1 :
考える名無しさん:
最近、永井同様、本を随分だしてるけど、一体できるやつなのか?
2 :
考える名無しさん:2001/03/12(月) 20:24
誰?
とーだいのせんせえ。
4 :
考える名無しさん:2001/03/12(月) 20:56
論理学の入門書おんなじようなの2冊も出してるぞ
5 :
考える名無しさん:2001/03/12(月) 20:58
優秀なんだろうけど「ノリ」がヤダ
6 :
考える名無しさん:2001/03/12(月) 23:39
学生の面倒見はあまりよくないという話です。
7 :
考える名無しさん:2001/03/13(火) 02:21
本を書くのと授業をするのはかなり上手いと思う。
当然好みは分かれるだろうが、
軽いタッチで専門的なことを
あれだけ見事に書けるのは立派。
哲学エンターテイナーとしては
いちばん器用な部類では。
8 :
考える名無しさん:2001/03/13(火) 10:38
>>6 就職の面倒見は、よくないんじゃなくてよく出来ない(人脈の問題)。
研究の面での面倒見は、とても良いです。(但し、学生が持ちこんだ話題が自分に
関心をわかせた時だけかもしれない。)
9 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 00:18
『論理学』p.161
>流布した誤解に「あるクレタ人曰く、『クレタ人はみんな嘘つきだ』
>この発言は矛盾している」というものがある。しかし、これは別に
>矛盾ではない。
ここが未だに分からない。
10 :
吾輩は名無しである:2001/03/14(水) 00:49
たしかに、彼はロジシャンというよりも「教師」。
巷に溢れるゲーデル本をいかに薄くできるかに挑戦してる
その営業、おっと失礼、チャレンジ精神は
評価すべきなのかもしれないけど。
とりあえず読んでみるなら、
GEBやスマリヤンのほうが面白いと思うね。
11 :
名無しさん@1周年:2001/03/14(水) 00:54
GEBって何ですか?
12 :
いちご姫:2001/03/14(水) 02:33
>7
私もほぼ同意見。
但し、器用なのではなく、天性と熟練の賜物、と思う。
あと、クリエイターとしても一流。
13 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 03:24
今年もいい成績残せるといいんだけどね。
スライダー覚えたって聞いたけど。
14 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 04:16
論理学関係の一風変わった教科書書いてなかったっけ?
何年か前に読んだけど忘れちゃった。
15 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 05:11
>>9 「クレタ人はみんな嘘つきだ」の否定は、
「クレタ人はみんな正直だ」にはならないからです。
1.クレタ人は全員うそつき
2.クレタ人は全員正直
3.クレタ人の中にはうそつきも正直もいる
1を発言した人は嘘をついているわけですが、
実際には3のような状態であると考えれば、
別に矛盾ではありませんよね。
単に、嘘つきも正直もいる中で、
嘘つきだった、というわけなので。
・・・説明がわかりにくかったらすまん。
俺が野矢氏の本を読んで
いちばん感銘を受けた箇所でもあったので、
つい語りたくなってしまった。
16 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 14:28
>>15 感銘するようなことではない。
パラドックスというべきところを矛盾というからおかしくなるだけの話です。
17 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 14:43
「全ての」というフレーズの誤用ですね。「ほとんど全ての」と、
ちょっと拘束条件を緩めてやれば矛盾無く実情が説明できるのですけどね。
19 :
いちご姫:2001/03/14(水) 17:24
>>10 どうもネット関係では、野矢氏というと論理学の教科書について話題
が巡りがちですが、本業は『心と他者』や『哲学後悔日誌』の世界でし
ょ。
20 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 20:02
>>19 後者に感銘受けた。
大森批判は的確と思っていいわけ?
21 :
いちご姫:2001/03/14(水) 21:35
>>20 特別な専門知識を要求される議論ではないのですから、まず、ご自分
で、『日誌』の限りでの大森vs野矢の議論のどちらが説得的か、検討な
されたらいかがですか?
それから、大森先生ご自身の著作にあたって野矢氏による要約紹介が
妥当か検討をして。
この手の話題は誰かが「だれだれが正しいです。マル」といって終わ
らせる(られる)ような種類のものではないでしょ。
22 :
9:2001/03/15(木) 00:21
>>15 はあ、つまりクレタ人の話はパラドクスではあるが
矛盾ではないということですか…
パラドクスと矛盾の関係がよく分からないが
対当ではあるが矛盾ではないということかな。
23 :
15:2001/03/16(金) 01:35
>>16 ん?
これってパラドクスでもないんじゃないの?
「パラドクス」の意味がよくわからなくなってしまった。
よかったら説明してください。
24 :
名無しさん@1周年:2001/03/16(金) 02:06
「無限論の教室」難しかったけど、面白かった。
野矢氏自身は、やはり可能無限派なのですか。
25 :
いちご姫:2001/03/16(金) 14:37
>>24 「決着はつかないんだろうけど、僕は可能無限が好きだなー」派でしょう
26 :
ミック:2001/03/16(金) 22:22
前から考えてたんだけど、「『無限論の教室』読むぞゴルァ(゚Д゚)」って企画どうかな。『ゲーデル・エッシャー・バッハ』も考えたけど、ありゃ長い。。
利点
1.新書だから『青本』と違って持ってる人も多いし、章ごとに分けてやれる。
2.後期Wの言語ゲームとか家族的類似性の議論は、中期の数学についての議論を母体にしているので、可能無限や直観主義を理解することで、後期Wの哲学の核心を理解できる!(少しウソ)
3.2.に関連して、Wの『数学の基礎』や『学団』(この2冊を持ってる人は少ないかもしれないが、持ってる人がじゃんじゃん引用すればOK。)、さらに戸田山さんの論文と照応させることでWの哲学をよりよく理解できる。
欠点
1.2ちゃん上での数式やグラフの出力に限界があってやりづらい
2.ゲーデルの不完全性定理の証明を理解している人がいるのか?(僕は理解してません)
こんな感じ。
もしスレ立てたら参加(要約引き受けor突っ込み)するぞ、って人います?
27 :
いちご姫:2001/03/16(金) 22:47
>>26 ゴルァ、なんか音に品がないので無しにしていただけますか?
(「『無限論の教室』を読むぞ」、とか「『無限論の教室』講読」とか――
後のだと単位が貰えそうな気がしてやる気が出る人も・・・・いないね)
あと、結構難しいですよ、枚数と読者対象を考えて議論をラフにしてい
る分、わからないところは、いくら読んでもわからない。
28 :
ミック:2001/03/16(金) 23:02
ゴルァ(゚Д゚)ってとぼけた味がして僕は好きなんだけどなあ。無い方がいいかなあ。
29 :
いちご姫:2001/03/16(金) 23:36
なんか「コラァ」っておこられているのが、さらに訛っているみたいで。
私はどうも・・・・
多数決かな、最後は・・・・
30 :
名無しさん@1周年:2001/03/17(土) 00:11
同志社の落合氏の「神の証明」(講談社現代新書)もあわせて読んでいただけるとありがたいです。
なんせ数理神学!だし。
それから、直感主義が出てきて分からなかった本は、中川敏「犬好きのための人類学」(だったっけ?出版社は世界思想社。)これもどなたか感想をいただけるとありがたいです。
31 :
考える名無しさん:2001/03/17(土) 00:21
『無限論の教室』買ったけど読んでなくてどっか逝っちゃったなー
高卒誅坊でも理解できますか?
32 :
いちご姫:2001/03/17(土) 00:50
>>30 <直観>主義ね、直感じゃなく
(なおしいれて、おこらないで下さいね)
>>31 一通りならたぶん。新書ですから。
でも十分に読みこなすとなったら、一苦労かと・・・・(大著ではないので
厳密な議論が与えられている訳ではなく、したがって、ある程度努力し
て、それでもわからないところは多分いくら読んでもわからない、ので
はないか、という気がします。
33 :
名無しさん@1周年:2001/03/18(日) 14:27
>32さん
30ですが、おこりませんから、直観主義について教えてください。ブラウアーの講演を聴いてからヴィトゲンシュタインは哲学に復帰したそうですが、直観主義とヴィトゲンシュタインの哲学は、対立するのでしょうか。そうだとしたら、どの辺で対立するのですか。
おめー、直観主義の説明は『無限論〜』にこれ以上ねーくらいわかりやすくあるじゃねえか。
ちったあ自分で嫁や。
35 :
いちご姫:2001/03/18(日) 21:34
>>33 (私の直観主義についての知識が正しいならば)対立します。
何故なら、直観主義は数学的認識を数学的直観の作用に求めるのに対し、(後期)
ウィトゲンシュタインは、直観などという心理的作用に求めず、行為に求めます。
(従って、数学的認識のではなく、数学的生産物の、というべきでしょうが。)
また、直観主義がヒルベルトについてどう反論しているのかは知りませんが、)
ウィトゲンシュタインは、ヒルベルトのプログラムをメタ数学ではなく数学の一つ
の新しい系としてしか見なしていない筈です。
>>34 (まあまあ。)『無限論〜』にはウィトゲンシュタインの数学論の解説は明示的
には在りませんから。
36 :
咲也:2001/03/19(月) 00:23
>>35 (姫様なので一応細かい突っ込み)
Brouwer個人の思想とHeyting以降の後継者が整備した数学的体系としての直観
主義を混同しないように注意されたし。後者はそのような哲学的背景とは独立に
議論可能であり解釈の与え方は一通りではない。前者はかなり独特な思想であり
そもそも形式化との関係から洗い直す必要あり(私はよく理解していませんが、
たぶん比較的穏健な解説はマイケル・デトゥルフセン「ブラウワー的直観主義」、
飯田隆編「リーディングス数学の哲学」所収などがあります)。これらの区別を
踏まえた上で数学的体系としての直観主義については例えばM. Dummentt,
Elements of Intuitionismなどを参照されたし。最近2nd ed.が出たので入手し
やすい。
あとメタ数学という用語も注意した方が良い。Kleeneなどが使う
Metamathematicsという用語は今で言う数理論理学を指す。つまり基本的には数
学である。ここでは「メタ数学」を「数学の基礎」と置き換える方がよいでしょう。
37 :
名無しさん@1周年:2001/03/19(月) 00:58
ぐぇぇ
駄目っ吐のElements of Intuitism.しぬわ!
ミックさーン、準備それだけしておけよ、っていわれたってできる?お
38 :
咲也@ミックさんにあらず:2001/03/19(月) 02:41
>>37 だからプロ向けの参考文献ですってば(秘孔を突いた?)。
直観主義論理の幾つかのsemanticsが載っていて
哲学の人が持っていそうな本はこれしか知らないものでとりあえず挙げてみました.
盛りだくさんな本だから別に通読する必要はないと思いますが、
証明や説明は数学の人が書いた本に比べたらかなり丁寧そう.
と、本題からどんどん外れそうなのでこの話はここまでにしますね.
どうも失礼しました.
39 :
考える名無しさん:2001/03/20(火) 23:27
野矢age
40 :
考える名無しさん:2001/03/25(日) 02:02
野矢さんはかっこいい。
東大には理系から入ったらしいがその動機が笑える。
学芸大付属高校時代にクラスメイトの女の子に
「男の子はきちんとした職につかなきゃだめ」といわれ
本人は「それなら理系だ」と決断したらしい。
理系はきちんとした職業に就けると当時思っていたみたい。
でも大学に入って「何もすることがなかった」(ねーわけねーだろ)らしく
毎日ぐだぐだ寝ていたらしい。
でもさすがにやばいと思い5年かけて卒業して科哲に再入学。
学部に7年。院に5年で合計12年駒場。(藁
42 :
考える名無しさん:2001/03/25(日) 08:49
つまり野矢氏は理系でおちこぼれたということか。
何を専攻してたのかわかりますか?
数学科かな?おちこぼれが多そう。
sage
46 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 18:19
24=30=33ですが、
35 さん、レス有難うございます。
しかし・・・・
> 何故なら、直観主義は数学的認識を数学的直観の作用に求めるのに対し、(後期)
>ウィトゲンシュタインは、直観などという心理的作用に求めず、行為に求めます。
数学的直観???なんか、ある種の能力ですか?私も持ってるんでしょうか?数学的直観を鍛える方法も教えていただけるとありがたいです。
行為に求めるっていうのは、ますます分からない。認識は、まあ行為の一つでしょうけど。すいませんが、もうすこし補足お願いします。
>34さん、
どうもドキュンなもので、すみません。何ページに書いてありますか。
>>46 『物自体=意志=語り得ぬもの』というスレッドの25あたり以下(の
咲也・いちご姫・代理いぬの投稿)をとりあえず読んでみてください。
直観主義の解説は詳しい人(咲也さんあたりかな?)に聞いてください。
今日野矢さんの新刊『初めて考えるときのように』を買ったのだけど
すごく趣味のいい絵本だった。
多才なひとだ。
49 :
考える名無しさん:2001/03/31(土) 01:40
野矢の新刊発売age
50 :
考える名無しさん:2001/03/31(土) 03:37
野矢体臭がオヤジ臭くねえか?
>50
オヤジだもん。
tarepanndaあげ
53 :
考える名無しさん:2001/04/06(金) 03:28
矢野顕子age
「哲学の謎」萌え〜>>哲学初心者なんだけど、
初心者的には「あれっ、いつのまに独我論抜けたの??」って感じで
消化不良なんですが、結局の所、疑い得ない真理って何なんですか?
「我在る」さえ信じられなくなった今日この頃。助けてくれ〜萌え〜
55 :
吾輩は名無しである:2001/04/07(土) 04:09
>>54 我無いもん。「我在る」というなら、何処にあるか
指し示してくで。君は君の何処に在る?
あ、やっぱり無いんですか。
ところで「我無い」ってのは真理なわけ?
ちなみに真理って何?(ゴメソ)
やっぱりある構造を仮定して、その中での真理を
論じることしかできないの?
(数学での真理というのはそういうものだよね)
57 :
考える名無しさん:2001/04/07(土) 16:04
>我無いもん。「我在る」というなら、何処にあるか
>指し示してくで。君は君の何処に在る?
ほう。どこにあるか指し示すことができなければ存在しないと
主張するつもりなの?
なら君に尋ねよう。
日本国はどこにある?
日本という国家を指し示してくれ。
あるいは、東京大学はどこにある?
あるいは、2chねるはどこにある?
指し示すことができないなら、存在しないことになるのかな?
今部屋に誰も居ないので。
取りあえず、俺はここに居るって事にしとこう。
「哲学の謎」を極論すると、過去は全て夢である可能性
(マトリックス状態)も否定できないから、結局、
何も言えなくなっちゃう。
東大があるかどうか、ってのは証明できないから、
在るとも無いとも言えないか・・・、う〜む。
数学では自然数や推論法則を仮定しての真理だからな。
やっぱり哲学でも仮定があるの?
それからこういう単純なことを議論しているスレッドが
あったら教えて欲しい。こういう議論って業界じゃ何て言うの?
初心者哲学?厨房哲学?
60 :
いちご姫:2001/04/07(土) 22:29
哲学者や哲学流派により仮定は異なると思います。
また、仮定を公理として前提して個別研究を膨らまして行くより、ある
議論の時には仮定していたことも、別な議論では正面から疑う、という
ふうに、ぐるぐる多角的に議論をしつづけるスタイル、というと哲学の
実践に多少とも近いイメージではないのでしょうか?
哲学の哲学とか哲学基礎論とでもいうべき分野なのでしょうが、上記の
ようにメタと対称がスパリとはわかれないのです。哲学の場合しばしば。
61 :
ゲーデル:2001/04/08(日) 00:10
なるほどね〜。
じゃあ、一応業界では、絶対知はないってことになってるの?
そうだとするとムナシイ・・・
それから哲学基礎に関する読みやすい本あったら教えて欲しい。
>>57 ばっかだなあ、
「指し示すことができないなら、存在しないことに
なるのかな?」と言ってるそいつは、何処にいるよ?
次元の違う話、すな。
63 :
いちご姫:2001/04/08(日) 00:23
>>62 おっしゃることがわかりません。
もう少し、敷衍していただけますでしょうか?
64 :
ゲーデル:2001/04/08(日) 14:14
ウェーン、漢字が読めないよ〜。
65 :
考える名無しさん:2001/04/08(日) 16:35
ふえん 【敷衍・布衍・敷延】
(名)スル
(1)おしひろげること。展開すること。
(2)意義・意味をおしひろめて説明すること。また、わかりやすく詳しく説明すること。「師説を―する」「梅子は始めて
自分の本意を―しに掛つた/それから(漱石)」
//dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/jp-top.cgi より
66 :
57:2001/04/08(日) 21:42
>ばっかだなあ、
>「指し示すことができないなら、存在しないことに
>なるのかな?」と言ってるそいつは、何処にいるよ?
>次元の違う話、すな。
バカにされてしまいました (^_^;
どこにいるって場所を問う問い方が間違っているといってるだけなんですけどね。
心はどこにある。
大学はどこにある。
私はどこにいる。
あくまでも、「どこ」にいるのか、と場所に拘るなら、
「ここ」といえばよろしい。
では、「ここ」とはどこだ、指し示してみろ、と問うなら、
指し示すことができるか否かと、存在するか否かとは必然的な関係にない
と答えればいい。
私という存在がどこにあるのか?
あるのは、身体であって、身体の何処を調べても私などという存在者はないで
はないか?
大学という存在がどこにあるか?
あるのは、建物であって、建物の何処を調べても大学などという存在者はない
ではないか?
心という存在がどこにあるか?
あるのは、身体(物質)であって、物質のどこを調べても心などという存在者は
見つからないではないか?
これらはみな同じ間違った問い方をしている。
まあ、バカなのでこのへんでやめときます。(^^)
67 :
ゲーデル:2001/04/09(月) 00:02
はい、僕には分からなくなりました(笑
やはり57さん62さんも
互いの公理を確認するべきかと・・・。
哲学の公理は統一化した方が
やりやすいと思うんだけど、やっぱ難しいかな。
哲学公理統一スレッドとか作って・・・
公理1 我は在る
公理2 起きている時、夢と現実の区別がつく
ここで気付く。「在る」の意味を定義しなきゃ。
無限後退の予感・・・
助けてくれ、いちご姫様!
68 :
ぷちとまと:2001/04/09(月) 02:38
>>67 無理です。
公理とはなにか、そもそも公理は措定できるのか、といった問いを考え
るのが哲学ですから。
諸科学が公理や特定の方法論(諸パラダイムといってもいいでしょう)
を前提に探究を進めるのに対し、探究の前提を懐疑するのが哲学的営
為なのですから。
69 :
ぷちとまと:2001/04/09(月) 02:40
>>67 「われあり」なんて哲学的には懐疑の対象に十分なります。
私は、逆に、デカルト的な徹底的懐疑など論理的に不可能だ、と考える
立場をとっていますが。
70 :
吾輩は名無しである:2001/04/09(月) 08:17
カントールの対角線論法がわかりません。
実数を小数の形にして番号を付けて列挙していきますよね。
んで、一桁目、二桁目、と対角線上の数字で新しい小数を作る。
そうやってできた新しい小数と、その数字をまた変えて作った二番目の新しい小数、
これらが番号を付けて列挙した小数の中に含まれていない、未列挙の小数だという理屈が理解できません。
どうしてそうなるのですか?含まれてるかもしれないじゃないですか?
71 :
考える名無しさん:2001/04/09(月) 10:10
>>70 あらかじめ全ての少数を列挙した上でその操作をするので。
新しく作った数は少数には含まれませんし、少数の形式で書くことも出来ないです。
組み合わせの数はもとになるものの数より非常に多い、というのがミソです。
72 :
ゲーデル:2001/04/09(月) 15:40
0.1 6 3 5 8 9・・ //対角線上の数字は1,7,3,2,0,7,・・・(a)
0.8 7 3 6 5 4・・ //(a)の数列を次の規則によって変換する。
0.0 0 3 7 6 5・・ //規則「0から5は7、6から9は3にする」すると
0.8 8 7 2 6 5・・ //7,3,7,7,7,3,・・・(b)
0.0 3 0 3 0 3・・ //この新しい数列(b)を小数に戻すと
0.7 7 6 3 8 7・・ //最初に0.を付けて0.737773...
↓つづく↓ //この小数は左に列挙した数列には含まれない。
//なぜならもしn行がこの小数になるとすると
//小数第n桁で矛盾が起きる。
含まれるような列挙を書いてみれば、無理なのが分かるよ。
>>70 >ぷちとまとさん
何だかここは、おいしそうな名前ばっかり出てきますね。
住み心地が非常にいいです。
>徹底的懐疑など《論理的に》不可能
というのは何となく分かるような気がします。
ただ例えば、その《論理的に》という言葉は
やはり何かしら構造の中での論理だと思いますが、
その構造にはどのような公理が在るのでしょうか?
73 :
ゲーデル:2001/04/12(木) 17:47
ウェーン、スレッド止まっちゃったし。
こういうことでしょうか?
徹底的懐疑が可能ならば
「徹底的懐疑が可能」自体を疑う事ができる。
????
メタとかの問題があるけど、ワケワカラン。
ところで「徹底的懐疑など論理的に不可能」 というのは
絶対的な知識になり得るのでしょうか?無理だろうな〜。
とにかく厳格な言語だけは公理としてよい物だと思いますが、
そこから現実世界を記述できるのかが問題なのですね。
(なんか哲学の本に出てくるような言葉が自然に出てきて驚き。
74 :
考える名無しさん:2001/04/14(土) 17:17
「われあり」も疑うことが可能なのでしょうか。
野矢さんの本の中で「任意のものは疑うことができるが、
すべてのものを同時に疑うことはできない」
といったことが書いてあったと思うんですけど、「われあり」の
疑い方がわかりません。教えてください。
「我」ということを疑うことは可能かも。
でも「在り」ということは否定できない。
「在りて在るもの」を「我」と言うことができるかどうか
疑って見てはどうでしょうか?
76 :
吾輩は名無しである:2001/04/15(日) 20:49
24,30,33,46,70ですが、71さん、72さん、レス有難うございます。うーん、なんかよく分かりません。
えー、対角線は、自然数が尽きるまでどこまでもどこまでも伸び、列挙された「すべての実数」を貫通するのですよね。で、新しい数xに変換すると、xはn番目の実数とは小数点n桁目で異なると。うーーん、ということは、列挙された「すべての実数」の中にはxと同一の数は存在しないということになるのかな。かならずどこか一箇所は違うということか。でも、「すべての実数を列挙」って言うのが本当なら、新しくできたxは、実数ではないのでは。だって、「すべての実数」の中に含まれてなかったんでしょ?
あとそれから、自然数の集合のべき集合は、実数の集合と同一と見てよいのでしょうか。それとも、元の数というか、濃度が同じだけなのでしょうか。
>47のいちご姫さん、ご教示有難うございます。ヴィトゲンシュタインの場合、数学的認識の基礎を生活世界というのか、生活の実践に求めるということですね。「分析的言明とゲーデル・・」スレによれば。
ところで、私が「無限論の教室」で感じ入ったフレーズは、「数学って言うのはわれわれのちゃちな想像力を超えて自己運動していくところが、なんともおもしろいですねえ」(p46)って言う個所なのですが、この自己運動というのは、何でしょうか。何か、人間の業じゃなくて、神の敷いたレールというか、超越的な絶対者のたくらみっていう気がするのです。と申しますのも、私がヴィトゲンシュタインの名前を意識したのが、山田正紀っていう人の「神狩り」ってSFを高校生のころ読んでからで、まあこの小説自体は結局ドキュンな出来なのですが、「神の存在を論証しようとするヴィトゲンシュタイン」というのが冒頭に出てくるのです。それ以来、「ヴィトゲンシュタイン=神も数も無限も実在するとする実在論者」というドキュンな先入観が刷り込まれてしまい、それで、ヴィトゲンシュタインが哲学に復帰したのは可能無限派=無神論者のブラウアーを論駁するためではないかという思い込みが、ついつい出てきてしまうのです。そんなわけで、論理(数学的直観でもいいですけど)って言うのは人間にとってどういう身分のものであるのか、神の恩寵なのか、それとも進化の過程で、認知的な意義があるものとして、適応的に獲得されたのか、そういうことが気になります。
宗教板の東方正教会スレッドを読みましたら、なんと「いちご姫」さんと「ぷちとまと」さんが書いておられるではありませんか。野矢スレッドで書いておられるのと同じ方でしたら、東方正教の受肉の論理を無限集合論で説く落合仁司氏「<神>の証明」(講談社現代新書)についてコメントいただければ幸いです。
根っからのドキュンで、「無限論の教室」をよんでも、主人公の男の子はもう一人の女の子と結局やれたのだろうか?とか、セイレイは父と子から発出するかもしれないが、セイエキは息子から発出するとか、そんなことしか考えない困ったおやぢですが、よろしくお願いいたします。
>>76 だから、あの証明から「すべての実数を列挙」はできないということが導かれます。
すなわち自然数の濃度よりも実数の濃度のほうがたかいというわけです。
78 :
考える名無しさん:2001/04/16(月) 02:00
野矢さんは東大の裏番長です。
79 :
ゲーデル:2001/04/16(月) 02:30
>>76、「すべての実数を列挙」って言うのが本当なら・・・
これは数学の背理法を使っておりまして、「すべての実数を列挙」っていうのが
仮定になる訳です。「もし実数が列挙できるなら・・・」という形の証明なんです。
で、その仮定のもとで、ああいう矛盾が起こった。
矛盾発生の責任はその仮定にあるので
「すべての実数を列挙」というのが誤りだと結論されます。
自然数の集合のべき集合 と 実数・・・これは実数の定義の仕方が問題です。
実数の定義として「自然数の集合のべき集合」を取れば、
もちろん同じものになりますね。
別の定義の仕方もあるので同じである必要はありません。
>>74 その本は「初めて考える時のように」ですね。
「われあり」を疑えない貴方にお尋ねします。
「われ」って何ですか?「あり」って何ですか?
意地悪ですか?僕も分からないのです。・・・疑えました?
>>75 おっしゃることがわかりません。
もう少し、敷衍していただけますでしょうか?(コピペ)
「在りて在るもの」って??
ところで皆さん、最終学歴、何なんですか?哲学科?
僕は地方国立大学理学部数学科、現在フリーターでござんす。
80 :
75:2001/04/16(月) 22:31
>>79 >「われ」って何ですか?「あり」って何ですか?
「われ」って何?と「あり」って何?を問うことは[同じ]でしょうか?
「われ」は何かと問うことはできるが、「在り」を問うことは
できるでしょうか?
81 :
考える名無しさん:2001/04/16(月) 23:25
「在り」は本質は繋(つなぎ)ではないかとおもいます。
つまり「われ」が事実、「いま、ここ」という時空とつながっていることの認識、
それが「われあり」としては如何?
>>80 >「在り」を問うことは できるでしょうか?
ただし、時間はいまだけでなく、未来も過去もある。
明日この場所に「わたし」が「在りや無しや」?は問いの対象になると思います。
82 :
75:2001/04/17(火) 00:32
>>81 いえいえ、それは「わたし」について問うことになります。
「在り」とはなにか?言葉としての「在り」ではなく
「在る」ということの「本質」について問うことが、
「我」と同様に(あるいは同じレベルで)できるのかということです。
83 :
75:2001/04/17(火) 00:39
>>81 補足
>本質は繋(つなぎ)ではないかとおもいます。
>つまり「われ」が事実、「いま、ここ」という時空とつながっていることの認識、
81さんの言葉は「在る」という状態がどういうことかという説明であると思いますが、
「在る」という根本がどういうことなのかを示しているのではないように思えます。
84 :
ゲーデル:2001/04/17(火) 00:50
ちょっと待った〜〜!意味わかんないぞ。
では、まず「あり」という言葉の定義からやってくれませんか?
でも言葉の意味って無限に後退しちゃうよね。
あっ、それで、ぷちとまとさんの「そもそも公理は措定できるのか」
という問いが出てくるのか・・・言葉さえ定義できないんじゃなぁ。
みんなはどこから思考をスタートさせてんの?
85 :
81:2001/04/17(火) 01:00
>「在る」という根本がどういうことなのかを示しているのではないように思えます。
根本と言われると、何か実在論的なことをイメージされているのでしょうか?
たとえば今日は17日。
では17と言う数は何処にあるのでしょう?
この質問は「何処」という空間の概念を繋ごうとしています。
この質問自体が間違いです。
数17は時空とは繋がりません。
時空のうちにある存在者を絶対と捉えがちなのはたぶん習慣によるものでしょう。
「素数に17は在りや否や?」と聞かれたらあなたはどう答えますか?
あなたの存在の根本への疑問は習慣から出た混乱では?
言い過ぎでごめんなさい、でも反論を期待します。
86 :
ミック:2001/04/17(火) 01:54
久々に見たら、何か妙な感じになってますね。
>「ヴィトゲンシュタイン=神も数も無限も実在するとする実在論者」
ワラタ。山田さんは、こんなW像を流布させてはばからない作家なんですか?強烈な電波を感じます。今度読んでみよ。
そろそろ「ゴルァ」スレ再開したいけど、いちご姫さんはまだ2ちゃんにいらさるのかな?
87 :
吾輩は名無しである:2001/04/17(火) 02:11
76ですが、79さん、レス有難うございます。
>自然数の集合のべき集合 と 実数・・・これは実数の定義の仕方が問題です。
>実数の定義として「自然数の集合のべき集合」を取れば、
>もちろん同じものになりますね
えー?でも、自然数からπとかルート2とかが出てくるのは理解できません。
濃度が同じだというのなら分かりますけど。
なんか私、勘違いしてますでしょうか。
88 :
ゲーデル:2001/04/17(火) 16:15
0=Φ;1={0};2={0,1};3={0,1,2};・・・
これが自然数の定義です。(Φは空集合)数を全て集合とみなしているわけです。
で、無理数のπですが、π=3.1415・・・を2進法に直すと
(*)π=11.0001011・・・(適当です^^)になります。
で、これと対応づけられる自然数のべき集合の元は・・・
まず*を並べ替えます。(イ)abc.defghij・・・であれば小数点を中心に
(ロ)cdbeaf0g0h0i0j0・・・という風に、左、右と交互に取って行きます。
イとロは1対1になります。同じように*を変換すると、
1 0 1 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 1・・・となります。これを自然数と対応させます。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
0 1 2 3 4 5 6 7 8 910111213・・・という風に。
で、1に対応する数字は集合に入れる。
0に対応する数字は集合に入れない、と決めれば、
{0,2,7,11,13,・・・}という集合ができますよね。
これは自然数のべき集合の元であり、πに相当する集合です。
まあこんな感じです。即興なのでちょっと不具合が在るやも知れません。
+−も無視してるし・・・まあ正の世界ということで勘弁。分かりました?
89 :
75:2001/04/17(火) 21:50
>>84 >では、まず「あり」という言葉の定義からやってくれませんか?
あなたは「在り」という言葉を定義できますか?
少し問いをずらしてみましょう。
「・・・が在る」ということは指し示すことはできます。
しかしそれは「・・・の在るという状態」を示しているのであって、
「在る」を示しているのではないのではないか。
「語りえるもの」と「指し示せるもの」ともう一つの段階があるかのよう
に思えます。
90 :
75:2001/04/17(火) 22:01
>>85 >では17と言う数は何処にあるのでしょう?
私だったら「
>>85」にと応えるでしょう。あるいは「85を書いた貴方の中に」
私にとってはその問いは誤りではないのです。
>「素数に17は在りや否や?」と聞かれたらあなたはどう答えますか?
この問いはいままでのものとは少し違うような気がしますが、
例えば私が「素数に17が在る」と考えているならば、「私にとっては在る」
ことになります。あるいはその逆も、です。
91 :
81:2001/04/17(火) 23:56
>>90 >私にとってはその問いは誤りではないのです。
そういわれるかなとも思いました。
あなたは「何処」を敷衍しています。
わたしは事実を規定する所の時空を指しています。
日常でも「何処」は意味を引き伸ばしてもつかわれていますね。
わたしとあなたの「何処」は違うのです。
ただし議論するためにはルールを一つにした方が良いのでは?
> この問いはいままでのものとは少し違うような気がしますが、
わたしの立場は「AはBである」の「ある」と「BにAがある」の「ある」
は同じだと言うことです。
「人間は哺乳類である」にたいして「爬虫類に人間は在りや否や?」
といった意味で「素数に17は在りや否や?」をだしてみました。
そもそもこの議論の始まりは「われあり」についてでした。
これを疑う事は出来るかということでしたね。
つまり「われなし」ということができるかどうかです。
これは「今ココにわたしはいない」といってしまったら発言自体が
「今ココにわたしはいる」が前提とならなければならないのに
それを否定する、すなわちAΛ¬Aであるが故成立しない、といった
議論が混じってきたのでしょう。
「今ココ」がなければ「われあり」と「われなし」は同居しても別に矛盾
でもなんでもないのです。
「在り」の本質はやはり繋(つなぎ)ではないかとおもいます。
92 :
考える名無しさん:2001/04/18(水) 15:23
そういえば、ここは野矢氏のスレッドでしたね。
実は氏の可能無限について、どうしても聞きたいことがあった。
野矢氏に面識も無いし、わたしのようなノータリンはどこかまちがってるのだ
ろうし、皆さん頭よさそうだから誰か教えてくだしゃんせ。
ご存じ排中律。
A∨¬Aの資格についてなんだけど、いまAを目の前の出来事とする。
そうするとAはあるかないか確認しているわけだから、こんな式は
立ちっこない。この式は未確認の領域に対する言明としかいいようがない。
袋の中には赤か白の玉が入っていて一つ玉をとりだそう。
さて玉を取り出した時の状況は、というと
A:赤の玉を取り出す。 ないし ¬A:赤の玉はとりださない。
かのどちらかだ、ということを取り出す前の時点で真偽判定している。
これは普通に考えると「赤の玉を取り出すか、取り出さないかだ。」
ということで表現されるがよく見てみるとこれは可能命題でも表現できる。
つまり(A∨¬A)≡(◇A∨◇¬A)
で氏の場合無限についても、それは完了したものではなくあくまで手続き
を述べたものに過ぎないといってるわけ。
ということはAは実体が無いので真偽判定可能な命題として取り扱いは
できないというわけだ。
で、ここからが本題なんだけど、「無限論の教室」でタジマ先生は可能無限
派を自認して無限は手続きを述べた可能命題の一つである、といってるわけ。
つまりAが可能命題である限り◇A∨◇¬Aは真とは認めないわけ。
しかしそうするとおかしな事が出てくる。
タジマ先生は最後に「Gは証明できない」が「Gは証明できる」とおなじになり、
つまりA∧¬Aは矛盾だからということで公理系の不完全性を証明している。
しかしこの証明可能性ということは、ずばりAでなく、◇Aないし□Aなのだ。
◇A∨◇¬Aは認めないといった人がなんであっさり◇A∧◇¬Aは認めて
しまうわけ?
「『Gは証明できない』かつ『Gは証明できる』」は可能無限派の立場で矛盾律
といえるのだろうか?ゲーデルの立場の実無限派であればそれは矛盾律だと
言い張る根拠はなんとなくわかるのだけど、可能無限派の立場で◇A∨◇¬A
は認めないといっておきながら、なんで◇A∧◇¬Aは認めてしまうわけ?
事実を目の前にして「取り出した玉は赤であり,かつ赤でない」といったら
矛盾律だということはわかるけれど「取り出す玉は赤かもしれないし
かつ、赤でないかもしれない」は別に矛盾ではない。
これはまさに確率の概念だ。
ということで可能無限派では不完全性定理は証明できないと断言する。
93 :
考える名無しさん:2001/04/18(水) 17:06
反論ばかりの個性無し。
中途半端なやつ。
頭が閉塞感してる。
94 :
考える名無しさん:2001/04/18(水) 17:13
哲学の基本は疑問を作ることだ。
誰がイチイチ説明しろと言った。
だから、中途半端だっつーの。
95 :
92:2001/04/18(水) 17:46
>>93>>94 わたしはまじめに議論できる方を望みます。
もし、まちがいならずばり指摘してほしいのです。
悪態をつくことがここの流儀なんでしょうか?
>95
罵詈雑言や悪態・アラシは
無視すればOK
それが流儀
97 :
考える名無しさん:2001/04/18(水) 22:47
批判の的の当人だが、
説明が長いのが読み手のことを考えていないと思ったまで。
短いほうがいいと思う。
昔からゆーじゃないか、
「下手の長談義」
と。
98 :
92:2001/04/19(木) 00:12
>97
>短いほうがいいと思う。 昔からゆーじゃないか、下手の長談義と。
フフフ、なかなかのってきませんねぇ。
でも長文だとあら捜しもできて好都合でしょう?
で、あなたは裏番長さんの飼い犬ってわけ?
99 :
考える名無しさん:2001/04/19(木) 00:36
100 :
92:2001/04/19(木) 00:56
>>99 むむむ、塚原朴伝流の使い手であったか〜!!
くやし〜。
101 :
考える名無しさん:2001/04/19(木) 01:00
妙な盛り上がりだ・・・。
102 :
代理いぬ:2001/04/19(木) 01:16
>92
>◇A∨◇¬Aは認めないといった人が
>なんであっさり◇A∧◇¬Aは認めてしまうわけ?
Aが成り立っているかどうかを、
全宇宙、くまなく調査してまわるのは(可能無限派としては)不可能だが、
今、目の前でA∧¬Aが成り立ってしまえば矛盾率は適用できるのだよ。
ちなみに実無限派は調査せずともA∨¬Aは先験的に成り立つと考える(のかも)。
これでいいかな?
103 :
代理いぬ:2001/04/19(木) 01:18
>102
矛盾率→矛盾律
104 :
ゲーデル:2001/04/19(木) 01:51
>>92 さっぱり分からんが、◇A,□A記号の解説きぼーん。
かもしれないマーク?
105 :
考える名無しさん:2001/04/19(木) 09:43
たぶん、
◇AがAが可能である。
□AがAは必然である。
という意味かと思われ。。
106 :
92:2001/04/19(木) 09:58
>ちなみに実無限派は調査せずともA∨¬Aは先験的に成り立つと考える(のかも)。
むにゅ???
A∨¬AはAを目の前にしては設定できない論理式なのです。
A:「明日は晴れ、ないし雨だ」
まあ、曇りを除外すれば二者選択の場面ですよ。だから排中律に調査といっても
過去の状況判断から起こりうる事象を推定しているわけ。
「あなたは8時間後、寝ているか起きているかだ」という言明に対して実無限派で
も可能無限派でも調査の必要を述べる事はないでしょう。
>今、目の前でA∧¬Aが成り立ってしまえば矛盾律は適用できるのだよ。
「無限論の教室」で問題なのは第一不完全性定理を証明するにあたって使用する
背理法は証明可能性に対し「できる、かつ、できない」というもの。これはA∧¬A
を実際目の前にしているのだろうかということです。
たとえばある自然数Aが素数であるかどうかの証明で、ここにその証明が「ある、
かつ、ない」というなら文句なしの矛盾律だけど、相手はあくまで証明可能性。
様相論理の必然□をつかってやると矛盾律は□A∧¬□A。
実は私前回で◇A∧◇¬Aのように書きましたけれど、これは実は矛盾律では
ありません。◇と¬の位置が逆なのです。
つまり、「できる、かつ、できない」は□A∧□¬Aであるので矛盾律ではないの
です。正確には「できる、かつ、できるではない」が矛盾律です。
だから可能無限派がやろうとしていることは√2のような実体でない手続きの対象
を実体として矛盾律を受け入れている。
これは自己矛盾ではないかというわけです。
>>104 このへんが適当でないかしら〜ん。
http://www2.justnet.ne.jp/~uekit/MODAL01.HTM
107 :
代理いぬ:2001/04/19(木) 16:04
>106(92)
>A∨¬AはAを目の前にしては設定できない論理式なのです。
>A:「明日は晴れ、ないし雨だ」
>まあ、曇りを除外すれば二者選択の場面ですよ。だから排中律に調査といっても
>過去の状況判断から起こりうる事象を推定しているわけ。
意味がわからんぞ。
二者択一であるということは、すでに排中律が成り立っている。
>「あなたは8時間後、寝ているか起きているかだ」という言明に対して実無限派で
>も可能無限派でも調査の必要を述べる事はないでしょう。
ばかもの。
可能無限的に考えるなら8時間後のことは8時間待たねば分からないが、
実無限的立場を取るならばいずれの結果が起こるにせよ、
排中律(A∨¬A)は成り立つものだと考えるだろう。
どのような状態であれ8時間後の君は、
「寝ているか、起きているか、いずれかに属する」
とね。
それ以下の書きこみはいまいち意味がつかめなかったのだが。
もう一度お願いできるかね?
108 :
92:2001/04/19(木) 17:20
>>107 >ばかもの。
>可能無限的に考えるなら8時間後のことは8時間待たねば分からないが、
>実無限的立場を取るならばいずれの結果が起こるにせよ、
>排中律(A∨¬A)は成り立つものだと考えるだろう。
ちゃうちゃう、ちょっと微妙だから勘違いするんでしょうけど、わたしが
問題にしたいことは可能無限派と実無限派では排中律で扱われる対象命題Aに対する
概念区分が違っているでしょうといいたいのです。
論理式ではなくAに対する考え方が違っていることに着目すべきでしょう。
「無限論の教室」の93Pにあるように実無限派では有理数と実数を同じ部類の
存在者とみなしている。ところが可能無限派では実数を存在者とはみなしては
いないのです。
なぜならそれが可能命題、様相論理で扱われるところの必然ないし可能の命題
であるからです。
「あなたは寝ている」と「8時間後にあなたは寝ている」は命題論理では普通どちらも
真偽判定可能な命題という地位を与えている。
ところが√2と同じで可能無限派では後者に命題としての地位を与えない。
つまりそれはまっとうな命題ではない、という言い方でしょう。
ところで不完全性定理で扱っている証明可能性という関数Pr(n)はこれと同じ範疇
のものではないかということです。
証明済み、あるいは定義済みの論理式ではなく、あくまで可能性における論理式な
のです。可能無限派は排中律だから扱わないのではなく、あくまで排中律でしか
扱わないような可能命題について論理式を作ることを拒んだ。
しかしながら不完全性定理の証明ではその拒んだことをやっているのではないか
と思うわけです。
どうなんでしょう。わたしにはそのように見えるのですが?
109 :
代理いぬ:2001/04/19(木) 17:36
もう一度読んでみたが、やはりわからん。
>106(92)
>たとえばある自然数Aが素数であるかどうかの証明で、ここにその証明が「ある、
>かつ、ない」というなら文句なしの矛盾律だけど、相手はあくまで証明可能性。
>・・・
>つまり、「できる、かつ、できない」は□A∧□¬Aであるので矛盾律ではないの
>です。正確には「できる、かつ、できるではない」が矛盾律です。
「証明がある(できる)、かつ、ない(できない)」とはどういう意味だ?
ここでいう「証明がない(できない)」が、「証明が存在しない」ということならば、
それは「証明不可能が証明されている」ということになる。
証明の可能、かつ不可能が同時に示されるならば、
それは「□A∧□¬A」で矛盾だろう。
ちなみに「□A∧¬□A」もAが必然かつ必然でないので矛盾だと思うが。
(私は様相論理を認めないので興味もないし全く詳しくない。間違いがあれば悪しからず)
110 :
代理いぬ:2001/04/19(木) 17:40
>108(92)
>証明済み、あるいは定義済みの論理式ではなく、あくまで可能性における論理式な
>のです。可能無限派は排中律だから扱わないのではなく、あくまで排中律でしか
>扱わないような可能命題について論理式を作ることを拒んだ。
>しかしながら不完全性定理の証明ではその拒んだことをやっているのではないか
>と思うわけです。
なんとなく、云わんとすることがわかりそうだ。
しかし、いま手元に本がないし、
よく読む暇もないのでしばらく待ってくれ。
*代理いぬからのおねがいです*
111 :
代理いぬ:2001/04/19(木) 18:13
ああ、思い出した。
恐らく、不完全性定理の証明は可算集合を対象にしている。
つまり「数え上げることのできる集合」だな。
有限の範囲で論理を構成するならば、
可能無限派、直観主義者の逆鱗には触れずにすむ。
(ただし、自然数の集合自体は非可算)
つまり、ゲーデルは、継ぎ足しても継ぎ足しても証明不可能な命題を生み出す、
公理の不完全さの"無限の手続き"を表現してみせたというわけだ。
だから、可能無限派も安心。
「無限論の教室」がどんな論法で説明していたかは、
今、手元に本がないからわからないがね。
恐らく問題のないものだと思うよ。
112 :
92:2001/04/19(木) 18:56
うーむ、代理いぬさんが迷うとなるとほかの人はもっとわからんか?
自分の表現力がないのか?
再度同じことの繰り返し・・・。
命題論理ではそのシンタックスの中で公理系Lを完全なものとして
みていた。ところが排中律においてセマンティクスが紛れ込んでいた・・・
とかやるともっとわからなくなるのか???
さきの排中律で扱うところの
A:「8時間後あなたは寝ている」
は公理系LにおいてあくまでA∨¬Aでしか扱えない。
単にAや¬Aを提示してもA自体が真偽判定できないのだ。
Aのセマンティクスが改めて与えられたわけではないがA∨¬A
が設定された時点でA⊃BやA∧Bは設定できなくなるのだ。
つまりセマンティクスが異種であることを宣言したのと同じだ。
そして可能無限派はこの種の命題で論理式を作ることを拒んでいる。
つまり、AからはA∧¬Aもつくってはならない、と宣言したに等しい。
しかしながら不完全性定理の証明ではこのAに該当する「証明可能性」
という概念を使って、その矛盾律から出てくる背理法を利用してその
証明を完結している。
これは明らかに自己矛盾。
113 :
92:2001/04/19(木) 20:24
>111
>恐らく、不完全性定理の証明は可算集合を対象にしている。
>つまり「数え上げることのできる集合」だな。
>有限の範囲で論理を構成するならば、
>可能無限派、直観主義者の逆鱗には触れずにすむ。
ちゃうちゃう、無限だからどうのこうのではなく,プロバブル関数が可能無限派の
立場で矛盾律を作れるのかということだ。
A:「8時間後あなたは寝ている」
は別に無限に関しての言及でない。それでも今それを言及することにおいて
それはあくまで可能命題。
実際、シュレディンガーの重ね合わせ何ぞは明らかに猫が死んでかつ生きている
状態を指している。確率概念は可能な状態に対して普遍性を獲得した判断だが
A∧¬Aを偽としてしりぞけているわけじゃない。
その意味で可能無限派は量子力学に近いのだと思う。
より現実的というわけだ。
しかしそのことがプロバブル関数を使う背理法を使用できなくさせているのだ。
114 :
ゲーデル:2001/04/20(金) 04:17
>>92 >A:赤の玉を取り出す。 ないし ¬A:赤の玉はとりださない。
>かのどちらかだ、ということを取り出す前の時点で真偽判定している。
>これは普通に考えると「赤の玉を取り出すか、取り出さないかだ。」
>ということで表現されるがよく見てみるとこれは可能命題でも表現できる。
>つまり(A∨¬A)≡(◇A∨◇¬A)
>>106の論文を読んでみて思うんですが、今の世界をはっきりさせるべきと
思うんですが。まだ取り出す前なら◇A∨◇¬Aが真だと思う。
でもって、取り出した後の事として話しているのであれば、
A:赤の玉が出た。 ないし ¬A:赤の玉は出なかった。
と定義してA∨¬Aと言うべきだと思う。
(A∨¬A)≡(◇A∨◇¬A) の式はトートロジーだから≡で
結んでも構わないが、それ以上の意味はなく誤解を招きかねないと思われ。
>つまりAが可能命題である限り◇A∨◇¬Aは真とは認めないわけ。
なぜ可能無限派は認めないんですか?
115 :
92:2001/04/20(金) 11:39
>>114 >106の論文を読んでみて思うんですが、・・・
論文ほどのものではありません。でも光栄です。
>取り出した後の事として話しているのであれば、
>A:赤の玉が出た。 ないし ¬A:赤の玉は出なかった。
>と定義してA∨¬Aと言うべきだと思う。
これはおかしい、現実世界はAないし ¬Aは決定しているわけですから、わざわざ
A∨¬Aと言うはずはないでしょう。
>(A∨¬A)≡(◇A∨◇¬A) の式はトートロジーだから≡で
>結んでも構わないが、それ以上の意味はなく誤解を招きかねないと思われ。
これは微妙だと思います。可能無限派=直感主義としていいのではと思いますが
そうすると、この構文自体を認めないですからトートロジーもなにもありません。
>つまりAが可能命題である限り◇A∨◇¬Aは真とは認めないわけ。
>なぜ可能無限派は認めないんですか?
「無限論の教室」をわたしのアホな頭が見る限りアキレスのところが良いと思
うんですが例のアキレスと亀の話で・・・
18P
アキレスは顔を上げてこう言うんですよ。
「いまわたしは全ての自然数を書き終えた」・・・
「アキレスが最後に書き出した数は奇数だったんでしょうか、偶数だったんで
しょうか?・・・」
「『最後の自然数』などというのは、矛盾概念なんですよ・・・
という内容になってます。
可能無限派の立場では議論領域を数論として無限なる領域のことを言及するの
は無意味としたのではないかと考えます。
それならば、現実には玉を取り出す前の時点で、玉を取りだした時のことを言及
するのは無意味ということがいえる。
さらに、ここから証明する前の時点で証明できるかどうかを言及した関数は
扱えるのだろうかというわけです。
116 :
ゲーデル:2001/04/20(金) 15:52
げ、92さんの文章だったんですか。ムムム。
>これはおかしい、現実世界はAないし ¬Aは決定しているわけですから、わざわざ
>A∨¬Aと言うはずはないでしょう。
決定していても言ってもいいと思う。
>それ以上の意味はなく誤解を招きかねないと思われ。
>>92を読むとA≡◇Aのように思えてくるが、これは違いますよね、
と言いたかったのです。 『A:赤の玉を取り出す。』という文が微妙で
分かりにくいのですが、もっと厳密に言って欲しいです。
A:可能世界W1で赤の玉が出る。¬A:可能世界W1で赤の玉は出ない。
という意味なのか?そうすれば◇はまた次の世界W2に関することですから、
(W1→)A≡◇A(←W2)のような誤文は出てこないと思う。
>@無限なる領域のことを言及するの は無意味とした
これはそう思います。ただ最後の自然数については実無限派も言及できないとは
思いますが・・・
>A玉を取り出す前の時点で、玉を取りだした時のことを言及するのは無意味
えっ・・・@からAって飛躍し過ぎじゃないですか?詳説きぼーん。
117 :
代理いぬ:2001/04/20(金) 19:18
>108(92)
>ところで不完全性定理で扱っている証明可能性という関数Pr(n)は
>これと同じ範疇のものではないかということです。
>証明済み、あるいは定義済みの論理式ではなく、
>あくまで可能性における論理式なのです。
ポイントはここだな。
ゲーデル数化にはじまる不完全性定理の証明は、
すべて機械的手続きによって有限の範囲に行われる。
ゆえに、「不完全性定理で扱っている証明可能性という関数Pr(n)」は、
様相論理にみられるような、可能・不可能性のことではない。
証明が可能である、というところの証明可能性のことである。
手続きが機械的ステップに従い有限のうちに終了するならば、
それは可能無限の立場に反しない。
自然数を0と後続関数から構成するならば、
その総体は実無限的実体だが手続きは可能無限的実体である。
可能無限の立場でも、自然数が無限的存在であることは認める。
しかし、我々が扱うのはせいぜい有限の範囲に止まり、
そのプロセスは常に有限でかつ明らかなのであるから、
形式主義に乗っ取った不完全性定理の証明は、
直観主義的な見地からの問題をはらまないのである。
つまりだな、「無限論の教室」で"自己言及的証明不可能性"と表現されているような概念は、
"可能性"なのではなくて、実際に、常に、構成可能な概念なんだ。
早い話が、"可能性"というより"可能性質"ってこと。
118 :
代理いぬ:2001/04/20(金) 19:23
あ、もちろん、
>117(代理いぬ)
>実際に、常に、構成可能な
というのは数学的に構成可能ってことね。
119 :
92:2001/04/21(土) 12:16
>>116 >>A∨¬Aと言うはずはないでしょう。
>決定していても言ってもいいと思う。
ダメだつったらダメね♪ (追っかけ音二郎)
理由を言いなさい。
>>A玉を取り出す前の時点で、玉を取りだした時のことを言及するのは無意味
>えっ・・・@からAって飛躍し過ぎじゃないですか?詳説きぼーん。
91氏の思考方式を引用すると次ぎのようにも言えるでしょう。
(1-1)人間は哺乳類である→哺乳類に人間がいる
(1-2)人間は魚類ではない→魚類に人間はいない
●人間の遠い祖先は魚であった
(1-3)人間も極限では魚類である→極限の意味で魚類に人間がいる
(2-1)√2は実数である→実数に√2がある
(2-2)√2は有理数ではない→有理数に√2はない
●有理数は自然数及びその比であり自然数の無限数列の部分が無理数である
(2-3)√2も自然数の無限数列である→有理数の無限形式に√2がある
(3-1)玉を取り出すのは未来である→未来事象に玉を取り出す、がある
(3-2)玉を取り出す、は事実でない→事実に玉を取り出す、の事象はない
●未来は現在の事実によりすべて決定されているという考えがある
(3-3)玉を取り出す、は決定した事実である→事実の延長に玉を取り出す、がある
まあご意見いろいろでしょうがn-3について
実無限派は肯定、可能無限派は否定ないし無意味とする。
論理学スレッドもこんな感じで各自一杯書いて全然収拾つかなくなってたけど
これは誰かが全然頓珍漢な事言っているからなのでしょうか?
それとも実無限派やらと可能無限派とやらの対立?
121 :
92:2001/04/21(土) 13:22
>>120 まあそんなとこです。
しかしながら、今回は自分のためになってます。
ゲーデルのそもそもが、数学の無矛盾性を確立しようとしてリシャール
のパラドックスに至り、そこでの矛盾律を解消しようとして「証明可能性」
という概念に至ったのだ、までおぼろげながらわかってきた。
ところで、あなたはどのへんまでわかるの?
いやー、ハイデカー氏には感心した。とてもあそこまでいかないけど幾分
近づくぐらいまではと思います。
122 :
92:2001/04/21(土) 16:27
>>117 >「不完全性定理で扱っている証明可能性という関数Pr(n)」は、
>様相論理にみられるような、可能・不可能性のことではない。
必然は□P→Pだから同じと考えることも出きる。
>証明が可能である、というところの証明可能性のことである。
>手続きが機械的ステップに従い有限のうちに終了するならば、
>それは可能無限の立場に反しない。
有限の決定した手続きだとしても、対象命題について述べている時点で真偽判定
できているわけではない。ゲーデルは意図的にそのような取り扱いをしたのだ。
なぜなら、そのままではその命題は自己言及否定文(偽)となって、それ自身が矛盾
律となるからだ。それを避けるために「証明可能性」にすりかえたわけだ。
ちょうど√2を無限数列の有理数というに等しい。
>自然数を0と後続関数から構成するならば、
>その総体は実無限的実体だが手続きは可能無限的実体である。
>・・・そのプロセスは常に有限でかつ明らかなのであるから、
>形式主義に乗っ取った不完全性定理の証明は、
>直観主義的な見地からの問題をはらまないのである。
対象を扱えないといっているのではない。
それは√2をあくまで手続きとして数列を記述していくことだ。
又そうすることだという確認といっても良い。
>つまりだな、「無限論の教室」で"自己言及的証明不可能性"と表現されて
>いるような概念は、"可能性"なのではなくて、実際に、常に、構成可能な
>概念なんだ。
わたしが問題としているのはそうした構成概念をから矛盾律を作っていることだ。
実体のないものに矛盾も何もあったものか。
そして不完全性定理証明の背理法は矛盾律を使っているのだ。
否定したものを知らん振りして使っているのと違うのか?
123 :
ゲーデル:2001/04/21(土) 17:28
#これはおかしい、現実世界はAないし ¬Aは決定しているわけですから、
#わざわざA∨¬Aと言うはずはないでしょう。
>決定していても言ってもいいと思う。 の■理由■
つまりですね、A;私は人間、¬A;私は人間でない、とした時に
A∨¬A即ち「私は人間である、もしくは人間でない」
と言ってもいいじゃないですかと、トートロジーだから
いついかなる時に言っても良いはずです・・・あ、議論ずれてます???
玉の方は申し訳ないのですが分かりませんでした。
そろそろ野矢先生に登場してもらいたいのですが、
東大の人、連絡してもらえませんか??
_ , ― 、
,−' `  ̄ヽ_
,' ヽ
( )
( ノ`ー'ー'ヽ )
( ノ● ●( )
( 〉 -――-( )_ _
`ー'l ● ( ノ ヽ )
、‘ー'ー’ _ノ`ー' |
 ̄| ̄ |
/ /7 / ̄ ̄/ /
`ー´ `ー ´ `―´
125 :
考える名無しさん:2001/04/22(日) 00:55
>>111 >(ただし、自然数の集合自体は非可算)
要素が可算なら,その集合も可算だよ.
>>112 >そして可能無限派はこの種の命題で論理式を作ることを拒んでいる。
>つまり、AからはA∧¬Aもつくってはならない、と宣言したに等しい。
矛盾律は直観主義でも最初から認めてるよ.
>>123 >A;私は人間、¬A;私は人間でない、とした時に
>A∨¬A即ち「私は人間である、もしくは人間でない」
>と言ってもいいじゃないですかと、トートロジーだから
>いついかなる時に言っても良いはずです
Aが「連続体仮説」のとき,A∨¬Aは成り立つと思いますか?
126 :
刺激:2001/04/22(日) 01:27
127 :
92:2001/04/22(日) 13:04
>>126 いや、嘘でも光栄です。こちらは本物の可能性もあるのかな?
まあ、自分の本買えって言うのも・・・、ありうるか。
野矢氏の両著書はどちらもつぎのことをあっさりと素通りしている。
すなわち、自然数論において無矛盾性を証明するに当たり算術の形式的体系
において「真であること」の定義が上手く出来ない、ということ。
この理由をもしできれば解説してもらいたい。
そしてこのハードルがあるゆえにやむをえず、「証明可能性」と言う概念を
使わざるを得なかったという事もついでに・・・。
どうも両著書ともそれほど抵抗無く「この文は偽である」から「この文は証明でき
ない」へ行ってしまうのだけどいいのだろうか。
これは類推だがピタゴラスが√2を見出して矛盾律が出てくるので、彼は
臭い物にふたの態度を取ったのだが、従来の自然数の有比という議論領域
のうちにこれを説明しようとすると小数部において繰り返しのない無限数列
をもつもの、とでも定義する事になったのではないか?
これに該当するのがゲーデルの「証明可能性」の概念ではないか?
「可能」概念は代理いぬ氏が様相論理を認めないといったようにまだ確定して
いない。様相論理の可能概念は多世界解釈を前提としたある特殊なやり方だ。
最も普及しているのはやはり確率だろう。
しかしながらもっともわれわれが使っている「可能」は「もしかして彼女に振られる
のではないだろうか」といったわけのわからん概念だ。
しかしてゲーデルの「証明可能性」はどれに属するのか属さないのか?
べつに野矢氏でなくてかまわないのだけれど、この辺の所を東大の権威で
臭い物にふたではガリレオを弾圧する教会と同じだ、とは言い過ぎ、ゴメン!
実つのところ野矢さんファンの哲学おたくが、「論理学」ではなんとも思わなかった
のだけれど、「無限論の教室」でなんとなく欲求不満を覚えてだだをこねてるわけ。
ドーモすっきりしないんじゃ。だれかすっきりさせてくれ!
128 :
92:2001/04/22(日) 13:09
>>125 >矛盾律は直観主義でも最初から認めてるよ.
あたりまえじゃ。わしが何言うてんのかまだわからんらしい。
129 :
ゲーデル:2001/04/23(月) 02:06
>Aが「連続体仮説」のとき,A∨¬Aは成り立つと思いますか?
連続体仮説という証明されてないものはどうか?ということでしょうか。
「選択公理」とかでもいいですね。
その構造の公理に入れちゃえば、もちろんAだからいいけど、
公理に入れないとなると、残りの公理から証明or反証できれば
(まだ人間が成し遂げていなくても)、これもOK。
証明、反証いずれも構造的にできない場合A∨¬Aは成り立つか?ですね。
う〜む、意味無し、じゃないですか?(ゴメンナサイ適当で。)
Aとして「ペアノ算術を含む公理系Qが無矛盾である」とすればどうかな。
矛盾が出れば¬AでOKだ。
でも矛盾が出なくてもA(無矛盾)とはならないんだよね。
これって何か変だ。後は明日。今日は寝よう。
guest guest
131 :
RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY:2001/04/23(月) 04:03
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132 :
ゲーデル改めサクランボウ:2001/04/23(月) 14:04
129の続き。無矛盾であることを証明できないんだったな。
なんだか混乱してきた。HNのゲーデルは辞めよう。
これからは「サクランボウ」で行こう。錯乱してるから。
でここからサクランボウの錯乱した意見を。
公理系Qが矛盾なら構造的に矛盾は証明できる。¬A
公理系Qが無矛盾ならA。よってA∨¬A。うわっ、適当だ。
やっぱり第一不完全性定理で言われる証明も反証もできない
論理式Xの方が大事だな。X∨¬Xは成り立つか?
やっぱり意味なしだと思う。X自体意味無しと思う。
133 :
考える名無しさん:2001/04/23(月) 14:28
だっからさあ、東京大学というこの国の最高学府の
論理学のせんせいってところが重要なんだってば。
135 :
代理いぬ:2001/04/23(月) 19:40
わたし的には前回の書き込みで終了したと思ったがな。
後は君の方が理解するべきなので、私は新しく言うことがない。
誰か別の仕方で説明してくれる御仁が現れてくれればいいのだが…。
>112
>>「不完全性定理で扱っている証明可能性という関数Pr(n)」は、
>>様相論理にみられるような、可能・不可能性のことではない。
>必然は□P→Pだから同じと考えることも出きる。
のー。
いまだに君は、"証明可能性"を"◇P"であるような概念だと勘違いしている。
"証明可能性"が本当に"□P"であるような概念だと理解しているならば、
それが直観主義の立場に反しないことが理解できるはず。
何故なら、「□P→P」(Pが必然ならばPは真)だからだ。
>有限の決定した手続きだとしても、
>対象命題について述べている時点で真偽判定できているわけではない。
しかし、それは有限の明示的なステップにしたがって機械的に処理することが出来る。
それゆえ、"P:証明可能性"は"□P"(必然)であり、
「□P→P」からPを真とすることが出来るのだ。
>>「無限論の教室」で"自己言及的証明不可能性"と表現されているような概念は、
>>"可能性"なのではなくて、実際に、常に、構成可能な概念なんだ。
>わたしが問題としているのはそうした構成概念をから矛盾律を作っていることだ。
>実体のないものに矛盾も何もあったものか。
わからん奴だな。
実体は有ると繰り返しているだろうが。
それも、"常に"、"明示的に"な。
「ある公理系において証明不可能な定理は必ず構成可能である」
これが第1不完全性定理。
必ず、明示的に可能。
証明可能性は常に真。
どや?
136 :
92:2001/04/23(月) 22:37
>>135 >「□P→P」からPを真とすることが出来るのだ。
ふむふむ、べつにこの点は文句は言いません。
>>"可能性"なのではなくて、実際に、常に、構成可能な概念なんだ。
この点についても文句はいいません。
>>実体のないものに矛盾も何もあったものか。
>わからん奴だな。
>実体は有ると繰り返しているだろうが。
>それも、"常に"、"明示的に"な。
もし実体ならばアキレスのサンプルでは自然数最後の数は偶数とか奇数とか
決定できるはずではないか?
・・・というと、メタレベルの有限での話だ,という反論ですか。
ただし、それならなぜ、わざわざ「証明可能性」などという概念をなんでもってきたのか?
>「ある公理系において証明不可能な定理は必ず構成可能である」
>これが第1不完全性定理。
>必ず、明示的に可能。
>証明可能性は常に真。
>どや?
ドーモこの言い方だと「証明可能性」に階層でもあるように感じるんですうが
いいんですか?
うーむ、自分が誤解していてわからんとすれば、まず第一にゲーデルが何故
真とか偽とかいわずに、なぜ「証明可能性」になったのか?
それは真とか偽とかすると矛盾律が出てくるというその事でしょう?
本当は野矢氏の御名を語った刺激氏にともおもったのだけれど代理いぬ氏
でもいいです。その矛盾律が出てきて真偽の定義が善く出来ないというのは
ペアノのことか?プリンキピアマセマティカのことか?それとも一般の自然数論
をさしているのか?どうしてそれがいえるのか?
あたくし、びんぼうそのひ暮らしのフーテンなものであれ買えこれ買えでなくて
ズバリ、ここでシンプルにご提示お願いです。平伏m(。。)m
それから代理いぬ氏、あなたの可能概念を聞きたい。
(1)様相論理の奴。
(2)ゲーデルの証明可能の奴。
(3)シュレディンガーの確率の奴。
(4)不安神経症のような得体の知れない奴。
これらは同じなのか?
違うなら何故違うのか?
あなたはどう考えてるのか?
137 :
RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY:2001/04/23(月) 23:15
わたし的には
だってさ(わらら
>>136 > まず第一にゲーデルが何故
> 真とか偽とかいわずに、なぜ「証明可能性」になったのか?
不完全性定理はモデルによる意味論的な真偽とは関係ない
形式的体系の純粋に構文的な性質であることをまず理解されたし。
139 :
92:2001/04/24(火) 12:33
>不完全性定理はモデルによる意味論的な真偽とは関係ない
>形式的体系の純粋に構文的な性質であることをまず理解されたし。
セマンティクスをシンタックスに翻訳できる、とするならば貴方の議論は不成立。
よって以下の議論を否定せよ。
意味論的な真偽はアリストテレスの古典論理学に照らせば構文論にて置き換えが
できる。アリストテレスの論理学はまず次の四区分の命題に振り分けられる。
・全称肯定文 人間は哺乳類である
・全称否定文 人間は魚類ではない
・特称肯定文 ある人間は女である
・特称否定文 ある人間は女ではない
この区分方は二つの概念a,bを取り出して真なる命題をa,bに関係を割り当て
それぞれ、すべてのおよびあるの関係をつけるものである。
これは述語論理の全ての∀ある∃に該当するものである。
(1)∀xFx (2)∀x¬Fx (3)∃xFx (4)∃x¬Fx
意味論を分析すれば概念aが与えられた時aがその他の概念bと如何なる形式
で結びつくかは、たかだか四つに過ぎない。
よって概念a、bが与えられた時、両者間に如何なる形式を持つのかを定義すれば
セマンティクスはシンタックスに変換可能。
この点を考慮すれば「月がチーズでできいれば・・・」などといったクワインの
アホくさい議論は避けることが出きる。
140 :
代理いぬ:2001/04/24(火) 12:56
>136
>もし実体ならばアキレスのサンプルでは自然数最後の数は偶数とか奇数とか決定できるはずではないか?
のー。(落ちついた感じでゆっくり首を振りながら)
アキレスのサンプルでは、"自然数最後の数"という表現が実無限的だ。
可能無限的立場では、"自然数最後の数"なぞ存在しない。
このサンプルでの可能無限的"実体"とは、規則に従って構成した有限の範囲の自然数だけだ。
しかし、そのような有限の範囲の自然数だけでは、
どうして、"自然数最後の数"に言及することができようはずもない。
>ドーモこの・・・
不完全性定理の証明のテクニックは、ある体系の保証を行うメタ論理の体系を、
その体系自身の中で展開してしまう点にある。
階層などない。
それから、ゲーデルの原論文では、
プリンキピアマセマティカの体系における証明だったようだが、
ある程度(基準は知らん)の自然数論的な構造をもった体系になら通用する証明らしい。
ま、ともかく、自分で詳しく見てみるべきだね。
>>126 (1)、(2)、(3)、(4)は全て違うものと言えると思う。
浅ましき意味を気侭に読み込むこと能わず。己の盲を知るべし。
模型的意味による真偽なるもの何処にも陽に現れず。
改めて数理論理の書を端より紐解き
証明可能なること及び恒真なることの定義を解した後
第一不完全性定理の証明を虚心坦懐に読むべし。
それを忌む輩に於いては理解に至る道は遠し。
142 :
代理いぬ:2001/04/24(火) 13:16
>138
>不完全性定理はモデルによる意味論的な真偽とは関係ない
>形式的体系の純粋に構文的な性質であることをまず理解されたし。
そのとぉЧ。
あらゆる前提を真と受け入れれば、結論が必ず真になることが導かれる。
それが証明なんだけれど、この場合の"真・偽"が、
"正しい・間違い"といった意味概念ではないところが形式主義たるゆえん。
"矛盾"という概念が、
「正しく、かつ正しくない」という意味論的解釈で問題だとみなされるのではなく、
二値論理による一種の状況として理解されることもそう。
92氏は形式主義の意味を理解すべし。
143 :
92:2001/04/24(火) 16:00
>>140 >のー。(落ちついた感じでゆっくり首を振りながら)
のってますね。
>可能無限的立場では、"自然数最後の数"なぞ存在しない。
それもわかってるんだけど。
で、存在しないものについて矛盾律を立てているわけでしょう。
>どうして、"自然数最後の数"に言及することができようはずもない。
言及できない物についてどうして言及してるの。
まあここはメタ数学は有限の範囲のことで、このサンプルとは違うということ
でしょうかね。
>(1)、(2)、(3)、(4)は全て違うものと言えると思う。
ここ、ここ
あっさりとおらないでくだしゃんせ。天神様の細道よ。
すくなくも確率の定義は□P→P
は、蹴り上げた下駄が表か裏かは1/2として、P:裏の出る確率1/2
は試行回数を増やすと無限にPに近づく。
その否定¬P、は重ねあわせとして存在する。
よって(P∧¬P)≠0は認めるか?
144 :
代理いぬ:2001/04/24(火) 16:41
>143
>どうして、"自然数最後の数"に言及することができようはずもない。
>言及できない物についてどうして言及してるの。
そりゃあ、ただ単に話題にすることを"言及"と呼ぶのなら、
誰にでも、何にでも"言及"できるさ。
そうではなくて、
「可能無限的立場の自然数論では"自然数最後の数"は扱えない」
ということ。
それより、
>>141 のすばらしい助言を見たかね?
「無限論の教室」に興味を書きたてられたのなら、
野矢茂樹の「論理学」はおすすめするぞ。
本当に知りたくば、自ら体験するしかない。
大人しく買って来なさい。
145 :
92:2001/04/24(火) 18:53
>127
>>実つのところ野矢さんファンの哲学おたくが、「論理学」ではなんとも思わな
>>かったのだけれど、「無限論の教室」でなんとなく欲求不満を覚えて
>>だだをこねてるわけ。
すでに「無限論の教室」より以前に拝読仕り候也。
代理犬さん、わたしのやつ全部読んでないね。
で143は答えてくれないの〜ん?
146 :
92:2001/04/24(火) 22:42
>>141 >浅ましき意味を気侭に読み込むこと能わず。己の盲を知るべし。
ははー。
うーむ、神社に参拝しているみたいだ。
>模型的意味による真偽なるもの何処にも陽に現れず。
実際,代理いぬ氏も認めたと判断しますが、可能性の概念がこれだけ
ややこしいなら、「無限論の教室2」では、「この文は偽である」から
「この文は証明できない」にあっさりいかないで
いま少し解説しても良いのでは・・・。
・・・と、もし野矢氏をご存知なら次回の出版はこれ、伝言おねがい。
>改めて数理論理の書を端より紐解き
>証明可能なること及び恒真なることの定義を解した後
せっかくの詔だから
従来の恒真の意味を
命題A,Bが真偽いずれの値を取ろうとも、この二つの命題より構成
される論理式が常に真である場合,
これを恒真という。
しかして一つの命題AについてAが真とは
概念aと概念bより構成されるとして、命題単位でも
a、bが関連する肯定文として次の四つの真なる命題の型がある。
(イ)すべてのaはすべてのbである
(ロ)すべてのaはあるbである
(ハ)あるaはすべてのbである
(ニ)あるaはあるbである
アリストテレスの全称肯定文
「人間は哺乳類である」は(ロ)にあたる。よって(ロ)からは
あるbはすべてのaでない、といえる。
つまり「ある哺乳類は、人間ではない」が導出可能といえる。
また特称肯定文「ある人間は女である」は「ある人間は雌の性質を有する」と同値
との解釈から(ニ)にあたり、あるaはあるbでない、も導出可能といえる。
となると・・・
ゲーデルの問題は後者のような原子命題にかかわる問題であり、まず前提
となる命題Aがあって、そこからある命題B1、B2・・・が導出可能である。
ここでAがシンタックスに限定した場合、a,bは確定していないわけだから
「もしa,bが(イ)〜(ニ)のいずれかだったとして」という仮定文で記述できる。
ゆえにここでは、もしAが真であれば・・・、という条件文が設定できる。
そして、そこからB1、B2・・・のうちに「Aが真でない」といった命題を設定することが
可能である。
神主さんへ
ここまでの千鳥足でおかしいところはあるのか?
147 :
考える名無しさん :2001/04/24(火) 23:11
>>92 やっぱキミかー。そのクセのある書き方で誰だか分かったゾ。
しかし、代わり映えしないね(笑)
無限やらゲーデルの話から、いきなり沢田允茂の論理学入門
みたいな話に撤退してしまうのがワラタ。
148 :
92は固定ハンか?:2001/04/24(火) 23:19
超粘着質だな。
オパーイ イパーイ オパーイ!
150 :
92:2001/04/24(火) 23:43
>>147 そー、そろそろばれちゃうかもね。
>無限やらゲーデルの話から、いきなり沢田允茂の論理学入門
>みたいな話に撤退してしまうのがワラタ。
いやー、これついてますね。
>>148 忍耐,忍耐。
で、147氏なら 代理いぬ氏のあとをついでくれるわけ?
<<149
???
151 :
92:2001/04/24(火) 23:52
PS.
代理いぬ氏はなんとなく白○○氏をおもいおこさせるなー。
152 :
誰か:2001/04/27(金) 00:43
92の相手してやれよ
野矢茂樹スレッドが堕ちていくのを黙って見てられない!
ということで話題を戻すぞ。
「ありてしあるもの」の意味が分かったような気がする。
つんまり、何が在るとか、そういうんじゃなくて、
何かあるだろ!みたいな・・・
無の否定という感じでしょうか。あ〜ムズ
誰かさくらんぼうの相手してやれよ
無は否定できないのね。
何故なら「無」として在るから。
156 :
さくらんぼう:2001/05/02(水) 15:13
相手して下さってどーもです。
でも意味が分からない。
では無の可能性も在るんですか?
age
158 :
さくらんぼう:2001/05/04(金) 16:43
頼むから相手してやれよ
>>92 >◇A∨◇¬Aは認めないといった人が
>なんであっさり◇A∧◇¬Aは認めて
>しまうわけ?
もう一度読みなおしていただきたい。
野矢が認めないといったのは
□A∨□¬A(Aがいつでも正しいか、¬Aがいつでも正しい)
の完全性の筈。これの否定は
¬(□A∨□¬A)
⇔¬□A∧¬□¬A
⇔◇¬A∧◇A
ちなみに
◇A∨◇¬A
は「Aであるかもしれないし、¬Aであるかもしれない」
で無矛盾性をあらわす。この否定は
□¬A∧□A (いつでもAでなくかつAである)
>>106 >実は私前回で◇A∧◇¬Aのように書きましたけれど、
>これは実は矛盾律ではありません。◇と¬の位置が逆なのです。
そうだよ。
「Aであることもあり、かつ、Aでないこともある」
は別段矛盾ではない。Aであるような世界と
Aでないような世界は別々に存在するから。
それが不完全性というもの。
ゲーデル命題は√2のように厄介なものだ。
しかしながら、どんな正方形にも対角線があり、
その長さが辺の長さの有理比ではないように、
どんな体系にもゲーデル命題は存在し、その
証明も反証も存在してはならない。
>>113 >プロバブル関数が可能無限派の立場で矛盾律を作れるのかということだ。
単純に矛盾律
A∨¬A
を証明できるのかというなら然り。
自分自身の無矛盾性、すなわち
◇A∨◇¬A
を示せるかというなら否。
それができないというのが第二不完全性定理。
しかし第一不完全性定理はそんなものは用いていないだろう。
対角線論法によって以下のような命題Gの存在を示し、
G⇔¬□G
その上で、□A∨□¬Aから、□G∧□¬Gを示して
「完全ならば矛盾」すなわち「無矛盾ならば不完全」
といっているに過ぎない。
無矛盾であるかどうか分からないのであるから
不完全かどうかもわからない。しかしながら
もし完全だとすれば、矛盾するということだ。
>>147 ずばり
92は「ぱんどら」
ゲーデルは「Milktea」
そして私は…(笑)
>>135 証明可能性を□としたとき、□P⇒Pは証明不可能だが、
これを前提するならば、ゲーデル命題Gは正しくなくてはいけない。
なぜなら¬Gが正しいならば、¬G⇒□G⇒Gとなって矛盾するから。
165 :
92:2001/05/06(日) 23:18
ぱんどらという輩が何処の馬の骨だか知らないが、矢野氏の解説にもかかわらず
次の事は依然として疑問として残っている。
>(1)様相論理の奴。
>(2)ゲーデルの証明可能の奴。
>(3)シュレディンガーの確率の奴。
>(4)不安神経症のような得体の知れない奴。
>これらは同じなのか?
>違うなら何故違うのか?
代理いぬ氏も認めたように、また氏が様相論理は認めないといったように、一般
命題と違って可能命題は真偽判定を確実に行える体系をもっているわけではない。
矢野氏はどうやら様相論理に添ってゲーデルの可能概念を封じ込めるようだ。
矢野氏において(1)〜(4)は区別すべきものか、それとも様相論理に統一すべきか
ならば確率概念は矛盾律≠0がいえるのか、いえないのか。
もし様相論理に統一できるなら、ゲーデルの解説はすべてその体系の下に解説
されるべきである。
166 :
考える名無しさん :2001/05/07(月) 00:36
>>162 >単純に矛盾律
>A∨¬A
それは「排中律」っていうんだよ。
このスレって、知ったかぶりして書いてる人が多いけど、
こんなこと平気で書いてるようじゃまだまだ。
>>92 >確率概念は矛盾律≠0がいえるのか、いえないのか。
量子論理で成り立たないのは矛盾律ではなく分配律だからね。
167 :
代理いぬ:2001/05/07(月) 18:58
>矢野茂樹
言ってることがほとんどよくわからんのだが。
私としては、前言を撤回したい。
対角線論法はうさんくさい。
これを用いることが直観主義に反するか否かはよくわからん。
もっと詳しい人間を待つ。
>>166 ついうっかり¬(A∧¬A)を展開してしまった。
>>165 一口に様相論理といってもいろいろある。
S5,S4,B,T…
直観主義論理の様相論理的解釈と量子論理のそれはことなる。
前者はS4に対応し、後者はBの発展形に対応する。
クリプキセマンティックスでいえば、S4は推移的であり
Bは対称的である。両者をあわせもつS5は古典論理の
様相論理的解釈に対応する。
170 :
黒木玄:2001/05/07(月) 21:16
あと、 p.62 には次のようなことが書いてあります。
「たしかに、数学と数学の哲学とは別で、この講義も数学ではなく、哲学ですから、基本的に数学者に向かってどうこう言うつもりはありません。でもね、どうもこの対角線論法というのはうさんくさいのです。集合論の本ならどんな本にも載っている数学の基本的な定理なのですが、私は拒否したい」
結局、「数学と哲学は別」と言うことによって、何を正当化したいのか、よくわかりませんでした。対角線論法が通用しない設定を仮定すればそれが使えなくなるのは当然で、それを根拠に「うさんくさい」とか「拒否したい」という話にしてしまうのは変だと思いました。
通常の数学の立場では、出発点の数学的設定を明確にせよ、その設定のもとで○○が成立すること(もしくはしないこと)を証明せよ、しかし、それができたからといって、○○があらゆる場面で正当化された(否定された)わけではない、というまことに常識的なものでして、このような常識を哲学は共有してないと言いたいのでしょうかね? (皮肉)
「哲学と数学は違う」とか、「哲学と科学は違う」などと言うことによって、つまらない話題をあたかも特別な価値があるがごとく哲学風味で大袈裟に語ったり、哲学業界でのみ権威を持っているある種の問題(例えばゼノンのパラドックスの類)をマニアックに扱うことを正当化しようとする人をときどき見掛けますが、そういうのって何か恥ずかしいよね。
>>170 正確にいえば、うさんくさいのは、対角線論法そのものではなく、
一対一写像の非存在から濃度の違いを導く推論である。
「濃度の違い」は実無限の存在を仮定した上での結論であるから
そこが集合論における「哲学」の現れである。
哲学が問うのは、出発点の妥当性である。これを問うことが
詰らないというのは知識人ではなく職人である。
手で仕事する人間は、頭を使うとかえって仕事ができなくなる。
だから詰らないのである。
しかし職人だけいれば良いという社会は何か味気ないよね。
172 :
92:2001/05/08(火) 18:29
>>162 >>確率概念は矛盾律≠0がいえるのか、いえないのか。
>量子論理で成り立たないのは矛盾律ではなく分配律だからね。
あっさり言われてしまうと実のところますます混乱する。
可能世界では様相論理でも複数モデルがあり,矛盾律≠0である体系が
あるということは、すなわち不完全性定理が成立しているのは可能世界の
ある限定領域についていえるということだ。
不完全性定理は、とにかく可能命題の背理法から導出されている。
矛盾律が0でないことが量子力学でも言えるなら量子力学の体系では
不完全性は成立していないということを言って良いのか?
>>171 >しかし職人だけいれば良いという社会は何か味気ないよね。
このニュアンスは実務において、
>ということで可能無限派では不完全性定理は証明できないと断言する。
はとりあえず承認すると言うことか?
>>172 量子力学では、矛盾律も排中律も成り立つ
ああ、それから可能無限(構成的論理)でも不完全性定理は証明できる。
これは数学的に良く知られていることである、
174 :
考える名無しさん:2001/05/09(水) 01:54
175 :
考える名無しさん:2001/05/09(水) 05:11
野家啓一と御間違いなき様に
176 :
考える名無しさん:2001/05/09(水) 05:58
野家氏は実無限派か、それとも可能無限派か?
野家啓一は後記ロマン派です
「後記ロマン派」
いいねぇ(ワラ
ちなみに、おいらは、前書きと後書きは、最初に読んじゃうなぁ、
古典でも、現代の本でも。(そのままツンドクって場合も多い、かな)
179 :
考える名無しさん:2001/05/09(水) 22:34
かゆうま回避あげ。
180 :
考える名無しさん:2001/05/09(水) 22:49
age
181 :
考える名無しさん:2001/05/15(火) 12:44
age
182 :
矢野茂子:2001/05/21(月) 00:15
183 :
GO:2001/05/23(水) 04:47
GOです。お邪魔します。クリプキ。重大なGO報告にやってまいりました。GOはねー、このスレがねー、1000に近づくときねー、GOはねー、その時にねー、哲学板のねー、コテハンさん達全員がねー、GO!GO!GO!GO!ってねー、どんどんグルーヴしていくのねー。GO!GO!って。もうねー、24時間テレビ−愛は地球を救う−のマラソン状態。BGMはもちろんZARDの「負けないで」。GOです。凄くない?GOはねー、あらゆるコテハンさん達に応援されながら完走するの。いままでGOに批判的だった人もその時にはダンスに参加。あのハイデガー先生やいちご姫も花束を抱えて駆けつけてくれる始末。GOです。ある意味カタストロフです。GOです。そうです。GOです。GOはほとんど熱狂的な声援の中、世界最後のダンスを踊り続けるの。もちろんみんなもつられてダンス!ダンス!そこはまるでリオのカーニバル。GOです。GOはねー、耳たぶ柔らかいほう。それでねー、999でねー、パタッとカキコが止まるの。何故ってGOは思うの?何故なんだ?って。それでどうしたんだろう?って他のスレに様子を見に行くの。そしたら、あらゆるスレというスレに「GO!お前が1000にカキコするんだよ。はやく!もったいぶるんじゃないぜ!みんな待ってるんだよ。GO!おめでとう!今まで良くやったな!さあ、GO、早く!」っていうカキコを発見するの。GOです。GOは感涙にむせび泣き栄光の美酒を飲み干すのさ。リーリーリーリー。GOです。GOです。最後の乱舞が始まろうとしています。GOです。記念カキコ宜しくお願いします。GOでした。お邪魔しました。
184 :
代理いぬ:2001/05/23(水) 17:34
放置しっぱなしだったね。
不完全性定理が問題のないものであることは疑いないが、
対角線論法やδ-ε論法などの構成的論理的な論法が、
本当に無限に関する問題をクリアしているかはよくわからない。
まあどうでもいいさね。
185 :
錯乱@いや死刑:2001/05/25(金) 02:27
× ε-δ論法
○ (・ε・)(・δ・)論法
186 :
考える名無しさん:2001/05/25(金) 13:40
だんじりファイター
187 :
名無しSUN:2001/06/02(土) 18:48
188 :
名無しSUN:2001/06/02(土) 18:50
「無限論の教室はトンデモ本?」
みたいな書きこみがどこかの掲示板にありました。
(Googleで検索して見つかった。)
ぼくは数学の知識があまり無いのですが、あれはあくまで
認識にかんする本とみるべきなのでしょうか?
189 :
考える名無しさん:2001/06/02(土) 23:16
kurokinonandemo掲示板より
あと、 p.62 には次のようなことが書いてあります。
「たしかに、数学と数学の哲学とは別で、この講義も数学ではなく、
哲学ですから、基本的に数学者に向かってどうこう言うつもりはあり
ません。でもね、どうもこの対角線論法というのはうさんくさいのです。
集合論の本ならどんな本にも載っている数学の基本的な定理なの
ですが、私は拒否したい」
結局、「数学と哲学は別」と言うことによって、何を正当化したいのか、
よくわかりませんでした。対角線論法が通用しない設定を仮定すれば
それが使えなくなるのは当然で、それを根拠に「うさんくさい」とか「拒
否したい」という話にしてしまうのは変だと思いました。
通常の数学の立場では、出発点の数学的設定を明確にせよ、その設
定のもとで○○が成立すること(もしくはしないこと)を証明せよ、しかし、
それができたからといって、○○があらゆる場面で正当化された(否定
された)わけではない、というまことに常識的なものでして、このような常
識を哲学は共有してないと言いたいのでしょうかね? (皮肉)
「哲学と数学は違う」とか、「哲学と科学は違う」などと言うことによって、
つまらない話題をあたかも特別な価値があるがごとく哲学風味で大袈
裟に語ったり、哲学業界でのみ権威を持っているある種の問題(例えば
ゼノンのパラドックスの類)をマニアックに扱うことを正当化しようとする人
をときどき見掛けますが、そういうのって何か恥ずかしいよね。
190 :
考える名無しさん:2001/06/03(日) 00:05
恥ずかしく無い
191 :
考える名無しさん:2001/06/03(日) 01:10
「数学と哲学は違う」とか、「数学と哲学は違う」などと言うことによって、
トリビアルな話題をあたかも特別な価値があるがごとく数学風味で大袈
裟に語ったり、数学業界でのみ権威を持っている、、、、
>>191 実例を挙げよ。
他の板なら感情的反発がまかり通るのもまだ分かるが、
哲学板でこういうレスしか返せないのはかなり情けないぞ。
193 :
錯乱@いや死刑:2001/06/04(月) 02:53
森毅とかも、多くの数学者がうさんくさいとは言っている。
でも誰も、どこがどう、うさんくさいのか、言えない。
どこが うさんくさいのだろう
194 :
考える名無しさん:2001/06/04(月) 03:01
顔かな?
仰る通り。情けない。
単に混ぜ返しただけです。
まさに実例を挙げられないから、
「持っている」以下を省略したのです。
恥ずかしい。
196 :
考える名無しさん:2001/06/06(水) 02:12
>>191=195
こんな素直な人も珍しい。
むしろすがすがしささえ漂う。
197 :
錯乱@いや死刑:2001/06/06(水) 04:11
↑激しく同意(やったあ 初めて使えたこの言葉
198 :
考える名無しさん:2001/06/06(水) 12:51
論理トレーニングage
199 :
考える名無しさん:2001/06/13(水) 23:46
哲学のなぞなぞAGE
200 :
考える名無しさん:2001/06/14(木) 02:18
藤原正彦せんせのように、文才がないのが数学者か?げーでる、ふれーげは、、、、、、
201 :
:2001/06/21(木) 15:09
fdgtrareyarethsrtytrsrtutsuystyst
202 :
考える名無しさん:2001/06/21(木) 15:20
昔お邪魔致しました76と申します。
下がってきたので上げます。
対角線論法はやはりわかりません。対角線上に出来た数が列挙された数に含まれない、という理屈がわからないのです。
対角線上の数が列挙したn行目と一致するとすると、n桁目が矛盾するというのですが、どう矛盾するのかわかりません。
ここがわかれば、後は背理法だというのはわかります。
また、自然数のべき集合が実数と一致というのも、今なお私の理解を超えてます。
自然数の部分集合のどこにπや√2が入っているのでしょうか。
ageとだけ書くのも味気ないので、愚問を提示しましたが、どなたかお暇のときにでもご教示ください。
203 :
考える名無しさん:2001/06/30(土) 16:23
>>202 対角線上の各桁を全部変えた数を作ると
それがどこに列挙されたとしても、
交差のところで不整合が生じるでしょ?
ああ、それから自然数のベキ集合と実数は「同じ」じゃないよ。
自然数のベキ集合に対して例えば含む含まないの関係で0−1列
を作ると、そいつが実数の2進展開列と1対1対応がつくでしょ
ってこと。もちろん、細かいことをいえば、
0.1000・・・=0.0111・・・
みたいなことがあるけど、こういう場所は所詮可算個しかないので
無視できる。
204 :
考える名無しさん:2001/07/04(水) 22:36
『初めて考えるときのように』皆も読もう。
205 :
考える名無しさん:2001/07/08(日) 13:30
野矢と永井って関係どうなの?言ってることってかなり違うの?
206 :
考える名無しさん:2001/07/08(日) 16:16
>>205 野矢の『心と他者』を永井が批評している。
野矢のアスペクト論を評価する一方で、
永井自身の観点から(<私>論の観点から)野矢の結論には賛同できないとしている。
しかし俺には、両者の本質的な差が存在するとは思えない。
207 :
考える名無しさん:2001/07/16(月) 05:24
>>203 >ああ、それから自然数のベキ集合と実数は「同じ」じゃないよ。
>自然数のベキ集合に対して例えば含む含まないの関係で0−1列
>を作ると、そいつが実数の2進展開列と1対1対応がつくでしょ
つうことは、自然数のべき集合と実数は、要素の数が同じって言うか、濃度が同じ、ってことでいいの?
208 :
考える名無しさん:2001/07/16(月) 06:37
野矢は幼児退行してます。
永井同様。
209 :
花火の1:2001/07/24(火) 00:36
210 :
考える名無しさん:2001/07/24(火) 01:31
対角線論法ってならべられないものがならんでいると
仮定してそれを否定する論法だから混乱するよね。
いまさらの発言だと思いますが。
211 :
考える名無しさん:2001/07/25(水) 07:45
>>211 数学板の奴等に酷く叩かれてる様に見えるけど議論は平行線だYO!
説明してる方が上手く説明出来てないだけかもNE!
>>212 そのスレをどう読めば平行線なんだよ。。。
可能無限の概念を理解してない
>>22が、可能無限の見本のようなもの
(そこの
>>17とか「√2の任意の桁を計算可能」とか)
に「実無限だ!」とイチャモンつけて周りからたしなめられているだけ。
>>214 そうだね。ってか議論になってないようだね。
ちゃんと読んでなかった。スンマソ。
216 :
数学板の22:2001/07/25(水) 19:49
私は、上の
>>211でリンクされている数学板で議論していた22です。
私自身は実は、実無限とか可能無限とかいう概念自体が
神学のはいったクサイ概念だと考えているんで、
議論の最中に一回もこの用語は使っていない。
注意深くレスをたどってみてくれ。
現在の数学の中には、神学の名残が残っている。カントル流の無限論だ。
カントル流の無限論は、今世紀中に数学から駆逐されるだろうという
個人的な信念をあそこの議論でぶつけていた。
わかる人にははじめからわかっているし
わからん人にはいつまでもわからん話だ。
信じ込んでいる人間を説得することはほとんど不可能だ。
アサハラがつかまってからもオームを信じている連中がいるようにね。
多分アメリカあたりから、カントル流の無限を葬る動きが出てくる。
そうしたら日本の数学者もいっせいに回れ右するだろう。(大笑い海水欲情)
どっちが最後に笑うか。長い目で見守ってくれ。
>>216 「カントル流の無限論が間違ってる!」という信念はわかったから、きちんと代案を出してください。
可能無限すらクサイ概念だというならなおさら。
で、数学版では結局あなたの考える無限は混乱したものだった。
まあ君自身が
>個人的な信念
と言っている以上、
> 信じ込んでいる人間を説得することはほとんど不可能だ。
かもしれないが。
>>216 困るな。いちいち、私自身の言ってないことばを引用するのは。
「カントル流の無限論が間違ってる!」なんて書いた覚えはない。
「間違ってる」なんて、この場合、ほとんど意味ないんだよ。
クサイから今世紀中に葬られるって書いたの。ちゃんと読んでね。
公理のようなものを「間違っている」なんて言っても意味ないだろ?
それから
「数学版では結局あなたの考える無限は混乱したものだった」
というが、きみ自身の脳みそが混乱している可能性もひとつ
考慮に入れといてください。
>>218 では「数学版ではあなたは無限に関して何も言っていないに等しい」に訂正しておきますわ。
220 :
218:2001/07/25(水) 21:07
221 :
考える名無しさん:2001/07/25(水) 22:14
> 数学スレの22
可能無限を認めないくせに「ε-δ論法は完全に信頼できる」か。
一体どういう立場なのか説明してくれ。訳分からんぞ。(笑)
それに、「野矢氏の本をよく読め」と言いつついろいろ書いてるが、
「無限論の教室」が批判してるのは実無限とされているものであり、
可能無限に関してはあの本だって基本的に認めている。
キミの信念は野矢氏の本とは何の関係もないじゃないか。
大体、可能無限すら認めないというならカントル云々は全く関係ないぞ。
それなのに批判対象は「カントルの理論」に限定かい?
そして具体的に欠点を挙げることができず、代案も何もないまま
「今世紀中に葬られる」と予言だけはするの?
無限を論じているのに「任意桁」と「全桁セットで」の区別も
つけられないレベルのようだし、要は理由は何でもいいから
「カントルの理論は胡散臭い」と言いたいだけなんでしょ。
「相対論は間違ってる論者」と同じメンタリティーだとしか言い様がないな。
222 :
考える名無しさん:2001/07/25(水) 22:28
>>216 >>221 カントルの無限概念は集合の要素の対応付けで順序関係があって、
アレフ0(有理数)<アレフ1(実数)<・・・
連続体仮説はアレフ0とアレフ1の間がないという話(?)でしたか。
これは数学としてはポール・コーヘンはツェルメロの選択公理との
独立性を証明済みです。これをカント的に解釈するなら、
自然的概念としての連続体は根拠がないが、ヌーメノン(可相)
としては考えてもよい、といった感じですかね。
野矢さんの本に書いてありますかね。
223 :
考える名無しさん:2001/07/25(水) 22:31
しかし東大で科学史やるには、
理一に入らんといかんのかな。
文三から野矢さんところって行ける?
224 :
22:2001/07/25(水) 22:31
そういう反論があるだろうとはあとで気がついた。
>>216で
「実無限とか可能無限とかいう概念自体が
神学のはいったクサイ概念だと考えている」
と書いたが、間違っているとは書いてないぞ。
正確には、
「実無限は駄目で、可能無限はただの無限とかけばよい」
というぐらいの気持ちだった。
「可能無限という用語はクサイ」ときっちり
書いておけばよかった。この点は誤解のもとであった。
私自身は「可能無限」などという用語は使いたくない。
以上。
また、書いている途中でほかの人に越されてしまった。
>>224 は
>>221へのレスです。なんども失礼。
226 :
22:2001/07/25(水) 23:33
>>221 私はあの数学板で最初に発言したのが22番なんだが、
きみは最初何番でしたか。
きみがどういう発言をした人か、こちらも知っておきたいので、
よろしく。
>>222 連続体仮説と実数が連続とかどうとかいうのは全くの別物。
ところで選択公理と独立な命題が「自然的概念として根拠が無い」ってどういうこと?
228 :
考える名無しさん:2001/07/26(木) 17:26
229 :
221:2001/07/26(木) 18:01
> 数学スレの22
おいおい、221の書きこみはキミの用語の使用方針によって
趣旨が変わるというものではないぞ。(苦笑)
キミは数学板で「√2の任意の桁が計算可能である」に一貫して
異を唱えていたが、221で
>可能無限を認めないくせに
と書いたのはそのことを指してるの。
で、それに関する数学板でのキミの説明は、何度読んでも
ただの初歩的な誤解からきているものとしか見えないのだが、
それは置くとしても(繰り返すけど)そもそもそこに異を唱えるのは
「カントルの理論の批判」ではないのよ。
キミの想像してる「現在の数学」やら「カントルの無限論」って
一体どんなもの?
で、ε-δはokだという。
「任意のnに対してn桁目が求まる」に賛同できなくて
「任意のεに対して何々を満たすδが存在する」が
「完全に信頼できる」って何なのさ。(笑)
ちなみに数学板では24から始まって28,30,34,36が俺。
呆れてそれ以降はそのスレに書きこんでいない。
>>222 すみません。カント的解釈とかヌーメノンとか書かれているところ
がよくわかりません。
「無限論の教室」には連続体仮説のレの字すら出てきませんよ。
230 :
数学板の22:2001/07/26(木) 18:56
>>229 「可能無限を認める立場」と「ルート2の任意の桁を計算できるという立場」は
相反する立場だってことが、まだわからないのか。
数学スレの59の書きこみの(2)を読んでごらん。
それから、こちらの質問に答えてくれてありがとう。
231 :
考える名無しさん:2001/07/26(木) 19:33
可能無限について興味があります。数学板からこっちにやってきました。
数学板の22さんに質問があります。22さんのいう
「ルート2の任意の桁を計算できる」って一体どういう意味なんですか?
「与えられた任意の自然数Nに対してルート2のN番目の桁が決定できる」
じゃあないみたいだけれど、だったらどういうこと?
232 :
考える名無しさん:2001/07/26(木) 19:39
数学スレの59の書きこみの(2)を読みました。
>可能無限における√2というのは、まさに「展開の規則」のことですから、
>人間が実際に展開した位までしか人間は知ることができないこと
>になります(コンピュータにやらせても同じ)。
とありましたが、「可能無限」がそうだったとしても
「任意に与えられた自然数Nに対して、ルート2のN番目の桁は決定できる」
と私には思えるのですけど、どうなんでしょうか。
233 :
数学板の22:2001/07/26(木) 19:47
>>231 いや、まったく同じ意味です。誤解を与えてしまったかな。
答えになっていなかったら、もういちど聞いてください。
234 :
数学板の22:2001/07/26(木) 19:50
>>232 εδ論法では
要求された精度に対して、それに見合う答えを計算できるという
保証を与えるわけだが、じっさいに計算可能な範囲はあくまでも
その時代のコンピュータの性能に依存している。
だから、法外な精度の計算を要求された場合、
「そこまでは現在の機械では計算できません」
と答えるのもやはりεδ論法なのだよ。
εδ論法はきわめて現実的・実際的な手法なのであって、
「机上の空論では何桁でも計算できる」というようなものではない。
違いがわかってくれたかな。
235 :
221:2001/07/26(木) 21:54
> 数学板の22
>「可能無限を認める立場」と「ルート2の任意の桁を計算できるという立場」は
>相反する立場だってことが、まだわからないのか。
わからない。
>数学スレの59の書きこみの(2)を読んでごらん。
読みました。nを指定した瞬間に「それ以降に埋まっているもの」など
何ら想定することなくn桁目の計算が出来るので、野矢氏も
「√2の任意の桁を計算できる」には賛同すると思いますが、何か?
>>234はなあ……。
「原理的に可能か」と「現実問題として可能か」の区別はついてる?
9^(9^(9^(9^(9^9))))の十進表示だって原理的には可能でも
現実的には不可能だねえ。野矢氏の本も数学板スレも
論じられているのは原理的にどうかという無限論なんだけど。
>だから、法外な精度の計算を要求された場合、
>「そこまでは現在の機械では計算できません」
>と答えるのもやはりεδ論法なのだよ。
あと、
>>234を読む限りキミがどういうものをε-δ論法と考えてるのか
いまいち掴めないので、この辺りとか具体例をまじえて説明してください。
236 :
数学スレの22:2001/07/26(木) 22:15
>>235 ああ、鬱だ。なんでこんなわからずやにまといつかれたのか。
指定したところを読んでも、まだ納得しないというのなら
もはやさじを投げるしかない。
εδに関してもあれ以上は言うことはない。わからんかったら
微積の教科書を開いて、じっさいにε-δの例題にあたり
数値をあてはめて計算する練習でもしなさい。
つーか
>>234の書き込みみて私もちょっと…
「位相」とか「順序構造」の数学の本をしっかり読んでおいた方が…
238 :
考える名無しさん:2001/07/26(木) 23:47
ROMしてましたが、ちょっと口出していいでしょうか。
数学板の22さんは、
>>232 >「可能無限」がそうだったとしても
>「任意に与えられた自然数Nに対して、ルート2のN番目の桁は決定できる」
>と私には思えるのですけど、どうなんでしょうか。
には、どう答えるのでしょうか。
「ならば、10^100桁目を決定してみよ」と答えるのでしょうか。
239 :
232:2001/07/27(金) 16:45
232で書き込んだものです。
あれから一晩頭を冷やしてじっくり考えてみたのですが、
たとえば、数列{a_(n)}がbに収束する、ということをε-δで表すと
「与えられたどんなに小さなεをとっても、数列のある番号N以上の数は
bとの差がεより小さくできる」
(「A」は「任意の」、「E」は「存在する」)AεEN:n > N ⇒ |b - a_(n)| < ε
となります。このときの「与えられたどんなに小さなεをとっても」が、
「いくらでも計算できる」ということになるのではないかと考えました。
「あるεではなりたたない」を条件に付け加えて、「収束する」と異なる
結論を導いてみようと思って夜中ずっと考えたのですが、わかりませんでした。
それから「自然数Nが与えられたときにN番目を計算できる」というのは、
「計算可能なプログラム」という考え方の基礎になっていると思います。
>>238さんが書いた「10^100桁目」も1桁目から10^100-1桁目までの
10^100-1桁が求まれば、求めることができます。N番目までのものから
N+1番目のものが定義されるものというのが、「計算可能性」の性質の一つ
立ったと思うのですが(原始帰納関数とかチャーチやゲーデルの計算可能性)。
あと、
>>237でネットに繋げていられる時間が無くて、失礼な書き込みになってしまって
すみませんでした。
どうも
>>234や
>>236を読む限り、数板22氏は数値計算における
誤差項評価のようなものをε-δ論法と呼んでいる風だなあ。
具体例を挙げずに逃げているから断言はできないけど。
つーか、238氏もつっこんでるけど、
>「原理的に可能か」と「現実問題として可能か」の区別はついてる?
ひょっとしてこの指摘は図星だったのか?
「任意のnに対して〜できる」を「人類の技術でできる」という
言明だと解釈して神学呼ばわりしてたとか?
(
>>234のようなこと言ってるし、数学板で「人類が滅びるまでに〜」
という妙な話を出しているし、その可能性は大いにあり得る)
技術的に可能かという話ならば、実行時間やハードの容量や耐久性など
種々の限界から、演算回数や取り扱える数値自体が有限だよね。
「可能無限」ですらなく、無限集合の濃度のような話題は場違いだ。
そういう現実的な話でなく原理的な話をしているのだということは
野矢氏の本を数ページ流し読みするだけで分かりそうなものなのに。
なんでこんなので「カントル批判」してるつもりになれるのだよ。
終わってる……
241 :
238:2001/07/28(土) 00:14
どんな実数にたいしても、無限小数表記が一通り存在するということは、
実数の公理によって保証されているのであって、原理的であれ、現実的
であれ、計算できるかどうかということはあまり関係ないように思います。
それで、少し別の話になるのですがいいでしょうか。
私は、「無限論の教室」を読んで、可能無限に共感を覚えましたが、
35ページの「πという無限小数のすべての位が実は確定しており、ただ人間が
それを有限の位までしか知らないだけだと考えるのは、まさに無限を実体と
してそこにあるものとみなす態度」という部分には不満があります。
πを生成する規則は確定しているのだから、すべての位が確定しているという
ことは、循環小数のすべての位が確定していることと同じ事だと思うのですが
どうでしょうか。
>>241 この本って、結局軽い読み物でしかないような気もする。
243 :
考える名無しさん:2001/07/31(火) 22:16
このマニアックなテーマを「軽い読み物」にまとめる野矢はすごい。
244 :
ななしでいいや:2001/07/31(火) 22:55
おまえらそもそも間違っている
可能無限の立場では√2だのπだのは存在しないのだ
存在すると言うのなら証明してみい
245 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 01:02
1/3は存在するの?
246 :
ななしでいいや:2001/08/01(水) 10:35
>>245 もちろんです。
まず、自然数は存在します。普通の用途なら一億ぐらいまであれば大丈夫ですね。
X={0,1,2,3,...,一億}, Y={1,2,3,....,一億}
二つのXとYのペア(x,y), (x',y')に対して演算+と×を
(x,y)+(x',y')=(xy'+x'y,yy')
(x,y)×(x',y')=(xx',yy')
と定めます。さらに各n=1,2,...,一億に対して、
(x,y)と(nx,ny)は同じものとみなしx/yと書くことにすると約束します。
これで、日常生活には困らない程度に1/3を説明できます。
必要なら一億をどのような大きい自然数に置き換えても構いません。
しかし可能無限の立場では√2やπは存在すらしないのです。
247 :
呆:2001/08/01(水) 11:06
>>244 ちゃんと大学数学をやれば、無限級数の和というものが
「可能無限」の範囲内で定義されているということがわかるよ。
というわけで可能無限の立場を取っても√2やπは勿論存在する。
それと別に代数的にやれば多項式環Q[X]をイデアル(X^2-2)で割った体
においてXの同値類を√2とみなすこともできるね。その場合は
√2を定義する際に「無限」というコトバすら出てこない。
高校レベルの数学知識で嘘を撒き散らさないようお願いします。
248 :
ななしでいいや:2001/08/01(水) 11:19
「無限級数の和」ってどこでとるの?
Q[√2]の√2と√2=1.41421356...とはどう関係があるの?
249 :
ななしでいいや:2001/08/01(水) 11:22
だいたい多項式環って無限集合じゃないの
250 :
呆:2001/08/01(水) 11:57
>「無限級数の和」ってどこでとるの?
通常の実数内での和。
んで、実数を{Cauchy列全体}/{零列全体}のイメージで捉えるとして、
特定の元lim(a(n))を考えるだけなら、ただ「Cauchy列{a(n)}の同値類」
とすればよいのであり、別に「Cauchy列全体」のような集合を考えておく
必要はないでしょ。
>Q[√2]の√2と√2=1.41421356...とはどう関係があるの?
ご質問の意味がいまひとつピンとこないので、まずは
>>246のように
代数的に有理数体を構成してみせたあなたが
>>246の1/3と
1/3=0.333...との関係をどうお考えなのか教えてくださいな。
>だいたい多項式環って無限集合じゃないの
そうだけど、特定の元を指定するだけなら{多項式全体}という集合を
前もって用意しておく必要などないでしょ?
>>250 >>だいたい多項式環って無限集合じゃないの
>
> そうだけど、特定の元を指定するだけなら{多項式全体}という集合を
> 前もって用意しておく必要などないでしょ?
こういう書き方だと、実無限での成果を横目でチラチラとカンニングしながら
実無限を避けているようにしか見えないのだが(失礼!)。
252 :
ななしでいいや:2001/08/01(水) 12:11
可能無限の立場によると、コーシー列{a(n)}は(すべてのnについて確定)して
いないのだから、この同値類を考えることには意味がない。
そもそも同値類は無限集合であり無限集合を一括して扱うことは認められない。
それゆえ実数体を構成することもできないし、0.333333...という表記には意味がない。
253 :
呆:2001/08/01(水) 12:49
>>251 >こういう書き方だと、実無限での成果を横目でチラチラとカンニングしながら
>実無限を避けているようにしか見えないのだが(失礼!)。
いや、失礼でも何でもなく実際そのつもりです。実無限を避けても
「実無限での成果」はそれなりに修復できる、という話をしているので。
>>252 >可能無限の立場によると、コーシー列{a(n)}は(すべてのnについて確定)して
>いないのだから、この同値類を考えることには意味がない。
数列{a(n)}は「nにa(n)を対応する規則」と解釈できるので、可能無限でも
OKなはず。全てのnにa(n)を対応させきったテーブルを前もって用意しておく
必要などないからね。
で、同値類に含まれる元は無数にあるにしても、それを指定するには
実際に一つの代表元aを指定すれば済むことでしょ?
それで別の元bがその代表元aと同じ類に属するかどうかは
ただaとbが同値かどうかをチェックすればよいだけで、
「aと同値な元全てからなる集合」を前もって作っておく必要などない。
というか、そもそもあなたの
>さらに各n=1,2,...,一億に対して、
>(x,y)と(nx,ny)は同じものとみなしx/yと書くことにすると約束します。
これが内容的に同値類別そのものなのですが。
254 :
ななしでいいや:2001/08/01(水) 12:55
>>253 何もわかってないようですね。
可能無限の立場で、列 a(n) と b(n) が同値であるかどうかを
どうやってチェックするつもりですか?
{a(1),....,a(1000)} と {b(1),...,b(1000)}が同じなら同値ですか?
それに対して私の与えた同値類は高々一億の元からなるので同値かどうかの
チェックはもちろん可能です。
255 :
呆:2001/08/01(水) 13:23
>可能無限の立場で、列 a(n) と b(n) が同値であるかどうかを
>どうやってチェックするつもりですか?
数列{a(n)-b(n)}が零列の条件を満たすことをチェックすれば済みますが?
a(n)=1,b(n)=0.99...9 (小数点以下n桁)ならa(n)-b(n)=10^(-n)で
任意のε>0に対し自然数Nで「n>N →10^(-n)<ε」を満たすものが
存在することを証明できますよね。(帰納法程度は認めるんでしょ?)
256 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 15:07
きみが示したのは、0.99999------- の極限値が1になるという事実だけである。
ところで、
0.99999---------- の極限値が1である、ということと
0.99999---------- が1に等しい、ということの間には無限のへだたりがある。
きみはためしに y=1/x のグラフでも描いて、永久にx軸に近づきながら
しかも永久にx軸に接触しないこのグラフの形をよくみながら考えなさい。
(厨1でも知っているぞ)
>0.99999---------- の極限値が1である、ということと
0.99999・・・・
は極限値を云々するものではなく
小数点以下に9が無限個あることを示す
記号的表現に過ぎません。
258 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 15:18
>>258 それがどうした。何がいいたいのかわからんぞ。
259 :
>>257:2001/08/01(水) 15:20
元数学教師であって、現数学教師でない理由がわかるような気がする。
261 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 15:25
そういう反撃しかできないのか?厨房クン?
121 名前:132人目の素数さん 投稿日:2001/08/01(水) 09:19
実数の0.999……が1でないと主張するならただの電波。
実数以外の代数系で「(0.999……と表現され得るもの)≠1」となる
ようなのはいくらでも存在するが、もちろんそんなことは
「実数0.999……は1と等しい」の反論にはなりゃしない。
つーか、そういう意味での反論であればそもそも「0.999……は1でない」
という表現にはならないはず。
(0.999……=1?という質問自体は舞台となる代数系を明示しなければ
全く無意味なのだが、質問者のレベルを考慮すればこれが実数を舞台と
したものであることは暗黙の仮定としてよかろう)
野矢大先生は一体何を言いたいんだろう。
122 名前:132人目の素数さん 投稿日:2001/08/01(水) 09:55
小数表示が、有限小数と無限小数の2通りある実数は、何進法かにもよるよね。
たとえば、十進法の1/2(=0.5)は2進法だと、0.1でもあるし、0.011111....でもあるわけだから。
つまり、0.999...=1は、実数と10進小数表示が、1対1対応でない、という例にすぎんと思う。
>>261 別に他意はないのだが。
訂正がない以上は単なる事実だし、突込みどころだろう。
穿ちすぎではないのだろうか?
264 :
>>262:2001/08/01(水) 15:34
だからそういう抽象的な議論をやめて
じっさいに証明してみせようとしたのが
ここでの一連の流れなんだ。
それをわからずに、
またはじめからむし返しているのがきみらなんだ。bakaka?
>>262 >小数表示が、有限小数と無限小数の2通りある実数は、何進法かにもよるよね。
>たとえば、十進法の1/2(=0.5)は2進法だと、0.1でもあるし、0.011111....でもあるわけだから。
>つまり、0.999...=1は、実数と10進小数表示が、1対1対応でない、という例にすぎんと思う。
そんなところでしょうね。
1/9=0.111・・・
2/9=0.222・・・
・・・
8/9=0.888・・・
9/9=0.999・・・
1=9/9は簡単に認められるのに
1=0.999・・・
は認められないというところが面白いですね。
266 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 15:43
だからきみは結局、極限値というものがわかってないの。
それがわかってないというのが、きみの頭の限界なの。わかる?
267 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 15:45
266は265への言及であることをはっきり書いておく。(うふふ)
>>246 どうも良く分からんぞ。
「√2>0,(√2)^2=2 と定める」
というのと、どう違うんじゃ?
269 :
紹介者:2001/08/01(水) 16:03
270 :
232:2001/08/01(水) 16:08
1/3=0.333333333333333333…を表すのに、
>普通の用途なら一億ぐらいまであれば大丈夫ですね。
>これで、日常生活には困らない程度に1/3を説明できます。
>必要なら一億をどのような大きい自然数に置き換えても構いません。
ってな具合に途中でぶった切ってしまっているのに、
>0.99999---------- が1に等しい、ということの間には無限のへだたりがある。
ってのはどういうこと?
1/3のときには極限操作を有限回内で勝手に切り上げたくせに、なんでルート2やπ
のときもそうしないの?「無限の隔たり」は、一億桁かそこらで止めた0.333…と
1/3の時にだって存在しているじゃん。
a_(0) = 1
a_(n+1) = a_(n) + 1/a_(n)
で、自然数を一億個も用意しておけば、1/3と同じ「実用上問題が無いルート2」ができるじゃん。
1/3のときはこれでよくて、ルート2のときは何でダメなの?
逆にルート2のときは「永久に接触しない」からダメなのに、なんで0.333333(有限桁)は1/3としていいの?
271 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 16:31
しっかし、大学の先生って、ものわかりのわるい生徒に執拗に
食い下がられた場合、どのへんまでつき合うのか知らん。
>>246 1/3が存在することは分かったが、
0.333・・・(0.3,0.33,0.333,・・・ という数列の極限)は存在しないということか。
>>272 その数列は考えられるどんな数よりも「1/3」に近い数をとれるのですが…
>>246で整数から商体を構成していますが、なにがいいたくてこれを246さんが
書いたのかよくわかりません。
274 :
呆:2001/08/01(水) 17:35
実数の構成としてはDedekind切断によるものがよく紹介されるけど、
Cauchy列の同値類として実数を定義する方法もよく知られている。
247-255ではそれを踏まえたうえで「特定の実数を指定するだけなら
可能無限だけでもできるよ」という話をしているわけで、
大学数学で実数がどのように定義されてるか全く知らないままに
議論を始めようとする人はいちいち面倒見切れません。
たとえばこの人。
>0.99999---------- の極限値が1である、ということと
>0.99999---------- が1に等しい、ということの間には無限のへだたりがある。
255にこうレスするということは、「{a(n)}の同値類」の意味を
分かってないんでしょ?
275 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 18:08
きみ、呆の前に阿をつけたらどうかね?
(どうでもよいことだが)
しかし、Cauchy列が同値である事をチェックする一般的な方法が
知られてないことも事実だと思う。(多分)
>>246の同値類はそのような問題はない。
ところで、
>>256=
>>246?
277 :
ななしでいいや:2001/08/01(水) 22:13
すまん。しばらく席をはずしていた。
>>276 違うよ。
>>255 「任意のεについて・・・示せる」というところで可能無限からはずれる。
またこの論法では使える零列があらかじめ記述可能なもの(例えばa(n)=10^{-n})
しか扱えない。これでは、有界単調列の収束など(普段使われている)実数の
性質を示すのに十分ではないし、無限小数表示との首尾一貫性も疑わしい。
278 :
呆:2001/08/02(木) 09:05
>>276 >しかし、Cauchy列が同値である事をチェックする一般的な方法が
>知られてないことも事実だと思う。
それは、二つの実数が等しいことのチェック、たとえば
3*(1+1/2^2+1/3^2+1/4^2+...)=8*(1-1/3+1/5-1/7+1/9-...)^2
のような等式を証明するのは難しいよ、というような話なので
247-255での論点とはあまり関係ないでしょう。
>>277 >「任意のεについて・・・示せる」というところで可能無限からはずれる。
なんで? もちろんεとしてとりうる値の「可能」性が「無限」にあることは
何の問題もないよね。ここでは任意のεに対して必ず条件を満たすNがとれる、
と言ってるだけで、なにも(ε,N)の「無限行のリスト」を完成させられると
主張しているわけではないから。
無限回の操作が必要になりそうな部分がどこにも見当たりませんが、
どこで可能無限から外れるのでしょう?
>またこの論法では使える零列があらかじめ記述可能なもの(例えばa(n)=10^{-n})
>しか扱えない。これでは、有界単調列の収束など(普段使われている)実数の
>性質を示すのに十分ではないし、
そうは思わないし、そもそも247-255では
>特定の実数を指定するだけなら 可能無限だけでもできるよ
という話しかしていないのですが。
>無限小数表示との首尾一貫性も疑わしい。
意味不明。首尾一貫性って何?
√2、あるいは二乗して2になる数が存在するのは、実数の公理から出てくるのであって、
「可能無限」「実無限」とは関係ないです。
停滞age
281 :
考える名無しさん:2001/08/14(火) 00:50
sage
うんこ
age
284 :
考える名無しさん:2001/08/23(木) 13:25
kurokinonandemo掲示板より
あと、 p.62 には次のようなことが書いてあります。
「たしかに、数学と数学の哲学とは別で、この講義も数学ではなく、
哲学ですから、基本的に数学者に向かってどうこう言うつもりはあり
ません。でもね、どうもこの対角線論法というのはうさんくさいのです。
集合論の本ならどんな本にも載っている数学の基本的な定理なの
ですが、私は拒否したい」
結局、「数学と哲学は別」と言うことによって、何を正当化したいのか、
よくわかりませんでした。対角線論法が通用しない設定を仮定すれば
それが使えなくなるのは当然で、それを根拠に「うさんくさい」とか「拒
否したい」という話にしてしまうのは変だと思いました。
通常の数学の立場では、出発点の数学的設定を明確にせよ、その設
定のもとで○○が成立すること(もしくはしないこと)を証明せよ、しかし、
それができたからといって、○○があらゆる場面で正当化された(否定
された)わけではない、というまことに常識的なものでして、このような常
識を哲学は共有してないと言いたいのでしょうかね? (皮肉)
「哲学と数学は違う」とか、「哲学と科学は違う」などと言うことによって、
つまらない話題をあたかも特別な価値があるがごとく哲学風味で大袈
裟に語ったり、哲学業界でのみ権威を持っているある種の問題(例えば
ゼノンのパラドックスの類)をマニアックに扱うことを正当化しようとする人
をときどき見掛けますが、そういうのって何か恥ずかしいよね。
285 :
考える名無しさん=7:01/09/08 20:16
age
286 :
考える名無しさん: