1 :
考える名無しさん :
2001/03/04(日) 18:40 はい、近代哲学の祖、デカルト大先生について語るスレです。 スピノザ、レイブニッツ、ロック、バークレー、ヒュームなどとも 同時に語りましょう。
2 :
考える名無しさん :2001/03/04(日) 18:51
我思う、ゆえに我在り状態に陥った経験があります。 デカルトの再来になれる?
3 :
考える名無しさん :2001/03/04(日) 19:52
時期はずれだが、小泉義之のデカルト(新書しか読んでないが)はどうよ? まあ、誰それ?って感じかも…
4 :
考える名無しさん :2001/03/04(日) 20:34
一回他にも書いたけど、「我思う故に我在り」のテーマ 「自分の疑うという行為こそ、間違いのない自己の存在根拠である」に疑問。 いかにして自分が「疑っている」という感覚を得たのか。 既成概念からではないのか。 そうすると、「我思う〜」の前に、何らかを認めている事になる。
自分の見てる世界が幻に見えて恐慌状態に陥った。 自分の存在までも疑わしくなったが「我思う故に我在り」と唱えて乗り切った。
6 :
考える名無しさん :2001/03/05(月) 00:56
>4 「疑う」と「思っている」のが我です。 正確には第2省察videre videor(考えているように思われる) のvideor(videoの受動態)によって我は「自己触発」されます。
7 :
考える名無しさん :2001/03/05(月) 01:06
>>6 すまんがauto affection というのを厨房の俺にもわかるように説明してくれんか。
申し訳ない。
実はおれにもよくわからん。 ただ、上の例で行くとvidereは能動、videorは受動、 つまり能動的行為をそのまま受動的に受け止める ヴァーチャルな一点=我、ということだろうか?
9 :
考える名無しさん :2001/03/05(月) 02:39
>>6 videre videor って第二省察のどこにあるの?
10 :
6 :2001/03/05(月) 04:13
アルキエ版2巻p.186 というか、あんりの論文の翻訳が『現代思想』「デカルトの世紀」 に載ってるからそれ見た方がいいよ。
7です。 6さんありがとう。 あんりの論文、忘れたけど、確かそこまではデカルトは正しかったんだが 精神を実体化、客体化してその本質を思惟に認めた、というところで間違った、 っていうのだったっけ。 うろ覚えなのでさげ。
12 :
吾輩は名無しである :2001/03/05(月) 15:48
>いかにして自分が「疑っている」という感覚を得たのか。 Pure intellectを通して認識できるんじゃなかったっけ? 疑っているという行為は常にそこにあるわけで、 いくら世界が神が作り上げた仮想のものでも、それだけは 疑いのないことだといいたいのでは? でも、これは循環議論に過ぎないって批判がありますよね。 というのも、第2瞑想録の中で、懐疑主義を貫きとおす為に デカルトはまず、自分の存在自体を疑いにかけて、それから演繹的に その存在が疑いのないものだという結論を導くのですが、 その演繹の過程の中で証明するはずのものが前提として議論されている というのが一般的な批判です。
なんか、変な文章ですね。すいません。
14 :
考える名無しさん :2001/03/05(月) 15:55
>12 自分の存在自体に疑いをかけて、それでも自分の存在を認めざるをえないという、 数学で言う公理のようにとらえたのではないのでしょうか? 公理が公理であるという証明は厳密にはできないですよね?
15 :
考える名無しさん :2001/03/05(月) 15:58
ゲーデルはデカルトの命題をどう評価してるんですかね?
16 :
わかりません :2001/03/05(月) 23:06
近代哲学の祖ということになってますね、デカルト。 近代的自我論を打ち立てたということですか。 なんか認識論ということでは物足りないし、方法的懐疑というのも なんか胡散臭いが、しいていえば、彼の評価は世界の数学化を通して 科学的方法を示したということに要約されるような気がします。 だとすると哲学者というより、科学者じゃないの、という感じですか。 X軸とY軸の座標を考えたのは彼でしたよね。中学や高校の数学の教科書 に出てくる程度の人みたいですよ。
17 :
考える名無しさん :2001/03/05(月) 23:34
>>16 そういうことを言う前に、自分でデカルトの
テキストを読んでから判断するべきでは?
18 :
考える名無しさん :2001/03/06(火) 02:00
>16 デカルトが「認識論」というのは、デカルトに対する最大の誤解の一つ。 デカルトは自己の存在と世界の存在、双方を確保する。つまり、非常に 厳格な二元論を枠組みを作った人。 デカルトが哲学者というより科学者というのは半分あたっている。彼が 書いたものの半分以上は、いまから見ればいかに非科学的であれ、科学 (物理)に関するもの。
19 :
吾輩は名無しである :2001/03/06(火) 02:06
>>16 彼は実際に科学者だったと思います。
形而上学者としては、明らかに二流ですね。
20 :
考える名無しさん :2001/03/06(火) 02:18
>19 「形而上学者」として2流かどうかはさておき、彼の思想は 物理学の再編成という当時の課題を抜きにしては理解できない (意味がない)ことは確かだと思う。
21 :
吾輩は名無しである :2001/03/06(火) 02:26
22 :
吾輩は名無しである :2001/03/06(火) 02:43
しかし、彼は心と身体の問題に関しても曖昧ですね。 双方ともに、独立した物質だといっているにも関わらず、 その相互作用を認めているんですから。 あまり、頭の良い人じゃなさそう。
23 :
いちご姫 :2001/03/06(火) 02:45
>18,19,20 私は科学史についても素人ですが。 デカルトは科学者若しくは物理学者だったのですか? 彼の時代には科学若しくは物理学は未だ存在していなかったでしょう。 敢えていうならば、彼の仕事の中心は、ニュートンがそうだったのと同 じ意味で、自然哲学者だった、と言われてしかるべきではないのですか?
24 :
18 :2001/03/06(火) 04:01
>>23 もちろん正確には「自然学」と訳しますね。いずれにしてもphysique
ですが。
>>22 二元論に伴う心身結合の問題なんて、いまでも繰り返し議論されてるよ。
でも、心身結合は生身の人間としてリアルな哲学的課題と思うんだけど・・・
25 :
名無しさん@1周年 :2001/03/06(火) 08:09
2つの偉業 1.方程式を発明しました。 おかげでサルでも2次方程式がとけます。 デカルト以前は「カバラの秘法」なみの魔術。 アラビアに始まる代数学に画期的な方法論を持ち込んだ。 ちなみに西欧はアラビアから代数を密輸入、密輸入業者の大家の 代表がフィボナッチ。 2.座標を発明。代数と幾何を結びつけた。 デカルトの数学史上画期的な発明がなければ小学校4年の算数ぐらい で数学世界はおしまい。 「哲学的著作」といわれているエッセーなど数学での業績にくらべる と小さすぎる。皮肉が効いてて面白いけど。
26 :
考える名無しさん :2001/03/06(火) 16:37
>25 デカルト君がいなくても、すぐ後でニュートン君とライプニッツ君が なんとかしてくれたよ。 科学者・数学者としてはこの二人のほうがはるかに天才だよ。
27 :
考える名無しさん :2001/03/06(火) 16:41
>>26 替わりにニュートン君の業績が少し減っていたかも知れないだろ?
28 :
考える名無しさん :2001/03/06(火) 16:41
お前ら見てきたかのように・・・
29 :
考える名無しさん :2001/03/06(火) 19:44
解析幾何学はヴィエトという人が最初だよ。 数学はデカルトと同時代ならフェルマーだね。デカルトは彼の 最大最小の方法(接線を求める問題)を認めなかった。 でもニュートンもライプニッツもデカルトを凄く読んでいる。 デカルトは確かにニュートンとライプニッツのおかげで影が薄いが 歴史的には大きな役割を果たしたと思うけど。
30 :
いちご姫 :2001/03/06(火) 22:09
>16.18 デカルトが、厳格な二元論を形而上学として構築した事と、認識論を立てた事と は表裏一体でしょう。何故なら、延長実体対思惟実体、という構図を作ってしまえ ば、なぜ全く違うものを知り得るの?という問いが出てきてしまうのだから。(盲 腸のでき損ない見たいのが脳でぶらぶらうごくから、という解決はいただけないけど ) で、思想サロンでポピュラーな人気を得た彼が認識論的問いをだしたからこそ、近 代哲学で認識論が主要トピックになったのだ、とすれば、彼の認識論の内容はともか く、それの哲学史への意義は巨大だ、と思うんですけど。 でも、バカっぽくてきらいだ!わたしは
31 :
18 :2001/03/06(火) 23:50
近代における認識論の問題がポピュラーになったのは、認識の問題に 神を介入させなくなったから。もし神を介入させたら例えば機械原因論や 並行論みたいに二元論のアポリアは解決できる。でもデカルトはそうはせず、 (まあ、盲腸みたいな脳のぶらぶらはご愛敬として)あくまで情念という 舞台、つまり極めてリアルな領域に問題を設定した。これはいま見ても 非常に面白いと思うんだけど?
32 :
考える名無しさん :2001/03/06(火) 23:51
デカルトの懐疑って、結局、アウグスティヌスの パクリなの? 教えてちょ。
33 :
18 :2001/03/06(火) 23:52
おっと、機会原因論ね。
34 :
考える名無しさん :2001/03/06(火) 23:57
アウグスティヌスの懐疑はどんなのかよく知らないけど、 欺く神のいわゆる存在論的(形而上学的)懐疑はデカルト のオリジナルかな?アウグスティヌスにもあるの?
35 :
血 :2001/03/06(火) 23:57
36 :
32 :2001/03/06(火) 23:58
>>34 ある、と聞いた。だから詳しい人、
ことの真偽と、この問題を扱った本で
読みやすいのを教えて。
37 :
わかりません :2001/03/07(水) 02:28
16です。 やっぱり近代哲学の始まりというのは、デカルトということになってるけど、 31氏が言うように神学の超克という課題がこの時代の哲学には課せられていて、 神なき主客二元論的世界観の中で新しい認識論が誕生した、と見るのが妥当かなあ、 と思います。だとすると、ホッブスの認識論が近代哲学の始まりとするのが正しいのでは? 積極的同意は求めないけど、1847年に書かれたシュベーグラーの哲学史 (岩波文庫)には確かに近代哲学の祖はデカルトとかかれているが、これ以前の 哲学史は、案外ホッブスから近代哲学が始まっていたりする。 現に近代哲学をデカルトからはじめるというのには、異論を出す人が結構いた りするし。ちょっと、どうなんでしょう。19世紀前半までは、実際評価低か った人みたいですしね。細かい話ですいません。 ちなみにホッブスとは、リヴァイアサンのホッブスね。
38 :
名無しさん@1周年 :2001/03/07(水) 02:35
ちんぽでかルト
39 :
わかりません :2001/03/07(水) 02:42
>36 流れを無視してすいません。 あのー、確かにアウグスティヌスにもあるんですよ、方法的な懐疑が。 大学の授業で、やったんですけど、うろ覚えで恐縮ですが、 アウグスティヌスは、もっとしつこく疑っていくんですね。 そもそも対象の認識そのものが如何に可能かという設問を立てて、 それが神の光によって可能になるという結論を出したんじゃなかっ たかな、と思うんですけど。デカルトは認識の可能性については、 いってなかったんじゃないかしら。だって、彼の二元論の中じゃ 認識の可能性という設問はたてらんないんじゃないかなあ。 不勉強ですいません。
40 :
考える名無しさん :2001/03/07(水) 03:57
だから、欺く神の懐疑は「われわれの本性が欺く神のせいで逝かれていて、本当は 2+3=6なのに、まちがって2+3=5と思いこまされているのでは?」 という懐疑だから、認識する側の可能性(能力)も懐疑にかけてるんだよ。
41 :
考える名無しさん :2001/03/07(水) 04:03
デカルトは1730年代から1740年代にかけて、大陸でも決定的に ニュートン主義に破れる。それ以降新カント派まで、デカルトは 日陰者になる。まあ、ヘーゲルあたりは評価したらしいけど。 で、18世紀中盤から19世紀後半はヒュームの感覚一元論やカバニス らの唯物論など、つまり一元論が中心になるから、二元論には 辛かっただろうね。当然この理由でホッブスは評価されたことだろうよ。 おれはよく知らないけど。
42 :
わかりません :2001/03/09(金) 00:08
なるほどね。 新カント派あたりがデカルトを持ち上げたという点は、さもありなん という感じですか。 そうでしょうね、事実問題は省くとして、新カント派あたりの科学哲学 みたいなのは、デカルトを出発点としない限り、前提をもたないと思うん ですよ。いわゆる科学的思惟を体系的に打ち出したという点にデカルト哲学 の意義があるんであって、「われ思うゆえに我あり」も、知識の明晰さの根拠 という点で科学的思惟の中に収斂されていくんだろうね。 そうしないと、自然を人間によってつるし上げるという意味での自然科学なんか 生まれやしないですからね。ニュートンやガリレオとある意味同列に考えられる 近代の父なんでしょうね。あまり哲学の本流という感じじゃないな。
43 :
考える名無しさん :2001/03/09(金) 20:57
逆に新カント派のデカルト理解を媒介にしてデカルト思想が 語られるという事態が起こってきたのが19世紀末から20世紀初頭。 いまではさすがにその手の解釈は影を潜めてきたが、それでも デカルトの自然哲学や道徳哲学の扱いがおろそかなのはそのためか? とくに自然哲学の扱いの軽さは、思想史でのデカルトの扱いを誤解する 原因と思う。
44 :
わかりません :2001/03/10(土) 08:42
ハーヴェイの血液循環論とデカルトのそれとを比較して方法序説を 読んだことがありますが、すごいですよ、デカルトの行動力というか、 探究心は。ただし、両者とも解剖学者として超一流であったのですが、 いかんせんデカルトは解剖だけになってしまったという感じです。 当時のデカルトは、やることなすことかなり画期的なことをしていた のでしょう。これはやっぱりすごいですよ、科学史上。
45 :
考える名無しさん :2001/03/10(土) 10:03
>4 コギトになんらかの目的語つまりその思惟内容があると考えてみては? >「疑う」と「思っている」のが我 とする6さんに従うと、「我疑うと我思う」(Je pense que je doute.)。 もうすこし付け足すとおそらくJe pense que je doute quelque chose 即ち「我何かを疑うと我思う」になるでしょう。 こう考えると、もっと複雑な複文の可能性も出てくるでしょう、例えば Je pense que je pense que je pense que...je doute quelque chose.など。 でもこのとき、主節のJeがよりかかりあうのはモノよりjeではないでしょう か?
46 :
いちご姫 :2001/03/10(土) 12:52
>4@`45 <疑う>行為をしていることの同定以外にも、デカルトは多くの論点を先取して いますよ。 (1)「私は考える、故に、私は存在する」というラテン語訳の方だとはっきりする (フランス語だと「私は考えていてぇ、でぇ、私は存在してる」くらいになるが) 点は、推論の正当性の前提。 (2)「私は考えている」(cogito)というが<考え>ているのが<私>だ、とする のも不当な前提。高だか現象から言えることは「考えている」「考えがある」「考 えが起こっている」程度。それが<私>である事の同定は、別個になされねばなら ない。従って、この点からも'Cogito@` ergo sum.'ではなく言えるのは高だか 'Cogitans est.'程度。 (3)更に言語が直観を正当に表現しているか、という問題がある。 この‘cogito’なり‘cogitans'なりがデカルトが直観した事の正しい言語表現で ある事の論証も、彼はしていない。もしかしたら、それは「私はいたい」とか「我 眠る」かもしれない。デカルトは、言語については全く懐疑の対象である可能性を 配慮していないはずです。(「注意深く」用いよという陳腐な教訓を『省察』か 『序説』にちょろっと書いている程度で。
47 :
考える名無しさん :2001/03/11(日) 23:50
いちご姫さん、詳しいなぁ。 なんか参考文献あったら教えてよ。
48 :
考える名無しさん :2001/03/12(月) 02:16
>46 ラテン語版に「我は考える、故に、私は存在する」みたいな表現はないよ。
49 :
考える名無しさん :2001/03/13(火) 13:52
>46 >(2)「私は考えている」(cogito)というが<考え>ているのが<私>だ、 >とするのも不当な前提 行為を担う主体(あるいは動詞の主語)は、行為そのものと全く同時に 存在するのでなければ、その行為も存在し得ないのではないですか?
50 :
考える名無しさん :2001/03/13(火) 14:07
立花隆さんがヴァレリーと一緒に書いてたなぁ。
51 :
考える名無しさん :2001/03/13(火) 15:55
>>46 「Cogito@` ergo sum.」は論証してるものではなく、
自分の思考を対象に実験したことを、記録したものだと思います。
よってこの実験を検証するには、
自分の思考を使ってこの実験を再現して
確かめればいいのだと思います。
またいくら言葉を厳密にして論証したからといって、
それが事実を確認し証明したことにはならないわけですし。
52 :
考える名無しさん :2001/03/13(火) 17:26
だから〜〜〜その実験の過程に生起する現象(それはCogitoという記号で記述される)が本当に「自分の思考」と同定できるか疑わしい。そんな根拠ねえよってのがいちごの言ってることじゃねえか。
53 :
考える名無しさん :2001/03/13(火) 17:59
>それは「私はいたい」とか「我 眠る」かもしれない。 だから、videor imaginari@` sentirのvideorにおいては誤らない、 というところに自己であることの同定があるんじゃないの。
54 :
いちご姫 :2001/03/13(火) 18:27
>>46 えっ!? 本当に‘cogito@` ergo sum'は、ラテン語訳には無いので
すか? では、クルトゥス(でしたよね、確か翻訳者)は、『序説』第
四部の例の‘je panse@` donc je suis'をどのように訳しているので
しょうか? 御存知でしたら御教示下さい。
ら、
55 :
いちご姫 :2001/03/13(火) 18:38
>>53 確かに、cogitoの内容は精神作用の限り、という広義に解釈すべきで
ある、という有力解釈があるのは、私ですら知っています。
しかし、「我感ず」であって「君感ず」ではない、という懐疑にはど
う答えますか?(2)の問題点です。
>>49 「考える」が行為である事も、行為は行為主体を必要とする事も、デカ
ルト的な方法論的懐疑の立場に立てば、懐疑にかけられてしかるべき事
でしょう。
‘It rains.'というからといって<it>という主体が何処かに存在しな
ければならない、とは限らないのと同様、‘I think.’のIも単に英語
の(デカルトならフランス語やラテン語の)文法が偶然要求しているイ
ディオムのようなものではない、とは限らないではないですか。
56 :
48 :2001/03/13(火) 19:45
>>54 『省察』のオリジナルであるラテン語版にこの表現はないよ、多分。
『序説』のラテン語訳は読んだことがないからしらん。
それから53も俺だけど、これは上で書いた自己触発のはなし。
これで我(君ならぬ我、ね)が確保され、その内容として
様々な精神作用が後から吟味される。
57 :
考える名無しさん :2001/03/13(火) 21:48
>>56 Meditationesには、おっしゃるとおり、おそらくないでしょう。こちら
の有名なせりふは「「我あり、我存す」という命題は精神がそれを把握
する度に」云々というのだったはずですから。
>53の方は考えて見ます。
>>52 >だから〜〜〜その実験の過程に生起する現象
>(それはCogitoという記号で記述される)が
>本当に「自分の思考」と同定できるか疑わしい。
自分の意思で考えてないとして、例えば、
欺く神や他人が考えたことをそのまま意識しているとか、
神や他人が考えていることを想像しているとか、
意思が無く機械的に考えているとか、
多重人格の別の人格の意思が考えているなどあったとしても、
誰の意思で考えているのか、意思の有無がどうであろうとも、
思考活動の現象が自分の意識の中にあるのであれば、
自分の意識の活動は確かに存在してることになるでしょう。
でも「Cogito」を自我の働きと限定するのなら
これは間違いになるけど。
59 :
考える名無しさん :2001/03/13(火) 23:30
>思考活動の現象が自分の意識の中にあるのであれば、 無いかもしれんぞ。
60 :
考える名無しさん :2001/03/14(水) 03:29
>59 ないんでしょうか。 私はずっとあると思ってました。 ないかもしれない、といえる理由はなんですか。
61 :
いちご姫 :2001/03/14(水) 17:21
>>59 私も、「思考活動(そもそも活動なのか?)の現象が<自分の>意識にある」と
は限らない、懐疑の対象たるべきだ、と思います。
62 :
考える名無しさん :2001/03/15(木) 02:12
おれ、素人なんだけど、 そう考えると、我思う、ゆえに我ありっていう命題の 「我あり」の部分が言えなくなっちゃうんじゃないかな。 けっこう大きな問題になりそう。
63 :
考える名無しさん :2001/03/15(木) 12:25
コギトが論争を呼ぶのは、記述しているデカルトと、記述されているデカルトとが混同
されているからではないですか?この二つの平面は区別されるべきだと思う。つまり
「『考える』とはどういうことか?」と問うデカルトと、「我思う」デカルトとはそれ
ぞれ違う平面で捉えられるべきだ、ということです。
>>49 「考える」が行為である事も、行為は行為主体を必要とする事も、デカルト的な方法論
的懐疑の立場に立てば、懐疑にかけられてしかるべき事でしょう。 ‘It rains.'という
からといって<it>という主体が何処かに存在しなければならない、とは限らないのと
同様、‘I think.’のIも単に英語の(デカルトならフランス語やラテン語の)文法が
偶然要求しているイディオムのようなものではない、とは限らないではないですか。
It rainsのような非人称の主語と、「我思う」の主語<我>とを類比的に扱うことは議
論を混迷させるだけで、それ以上は何の役にも立たないのでさておき、あらゆることを
懐疑にかけようと思っても、それでもなお一つの剰余のごときものとして、Je douteあ
るいはJe penseは残るのではないでしょうか?つまりあらゆることを疑うとして、そ
のあらゆることの中に懐疑を含めることができたとしても、「その懐疑をさらに懐疑す
る」といった、(誤解を恐れずに言えば)ひょうたんなまずのような事態が起こるで
しょう。
私が45でJe pense que je doute quelque choseという形で示そうとしたのは、従
属節内に示される行為は懐疑にかけられ得ても、主節が示す行為は懐疑にかけられ得な
い(かけようとするなら、それは文章の形としては、さらにその前にJe pense queだ
か Je doute queを付け足すことと等しくなるでしょうが、いずれにせよ主節が示す行
為は残らざるを得ない、つまり<思う我>あるいは<疑う我>は残る)ということ、
結局のところデカルトと同じく、思考内容を疑うことはできても、思考の行為あるいは
思考する我は疑いにかけられ得ないということです。
64 :
いちご姫 :2001/03/15(木) 15:26
>>63 It rainsのような非人称の主語と、「我思う」の主語<我>とを類比的
に扱うことは議論を混迷させるだけで、それ以上は何の役にも立たない
両者は類比的ではない、と断定する根拠は何なのでしょうか?
>主節が示す行為は残らざるを得ない、つまり<思う我>あるいは<疑
う我>は残る)
思考内容を疑うことはできても、思考の行為あるいは思考する我は疑
いにかけられ得ない
(1)仮にデカルトの思考の枠組みにのったとして、既出の繰り返しにな
りますが、思考(考えの内容――対象ではない)が存在する際に、思考
する我の存在も、思考が行為である事を要件とするものである思考とい
う行動の存在も、保証されないでしょう。保証されるのは、思考の存在
、即ち、思われているその思い、そのものだけです。(イメージとして
は唯識論がアナロジーです。)
(2)そもそも、方法論的懐疑を徹底させる事ができるのか、これがより
デカルト哲学への根本的な問題点だ、と私も考えます(が、この議論は
後刻)
65 :
考える名無しさん :2001/03/17(土) 22:43
66 :
考える名無しさん :2001/03/21(水) 00:43
>>いちご姫(
>>46 @`etc.)
姫の言うように思考の内に(思考する)我は見出されないとすると、
我は、いつどこで出現するのだろう?
まさか、全く出現しないわけではないだろう。
デカルト的懐疑における思考の内に我は見出されないとして、
他の状況下では、思考の内に我が見出されるのであろうか?
もし、見出されるのだとすれば、それが見出される状況とは、
いかなる状況であろうか?
私の考え(確固としたものではない)では、
デカルト的懐疑における思考の内には我が見出される。
差し当たって、そうした我が実体かどうかは問題にしない。
思考の内に、何かしら「我」と呼べるようなものが見出されるかどうかだけを問題にしたい。
思うに、懐疑における思考の内に我が見出されないとすれば、
その他のいかなる状況下でも、我は見出されないのではないだろうか?
67 :
いちご姫 :2001/03/21(水) 14:15
>>66 あまりにも紋切り型の返答で恐縮ですが、
我が見出されるのは、
「我」という語を、私がそれを習得し私がそれをもって語る、その言語において、語
「我」が使用されるその文脈で、だと、考えています。
68 :
いちご姫 :2001/03/21(水) 19:07
一部訂正。 〉67が主張できるのは、方法論的懐疑そのものが徹底され得無い、と私は考えてい るから。 従って、一度方法論的懐疑が始められそれが徹底されえるとして現に徹底された 際には、最早、我すら懐疑から除外されえず、形而上学的懐疑論に陥る。 これはおかしい(、と私は考える。) 従って、方法論的懐疑そのものが誤りであり、<我>が見出されるのは で、>67の返答につながる、と読んでください。
69 :
66 :2001/03/22(木) 18:16
>>いちご姫 レスありがとう。 67については、やはり予想通りの答えです。 一気にこの種の答え(ほぼオールマイティな)を出してしまうとつまらないので、 デカルト的懐疑という土俵で話をしてみたのです。 非反省的で素朴な意識との区別をしたかったというのもありますが。 68については(こちらの方が面白いのですが)、今一つ理解できません。 帰謬法なわけですが、「これはおかしい」の「これ」が、 どこ(我すら…? 懐疑論?)にかかっているのか、はっきりしません。 形而上学的懐疑論というのも、どういう事態を言っているのか分かりません。 気が向いたら、何故「おかしい」のか、と合わせて教えてください。
>>69 はい。
間違った記述があったら訂正お願いします。
まず、これがかかっているのは、つまり、「おかしい」と67で批判され
たのは「形而上学的懐疑論」です。
なぜ、陥るのが<形而上学的>懐疑論だ、と私が推測したかというと、
デカルトが方法論的懐疑で疑いえぬと考えた「われ」は思惟実体であり、
(神を経由して)次ぎに得られるのも延長実体ですよね。どちらも、経
験的・心理的な対象ではなく、そもそも実体・モノといわれているので
すから、形而上学的対象でしょう。それの存在を疑う立場に行き着くか
ら、形而上学的懐疑論に行き着く、と書いたのです。
しかし、質問をいただいて考えなおしたところ、(デカルトの立場で
はどうかはおくとして)私の立場からすれば、形而上学的懐疑論に至っ
たからといって、<おかしい>わけではない、という気がしてきました。
というのは、デカルトの懐疑はあくまで<方法的>なものであり、日常
生活がよどみなく健全に営まれている事と両立するわけです。従って、
単に「学者はヘンな事をいっている」が気にしない、という学的懐疑論
と共存した日常的実践は存在し得、従って、なにも実践的問題は生じない、
ということになるからです。(ここで、<おかしい><訂正が必要>と
言われ得るのは、日常の実践を阻害、若しくは実践の不可能性を論理的
に帰結してしまう前提です。)
71 :
考える名無しさん :2001/03/23(金) 20:45
>>64 類比的に取り上げるとするなら、(多分この点意見は一致すると思いますが)それぞれの主語・動詞の関係を明確にしないといけないだろうからです。
1)について
繰り返しになりますが、デカルトの記述の平面を(二つに)分けて考えた方がいいのではないでしょうか? つまり対象たり得ない思考の平面そのもので語るデカルトと、その(対象たり得ないはずの)思考を対象化して語るデカルトがいると。両者をそれぞれ、低次・高次と敢て呼んで区別するとすると、例えば低次は51さんがおっしゃっているような段階だと思うんですね。いわば個別な経験の平面にいるということになるでしょうが、多分方法的懐疑を実践しつつ記述している平面はこれにあたると思います。他方、例えば《考えるものとは…、疑い、理解し、肯定し、否定し…するものである》と述べる場合、デカルトは個別な経験の平面から離れて、より高次な平面からそう記述しているように思います。
2)について
66以降のいちごさんのご意見、私もほぼ(というのもあまりじっくり読んでいないからですが…失礼)同感です。
私は、(方法的)懐疑よりも、デカルトが『省察』第二部で《私はなにものかであると考えている限り、それ(狡猾な欺き手)が私をなにものたらしめぬようにすることは決してできないだろう》、また《(私が存在するのは)私が考えている間である》云々と述べるくだりがいつも気になっていたんですね。そして<我思う>の我は何を考えているのか、つまりコギトの目的語は何か、でもその目的語が何か他のものだったら、例えば我食すと大して変わらないだろうゆえに、やはり目的語は(もし敢えてそれを探し出すとすれば)<我>でなければならないんじゃないかと思ったわけです。
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