悪法も法なり

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1考える名無しさん
それでいいのかソクラテス!!
つか、簡単に死ぬ前に戦え!!弱虫!!
2電波様:2001/06/02(土) 01:14
何と、またどのように戦えば良かったんですか
当時の権力者と一人の哲学者が戦かっても収穫はなかったと思う。
さらに犠牲を生んだだけだと思う。
3:2001/06/02(土) 01:21
現在でも「悪法も法」ですよ。
らい予防法がそうだったでしょ。
4読者:2001/06/02(土) 01:29
悪「法」も法である。
悪「法」が法でなければ、悪「法」とは言えないから。

ただ、悪「法」での「法」

悪法は「法」か、の「法」
が異なるのなら、この命題は成立する。
5考える名無しさん:2001/06/02(土) 01:34
「悪法であっても守らなければ社会の秩序を乱す」とか言って毒杯飲んで死ぬなんて
弱すぎないですか?せっかく弟子達が逃がそうとしてくれたのに。
悪法は戦って変えなけりゃ、何の解決にもならないんじゃないいの?

6名無し:2001/06/02(土) 01:43
法実証主義って「悪法も法」ってなニュアンスで語られることもあるね。
7電波様:2001/06/02(土) 01:45
>>5
精神論でソクラテスが戦うとも思えないし、
おそらく勝てもしないのに
巻き添えで身内や弟子達に危害を及ぼす必要があるのか。
当時の社会情勢を考えたら、
権力者に都合の悪い人達は簡単に死刑になったから
ソクラテスが何かをしたら弟子達が死刑になる可能性も否定できない。

また、哲学者は、観察力や先見性に秀でているから当然の行動だったと思う。

8考える名無しさん:2001/06/02(土) 02:06
ソクラテスのおっさんは結構したたかだから、
全部芝居で本当は生きていたのかもしれない。
死んだことにしないとおさまりがつかないからね。
プラトンの初期の著作がソクラテスの思想そのものなのは、
実はまだ生きていたソクラテスとの対話を書いたからだとか・・・
いや、もちろん妄想ですが。
9考える名無しさん:2001/06/02(土) 02:17
>>6
まず、法を超える正しさなり価値が存在するのかという問題があります。
もし、ないと答えるのならそれは法実証主義になります。
もしあると答えるなら、それを確定しなければなりません(自然法論、正義論)

更に、もし悪法があるとして、それに対抗する方法や手段は何?という問題が
あります。

この2つは普通分けられて議論されますね。

あとこの問題はけっこう難しいし、ソクラテスの時代だけでなく、現代的
テーマをはらんだ問題ですよ。確か、東大大学院法学研究科の入試問題にな
った記憶があります。

法哲学からのアプローチを知りたい方は田中成明「法理学講義」p282-297
あたりにうまくまとめられてます。


10:2001/06/02(土) 02:23
法実証主義をとったうえで正義を確保する手法はありますか?
厨房的質問で申し訳ないのですが。
東大系の憲法学って自然法礼賛というか、何の疑問もなく認めている気がしてなんとも気持ちが悪いのです。
11考える名無しさん:2001/06/02(土) 03:03
>>10
基本的に、今は法実証主義と自然法の対立は、法哲学では、流行らない
ですね。法の中に含まれる正しさと法の外にある正しさはきちんと
峻別されるのかという問題があるので。。

>法実証主義をとったうえで正義を確保する手法はありますか?

一番楽な方法は、法の正、不正、を問わずに、法の内容を正しく実行することが正義とする
ことです(笑 適法的正義とか田中成明の本には書いてますが。。

あとは、ドゥオーキンのように、普通法律の外にある原理やら政策なりも法
であるとし、正義を法に内包するという戦略もありますね。ただ、彼は
法実証主義者であるという人はいませんが(笑

一般に、法実証主義というと、なんらかの社会的手続きでもってでき
た法のみを認めることというニュアンスが多いようです。
 
12名無し:2001/06/02(土) 04:03
>>法実証主義をとったうえで正義を確保する手法はありますか?

>一番楽な方法は、法の正、不正、を問わずに、法の内容を正しく
>実行することが正義とすることです

上の論法だとモロ「悪法も法のうち」にからめとられていないか。

だいたい、それを悪法というためには、
より上位の価値規定の前提が必要とされるわけで、
それは何なのか、またその正当性の如何を吟味することから
まずなされなければいけない。
それはおそらく道徳とか社会性と呼び称されるものであろうが、
すなわち人と人とのネットワークの間に生成する不文律のような
ものがどう法に反映するか、その道筋は確保されてるか、
が考えられる必要がある。

13考える名無しさん:2001/06/02(土) 04:06
いや、その不文律の正当性をどうやって確保するのかを問うているんだけどね。
14考える名無しさん:2001/06/02(土) 07:52
9=11です。
>>12
えっと、多分、11の書き込みを読んだだけの書き込みだと思いますが、

>より上位の価値規定の前提が必要とされるわけで、
>それは何なのか、またその正当

9をごらんください。

>上の論法だとモロ「悪法も法のうち」にからめとられていないか。

11の方は、法実証主義の中での正義を問うてますから。法実証主義自体が
「悪法も法のうち」と言ってますから(正確に言えば、言ってる人もいる)
ねえ。でも、確かに、適法的正義は一般の人からみると、それが正義なの
かよとか思うでしょうね。
15:2001/06/02(土) 07:59
本当は、悪法も法である、という言い方は変だと思う。悪法という言葉には既に何らかの価値判断も混じっているわけだし、
法に価値の問題を混入させないようにする法実証主義の立場を貫くならば、悪法など存在しない。

また、厳密に言えば、法実証主義的な問題意識−現に存在する法、
つまり、実定法、慣習などのみを対象領域とする−と正義とは何ぞや、
という問題意識は区別することもできるように思えます。
正義は存在する−かもしれないし存在しないかもしれない−「が」
それは法の効力を否定するものではない、と。
強い意味での自然法を採用する人はこの立場は取れないでしょうが。
16:2001/06/02(土) 08:06
>11さん
本当にドゥオーキンって法実証主義者じゃないのかな。
勿論、彼は制定法実証主義ではないし、近年では実証主義のメルクマールとも言えるかもしれない
裁判官の裁量−ケルゼンで言えば、「枠」の話か−を認めない。
だけど、彼の言う原理って、法曹共同体なり、アメリカの特定文化に根ざしているものな訳でしょ?
それ自体は超越的なものではなく、経験的なもののように思えるけど。
17:2001/06/02(土) 08:22
>一般に、法実証主義というと、なんらかの社会的手続きでもってでき
た法のみを認めることというニュアンスが多いようです。

勿論、こういう意味なら、法実証主義者ですね、ドゥオーキン。
だから、言葉の問題といえば言葉の問題なのかも知んないけど。

あとは慣習法はどう位置付けるべきなんだろう。
18:2001/06/02(土) 08:23
間違えた。
>勿論、こういう意味なら、法実証主義者ですね、ドゥオーキン。
法実証主義者ではない、です。
19名無し:2001/06/02(土) 10:58
12です。
>>14
はい、ご指摘どおり>>9を見落としてました。

それでもしかし、法はあくまでも社会のためにあるのであり、
社会が法のためにあるのではないという民主主義的な観点から
やはりそこでいわれる法実証主義的なスタンスは本末転倒ではないか。

さらに、12以降のレスもふまえた上で、次のように言えるのでは。
悪法とは、「価値判断的」に悪い法のことではなく、
「機能的」に欠陥をもつ法の謂いであり、
そのシステムに社会からのフィードバックの機能を欠いている法のことだと。


209:2001/06/02(土) 22:24
●猫さん
法哲学スレッドでもお世話になってます(笑

>本当は、悪法も法である、という言い方は変だと思う

はい、僕もそう思います。正確に言えば、「社会通念上は悪いことと
されていることでも法として認められれば、法実証主義の立場では、立
派に社会統制の手段として正当性が認められる」ということなんでしょう
か。

>本当にドゥオーキンって法実証主義者じゃないのかな。
僕は、彼は結構法実証主義者なんじゃないかと思います(笑 というのも、彼の
「法」に対する信頼は底知れぬものがありますから。あれだけの「法」に対する
信用がなければ、自分の著書に「法の帝国」なんてタイトルはつけないでしょう(笑

彼が、法実証主義者だと呼ばれないのは、やっぱり「権利論」でハートを叩き台にして、
持論を展開したことが大きいのかな?

>超越的なものではなく、経験的なもののように思えるけど。

彼の著書を全部読破しているわけではないので、僕の勝手な印象で言わせていただけば、
ドゥオーキンは超越的なものとされているものを、敢えて経験的な要素に還元あるいは
分解することによって、法実証主義と自然法論の懐柔を狙ったのではないかと思います。

●12さん

>やはりそこでいわれる法実証主義的なスタンスは本末転倒ではないか
飽くまでも、法実証主義を前提として、話をすすめるならばの話ですよ(というか、あれは結構、ジョー
クのつもりだった(笑))。僕自身の立場は、別に法実証主義でもなんでもないですよ。。

>悪法とは、「価値判断的」に悪い法のことではなく、
>「機能的」に欠陥をもつ法の謂いであり、
>そのシステムに社会からのフィードバックの機能を欠いている法のことだと。

そうですね、現在の正義論の議論でも価値判断や個々のライフスタイルに関わる判断
をいかに回避して、全ての人に共通する正義とはなにかというものを追求してますか
らね。。

219:2001/06/02(土) 22:30
訂正

>>14
×11の方は、法実証主義の中での正義を問うてますから
○10の方は、法実証主義の中での正義を問うてますから
22:2001/06/03(日) 08:57
>9さん
どうもです。

私はどうも、この、(悪)法の正当性−専門用語を使うと(笑、「実効性」とは区別された「効力」ですね−
をめぐる問題と、その(悪)法に対する服従をめぐる問題には、なぜか一種の苛立ちがあります。
何故だか良くわからないのですが。多分これはこの手の議論が「法的効力」と「道徳的義務」を混同しているからではないかな、と。
ちょっとそれを解きほぐそうと思って書いて見ます。

一つの−私が思うところの−スマートな解決法として、「悪法も法である、しかしそれは余りにも不道徳で
あるから従うことは−道徳的に−出来ない」という考え方があります−9さんはすぐにもとネタ分かるだろうけど、
H・L・Aハートの言葉です−。
ここでは、ある悪法が法であることと、それを遵守することが区別されているわけです。

一般論的な話になりますが、法に服従することを命令する法は存在しえません。
なぜならそれは無限遡及に陥ると考えざるをえないからです。
であるならば、我々が法に従うことは−単に刑罰を恐れて、と言うような世俗的動機を別にすれば−
それが道徳的義務だからと考えられます。

おそらく、悪法は法ではないという言説は、そのような法には従うべきではない、従えないということを含意しているように思えます。
しかし、上の段落に書いたように、悪法を法と認めたとしても、だからといって法に従わなくてはならない、という帰結にはならない。
原則的には法実証主義の立場−法と道徳の分離−に立つ私としては、悪法は法ではないという立場は採用したくない。
というわけで、上にあげたハートの言葉に強く感銘を受けます。
23:2001/06/03(日) 09:06
>道徳的義務
以下で書くことは、「非」法実証主義的な立場からの書き込みです。

私は、法に従うとりあえずの義務、フェアプレイの義務はあると考えています。
それは、民主主義国家であれば自らもその立法に何らかの形で関わっているからであったり、
自らのすんでいる共同体にお世話になり、また、出て行こうとしていなかったからであったり−ソクラテスですな−
他の人は守っているにもかかわらず、自分だけそれを守らないのはフリーライダー的であると考えられたり−例えば徴兵制とか−
そもそも各人がルールを守らなくて良い、勝手に行動してよいのであったら、社会全体の効用は著しく減少するであろう−社会契約論を想起せよ−
からであったり、というような理由が考えられます。

「ただ」当該悪法を守るのは上にあげたものを考慮しても余りにも不道徳である、
ということも考えられます。そのような場合良き市民としては、いかなる態度をとるべきか、
という実践的な問題もまた悪法論として語られますね。
例えば、市民的不服従論などがそれを検討しています。
24:2001/06/03(日) 09:12
>一般論的な話になりますが、法に服従することを命令する法は存在しえません。
なぜならそれは無限遡及に陥ると考えざるをえないからです。

法に従う法的義務、というような言葉を思い浮かべてください。
ナンセンスでしょ(笑

>であるならば、我々が法に従うことは−単に刑罰を恐れて、と言うような世俗的動機を別にすれば−
それが道徳的義務だからと考えられます。

ここで道徳的義務は、法的義務のような概念と対比させるために用いりました。
法に従う道徳的義務、という発想は法実証主義の発想からは発生しえない、ということです。
259:2001/06/04(月) 22:49
すいませんね。ちょっと忙しくてマメにレスできないです。


>ここでは、ある悪法が法であることと、それを遵守することが区別されているわけです。

 なるほど、猫さんは、法を遵守するための根拠や正当性は、法の内部では解決されず、法の外部
でしか規定されないのではないかとお考えなのですね。それは、鋭い指摘かもしれません。
 ある種、根拠づけの嵐である法律学(笑)ですが、実は、「法」自体を根拠付けるもの
が実はほとんど定まってないというのは、僕も常々考えてました。多くの場合は、それを社会契約
説などのフィクションに頼りますよね。
例を挙げれば(猫さんは、「無限遡及」という言葉を使ってますね)、

「法律」→法律を根拠付けるものして「憲法」→憲法を根拠付けるものとして「ポツダム宣言」(こ
こは異論のあるところでしょうが、あくまでも例なのでツッコマないでくださいよ(笑)→ポツダム
宣言を根拠付けるものとして「国際法の一般原則」?→国際法の一般原則を根拠付ける
ものとして「根本規範」?

とどんどん遡及していくわけですが、最後の根本規範レベルまでいってしまうとそれを
根拠付けるものがなくなってしまうわけなんですね。少なくとも法の内部では。
ね。
269:2001/06/04(月) 22:50
では、法の外部で我々が法を遵守させているものはなにか?

 もちろん刑罰などの消極的法的サンクションなども理由の一つとしてあるでしょうが、国
際法がほとんど強行手段を持たずにそれなりに運営されていることを鑑みれば、それだけを
理由とするのは不適当です(これはすでに、猫さんが言及されてますね)

 ただ、僕自身の個人的な考えでは、そこで「道徳」という言葉を使ってしまうのはちょっ
と抵抗があります。「暫定的な行動指針が提供されてるから」というのがちょっとまどろっ
こしいですが、僕の現在の考えです。例えば、なにか他人と衝突した際に自分の行動を
正当化する際によく「法律で決まってるから」という言い方をしますよね。自分の行動が正
しいかどうかとか合理的がどうかなんて、非常に難しい問題ですよね。というか、考えてる
間に何も行動できず人生が終わってしまう(笑)だから、法律そのものの内容が正しいか
どうかを考えなくても、とりあえず遵守しておけば、他人との衝突を最小限に抑えて、社会
で生活することができる。なんか、これってすごくつまらない人生のように思えますが、人間
はある程度、思考を判断停止したりルーティン化しなければ(軍隊がいい例ですね)、何も
行動できないようになっているような気がするのです(いや、そうするように社会が成り立っ
ているのか?)。

ところで、この板に来ている人は、法律を遵守する理由として何を挙げますか?
27考える名無しさん:2001/06/05(火) 00:30
コンヴェンションですね。
28読者:2001/06/05(火) 01:42
>24
>一般論的な話になりますが、法に服従することを命令する法は存在しえません。
>なぜならそれは無限遡及に陥ると考えざるをえないからです。
>法に従う法的義務、というような言葉を思い浮かべてください。
>ナンセンスでしょ(笑

法(制度)が存在しない社会に産まれた後に、
法(制度)が存在する社会が成立した場合には、
おっしゃる通りだと思いますが、
現に、法(制度)が存在する社会に産まれた者にとって見ると、
法に従うことを要求する法(制度)が存在するのではないですか?

後、自己言及文の無限後退性については、
人間の脳が自己言及を許容している以上、
論理学的にはそうかもしれないが、
生物学的にはそうでない、とすべきでは?

29:2001/06/05(火) 04:14
なかなかハードになってきたので、どんなレスしようかと考え込まざるをえないです(笑

>読者さん
>法(制度)が存在しない社会に産まれた後に〜

うーん、どうかな。以下のレスは的外れかもしれないけど。
我々は特定の社会、共同体に生れ落ちてくる。
そこでは我々は全く自由に自分自身を構成するのではなく、社会に一定の
規制を受けながら自らを構成する、という感じかな。
ただ、我々は一定の社会−この社会が過剰に権威的ではなく、ある程度思想の自由が認められているならば特に−
に生れ落ちてきてなお「何故我々はこの社会の法を守らなくてはならないのか」
と考えることはできるし、実際我々は考えている。
であるならば、制度を援用して何故法を守るのか、という答えにはならないような。
「とりあえず」法は守られるべし、とはいえるかもしれないけど。

もう一つ。
逆に、制度がない社会で制度を作ろう、と決心したからこそ、その制度形成の参加者は法に従う義務があるかもしれない。
だけど、それの子孫はそのような義務はない、とも考えられますね(社会契約論)。
30:2001/06/05(火) 04:26
>9さん
>「暫定的な行動指針が提供されてるから」

調整状況解決に法の正当性を求める議論の一バリエーションでしょうか?
普通は調整状況という言葉では、右側通行か左側通行か、といった瑣末な問題を対象とすることが多いけど、
ここでは刑法的なかなり強い社会規範も含まれているようですね。
一種の「権威論」というか。

そのような権威がまともな社会運営において必要であること自体は全面的に承認します。
右側通行の話もそうだし、特定の犯罪が−例えば被害者なき犯罪−本当に犯罪の名に値するのか、と言うような問題も
どっかの誰かが決めてくれた方が良い。この問題は学者にとっては重要かもしれないけど、
普通の人がみんなで悩むようなものでもない(笑
その意味では、普通の人にとっては思考経済上の理由からの法遵守ということになるのでしょう。
「通常のレベル」ではそもそも法を守るべきか否か、ということ自体が問題にならない、意識に上らない、と。

普通の人にとっては通常、法を遵守するのが生活するのに効率的だ、と言う点は承認します。
では、このスレの本題に戻って(笑 悪法に対してはどうでしょう?
例えばソクラテスが毒杯を飲んだがごとき。
このような限界事例では、遵守すべきか否かは効率に還元されませんよね。
ここで、道徳の問題が出てくるように思われるのですが。
319:2001/06/06(水) 17:57
●読者さん

読者さんは、分析哲学専攻ですか?読者さんのレスには「ことば」や「論理」に対
する興味が見受けられます。

>後、自己言及文の無限後退性については、
>人間の脳が自己言及を許容している以上、
>論理学的にはそうかもしれないが、
>生物学的にはそうでない、とすべきでは?

ここ、もうちょっと詳しく説明できますか?特に「生物学的にそうではない」の部分。
なんなら、記号を使ってもかまいませんよ(でも、できるだけわかりやすくお願い
(笑))
329:2001/06/06(水) 17:59
●猫さん

>なかなかハードになってきたので、どんなレスしようかと考え込まざるをえないです(笑

9でも書きましたが、この問題は難しいです。やろうと思えば、本一冊書けるんじゃないかな?

>逆に、制度がない社会で制度を作ろう、と決心したからこそ、その制度形成の参加者は法に従う義務があるかもしれない。
>だけど、それの子孫はそのような義務はない、とも考えられますね(社会契約論)。

これも、興味深い問題です。昔、バブルの頃に流行った住宅の2世代ローンって、法律上は
どういう風に扱うんですかね?(笑

>調整状況解決に法の正当性を求める議論の一バリエーションでしょうか?

元ネタはいろいろあります。刑法などの規範的機能の議論もそうだし、最近の政治過程論の
限定的合理性の議論も元ネタです(笑

>ここで、道徳の問題が出てくるように思われるのですが。

このスレの核心に迫る質問ですね。。
僕の理解によれば、道徳とは「内在化された自己規範」であると考えてます。「内在化された
自己規範」は幼少時には、親や学校に叩き込まれます。「約束は守らなければならない」「人
にウソをついてはいけない」とかいろいろありますね。しかし、ある種の年齢に達すると、こ
れらの「与えられた規範」に対する相対化が始まります。4.5年前の援助交際の議論を思い出し
て下さい。ある女子高生は「人に迷惑をかけてはいけない」という基準を元にすれば、「援助
交際は別に悪いことでもなんでもない」と主張してましたよね(この板でたびたび議論される
「なぜ人を殺してはいけないか」の議論にも通じるものがあります)そうして、修正されて
てできた「自己規範」が制定法とコンフリクトを起こす場合が「悪法」の存在する状態なので
はないと考えてます(もちろん、「与えられた規範」がすでに制定法とコンフリクトを起こす
状況も往々にしてあるのでしょうが(笑))

ただ、一般に「道徳」というと、世界人類全部に共通するなんらかの価値基準が存在する(正義
論の議論でもおわかりのように、これは極めて難しい問題です)ようなニュアンスをうけます。こ
れが僕が、「道徳」という言葉をあまり使いたくない理由です。
339:2001/06/06(水) 18:03
●訂正

>>32
×「自己規範」が制定法とコンフリクトを起こす場合が「悪法」の存在する状態なので
はないと考えてます
○「自己規範」が制定法とコンフリクトを起こす場合が「悪法」の存在する状態なので
はないかと考えてます
34:2001/06/07(木) 18:19
>9さん
どうも道徳という言葉の使用法をめぐる問題になってきましたね。

>一般に「道徳」というと、世界人類全部に共通するなんらかの価値基準が存在する
ごくごく個人的には、寧ろこのような言葉をさす場合には倫理という言葉を使いたくなります。
主観的な倫理が道徳である、とか、道徳は習俗と未分化である、とか。
倫理という言葉にこそ超越的、普遍的な意味を付与したくなります。

それはさておき、>「自己規範」が制定法とコンフリクトを起こす場合
これは如何に解決されるべきか、という問題が残りますね。
359:2001/06/08(金) 22:25
>ごくごく個人的には、寧ろこのような言葉をさす場合には倫理という言葉を使いたくなります。
>主観的な倫理が道徳である、とか、道徳は習俗と未分化である、とか。
>倫理という言葉にこそ超越的、普遍的な意味を付与したくなります。

一般的な意味での「道徳」の意味は猫さんの言う通りだと思うのですが、法学
でいうところの「道徳」は「法と道徳の峻別」などで使われるような時などでよ
くみられるのですが、倫理のニュアンスがはいってるのじゃないかなと思います。

まあ、それはいいとして、

>それはさておき、>「自己規範」が制定法とコンフリクトを起こす場合
>これは如何に解決されるべきか、という問題が残りますね。

それでは、悪法状態が存在するということに対しては、ほとんどの人は異
論ないのですね?それでは、第2ラウンド「悪法に対する実践論」に入り
ますが、、
36考える名無しさん:2001/06/08(金) 22:33
第2ラウンド「悪法に対してどう対処するか?」

一般的に悪法に対して、対処する時の議論は次の4つが考えられ
るのではないかと思われます。

1.法の外部で社会的に認められない手段による変革
 例:クーデター、革命、etc
2.法の外部で社会的に認められた手段による変革
 例:政治、市民運動 etc
3.法の内部での変革
 例:裁判 etc

4.我慢する(笑

まあ、あんまり僕がだらだら書くのもなんなので、ちょっとみなさん
のレスを待ちたいと思います。。
37考える名無しさん:2001/06/08(金) 22:59
1のみ
38(゚д゚)マイウー:2001/06/08(金) 23:20
「社会的に認められている」「認められていない」のメルクマールが問題ですね。
対処すべき「悪法」が、他の法律との整合性がとれているのか、とか、
その対処のための行為をはじめる時点のみの「社会的承認」を問題にするのか、
革命など、成功後に認められれば、「社会的に」認められた、とするのか、?
法の権威や正統性の源泉を、どこに認めるのか、といったことが、先ず問題になるのかな?
39考える名無しさん:2001/06/12(火) 23:57
age
40:2001/06/13(水) 00:33
久々に。
>9さん@36(ですよね?)
おそらく、2から4までは対処の議論としてはそれを実行したとしても問題にならないでしょう。
社会的に認められた方法な訳ですから。

更に、1を全面肯定する人も少ないと思います。社会の転覆を認めることが可能なほどの悪法、というのは想定しにくいし、
正直言って、余りにも問題が大仰すぎて語りにくい。
むしろ、1と2の中間に位置するような対処方法、所謂市民的不服従こそが身の丈にあった悪法に対する処理方法かな、と。
41名無し:2001/06/13(水) 20:29
やっぱりオイラは、自らのシステム内部に自浄機能を
備えていない法律を悪法と定義したいに一票。
42:2001/06/13(水) 21:11
>41さん
>自らのシステム内部に自浄機能を備えていない法律を悪法と定義したい

現代においては、さほど悪法に関する理論が緊急のものとは考えられない、
なぜなら、人権が憲法明文で規定されているからですね。
悪法というものは、大抵憲法違反である、と考えられます。
で、憲法学の話。違憲立法審査制、というものが存在します。
これはいうまでもなく、憲法に反する法律を無効とする物なのですが、
これは、実質的には、裁判所による立法なのではないのか、と疑われます。
これは権力分立違反であるので、あまり積極的に違憲審査を認めることは出来ない、と。

では、裁判所はどのようなときにある法律が人権違反であると言えるのか、
逆にいえば、立法府の広い裁量が認められるのは、いかなるときなのか、という問題が存在することになります。

これに対する一つの回答が、民主的政治プロセスを侵害するような法−例えば、表現の自由、結社の自由、
さらには、しばしば話題になる選挙区別の議員席の不均等−に関しては、積極的に違憲審査すべし、というものです。
例えば国民にどのように財を分配するのか、というような問題は民主的決定に委ねるが、
その民主的決定が歪められている時は、積極的に司法が乗り出して是正すべきである、と。

このようないかなる違憲審査方式を採用すべきか、という問題も悪法論の一つに食い込ますことができるかもしれません。
439:2001/06/14(木) 02:02
すいません。しばらくほったらかしにしてました(汗

●38さん
はい、ご指摘の通りです。あの36の表はあくまでも論議を円滑にするための暫定
的なもので厳密な区別はつけていません。認められている/認められていないの区
別がなかなかつきにくいのもなんですが、(自分でツッコミいれますけど)法の内
部と外部をどう区別するのかという問題が残っています。どちらかといえば、あ
の表は、「悪法に対する対処」に対する歴史的経緯を表してたつもりだったんで
す(4は除く)。もし、「悪法」状態に至った場合、最初は1しか方法がなかったの
が、議会制民主主義の発達で、2が登場し、最近では3の方法によって悪法状態
は改善可能なのではないかという(主に、法学者の間で)議論が活発になっ
てます。3番の議論について詳しく知りたい時は、ドウオーキンや、田中成明あたり
の著作が、参考になると思います。

>法の権威や正統性の源泉を、どこに認めるのか、といったことが、先ず問題になるのかな?
22-32のレスあたりでも似たようなことを議論してます。他に意見はありますか?
449:2001/06/14(木) 02:14
●猫さん
>>9さん@36(ですよね?)

はいそうです。9=36です。。書き忘れちゃった。

>おそらく、2から4までは対処の議論としてはそれを実行したとしても問題にならないでしょう。
>社会的に認められた方法な訳ですから。

そうですか?それぞれの方法の使いやすさと効果が問題になると思います。例えば、2の方法
をとる時は、集団の多数派に属していなければいけない(よく民主制の欠点として議論されま
すね)ですし、3の方法をとる時は、判例がコモンローの法源として認められる英米法な
らともかく、制定法主義をとる日本でどこまで効果があるのかという話もあります。また
、日本の場合、「悪法」状態になった場合、普通の人間はすぐには、司法
の場に持ち込まないでしょう。

>1と2の中間に位置するような対処方法、所謂市民的不服従こそが身の丈にあった悪法に対する処理方法かな

これは、後々に問題になってくると思うので、後にまわしておきましょう(笑

>悪法というものは、大抵憲法違反である、と考えられます。

この場合、憲法自体が悪法になった場合が問題になりますね(笑
45:2001/06/14(木) 02:38
>9さん
>そうですか?それぞれの方法の使いやすさと効果が問題になると

あ、なるほどなるほど。私は道徳的に是認できるかどうか、という観点からああいう風に書いたので、
全部一緒くたにしちゃったのですが。
2と3の相違点、それぞれの使いやすさと言うか射程範囲というのは42で書きました。
何が政治に任されるべきか、何が司法に任されるべきか、という問題点ですね。
また、3に関してですが、違憲立法審査制を備える日本でこそ意義があると思います。

>この場合、憲法自体が悪法になった場合が問題になりますね(笑
勿論そうです(笑 。
が、第二次世界大戦後の自然法のルネサンスが下火になったのは、人権規定が大抵の−先進国の−
憲法規定に人権として取り込まれたからだ、という記述もしばしば見かけますし、まあ、いいかな、と。
469:2001/06/16(土) 22:16
すいません、また遅レスです。。

>2と3の相違点、それぞれの使いやすさと言うか射程範囲というのは42で書きました。
>何が政治に任されるべきか、何が司法に任されるべきか、という問題点ですね。
>また、3に関してですが、違憲立法審査制を備える日本でこそ意義があると思います。

 個人的には、世の中、政治主導と騒がれているけど、政治(立法)だけでは全てを決める
ことができないのではないかと考えてます。というのも、絶対数が足りない。衆参
合わせて、1000人にも満たない議員しかいない。まあ、職員とか秘書とか合わせても
5000人ぐらいですか?国家公務員の数に遥かに及びません。立法というのは基本的に
金と労力がかかる行為です。明治時代に民法とか刑法とかできましたが、その時にどれ
だけの予算と人材が投入されたでしょうか?(ちなみに一番金がかかったのは、不動
産の登記だったという話です(笑))

 基本的に、現状の日本の立法府でできるのは、何かを作ったり推し進める積極的行為
ではなく、現状の制度を否定したりなくしたり、消極的行為しかできないのではないか
と思うのですが。。これは、いろいろ異論のある部分でしょうから、反論のある方はど
うぞ。

>が、第二次世界大戦後の自然法のルネサンスが下火になったのは、人権規定が大抵の−先進国の−
>憲法規定に人権として取り込まれたからだ、という記述もしばしば見かけますし、まあ、いいかな、と。

もし、裁判で悪法状態を改善しようとするなら、なんらかの悪法を否定する基準が必要にな
ります。ドゥオーキンの場合、原理なり政策で、違憲立法審査制の場合、憲法になるのですが、、

ただ、今の日本国憲法の人権規定では、なかなか新しい人権が認められにくいような気
がするんですけど。。一応、憲法学では、13条の幸福追求権で派生するようになってるん
ですよね。でもあれで、裁判で認められた人権ってほとんどないと思ったんですが。。
そのあたりのことは猫さんどうお考えですか?

権利の派生って難しいテーマなんですよね。。こちらも考えがまとまってないので、もう
少し考えます。。
47
>でもあれで、裁判で認められた人権ってほとんどないと思ったんですが。。

プライバシーの権利くらいですか、認められたものは。
個人的には、新しい権利に対しては総じてネガティブです。プライバシー権はまあ良いとは思いますが。
まず第一に国家と個人の関係を規律するというもともとの人権の概念から余りにも遠く離れているように思える。
第二に多くの新しい権利は所謂社会権と言うカテゴリーに含まれると思われますが、
人権のインフレを起こすことにより、過剰なまでに国家の干渉を招くこととなる。
また、市民の、国家に対する依存がはなはだしくなる。
第三に、最もよく話題になると思われる環境権ですが、これが実際に環境保護に益するとは考えにくい。
例えば、私のすんでいる地域において自然環境が不足しているとする、
で、それを政策的な計画性も全く考えずに「人工的な」豊かな環境を要求するとする。
このようなものは、生態系を破壊するようなこともありえるのではないか、
と思われます。おそらく環境問題は個人の権利という観点からではなく、
安定した生態系という観点からみるべきではないか、と。
第四に知る権利。これは他の権利にもいえますが、人権という形で取り込む意味がどこまであるのか、という疑問があります。
それは法律で十分処理できますし−情報公開法−仮に人権として認められたからといって
即座にその権利が行使できるタイプの性質の人権ではないでしょう。
ただ、あってもかまわないと思うのであえて反対はしませんが。