ドゥルーズ「ニーチェ」読書会ver1.01

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1(=゚ω゚)ノ
なぜかスレ名が表示されないので引っ越しました。

BBS読書会です。乱入歓迎。本はちくま学芸文庫版です。
2(=゚ω゚)ノ:2001/05/13(日) 13:11
3考える名無しさん:2001/05/13(日) 15:11
かぁいそうだから漏れも参加しよう。
4考える名無しさん:2001/05/13(日) 15:13
あたしも〜
5考える名無しさん:2001/05/13(日) 15:20
前スレの6です。本買ってきたっすけど、どのように読み進めるのでしょうか・・・?
6:2001/05/13(日) 15:24
まぁ、一日イチページみたいな感じで
要所コピペ&持論の展開、、、ってのはどう?
日によってはかなり進むかも知れんな(藁
(漏れの好みだが、・e・が見てたら乱入キボンヌw)
76:2001/05/13(日) 15:29
おれ予備知識全然ないですので、質問ばかりになるやもしれませんが
よろしくお願いします〜。
8(=゚ω゚)ノ:2001/05/13(日) 16:52
「生涯」のところは伝記だから取り上げようもないところが多いかも。
p016第二段落、病と健康
わかりませ〜ん。健康と病の間の可動性?
「彼はむしろ病の中に、健康に対する一視点を見出す。そして健康の中に
病に対する一視点を見出すのである」
ここがポイントか。
でもむづかしい文章書くんだね。ドゥルーズ先生。内容はそのわりに・・・
という気もするな。
9考える名無しさん:2001/05/13(日) 21:07
>>8
フランス語だと逆に、
あまりにも素朴すぎる文章なのに内容がスゴイ、っていう印象を持つから、
翻訳に失敗しているんだよきっと。
10(=゚ω゚)ノ:2001/05/13(日) 22:36
>>9 英語もフランス語も読めないもんで・・・
でも哲学書はそういうのが多いんでしょうかね?
日本人の書いたやつは割合するする読めるものが多いような気もするし
・・・
哲学書なんかはむしろ、外国語覚えて原書で読んだ方が結局
理解は早かったりして。
11考える名無しさん:2001/05/13(日) 22:56
>「彼はむしろ病の中に、健康に対する一視点を見出す。そして健康の中に
>病に対する一視点を見出すのである」

これはなんか通俗的な感じだね
12前スレの6:2001/05/13(日) 23:16
うーん、病と健康の話には、まだ続きがありますよね。

「むしろ病は、ある同一の個人のうちで、ある種のひそかな間主観性を構成しているのである。」(17頁2-3行目)、
「・・・健康から病へと、病から健康へと移り変わる可動性、・・・この可動性そのものが、或る高度な健康なのであり・・・」(17頁8-12行目)、

あたりは、ちょっと肯いてしまいました。
って、勝手に先に進んですいません。
13考える名無しさん:2001/05/13(日) 23:16
すみません。乱入します。

予備知識が乏しくて申し訳ないんですが、僕も>>8のところが
わかりません。
いわゆるスキゾとかいうやつのことだと思っていいですか?
14考える名無しさん :2001/05/13(日) 23:18
ドゥルーズおたくってさー、読書会好きだよねー(w
15前スレの6:2001/05/13(日) 23:21
>>13
おれは、単に「病気になって初めて健康のありがたみが分かる」程度の感覚だと思ってますが(ぉぃ
16(=゚ω゚)ノ:2001/05/13(日) 23:22
いちおうルールを決めておいた方がやりやすそうですね・・・
1、出入り自由
2、意見だけじゃなくて質問もどうぞ。
3、発言は文章で残りますから進行はてんでんばらばらでも構わないのでは。
ただし、誰の発言に対しての発言であるかを明記してあった方が
読みやすいでしょう。
17(=゚ω゚)ノ:2001/05/13(日) 23:27
>>12間主観性=共同主観性=共同幻想でしたっけ。違ったかな。
>>13多分スキゾなんとかには近いと思います。浅田の「逃走論」
なんかもかなりそんな感じでしたし。「軽やかに・・・」という
言い回しは「ニーチェ」にも出てきます。
18(=゚ω゚)ノ:2001/05/13(日) 23:31
>>14そりゃ哲学やってる人は読書会はやるのは普通だから関係ないでしょ。
>>15結局そういうことだと思いましたが。ただニーチェの伝記的事実
にこじつけて言ってみました、という感じでしょうか。
19前スレの6:2001/05/13(日) 23:39
>>17
そうだとおもいます。普通は、複数の人間同士がコミュニケートする場合に、
共有する主観的世界を間主観性というのだと思うんですけど。

ここでは、個人のなかにいくつも自我があって、
そうした自我のあいだの間主観性を言ってるんだと思います。
20前スレの6:2001/05/13(日) 23:41
だから、健康な自分が持つ自我と、病気の自分が持つ自我では、違う自我であって、
その自我同士が、共同主観性を持つことになるってことでいいんでしょうか。
21(=゚ω゚)ノ:2001/05/13(日) 23:52
>>19自我って言うと言い過ぎのような気もしますが。
『自己の中の他者』っていうやつですが、自我は1人一個だと思います。
「間主観性」というのは一つの例えであってだから「ある種の」「ひそかな」と
つけているのだと思います。
22前スレの6:2001/05/14(月) 00:05
>>21
私が先走りすぎてるのかもしれないですが、次の段落に
「ニーチェは一個の<自我>の統一性を信じておらず・・・」(18頁5行目)とあったもので・・・。
でも、病気か健康かぐらいで自我が違ったら、二重人格になっちゃいますね・・・(爆
23考える名無しさん:2001/05/14(月) 00:07
やっぱりヒュームだね
24(=゚ω゚)ノ:2001/05/14(月) 13:21
p018二段落目
「ニーチェにおいては、一切がマスクである。・・・」
ニーチェの言説は、理性信仰の近代に対するアンチであった、ということですか。
ちなみに無意識を「発見」したフロイトは、ニーチェの影響が指摘されていた
ようですが、本人は否定していたようです。しかし、発想はかなり似ている。
25考える名無しさん:2001/05/14(月) 13:36
「敵を憎みすぎると敵の様になる」というのはニーチェがワークナーへの愛憎を述べた言葉だと思いますが、
フロイトが対人関係の図式に用いた「投影」はこれがモチーフだとも言われてますね。
窓(世界観)が歪んでいると、世界(周囲の環境)が歪んで認知され、しかも本人はそれが正しいと思ってしまうという図式です。
26考える名無しさん:2001/05/16(水) 22:55
ageageage
27(=゚ω゚)ノ:2001/05/17(木) 00:36
乱入者募集。
28(=゚ω゚)ノ:2001/05/17(木) 00:39
「敵を憎みすぎると敵の様になる」
これは「善悪の彼岸」だったかな?この部分は記憶にあるけど
、よくわかんなかった記憶がある。
29(=゚ω゚)ノ:2001/05/17(木) 00:47
p22 ディオニソス(バッカス)ギリシャ神話における酒と陶酔の神。
比較的その神話においては新しい神で、彼を祀るときは酒か薬物(?)
をやって山中を踊り狂ったらしい。です。うろおぼえ。
テセウスとアリアドネはくわしいことはわからん。情報キボーン
30(=゚ω゚)ノ:2001/05/17(木) 00:53
ルー・サロメ ニーチェを振ったあとリルケと付き合ってその後
フロイトとも親交をもったすごい人。他にも交友はいろいろだったらしい。
美人ではないものの聡明な女性だったようです。いいっすね。
でも中公新書「ニーチェ」三島憲一著で写真みたぶんにはすらっとした
感じでいい感じだった。いいっすね。周りにいないかな〜。こんな人。
31(=゚ω゚)ノ:2001/05/17(木) 00:54
パウル・レー よく知らない。男には興味なし。
32考える名無しさん:2001/05/17(木) 02:08
『善悪の彼岸』とかいう映画があったはず。
ニーチェ崇拝者にとっては許せないエロ映画?なんだけど
レー君についての通俗的イメージはこれで掴んでおくと、、、
よくないです。
33考える名無しさん:2001/05/17(木) 02:13
御参考になるかしら?
Beyond Good and Evil
http://www.joinac.com/movie/list/226e_11e.html
34考える名無しさん:2001/05/17(木) 02:43
>>30
瑣末なことですが、三島憲一の『ニーチェ』だと、
岩波新書ですね。黄版のやつです。
ザロメの写真も載ってます(P.165)。
35考える名無しさん:2001/05/18(金) 01:33
 ドゥルーズは読んだことないけど、>>8,12で引用されていることって、ニーチェ自身
が言っていることをほとんどそのまま書いただけに見えるが。

>>22
 病気か健康かぐらいで、というが、ニーチェは自意識の多様性に驚きを感じて
いたのではないかと思う。何事にも肯定的な気持ちで接することができるときもあれば、
いろんなことが「うっとーしー」と思うこともある。対人関係でも同様。そのような多様な
自意識の中から統一した思想や理念を引き出すことの難しさをニーチェは感じていた
んじゃないかなあ。「ニーチェは一個の<自我>の統一性を信じておらず」って書き方
は少なくとも、その一文を見る限りでは、むしろニーチェの書き方よりもわかりにくいし、
不明確=無駄なおしゃべりに見えてしまう。
36(=゚ω゚)ノ:2001/05/18(金) 02:16
ああ、よい感じになりつつありますね。引き続き乱入者募集。
37(=゚ω゚)ノ:2001/05/18(金) 02:19
>>34 中公じゃなくて岩波ですね。失礼。
>>35 そうなんだ。引用符は付いてないが・・・
3835:2001/05/18(金) 02:47
>>37
 ごめんなさい、「ほとんどそのまま」というのはめちゃくちゃな書き方でした。先の
8,12を読んで「別に大したこと言ってないじゃん」と思ってしまい、筆が滑りました。
 ニーチェ自身は「大いなる健康」と言っていますね。この点についての小林秀雄の
文章を参考までに。
「私が、彼の著作に惹かれるところは、彼自身の生まの体験で、どんなに些細なもの
であろうと、到底その監視から逃れ得てはいまいと思われる程の、彼の恐ろしい様な
哲学的感受性なのである。彼は一生これが為に苦しんだ。そして、これを「大いなる
健康」と読んだ。即ち病気を健康な眼で眺める事も出来れば、健康を「病者の光学」
で照す事も出来る、そういう自在を会得しなければ、生きた人間を生きた人間が批判
するなどという事は、おかしな事になる。」(「作家の顔」)
39前スレの6:2001/05/18(金) 09:42
>>38
ほぇぇ。たしかに、ドゥルーズの文と比べると、
その小林秀雄の文章が分かりやすく感じる!
これはいったい・・・
40前スレの6:2001/05/18(金) 14:12
とはいえ、まだこの部分はニーチェの「生涯」を紹介している部分なので、
ドゥルーズの本領はまだ発揮されていないのでは?

で、いかいなり飛びますけど、
「というのも彼女は、ニーチェを国家社会主義に奉仕させようと試みたからである。」
っていうのは、どういうことなんですか??
妹のエリザベーとはナチスとかに関係があるの?
41前スレの6:2001/05/18(金) 14:13
上の一文は、28頁2行目です。
42考える名無しさん:2001/05/18(金) 14:25
あげ
43考える名無しさん:2001/05/18(金) 16:43
>>40
数年前NHKで放送されたニーチェ特集番組で、エリザベートが
ナチス協力者として働いたってことがやってましたね。

それと既出の三島憲一『ニーチェ』にもそういう記述があります。
「エリーザベトはやがて兄の遺稿や二人の不和を示す書簡などを、
自分の都合のいいように、そして世間にとおりのいいように改竄したり、
恣意的な編集をしたりしている。」
44名無しさんの主張:2001/05/18(金) 18:46
エリザベートはニーチェの「超人」をナチスの都合のいいように解釈した。
45考える名無しさん:2001/05/19(土) 00:26
エリザベート
エリーザベト
どっちだ???
46考える名無しさん:2001/05/19(土) 03:37
>>45
まぁどっちでもいいんでしょうが、いま調べてみたら、
スペルはElisabethです。

ついでに面白そうな本見つけました。
『エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560028796/qid=990210371/sr=1-2/249-0701178-2098725
47考える名無しさん:2001/05/19(土) 05:57
age
48(=゚ω゚)ノ:2001/05/21(月) 10:50
<力>への意思age
49(=゚ω゚)ノ:2001/05/21(月) 23:39
ちょっと最近忙しいのでレスはつけられません。すみません。
ところでドルゥーズのニーチェ解釈は結構独特で
他にはジンメルの解釈が代表的という話を小耳にはさんだので
詳しい方がいたらお願いします。かしこ
50GO:2001/05/23(水) 05:02
GOです。お邪魔します。クレール・パルネ。重大なGO報告にやってまいりました。GOはねー、このスレがねー、1000に近づくときねー、GOはねー、その時にねー、哲学板のねー、コテハンさん達全員がねー、GO!GO!GO!GO!ってねー、どんどんグルーヴしていくのねー。GO!GO!って。もうねー、24時間テレビ−愛は地球を救う−のマラソン状態。BGMはもちろんZARDの「負けないで」。GOです。凄くない?GOはねー、あらゆるコテハンさん達に応援されながら完走するの。いままでGOに批判的だった人もその時にはダンスに参加。あのハイデガー先生やいちご姫も花束を抱えて駆けつけてくれる始末。GOです。ある意味カタストロフです。GOです。そうです。GOです。GOはほとんど熱狂的な声援の中、世界最後のダンスを踊り続けるの。もちろんみんなもつられてダンス!ダンス!そこはまるでリオのカーニバル。GOです。GOはねー、耳たぶ柔らかいほう。それでねー、999でねー、パタッとカキコが止まるの。何故ってGOは思うの?何故なんだ?って。それでどうしたんだろう?って他のスレに様子を見に行くの。そしたら、あらゆるスレというスレに「GO!お前が1000にカキコするんだよ。はやく!もったいぶるんじゃないぜ!みんな待ってるんだよ。GO!おめでとう!今まで良くやったな!さあ、GO、早く!」っていうカキコを発見するの。GOです。GOは感涙にむせび泣き栄光の美酒を飲み干すのさ。リーリーリーリー。GOです。GOです。最後の乱舞が始まろうとしています。GOです。記念カキコ宜しくお願いします。GOでした。お邪魔しました。
51考える名無しさん:2001/05/23(水) 05:10
すみません、↓このスレッドの103です。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=990210710
ニーチェ先生を尊敬していると言ったら『キチガイの弟子か』と罵られました。(泣)
なんとかここの『age』っていう奴を言い負かしてやりたいのですが、
ディベートは勉強不足で弱いので自信がありません。
助けてください!
52考える名無しさん:2001/05/23(水) 05:12
あうううー、哲学かぶれの未熟者とか言われちゃいましたー!(泣)
出直してこいってー。(泣)
誰か助けて−!
53考える名無しさん:2001/05/23(水) 05:14
>だいたい、ニーチェの晩年を見てみろ!あのキチガイが!
>君はキチガイの弟子か???超人とキチガイは紙一重だ。

>まあ、せいぜいニーチェにすがって生きて、超人(キチガイ)に
>なってくれ。 だいたい、君こそ「他人(ニーチェ)の創作した思想
>に逃げて思考停止して安穏としている」のではないか?

こんな事言われてるんですー!
なんとかしてー!
54考える名無しさん:2001/05/23(水) 05:56

>>51-53

幼稚園児じゃないんだから、ご自分の力でがんばりなさいな。
55感想:2001/05/23(水) 07:37
>>51-53

ざっとみてきたが、きみは何も実質的に議論してないな。
「思考停止して安穏としている」と指摘されてもしかたないぞ、あれじゃ。
しかも、宗教プロパーに(ワラ
キミも、「gao『三位一体』」くんや、「エッちゃん命 」くん程度の話ができるように勉強しよう!
ニーチェを云々するんだったら、必要だと思うぞ。
ちなみに、「エッちゃん命 」くんは、おいらの友人(先輩or後輩)かもしれんので、訊いとくよ(ワラ
56考える名無しさん:2001/05/23(水) 08:03
ROMってたら、ageって奴がいきなり出てきて偉そうな事言ってたんで
ちょっと懲らしめてやろうと思って一言書き込んだんですよぅ。
そしたら逆襲されちゃって・・・(泣)
勉強してきまっす・・・

あー、でもニーチェ先生をキチガイ呼ばわりは本当にクヤシイです。
57感想:2001/05/23(水) 08:42
>ageって奴がいきなり出てきて偉そうな事言ってたんで

たしかにageは放漫な物言いしてたね。
無視してよかったのにな。
まあ、ニーチェの思想を考えたり伝えたりするのは、
哲学のなかでもタイヘンなことだから
がんばれ!
58考える名無しさん:2001/05/27(日) 22:39
あげてみる
59考える名無しさん:2001/05/27(日) 22:39
あげあげ
60(=゚ω゚)ノ:2001/05/28(月) 07:18
p25 ニーチェが梅毒によって発狂して死んだ、というのは有名ですが
いちおう諸説はあるみたいですね。どうなんでしょうかね。
61k:2001/05/29(火) 02:03
現在の医学に照らし合わせると、「梅毒」でしたらギネスなみに長生きしてます。
よって、梅毒説却下。
62ニーチェ:2001/05/29(火) 03:52

馬車馬をぶつのは可哀想です。辞めて下さい。
63考える名無しさん:2001/05/29(火) 06:07
「この人を見よ」なんて言ってる時点で死。
64前スレ6:2001/06/01(金) 20:59
次の章(「哲学」.33頁〜)に進んでもいいでしょうか?

33頁の段落は、3〜4行目にある次の文が核となる部分でしょうね。

  「認識へと至るという理想、真なるものを発見するという目的に代わって、
   ニーチェは解釈と価値評価を置くのである。」

・ 解釈    = 断片的な「意味」を定める = 生理学者・医者 = アフォリズムで語る。
・ 価値評価 = 様々な「視覚」を作りだす = 芸術家       = 詩によって語る。

「未来の哲学者は芸術家であり、医者である −− つまり一言でいうと、立法者なのである。」(33頁11行目)

・・・内容的には、特に問題ないと思います。なんか注意すべきところはありますでしょうか?
65前スレ6:2001/06/03(日) 22:52
age
66考える名無しさん:2001/06/03(日) 23:00
ネット読書会は中々難しいから、気長に頑張ってくれ。
67前スレ6:2001/06/06(水) 01:57
あげるんだよう。(´д`)ゴルァ
68考える名無しさん:2001/06/06(水) 02:22
ネット読書会のむずかしさとは?
69考える名無しさん:2001/06/06(水) 02:25
ご苦労様です。>前スレの6氏

>>64
「認識へと至るという理想、真なるものを発見するという目的に代わっ
て、ニーチェは解釈と価値評価を置くのである。」

この部分は、
「認識へと至るという理想」に代わって「解釈」を置く
「真なるものを発見するという目的」に変わって「価値評価」を置く
というように対応しているのですか?

それと「認識へと至るという理想」とはどんなもの?
これがよくわからないのでこれが「解釈」と対応しているのか
わからないのですが。
70前スレ6:2001/06/06(水) 20:13
>>69
えっと、私は何も考えてませんでしたが、おっしゃるとおり、
単純に「認識」→「解釈」、「真」→「価値評価」というふうに対応していると思いました。

「認識へいたる理想」ってのは、・・・間違ってるかもしれませんが。
それまでの哲学の目的というのが、「理性による認識」の明晰さを追求していって
それによって「真理」を発見しよう、というものだったのではないでしょうか。
たとえば、弁証法は、認識の矛盾を止揚していくことでより高度の認識にいたるという事ですよね???

それに対してニーチェは、前の章の「健康」と「病気」の話でもあったように、ある物事に唯一の真の意味があるのではなくて、
多様な解釈を与えうる多様な価値評価があると考えたのではないでしょうか?

こう考えると、哲学とは、理想的な認識へといたるということではなくて、
多様な解釈を行うということへと変わった、といっていいんじゃないでしょうか?
また、そのために、哲学の目的は、「真実」を探求するのではなくて、
多様な「価値評価」を新たに創り出すということになったのでは?

哲学史、全然知らないくせに適当なことを書きましたので、
誤認がありましたら突っ込んでください。おながいします。勉強します。
71前スレ6:2001/06/13(水) 23:53
もうオワリでしょうか。このスレ。
72考える名無しさん:2001/06/14(木) 02:08
>>71
頑張って下さい。
ココでの読書会は1人のパワーリーディングで進行するものです。
コンスタントにレスを付けてくれる人が又現れます。
それから、なるべく原文を載せる様にすると興味を持つ人が増えますよ。
1年計画ぐらいで気長に考えてみては?
73前スレ6:2001/06/15(金) 21:03
>>72
そうですね。がんばります〜。
というか、スレ立てた人はどこいったんだろう?
74考える名無しさん:2001/06/17(日) 13:53
あげちゃえ
75(=゚ω゚)ノ:2001/06/17(日) 16:42
>>73 生きてますよ。ちょっと最近忙しくって、
申し訳ありません。
やる気の持続という点では
現実世界の読書会で一日にガーと
やっちゃったほうが楽なんですよね。
76考える名無しさん:2001/06/19(火) 05:50
>>69
認識へと至るという理想→真なるものを発見(真善美)→自己否定(それに比べて俺は・・・)

解釈→価値評価→肯定の可能性(俺、サイコー!)

ってことじゃないの?
77考える名無しさん:2001/06/19(火) 20:42
ちょっと調子が良い
78考える名無しさん:2001/06/30(土) 22:17
(=゚ω゚)ノ
79考える名無しさん:2001/07/01(日) 13:11
>>76
そういう意味じゃニーチェって、現在ある相対主義的な言説の全ての基礎になってるわな。
ポスト構造主義とか構築主義とかのね。
80考える名無しさん:2001/07/02(月) 20:08
ニーチェを読んでいると、よこしまなことがしたくなってくる
(これはマルクスにもフロイトにもできなかったことだ。
 この点ではふたりともニーチェに遠くおよばない)

「口さがない批評家への手紙」 ジル・ドゥルーズ
81考える名無しさん:2001/07/04(水) 15:06
「神は死んだ」の真意は何なのかいまだに分からん。
あとどういう意図があったんですか?だれか知ってる人いない?
82ゾマホン:2001/07/04(水) 15:57
神が死んだとは、
もはや信仰は意味をなさないという事ですです。
83考える名無しさん:2001/07/04(水) 16:20
じゃあ神はいるといってるんだね?ニーチャンは。
84考える名無しさん:2001/07/05(木) 01:56
?コイツラハナニヲイッテイルノダ?  ヘコムヨ
85考える名無しさん:2001/07/05(木) 04:31
>>83
超人という神がいます。もっともその神はかなり革新的なので
従来の神と言う言葉に当てはまりませんが。
86(・∀・) シネ!チクグン:2001/07/14(土) 10:22
力への意思だけはようわからん。ニーチェ=ダーウィニズム+物理学+社会不適応
か。
87考える名無しさん:2001/07/22(日) 18:45
>>86
へっ?
88考える名無しさん:2001/07/22(日) 19:50
初めてお邪魔します。
一通りスレを読んできたのですが、ここはニーチェの思想について
がんばって理解して行こうよという場所でしょうか?
難しい言い回しだと相手に伝わりにくいので簡素な文章ですが申し訳ないです。
ちょうど上に超人の話が出ていたので私の意見を言います。
私の捉えるツァラトゥストラと超人は、当時はどんな環境だったにせよ
現代(特に日本?)では、集団意識と「常識」という概念に対する
圧倒的な個人主義の勝利のように思われます。
「倒れ掛かっているものを後ろからさらに突く」
「我欲を肯定する」
などといった思想は、小学校でテストの点数の平均点を上げるために
勉強内容を簡単にしよう、みたいな風潮を完全に軽蔑するものと感じました。
私もそれに同調します。「民族」としての力を上げるのに体裁をそろえるため
バカを増やしたり保護したりするのは、外面だけ良くなるだけだと思います。
※このバカというのにも人それぞれ基準があるでしょうが・・・
個人を上昇させ得ない民族保護意識というのは、身の回りだけに視点を合わせても
同じことが言えると思います。
要は、「出る杭は打たれる」主義の蔓延に対する軽蔑だと受け取ったのですが
いかがでしょうか?
ながながと失礼致しました。
89しょー:2001/07/22(日) 21:27
アメリカなどは、ニーチェみたいなプラグマティズムやってきてるから日本もそういうの取り入れないとこれから、多分やつらに負けるよ。

毎日、安寧に過ごせるかどうかは、また別ですが、
90考える名無しさん:2001/08/08(水) 19:20
あげます
91考える名無しさん:2001/08/09(木) 03:39
そろそろ再開しようよ。

ということで、p.33の「原注」から。
>>64で引用されている部分。
「未来の哲学者は芸術家であり、医者である
−− つまり一言でいうと、立法者なのである。」

「医者である」のところに*1
「『反時代的考察』第三部『教育者としてのショーペンハウアー』三を参照されたい。」
読んだことないのでわからん。

「立法者なのである」のところに*2
ドゥルーズがいうには、神の死を告知するものとして、よく『悦ばしき知識』の
「気違いじみた男」が引用されるけど、『漂泊者とその影』の「囚人たち」という
のが、神の死を告知した最初のやつなんだ、ということらしい。
要は、そこに未来の哲学者=立法者というものが表れている、ということ。
92考える名無しさん:2001/08/09(木) 03:49
続いてp.34。

そういう未来の哲学者のイメージは、ソクラテス以前の思想家の
イメージである。

それで未来の哲学者は、(ソクラテス以来)忘却された「あるもの」を
思い出すことを通じて、なにかを作り出そうとする。

その「あるもの」とは「思想と生の統一性」である。
93考える名無しさん:2001/08/09(木) 03:58
以下、しばらく「思想と生の統一性」の説明。

「生が思想を能動化し、そしてこんどは思想が生を肯定する」といった
ものらしい。

けれど、ソクラテス以後の哲学は、生と思想が対立関係にあって、
お互いをだめにしてしまっている、と。
「つまり、凡庸な生と狂った思想家たちのあいだでしか選択することは
できない」状態にあるんだと。
94考える名無しさん:2001/08/09(木) 04:04
今、気が付いたけど、>>91はでたらめです。

*1,*2は「原注」じゃなかくて「訳注」だった(恥ずかしい)。
両方とも、ニーチェの著作でいうと何処にそういうことが
書いてあるかが載ってるだけ。
95考える名無しさん:2001/08/09(木) 04:18
仕切りなおして、p.35の4行目から。

ちょっと動揺したせいか(笑)、理解しにくくなった。
誰かが補ってくれることを期待して、簡単に書いときます。

ソクラテス以前の思想家たちは、「思想と生の統一性」ということを
理解していたのだけど、それは仮面の下に隠れていた。

ひとはその仮面を見て、彼らを判断してしまっていたために、
そうした「哲学の秘密」は始源から失われていて、
「未来において発見されるべく残されている」んだとさ。
96考える名無しさん:2001/08/09(木) 04:41
「従って、必然的に哲学は、その歴史において、退化しながら、
自分自身に敵対しながら、そのマスクと混同されながらしか発展
しなかった。」

ソクラテス以前の思想家たちは、
@既成の価値(=生より高いとされる価値)の破壊と
A新しい生の価値の創造を
美徳としていたが、

立法者としての哲学者     →服従した哲学者
既成の価値への批判      →既成の価値の保守
医者・生理学者としての哲学者 →形而上学者としての哲学者
詩人としての哲学者      →公的な教師としての哲学者

前者が後者に乗っ取られた。
97考える名無しさん:2001/08/09(木) 04:45
かなり中途半端だけど、眠いので今日は終了。
98考える名無しさん:2001/08/09(木) 10:57
おぉぅ。わかりやすいage
詩人としての哲学者      →公的な教師としての哲学者

なんか呼んだ?
100agezou:2001/08/09(木) 13:22
『ニーチェと哲学』(?)のほうだったら持ってるんですけど参加しても良いんですかね?
『ニーチェ』のほうはひたすら『権力への意志』からの引用が多かったですよね。
運命愛とか、永遠回帰とか、力への意志とかを理解するにはわかりやすいかも。
一連のニーチェ的な形而上学/存在論(?)がリゾーム概念の下敷きになっているのがわかる。

でも、ドゥルーズはニーチェの超人思想の理念のほうは受け取らなかった印象が強いです。
それが残念。
名前変えるわ
102考える名無しさん:2001/08/10(金) 02:34
さぁ、今日も始めましょう。
p.37くらいから。

>>96の続き)
そういうわけで、哲学は退化してしまって、
「哲学はもはや、人間が服従するために自分に与えるあらゆる理由を調査し、
それらを目録にまとめる作業以外ではなくなるのである。」

(ソクラテス以後の)哲学者は、生より高い価値を設定して、
その価値=重荷を生に課す。

しかし、これは創造とは反対のもので、創造者(真の哲学者)が、すべきことは
「生の重荷を取り除くこと、生の新たな可能性を作り出すことである。」
103考える名無しさん:2001/08/10(金) 02:47
「哲学の退化は、ソクラテスとともに明確に現れる。」

形而上学を、本質と外観、真と虚偽、可知的と可感的といった
二つの世界の区別(対立)と定義すると、形而上学の発明者は
ソクラテスである。

ソクラテスは、
@生を「裁かれるべきなにものか、節制されるべき、限界づけられるべきなにものか」とした。
A思想を「(神意・真・美・善などの)高位の価値の名において一つの尺度、そこで実現される限界づけ」とした。

以後、ソクラテスのような(自発的に)服従した哲学者が出現することになる。
104考える名無しさん:2001/08/10(金) 02:58
次にカントは(そういう意味での)「真の哲学者」と呼べるか、という
問題提起があって、結論は「真の哲学者」ではないということらしい。

が、理由はよくわからんので、そのまま引用。
「カントはなるほど認識への偽りの自負心を告発するが、認識することの理想
そのものを疑問に投入することはない。彼は偽りの道徳を告発するけれども、
道徳性という思い上がりそのものを、またそうした価値の性質や起源を疑問に
付することはない。彼はわれわれがさまざまな領域を、そして関心を混同した
点を非難する。しかしそれらの領域は無傷なままにとどまり、理性の諸々の関心
(真の認識、真の道徳、真の宗教)は、神聖なまま残されている。」
105考える名無しさん:2001/08/10(金) 03:11
続いて、弁証法が取り上げられて、これも問題あり、ということらしい。
これもわからんので、そのまま引用。

「弁証法とは、疎外された特性=所有を回収するようわれわれに勧める技術のこ
とである。すべてのものは、弁証法の原動力であり、その産物として<精神>へ
と回帰する。あるいは自己の意識へと、また類的な存在としての人間へと回帰す
る。しかしもしわれわれの諸特性=所有がそれ自体においてある節減された生を
表わし、そのように生を損なう思想を表しているのだとすれば、それらを回収す
ることは、あるいはそれらの真の主体となることはいったい何の役に立つであろ
うか。」
106考える名無しさん:2001/08/10(金) 03:20
さて、前記とどういう関係にあるのかはわからんけど、宗教改革の話。

宗教改革は、神を内面化したというが、それによって宗教が廃棄された(=神が
死んだ)わけではないのだ、と。

これは先の重荷の話で言うと、
「人間は外から荷物を担わされる代わりに、自分で重荷を手に取り、
背中に背負った」だけで、本質的には何も変わってない。

とにかく「服従するように誘われている」んだとさ。
107考える名無しさん:2001/08/10(金) 03:34
高位の価値を担うことを望まなかったり、担うことができなくても
まだ「あるがままの<実在>」を背負うことを勧められるそうだ。

けれど、この「あるがままの<実在>」も高位の価値が現実から作り出したもの
でしかない、と。

今日の実存主義も「担い、背負うという嗜好」=「弁証法的な嗜好」を
保持しているから、ニーチェとは区別される。


わけわからん。
108考える名無しさん:2001/08/10(金) 03:48
わからんところが多かったので、ちょっとまとめてみる。

哲学の退化はソクラテスからである(>>103
 │
 ├→カントもダメ(>>104
 ↓
弁証法が悪い(>>105
 │
 ├→宗教改革(>>106)…自発的に重荷を背負うようになっただけ。
 │
 └→実在(>>107)…背負いたくなくても、背負えなくてもダメ。
109考える名無しさん:2001/08/10(金) 04:00
「ニーチェは、諸価値の転倒=転換を実行するためには、神を殺害するだけでは
充分でないということを、われわれに教えてくれた最初の人である。」

ニーチェはいくつかの箇所で神の死について述べている。
(少なくとも14〜15の異文がある。)
本当はここで、*2(「原注」2)が出てくる(>>91でたらめです)。

自己引用。
> ドゥルーズがいうには、神の死を告知するものとして、よく『悦ばしき知識』の
> 「気違いじみた男」が引用されるけど、『漂泊者とその影』の「囚人たち」とい
> うのが、神の死を告知した最初のやつなんだ、ということらしい。
110考える名無しさん:2001/08/10(金) 04:03
また間違えた。
*2(=「訳注」)は出てこない。(2)(=「原注」)が出てくる。
111考える名無しさん:2001/08/10(金) 04:08
それで、ニーチェは神の殺害者を「人間たちのなかでも最も醜い男」として
いるが、それは何故か、と。

それは外から重荷を背負わされているときよりも、自発的に背負うように
なった人間は、さらに醜くなったから、ということらしい。
112考える名無しさん:2001/08/10(金) 04:14
「こうして哲学の歴史は、ソクラテス学派からヘーゲル主義者に至るまで、
人間の長い服従の歴史であり、その服従を正当化するために人間が自分に
与える数々の理由の歴史なのである。」

こういう「退化」は哲学に限った話ではない。
113考える名無しさん:2001/08/10(金) 04:28
p.41の末文

「それ(退化の運動)は歴史における一つの事実というのではなく、歴史の原理そのものであり、
われわれの思想や生を、腐敗の症候として決定したさまざまな事件のほとんど大部
分は、その原理に由来するのである。従って未来の哲学としての真の哲学は、永遠
の哲学ではないと同様に歴史的な哲学でもない。それは反時代的、つねに反時代的
でなければならない。」(括弧内引用者)
114考える名無しさん:2001/08/10(金) 04:36
一応、ここまでで、内容的に一段落。
今日はキリよくここまでということで終了。
115考える名無しさん:2001/08/10(金) 04:43
最後にあげておこう。
116考える名無しさん:2001/08/11(土) 02:15
今日も独り言始めよう。
p.43から。

「すべての解釈というものは、ある現象の意味を決定することである。
その意味はまさしく諸々の力の関係のうちに存在する。」
117考える名無しさん:2001/08/11(土) 02:30
「力と、力との関係は、『意志』と呼ばれる。」

だから(←なぜ「だから」と言えるのか、わからん。)
ニーチェの「力への意志」の意味を取り違えるなと、ドゥルーズはいう。
「力への意志」とは、「意志が力を欲する」という「支配欲」の意味では
ない(少なくともまず初めに、そう意味することはない)。

なぜなら、「支配欲」という意味だと、
@どうしても既成の価値に依拠するから。
あるいは
Aある闘争で勝者を「承認」するのは、既成の価値であるから。
118考える名無しさん:2001/08/11(土) 02:40
この辺り、さっぱりわからん。文意すら読めない。
他の文献にも当たってみるので、ちょっと休憩。
119考える名無しさん:2001/08/11(土) 05:04
やっぱりわからんかった。

とりあえず、三島憲一が現代思想系のニーチェ解釈をどのように
批判しているかがわかった。およそ、以下の通り。

ニーチェ哲学が主体と形而上学を解体した、というが、哲学が文化を
作ってきたかのような物言いはどうか?そもそも「近代的主体」が誕生
したという近代の神話自体が疑わしく、疑い得ないために、解体したと
か脱構築した、と言い出しているだけではないのか?
「主体の解体、形而上学の崩壊などなどというキャッチフレーズを背景
としたニーチェ受容は、当たり前の社会的経験に基づいているだけで
あって、ニーチェのアクチュアリティを高めるものではない、選択的な受
容と言わざるを得ない。ニーチェによって語られねばならない事柄でも
ない。ニーチェをネタにして自分の経験を哲学的装いに包んでいるだけ
である。」
120考える名無しさん:2001/08/11(土) 05:49
いまいちスッキリとはわからないけど、
三島のニーチェ解釈だと、こんな感じか?

もともと人間は<快−不快>を基準とする自由な存在であったが、
ソクラテス・プラトン・キリスト教によって、<善−悪>を基準として、
拘束されてしまった。この<善−悪>とは捏造された概念で、人が
ルサンチマンという「力への意志」によって作ったものである。

→ここまででは、ニーチェにとって「力への意志」は否定的なもの。

しかし、こうした理解もまた、「力への意志」によって解釈されたもので
あり、「力への意志」とは存在するものの根本性格である(と知る)。
ならば、蓄群道徳なんて窮屈なものは捨てちまえ。良い方に解釈した
方がハッピーじゃん…ということかな?

→つまりニーチェ哲学は前段と後段で、転回しているということ。
これに対して、ドゥルーズ以下は、転回を認めない。
121考える名無しさん:2001/08/11(土) 05:59
もっと大胆に言うと、三島の見解はこうか?

ニーチェは初め、主体・形而上学の批判を試みたけど、
「自己自身の自我も否定されたときの批判の意味」にぶち当たって、
自分のやってることも「力への意志」に基づく、ひとつの解釈にすぎ
ない、と思うようになり、ならば、逆立ちした弱者の価値より、素直に
強者の価値を積極的に選び取ろう、と主張した。

つまり、ニーチェは(初期はともかく)主体の解体なんて言ってない。
122考える名無しさん:2001/08/11(土) 06:13
さて、ニーチェ研究者諸氏は>>120-121をどう思いますか?

要はニーチェがいった(とされる)以下のふたつの関係ということだけど。
@主体の解体。
A力への意志・真理などなくすべて解釈に過ぎない。

ついでにこういうことでいいのかな?
・三島は@Aを断絶していると捉える(ニーチェの結論はAだけ)。
・ドゥルーズ系は@Aを連続的に捉える。

さらにもう一個。
@Aを連続的に捉えるとは、どういうことか?
どういう風に繋がっているのか?
(ドゥルーズは「力への意志」をどう解釈しているのか?)
123考える名無しさん:2001/08/12(日) 02:15
ほとんど隔離スレだな(笑)。

では、今日も始めましょうか。
124考える名無しさん:2001/08/12(日) 02:45
今日起きたら、うちに悪評高い(笑)『ドゥルーズ 流動の哲学』が
あったのを思い出して、読み返してみたら、なんとなくわかった。
少し引用しておこう。

「力自体と力関係を、必ずしも力として意識するのではなく、権利と義務、
善と悪、正義と不正義、有能と無能のような規範の観念に置き換えて
『表象』している。私たちの社会は、力を偽装し、隠蔽するが、それもまた
力の現象であり、作用なのだ。」
125考える名無しさん:2001/08/12(日) 03:36
それで、「力への意志」と主体の解体の繋がりについてですが、

主体は諸力の関係のうちに差異として現れてくるものであり、
アトム的な自我が力の関係のうちに還元された、ということでは
ないかしらん。。。

ついでに、『流動の哲学』によれば、
>>117の部分はちょっと間違い。
「力への意志」が「支配欲」という意味でない理由。
> @どうしても既成の価値に依拠するから。
> あるいは
> Aある闘争で勝者を「承認」するのは、既成の価値であるから。

ここでいう「既成の価値」というのは、近代的な自我のことらしく、
「力への意志」を支配欲やエゴイズムの意味に解釈すると、
支配する主体やエゴの存在を認めなければならないから、という
ことらしい。
126考える名無しさん:2001/08/12(日) 04:07
さらに引用。

「力だけが意志の主体であり、またその意志の対象であ」る。

つまりドゥルーズにとっては、「力への意志」とは、
力が意志を成り立たせ、成立した意志が力を志向する、ということで、
意志とは力の関係(「力と、力との関係は、『意志』と呼ばれる。」 )で
ある。

だから、単純に「力への意志」を「意志が力を欲する」ことと誤解しては
いけない。なぜなら、その意志も力によって構成されたものであるから。
127考える名無しさん:2001/08/12(日) 04:23
以上で大体、p.43-46の2行目まで終わったということにしよう。

次に、主人(強者)が奴隷(弱者)に駆逐されるとは、どういう意味かが
検討される。

先の定義に基づくと、
「力(a)が意志を成り立たせ、成立した意志が力(b)を志向する」
という時の
力(a)が<強者−弱者>を決めるもので、
力(b)が<勝ち−負け>を決めるもの。

力(a)での強者が力(b)で負けたことが、ニヒリズムという状態。
128考える名無しさん:2001/08/12(日) 04:31
ドゥルーズは(ニーチェも?)さらに、力(b)を病気に例えていて、
力(b)において「勝つ」というのは、ある種の病気が感染するような
ものらしい。「支配的になる」といったニュアンスかな?
129考える名無しさん:2001/08/12(日) 04:36
以上がp.49の後ろから4行目まで。

続いて、「ニヒリズムの勝利の諸段階」について。
(各詳細は後述)
(一)怨恨
(二)疚しい心
(三)禁欲主義的理想
(四)神の死
(五)最後の人間と、滅びようと望む人間
130考える名無しさん:2001/08/12(日) 09:44
寝てしまった。。。

引用ミスです。>>124
「力自体と力関係を、必ずしも力として意識するのではなく、権利と義務、
善と悪、正義と不正義、有能と無能のような規範の観念に置き換えて
『表象』している。そのようにして力という現実を遠ざけ、間接的にし、他の
様々な観念に置き換えている。私たちの社会は、力を偽装し、隠蔽する
が、それもまた 力の現象であり、作用なのだ。」


p.56までで、一段落つくので、そこまでやっときます。
131考える名無しさん:2001/08/12(日) 10:38
(一)怨恨
「おまえが悪い、おまえのせいだ……。投射的な非難と不平。」
いわゆるルサンチマンのこと。反感=怨恨から人のせいにする。

(二)疚しい心
「私が悪い、私のせいだ。内向投射のモメント。」
次に反動的な力は、規範を生み、今度は罪深いものとして
自己自身を拘束する。

(三)禁欲主義的理想
「昇華のモメント」
規範によって禁欲主義が生まれ、それが生より高位の価値となり、
生を貶めることになる。
古代ギリシアにおける哲学の退化を下地に持つユダヤ−キリスト教の
歴史に準えれる。
132考える名無しさん:2001/08/12(日) 11:01
(四)神の死
「回収のモメント」
ニヒリズムが変容する。

<それまでのニヒリズム>
生より高い価値を設定し、生を貶め、否定する。

<神の死以後のニヒリズム>
前者の価値を否定し、これに代わって、「人間的な、あまりに人間的な」
価値(道徳・有用性・進歩・歴史)が設定される。
これによって、人間が解放されたわけではなく、それまで外から課せら
れた重荷を自分で背負うようになっただけ。
133考える名無しさん:2001/08/12(日) 11:42
(五)最後の人間と、滅びようと望む人間
「終極のモメント」
よくわからん。

ニヒリズムが深まると、「意志の虚無」を主張する「最後の人間」が
現れる。

これは「反動的な生」であり、これ自身を否定する「滅びようと望む人間」
が現れる。
すなわち「意志の虚無」の破壊=能動的な破壊を望む。

こうしたニヒリズムの極地において、価値転換が準備される。
134考える名無しさん:2001/08/12(日) 11:48
この後、あげようとしたのに。。。

これでp.56まで終わったことにしよう。
また深夜に来ます。
135考える名無しさん:2001/08/13(月) 01:31
放置プレイですか?恐るべし、哲学板。

とりあえず、今日で「哲学」の部分は終わらせようと考えております。
136考える名無しさん:2001/08/13(月) 02:11
先に進む前に、上記の(四)と(五)>>132-133を
自己流に咀嚼しておこう。

(四)神の死
<神の死以前のニヒリズム>
生より高い価値が設定されていて、生はそれに奉仕するものでしか
なかった。生=「生きていること」自体は、「〜のため」でしかなく、
生それ自体が自明性を持てない故に、生は虚無→ニヒリズムだった。

<神の死以後のニヒリズム>
神(宗教)の位置に道徳がついただけで、本質的な変容はない。

ここまでは問題ないと思う(多分)。
ここからは、自分なりに考えてみた(ので、あまり信用しないように)。

(五)最後の人間と、滅びようとする人間
道徳は神(宗教)ほど、一元性・超越論性を持てないために、
「最後の人間」にとって、そういう事情は、「生はなにものによっても
肯定されないものだ」「生を絶対的に肯定するものはない」という
虚無を導いてしまう。ニーチェにとっては、生はそれ自体で肯定され
るもので、より高位の価値によって認められるものではない。

次に「滅びようと望む人間」は、この虚無をも破壊する(=虚無に帰す)。
絶対的な価値がないことはもとより、生そのものは価値なきもの、
生に価値などなくてよい。死のう!(←ちょっといい過ぎか?)
137考える名無しさん:2001/08/13(月) 02:30
もうちょっと追加。

神の死以前で、人は驢馬に例えられる。
その特徴は、彼らの<否(ノン)>は偽りの(怨恨の)<否>であり、
彼らの<然り(ウィ/イ・アー)>は偽りの<然り>だということ。

これはちょうど、神によって肯定された生というのは、生に対してより
高位の価値を設定した上で、それに承認されたことを以って、肯定=
<然り>というのだから、本当の意味での肯定ではない、ということだ
と思う。

それともうひとつ。
神の死後、最後の人間の前に、「高位の人間たち」が出てくる。
彼らは多様で、各々「生より高位の価値」を主張するが、「生より高位の
価値」を主張すると言う点では、同じであり、構造的には神(宗教)による
それと同じ。
138考える名無しさん:2001/08/13(月) 02:41
さて、以上を確認した上で、p.591へ進もう。

ここではまず(ニーチェに言う)価値転換が問題となる。

価値転換というのは、端的にいえば、「否定」によって貶められた「肯定」
が転換して、「肯定」が「否定」に勝るようになること。

しかし、これは究極のニヒリズムの果てでしか起こりえない。
(五)の段階まで進む必要がある。
139考える名無しさん:2001/08/13(月) 04:12
次に、(価値転換によって)肯定されるものとは何か、それまで否定さ
れていたものとは何か、が問題となる。

それは<存在>では必ずしもない。
「むしろそれは多様性ということであり、生成ということなのである。」

ニヒリズムは多数性・生成を有罪視してきた。

「価値転換の第一の形象は多数性と生成を、最高の<力>にまで
引き上げる。つまり多数性と生成は肯定の対象となるのである。」

「価値転換の第二の形象は、肯定の肯定である。肯定の二重化、
ディオニュソス−アリアドネの神聖なカップルである。」


わけわからん。
140考える名無しさん:2001/08/13(月) 04:20
「いま述べた諸々の性格のうちどのような性格にも、ディオニュソスが
認められる。」

しかしここでいうディオニュソスは、
@ショーペンハウアーの影響の下に構想した最初のディオニュソス
Aソクラテスと対比されたディオニュソス
B<十字架にかけられた者>に対するディオニュソス

@やAではなく、Bである。
141考える名無しさん:2001/08/13(月) 04:26
@のディオニュソス
「原始的な<根源>のうちに生を吸収・解消するものとしての、また悲劇
を生み出すべくアポロンと同盟関係をなすものとしてのディオニュソス」

Aのディオニュソス
「ソクラテスは高位の価値の名において、生を裁き、断罪したのである
が、ディオニュソスは生とは裁かれるべきものではないということ、生は
それ自体で充分正しく、充分聖なるものであることを予感していたので
ある。」
142考える名無しさん:2001/08/13(月) 04:32
Bのディオニュソス
両者の殉教は、解釈・価値評価において異なる。


…らしいが、よくわからん。
この後、ずっとわかりません。だからなんとなくまとめるだけです。
143考える名無しさん:2001/08/13(月) 04:40
多数性は<一なるもの>へ、生成は<存在>へと、吸収しようという
力が働いていた(らしい)のだが、それが止む。

しかし<存在>や<一なるもの>が意味を失うということではない。

「いまや<一なるもの>とは、多数性としての多数性(諸々の破片、ある
いは断片)についてそう言われるのである。<存在>とは、生成としての
生成についてそう言われるのである。」

これがニーチェ的な転倒であり、価値転換の第三の形象。
144考える名無しさん:2001/08/13(月) 04:47
それでこの「多数性としての多数性」とかいうやつは、
サイコロの一面みたいなもんで、
「<永遠回帰>の賭け=戯れ」に繋がるんだと。

だから永遠回帰は、「<同一なもの>が回帰する」と
考えちゃあかんようだ。
145考える名無しさん:2001/08/13(月) 04:56
「ここで問題となっているのは、<永遠回帰>の本質である。」

・とりあえず輪廻転生のような古代世界の死生観とは違う。
・また<全体>への回帰、<同一なもの>への回帰とも違う。
(後者は後で検討される。)

ニーチェの<永遠回帰>は、二重に選択的である。
(1)選択的な思想
(2)選択的な<存在>
146考える名無しさん:2001/08/13(月) 05:11
(1)選択的な思想
なにがいいたいのかわかりませんが…
「私がそれを永遠に回帰することもまた欲するような仕方で、それを
欲するのでなければならない。」ということらしい。

つまり、永遠にそれを繰り返したいと思うくらいのものを欲しろ、と。

(2)選択的な<存在>
なにがいいたいのやら…さっぱり。
「ただ肯定のみが回帰するのであり、肯定することが可能なものだけが
回帰し、歓びのみが戻ってくる。」
147考える名無しさん:2001/08/13(月) 05:29
次に、「後で検討される。」(>>145)と書いた問題ですが、

ドゥルーズは、多くのテクストに書かれている永遠回帰の解釈、
すなわち「<同一なもの>が回帰するサイクル、<同一なもの>へと
回帰するサイクル」は、間違いであると言います。

こういう解釈は「病気のツァラトゥストラ」に関わっていて、
正しい解釈は「快復期の(ほとんど治癒した)ツァラトゥストラ」に
関係している。
148考える名無しさん:2001/08/13(月) 05:40
これまたよくわからないんだけど、大体こういうことだと思う。

ツァラトゥストラを病気にするものこそ、この「サイクルのイデー」であり、
快復してその誤りを正す。

とにかくニーチェの永遠回帰とは、単なる反復や万物流転といったこと
ではなく、回帰するのは、肯定的なものだけで、ニヒリズム的、否定的
なものは回帰しない。


そういうもんだということはわかるが、なぜそうなのかは読み取れませ
んでした。
149考える名無しさん:2001/08/13(月) 05:48
「価値転換は、第四の、最後のアスペクトを持つ。それは当然のこと
として超人を含意し、生み出すのである。」

人間自身が本質的に反動的な存在であるから、人間自体を
乗り越えなければ、ニヒリズムは超えられない。

「超人は、二つの系譜の交点に位置している。」
T.最後の人間→滅びようと望む人間⇒超人
U.ディオニュソスとアリアドネの結実=超人

(ツァラトゥストラは超人を自分の子と呼んでいるが、彼自身は超人に
乗り越えられる。)
150考える名無しさん:2001/08/13(月) 05:52
p.71末文

「このようにして価値転換の諸々の形象は完成する。すなわちディオニュ
ソス、あるいは肯定。ディオニュソス−アリアドネ、あるいは肯定の二重
化。<永遠回帰>、あるいは肯定の繰り返される倍増。超人、あるいは
肯定の類型および肯定の産物、である。」
151考える名無しさん:2001/08/13(月) 06:00
「われわれニーチェ読者は、次のような、ありうる四つの意味の取り違え
を避けるようにしなければならない。」

(一)「力への意思」を支配欲の意味に解すること。

(二)<強者−弱者>を現行社会体制に準えること。

(三)「永遠回帰」を古代社会の輪廻思想と見なすこと。

(四)最も後期の作品を「度を越している」「狂気のため信用できない」と
   して重要視しないこと。
152考える名無しさん:2001/08/13(月) 06:11
以上でp.74「哲学」の部分終了。

<以後の目次>
----------------------------------------
ニーチェ的世界の主要人物辞典
ニーチェ選集
ニーチェの著作
関係書誌
ドゥルーズとニーチェ――訳者解説の代えて
訳者あとがき
----------------------------------------
全部省略でいいでしょう?
153考える名無しさん:2001/08/13(月) 06:17
以後は、ドゥルーズとニーチェについて語り合うことをキボンヌ。
154「哲学」の概略図:2001/08/14(火) 03:23
ドゥルーズ著『ニーチェ』の「哲学」と題された部分のまとめ

次の大略、次の四部分から構成されている。

(1)哲学者とは何か?

(2)力への意志

(3)価値転換と永遠回帰

(4)まとめ
155(1)哲学者とは何か?:2001/08/14(火) 03:38
立法者としての哲学者>>64
 ↓
ソクラテス以前の哲学者>>92
 |
 ├→彼らは「思想と生の統一性」を問題とした>>93
 |
 ├→彼ら仮面を被っていた>>95
 ↓
哲学の退化>>96

哲学の退化はソクラテスからである>>103
 │
 ├→カントもダメ>>104
 ↓
弁証法が悪い>>105
 │
 ├→宗教改革>>106…自発的に重荷を背負うようになっただけ。
 │
 └→実在>>107…背負いたくなくても、背負えなくてもダメ。

神の死だけでは価値転換は図れない>>109-110
 |
 ├神の殺害者=醜い男>>111
 ↓
哲学の退化>>112
 ↓
退化の運動>>113
156(2)力への意志:2001/08/14(火) 04:00
意味は力の関係のうちに存在する>>116
 ↓
力への意志とは支配欲ではない>>117
---------------------------------
しばらく中断。>>118

三島憲一を参考にしつつ。
 ├→三島憲一のドゥルーズ批判>>119
 ├→三島憲一のニーチェ解釈>>120-121
 └→ドゥルーズvs三島のまとめ>>122

宇野邦一を参考にしつつ。
 ├→「力」とは何か>>124>>130
 ├→力への意志と主体の解体>>125
 └→力への意志とは何か>>126
---------------------------------
<強者−弱者>とは?>>127-128
 ↓
ニヒリズムの勝利の諸段階>>129
 ├→(一)怨恨 (二)疚しい心 (三)禁欲主義的理想>>131
 ├→(四)神の死>>132
 └→(五)最後の人間と、滅びようと望む人間>>133

※(四)(五)を自己流租借>>136-137
157(3)価値転換と永遠回帰:2001/08/14(火) 04:13
価値転換のためにニヒリズム>>138 (※訂正 誤p.591→正p.59)
 ↓
価値転換の形象1・2>>139
 ↓
三つのディオニュソス>>140
 ├@Aのディオニュソス>>141
 ├Bのディオニュソス>>142
 ↓
価値転換の形象3>>143

永遠回帰へ>>144
 ↓
その本質>>145
 ├選択的な(1)思想と(2)<存在>>>146
 ├間違った解釈>>147-148
 ↓
価値転換の第四の形象>>149
 ↓
まとめ
158訂正:2001/08/14(火) 04:17
上記(>>157)最後。
まとめ→まとめ>>150

それと>>154
(4)まとめ→(4)解釈上の注意
159(4)解釈上の注意:2001/08/14(火) 04:18
解釈上の注意>>151



以上で完成。
160訂正:2001/08/14(火) 04:25
また間違ってる。

>>156
自己流租借→自己流咀嚼
161考える名無しさん:2001/08/14(火) 04:31
sageで書いたのになぜあがってる?
162考える名無しさん
age