1 :
考える名無しさん:
だと思いませんか?
というか、日本では哲学者よりも批評家の方が哲学的な問題を追ってきたように思うのですが・・・
アサダの受け売り?
まさかこの批評家って空汰煮じゃないよね。
3 :
考える名無しさん:2000/12/09(土) 00:20
日本の哲学者って誰なの?
西田とか広松とか木田元とか?
空汰煮は自分を哲学者と名乗ることにやましさを感じるのです。
そのやましさこそが、哲学の精神なのです。
5 :
考える名無しさん:2000/12/09(土) 00:40
大森とか野矢とか斉藤(慶)とか
永井とか中島とか田島とか吉田夏
彦とか黒崎宏とか
6 :
考える名無しさん:2000/12/09(土) 01:27
戸坂潤。
7 :
考える名無しさん:2000/12/09(土) 02:51
1がいうこともわからないでもない。
例えば、小林秀雄なんかは肩書きは文芸批評家だけれども、本来哲学者が行うようなことをやってきたし、それが柄谷あたりまで脈々と続いているような気がする。
それに、戦前は、批評家と哲学者は並ぶくらい力があったと思うけど、戦後の哲学者の凋落は目も当てられない。
って思わずまじレス
8 :
考える名無しさん:2000/12/09(土) 03:04
肩書きはどうでもいいのでは?
晩年の「たこ八郎」は妙に哲学的だったそうだし。
「ガッツ石松」も可能性あるのさ。
愚鈍(蓮実)=ガッツ、だし。
ガッツ〜〜〜
9 :
考える名無しさん:2000/12/09(土) 04:49
そういえば、戸坂潤は批評家といってもいいのでは・・・
10 :
考える名無しさん:2000/12/09(土) 04:55
ガッツも天才批評家!!
11 :
考える名無しさん:2000/12/10(日) 18:43
まあ、天才と何とかは紙一重っていうしね。
いずれにしても哲学って特に講壇哲学である必要はないよね。それは、批評だけに限られるのではなくて、小説とか芸術とか(もっと言えば、ガッツにも八郎)にも哲学が入り込んでいるかもしれないってこと。そのファジーさも哲学なんじゃないかな。そんなところに哲学の懐の深さを感じます。
12 :
考える名無しさん:2000/12/10(日) 19:50
批評家が使うような理論を用意するのが哲学者。
哲学者が理論を提唱して、
その後みんなであーだこーだ言って
批判したり修正したりしながらコンセンサスをとって、
だいたいの人が納得するような理論として整備して、
そこまでいって初めて批評家はその理論を使って批評する。
批評家は理論を批判することはあるが
だいたいは問題提起だけでまともに反証ができなくて、
結局きちんと反証しその意見を理論に取り込むのは哲学者たち。
ただし日本語においては批評家と哲学者は
なんだかごちゃまぜにクロスオーバーしててわけがわからない。
信頼できる批評家であり哲学者である人もいるが、
批評家と名乗ってるのに哲学者みたいなことしてる人もその逆もいる。
「批評家なのに哲学する」人は、
哲学の基本を押さえてないのに理論の考証をしだしてトンデモになるし、
「哲学者なのに批評する」人は、
自分の理論で世界のあらゆる事象を説明できる!と信じて憚らずに
トンデモな解釈をぶち上げる。他にもっと妥当な説明があるのに。
別に何が悪い、とかいう話をしてるわけじゃない。
どっちが上だとか下だとかいう話でもない。
ただ、勘違いや偏見に基づいた議論は不毛だ。
それぞれにするべきことがあるだけだ、と言いたい。
13 :
考える名無しさん:2000/12/10(日) 20:14
ガッツを総理大臣にしよう
14 :
考える名無しさん:2000/12/10(日) 20:39
>>12 納得。
で、問題なのは批評をやりたがる社会学者なんだよな。別に社会批評をやるのならいいけど、彼らが文学の批評に手をつけると、社会批評なのか、文芸批評なのか、わけのわからんトンチンカンなものができあがっちゃうことが多いんだよな。
名前はあげないけど、そういう奴って多いじゃん。
15 :
考える名無しさん:2000/12/10(日) 22:58
宮台さん?
16 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 05:13
・e・<批評と批判と分析と、どう違うんだろう。
17 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 05:20
・e・<うまく説明できないんだけど、
批判っていうのは、初期衝動(笑)みたいなものがハッキリしてる。
「オマエそれはおかしいだろ!断固否定する」みたいな。
で、社会的学なものでも心理学的なものでも何でもいいんだけど、
「分析」というのは一種冷めたところがあって、客観的に展開していく。
でまぁその中間事象(とボクには一応そう見える)としての「批評」というのは、
どういう初期衝動があるのな。
まぁ要するに、批評家というのは、どういう動機で批評家になるのか知りたいわけ。
18 :
ナナシ:2000/12/11(月) 17:36
柄谷あたりに言わせると、どうせ哲学の概念なんてプラトンあたりで出揃ってる。その後の哲学者がやってきた事は、概念の組み合わせと、その概念が現実において持つ効果だ。したがってカントもマルクスもみんな批評家だ、ということになるらしいね。
19 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 19:04
認識論などで言えば、理論はどんどん精緻化しているように思えますが。
20 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 19:15
おれには
その理論の精緻化がたまらないが。
21 :
なべさん:2000/12/11(月) 21:37
哲学というのは基本的に分析するだけの作業で、批評は分析して
文句を言うことだと思います。フルタイムで職業哲学者をやれる人
はまずいないので、批評もするのでは?
22 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 23:08
批評は、その対象となる問題が批評家自身にも生きられてる。自分の体をとおしてしか語られてない。つまり批判や分析とちがい、対象と自分の間に距離をもうけないのだ。だからこそ小林秀雄や柄谷行人の批評がグッと心に迫るのだと思う。
23 :
吾輩は名無しである:2000/12/11(月) 23:15
あのねえ・・・・・・そういう印象批評は100年前の英国と現在の日本にしかないの。
24 :
名無しさん@1周年:2000/12/11(月) 23:17
小林秀雄のモーツァルト
批評を通して自分自身を語っていったのだと思うけど
モーツアルトの本質はずれている感じがするし、
付け刃の感がいがめない。
多方向への興味はわかるけどどれも同意できない。
モーツアルトなんて一生かかって研究してる人がいるんだし。
その時代的な意味があったのかね。
25 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 23:45
・e・<18さんの言ってることはラッセルあたりも言ってるもんだが、
プラトン以降は皆さん批評家であるということなのかなぁ?
ハーバーマスは哲学者の論文(トラクタート)のあとには
文筆家の箴言(アフォリズム)が取って代わると言っていた。
構築の後は脱構築、ということか。
でも特にドイツ的な雰囲気からすれば、現在日本の多用なマスメディアと
結びついた批評の奔流というのは、いささか理解しがたいのではないだろうか。
アニメと同じく、いかにも日本的な現象のような気がするが、
詳しい人、どう?
26 :
考える名無しさん:2000/12/12(火) 00:10
戸坂潤は、批評という哲学的実践が、新カント派的認識論を
揚棄する鍵になると考えていたようだ。
批評とは、分析と評価の統合であり、対象をたんに分析して見せるの
でも、たんに否定するのでも肯定するものでもない。三木清のように
人間学主義的的に一体化して小便を漏らすとか、小林秀雄のように、
なんでもネタにしてオナニーした上、それを人に自慢するような行為
でもない。批評という実践によって、より高い思想の地平が「現実的に」
切り開かれるのだ。・・・というような考えを彼は持っていたのだと
思う。
27 :
考える名無しさん:2000/12/12(火) 00:16
>26
最近キミは戸坂潤にゾッコンのようだね。
まあ、厭きるまでやって、つきつめてくれ。
熱が冷めない内にペーパーにまとめとくように。
どっかの紀要にでも載ったら、読んでやるよ、たぶん。
28 :
考える名無しさん:2000/12/12(火) 00:34
>27
キミはずいぶん機嫌が悪いようだね。
「最近」というが、キミは誰がどれを書いているのがわかるんだね。
そもそも僕はそういう職業じゃないから、論文など書かない。
ただのサラリーマンね。
29 :
27:2000/12/12(火) 00:40
>28
ああ、そいつは申し訳ない。
カルシウム不足なんだよ、最近不摂生で(藁
30 :
考える名無しさん:2000/12/12(火) 05:46
31 :
ナナシ:
18って変な文になってますね。「やってきた事」→「考えてきた事」にしないと意味が通じない。
>19@`20
認識論について。確かに精緻にはなってるけど、長いスパンで見れば認識の対象と主体のどちらに比重を置くかによって、「経験的」になったり「合理的」になったりしてるだけだと思う。ポストモダンと称されるものも含めて。
そもそも認識論の分析や精緻化は認知科学あたりの仕事でしょう。批評家は、その時点で優勢(抑圧的)になった概念やテキストの読み方を逆転させるのが仕事であり、それこそが哲学だ、ってのはありだと思いますね。
認識論を抽象化して存在論につなげるのが哲学だ、ってのもありそうですけど。