論理学スレッド2

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1ぱん"どら"
あらら、はじかれちゃった。
ヒーバーし過ぎかしら?れいせいにれいせいに・・・。
ロジシャンのおじ様、OFWさま、微熱さま、犬のおじ様、暇人さま
いらして〜♪

2OFW:2000/12/02(土) 11:18
過去ログがどこにあるのか、分からないよぉ。
最後のレスはカキコできているのかな・・・。
3ぱん"どら":2000/12/02(土) 18:35
ちょっとまとめるとこんな風だと思う。
@ロジシャンのおじ様というより、OFWさまをふくめ一般に論理学の考え方は
記号の割当とは実在の対象eに対していかなる概念が適応できるか否かとい
うことだ。
ゆえに「哺乳類に人間がいる」のような命題も∃x(Gx∧Fx)と記述される。
たとえば爬虫類をHとするとHx∧Fx=φのような記述になる。
ところで
Aパンドラが言わんとしていることは、まず、実在の対象eを考えたくない。
すなわち、存在とはここではFとGのような概念二つが必要であるということ。
∃xFxなる命題に真偽判定ができるのは議論領域が設定されているからだ。
ところで「哺乳類に人間がいる」の命題の議論領域は何か?
哺乳類に他ならない。ということは記号の割当とは基本的に実在に対する適応で
はなく、二つの概念のかかわりでしかないということだ。
こう考えると,二つの概念のかかわりとは全称と特称がある。
記号を割り当てるにはこの区分が厳密に設定されなければならないのではないか
ということだ。ゆえにこの命題は∃(Gx⊃Fx)と記載されねばならない。

ロジシャンさまは今日の命題論理からの発言だろう。
しかしながら、「有理数に√2はない」と「今目の前にパソコンがある」の陳述を
考えると両者存在に対するものである。これらを同レベルで扱うにはAの思考
方式が絶対必要だ。
以上の論述に対してロジシャンさまはじめ反論お願いしま〜す。
4OFW:2000/12/03(日) 11:36
>>3(ぱん"どら"さん)
>OFWさまをふくめ一般に論理学の考え方は記号の割当とは実在の対象e
>に対していかなる概念が適応できるか否かということだ。
 少なくとも私(OFW)の考え方は違います。
 概念と表象とは区別されます。概念は具体的なものとして、常に実在的
 契機とその否定(観念的契機)との統一であり、概念そののものの区分と
 しては個概念、種概念、類概念に分かれます。
 また実在と本質存在とは区別すべきであり、具体的な実在は個別者であり、
 それは質的・量的ですが、その本質存在において全体的なものとの関係を
 持っている。例えば、日本で生まれた殆どの個人は日本国籍を持つが、そ
 れは日本国家という政治的・現実的な本質存在が実体として存在するから
 です。概念・判断・推論の形式はそれらの領域区分を反映します。
 したがって、判断(通常は命題として言明される)形式は、判断の対象の
 存在領域に応じて、実在判断、反省の判断、必然性の判断、概念の判断と
 いう段階的な区分に分けられます。それは形式と内容との矛盾を通してよ
 り高次の(具体的な)段階に発展するのです。
 形式主義論理学はそれらを無思想的(無内容的)に混同するから、
「分からん」(無分別的だ)と言うのです。正しい分別が必要です。
5考える名無しさん:2000/12/03(日) 12:30
また、新たに立ったのですか...
オナニストの為のスレッドですね、これは。
まあ、‘自称専門家’さんたちで勝手にコイててください。


6ぱん"どら":2000/12/03(日) 14:33
>>5
は〜い、勝手にコイでま〜す。
余裕が出たらあなたのもやってあげよか〜。
であなた、♀♂どっちなの?♀だったら道具必要だし〜。
ところで、先日ここの管理者さん見かけたけど,いいおとこ〜♪
7ぱん"どら":2000/12/03(日) 14:54
>>4
>少なくとも私(OFW)の考え方は違います。
ごめんんさい、勝手に決め付けました。

>概念と表象とは区別されます。概念は具体的なものとして、常に実在的
>契機とその否定(観念的契機)との統一であり、概念そののものの区分と
> しては個概念、種概念、類概念に分かれます。

ももも、はじめから曼荼羅でも見るような感覚になります。

>また実在と本質存在とは区別すべきであり、・・・概念・判断・推論の形式はそれらの領域区分を反映します。

これは自分自身にも帰ってくることだとは思いますが、わたしたちって
こうしたこと考えるとあらたな概念設定をするでしょう。そしてそのなかで
事実世界と照らし合わせて其の適応を図ってますよね。
ただし、オッカムのかみそりを使って最低限まで殺ぎ落とす作業って必要なん
じゃないかっておもいます。
OFWさまの表象って事実世界の感覚っておもっていいですか?

>形式主義論理学はそれらを無思想的(無内容的)に混同するから、
>「分からん」(無分別的だ)と言うのです。正しい分別が必要です。

で、正しく判断する基準ってOFWさまだってわからないわけでしょう。
OFWさまってヘーゲルからはいったわけですよね。
なにかどうしても、弁証法に持っていこうとする衝動は在りますか?
8考える名無しさん:2000/12/03(日) 16:53
ぱん"どら" さんは女なの?
てっきり、男だと・…
9OFW:2000/12/03(日) 21:54
>>7(ぱん"どら"さん)
>ももも、はじめから曼荼羅でも見るような感覚になります。
 そうですか…。時々「弁証法の宣伝」(証明ではありません)を混ぜます
 が、当面のテーマと無関係ではないつもりなのですが。
>わたしたちってこうしたこと考えるとあらたな概念設定をするでしょう。
>そしてそのなかで事実世界と照らし合わせて其の適応を図ってますよね。
 それが人類の思考の歴史であり、その成果として様々な概念が作られてき
 た。事実世界が決して偶然的でめちゃくちゃなものではなく、摂理あるも
 のであるということを認識した成果が、最も抽象的・普遍的な論理という
 形の遺産として継承されてきた訳でしょう。
>ただし、オッカムのかみそりを使って最低限まで殺ぎ落とす作業って必要
>なんじゃないかっておもいます。
 そこで注意すべきは、それをいわゆる「思惟経済説」等と混同しないよう
 にすることでしょう。思考を計算機に任せることは極く限られた範囲での
 み妥当的です。確かに「概念」とは最も縮約された世界の梗概(見取り図)
 と言えるでしょうが。
>OFWさまの表象って事実世界の感覚っておもっていいですか?
 それは心理学的にも違います。別スレ(心身問題)にも書いたが、「表象」
 とは感覚(感知・識別)された対象を措定する(存在者として立てる)こ
 とです。感覚自体は運動(活動)であり、生命とは対象的活動ですから、
 つねに目標物を対象にもっています。それは抽象的な「光」から始まり、
 具体的な「獲物」まで幅広いが、「なんらかの対象を感知(検知、予知)
 する」点では一様でしょう。人間以外では「表象」は意識されず、行動と
 して直接外化してしまうから、彼らの表象世界は観察者にとってのみそれ
 と認識できる(弁証法では「即自的」(潜在的、可能的)と呼びます)。ま
 た論理的には、「表象」とは「私の内にある対象」と同義です。それは不
 在の対象の代わりに立てられた主観的な存在(記号的存在)です。
10OFW:2000/12/03(日) 21:56
>>7(ぱん"どら"さん)(つづき)
>正しく判断する基準ってOFWさまだってわからないわけでしょう。
 個別的な場面での判断は実践的なものであり、「状況認識」「決断」と一
 体的でしょう。しかし、一般的な規準は対象の存在形式がその内容と合っ
 ているかを吟味することです。また正当性(妥当性)と真理性とは区別す
 べき概念です。(妥当な判断でも誤った対象の場合があり得ます)。
>なにかどうしても、弁証法に持っていこうとする衝動は在りますか?
 衝動ではなく精神(スピリット)の方。ただし、無理やりではなく、
 「真実は何か」を「爬虫類的」執拗さで追求する上で弁証法ということに
 なった、という所でしょうか。
 西研氏?ではないが、『ヘーゲルは美味しい』です。
11OFW:2000/12/04(月) 00:52
本題に戻りますが、
>>3(ぱん"どら"さん)
>こう考えると,二つの概念のかかわりとは全称と特称がある。
 単称を追加すれば正しい「反省の判断」の区分です。大体において、何故
 伝統的論理学の判断区分が形式主義論理学では消去されたのか?
 それは学問から「本質論」を消去しようとする試みでしょう。
>記号を割り当てるにはこの区分が厳密に設定されなければならないのでは
>ないかということだ。
 ヘーゲルは「反省の判断」について、こう言っている。
(1) 単称判断:主語、単一なものとしての個は一つの普遍的なものである。
(2) 特称判断:上記のために、主語はその単一性を越えて、外延的になる。
       それは無規定の特殊性である。
(3) 全称判断:いくつかのものは普遍的である。したがって特殊は普遍
       へ拡大されるが、この普遍性は主語の個別性に規定されている
       ため、「すべて」(すなわち共通性)である。
>ゆえにこの命題は∃(Gx⊃Fx)と記載されねばならない。
 類概念と種概念の包摂関係ですね。しかし、それを繋ぐものは個別者(具
 体的普遍)として実在するものであり、記号xではない。
12伍長:2000/12/04(月) 04:34
>>9(OFWさん)
>時々「弁証法の宣伝」(証明ではありません)を混ぜますが・・・
その「宣伝」のおかげで、ヘーゲルもまんざらトンデモではないんだなと思ったワタクシではありますが、
そう思ったのは、ヘーゲル用語の洪水のせいではないです。
むしろ、あまりにも難解語の洪水だと、かえってトンデモに見えてしまって逆効果だと思いますけど。少なくとも私はひいてしまう。
平易に語ろうと思えば語れる人なんだから、とりあえず洪水は勘弁して・・・
13OFW:2000/12/07(木) 22:09
最近仕事が忙しくなってきた。20世紀もあとわずか…。
>>12(伍長さん)
>その「宣伝」のおかげで、ヘーゲルもまんざらトンデモではないんだなと
>思ったワタクシではありますが、
 それは良かった。少しは2chに来た甲斐があったかな。
>そう思ったのは、ヘーゲル用語の洪水のせいではないです。
 確かに、ヘーゲルの書いたもの(特に論理学)は難解この上ないというの
 は衆目の一致する所ですが、殆どの言葉(単語)自体はドイツの普通の日
 常語そして当時の科学から拾っている。
 ですから、何が難しいかというと、やはりものごとの捉え方が普通とは
 違い、日常的・自然的な認識態度をひっくり返すような所があるからでし
 ょう。その点では、悪いのはヘーゲルの方とばかりは言えず、自然的な態
 度に捕われている我々の方にもある、と言えるのです。(勿論、ヘーゲル
 一流の「絶対的観念論」というトンデモ神学が叙述を神秘的にしており、
 大いに邪魔をしているのも確かですが。)
 前のスレで、「弁証法とは事物を生成・変化・発展の相で見る見方」
 と書きましたが、実は弁証法の力である「反照的(反省的)
(Reflective)」認識という事を(敢えて)抜かしました。
 そこで、少し解説したいと思います。(レスを更えます)
14OFW:2000/12/07(木) 22:12
>>12(伍長さん)(つづき)
「存在と生成」という対立は古来からあり、「何が存在するのか」という
 問いはギリシャ哲学の最初の難問だったようです。(哲学者とは変なこと
 を疑問に思う人種です)
 しかし同時に、誰でも、すべて存在するものは発生、変化、消滅を免れな
 いということも知っている。両者はどう折り合いがつくのか?哲学者はそ
 の折り合いを「概念」として定着させた訳です。つまり「事物は変化する
 が、事物の認識は概念として表現されれば概念は変化しない」ということ
 です。そのことは、概念とは事物の運動を反映したもの、つまり事物の運
 動形式が表現されているということです。たとえば、「在るとは在らぬこ
 と」という矛盾した言い方はまさに「実在」の概念を展開した表現です。
 それは実在の本質を「他在」として表現している。実在とはむしろ「本質
 をもたない」「本質の外にある」ものだということです。こう言うと、
 「何をバカげたことを言う詭弁家め!」と言われるでしょう。「『在るも
 の』は在るに決まっている。」というのが、通常の理解ですから。しかし、
 「何が『或るもの』なのか?」と問い、「これが『在るもの』だ」と答え
 た場合、「これ」とは目の前にある何らかの実在者でしょうが、それは変
 化してしまうから、「これって何?」と問い直した途端に、それは別物でし
 ょう。正確には「在った」と過去形で言うべきだが、それは「もはや無い」
 と同義ですから、「在る」と確定的には言えなくなる。
 ここで言い表されている事態は、観念(表象)は変化する実在者を「変化
 しないもの」として立てる(措定と呼びます)のであり、実在を否定しな
 ければ、それを言い表すこともできない、ということです。
 「変化のうちに変化しないものを見る(表象する)」、このことは、動物
 を含めて、誰もが毎日行っていることでしょう。何故、そのことをヘーゲ
 ルのように真面目に考えないのでしょう?そのことは、「変化は自らの否定
 の内にそれ自体を現す(反映させる)」という単純な事実を言っているの
 だから、少しも分かりにくいとは思えないのですが…。
15伍長:2000/12/08(金) 02:11
解説をどうも。これなら何とか分かります。
ただ、目下のところ心理板の方で忙しいので、とりあえず、「概念」については以前こんなのがありました。
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=964014960
↑このスレの一番下の方で専門家の方(2人?)が最近の研究を解説してくれています。

また、よろしければこちら↓へもどうぞ。微熱さんや代理いぬさんや他の強豪の方々も。
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=974569037&ls=100
ワタクシ、久々に熱くなってます。(^^;
反論をお待ちしております。
16考える名無しさん:2000/12/08(金) 03:28
>>14
ヘーゲルには僕も興味があったので、
勝手に拝見させていただきました。
「概念」とか「表象」のことがよく分かりました。

ヘーゲルって難しいですよね。
『精神現象学』を持っていて、
読もうかとどうしようか、
二の足を踏んじゃってるんですけど。
17考える名無しさん:2000/12/08(金) 03:53
突然ですが、
直観主義論理では排中律は成立しないってのは本当なの?
排中律はトートロジーなのに。
18OFW:2000/12/09(土) 10:57
>>15(伍長さん)
>このスレの一番下の方で専門家の方(2人?)が最近の研究を解説してく
>れています。
 ども紹介ありがとう。なかなか興味深いですね。ただ私は、動物の概念的
 認識に関する例として、以前読んだG.ベイトソンのイルカ研究の話がお
 もしろかった。
 「演技Aでもなく、Bでもなく、Cでもなく…」、(そら、ジャンプ!)
 そう、「決まった演技をしないこと」をすれば、ごほうびが貰える!
 イルカが「否定」概念を理解した瞬間でしょうか?単なるパニックか?
>>16 名前:考える名無しさん投稿日:2000/12/08(金) 03:28
>『精神現象学』を持っていて、読もうかとどうしようか、二の足を踏んじ
>ゃってるんですけど。
 『精神現象学』はヘーゲルの出世作であり、「精神の経験の学」というサブ
 タイトルからしても、人類の精神的な成長(幼児期の精神が経験を積み、
 大人(世界精神)として自立する歴史)を跡付けようとした壮大な叙事詩
 あるいは教養小説(ビルディング・ロマン)とも言える傑作です。
 まずそのスケールの大きさを感じ取ることをお勧めします。また、マルク
 スも「精神現象学は弁証法の宝庫だ」と言っていますね。
 因みに私は樫山欽四郎(文恵さんの親父(無関係!)訳で親しみました。
>>17
>直観主義論理では排中律は成立しないってのは本当なの?
 「直観主義論理」は良く知りません。専門家が答えてくれれば良いが。
 ただ、現在の演繹的推論を中心にした論理学では、総合的命題における
 「先験的統覚」(カント)の役割が消えているようですね。
>排中律はトートロジーなのに。
 形式主義ではトートロジーと区別がつかないが、実際には選言判断と同様
 に、「総体性」「十全性」の展開(類の分割)でしょう。またヘーゲルは
「すべてのものは過渡的であり、『中間』にある」と言っています。
19logician's red:2000/12/10(日) 00:17
お久しぶりでございます。元スレはオーバーしたようですね。アクセス不能。

>3
3での主張はわけわかりません。前提を省略しすぎ。
一度、馬鹿でもわかる三段論法の見本のようなスタイルでかいてみてください。
ところで、今回もあなたの主張から帰結する矛盾を紹介しましょう。

「ある哺乳類は人間である」と「ある人間は哺乳類である」は
同じ事実に言及しているのがわかりますか?
直観的にはわかりにくいでしょうが、よく考えてみるとわかります。つまり、
この双方のそれぞれから「哺乳類であるようななにものかが存在している。そして、
そのなにものかは人間としても存在している」ということがわかります。
この文は“哺乳類”と“人間”の位置を交換しても意味は同じです。
さて、上の命題をぱんどら流に形式化すると
「∃x(Gx⊃Fx)」と「∃x(Fx⊃Gx)」になりますが、
この2つは同値ではありません。
普通に形式化すると、
「∃x(Gx∧Fx)」と「∃x(Fx∧Gx)」であり、この2つは同値です。
あなたの形式化は(想定された)事実を反映できていないし、たちまち矛盾を起こします。


20logician's red:2000/12/10(日) 01:26
>OWF氏
ものごとを仮定することはできるようになりましたか?
ちなみに、「仮定すること」の意味は知らなくても仮定することはできます。
あと、うまを“うま”と表すことと
“ならば”を“⊃”で表すことは本質的に同じ表徴機能が働いているのは
わかりますか?どちらも記号で表しているだけです。

直観主義論理について。
古典二値論理が排中律が成り立つようにつくってあるのに対して、
直観主義論理は排中律が成り立たないようにつくってある。
排中律がトートロジーになるのは、
排中律が定理になるようにつくってある古典二値論理の形式系に
古典二値意味論を適用するから。
直観主義では、形式系が排中律が定理にならないようにつくってあるし、
意味論も直観主義意味論を使用する。
この意味論では真理値が基本的に二つ以上ある。
真理値集合として{t、f}ではなくヒンティッカ集合を用いるためだ。

ヘーゲルの論理学についての印象批評。
やはり“論理的”ではない印象。つまり妥当な推論を行っていない。
でかい事を言い過ぎ。すべての場合に成り立たない事が多すぎ。反例が幾らでも思いつく。
一般的に「用語が難解」という印象があるが、難解なのではなく
定義がはっきりできていないだけ。曖昧な用語を用いると
どのようにも解釈できる。
ヘーゲル教の宣教師OWF氏は信者が増えてよろこんでるようだが、
私はオルグされないぞ。
OWF氏も自分で言っているようにヘーゲルの著作は詩であり、
学術論文ではない。(もちろん現代的な意味において)
21考える名無しさん:2000/12/10(日) 01:42
おれもヘーゲル信者!
22考える名無しさん:2000/12/10(日) 02:08
弁証法って、
上位メタレベルの理論をもってすれば
下位範疇の対立概念を同時に説明できる、という
当たり前といえば当たり前のことを言ってるんじゃないんですか?

ただ、下位範疇においてしか思考できない状態から
上位メタレベルの理論を発見するのはそう容易ではないことでしょうが。
あと、この考え(矛盾を統合的に説明可能な唯一の理論が必ずある)に基づくと
どうしても「美しい理論」を求めてしまいがちになり、
結果的に全体主義への憧憬が深まることにはあると思います。

本当はヘーゲルスレに書きたかったけど、
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=967096472
完全に沈黙してるスレを上げるのもなんなのでここに書きました。
23考える名無しさん:2000/12/10(日) 02:45
>22
弁証法はメタレベルをオフジェクトレベルに
繰り込むような思考運動に端を発するものなのでは?
メタがオブに繰り込まれれば、当然、パラドクス(矛盾)がおこる。
そこで、そのパラドクスを解消すべく、あらためて、メタレベル
を再設定することを「止揚」というのでは?
24伍長:2000/12/10(日) 03:11
私はあくまでスキナリアン(徹底的行動主義者)ですので、決してヘーゲル信者じゃないし、信者になる予定も全くない(あり得ない)けど、OFW氏のおかげで、ヘーゲルが必ずしもトンデモではないということは判り始めてきています。
ただ、このスレッドの議論では、(細部は全く理解不能であるが、にもかかわらず)OFW氏の分が悪いということは理解できます。

OFW氏の基本的立場を私なりに言い換えると、
「形式論理学といえども、そこで記述される言語はあくまで言語行動であるのだから、環境要因がその言語行動を制御しているはずだ」
ということに尽きるだろうと思います。そして、これは原則として正しい。

氏の過ちは、
「環境要因と言語行動との制御関係を論ずるにあたって、言語行動として生み出された形式論理学の言語・論理式もまた、聞き手(話し手自身を含む)にとっては非常に強力な環境要因として機能する」
ということを捉えそこなっている点にあると思われます。

論理式を展開する場合は、与えられた論理式(言語刺激)自体が、次の論理式(言語行動)を非常に強く制御しているわけです。そして、この制御関係(行動随伴性)を極めて強力なルールと化したのが形式論理学である、と私は考えます。
このとき、
(1)「強力」な制御関係を維持するためには、維持できる範囲はおのずと限られるだろう。
(2)「与えられた論理式(言語刺激)」以外の環境要因は、重要視する程の役割は演じていないだろう。
そして、この2点を良しとするのが形式論理学者。この限りにおいて、私も支持します。
OFW氏は、(1)のみを根拠に形式論理批判を展開しようとしているような気配があります。
いわば、「他人の土俵で相撲を取っている」という感が強いのです。
25logician's red:2000/12/11(月) 02:23
みなさん、様々なヘーゲル解釈をお持ちのようですね。
その様々に解釈されるというのが私にとっては胡散臭いのです。
虚偽論の言葉でいえば、多義性の誤謬というやつです。
(定義の無限退行をさけるためには出発点としての無定義述語があればよい。)

>伍長氏
>「形式論理学といえども、そこで記述される言語はあくまで言語行動であるのだから、
>環境要因がその言語行動を制御しているはずだ」
形式論理学が設定する形式言語を制御する環境要因とは具体的に何ですか?
手放しに正しいとは思えないもので。
またそれは形式論理学の定理の正しさに関係するものなのでしょうか?
(論理的関係と因果関係は基本的に別物だ。)

形式論理学が主張する定理は様々な前提の上に成り立っています。
その主張が及ぶ範囲は様々な前提による制限のために意外と狭いものだという
印象です。しかし、その前提を暗黙の了解のように認めてしまった世界では、
強力という印象をもたらすでしょう。
OWF氏は前提を認めてもいないのに「強すぎて傲慢」という印象をお持ちのようです。
前提を認めないならば、たくさんの条件つきの主張をしているだけになりますが、
これのどこが傲慢なんでしょうか?
26考える名無しさん:2000/12/12(火) 00:10
>>20
>直観主義では、形式系が排中律が定理にならないようにつくってある
直観主義では排中律を「公理」としていないだけではないのですか?
>この意味論では真理値が基本的に二つ以上ある。
>真理値集合として{t、f}ではなくヒンティッカ集合を用いるためだ。
直観主義でも真理値は2つではないですか?
直観主義とヒンティッカ集合がなぜ関係あるのですか?
27OFW:2000/12/12(火) 00:13
>>20(logician's redさん)
ども、お久しぶりです。
>>OWF氏
 前スレの最後のレスに書いたのですが、飛ばされて読んで貰えなかった
 ようで、私のHNはOFW(OldFashionedWell)なので、宜しく。
>ものごとを仮定することはできるようになりましたか?
 全然だめですね。「「『⊃』が『仮定する』を表わす」と仮定する」
 これは、弁証法以上に理解不能です。「仮定する」を多義的(自己言及的)
 に使っているのはlogician'sさんの方ではないの?
>「仮定すること」の意味は知らなくても仮定することはできます。
 いきなり意味論ですか。無論、用法による定義は可能ですが、それが日常
 語「仮定する」とはさしあたり無関係であることを明確にしておくことが
 肝要でしょう。そして、論理学とて日常語をまったく使わずに他人に伝達
 することはできない以上、記号「仮定する」が日常語「仮定する」と如何
 に関連しているかの翻訳は欠かせない。
>うまを“うま”と表すことと“ならば”を“⊃”で表すことは本質的に
>同じ表徴機能が働いているのはわかりますか?
 うまと“ならば”は全く存在論的なレベルが異なる。混同することは、思
 考を停止せよ、と言うに等しい。記号Aとは対象<A>への指示を象徴
「A」によって代理したものです。対象<A>の存在論的地位(カテゴリー)
 に応じてその象徴の仕方(用法)は異なるのです。
「”ならば”を“⊃”で表すと仮定する」は次のいずれかでしかない。
  1.”ならば”を“⊃”と略記する。ただし、“⊃”に真理表に持たせ
    た内容は一切含ませない。
  2.”ならば”とは形式論理的には真理表の“⊃”に対応付けることが
    妥当であると主張する。ただし、それには(日常的な意味での)
    証明が必要です。自分を証明するための仮定はNGです。
 でなければ、「記号が他の記号を『表す』」という、ポスト・モダニスム的
 無意味に陥る。それは、CM「新型カーは愛を表現しています」の世界。
28OFW:2000/12/12(火) 00:15
>>20(logician's redさん)(つづき)
>OWF氏も自分で言っているようにヘーゲルの著作は詩であり、学術論文
>ではない。(もちろん現代的な意味において)
 私は「比喩的に」叙事詩と言ったのですから、間違えないように。
>>22
>弁証法って、上位メタレベルの理論をもってすれば
>下位範疇の対立概念を同時に説明できる、という
>当たり前といえば当たり前のことを言ってるんじゃないんですか?
 多くの人はそう考えますね。(一人だけ例にあげれば、広松渉氏もそう。)
 「メタ論理としての弁証法」という訳です。しかし、総合とはヘーゲルも
 言うように思弁的(推論的)契機であり、対立するものの運動こそが本来
 の(狭義の)弁証法的契機なのです。
>本当はヘーゲルスレに書きたかったけど
 ヘーゲルスレでは私はウザがられたようです。(6は私です)
>>24(伍長さん)
>OFW氏の分が悪いということは理解できます。
 そうかなぁ…。まあ、論争するつもりはないのでして、形式主義論理学の
 限界点を、相手の迷惑省みずに探っている、ということでご容赦下さい。
>氏の過ちは、
>(1)のみを根拠に形式論理批判を展開しようとしているような気配
 なるほど。観察は良く分かりますが、ちょっと違います。
 形式的な論理を“純化”する上で内容は無視して良い、と言うことを批判
 しているのです。すなわち、「形式は内容から切り離されると、それ自体
 無形式な質料になる」という「対立物の無媒介的な相互転化」です。
>>25(logician's redさん)
>定義の無限退行をさけるためには出発点としての無定義述語があればよい。
 どういう事でしょう?
29伍長:2000/12/12(火) 01:31
>>25(logician's redさん)
>形式論理学が設定する形式言語を制御する環境要因とは具体的に何ですか?
(正確には、「形式言語を生み出す言語行動を制御する環境要因」ですが)

まず、形式言語を用いるかどうかにかかわらず、「推論する」という行動の成立過程には、多くの学習が含まれているはずです。
ちょうどよい例が、>>15で紹介した一つ目のスレッド
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=964014960
の74(動物屋氏)で解説されています。
このValue Transfer仮説とやらが正しいかどうかはともかく、そして、このハトの行動が人間と同じような推論行動であるかどうかはともかく(人間には言語がある)、人間が推論行動を行うには、こまごまとした学習が必要だと考えるのは妥当でしょう。
そして、学習には必ず環境要因が関わっています(そうでなければ学習とは呼ばない)。

そもそも、「すべての人間は哺乳類である」という当初の命題が設定されるためには、「人間」「哺乳類」についての“概念学習”が前提となるし、「すべての」「は」「である」の用法の学習も必要。
早い話が、言語の学習に関わる環境要因が必要。―[A]

また、これらを論理記号に置き換えるルールの学習も必要だし、論理式を展開するルールの学習も必要。
つまり、これらの学習に関わる変数も、論理学者の推論行動を制御する環境要因の一部を構成する。―[B]
(続く)
30伍長:2000/12/12(火) 01:33
(続き)
さらに、
(1):[B]の諸ルール。
(2):先行する形式言語、
(3):先行する形式言語を制御している変数、
(4):後続する(目下顕現しつつある)形式言語自体、
(5):(4)を制御している変数のうち、(2)(3)以外の変数。
等があると思います。―[C]

形式論理学では、[C]の(3)(5)及び[A][B]の環境要因はとりあえず無視することになっている(多分)。なぜなら、[C]の(1)(2)(4)のみで「上手くいく」ことを保証する行動随伴性のシステムが、ある程度出来上がっている(多分)から。
そして、あえて[C]の(3)(5)や、[A][B]の環境要因に言及する者は、しばしば罰を受ける。
しかし逆に、その者は、形式論理学を洗練・発展させる可能性もある(頑張れOFW! ぱんどら氏の立場はよくわからんけど、とりあえず頑張れ!)。

>>25
>またそれは形式論理学の定理の正しさに関係するものなのでしょうか?
当然、今後も関係してくる可能性はあると思いますし、そもそも形式論理学(に限らず)が洗練・発展できたのはそのためでしょう。
さもなければ、形式論理学はとっくの昔に完全無欠になっていて新しい研究を必要としなかったか、(より正確には)そもそも成立しなかったはず。

(前スレッドで微熱氏に教えていただいた「自然主義的な論理観」、つまり、たしか「形式論理学の規範を形式論理以外のものに求める」?とはどういう事かと考えたら、現時点ではこんな感じになりました。見当違い?)
31伍長:2000/12/12(火) 01:49
>>28(OFWさん)
というわけですので、

>形式的な論理を“純化”する上で内容は無視して良い、と言うことを批判
>しているのです。
「無視して良い」というのは、事を上手く運ぶための“方便”みたいなものです(「2+3=5」という演算は役に立つ。つまり上手くいっている)。
すべてにおいて「無視して良い」わけではありますまい。
32伍長:2000/12/12(火) 02:30
(度々失礼!)
>>27
> うまと“ならば”は全く存在論的なレベルが異なる。混同することは、思
> 考を停止せよ、と言うに等しい。記号Aとは対象<A>への指示を象徴
>「A」によって代理したものです。対象<A>の存在論的地位(カテゴリー)
> に応じてその象徴の仕方(用法)は異なるのです。

いや、必ずしも異ならないですぞ。
うまも“ならば”も、共に、“うま”、“⊃”という語を生じさせる言語行動(「タクト」と呼ばれる)を制御する変数である。
その意味では(あくまでもその意味では)、うまも“ならば”も、
「対象<A>の‘機能的’地位(カテゴリー)」
は同じです。
33考える名無しさん:2000/12/12(火) 05:48
       
34OFW:2000/12/14(木) 00:18
>>32(伍長さん)
>うまも“ならば”も、共に、“うま”、“⊃”という語を生じさせる言語
>行動(「タクト」と呼ばれる)を制御する変数である。
 後者は「イントラバーバル」ではないのでしょうか?(覚えたてですが)
 私が「『おでん屋のおでんはうまい』ならば『女子大生が集まる』とは?」
 と問うのに対して、ぱんどらさんが「それは『P⊃Q』と翻訳されるのよ」
 と答える。まさに、二つの言語間(内(intra)ではないが)の照応では?
 あるいはオートクリティック反応?
35伍長:2000/12/14(木) 02:27
>>34(OFWさん) こりゃ驚きました。まさか概論書等で勉強されてる?
「『おでん屋のおでんはうまい』ならば『女子大生が集まる』」に対して、「P⊃Q」と答える場合(あくまでその場合)は、この「P⊃Q」発言はたしかにイントラバーバルだろうと思います。
「ならば」に対して「⊃」と答えるのも(多分)同様。
ただし、
「『おでん屋のおでんはうまい』ならば『女子大生が集まる』」という発言の中の「ならば」発言は、オートクリティック。
そして、「ならば」を「⊃」で表すのは、本来はタクトだったはずだと思う(タクト反応であったはずの「
⊃」が、ある状況(論理学者が命題を記号化するとき)ではイントラバーバルとなる。分類の基準はあくまでも行動随伴性にある)。
しかも、分かりにくいことに、オートクリティックの多くは、本来はタクトの一種。(泣)

細かいことはともかく(私もよく分からないので)、
“馬”を「うま」と表し、“「ならば」”を「⊃」で表すのは、本来はタクト(だと思う)。
《実物のテイエムオペラオー》も、《写真の無名馬》も、《漢字「馬」》も、《英単語「horse」》も、すべて「うま」とタクトされる(「うま」の概念形成。「4者間には『刺激等価性が成立している」と言うらしい)。
このとき、《実物のテイエムオペラオー」と《漢字「馬」》の物理的性質(存在論的地位?)は異なるが、機能的性質は同じ。
同様に、《文字「ならば」》も、《音声「であるなら」》も、すべて「⊃」とタクトされる(「⊃」の概念形成)。

刺激の機能的分類のレベルを1つ上げれば、
《実物の“馬”》と《文字“「ならば」”》の機能的地位は同類。それぞれ、「うま」「⊃」とタクトされるから。
ですから、刺激の物理的性質(存在論的地位?)にこだわる必要は(当面は)ないということです。
36微熱症患者:2000/12/14(木) 07:55
しばらくご無沙汰していました。
いろいろな論点が出ていますが、気になった一点について書きます。

>>28
>形式的な論理を“純化”する上で内容は無視して良い、と言うことを批判
>しているのです。すなわち、「形式は内容から切り離されると、それ自体
>無形式な質料になる」という「対立物の無媒介的な相互転化」です。
確かに、形式論理学は一見すると、推論の形式のみに注目して推論の妥当性を
云々しているように見えます。しかし、実は内容を切り離しているわけではな
い、というのが私の考えです。

たとえば、以下の推論について考えてみましょう。
(推論1)
ウィトゲンシュタインとハイデガーは哲学者である。
すべての哲学者は哲学的思索の経験がある。
ゆえに、ウィトゲンシュタインとハイデガーは哲学的思索の経験がある。

(推論2)
ウィトゲンシュタインとハイデガーは同年生まれである。
ハイデガーと和辻哲郎は同年生まれである。
あるものxとあるものyが同年生まれで、かつ、あるものyとあるものzが同
年生まれならば、あるものxとあるものzも同年生まれである。
ゆえに、ウィトゲンシュタインと和辻哲郎は同年生まれである。

どちらも第一の前提は「ウィトゲンシュタインとハイデガーは……である」と
いう形式の文ですが、その構造は全然違います。
前者は「ウィトゲンシュタインは哲学者であり、かつ、ハイデガーは哲学者で
ある」と分析できますが、後者は「ウィトゲンシュタインは同年生まれであり、
かつ、ハイデガーは同年生まれである」とは分析できません。
この違いは、もちろん「……」に入ることばの意味の違いに由来しますが、そ
のことを見て取るには内容に踏み込まざるを得ません。
ひとたび記号化を施されれば、あとは形式的に妥当性を確かめることができま
せんが、実はその前段階で文の意味内容を吟味するという作業をやっていると
いうわけです。
よい分析、よい記号化のためには内容の吟味が不可欠であるというは、言って
みれば当然のことであり、論理学のテクニカルな議論の場ではあえて問題にす
ることはありませんが、だからと言って形式を内容から切り離しているという
わけではないのです。
37logician's red:2000/12/15(金) 03:51
>OFW氏
いやぁ、御名前を打ち間違えて失礼しました。すみませんです。
>「仮定する」を多義的(自己言及的)
> に使っているのはlogician'sさんの方ではないの?
少なくとも自己言及ではないですね。
「仮定することを仮定せよ」と言ってるわけではないので。
多義的かどうかはやはり読む人次第です。
「以下では用語を一義的に用いる」という文章でさえ多義的に解釈する人がいますから。
どこが多義的なのか具体的に指摘してください。

OFW氏は仮定することができないと表明してますが、それはうそでしょう。
仮定することができなければ日常生活にも不自由するはずです。
「ああすれば、こうなる」式の思考ができないわけですから。
要は、なんでも仮定することに不慣れなのでしょう。
それとも、なんでも仮定することはできないとお思いでしょうか?
それと「記号は他の記号を表せる」という事実に気付いていないようです。
このことはポストモダンとは関係ありません。
OFW氏がOFWというハンドルネームを使うことも
「記号で他の記号を表している」ことになります。本名をハンドルネームで。
(「いいや、本名ではなく本人を、だ」と言ってもダメです。
本名とハンドルネームは同じ本人を指しているので、
本名=本人=ハンドルネームというコードが成立しています。=は結合関係)
38logician's red:2000/12/15(金) 05:00
形式主義の提唱者、ヒルベルトは、
意味を持たない記号を使用することを次のように説明したそうです。

我々は0や=などについての内容的理解やイメージを持っている。
しかし、その内容やイメージをカッコに入れて使用しないのである。
この現象学的還元によって我々はもともとの(内容をもった)
0や=のといった記号間に成立する関係を顕在化するのである。

これは「これから使用する記号は無内容であると仮定する」
と述べていると解釈していいと思います。
「無内容であるような記号が存在する」と主張すれば、
これはおそらくうそになるでしょうから。

仮定することに異議をとなえることがいかに的外れか例を紹介しましょう。

「もし戦争が発生したら戦闘に参加するか?」という質問に、
「戦争は発生しない」と答えてもこの質問に答えたことにはなっていない。
形式論理でいえば
A→Bを反駁するのに¬Aや¬A→¬Bを証明しても無駄ということだ。

ものごとを仮定することの万能性は
仮定できないと仮定することもできるという事実が象徴的だ。
もちろんこのように仮定すると矛盾するが、
その結果否定されるのは仮定することではなく、仮定できないことなのだ。
39logician's red:2000/12/15(金) 06:23
直観主義論理について。
私の「排中律が成り立たないようにつくってある」という発言に対して
「排中律が公理としてないだけでは?」という発言があった。
LKは排中律を公理あるいは推論規則としない体系であるし、
LJはシークエントの右辺を単一の論理式に制限する事だけで
直観主義論理を構成している。どちらも排中律には直接触れないで
つくってある。このような体系も存在するので包括的に述べた。

また「直観主義でも二値なのでは?」という発言もあった。
これには、「直観主義論理の体系に関して言及するメタ数学的言明は
確かに二値論理を基本とするが、直観主義論理の体系内における
論理式に対してはヒンティッカ集合の元を割り当てる」
と答えておく。
直観主義論理の形式系に古典ニ値意味論を適用すると
排中律はトートロジーであるが証明可能ではないということが成立する。
つまり完全な体系ではなくなるのだ。
直観主義意味論を適用すれば、完全性が成り立つ。
だいたい、真偽不定のものが存在する事を表現するには
真と偽以外になにかが必要だろう。

「直観主義とヒンティッカ集合がなぜ関係するのか」という発言に対しては
私は直観主義意味論の真理値集合としてヒンティッカ集合を用いるもの
しか知らない。すくなくともそのような意味論の構成が存在すると答えておく。
逆に、ヒンティッカ集合を用いない意味論があれば紹介して欲しい。
40二六:2000/12/16(土) 00:43
>>39
>LKは排中律を公理あるいは推論規則としない体系であるし、

LKが? それは初耳。古典論理においてそれが公理ではないというのなら、
それが成り立つ根拠は何ですか?
それが定理だというのなら、証明してほしい。(ただし、「二重否定の除去」
から導こうとしても、それ自体が排中律を前提とすることをお忘れなく。)

>私は直観主義意味論の真理値集合としてヒンティッカ集合を用いるもの
>しか知らない。すくなくともそのような意味論の構成が存在すると答えておく。
>逆に、ヒンティッカ集合を用いない意味論があれば紹介して欲しい。

ヒンティッカ集合をHとすると、¬¬A∈H → A∈H  となるはず。この式、
すなわち「二重否定の除去」は直観主義論理ではトートロジーではありません。
41OFW:2000/12/16(土) 18:50
いよいよ世紀末。20世紀の負の遺産は持ち越しかな…。
>>36(微熱症患者さん)
>よい分析、よい記号化のためには内容の吟味が不可欠であるというは、
>言ってみれば当然のことであり
 微熱さんの穏健な立場は理解できます。過激な形式主義が横行している
 ようなので敢えてこだわっているのです。
>>37(logician's redさん)
>どこが多義的なのか具体的に指摘してください。
 前スレのレス377において
>「⊃」で「ならば」、「よって」、「仮定すると」などを表すと
>“仮定する”
 とあり、最初の「仮定する」は真理表に基づいて変換された<仮定する>
 であり、2番目の“仮定する”は日常語としての<仮定する>だから、
 本来別の言葉でしょう。それを同じ記号<仮定する>で表現することは
 多義的です。また、本来「⊃」は日常語としては無内容であった筈なの
 に、仮定するという意味を持たせるから、「自己の正しさ」を「仮定」し
 て、「よって」その命題は正しいと主張することになり、自己言及的です。
>OFW氏は仮定することができないと表明してます
 私は 上記の場合に“仮定する”ことができないと言っているのであり、
 仮定一般ができないと言っているのではありません。
>本名=本人=ハンドルネームというコードが成立しています。=は結合
>関係)
 本人はコードではなく指示対象であり、この場合思考主体としてコード
 を操る者です。「記号は記号でないものを表わす」ことしかできないの
 です。それを混同することが記号主義というイデオロギーです。また、
 「結合」という曖昧な表現は避けるべきです。たとえば、「天皇は日本国
 の象徴」とは論理的に誤りでしょう。天皇は人格を持ち、単なる記号では
 ない。(確かに、「天皇と日本国民を<結合>しようとする」政治的意図
 は感じられるが)
42OFW:2000/12/16(土) 18:55
>>38(logician's redさん)
>我々は0や=などについての内容的理解やイメージを持っている。
>しかし、その内容やイメージをカッコに入れて使用しないのである。
>この現象学的還元によって我々はもともとの(内容をもった)
>0や=のといった記号間に成立する関係を顕在化するのである。
 少なくとも、「現象学的還元」のオリジナルな用法からは一歩踏み込んで
 おり、フッサールの「ヨーロッパ諸学の危機」を逆手にとって居直って
 いるように見えるのは、私の思い過ごしかな?
 無論、0や=は単独では無意味であり、数学体系の中で他の記号との関係
 によって、その用法が定められ、有意味なものとなるのは当然でしょう。
>これは「これから使用する記号は無内容であると仮定する」
>と述べていると解釈していいと思います。
 そのことに異論はないが、少なくとも「それは記号である」という内容
 (形式内容)を持っていることを忘れないことが肝要です。記号概念に
 関する誤った理解は記号主義をもたらす。
>ものごとを仮定することの万能性は仮定できないと仮定することもできる
>という事実が象徴的だ。もちろんこのように仮定すると矛盾するが、その
>結果否定されるのは仮定することではなく、仮定できないことなのだ。
 「仮定一般」と限定された「特定の仮定」とを混同していますね。
 特定の仮定は仮定一般の否定です。前にも書きましたが、仮定一般という
 ことなら、「矛盾」すら仮定できるのです。たとえば「爬虫類に属する人
 間」を仮定することができないのは、特定の仮定(生物学的仮定)として
 できないのであり、爬虫類人間を仮定すると生物学全体が覆ってしまうか
 らです。しかし「爬虫類にされた人間」を空想することは十分可能です。
 まさに、形式主義は上記の矛盾すら仮定できるとして許容範囲に入れてい
 るから、空想的なものになるのでは?
43考える名無しさん:2000/12/22(金) 01:25
コテハンが急におとなしくなったな なんか悪いものにでも当たったのか?ワラ
44ポパイ:2000/12/22(金) 03:21
>たとえば「爬虫類に属する人
 間」を仮定することができないのは、特定の仮定(生物学的仮定)として
 できないのであり、爬虫類人間を仮定すると生物学全体が覆ってしまうか
 らです。しかし「爬虫類にされた人間」を空想することは十分可能です。

こういう可能世界を持ち出してくると、クリプキの哲学みたいに、かなりいかがわしくなってくるのでは?
45ポパイ:2000/12/22(金) 03:45
44の発言。哲学的にという意味で、論理学的にという意味ではありません。
46考える名無しさん:2000/12/29(金) 00:43
早く答えてくれよ。
47考える名無しさん:2000/12/29(金) 01:54
とにかくage
48OFW:2000/12/31(日) 20:41
>>44(ポパイさん)
>こういう可能世界を持ち出してくると、クリプキの哲学みたいに、かなり
>いかがわしくなってくるのでは?
 私は「空想世界」と言ったので、いわゆる「可能的意味世界」などという
 いかがわしいものとは無縁です。
 (余談ですが、アインシュタインの相対性理論で「双子のパラドックス」
 というのがあり、そこでは、光速度に近い速度で宇宙旅行した兄と地球
 に残った弟の場合、「兄の世界」と「弟の世界」は共に相手の時間の方が
 ゆっくり進むことになる。これは物理学的な空想あるいは可能的真理か?)

誰も前の質問に答えてくれないので、経済板で遊んでいましたが、そこでも
「ある人が1万円札を1万円の価値のある貨幣であるのを信じているのは、
他の人が1万円札を1万円の価値があるものとして喜んで受け取ってくれる
からであり、さらに誰か別の人がそれを受け取ってくれるからであり、この
プロセスは永久に続いて、要するに、すべての人が貨幣を貨幣だとしている
から貨幣は貨幣だという自己循環論法に陥る。岩井によれば、この循環論法
こそが貨幣を支えている。」
という形式主義論理が出てきた。「貨幣は絶対的真理である」とは貨幣物神
の披瀝であり、それを論理的な真(神秘)とする経済学教授は論理物神者かな。
やはり、ポストモダニズム的無意味の根は深い…。
49http://mentai.2ch.n:2000/12/31(日) 20:52
 ∩_∩   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナ
(    )|
| | |  \______
(__)_)
5040:2001/01/11(木) 10:30
早く答えてくれよ。
51考える名無しさん
くれくれ君age