ジョルジュ・バターユは、自然のエネルギーと関係づけながら、奢侈的な、生産的でない支出や消費について語っているが、このとき問題とされているのは、独立した領域と思い込まれている人間的生産の領域には登録されていない支出や消費のことである。 《つまり、「有用性」の概念によって規定されるものとしての人間的生産の領域には登記されていない支出や消費のことである》。だから、バターユが問題にしているのは、我々が消費の生産と呼んでいるところのものである。 (cf. La Nation de depense et la Part maudite, Ed. de Minuit.)
マルクスによれば、《生産−自然》とる意的生命とは同一であるが、この点については、ジェラール・グネラルの次の注釈を参照。 cf. les commentaires de Gerard Granel, 《L'Ontologie marxiste de 1844 et la question de la coupure》, in l'Endurance de la pensee, Plon, 1968, pp.301-310.