1 :
考える名無しさん :
2001/05/26(土) 06:55 ただし、ここは哲学版なので 宗教としてではなく、哲学として。 縁起・因縁・中道・空・唯識・如来蔵etc
2 :
考える名無しさん :2001/05/28(月) 00:34
南無阿弥陀仏
定方晟『空と無我』講談社現代新書 はおもしろかた
4 :
昔の人 :2001/05/28(月) 01:31
筧克彦の仏教哲理とはは、どうなの?
5 :
2222チャンネル :2001/05/28(月) 06:24
形而上学的議論に釘を刺している、仏教の哲学を代表する、 「毒矢の比喩」なんかどうだろう。
6 :
考える名無しさん :2001/05/28(月) 08:10
>3 でも、あの人唯識思想の理解が浅くない?
7 :
考える名無しさん :2001/05/28(月) 08:12
入門書なら三枝先生の『仏教入門』岩波新書でしょ。
名スレの予感
山口組って最悪だよな。 山口瑞鳳にはじまって袴谷とか、松本とか。 あいつらのルサンチマンには虫酸が走る。 なんあの?あの如来蔵非仏教説。 ふざけんなって感じでしょう? 灯台のチベット学潰したのは山口。
10 :
>9 :2001/05/29(火) 01:23
はあ、イン哲ネタですか。 関係者少ないから、身元バレないように注意しろよ。 まあ、仏教学会は、日本最大の学会だけど。
11 :
質問 :2001/05/29(火) 01:27
ホント、知りたいのですが、 筧克彦の業績って、仏教界では、どうなんですか?
12 :
考える名無しさん :2001/06/01(金) 01:56
袴谷さんってルサンチマンかなぁ??
如来蔵や本覚思想批判、非仏説に異を唱えるのはなぜ?
何をもって仏説とするか、みんなの共通認識は違うよね。
誰の学説支持なんでしょうか。
>>9 さん。
仏教もいいがせんこ臭くてな。
14 :
考える名無しさん :2001/06/01(金) 22:38
15 :
9 :2001/06/11(月) 20:35
>>12 さん
>袴谷さんってルサンチマンかなぁ??
彼がルサンチマンのひとかどうかは別としても、
菩提心にもとづいて研究しているようには見えないね。
>如来蔵や本覚思想批判、非仏説に異を唱えるのはなぜ?
>何をもって仏説とするか、みんなの共通認識は違うよね。
「出家教団のなかで早くから文字化されたパーリ経典以外に、
在家教団のなかで口伝で継承されていた大衆向けの教えが、
後世になってサンスクリット語の大乗経典として記された」
というのは一般的な学説といっていいと思います。
それを仏説とみなすかどうかは、小乗 or 大乗 の分かれ目でしょうね。
>誰の学説支持なんでしょうか。
誰の学説か?とか以前に、如来蔵思想そのものを支持します。
「一切の衆生に仏陀となる種子が宿っている」
という思想のどこが間違いなのでしょう?異を唱えるのはなぜ?
初期仏典に出てこないからというのでは理由になってないですよね。
彼らの学説をもういちどここで要約して展開してくださればとおもいます。
#個人的には高崎先生や川崎先生の書いたものをよく読みます。
16 :
考える名無しさん :2001/06/16(土) 02:20
松本氏のは要するに松本教なんですね。仏教でもなんでもない。 中期以降の大乗の理論が正統思想との議論の必然性から生まれたという前提を はずしてそれだけ取り上げても文脈を見失いますね。 袴谷氏については、故江島先生に「友達だろぉ」と絡んでたのだけが印象に 残ってますね (w
17 :
ぺんちゃ :2001/06/16(土) 03:48
偶像を拝むな
18 :
考える名無しさん :2001/06/20(水) 02:06
aga
19 :
考える名無しさん :2001/06/20(水) 03:36
>>16 はあ、イン哲ネタですか。
関係者少ないから、身元バレないように注意しろよ。
まあ、仏教学会は、日本最大の学会だけど。
20 :
参考 :2001/06/20(水) 03:41
21 :
9 :2001/06/20(水) 06:32
>>16 結局、仏教哲学とテキスト・クリティークの関係そのものが問題になってくると思う。
2500年来、仏教の理解というのは、伝統的な説法を聞いたり、読経したり、瞑想したり、
という修行をつうじて行われてきたわけでしょう?近代になって、宇井伯寿みたいな人た
ちが西洋からテキスト・クリティークの技術を仕入れてきたわけだけどさ、結局のところ
成果をあげている大方の人たちは、伝統的な仏教のやりかたも踏んで、その上で、DUE
PROCESSとしてテキスト・クリティークをもちいただけであって、テキスト・クリ
ティークによって仏教の本質を理解しようとしていたわけではないとおもう。
つまりね、仏教に対する深い理解もないまま、テキスト・クリティークの技術なんかふりまわしたって、しょうがないでしょ?とおもうんです。
「バカに刃物は持たせるな」ってことです。
22 :
:2001/06/22(金) 00:38
あげ
23 :
考える名無しさん :2001/06/23(土) 00:24
山口瑞鳳氏の本はとても感動して読んだけど、中沢新一を批判するあまり? 「チベット仏教そのものが間違っていた」と突っ走ってしまうのはどうかと思った。 (オウムの事件が起きてからそういうこと言うのはかこ悪い。おまけに「宝島30」に書くのはさらにかこ悪いと思う) もっと早くから叩いてればよかったのに。
24 :
16 :2001/06/23(土) 02:19
>>9 たぶん知合いだと思うんですけど (w
袴谷氏や松本氏は、その「刃物」がなまくらなんですね。袴谷氏はまだだいぶ
マシだと思うけど。
テキストクリティークで仏教の本質を理解しようとしてる人はいないでしょう
けど、研究者を名乗るならテキストクリティークの技術を持ってなければなら
ない。テキストに書いてないことを読み取ろうとしてはいけないのではないか
と思うわけです。
…というわけで学会発表の準備しなきゃ。
25 :
考える名無しさん :2001/06/23(土) 03:36
>>23 瑞鳳の本で感動できるってどの本?
まさかチベット語文法のやつ?
26 :
考える名無しさん :2001/06/23(土) 03:57
>>23 さすがにそれは記憶違い。>もっと早くから叩いていればよかったのに。
山口の中沢批判
「『チベット死者の書』は仏典ではない」毎日新聞 94年
「中沢新一氏とNHKが持ち上げる『チベット死者の書』はエセ仏典」『諸君』94年6月号
袴谷の中沢批判
「偽仏教を廃す」88年(←『仏教』で全面カット)
「中沢新一批判――現代の摩訶衍」『正論』89年10月号
地下鉄サリン事件は95年3月。
> 「チベット仏教そのものが間違っていた」と突っ走ってしまうのはどうかと思った。
これはわからん。そんなこと言ってた?
27 :
考える名無しさん :2001/06/23(土) 10:34
「無記」ということをわすれてはいけないのでは? つまり仏教哲学(形而上学)などない、というべきではないでしょうか。
28 :
考える名無しさん :2001/06/23(土) 10:40
仏教っておしゃべりしてもしかたないんでしょ。
29 :
考える名無しさん :2001/06/23(土) 12:46
どこかの掲示板(ヒマラヤなんたらとか言ったかな)で山口瑞鳳さんはなんか理系の技術者をやっていて、30過ぎて文転し東大の印哲に入りなおしたとか書いてあった。 なんとなく板の管理人がドキュンな感じだったから今ひとつ信用できないけど、ひょっとしてほんとですか。 チベット仏教が間違った仏教だとしたら、山口氏は最近はどういう説を唱えているのですか。
東洋文庫の福田さんが山口瑞鳳のことをものすごく罵倒してた記憶があるけど 気のせいかもしれない。
31 :
9 :2001/06/23(土) 19:58
>>26 幼稚な文章ばっかりだったよ。ルサンチマン丸出しで。
>>30 非公式には罵倒しているかもしれないけど、
表立ってはつぶさに論破してますよね。
がんばってほしいものです。
32 :
考える名無しさん :2001/06/24(日) 13:43
>>31 >ルサンチマン丸出しで。
私もいくつかここで挙げられてる文章は読んだけど、別にルサンチマンは感じなかった。
31が言うルサンチマンというのは、何に対するルサンチマンなのだろうか。
>表立ってはつぶさに論破してますよね。
文献希望。
どういう風に論破?
33 :
9 :2001/06/24(日) 15:30
>>32 それはあなたも同種のルサンチマンを身につけているかも知れない。
ニンマ派の埋蔵教典がチベット人の創作によるものだと言うことは常識。
その独自に発展させた思想をを実践してきた歴史は歴史だし、評価できるものだとおもう。
ルサンチマン、少しでも「生きた思想としての仏教」ということを語る者に対して、
あくまでも、仏教は単なる知的興味の対象だという態度を貫き通すあたりが、
寒々しいです。
仏教学の若手のなかでは中沢氏の仕事の評価は以外と高い。
チベットの仕事に専念してくれればいいのにと思っている。
福田さんの論考はこれです。
『佛教學』(略号J14)第36号(仏教思想学会発足十周年記念号)、1994年12月、佛教思想學会
福田 洋一、「日本のチベット学10年、ー山口瑞鳳博士の研究を中心にー」 (J14-36-7[pp.55-79]横組)
34 :
考える名無しさん :2001/06/24(日) 15:40
>仏教は単なる知的興味の対象 32ではないけど、どうしてこれではいけないんですか?
35 :
9 :2001/06/24(日) 15:49
>32ではないけど、どうしてこれではいけないんですか? お勉強ヲタは、スピノザでも読んで実践的な態度を身につけて下さい。
36 :
34 :2001/06/24(日) 17:29
>仏教は単なる知的興味の対象だという態度を貫き通すあたりが、 寒々しいです。 や >実践的な態度を身につけて下さい。 などと言われても何が問題なのか理解できないのですが。 >「生きた思想としての仏教」ということを語る のは個人で勝手にやってればいい話しで、研究者なら正確さや 実証主義的な研究のほうが大切ではないでしょうか。
37 :
16 :2001/06/24(日) 17:50
>>33 > 仏教学の若手のなかでは中沢氏の仕事の評価は以外と高い。
こんなん聞いたことないです。むしろチベット仏教がオカルティックなものと
いう印象を持たせることになった害悪が大きいと思いますけどね。
>>36 私にも分かりません。松本氏などは「生きた思想としての仏教」みたいな
ことを言い出したからおかしくなったのではないかと理解してますが。
自分の菩提心を語るのは学問ではないですよね。
38 :
サンクス :2001/06/24(日) 17:52
仏教を唯物論的に考えてくれ。
39 :
9 :2001/06/24(日) 19:14
「生きた思想としての仏教」というのは個人的にやっていればいいのであって、 菩提心の実践うんぬんは個人でやっていればいい話というのはわかります。 研究者が学会とかでそういうことを問題にするのは変だともおもう。 だけど、たとえば、福田さんなんかアカデミズムの中枢部にありながら、 絶対に「如来蔵批判」とか「大乗非仏説」とかいわないでしょ? たぶん、チベット人の僧侶や修行者と日常的に共同作業をすすめていて、 根本的なところで、仏教に愛情を持っているからだと思うわけよ。 研究者の立場をとりながら、菩薩行を実践しているような態度は美徳でしょう。 ああいうしょうもない批判をする連中は「仏教」を憎んでいるようにみえてしかたない。 「学問的な態度」の裏側に、すごく汚いものが見えてしかたがない。 僕がルサンチマン臭いから大嫌いだって言ってるのはそういうことです。 上記の福田さんの論考は、静かな怒りに満ちていてマジかっこいい。
40 :
電波男Ψ(´д`)Ψ :2001/06/25(月) 15:33
耳の遠い山口先生は小さい声の人を嫌います。 お話する時は大声で。 山口先生の業績はチベット語学だけです。 その他は見るものがありません。 浄土教理解にしても 「他人の約束を盾にとって弥陀を脅迫するのがお念仏」とか、 如来藏思想特有のタームがチベット仏教では盛んに用いられる現状 を顧みず、チベットのゲーシェーに佛性批判して起こられたり。。。 楽屋ネタは沢山あり末世。
41 :
電波男Ψ(´д`)Ψ :2001/06/25(月) 15:36
松本、袴谷の本覚思想批判は日本思想史の反省研究、あるいは現代的な 宗教批判としては成立します。内容的にもほぼ間違いはありません。 しかし、如来藏思想批判は脳味噌が逝っちゃってます。あの論法によると、 原始仏教と中観派いがいは仏教でなくなるのです。「『維摩経』は仏教にあら ず」は基地外です。
42 :
ジャコバイト :2001/06/25(月) 15:53
>41 なるほど。
43 :
W大生 :2001/06/25(月) 17:43
>>41 電波男Ψ(´д`)Ψ さん。あらまあ今度はこちらに登場ですか?
44 :
電波男Ψ(´д`)Ψ :2001/06/25(月) 18:26
45 :
考える名無しさん :2001/06/25(月) 18:40
46 :
さわだ :2001/06/25(月) 22:38
はじめまして。 まず最初に私は電子メールやインターネットの使い方がまだ良く分からないので、おかしな文章になるかもしれません。また上記の理由と、かつて恥知らずな内容の文章を私の名前とアドレスでネット上に乗せられたことがあるので、卑怯な気はしますが姓名を乗せたくはありません。ご理解下さい。 さて、まずこのような掲示坂があることに驚いております。身の回りには勿論ですが、書店の佛教書の本棚にいっても人がいたためしがない。 佛教に関心がある人がいることを、少し実感できました。 残念!これ以上書けません。 また投稿します、失礼します。
47 :
考える名無しさん :2001/06/26(火) 01:18
>>33 >
>>32 >それはあなたも同種のルサンチマンを身につけているかも知れない。
って言われても。私は仏教研究には縁もゆかりもないので、
別に仏教関係者にはルサンチマンもついわれはないけど。
>あくまでも、仏教は単なる知的興味の対象だという態度を貫き通すあたりが、
>寒々しいです。
山口氏がですか?私の読みが間違ってるのかもしれないが、
山口氏の本からは、これまでの仏教理解の脱神話化というか、
仏教の可能性の中心を求めようとする力を感じたけど。
たぶん、50年代に黒田寛一やトロツキーとかを読んだブントの学生達も、
また、60年代に広松渉を読んだ新左翼の学生達も、
私が山口氏の本を読んで感じた熱さを感じたのではないか。
そういう意味で、山口氏は学者だけでなく実践家だと思う。
もっとも、氏の説が今日の仏教学の水準から見て正しいかどうか私には判断できない。
専門の方、その点いかがでしょう。
48 :
9 :2001/06/26(火) 01:50
>>47 左翼の文脈で、なんで仏教?宗教はアヘンなんじゃないの?(藁
仏教ちう古代思想の理解には、神話を読み解く能力が必要ダと思うけど。
古代に書かれたものを、19世紀人のような凝り固まった頭で、それは史実に反する、
だの現実ばなれれしているとかいってこき下ろすのは、全くナンセンスだよ。
そんな古臭い学問、21世紀に必要なし!
もうちょっとレヴィ・ストロース的な頭も開発したほうがいいよ、おじさん。
>もっとも、氏の説が今日の仏教学の水準から見て正しいかどうか私には判断できない。
>専門の方、その点いかがでしょう。
僕個人の意見は差し置いても、福田さんは全然ダメだっていってますよ。
49 :
9 :2001/06/26(火) 01:53
>>40 >>41 意外と、電波男Ψ(´д`)Ψ とは気があうかも知れない。
>楽屋ネタは沢山あり末世。
あっぷきぼーん
50 :
16 :2001/06/26(火) 02:53
インド仏教はインド人の、チベット仏教はチベット人の文脈で理解しようと
しないと、それこそ「仏教は宗教ではない」と言い切ったプサンの間違いを
今さら繰り返すことになります。
仏性とか如来蔵ってのは (唯識もそうです) 輪廻の主体は何か、という問いに
帰謬論法じゃ堪えられなかったから出てきた発想で、むしろそれこそがインド
人のアクチュアリティに近いですね。「本当の仏教」なんてのは近代人が適当
にでっち上げた代物だから、宗教における場の重要性を理解してないです。
まさにレヴィ=ストロース的に言うなら、如来蔵思想が生まれた時点での
共時態的理解が必要になるわけです。
>>48 そういえば福田さんは宮崎哲弥のことも散々に言ってましたね。
51 :
名無し :2001/06/26(火) 02:55
山口先生の略歴、主著など教えて。
52 :
考える名無しさん :2001/06/26(火) 03:04
SFCに哲学はない・・・・
53 :
9 :2001/06/26(火) 10:05
山口氏は、あるチベット人ラマから、 「あなたは蟻地獄みたいな人だ」 と言われたことは余りにも有名。
54 :
考える名無しさん :2001/06/26(火) 10:26
55 :
さわだ :2001/06/26(火) 21:21
如来蔵は仏教にあらずとか大乗はどうだとかいうのは、論理的・文献学的にはともかく、何というか・・・、失礼ながら大人としては言うのが恥ずかしいです。 私だって十代の頃は嫌いでした。 法華経や浄土経典を読んで、腸が煮えくり返ったものですが、今はそんなことは全くありません。何を隠そう私が今、一番好きなお経は父母恩重経です。
56 :
さわだ :2001/06/26(火) 21:21
如来蔵は仏教にあらずとか大乗はどうだとかいうのは、論理的・文献学的にはともかく、何というか・・・、失礼ながら大人としては言うのが恥ずかしいです。 私だって十代の頃は嫌いでした。 法華経や浄土経典を読んで、腸が煮えくり返ったものですが、今はそんなことは全くありません。何を隠そう私が今、一番好きなお経は父母恩重経です。
57 :
さわだ :2001/06/26(火) 21:23
如来蔵は仏教にあらずとか大乗はどうだとかいうのは、論理的・文献学的にはともかく、何というか・・・、失礼ながら大人としては言うのが恥ずかしいです。 私だって十代の頃は嫌いでした。 法華経や浄土経典を読んで、腸が煮えくり返ったものですが、今はそんなことは全くありません。何を隠そう私が今、一番好きなお経は父母恩重経です。
58 :
考える名無しさん :2001/06/26(火) 21:30
なるほど
59 :
考える名無しさん :2001/06/26(火) 22:00
仏教研究者は一般に仏教を信じているのか? 信じているなら、公平に研究できない。 信じていないなら、信じていないものを研究すべきでない。
>何を隠そう私が今、一番好きなお経は父母恩重経です。 ぎゃはは! インド人もびっくり! 中国人は大よろこび! 日本人は・・・?
>信じていないなら、信じていないものを研究すべきでない。 」 なんでやねん。 ファシズムはファシストしか研究できんのか!?(ワラ
62 :
ポコペン :2001/06/27(水) 11:02
はじめまして。 >>(50)仏性とか如来蔵ってのは (唯識もそうです) 輪廻の主体は何か、という問いに 帰謬論法じゃ堪えられなかったから出てきた発想で、むしろそれこそがインド 人のアクチュアリティに近いですね。 これはインド人の考え方の中に我の思想が深く根ざしていて、 なんらかの主体を想定せずにはおられなかったということではないでしょうか? ですから、インド人のアクチュアリティーに近いかと仏教的かは 必ずしも一致しないのでは? 一方、いずれにせよ月称以後帰謬論法が仏教内で支持されていた痕跡は あまりないのではないでしょうか? かといって中観派がその足場を失って衰退したというわけでもなさそうですが。 >信じていないなら、信じていないものを研究すべきでない。 そんなことはまったくありません。
63 :
あります。 :2001/06/28(木) 00:11
仏教を研究しているうちに仏教を信ずるにいたらないなら、それは 仏教が君をひきつける力を持たなかったということでしょ? 仏陀は自分の考えを信じてもらおうとしたのでは? 信仰無き研究は仏教を侮辱するものでは? そして信仰があるなら、研究は邪道だ。研究とはそとに立つことだから。
64 :
>63 :2001/06/28(木) 00:21
>仏教を研究しているうちに仏教を信ずるにいたらないなら、 >それは仏教が君をひきつける力を持たなかったということでしょ? それは飛躍過ぎ。研究の動機を狭く決めつけてかかってるぞ。 「ああ、くだらない。なんてバカなんだろ。 こんなのを何万人もの連中が、ありがたがってるなんて! ここは、オレ様が研究して、化けの皮を剥がしてやる!」 てな意気込みの人がいて、何も問題無い、というか、 そんな人もいた方がイイと思うな。
65 :
考える名無しさん :2001/06/28(木) 00:35
>64 それは仏教哲学の研究ではなくて、宗教心理学の研究だよ。 仏教だけが「だまして」いるのではないしね。 またそんなのんきな信念のよってたつところに対する会議がなさすぎるのでは。
66 :
会議 :2001/06/28(木) 01:01
>>65 まあ、心理学の一分野でもいいんだけど、
「オレが仏教哲学を論駁して、仏教て哲理を超えた、
真の覚者の哲学を打ち立てるのだ!
それ無しに、現代社会の混迷は克服されないし、
それがオレの生まれて来た使命だ」
てな、切実なヤツがいるかも、よ〜ん(ワラ
(まあ、もし、いても、友達にはなりたくないけどな(ワラ))
67 :
名無し :2001/06/28(木) 01:30
筧克彦 仏教哲理
68 :
ぽこぺん :2001/06/28(木) 06:08
>>63 >仏教を研究しているうちに仏教を信ずるにいたらないなら、それは
仏教が君をひきつける力を持たなかったということでしょ?
宗教としての仏教には魅力がなかったといえるかもしれません。
>仏陀は自分の考えを信じてもらおうとしたのでは?
信仰無き研究は仏教を侮辱するものでは?
研究はかならずしも仏陀の意向に
沿ったものでなくてはならないとは限りません。
>そして信仰があるなら、研究は邪道だ。研究とはそとに立つことだから。
邪道で構いません。信仰がないのでいずれにせよ邪道なんでしょうけど。
ところでわたしは「仏教哲学の基礎」のほうに興味があるんですけど、
どなたか唯識の形象論に興味のある方はいらっしゃいませんかねえ?
69 :
50 :2001/06/28(木) 12:43
>>62 ですから、「仏教的」っていうのがどういうことか私には分からないのです。
仏教だってバラモン教由来のインド人の宗教にほかならないのですから、
そのときインド人がどういう切実な問題を抱えていたか、を考慮しなければ
彼らがなにを考えていたか分からないと思うのですが。
70 :
すげえ :2001/06/28(木) 14:01
まともなスレ上げ
71 :
ポコペン :2001/06/28(木) 14:19
>>69 そのときインド人がどういう切実な問題を抱えていたか、を考慮しなければ
彼らがなにを考えていたか分からないと思うのですが。
わたしの見解は50さんのこの意見を否定するものではありません。
>仏教だってバラモン教由来のインド人の宗教にほかならない
というのが「仏教だって、バラモン教の影響下にあるインド人の、宗教にほかならない」
という意味ならまったく同感です。
いわばそれまでの仏教に「輪廻の主体」があまり想定されていなくて、
それに納得いかなかった人たちも多くいたということでしょう?
個人的には「無我」と「縁起」は「仏教的」であるといえるとおもいます。
(「松本教」に近いですかねえ?)
現代的な解釈といわれてしまえばそれまでですが・・・
(この点はおもしろい問題だと思いますし、この板の主旨とも反しないと思いますので、
今後もっと掘り進めてもよいかとおもいます。)
とすれば、
中観的な思想では極端に押し進められた「無我」の思想では
あまり納得のいかないバラモン教の影響下にある「主体」を求めるインド人
がいた・・・
と解釈するのもあまり50さんと違うことを言っているようには
おもえませんが、いかがでしょうか?
しかし「仏教がバラモン教由来の宗教」であるという意味ならば、
「由来」がどの程度の関連性をいうものなのかもう少し説明していただきたく
おもいます。またインド人の「切実な問題」とはなんだったのでしょうか?
72 :
さわだ :2001/06/28(木) 20:37
>68ポコベンさん。 私も唯識に興味がありますけど、あれは・・・まあ仏教全部がそうかもしれませんが、あれはヨーガをやらなきゃはじまらないような気がするのですが。
73 :
50 :2001/06/29(金) 00:21
>>71 要するに、バラモン教で「アートマン」の絶対性を説くからそれに対して無我
が説かれ、事物の実在性がア・プリオリなものとされるのに対して空が説かれ
たわけですから、仏教はバラモン教なくしてありえないものである、という
程度の意味で「由来」といいました。
縁起と空は共通する概念ですが、伝統的な因中有果論に対して縁起が説かれた
といっていいでしょうし。
インド人にとって最も切実な問題は解脱です。したがって人間がなぜ輪廻する
のかということは同様に切実な問題です。中観的思想ではその問題に対して
納得の行く答えを出せなかったという理解は共有されてますよね。
だから、「仏教的」といういい方だと、仏教を当時のインドの宗教的文脈から
切り離してしまうのではないかと思うのです。宗教はそれを信じる人の救済の
ためのものなのですから、輪廻の主体というインド人にとって切実な問題に
こたえることが当時の宗教的誠実さであったのではないか、それをもって
「非仏教」などと誹るのは、仏教が過去のインドの宗教であったという当然
の前提を無視した考え方なのではないかと考えます。
それほどポコペンさんの考え方と違いませんよね?
というわけで発表の準備が (泣)
74 :
考える名無しさん :2001/06/29(金) 03:21
↑ 印仏研ですね? あなたの発表のあと質疑応答で立ち上がって一言。逝ってよし
75 :
9 :2001/06/29(金) 03:44
仏教思想っていうのは、東アジアの人々が旧石器時代くらいから 持ち合わせている感覚が、インド哲学の土壌にしみ出してきたものであって、 キリスト教のように、信じる信じないが問題にされる教えじゃないですよ。 釈尊も、私の教えはよく吟味した上で納得したら採用しなさい。 信心だけで盲目に受け入れてはいけない。と説いています。 仏教の教えに共感を持っていたら公平な研究が出来ないというのは、 あんまりにも古臭いアカデミズムに過ぎないとおもう。
77 :
考える名無しさん :2001/06/29(金) 17:27
>>73 要するに、バラモン教で「アートマン」の絶対性を説くからそれに対して無我
が説かれ、事物の実在性がア・プリオリなものとされるのに対して空が説かれ
たわけですから、仏教はバラモン教なくしてありえないものである、という
程度の意味で「由来」といいました。
このように考えると無我を説く点が仏教とバラモン教の差異である、すなわち
「仏教的」であるといえるのではなのでしょうか?
唯識説などは「輪廻の主体」を想定することによって多少「我説」側に傾いている
といえるわけでこれを「宗教的誠実さ」と呼ぶか「妥協の産物」と考えるかと
いうのは解釈の問題になると思います。(←特に論戦を挑んでいるわけではありません)
「非仏教」などと誹るのはやはり行き過ぎとおもいます。
この「何を持って仏教とするか」という問いはインドにもあったようで、カンバラは
Alokamala 274偈で「もし空がなければ仏教の教えも他の宗教も同じである」旨
述べており、これは後代「唯識と同様の教えは他の宗教にもあり、中観の教えが
仏教の特質である」といったような意味に(中観論者によって)取られているようです。
ところでみなさん印仏学会に行かれるようですね。私は諸事情あって、いけません。
なにか興味深いものがありましたら、是非とも紹介してください。
78 :
考える1000人 :2001/06/29(金) 22:45
詳しい方教えてください。 「xxは仏教に非ず」という「こまざ-の先生」の仏教批判はプロの業界の方々にとってどういう価値があるのでしょうか。江戸時代の町人が「仏教は加上である」と言ってたらしいですけど、思想の歴史は皆そんなもんでしょう。 原始仏教や中観派の一部のみが「本家」・「本物」だなんて小生のような門外漢にはずいぶんせこい主張にみえますねん。
79 :
9 :2001/06/29(金) 22:47
>>73 =50=16
>というわけで発表の準備が (泣)
福田さんだったりして(爆)
>>79 そんなに偉い人ではないです。残念ながら (w
81 :
ポコペン=77 :2001/07/01(日) 16:43
>>78 あれは学説、いわば解釈であって、必ずしも中観派以外の思想は仏教
としてみとめられてこなかったという歴史的な事実があるわけではありません。
ただし、例えば如来蔵思想が日本や中国ではあまり批判されずに受け入れられ、
一方チベットでは好まれなかったというのは、事実でしょうし、仏教の受容に
関して差異があったというのはおもしろいとおもいます。
ただ中観派のみが「本物」の仏教であるというような考え方は77にもあげたように
かなり以前から中観派内部にはあったもので、その考え方自体はとくに新しいわけでは
ないとおもいます。これは「無我」が「仏教の特質」であるという考えにたって、
それを追求していけばたどり着く結論ではないかと思います。
82 :
考える名無しさん :2001/07/01(日) 22:45
学会終ったage 眞衣たんハァハァ
83 :
考える1000人 :2001/07/01(日) 22:49
ポコペン=77 さん レス感謝。 >これは「無我」が「仏教の特質」であるという考えにたって 無我って本質が無いってことでしょう?。(簡単にいうと) でも釈迦はおそらく実践的修行として「無一物になる」ということ弟子に説いたんだろうと思うんです。(素人的考え) 財産も家族もすてて教団に入り、その上身体も心も自分のものでない。と徹底的に無一物ということを身体と心にたたき込む。そのための補助的な理屈として「無我」という理屈を添えた。こんなふうに思っているんです。 ですから諸部派や中観派のような無我の詳細な解釈は「加上」されて成立したもので、釈迦はそんな難しい理屈を説いたとは思えないんです。 無我とは無一物に徹すること。こういう解釈は業界の先生方はなさらないのでしょうか?。
84 :
考える名無しさん :2001/07/02(月) 00:18
「空」をわかりやすく教えて下さい。
85 :
73 :2001/07/02(月) 00:48
>>77 たとえば末期のアーディブッダなんてのを持ち出した時期だって、仏教徒は
自分たちが空や無我といった教えを捨てたとは微塵も思ってないですし、
仏教徒にとってはどの時期のどういう仏教だって仏教にほかならなかったの
ですから、後世の我々が「仏教の本質」なんてことを語ることができるのか
なあ、というのが私の疑問なのです。中観も仏教ならタントラも仏教、という
ことでいいのではないのかなと。
>>83 そういうことではないのではないかと。「自分のものではない」ということは
他者を想定してしまいます。そうではなくて、無我ということは自他の区別を
捨てることですし、所有という概念はまさに自我意識の現れですから、物理的
に所有を捨てることを通じて無我に近づき、この世の始めとか終わりといった
形而上学的なことではなく今此処にいることを懐疑することをブッダは考えて
いたのでしょう。唯物論や懐疑論の影響を感じることができます。
86 :
考える1000人 :2001/07/02(月) 03:17
73 さん。相手してくれてありがとう。 「無一物」になる→身体が無いなら、それを原因とする多くの苦が滅する。心がないなら苦を感じる主体もない。こういう修行でやすらかな自己をゲットしよう。 釈迦の考えはこういうものであった(と自分は理解しています。) >無我ということは自他の区別を捨てることですし、 自他の区別をしない→無分別の智を得るというような意味ですか?。そのことが「苦」の克服という仏教的課題にとって必要な条件なのかよく理解できません(素人なもんで) >今此処にいることを懐疑することをブッダは考えて いたのでしょう。 釈迦は「苦」の克服を説いたと巷の仏教書には書かれていますが、ニルバ−ナを目指す仏教徒にっとて「懐疑」はどのような意味をもつものなのですか?。 >唯物論や懐疑論の影響を 懐疑論は理解できませんが、「物質的身体性」を棄てるという発想は、強烈なリアリティを感じますね。
87 :
ポコペン :2001/07/02(月) 15:46
>>たとえば末期のアーディブッダなんてのを持ち出した時期だって、仏教徒は 自分たちが空や無我といった教えを捨てたとは微塵も思ってないですし、 仏教徒にとってはどの時期のどういう仏教だって仏教にほかならなかったの ですから、後世の我々が「仏教の本質」なんてことを語ることができるのか なあ、というのが私の疑問なのです。中観も仏教ならタントラも仏教、という ことでいいのではないのかなと。 もちろんそのとおりです。 ただ、例えば「中観がもっとも仏教的な思想である」 という結論に到達するのはそれほど奇妙なことではないだけではなく、必ずしも 「後生の我々」の作り上げた説ではないということがいいたかっただけです。 これは78で「K大の先生の説」に対して意見を求められたので、私なりの理解を 示したものです。私が中観にのみ「仏教の本質」があると思っているわけではありません。 ところで学会はいかがでしたか?
88 :
73 :2001/07/02(月) 17:05
>>86 自他の区別がなければ自我意識もないわけで、そうすればわれとわがものに執着
することによる苦もなくなると。無分別ということとはちょっと違うです。
分別は区別というより分節ですから。
それで、徹底的に懷疑することで、思考の主体である自己すらも疑って、最後に
なにも残らなくなり、それが真諦に関する智慧と直結するのだと思います。
>>87 だいたいわかりました。「そう考える奴がいても不思議はない」ということ
でしたら私も同意です。
学会は、丘山先生の津田先生批判がなかなか面白かったそうですが、私は
ちょうどその時別の発表を聞いていたもので。
あまり収穫はありませんでした。
89 :
考える1000人 :2001/07/02(月) 17:43
73 さん、好意に甘えてもう一つだけ。 >徹底的に懷疑することで、思考の主体である自己すらも疑って 自己と徹底して対峙していく姿勢→一人で修行する。 大乗的修行「利他」の姿勢→他人と係わる 修行の質が違うような気がします。 修行の質が違うということは「ニルバ−ナ」の意味解釈が変化したといえるのでしょうか?。
90 :
73 :2001/07/02(月) 22:49
>>88 話題になっているのは「ブッダはどう考えてたか」でしたから、大乗の修行は
考えていませんでした。
大乗になると、たとえば維摩経や勝鬘経のように、この世がそのまま涅槃で
あるという在家信仰が盛んになってきて、救うとか救われるといった観念を
持つこと自体が執着になってしまいます。
ですから大乗の修行、菩薩行は、究極的には徹底的に仏に帰依することに帰着
します。そのへんはヒンドゥーのバクティ運動と関係がありますね。
91 :
考える名無しさん :2001/07/03(火) 12:06
>>84 「空」をわかりやすく教えて下さい。
わたしには無理です。
92 :
84 :2001/07/04(水) 00:05
>>91 唐突な書き方をしてすみませんでした。
梵がユングの集団的無意識のようなものだな、
というところまではなんとなくわかりかけてきているんですが
その先に進めません。梵=空みたいな感じなんでしょうか?
93 :
考える名無しさん :2001/07/04(水) 08:10
> 梵=空みたいな感じなんでしょうか? まったくちがいます。ブラフマン=アートマンであり、空とはアートマンの否定 ですから。 ユングのいう集団的無意識はむしろ唯識でいうところのアーラヤ識でしょうね。 ブラフマンはあくまで実在的概念です。 空を一言で言えば「持続的実在はない」ということです。
94 :
>93 :2001/07/04(水) 15:00
では、「アートマン=ブラフマン」という、そのこと自体が 「持続的実体の否定」をも表している、ということでしょうか? (「アートマン=ブラフマン」=「持続的実体の否定」)=「空」 実は仏教哲学を勉強し始めたのは、ここ1、2ヶ月でして まだなんにも理解できていない状態です。 独学ゆえに学習の順序も全くわからず手探り状態です。 頑張って勉強しますんで色々教えてもらえないですか?
95 :
考える名無しさん :2001/07/04(水) 18:00
アートマン=ブラフマンというのは伝統的インド思想の枠組です。 仏教はそれを否定していて、アートマンの存在を否定しますし、実在的観念の 最たるものであるブラフマンを否定します。 持続的実在とはアートマンがあるということであり、空とは無我、つまり 「アートマンがない」ということと論理的につながります。 とりあえず、「はじめてのインド哲学」(立川武蔵、講談社現代新書)あたり を読まれると、伝統的インド思想と仏教との関係の概略の一端はつかめるの ではないでしょうか。
96 :
考える名無しさん :2001/07/05(木) 00:09
宮坂有洪さんの「仏教はバラモン教である」っていう言い方おもしろい。
97 :
さわだ :2001/07/09(月) 21:20
>93さん、「集合無意識はどちらかというとアーラヤ識」というようなことをおっしゃっていましたが、私は今までアーラヤ識とは、なんというかカルマの乗り物というか生命本体というか意識の連続体というか、ともかく個人的(個動物的でも個神的でもいいのですが・・・)なもので、「集合」とは正反対の物であるように感じていたのです。 私は素人なので、本職の方に是非そこらへんのことを詳しく説明していただきたい、いや私の蒙を啓めていただきたいのですが・・・(挑戦でも挑発でも断じてなく、純粋に質問です)。 よろしくおねがいします。
98 :
っていうか、、、 :2001/07/10(火) 03:32
河合隼男センセイは、ソギャル・リンポチェといっしょに飯喰いに行って、 ソギャル・リンポチェがステーキ2枚もぺろっと平らげたのを見て、 「一切 喰う!」 とかいっていたらしい。
99 :
考える名無しさん :2001/07/12(木) 11:47
age
100 :
ヽ( ´ー`)ノ GGUF :2001/07/12(木) 12:17
100ゲットー
101 :
考える名無しさん :2001/07/13(金) 06:54
102 :
さわだ :2001/07/13(金) 22:58
101さん。 読んだ、面白かった。 龍樹とエロスで思い出したんだけど、こないだ秘密集会タントラ読んでたら透明人間になる方法が書いてあった。 透明人間といえば龍樹、龍樹といえばハーレム、ハーレムとくればグヘヘヘ・・、で早速試そうと思ったんだけど(俺の場合はハーレムじゃなくて女子高かな)、畜生!!必要なアイテムがそろわない!! 仏具屋行けば売ってるかな・・・・・?
103 :
ポコペン :2001/07/14(土) 09:09
必要なアイテムって何ですか?
104 :
考える名無しさん :2001/07/15(日) 02:52
>>102 もしかして、透明人間になるには、16才の処女の経血が必要とか書いてない?
105 :
さわだ :2001/07/15(日) 22:34
>103さん。 「三種の金属で囲まれた丸球」なるものがいるそうです。 他の方法も書いてありますけど「食物あるいは糞尿、あるいは肉を、儀軌通りに真言を唱え、〔浄化したのち、口に〕入れるべし・・・・」てな具合で続くので、こいつはちょっとボクには・・・・。 経血はいらないようです。
106 :
考える名無しさん :2001/07/15(日) 23:45
>105 食物あるいは糞尿、あるいは肉を・・・ すぐにそろうじゃないですか!! 糞尿・血・肉などを混ぜて丸めたやつって密教では普通のアイテムですよねえ。 よくでてきますよね。
107 :
考える名無しさん :2001/07/16(月) 02:13
>102 チベットのモーツアルトを読むといいYO! 文庫で簡単に手に入るし。
108 :
考える名無しさん :2001/07/16(月) 12:58
上座部系のブッダ観と大衆部系のブッダ観について語ろう!
109 :
考える名無しさん :2001/07/16(月) 20:46
ヤバイ世界から、清い世界へ話が戻りますね。
110 :
考える名無しさん :2001/07/16(月) 22:55
>>107 え?チベットのモーツァルトって文庫出てるの?せりか書房なのに?
111 :
107 :2001/07/17(火) 19:42
中公文庫で出てると思ったんだか、勘違いだね(w お察し下さい。
112 :
ね :2001/07/17(火) 21:57
>111。 虹の階梯とごっちゃになった?
113 :
考える名無しさん :2001/07/18(水) 01:58
114 :
107 :2001/07/18(水) 08:07
だから誘導してんだよ。 きみこそおもしろいネタ提供してよ。 ところで、梶山先生京都に戻ってくるって話聞いたけど、ほんと?
115 :
age :2001/07/22(日) 23:47
age
116 :
考える名無しさん :2001/07/27(金) 19:46
トランスパーソナル心理学って、仏教人から見てどう思う?
117 :
考える名無しさん :2001/07/28(土) 02:24
>>116 トランスパーソナル心理学自体よく知らないけど、
唯識思想に似てるとか。
118 :
考える名無しさん :2001/07/28(土) 03:18
トランスパーソナル っていうと、個体性を超えた心相続みたいなものを想定しているんだろうか。 浅い次元でみられるシンクロにシティーみたいなものに仏教はあまり関心を抱いていないように思える。 仏教では一切衆生っていうことを認識することが個体性をこえるカギになってると思うんだけれど。 人間だけじゃないところがキリスト教の影響下にある心理学と表現のしかたが違うようにも思えますね。 トランス一切衆生心理学?
119 :
.じゅぶないる :2001/07/28(土) 03:39
? つまるところ、個体の肉体のよるとこるに魂などありえない、 脳みそだけだ、ってことなんじゃないのかなぁ? 言葉として魂ってものや、数とゆう概念を使うのが 適切かどうかはわかんないけど、すべての命は、 無限の崇高な領域から、でてきて、またもどってゆく ってだけなのかもね。 なんのこっちゃ?わははははは。
120 :
さわだ :2001/07/28(土) 23:33
トランスパーソナル心理学の思想的支柱である、ケン・ウィルバーの言っていることって般若経や中論と似ていると思う。
121 :
ね :2001/07/28(土) 23:40
>120。 真理を悟った後にまた地上に戻って来るようなとこですか?
122 :
考える名無しさん :2001/08/01(水) 21:13
>120 トランスパーソナル心理学は、禅と唯識思想のインスタント・アメリカンみたいなもん >121 十牛図でもみたら面白いと思うよ。 批判仏教グループでも頭いいのは松本だけ。山口は大家きどりのもうろくじじいだし、 袴谷は、なんでもかんでも広範囲に批判して自滅して今は短大でくすぶってるよ(藁 俺の恩師は3人と会っている。東大では山口にチベット語教わったらしいけどね。 ちなみに袴谷はいい人だったけど、松本はナーバスで気難しい人だったそうだ なかなか才能と好感度は一致せんねえ。 漏れは、とりあえず恩師をたてて中観仏教派だけど卒論のあの騒動は今でも やばいと思ってるよ(笑)
123 :
考える名無しさん :2001/08/01(水) 21:15
トラパはオカルト扱いされてるぞ。
124 :
考える名無しさん :2001/08/01(水) 22:33
扱いではなく、そのものぢゃ。
トラ心の日本での旗振り役だった岡野某は、キリスト教の牧師 だったらしいが、基本的にクリの連中は、他宗教を見下しとるし、 仏教を引き合いにだしたところで、それをネタにして仏教信者を クリの側に引き込みたい救済したい(爆笑)だけみたいに思えて ならん。
126 :
考える名無しさん :2001/08/01(水) 23:11
>>125 >岡野某は、キリスト教の牧師
>だったらしいが、基本的にクリの連中は、他宗教を見下しとるし、
>仏教を引き合いにだしたところで、それをネタにして仏教信者を
>クリの側に引き込みたい救済したい(爆笑)だけみたいに思えて
>ならん。
うまいこというね。俺も元クリスチャンだけど、そういう感じのところあるもんね。
岡野も気づいてないだろうけど、そういう深層心理ってあってもおかしくないよ。
「天国」というパー券さばくのがクリスチャンの使命だからね。早々にその感じが抜けないよ(藁)
127 :
ね :2001/08/02(木) 01:01
俺、キリスト教嫌い。でも、もっと嫌いなのは、知りもしないくせにキリスト教を良きものだと思い込んでる日本の衆愚。 吐き気がするぜ。
俺は知りもしないくせに日本人がキリスト教を良きものだと思い込んでると思い込んでるおまえが嫌いだ。 あと、なんでもかんでも2ちゃんだからと半角にするセンスも嫌いだ。
話はそれるが、アジアの国々を見てもわかるがキリスト教の 伝染力には恐るべきところがある。 仏教がたとえ形骸化したとしても日本で生き延びたのは「家」の 宗教だったからだと思うが、これから家制度の圧力がますます薄れ 個人が宗教を求め出したら、クリ連が日本人の心まで支配してしまう 可能性はマジ高いと思う。 暗澹たる気分だ。
130 :
考える名無しさん :2001/08/02(木) 02:40
>トランス一切衆生心理学? 一念三千?
131 :
考える名無しさん :2001/08/02(木) 02:46
家制度を離れて個人が宗教をもとめだして久しいですが、 その上で、仏教の伝えた知恵に生き方の指針を求める人も多いようです。 日本人というか、アジア人のメンタリティーにはあってるでしょう。 まぁ、ここではキリスト教の批判は止めにしましょう。他スレでどうぞ。
132 :
ね :2001/08/02(木) 12:23
ゴメン!ひどいこと書いちゃった。 反省。 半角は使い方がまだ良く分からないからで、取説もう一回よんでみるわ。
最近「如」が気になるニョ
134 :
考える名無しさん :2001/08/04(土) 04:37
↑駄じゃれ?
135 :
考える名無しさん :2001/08/06(月) 02:45
いま、どの辺がアツイのかにゃ。。。
136 :
tama :2001/08/06(月) 03:04
仏教と行ってもとにかく広い。八万宝蔵といわれるくらい千差万別 である。日本でも阿言系、念仏系、禅宗系、日蓮系などどの教典を 重きにおくか、&教祖のパーソナリティーによって全然ちがう宗教 哲学をもっている。なかなか共通の哲学が見つけにくい。 もっと絞って、具体的に考えないと、議論が浮遊するのでは。
137 :
考える名無しさん :2001/08/06(月) 03:33
>阿言系 興味があるので簡単に紹介してくれませんか? 南伝仏教系だって聞いたことがあるけど。
阿言ではなく、阿含では? それと縁起とか空とか唯識とかと絞ってあるように思うが? だから教祖が云々というのは少し違うのでは? 此処は宗教ではなく哲学としてだから 例えば、中村元先生とか三枝充悳先生とかの 文献のような方向で書き込むべきだと思うけれど。
139 :
あご〜ん :2001/08/09(木) 22:40
あご〜ん
140 :
考える名無しさん :2001/08/09(木) 23:03
まさかとは思うけど、阿含系といっても 桐山靖雄ではないですよね(笑 初期仏教や部派、大乗、密教、チベット、中国、日本(敢えて分けた のはポリシー)、と共通するところもあれば異なるところも多い。全部 含めて一つの仏教哲学というのは無理というもの。 とりあえずは、共通部分をあぶりだして、互いの差異を際立たせるの が効率的ではあるのですがね。 p.s.個人的に山口瑞鳳先生の考え方は仏教の本流だと思う。
141 :
考える名無しさん :2001/08/09(木) 23:08
仏教における因縁果についての質問なのですが それを普通の言葉でいうと原因(因)と条件(縁)と結果(果) でいいのでしょうか?? つまり、結果は、原因と条件の関係性のなかで生じる。 人間は、条件を変えることができないのであるから原因(例えば自分の努力) で自分自身を変えていくしかない。そうすれば、おのずから結果も変わってくる。 という理解でよろしいのでしょうか??
142 :
考える名無しさん :2001/08/11(土) 00:54
>>141 そう考えると原因と結果というものが実在した固定的なものだということに
なって空観と矛盾する。
この世に固定的なものはなくて、すべてが関係性のうちにあるというのが縁起
の考え方だから、その関係性を自覚して自己の主体すら相対的なものであると
把握することで生存の苦がなくなると。そういうことじゃない?
みなさんは因果応報をどのようにお考えでしょうか。 浄土真宗の悪人正機説によれば 悪事の報いを受ける機会はなさそうなのですが。
144 :
考える名無しさん :2001/08/11(土) 02:57
すべてが関係性のなかにあるというのは、関係性の中に自分を委ねると言うことでしょうか?? 関係性を自分も主体的に作れる以上、なすがままと言う考え方は僕は好きじゃないなーー
145 :
考える名無しさん :2001/08/11(土) 03:12
なすがままっていうことじゃないよ。固定的なものを考えるとそれに執著して しまって、執着すると苦が生じる。執着の最たるものは自意識だけど。 主体の明晰な思考すら関係の上に成り立っているということだと思うよ。
>141 報がぬけてる。因縁・果報。果が次の因となる過程に自在な報われがある。 他に六つぬけてるけど、最後が本末究境等。これって固定的だけど、 因と果もそう。縁と報は流動的で、縁が他で、報が自といったところか。
147 :
考える名無しさん :2001/08/11(土) 21:02
>>140 >p.s.個人的に山口瑞鳳先生の考え方は仏教の本流だと思う。
賛否両論があるこの人ですが、どの辺に賛同されていますか?
148 :
長くなっちまった :2001/08/11(土) 23:24
>>147 さんへ、140です。
賛否両論というか毀誉褒貶の激しい山口瑞鳳先生ですが(笑)、
「釈尊のいう悟り、そして悟りの方法とは何か」という点において
中観派の思想こそ仏教の柱であると主張されてい点に私は賛
同しています。というより、山口先生による空の思想の解説に初
めて触れたとき、そのあまりの明快さに目から鱗が落ちたという
のが本当のところといえますけど。
実際のところ、仏教にはさまざまな思想や哲学が含まれている
とは思いますが、若き日の釈尊の問いである「苦からの脱出」
「永遠かつ絶対なる平安の獲得」への答えは中観派の思想なく
して説明できないと思います。
私には、如来蔵思想は、仏となる可能性の保障、本覚思想は、
アジア的な現世肯定の思想であり、解脱への直接の方法論で
はないと思えるのですが、いかがなもんでしょうか?
なお、山口先生の論文に全て目を通したわけでも、批判する方
々の主張をつぶさに検証したわけでもなく、あくまでも個人的な
感想なんで、ご了承ください。
あと、もう一つ山口先生の好きなところは、いささか子供っぽい
ともいえそうな毒舌口調というか口の悪さ(笑)
149 :
考える名無しさん :2001/08/12(日) 08:09
>>148 さん、147 です。
あ〜、あの口の悪さを、子供っぽくてかわいいと解釈できる余裕、すごいですね。尊敬します。
僕は、とてつもなくどす黒い悪意か恨みがあるんじゃないかと勘ぐってしまいます。
でも、なんだか、「苦からの脱出」、「永遠かつ絶対なる平安の獲得」
といういいっぷり、解脱というものを自分の外側に見ているような感じを受けます。
「一切衆生に仏性が宿っている」という言葉で語っていることは、
解脱というのは、苦というのは縁起から生まれていて、
それが空であることを「内的体験として」知ることで到達できるものであり、
だれであろうと同じ条件なんだ、ということのように思います。
すなわち、「仏性が宿っている」ことを悟るのが解脱なのです。
如来蔵思想を、単に「仏となる可能性の保障」だと字義通りにしか解釈出来ないところに、
如来蔵批判の幼稚さが見える気がします。
方便としても、一般大衆に向かってあなたも仏になる可能性を秘めているんですよ、
と説くことで人々の心が安らかになるなら、おおいにけっこうだとおもうんですけどねー。
まぁ、仏教を文献批判学的にやることで解脱できることは絶対にないと思います。(自戒を込めて)
150 :
考える名無しさん :2001/08/12(日) 10:02
>>147 さん、たびたび。140です。
如来蔵思想=仏性が宿ってることを悟ることが解脱である
なるほど。でも解脱などなどを説明する時に必ず「空」とか
中観の思想に触れないわけにいけないですよね、あたりま
えですけど。そうすると、如来蔵思想も「安心(あんじん)」
を得るために大切な入口ではあるでしょうが、本流なのか
どうかという点は・・・と思うんですが。
あと、仏教を学問することと解脱を得ることは必ずしもイコー
ルではないと思うんでけど(という私も一応仏教徒だけど)。
少なくとも難問だとは思います。
なお、先日、某寺院で山口瑞鳳先生の講演を聴く機会がありま
した。「苦」をテーマとしたもので、その大部分は中観派の思想
のお話でしたが、最後に、では、ただの凡人である我々はどう
すれば苦を克服できるのかという問いに、手をあわせて一心に
仏さまを拝むことであるとおっしゃられていました。ちょっと、意
外でしたが、学問的スタンスと信仰は別ものなのだという気が
しました。まぁ、寺院での講演ですのでリップサービスかもしれ
ませんが、あの山口先生がよいしょってのも意外すぎるし(笑)
151 :
考える名無しさん :2001/08/13(月) 11:08
如来蔵思想から見ると、縁起と空の教えも全く対立するものでは無い気がします。 ようするに、自我意識という無明によって、諸法が縁起によって出来ていること、 それが空であることも分からず、それによって仏性が宿っていることを知ることが出来ない、 くらいに理解すればいいんじゃないかなぁ、と思うんです。 如来蔵が中観の論理学からいって「本流」かどうかは疑問というのも分かります。、 もともとは、北インドから中央アジアの非アーリア人のもともと持っていた実感なんだと思います。 中国やチベット、韓国、日本にいたるまで共鳴したんですね。それを間違いと行ってしまっていいのかは、 宗教的な問題にかかってきている気がします。 仏教の生活を通じての実践と、仏教哲学を分離してしまったのは、やっぱり「近代」かな。 少なくともよい傾向とは言えないと思います。これを一致させてゆくことで、悪しき「近代」を 超えていけるんじゃないか、と若気の至りで思ってしまいます。 ナーガルジュナやチャンドラキルティーを読んでいても、やはり解脱への道をさぐっているのだなぁ、 ということがひしひしと感じられます。 >手をあわせて一心に仏さまを拝むことである 山口氏も、意外といいところあるんですね。歳とって丸くなったのかな?
152 :
ね :2001/08/13(月) 21:22
山口氏の事は、この板の頭の方にも結構書いてあるYO!
153 :
考える名無しさん :2001/08/18(土) 06:53
154 :
ななし :2001/08/18(土) 07:05
えと、、上のレスの議論についていけない未熟者です。よろしく。 たしかに、仏教にはいろいろな思想がありますが、特に日本仏教に特徴的で かつ、思想的に面白いと思われるのは自分にとっては禅家が言う「教化別伝 不立文字」と浄土教がいう「他力・凡夫」の考え方だと思います。 上記の仏教理論に詳しい諸兄から見て、この思想はどのように見えるのでしょうか? ちょっとした好奇心からの書き込みですが、なにとぞご教示ください。^^
155 :
考える名無しさん :2001/08/18(土) 07:15
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
156 :
考える名無しさん :2001/08/18(土) 07:40
すぅいぬぇ
157 :
考える名無しさん :2001/08/18(土) 14:50
>>154 鈴木大拙の『日本的霊性』をちゃんと読めば、
あとはあんまり気にしなくてもいいとおもいます。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
164 :
140 :2001/08/18(土) 18:03
>>155 さんへ。いきなり「死ね」はキツいっすよね(笑
禅も浄土教も中国から伝わった教えですけど、このうち
日本独特の発展したものは親鸞の教えだと思います。
親鸞の阿弥陀仏の本願をもとにした他力本願の教えは、
私には、現世というものを徹底的に否定しながら、現世
を最大限に肯定するという、まことに不思議かつ興味深
い教えに感じられます。まぁ、私にはというだけで他の人
がどう考えていられるかは知りませんが、少なくとも他の
仏教国では見られないものでしょう。
また、日本独自の仏教思想として天台本覚思想がよく挙
げられますが、袴谷さんなどがこれをかなり厳しく否定し
ています。その是非や賛否にはノーコメントを貫きたいの
ですが(笑)、このスレの上の方にも、とりあげられていま
すので、興味があったら覗いてください。
なお、道元さんや栄西さんの教え(それ以降でもかまいま
せんが)に日本独自の思想があるという方、是非、このワ
タクシめのためにもご教授くださいませ。
165 :
考える名無しさん :2001/08/18(土) 19:53
>>164 因循主義哲学が親鸞に共通するような気がしたんだけれど。
どうだろう?
166 :
154 :2001/08/18(土) 20:04
いきなり「死ね」とレスがついて驚きました。。^^;; なんか私変なこと書いたかな。。(汗 157さん。ありがとう。早速読んでみます。しかし、、、大拙の本って読むのキツイのよね。。漢字が旧字ばかりでw・・今は違うのかな。。 164さん。マジレスついてちとほっとしました^^; 私が思うに、禅宗にしても浄土教にしても、あと書き忘れてたけど(汗)日蓮宗にしても他の仏教国にない「行動」がみられるのが興味深いのです。 まず、こうやって同じ仏教で宗派が違っているのも不思議だし、他国の僧たちと比べて僧のあり方もかなり違う気がします。 この日本仏教のあり方の根底に日本的な仏教哲学あるいは精神哲学がある気がしてならないのです。 ・何故、絶対他力の思想が日本人から生まれ、受け入れられたのか ・何故、禅宗は中国から輸入されたものにも関わらず禅宗文化はあまりにも日本文化的なのか ・何故、日蓮宗は他の仏教国に見られないほどの強烈な布教活動と多くの殉教者を生むほどの精神的支柱をあたえたのか。 最近、私が興味を持ってるのはだいたいこんなです。 「日本の霊性」にかいてあるかな^^; 読んでからまた出直してきまーすゞ^0^ノ
>いきなり「死ね」とレスがついて驚きました。。^^;; ここは、夜中の歌舞伎町みたいなモンですから、 ちょっとアレな人たちもいっぱいいらっしゃるので、 いちいち、まに受けてたり、相手にしていたら、とんでもないことになってしまいます。 気にせず、完全無視でいきましょう!
168 :
名無しさん@京都版じゃないよ :2001/08/19(日) 00:24
親鸞は凄いですよね。私は凡夫なので絶対悟れない、だから阿弥陀如来のお力に頼るしかないんだ。 もう仏教を超えちゃって、私としては親鸞の教えは仏教と言うより 「脱仏教」「超仏教」という感じがします。 もはやキリスト教のような一神教的性格に近い。 禅宗は個人の修行を重視する上座部の傾向が強い気がします。 上座部仏教の日本風版、というとこかな。 日蓮宗は、仏教からどうしてあんな行動的な要素が出るのか、よくわかりません。 誰か詳しい方教えてください。 法華経の現世肯定的な要素が強く出ているのかな。 以上、ふとスレ読んでしまったので感想です。 あと、誤解を招きやすい表現があったかもしれませんが誹謗中傷目的はないので勘弁してね。
169 :
考える名無しさん :2001/08/19(日) 00:29
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170 :
超注某 :2001/08/19(日) 00:41
>>144 無我論、縁起思想、空思想と如来蔵思想、輪廻・業思想、唯識思想と関連する話題だと思うけど、
前者のように関係論的に考えていくと、選択に対しての責任主体とか倫理性が問題になるし、
後者のように何らかの主体を規定すると、行き先で否定したはずのアートマン説(絶対の我)に陥る。
アートマン説に対してのアンチテーゼとして無我論等があるのだから、
どちらを考えるにしても常に両方を対置して考えて行くしかないように思う。
何らかの主体について考えるにしても、業などで行為が継承されていくとき、
それは「無記」(価値は規定されず白紙状態)とされている点が重要。
無我論は、「絶対的な我」は無いといっているだけで、「相対的な我」の認識や、
思考が相対的な範囲での我を規定せずにはおけない(必ず規定してしまう)、
ということまでを否定しているとは思えない。このことまで否定してしまうと虚無主義に陥ってしまう。
この相対的には必ず規定してしまう我を絶対の我に置き換えないことが重要と思われる。
全ての我をアートマンに一元化し 因果応報によって倫理性の問題をクリアした後に (例えば、自分の殴った相手が実は自分であるということ) アートマンを空と看破してその実在を否定するという考え方は 成り立たないのだろうか?
>170さんをよんで思い出したこと 曹洞宗の宗祖道元さんが最初に仏教で感じた疑問は仏像を見て「なぜ悟りを開いた如来や菩薩が修行をするのか?」 ということだったそうです。そうして、悟ったのが「身心脱落只管打座」つまり、悟るために修行をするのではなく修行をしてるのが悟った状態だということらしです。 現代臨済宗の実質的な宗祖、白隠さんも「衆生本来仏なり、水と氷のごとくして・・」と語ってます つまり、人は本来悟っている。だけどいろんな偏見やら自我によってその悟りが曇っていると教えています。 ちなみに、なぜお釈迦さんは「真実を知った」といわずに「悟った」と言ったのでしょう 悟るというのは新しい知識を仕入れたという意味ではなく、今ある知恵を深めた(表現が適切じゃないかも・・^^;)というほうが近いでしょう たとえば、東京に生まれた人は東京の町を知っています。しかし、もし飛行機から見たら東京を見下ろしたらまったく違う印象をもつでしょう。 そして、再び自分の足で東京を歩いたとして・・・。見える景色はもちろん同じ。しかし、その見え方は違うはずです。 それが悟りの例えでしょう。 悟りとは人それぞれ違うものらしいです。白隠禅師は「自分は生涯に大悟は5回、小悟は数知れず」といっています。 疑問に持つことがあり、それが氷解するのが悟り。飲み込めない事を飲み込めるようになる事が悟りです。 他の人からみたら意味なさげでも本人にしてみたら大きい悟りかも知れません。 そうやって小さな悟りを重ねていくのが哲学の道であると思います。 えらそうなことを言いましたが、ワシ自身はたいした悟りを得ていません。 あえて言えば、「人間は吉野家があればどこでも生活できる」ということかな・・^^: でもこの悟りのおかげで行雲流水な旅人暮らしを送っています
死ね
死ね
死ね
180 :
154 :2001/08/19(日) 05:08
154.166を書いたものです。 その後の語論の進行が気になり早起きして呼んでみたら172に私が「悟りを得た人・・・」スレで書いたことがコピペしてありましたw その後に「死ね」と154を書いたときと同じようなレスが・・・^_^;; 個人攻撃もまあ、いいですが、、何が気に入らないのか教えてほしいですね。 つか、他人の振りして書いたのにばれてしまったか。。w私もまだまだ修行がたりないですね^^;;
181 :
考える名無しさん :2001/08/19(日) 05:37
182 :
154 :2001/08/19(日) 07:13
な・・・なるほど。。 確かに、哲学やってる立場からするとこの「教化別伝」はかなりキツイ言葉ですね。^^; 何しろ、議論するなって言ってるようなものだしw 私も最初は禅宗を毛嫌いする原因だった言葉です。 だけど、矛盾するようだけど、この教化別伝を言う禅宗が一番理屈っぽいのも確かのような・・^_^; 禅家の教えは言葉では伝わらないが故に語ろうとすると数多くの言葉が必要と言うことでしょう。 今では、結構好きな言葉なんですが・・w
183 :
考える名無しさん :2001/08/19(日) 10:39
・・・教化別伝は本当につらいっす。 24時間テレビの「夜もヒッパレ」のときくらいつらいです。 教の外に別して伝わるんだったらいいんですけど。 好きだったら間違っちゃダメだよ。
184 :
154 :2001/08/19(日) 11:38
あう。。 失礼しました 教外の誤字でしたね。訂正します。(/。\)はずかす〜〜
日本語訳はまだないはずです。 3部作について。 未來社から、『Passion』は出ましたが (『パッション』湯浅博雄訳, 2001)、 『Sauf le nom』と『Khora』は (「Chora」は単行本収録にあたって 『Khora』と、ギリシア語転記法を変更) 同一版元から日本語訳の刊行を予告されているものの、 いまだに出ていません。 ちなみに、翻訳者は、 岩波の「思考のフロンティア」の『脱肛糞』を書いた人です (名前をなぜか失念。すまそ)。 フランス語が苦手なら、この際、英語で読んではいかがですか? たしかに、はやく出てほしい翻訳ですね。
196 :
考える名無しさん :2001/08/19(日) 18:41
なんか、荒らしさんがいるけど、 仏教コンプレックスでも抱えて いるんでしょうかね〜(苦笑)
197 :
考える名無しさん :2001/08/19(日) 21:54
皆さんこんばんは、このようなスレがあったんですね。 私は縁起・因縁・中道・空は仏教的だと思いますが、 唯心論的な唯識や実体化傾向のある如来蔵は非仏教的ではないか と思っています。(批判仏教の影響ですが...) 仏教は発達段階であまりにも色々な教説を抱え込み過ぎましたね。 初期仏教から初期大乗(龍樹)あたりまでが本来の仏教(哲学)ではないかと。 では。(荒らしに合うと嫌なのでsageときます)
199 :
考える名無しさん :2001/08/20(月) 02:34
だから「仏教的」って何なんだよ、ってことでしょ。 じゃあ世親とか天台大師とか玄奘とか空海とか道元とか親鸞とかは何? 「本来」の仏教じゃないのなら何ですか(そもそも本来って何?)。 全部いっしょくたに仏教ではない、と否定できるだけの根拠をあなたは持ってるんですか。 いい加減な批判(っぽいこと)だったら誰でも出来るよ。 噛みつくだけだったら野良犬でもできるんだよ。
更に、主観はどんなに認識の対象がいろいろなものに変化しようが、 それそのものとしては一つであり、その一つの主観が、あらゆる 対象を把握し得るのである。対象は様々に変化するが、それらを 認識する主観は常に同一である。 以上のような事柄を踏まえて、観念論は「普遍的」であると思う。 それに対して、唯物論は普遍的と言いうるだろうか。 もし言いうるとしても、それは観念論の普遍性とは異なる次元の 普遍性だろう。例えば世界が破壊不可能な極微の単子の集合体だと 考えた場合、それらの単子によって構成される複合体は変転して やまないが、単子そのものは同一であり滅ぶことがない。 そして世界がこれらの単子の集合と離散とによってのみ 説明され得るのならば、唯物論はそのとき「普遍的」である。
201 :
考える名無しさん :2001/08/20(月) 03:11
そういうことではないのではないかと。「自分のものではない」ということは 他者を想定してしまいます。そうではなくて、無我ということは自他の区別を 捨てることですし、所有という概念はまさに自我意識の現れですから、物理的 に所有を捨てることを通じて無我に近づき、この世の始めとか終わりといった 形而上学的なことではなく今此処にいることを懐疑することをブッダは考えて いたのでしょう。唯物論や懐疑論の影響を感じることができます。
>170さんをよんで思い出したこと 曹洞宗の宗祖道元さんが最初に仏教で感じた疑問は仏像を見て「なぜ悟りを開いた如来や菩薩が修行をするのか?」 ということだったそうです。そうして、悟ったのが「身心脱落只管打座」つまり、悟るために修行をするのではなく修行をしてるのが悟った状態だということらしです。 現代臨済宗の実質的な宗祖、白隠さんも「衆生本来仏なり、水と氷のごとくして・・」と語ってます つまり、人は本来悟っている。だけどいろんな偏見やら自我によってその悟りが曇っていると教えています。 ちなみに、なぜお釈迦さんは「真実を知った」といわずに「悟った」と言ったのでしょう 悟るというのは新しい知識を仕入れたという意味ではなく、今ある知恵を深めた(表現が適切じゃないかも・・^^;)というほうが近いでしょう たとえば、東京に生まれた人は東京の町を知っています。しかし、もし飛行機から見たら東京を見下ろしたらまったく違う印象をもつでしょう。 そして、再び自分の足で東京を歩いたとして・・・。見える景色はもちろん同じ。しかし、その見え方は違うはずです。 それが悟りの例えでしょう。 悟りとは人それぞれ違うものらしいです。白隠禅師は「自分は生涯に大悟は5回、小悟は数知れず」といっています。 疑問に持つことがあり、それが氷解するのが悟り。飲み込めない事を飲み込めるようになる事が悟りです。 他の人からみたら意味なさげでも本人にしてみたら大きい悟りかも知れません。 そうやって小さな悟りを重ねていくのが哲学の道であると思います。 えらそうなことを言いましたが、ワシ自身はたいした悟りを得ていません。 あえて言えば、「人間は吉野家があればどこでも生活できる」ということかな・・^^: でもこの悟りのおかげで行雲流水な旅人暮らしを送っています
>170さんをよんで思い出したこと 曹洞宗の宗祖道元さんが最初に仏教で感じた疑問は仏像を見て「なぜ悟りを開いた如来や菩薩が修行をするのか?」 ということだったそうです。そうして、悟ったのが「身心脱落只管打座」つまり、悟るために修行をするのではなく修行をしてるのが悟った状態だということらしです。 現代臨済宗の実質的な宗祖、白隠さんも「衆生本来仏なり、水と氷のごとくして・・」と語ってます つまり、人は本来悟っている。だけどいろんな偏見やら自我によってその悟りが曇っていると教えています。 ちなみに、なぜお釈迦さんは「真実を知った」といわずに「悟った」と言ったのでしょう 悟るというのは新しい知識を仕入れたという意味ではなく、今ある知恵を深めた(表現が適切じゃないかも・・^^;)というほうが近いでしょう たとえば、東京に生まれた人は東京の町を知っています。しかし、もし飛行機から見たら東京を見下ろしたらまったく違う印象をもつでしょう。 そして、再び自分の足で東京を歩いたとして・・・。見える景色はもちろん同じ。しかし、その見え方は違うはずです。 それが悟りの例えでしょう。 悟りとは人それぞれ違うものらしいです。白隠禅師は「自分は生涯に大悟は5回、小悟は数知れず」といっています。 疑問に持つことがあり、それが氷解するのが悟り。飲み込めない事を飲み込めるようになる事が悟りです。 他の人からみたら意味なさげでも本人にしてみたら大きい悟りかも知れません。 そうやって小さな悟りを重ねていくのが哲学の道であると思います。 えらそうなことを言いましたが、ワシ自身はたいした悟りを得ていません。 あえて言えば、「人間は吉野家があればどこでも生活できる」ということかな・・^^: でもこの悟りのおかげで行雲流水な旅人暮らしを送っています
パンも、ごはんもそれだけじゃ、味気ないよね。 でも、生産効率は、お米のほうがいいって聞くから、ごはんの勝ち。
205 :
考える名無しさん :2001/08/20(月) 03:17
朝生途中退場事件の前に「異議あり!」っていう番組で 西部が退場した経緯があって、朝生の件に至っている。 「異議あり!」という番組は、田原が司会で左派右派の代表者1名づつ(基本的に佐高と西部)に対し ゲストがテーマを提示し、一つのテーマに対しディベートするという趣旨の番組。 この番組のゲストが宮台の時に西部は退場するんだけども 確か、宮台が自分の持ち込んだテーマそっちのけで 「アナクロ人間、逝って良し」みたいな内容を宮台お得意の高速言語で一方的にしゃべり倒す態度に 西部が辟易として退場した、という風に記憶している。 西部が退場した後も番組は続いたのだけど、佐高は「私だって帰りたいとき我慢してるのに」と 西部を非難しつつも明らかに困っていた。 田原はスタッフに引き留めの指示を出しつつも、いつもと余り変わらなかった。 宮台は、嬉しそうだった。 結局、この回の放送以降、西部は出演しなくなり 代わりに誰かを引っ張って来たんだけども、番組は盛り上がらず 程なく打ち切りになったと記憶している。
206 :
以上荒らしでした :2001/08/20(月) 03:20
スレ違い荒らしでした。初心者の方、荒らしには反応しないように。オレモナー
>>199 縁起-空-無我を説くのは仏教ではないでしょうか。
それ以外は付加ということで。
>じゃあ世親とか天台大師とか玄奘とか空海とか道元とか親鸞とかは何?
初期仏教の掘り下げや伝統的仏教を再構築して現代的な仏教の理解を
持つことができるのではないかと。
ではまた。
208 :
199 :2001/08/20(月) 18:00
>>207 だから答えになってないって。
世親も天台大師もみんな縁起も空も無我も説いてるよ!知ってた?
ちゃんと文献読んでみなよ。
「伝統的仏教を再構築」とか「現代的な仏教の理解」とか話が抽象的すぎ。
それからあんたの定義では龍樹も初期仏教?意味わかんないや。
>>208 >世親も天台大師もみんな縁起も空も無我も説いてるよ!
>知ってた? ちゃんと文献読んでみなよ。
世親も天台大師もみんな「縁起・空・無我」を説いているということははいいんです。
しかし、唯識や如来蔵は「縁起・空・無我」に反すると思いませんか?
>「伝統的仏教を再構築」とか「現代的な仏教の理解」とか話が抽象的すぎ。
意味不明でしたね。
天台大師とか玄奘とか空海とか道元とか親鸞らの時代は経典
がすべて釈迦の金口の説法だとされていたのに対して、
現代は学問が進んでいて仏教の原典がよく研究されており
釈迦の直説は「縁起・空・無我」であったことがほぼ間違い
ないとされています。
「縁起・空・無我」が仏教部分それ以外が非仏教部分(付加)という
理解は妥当性があるのではないでしょうか。
>それからあんたの定義では龍樹も初期仏教?意味わかんないや。
龍樹は初期大乗ですね。
しかし龍樹は唯識や如来蔵は説かず「縁起・空・無我」の
範疇だったという意味です。
210 :
199 :2001/08/20(月) 22:13
>>209 あなたの主張をまとめれば
「縁起・空・無我」というのは初期仏教(というか阿含経典)に
説かれるようなものが正しいのである、として
唯識や如来蔵思想はそれに反している、故に仏教ではない、
ということですか。
あいにく僕はインド仏教や初期仏教といわれるものには
詳しくないので聞きたいのですが
阿含経典には大乗経典や龍樹が説いたような「空」ということは
はっきりと説かれてるのですか?
むしろ「空」ということを大々的に説いたのは大乗仏教じゃないんですか?
それから阿含経典や初期大乗経典に説かれているのは本当に「縁起・空・無我」だけなんですかね?
そうやって言い切れてしまう人が僕は信じられないんです。
あと大事なのが抜けてると思うんですが
アビダルマとかは209さん的には仏教ではないんですか?
時代的に初期仏教に近いということを理由に龍樹が正しい仏教であるというのなら
アビダルマも当然無視できませんよね。
どうなんでしょう。
211 :
209 :2001/08/20(月) 22:41
>>210 >阿含経典には大乗経典や龍樹が説いたような「空」ということは
>はっきりと説かれてるのですか?
「空」は阿含経典に説かれています。
龍樹はそれを論としてあらわしたのだと思います。
>むしろ「空」ということを大々的に説いたのは大乗仏教
>じゃないんですか?
説一切有部などの部派仏教は有部という名の通りすべての
「もの=法」として微細元素的な実体を認めてしまいました。
大乗仏教は説一切有部などの部派仏教の批判として発生
したのだと思います。
法華経などの大乗経典の中にも説一切有部(小乗)や順世外道
(唯物論者)の批判の記述が認められます。
>それから阿含経典や初期大乗経典に説かれているのは本当に
>「縁起・空・無我」だけなんですかね?
>そうやって言い切れてしまう人が僕は信じられないんです。
阿含経典や初期大乗経典に説かれているのは
「縁起・空・無我」だけでないと思います。
しかし「縁起・空・無我」が合理的な判断基準になり得る
と思います。
>時代的に初期仏教に近いということを理由に
>龍樹が正しい仏教であるというのなら
>アビダルマも当然無視できませんよね。
アビダルマも批判の対象だと思います。
龍樹は中論で一切空を主張してアビダルマ仏教や
唯物論を論破しています。
>>211 あー、まどろっこしい。
要するにあなたの仏教の定義=「阿含、初期大乗経典、龍樹」なんですよね?
しかも全部「〜は〜です」みたいな断定的な言い方で具体性がない。
僕は気が短いので議論がかみ合わないです。
よってさようなら。
逝きます。
213 :
209 :2001/08/21(火) 01:21
>>3 の本も参考になります。
>よってさようなら。
残念。
>阿含経典には大乗経典や龍樹が説いたような「空」ということは
>はっきりと説かれてるのですか?
空はスッタニパータの下記部分に説かれています。
1119「つねによく気をつけ、自己に固執する見解をうち破って、世界を【空】と観ぜよ。
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、
死の王は見ることがない。」
(『ブッダのことば スッタニパータ』p.236 中村元訳 岩波文庫)
>アビダルマも当然無視できませんよね。
>どうなんでしょう。
説一切有部の批判は中論の下記部分に見られます。
「薩婆多部衆(説一切有部)の説の如くんば「諸法は各各相あり、是れ善、是れ不善、
是れ無記、是れ有漏、無漏、有為、無為の別異あり」と。是くの如き等の人は
諸法の寂滅の相を得ず、仏語を以って種種の戯論を作す。」
- 正確には中論の注釈者 青目の注釈部分
(『中論(中)』 p.332 三枝充悳訳注 レグルス文庫)
>>212さんへ この213の人多分原典読まないで言ってるよ。他人の訳ばっかり読んでわかった気になってるんだ。多分中国や日本の仏教の事情もよく知らないで言ってる。相手にしたらダメな類の人だと思うよ。
215 :
209 :2001/08/21(火) 02:31
>>214 >原典読まないで言ってるよ。
ハハハ、あなたは原典読んでるの?
>中国や日本の仏教の事情
ちょっとは知ってるけどなにか。
>相手にしたらダメな類の人だと思うよ。
いずれにせよ
>>212 はもう相手にしないだろう。
>相手にしたらダメな類の人だと思うよ。 ふーん、門外漢を相手にすると汚れるとでも? 仏教哲学の人たちって狭量なのかな?
217 :
ちょっかいを出す名無しさん :2001/08/21(火) 10:16
あ〜、かみ合ってない議論に口出しするのも なんなんですが。 仏教的とか非仏教的って表現はやっぱり不適 切なんじゃないでしょうか? 「仏教」ってのは「仏になる教え」ですよね。 その本流が縁起・空・無我などであるっての はわかるんですが、如来蔵とか唯識などを本 流ではないから非仏教的であるというのは、 いささか飛躍しすぎでは? 如来蔵や唯識の思想も、縁起・空・無我とい うのを踏まえていない(否定している)とい うなら話は別ですけどね。 また、釈尊以降の仏教の発展(変化でもいい けど)を釈尊の思想ではないというのは、全 ての思想史を否定することでしょ。変化を否 定するのでなく、変化したことについて考え ないと初期仏教の掘り下げも伝統的仏教の再 構築もままならないと思います。
218 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 10:17
_______ ________ 文字サイズ小 /;;;;;;;;;;;Y;;;;;;;;;;;;\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /;;;;;;;;;;;;;;;Y;;;;;;;;;;;;;;;;;\ | /;;;;;;;jj|||从从从从|||jj;;;;;;;;;;ヽ | /;;;;;;;jj||!!:::: ''!|||jj;;;;;;;;;ヽ < 最終解脱者の私になんの用だ? /;;;;;;;jj|||!!:::: '!||||jj;;;;;;;;ヽ | /;;;;;;;jj||||!!!llllljjjj;;, ,;;jjjlllll!!!!||||||j;;;;;;;;ヽ .| ./;;;;;;jj|||||!:::<●> <●> !||||||||||||||| \_____________ |;;;;;j|||j|||||:::: / ||| ||||! .|;;;jll!;jj||||||::: <_ _ || _ イ|||! /;;jl!;jj||||||||||j,::: ,;jllllllllllllllj;, /|||||||||! /;;;;;;;;jj|||||||!;|||||j;,!!'' ┬┬ ''!!;, /||||||||||||!, ゴゴゴゴゴゴゴ、、、、、 ;;;;/;;;jj|||||||!;;;!|||||||j;,__/;;;;\__/;;;イ|||||||||||||!, ;;/|;;jjll!!||l!;;;;;;;!l||||||jiiiii;;;;;;;;;;;;;;;;;;イ||!|||||||!||||!!\__ //;jjl!;;jl!;;;;;;;;;;;;!||||||jiiii;;;;;;;;;;;;;;;イ|||!;i||||||!i|||||:::: ̄─___ /jj!;;;;jl!;;;;;;;;;;;;;;;;;;!||||||jii;;;;;;;;;イ|||||!;;i|||||!;;|||||:::::::::: ̄─
219 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 10:17
無我論、縁起思想、空思想と如来蔵思想、輪廻・業思想、唯識思想と関連する話題だと思うけど、 前者のように関係論的に考えていくと、選択に対しての責任主体とか倫理性が問題になるし、 後者のように何らかの主体を規定すると、行き先で否定したはずのアートマン説(絶対の我)に陥る。 アートマン説に対してのアンチテーゼとして無我論等があるのだから、 どちらを考えるにしても常に両方を対置して考えて行くしかないように思う。 何らかの主体について考えるにしても、業などで行為が継承されていくとき、 それは「無記」(価値は規定されず白紙状態)とされている点が重要。 無我論は、「絶対的な我」は無いといっているだけで、「相対的な我」の認識や、 思考が相対的な範囲での我を規定せずにはおけない(必ず規定してしまう)、 ということまでを否定しているとは思えない。このことまで否定してしまうと虚無主義に陥ってしまう。 この相対的には必ず規定してしまう我を絶対の我に置き換えないことが重要と思われる。
220 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 10:18
>209さんをよんで思い出したこと 曹洞宗の宗祖道元さんが最初に仏教で感じた疑問は仏像を見て「なぜ悟りを開いた如来や菩薩が修行をするのか?」 ということだったそうです。そうして、悟ったのが「身心脱落只管打座」つまり、悟るために修行をするのではなく修行をしてるのが悟った状態だということらしです。 現代臨済宗の実質的な宗祖、白隠さんも「衆生本来仏なり、水と氷のごとくして・・」と語ってます つまり、人は本来悟っている。だけどいろんな偏見やら自我によってその悟りが曇っていると教えています。 ちなみに、なぜお釈迦さんは「真実を知った」といわずに「悟った」と言ったのでしょう 悟るというのは新しい知識を仕入れたという意味ではなく、今ある知恵を深めた(表現が適切じゃないかも・・^^;)というほうが近いでしょう たとえば、東京に生まれた人は東京の町を知っています。しかし、もし飛行機から見たら東京を見下ろしたらまったく違う印象をもつでしょう。 そして、再び自分の足で東京を歩いたとして・・・。見える景色はもちろん同じ。しかし、その見え方は違うはずです。 それが悟りの例えでしょう。 悟りとは人それぞれ違うものらしいです。白隠禅師は「自分は生涯に大悟は5回、小悟は数知れず」といっています。 疑問に持つことがあり、それが氷解するのが悟り。飲み込めない事を飲み込めるようになる事が悟りです。 他の人からみたら意味なさげでも本人にしてみたら大きい悟りかも知れません。 そうやって小さな悟りを重ねていくのが哲学の道であると思います。 えらそうなことを言いましたが、ワシ自身はたいした悟りを得ていません。 あえて言えば、「人間は吉野家があればどこでも生活できる」ということかな・・^^: でもこの悟りのおかげで行雲流水な旅人暮らしを送っています
221 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 10:19
日本語訳はまだないはずです。 3部作について。 未來社から、『Passion』は出ましたが (『パッション』湯浅博雄訳, 2001)、 『Sauf le nom』と『Khora』は (「Chora」は単行本収録にあたって 『Khora』と、ギリシア語転記法を変更) 同一版元から日本語訳の刊行を予告されているものの、 いまだに出ていません。 ちなみに、翻訳者は、 岩波の「思考のフロンティア」の『脱肛糞』を書いた人です (名前をなぜか失念。すまそ)。 フランス語が苦手なら、この際、英語で読んではいかがですか? たしかに、はやく出てほしい翻訳ですね。
222 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 10:20
>>210 その説明は、集団のある状態の部分部分の要素を「適当に」抽出
(事実認識)して、評価もまぜこぜにして再構成しているだけです。
(説明にもなっていない。個人とは何か、神経症とは何か、
集団ヒステリーとは何か、ヒステリーが否定的ニュアンスをもつ
言葉なら、ある状態を否定的なニュアンスを含む言葉で語る手法は
さけるべきではないか、彼らは沈黙を恐れ、と言っているが、
沈黙などしてはいないではないか、個人神経症? 集団との
対比の中でそう語っているのであろうが、集団に神経などないのに、
なぜ神経症になるのだ? などなど・・・)
ここまでつっこんでおいて何ですが、小泉人気に反感を覚える態度には
賛成です。もうちょっと分析に耐えうるような話をこのスレッドで
展開して、少しでもいい方向にもっていけるような論議ができると
いいですね。
223 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 10:20
会社や何らかの組織に属した経験を持っているならば、人間関 係や様々な軋轢に苦しむことは一度ならず経験していると思い ます。そして私や物の存在を信じているように他者の存在も信 じているので<対話>も出来るのであって信頼関係をつくる様に 語り合うのが正しいと言われても理想論のように感じられるの も事実ではないかと思います。 でも、<対話>の困難さに立ち止まってしまっては独りよがりの 論理に閉じられてしまいます。独善的で極端な考えにならない ためにも、<対話>の方法論は生活の目線から考えていかなくて はならないと思います。ちなみに『哲学の練習問題』西研 N HK出版において私などとは厚みの違う思索が展開されていま す。「似て非なるもの」とはこのことでしょうか?
224 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 10:20
Memory we had Tears are falling down to the rose Melody in the sky (訳)瞳を開いた時に拡がる君と私に差し出されるたくさんの 思い出の手触り、色彩、音色。 瞳で堪えきれずに涙は零れ落ちてしまい、流れた涙の雫 が力尽きた場所にあるバラの花に注がれている。 君と私が感じ経験している大空の元で生きているから君 と私の心のメロディーも育んでいけたんだよね。 『The ROSE』 Mai Kuraki 「自分の人生は自分のモノなのだからどう生きようと勝手なの だ。他からとやかく言われる筋合いはない」というのは、たし かにそうだとは思いますが、本当に生きることが自分一人の問 題ですむものなのかは、岸田秀の『ものぐさ精神分析』を読む とつくづく考えさせられます。 岸田秀の生々しい思索の跡を読むと、「このような家庭は避け たい」と思いながらも、日々表面化する幼児虐待の報道を見る と、切実な救済のための<無意識>の現象学、<社会>の現象 学の進展が望まれるのだと感じています。
225 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 10:21
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ? 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
226 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 10:21
朝:起床後すぐに2ちゃんねるに接続。ブラウザは開きっぱなし。 もちろん半角板と速報板を「お気に入り」に登録している。 ちなみにここ数ヶ月PCの電源は落としていない。 いつものように「逝ってよし!」「オマエモナー」とカキコする。 一通り巡回したら回線を切断。 その後凉木もも香でオナニーし、朝食後再び寝る。 昼:TVから流れる「笑っていいとも」のテーマ曲で起床。 起床後すぐに2ちゃんねるに接続。ブラウザは開きっぱなし。 もちろん半角板と速報板を「お気に入り」に登録している。 ちなみにここ数ヶ月PCの電源は落としていない。 いつものように「逝ってよし!」「オマエモナー」とカキコする。 一通り巡回したら回線を切断。 その後浅倉舞でオナニーし、昼食後再び寝る。 夜:気が付いたら既に真夜中。 起床後すぐに2ちゃんねるに接続。ブラウザは開きっぱなし。 もちろん半角板と速報板を「お気に入り」に登録している。 ちなみにここ数ヶ月PCの電源は落としていない。 いつものように「逝ってよし!」「オマエモナー」とカキコする。 一通り巡回したら回線を切断。 その後響奈美でオナニーし、夕食(夜食)後入浴し、浴室で手 首に剃刀を当てて自殺を図るが怖くて断念。諦めて再び寝る。
227 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 10:22
>>210 ,
>>211 >だからマルクスの唯物論はそういう狭義の唯物論じゃなくて
>上部構造(観念論)の支えとなる下部構造(生産関係)を
>指摘するっていう内容でしょ。
だから、マルクスのその指摘が詭弁なんじゃないかな、と思うの。
上部構造は《観念》だけど、下部構造(生産関係)は《物質》ではないよ。
「経済」なんていう物質はないからね。あと、「関係」なんていう物質もない。
どれだけ、自然科学的な技術革新が行われても、それを「経済」に応用するのは社会科学者だよ。だから、生産関係なんかは、「中部構造」とでもいうのが正しいと思うよ。
下部構造は、純粋に物質的な自然科学領域に限定するべき。
>>209 >何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
唯物論=自然科学、そう考えるのがいちばん整理された考えだと思うから。
レーニンなどのロシア・マルクス主義者は、「マルクス主義は真理であるがゆえに、全能である」っていってたけど、
これは正確に言うと、だだの〈自然科学万能主義〉。はっきり言って、古い。人文・社会科学領域を完全に無視してるから。そこが限界。
>>217 >はわかるんですが、如来蔵とか唯識などを本
>流ではないから非仏教的であるというのは、
>いささか飛躍しすぎでは?
表現として極端過ぎたかもしれません。
>如来蔵や唯識の思想も、縁起・空・無我とい
>うのを踏まえていない(否定している)とい
>うなら話は別ですけどね。
言いたかったのはそういうことです。
>また、釈尊以降の仏教の発展(変化でもいい
>けど)を釈尊の思想ではないというのは、全
>ての思想史を否定することでしょ。変化を否
>定するのでなく、変化したことについて考え
別に、変化を全否定するつもりはありません。
但し、中古天台本覚思想のように有害性があり
否定が必要な思想もあるとは思います。
>ないと初期仏教の掘り下げも伝統的仏教の再
>構築もままならないと思います。
仏教はなぜ変化したか、あるいはなぜ荒廃したか、あるいは
仏教のコアとなる思想は何かを考察することにより
仏教の現代的理解や活用が可能になると考えています。
(ちょっと大風呂敷すぎたかもしれませんが...)
229 :
那梨 :2001/08/21(火) 12:49
>209 参考になればと思い、書き込みます。 その昔、南方仏教の人が大乗仏教を批判して「それは釈尊の教えではない」といいました。 それに対し、大乗の仏教徒は「この教えを聞いてみろ。仏陀じゃなければこんなこといえないぞ」 と返したそうです。かなり過激な発言というか・・・、ある意味釈迦の言葉じゃないのを示唆する言葉ですが。。 最初、この言葉を聞いた時、大乗の仏典は釈迦の真の教えではなく後世の作り物だからやはり原始仏教こそが純粋なんだと思いました。 しかし、最近はこの「仏陀じゃなければ言えないぞ」という言葉がものすごく魅力的になりました。 その時代、その地域に根ざした悟りの思想が釈尊の名で語られているのが大乗仏典だと思います。 中には中国で書かれたものもあるそうですから、その柔軟さはキリスト教などに比べると恐ろしいくらいです。 私の認識するところでは仏教とは実践の宗教だと思います。そして、その実践が仏教の広まった地域ごとに違うのは社会や文化が違うから当然だと思います。 その昔、ある禅寺で「何で日本の坊さんは肉を食うのか??」とたずねました。するとその和尚は 「仏教と肉食は関係ない。そんなこといったら野菜の育たない地域に住んでるイヌイットの人たちは仏教を学べないじゃないか」 といわれました。多少詭弁っぽいのですが、ある意味真理・・かと・・。 また、座禅する時にどうしても足が組めなくて難儀していると「あぐらでいいよ」と言われました。 「でもそれじゃ座禅じゃないんじゃない?」と聞くと「それじゃ、足の不自由な人は禅の修行ができなくなるよ」といわれました。 結局、今ある教義は大切ですが、同時に意味がないのです。一人一人が違うようにその仏教も違うらしい。。です。。 209さんの姿勢は仏教思想史を研究する立場としては正しいと思います。 でも、現実の仏教はもっと柔軟で捉えどころが無く個別に自由なもののようです。 つまり、「仏教はなぜ変化したのか」ではなく、仏教は変わらない。しかしその現れ方は時代、地域、個人によってさまざまなのだと思います。 以上、長文で失礼しました。生半可な知識で書きましたので反論もあろうかと思いますが・・・。
230 :
那梨 :2001/08/21(火) 13:01
付け足し・・ >でも、現実の仏教はもっと柔軟で捉えどころが無く個別に自由なもののようです。 ↑こう書きましたが、実際に修業道場に行くとがんじがらめの規則があってとても自由には感じませんw しかし、その中に真の自由もあるそうな。。。
231 :
209 :2001/08/21(火) 13:05
>>229 さんへ
>209さんの姿勢は仏教思想史を研究する立場としては
>正しいと思います。
私は一応アマチュアです。
>でも、現実の仏教はもっと柔軟で捉えどころが無く
>個別に自由なもののようです。
仏教が人や国・時代に柔軟なものということは私も理解できます。
でも、密教のようにヒンズー化し過ぎている宗教が
(密教の方がご覧になっていたら失礼します。反論ください。)
はたして仏教と言えるかどうか、あるいはもし人は皆本来仏で
あるから実践も必要ないし、悪いことをしても一向に構わない
という所まで行ってしまったとしたら仏教でなくなると
思います。(極端な例ですが...)
そこで「縁起・空・無我」が仏教の基準となると思うんです。
232 :
209 :2001/08/21(火) 13:08
>>230 >↑こう書きましたが、実際に修業道場に行くとがんじ
>がらめの規則があってとても自由には感じませんw
>しかし、その中に真の自由もあるそうな。。。
精神の自由というやつですね。
233 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 13:22
>>如来蔵や唯識の思想も、縁起・空・無我とい >>うのを踏まえていない(否定している)とい >>うなら話は別ですけどね。 >言いたかったのはそういうことです。 ガ━━(゚Д゚;)━━ン! ←1度使ってみたかった(笑 否定しているんですか!知らなかった、世親は「縁起とか 空とか無我とかは戯言じゃ」と述べているとは! でも、縁起・空・無我の概念無しに阿頼耶識縁起説なんか 成立しないんですど(笑。成り立たないから間違いっての は無しよ。唯識派の方々もそこまで間抜けじゃないでしょ。 >中古天台本覚思想のように有害性があり 袴谷センセもそこまで言っていたっけかな〜?
234 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 13:52
如来蔵は仏教である。 無常・苦・無我は解脱した「ブッダの立場」に於ける言明です。 「世俗の凡人の立場」からの一般論的解釈は方便でしかないでしょう。 如来を凡夫が内在するという言説も、同様に悟った立場からの言明です。 世俗的レヴェルの解釈による批判など意味がないっす。 縁起・空・無我 は方便の教えです。実義は「八つの正しい実践」以外にないのです。 こまざ〜のオジの煽りは罪作りよの〜。(笑
235 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 14:11
>>210 ,
>>211 >だからマルクスの唯物論はそういう狭義の唯物論じゃなくて
>上部構造(観念論)の支えとなる下部構造(生産関係)を
>指摘するっていう内容でしょ。
だから、マルクスのその指摘が詭弁なんじゃないかな、と思うの。
上部構造は《観念》だけど、下部構造(生産関係)は《物質》ではないよ。
「経済」なんていう物質はないからね。あと、「関係」なんていう物質もない。
どれだけ、自然科学的な技術革新が行われても、それを「経済」に応用するのは社会科学者だよ。だから、生産関係なんかは、「中部構造」とでもいうのが正しいと思うよ。
下部構造は、純粋に物質的な自然科学領域に限定するべき。
>>209 >何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
唯物論=自然科学、そう考えるのがいちばん整理された考えだと思うから。
レーニンなどのロシア・マルクス主義者は、「マルクス主義は真理であるがゆえに、全能である」っていってたけど、
これは正確に言うと、だだの〈自然科学万能主義〉。はっきり言って、古い。人文・社会科学領域を完全に無視してるから。そこが限界。
236 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 14:12
卵から生まれたにわとりは・・・ にわとりを踏まえて卵を産む。
237 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 14:13
あれは学説、いわば解釈であって、必ずしも中観派以外の思想は仏教 としてみとめられてこなかったという歴史的な事実があるわけではありません。 ただし、例えば如来蔵思想が日本や中国ではあまり批判されずに受け入れられ、 一方チベットでは好まれなかったというのは、事実でしょうし、仏教の受容に 関して差異があったというのはおもしろいとおもいます。 ただ中観派のみが「本物」の仏教であるというような考え方は77にもあげたように かなり以前から中観派内部にはあったもので、その考え方自体はとくに新しいわけでは ないとおもいます。これは「無我」が「仏教の特質」であるという考えにたって、 それを追求していけばたどり着く結論ではないかと思います。
238 :
209 :2001/08/21(火) 14:15
>仏性とか如来蔵ってのは (唯識もそうです) 輪廻の主体は何か、という問いに 帰謬論法じゃ堪えられなかったから出てきた発想で、むしろそれこそがインド 人のアクチュアリティに近いですね。 これはインド人の考え方の中に我の思想が深く根ざしていて、 なんらかの主体を想定せずにはおられなかったということではないでしょうか? ですから、インド人のアクチュアリティーに近いかと仏教的かは 必ずしも一致しないのでは? 一方、いずれにせよ月称以後帰謬論法が仏教内で支持されていた痕跡は あまりないのではないでしょうか? かといって中観派がその足場を失って衰退したというわけでもなさそうですが。 >信じていないなら、信じていないものを研究すべきでない。 そんなことはまったくありません。 >仏教を研究しているうちに仏教を信ずるにいたらないなら、それは 仏教が君をひきつける力を持たなかったということでしょ? 宗教としての仏教には魅力がなかったといえるかもしれません。 >仏陀は自分の考えを信じてもらおうとしたのでは? 信仰無き研究は仏教を侮辱するものでは? 研究はかならずしも仏陀の意向に 沿ったものでなくてはならないとは限りません。 >そして信仰があるなら、研究は邪道だ。研究とはそとに立つことだから。 邪道で構いません。信仰がないのでいずれにせよ邪道なんでしょうけど。 ところでわたしは「仏教哲学の基礎」のほうに興味があるんですけど、 どなたか唯識の形象論に興味のある方はいらっしゃいませんかねえ?
↑名前を騙ったコピペ荒しか?
240 :
209 :2001/08/21(火) 14:55
>>233 私が209です。
>袴谷センセもそこまで言っていたっけかな〜?
批判仏教に興味はあるけど、別に袴谷センセの門下ではないです。
>縁起・空・無我 は方便の教えです。
>実義は「八つの正しい実践」以外にないのです。
理由は?
>こまざ〜のオジの煽りは罪作りよの〜。(笑
いいではないですか、とことんやりましょう。
批判なしには進歩はないですから。
>>237 >ただ中観派のみが「本物」の仏教であるというような考え方は77にもあげたように
>かなり以前から中観派内部にはあったもので、その考え方自体はとくに新しいわけでは
>ないとおもいます。これは「無我」が「仏教の特質」であるという考えにたって、
>それを追求していけばたどり着く結論ではないかと思います。
そうですね。このような考えは批判仏教のオリジナルでもなく
私のオリジナルでもないと思います。
# 荒らし君へ コピペしていないで遊ぶか宿題やりなさい。
241 :
209 :2001/08/21(火) 14:59
>>239 私が209です。
>袴谷さんってルサンチマンかなぁ??
彼がルサンチマンのひとかどうかは別としても、
菩提心にもとづいて研究しているようには見えないね。
>如来蔵や本覚思想批判、非仏説に異を唱えるのはなぜ?
>何をもって仏説とするか、みんなの共通認識は違うよね。
「出家教団のなかで早くから文字化されたパーリ経典以外に、
在家教団のなかで口伝で継承されていた大衆向けの教えが、
後世になってサンスクリット語の大乗経典として記された」
というのは一般的な学説といっていいと思います。
それを仏説とみなすかどうかは、小乗 or 大乗 の分かれ目でしょうね。
>誰の学説支持なんでしょうか。
誰の学説か?とか以前に、如来蔵思想そのものを支持します。
「一切の衆生に仏陀となる種子が宿っている」
という思想のどこが間違いなのでしょう?異を唱えるのはなぜ?
初期仏典に出てこないからというのでは理由になってないですよね。
彼らの学説をもういちどここで要約して展開してくださればとおもいます。
#個人的には高崎先生や川崎先生の書いたものをよく読みます。
242 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 18:31
>「一切の衆生に仏陀となる種子が宿っている」 >という思想のどこが間違いなのでしょう?異を唱えるのはなぜ? 種子という表現が実体をイメージして空に反するあるいは 誤解を招くからです。 仏素、ブッダ粒子、ブッダ光線などあったらおかしいでしょう。
243 :
214 :2001/08/21(火) 20:04
>>216 へ
門外漢を相手にするな、といってるわけではないです。ただ209さんは、見ていると、相手の問いに何一つ答えていないではないですか。これでは議論がかみ合わない。
たとえば
>>228の
>>如来蔵や唯識の思想も、縁起・空・無我とい
>>うのを踏まえていない(否定している)とい
>>うなら話は別ですけどね。
>言いたかったのはそういうことです。
というのが最たるものだと思います。
私は中国、日本(主に日本)仏教を研究対象としている者ですが最近は「天台本覚思想は仏教ではない」とか、そのような学説が袴谷先生などによって発表されていて、それを学説の一つとしてよく吟味していかなければならない段階なのに、
なにか「批判」がなにか格好の良いものであるかのように感じているのだろうか、あんまりよく知らないのにそれに乗っかって、中国や日本の仏教はさも意義がないものであるかのようにいう人が増えています。
だから私はそういうものに本当に興味があるのなら、一度原典をしっかり読んで、じっくり吟味すべきだと思うのです。それが本当の「批判」というべきものではないでしょうか。
>>199さんの
>いい加減な批判(っぽいこと)だったら誰でも出来るよ。
>噛みつくだけだったら野良犬でもできるんだよ。
という意見が蓋し適切であると思います。
244 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 20:05
>>242 そりゃ、言い掛かりにちかくない?
比喩や例えを使っちゃいけないのなら、
初期仏教経典だって全滅だよ。
>>243 どうやら失礼なことを申し上げてしまったようですね。ごめんなさい。
これからも時々ROMさせていただきますので
有意義な議論をお続け下さい。
246 :
233 :2001/08/21(火) 20:13
あ、復旧した。 で、209さん。私が質問したのは、袴谷との関係ではなくて、 如来蔵や唯識思想は縁起・空・無我を否定しているのかって ことなんですけど(笑 少なくとも、私の知る限り、如来蔵や唯識思想は中観派の思 想の上に成り立っている(でないと、阿頼耶識縁起説など成 立しない)はずなんですけど、それでも、これらの思想は否定 すべき非仏教的思想なのでしょうか?
247 :
209 :2001/08/21(火) 22:08
>で、209さん。私が質問したのは、袴谷との関係ではなくて、 >如来蔵や唯識思想は縁起・空・無我を否定しているのかって >ことなんですけど(笑 >少なくとも、私の知る限り、如来蔵や唯識思想は中観派の思 >想の上に成り立っている(でないと、阿頼耶識縁起説など成 >立しない)はずなんですけど、それでも、これらの思想は否定 >すべき非仏教的思想なのでしょうか? 私の友人が紹介してくれた下記のような資料があります。 下記の論によれば如来蔵思想はその歴史的成立如何にかかわらず 縁起説とは異なるということになります。 筆者は、一般的通念とは逆に、如来蔵思想を差別思想であると考えて いるが、その背後にはインド土着思想であるヒンドゥー教というもの があると見ている。すなわち、仏教の開祖である釈尊は「縁起」を 説いた、つまり、“仏教”とは縁起説である、というのが筆者の理解で あるが、この縁起説とは、ヒンドゥー教の「アートマン」(atman 我) 〔霊魂〕の思想を根底から否定したものなのである。従って、 “仏教”としての縁起説からは、「無我・無常」の説が導出され、 これが仏教の旗印ともなる。しかるに、これに対して、「我・常」 ということを積極的に主張するのが、如来蔵思想であり、『涅槃経』に は「仏陀とは、我(アートマン)を意味する。しかるに、その我は永遠 不変の実在である」と明記されているのである。従って、如来蔵思想の 「我の思想」、「有の思想」が仏教の縁起説・無我説と全く逆の立場で あることは明らかであり、この意味で筆者は、“如来蔵思想は仏教 (縁起説)ではない”と論じるのである。 (『チベット仏教哲学』 松本史朗 大蔵出版 )
248 :
233 :2001/08/21(火) 23:06
なるほど、松本史朗先生はそげなことを言っているのですか。 で、これを全面的に認めるとして(素人には専門家を簡単に否 定できまんせんからね)、まだ、唯識思想とそれに立脚する阿 頼耶識縁起説がありますので、是非ともご教授を。 阿頼耶識はでごわいでっせ。末那識は我の否定ですから・・・。 あ、如来蔵と唯識は出自が別なはずですから、如来蔵がダメ だからってのは理由にならないはず・・・だと思った(笑) ・・・いかん、ストーカーだみたいだ。あまり気にしないでね(笑 それにしても『涅槃経』さえも文句がつくとなると、話は大乗仏 教のみならず上座部系仏教にも累が及びますね。 クリティカルとは、ほんに業の深いことで(笑
249 :
209 :2001/08/21(火) 23:05
唯識思想については以下の資料を提示したいと思います。 (あまり学術的な資料ではないですが...) 空の議論や中観派の否定論法にあきたらなくなく思ったひとの なかには、唯識派もいた。かれらは自性論証派と同じように、先輩の 論法から否定的色彩を抜きさろうとした。認識に関する概念を 実体化して(かれら自身は実体化したとは思っていない)、世界を 肯定的に説明しようとした。 (『』 p.136 講談社現代新書) >一度原典をしっかり読んで、じっくり吟味すべきだと思うのです。 >それが本当の「批判」というべきものではないでしょうか。 私も可能であれば原典を読んでみたいと思います。 しかし原典を読むことだけが解決にならないと思います。
250 :
234 :2001/08/21(火) 23:08
>「出家教団のなかで早くから文字化されたパーリ経典以外に、 在家教団のなかで口伝で継承されていた大衆向けの教えが、 後世になってサンスクリット語の大乗経典として記された」 というのは一般的な学説といっていいと思います 平川氏以外でそのような見解を知りません。 一般的、定説になっているという根拠教えください。
251 :
234 :2001/08/21(火) 23:35
>>縁起・空・無我 は方便の教えです。 >>実義は「八つの正しい実践」以外にないのです。 >理由は? 無我・空を「知的」に理解しても解脱には至らないから。 釈迦は哲学を説いたのではなく「道」としての四諦.八正道としての実践のみを 涅槃に至る道として弟子に保証したと言う認識から。 つまり「法」による度彼岸の「法」とは八正道だという認識にたっているからです。
252 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 23:44
ところで、あまり正統論争に拘泥しても意味ないんじゃないの? 厳密には正統を質せる人は2500年前に亡くなっているわけだし。 仏教の正統に適うかどうかも重要だろうけど、 現代において、現代思想を含めて他の思想と比して、 仏教の思想にどんな意義があるか、とかも面白いのでは?
253 :
233 :2001/08/22(水) 09:21
>>249 うーん、中観は世界の否定で唯識は世界の肯定ですか。
わかるようなわからんような(笑。
私自身、中観の思想が仏教の本流ということは間違い
ないと思います。このへんは209さんと一緒。
ただ、如来蔵は仏となる可能性の保障、唯識は縁起する
ものの主体と仕組みの解釈と考えれば、あながち中観の
思想と相反するものとはいえないと思うんですがね〜。
例えば、真言密教などは唯識思想を重視してますが、中
観の思想をないがしろにはしていません。むしろ、中観
無しでは密教教理は成り立たないといえるでしょう。
個人的には、中観以外の諸思想がなにゆえ生じてきたの
か(必要とされたのか)という点に大きな興味がありま
す。決して中観の否定論法にあきたらなくなっただけで
はないと思うのですが。
最後に。
>>252 さんの言うことは至極正論です(苦笑。
>>252 >現代において、現代思想を含めて他の思想と比して、
>仏教の思想にどんな意義があるか、とかも面白いのでは?
>>253 >最後に。
>>252 さんの言うことは至極正論です(苦笑。
(くどいようですが)正統かどうかは除外しても、
現代において、実体化や構造化を許さない仏教の
縁起思想は有用だと思うんですよ。
(一種のアンチテーゼとして...)
あと仏教の合理性、批判性などが有用ですね。
それから、デリダと道元の類似性を論じたり、
ポパーと釈迦の類似性を指摘する研究者もいるようです。
255 :
考える名無しさん :2001/08/26(日) 02:46
>>209 中観キビュウ論証派の否定論法って本当に「合理的批判」だと思うの?
すくなくとも、近代の合理的批判とはものすごく異質だと思うんだけれど。
そこの違いはなんなのか、考えてみたことありますか?
へりくつに思えることが多いし。
256 :
考える名無しさん :01/09/02 03:39 ID:W8Q.42z2
あげるぞゴルァ!
257 :
考える名無しさん :01/09/02 14:39 ID:Tsz/.LkI
ニフティのFSHISO宗教会議室で本格的な仏教哲学開始の気配がある。
258 :
考える名無しさん :01/09/02 17:46 ID:tTzAirO2
対談も見てみそ。東は一生懸命山形に合わせて話してるだけでさ。 東はおそらく山形の文章を完全に頭に叩き込んでから対談に 臨んでいるように思われる。これが逆に、山形からしてみれば、 「たとえば、ぼくはある本でこういうことを書いたのですが」式の 話題作りを封じられる結果になってしまっているようだ。 さらに皮肉なことに、反論しようにも、べつに意見の 相違がそんなにあるわけじゃないので、相槌ばかり 打たざるをえない。それで山形は劣等感を抱いてしまった。 相槌ばかり打っていれば済むほどに意見が合致している からこそ、おぞましいまでの憎悪を煮えたぎらせてしまった。 似た意見で自分より優秀な人間がいるということは、 自分の存在価値を否定されることになる(と山形は感じた)のだから。
259 :
考える名無しさん :01/09/02 19:45 ID:tTzAirO2
何度も同じ事を言いたくないが、俺はそれゆえに包茎公に、もしその箇所を示してもらえば、俺の判断を変える用意はある、ってことを言ってるわけだ。 それなのに、当該箇所をわかりやすく説明しようともしない。 そのうえ、人に考える能力があるのかなどと言う。 全く、このような御仁に、何をかいわんや、だ。 断言、っていうが、それは、現時点での俺の知識の中から言ってるわけで、別に俺の言ってることが絶対の真実なんて一度も思ってない。 自分に誤謬や不十分な点があると思ってるから、議論しようとしてるに決まってるでしょうが。 しかし、俺も忙しい中で、府儒や小人に対して少しで警策を与え、木鐸になり、またわが誤謬を是正したいとは思うけど、いちいち朱子の全著作を読もうとは思わんわけだよ。 そんなの、キリスト教は哲学でない、という以上、アクィナスの神学大全を全部読んで来い、と言ってるのと同じだぜ。 むしろ、専門家の方が、かくかくの箇所がある、って示すべきじゃないか。 アクィナスが啓示やキリストの権威を否定してないゆえにしょせんキリスト教の枠の中にあり、それゆえしょせん哲学の名に値しない、というのは誤りか? それと同じで、朱子はしょせん孔孟の権威を否定せず、その権威から出発してるゆえ、哲学の名に値しないと類推するのが、そんなに責められることであろうか? ソクラテスはあらゆる権威によらず、自分の頭で考えようとした。 その運動が、ソクラテス的問答であり、その方式が問答法である。 あおれに比べ、孔子は何かと先王の道とか、昔の権威に訴えるばかり、孔子以後は、今度は孔子の権威に訴えるばかりだ。 そんなのはドグマであり、哲学ではないと言ってるわけだよ。 しっかし、この板での議論に参加することは、正直言ってやめようかとも思ってるんだ。 動機付けがだいぶ失われている。 俺は、この板の、すぐれた知性には、しばしば敬意を表し、感謝の意を表してきた。 しかし、それに報いられることは、一度としてあったろうか? おんなじことを何遍も言わされ、かつわけのわからない侮辱を受ける。 やっぱし、この板を見てると、孔孟や朱子を読んでも、この程度の仁愛や礼儀しか育たんのか、っていう気がしてきて、やっぱり何の価値もないんじゃないかって思うわけだよ。
260 :
考える名無しさん :01/09/11 20:28
批判仏教は、密教的視点からみれば「方便の暴走」なんだよね。 でも仏教は・・・
261 :
full_orbed :01/09/18 02:18
あげ
262 :
考える名無しさん :01/09/20 06:57
批判仏教つまんねー。学会から排除すべき。 特に袴谷は普通にキモい。 批判仏教信者はもっとうざい。 てか駒沢と外人以外で誰が支持してんの?
263 :
考える名無しさん :01/09/21 00:01
age
264 :
考える名無しさん :01/10/06 04:01
中観思想やその他仏教哲学に固執する考えは、閉じこもり、衰退し、没落する。 仏教の未来は、常に新たなる創造という可能性を秘めた流れとしてある。
265 :
考える名無しさん :01/10/06 10:09
>>187 187さんは、「あなたの内心の苦痛」のために指摘したくないと述べていますが、これはおかしいです。
あなたは、「私の議論の仕方」を批判したからです。あなたの内心がどうこうということと、
私の議論が横柄なこととは、何の関係もありません。
結局、あなたがなした批判は、中傷になりやすい内容を扱っていたため(傲慢ぽい書き方、
エゴが〜かねないなど)、それが中傷と実質的に区別がつかなくなる面があります。
また、単に議論を無視するのに都合がいい方便を使ったのと、区別がつけられません。
私の論じ方の問題とは関係なく、あなたの論じ方には、問題があります。
(それは以降にレスをつけなくていいというのが、あなたの議論にとって、都合よく働く面に
自覚的でない? ことについても言えます)また、あなたは007氏のやり方に関し、
評価を回避すべきではありません。私はそれとの関わりで、あのような発言をしたからです。
しかし、すでに書いた通り、あなたの言うことを心にとどめておくことは、約束します。
あなたの言う結論に、正しい部分があるからです。
ところで、煽りには攻撃的にとのことですが、私はあれが常識的な態度だと言っただけで、
あのようにすべきだとまでは考えていないです。誤解を招く発言だったと思います。ごめんなさい。
>>193 語義については、右クリックサーチ君というソフトを入れてください。
コピー→右クリック→辞書検索などができます。Googleで検索すれば、すぐみつかります。
論理性以下については、論理性そのものが根拠になるとは、主張していません。
率直に言いますと、それは、あなたの論理に対する無理解から来る発言だと思います
(無理解であるという指摘と、無理解だから〜だという指摘とを、混同しないでくださいね)。
論理性を犠牲〜とは「内容が論理的な構成に即して配置され、細部の意味がおおむね確定するように
表現する面で、犠牲が生じる」ことを、指しています。
たとえば〜 については、私が以前示したスレッドの2の一連の見解を、見てください。
私は2の見解をとります。
以降の、「007氏の自己の客観視」についてですが、客観視しているような表現をとることは
(それしか007氏がしてないことに注意してください。彼のレスには論拠がありません)、
匿名掲示板上では容易です。感情的になっていないように推敲すれば、いいからです
(感情的ともとれる煽りが先に来ていることも重要です)。
そもそも、あの意見も、方法も、話になりません。客観視しつつ、ろくでもないやり方をしても、
ろくでもないやり方を正当化できません。彼が戦争を類比の対象にしたから、一理あるかのように
思えた人もいるのでしょうが、あの議論に、殺人や暴行を類比に持ってくることもできますよ?
要するに起きることは起きると言ってるだけです。
私は、一番力がある地域に、そこまでの某が多数派を占めてないから、そこでは議論できると
言いました。もし力がある地域においても、某が多数派を占めれば、なんともしようがないのは
当たり前です。これはごく狭い範囲では、現に殺人事件といった形で、日本でも起きていることです。
think氏が、あのような言説に批判的であれないことは、私にとって非常に残念です。
ついでに、客観視という概念は主観的に構成されているものです。
また、私は彼のしたことが、私に対する中傷だったとは思っていません。
彼は中傷すると、自分への評価が下がるので、自分は冷静な態度をとっていることを演出しつつ、
相手を中傷したい心情を満たすのに都合のいい方法、しかも自分の議論の内容に都合のいい方法を、
戦争という枠(彼が作った類比という枠)に、あてはめてとったと理解しています。
266 :
末木・F・画太郎 :01/10/15 01:18
>>264 つまんない。誰に対して言ってるのかわからない。具体性がない。
故にどうレスしていいのかわからない。
賛同のみを求めるのならばそれでもいいけど、
それじゃああまりにも傲慢だ。
とどのつまりは、語り合うためにはもっと問いかけるべきだと思うんだ。
ところでS木F士は大丈夫なのか?というのが私の問いかけなのだ。
あまり具体的なことは言わないが、見た目的にヤヴァイオーラが漂っているよ。どうよ?
どうヤヴァイの? 業界的にはもっと逝ってるオーラの主がイパーイいる気がするが
268 :
考える名無しさん :01/10/17 02:10
age
269 :
考える名無しさん :01/10/20 02:12
S木は今年の淫佛で変なドラえもんのバッジ付けてた あれは十分やばいと思うが
270 :
考える名無しさん :01/11/02 00:42
>>269 お子さまキャラクター好きなのは有名な話だな。
>>270 好きなのは構わないんだけど、
何故それを学会にアッピールしようとするのか、
それが問題なのだ。
まあどうでもいいことなのかも知れないが。
272 :
考える名無しさん :01/11/04 03:11
>>270 アピールというより、単に隠さなくなっただけかも?
ところで、遅レスでスマソですが
>>253 =233
> 例えば、真言密教などは唯識思想を重視してますが、中
> 観の思想をないがしろにはしていません。むしろ、中観
> 無しでは密教教理は成り立たないといえるでしょう。
これは、具体的にはどういう点で、なのでしょうか?
(空に対する)本有の主張とか、そういうことですか?
教えていただけたら嬉しいです
age
274 :
考える名無しさん :01/11/05 01:23
まんじゅしゃげ
275 :
考える名無しさん :01/11/08 02:33
ageてみよう
276 :
考える名無しさん :01/11/08 02:36
さっき全てを悟りました
277 :
考える名無しさん :01/11/09 00:33
愛しい人が如来蔵でした 全ての衆生の悉有仏性を感じました
278 :
考える名無しさん :01/11/09 01:04
救ってやってくれ、難民を
279 :
考える名無しさん :01/11/11 03:56
280 :
考える名無しさん :01/11/11 15:08
仏教って、キリスト教だよね?いや、マジで。
281 :
考える名無しさん :01/11/12 02:22
↑なんで?
282 :
こんなのもあった。@心と宗教板 :01/11/13 13:27
283 :
びっくりだ :01/11/13 15:39
>>280 さんは妄想か? そもそもキリスト教より仏教が歴史が古いだろ。
284 :
考える名無しさん :01/11/13 18:54
確かに大乗仏教はキリスト教の影響を受けて発生したという説はある。 キリスト教の興隆にによりメシア信仰を必要としたので「弥勒菩薩」が編み出された、とかいうものだ。 そのことか?
285 :
考える名無しさん :01/11/14 00:30
>>284 それ誰のなんて論文?すげえ根拠が薄そう。外人が書きそう。
弥勒←マイトレーヤ←ミトラ
287 :
考える名無しさん :01/11/14 11:32
>>284-285 結構古い説ですよね。比較宗教学的な言い方でしょう。
エリアーデあたりも、そのようにみていたと思います。
ユング派の精神分析的に導いてるんだと思います。
だいたい、大乗仏教はインド仏教のいわゆる本流ではなく、
インドの周辺地域や中国仏教の影響で発展したのは確かで、
密教にまで連なってゆく雑多な要素を沢山ふくんでいます。
当時のオアシス交通を考えると、紀元後2〜3世紀に始まった
北インドや中央アジアの大乗仏教運動が、小アジアやイランなどの
グノーシス系の思想やマニ教と接触を持っていたことは、否定できないですね。
弥勒菩薩信仰はチベット、中国で盛んでしたが、
かなりあとになって中央アジアで発達したものですから、
キリスト教の影響を何らかの形で受けている可能性が非常に高いです。
チベット仏教のニンマ派のなかには明らかにキリスト教の影響を受けたと
みられる神話もあります。処女懐胎の神話が出てきますから。
>>285 つうか外人ってなんだよ(プ
>>286 つうか弥勒=マイトレーヤだけどな。
288 :
奥様は名無しさん :01/11/14 14:25
佛教あげ
じゃ、神道って、ユダヤ教だよね?やっぱし。
>>289 宗教っていうのは人間の心を扱っているわけだが、
人間の心、というか脳みその構造は全人類共通のものなので、
どの宗教にもある程度の類似性はある。だから比較宗教学という方法も成り立つ。
それぞれの宗教の差異はそれぞれの生活条件などによって生まれてくるし、
地理的な要因によって、発展系統もある程度は追っていくことができる。
だが、日本とパレスチナのような地理的に離れているところで別々に発達した
神道とユダヤ教の共通点だけを見比べて、それが同祖だというならば、
それは君、人類すべてが同祖なのだよ。
じゃヤパーリ神道=ユダヤ教、仏教=キリスト教だね! だって人類は同祖だもん! じゃ、イスラム教は何?
>>291 人類は同祖だが、神道=ユダヤ教、仏教=キリスト教というようにイコールでは結べないよ。
そんなことより聞いてくれ
>>291 よ、
ユダヤ教 :旧約聖書を聖典とする。
↓
キリスト教:旧約聖書、新約聖書を聖典とする。
↓
イスラム教:旧約聖書、新約聖書、コーランを聖典とする。
という発展系統のほうが大事だよ。
この三つはあきらかに同祖だっていえる。
文献の面からみても、地理的にも、思想的にも。
キリスト教と仏教の関連性をいうならば、
その中間にあるグノーシスやマニ教について研究しないとだめだね。
イスラム教はそのあたりの環境の中から派生してきたんだ。
いまある神道の直接のルーツは、朝鮮系のシャーマニズムなんだよ。
それが日本列島に渡ってもっと土俗的な縄文的な世界観と結びついてできたんだ。
パレスチナのエジプトにとらえられた人々とは生活環境が違うからね、
ユダヤ教とはだいぶちがうよ。どちらかというと、ギリシャ神話のほうが近い。
でも、人間が、いかに生きて、いかに死ぬか、ということを考えて語っている
という点については同じだよ。おなじ人間が作った宗教だからね。
そこをなんとか一つ! イスラム教=なに?
似てる箇所があっただけで、イコールを付けるとは、単純なお方だな。
言えてるな、単純つーか妄想だな・・・藁
そこをなんとかといわれても…こまるよ。とほほ。 小アジア周辺で生まれた一神教という意味で、 ユダヤ教≒キリスト教≒イスラム教 とはかろうじて言えるけど、 神道≠ユダヤ教 で 仏教≠キリスト教 だ。 イスラム教=イスラム教 だよ。 ゾロアスター教とか、マニ教とかが多少近い要素持ってるよ。 日本には直接関わりのある宗教はないです。(きっぱり)
ちぇっ!
じゃあ、なんで坊さんって頭剃ってるのか教えてクレクレ! 仏像って、毛があるじゃん! アフロとかパンチパーマにすればイイのに。
お、仏教の話になったぞ!(笑) 僧侶が髪の毛を剃ることを剃髪(ていはつ)という。 驕慢や誘惑に陥るのを防止するため、つまりお洒落とかをしないためかな。 仏教のみの習慣であることから、外道と区別するためでもある。 仏像のはね、螺髪(らほつ)っていうんだよ。 仏の八十種好のひとつだ。悟ると、ああいう形相になるのだといいます。
剃髪って、いつから始まったのかな? お釈迦様が弟子に、「頭丸めんかゴルア!!」って言ったわけじゃないでしょ? 誰がどうして決めたんだろ。 悟ると螺髪になるんだったら、天パーの方が悟りやすいね! ってか、黒人トクじゃん!! きっと何代目かの弟子のエライ人が、ずっと直毛だったんじゃないかな? そんで周りの奴に、「あの長老、髪縮れてネーヨ。悟ってネーヨ」 って言われるのを防ぐために、「テメエラ!これから仏弟子はツルピカにケテーイ!」 ちがう?
302 :
考える名無しさん :01/11/14 23:50
お釈迦さんのパーマの中にはたくさんの舎利弗が住んでいるよ。
>>301 >お釈迦様が弟子に、「頭丸めんかゴルア!!」って言った
んだとおもいます。世俗への執着を断ち切りなさいって。
304 :
Iridium :01/11/15 00:05
「寄生虫がたくさんいたので、 清潔さを維持するために剃髪にした」に一票。
>>303 弟子は「オマエモナー」って言わなかったの!?
ここ哲学板だよね? 仏教の思想の話しようよ。
307 :
考える名無しさん :01/11/15 00:19
坊主云々も思想に関わる大きな問題だよ!
操舵よ!
>>307 わかったよ。
剃髪は世俗への執着を断ち切るためです。釈尊も剃髪しました。
よって、「オマエモナー」とは言われませんでした。
でいい?
310 :
考える名無しさん :01/11/15 00:26
なんで髪の毛が世俗への執着なのよ? 服とかはいいの?ラ行外道マンセー
でも、菩薩、とくに密教行者は剃髪しないで、髪を伸ばすんだよ。 世俗にアリながら解脱するのが彼らの目標だからね。 もっとも、小乗の戒律を守りながら密教の修行する人は剃ってる。
312 :
考える名無しさん :01/11/15 00:29
>>311 世俗以外のどこで解脱するの?教えてYO!
313 :
考える名無しさん :01/11/15 00:32
>>311 あと世俗で解脱するというのなら
出家ははみんな最新の流行のおシャレな髪型で解脱すべきだね。
色気がつくからです。密教では、髪の毛にダーキニーが宿るっていいます。 密教マンセーなオレ的には、長髪の行者さん好きです。 服着るのは、素っ裸でちんこ見せてると、一般人が異形だとおもうでしょ? 密教ならそれもまた究極の無所有としてアリなんだけど、 一般人はそういうのもとめてないから、いわば去勢された姿として、 剃髪して、粗末な僧衣をまとっているのです。 裸行外道っていうのはジャイナ教のことですね。 あれも剃髪して、一ヶ所だけ残してるんだと思いました。 あれはあれですごいけどね。仏教とは違います。
315 :
考える名無しさん :01/11/15 00:35
>>314 裸行じゃなくて裸形だよ。
あと常にちんこを見せてるっていうのはすごいね。
ものすごい宗教体験ができそうだね。
お釈迦様も坊主にしたんなら、なんで仏像は髪があるの? キリスト教の修道僧でも頭頂部剃ってるとこあるでしょ? あれもおんなじ理由なのかな?
>>312-313 世俗以外で解脱っていうのは出家して解脱という意味です。
世俗で解脱する在家行者は最新流行の格好していたひともいます。
維摩経とかよんでみると、その辺の雰囲気よく分かるかと。
お、もりあがってきてる。さげとこう。
>>310 服も同じ。本来は戒律で衣服とか持ち物は最小限に決められてる。
釈尊はゴミとして捨てられてたぼろ布をつぎあわせて
着てたそうな。糞掃衣っていうんだっけ。
319 :
考える名無しさん :01/11/15 00:38
>>317 維摩経に維摩居士の髪型とか書いてた?ちゃんと読んでないけど。
>>315 きみがラ行って書いたからつられた。(苦笑)
ちんこが見えることはたいした問題ではない。
服すら所有しないことがすごいんだと思う。
でも、奇を衒っているとしたらダメですね。
>>316 キリスト教の修道僧のことは知らん。
>>319 そういうこと言われると…
中公文庫だったよな何処逝った?長尾ガジン…(ガサゴソ
>>320 なんで仏像は髪があるの? ねえなんで?
なんでったら、なんでよう!
322 :
考える名無しさん :01/11/15 00:47
>>317 在家=俗 出家=聖
みたいな考え方は良くないよ。
323 :
考える名無しさん :01/11/15 00:51
>>320 それ俺も持ってる。安いし、いいよね。チベット語。
324 :
考える名無しさん :01/11/15 00:52
仏像に陰毛が・・・
>>322 良い悪いは別として、小乗仏教ではそういう考え方をしているんだよ。
もちろん、大乗では、特に密教ではそういう二元論を乗り越えようとしてる。
菩薩というのは半僧半俗です。即身成仏というのも同じ考えに立ってます。
>>323 どっかいっちゃったよ、オレの部屋スゲーきたねーんだよ。(w
>>321 いっかい剃ったけど、こんどは渦巻き型に伸びてきたんだよう。
チクショウ!答えてくれないのかょ!! あんた菩薩じゃない!菩薩じゃないよ!
あ、答えた。 あんた菩薩。
329 :
考える名無しさん :01/11/15 01:13
大乗仏教は大体二元論を超えようとしてる 密教だけじゃない
>>329 そうそう。
大乗仏教のなかに顕教と密教がある。
般若思想は二元論を越えることがテーマ。
密教が発達するのもそこを土台としてです。
般若ってなに?アラヤシキと関係ある? 梅屋敷なら知ってるんだけど。っていうか住んでた。
在家が俗で、出家が聖だったら宮沢賢治とか聖徳太子の存在の説明がつかなくなるよね。 いいたくないけど、日本の坊さんっていかなる俗より俗じゃない?単なる葬儀屋だし。
334 :
考える名無しさん :01/11/15 01:31
>>280 般若ってのはね、悟りを得る真実の智慧のことですね。
ものごとを二つにわける考え方をなくしていくと、
自分なんてものに実体がないことに気がついて、
死にたいする畏れとかがなくなっていくんですって。
アーラヤ識は、唯識という考え方をした時に出てきた、
心の一番の土台を表した言葉です。関係あるでしょうね。
般若の智慧はそこから生まれてくるのでしょう。
オレは浅草の花屋敷には逝ったことあるけどね。東京の人だから。
あそこのジェットコースターは時速四十キロしかでないけど
隣の家の軒先とか通っちゃって別の意味でスリル満点。
>>333 おっしゃる通り。
在家が俗で、出家が聖っていう見方は小乗の考え方ですから、
大乗の思想に従っていた宮沢賢治とか聖徳太子のことはうまく説明できないです。
>>333 小乗のことは、独覚ともいうのですが、
結果として自分だけ悟ろうとするんです。
でも、阿羅漢(仏法を守る守護者)にしかなれないんです。
大乗仏教の菩薩は、一切の生き物を救って仏になろうとします。
まだ一切の生き物は救われてないので菩薩のままです。
が、仏と同じくらいの智慧があるのです。
>>335 どうやってものごとを二つにわける考え方をなくしていくのかな?
なんにでも反対のものがあるよ。
対立するものや矛盾するものを、どうやってなくしていけるの?
それから梅屋敷は京急梅屋敷だYO!大田区だYO!
>>338 自分って言う基準があると勘違いしているから、
好き嫌いとか、生きる死ぬとか二つのものに別れるんだよ。
自分なんてものをなくせば、対立や矛盾はなくなるのでは?
梅屋敷って大田区か。知らなかったよ。六郷土手とかの近く?
大阪かと思ったんだけど、それは梅田だね。
>>339 牛肉を食べたいんだけど狂牛病は怖いよう
でもせっかく安売りしてるからお得だよう
やっぱり肉食って良くないのかもしれないからやめようかなあ
でもカルビ美味そうだよう
牛って可哀想かも
といろいろ考えてたらワケがわからなくなってどうでも良くなるのとは別のことかな?
結局かじきまぐろ買ったけど。
六郷は近いよぅ。大森と蒲田の間だよぅ
そうそう、その意気。 だんだん牛がかわいそう、っていうか、自分と牛の境目がなくなってくる。 最終的には、一切の生き物と自分との境目が無くなればいいんだよね。 でもカジキマグロって、みりんと醤油で照焼きにしてどんぶり飯で食べたら旨いよね。 この夏は8月15日の花火大会行ったよ>六郷土手
生き物と自分との境目が無くなるためにはヤッパ食べるべきだったのかな? かじきは大き目のサクを一つ買ったから半分刺身で食べたよう あとは中華ダレに漬けてあるから明日蒸して食べるよう もう引っ越して梅屋敷にはいないんだよう 多摩川の土手はよく自転車で走ったよう六郷から二子玉まで。 彼女がいたから。なつかしいよう もう寝るよう。 菩薩さんありがとよう
食べちゃって一体化するのもまたよしだな。 インドの密教行者にはそんなひともいたよ。>ティローパ 刺し身と蒸しで二度おいしくてよかったな。ごま油の香りがしてきたよう オレの彼女は用賀に住んでるんだよう どっかですれ違ってるかもな。 ありがとう、オレも楽しかったよう きみも菩薩だよう’
344 :
考える名無しさん :01/11/16 01:03
287の思想が、大乗仏教から大いに逸脱していると思っているのは、漏れだけじゃないはずだ
345 :
考える名無しさん :01/11/16 01:28
密教からもね!
仏教哲学って「ウルトラマン研究序説」ですか?
347 :
考える名無しさん :01/11/16 03:37
仏教と関わりが深いのはむしろ ウルトラマン的なヒーローではなくて仮面ライダー的なヒーローだね。
>>346 おしい!
宗派によってはM78星雲辺りから伝えられたという伝説もある、
この大宇宙の真理と摂理そのものである「イム」
(地方によっては「イーム」とも発音する)
の教えを、批判的に哲理として研究する学問。
神学であるイム教学とは一線を画しています。
ちなみに「オーム」を真理と唱える邪教もありますが、
当方ととは何の関係もありません。
類似品にはご注意ください。
>>346 は
学者のオナニーだって逝ってるんじゃない?
350 :
おたく板化してるな :01/11/16 05:10
>>155-156 東京氏ね氏ね団のテーマだったのか!
ところでダイバタッタの魂宿すってすごくない?
あぶなそう。。。
351 :
考える名無しさん :01/11/16 05:18
>>349 哲学はオナニーか否か、みたいな議論は本当にくだらないね。
352 :
考える名無しさん :01/11/16 06:05
同意
僕は不思議に思う。 「一切は空」諸行無常、諸法無我である、全ては因縁。虚無でも運命でも実存でもない。 よく2500年も前にこんなことを考えたものだ思う。あの時代にこんな事を考えるなんて、お釈迦様がほんとに偉大に思える。 科学も哲学も何も発達してない時代にこんなことを言うなんて。人間に何の力もない何も知り得ないあの時代なら普通、霊感やらの神秘的な方向に向かうものだと思うのに。 近代以後の哲学者によってはこういう観念に近い事を言ってる人もいるけど、本来こういった考えは科学がかなり発達した段階で到達するものの筈。 徹底した科学観の追求の先にある虚無がこういった考えをもたらすのならあり得ると思うけど、科学なんてろくにないような時代にこんな事言えたんだもんな。 ただただ、恐れ入る。本当にお釈迦様は偉大に思える。
355 :
考える名無しさん :01/11/16 21:15
>347。 ケンシロウの方が近くない? 最後の方になるとマントラ唱えたりするし。
356 :
仏教について :01/11/16 21:42
仏教ってすべてが因縁によって成り立っていると考えるわけだよね。 とすると、すべての因もその因があるわけで根本となる原因が把握できなくなるん じゃないかなって最近思うんだけどそれについては皆さんどう思いますか? 無限連鎖によって結局は原因が何かということがぼかされている世に思うんです。 縁というのも、因を変化させる触媒にすぎないのでしょうか??縁と因があわさって すべてのことが生じるのはわかるんですけど、因をどのように規定するかによって 結論が変わってきてしまうと思うんですけどどう思いますか?
>>356 それ僕も気になって前に仏法理論に通暁した坊さんにいろいろと聞いたことあるんだけど、結局論理的に解釈できないようなこと言ってたんだよね。
完璧には聞かなかったから細かいとこは分かんないけど因縁を因と因とでさかのぼってくと虚無へ収束するのかって聞いたら無からは何も生まれないってのが仏教の考えだって言ってた。んで因縁は因縁でどうのこうのと・・。
納得いかなかったね。
でも今ある物理学的世界観と比較したって全然違うとこにあるし。僕自身仏法にはあまり詳しくないし、その時も時間なくて細かいことまで聞けなかったんだけど結局ぼかしで終わりみたいだった。僕の質問もぼかされたし(笑)。
まぁキリスト教神学だって滅茶苦茶なんだしいいってことよ。
煩悩を克服し、八正道を実践して、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静を基礎の教えにする。後の細かいとこは目をつぶる(笑)。それしかない!
ただ最近仏典とか教典についての本暇つぶしに読んだりしてるけど難しいねぇ。
そういうぼやけた微妙なところを言いたいんだよ。
>>358 やっぱ無理なんじゃないのかな?
こっちが聞きたい。
誰か知っとる奴おらんかぇ〜
臨済禅に関して言えば、西洋の概念用語を使っても 説明しきれないと老師からきいたよ。
361 :
森の妖精さん :01/11/17 00:21
無明(知識のないこと)を滅すれば、再び生まれかわること はないので輪廻から解脱して涅槃に至るのです。
>>361 般若心経ですね。
その無明とは、我執(自らという確固とした実在があるという幻想)であると説かれています。
自分に固執していなければ、生病老死などの苦しみは実体がなくなり、輪廻からも解脱できると。
だから我執にとらわれないように、諸行無常や、輪廻の苦しみ、因果の法、などについて瞑想するんですね。
全ての仏教徒はチンコを見せて生きてゆくべきだね。
364 :
考える名無しさん :01/11/19 00:14
むしろ無明によってチンコあり、チンコによって種々の苦が存在するね。
>>364 チンコによって得られる快楽もある。それは否定しなくてもよい。
366 :
考える名無しさん :01/11/19 01:02
肛門で得る快感も否定しなくていいですよね。 日本の仏教界では伝統のようだし。
367 :
考える名無しさん :01/11/19 01:12
チンコで法悦
368 :
考える名無しさん :01/11/19 01:15
ケツメドで法楽
369 :
考える名無しさん :01/11/19 01:42
浄楽我常でちんこの四徳
370 :
考える名無しさん :01/11/19 01:52
南無阿ナールで法楽浄福
371 :
森の妖精さん :01/11/19 02:15
いつからこのスレ真言立川流になったの? それともカーマストラ?
372 :
考える名無しさん :01/11/19 02:27
なにせ末世だから。
373 :
考える名無しさん :01/11/19 02:30
発端は
>>365 だよ。チンコによる快楽を肯定したからね。罪は重い。
374 :
考える名無しさん :01/11/19 02:35
正法誹謗だ
375 :
考える名無しさん :01/11/19 06:47
篤くちん宝を敬え
378 :
考える名無しさん :01/11/19 23:43
>>377 チンポ即菩提?ふざけんなっつーの(煽り)。
ぜんっぜん煽りになってないよ
>>378 理趣経読んでみれ。
380 :
考える名無しさん :01/11/21 03:51
378が理趣経読んだら、もっと「ふざけんな」っていいそうな気が…
381 :
考える名無しさん :01/11/21 06:11
チンポの快楽はあるぜ。
ルサンチマンでセクス汚らしいとか思っている奴。糞だね。
宗教なめんな、理趣経なめんな。糞野郎
>>378 お前は、このスレット来る前に、お外に遊びに行ってきなさい。
382 :
考える名無しさん :01/11/21 06:50
スレットって仏教用語ですかあ?
383 :
考える名無しさん :01/11/21 22:17
>>353 そうかなあ?本当にそう思ってるの?通行者さんよー 。
久しぶりに来たけど、荒れてるな。 俺なんか今、右手にビール左手に煙草、テレビはトゥナイト2で秘密集会タントラ読んでたぜ。
>>384 あら?!レスが(笑)。
はい、思ってます。
387 :
考える名無しさん :01/11/23 02:47
>>382 理趣経には「スレット」の他に
「ガイシュツ」「ドキュン」「漏れ」とかも出てます
さすが最澄が空海から借りたがっただけある
それだけじゃない「逝って良し」ってのも。最澄が言ったから 弟子が空海のもとへ走ったのよん、知ってるでしょー。
390 :
考える名無しさん :01/11/23 06:03
しかし、あの出版されるかもしれなかった『石器時代の仏教』 (だったかな?)読みたかったな。 六万年ほどまえからブッダの境地に達していた方々はいたという本。
『縄文時代の仏教』じゃなかった?って、中沢さんの話? 今ごろ書いてるんじゃないかな?
392 :
考える名無しさん :01/12/01 00:34
しばらくきてなかったらマターリしてきたね
393 :
考える名無しさん :01/12/08 01:54
マターリしすぎだYO!
394 :
考える名無しさん :01/12/12 01:19
>>387 最澄が借りたがったのは理趣経の注釈の方じゃなかったか?
マジレスでスマソ
395 :
考える名無しさん :01/12/12 01:50
仏教って哲学なのか
>>395 Phillosophyではないと思うけど。
仏教哲学といういいかたは可能でしょう。
というか、 そういうことに対して「哲学」と言う語しかないから他に言いようがない。 内容が違うということを理解していても、日本語では違うと言う事を表現しにくい。
398 :
考える名無しさん :01/12/13 00:06
中観学派のいう「空」についてはよく解らないのですが 唯識学派の「無我」であれば何となくだけど解るような気がします。 彼らは阿頼耶識とう一種の「自我主体」を実在として認めているんですよね? もちろん反アートマン的、実体無き自我であるのは解りますけど それでもやっぱり、自我主体は「有る」=「無我」ということなのか・・・
399 :
考える名無しさん :01/12/13 01:18
>>356 ,357
仏教は、@根本動因(最初の原因)A宿作外道(宿命論)B無因論(因果関係の無視)を認めません。
何れも形而上学になるからです。@は他に依存しない絶対者に他なりません。
ブラフマン=アートマン説の否定に抵触します。Aは精進の意味を失わせます。Bは縁起説と反対です。
何れの考えも、現実を逸脱していて、「無記」の考え方に抵触し、形而上学的な議論だからです。
まず、@など現実の人間には知りえません。経験から推理しているだけです。
Aは全ては決まっているとして、何故か当の宿命論者だけにその決定内容が
知りうることになってしまい論理的に破綻しています。
Bはそれを発想するにも因果関係を暗黙裡に認めなければなりません。
仏教が現実主義・形而上学批判の思想であることからこれらは排除されます。
仏教は一対一対応的な因果論を認めないので、複数の様々な原因から結果が生ずるという考え方ですが、
それは一対一対応的な因果論が、要素還元論に基くからです。仏教は勿論要素還元論を認めません。
対象を要素に還元する際に、現時点までの知に基き、何がその要素に相応しく、相応しくないのか
価値判断しているので、相対的でしかないのです。
原因は相対的にしか規定のしようがない、また、その時点までの知によって要素に規定する
ということ、恣意的な問題や実験でない限り、様々な縁に依って起こるとしか言い様がない。
※後述の方はは多少問題があると思います。
>>399 あなた詳しそうだから、十四無記について説明してちょ。
「十四難無記」 A(1)世界は、常住(世界は時間的に無限) (2)世界は、無常(世界は時間的に有限) (3)世界は、常住また無常 (4)世界は、常住でもなく無常でもない B(5)世界は、有辺(世界は空間的に有限) (6)世界は、無辺(世界は空間的に無限) (7)世界は、有辺また無辺 (8)世界は、有辺でもなく無辺でもない C(9)身体と霊魂とは、同一 (10)身体と霊魂とは、別異 D 真理達成者は(如来)は、死後に (11)生存する (12)生存しない (13)生存し、また生存しない (14)生存するのでもなく、また生存しないのでもない
ゴータマはこれらの難問に対して常に無記を通した。 何故一切答えないのか? それはこれらの難問が全て 形而上学に関わり形而上学への動機をもった問題設定に他ならない ことを徹視していたからである。 十四難無記のどの一つに答えようと、その内容の如何に関わらず、 解答するという、そのことが既に形而上学に踏み込んでおり、 現実から遊離した議論に陥って現実中心に背いてしまう。
修正
>>401 、2
「十四難無記」ではなく十四難(14の難問)
それに対しゴータマが通した姿勢が「無記」
「十四難」は頻繁に行なわれたらしく、 六師外道のサンジャヤは「鯉のようにぬらりくらりして捕えがたい詭弁」 として、「そうだとは考えない、そうらしいとも考えない、 それとは異なるとも考えない、そうではないとも考えない、 そうではないのではないとも考えない」 と答えて一種の不可知論に終始し判断中止を宣言した。 ジャイナ教のマハーヴィーラは確定的な答えを避け、 未定のままに置いて、全て「ある点からすれば、あり得る」 という限定を付し、一種の相対主義・不定主義に依拠した。
形而上學的問いに答えないっていうのはカントと 共通しているといっていいのでしょうか? 実践への指針を与える道徳に至ることこそが宗教の あるべき姿であるという見方。 例えば、「これら3個の主要命題(意志の自由、 霊魂の不死、神の存在)は、我々の知識にとっては まったく不必要であるにも拘らず、我々の理性が しきりにこれを推奨するとすれば、かかる命題の 重要さは本来「実践的なもの」にのみ関係するので なければならないだろう。」 『純粋理性批判(下)』岩波文庫、93頁。
ゴータマは402の通りだが、それでも執拗に追求があり、 稀に適切な比喩を相手や弟子に示した。その一つが「毒矢の比喩」として知られる。 「毒矢に射られた人が、それを射た人のカースト、姓名、身長、皮膚の色、 住居、その弓の強弱、弦や矢の形、矢の羽の材料が知りたいとして、 友人や親族が矢を抜き医師を迎えようとするのを抑えるならば、 その人は死んでしまう。同じように、世界の常・無常などをいつまでも 求める人は、解答の得られないあいだに死ぬ。世界の常・無常などに 関わりなく、生・老・死は苦であり、わたくしはその制圧を説く。 それに対して、現実の実践・さとり・ニルヴァーナ(涅槃)に 役に立たないから、世界の常・無常などを、わたくしは説かない。 わたくしの説かなかったこと、説いたことを、そのとおりに受持せよ」 洋の東西を問わず・哲学思想史に常にみられる通り、論のための論、 しかも何らかの原理を探究して究極に到達しようとし、いちおうそれを 立てたうえに論の体系を築こうと目指す形而上学的議論は、 それに耽る人にとっては、確かに興味が尽きないであろう。 しかしそれは、他の原理による別の形而上学と殆どの場合に 不毛な論争に終始し、知の饗宴と化す。 それは現実そのものに何らもプラスにならず、実践から遥に隔たる。 以上「十四難無記」関連、『仏教入門』三枝充悳 岩波新書 参照
なるほど、勉強になる。ありがとです。 『仏教入門』とか読んでみようかな。 >不毛な論争に終始し、知の饗宴と化す。 なるほどね。2chで遊ぶのも程々にしないとね。 ヴァーチャルコミュニティーに浸り過ぎるのはよくないか。
>>398 唯識派も最終的なものは中観派と同じくしていると思います。
ただ、中観派は悟りそのもののを主に探究した。
しかし唯識派は、ただ単に「悟り」とはこうこうこういうもので後はそれを直観で…
というような、悪く言えば安易な「悟り」を許さず、
そこに至る道を徹底的に一切の妥協を許さず精緻に研究したのだと思います。
だからこそ、今日フッサール現象学等との共通性も言われるわけだし。
>>405 カントを良く知りませんが、近い部分もあるのかもしれませんね。
>>407 仏教を勉強するなら、中村元選集・春秋社が良いと思います。
399さん、ありがとう。 ちょっとづつわかってきました。 つづけてしつもんいいですか? A,B,Dは四句分別の形をとっているのに、 なんで、Cだけは2パターンなんですか? (瑣末な質問かな?)
何故でしょう…わかりません。 A,B,Dは世界や如来といった1つの事柄についてですが Cは2つの事柄の関係についてというぐらいしか……
412 :
考える名無しさん :01/12/14 04:50
age
413 :
考える名無しさん :01/12/15 10:03
維摩経のサンスクリット本が発見されたね。 という話はどの板どのスレで振ればいいのか悩んだ。
>>413 ここもありでしょう。
ソースはありますか?
いつ、どこ、とか。
つくれば?
ココの人達は津田真一をどう思う?
↑言い過ぎか。
あ,挟まった。ごめん。
いや。
420 :
考える名無しさん :01/12/16 12:31
>>247 「仏教の開祖である釈尊は「縁起」を
説いた、つまり、“仏教”とは縁起説である、というのが筆者の理解で
あるが、この縁起説とは、ヒンドゥー教の「アートマン」(atman 我)
〔霊魂〕の思想を根底から否定したものなのである。従って、
“仏教”としての縁起説からは、「無我・無常」の説が導出され、
これが仏教の旗印ともなる。しかるに、これに対して、「我・常」
ということを積極的に主張するのが、如来蔵思想であり、『涅槃経』に
は「仏陀とは、我(アートマン)を意味する。しかるに、その我は永遠
不変の実在である」と明記されているのである。従って、如来蔵思想の
「我の思想」、「有の思想」が仏教の縁起説・無我説と全く逆の立場で
あることは明らかであり、この意味で筆者は、“如来蔵思想は仏教
(縁起説)ではない”と論じるのである。
(『チベット仏教哲学』 松本史朗 大蔵出版 )」
死ねば霊魂が抜けて体重が減る実験結果もあるし、
臨死体験による霊界体験、過去生の記憶を持つ人々、
ビデオ機器に記録された心霊現象の数々。他宗教における霊魂、霊界の教義。
これらのことから、現実問題として、霊魂、輪廻転生、あの世は実在する可能性は高いです。
輪廻転生する霊は実存する。ただし、その主体として振舞う個々の霊は、
もともと巨大な霊の大海から発生した水泡のような実態のあやふやな無常な存在で
であり、いずれ大海に戻る。大海より出でてまたそこ戻る間においても、その時々の縁で
個々の霊間で分裂,融合をくり返すこともある。
というシンプルな解釈で良いんじゃないですか?難しく考えることは何もないと
思います。
421 :
考える名無しさん :01/12/20 02:34
>>413 これで維摩経関連の研究は進展するのかな?
大日経とかもでてほしい
維摩経はどこで成立したんだろうとずっと疑問に思っています。 梵、漢、蔵の三バージョンがそろったわけですから、 どのような流れをとったかを推測することが可能になってくわけですね。 維摩経のチベット語訳は、漢訳からの重訳と言われていたのでしょうか? サンスクリット語からの訳だといわれていたのでしょうか? そもそも最初にサンスクリットで書かれたかどうかは確かなのでしょうか? 今後の研究が楽しみですね。ジョナサン・シルクあたりが論文出すかな?
423 :
考える名無しさん :01/12/22 03:09
age
424 :
考える名無しさん :01/12/22 18:10
>422 チベット語訳は逐語訳なんだから漢訳からもってきたとは思えない。 それとも維摩経だけ漢訳からと推測できるようなソースがあったんでしょうか。
425 :
考える名無しさん :01/12/24 02:43
誰にでも分かりやすい説教を どなたか、早く教えて下さい。
「空」の意識とは 「無意識の意識」 「無感覚の感覚」のなかに有りき。 乱れては静まりまた、乱れては静まり・・・この繰り返しによって 「空」で「空」を認識する
427 :
考える名無しさん :01/12/24 02:50
>>426 思考と思考の狭間の思考が止まった期間で
空を認識するって意味ですか?
「空」は思考を思考する 「空」は意識の自覚する 「空」は意思の全容 空にも意識があるという 1+1はいくらにでもなる
429 :
考える名無しさん :01/12/24 02:58
色と空は、本質的に同じなのでしょうか?
430 :
考える名無しさん :01/12/24 03:00
名スレの予感
431 :
考える名無しさん :01/12/24 03:01
空=宇宙心霊?
「空」は 自我を自覚した己とと己自身のなかにある己の中で認識できる。 言葉で表すのは非常に困難であるが、一番近い言葉を書いていく。
色即是空 空即是色 色即ち是空なり 空即ち是色なり なるほど 今、魂の存在が証明できそうだ、空と色と魂は何か繋がっている。
空は万人のいや、万物に対する万物のあり方 万物の中に潜む無意識の意識の自覚 覚醒の引き金は哲学にあるとみた
435 :
考える名無しさん :01/12/24 03:38
666?
436 :
666 ◆xenNZQbg :01/12/24 03:40
そうだよ
禅定である境地に達したときに悟る 無意識の領域でしょうか?
おまえ今日新聞配達は?
439 :
666 ◆xenNZQbg :01/12/24 03:42
無意識の範囲ではあるなだが、意識が漂ってる感じだ
440 :
666 ◆xenNZQbg :01/12/24 03:42
今日は休みだよ 明日旅行だからね
441 :
考える名無しさん :01/12/24 03:45
旅行 どこいくの? 外国?
>>439 感情はどうなのでしょうか?
歓喜の世界?
それとも絶対の静寂?
443 :
666 ◆xenNZQbg :01/12/24 03:53
感情の本質かい? 感情とはよく言ったもので「情けを感じる」と書く 対象がいなくては感じる事が出来ない。 感情は空には無い。
444 :
666 ◆xenNZQbg :01/12/24 03:54
昇仙峡だよ 影絵を見にちょっとな
445 :
考える名無しさん :01/12/24 03:59
お釈迦様は悟った時に、 その無常の喜びをずっと味わっていたと聞きますが。
それは 「空」を自覚してたから 天根と地根というものがあって 地根は我々の社会の世界 天根はその世界より別の認識空間 天根こそ空である であるからして、地根にいながら天根を見る これこそ「悟り」 俺も味わってるが 「絶対に溺れてはいけない」
>>424 >チベット語訳は逐語訳なんだから漢訳からもってきたとは思えない。
>それとも維摩経だけ漢訳からと推測できるようなソースがあったんでしょうか。
西蔵大蔵経の中には、漢訳からの重訳は多数存在しますが?
サンスクリット語版の維摩経は去年見つかったばかりなのに、
サンスクリット語からの逐語訳とどうしてわかったんですか?
448 :
考える名無しさん :01/12/27 02:52
>>447 ??維摩経のサンスクリット本は、今月はじめて発見が確認されたんじゃないの?
449 :
考える名無しさん :01/12/27 03:05
>446 アホか、正体バレ。「絶対に溺れてはいけない」? その一言で全てがわかっちまう。ヴォケィ! 騙りやるのは百年はやいわ、うす汚れたツラァ洗って出直せ! マジだぞ>「666」
??
>>449 何をほざいてるか知らんが溺れると自我が見えなくなって、又振り出しに戻るんだよ
知ってるからこそ教えてあげたんだから感謝ぐらいはしてくれよBABY(w
あおりとか、んなもんやってる暇ねえよ阿呆。
薄汚れてなきゃ哲学はできねえよ むしろ泥まみれだ俺は・・・
>>448 大正大学の調査隊によってポタラ宮で去年見つかったということが、ついこの間発表されたんだよ。たしか。
但し、このキャプションも、基本的に公共図書館を使用しているので 調べられる可能性がある。 >今後の研究が楽しみですね。ジョナサン・シルクあたりが論文出すかな? もう一度言う、自分は真面目に千乃正法と佛所護念会との融合を 真剣に考えて、掛け合っているだけの話です。これは千乃裕子先生の 許可で動いている。これは間違いない。 逆でしょう。真面目に研究発表している人に間違っている個所を批判する のは正しいが、極論は可笑しいでしょう。今千乃正法は其れを行っている。 そして本部の教えは基本的に法華経を導く事でしょう。これも魂の修業の 一つだと言っている。千乃正法会の会長である千乃裕子先生は、紫紺の 「南無東方善徳佛」に当たる事は何回も言っている。但し神の歴史を変えて はいけない。其れに対しては、真面目に研究する必要がある。其れは天帝一 族の歴史である。 又、「南無東方善徳佛」は、「南無龍王佛」であり、其れは今は、エル・アール 出版社のミカエル大王様に当たる。今度の消滅宣告は、ミカエル大王様からは、 未だ出してはいない事を忘れてはならない。本当の偽物である大川の「幸福の科学」 では、ミカエル大王様自ら批判している事を忘れてはならない。しかし、このHPの 内容は、天界の話では確証はないので、ミカエル大王様の名で動かしてはならない との話です。一応カトリックの善霊が良心的に調べているのは、雑誌『JI』の 千乃裕子先生の言葉から理解できると思います。飽く迄も、正しいものと悪のもの を区別すれば良いのです。今度の神の話は、基本的に神の側に堕天使ダビデの戦略 があった事を言っているだけの話です。其れは、全ての宗教に堕天使ダビデの関与が あっただけの話で、全てを否定せよとは言っていないのです。 天界の話では、確証は 大王様
サルベージ
,,,_ _ , " r- / ヽ、 _ノ , , 丶 ノ / / l l l ヽ ," / ノ,,ト-ノ‐/ / /、 i / / 〆,,z+。-ツ,i/ //_+tゞ i ,' , ヘj /  ̄^" ノ "ノ、'ai'>/ / +, , y rj, i ' 、 >“ iハW;;i" i ハ \゛i ..,,,_ __ " i " ` ノハト ハゝ7、  ̄ ,.' " r i `' 、 ,イi ノiハ i` ` 、 /ii ' i リト i `' -"iiハi" i"ル ;; 'iハハi ノ .;, i" , /' ;;, i、 _; + '" " ii, どうでもいいからはよ寝ろや、。 仏教なんて宗教ちゃうんか?だいたい釈尊の前提なき ドクサやろうが仏教なんて。
457 :
考える名無しさん :02/01/09 04:30
はと麦様のご降臨だ! ありがたや、ありがたや、 どうか私とお話しませんか?
>>456 そうやって宗教を無条件に除外することで、
哲学なんて語れるんだろうか?はなはだ疑問だ。
レスがない・・・。
460 :
考える名無しさん :02/01/10 21:21
ここ来たのひさしぶり。でもとうりがかり。勉強もいいけど、失恋板逝ってきましゅ・・・(涙)
462 :
考える名無しさん :02/01/13 00:57
維摩経梵本、字体が妙に新しめだという噂があるがどうなんだ?
長尾雅人氏の研究がどれだけ覆されるかがみものですな。
>>462 チベット語から訳した可能性もあるからな。
465 :
考える名無しさん :02/01/13 05:45
で、主客未分って何ですか?
梵本が発見されてもそんなに影響ないらしいよ。 チベット訳が前からだって。それより、漢訳にしか 無い仏典の梵本や蔵本が見つかればすごいって。
>>466 いや、でも、仏教文献学者達は、チベット語本を見ながら
サンスクリット語本を「推測して」翻訳していってるから、
サンスクリット語本が出てきたことはいわば答え合わせみたいなもんなんだよ。
>>464 漢文→チベット語→サンスクリット語という順序をとっているテキストはいくつもあるから、
今回もそういうことを言い出すひとは出てくると思う。中央アジア色濃い経典だしね。
>>465 西田幾多郎をよく読むこと。
468 :
森の妖精さん :02/01/13 17:49
維摩経の独覚の思想はすばらしいね。 集団に属さなくても悟りに至ることができる。
維摩経は素晴らしいですよね。 あれはある種のアカデミズム批判です。 学問で頭が凝り固まった文殊菩薩がこてんぱんにやられる。 でも、「独覚」っていうのは、小乗の一部門のことですよ。 僧侶集団に属していて、戒律を守って修行します。 一切衆生を救うということを重視しないので、 大乗の側から「独覚」と言われたんです。 維摩経は菩薩道ですよ。般若思想ですよ。
470 :
森の妖精さん :02/01/13 19:38
>>469 独覚が上座部の一部分とは知りませんでした。
私の維摩経の知識は文庫本一冊ですので、失礼致しました。
法華経の竜女の成仏、被差別階級の開放思想とともに
維摩経は大好きな仏典のひとつです。
「独覚」という語の独特の定義、使いまわしから察するに、 468=469=470かな、と思ったりしたんだけれど、 468=470のネタに引っかかった469という図式も否めない。 468=469=470だったとして、何のための自演なのかも判断しかねる。 維摩経より気になるなあ。真相はどうなんでしょう。 あと細かいことなんだけど「独覚」って玄奘訳の語法ですよね。 什訳には出てこない(什訳だと「辟支仏」)。 ということは469が主に用いているテキストは玄奘訳と考えられ、 だとしたら何であんまり流行らない玄奘訳を用いるのだろう。 文庫本って言ってるからテキストは長尾先生のなのか、 あるいは鎌田先生も何か出してるよね。どれなんだろう。 あと「独覚」別に蔑称でもないでしょう。 それから維摩経は単なるアカデミズム批判なのでしょうか。 もっと大きな意味があると思うんだけどなあ。 それから独覚って僧侶集団に属するの? 仏法に会わずに自然に悟るから独覚なんですよね。 煽りとかじゃなくて純粋に哲学的に、僕が疑問に思ったことなので 違ったら違うって言ってください。すみません。
472 :
考える名無しさん :02/01/15 17:03
�
>>467 漢文→チベット語→サンスクリット語という順序をとっている
テキストはいくつもあるから、今回もそういうことを言い出すひとは出てく
ると思う。
そんなものがいくつもあるなら、ひとつでいいからテキスト名を
具体的に教えてちょうだい。ぼくはそんな例聞いたことがない。
あんたど素人?
473 :
考える名無しさん :02/01/15 19:34
あの、いはゆる「六道」ってのはタトエ話なの 単なる…?
六道って、バラモン教のカースト理論から来てるんだよね。それの仏教化。 たとえ話っていうか、いろんな次元の話を同時に指し示そうとした象徴表現。 死後の体験のこともいってるし、 身体イメージのこともいってるし、 人間社会の身分のこともいっている。
475 :
考える名無しさん :02/01/16 07:25
釈迦は人間の内的な本質、所謂人間一人の心の葛藤と其の結果に訪れる心と そこからどうしたら良いかと言う事を説いている。 同じヒトながら天上天下唯我独尊を感じる。
阿頼耶識とかってフロイトをより深く先取りしていたと考えても 良いのでしょうか?
>>476 いいんじゃないでしょうか。そういう研究もあるよね。
河合隼男さんなんかは『仏教とユング心理学』みたいな本だしてるよね。
478 :
考える名無しさん :02/01/17 02:39
詳しい人誰か教えてください 「公案」ってなに? 意味あるか無意味って言われたら・・・・
479 :
考える名無しさん :02/01/17 09:16
ド素人で申し訳ないんですが、一応仏教の基本テーマって「輪廻からの解脱」だと 思っていたら、他スレで輪廻はインドの伝統思想で仏教じゃないと言われました。 でも、輪廻が仏教と関係無いとすると自分的には仏教がまるで分らなくなってしまう のですが、そこら辺は実際どうなんでしょうか?
>>479 >仏教の基本テーマって「輪廻からの解脱」だ
そのとおりです。
>輪廻はインドの伝統思想で仏教じゃない
ナンセンスな言い方ですね。
たしかに、輪廻思想はインドの古代思想に由来します。
バラモン教や仏教、その他のインドの宗教にとって共通の死生観だったようです。
輪廻転生を苦しみの連続であるととらえ、輪廻から解脱することをめざそうと説いたのが仏教です。
すっきりしましたか?
481 :
考える名無しさん :02/01/17 10:08
482 :
考える名無しさん :02/01/24 01:44
遠藤誠弁護士が涅槃にいかれました。合掌 ご冥福をお祈りいたします。
本当ですか?
ほんとだったね、ショックだよ。
485 :
考える名無しさん :02/01/24 08:39
タリバンがバーミアンの大仏爆破した時、すごく叩かれたけどアレって どうなの? 日本でも古い寺や仏像やらを有難がる傾向があるけど、本来 仏教って そういう風に「物」に執着するのは無意味と考えているんじゃないの?
486 :
ハチャメチャな面もあったが :02/01/24 11:41
>>485さん ちょうにゃんでちゅけど、人間ヨワーイもんで・・・ 遠藤弁護士さん、変なオッチャンだと思ってまったけど“ソーシキ仏教批判”されてたのを見聞きして もっと言ってほしい と思ってましたが、寿命が来てちまいまったか。 さようなら、遠藤弁護士。合掌
467(463)番へ告ぐ 472番氏への返答はどうした。答えられないところを みると、あんたはやはり無知のど素人だな。しったかぶりするな!
>>485 あんた、なぜタリバン政権が崩壊し多くのタリバンが死んだのかわからないの?
バーミヤンの仏像を破壊したバチが当たったんだよ。2000年近く守られてきた
昔のイスラム教徒でさえ破壊しなかった仏像を破壊するなんて馬鹿げてるよ。
自分が大切だと思わない事柄でも、その事柄を大切に思う誰かがいて、その事柄が自分に
迷惑がかからないなら干渉すべきじゃないと思うよ。
489 :
考える名無しさん :02/01/24 16:11
>>488 質問に答えてねーじゃん…
だいたい、「バチ」って誰が当てんの?
ではキチンと答えましょう。 >タリバンがバーミアンの大仏爆破した時、すごく叩かれたけどアレって >どうなの? 「アレって」という概念がイマイチ不正確だけど、2000年近く大切に 守られてきた文化遺産をダイナマイトで爆破するというのは「すごく叩かれ」 ても致し方ないでしょう。バーミヤンには仏教に親しみを持つ人々もいるかも しれない。それをイスラム原理主義の考え方だけで爆破という行為に及ぶのは 行き過ぎであろう。 >日本でも古い寺や仏像やらを有難がる傾向があるけど、本来 仏教って >そういう風に「物」に執着するのは無意味と考えているんじゃないの? 本来仏教は物に執着するのを無意味と考えるというより、「わがもの」と 言うものはないと主張しています。物だけでなく「自分」に執着するという 事が「苦悩」の原因であるという考えです。また古寺や仏像を大切にするのは その事によって現在まで仏教が伝えられて来たという重い事実があります。 もし仏像にも寺にも執着する事はブッダの教えでないとして、破棄してしまって いたら遠の昔に仏教は滅び、僕達が仏教に出遭う事はなかったでしょう。実際 インドでは仏教自体のヒンドゥー化があるにせよ、1203年にイスラム教徒に よってヴィクラマシラー寺院が破壊された事によって完全に歴史からは消滅しました。 寺院は存在そのものが大切なのではなく、寺院が存在することによって仏教が伝えられる 事が大事なんです。だから仏教を伝えていない寺院は無くなってもかまいません。 >だいたい、「バチ」って誰が当てんの? 仏教含めインド思想では自分の行為は必ず何らかの影響力を持つと考えられます。 だから自分の行為は自分に還って来るという「自業自得」という事が「バチ」が 当たると言う事です。誰かに当てられるのではなく自分が蒔いた種は自分が刈り取る という倫理規範なのです。その事によって他者を思いやる心遣いが生まれる。 人にされるとイヤな事は自分もするな、自分がしてほしい事を他人にも施せという教えです。
>>9 さん、実に同感だよ! 彼らはルサンチマンの塊にしか思えないっす。
読んでてすごーい、きもいー。山口さんは福田さんによってどれほどいい加減な
ものかが明かされているので、おらは松本さんのタネあかしね。どうよ?
知的で、禁欲的なことが好きな松本さんは、道元さんが好きになった。
そこで道元の法華経信仰と時間論を自分の根っ子(アーラヤ)にした。
頭の良かった彼は、チベット語やサンスクリットが結構できた。
ので根っ子を隠し文献学的に、権威文献である律『大品』『中論』ツォンカパなどを
ダシに時間論の知的解釈提示し、自らの根っ子、つまりエゴどおり仏教は知的で
リゴリスティックなゴリゴリだと思いこんだ。
また、道元さんが本覚思想を否定したと考え、本覚思想を誤読して有我論と捉え
「如来蔵思想は仏教にあらず」と吼えた。
「田中麗奈!」ちゅうオラのエロ・オヤヂな雄叫びとそんなに変わんないぞ。
根拠は『縁起と空』のこんな言葉たちが無根拠にのべられることや、
「順逆の縁起説を宗教的時間論だと思っている。縁起を、論理的でも空間的でも相
依相関でもなく、全く時間的に解する。しかもその場合の時間とは、日常的現実
の時間でも純粋持続の時間でもなく、危機に瀕している人間の宗教的時間なのだ」
<「法華経」以上の経典はなく、「法華経」以外に佛教はない。
従って「法華経」を信ぜずして佛教徒たる事は到底不可能である>
ようするに謎の宗教的時間論と法華信仰の根は道元さんの「時節」や法華信仰なの。
関係ないが人間城の主、ファンだぞ! オトモダチになりたいぞ。
ただジョイデビより、ピル。ディスヒートよりマサカが好きです。
あ、これ、ファンレターね。
「人間城」見てます。 ところで人間城の人って。 三十代 東大印哲出身 本年度印仏発表 私立大講師(常勤) 中村門下 もうすぐ博論提出 ってとこまで公表してますよね。 ちょっと仏教学かじってる人なら。 容易にわかると思うんですが。 嘘情報なんかなあ。ワザと?
493 :
考える名無しさん :02/02/01 06:22
フォントだよ。といっていいのか? いっちゃったよ。
494 :
考える名無しさん :02/02/01 06:48
495 :
考える名無しさん :02/02/01 09:05
そりゃ、マンダナミシュラでしょ. やってるしと少ない門.
やっぱりそうですよね。 いやいや、別にいいんですけど。
497 :
考える名無しさん :02/02/02 13:01
マンダナミシュラはシャンカラに負けたってのは、 文献的に検証可能なんすか? 教えてくろ!
シャンカラは仮面の仏教徒と言われています。 ヒンドゥー教の仮面をかぶった仏教徒。
499 :
考える名無しさん :02/02/02 23:31
プラッチャンナ・バウッダね。 シャンカラ・ディグ・ヴィジャヤとか。
501 :
考える名無しさん :02/02/12 10:20
あげ
なぜ、
>>491 がいまさら
>>9 の話題を取り上げたのかは知らんが、
少なくとも、チベット仏教において山口瑞鳳に面と向かって反論
できる奴はいない。というか、した奴はいない。
なにせ、ダライラマの直弟子と論争して、論破したことがあるほど
の人物だからだ(実話)
国内でも論文や雑誌等でそんな批評や反論をした輩はいるが、
本人と会って自説を押しとおせた奴はいない。というか、押しとお
したい奴は極力会うことを避けているらしい。
それほどに山口瑞鳳とは恐ろしい存在なんだよ(笑
503 :
考える名無しさん :02/03/02 13:34
松山俊太郎はアカデミズムの世界で何をしているか御存知のかたいます?
504 :
考える名無しさん :02/03/09 14:03
帰謬論証派、自立論証派、無相唯識派、有相唯識派、 それぞれどう同じで違うのでしょうか?
505 :
考える名無しさん :02/03/09 14:07
もう一つ質問です。 諸行無常・諸法無我≒色即是空 諸法実相≒空即是色 で正しい?
506 :
名無しさん :02/03/09 20:10
>>502 >>9 さんに共感シタカラデース。ちなみに山口さん批判じゃなくて、
松本さんの不明な点を明かしただけですけど。
>>506 スレ読んだけど。輪廻がカルマ以外に依るものなんて書いてました。
また、仏教以外の体系で輪廻がカルマ以外に依るって言っているなら、
ああ、そうですかとしか言えません。
だって検証不可能でしょー。
万能のカルマ、電波の絶対性 なんちって。
508 :
考える名無しさん :02/03/10 09:45
>>502 >なにせ、ダライラマの直弟子と論争して、論破したことがあるほど
>の人物だからだ(実話)
それって誰のこと?山口瑞鳳はチベット語しゃべれないけど、
どうやって論争したの?
日本語で?
でも日本語ができるダライラマの直弟子って、それ誰?
まさかアサハラじゃないだろうね。
509 :
考える名無しさん :02/03/10 10:05
ダライ駄馬、あほ。 (発言「成熟した戦争」 概念、戦争容認直結)
510 :
考える名無しさん :02/03/10 10:10
>>491 松本史朗は最近は袴谷憲昭とも決別したそうだけれど、結局かれらの
批判主義というのは、そういう内輪もめで細分化していく運命に
あるのでしょう。
かれらの言う批判主義は、自分を絶対に正しい批判されない立場に
置いた上で、それ以外のものを否定するためのもので、結局、
その人の立場に同化するか、そうでなければ抹殺されるかの
いずれかしか選択肢が残らないという言論の全体主義に
他ならないのです。
だから、かれらの周りにはリーダーのコピーのような弟子が集い、
コピーのような文章を書くようになるのです。
時には、過去の自分を「間違っていた」と称して自己批判をしている
ような振りをしますが、それとて、現在の自分はその過ちを修正して
再び絶対的に正しい立場にいることを前提としているわけです。
だから、ちょっとでも同化できなければ、抹殺される側にまわってしまう
わけで、松本にとって袴谷にその対象となったわけです。
511 :
考える名無しさん :02/03/10 11:38
>>504 >帰謬論証派、自立論証派、無相唯識派、有相唯識派、
>それぞれどう同じで違うのでしょうか?
これらはぞれぞれレッテルなのだから、そういうレッテル付けをした人たちが
それぞれどう考えていたかによって、みんな意味は違うし、さらに複雑なことには、
そういうレッテル貼りをした人の考えをぼくらがどう解釈するかによっても、
それぞれの意味のとらえ方が変わってきてしまう。
だから、それを聞いて早わかりできるような固定的な意味など、存在しない。
>>505 >諸行無常・諸法無我≒色即是空
>諸法実相≒空即是色
も同じことで、それぞれの言葉の意味をどう捉えるかによって正しくもあり、
間違ってもいるということになる。
もちろん、だからといって、不可知論になるということじゃなくて、
誰の考えなのかを明確にし、そしてその人の言うことに問題がないかを検討することが
必要なのではないか。
512 :
考える名無しさん :02/03/10 22:11
>>510 オラが聞いたところによると松本さんは日和って持説を放棄して教授職を
守り、袴谷さんは持説を守って左遷されたと。
いずれにしろ、袴谷さんのいっていた批判以外に仏教はないとかいうのは、
困っちゃうよ。テキスト・クリティークやってたから、その方法が仏教と
思いこんじゃったでしょうね。そりゃないよ。
しかも、その根拠が倶舎の prajJA dharma-pravicayaH 慧とは択法
ですよ。この択法の意味は、あるもの、例えば自分を分析することで、
実体がないことを導くために使われるもので、クリティクの意味じゃない
でしょ。しかも、この分析的手法だけが仏教じゃないし。
それとは別に松本さんが最悪なのはその批判基準に
>>491 で言ったように
「宗教的時間」という全く主観的な感情、つまり道元信仰を据えたことにあると思うのですが。
これにより、かれの基準に会わないテクストは非仏教的としてどんどん切り
捨てられ最終的には
「釈尊そのひとの説法にさえ、非仏教的要素(非縁起的要素)が
残存し、混在していたことも、充分考えられる」(『縁起と空』p.64)
という極めつけの名言を放つに至ります。
これは凡そ仏教徒であれば2500年を待って初めて聞かれ、また今後も
聞かれないし、仏教徒のオラは聞きたくないお言葉でございます。
こうゆう本の崇拝者が仏教徒を自称するのはいかがなことかと思いますが?
513 :
考える名無しさん :02/03/11 18:17
>>502 それって国際チベット学会とかのことですか?
それは論争というよりイチャモンじゃないかなー
因みに、山口さんは偉そうに河口慧海さんが論理学知らないとか書いてたけど、
山口さんは『中観荘厳論』の論理式が論理式だと読めなかった、
論理知らずらしい。
山口氏や松本氏の中傷合戦するのは、時間の浪費だと思うな。 せっかく「仏教哲学を基礎から語ろう」スレなんだから、もっと建設的な 議論をしようじゃないか。
515 :
考える名無しさん :02/03/15 09:34
確かに。ごもっとも。 ただ、結構信者がいるんで、失礼。
5+1=6
518 :
考える名無しさん :02/03/16 10:05
>>504 >帰謬論証派、自立論証派、無相唯識派、有相唯識派、
>それぞれどう同じで違うのでしょうか?
まず、帰謬論証派と自立論証派の違い。
空=無自性をポジティヴに論証できると考えるのが自立論証派で、
人々の中に救う、物事を実体視するウア・ドクサを帰謬によって脱構築することによってしか
空を実現できないと考えるのが帰謬論証派。
こんなとこでどうだろう。
519 :
考える名無しさん :02/03/16 15:23
518 のつづき。 自立論証派は、空というのを、意識から独立したある特定のあり方、 すなわち、空を存在論的に措定できるものと考えている。 人間の側の誤謬を前提にしなくても、論理を積み重ねることで、 その空なるあり方を特定することができる、と考える。 それに対して帰謬論証派は、空を、意識が物事をどう捉えるかということに 相関的なものとしてしか規定できないと主張する。 ポジティヴなあり方、意識から独立した客観的に指定可能なあり方を認めると、 それは再び、真理の実体化に陥ってしまう、と考えている。 こんなことを言っても、何か典拠があるわけじゃないが。
>>518 は良く知っていますよ。(もっとも、知ったのは比較的最近だが。)
かってトロツキー研究家の対馬忠行が第4インター派の公式見解である
「ソ連=堕落した労働者国家」論に対抗して、「晩年のトロツキーはソ
連邦体制を国家資本主義と考えていた」と主張していたが、それも同時
期のこと。社労党(SWP)は両者共を批判しており、レーニンの社会
主義的原則に近い立場を維持している稀有な党と言えます。
ところで、旧ソ連=国家資本主義論を評価しつつ、一方で「社会主義社
会」を批判することは一つの矛盾。現代日本の“親方日の丸”資本主義
を自由化しても、労働者には「賃金奴隷か失業か」の選択しかない、資
本ー賃労働関係自体を変えない限りは。
521 :
考える名無しさん :02/04/04 17:42
ソギャル・リンポチェ尊師の来日に尊師のカルマ・ムドラーとして同行していた かわいいパリジェンヌ、毎晩ソギャル尊師のフニャチンを本場仕込みのフェラテクで しゃぶりたおしていたとかいないとか、、。 河合センセはパリジェンヌのフェラテクのご相伴にはあずかれたのだろうか?
522 :
のむうつかう :02/04/04 19:30
哀れ としか言いようが、ありませぬな・・・。
523 :
考える名無しさん :02/04/24 03:50
age
定期あげ
合掌AGE
き そ か
527 :
考える名無しさん :02/05/30 18:57
「理に契うも亦悟に非ず」
528 :
考える名無しさん :02/06/10 21:53
初心者です。どなたか教えてください。 私達のこの世の行動(思考、瞑想、修行等)で解脱が可能ならば、 時間が無限に存在する過去で既に解脱していた筈なのではないでしょうか?
529 :
考える名無しさん :02/06/10 22:31
それは喫煙者や中毒者が止めることが可能なのだから、 過去に止められたはずと言っているのと同じですよ。 今、止められてないんだから、これから止めるように努力すればいいだけ。 過去に止められなかったのだから、これからも止められないと言いたいのでしょうが、 それは単なる詭弁じゃないですか? また、解脱は不可能だとしても、不殺生などのできることからやればいいじゃい! それだけで結構、幸せになる生き物が増えるデス。
530 :
考える名無しさん :02/06/17 02:07
う〜ん、「不殺生などのできることからやればいい」とおっしゃるが はたして厳密に不殺生を貫くことが人間に可能なのであろうか? 無意識に殺生している事も多いと思うが。
531 :
考える名無しさん :02/06/17 04:37
仏教は心の業を重んずるから、無意識の行為は軽く見るんです。 逆に、実際は実行しなくても殺そうという心を起こすこともまずいです。 もちろん、動機があり実行したほうがより重罪ですが。
数年前、評論家宮崎哲弥と漫画家小林よしのりの「戦争論」を巡る論争で、 宮崎が「あらゆる死は犬死である」「人は死ねば生ゴミである、少なくとも正統な仏教徒にとってはそうである」と言っているのを読んだのですが、 これって仏教の「正しい」見解なのですか? どうかどなたか教えてください。 (ちなみに宮崎は「仏教徒」を自任しているそうです)
533 :
考える名無しさん :02/07/03 21:38
遺体に執著しないと言う意味では死ねばゴミと言う宮崎の主張もわかる。 ただ仏教徒とても生身の人間だ感情がある、身内や友人の遺体を前に これはゴミだから切り刻んで生ゴミの日に捨てようとは思えないだろう。 釈尊の遺骨を大切にしてきたのはインドの正統仏教教団だよ。
534 :
考える名無しさん :02/07/03 22:24
家族でもベンゴシでもありませんが、「生きてる今を、今を大切にしようぜ!」との 思いを込めての発言なのではないでせうか。。。