哲学とは何か

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1考える名無しさん
いろんな主義とか派があるみたいですが、
哲学そのものについての
ある程度合意のとれた定義のようなものはあるのでしょうか?
2名無しさん@1周年:2001/04/21(土) 00:16
答え無き問い
3吾輩は名無しである:2001/04/21(土) 01:05
終了
4エリート街道さん:2001/04/21(土) 01:53
科学。マジレス。
5考える名無しさん:2001/04/21(土) 08:29
1はまず自分の考え書け。
6Nana:2001/04/21(土) 08:33
哲学とは哲学である。えへ。
71:2001/04/21(土) 11:23
>>4
いや、いきなり終了かと思って諦めてたのでマジレス感謝です。
私の理解では、
科学 = 「仮説と検証(実験)」
なんですけど哲学にもそれがあてはまるのでしょうか。
あるいは私の科学の定義が間違っているんでしょうか。

>>5
正直な話、私の意見は無いです。
あえていうなら、
「あなたがたは、明確な定義なしに、
議論しているようにみえるけれど、
それは私の無知ゆえの誤解ですか?」
ということでしょうか。
この板をざっと見て、なにをもって哲学とみなしているかが、
さっぱりわからなくなったのでスレあげました。

>>6
まあ、なんでも説明できる完全汎用の言い方ですよね。(笑)
「運命とは運命である。」「人生とは人生である」
なんか、なについてでも、いってみると凄い深い意味がありそうには見えますが・・・
8考える名無しさん:2001/04/21(土) 11:41
どちらかといえば、哲学とは何か?よりも、科学とは何か?の方が難し
いような気がするんだけど?

自分は、哲学は、ありきたりの言い方で恐縮なんですが、今ある前提や
枠組を疑問視し、徹底的に検証を加えていくことだと理解しているんだ
けど?
9火星に帰ります:2001/04/21(土) 11:56
哲学という言葉はいろいろな意味で使われている。
一つは学問の分類としての哲学(=認識学、論理学とかを含む分野)、日常語としての哲学(=思考、問うなど)
>>8のように哲学から全ての科学が生まれたという立場で 哲学=科学 とも解釈できるし。
ひと言では無理っぽいかもしれない
108:2001/04/21(土) 12:04
えっと、哲学から全ての科学が生まれたなんて考えてないです。
誤解を与える文章で、すまん。

ちなみに、わたくしめは「科学=方法論」だと考えているんです
けど。これも誤解を与える言葉かもなあ。
11火星に帰ります:2001/04/21(土) 12:23
>>10
よく読んでなかった。
いや、大学でそう習ったから其の事を言ってたんだと思った。
哲学から全ての科学(科に分かれた学問)が生まれたらしいです。
121:2001/04/21(土) 14:23
確かに、西洋(含むイスラム)の学問ってのは、
ギリシャ哲学に起源があるということになってますね。
プラトンも、アリストテレスも、
メインの肩書きは哲学者ですものね。

そうすると、東洋の哲学(孔子、老子など)は
どういった位置付けになるのでしょう?
13考える名無しさん:2001/04/22(日) 00:57
>>12

philosophyと漢字の「哲学」とは微妙な違いがあるんじゃないか?
たまたま、philosophyという言葉が伝わった時に、哲学という言葉があったの
で、2つの違いを確かめもせず、そのまま一緒にしちゃったとか。

僕は西洋哲学ばっかり読んでるので、中国哲学は全然知らず。よって2つの違
いをはっきり述べることはできませんね。。
141:2001/04/22(日) 02:01
>>13

ご指摘ありがとうございます。
>philosophyと漢字の「哲学」とは微妙な違いがあるんじゃないか?
>たまたま、philosophyという言葉が伝わった時に、哲学という言葉があったの
>で、2つの違いを確かめもせず、そのまま一緒にしちゃったとか。
えーっ!考えもしなかった指摘・・・
ということで、調べてみました。(Web検索しただけですが)
「哲学」という言葉は、西周というひとが、
西洋の学術書を翻訳する際に、
philosophy の訳語として、
造語したもののようです。

http://www.ffortune.net/social/people/nihon-mei/nishi-amane.htm

あと、
http://www.logico-philosophicus.net/gpmap/books/HasegawaHiroshi001.htm
に興味深い指摘があります。(難しいので全部は理解していませんが)

造語といっても、
中国の本(周濂渓(北宋時代の中国の学者)の『通書』の一節)
が起源のようです。
はっきりしたことは、元になった「『通書』の一節」
がどのようなものであったのかがわからないと
なんともいえませんが、
「哲学」という言葉は、
本来(それを作った西周の意図としては)
東洋にあった概念を philosophy に
あてたものといっていのかもしれません。
ただ、まったく別の意味の言葉を割り当てたというよりも、
もともとあった概念から造語したといった感じなので、
philosophy=「哲学」
で問題ないような気がします。
(この辺り確証が持てないので、
 詳しい方のご意見歓迎します。)

> 僕は西洋哲学ばっかり読んでるので、中国哲学は全然知らず。よって2つの違
> いをはっきり述べることはできませんね。。
やはりそういう方がおおいんですよね。
だから、西洋哲学の文脈で行われている議論に、
東洋哲学の概念で意見をいった場合に受け入れてもらえるかどうか
とういうのが不安です。
15foxtrot:2001/04/22(日) 02:16
「哲学とはなにか」について定義づけってむつかしそうですね。
ただ哲学ってはるか昔からあった学問だから、今のように学問が細分化
されていないことを考えれば、あらゆる物事対して、価値付けしたり、
定義付けしたりする学問だったんじゃないかなと思う。
16わかりません:2001/04/22(日) 03:06
哲学とは存在論・認識論・実践論と考えています。
17D15:2001/04/22(日) 03:48
 一般的な表記では16です。いかにも陳腐としか言いようがありません。
ただし、人間の歴史的学習の範囲に限定されます。借り物です。
 知識を得ることと理解は別だからです。
 本来ひとつの集合状態に於いて、それを細分化したところで塵の
ようなもの。部分のひとつでしかない。
概念を構成する情報は核となるべき内包を持ちますが、この意味を
理解できますか。
情報は常に洗練されなければ肥大し無制限に増加する。
 現状の社会構成はよく反映されてます。

 余の意見としては、構築される情報の中での理解しようとする行為に
対して”哲学”という言葉を使用します。


18考える名無しさん:2001/04/22(日) 11:40
とりあえず、今までの書き込みを見る限りでは、古代ギリシャで諸科学の
基礎付けを行なってきた「哲学」が、現代において、その存在が問われ、ま
た意味も拡大しているといった感じですな。西洋哲学に限れば。

>>14
哲学が日本人の造語だとすれば、中国語だと「哲学」にあたる言葉は
存在するの?
19考える名無しさん:2001/04/22(日) 12:44
>>17
>概念を構成する情報は核となるべき内包を持ちますが、この意味を
>理解できますか。

なんか嫌味な言い方
20考える名無しさん:2001/04/22(日) 12:56
>>19
> なんか嫌味な言い方

なんか馬鹿
21考える名無しさん:2001/04/22(日) 15:17
>>19-20

なんか低レベルな争い
22考える名無しさん:2001/04/22(日) 15:30
>概念を構成する情報は核となるべき内包を持ちますが
わからねぇ。シニフィアンは他のシニフィアンに対してのみシニフィアンである、だっけ?よく知らないけど。
核、とか根源なんて事を言い出したら宗教じみたものになりそうだ。
234:2001/04/23(月) 04:16
哲学のphilosophyってのは「知を求める」って意味でしょ?ギリシア語では何て言うのかは忘れた。
(その「知」は何かってのはまた今度ね)
で、科学のscienceってのはラテン語のscientioが語源だったわな。
そのscientioってのはやっぱり「知を求める」意味でしょ?
そういうわけで
哲学=科学
だと思います。
24RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY:2001/04/23(月) 04:19
哲学と科学の歴史をお勉強するスレですか?
25考える名無しさん :2001/04/23(月) 04:20
まあ、そんなところかな。
26考える名無しさん:2001/04/24(火) 09:58
古典哲学=科学 であって
現代哲学=窓際学問
27考える名無しさん:2001/04/24(火) 09:59
てつがく【哲学】
1 世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問。とらわれない目で事物を広く深く見るとともに、それを自己自身の問題として究極まで求めようとするもの。古代ギリシアでは学問一般を意味していたが、のち学問の一分野となった。論理学、認識論、存在論、哲学史、倫理学などの諸領域を含む。
2 自分自身の経験などから作りあげた人生観・世界観。理念。「彼は哲学を持っている」
28考える名無しさん:2001/04/26(木) 01:22
しかし
科学=哲学ではないように思える。
つまり哲学は科学の断片?
29>28:2001/04/26(木) 01:50

  (゚Д゚)ハァ? 哲学以前に科学があんの?
30考える名無しさん:2001/04/26(木) 07:00
哲学はオナニー。
31考える名無しさん:2001/04/26(木) 07:06
>>30は哲学とオナニーの区別がつかないドキュソ。
32考える名無しさん:2001/04/26(木) 08:45
>>31
いや、あってるよ。
自己満足のみで何も生み出さない。
33考える名無しさん:2001/04/26(木) 08:53
>>32
私にはその自己満足も得られるようには見えませんね。
一生満足できない苦しみです。
そしてそれはオナニーにも劣ると思いますよ
34考える名無しさん:2001/04/27(金) 22:43
>>33
そこまで考えているのに哲学板にくるというのは
相当屈折したマゾヒストですね。
35考える名無しさん:2001/04/28(土) 10:26
>>34
損得とか理性とかそういうものではない。
端的に言うなら走性だ。
走哲性とでも呼んでくれ。

36考える名無しさん:2001/04/28(土) 11:08
走性、そうだよ。
確実に向かってる。
理解できないならいちいちこの板に来なければいいのにね。
37考える名無しさん:2001/04/28(土) 12:01
実存っていい言葉やー。
何かのために哲学やる訳じゃないからなー。
哲学に何か目的があったら、
哲学解析ロボット作るのに力いれた方がよいよ。
38:2001/04/28(土) 15:57
感情教育。または総合体を一生かけて創る事。
常に「自己」を懐疑し、破壊し、統合し自由になろうと試みるプロセス。
39考える名無しさん:2001/04/28(土) 23:06
>>27
を読むと、少なくとも哲学には、
・自分の外界について考える哲学(世界哲学、この世界は、International ではなくて、world という意味で宇宙も含む)
・自分自身について考える哲学(人生哲学)
という分類があるというきがします。
(多分もっと適切な言葉があると思うのですが、私は知らないので、この発言ではこれでいきます。)
この二つの違いは、
・世界哲学は、複数の人間に共通した真理を追究する。
・人生哲学は、究極的には、それを考える個人にしか意味はなく、
 他者に証明する必要もないかわりに、
 共感を持たない他人には、認めてもらうことができない。
といったところでしょうか。
私は、漠然と、この板での哲学とは、世界哲学のことでは
ないかと思っていたのですが、
>>38
の発言などをみると、人生哲学のようなきもします。
40中村雅俊:2001/05/01(火) 09:24
黄昏と戯れる術を我がものと成す為の疾走
4139:2001/05/03(木) 01:54
>>40
39
4239:2001/05/03(木) 01:56
>>41
すいません。ミスです。
以下が本文。

>>40
ここのところは人生哲学を語られるひとが多いようですね。
4338:2001/05/03(木) 02:22
>>39
意味不明。そもそも「人生哲学」なんてものが哲学かどうか、または
「人生哲学」「世界哲学」なんて整理が有効かはおいといて、
38の私のレスのどこが、
>・自分自身について考える哲学(人生哲学)
なのかよ〜わからん。貴方の言葉をかりるなら、私はむしろ
>・自分の外界について考える哲学(世界哲学
という意味で書いたのだが..
44_:2001/05/03(木) 03:14
 外界というものは自己の主観からしか観測できない存在です。(相対性)
 よって、世界哲学も、『自己の主観から見た』世界の哲学、ととる事は出来ないでしょうか。
 世界の観測は同時に、自己の主観の観測ともなり得ると思います。
 哲学とは、結局自己分析ではないでしょうか?
4539:2001/05/03(木) 03:33
>>43
それはすいませんでした。

>「人生哲学」「世界哲学」なんて整理が有効かはおいといて、
これに関しては、まったく仮にたてたものなので、
「それは無効だ」といってもらったほうがかえって楽なのですが(笑)。

「自分自身」「外界」という分け方は乱暴だったかもしれません。
あなたにとっては不本意な分類になってしまったようで
申し訳ありません。

私の関心は、他者に証明できるか、証明する必要があるか、
という点で、それを簡単に表す方法としてこのような
ことばを使ってみましたが適切でなかったかもしれません。

私は、単純に、
>>38
で述べられた内容を見て、他者に証明するというプロセスを
必要としていないように見えたので、39のような解釈を
してしまったのですが、勝手な解釈だったようです。
どうもすいません。

そこであらためて教えていただきたいのですが、
他者への証明という点では、どのように
お考えでしょうか?
4639:2001/05/03(木) 03:41
>>44
>結局自己分析ではないでしょうか?
私の主観はあなたの発言に近いように思うのですが、
だとすると、なぜ、命題についての論争というものが存在するのか
ということがわかりません。
方法論や、論理的妥当性についての
議論はわかりますが、他者と共通の結論を求める議論は、
思考を触発する手段以上の意味が無いということに
なってしまいそうな気がします。

47_:2001/05/03(木) 03:55
>>45-46
>証明する必要がある
>思考を触発する手段以上の意味が無い
 私個人としては証明する必要は無く、
 また、思考の触発以上の意味は無いとも考えています。

 が、人間という存在にとって、
 思考に論理的妥当性を見出すのは良い事だと思います。
 矛盾点の存在する相対的真理は人間を苦しめます。
 精神安定上もよろしくありません。
 以下は暴論ですが、
 盲信する事で矛盾点を無視するのが宗教や、倫理。
 疑問を持ち、より矛盾点の無い相対的真理を求めるのが哲学…
 とするのはいかがでしょう。
48考える名無しさん:2001/05/03(木) 15:27
ナルシストの屁理屈、言葉遊び。
49正一:2001/05/03(木) 17:51
哲学とは「存在」について思いを巡らせること。
50M:2001/05/03(木) 18:07
哲学は自分から見た世界を話し、
他人から見た世界を聞き、
それを踏まえて出来る限り外からの視点に近づけて考え分析すること
だと思います。
5139:2001/05/03(木) 18:44
>>47
>疑問を持ち、より矛盾点の無い相対的真理を求めるのが哲学…
よくわかりました。

だとすると、
哲学をめぐる議論では、
結論や勝敗といったものよりも、
各人がそれぞれの思考を検討・深化する
ということの方が重要という気がします。
はたから見て、結論の見えない議論のように
みえても、一概に無意味な議論とはいえないということですね。


52もに:2001/05/03(木) 19:26
生きる希望かもしれませんね。
53考える名無しさん:2001/05/03(木) 19:33
哲学とは自己言及である。
5443=38:2001/05/04(金) 21:02
>>45=39
亀レスすいません。
>それはすいませんでした。
いえいえ。今読み返してみると>>43の私のレス、少し無礼な書き方
だったかもしれません。
>他者への証明という点では、どのように
>お考えでしょうか?
正直、このことについてはあまり深く考えたことはなかったかもしれません。
その意味ではたしかに「人生哲学」的と言えるかもしれません。
話はずれますが、知人の仏教僧に「あなたは密教的なとらえかたをする」とも
言われたこともあります。
少なくとも言える事は、>>38
>感情教育。または総合体を一生かけて創る事。
と書きましたが、「または」の前がいわば「人生哲学」的側面、後が「世界哲学」的側面、
いわば両側面から捉えたつもりでした。両者は私にとって不可分のものです。
私自身学部では四年間数学を専攻した者ですので、あいまいな独りよがりの言説は嫌いです。
哲学も、数学において証明の積み重ねで一つの世界を構築するのと同様、ある公理の上に他者
も理解出来るかたちで構築するものであるのはあたりまえ。という以上には考えたことはなか
ったかもしれません。ただこれだけではあなたの>>46での発言、
>なぜ、命題についての論争というものが存在するのかということがわかりません。
への答にはなりませんね。(続く)
5543=38:2001/05/04(金) 21:03
(続き)
むしろ私の興味は別のところにあります。
それは、みずみずしい出発点から己の思想を構築し、人生において語り変え、敷衍しつつ、
それが凡庸化しないためには如何にすればよいのか?と言うことです。
人間は誰であれ、色めがねをかけて世界をみています。生まれ育った環境による限定・錯覚・偏見
が誰しも持つわけで、常にそれにむけて懐疑の目で厳しい自己検証をしなければならない。
>常に「自己」を懐疑し、破壊し、統合し自由になろうと試みるプロセス。 (>>38)
>>44
>外界というものは自己の主観からしか観測できない存在です。(相対性)
>よって、世界哲学も、『自己の主観から見た』世界の哲学、ととる事は出来ないでしょうか。
にほぼ同意ですが、哲学として真に有効な「総合体」を構築するためには、「自己の主観」をつねに
懐疑し続けなくてはならないということを書きたかったのでした。
「凡庸化」ということをまず、哲学者個人の一生という観点から見たわけですが、ある一つの言説は
時代・地域が変われば、「凡庸化」するとも言えます。
あまりに有名な例をあげれば、かつて「ポストモダニズム」が日本の現代思想の分野で一世を風靡した
時代がありましたが、モダニズムを経た欧州において有効だった言説が、日本においては奇妙なまでに
現状マンセーな言説になってしまった、というのは良く言われるところです。(続く)
5643=38:2001/05/04(金) 21:03
(続き)
時代的(哲学史)的にみても、ある巨人的な哲学者(A)の言説が世に浸透し凡庸化したのち、新たに
みずみずしい哲学(B)を構築しようとおもえば、BはAの「言説」を否定する語り口で始めるほかはない。
ということです。決して凡庸化しなかった過去の巨人的哲学者を読むとき、私にとっては、彼がその時代の
なかで如何に懐疑し、時代・環境と戦い続けたのか、ということがスリリングなところです。
例えばデカルトを例にするなら、現在、科学とか合理主義とかの(デカルト的!)言説そのものはあたりまえ
であって、凡庸なものですが、古典としてのデカルトの価値は不変・不滅です。真の巨人的哲学者の場合、
いわゆる「彼」的言説は凡庸化しても、本人の著作は決して風化しません。
長くなってしまいました..。
5739:2001/05/04(金) 22:10
>>54-56
非常に詳細なレスありがとうございます。
自己の思索が中心であるが、凡庸に陥らないために、
懐疑が必要であるということですね。
自己にとっての真理=世界にとっての真理ということであれば、
私が 39 で試みたような分類は無意味かもしれません。

ありきたりな言葉で恐縮ですが、
「無知の知」に近いものを感じました。
自己の見識の絶対性を疑い続けることが
本当の見識ではないかと私も思います。

優れた哲学者の説が「凡庸化」するというお話は、
私も同感です。
アリストテレスが実験の重要性と、古い説の盲信することへの戒めを強く主張していたにも
かかわらず、勝手に絶対化されてしまい、
最終的には、近代科学に敗北した旧弊な思想の元凶的な
汚名を受けてしまっていることを連想しました。

密教の話をちらっとなさいましたが、
密教の考えかたには非常に興味深いものがあって、
うろおぼえで誤解があるかもしれませんが、
「真理を知るためには、それを正しく解釈、行動できるだけの精神の修養がなされていなければならない、従って、真理は伝えるものが相手の修行の度合いをみて、どこまで伝えるかを決める。このため本当の真理は口伝でのみ伝えられる。」
といったようなことだったと思いますが、
これによれば、たとえ唯一普遍の真理があったとしても、
人からただ教えてもらったり、本で読んだだけでは、
かならずしも正しく解釈できないということになります。
このような考え方からすると、
第一に自分自身の問題として自分で検証しながら考えていくという
考え方が正統なのかもしれません。
これが哲学一般にあてはまるかどうかは、私にはわかりませんが・・・
5838:2001/05/05(土) 01:50
>>57=39
>ありきたりな言葉で恐縮ですが、
いえいえ、
>「無知の知」に近いものを感じました。
>自己の見識の絶対性を疑い続けることが
>本当の見識ではないかと私も思います。
はい。まったく同感です。
そういえば、「無知の知」もアリストテレス同様、「凡庸化」されてしまっていますね。
己の無知に対する自己弁護みたいな文脈で用いられているのを見るのは、げんなりします。
>自己にとっての真理=世界にとっての真理ということであれば、
>私が 39 で試みたような分類は無意味かもしれません。
いえ、自分の過去のカキコを否定するようですが、無意味とは思いません。
私自身、自分に足りない視点をやりとりを通じて、教えられたような気もします。
密教が少し話題に上ってますが、宗教においても「顕教・密教」のモデルは有効です。
最終的には顕も密も一つなんでしょうが、だからといってモデルが無効という訳ではないですよね。
まったく同じではないにしろ、二つのモデルには重なる部分もあると思います。
>第一に自分自身の問題として自分で検証しながら考えていくという
>考え方が正統なのかもしれません。
>これが哲学一般にあてはまるかどうかは、私にはわかりませんが・・・
宗教においても密教的アプローチだけではないですからね、
私が理想とする方法論はまさにそうなんですが、
哲学一般にあてはまるとは言えないかも知れません。
5939:2001/05/05(土) 06:50
>>58=38
>そういえば、「無知の知」もアリストテレス同様、「凡庸化」されてしまっていますね。
>己の無知に対する自己弁護みたいな文脈で用いられているのを見るのは、げんなりします。
ああ、結構好きな言葉なので、私もそういう使われ方はやですね。

>私自身、自分に足りない視点をやりとりを通じて、教えられたような気もします。
そこまで言って頂けるとは、望外の喜びです。書いてよかったと思いました。

>密教が少し話題に上ってますが、宗教においても「顕教・密教」のモデルは有効です。
>最終的には顕も密も一つなんでしょうが、だからといってモデルが無効という訳ではないですよね。
>まったく同じではないにしろ、二つのモデルには重なる部分もあると思います。
これは「目から鱗」です。
密教については、昔本で読んで「顕教・密教」という概念も知ってはいたのですが、
そこまで考えたことはなかったです。
わたしは、大乗、小乗が対応するのかなと思っていたのですが、
貴賎のニュアンスや、救済云々が含まれない分、「顕教・密教」のほうが適切ですね。

>宗教においても密教的アプローチだけではないですからね、
>私が理想とする方法論はまさにそうなんですが、
>哲学一般にあてはまるとは言えないかも知れません。
そうですね。
でも、方法論としては実際私もほとんど
同じ考え方をしているように思います。
60考える名無しさん:2001/05/05(土) 10:43
哲学の定義を聞く輩に尋ねたいのだが
科学の定義や文学の定義はできるのかね?

哲学の定義はできないが、哲学的な答えを出すなら
「〜とは何か」といった問いはあまり意味をもたないものだ。
哲学とは哲学に過ぎん。
611:2001/05/05(土) 13:05
>>60

>>1
および、
>>7
の発言を読んでいただければわかるとおり、
このスレの主旨は、
哲学的な結論を出してしまうことではなく、
この板において、哲学として語られているものの定義、
いってみれば、議論にくわわっている方々の共通認識を
問うものでした。

他の板では、ある話題が板違いかどうかは比較的分かりやすいですが、
哲学板の場合は、「本当にこの問題は板違いといえるのか?」
といったケースや、逆に「こんなこともこの板で議論していいのか?」
といったケースが多いように私には感じられました。

もしも、学問としての哲学の定義が存在するのであれば、
「それが書いてある本を読め!そんなことも勉強してないやつは
 議論に加わる資格はない。」
ということがいえるでしょう。

しかし、あなたがおっしゃられるように、
哲学に定義というものを結論として下せないのあるならば、
ある議論をこの板で行うことの妥当性をはかるためには、
現在この板にいる人たちの認識をもって、
議論の妥当性を計るしかないと思います。
もちろん、決定的な答えを出すことは難しいでしょうが、
このような議論を行うことによって、
認識を深め、より適切な判断が下せるようになるという
ことはいえると思います。
62吾輩は名無しである:2001/05/05(土) 15:33
age
63考える名無しさん:2001/05/09(水) 02:05
64:2001/05/16(水) 08:28
考えた事を箇条書き;
1.「哲学とは哲学である」は、正しい。
   しかし、この言明に意義はない(別に6さんを非難しているわけではないです)。
2.「哲学に定義が「下せない」」は、間違い。
   ある人が下した定義を他の人が認めないと言うのが正確。定義は、暫定的に下すことが
   可能だし、現に下されている。
3.「哲学とは科学である」は、間違いとすべき。
   なぜなら、現段階では「科学的」な検証が不可能な領域について、哲学の名の下に
   論じられているケースがあるから。例えば、科学では自明な前提として位置付けられる
   概念(存在、時間、物、力など)は、哲学において、検討の対象となっている。
4.「哲学とはある種の方法論である」は、間違いとしやすい。
   なぜなら、哲学の名の下に、方法以外の領域が主題的に論じられているケースが
   広範にあるから→3
   ※ただし、全ての概念は、機能的に(方法論的に)意識され解決されるべきとする人に
   とっては、4は正しくなりうる
65:2001/05/16(水) 08:30
5.「哲学とは何か」を「確定」する意義はない
  (「不可能」ではない。「可能」だが、私はそのような試みを絶対に承認しない)。
   なぜなら、「哲学」は「思考している」ことをそもそも前提とするところ、
   思考の対象となる事柄のうち、
    検証可能な領域の事柄は、科学というもっと限定的な概念で議論することができるから。
    検証可能でない領域を含めれば、結局それは人間が思考するすべての領域ということに
    なるので、その領域を限定する事は不可能だから。
6.「哲学とは何か」を語る意義は「ない」は、誤り。
   仮に哲学とは何かを語る行為それ自体が無意義だとしても「哲学とは何か」が語る行為から
   派生して、有益な議論が成立する可能性は、否定できないから。可能性がある=意義は認め「うる」。
7.哲学を語ることに、現実的な意義を見出すのは困難である
   (哲学とは何か」に対して与えられる答えが、現実との関連性の中で役に立つとは考えにくい→5参照
    ・・・どうしても与えられる答えは広範なものになるから)
   (哲学は万人に必要だ、はおそらく間違い)
66:2001/05/16(水) 08:34
結局のところ、「哲学」とは何か、は、「思考する(ありようと、その対象)」は何か、であり、
それは「人間が思考する全て」とするのが適当。
すると、内容的に既定するのは不可能。

では、方向性を見出すことでよしとしよう。考えるべきと考えるし、考えていたいから。

内容の方向性は「思想(私は「思想」は「理」想と呼ばれるべきだと思いますが)」として論じられ、
方法的な方向性は「論理(学)(レトリックにまで広げて考える人もいますが、私は認めません)」
「科学」として論じられているが、

普段それらの領域について論じている人たちが当たり前だと見なしているところに、焦点を当ててみよう、

哲学とは何かという問いに対しての私の印象みたいなものです(答えではないです。答えようがない
問いであるというべきです)。
ところで、哲学的な成果は、あがるたびに上にあげたような学問領域に「併合(この表現はぴったりだと
思いませんか? 昔の哲学の領域の広さ※1から考えると)」されていき、哲学の主題として語られなくなりますね。
このことを意識しておくことは、これから重要になってくると思います。

※1・・・現段階で「科学」とよばれている領域は、昔は全て「哲学」の対象だったそうです(既出)。
67私 >66:2001/05/16(水) 08:36
既定するのは不可能

規定

失礼しました。
68考える名無しさん:2001/05/18(金) 08:13
age
69考える名無しさん:2001/05/21(月) 12:33
age
70考える名無しさん:2001/05/22(火) 01:47
根暗のための自慰行為。俺もしかり。
71考える名無しさん:2001/05/23(水) 20:24
哲学はその対象とするものを明確化しないから
他の分野の連中から揶揄されたり、胡散臭がられたりする。
だからここではっきりさせておきたい。

哲学の対象は「知」である。
そして、哲学の定義は「知についての知」とすることができる。
外界(university)についてでも、自分自身についてでもいいが、
それを認識するとき、その認識方法そのものを吟味するのが
哲学であると措定したいのである。
ところで、われわれが自己分析をするとき、その自己分析をする自分の内なる
もう一つの主体は、いわゆる「自分」ではないと思われる。では何だろう。
このメタレベルに在る思考主体こそは、普遍性を有する「知」と分かちがたい
関係があると思われるのである。

さらに、哲学が「知についての知」だとして、そのラインで考えるならば、
ソクラテスの「無知の知」はいわば詭弁家への戒めとはなってもその内容に
ついての分析記述はないから、
カントによる批判哲学こそが、人間はどこまで知ることができるか、について
確定記述した事由から、その一応の達成点とみなすことができると思う。
だから、その意味では、宗教や道徳の源泉を根こそぎ暴露しようとしたニーチェ
にしても、知におさまらないものである実存について考えた連中にしても、
振り返ってみれば、カントが礎石になっているのである。
72考える名無しさん:2001/05/23(水) 20:57
>>1
辞書読めや・・・
73考える名無しさん:2001/05/23(水) 20:59
>>72
過去レス読めや・・・
74考える名無しさん:2001/05/24(木) 19:59
ageo
75考える名無しさん:2001/05/25(金) 16:35
哲学は死の問題を解決する学問だ。
哲学は学問の王道なり。なぜ科学が必要なのか?なぜ医学が必要なのか?
なぜ学問が必要なのか?
根本の存在理由を見つめるのが哲学。
また自分も同じ、死という崩壊があるからには解決しなくてなんとなる。
76ジン:2001/05/25(金) 19:33
「人間関係に関する事柄」と「一つの商品が様々な色彩のある完成に至るところの部品の成功(生)と失敗(死)の繰り返し」なのでは?
美術の「絵」でいうと、絵を書いた「人名」と絵そのものの「名前」を同時に絵を見る側に知らせない美術館内部の人たち、と同じと思うのです。
77名無しさんの主張
俺を解く鍵は「優越感」。