1 :
名無しさん@1周年:
クワインが分析的言明についての真偽は
その言明のみによっては決定されない(?)とか言ったことと
いわゆるゲーデルの不完全性定理の関係を論じてる人って
いるのでしょうか?
または、みなさんこの「両者」(両理論?)の関係について
思うところはありや?
わたしは哲学ちゅーぼーで、
クワインは大庭「はじめての分析哲学」で読んだだけ
ゲーデルにいたっては不完全性定理の日本語の定義くらいしか
しりません けど
論理実証主義の末裔?とゲーデルだから
まんざらどきゅそな問いでもないと思うんですが
どなたか、ご教示ください
2 :
火星人:2001/02/08(木) 19:59
「真偽を決定することはできない」という部分が
漠然と似ているだけであって、両者が数学的に深遠な
共通の基盤を持っている、ということはありません。
いじわるな言い方をすれば、もしそれが成り立つの
ならば、「決定不可能」というフレーズの出てくる
学説はすべて同じ基盤をもっていることになると
思います。
3 :
名無しさん@1周年:2001/02/08(木) 20:27
4 :
名無しさん@1周年:2001/02/08(木) 20:32
5 :
考える名無しさん:2001/02/09(金) 07:24
>3
クワインはもちろん科学哲学もバリバリだから
不確定性原理とか不完全性原理とかの自然科学、
数学の議論にも影響されたということは考え
られると思います。そういう意味では、1さんの
いうとおり、両者に関係は間違いなくあるでしょう。
ただ、数学的な厳密さで両者が本質的に等しい
といったことはないです。1さんの「両者に関係が
あるか」という質問を私は後者のような意味で捕えて
いました。
6 :
考える名無しさん:2001/02/09(金) 07:28
>4
これも、ゲーデルがライプニッツに哲学的な影響を
受けているだけのことです。たとえば、ライプニッツ
の心身の予定調和説と経済学の予定調和の概念は
直接関係ありません。似たような例を上げれば、
アインシュタインはスピノザの哲学にかなり影響
を受けていて、「スピノザの神を信じる」といって
いますが、これをもって、スピノザは相対性理論の
基盤を作ったということにはならないのと同じです。
7 :
考える名無しさん:2001/02/09(金) 11:29
両者に厳密な関係はないのでわ。
ゲーデルの不完全性定理はあくまで、ペアノの算術系公理内部でのみ成り立つ定理です。
クワインの理論はあくまで哲学の範囲内のものですから・・・・・・同列のものとして捕らえるのは無理がないでしょうか。
8 :
世界@名無史さん:2001/03/06(火) 00:38
やっとまともな板だ!
>>7さん
そうかなあ、例えばゲーデルの例の神の実在の証明なんて
見ると、ゲーデルは哲学の分野まで体系化したかったんじゃないかな
不完全定理だって究極的には数が綺麗にならぶ事を証明する事に
援用しようとした事だっていうのだし、、、
9 :
考える名無しさん:2001/03/06(火) 12:45
1っす。あぁ、スレがあがってる(^^ 。
先日例のソーカル「知の欺瞞」読み終わったところだけど
最終章がゲーデル不完全性定理で、
曰く「汲めども尽きぬ「ポストモダン」の源泉」とかなんとか(^^;
やはり、自分もドキュソなのかと肩を落としていました
というわけで、ほんまに論文とか、研究してる人とかいないのでせうか?
10 :
考える名無しさん:2001/03/06(火) 12:53
>>9 不完全性定理に関して、ごく最近なんらかの成果があがっているという紹介がありました。1980年代か、90年代かも知れません。
まあそれで数学がどうなったというものでもないねぇという紹介だったので出展も胡乱なのですが、
ここで網を張っておけば誰かが教えてくれるかも知れません。
11 :
いちご姫:2001/03/06(火) 12:58
>クワインが分析的言明についての真偽はその言明のみによっては決定
されない
クワインが上記引用の主張をしている覚えが私にはありません。出典
箇所をご教示いただければ幸いです。(クワインが、分析/総合言明の
区別は存在しない、と初期に主張していた事と誤解なさっていませんか
?)
>最終章がゲーデル不完全性定理で、
曰く「汲めども尽きぬ「ポストモダン」の源泉」とかなんとか(^^;
私自身、不完全性定理は理解していませんが、特別に限定された系で
「少なくとも一つは」という話なので、おそらく、哲学の殆どの問題に
は関係ないか、少なくとも、それより遥かに先に解かれるべき多義性等
々の問題が山積している、と思っています。
12 :
吾輩は名無しである:2001/03/06(火) 14:25
てゆうか、ライプニッツって馬路で素晴らしいね。
彼の哲学から神の概念を取り除けば、現代哲学でも
十分通用するよね。
13 :
山田五郎:2001/03/06(火) 16:14
私はゲーデルの不完全性定理を「不確定性定理」と
間違えてしまいまいた。
恥ずかしい・・・
14 :
考える名無しさん:2001/03/06(火) 16:28
数学内にも色々と派閥闘争みたいなのがあるみたいね。
どうも一枚岩でないらしい。
だから、ソーカル本でゲーデルの定理が揶揄されたとしても、
どっちが一方的に正しいというわけではないだろう。
ソーカル本は政治的パンフレットとしての意味合いを持っていること
にも注視する必要ありだな。
ソーカル本にはアメリカVSフランスというつまらない対立構図も背後にあるわけだし。
だから、ポストモダン論もソーカル本も両方真に受けないほうが賢明かも。
15 :
考える名無しさん:2001/03/06(火) 16:31
まあフランスの数学はブルバキズムの責任を取りきるまでは
ちょっと立場が辛いのかモナ
16 :
吾輩は名無しである:2001/03/06(火) 22:57
7さん、いちご姫さん どうも 1です。
「クワインが分析的言明云々」の文言はたぶん不完全性定理云々のバイアスが
私にかかっていて書いた文言だと思います。なにせトップで書いたように「ち
ゅーぼー」ですからご勘弁。でも、いちごさんの書いたのと私の書いたのって
そんなに大きく違いますかね。
そもそも私は分析的命題の具体例をイメージできないドキュソですが、このス
レをあげた時の思考の流れは多分こんな風。
分析的命題=命題だけで真と判定できる文=すると数学の証明ってそれじゃない?
例えば、三角形の内角の和はユークリッド平面?では180度。
えっ、そう言えば、ゲーデルって人が「公理系が無矛盾だとしてその中では証明も
反証もできないような命題が一つは存在する」?とか言ってたジャン 云々
それに、クワインって分析哲学だから、きっと数学にも詳しそうだし
数学の証明と公理の関係って、なんかクワインのホーリズムとかと似てるよ
うな気がするし・・・
というわけですので、そもそも数学の証明?が分析的な命題とは縁もゆかり
も無いとなると、私の話はほとんど意味無いことになりまっす。
分析哲学と数学に詳しい人、関心のある人、よろしく。
17 :
考える名無しさん:2001/03/06(火) 23:05
ゲーデルは完全性定理も作りました
18 :
吾輩は名無しである:2001/03/06(火) 23:13
あと、ソーカルスレは別に立っているのであまり詳しく書かないけど、
私はソーカルの議論に不明な点も、反論したい点も見当たりません
でした。ソーカル訳本のp250「もし人間科学が、自然科学の否定し
ようのない成功から何かを引き出したいならば、専門的な科学の概念を
そのまま拡張することによってそうする必要はない。それよりも、
自然科学の方法論的な原則の中の最良のものから役に立つことが
学べるはずである。その手始めは、ある意見の価値は、それに賛成する
穂と、反対する人の人間的な質や社会的地位を考えに入れず、
その意見を支える事実や論拠に基づいて判断するという原則だ。」
全く同感です。
19 :
吾輩は名無しである:2001/03/06(火) 23:14
あっ、18=19=1ね。(^^;
20 :
吾輩は名無しである:2001/03/06(火) 23:18
>13
えっ、山田五郎さんってまさかあの山田五郎さんじゃないよね
21 :
1だぴょーん:2001/03/06(火) 23:23
あと、私の書き方が悪くて誤解があったようなので念のため。
ソーカル本でソーカルが揶揄しているのは、当然ゲーデルではなく、
ゲーデルをネタにして「ぽすともだん」的言説を弄している
有象無象のポストモダン論者。正確な引用はこうです。
「ゲーデルの定理こそ汲めども尽きぬ知的濫用の泉である。」
22 :
いちご姫:2001/03/07(水) 23:18
>16
数学的諸命題が分析命題である、というのは、論理実証主義に代表される、数学
についての(支持する人の少なくない)一つの立場です。カントはア・プリオリな
総合命題だ、っていってたのではなかったですか?(哲学史を忘れて久しい愚か者
の愚問愚答)
数学の公理系を全体論的な体系として捉える一つの立場は、中期のWittgenstein
です。彼の場合、極論すれば証明が一つ新たになされる毎に異なる公理系が創出さ
れるのだ、という立場をとり、したがって、数学に(解かれていない)問題は存在
しない、という結論に至っています。(この辺、日本語では奥雅博『ウィトゲンシュ
タインの夢』勁草書房、戸田山和久「数学と数学ならざるもの、あるいは数学の内
と外」『ウィトゲンシュタイン読本』法政大学出版局(所収)等を参照下さい)
23 :
咲也:2001/03/08(木) 00:03
>>22 それを公理系と呼ぶから誤解されるのでは?
そういう言葉遣いについてウィトゲンシュタインは
やや無頓着すぎるように感じます。とはいえ彼の提出する例のように
前提そのものが変わることは実際の計算過程を考えれば自然なので
コンピュータが普及した今なら理解しやすいですが、
数学の基礎についての議論としては異様に見えたことは
容易に想像がつきます。
24 :
いちご姫:2001/03/08(木) 12:45
>>22 咲也さん
>それを公理系と呼ぶから誤解されるのでは?
なぜ、それを公理系と呼ぶと誤解されるのか、そしてその誤解とは如何なるもの
なのか、ぜひぜひ教えてください(ハート)
25 :
いちご姫:2001/03/08(木) 12:58
>16
分析命題の好例
‘The bachelor is an unmarried man.'「チョンガーは非婚の男子である」
*ここで、一部に差別語との誤解がある「チョンガー」を使用したのは、日本
語で非婚男子を意味する他の表現は(私の知る範囲で)全て非婚という概念が
含まれている(例えば独身者)ので、単なるトートロジーになりかねない為、
それを避ける意図で採用しました。朝鮮・韓国人に対していかなる蔑視の意味
を含めたものではない事を付記しておきます。(語源的には、「チョンガー」
はコリアの未婚男性が、未婚者に特有な髪型「総角」をしていたことから、そ
の「総角」が未婚男子そのものを意味するようになり、そのハングル語発音の
日本語訛りが「チョンガー」です。「朝鮮」に対する差別的略称「チョン」と
は関係ありません。)
26 :
考える名無しさん:2001/03/08(木) 17:38
姫様 1です 詳しいレスほんとにありがとうございます
さすがに上記の例は、というか、私は上記の例のみ?知ってます
なんか、その例だと単なるトートロジーで無意味としか私には思われないのです
ちゃんとした本を参照すればよいのでしょうが・・・
とりあえず、最初に紹介した大庭「はじめての分析哲学」に
そのあたりの話があったので読みなおしてみます
今職場のPCからなので続きは家に帰ってから書きます
27 :
世界@名無史さん:2001/03/08(木) 20:08
>>26
それは簡単で命題論理のスコープがどこに在るのか
、確としていないからでしょう?
任意のチョンガーはすべからく任意の独身者である、
と言うような書き方ならどうなんでしょう?
28 :
いちご姫:2001/03/08(木) 20:39
初期のクワインによれば分析命題は存在しないし、パトナムによって
も極めて稀にのみ存在する、という絶滅危惧種の命題ですから、そうそ
うお気に召す例をあげられないのです。
ただ、分析命題というのは定義やトートロジーですから、トートロジ
ーで無意味といわれても、非難にならないような気がします。
(一応‘A bachelor is an unmarried man.'は、両項が異なる語句で
すからトートロジーではないでしょう。)
あるいは「自転車はある動力の無い乗り物である。」も、パスとかが
出てくるまでは(それで自転車の意味が変わったとすれば)分析命題だ
ったのかも。
29 :
咲也:2001/03/08(木) 21:48
>>24 姫様のご要望とあらばいたしかたありませぬが
哲学プロパーでないので用語や議論が哲学的に荒っぽいところはご容赦下さいませ。
まず数学と数理論理学と哲学ではそれぞれ捉え方が違うと思いますが、
数学で公理系を持ち出すときには、
それを固定してから演繹してゆくという了解が素朴に付随しており、
このような演繹が数学的活動であるという考え方がなされていると思われます。
ちょっと考えてみれば普通の数学者は必ずしもこんな推論は
していないのでこれは言い過ぎなのですが、
実際の数学的活動自体はそもそも記述できないが、やろうと思えば
少なくとも数学として十分な部分がこういう演繹の記述に置き換えられるだろう
という了解(というかドグマ)が特にHilbertの公理論以後はあると思います。
よって数学者との典型的なすれ違いは、
Wittgensteinの考えるように変化するものには
「公理系」という言葉遣いが相応しくないし、また
そのようなことを考えるのは数学の基礎の問題ではないというものです。
Wittgensteinは前段のような了解にそもそもまったく同意していないと思われますが、
彼が問題にしていることを数学や数理論理学の人に理解してもらうには
そのレベルの説明がそもそも不足している感があります。
数理論理学のテクニカルタームとしての公理系(形式系)は
言語とその式の任意の集合と推論規則の集合ですが、
メタ数学としては似たようなもので、数理論理学者のKreiselは
surveyabilityをpossibilityの問題としてとらえているようですが
これも形式系を固定した上でのことが念頭にあるので
上記の変種と考えていいと思います。
30 :
いちご姫:2001/03/09(金) 10:07
>数学で公理系を持ち出すときには、それを固定してから演繹してゆくという了解
が素朴に付随しており
この公理系観は、論理実証主義も継承しており、一度公理を定めれば、定理は必
然的かつ論理的かつ唯一に論理的に導出される、と彼等は主張しました。
しかし、公理の意義は、公理命題そのものにではなく、その体系で如何に用いら
れるかにある、という観念は、数学基礎論の世界にも既に提示されていたのではな
かったですか? 何れにせよ、この公理観に、既に中期のウィトゲンシュタインは
異を唱え、いかなる公理も定理もその意味はそれの属する公理系が如何様であるか、
その証明の連関によって定められるのだ(全体論)、と主張しました。
ここからが彼の独自な主張だ、と思いますが、彼は、だとすれば、仮令公理系の
1箇所が改変されるとしても――例えば、従来未証明だった命題が証明される――
、それは、公理系の変化であり、かつ、公理系に属するいかなる公理も定理もその
意味を他の公理・定理との証明関係から離れて独自に有しないのだから、たった一
つの新たな改変・証明も公理系全体の変更、新たな別の公理系の採用だ、と結論し
ました。
つまり、咲也さんが描かれた数学における公理系の描像との相違は、公理はその
意味を証明の体系から別個にその意味を確定できるか否か、にあります。これは、
論理において、論理概念さえ予め知っていれば、個別の推論は演繹的・自動的にで
着ない(ウィトゲンシュタイン)のかできるのか(論理実証主義)という対立と平
行的だ、という事が出来ると思います。
>よって数学者との典型的なすれ違いは、Wittgensteinの考えるように変化するも
のには「公理系」という言葉遣いが相応しくないし、
ウィトゲンシュタインは、「変化するもの」に「公理系」という言葉を持ちいず、
むしろ、新たな証明という新たな要素の導入=変化があれば、変化したのだからも
はや別の公理系だ、という主張ですが。それとも、咲也さんがいう「変化するもの」
とは、証明がなされると別の公理系に変化する、ということでしょうか?
もしそうだ、としたら、この主張の相違は、論理の基本的な立場の問題、という
事に起因しています。但し、公理さえ与えればあとは推論規則で演繹が一義的に確
定する、という考えは、意味の全体論と、規則のパラドクスの双方から否定された
テーゼですので、論理のプラトニズムを採用しない限り、極めて弁護の難しい立場
(但し、数学者にプラトニストが多い事は私も知っています。ただ、そのプラトニ
ズムの正当性の論証がもっともらしい例を寡聞にして知りません。どちらかという
と、それを自明な事として平然としている、という印象があります。
>彼が問題にしていることを数学や数理論理学の人に理解してもらうにはそのレベル
の説明がそもそも不足している感があります。
そうでしょうか。彼はこの問題についてはかなり説得的で執念深く論じていると
思うのですが(最もかれの説得的に論じる、という水準が極めてそっけないのかも
知れないですが)。クライゼルも誤解したようですからね。少なくともウィトゲン
シュタインの解説者は、きちんと説明している、と思います。
そのようなことを考えるのは数学の基礎の問題ではないというものです。
>>>
>
>
31 :
いちご姫:2001/03/09(金) 16:10
>30
ごめんなさい、また入力ミスです。
最後の一文「そのようなことを考えるのは数学の基礎の問題ではないというもの
です。」は、咲也さんの数学基礎論学者の反応についての解説であるこの部分に、
夫々の体系としては<固定>している、と中期のウィトゲンシュタインも考えてい
るのだから、咲也さんのご紹介の限りでは、紹介された数学基礎論学者達にとって
も、数学の基礎の問題と見なすはず、もしくはべきである、と書くつもりでした。
大物姐御出現。
33 :
咲也:2001/03/09(金) 23:44
だらだら書いてたら本文が長すぎると怒られてしまったので分けますね.
>>30 まず私は数学と数理論理学(数学基礎論)を適宜使い分けています.姫様のよう
にご存じの方には言うまでもありませんが,数学では論理そのものを明示的に扱
うことはあまりありませんが数理論理学では論理を数学的対象としますので公理
系というものに対する見方,もっと素朴には感覚が異なります.また当時と現在
では事情が異なりますのでそこにも注意する必要があります.かつての「数学基
礎論」という分野は今では数学としての「数理論理学」と哲学としての「数学の
哲学」にほぼ分離していると思われます.
> しかし、公理の意義は、公理命題そのものにではなく、その体系で如何に用いら
> れるかにある、という観念は、数学基礎論の世界にも既に提示されていたのではな
> かったですか?
曖昧な表現としてはYesですが,「公理の意義」とか「如何に用いられるか」と
いうところに想定するものが立場により異なります.それ自体今問題にしている
ことですよね.
> ここからが彼の独自な主張だ、と思いますが、彼は、だとすれば、仮令公理系の
> 1箇所が改変されるとしても――例えば、従来未証明だった命題が証明される――
> 、それは、公理系の変化であり、かつ、公理系に属するいかなる公理も定理もその
> 意味を他の公理・定理との証明関係から離れて独自に有しないのだから、たった一
> つの新たな改変・証明も公理系全体の変更、新たな別の公理系の採用だ、と結論し
> ました。
ここで用語法がちがってくるわけです.「従来未証明だった命題が証明される」
ことは,数学や数理論理学のテクニカルタームとしては公理系の変化ではありま
せん.
> つまり、咲也さんが描かれた数学における公理系の描像との相違は、公理はその
> 意味を証明の体系から別個にその意味を確定できるか否か、にあります。これは、
> 論理において、論理概念さえ予め知っていれば、個別の推論は演繹的・自動的にで
> 着ない(ウィトゲンシュタイン)のかできるのか(論理実証主義)という対立と平
> 行的だ、という事が出来ると思います。
そしてそれがなぜ数学者に受け入れられないかを述べよ,というのがリクエスト
だったわけですね.前述のように「従来未証明だった命題が証明される」を公理
系の変化だと言い換えるだけならまだよいのですが,さらに徹底して
Wittgensteinの挙げた次のような例を考えてみると
誰かが我々に和を求める問題を棒の表記で,例えば|||||||||| +
||||||||||||のように出して,我々が計算している間,我々が気づかないう
ちに棒を取り除いたり加えたりして面白がっている,と想像してみよう.彼
は『でもその和は正しくない』と言い続け,我々は全部やり直し続けて毎回
馬鹿にされるだろう.--- 実際,厳密に言えば我々は計算の正しさの基準に
ついて何の概念も持っていない.(「哲学的文法」@` IV 18)
ここでの「我々が気づかないうちに棒を取り除いたり加えたりして面白がってい
る」のような想定は,普通の数学では受け入れられないということが言いたかっ
たわけです.(なお私自身は数学者の代弁をしたいわけではなくて,むしろ
Wittgensteinの考えていたことには色々興味深い点があると考えています).
34 :
咲也:2001/03/09(金) 23:47
続きです.
>>30 > >よって数学者との典型的なすれ違いは、Wittgensteinの考えるように変化するも
> >のには「公理系」という言葉遣いが相応しくないし、
>
> ウィトゲンシュタインは、「変化するもの」に「公理系」という言葉を持ちいず、
> むしろ、新たな証明という新たな要素の導入=変化があれば、変化したのだからも
> はや別の公理系だ、という主張ですが。それとも、咲也さんがいう「変化するもの」
> とは、証明がなされると別の公理系に変化する、ということでしょうか?
この段落ちょっとよく分かりません.導入される新たな要素が証明かそれとも証
明の結果かということですか?「変化するもの」という表現が曖昧でしたが,こ
こでおっしゃっているウィトゲンシュタインの主張について話しているつもりです.
> もしそうだ、としたら、この主張の相違は、論理の基本的な立場の問題、という
> 事に起因しています。但し、公理さえ与えればあとは推論規則で演繹が一義的に確
> 定する、という考えは、意味の全体論と、規則のパラドクスの双方から否定された
> テーゼですので、論理のプラトニズムを採用しない限り、極めて弁護の難しい立場
> (但し、数学者にプラトニストが多い事は私も知っています。ただ、そのプラトニ
> ズムの正当性の論証がもっともらしい例を寡聞にして知りません。どちらかという
> と、それを自明な事として平然としている、という印象があります。
繰り返しますが,私の考え方ではなく,数学者や数理論理学者の標準的と思われ
る考え方を説明しています.そしてWittgensteinの提出している例や議論は,現
実の反応がそれを示しているように(少なくとも当時の)数学者にとって説得力
に欠けていると思います.私はそのことを非難したいわけではありません.哲学
者のChiharaが「Goedelには勝てない」と言っていたそうですが,数学的対象を
手中にしている数学者を説得するのはそもそも困難な作業ですから.
>>31 > 咲也さんの数学基礎論学者の反応についての解説であるこの部分に、
> 夫々の体系としては<固定>している、と中期のウィトゲンシュタインも考えてい
> るのだから、咲也さんのご紹介の限りでは、紹介された数学基礎論学者達にとって
> も、数学の基礎の問題と見なすはず、もしくはべきである。
絶滅危惧種の真の数学基礎論学者にとっては,見なす「べき」であっても見なす
「はず」とは思えません,数学者や数理論理学者は言わずもがな,というのが私
の見たところです.そして失礼ながらWittgensteinの解説者たちが他の面に比べ
て数学の基礎という面を(数学論理学者に聞こえるほど)積極的に打ち出してい
るようには見えないのですが,例えば90年前後に流行ったらしいAIと
Wittgensteinを関係づけるような議論では,その辺りを現代的な文脈で取り上げ
るような動きはあったのでしょうか?どういう議論がされたかちょっと関心を持っ
ています(スレの本題に近づいたかな?).
35 :
考える名無しさん:2001/03/10(土) 10:42
素人だけど、Nの命題はN+1の命題がなければ――ってやつですか?
帰納的飛躍をなさないと自然科学の定理は成立しないのかな・・・
あと、ハイゼンベルグの発言は物理版の不完全性定理と捕らえていい?
36 :
phys:2001/03/12(月) 01:01
>35
ハイゼンベルグの不確定性原理は、定量的な法則です。
確定or不確定といった論理学的なall or noneの法則ではありません。
また、量子論でも波動関数の時間発展は決定論的です。
うおっしゃー!
おっちゃんも書いたる、おっちゃんも。
ヒマだから。(あー、ヨタヨタ)
つーかね、咲也もいちご姫も全然お互いが見えてないね。
数学者は公理に特別な地位を与えてるの。
だから、一旦それを決めたらそれを変更しない。
その土俵だけで論理を展開する。
それが咲也の言うところの「数学は演繹うんぬん・・・」ってこと。
ところが、ウィト御仁の目は我々が日常に扱うところの論理に向けられている。
そこには、特別な地位を与えられた公理なんて存在しないし、
さらに彼には、論理実証主義者の夢見たような、
普遍の公理や規則が原理的にすら可能だと思えなかった。
その理由はたぶん、二つほど。
ひとつは
>>33の最後の方に引用されているようなシビアな問題。
そして、もうひとつはこの場での両者の相違点にもなってる、
我々の日常論理がゲームの概念に犯されているということ。
計算の途中で算術の法則が書きかえられるんじゃあ、
おちおち数学もやってられねえべ?(>咲也どん)
>36(おまけ)
決定論的じゃなきゃー、物理学やってらんねえだべ。(おう?)
38 :
いちご姫:2001/03/12(月) 09:34
ここで用語法がちがってくるわけです.「従来未証明だった命題が証明される」
ことは,数学や数理論理学のテクニカルタームとしては公理系の変化ではありま
せん.
ここでの「我々が気づかないうちに棒を取り除いたり加えたりして面白がってい
る」のような想定は,普通の数学では受け入れられないということが言いたかっ
たわけです.(
39 :
代理いぬ:2001/03/12(月) 09:54
いや、公理系の変化の話と、棒を取り除いたりする事の話はまた別だと思うぞ。
確かに、数学の世界では棒を取り除くような想定は受け入れられないが、
それ以前に、この想定はあまりに不誠実な状況(棒を面白がって操作するものが居る)では、
"論理"それ自体が成り立つものではないという事を示唆しているんじゃないかな。
っていうか、用語法の違いとかじゃなくってさー、
論理を適用していこうとする世界自体に相違があるんだと言いたい訳さ、私は。
40 :
いちご姫:2001/03/12(月) 10:06
すみませ〜ん、引用しただけで投稿になってしまいました。
咲也さんの既出投稿で、数学者のメンタリティの説明はかなり為され
た、と思いますので、それについての哲学的コメントを(わかっていそ
うな)咲也さん以外に向けて発信。
>ここで用語法がちがってくるわけです.「従来未証明だった命題が証
明される」ことは,数学や数理論理学のテクニカルタームとしては公理
系の変化ではありません.
これが用語法の問題かどうか、は実は問題です。未証明だった問題が
証明されたら、別の公理系に属する、という主張は、(1)原始概念の意
味は系におけるその語の用いられ方に依存する(という数学者も認める
であろう)論理一般における前提と、(1)公理や原始概念さえ与えられ
ればあとの帰結(数学では定理に当たります)は論理的に一義的に定ま
る、という論理学上の古典的大前提は誤りだ、というWittgensteinの
主張と、の2者から導かれます。言い換えれば、原始概念や公理の意味は
その言語系や公理系におけるその概念・公理の用いられ方なのだから、
使用や証明により言語系や公理系に何か一つでも付け加わったり減った
りしたらば、それらは変化したのだ、とWittgensteinは考えるのです。
(注記:現に使用や証明が為されなくとも、すでに、可能性として公理
に含まれている、という数学的プラトニズムを、同一の概念・論理・公
理から異なった帰結が導き出され得る、という主張によって予めWittgen-
steinは葬り去ってしまおう、というわけです。)これだけの論証が与え
られているのですから、用語法の違い、といってしまうことは、当時の
数学者が、Wittgensteinの主張が、単に用語法の相違を超えた、自分た
ちの前提への懐疑である事をきづきすら出来なかったという事を示して
いる様に、私には思えました。
>ここでの「我々が気づかないうちに棒を取り除いたり加えたりして面
白がっている」のような想定は,普通の数学では受け入れられないと
いうことが言いたかったわけです.
これは微妙ですね。確かに、普通の数学では――数学でギリシャ以降
のアカデミックな、形式性の高い数学では、当然受け入れられないでし
ょう。
但し、Wittgensteinのこの主張は、中期の記号操作の系としての数学
観への反省として、出てきています。そこで、彼は、数学の本質とはそ
れが実生活で使われる事だ、というところへ辿りつきます。ピラミッド
を作るのに必要だった幾何や、物の交換に必要だった林檎の数え方こそ
が、数学に単なる記号操作ではない数学的実質を与えるところのものだ、
と考えるのです。
そうすると、例えば林檎を一個づつ10回集めると、だれかがそっと
一個食べてしまう世界では、(そして、梨や胡瓜でもそうなら)、
1+1+1+1+1+1+1+1+1+1=9という算術が成立する、
そして、それは正当なことであり、そのようにして単なる記号操作に
数学たる意味論が与えられるのだ、とWittgensteinは考えます。私に
は、この議論は、単なる記号操作一般から、その内の一部である(例
えばチェスや中国語は数学に分類されない)数学を分離して一分野に
囲い込むのに不可欠な議論だ、と考えます。従って、彼は、彼の数学論
の妥当性を十分に論じたいのであり、数学基礎論学者主流の無視は、心
理的(高貴で抽象的な数学を日常の世界に引き摺り下ろした、曖昧で多
様な非学問的技術として解釈した事への不快感)及び知的(前記の様な
結論に至る議論が理解できなかった)欠陥に起因したものではなかった
か、と疑います。
(但し、数学については私のほうが無能で無知なので、全くの誤解であ
る可能性もおおあり。)
>そしてWittgensteinの提出している例や議論は,現実の反応がそれを
示しているように(少なくとも当時の)数学者にとって説得力に欠けて
いると思います.
上記のように、彼等にとって説得的ではなかったのでしょうね。その
理由についてのわたしの推測は、以上に書きました。
細かい御紹介ありがとうございました。
41 :
代理いぬ:2001/03/12(月) 10:38
うーん、わかりにくい。
わかりにくいよ、一体何が言いたいのか。
たとえウィトゲンシュタインが、
その議論を説得的に数学者に持ちかけたとしても、
それは"形式主義を踏まえた"数学者のプラトニズムを揺るがすものではないし、
相容れないものでもない。(まあ、ゲーデルは怒ったかもしれないが)
彼らのプラトニズムは形式の美に向けられたものだから。
数学が真であるためには常に条件が必要だという破壊的な結論を導き出したのは、
ウィトゲンシュタインではなく当の数学者連だったわけだし。
むしろこのエピソードでウィトゲンシュタインが言わんとしたのは、
個々の公理や定理に普遍的な意味が付随するのではなく、
常に全体からかえって個々意味が決定するという、意味の不確定性ではないかな。
彼の破壊対象は数学者のプラトニズムではなく、
論理実証主義者の"意味の論理学"だろう。
*いくら原子命題を組み立てても、世界の姿は現れない。
*なぜなら、そのPiece自体の形が不確定だからだ。
彼はそう言いたいんじゃあないかね?
42 :
代理いぬ:2001/03/12(月) 10:41
おっと、上の投稿中で「むしろこのエピソードで」と指しているのは、
>>40(いちご姫)
の中に引用されているようなエピソードのことね。
43 :
いちご姫:2001/03/12(月) 11:11
>"形式主義を踏まえた"数学者のプラトニズム
私、数学のずぶの素人(ヘーゲルよりも数学の方が苦手)なので初歩
的な質問ですが、「形式主義を踏まえたプラトニズム」ってどんなプラ
トニズムですか?
厨房(って2chではいうんですよね?)未満と思って説明してくだ
さいませませ。
>常に全体からかえって個々意味が決定するという、意味の不確定性で
はないかな。
(1)「このエピソード」って、どのエピソードですか?
もし、棒のたし引きのエピソードの事をおっしゃっているなら、おそ
らく、数学が意味論を持ちそれは生活に根ざす事(従って、数学の雑色
性の議論的前提)である、と思います。(一応、当該箇所を読みなおし
てみますが。)
(2)「全体から個の意味が決定される」ということは、全体論では当然
のことで、代理いぬさまの主張は正しい、と思います。(ただ、棒のエ
ピソードの箇所では、前提でありそれが主張されているのではない、と
私はテクストを解釈します。)
(3)「意味の不確定性」という表現は、代理いぬさんの独自の用語法で
すか?一瞬、「翻訳の不確定性」と誤読しかけました(笑)
通常、「全体から個の意味が決定される」というテーゼは、「意味の
全体論(的性質)」などと呼ばれます。
44 :
代理いぬ:2001/03/12(月) 11:37
>43(いちご姫)
>「形式主義を踏まえたプラトニズム」
これは、かつての神秘主義(ピタゴラス学派等)を区別するために使ったもの、
ヒルベルト以降、数学は公理の上でしか真理の名を冠する事ができないことになったからね。
もちろん、それでも"数"(すう)の見せる形式の美しさには、
特別のものがあると信じる人間は沢山いるわけで、ゲーデルなんぞは、
全ての定理をどのような公理によっても包括できない事を示すことによって、
数の深遠さを卑小な人間の掌から救い出したわけだね。
>(1)「このエピソード」って、どのエピソードですか?
>>42(代理いぬ)参照給う。
>>40(いちご姫)の意味の全体論的性質についてのことですね。
>(3)「意味の不確定性」という表現は、代理いぬさんの独自の用語法ですか?
>通常、「全体から個の意味が決定される」というテーゼは、
>「意味の全体論(的性質)」などと呼ばれます。
為になります、覚えておきましょう。
45 :
いちご姫:2001/03/12(月) 12:40
>44 数学は公理の上でしか真理の名を冠する事ができない(中略)"数"
(すう)の見せる形式の美しさには、特別のものがあると信じる
各々の公理系に対応して、数学的実在が存在する、(或はむしろ、
後者の存在故に、前者が人間的知に齎され得る、という立場ですね。
了解。
46 :
考える名無しさん:2001/03/12(月) 15:34
なんか、かわいいハンドルが・・・
いちごと、犬が、たわむれている・・・
47 :
考える名無しさん:2001/03/12(月) 20:42
わ〜い、代理いぬたん、おひさしぶり〜。
しばらく見ないで、寂しかった、おおおおおん。
48 :
いちご姫:2001/03/14(水) 17:11
>>42のように、棒の勘定のエピソードを代理いぬさんが問題にしているのだ、とす
れば、当のエピソードは(私の解釈するところでは)数学命題の意味の全体論的性
格が問題とされているのではありません。
理由(1)数学命題の意味の全体論的性格は、WWKやPBで既に指摘されています。
「・・・・数学的命題は証明の塊全体の内の直接見ることができる表面に過ぎない、そ
してこの表面が証明の塊の前面の限界になっているのだ」PB§162
「ある計算を規定する規則の体系はその体系の記号の『意味』をも同じに規定する
・・・・従って、私が規則を変える場合――例えば見かけ上は規則を補完する場合――
、私は形式、意味を変えるのである」PB§152
(なお、公理はそれ自体で意味を持ち得ない、というテーゼは規則のパラドクスと
密接に関連します。少なくとも、後者が正しければ、公理から演繹される定理は推
論行為に先だって定まらないのですから。)
理由(1)のみでは、同一の主張をWが繰り返したのだ、という解釈を排除できま
せんね。そこで
理由(2)私がそれを改変したところのオリジナル・ヴァージョンのエピソードがあ
るBGMI-136の直前で、規則のパラドクスが問題にされている。
「「しかし私の意味しているのは、私がいまやることが将来の使用を 因 果 的 ・
経験的に規定するということではなく、その使用自体がある 奇 妙 な 仕方で、
ある意味で現在にあるということである。」――しかし< あ る 意味で>確かに
そうなのだ」BGMI-126
「「あたかもわれわれは、語の全使用法を一挙に把握できるかのようである。」――
われわれは、その通り、そおしているという。つまり、ときどきわれわれはこのよ
うなことばでわれわれの行為を記述するのだ。」BGMI―130
そして、その(規則のパラドクスの)解決は、『哲学的探求』と同じ表現(PUI
-197)でのべられています。
「・・・・意図の働きと意図されたこととの間には、どのような超硬質な結合[=論理
的・文法的関係 筆者註]が存立するのか。――「チェスを一勝負やろう!」とい
う語句の意味と、ゲームの全規則との間のどこにその結合はつくられているのか。
――ゲームの規則集に、チェスの指導に、ゲームの日常的実践に。」BGMI―130
ここで注目すべきは、規則のパラドクスの解決が、日常的生活の総体における、
われわれの実践に求められる事です。例えば(多少強引な解釈なのは承知しています
が)
「・・・・それ故、規則に従う行為はすべて解釈である、と言う傾向が存在するのであ
る。しかし人は、規則の表現を他の表現で置き換える事のみを、「解釈」と呼ぶべ
きなのである。」PUI―201c
と、『哲学的探求』では上記引用部に続きます。ここで、形式主義的な記号操作の
連関としての数学的諸公理・諸命題間の関係は、「規則の表現を他の表現で置き換
える事」即ちWが「解釈」とここで呼ぶものと同類の論理的性質を持つはずです。
それに対して、Wは、「規則に従う行為」は解釈では な い 、と主張していま
す。そして、更に続けて
「したがって、「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践なのである。」PU
I-202
といわれます。以上の主張と関連付けられたものであるBGMI-131は、既に、これだ
けでも、数学的体系の意味の全体論的性格を、ではなく、それは前提とした上で、
規則のパラドクスが暗示する何かを論じようとしているのだ、と推測される、と思
います。
49 :
いちご姫:2001/03/14(水) 19:05
理由(3)理由(2)に於いて述べた所の、規則のパラドクスが思索の方
向を指し示しているところの、実践の内実の一分が、当該エピソードの
所掲箇所に引き続いて述べられている事。
BGMI―137@`138で、Wは数学的証明の命題から命題への推移が、それのみでは、数学という営みとしての重要性を欠く事を主張します。
「こういうこともできる。君は証明において命題から命題へと進む。だが君は自分が正しく進んでいるかどうかの検査も是認しているのか。――それとも、「それは合っている は ず だ 」とだけいって、君の得た命題で他のすべてを測定しているのか。
というのはもし そ う なら、君はただ図から図へ進んでいるにすぎないから」BGMI-137〜138」
ここで、「図から図へ進んでいるにすぎない」というのは、その営為が、内実、意味を伴っていない、という事でしょう。
対して、数学的命題間の推移関係がなくとも、数学は成立する、もしくは、数学的な営為は有意義である事を、続いてWは主張します。
「人々は割り木を積み重ね、販売する。積まれた木は物尺で計られ、長さ、広さ、高さの測定値が掛け合わされる。そのとき算出されるのが、請求され支払われるべき金銭の額である。かれらは<なぜ>こういうことが起こるのかを知らずに、ただそうする。このように事態は起こる。――これらの人々は計算しないだろうか。[勿論、している。 筆者補足]
そのように計算する人は<算術の 命 題 >をしゃべらなければならないだろうか。[しゃべる必要は無い。筆者補足]もちろんわれわれは、子供たちに九九の掛け算を 短い 文 にして教える。だがそれは本質的な事だろうか。[本質的な事ではない。筆者補足]かれらはなぜただ 計 算 を 学 ぶ のではいけないのか。かれらがそのようにできるなら、算術を学んだのではないか。[学んだのである。筆者補足]」BGMI-142b〜143
つまり、Wによれば、生活上のある実践において数にかかわる営みが<適切に>営まれていれば、数学は存在できる、数学にとってそれが命題の形式をとることは本質的ではない、と主張するのです。
* 戸田山和久「数学と数学ならざるもの、あるいは数学の内と外」参照(特にpp.145―147),『ウィトゲンシュタイン読本』,1995,法政大学出版会 所収
進んでWは、その営みの<適切>さは、われわれの数学がそれに依拠しているような営みと異なっていても、即ち、そこから人が数学的命題を創り出したならばその数学的命題はわれわれの数学的命題とことなるような、そのような営為であっても、その営為は数学の実質を与えるに相応しい、と主張します。
伐採した木材を販売する時の価格決定の為に、その材木の量目を決定するために数学を用いている人々をWは想像して、
「しかし、かれらが木材を勝手な、異なった高さに積み重ねて、その一積みの底面積に比例した価格で販売するとしたらどうか。
しかもかれらがこのやり方を「そうだとも、より多くの木材を買う人は、より多く支払わなければならない」という文句で基礎づけてさえいたとしたらどうか。
(中略)
この場合、われわれはたぶんこういう、かれらは「多くの木材」と「わずかの木材」で、われわれと同じことを意味しているのではないだけのことだ、かれらはわれわれとはまったく異なった支払いの体系をもっているのだ、と」BGMI-148〜149
ここで、Wが、彼らは「異なった支払い(=営為)の体系を持っている」といっている事に留意されたい。仮に、ある行動が無意味であるなら、それは行為ではなく、したがって行為の一つである<支払い>になりよう筈がない。従って、Wは、上記の伐採人は、我々と異なったしかし意義ある数の取り扱い方を有しているのだ、と考えているのである。(BGMI-152における無目的的に見える行為が我々の社会でも役割をもっている事の指摘をも参照。)
50 :
いちご姫:2001/03/14(水) 19:06
かくして、我々は以下の如く述べる事ができるであろう。ウィトゲンシュタインは、当該のエピソードにおいて数学は多様であり得、しかも、それは数学的命題の形式を有している必要は無い。数学の本質は、カズを使った様々な実践である、と。
この事を端的に述べている断章が、後年の執筆ではあるが『数学の基礎』第四部に見出される。
「私の語るすべてのことは、元来つぎのことに帰着する。人はある証明を正確に知り、それに一歩一歩随って行くことができるのに、そのとき、何が証明されたかを 理 解し て いない、というのがこれである。/
そしてふたたびこのことは、ある数学的命題を、人はその意味を理解することなしに、文法的に正しく構成できるということと関連する。/
では、いつ人は数学的命題を理解するのか。――それを適用できるときに、と私は信ずる。」BGM IV-25 d〜f
あるいは、
「 帰するところは、何が命題の意味を確定するのか、何が命題の意味を確定するといいたいのか、ということである。記号の使用はそれを確定しなければならない、しかし何をその使用とするのか――/
二つの証明が同一の命題を証明するとは、両者とも、その命題が同一目的への適切な道具であることを示す、ということである。/
そしてその【目的は数学外のものをほのめかす】ものである。」BGM V-7c〜e(括弧は筆者)
51 :
いちご姫の大訂正:2001/03/14(水) 19:58
大失敗!!
代理いぬさんがかかれたように問題のエピソードが、私が作ったものなら、上記
の議論はそのままです。(『数学の基礎』では言及した木材のほかにくるみの例も
あります。)
しかし、「棒のエピソード」(と私が間違ってかいてしまったもの)なら、咲也
さんが引かれていた、『哲学的文法』での話なので、上記の議論はまったくの的外
れ、です。
52 :
いちご姫の追記:2001/03/14(水) 20:00
なお、『数学の基礎』の引用箇所は、2chの読者層の広さを考慮
して第2版でつけました。第3版で読んでいる方は、ご自分で対照させ
てください。
せっかくの心遣いだが、誰もヨンドランゾきっと・・・・・・