【マルクスその可能性の中心in2ちゃんねる】

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697バブル紳士:02/02/14 13:52
おらってば、今資本論第二部第一編資本の諸変態とその循環を4jところだっぺ。
循環過程の三つの図式、なんかええっぺ。近経のツールが数学とすれば、マルクスのそれは、生物学とか地質学みたいな感じがするっぺ。
あと、五七、八年草稿なんかもええね。資本主義的生産に先行する諸形態とか激萌え。
698OFW:02/02/14 22:55
>>684
誤:同上228節補遺
 正:『小論理学』228節補遺
 (227節補遺も参照下さい。)
>>687
>個が具体的事物だとすれば個から普遍に進めば帰納に?
 正確に言えば、分析/綜合の区別は主観が客観に向かう<認識>におけ
 る方法上の種別であり、帰納/演繹の区別は主観内部での<推理>にお
 ける種別です。
 帰納(Induction)とは質の推理の成果である全称推理を媒介する
 反省の推理です。帰納自体も類推(Analogy)に媒介されており、
 普遍的本質<個物そのもの>の媒介的定立として、演繹(Deduction)
 (ヘーゲルは「必然性の推理」と呼ぶ)の前提となるものです。
 経験的な各個物の特性は実験的に調べられ、<すべての個物>への類推
 により、そこに含まれる普遍的な本質が定立される。帰納は主観に対し
 て、具体的経験の領域から反照的本質の領域へ向かうための架橋を提供
 するものと言え、一方演繹(定言推理、仮言推理、選言推理)は主観が
 総体的客観に向かうための架橋を提供するものと言えるでしょう。
>「経験 総合」「無経験 分析」が「演繹」「演繹的帰納」に?
 認識の理念とは<客観>として即自的な向自有を向自的に定立すること
 ですから、具体的な対象内容をカテゴリー形式の元に包摂する行為です。
 認識主観は客観を概念、判断および推論形式により(カント以降の主観
 的観念論における構成とは異なり)“再構成”する。それは分析→綜合
 という方法(定義し、分類し、対象の客観性を証明すること)により、
 直接的経験の対象が自己を媒介する客観的なものであることを明らかに
 することです。
699考える名無しさん:02/02/14 23:23
僕はグルーチョが好きだなあ・・・。
700ねこ:02/02/15 00:13
 「客観的条件と切り離された主張が、マルクス主義理論の基幹
となっている」という私の批判は誤解とのことですが、これは、
先にOFWさんが、上部構造−下部構造論は、ひとつの主張に過
ぎない、と言われたことによったつもりでした。しかし、少なく
ともつもりとしては、いわゆる客観的条件からの乖離を標榜する
はずも無い、ということですね

 であれば、それらの主張や理論が、「客観的・歴史的条件に即
して」いることは、どのように「検証」すべきだとお考えでしょ
う?

 ブルジョア的アトミズムに基づく私的財産制が、客観的・歴史
的条件に即してはおらず、人間の類としての本質を体現する共産
主義社会が、前者より客観的・歴史的条件に即していることは、
どのように我々の前に明らかにされるのでしょうか?

 マルクス主義であれ、オウム真理教であれ、量子力学であれ、
真なるものを標榜しようとする者なら誰でも、科学と非科学との
境界線を引こうと試みた論理実証主義者以来の分析哲学と同じ舞
を、観客の前で舞わねばならないのではないでしょうか?
701ねこ:02/02/15 00:14
 もしそうでないとすれば、その論者は、全く新しい舞を、観客
に対して披露する必要があろうかと思います(弁証法でしょうか?
OFWさんは既に別の舞方をされているようでもありますが・・
いずれにしてもこういう文学的???な表現は嫌いですから、も
う止めます)

 「アルチュセールの認識論的切断」(あれ?ガストン・バシュ
ラール?だかっていう人だっけ?)という言葉は知っていました
が、マルクスの労働価値の認識に関してであったことは、知りま
せんでした。
 それはともかく、私が「必然性の洞察」に難癖を付けたのは、
少なくとも日本語でその語句のみ切り離した場合の意味を考える
と、その言葉によって、労働価値説が検証(でも反証でもOK)
を免れる理由が説明されているとは思えなかったからです
 広松スレ以来、同じことを何べんも書いていただいて恐縮です
が、OFWさんの「説明」とコミュニケーションがとりづらい理
由は、再掲ですが、私が弁証法を理解していないことが原因かも
かもしれません(私はAでなければAバー。でも、弁証法は、単
純に否定せずに「止揚」するのですよね。)。
702ねこ:02/02/15 00:14
 蓋然性が高くなることを科学的と称するポパーの定義は、なる
ほど「科学」というものをどのように考えるかによっては、甚だ
物足りないものかもしれません。例えば、反証がないからと言っ
て、生物がやがて死ぬことを科学的理論だと主張することに、実
際的な意味がさほどあるとは思えません。
 しかし、逆に次のような例はどうでしょう。
 例えば、霊魂が存在しそれらが祟るという理論?は、説明力が
高く、我と我が身に降りかかる災厄は、私の信仰心が薄いという
理由によって説明することが可能です。また、我々は死者の前で
は手を合わせるし、度胸試しと称して、夜お墓に行くことを勇気
の有る無しの基準にしようとします。このように制御力?も高い。
 しかし、この霊魂理論は科学的と言えるでしょうか? 特に、
科学という言葉にこだわる気は毛頭無いので、言い換えれば、我
々に対する説得力を持つのか?。単に祟りが恐ろしいが故にその
ような仕草を強いられるに過ぎないのでは?。マルクス主義もま
た・・(以下自粛)。

 要するに、まずは私とOFWさんとで科学的の言葉の使い方を
決める必要があります。私の主張は、どれが真の科学であるかを
決めることではなく、反証可能な言論のほうが、根拠として用い
る際に確実性を有しており、また、我々はそうでないものを、に
わかに盲信すべきではないということにつきます。

「科学的説明が合理的であるならば、決して本質的な不安定性を
説明できない」。言葉遊びをするなら、これが真なる言明だとす
れば、対偶をとって、「本質的な不安定性を説明できる(理論)な
ら、科学的説明(というよりもそうであることを標榜する理論は
、と言った方が適切でしょうが)は、非合理的である。」となり
ますね。この対偶が常識的に言って真だとは考えにくいのですが
、如何ですか?。
 言われていることはわかるつもりですが、OFWさんのこの主
張のままでは、所詮、カビの生えたイデオロギー論に過ぎない
(下部構造決定論)ように思われます。
703ねこ:02/02/15 00:16
 失礼。途中で切れたので、一部再掲。

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「科学的説明が合理的であるならば、決して本質的な不安定性を
説明できない」。言葉遊びをするなら、これが真なる言明だとす
れば、対偶をとって、「本質的な不安定性を説明できる(理論)な
ら、科学的説明(というよりもそうであることを標榜する理論は
、と言った方が適切でしょうが)は、非合理的である。」となり
ますね。この対偶が常識的に言って真だとは考えにくいのですが
、如何ですか?。
 言われていることはわかるつもりですが、OFWさんのこの主
張のままでは、所詮、カビの生えたイデオロギー論に過ぎない
(下部構造決定論)ように思われます。

 科学的理論が現実を隠蔽するイデオロギーに過ぎないというの
は、例えば、空間や時間さえも変化しうるとした相対性理論、
複数の今この世界とは異なる「可能世界」(正確には違いますが)
をさえ予見しようとする量子力学などの科学理論によって、明確
に「反証」されているように私には思われます。
704考える名無しさん:02/02/15 00:43
うざい。
705考える名無しさん:02/02/15 20:40
ageまし
706考える名無しさん:02/02/15 20:43
うまい。
707考える名無しさん:02/02/15 22:57
まいう〜
708考える名無しさん:02/02/15 23:17
おまえらマルクス兄弟で言うと誰だぁぁぁぁ!!!ぁ?
709考える名無しさん:02/02/15 23:34
おやつのカールです。
710OFW:02/02/16 10:06
>>700-701(ねこさん)
>どのように「検証」すべきだとお考えでしょう?
 労働価値説の検証の一つとして、現在の恐慌状態を挙げることができる。
 テレビや新聞で「デフレギャップ」つまり供給過剰(需要過少)あるい
 は「資産デフレ」として“説明”(実際は単なる現象記述)されている
 この歴史的不景気の根本原因は、資本のあくなき価値増殖欲を支える労
 働力の乱費(生産労働の極大化とそのコストの極小化)から来るわけ。
 <恐慌>を資本主義経済の本質に基づく、その不可避的な帰結であると
 説いたのはマルクスが最初であり、現在の経済学(○経含む)でも、そ
 れを単なる均衡からの逸脱あるいは調整可能な一時的局面としてしか捉
 えていない。失業者が身をもって恐慌の現実性を実証しても、「本質的
 には恐慌などあり得ない」と反証され、単に「リストラ」(構造調整)
 などと呼ばれてしまう。まことに反証不可能な“科学的”理論ですね。

>どのように我々の前に明らかにされるのでしょうか?
 歴史の法則性の発見と唯物史観の形成史については、下記を参照。
 エンゲルス『空想から科学へ』
 ttp://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/kuso0.html
 
>ガストン・バシュラール?
 アルチュセールの<認識論的切断>は<問題論>(徴候論)と共に、
 バシュラールに負う所が大であることは、本人も述べている通りです。

>労働価値説が検証(でも反証でもOK)を免れる理由
 として「必然性の洞察」を挙げたのではなく、「徴候論的読み」とは、
 直接性(自明性)から蓋然性(問題性)を経由した必然性への転回(確
 証性)のプロセスであるということ、として挙げたのです。当然その確
 信が正しいかどうかは、そこからの帰結を現実と照合する検証作業を必
 要とするのであり、まさに『資本論』全体がその成果なのです。
711OFW:02/02/16 10:07
>>702-703(ねこさん)
>霊魂が存在しそれらが祟るという理論?
 確かに中世キリスト教神学は近代合理主義に匹敵する啓蒙性を示してい
 た(『啓蒙の弁証法』)が、<霊魂の祟り>は余りにも気まぐれで、測
 りがたい(予測しがたい)のも事実。それは解釈であり説明ではない。

>反証可能な言論のほうが、根拠として用いる際に確実性を有しており
 1.「ここに机がある」
 2.「宇宙人は実在する」
 3.「私は自由な市民である」
 4.「論理は実証(検証)可能である」
 5.「批判的合理主義は反証可能である」
 の中で、反証可能そして検証可能(両者は違う)な言論はどれでしょう?
 
>科学的の言葉の使い方
 科学とは元々「学問」と同義語であり、専門化が進んで後、特に自然現
 象を対象にして、その法則性の解明と第一原理からの法則の説明を目的
 とした理性の営為を指して言う。理論一般の表徴としては、論理性、体
 系性、客観性が挙げられるが、近代科学はその実践的な基盤としての技
 術的な操作性が顕著です。この点から、狭義の「科学的」とは「説明的、
 予測的、制御(操作)的」とほぼ同義です。一方、社会科学は人間社会
 において<自由な主体>という非法則的な行動を行う対象を前にして、
 科学的であるための基盤(対象の必然性)が自然科学のようには満たせ
 ず、規範科学たらざるを得ないと言われるが、社会は自然の一部であり、
 その物質的な基礎を明らかにすれば、規範の根拠も客観的に説明可能に
 なる(例:生産労働に基づくコミュニケーションの自然史的性格)。

>科学的理論が現実を隠蔽するイデオロギーに過ぎない
 「不合理な現実を合理的なものとして説明する科学的理論が」が正しい。
712考える名無しさん:02/02/16 15:29
713考える名無しさん:02/02/16 15:55
714考える名無しさん:02/02/16 15:55
715考える名無しさん:02/02/16 15:56
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717考える名無しさん:02/02/16 15:57
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739考える名無しさん:02/02/16 16:14
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746考える名無しさん