋒となったのは有名ですよね
反証可能性=科学的の妥当性は論じ始めるといろいろありそうですが
反証可能性に乏しい=非科学的(というより非合理的、非論理的?)
は成立するように思われますが如何?
マルクス主義の上部構造−下部構造論しかり、唯物弁証法?しかり、
階級闘争史観しかり(内容が曖昧なものもありますが勘弁)
170 :
超絶美少女:02/01/24 02:07
>>168(OFW氏)
お世辞でもそのように言ってくれた事に感謝します。
今まで苦労してレスを付けてきた甲斐(?)があったというものです。
まぁ、オレ如きがOFWさんに盾突く事自体、そもそも間違いだったのでしょう。
しかし、そのお陰で多くの事を勉強させて頂きました。
ところでオレは今日限りでこのコテハンを捨てます。そして議論の邪魔になるので
二度とこのスレッドには書き込みをしません。ご迷惑をお掛けしました。
そして短い間でしたがオレみたいな奴を相手して下さった事を改めて感謝します。
有難う御座います。そしてさようなら。
追伸。
しばらく2ちゃんを離れてマルクスの勉強をしたいと思います。
>>167(OFW氏)
>用語の使い方の問題が大きい
まさに、そうです!
言語の用法次第で、世界の見方も変わるほどに
言語の問題は大きい。例えば、
ある現象が虹と判る時、我々は虹が何であるか
事前に知ってなければならないが、(なぜなら、
虹が何であるかを知らないならば、そもそも「あれは虹だ」
という同定(identification)は不可能だから。)
それは「虹とは七色に見え、かつ空に浮かぶアーチ状の或る
もの(etwas)だ」と"教えられる"ことで可能になる。
つまり、我々は虹を直に見る前に、虹が何であるかを
「言葉」で教えられている(つまり言葉は知覚に先立っている)。
虹が客観的に七色だから、虹は七色に見えるのではなく、
虹は七色と教えられているから、虹は七色に"見えてしまう"ので
あって、その逆ではない。
つまり、共同主観性は言語による教育の問題に帰着するのです。
なにより文化や習慣は教育によって伝達され定着するもの
なのは明らかでしょうしね。
加えて、
所謂「言語論的転回」のインパクトはなにより言語が対象世界の
分節に絶大な影響をもつことを明るみにだしたことでしょうね。
対象世界は"生の自然"ではなく、すでに言語形態がはりついて
いる。我々は「木」という"自然対象"を見る時、「木」と
言語的に名指しされているetwasを見るのであって、
その言語的指示を離れて、目前に立つobjectを「これは木だ」
とは到底、同定はできないでしょう。
>>169(165さん)
>マルクス主義批判の急先鋒
どうもマルクス思想の誤解(旧ソ連の公認マルクス主義(スターリン主
義)との同一視?)とブルジョア自由主義・進歩主義イデオロギーの混
在といった印象ですね。一方で社会の漸進的改良を説き、他方で歴史に
合理的な法則性を認めないことは、フクヤマと同様に、「ブルジョア社
会は永遠だ」と言いたいのでしょうが。
>反証可能性に乏しい=非科学的(というより非合理的、非論理的?)
>は成立するように思われますが如何?
科学的理論と非科学的ドグマとの境界設定の条件として持ち出された
「反証可能性」とは変わった概念です。それはある理論内容に関する概
念なのか、理論の立て方に関する概念なのかがはっきりしない。どのよ
うな理論でもそれ自体は仮説的なものであり、現実との照合なしにその
当否は判断できない以上、科学理論だろうとドグマだろうと反証可能に
して同時に反証不可能でしょう。たとえば「民主的国家は自由な市民に
より構成される」という(自由主義的)国家理論は科学的なのかドグマ
的なのか、その反証可能性如何?と問えば、何とも言えないでしょう。
要は、蓋然的(Problematic)vs実然(断言)的(Assertive)という
(概念の)判断形式の区別を、実証可能性(経験論)vs体系的整合性
(合理論)という対象領域の区別と混同した偽概念だと言えるでしょう。
どのような理論でも、それが成立する客観的条件(これは経験的なもの)
から切り離されてそれだけで真であると主張されるなら、形而上学的
ドグマになる。自由主義しかり、科学主義しかり、形式主義しかりです。
>>169(165さん)(つづき)
>マルクス主義の上部構造−下部構造論
は社会の唯物論としてマルクスーエンゲルスが定式化したもので、人間
と自然との間の物質代謝としての生産実践が人間社会の基底をなし、物
質生産に関する諸個人間の関係(生産関係)が社会の法的・政治的・社
会的な諸制度を最終的(究極的)に規定するのであり、その逆ではない、
という主張です。その限りそれは一つの決定論的(因果論的)な主張で
すが、単なる物理的あるいは機械論的な因果性ではなく、生産関係の変
革を通してその制御を主体的・意識的に行うことは生産力に応じて十分
可能ですから、盲目的な運命論としてではなく、地についた自由論とし
て理解すべきでしょう。
>唯物弁証法
上にも書いたように、弁証法は科学的法則でも単なる理論でもありませ
ん。実践的な認識方法として真理に向おうとする者は誰でも身につけた
方がお得な、おススメの一品です。ヘーゲルの観念論的な弁証法は認識
主体を神(絶対精神)としたが、実際には、それは唯物論的な諸個人
(働く諸個人)なのですから、働かない人には無用かつ有害でしょうが。
>階級闘争史観
いわゆる唯物史観(歴史の唯物論)のことでしょうが、階級は実際に存
在しており、反証しようもない現実です。この歴史的なリストラの大嵐
を見よ、ちゃて。
175 :
考える名無しさん:02/01/24 23:00
OFWって共産主義者なんだから、
ブルジョワ抹殺とプロレタリア独裁を
目論む危険人物だろ?
こんな奴を野放しにしていいのか?
176 :
考える名無しさん:02/01/25 01:07
>>175 あんた、何も理解しちゃいないだろ。
肯定できるか?って言うんじゃないよ、話しが解るか?って事。
およそお前は、オルグされたら懐柔されて突っ走っちゃう輩だよ。(w
OFWの話してる事の10分の1も理解出来ないだろ?
理解できるなら反論して危険性をつまびらかにすれば。(w
177 :
考える名無しさん:02/01/25 01:27
>>175 全然オッケー。
寧ろ希少価値が高いので重宝しましょう。
>>176 OFWの語り方でOFWの話を理解する為には
前提となる知識を勉強する必要があり
その勉強をすることはOFWの思うつぼなのです。
超絶美少女はマルクス勉強しますとか逝っちゃって
ますけど、元の世界に戻ってこれるのでしょうか、ちょっと心配です。
さらに言うと、濃い共産主義の世界観を体験して戻ってきても
今後に活用できる可能性は薄そうなので、時間の無駄遣いの様な気がします。
寧ろ染まってしまって、あっちの世界に逝ってしまったままの
方が幸せかもしれません。
>>177 ミイラとりがミイラになる ってやつですね
179 :
考える名無しさん:02/01/25 01:48
>>177 教養程度に価値形態論を解説書と一緒に読んで終りは不味いですか?
180 :
考える名無しさん:02/01/25 02:13
>>179 別に全然不味くないと思いますよ。
只、教養という動機で本を読むより
こういう風に成りたい自己像を描いて
描いた自己像の形成の為に必要か否かという判断基準で
本を読んだ方が良いと、個人的には思います。
自己を自分で意味付けて無い内に
或いは、価値形態論が現在どういう文脈で理解されているのか
掴めないままに読むのは、余りオススメできません。
(解説書と一緒にと言っても色々な解説書があると思うので)
181 :
考える名無しさん:02/01/26 18:03
age
>>172(75さん)
>まさに、そうです!
論点がずらされてしまったが、私は
>>163での用語の用法つまり概念
上の混乱を指摘したわけで、言語一般について言及したのではない。
>共同主観性は言語による教育の問題に帰着する
「常識」的な見解であり、あえて「共同主観性」といった難しい用語を
使う必要はないでしょう。
>言語が対象世界の分節に絶大な影響をもつことを明るみにだしたこと
同時に人間の生産的実践が対象世界の分節そしてその認識に絶大な影響
をもつことを忘れないことです。つまり対象世界の認識と対象世界自体
とを混同しないこと、をです。
183 :
考える名無しさん:02/01/27 22:11
物象化論を学べるやさしい本はないですか?
こないだ広松の「物象化論の構図」を買ったけど、難しすぎて
5行で挫折しました。
184 :
考える名無しさん:02/01/28 00:10
対話篇『身心問題』はなぜ心身でないですか?
185 :
考える名無しさん:02/01/29 00:33
OFWさん こんばんは ポパーの話を出した165です
>>173-174よくわかりませんでした
どのよ
うな理論でもそれ自体は仮説的なものであり、現実との照合なしにその
当否は判断できない以上、科学理論だろうとドグマだろうと反証可能に
して同時に反証不可能でしょう。たとえば「民主的国家は自由な市民に
より構成される」という(自由主義的)国家理論は科学的なのかドグマ
的なのか、その反証可能性如何?と問えば、何とも言えないでしょう。
私がイメージしているのは、例えば物理学の理論とか、数学の定理、
そこまで厳密に行かなくても、マルクス主義の内部でも、経済学理論
労働価値説の妥当性ですとか、こういうものが、私の考える(失礼「反証
可能性」を理解しているか心もとないので、但し書き付で「理解」して
いただければ幸いです まぁ、「翻訳」みないなもんだと思ってください)
「反証可能性」の高い理論、ということになります
そのような(w「反証可能性」という観点から見た場合に、マルクス主義の
諸概念は、私には曖昧で、極端に言えば、どのようにも言い逃れが可能な
概念で構成されているように思われる(当然相対的にその程度が高い、という
意味です)ということです
186 :
考える名無しさん:02/01/29 00:41
165です [185のつづき]
>>173 蓋然的(Problematic)vs実然(断言)的(Assertive)という
(概念の)判断形式の区別を、実証可能性(経験論)vs体系的整合性
(合理論)という対象領域の区別と混同した偽概念だと言えるでしょう。
特に、この「蓋然的(Problematic)vs実然(断言)的(Assertive)という
(概念の)判断形式の区別」という部分、申し訳ないですが、もう少し説明して
もらえないでしょうか? 「判断形式」というとカントでしょうか?
単に、大体OKの程度問題で片付ける VS 厳密にOKがでないと先に進まない
ということを指しているのでしょうか?
「実証可能性VS体系的整合性」は、実在との対応の如何を真と呼ぶのか、それとも、
体系的整合性の優れている理論(であり、かつ現実的な有効性の高い理論
(プラグマティズム))を真に近いと考えるのか、という「対立」のことを
指しているのですか?
187 :
考える名無しさん:02/01/29 00:49
さらに、「うわ言」を続けさせていただきます
マルクス主義(の理論)は経済学では一定の成果をあげたのかもしれませんが
哲学?の分野ではどうでしょう? あまり進歩?していないように思われます
それに対して、例えば、分析哲学では、わかりやすい?(笑 理論を目指した
ので、初期の論理実証主義が結局のところ、議論によって、徐々に自己否定の
道を歩むこととなっていきます 過去の成果をもとにして、次々とその上に
建築物を重ねていく、いわゆる科学の強さはそこにあると思います(とりあえず、
パラダイムとか中心−周縁構造とか言わないでくださいね)
要するに、その積み上げを可能にするのが、反証可能性であり、
マルクス主義の諸理論?は、それが可能な状態で提示されていない
ゆえに、科学主義(ブルジョア何とか主義でも可)に対抗する力とは
なりえていない、また、それについての真摯な反省も欠如している
のではないか、というのが私の主張です
188 :
考える名無しさん:02/01/29 01:09
>>184 「もの」を「こころ」の前に置くことで、
唯物論者として最低限度の筋を通しているとか。
>>185(165さん)
まず、ポパーの「反証可能性」とは<言明が偽とされる可能性>のこと
であり、<経験科学的言明とそうでないものとを区別する規準>として
提案された概念ですね。それは初期の論理実証主義派(ウィーン学団、
マッハ協会)において採用された「検証可能性」(ウィトゲンシュタイ
ンが言明の有意味性の基準として提案したもの)に反対して出された。
マッハ的な思惟経済説の流れを汲むウィーン楽団の立場は論理的経験論
であり、それに対して「検証結果の正しさは仮説の蓋然性を高めるがそ
の必然性を保証せず、反証により仮設の蓋然性が下がる可能性を保証す
ることが、科学的理論としての資格をもつ」という反証主義の主張は、
積極的な内容を含まない形式的なものです。つまり、本来両者は互いに
他の否定であるという対立関係にはない。アド・ホックな仮説による反
証逃れをおこなわないように科学のルールを定めようとすることは首肯
できるとしても、そもそも「アド・ホックな仮説」(例:黒いスワンは
スワンではない)とは何ら仮説ではない、定義的あるいは公理的言明で
しょう。そこには演繹のみを論理的な推論であるとする形式主義論理共
通の誤謬(仮説を定義(定説)とごまかす)が見られる(例:テロは新
しい戦争である)。
因みに上にも書きましたが、<労働価値説>に対するマルクスの徴候論
的読み(アルチュセール)とは、必然性(他であることの不可能性)の
洞察であって、単に仮説(他であることの可能性)の経験的な検証では
ないのです。それは本質論的切断(アルチュセール)という、実証的経
験論から説明的科学への高まり(ジャンプ)を示すと同時に、科学のイ
デオロギー性(隠蔽性)を暴露している(労働は説明されるべき帰結で
はなく、説明する根拠である)。
>>186(165さん)
>「判断形式」というとカントでしょうか?
ヘーゲルです。
(『小論理学』第三部Abニ概念の判断(178節)を参照下さい)
>>187(165さん)
>哲学?の分野ではどうでしょう? あまり進歩?していない
これには二通りの答え方ができるでしょう。
1.「哲学はヘーゲルをもって本質的に終わりを告げた」(マルクス)
2.「プロレタリアートは哲学を止揚せずには自己を止揚できず、
哲学はプロレタリアートを止揚せずには自己を止揚できない」
(マルクス)
哲学という<世界の解釈>ではなく、現実世界の変革なしには一歩も進
歩はできない、ということでしょうね。19世紀後半以降の哲学は観念
論が実証的個別科学に次々とその領土を奪われていく解体の過程と言え、
最後の認識論という砦も言語行動(コミュニケーション)の科学によっ
て攻略されつつある、かな。
>いわゆる科学の強さ
マルクスが『資本論』を政治経済学の批判(限界設定)として書いたの
は、科学一般にも当てはまるのであり、科学のイデオロギー性に無頓着
であることは致命的でしょう。自然科学の強さは労働実践に基礎をおく
科学技術の強さなのであり、現状の社会科学がとても強いとは言えない
原因はその観念論的な前提(現象主義、形式主義、専門主義、主観主義
そして非歴史主義)にあると言えるでしょう。
「すべての学は畢竟歴史の学である」(マルクス)。
私がageます
先生!
この場合、ageる=譲渡ってことでいいんでしょうか!
193 :
ドキュソ:02/02/19 23:05
「廣松渉 哲学小品集」(岩波同時代ライブラリー)というエッセイ集を買ってみました。
廣松渉を読むのは初めてだけど、意外にも読みやすくて面白かった。
他におすすめの著作とかありますか?
194 :
KCT-DOG10:02/02/21 13:22
丸圭との対談集『記号的世界と物象化』も読みやすくてオモロイで〜。
ところで、この人福岡出身でしょ?
近所の情報きもう。
196 :
考える名無しさん:02/02/21 17:54
「ヴィトゲンシュタインには日本将棋を
教えたかった」「彼の哲学を将棋にたとえると
いわゆるアナグマ、雪隠詰めといえよう」
197 :
考える名無しさん:02/02/21 18:15
ヴィトゲンシュタインは詰め将棋
198 :
考える名無しさん:02/02/22 01:20
>>195 一家揃って活動員だったらしいから
近所の人達からは白い目で見られてそうだね。
アカなのにシロい目みたいな…
199 :
考える名無しさん:02/02/24 04:08
200 :
ドキュソ:02/02/24 18:59
>>194 ありがとうございます。探してみます。
>>196-197 その文章もなかなか面白いですね、発想が。
なんか経歴がすごい・・・
高校中退→大検→2浪(仮面浪人1年)→大学でも留年→大学院
→農業→養鶏業→職業革命家→教師→売文業→教師
熊野純彦(今は東大かな?)って、この人とどういう関係あるんですか?
良スレですね。
204 :
考える名無しさん:02/02/25 03:05
一時、現代政治研究会会員なんて名乗ってたし。
205 :
ドキュソ:02/02/26 01:26
>>201 ハァ?何言ってるんですか「ヴォケ」!
>>202 それは、このエッセイ集には書いてませんでした。
波乱の人生ですね。
大体、こんな感じで
┌構造主義的マルクス理解→今村
ピロ松┼アジテーション→大庭
└エロ松→熊野
207 :
考える名無しさん:02/02/27 19:49
>>206 すみません
> エロ松→熊野
ここがようわからんのですが?
209 :
考える名無しさん:02/02/27 21:32
>>207 廣松は下ネタ好きだったらしく
学生時代のあだ名が「エロ松」だった。
熊野氏の専門であるレヴィナスには
「エロス」というキーワードがある。
いやホンマに知らんかった
つか 熊野氏のことを知らんから(^^;
当然 エロ ≠ 熊野 (=レビナス=エロ)
いずれにしろ ダンケ>209
しかし、ついでに
広松構造主義=>今村
これはちとつらいと思うが
つーか、ネタのわからない奴ってどう思う?
212 :
考える名無しさん:02/03/02 21:38
あまり関係ないが、広松氏の
新哲学入門と哲学入門一歩前はすばらしい哲学入門書だと思う。
これを超えるものはないと思う。
こういうものを進めないから哲学は人生哲学だったりすると
思われているのでは。
というか哲学なんかなにを勉強しているかわからんなどと
陰口を言われるのではないかしらん。
213 :
考える名無しさん:02/03/13 22:34
哲学入門一歩手前はあまり面白くありませんでした。
なんか文章がおかしくないですか??
いや、この本だけ妙に普通すぎてなんか調子が違うんです。
「だけ」って言っても三、四冊しか読んでないけど。
唐突な話題でごめんなさい。
もう5年ほど前に行われたある試写会で、浅田さんに「天使が通る」にサインを
いただきながら、軽く立ち話のノリで質問したのですが、「以前、マリクレール
に連載していたスキャンダラスな午後は単行本にしないのですか」と尋ねた
ところ、「あー、ごめんなさい。怠慢なものですから・・・」と非常に謙虚に
返答していただきました。
批評空間の出版物が安いか高いかという問題だが値段の問題よりも、浅田
や柄谷が運営する会社である以上、彼らがどのくらい利益を出しているの
か、あるいは損をしているのか、ということがポイントになると思うね。
たしか安原ケンさんも強く単行本化をすすめているようですが、このありさま
ですので、浅田さんはあの連載に関してはあまり興味なさそうです。
>僕がよしながふみのマンガを評価しているのが、どうしてわか
>ったんだろう?歴史ものはともかく、日常生活のちょっとした
>感情の揺れを描いた作品は、本当にうまい。たとえば、「1限
>めはやる気の民法」(BIBLOS)。ゲイである自分を認めたくな
>い優等生と、ゲイであることに居直った遊び人の関係を、か
>なりきついはずの場面も含めて、淡々とユーモアたっぷりに
>描いてゆく。あるいは、「西洋骨董洋菓子店」(新書館)。
個人的には非常に残念なんですけれども・・・・。
ところで、皆様ご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただきたいのですが、
昨年4月に新潮社から発売された「映画の世紀末」の帯の後ろには、続刊予定と
して「音楽の世紀末」と「アートの世紀末」と記載されていますが、いったい
いつ発売になるのでしょうか。
シネフィルのことに話しを戻すけど、確かにこれって数は明らかに減ってるのが
現状だと思う。確か、96年頃の「映画芸術」だったか、梅本洋一が蓮実にインタ
ビューした際に、こんなこと言ってる。
↑
???
218 :
考える名無しさん:02/04/09 23:09
age
219 :
考える名無しさん:02/04/09 23:43
弁証法の論理…売ってないし
220 :
考える名無しさん:02/04/10 01:26
廣松先生の「今こそマルクスを読み返す」とかさ、
「マルクスと歴史の現実」とかさ、どうかなぁ?
221 :
考える名無しさん:02/04/10 01:36
>221
何故そうなるの?
『弁証法の論理』って疑似書簡で、第12信まである。
それが、三つの節に分けられていて
それぞれにタイトルがつけられているんだけど、
全部16文字で統一されていて美しい!
廣松は文字のレイアウトには相当気を使った人。
廣松はとってもスタイリッシュ。
廣松の本は美しい「骨董品」?
再び使用することは可能か?
>221
古本で検索したらありました。つまんないオチで申し訳ない。
225 :
考える名無しさん:02/04/18 04:10
四肢構造論ってなんですか?
226 :
考える名無しさん:02/04/18 22:07
227 :
石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/04/19 01:23
とにかくageます。
>>194 あれ、廣松って丸山のこと馬鹿にしてる感じしませんでしたか?
なんか、適当に付き合ってやってるみたいな・・・
229 :
考える名無しさん:02/04/19 08:07
>>226 4本足の獣ってことですか……。
なかなかセンスフルな構造論だ。
230 :
石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/04/21 00:14
廣松渉、一発で変換されない・・鬱age。
フーン
233 :
考える名無しさん:02/05/10 00:15
えろまつ
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::||:::::::\
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::||::::::::::::ヽ
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::||:::::::::::::::ゝ
/::::::::::::::::::::::/:::::::::::::::::::::::::/::::/丶::::::::::::::ヽ
/::::::::::::::::::/:::::::::::::::::::::::::/:::::/ ヽ:::::::::::::::ヽ
/::::::::::::::::/::::::::::::::::::::::::/:::::/ ゞ;;;;;:::::::::::|
|ゞノノノ:::::::::::::::::::::::::::/::::/ ヾ:::::::|
|::::::ミヾ//ノノ;;;ノ;;;;;/;;;/ |::::::|
|::::ミ ー- _ _ノノ ヾ_ _ -─ |::::|
|ゝミ ,,_ _ _ __ |::/
. |-‖ -ゝ_●_ヽ 丿● __ゞ |ノ
丶 | = / \ 三 |
し | /
ノ;;;;;;| 丿 丶 /:|
ノ::::::::| /( _ ) /:::| <
>>232 たしかに!!
ノ::::::::::i − ´ /::::::|
/:::::::::::::ゝ /-─-┐ /:::::::|
丿::::::::|:::::::ヽ (--──, /::::::::::ゝ
/::::::::::||:::::::::::\  ̄ ̄ /:::::::::::::::ヽ
/::::::::::::|::::::::::::ミ \ /|:/::::::::::::::::::::ヽ
/:::::::::::::::|:::::::::::ミ \__/ //:::::
/:::::::/:::::::::|::::::::::::::| /:::::
中国での売り上げは如何に
236 :
チャーミー ◆RIKAwz.6 :02/05/17 23:05
___
| |
_|____|_ /)
/ノノノ \ヽ (i )))
|(| ∩ ∩|)|/ / < 期待age。
从ゝ ▽___从 /
/ ̄ <V> /
カントリー娘。に石川梨華(モーニング娘。)
237 :
考える名無しさん:02/05/17 23:55
不肖私が。
『入門』、『新入門』、どちらも、こんなに頭に入らない文章
久しぶりです。廣松渉が好きなみなさまのフツウに高速回転な頭
が羨ましいです。
(それにしても時期が悪かったんだろうか。昼飯前だったとか・・・)
239 :
考える名無しさん:02/05/18 02:34
>>238 えっ?
あんなにわかりやすい哲学もめずらしいが。
241 :
考える名無しさん:02/05/28 18:20
242 :
考える名無しさん:02/05/28 18:32
>1
フェノメノンをオリエンティーレンせよという、あなたの
プロブレマティークを聞かせて。
243 :
考える名無しさん:02/05/28 18:33
廣松渉はドイツ語で考えてたんだ。「哲学する」ときに。
244 :
考える名無しさん:02/06/17 18:35
age
245 :
考える名無しさん:02/07/09 23:46