1 :
考える名無しさん:
しろうとです。
たまに文庫や新書程度の哲学の本を読むのですが、
「弁証法」というのが一体どういうものなのかがさっぱり分かりません。
詳しい方、端的に教えて下さいませんか?
あと「これ読め!」という本でもあればご教示下されば幸いです。
あぼーん
3 :
考える名無しさん:2001/01/19(金) 00:00
俺も知りたい。三段論法は分かるけど弁証法はわからん。
だれか弁証法で何か証明して見せて。
性・犯・業。
5 :
考える名無しさん:2001/01/19(金) 00:36
ある男がいる。性犯罪を犯す。女を犯してつかまるわけだ。こうして業が生まれる。性・犯・業でバンザーイというわけです。
このスレ終了だな。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆終了☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆終了☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆終了☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
6 :
考える名無しさん:2001/01/19(金) 00:38
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆終了☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆終了☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆終了☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆終了☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
教えてくんが多くてうざいとは思うけどな。
冬休みだからね。
9 :
通行人Ω:2001/01/19(金) 01:50
「いいとこ取り」。これに尽きる。
弁償法
「故意または過失に因りて他人の権利を侵害したる者は
之に因りて生したる損害を賠償する責に任す」
www.med.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/law_change.html
せいはんごう ―がふ 【正反合】
〔哲〕 ヘーゲルによって定式化された弁証法論理の三段階。
ある判断(定立)と、それと矛盾する判断(反定立)と、
正反二つの判断を統合したより高い判断(総合)のこと。
ていりつ 【定立】
〔哲〕〔(ドイツ) These〕何事かを肯定的に主張すること。
また、そうした判断・命題。
カントの二律背反では定立と反定立との矛盾は解決不能とされるが、
ヘーゲルの弁証法では定立を出発点として矛盾は止揚される。
措定。正。テーゼ。
はんていりつ 【反定立】
⊂哲⊃〔(ドイツ) Antithese〕
ヘーゲルの弁証法で,出発点である定立が発展の過程で否定され,
全く新しい段階として現れた状態。また,定立の命題を否定する命題。
反措定。反対命題。アンチテーゼ。反立。
しよう ―やう 【止揚】
(名)スル〔(ドイツ) aufheben〕ヘーゲル弁証法の根本概念。
あるものをそのものとしては否定するが、
契機として保存し、より高い段階で生かすこと。
矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。
揚棄。アウフヘーベン。
そうごう ―がふ 【総合・綜合】
(名)スル
(1)ばらばらのものを一つにまとめあげること。⇔分析「みんなの話を―して判断する」
(2)〔哲〕〔(ドイツ) Synthese〕(ア)弁証法において、
互いに矛盾する、定立の「正」と反定立の「反」の、契機を統一すること。
合(ごう)。ジンテーゼ。
(イ)ある対象に別のものを結び合わせて、一つの全体的統一を構成すること。⇔分析
三省堂 大辞林 第二版 から引用。
例、円(定立) ⇔ 三角形(反定立) → 円錐(総合)
子供(定立) ⇔ 大人(反定立) → 成長(総合)
よくはわからないけど、
二次元のものと二次元のものとの対立を、三次元で解決したり、
空間内の形態と空間内の形態との対立を、時空の広がりで解決したり、
対立しているそれぞれのモノの次元の広がりに、一つ次元を加えて、
それぞれを立体化して一つにすることなのか?
元々一つのものだったものに対し、別々の角度から認識して複数の認識内容を作ったのなら、
複数の認識内容から一つの認識内容を組み立てることは可能だと思うけど、
元々別々のものだったものに対し、複数の認識内容を作ったのなら、
複数の認識内容から一つに統一した考えを組み立てることは、可能である保証が無く、
それよりも足して二で割るやり方になりやすいと思う。
15 :
考える名無しさん:2001/01/19(金) 04:36
弁証法って、妥協や折衷、または二者択一より役に立つのか?
16 :
考える名無しさん:2001/01/20(土) 01:11
1ではないですがありがとうございます。
リンク先の「下痢気味ヘーゲル」は勉強になったし全部読ませてもらいました。
でも定立と反定立との関係が止揚されて総合されること対し、
どうして、定立と反定立との関係が止揚されて総合出来るのか、
私に学と理解力が無いことも一つの理由だと思うけど、よくわかりませんでした。
定立と反定立を総合することについて、ヘーゲルを知らずに私なりに考えますが、
例えば、飛行機のマッハの速度での空気抵抗を減らすためには、
翼を小さくした方がいいけど、
それだと翼の揚力が小さくなり、浮く力も小さくなります。
それに対しては翼を、マッハの速度の時に小さくたたみ、低速の時に広げられる、
可変翼にすることによって両方の問題を解決出来ます。
これは空間内の形態と空間内の形態との対立に対し、
それぞれの形態の空間の次元の広がりに、時間の次元の広がりを加えて、
それぞれを時空間の広がりに立体化して一つにすることになるだと思います。
入れ物の広がりが決まっていると、それに入る物の容量の限界が出来るので、
入れ物に限界以上の容量の物を入れるには、
入れ物自身を、今までの広さの物からもっと広い物に
替えることが必要になると思います。
19 :
OFW:2001/01/20(土) 22:16
>>1 弁証法はヘーゲルの専売特許ではないが、他の思想家は弁証法を主題とし
て取り上げていないし、弁証法を自分の哲学的方法の根幹に置いているの
も、ソクラテスそしてヘーゲル位かなと思うなので、弁証法って何?とい
うと、どうしてもヘーゲル弁証法から始めるざるを得ないということにな
ってしまう。
因みに旧ソ連(そして日本共産党)で言われていた(いる)「最高の科学と
しての弁証法」とは明らかに誤まりです。
また、弁証法が本当に理解できる教科書は日本には存在しない、と言うし
かないのが現状でしょう。(余り調べたことはありませんが)
>>18 >どうして、定立と反定立との関係が止揚されて総合出来るのか
弁証法に関する通常の解説書は、「正、反、合のトリアーデ」といった言
葉を使いますが、私はどうもしっくりしない。少なくとも、初めてその言
葉を聞いて、「なるほど、そういう事か!」と言える人など、まずいない。
大体、ヘーゲル自身が上記のような説明を「フィヒテ流の外的な構成」と
批判するでしょう。
>それぞれの形態の空間の次元の広がりに、時間の次元の広がりを加えて、
>それぞれを時空間の広がりに立体化して一つにすることになる
自然現象に弁証法が成立するかどうか?とは、結構問題になっているよう
で、かの共産主義思想家エンゲルスが『自然の弁証法』という本を書いた
が、ひどく評判が悪いのです。その悪評が妥当かどうかはさておき、空間
と時間の関係は物理学のみならず、哲学的な問題として古くからあった。
たとえば、古代ギリシャの哲学者ゼノンが「飛ぶ矢は飛ばない」と言って
「ゼノンのパラドックス」として有名なものですね。現代流に言えば、
「運動の不可能性」とでも言えます。
20 :
考える名無しさん:2001/01/20(土) 22:39
21 :
考える名無しさん:2001/01/20(土) 23:23
んなもん感覚でわかってりゃいいーんだよ!
>>20 弁証法に明るい人がいて助かった
詳しくおしえておしえて!
23 :
考える名無しさん:2001/01/21(日) 01:41
心身問題を弁証法的に解決すると?
24 :
名無しさん@1周年:2001/01/21(日) 02:49
思考したことが行動となるダイナミズム
思考でありつづけることを拒否(否定)して
行動に止揚
弁証法とは「否定の否定」となんで簡単にいえん
のだ、チミラハ!
25 :
OFW:2001/01/21(日) 14:54
>>23 >心身問題を弁証法的に解決すると?
心理学板で議論が高まっています
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=974569037 >>24 >弁証法とは「否定の否定」
と急に言われても、初めての人はわからないでしょう。サルトル(そして
ラッセル?)も、「何故、否定の否定が肯定になるのか理解できない」と
言っています。
私も2チャンで弁証法についてカキコするのはこれで3回目ですが、なか
なか理解されないのは、「一言で言えば…ということ」という言い方で説
明して、「なるほどそうか、良く分かった」とは逝かないのが、思想とい
うものだからでしょう。ヘーゲルも「学とは苦労の多い労働である」とい
うようなことを書いています。そのためにも、弁証法とは何?と聞かれて、
真理に至るための一つの認識方法であり、前の段階から次の段階へと、
一歩一歩苦労しながら探求していく、思考の過程です
とでも言う必要が、まずあるでしょうね。
(「一歩前進、二歩後退」(レーニン)、なんちゃって。)
それで、出発点として、「弁証法は事物の<概念>を捉えることを求める」
ということから始めるのが良いと思う。当然、すぐ<概念>って何?とい
う疑問がでてくるでしょ。日常でも
「あなたの言うことは概念的には理解できるが、具体性に欠ける」とか
「それは概念に過ぎず、現実ではない」とか言いますね。その場合、
「ものごとを全体としておおざっぱに捉えること」といった意味合いで
使う訳ですが、ヘーゲルやマルクスが<概念>と言う場合、より強い
(厳密な)意味を持っています。それはヘーゲルが常に言う所の
「具体的なものはそれ自身とその否定との統一として理解されなくてはな
らない」ということに関係します。
つまり、「否定の否定」とは<概念把握>のことだと言えるでしょう。
26 :
名無しさん@1周年:2001/01/21(日) 17:40
三浦つとむ「弁証法という科学」講談社新書を読まれよ。
ヘーゲルそのものやマルクスそのものの思想に興味なく、弁証法だけ知りたいのであれば、わかりやすいよ。
「否定の否定」で一括できる弁証法がピーンときます。
日常生活でも知らず知らずこの思考法をしているんだと気づくよ。
哲学的にカッコよく決める前にこの本を押えておこー!
27 :
考える名無しさん:2001/01/21(日) 17:51
弁証法で証明もしくは把握・理解することが可能であった、具体例をお願いします。
28 :
考える名無しさん:2001/01/21(日) 17:59
>25
あの心理学板の心理学的な議論は弁証法的なんですか?
29 :
考える名無しさん:2001/01/21(日) 19:19
ヒトは必ずしぬ。
ヒトは必ずしもしぬわけではない。
ヒトは、しぬ側面としなない側面をあわせもつ不思議な存在である。
30 :
OFW:2001/01/21(日) 22:06
>>27 >弁証法で証明もしくは把握・理解することが可能であった、具体例
また「証明」ですか。最近では、物事を数学の証明に導出することが真理
の解明だと、皆が考えているようですね。そのうち、「弁証法による計算
結果が正しくなければ真だと認めない」と言う人が出てきそう…。
私は、哲学とは「存在の根拠への問い」と理解している。そして、根拠へ
の遡及は、弁証法的な反省を抜きには為し得ないでしょう。
>>28 >>あの心理学板の心理学的な議論は弁証法的なんですか?
現在の議論自体が弁証法的とは必ずしも言えないが、少なくとも真剣で真
摯な議論があり、それが事柄の本質に迫るならば、弁証法的な側面が出て
くると言える。見解の対立とは事柄の本質(根拠)に向かうための必然的
な契機ですから。合い言葉で言えば、それは一つの「否定の否定」です。
私が引用したのは、「心身問題」というテーマ自体に含まれる弁証法的な
内容のためです。いわゆる「心身問題」というのは、唯物論的な立場から
言えば、偽の問題であり、それは有機体の現実的行動に向かうことで止揚
されるべき事柄でしょう。特に、人間の意識的な側面については、言語行
動を解明することなしには、物心二元論的な表象から逃れられないでしょ
う。
31 :
伍長:2001/01/22(月) 00:37
>>25(OFWさん)
宣伝をどうもです。
あちらの方はいい流れになっているみたいです。
>それはヘーゲルが常に言う所の
>「具体的なものはそれ自身とその否定との統一として
>理解されなくてはならない」ということに関係します。
>つまり、「否定の否定」とは<概念把握>のことだと言えるでしょう。
これって、
ある概念の形成は、「その概念に含まれる事物」(A群)と「そうでないもの」(非A群)との弁別による、
ということですかね?
「否定」=非A群が存在する。
「否定の否定」=非・非A群が存在する=A群が存在する。
ってか?
見当違いならお許しを。
32 :
考える名無しさん:2001/01/22(月) 03:24
>1
大澤真幸の『行為の代数学』(青土社)をよまれよ。
弁証法(?)をヘーゲルから切り離しても、学習できる本がこれ。
ちなみに、
ヘーゲル論理学ー『行為の代数学』(社会論理学)
ヘーゲル精神現象学ー『身体の比較社会学』(社会現象学)(これも大澤の本)
という対応関係がある。
大澤は文字通り、社会学的なヘーゲルですね。
>>24 >弁証法とは「否定の否定」
52 名前:6 投稿日:2000/09/01(金) 10:19
(今日は夏休みだ!)
>46 誤:マスクス 正:マルクス
弁証法論理を理解する上で、私が最も基本的だと思うことは、ヘーゲ
ルも繰り返し言っていますが、
「具体的なものはそれ自身の規定性とその否定との統一である。」
という事です。これはどういう事かと言えば、実在する存在者がそれ
として存在しているのは、その規定性とその否定とを合わせ持つが故
に具体的な存在者である、という事です。それは39さんのように
>AイコールAかつ非A という矛盾律が弁証法の基本原理です。
と言うと少しミス・リーディング(誤解を招き易いもの)になるでし
ょう。Aと言う記号は抽象的な規定性自体を指すから私が言う具体的
存在者ではないし。また、イコールという数式記号の喩えだと数的
相等性を思い浮かべるから、統一(より正確には不可分離性)という
内容が消えてしまう。さらに矛盾律というのは元々アリストテレス
論理学(形式論理学)用語であり、
「あるものは同時に同一の観点からその否定であることはできない。」
という格律を指すから、上記で言われた事の正反対です。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=967096472&st=52&to=52&nofirst=true から引用
55 名前:6 投稿日:2000/09/01(金) 20:40
解りにくいのは私の説明が悪いためでしょうから、更に突っ込みます。
「対象Aは変化し、Bに成る。」
という事態について、弁証法論者が
「対象AはAであると同時に非Aである。」@
と言う場合、形式論理学者はそれを非難して言うでしょう、
「ある対象xはある時点ではAであり、他の時点ではBである。」A
と言うのが正しいのだと。確かに通常の思考(表象)ではそのほうが
自然であり、弁証法論者は逆説を弄んでいるだけの様に見えます。
しかし少し考えて見ると、Aは「変化の結果」を表現してはいるが、
「変化自体」を表現していない事に気づきます。確かに現在進行形
の変化とは直覚されるべきものであり、判断あるいは推論されるもの
ではない。それは<変化>と言う概念として定着されるしかない。
それを命題の形で表現する(分析する)と、@のような一見矛盾した
言い表し方にせざるを得ない。今ここにあり、次の瞬間にはそこにない。
その変化自体を静止的な存在の用語で表現すると「矛盾」となります。
@は緊張に満ちた「変化そのもの」を分析して、矛盾した契機の統一と
して表現しているのです。つまり、「矛盾」は存在するのです。
「直接的な存在は生成に媒介された結果として見られるべきである。」
−例:永遠と見える資本主義も歴史的生成の結果であり、
その胎内に自らの滅亡の根拠を抱えている。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=967096472&st=55&to=55&nofirst=true から引用。引用した「52(6)」と「55(6)」はOFWさん。
36 :
OFW:2001/01/22(月) 05:24
>>31(伍長さん)
> 「否定」=非A群が存在する。
> 「否定の否定」=非・非A群が存在する=A群が存在する。
(伍長流にきっぱりと)違います。
概念化とはAと非Aを統一的に把握する認識作用ということです。
まず、何らかの対象をAであると措定することは、Aと非Aを弁別すること
であり、全体的(具体的)な対象世界からAを取り出す(抽象する)こと
ですね。つまり、実在者の措定=質的(実在的)な区別ということで
す。その場合、非Aは否定されたものとして、「不特定な一般」と言えま
すが、それはむしろ、非−実在(背景に退いている非−対象的な観念的存
在)として存在する。上記を対象認知の運動として過程的に言えば、
1.これは何?
(2.それはAか?そうではない(B、C、D、…)か?)
3.それは(A以外のものではなく)Aである。
という実在者の措定としての弁証法的な運動を含んでおり、その成果とし
て<それ−A>という質的な存在者(実在)が措定される。しかし、括弧
でくくった思考(観念化作用自体)の運動は終結して表面上消えている。
これが第一の否定です。「すべての規定は否定である」(スピノザ)。
「そうではない」という否定を対象的にできれば、つまりAとは非Aに媒介
された直接性(実在性)だということが対象化できれば、第二の否定にジ
ャンプできる。「AのA」とは実在する多くのAから、それをAとする所
以のもの、つまり<Aそのもの>(Aの本質、根拠)を反省することです。
通常は共通性(一般性)として見られる本質性とは、本当は否定の否定と
しての実在の根拠を言い、弁別作用を弁別することとして、自己同一的な
存在(種別的なもの)を遡及的に措定すること(前提作用)です。
つまり、「否定の否定」とは実在的対象に対して、その存在の根拠を明ら
かにするという、反省的(反照的)(Reflective)な立場へのジャンプです。
ヘーゲルの功績は、同一性−区別−根拠等の反照規定を明示的に取り出し、
その概念を明らかにしたことでしょう。(行数一杯!)
37 :
農民ゲリラ:2001/01/22(月) 05:54
なんで引用ばっかなんだ。
弁証法とは、経験を通じて認識を新たにすること。例えば、小児が車を見るのと、
大人がその同じ車を見るのとでは、感じ方が違うだろ。小児なら、かっこいいとか、
速そうとかだけど、大人なら高そうな車だなとか、ここのメーカーはだめだとか、
あるいはレーサーとかならもっと専門的なことを想起するかもしれない。
社会全体を認識するのもそれと同様で、経験によって思考のプロセスが深まり、より
多くのことを知り得るようになる。(概念の運動=弁証法的運動)
38 :
OFW:2001/01/22(月) 21:40
>>37(農民ゲリラさん)
>弁証法とは、経験を通じて認識を新たにすること。
確かに、認識を新たにすることは、既成の認識の枠組みを革新することで
すね。それは、素朴実在論、実証的経験論、悟性的合理論、反省的観念論、
そして弁証法的唯物論へと深化するのでしょう。
>社会全体を認識するのもそれと同様で、経験によって思考のプロセスが深
>まり、より多くのことを知り得るようになる。
確かに、思考のプロセスが深まること=プロセスの成果としての概念が高
まり、その内包(潜在的な内容)が豊かになることですね。そして、その
適用範囲は広がり、社会全体にまで及ぶ。深さは広さに比例する訳です。
>(概念の運動=弁証法的運動)
まさに、概念は世界の内に生起する事柄の発展を反映した、客観的世界の
見取り図と言えます。我々は経験からそれを学び、それを頼りに、さらに
広大な世界に乗り出す訳です。
39 :
考える名無しさん:2001/01/22(月) 21:49
>1
広松渉の『弁証法の論理』(青土社)をよまれよ。
とりあえず、弁証法はここからあたって損はなし。
40 :
考える名無しさん:2001/01/22(月) 21:56
弁証法って、なんとなく「調整型の思考」ていうかんじがする。
「対立の統一」とかいうし。
すべてを丸くおさめようっていうか・・・
41 :
伍長:2001/01/23(火) 00:35
>>36(OFWさん)
「第一の否定」までは何とかわかるけど・・・
もっと平易な言葉にならないのかなあ?
> 「否定」=非A群が存在する。
> 「否定の否定」=非・非A群が存在する=A群が存在する。
イコール記号を矢印「→」に変えたらダメ?
(七氏の気持ちがわかるような気がする・・・)
42 :
考える名無しさん:2001/01/23(火) 02:51
>大澤真幸の『行為の代数学』(青土社)をよまれよ。
この本ってスペンサー・ブラウンの算法に基づいて書いてるんでしょ?
そこんとこどうなのさ?
43 :
OFW:2001/01/24(水) 05:13
>>41(伍長さん)
>もっと平易な言葉にならないのかなあ?
また言われてしまった…。確かに一度に全部を言おうとするから、いけな
いのでしょうが、具体的にどういう面が分かりにくいか、指摘して貰うと
助かるのですが。言葉、言い回し、何を表象したらいいのかとか、…。
私も最初はヘーゲルの書いたものを読んで、さっぱりでした。それは、
たとえば「無は有と同一である」などと言われて、具体的に何を思い浮か
べればよいのか分からないので、解釈の手がかりがなく、謎のような言葉
として現れたわけです。しかし、そのうちに、具体的な表象というより、
概念として考えよ、と言っているのだと、理解するようになった。
無とは表象としては、たとえば「何も見えない闇」「暗黒宇宙」というよ
うな何ら存在と呼べるものが無い、漠然とした広がりのようなものをイメ
ージする。しかし、問題は「無」「無い」と「有」「有る」との区別は何
かという点でしょう。純粋に言えば、「両者の間には明確な、特定の区別
がない」ということであり、対象(有的なもの)と非−対象(無的なもの)
という区別でしかない。それはまさに「存在の措定」という認識の最初の
行為です。区別(弁別)することから認識が始まるし、「なにものかが存在
する」するのであって「すべてが存在する」のではない、ということです。
それが最初の肯定です。(ね、既に否定を否定しているでしょ?)
そして「なにものか」は直示的に指差すことができたとしても、他者には
不定です。それを特定するためには、その規定性(質的な内容)を表示し
なくてはならない。たとえば「それは『赤い』ものだ」とかね。
44 :
OFW:2001/01/24(水) 05:14
>>41(伍長さん)(つづき)
>> 「否定」=非A群が存在する。
まず、イコール記号は誤解されやすい、というよりは比喩ですね。
それは、数式で使われる等号ですから、式の両辺の「値」が同じだという
ことを表わしている、とつい考えてしまう。それは簡便な表現ですが、否
定は代数計算ではない(最近は皆そう考えているようだが)。そこで、
上記は否定という言葉の「解釈」が表明されているのだと理解してみる。
まず、
非A群が存在する
とは既に思考運動の結果ですよね。まず「非A群」を分析して、
非−A−群
とすれば、
A :なんらかの個別的な実在者が複数存在していて、その共通な特性
を一般的に表現した記号
と言い換えることができる。そうすると、そこには
なんらかの、個別的な、実在者、複数、存在する、共通な、特性、
一般的、表現、記号
というかなり高度な(抽象的または専門的な)概念が登場してくる。特に
実在者は個別的である
という点がまず問題ですね。実在者は指差すことのできる、単一なもの
という前提がそこにはある。つまりそれは、
複数の実在者が存在する
を潜在的に含んでいるのです(質は量である)。そして、それは数の概念
(単位と集合数)を予想させる。
また、
実在者は質的な存在であり、変化しない質を特性と呼ぶ
特性とは、複数の実在者に共通な質である
というかなり専門的な部類の概念も前提されていますね。
ここまでで、如何でしょう?
45 :
伍長:2001/01/25(木) 02:22
43はよくわからないけど、44は何とかついていけます。
46 :
考える名無しさん:2001/01/25(木) 02:34
弁証法ってさアリストテレスがでっち上げただけだろ。
科学でもなんでもないよ。
sage
48 :
考える名無しさん:2001/01/25(木) 03:54
>46
プラトンなら科学?
49 :
名無しさん@もっと楽しく逝こうよ:2001/01/25(木) 04:03
最近、弁証法について気の利いた一言を発見しました。
かんと曰く、「錯覚的な空しい推理」だそうです。素晴らしい表現ですね。
50 :
46:2001/01/25(木) 04:06
なぜプラトン?
51 :
考える名無しさん:2001/01/25(木) 04:34
>>50 ガリレイ以降の自然科学はプラトン的な思想背景を持つとしばしばいわれますので。
Galileo Galilei『新科学対話』『天文対話』
52 :
51 追記:2001/01/25(木) 04:35
ヘーゲルがアリストテレスとすれば
53 :
OFW:2001/01/26(金) 22:14
>>45(伍長さん)
>43はよくわからないけど、44は何とかついていけます。
確かに43を読み返してみると、「弁証法は否定の否定」という合言葉に
引きずられて、その説明を性急にしようとしたために、端折った言い回し
になってしまいました。あまりそれに捕われないほうが良さそうです。
そこで、事柄を経験と思想といった面から考え直してみると、
経験は具体的な対象に直接触れる
のに対して、
思想は対象の抽象的、一般的な面を捉える。
と言えると思います。そして、対象の一般的な在り方を概念と呼べば、
その個別的な在り方は実在と呼べるでしょう。その場合、
概念とは事物の運動様式を存在形式として表現したもの
と言えると思います。それは我々がある対象を捉える場合、
それが何らかの運動の結果として存在する
そして、反照的(相関的)に言えば、
それが他のものとの関係の中において存在する
という面を表現したものが、概念だということです。その限り、個別的な
実在の否定として概念が存在する、と言えるわけです。それは観念的なも
のとも呼ばれます。何故なら、観念とは実在の否定として、我々の「頭の
中」にしか存在しないからです。目の前にある経験的実在と、どこにも実
在しない抽象的観念との対立は認識にとって基本的なものでしょう。
両者の一致を真理と呼びます。そのことは、目の前にある個別的な実在は
その真理においては、決してそれが経験された通りのものではなく、他の
ものに媒介されたもの(媒介とは「他になること」です)であり、他の実
在との関係性のうちにおいてのみ、それが何であるかを正しく規定できる、
ということです。
54 :
OFW:2001/01/26(金) 22:18
>>45(伍長さん)(つづき)
そうなると、
認識の発展につれて認識の対象も変化する
という弁証法的に重要な面がでてきます。始めは個別的なものとして質的
実在と呼ばれた対象も、それが他に変化しまた消滅する以上、それは
「他在性」という存在形式のうちにある。つまり、定まった存在として
質的であった対象は、むしろ「他になること」がその内的規定(定め)で
あるということです。そのことが認識された場合、認識の対象は質的変化
のうちにある「他になっても同じもの」、つまり量的な存在に移行する。
「可変的かつ可分的とみられる量も、その純粋な姿においては単一かつ不
可分な存在である」(スピノザ)
という(純)量の概念が得られるわけです。上記のことを要約すると、
質的実在の真理(他在性・変化性)がそれとして定立されたものが量で
ある
という命題(ジンテーゼ?)になります。また、量はさらに限定されると、
最終的に数の概念が得られる。それは単位(観念的)と集合数(実在的)
を対立的な契機として含むそれらの統一です。…等々。
以上の過程を一般的に言えば、
対象を規定(限定)することにより対象自体が否定され、その真理
(概念と対象自体の一致)はさらに高次の概念として表現される
ということ(否定の否定)を示しているわけです。
「人間の認識は常に生成の言葉を存在の言葉に翻訳する」(マルクス)
と言われるのも、運動を止める(止揚する)ことで認識が可能になると
言っていると解釈できる。
ついでながら、このことは、いわゆる実証主義(Positivism)
のもつ肯定的な側面と否定的な側面を共に明らかにするでしょう。
マルクスがPositive(肯定的、積極的)と言う場合、それは単なる経験
主義ではなく、認識作用のもつ否定の否定としての実証的、現実的、実践
的な面を強調していると思います。
55 :
伍長:2001/01/27(土) 02:30
>OFWさん。
ムズカシイです。
全然わからないわけじゃないんだけど、わかる範囲の事柄については、
結局、昔読んだライヘンバッハの一言が思い出される。
どうも私には無理みたいです。
せっかく丁寧に説明してくださったのに、ごめんなさい。
56 :
池田晶子やりてぇ:2001/01/28(日) 19:33
2チャンで例えれば、エロネタ・遊びネタと硬派ネタを脳味噌の同じ部分で思考し、表現する事ですね。
57 :
OFW:2001/01/28(日) 21:07
>>55(伍長さん)
>どうも私には無理みたいです。
そう言わずに。私の説明の仕方が問題なのでしょうから。
「弁証法とはかくかくしかじかのことである」という正面切った言い方は、
所詮無理があるようなので、少し変えて、具体的なテーマに即した方が良い
ようですね。
>>56 >2チャンで例えれば、エロネタ・遊びネタと硬派ネタを脳味噌の同じ部分
>で思考し、表現する事ですね。
そうですね。ニュース板で言えば、テレ朝のSCOOP特集に対する2チ
ャネラーの反応を同じものとして観察する視点のようなものです。
先週は新宿にいる<車イス>の女性ホームレス、今週は南紀の動物園での
<痛んだ足>をもつ象の死に関する特集だったが、反応は実に対照的です。
先週は通行人に蹴られて歩けなくなった女性を見て、圧倒的に「ホームレ
スおよびやらせテレ朝は逝ってよし」の反応だったが、今週はタイ人調教
師に傷つけられて歩けなくなった象を見て「動物虐待は許せん」のカキコ
ばかり。
http://saki.2ch.net/test/read.cgi?bbs=news&key=980677962 両者(ホームレスと象、そして、両者に対する2チャネラーの異なった反
応)の同一性と差異性を共に把握することが、弁証法的な社会認識かな。
58 :
名無しさんの主張:2001/02/18(日) 09:06
具体例
松田聖子が人気が落ちそうになる度にスキャンダルを起こして盛り返す様。
59 :
名無しさんの主張:2001/02/18(日) 09:08
スキャンダルを肉体化した女、聖子。
60 :
名無しさんの主張:2001/02/18(日) 09:12
宮崎駿が「もののけ姫」製作中に「この映画終わったら引退!!」と発言してマスコミの注目を浴び、結果「もののけ姫」大ヒット・引退宣言撤回。
61 :
考える名無しさん:2001/02/18(日) 11:51
じゃあ橋本真也の生き方も弁証法を体現してるのか?
62 :
考える名無しさん:2001/02/18(日) 13:32
>>58 松田聖子はヘーゲル哲学の奥義を体現しているわけだね。
そういえば、松田聖子には、哲学におけるヘーゲル的スター性と
崇高さの裏面としてのいかがわしさがありますな。そこが人気の
秘密なんだろうけれど。
63 :
58・59・60:2001/02/18(日) 22:13
要するにマイナスにマイナスをぶつけてプラスにする事、かなあ。
64 :
考える名無しさん:2001/02/18(日) 22:31
数学的帰納法・数学的演繹法というように、
数学は哲学的な方法論から発展してきたのだが、
数学的弁証法は可能か?
実現したら科学が飛躍的に向上すると思われるが。
65 :
OFW:2001/02/18(日) 22:59
>>62 >そういえば、松田聖子には、哲学におけるヘーゲル的スター性と
>崇高さの裏面としてのいかがわしさがありますな。
確かに「聖と俗の弁証法」は昔から神話や演劇における格好のモチーフで
すね。近くでは何と言っても劇作家ブレヒトが「異化作用」(裏返しの
裏返し、否定の否定)の弁証法を実践して、社会の真の解放を訴えた。
また、スキャンダルは「白は白、黒は黒」という自明性に覆われた日常
が偽りのものであることを垣間見せてくれる。
最近の例1:
「軍事訓練」という私人の遊びによる、「事故」という民間船への突撃に
際して、「滅私奉公」を金言としていた某国総理は、ゴルフ場に来た記者
に対して「何で入ってくるのか、今はプライベートだ」と言い、その場所
が「正当な脱税」の成果であることをばらされてしまった。
(公事は私事、私事は公事)
最近の例2:
「外交上の秘密」を守るべく、外務官僚は馬を買い、女性を養う。
(外交機密費とは援助交際費であり、それは国家(公然)の秘密である)
最近の例3:
妻の不倫とストーカ事件を検事から「警告」された裁判官は、自らの
正義を守るべく、「証拠の非存在」を証明しようとしたが…。
(ディスク・データの論理的削除は事案の法的削除を結果しない)
最近の例4:
大学教授は、入学試験を厳正に実施するために、同僚にそれを伝えた。
(厳正とは正確に問題を漏洩すること)
エトセトラ、エトセトラ、社会の秘密は貨幣の秘密…。
66 :
63:2001/02/18(日) 23:30
そうそう、岡本太郎が大阪万博のテーマ「進歩と発展」に反発する形で「太陽の塔」を造り、それは万博終了後もモニュメントとして残った。
岡本太郎はパリ大学で哲学を専攻し、創作において弁証法を応用した「対極主義」という思想を貫いた。それは、全く異なるAとBという要素を矛盾を強調する形で共存させるという方法だ。
万博と太陽の塔、ウイスキーグラスと顔、というように。
子供の頃は岡本はヘンなオヤジとしか思わなかったが、大人になって彼の本当の凄さを知った。
67 :
通りがかりの人:2001/02/19(月) 00:02
おおお!
哲学って接したこと無かったんだが
ヘーゲルとかいう人のお話は面白そうだ。
問題に対する答えの出し方として(哲学的な物言いは難しそうでわからん)
ここのスレに書かれてることはなんとなく理解できるよ
意見があってそれに対する反論があってそれを包括する(賛否を考えず理解した)
意見が進歩している って事だよね?
試しにやってみたい
例題として答えはわからず
全パターン(意見A、それに対する反論B、包括するC)
を気軽に試せる例題が必要、うーん 思いつかない・・・
基本的に考え方を間違えてるかもしれないけど
思いついたら一緒に試してくれるかな?
68 :
名無しさんの主張:2001/02/19(月) 00:19
A・えひめ丸沈んでもゴルフ B・「事故でしょ?」+ゴルフ会員権贈与疑惑
C・周りが右往左往+やっと辞任
69 :
名無しさんの主張:2001/02/19(月) 00:22
A「弁証法」スレッド B松田聖子 Cちょっと盛り上がる
70 :
通りがかりの人:2001/02/19(月) 00:30
>>68 それが弁証法?
そうだとすると例題の条件は間違ってるや、
どうやら単純に考えすぎたみたい・・・・
「否定の否定」とかを勝手に解釈してしまったようです。
やっぱなんとなくじゃ駄目だね・・・・
71 :
名無しさんの主張:2001/02/19(月) 00:38
>70
森のバカは弁証法なんか知るわけない。聖子は理論的でなく本能的に知ってるらしい。
宮崎と岡本は勉強して意識的に使っている。
72 :
考える名無しさん:2001/02/19(月) 00:47
「戦争」をモチーフにした例があるんだけど、どうすか?
受験のときに言われたものなんで、
厳密にはあてはまらないだろうけど
A:戦争は悪い eg) 人が死ぬ
B:戦争は良い eg) 強いと国際社会では力が認められる
C:戦争は悪い面と良い面がある
ここから「戦争とは?」の議論に行くのはやめましょう
こんなイメージのことだよ、というだけ
73 :
通りがかりの人:2001/02/19(月) 00:51
うーん
やっぱり僕の解釈は間違っていたみたいです。
僕的には弁証法ってのは思考法だと思ってました。
以下、僕的解釈
まず自分の意見がある。
その後考えるための指針として自分の意見を否定してみる。
すると最初の意見の問題点が見えてきてより考えが深まる。
その後さらに否定を否定する。
これを繰り返すことによってより進歩していくことができる。
はは、改めて考えると単純すぎますね、
まともに本読んでから来た方が良さそうだ・・・
失礼しました、
74 :
名無しさんの主張:2001/02/19(月) 01:08
>>73 分かりやすい解釈ですね。
いい加減な俺はそれで理解してしまおう。
75 :
名無しさんの主張:2001/02/19(月) 01:10
弁証法を実践的に使うには物事を三分割して考える事です。落語の三題噺みたいな。
手塚治虫は三題噺の方法論で創作してたらしいし。
76 :
名無しさんの主張:2001/02/19(月) 01:14
弁証法=三題噺ってことです。
77 :
G・W・ヘーゲル:2001/02/19(月) 05:25
懐疑論は片足で立っている弁証法である。
78 :
考える名無しさん:2001/02/19(月) 06:31
自我と社会の関係ですね。
弁証法的?
79 :
通りがかりの人:2001/02/19(月) 08:54
>>77 73の僕的解釈みたいなのは懐疑論っていうって事でしょうか?
レスくれて(?)嬉しいので調子に乗って
僕的解釈第2弾
A国とB国がある問題で対立しています。
A国人にとっては自分が正しく、B国人も自分が正しいと思っています。
このようにどちらも正しい(間違っている)という状況は往々にして
あります。
この対立が深刻になると戦争になり、結局A国またはB国どちらか
一方の意見が通ります。
ですがそのままだと通らなかった方の意見は無視されてしまいます。
そこで対立の解消法として僕的解釈第2弾を使います。
この場合、双方の意見を理解した者、例えば片親がA国人、
もう片親がB国人のハーフで双方を行き来している人の意見の方が
A国人、B国人よりもより正しい(進歩した)意見を出せる。
って事です。
極端ですね、まぁ言いたいことはわかるかな、
選挙や戦争以外に問題解決する方法ないかなって
勝手に考えました、僕は素人なんで(理系っす)勘弁してやってください
最近はインターネットとかがあるので結構簡単にできるんじゃないかな
って思います。
80 :
OFW:2001/02/19(月) 20:38
>>79(通りがかりの人)
>73の僕的解釈みたいなのは懐疑論っていうって事でしょうか?
近代哲学の祖デカルトは懐疑をもって自らの反省的思考を開始しました。
既成の意見(独断的教義)を徹底的に疑い、最後に「我思う、故に我在り」
つまり「疑う我は疑い得ない」との自覚に到達したわけ。
懐疑は第一の否定であり、真理に向かうための必然的な一歩でしょう。
>A国とB国がある問題で対立しています。
対立とは本質的な区別であり、矛盾そのものです。
>A国人にとっては自分が正しく、B国人も自分が正しいと思っています。
「正しい」とは主観的な真理であり、一定の基準自体を「思い込むこと」。
>この対立が深刻になると戦争になり、結局A国またはB国どちらか
>一方の意見が通ります。
いわゆる「矛盾」とは「どんな盾をも突き通す矛」と「どんな矛も突き通
せない盾」との戦争です。しかし、状況により、矛は盾になり、盾は矛に
なる。たとえば、「武器が不足しています」と訴えた部下に対して、革命
家毛沢東は「心配するな、武器は敵が持っている」と答えたとのこと。
革命的思考とは通常の思考を転覆することです。それは、両国が共に負け
る(国家の廃絶)と同時に、共に勝つ(人々の勝利)ことを目指します。
>ハーフの意見の方がA国人、B国人よりもより正しい(進歩した)意見
そうですね。ハーフは矛盾を身に帯びているから、対立の乗り越え(止揚)
に成功するか失敗するかは、まさに一身上の一大事でしょう。
昨日もNHKで「二つの民族、一つの教室」というタイトルで中東紛争
(イスラエル−パレスチナ戦争)の特集をやっていましたが、「子供は仲
良くできるのに、何故大人は争うの?」という疑問にどう答えるか。
ユダヤ−アラブの対立には、「神々の争い」という誤った根拠と、「階級
対立」という真の根拠がある、というのが私の意見(答え)です。
>最近はインターネットとかがあるので結構簡単にできるんじゃないか
確かに、インターネットは戦争に対抗するための強力な手段になり得る。
対話は、共同の真理に向かう、最高度の弁証法ですから。
81 :
考える名無しさん:2001/02/20(火) 02:09
昇華ってなに?
82 :
通りがかりの人:2001/02/20(火) 07:45
>>80 僕にもわかるように説明してくれてありがとうございます。
エピソードとかが交ざってて面白いです。
特に毛沢東のお話は矛盾に対する止揚の一例としてわかりやすいです、
矛盾(対立)を解決するっていうのは想像以上に難しそうですね。
・・・・・
知識ないんでまともなレスできなくてすいません・・・
83 :
OFWファン:2001/02/21(水) 04:04
>>53(OFW)後半
OFWさんの話は部分部分ではなんとか分かるのですが、全体としてどこが「否定の否定」なのか「弁証法とはなにか?」がいまいち分かりません(ぼくの学がないだけかもしれませんが…。でもOFWさんの話が普通に分かるなら、自分でヘーゲルを読めてしまうような気もします)。
それで53、54あたりに、最後の結論があると思うのですが、53で分からないところがでてきたのでちょっと質問です。
1. 経験的実在と抽象的観念の一致とはどういうことでしょうか?それまでの話からすると、実在というのは個別的なもので、観念≒概念はそれを分節するものなので、一致するようだったら、個別的実在の数だけ概念があるみたいなおかしなことになってしまうと思うのですが…
その一致を真理と言ったとして、その時に実在はなぜ他との関係性の中で正しく規定されるのでしょうか? 正しく規定されるとはいったいどういうことなのでしょうか?
84 :
考える名無しさん:2001/02/22(木) 13:08
山口百恵:カント・啓蒙主義
松田聖子:ヘーゲル・理想主義
中森明菜:ショーペンハウアー:悲観主義
というところか。
85 :
考える名無しさん:2001/02/22(木) 13:20
>>84 言えてる(笑)
山口百恵 見本示して早々と引退
松田聖子 しぶとく粘る
中森明菜 自殺未遂
86 :
OFW:2001/02/23(金) 02:14
>>83 >全体としてどこが「否定の否定」なのか「弁証法とはなにか?」がいまい
>ち分かりません
ども、困った。まあ、またーりと、行くしかないでしょう。
>経験的実在と抽象的観念の一致とはどういうことでしょうか?
まず、「一致」という言葉は日常的には実在的な存在間について使われる
ため、「観念と実在の一致」とは誤解を招きやすい表現ですが、それは実
在的一致ではなく、(言語を含む)記号とそれが表わすもの(記号の対象)
との一致として捉えた方が良いでしょう。
『意味の意味』(オグデン&リチャーズ)には、記号の機能として「指示
の象徴」説が述べられており、「我々は、現前していない実在的対象への
指示を記号によって象徴する。」と述べられています。これは、対象に正
しく到達するための脈絡(筋道)の代表(代わり)として記号が使われる、
ということです。我々が何らかの対象を思い浮かべ、それを他人に伝える
場合、「こうしてそうすれば、そこに到達できる」という指示的な言い方
と、「それは○○だ」という象徴的な言い方の二通りをします。ここで、
前者を簡略化(概念化)したのが後者だということです。自分が到達した
い(または相手に到達させたい)対象に自分が(または相手が)めでたく
到達できた場合、観念と実在が一致した、つまり真の対象が得られたと言
えるでしょう。弁証法的に言えば、「媒介性と直接性の統一として、完全
な対象」という所かな。(どうしても難しい言葉になる…)
87 :
OFW:2001/02/23(金) 02:17
>>83(つづき)
>実在というのは個別的なもので、観念≒概念はそれを分節するものなので、
>一致するようだったら、個別的実在の数だけ概念があるみたいなおかしな
>ことになってしまう
次に、象徴(記号)は常に一般的・抽象的ですから、具体的な個物を対象
にする場合、その位置(場所)を指定するための世界が必要です。上記の
説では「象徴場」あるいは「談話世界」と呼ばれています。すべての個別
的実在は何らかの世界の中で他の実在との間の関係性のうちにあるからこ
そ、そこに存立しているということです。概念という記号体系は世界の見
取り図であり、対象に正しく到達するために、世界の分節と実在間の関連
性を表現したネットワークと言えます。同時に、それぞれの概念自体は
「単一なもの」ですから、上記と合わせると結局「全一的なもの」が概念
です。そこから「具体的普遍」という概念の個別的かつ普遍的な側面が出
てくる。
>その一致を真理と言ったとして、その時に実在はなぜ他との関係性の中で
>正しく規定されるのでしょうか?
カントはカテゴリー(範疇)を「最高類概念」と呼び、森羅万象(実在)
はすべて何らかのカテゴリー区分の元に置かれることでその本質規定
(それが何であるか)が正しく認識される、と言いました。そして、質、
量、関係、様相およびそれらの下位区分(各3種)から構成される範疇表
を提示したわけですが、ヘーゲルは「それはカテゴリー自体を固定化する
外的・偶然的なやり方だ」と批判して、カテゴリー間の関連性を明確に
したと言えます。実在の規定は質、量、限度と否定的に推移し、それは
本質へと反照する、そしてモノから現象に外化して、現実性に至って、
概念として自己(真実在)に復帰する、といった具合。むろん、観念論
ですが、むしろ観念の弁証法(否定の否定)を明らかにしたと言えます。
88 :
提案:2001/02/23(金) 02:19
岡田有希子・・・ニーチェ
小泉今日子・・・ラッセル
中山美穂・・・ヤスパース
広末涼子・・・デリダ
89 :
考える名無しさん:2001/02/23(金) 14:39
初めて来たけど、OFW氏の話面白い。説明が丁寧だから、一気に読んでも
あまり混乱しないですむし。優良スレage
90 :
OFWファン:2001/02/24(土) 09:35
>一連のOFWさん
丁寧な解説ありがとうございます。
だんだん分かってきたような、ますます分からなくなってきたような…
でともかく埒があかなそうなので、ここは発言36に戻って36の僕なりの
解釈をさせてもらいました。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
弁証法とは事物の<概念>を捉えることを求める。
事物を概念化するということはAと非Aを統一的に把握する認識作用である。
で話を分かりやすくするため、概念化というより認知作用を例にとってみる。
1.これは何?
(2.それはコップか?、「そうではない」(カップ、おわん、…)か?)
3.それは(他のものじゃなく)コップである。
()は暗黙の思考として意識から消えている。この「そうではない」という暗黙
の否定が「第一の否定」である。そしてこの「第一の否定」自体を対象化すると
、つまり「コップとはカップやおわんに媒介された実在性」だという事実そ
のものを対象化するとき、「第二の否定」に向かうことができる。
この「第二の否定」とはここで新たに対象化した「第一の否定」の根拠を反省する
ことである。(きっと否定とはnotの意味ではないんでしょうな…)
そして「カップ」の本質とは、上のような「否定の否定」による実在の根拠の
問いかけによって規定され、また保証される自己同一性である。
よってこの「否定の否定」による実在の根拠の問いかけをつきつめると、人
は事物の本質の正しい認識(=絶対知?)に到達することができる。
この運動が弁証法である。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
何度も読み返した結果、こんな感じで捉えたのですがどうでしょうか?
でもこう考えると43の有と無の話や概念の話といまいちつながってこないのですが…
91 :
OFW:2001/02/25(日) 00:16
>>90 私の抽象的な言い回しも少し理解されてきたかな。
ヘーゲルも同じことを繰り返し繰り返し思考し直して、概念の働きを明ら
かにしていった訳ですから、しつこく説明を試みよう。
>弁証法とは事物の<概念>を捉えることを求める。
そう。概念的把握とは実在対象の十全的な(欠ける所のない完全な)理解
とも言えるでしょう。直接的な存在は、その根拠が明らかにならないうち
は、偶然的で不十分な存在でしょう。概念的把握とは結局、対象を歴史的
に発展する事柄として、動的・総体的に理解することです。
>事物を概念化するということはAと非Aを統一的に把握する認識作用であ
>る。
通常の科学や形式論理ではAはあくまでAだと言い、非AとAの区別は
外的なつまり主観的な区別に過ぎないと言われる。ヘーゲルはA自体
の中に非Aを見るから、区別するだけの認識(悟性)をむしろ「無概念的
な認識」と言っています。
(マルクスも当時の(今もそうだが)経済学を同様に批判している。)
>1.これは何?
事物に対する問いがすべての認識の出発点であり、それは、主観が対象X
を立てること(措定と言います)です。「これ」とは目の前にある「何も
のか」(何らかの実在者)です。それは認識によって明確に規定されるが、
それ自体は既にそこにある、つまり前提された存在です。
このことは、「対象」概念の二重性を示しています。「対象」とは、一方で
それ自体で存在する実在(客観的な存在)を指すが、同時に主観にとって
の「対−象」であるということです。ヘーゲルは前者を真(実在)の契機、
後者を知(認識)の契機と呼んでいる。両者の区別と統一が働きとしての
概念化作用です。カントは両者を機械的に分離したから、「我々は現象を
超えて、物自体を認識できない」という不可知論になった。
92 :
OFW:2001/02/25(日) 00:19
>>90(つづき)
>(2.それはコップか?、「そうではない」(カップ、おわん、…)か?)
認識は対象の特定、区別(弁別)、識別(同定)ですが、さしあたり主観
は対象認識を“遂行する”から、認識自体は対象化(意識化)されない。
対象を認識しようとする思考は否定的な働きです、というのは、知性は
感性と違い、対象をあるがままに受容するのではなく、「これは何だ?」
と言って、その「あるがまま」(自体)を否定するからです。
「対象を知るには、その直接性を否定しなくてはならない」
そして、直接的な対象(実在)はまず質によって区別されます。
「質とは対象を実在とする、最初の規定性である」(ヘーゲル)
それは主観の区別作用が対象の上に反映しているということであり、
対象を実在(直接的な存在)とすることは「あれかこれか」の側面から
対象を吟味することの結果(差異に基づく対象認知)です。
>3.それは(他のものじゃなく)コップである。
思考の直接的な否定性は、否定性自体を対象化できない。それは「Aでな
い」を常に「他のもの」、つまり「Bか、Cか、…」という実在的な形式
(対象的形態)でしか捉えられない。そのため、自らの作用である「他の
ものじゃなく」(否定の否定)は対象化(意識化)されず、その結果とし
て得られた一般概念「コップ」が対象そのもの(真の実在)だと主張する。
実際、「それはコップである」(個別的なものは一般的なものである)は
根拠のない断言であり、まさに直接的(根拠をもたない)対象の判断(質
の判断)です。しかし、その真理は「個別的なものは一般的なものである」
という形式に含まれており、その結果、「あれかこれか」の質の判断は
「あれもこれも」という、量の判断(形式論理の数学的等価性「A=B」)
に移行する。
>きっと否定とはnotの意味ではないんでしょうな…)
いや、まさにnotであり、何ら神秘的・深遠な働きではない。
サルがnotを正しく弁別できれば、人間になれる、かな。
(少なくとも、見せかけと真実の区別は分かっているようだ。)
93 :
OFW:2001/02/25(日) 00:20
>>90(つづきのつづき)
>そして「カップ」の本質とは、上のような「否定の否定」による実在の
>根拠の問いかけによって規定され、また保証される自己同一性である。
そう。本質とは「生成変化する事物の本体、その直接的な存在の
底にある自己同一的なもの」です。客観科学とは普遍的な法則、原理を
目指す本質の探求ですが、そこでは対象が相関的な関係性において捉えら
れる。また、根拠とは「同一性と区別との同一性」であり、「あるものが
それであるのは、あるものが他のものとは違うからである」ということ。
>本質の正しい認識(=絶対知?)に到達することができる。
ヘーゲルは「正しい(正当性)」と「真の(真理性)」とを明確に区別し
ます。前者は悟性(分析的、判断的理性)の在り方であり、何らかの基準
に合致する妥当性を求め、後者は本来の理性として根拠に基づく、認識
と実在的対象との一致を求める。また、絶対知とは「概念とそれ自身との
一致」という絶対的観念論の主張であり、神がかりですね。
>43の有と無の話
例が悪く、ヘーゲル流な難解さの例になってしまった。「概念と対象」の
最も抽象的なケースとでも言えば、良かった。
上にも書きましたが、概念は具体的なものであり、常にその対象面(実在的
側面)とその規定性の面(観念的側面)との否定的統一です。
最も抽象的な概念は「存在」でしょうが、それは特定の対象をもたない。
「すべてのものは何らかの点で存在するが、『すべて』は存在せず、常に特定
の対象が存在する」からです。つまり、抽象的な存在とは、対象性そのもの
だということであり、最初の具体的概念とはむしろ「生成」(有と無の統一)
です。存在論では、「存在するとはどういうことか」という過激な設問を
出して、「存在と区別される何ものか」つまり「無」を存在的(対象的・
主語的・名詞的)に立てる。「存在が存在するのであり、無が存在するの
ではない」(ハイデガー)と言われたりもする。しかし、我々は常に何ら
かの経験的実在から始めるのであり、存在自体から始める存在論は形而上
学(天上の学問)と呼ばれます。(以上、長文失礼)
94 :
OFWファン:2001/02/25(日) 18:53
>OFW
またまた丁寧な説明ありがとうございます。
自分の中でだんだんイメージがふくらんできたような気がします。
いい機会なのでヘーゲルの解釈本でも読みながらこの辺のことを吟味
しようと思います。
ということで3、4日きえます。
また分からないことがあったらよろしくお願いします。
95 :
考える名無しさん:2001/02/26(月) 01:01
『資本論』で、商品における使用価値と価値との矛盾が
貨幣において止揚されるというのも弁証法的展開だと
考えていいのでしょうか?
もし、そうなら、貨幣は矛盾を止揚する"革命的"契機としてある
ことになり、マルクスが目指す「貨幣の廃止」とはむしろ、
矛盾を止揚する契機の否定であり、それは矛盾の放置になりかねないと思う。
他方で、しかし、マルクスは共産主義社会では生産物交換はそもそも存在
しないとしますから、共産主義社会ではそもそも、商品(交換財)における
使用価値と価値との矛盾が存在しないとなるわけであり、
従って、矛盾を止揚する貨幣もそもそも不要だというふうになるわけですが、
しかし、生産物交換がない社会とはなかなかイメージしにくいと思います。
(言葉でいうことは簡単ですが、生産物交換(交易)は縄文時代からあったわけですから・・)
このような論点でマルクスにつまづいた人は多いと思いますが、別にマルクスの理論が
理論的に誤っているということでもないだけに、マルクスのこの部分の理論が
謎なんですよね・・・
96 :
考える名無しさん:2001/02/26(月) 14:37
>生産物交換がない社会とはなかなかイメージしにくい
そうですかね?
自分は単純に「全ての資材や価値は共有されている、よって自分のものを手に入れるために
自分のものを手放す必要は無い」と受け取ったんですが。どこに疑問を持たれたんですか?
97 :
95:2001/02/26(月) 23:27
>>96 なるほど。
先産物は既に共有されているから、そもそも自分の私有の生産物を
交換する必要はない(ていうか、交換できない)ってことか。
生産物が私有財であるならば、それは商品として交換に出されなければならないが、
生産物がその逆の共有財なら、従ってまた逆に交換に出す必要はなわけですね。
いやはや、そういえばそうですね。
『可能なるコミュニズム』なんてのを読みますと、山城むつみ氏が共産主義社会では
生産物の交換は行われないという『ゴータ綱領批判』の理論を不思議におもっている
と言い、生産物交換のない社会はないはずだと言っていまして、それを読んで、
やっぱ、自分以外にもそこにつまづいた人がいるんだな、なんて思って、
思考停止になっていたんですが、しかし交換とは私有制を必要条件としていて、だから、
私有制を共有制に置き換えれば、交換の必要条件はなくなり、従って生産物交換は
必要なくなると考えればいいわけですね。
こうみると、マルクスの理論って、理論としてはマジで不備がないですよね。
あるとすれば、私有制の否定というファクターが共感を持たれににくい
ということですかね。
マルクス批判者は大抵、私有制の擁護を盾にとって、マルクスを批判しますから。
98 :
OFW:2001/02/26(月) 23:28
>>95 いやぁ、哲学板では皆お金の話には関心がないと思っていたので、珍しいな。
もっとも、この板でお金についてカキコするのは、これで3回目ですが。
>『資本論』で、商品における使用価値と価値との矛盾が 貨幣において
>止揚されるというのも弁証法的展開だと 考えていいのでしょうか?
良いでしょう。しかしまず「商品における使用価値と価値(正確には交換
価値)との矛盾」とは如何なるものか、を考える必要があるでしょう。
(経済学者は誰もそんな事を考えない。これは経済学を震撼させる設問だ!)
使用価値とは通常の言葉で有用性あるいは効用と呼ばれる、経済学の基本
概念ですね。経済学者は皆「それは主観的なあるものだ」と言い、それ
自体について余り深くは考えません。彼らは常に価格、つまり価値の貨幣
形態から議論を始めます。貨幣を価値の絶対的基準だと見なしているから
、価値自体についてそれ以上考察しなくて良いという訳です。しかし、
一方で、たとえば「物価の上昇は貨幣価値の減少だ」などと平気で言い、
貨幣と商品は互いに鏡のような関係にあることを暗黙に認めている。
現在、殆どすべて有用物は商品として市場で交換される。それは売買と
呼ばれ、貨幣を商品と交換することです。しかし、小学生も物々交換の
存在を知っており、それは有用物と有用物を直接交換することです。
しかし少し考えてみれば、貨幣が無ければ、Aの所有物aとBの所有物b
を直接交換することは、理論的にはなし得ない行為だということが分かる。
何故なら、物の効用は主観的であり、Aにとってbがaより有用であり、
同時にBにとってaがbより有用であることが、物々交換の条件なわけで
すから、物々交換とは「二つの不等価性」どうしの交換でしかなく、決し
て「aおよびbの客観的価値」に基づく「等価交換」などではないから。
「物々交換は不可能である」、これが使用価値と交換価値の矛盾です。
その矛盾を解決するために、万物の価値を尺度するもの、貨幣が要請され
る。それは商品世界を統一する、グローバル・スタンダードです。
しかし、それは商品の矛盾の完成であり、決してそれを止揚しない。
貨幣とは社会的人間の疎外された姿であり、その物象化の完成なのです。
99 :
OFW:2001/02/26(月) 23:30
>>95(つづき)
>しかし、生産物交換がない社会とはなかなかイメージしにくい
歴史を遡るまでもなく、今でも漁村や農村など村落共同体の中には、協業
により生産された生産物は成員への「再分配」と呼ばれる分配方式が残っ
ているでしょう。「共同体の神」と「老人、寡婦、病弱者、子供」の取り
分をまず控除し、次に「不時の将来への備え」として(可能な分を)控除
し、残りを各自の必要に応じて均等に分配する。そこには商品、貨幣など
なく、さらには「価値」と呼ばれる物象的な力など、かりそめにもない。
また、「互酬」と呼ばれる(広義の)再分配方式もある。それは「所有物
(あるいは労力)を互いにプレゼントし合う」という、これまた商品、貨幣
を不要とする生産物の「無等価交換」でしょう。
>生産物交換(交易)は縄文時代からあった
まさに商人は歴史上最も古い「世界市民」であり、伝統的な共同体を超え
て、価値の差異(マージン)を利用して富を蓄積して行ったわけです。
「実在(質)の『限界』とはその内において実在がそれであり、同時にそ
の外において実在(質)がそれである所として、他の実在(質)と出会う
『共同性』(広場、量)の定立である。」(ヘーゲル@パラフレーズ)
彼らはそれと知らずに、伝統的な共同体を外部から壊し、その世界化を
推進した革新者です。確かに貨幣は「革命的」であったが、もはやその
歴史的使命は終りつつある。「否定の否定は真の肯定」、かな。
100 :
95:2001/02/27(火) 00:31
>OFW氏
レス、サンクスです。
貨幣とは「共同体の否定」だが、貨幣を否定する
共産主義社会とは「共同体の否定(貨幣)の否定」として、
「共同体の真の肯定(否定の否定)」だということですね。
ここにも、弁証法が活用されているわけですね。
貨幣は確かに弁証法的(革命的)契機だが、それはたかだか「第一の否定」
しかなしていなく、貨幣(第一の否定)の否定としての共産主義を
をもって始めて弁証法的展開(否定の否定)だということになるわけですね。
・・・っていう具合に、マルクスの弁証法を捉えてみたんですが、
よろしいかな?
101 :
名無しさん:2001/02/27(火) 00:44
弁証法は、3段階のどの部分に力点を置くかによって
立場も大きく変わると思います。ヘーゲル左派のなかでも
綜合を強調する立場と、綜合を強調するあまり、反定立が
定立を保持した運動になってしまうのではないか
という立場では、大分ニュアンスが異なりますね。
102 :
名無しさん@1周年:2001/02/27(火) 00:47
A + anti A =B
103 :
名無し:2001/02/27(火) 00:56
A + antiA ≡ A , ∵antiA⊂A
104 :
OFWファン:2001/02/28(水) 15:36
久しぶりにこの板に戻ってきました。
ヘーゲルの解釈本(城塚登著「ヘーゲル」講談社学術文庫、
金子武蔵著「ヘーゲルの精神現象学」ちくま学芸文庫)をざっと読んだ
のですが、というか読んでいたのですが、そのあまりのつまらなさに
モチベーションの低下はさけられず、中途半端に断念してしまいました。
でもOFWさんやみなさんの意見とその本で弁証法やヘーゲルの思想が
おおざっぱに分かってきたような気がします。
ということであまりに疲れたので、しばし思考を停止し羽を伸ばしたいと
思います。
ではみなさんお元気で。
105 :
考える名無しさん:2001/02/28(水) 19:59
AとBは同時に存在出来ない、そこからAを発展させBを止めておく。
これで2つの物が存在できるってこと?
106 :
考える名無しさん:2001/02/28(水) 22:58
Aの内包が時間という概念のもとに変化する限りは
~Aの外延がAの外延と同値であるとはいえなくなるので
弁証法も科学的といわれ続けるのですかねえ。
107 :
106:2001/02/28(水) 23:10
もとい!
"~Aの外延がの「B」の外延と同値であるとはいえなくなるので"
でした。ただし、現時点で、>105さんの話しで~A≡Bだという
前提で。
108 :
OFW:2001/03/13(火) 21:21
>>100(95)
忙しかった仕事が一段落したので、亀レスながら。
>貨幣は確かに弁証法的(革命的)契機だが、それはたかだか「第一の否定」
>しかなしていなく、貨幣(第一の否定)の否定としての共産主義をもって
>始めて弁証法的展開(否定の否定)だということになるわけですね。
>よろしいかな?
OKです。マルクスの「社会の自然史」という方法論的立場は、
即自的(=向他的)(自然的、潜在的、推移的)
|
向自的(自立的、顕在的、反照的)
|
即且向自的(歴史的、自覚的、発展的)
というヘーゲルの否定の否定を、社会の唯物論として転倒し、歴史の真の
主体が何かを明らかにしたものと言えるでしょう。
>>101 >弁証法は、3段階のどの部分に力点を置くかによって立場も大きく変わる
確かに、対立(矛盾)を強調するか、その止揚を強調するかで、ニュアン
スが異なる。ヘーゲルも自己の哲学を「思弁哲学」と呼んだが、それは、
むしろ遅れたドイツの反映でしかなく、保守的・妥協的な観念論になった。
>>102 >A + anti A =B
数学的な記号は「相当性」「等価性」という外的なものを表象させる
ので余り適当ではないでしょう。(記号論理学のような無思想になる。)
anti(反)とはA自体に含まれているものです。
>>103 >A + antiA ≡ A , ∵antiA⊂A
集合論的な比喩を離れれば、「Aと非Aからなる全体」とは、「Aの定立
根拠」のこと。「Aとそれ自体との同一性」が「Aと非Aとの区別」と
同一であることをAの存立と言います。それは「自己に帰る運動」です。
109 :
OFW:2001/03/13(火) 21:23
>>104 >そのあまりのつまらなさに モチベーションの低下はさけられず
日本には、まともな弁証法の解説書は無いのではないかな。
弁証法的な思考は具体的・実践的・革命的なものであり、活きた現実の中
でこそ力を発揮するものでしょう。
>>105 >AとBは同時に存在出来ない、そこからAを発展させBを止めておく。
>これで2つの物が存在できるってこと?
通常、B(非A)はAによらずそれ自体でBと考えられているが、Aなら
ばBでない、という排他性(他者の否定が自己である)に進展すると、A
とBは関係性において見られることになりますね。そのことは、両者は独
立した2つの物ではなく、1つの物の2つの現れとして存在することを示
している。
>>106 >Aの内包が時間という概念のもとに変化する限りは
変化とは「Aが非Aになること」であり、「非AはAであった」ことです
から、内包Aは非Aにおいて“否定的に”保存されていますね。
>~Aの外延がAの外延と同値であるとはいえなくなるので
非Aとはむしろ外延しないもの、観念(内包)そのものでしょうね。
外延論理学(形式主義論理学)は内包(質的区別)を抽象して、その真理
である量において世界を外的に(無思想的に)思考します(計算と呼ぶ)。
そこでは、非(否定)は無−差別という肯定に過ぎない。内包が変化して
も、それに無頓着なわけ。
>弁証法も科学的といわれ続けるのですかねえ。
エンゲルス以来、日本共産党に至るまで弁証法を科学と呼ぶが、それは
大いなる誤解、です。
110 :
・e・:2001/03/14(水) 00:41
面白いスレだなぁ。
全て読ませていただきました。で、いきなりOFWさんに質問したいんですが、
A(或いは、これはコーラだろうか)という定立に
既に潜在的にAの定立を否定する非Aの契機(これは牛乳ではない、コーヒーでもない、等々)
が含まれているわけですね。
そして非Aが顕在化すると同時に、改めて(牛乳やコーヒーとの関係性から)
「これはコーラだ!」という総合へと発展する、これをA+と呼んでおきますと・・・
A+の中には非A+(これは食べ物ではない、等々)が含まれており、
非A+の内容が顕在化すると同時に、改めて非A+との関係性から
「これは飲み物だ!」という総合へと発展する、これをA++と呼んでおきますと・・
〜と具合に、抽象性や一般性のより高度で幅広いステージへ移行する、と。
まぁ大雑把に言うとこんな感じですか?
111 :
・e・:2001/03/14(水) 00:52
で、問題は二点ありんす。
一点は非Aの内容(これは牛乳ではない、コーヒーでもない)は
この内容が顕在化されて初めて「創造」されるものなのか、
或いは初めからA(これはコーラだろうか)の中に含まれていたものか、という点。
要するに弁証法的思考における自由と必然性に関するものです。
で、もう一点は上と多少関係するのですが、
いわゆる思考の三段論法はそのうちに時間的な推移を認めない、純粋な論理的操作だと
私は考えていますが、他方で弁証法発展というものにおける「生成の論理」は
何らかの時間規定を含んでいるのでしょうか。
後期ヘーゲルでは弁証法は歴史の発展原則そのもののように考えられ、
理性の自己発展としての世界史は、神的な普遍理性が「永遠の今」のうちに繰り広げる
歴史の必然的な推移のように捉えられていたような気がします。
だとしたら弁証法は、思考の「しなやか」な自由を保証するものではなく
歴史的事象の必然性を正当化するようなものになってしまう恐れがあるような気がします。
112 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 04:00
世界恐慌寸前『資本論』age
113 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 05:10
俺、理系で哲学に関しては全然知らないんだけど、現代科学は
哲学的に分類すると弁証法に基づいていると何かで聞いたことがある。
で、今の科学の方法論からすると、
「どうやっても否定できない説はとりあえず真であるとしておく」
としてると思うんで、このことなんじゃないかと思う。
物理屋さんでは、理論屋と実験屋に分かれていて、
理論屋はもろもろの事柄からある仮定を考え、
物理理論としてまとめる(Ex.相対性理論や量子論など)。
この理論が正しいかどうかは式を見ているだけではわからないんだけど、
この理論から導かれる結果というものを考えることができる
(光速普遍とか水星軌道の近日点変化とか・・・)
で、これらのことを実験で確かめてその結果からはずれることが無いかどうか調べる。
どうやってもその理論からはずれる現象が見つけだせなければ、
その理論はとりあえず正しいとするわけです。
ただ、とりあえず現代物理では相対性理論と量子論が基盤となり、
どちらも正しいと見なされているけど、お互いのことを説明できないので、
これらはどちらも究極の理論ではなく、厳密には間違っていると考えられます
(ニュートンの理論が厳密には間違いで相対性理論の近似であるように)。
このように、「どうやっても否定できない説はとりあえず真である」
とするのが弁証法なのかと思っているのですがどうでしょう?
114 :
113:2001/03/14(水) 05:18
今思ったけど、現代科学の基本て弁証法じゃなくて実証主義な気がしてきた(^_^;
素人の書き込み失礼。
これもみんな社会主義が負けたせいだ(剛球
116 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 13:27
理論を否定する反証が出るまでは、その理論は暫定的に
真である、というのは弁証法ではなくポパーの反証主義では?
117 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 13:41
ポパーの反証主義というのは、「(理論を反証する方法が存在する限りにおいて)理論を否定する反証が出るまでは、その理論は暫定的に真である。」ということではないでしょうか。
いずれにせよ弁証法は真理へと到達する何らかの方法を示しているので、ポパーの様な部分的な問題の取り扱いに関する手法の話しとはちょっと対象が違うのでは?
118 :
OFW:2001/03/15(木) 23:31
>>110(・e・さん)
どもです。
>面白いスレだなぁ。
いえいえ、・e・さんにはとても及びません…(とおべんちゃらなど)
>A(或いは、これはコーラだろうか)という定立に 既に潜在的にAの
>定立を否定する非Aの契機…が含まれているわけですね。
そう思います。「何かがある」とは、多様で変容する世界の中で主体が特
定の存在者に向かうことであり、対象Xを実在するものとして指示するた
めには、「それの何」(質)をAとして、非Aから識別(区別)する働き
がそこにある。しかし、区別から同定に帰る運動自体は非対象的で、対象
化されるのはその結果(総括)としての「これ−A」という存在者です。
>そして非Aが顕在化すると同時に、「これはコーラだ!」という総合へと
>発展する、
実在判断(質の判断)は「個別的なものは普遍的なものだ!」という形式
内容を持ちます。しかしコーラとは個別対象ではなく、一般概念ですから、
主語「これ」と述語「コーラ」との関係は「である」という同一性では
あり得ない。「これはコーラそのものではない」からです。「これ」は様
々な(多様な)個別者、一般的な個別者を指している。つまり「これの
これ」「あれのこれ」等の間の共通性が<これ−コーラ>です。
しかし、そうなると質の判断は反省の判断(関係性の領域)に移行します。
>非A+の内容が顕在化すると同時に、…「これは飲み物だ!」という総合
>へと発展する、
反省の判断は、単称判断、特称判断、全称判断に区分されます。
「<これ−コーラ>は一つの飲み物だ!」(単称判断)
>抽象性や一般性のより高度で幅広いステージへ移行する
『(小)論理学』では、質の判断→反省の判断→必然性の判断→概念の判
断→質的推理→反省の推理→必然性の推理→客観的関係→…として、より
“具体的”なステージへの移行として示されています。
119 :
OFW:2001/03/15(木) 23:34
>>111(・e・さん)
>この内容が顕在化されて初めて「創造」されるものなのか、
創造ではなく、より客観的・具体的な対象への移行でしょう。
「これはコーラだろうか?」に対する答としては、
1. いや、これは牛乳であってコーラではない。(偽の概念)
2. いや、これはコーラと呼べる代物ではない。(偽の対象)
3.そうだ、まさにこれはコーラと呼ぶべきものだ。(真の対象・概念)
の3通りがある。ある対象をコーラと呼ぶためには、コーラの質(コーラ
の<コーラ性>)が他の質と区別され、明確になっていなければならない。
対象Xがコーラであって牛乳ではないのは、それがまさにコーラだからで
しょう。それは、概念としての質を表現し、単なる名辞ではない。
そして、真の概念とは客観的な対象を指示するものを言いますから、対象
の「見かけ」を通してその本体に向かう場合、本体は前提されたものです。
それは、現象に過ぎない存在から、より現実的で客観的な世界を対象化し
て行く知性の運動であり、「真の実在」に到達するための(精神的)労働
です。
>要するに弁証法的思考における自由と必然性に関するものです。
客観的世界の必然性を認識することは、認識主体の自由そのものではない
でしょうか。必然性の概念は「他ではあり得ない」(否定の否定としての
自己肯定)ということですから、必然的なものとは本来、自己を媒介する
運動です。しかし、それがその媒介に対して外的な関係を持つが故に、
「外的必然性」と呼ばれ、盲目的運命に喩えられたりもする。必然的なもの
を認識するとは、その被媒介性を知り、「他でもあり得た」という可能性
と「他ではあり得なかった」必然性とを結合すること、すなわち、全体と
して歴史を動かす自己を知ることです。そのことが、歴史の主体として
「プロレタリアートの運命をその未来に変え」、「必然性の王国から自由
の王国へ」(マルクス)と向かうための第一歩と言えるでしょう。
120 :
OFW:2001/03/15(木) 23:36
>>111(・e・さん)(つづき)
>弁証法発展というものにおける「生成の論理」は 何らかの時間規定を含
>んでいるのでしょうか。
とても重要な指摘ですね。存在と生成の関係は弁証法の基幹にある。
経験的な世界は変転極まらず、固定した存在と見えるものも生成消滅を免
れ得ない。その様相を「生成」という概念で定着させると、それは無から
有への移行として跡付けられる。では“何が”移行するのか、と問えば、
「未だ生まれず、既に無ではない何者か」と言わざるを得ないが、それは
移行の“内に”あって自己に止まるものであり、移行の果てに現れるもの
でしょう。それは外化しつつある何者か、時間的な過程を通してその統一
を保持しつつ発展する<事柄としての歴史>そのものと言えます。ハイデ
ガー的に言えば、「時熟」するものの概念化が歴史的形成の論理としての
弁証法でしょうか。(ハイデガーは<存在>観念に捕われ過ぎたが、生成
する物質的自然こそが本源的な存在でしょう。)
>理性の自己発展としての世界史は、神的な普遍理性が「永遠の今」のうち
>に繰り広げる 歴史の必然的な推移のように捉えられていた
ヘーゲルの弁神論においては、絶対者は決して世界に現存在できない。
実体の主体化が見せかけに過ぎないのは、結局、主体が単数だからです。
それは具体的普遍を説くことで、近代的個人主義(すべての個人が絶対的
主体である)の抽象を超えてはいるが、本源的自然(唯物論)が欠けてい
るために、本来的な他者を知らない。人間にとって自然とは必然であり、
自己の根拠をなすものですが、社会的労働により自然は媒介され、諸個人
は共同的な類として、初めて現実的主体になる。
>だとしたら弁証法は、思考の「しなやか」な自由を保証するものではなく
>歴史的事象の必然性を正当化するようなものになってしまう
内的な必然性とは外的な必然性(偶然的な必然性)とは違い、自己を必然
とする(自己の実現を目指す)ものです。それは、外的な世界の必然性を
自己の自由な条件とする思考(歴史的構想力)によって、しなやかで創造
的なものになるでしょう。「状況は開かれており、未来はそこにある。」
121 :
・e・:2001/03/16(金) 00:45
>OFWさん
なるほど。
ところで『小論理学』を一度読みたいのですが
手ごろなところではやはり岩波の古い翻訳になるのでしょうか?
それと個別的な事象に「質」が対応する(一致ではないですね、厳密には)
のは分かるのですが、一方でヘーゲルの言う「量」概念が分かりません。。。
ご教授いただけます?
122 :
OFW:2001/03/17(土) 10:21
>>121(・e・さん)
>手ごろなところではやはり岩波の古い翻訳になるのでしょうか?
そうですね。講義ノート(補遺)がついているから、理解の手がかりとし
て便利です。しかし、難解さは天下一品ですから、スルメをしゃぶるよう
に読むしかないでしょうね。
>「量」概念が分かりません。。。ご教授いただけます?
そんな大それたことはできませんが、ヘーゲルの紹介程度なら…。
1.量とは質の止揚(揚棄)である。
質とは存在(有)と一体となった規定性(区別)であり、
有(純有、無、成):始源における無−規定性としての質
↓
定有(実在性(即自有)、他在(向他有)、限界):変化としての質
↓
向自有(一者):自己関係(自己復帰)としての質
と進行するが、向自有において、その自己関係性は矛盾(多くの一者)
として立てられ、量(無−差別性)に移行する。
2.量の規定性は、
純量(連続量と不連続量、単位):量の即自有、無−関係性としての量
↓
定量(外延量、(集合)数) :量の定有、自己超出としての量
↓
度(内包量、尺度、比) :量の向自有、自己関係としての量
と進行する。
3.度に至って、量は限度(質的な定量、質量)に移行する。
…と書くと、「不可解なりぃ!」となるでしょうから、少し解説をば。
123 :
OFW:2001/03/17(土) 10:22
>>121(・e・さん)(つづき)
「通常分割可能と考えられる量も、それ自体を直観すれば、唯一かつ不可分
な存在であることが分かる」(スピノザ)と言われるように、質的な多様
の底には存在の一様性がある。それが純量であり、絶対的な連続性として
の自然の在り方です。同時に、質の否定性としての他在は限界として立て
られた訳ですが、量においては単位という区別に止揚されている。単位と
は区別の無差別性であり、多様な存在を連続化(一様化)させる根拠であ
ると同時にそれを区別化(集合化)させる根拠でもあるでしょう。それら
を完全な形で展開したものが、数(単位と集合数の統一)です。エレメン
トとしての“1”において、両者は直接的に統一されている。数学は数を
作ること(数えること)から始まるが、何を単位にするか、が重要な点で
す。そして算術は単位と集合数の関係の展開であり、和とは数を規定する
こと(数の限定)、積とは集合数を単位に変換すること、冪は単位と集合
数の相等性を立てること、等々と言われます。
また、ヘーゲルは微分にも言及しており、微分量を「消滅しつつある量」
と呼んでいます。それに呼応した言明としてエンゲルスの「微分積分の登
場によって、科学は運動を取り扱えるようになった」というのがあります。
数学的思考は事柄の内面に踏み込まない外面的な思考であり、外面的(相
互外在的)対象には妥当するが、それも一定の<限度>内でのみというこ
とを忘れると、現代の形式論理や経済学の無思想になるのはホントですね。
近代は商業と数学によって切り開かれてきた。それはデカルトの「幾何学
の精神」の源泉でもあり、さまざまな国を冒険したガリバーが到達した結
論「人間精神の違いは体の大小に過ぎない」にも示されている(花田清輝
『転形期の精神』のバラフレーズ)。
しかし、深遠なものは広大なものでもあるから、内包は外延に比例するの
です。外面的な大きさはむしろ卑小な内面を覆い隠す「見せかけ」だとい
うことは、「外見がすべてだ」という現代にこそ相応しい警句でしょう。
124 :
考える名無しさん:2001/03/17(土) 18:43
>>123 最後の段落(「しかし…」)はどうにもおかしい。
思うに、「深遠なものは広大なものでもあるから」を削除して、
内包は外延に反比例する、とすべきだろう。
そうしないと「外面的な大きさは…」以下ともうまく重ならない。
そもそも内包・外延を内面・外面と読みかえるのが強引なのだが。
水を得た魚ですな( ´∀`)
126 :
・e・:2001/03/18(日) 00:28
>>122 いかにもヘーゲルって感じの力技ですね(笑)。いや、だいたい分かります。
質と量との相互媒介によって、概念がだんだんと規定、領域化されてゆき、
なおかつ上のレベルへの移行がなされているのがよく分かります。
ですが量に関するこうした議論をみてゆくと、一見ヘーゲルは数学や自然科学の
基礎づけをしているように見えます。
ですから現在の数学が、対象に対して外在的にふるまうだけの思考である、という下りは
よく分かりません。現在の数学はヘーゲルの所産だけを見て、
そこに至るまでの弁証法的な思考の運動を省みていない、という意味なのでしょうか?
127 :
OFW:2001/03/18(日) 12:09
>>124 >「深遠なものは広大なものでもあるから」を削除して、内包は外延に
>反比例する、とすべきだろう。
添削ありがとうございます。ただ、内包量(示強性の量)vs外延量(示
量性の量)は、即自的(観念的)vs向他的(実在的)な関係にあり、
現存しない量vs現存する量の関係として、比例が正しいと思います。
現存する量の間の関係(関係が実在的になっている)ならば、“総量
(質量、限度)は一定”であり、その限度内において、両者は反比例する
と言えますが。
>そもそも内包・外延を内面・外面と読みかえるのが強引なのだが。
ヘーゲル論理学では、同等のカテゴリーが3度登場する、と言えます。
(余り良い言い方ではないが)
最初は実在の領域(直接性)、2度目は本質の領域(媒介性・相関性)、
3度目は概念の領域(媒介された直接性)です。
<内包・外延>は量としての実在領域におけるカテゴリーですが、
その本質領域での対応(対照)物は<内容と形式>の相関、あるいは
<内的なものと外的なもの>の相関と考えられます。
外面的な大きさは、内面的な大きさ(度量の広さ、教養の広さ等)とは
異なり、事物の外面性における単に外的な(非本質的・偶然的な)もので
あり、それは仮象として外面性における単に内的なもの(可能的なもの)
です。真の内面性は自己を現実化する力として、向自的な精神性でしょう。
「人間、40歳にもなれば、自分の顔に責任がある」(リンカーン)
だそうです。
128 :
OFW:2001/03/18(日) 12:10
>>126(・e・さん)
>いかにもヘーゲルって感じの力技ですね(笑)。
ども。『ヘーゲルは美味しい』(西研)のは、時にバカバカしく思える程
の概念力(大雑把さ)のためでして…。
>現在の数学はヘーゲルの所産だけを見て、そこに至るまでの弁証法的な
>思考の運動を省みていない、という意味なのでしょうか?
デカルトの「幾何学の精神」から、悟性的(明晰・判明)な知性が発達し、
特に数学は強力な分析ツールとなりましたが、量および数には思想が含ま
れているのだ、という事は数学者自身も反省すべきでしょう。
たとえば、かのラッセル(大のヘーゲル嫌い)は『数学原理』なる論理学
書をもって数学の基礎を打ち立てた、と言われるが、実際にはむしろ逆に、
論理(思考のオルガノン)を数学(集合論)に還元してしまったと言えま
す。以前、論理学スレで、形式主義論理学論者と議論して明らかになった
ことは、「真理の計算」を論理的思考と呼ぶことは、非合理的な結果(例:
爬虫類である人間)を容認して省みない悪しき形式主義に陥る、というこ
とでした。世界を計算し、経済を計算し、歴史を計算できれば、人間は要
らず、カネ勘定だけに没頭する厨房が増えるのも無理はないというもの。
実際、分数計算も満足にできない小学生が増えている現在、学校教育で早
くから弁証法的思考を習得させ、「分数とは何か」という量の概念から理
解させることは、知性改善にとって有益かつ急務の課題でしょう。
しかし、株価は暴落(限度を失い)、数理経済学の均衡理論は均衡を失い、
経済は政治化(非合理的に人間化)され、いやはや哲学なき時代は…。
129 :
素人です!:2001/04/14(土) 20:33
エンゲルスが形式論理学が初等数学なら、弁証法は高等数学だと
言ったそうですが、それはどういう意味なのでしょうか?
130 :
OFW:2001/04/14(土) 23:20
おや、一ヶ月ぶりに上がっている。
>>129 1まず、「形式」(Form)という概念について
古代ギリシャ哲学以来、形式(形相)は質料(Material)との対立
として議論されてきたカテゴリーであり、存在論−認識論において重要
なものです。用語からだけでも、両者は観念論(Idealism、形相主義)
と唯物論(Materialism、質料主義)との対立にも関係しています。
形は静止、完成として重んじられるが、質料は運動、未完成として、と
かく敬遠されがちです。ニーチェもギリシャ精神に、「アポロ的(彫塑的)
vsディオニソス的(劇的、音楽的)」という対比を見ている。
形式−質料は相互に反照する本質規定であり、発展すると、形式−内容
の対立に移行します。つまり、形式は質料の他者、他者としての質料で
あり、個別的な存在(実在するもの)から、その普遍的な面を抽象した
ものが形式であり、アスペクト(局面、観点、相面)自体と言えます。
形無き質料は形をもつことにより、それとして規定され得る。質料は
個別的な運動の原理であるのに対して、形は普遍的な静止の原理です。
2形式論理学と弁証法
近代は量の時代、形式化の時代です(量の本質が形式ですから)。
デカルトの「幾何学の精神」以来、数学は世界を計算可能にした。
それは、世界の中の多様な事物を一様な面に射影することにより、
すべての対象は形式的に分類・整理され、原理的に未知なものが無く
なった。論理学も伝統的に形式論理であり、「それは白か、白でないか
である」などと言われたが、数学化によりその形式性はより純粋になっ
た。しかし、それは<事柄の内面>に入り込まない、表面的なものでし
かない。それは世界の生成、運動、歴史を無視して、規則(形式、秩序)
が永遠だと強弁する。弁証法はそこを突く。それは徹頭徹尾、批判的、
唯物論的、実践的であり、形式の<妥当性>を超えて、<対象の真>
(生成発展する事柄の概念)を目指す内容的、実質的な思考です。
131 :
129:2001/04/15(日) 06:31
>OFWさん
レスありがとうございます。
ところで、私は形式論理は「言語」というものに対する絶対的信頼
の上に成立していると思っています。
例えば、言語とは常に「判断(これはAだ、このAはBだ・・)」という現象形態をとりますが、
その際、判断は判断される対象の性質を記述しているとされます。
だから言語とは対象を記述する能力を持つとされますが、その際言語が有意味たりうる
ためには記述内容と記述対象との間に一定の対応関係がなければなりません。
しかし、その対応関係は一時的でしかありません。なぜなら、記述されるべき対象である世界の
諸存在者は常に変化の相におかれているからです。「この人は子供だ」という判断は
もう大人になってしまったかつての子供には無意味な言表にすぎないように。
そういう意味では言語は存在者の変化に対して常に「遅延」していると言えます。
存在者は常に変化しているから、「この人は子供だ」と判断しても、常に成長・変化している
人間という存在者にはその判断は自分の今の性質を記述するにはすでに遅れたものとして
しか現れないからです。
つまり、言語は対象を記述できるというのは厳密には虚構であり、言語と記述対象との間には「ズレ」
があるにも関わらず、形式論理は言語と記述対象との間には恒常的な対応関係が成立していると
想定していると思います。だから、所謂「同一律」を立て「子供は子供だ
(いったん子供とみなされた対象は永久に子供でなければならない)」というわけです。
それは言語における対象の記述作用を絶対化した結果だと言えます。
しかし、先述したように記述される対象(世界の諸存在者)は常に変化の相にあり、従って変化している対象は
言語(記述行為)に対して常に先行している(裏から言えば、記述行為は変化している記述対象にたいして常に遅延している)
のであり、両者の間には「ズレ(非対応性)」があるから、形式論理が想定していると思われる
「世界と言語の恒常的対応性」は厳密には成立していません。
形式論理がもし批判されるとしたら、その点に理由があると私は思っています。
そして、弁証法が評価されるべきだとしたら、対象世界は常に変化の相にあり、
マテリアルな対象世界が世界を形式化しカテゴライズせんともくろむ言語行為に対して
プライオリテートを有している(質料の優先性=マテリアリズム・唯物論)という認識にたっている
というところにその評価理由があると思います。
弁証法がしばしば矛盾律を認めないといわれるのは、おそらく、存在者の変化を捉える際に
支払わなければならない対価のようなものとして矛盾律を放棄しなければならなかったから
だと思います。変化とはまさに自己の同一性を否定することだからです。
132 :
OFW:2001/04/16(月) 21:58
>>131(129さん)
>判断は判断される対象の性質を記述しているとされます。
形式論理では判断の対象を「事態」と呼び、それは<論理的な世界>に
おける無時間的な存在だと言う。それはむしろ対象の表象に過ぎない。
>記述されるべき対象である世界の諸存在者は常に変化の相におかれている
実在する<この世界>において、そうですね。
>言語は存在者の変化に対して常に「遅延」していると言えます。
記述は常に遅延ですね。(かのデリダは「差延」と言ったが。)
ただし、それは実在的な遅延というより、「否定」という観念化です。
ヘーゲル『精神現象学』の言うように、在るとは在ったこと。
言語的記述は、在る−もはや無い−在った、という運動であり、記憶に
基づく表象作用として、実在的時間の止揚(観念化)と言えます。
>いったん子供とみなされた対象は永久に子供でなければならない
これが存在から存在の<意味>への転換、言語主義という観念論です。
>形式論理が想定していると思われる「世界と言語の恒常的対応性」は厳密
>には成立していません。
そこで「可能的意味の世界」などというものが登場してくる。
>対象世界は常に変化の相にあり、マテリアルな対象世界が世界を形式化し
>カテゴライズせんともくろむ言語行為に対してプライオリテートを有して
>いる(質料の優先性=マテリアリズム・唯物論)という認識にたっている
形式(形相)化は認識の進展にとって重要な一歩です。
常住定まらぬ世界において常住的なものを見ることは知性の業であり、
個別的な実在からその真理としての本質的な存在への飛躍です。
しかし観念論はそれ以上に進まず、そのために形而上学となる。
有機的自然において、対象自身(有機体)が形態化により自己の内容を
現わす<働くもの>となっている。それを前にして、観念論は無力です。
133 :
考える名無しさん:2001/04/22(日) 23:21
「テーゼとアンチテーゼをもとにして、ジンテーゼを導き出す。
それが弁証法である」
これであってますか?
くだらねースレだなおい。
弁証法の内容をゴチャゴチャいじりまわしてるヴァカに聞きたいんだけど
弁証法じゃなけりゃ解決できない問題なんてあるわけ?
それがなけりゃこんなモン意味ねーよ。ね?
135 :
RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY:2001/04/23(月) 04:44
自分を大きく見せる為に衣を沢山纏う人の典型だね。OFW君は。
小さいチンポコに皮被せて喜んでる気が知れないよ。
ま、それでも年下の餓鬼どもには大きいの何のと尊兄されるかもしれんがな。
136 :
フィロゾファッカー:2001/04/23(月) 20:45
>「テーゼとアンチテーゼをもとにして、ジンテーゼを導き出す。
それが弁証法である」
弁証法の説明はいろいろなされるがそれが言葉を弄するだけで具体的に何なのかは分かりにくいです。
私もよく分かりませんが
ウィーン学団の誰かが説明した時の
弁証法は新しい知識を得る際の仕組みであって目的を持って使用する方法論ではない
というのはしっくりきました。
つまり知識の解明だと。
>OFWさん
お久しぶりです。結局、私にとってヘーゲルは難しすぎたようです。逃げちゃいました。
137 :
OFW:2001/04/24(火) 21:35
>>134(RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY君)
くだらない煽りにも、何かしら意味があるのだろう…
>弁証法じゃなけりゃ解決できない問題なんてあるわけ?
たとえば、かのマルクスが『資本論』を書くに当たり、ヘーゲルの論理学
を読み直して、「非常に役に立った。お望みなら、自分はヘーゲルの弟子
だとおべんちゃら言っても良い」(正確な引用ではない)と言っている。
つまり、資本主義の本質を解明するには弁証法が必要だと言うこと。
商品、貨幣、資本とはそれだけやっかいな存在なのだ。
>>136(フィロゾファッカーさん)
>お久しぶりです。
お久しぶりです。最近は固定HNが少なくなり、張り合いが無かったです。
>結局、私にとってヘーゲルは難しすぎたようです。
ヘーゲルは確かに難解で、私も「虚仮の一念」で食い付いたのです。
しかし、神秘主義的思弁が混じっているため錯綜しているが、本当はごく
分かりやすいものなのです。(私の説明はマズイですが)
私は、何よりも弁証法を、固定したドグマを批判し、事柄の真実を探求す
るめの方法、として理解しています。世の中の矛盾した姿を見て、「これは
一体、どういうことなのか?」と疑問を持ったとしても、
「この世に矛盾など存在せず、正しいものは正しい」
と言う形式論理では、その答は得られない。たとえば、<合法的な不正>
が行われている現状を訴えても、
「法は法であり、そのようなものは存在しない。異議を却下する。」
との裁定が下るのみでしょう。それは現実の現実性を見ない形式主義です。
その形式主義はすべての学問にも浸透していると言えます。
弁証法は、常に実践的・具体的・現実的に事柄に向かう知性の動力であり、
働く者に対して、生き生きとした思想の力を与えるもの、と言えます。
転変極まりない変化の中に静止を見ること、逆に固定した存在の中に運動
を見ることは、世界を現実に変革する者の自己認識でもあるわけです。
ハァ?それはマルクスが弁証法を応用して唯物論弁証法を形成したという結果論だろ?
歴史的文脈を聞いてんじゃねーよ。今の話だよ今の。
139 :
通りすがり:2001/04/25(水) 02:30
ヘーゲルは長谷川宏訳がいいよみんな。
2ちゃんねるでコテハン厨房の講釈聞くよりずっといいよー。
って「みんな」が存在しないのが哲学板かな。そりゃ寂れるわ。
140 :
考える名無しさん:2001/04/25(水) 02:45
人間活動における他に還元されない能動的な、創造的な側面をいうのですね。
141 :
考える名無しさん:2001/04/25(水) 03:12
おいおいOFWさんよ、おれの質問にさっさとこたえてくんねーかな。
どーしたの?
いま一生懸命に本でも読んで調べてんの?(藁
>OFWさん
>弁証法は、常に実践的・具体的・現実的に事柄に向かう知性の動力であり、
>働く者に対して、生き生きとした思想の力を与えるもの、と言えます。
では弁証法とはどちらかと言えば方法論よりは態度を示すものなのでしょうか?
まるで「知を求めていく態度」であるように思えます。
理性的な思考、絶対者的な思考の追及といったところでしょうか。
しかしよく言われる「正」「反」「合」の「合」が具体的にどのようなものなのか分かりにくいのが
弁証法が難解と呼ばれる理由でもあるような気がします。
私のような無学者には後付けに感じてしまうところがあるといった感じです。
しかしやはり本はよいですね。
忙殺され干からびてゆく知覚に水が注がれる感じです。
新たなる知識はいつでも私に驚きを与えてくれるものです。
今はまだヘーゲル関連の本を購入してませんが金と時間に余裕ができれば手を出そうと考えております。
その際はOFWさんに指導を仰ぐ心づもりですのでよろしくお願いいたしします。
144 :
考える名無しさん:2001/04/26(木) 07:32
ヘーゲルの弁証法とカントのアンチノミーの関連について
教えてください。カントの場合、アンチノミーは
あくまで仮象(見かけの矛盾)なのですよね。
ヘーゲルの弁証法は実際の矛盾を止揚するということですか(ホンマカイナ?
145 :
OFW:2001/04/26(木) 12:33
うぜえな、らげは。だから自分の無知さかげんを
ごていねいにあちこちのスレで披露するなっての。
「歴史的文脈を聞いてんじゃねーよ。今の話だよ今の。」
このセリフがいかに低能かを説明するのもバカらしい、が、
らげがウダウダいうからなあ…まあ、お前の宿題だな。
量子力学はほんとに弁証法的思考の産物ですか
らげはうざいっす(藁
148 :
OFW:2001/04/26(木) 22:26
>>144 >カントの場合、アンチノミーは あくまで仮象(見かけの矛盾)
>ヘーゲルの弁証法は実際の矛盾を止揚するということですか
カントはアンチノミー(二律背反、矛盾)について、カテゴリーを経験的
対象を超えて物自体に適用したために起きる「仮象の論理」であるとして、
弁証論を否定的に捉えたのですが、ヘーゲルは矛盾は客観的なものと見る。
「アンチノミーの真実で積極的な意味は、あらゆる現実的なものは対立し
た規定を自分のうちに含んでおり、したがって、或る対象を認識、もっと
はっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的統
一として意識することを意味する、ということにある。」(『小論理学』
48節補遺)。弁証法の要点ですね。
>>145 私もOFWです。宜しく。
>>146 (RIVIERAさん)
>量子力学はほんとに弁証法的思考の産物ですか
必ずしも意識的に弁証法を“適用”したわけではない。あくまで古典物理
学では説明できない物理現象を科学的に説明するために生まれてきた<科
学的>理論です。(アインシュタインはその確率論的な解釈を嫌ったが。)
湯川博士は晩年「自然現象は唯物論的で弁証法的だ」と語ったそうですが、
具体的に何を指していたのか、知りません。
弁証法は、エンゲルスや三浦つとむ氏の考えるような、通常の意味での
科学理論あるいは科学方法論ではなく、むしろその批判(限界設定)とし
て実践的な認識活動そのものです。
おいおい、OFWさんよ、結局無視か?
答えられないときは、きちんと分かりませんって言おうぜ。(藁
ほったらかしは、質問者に失礼っしょ。(藁
150 :
考える名無しさん:2001/04/28(土) 04:12
>>149 おまえもひまだな。煽ってる暇あるんだったら、
本でも読め、能無しが!(オオ藁
君こそ暇そうだね。(藁
152 :
独り言:2001/04/28(土) 04:22
らげは存在しないものとして無視するのが
哲板のきまりです。
153 :
・e・:2001/04/28(土) 04:23
言うまでもなく放置。
154 :
考える名無しさん:2001/05/07(月) 03:31
取りあえず読んどきなさい、まだのひと。
155 :
考える名無しさん:2001/05/09(水) 01:53
156 :
考える名無しさん:2001/05/27(日) 23:13
あげ
157 :
考える名無しさん:2001/06/09(土) 04:14
このまま下がるのはもったいない
と思うのでageます。
158 :
考える名無しさん:2001/06/09(土) 07:47
159 :
考える名無しさん:2001/06/21(木) 11:10
160 :
考える名無しさん:2001/06/21(木) 16:05
神こそ弁証法の到達点。
神は矛盾の全てを止揚できるから。
とだれかがいっていた。
161 :
名無しさん:2001/06/21(木) 17:02
> たとえば、かのマルクスが『資本論』を書くに当たり、ヘーゲルの論理学
> を読み直して、「非常に役に立った。お望みなら、自分はヘーゲルの弟子
> だとおべんちゃら言っても良い」(正確な引用ではない)と言っている。
> つまり、資本主義の本質を解明するには弁証法が必要だと言うこと。
> 商品、貨幣、資本とはそれだけやっかいな存在なのだ。
ホンキでいってるんですか?
弁証法って無意味なんですね。
162 :
考える名無しさん:2001/06/26(火) 21:41
age
163 :
考える名無しさん:2001/07/14(土) 12:01
age
164 :
考える名無しさん:2001/07/14(土) 14:55
弁証法って技法でしょ?
165 :
考える名無しさん:2001/07/16(月) 17:17
RAGEさんの突っ込みは正当ですよ。
>>143 >しかしよく言われる「正」「反」「合」の「合」が具体的に
>どのようなものなのか分かりにくいのが、弁証法が難解と呼ばれる理由
これは難解なんではなくて、単に説明不足なだけです。
ちなみに正・反が、そもそもどうして正・反なのかも、わかりません。
また、合になったあと、なんで、それが正になるかもわかりません。
反かもしんないでしょ?
ヘーゲルがこれを言わなかったと考えて(それこそRAGEさんがぶったと
考えて・・・RAGEさん失礼)みたときに、みなさんがどういう応対をするか、
想像してみれば、すぐわかることです。
166 :
165:2001/07/16(月) 17:19
すいません、165の最後。
>すぐ、わかることです。を、
>すぐ、単なる説明不足だと見抜けるはずです。に訂正。
167 :
165:2001/07/16(月) 17:25
>>148 >カントは、アンチノミー(二律背反、矛盾)について、カテゴリーを
>経験的対象を超えて物自体に適用したために起きる「仮象の論理」であるとして、
>弁証論を否定的に捉えた
大正解ではないですか。やるなカント。
168 :
考える名無しさん:2001/07/17(火) 09:20
このスレではラゲはOFW氏を煽りまくって
いるが、マルクススレではOFW氏を全然煽ってない。
まあ、歴然とした力の差を思い知ったのだろう。
169 :
考える名無しさん:2001/07/23(月) 14:10
哲板のNO.1スレ
否定弁証法の方が好き。
171 :
あげ:2001/07/24(火) 14:37
age
あぼーん
173 :
hh:2001/07/26(木) 00:42
猫は死ぬ
だから私の猫も死ぬ
174 :
屁下る:2001/07/26(木) 00:59
>>1 つまり、御都合主義の何でもあり、ってことだよ。
175 :
kk:2001/07/26(木) 01:08
空は青い
だからイタリアの空も青い
176 :
考える名無しさん:2001/07/26(木) 03:10
177 :
考える名無しさん:2001/07/26(木) 04:57
ようするにアルゴリズムみたいなものですか
178 :
変人:2001/07/26(木) 07:22
じゃんけんポンで、次の人、じゃんけんポン
これを永遠に続ける。
最後の勝者も、負かされる運命にある
て、とこかな?
よくワカンナーィ。
集合論を学ばないヴァカ共が群がる蜜って所かな。
180 :
ff:2001/07/26(木) 21:28
空は青い だからイタリアの空も青い・・・・・弁証法
イタリアの空は青い だから空は青い・・・・・演繹法
空は青くあってほしい・・・・・・・・・・・・観念論
181 :
ff:2001/07/26(木) 21:31
車が故障した
原因がわからない
過去にもあった
そのとき修理屋さんは簡単に治した
今回も簡単に直るだろう
時間がないけれど直してしまおう・・・・・弁証法
182 :
ff:2001/07/26(木) 21:33
車が故障した
何か不吉なことがあるのでは
時間がないけれど
まずお払いをしよう・・・・・言霊
183 :
OFW:2001/07/27(金) 00:58
ども、お久しぶり。少々夏ばて気味。
>>165 >単に説明不足なだけです。
確かにその面が大きい。と言うより、説明者自身の無理解があるような。
前にも書いたが、「正・反・合」とはフィヒテの「外的弁証法」、つまり
自我ー他我ー大いなる自我という関係を一般化した外面的なものでしょう。
>ちなみに正・反が、そもそもどうして正・反なのかも、わかりません。
通常、正をテーゼ(定立)、反をアンチ・テーゼ(反定立)、合をジン・
テーゼ(総合)などと言うようですが、世の説明は誤解の元ですね。
1.定立とは何か。
ある事態をそれとして対象化することです。たとえば、
「今の経済状態は何なのだ?」「これは<デフレスパイラル>だ」
という具合に、ある全体的な対象デフレスパイラルが直接に立てられる。
それは、ある直接的な事柄を媒介されたものとして根拠付けることであ
るにも拘らず、媒介無しに断言(断定)として言われるから、一つの矛盾
(形式と内容の矛盾)を形成する。
まさに「正・反・合は正しい」などは根拠の無い独断的主張に過ぎない。
2.反定立とは何か。
そこで、その根拠に関して反対の主張が同等の権利をもって主張され得
る。何故なら<根拠>とは定立と反定立双方の根拠であり、両者の本質
的な同一性(矛盾)として単に可能なものですから。上記の例で言えば、
「いや、今は可能的にのみ<デフレスパイラル>であり、現実は違う。」
という具合に。(実際にも「景気は全体として好調であるが、その回復の
テンポはより緩やかになりつつある」という矛盾した言説が続いた。)
3.総合とは何か
結局、根拠(理由)が直接的に立てられることは根拠の本性にあってい
ないのであり、全体的な事柄を媒介する真の根拠とは<事柄の本質>
であるということです。上記例で言えば、資本主義の本質認識から始ま
って、初めて<恐慌(デフレスパイラルの極限)の必然性>が導ける。
184 :
OFW:2001/07/27(金) 00:59
>>167(165さん)
>やるなカント。
カントの優れた点も限界もそこに現れていることを見て欲しいな。
(詳細は省略)
>>173(hhさん)
>猫は死ぬ
>だから私の猫も死ぬ
私の猫は他のすべての猫とは違い、特殊な猫(招き猫)かも知れない?
「招き猫は本来の猫ではない」ということから<猫の本性>が遡及される。
>>174(屁下るさん)
<根拠>(対象が何であるか)を示さない事は、独断的主張と呼ばれる。
>>177 >ようするにアルゴリズムみたいなものですか
数学的な論理操作ではなく、対象と対象認識の相互媒介です。
>>178(変人さん)
>最後の勝者も、負かされる運命にある
<最後>とは何でしょう?続けることを続けないこと(自己否定)ですね。
それは運動を停止させること、未来(未定)の運命を自ら決定すること。
>>179 >集合論
集合を作るためには、実在対象を数的な存在(要素)に変えなくてはならず、
それは実在の質的差異を捨象する。無内容な形式は思想形式のないもの。
>>180(ffさん)
>空は青い だからイタリアの空も青い・・・・・弁証法
単なる古典論理における誤謬。
すべての空とは実在のイタリアの空ではなく空そのもの(空の本質)である、
が弁証法。
185 :
考える名無しさん:2001/07/27(金) 01:00
なんか概説書を一冊推薦してくださいな。
186 :
ff:2001/07/27(金) 03:40
イタリアの空が日本の空と同じわけがないでしょうが。
でも一応どちらも空ですよ
187 :
ff:2001/07/27(金) 03:41
猫は死ぬ
の段階で招き猫は入りませんよ
ffさんは、180〜182で、はっきり分かる形で、
帰納法のことを、演繹法や、弁証法と書いたり、
関係のない「お払い」のことを比較に出し、
しかも、それを未開人や宗教の文化などにある
思考法のこととして書いてあるのではなく、
「言霊」(言葉にあると信じられたまじないや呪いの力)と
外れたことを書いてあるなど、
はっきり、間違えや外れていると分かることを書いていて、
そこまでやるとわざとしていると思えるので、
それに対しまじめにレスしない方がいいと思う。
189 :
OFW:2001/07/28(土) 20:10
>>185 >概説書
前にも書いたが、日本には、どうも弁証法に関するまともな概説書はなさ
そう。
ヘーゲル『小論理学』(岩波文庫)
レーニン『哲学ノート』(同上)
などの古典を丹念に読むしかないでしょう。
190 :
考える名無しさん:2001/07/28(土) 21:28
白い米喰って黄色い糞が出るだろ、それが弁証法だ!
袴田某がこう言ったらしい。
191 :
:2001/07/28(土) 23:33
弁償法?
>>183 1.定立
「断言が矛盾を形成する」というあたりの説明は理解可能ですが、
なぜ断言する必要があるのでしょうか?
断定しないで、
「その段階では判定不可能である、もっと根拠を探す、考察を重ねるなど
しなくてはいけない」と言えばいいだけなのではないかと、私は考えますが・・・。
2.反定立
「同等の権利をもって主張されうる」は、断言したことによって生じる矛盾?の
領域が、必ずしも断言した(定立した)領域の広さと等価であると評価できるとは、
かぎらないため、一般論として成立しないように思えます。
3.総合
>根拠(理由)が直接的に立てられることは根拠の本性にあっていないのであり
根拠の本性にあっていないというのは、よくわかりません。
そもそも本性の話をすることができるのか、という疑問もあります。
>>184 >>167(165さん)
>やるなカント。
カントの優れた点も限界もそこに現れていることを見て欲しいな。
(詳細は省略)
・・・。
193 :
OFW:2001/07/29(日) 17:55
>>192(165さん)
>なぜ断言する必要があるのでしょうか?
「なぜ?」とは根拠(理由)の定立に向かう認識の運動(理性欲求?)です。
それは、断言しないことも可能であるのに、目の前には断言が現存在してい
ることから出てくる問い(媒介の要求)ですね。
人が「○○は××である」と断言したり、しなかったりするのは、
断言(判断)とはそれだけで正しいと主張された<関連性の定立>である
という(矛盾した)定義の中に含まれている。つまり、上記の問いは
「なぜ物事の関連性を立てる必要があるのでしょうか?」
と言うことを含んでおり、そうなると、事物間の関連性を立てることは客観
的認識の最初の行為だ、という答えが出てきます。
>断定しないで、「その段階では判定不可能である、もっと根拠を探す、考察
>を重ねるなどしなくてはいけない」と言えばいいだけなのではないか
<段階>とは<発展>という高度に弁証法的なプロセスに関わる概念です。
発展は飛躍という前段階の否定を含み、単なる量的な(実在的な)拡大重畳
ではないのです。認識の発展は、主観的には知覚(直観)→判断→推理、
対象的には実在論→本質論→概念論という段階を踏むと言えます。
(実在は推移し、本質は反照し、事柄は発展する。)
また<判定>とは言明を何らかの基準と比較してその正否、妥当性を立てる
判断ですが、その場合、基準はそれ自体で真とされており、無根拠です。
基準の基準(最終的判定)はどこにあるのかが問われるべきであり、それに
対しては概念と実在の一致としての真理であるというのが、差し当たりの
答えです。それは正当性(妥当性)ではなく、真理性に関わります。
194 :
OFW:2001/07/29(日) 17:58
>>192(165さん)(つづき)
>生じる矛盾?の領域が、必ずしも断言した(定立した)領域の広さと等価で
>あると評価できるとは、かぎらないため、一般論として成立しない
<領域>(対象領域)の定立とはまさに実在のカテゴリー化による再構成で
あり、定立されたものとその否定(無限定)の両者を含む本質論的世界を対
象化することです。それは実在の一定の運動様式を抽象したものと言えます。
また、生じた矛盾(本質的対立)は常に限定的な矛盾であり、一般論ではな
く具体論、です。たとえば<明暗>(明と暗の矛盾)とは<光>(明暗の本
質)の領域を立てるのであり、音の領域とは矛盾しない。つまり、矛盾は常に
自己の世界の中でのみ生じるものであり、かぎられたものです。
>根拠の本性
ある存在者の本性(本質)とは、それがそれである所以のもの、ですね。
それは現存在の根拠として、その様々な現れの底にある自己同一性です。
それは、その存在者が他のものでない所以のもの、と同じものであり、現存
在の総体性を指しています。
「○○は××である」という断定(判断)は根拠を示さないと、そうとも言
えるしそうでないとも言えるという単なる可能性に過ぎないが、それは○○
とは実在世界の中で様々な側面をもつ具体的な対象であるため、「ある」と
いう実在的な関係性では○○の全体を捉え切れないからです。
そこから「○○は□□であるが故に××である」と根拠付け(推論)が出て
くるが、しかし形式的な同一性が内容の区別に対して外的に立てられた場合、
根拠がそれ自体根拠付けを必要とするという無限後退に陥り、「根拠の形式
主義」(これは形式論理の数学的推論でもある)が生じる。それが根拠の本
性です。それは総体性としての根拠(関係性)が個別的に立てられるためで
あり、現存在する根拠つまり<物自体>(無関係性)によって止揚される。
たとえば貨幣とはモノとして現存在する(経済的)価値(一般的等価物)で
あり、すべての個別的評価(価格)を超越して、市場世界自体を定立するそ
れ自体無価値な価値根拠です。そこでは「持つ」という関係性が支配する。
195 :
考える名無しさん:2001/07/30(月) 18:01
デフレによる物の価値の下落はマルクスの価値論的にはどうなのですか?
196 :
考える名無しさん:2001/07/30(月) 18:15
弁証法と脱構築とはどこが違うんですか?
似ている点、決定的に違う点はどこなんでしょうか。
197 :
OFW:2001/08/01(水) 21:40
>>195 >デフレによる物の価値の下落
詳しい話は経済板の方が良いでしょうが・・・。
マルクス(主義)経済学派の経済学者でも労働価値説をまともに論じている
人が見当たらないのは、(経済的)価値の概念を正しく捉えていないためと
言えます。
商品経済社会においては、「物の価値」は
1.使用価値(効用性そして稀少性)
2.交換価値(非所有者にとっての効用性)
3.価値本体(価値実体)
の3重性において現れ、それらは互いに弁証法的な関係にあります。
一方、(近代)経済学(そこでは価格の理論はあるが価値の理論はない)
おいて、「物の価値」とは常にその貨幣表現としての価格を言い、
1.個別商品種の価格(単価)
2.いわゆる物価、すなわち標準的生活財あるいは生産財の平均単価合計
のどちらかを指している。1については古来「需要供給の均衡法則」として
現象論的に説明?されているが、2に関する満足な説明はない。それは価値
根拠として貨幣を公理的前提(説明原理)としているために、貨幣価値自体
の変動を説明できないのです。(物差しの長さが変るとは不可解!)
物価の一般的騰貴あるいは下落(景気循環)とは資本主義固有の現象であ
り、資本による過剰生産(それは労働力の過剰消費でもある)に直接の原因
があるわけです。
198 :
OFW:2001/08/01(水) 21:45
>>196 >弁証法と脱構築
ここ20年以上の知性の停滞の一因にもなっているポストモダニズムと呼ば
れる思潮については、それを中産階級に属する知識人達の<不在証明>(ア
リバイ)作りと評価できるでしょう。実在的な対象ではなくその無を唱える
観念論共通の特徴は、その解釈学的な記号主義においても貫かれている。
「反ロゴス中心主義」とは反理性主義でもあり、差延(引き延ばし)という
客観的理性からの逃避は思想上の相対主義を招き入れる。
それに対して、弁証法は労働者階級の<思想的武器>と言えます。それは、
働きとしての自然の論理であり、また対象的活動としての人間が世界を我が
ものにするための客観的かつ実践的な論理です。それはすべての物化した諸
関係を内部から打ち破り、生成の運動の中に投げ入れる溶鉱炉、かな。
199 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 23:35
>>198 脱構築というのはよくわからん考えだけど、少なくとも反基礎付け主義
なのは確かだから、観念論とは言えんのではないか?
相対主義を招き入れる、という指摘には同感。
200 :
考える名無しさん:2001/08/02(木) 01:45
脱構築って弁証法的止揚を逆に辿って、
再び矛盾へと遡及する方法にもみえる。
つまり脱構築とは弁証法と逆の操作のことにみえる。
弁証法は矛盾を見つければそれを止揚しようとするが、
脱構築は止揚を見つければ逆にそれを矛盾へと解体しようとする。
それは脱構築と
アドルノの否定弁証法との近似性にも現れるね
202 :
OFW:2001/08/02(木) 21:49
>>199 >反基礎付け主義なのは確かだから、観念論とは言えんのではないか?
「基礎付け主義」とは余り明確な概念ではないので、その反対の立場に
ついても何とも言いようがないが、少なくとも世界観上の対立として、
客観的実在を認めない立場は観念論と呼べるでしょう。
人間は勝手なことを言う事ができる存在ですが、自然は厳然としてそこに
あり、現実(働くもの)は主観のおしゃべりなどに頓着しない。労働者は
そのことを生産実践の中で直接的に理解しており、自然に対して謙虚な態度
を保持している。それが唯物論の立場です。
203 :
えどぇ:2001/08/02(木) 21:50
204 :
考える名無しさん:2001/08/02(木) 22:23
対象世界が主観から独立してそれ自体
勝手に動く様相は疎外の一形態だと思いますが。
まあしかし、そうだからこそ、疎外された世界に
実践的に介入し、世界を我がものにしようとする
パッションもうまれるのでしょうがね。
205 :
196:2001/08/03(金) 00:14
>>198 丁寧な解答ありがとうございます。
歴史的過程における各々の顕れるシーンが決定的に違うということですよね。
>>200 私も全くそのように感じました。
二項(正と反)と止揚と脱構築とが東西南北のような関係にあるのではないか
という気がしたんです。
>>202 >人間は勝手なことを言う事ができる存在ですが、自然は厳然としてそこに
>あり、現実(働くもの)は主観のおしゃべりなどに頓着しない。労働者は
>そのことを生産実践の中で直接的に理解しており、自然に対して謙虚な態度
>を保持している。それが唯物論の立場です。
この言い方だと、唯物論が素朴実在論の延長にあるように受け取れるが……。
唯物論者は心や精神を物質とは独自の原理をもった実体であることを認めない。
だが、労働者が普段の生活で心の実在を疑ったりするだろうか?
ここにはある種の断絶があるように思う。
労働者はデカルト的二元論を受け入れることにそれほど抵抗はないだろう。
二元論に抵抗を抱くのは哲学的反省の結果である。
要するに、唯物論者といえども哲学者の一員であり、中島義道氏の言葉を借りれば
「同じ穴のムジナ」だ。
その事を忘れてはならない。
207 :
OFW:2001/08/13(月) 00:55
>>204 >対象世界が主観から独立してそれ自体勝手に動く様相は疎外の一形態
「勝手に動く」とは面白い表現。アリストテレス『自然学』で、椅子が逆さ
まに立つ場合の「ひとりでに立つ」と「偶々(偶然に)立つ」という言明
を比較して、<自然性>(自発性)と<本来性>(非本来性)の関連・区別
が論じられていたが、自然性とは<自ずから在る>ということであり、<自
然に逆らって>勝手に動くという様相とは、無機的自然に対して「勝手な=
自発的な動き」をする自然の一部(生物)として活動的(生きた)自然を指
すでしょう。主観から独立に客観が動くのではなく、客観に従わずに主観が
「勝手に考える」のが自己性(向自性)ではないかな?
人間における疎外とは対象的活動としての自己対象化(自己実現)が非対象
化として結果するという、社会関係性の疎外を言います。それはまずもって
<疎外された労働>から始まるのです。
>>206 >唯物論者は心や精神を物質とは独自の原理をもった実体であることを認めな
>い。
心は物質とは「独自の原理」を持つ活動だが、物質から「独立自存の実体」
であることを認めない、ということです。
>心の実在を疑ったりするだろうか?
心は実在しませんから、それを疑いもできないでしょう。
>労働者はデカルト的二元論を受け入れることにそれほど抵抗はないだろう。
デカルトの「我思う。故に我在り」とは高度に考え抜かれた思索の結果であ
り、日常的な意識とは真っ向から対立する。たとえば日本語でも「私はここ
にいる」とは言うが「私はここに在る」とは言わない。主体は客体(物体)
ではなく「在る」のは身体だからです。つまり、デカルトは「自我意識は物
質とは独立のもう一方の物的実在である」と言った訳ですが、(賃)労働者
は、物のように扱われていようとも、「私は物ではない」と言うでしょう。
>唯物論者といえども哲学者の一員
素朴実在論は未だ反省的哲学ではなく、唯物論は既に哲学ではない、かな。
208 :
206:2001/08/13(月) 01:30
>>心の実在を疑ったりするだろうか?
> 心は実在しませんから、それを疑いもできないでしょう。
えっと、なんかずれてない?
こっちが言いたかったのは、ふつうの労働者は心が実在すると信じている
からそれを疑うことはしないだろう、という意味なんだけど。
それをわかっててわざとこんなレスをつけたんなら、もうどうだっていい
けどね。
209 :
考える名無しさん:2001/08/13(月) 01:31
OFWさん、長いです。
長いだけでなく退屈です。
210 :
考える名無しさん:01/08/28 02:28 ID:N4K1rxf6
二つの論理学の方法を、データの整理方法に置き換えて、
もう少し具体的にして考えた場合、
アリストテレスの論理学から記号論理学の流れの論理学は、
適用対象が、思考内容が命題化された状態で用意されていて、
それは思考内容に対応して構成されたデータベースに当たり、
それに対し、データ構造を利用してデータを操作する方法に当たると思う。
(この場合DBは、名前と名前の属性で成り立つデータ構造)、
それに対し、ヘーゲルの弁証法的論理学は、
未分化なセンスデータの集合に対し、分類整理する為の部類を、
「否定の否定」(
>>36参考)などによって調整を行い、
思考内容を分類整理する方法に当たると思う。
211 :
つづき:01/08/28 02:29 ID:N4K1rxf6
その未分化なセンスデータの集合に対し、分類整理する為の部類を、
「否定の否定」によって調整を行うこととは、
その「否定の否定」の第一段階が、部類と他の部類との調整になり、
それは同一レベルでの部類とそれ以外の部類とを区別し、
分類の重複を無くす為の調整を行い、
センスデータの集合に対する、部類が扱う権限を決めることになり、
その第二段階が、未分化なセンスデータの集合と
それを扱う分類構造とのズレの調整になり、
それは部類が、分類構造の制約下で、
扱う対象全体を区別し受け入れるための規格を作り、
対象の個々が、分類構造の制約下の規格に対し、
分類のズレ(分類できない個々が出来ること)をネガティブフィードバックし、
そのネガティブフィードバックによりそのズレを修正することになると思う。
その同一レベルでの部類とそれ以外の部類とを区別し、
分類の重複を無くすこととは、
同一レベルで、部類Aはそれ以外の部類ではなく部類Aである、
の関係を成り立たせること。
例、イヌは他の動物でなくイヌ。茶色は他の色でなく茶色。
だろうか???
その同一レベルでの部類とそれ以外の部類とを区別し、
分類の重複を無くすこととは、
例えば、データの集合を、A、B、C、Dの部類に分類したとして、
A=〜(B、C、D)、が成り立つこと。
または、A∧(B、C、D)、が成り立たないこと。
具体例1、生物を、植物、動物、菌類と分類し、
植物をそれ以外の部類と区別した場合、
植物=〜(動物、菌類)、が成り立つこと。
または、植物∧(動物、菌類)、が成り立たないこと。
具体例2、色合いを、赤、橙、黄、緑、青、紫と分類し、
赤をそれ以外の部類と区別した場合、
赤=〜(橙、黄、緑、青、紫)、が成り立つこと。
または、赤∧(橙、黄、緑、青、紫)、が成り立たないこと。
213 :
考える名無しさん:01/09/10 07:00
お恥ずかしいながら、最近ようやく弁証法の意味がわかったような
気がします。
高校時代、授業ででてきましたが、何のことか皆目わかりませんで
した。教師もごまかしたような気がします。
論語読みの論語知らずという古語がありますが、哲学専攻の学生
さんや、場合によっては教授といわれる方も、どれだけ理解されて
いらっしゃるか、一度お聞きしてみたかったのですが、(失礼)
なぜ、理解しにくいかというと、一種の手品の様な陰謀理論であり
、種明かしをしてしまうと手品にならないからです。
では、私が最近悟った、その極意を具体例でお話します。
(事例)
●久しぶりに高校時代の同級生が集まり、A君が同窓会をやろう
じゃないかと言い出した。ではどこでやろうかと話し合いました。
A案(テーゼ):「学校へ行ってワイワイやろうぜ。」
B案(アンチテーゼ):「折角の機会だから、小料理店で一杯やろうや。」
↓
C案(アウフヘーベン):「私だったら小綺麗なレストランがいいわぁ。」
D案(アンチテーゼ):「いっそバス旅行という手もあるなぁ。」
・
・ (以下、この繰り返し)
↓
Z案(アウフヘーベン):「だったら1泊2日の小旅行に決まりだな。」
↓
そこでA君が何か思いついたように
「それだったら、僕の伯父さんがホテルをやっているんだけど
事情を話せば、特別に安くしてくれるかもしれないよ。」
全員:「それはありがたいなぁ。 A君よろしく頼むよ。
みんなA君に感謝。」
●ところが、実はA君の伯父さんのホテルは最近、赤字続きで、
A君に客集めを依頼していたのであった。
★これでお分かりのように、弁証法とは、表向きは演繹法をよそおい、
その実態は帰納法であって、議論をある結論に誘導するという
巧みな論法なのである。
このように弁証法は多分、羊飼いが羊を柵の中へ誘導するように、
狩猟民族、遊牧民族の生活の中から生まれた知恵であり、我々
農耕民族からはその発想が生まれてこなかったのも当然でしょう。
214 :
さよならRage@フォーエバー:01/09/10 07:23
>表向きは演繹法をよそおい、その実態は帰納法であって
????
215 :
考える名無しさん:01/09/20 04:59
>>214 演繹法、帰納法? これは説明に無理があったかも知れません。
ご教授下さい。
ある書物でよく似た解説がありましたので、引用します。(少し、解りにくい)
●エリック・バンディのハワード・ヒューズ殺害疑惑
イルミナティはいわゆるヘーゲル哲学を採用している。ある正の命題(テーゼ)が立てられ、次に反の
命題(アンチテーゼ=テーゼの逆)が生じ、この二つの対立が止揚される。ヘーゲル哲学とはまさに、この
言葉が作られる以前からイルミナティがやっていたことを粉飾するための言葉である。これを世俗の会話
レベルに引き下ろしていえば、イルミナティであるマフィア(そう、イルミナティがマフィアを創ったのであり、
今も動かしているのである)。がビジネスマンに手紙を送り、金を要求し、暴力団の署名をそえる(これが
テーゼである)もし要求が満たされなければ会社を焼くなり、そのビジネスマンに怪我を負わせるなりする。
そこでマフィアが名乗り出て、暴力団(彼ら自身なのだが)の脅しから守ってやろうと持ちかける(これが
アンチテーゼである)。こうしてそのビジネスマンがマフィアに保護の見返りを払い始めれば、それが
総合(ジンテーゼ=解決)となる。イルミナティーはこの戦術を世界中で行っており、確かにほとんどすべて
の人が騙されている。
イルミナティ 悪魔の13血流 (原題:The Top 13 Illuminati Bloodlines)
フリッツ・スプリングマイヤー(Fritz Springmeier)著 太田龍監訳 KKベストセラーズ(1999.7.1)
p.95
216 :
考える名無しさん:01/10/12 12:23
OFW氏に
>>210のツッコミして欲しいけどもう来ないのかな。。。
どもです、召喚に応じて。これまた超亀レスですが・・・
>>208(206)
多少ふざけが入ったために誤解されたようですが、趣旨は
「心は実在する」とは「幽霊は実在する」と同等の存在論的言明であり、
心霊現象を信じる労働者は少ないだろう、ということです。
>>210-212 趣意が分かりにくいが、弁証法を
>思考内容を分類整理する方法
と狭く解釈すると、形式論理になってしまうでしょうね。
>分類の重複を無くす為の調整
はアリストテレス論理学の矛盾律、排中律に基づくでしょう。
(アリストテレスは自然学者でもあり、分類は得意だった。)
>対象全体を区別し受け入れるための規格を作り、
区別(正確には区分)の根拠については、「言語の恣意性」とか称して、
それを単に主観的なものと考える論者が(この哲学板にも)多い。
しかし、かのゲーテも言うように世界の分節、区分は客観的なものです。
<対象全体>は実在せず、それは否定的な本質存在であると言う点が
分類(類の分割)の原理を成すのです。
>ネガティブフィードバックによりそのズレを修正すること
サイバネティックス(情報理論)では、フィードバックは1次の学習であり、
システムパラメータの対象化が2次の学習とされています。
(G.ベイトソン『精神の生態学』『コミュニケーション』参照。<否定>
を理解したイルカの話が出ている。)
>>215 >暴力団(彼ら自身なのだが)の脅しから守ってやろうと持ちかける
殆ど最近の事件を思わせる、反弁証法ですね。
「我々は正義であり、テロリストは撲滅されなくてはならない。」
<テロ>(テロの概念と本質)とは<正義自体>(「正義」の真相)です。
確かに世界中のほとんどすべての人が騙されている・・・。
ドスの白痴にそんなのなかった?
我がひつよう欠くべからざる弁明って
219 :
考える名無しさん:01/10/19 23:11
>>217 OFWさんは、マルクス・レーニン主義をどうみてるの?
また、NAMとかの評価は?
220 :
考える名無しさん:01/10/20 00:08
>>217 アメリカによる世界資本主義の完成期に
今回のテロが出現したことをどうお考えですか?
「文明の衝突論」のような視点からではなく、
弁証法の視点から論じられるべきだと思いますが?
221 :
OFW@区別モード:01/10/20 04:45
おまんこなめることは物神崇拝なのか・・・
222 :
考えるカンガルー:01/10/20 09:31
みうらつとむ の本が分かりやすいよ。 あと、南郷継正の空手の本。
弁証法とは、
否定の否定の肯定。
対立物の相互浸透。
量質転化。
を真実であると仮定する、運動物に対する思考法です。
223 :
考えるカンガルー:01/10/20 09:32
みな、否定の否定の肯定くらいしか知らないみたいですね。
あとの二つが大事です。
この板では、ボクが一番弁証法に詳しいかな(^_^)b。
>>218(火さん)
>ドスの白痴にそんなのなかった?
昔の記憶が・・・。最近はドストエフスキーはどの程度読まれているのでし
ょう?また、革命前ロシアのテロについては、サヴィンコフ(ロープシン)
がいますね。エスエル左派の戦闘団首領として、最後はボルシェビキに対す
る反革命側に回ったが、帝政ロシア政府に対する絶望的な自爆テロを敢行す
る青年達の姿(『テロリスト群像』)は今回の事件とも共通する、かな。
>>219 >マルクス・レーニン主義をどうみてるの?
共産主義のことなら、今一番必要な思想であると。
>NAMとかの評価は?
以前経済板等でも同じ質問を受けた。下記スレ(レス13,31)を参照下さい。
「岩井克人の『貨幣論』は正しいのか 」
ttp://kaba.2ch.net/eco/kako/977/977618388.html >>220 >今回のテロが出現したことをどうお考えですか?
20世紀以降の帝国主義時代を一人勝ちしたアメリカ資本は、内部矛盾(階
級対立→経済の行き詰り)のはけ口を求めて、世界制覇に突き進むしかない。
「世界資本主義の完成期」ということは、名実共に晩期資本主義を迎えたと
いうことであり、矛盾の完成(没落の始まり)です。
反グローバリズムの動きは(小)市民主義的NGO、民族主義、宗教的原理
主義等として現象していますが、労働者階級に依拠した、唯物論的な土台
(生産関係)の変革を視野に入れない運動は主観的なものでしかない。
確かに、資本主義は世界化(普遍化)し、世界的資本−賃労働の単純な階級
対立に解消されて行くという<資本の文明化作用>(マルクス)をもじれば、
(資本主義的)文明vs(反資本主義的)野蛮の対立は社会主義的にのみ止
揚され得ると言えます。
225 :
神のDNA:01/10/20 22:03
岩波文庫 青 629−1,2(上・下)
ヘーゲルの小論理学。 これをお読みになればいい。
>>224 OFWさん、レスありがとう。
NAMの評価はわかりました。
価値労働説の話は面白いですね。
しかし、マルクス・レーニン主義のコメントがちょっと
不十分です。生意気いってもうしわけないですが。
もし語っていただけるのでしたら、
マルクス・レーニン主義、共産主義思想
の計画経済における評価をお願いします。
>>226 >マルクス・レーニン主義
私はスターリンを尊敬していますが、マルクス・レーニン
主義の創始者は彼ですね。スターリンの言葉は全て真理の
表現ですので、マルクス・レーニン主義の理論体系に不備
はありません。弁証法的唯物論は完璧なのです。
>共産主義思想の計画経済
計画経済とはスターリンのようなプロレタリアートの代表
者が全てを決定する独裁的システムです。周知のように、
マルクスは独裁を最高の政治経済システムと評価し、民主
主義を衆愚政治として否定してますが、それはスターリン
のような傑出した指導者がいて初めて可能になるのです。
今必要なのはまさに全てを計画=決定するそのような天才
的独裁者なのです。
228 :
考える名無しさん:01/10/21 01:26
>>227 OFWさん、マジですか?
スターリンを天才だと?
ちなみに私は、旧東側の某国を研究するものです。
計画経済において、マルクス・レーニン主義に基づく
展開は、歴史的にみて、党、下位組織、経営体、労働者
という関係の対立、妥協という新種の階級闘争を克服
出来なかったと見ていいと思います。
そもそも、マルクス・レーニン主義の経済への適用は、
道徳面の作用に重きを置き過ぎなのです。
また、労働者の自立的傾向をシンジカリズムとして
非難する傾向もありました。
労働者が中心でありながら、独裁をもつというのは、
理念的な止揚になりえても、現実には
支配−被支配という1局面にすぎないのです。
生産性の上昇をイデオロギー教育で解決しようと
するのは、間違いであったと断定していいと思います。
私は、古典的な労働者の怠惰性や需要と供給のアンバランス、
原料の不足などの批判をするつもりはありません。
このような意見はいかがでしょうか?
231 :
OFW@区別モード:01/10/21 01:43
>>228 >>227のOFWは無論偽者です。219さんへのレスは
後日しますので、待っていて下さい。
では。
偽物が絶えないなぁ。敢えてトリップは付けないが、討議の倫理(ハーバーマ
ス)の第1は誠実性の原則だということを想起せよ。
>>226(219さん)
>計画経済における評価
詳しく追跡したわけではないので、概括的な話になりますが・・・。
共産主義とは貨幣、商品、国家の廃絶を目指す運動であり、少なくとも国家
が安定的に存在し、専従的官僚が指導する社会は階級社会であると言えます。
つまり旧ソ連等の「社会主義」国家とは政治経済的にはノメンクラツーラが
支配した国家資本主義体制であったと言うべきでしょう。そのため経済は統
制経済となり、直接の生産主体であるプロレタリアートは実際には経済活動
の客体でしかなかった。
また、かって旧ソ連において、いわゆる「経済計算論争」として、社会主義
経済における計画と市場の問題が議論され、戦後の東欧でのいくつかの実験
が行われましたが、結果として失敗に終ったと言えるでしょう。
そこには社会的需要の測定と社会の有機的な再生産の大衆的な運営という、
未だ殆ど議論されていない課題があります。それは社会主義経済における最
も重要な理論的・実践的テーマだと思いますが、本気で取り組もうとする経
済学者が左翼陣営でも見当たらないのは不思議であり、社会主義退潮(展望
のなさ)の一因でもあるので残念。
>>227 かなり悪質な騙りだが、主張内容に一貫性がないのがすぐ分かる。
>>231 まだ良質な騙りだが、議論を混乱させる荒らしには変りない。
233 :
rage@おまんこ大好き:01/10/21 22:45
つーか、OFWさんよ。
あんたいつも歴史や理論の概括的な話しかしないやん。
実践論の話も聞きたいぞ〜
つーかあんた、ほんまに左翼け?
左翼やったら、革命論の一つでもぶちあげてみーや!
『大論理学』第一巻 有論、第一編 質、第一章 有。
それ以上の一切の規定をもたないもの。有は無規定的な直接性の中にあるものとして、
ただ自分自身と同等であるにすぎず、他のものに対する不等ということでさえもなくて、
自分の内でも、また外に対しても差異というものをもたない。
235 :
OFW@チュチェ思想マンセ〜:01/10/22 01:01
さらしらげ
>>OFWさん
丁寧なレスありがとうございます。
それにしても、騙りが多いですね。(笑
>国家資本主義体制
通俗的に言えば、独裁(Dictator)ですね。
たとえば、戦前の日本の第2次近衛内閣以後との
比較の方が現象形態は似てますね。
しかし、生産手段の共有性から来る同胞的意識は、
党が評価するより労働者の意識に浸透していましたね。
したがってイデオロギー教育は、一定の成果があったことは
たしかです。しかし経済面において、生産性、
特に労働生産性の落ち込みごとのそのような対処は、
むしろ総合的に見てマイナスの結果をもたらしました。ご存知でしょうが、
計画経済の最大の弱点は、計画時に労働者を消費者として考慮できない点にあります。
消費者としての物質的要求の意識性が、労働者の労働意欲に
反映することは、個々の経営体の首脳部や、党の経済幹部は気づいて
いましたが、もちろんあからさまにその要求を満足させることは、
「社会主義的意識の育成」には、反します。このジレンマを
直視できないものたちが、むしろイデオロギー教育の強化を
方向付けたのです。このような実践面での過去に存在した個々の経営体の苦悩を
今もって、社会主義の有用性を説いているひとは、
自分の考えに生かそうとしてるとはおもえません。おそらく
あれは、本来的な社会主義的発展の諸条件を
満たしていなかったからだという方が多いと思います。
理論的論争の話しをされてますが、あの経済計画論争の結果が、
実際の計画経済の基礎になったことは事実でしょう。
そして、NAMのもつような構想は、旧ソ連と同じように
現実に働くことになる者の意識のモデルへの反映を
まったく考慮していません。理論→実践時のズレによる
修正(止揚といってもかまいません)をどのように行うか
が理論よりも一番重要だと思います。
長々イチャモンつけてすいません。社会主義経済を振り返って
一度マルクス経済側の人に意見を言ってみたかったものですから。
>>233(rageさん)
>歴史や理論の概括的な話しかしない
概括的とは概念的把握をしているということです。
概念的把握は弁証法の精髄であり、それなくして
具体的普遍はないのです。
>実践論の話
実践とは理論の検証のことだから、理論なくして
実践はありません。だから、私の理論偏重に不当
なところはないのです。そして実践の過程とはお
おむね漸進的なので、すぐに衆人の納得のいく結
果はでないものです。
238 :
考える名無しさん:01/10/26 22:28
rageは・・・
もしも、そこに何らかの規定があるとすれば、
或いはその有を区別するような内容、言いかえると
有が他のものと区別されたものとして立てられるような内容があるとすれば、
有の純粋性は失われるであろう。
むしろ有は純粋の無規定性であり、空虚である。
―ここに直観ということが言われ得るとすれば、有の中には
直観さるべき何ものもない。むしろ有はこの純粋な、
空虚な直観そのものである。
同様にまた有の中には思惟さるべき何かがあるのでもなく、
むしろ有はこの空虚な思惟にすぎない。
だからこの有、無規定的な直接的なものは実は無(Nichts)であって、
無以上のものでも無以下でもない。
無。(有の逆にほぼ同じ)
<―この意味で、無は純粋有と同一の規定であり、というよりも純粋有と同一の
没規定性であって、従って一般に純粋有と同一のものである。>
成。
<それ故に純粋有と純粋無とは同じである。真理であるところのものは
有でもなければ、また無でもなくて、有が無に、また無が有に、
推移することではなくて、推移してしまっていることである。
けれども同様にまた、真理は両者の区別のないことではなくて、
むしろ両者が同一のものでないということ、
両者は絶対に区別されるが、しかしまた分離しないものであり
不可分のものであって、各々はそのままその反対の中に消滅するものだということである。
それ故に、両者の真理はこういう一方が他方の中でそのまま消滅するという運動、
すなわち成(Werden)である。言いかえるとこの運動は、そこでは両者が区別されているが、
しかしまたそのまま解消してしまっているというような区別を通して
行われるところの運動である。>
>>233(rageさん)
>革命論
労働者階級が主体として自己を形成しない限り、何事も成就しない。
そのためには労働者に対する徹底した啓蒙が欠かせないでしょう。
>>236(226さん)
>生産手段の共有性から来る同胞的意識
国有と共有を混同することは大きな誤まりです。それとも即自的(潜在的)
な共有”性”を指しているのかな?
>労働者を消費者として考慮できない点
「自由主義的」資本主義企業においても、経営者が生産計画を立てる際に
労働者自身は単なる労働力としてのみ考慮され、消費者としては別人化され
ている。商品とは<他者の欲望の対象>であり、たとえばフォードの労働者
はフォード車を手に入れたいという欲望を、貨幣という物象化された他者の
欲望として疎外させなくてはならなかった。
一方、旧ソ連等の国家資本主義経済においては、国家全体の経済計画は党官
僚が作成し、「国益」に基づくノルマ型生産目標をもって社会的需要に代え
た。
つまり、(私企業主であれ国家官僚であれ)生産手段を所有し生産計画を立
てる者が労働者自身の社会的欲求を無視しているという点では同じでしょう。
>消費者としての物質的要求の意識性が、労働者の労働意欲に反映する
直接的な物質的要求と人間的・社会的要求は区別すべき。たとえば、旧東欧
諸国の労働者参加型経営における「資本関心」の希薄さ、つまり直接的な欲
求を超えて「利潤」を指向することがなかったという指摘については如何?
>本来的な社会主義的発展の諸条件を満たしていなかった
生産力の話かな?確かに社会主義が発展するためには一定の生産力水準が必
要でしょうが、むしろ国家官僚が労働者を主体として認めず、生産の社会化
を阻害した点の方が本質的でしょう。
>>237 繰り返すが、騙りは議論を混乱させるだけ。
243 :
考える名無しさん:01/10/29 01:12
OFWさん(
>>217)、レスありがとうございます。
私も含めて素人さんの書き込みだけでは、余り勉強になりませんし、
学ある方に板に戻ってきて貰えて、板を見る側としてとても嬉しいです。
指摘された後、(
>>36)を何回か読んだら、
それ以前、勘違いして読んでいたらしいことに気付き、
私も私の書き込みは、ヘーゲルの弁証法とは違うように思えます(^^)
それなので(
>>211-212)は、ヘーゲルの弁証法でないとして、
それから切り離し、それを参考にした程度のものとして、
続きを書こうと思います。
(
>>211)の「その第二段階」の続き。
そこでの、判断評価する側の判断基準と、対象(データ)の個々との関係ですが、
(1)その基準を<肯定的なもの>として、対象(データ)の個々に当て嵌め、
一致する場合対象を肯定し、一致しない場合対象を否定する、
(例、たま(対象)は「猫」(部類)であるか? → たまは「猫」である。
たまは「人」(部類)であるか? → たまは「人」ではない。)
のではなく、
(2)判断する側の基準を<否定的なもの>として、対象の個々に対応させ、
一致しない場合、対象を肯定し基準を修正し、
一致する場合、基準の修正は完了しているものとして何もしない、
(例、ドラえもん(対象)に対し「猫」は正しいか? →
ドラえもんに対し「猫」は間違えで
「(猫型)ロボット」(新しい部類)が正しい。)
とすることです。
そして、「第二段階」によって対象と部類との関係が変化すれば、
「第一段階」の「部類と他の部類との調整」の結果が壊れるので、
再びその調整が必要になり、
そして「第二段階」が続く限り
「第一段階」の再調整が必要になり続けると思います。
『区別(正確には区分)の根拠については、「言語の恣意性」とか称して、
それを単に主観的なものと考える』ですが、
「未分化なセンスデータの集合とそれを扱う分類構造とのズレの調整」で、
(1)で止める(調整しない)のであれば、
分類を、分類する側の「言語の恣意性」だけで決められると思いますが、
(2)をする、または「第二段階」と「第一段階」とを繰り返すのであれば、
分類の決定は、対象の個々の性質の分布に従うことになると思います。
>>思考内容を分類整理する方法
>>と狭く解釈すると、形式論理になってしまうでしょうね。」
<分類する対象>と<分類の構造>とのズレ(分類できない個々が出来ること)
があるのか無いのか、分類が客観的なのかそうでないのか別として、
とりあえず<分類する側>だけで、例えば集団に対し、
[子供は20歳未満]、[大人は20歳以上]など恣意的に部類を定義し、
「同一レベルでの部類とそれ以外の部類とを区別し、
分類の重複を無くす」により分類しても、
形式的に分類の枠の中で「論理学の矛盾律、排中律」が成り立ち、
よってそれを形式論理学的に考えることが出来ると思います。
でも(
>>211-212)のやり方は、<分類する対象>と<分類する側>との調整での、
分類を完成させるまでの過程になると思います。
247 :
考える名無しさん:01/10/29 02:51
「分類のズレ(分類できない個々が出来ること)」の「分類できない」ですが、
例えば集団に対し、[子供は20歳未満]、[大人は20歳以上]と恣意的に分類し、
それらは、<類概念による分類>として、
例えば、
[第二次成長期以前の年齢]、[第二次成長期以後の年齢]
[自己責任において自由契約が出来ない年齢]、[それが出来る年齢]
[犯罪であるかどうかを判断出来ない年齢]、[それが判断出来る年齢]
など、これらの<種概念による分類>を、含めた場合、
類概念による年齢の区分と、種概念による年齢の区分とで
ズレが起こることになります。
この場合、<種概念による分類>に対し、<類概念による分類>を、
例えば、(社会的年齢の区分と生理的年齢の区分との、区別を省略)
[子供は発達で未完成な状態]、[大人は発達で完成した状態]と
部類を抽象的に定義しなおすことにより、
そのズレを無くすことが出来ると思います。
(
>>245)の1-3説目は×。 ↓はその修正。
(
>>211)の「その第二段階」の続き。
そこでの、判断評価する側の判断基準と、対象(データ)の個々との関係ですが、
(1)その基準を<肯定的なもの>として、対象(データ)の個々に当て嵌め、
一致する場合、基準に対し肯定し、一致しない場合、基準に対し否定する
(例、たま(対象)は「猫」(部類)であるか? →「たまは「猫」である」は真。
たまは「人」(部類)であるか? →「たまは「人」である」は偽。)
のではなく、
(2)判断する側の基準を<否定的なもの>として、対象の個々に対応させ、
一致しない場合、基準が否定され、
基準に対し肯定も否定も出来ない状態になり、
対象に一致するように基準が修正される。
また一致する場合、基準の修正は完了していることなり、
基準の否定は起こらないことになる。
(例、ドラえもん(対象)を「猫」で説明できるか? →
ドラえもんに対し「猫」で説明できないし、
猫であるとも猫でないとも判断できない。
代わりにドラえもんを説明する為の
「猫型ロボット」(新しい部類)を提案する。)
のことです。
>>243 >IP規制頼んで見たら?
そうですね。駄目もとで頼んでみます。
お心遣い、ありがとうございました。荒
らしがいると本当に議論がやりずらいで
すからね。
250 :
考える名無しさん:01/10/31 21:50
(横レスっていうのでしょ)
興味あるテーマだけど、ちゃんと引用を正確に議論してよ。
書名だけで語らず。
まともなのは、
>>148と
>>234だけだよ。
251 :
考える名無しさん:01/11/01 23:29
燃えよOFW!
ショーペンハウアーって悲観主義かな?
彼の著作を読む限りではそう思えない
(彼の実生活は別として)。
あと
>>213の挙げている事例が、議論に値する、まともな事例だ。
なんで、213を無視するんだ(演繹・帰納の間違いなら直せば良い)。
弁証法が現実で活用されなければ意味が無いみたいなこと言ってる人いるけど、
弁証法的な世界が現実じゃないの?
255 :
考える名無しさん:01/11/03 20:23
方法論と哲学思想の混同→弁証法に対する何がしかの期待
かかる倒錯は既に乗り越えられていると考えます。
256 :
考える名無しさん:01/11/03 21:49
おえーわけわからn。とりあえず漢字を使わずにせつめいしてみれお
257 :
考える名無しさん:01/11/03 23:37
>>250 続けて発言してるけど、議論の中に参加しないで、
部外者のままでいながら、
それでいてなぜか、議論をこのようにするべきだとだけ注意だけしても、
不毛というか意味が無いと思うが。
258 :
rage@ぶっとい漢:
労働者を啓蒙できると信じるOFWは
やっぱお人好しというか、世間知らずやな。
西成にでもいって日雇い労働者のIQを
調査してこいや。
絶望的になると思うからな。