1 :
考える名無しさん:
東も浅田もインチキ野郎。もっと竹田青嗣について語ろう。
2 :
考える名無しさん:2000/11/16(木) 10:49
「陽水の快楽」くらいじゃないの? 面白いのは。
3 :
考える名無しさん:2000/11/17(金) 05:02
まあ、一番理論的にはしっかりしてますね
4 :
考える名無しさん:2000/11/17(金) 05:05
哲学で、こいつの名前出したら、まともに相手にされないよ。
竹田はただの素人だから。
5 :
考える名無しさん:2000/11/17(金) 05:32
age
哲学にシロートもクロートもあるか。
アラン・フィンケルクロート
8 :
考える名無しさん:2000/11/17(金) 19:21
国家哲学検定試験1級なんてきいたことないしな。じゃあ
今哲学のプロは誰なんだ?木田元とか?
>8
おっ、なんか問題意識カブったね。
しかし君の「哲学者」観というのはやはり稚拙だよ。
10 :
9:2000/11/17(金) 19:43
それでもやっぱり竹田青嗣はインチキだよ。
11 :
考える名無しさん:2000/11/17(金) 20:48
>10
同感!
あいつと加藤典洋は詐欺師だね。
12 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 04:11
age
13 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 04:36
ドイツ語が出来なくてフッサールを語り(笑)
ギリシア語が出来なくてプラトンを語る(笑)
こういうのを素人というのよ。
哲学に、プロも素人もない、という人。君は
完全な素人だよ。
14 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 04:47
>6
お前、竹田か(藁
シロウトだな
>ドイツ語が出来なくてフッサールを語り(笑)
>ギリシア語が出来なくてプラトンを語る(笑)
これって何かまずいの?
別にいいじゃん。語学できなくったって。
彼の意見と語学の成績に強い相関てあるの?
16 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 07:41
永井均の著書の中で、
「竹田氏の批判に対して反論したが、応答が無い」
と書かれてる。議論の分が悪いから無視する、というのは
どうなんだろう。
17 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 07:48
age
18 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 08:37
宮崎哲弥にも煽られてたね。
永井の手紙に答えろって。
19 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 10:51
だが、
手紙に答えない奴を批判する資格は
たぶん倫理的なものがおれにあってお前にはない
といった確固としたものかもしれなくて
そうなると、匿名性掲示板利用者は
分が悪いかんじもする
おまえらはそういう要求にこたえられる自身も実績もないくせに
ものをいいたいから
こういうところでじめじめやってるにすぎないのよ、というわけだ
20 :
>19:2000/11/18(土) 11:34
で?
>13
では、あなたはドイツ語もギリシャ語もできるわけ?
日本人でできる人、哲学者でもかなり少ないよ。
マ,だから似非だとか言われるんだけど。
22 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 12:12
カントはプロの哲学者じゃなかったの?
23 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 14:10
age
24 :
よこいりゃー:2000/11/18(土) 14:22
>16
おれはあれ、永井の方が印象悪かったよ。
自分の土俵に乗ってこなきゃ喧嘩しないって態度、みたいな。
開いてるように見えて、閉じている気がした。
25 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 15:12
どの本にそのことのってるの?
26 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 16:14
「子供のための哲学対話」高段者現代新書
27 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 16:15
>15
その通り、悪くはない。大体欧米の大家って案外語学できなかったりする
ただ、竹田先生の場合はそれ以前なんですよ…
プラトンについて言えば翻訳の目次を見れば分るような稚拙な間違いを犯している
読みたくない本について「哲学的に重要じゃない」と言って逃げる
あんなに読んでいて苦痛な本はなかったよ
>21
最近はどうか分らないけど、現在大学で教授・助教授張っている先生に関して言えば
まず古代関係者に関してはドイツ語が満足にできないヒトの方が少ないと思う
観念論や現象学の専門家でギリシャ語ができない人はいるけど
そういう人は余計なことをしようとは思わないし
例えばプラトンについて何か出すにしても専門家に意見をきくとかは最低すると思う
ま、語学ができるからといって、哲学的に意味のあることをできるかといえば必ずしもそうじゃないですが
それと、ここで意見している人が語学ができるかどうかってことと
竹田がどうかってことは関係ないと思う
28 :
25:2000/11/18(土) 17:09
>26 sanks
29 :
考える名無しさん:2000/11/19(日) 07:52
age
30 :
考える名無しさん:2000/11/19(日) 08:58
「子供のための哲学対話」よんだ。
読みにくくて、わかりにくい文章かきますね。永井って。
嫌いですね。ああいう人は。
31 :
考える名無しさん:2000/11/19(日) 19:29
age
32 :
考える名無しさん:2000/11/19(日) 21:05
>30
自分には割と読みやすいっす。
33 :
30:2000/11/19(日) 21:49
あのかたり口調がいやすぎる。
34 :
考える名無しさん:2000/11/19(日) 21:53
おれも永井は読みやすかったし、わかり易かった。
でもなんか違う気がする。永井は会ったら嫌いになるだろうけど、
どうせ一生会わないので、どうでもいい。
35 :
考える名無しさん:2000/11/19(日) 22:10
>永井は会ったら嫌いになるだろうけど、
まったくどーかん。
でもここなんだか永井スレッドになってねーか?
==================== 永井ネタ終了 ====================
どんなジャンルにもプロバー破壊者というのがいる。
オレの見る限り竹田もそう。竹田は自身で専門家じゃないといっている。
ところで竹田現象学について具体的な批判があるならいつでもどうぞ。
永井の受け売りでもいいぞ。オレは永井と竹田の対談原稿も持っているし。
ど素人がど素人にど素人とバカにするのは見ていて滑稽だ。
ま、期間限定で相手になってやるから、「ドイツ語が出来ない」とか「素人向け」
だとか「インチキ」とかいうんじゃなく、竹田現象学に対する具体的批判を寄こせ。
38 :
考える名無しさん:2000/11/20(月) 04:21
死刑囚は、竹田の身内か?
39 :
考える名無しさん:2000/11/20(月) 05:27
永井は竹田の現象学を批判したわけじゃないぜ。
しかし、
>オレは永井と竹田の対談原稿も持っているし
これはぜひ読みたい。
違法になるができればアップしてくれ。
全文がだめなら要点でもいいから
たのむ。
いえ、おねがいしますだ〜。
40 :
考える名無しさん:2000/11/20(月) 05:38
そうそう、竹田と永井って対談してるらしいね。
うむ、俺もそれには興味がある。
ちなみに、永井派として一言。
永井が竹田に喧嘩を売った本の題名は、
「<子ども>のための哲学」(講談社現代新書)ね。
「子どものための哲学対話」(講談社)は、また別の永井の本。
後者は、永井思想が前面に押し出されていて、
気の合う人は愉快な気分に、
気の合わない人は相当不愉快な気分になること請け合い。
つーか、永井ってそもそもそういう感じか。
41 :
考える名無しさん:2000/11/20(月) 05:42
竹田も永井も好き。
よって対談ネタのアップを期待してageます。
42 :
考える名無しさん:2000/11/20(月) 05:45
つーか一般に手にはいらないの?
43 :
考える名無しさん:2000/11/20(月) 12:41
>41 同感
44 :
生茶:2000/11/20(月) 13:29
竹田といい、タレント政治家の出現といい、
各種マニュアル本の出現といい、
専門家が大衆にこき下ろされる時代なのかな・・・。
日本はどうなるんだろ
45 :
考える名無しさん:2000/11/20(月) 13:33
っーか、竹田は哲学の専門家といってよいのでは?重要なのは肩書きじゃないだろうし。
46 :
考える名無しさん:2000/11/20(月) 15:22
中身もやばくないか?ってのが今までの流れなの。
47 :
考える名無しさん:2000/11/21(火) 00:57
そう?それでどこがやばいのかな?
48 :
死刑囚。:2000/11/21(火) 02:07
>生茶
>竹田といい、タレント政治家の出現といい、
>各種マニュアル本の出現といい、
>専門家が大衆にこき下ろされる時代なのかな・・・。
>日本はどうなるんだろ
専門家と称するプロバー共同体の論理が如何に高尚なものであっても、
それが大衆とのつながりが持てなければ、それは「無」だよ。
その重要性を指摘することと、大衆の単なる反動思想をごっちゃにするなよ。
いいか、こわっぱ。お前の駄文になぜ吐き気を催すか言ってやろう。
お前は竹田を批判したいという欲望を持ってはいても、それを論理的に展開
できないため、「憎まれ口」を叩いているだけだからだ。しかもその「憎まれ口」でさえ、
誰に対しているのかも、誰に向かって言っているのかも明確ではない。
「憎まれ口」さえマトモに叩けないヘタレのくせに、竹田を批判したいという欲望を充た
そうとしているのが、一見ソフィスティケートされたお前の駄文だよ。(「日本はどうなる
んだろう」ときたもんだ)。「いきなり断定くん」よりタチが悪い。反論しようにも、
お前に論争する意志が無いんだから。
竹田が「気にいらない」のなら、そう言えばいい。そう言った上で、何故「気にいらない」
のかを突き詰めて感情の地平を明らかにすればいい。そうして自分の「気に入らなさ」を
超越論的に捉えた上で発言すればいい。それが哲学だよ。
でなければ(何度も繰り返すが)、竹田現象学に対する具体的批判を寄こせ。
あと、哲学的素養のなさのみが明らかになる文章を哲学板に(しかもコテハンで)書く
ゴーマンさは認めてやってもいいが、もうウンザリなんだよ、そういうのは。
49 :
死刑囚。:2000/11/21(火) 02:07
竹田の永井の対談は93年6月21日の「週刊読書人」に掲載されたらしい
から、図書館に逝って探してくれたまえ。内容は大したこと無い。
テーマは「ニーチェ──徹底した懐疑の果てに」というもの。
議論の内容もタイトルそのまんま。ニーチェの「形而上学批判」
「キリスト教批判」やヴィトケンシュタインの「言語ゲーム」による価値の解体
の果てにあるものということで対論は進む。
二人の対立点は明確。
徹底した懐疑は必要だがそれだけでは意味がない。そこからどうするかが
問題だという竹田。いやいや、私は懐疑論者ではないが、懐疑そのものに
踏みとどまることが必要という永井。
「ざっくばらんに言いますと、徹底的にあらゆるものを懐疑する、それで
いったいどうするんだと永井さんに聞いてみたくなる」(竹田)
「永井さんの見方ではその後のニーチェはおかしい。上手くいって
いないということですが、もう少し具体的にニーチェに反論する必要が
あるんじゃないでしょうか」(竹田)
「考えるべきだと思うんですが(懐疑の果てのこと──引用者)、それがまた
新たな「嘘」を造り出すことを認識しなければならない」(永井)
「(略)ヴィトケンシュタイン的な観点からいうと、もやはそれも出来ないような
地点が必ずある。いわば堅い岩盤に行き着いてそこでおしまいで、その根拠
とかその理由とかを問うことが出来なくなってしまうわけです」(永井)
以下、一部分だけ書き写しておく。
50 :
死刑囚。:2000/11/21(火) 02:08
竹田 (略)永井さんがヴィトケンシュタインに依拠すると言われる時に、その
先をどう考えるのか聞きたいところです。
永井 ですから、言語ゲームを変えていく根拠にある動機も、言語ゲームに
よって考える限りは言語ゲームの中でしか意味を持たないわけです。
それを動かす、さらなる根底的なものを想定することはできないと思います。
竹田 それだとニーチェが「善悪の彼岸」で行き着いたところで必ず終わると
思います。それは永井さんが今持たれている結論ですか?
永井 今の問題に関してはそうですね。言語ゲームを動かしていくような根底
にある何かを考えることによって、よりよい言語ゲームを考えていくこ
とができるとは思えないんです。
51 :
死刑囚。:2000/11/21(火) 02:08
竹田 (略)野球の場合はルール・ブックがあって、審判がそれを取り仕切って
いるが、人間の社会の場合はルールの審判者がいない。ルールがこう
でなければならないという根拠もない。で、ルールはただ人々のプレイの
中でだけ必ず少しずつ変わっていく。では、なぜ、ルールは変化してい
くのでしょう。これはルールの形式性だけをどれほど論理化して取り出し
ても決して見えない。単純化していうと、ルールが動いていく根拠は、
そのゲームに参加している人間のエロス原理です。ゲームをやってい
る人が、このルールだと面白くないと感じた時だけ、ルールを変えよう
という動機が出てくる。それが無ければ、ルールが変わる根拠は無い
わけです。
永井 エロス原理のようなものを想定すれば、実は何でもそのエロス原理で
説明がつくということになりませんか?
竹田 何でも説明がつくということと、この問題はこう言えば次の問題に進む
ことが出来るということとは別です。
永井 ちょっと疑問に思うのは、言語ゲームが変化したという場合に、その方
がもっと面白い、もっといいということが根拠になっている場合もあるで
しょうけど、それは制度改革とかそう言う場合だけであって、むしろそう
でない場合のほうが言語ゲームという概念にはふさわしい場面だと思
うんです。
52 :
死刑囚。:2000/11/21(火) 02:09
竹田 いえいえ、そうではありません。哲学そのものが言語ゲームですね。例
えばギリシアにおいてソクラテスやプラトン、アリストテレスが出てくるま
では哲学は世界を作り上げている原理は何であるかを見出すゲーム
だというのが、暗黙のルールだったわけです。ところが、ソクラテスや
プラトンが出てきたときに、そういう古い哲学の言語ゲームを変えた。
永井 何が受け入れられるかは、その時々の偶然的諸条件が多元的に決定
するものであって、単一の根拠などはないと思います。つまり、たまたま
ソクラテスやプラトンが残ったのであって、我々はその世界の中に住んで
いるからそちらにリアリティーを感じる、というか感じさせられる。しかし、
前四世紀のギリシアでそれを感じたのはごく少数のどうしようもない連中
だけだったと思います。
僕の考えでは、面白さ、良さの原理が普遍的にあって、より面白くしよう
より良くしようということで変化が起こるんではなくて、何かが変わることに
よって面白さとか良さの意味それ自体がそこで新たに出来上がる。だ
から、振り返って見ればエロス原理のようなものが働いていたように見え
るわけです。
53 :
死刑囚。:2000/11/21(火) 02:09
竹田 人間のエロス性の原理は、これが面白いと思いたいから面白いことに
しようというような恣意的な構造ではないんですね。また、あらゆる変化
が面白いわけでもない。これは面白いぞ、と思わせるルールの変化が
注目され、受け入れられる。そうである限り、どこかに面白さだとかエロ
スとかの普遍性を想定出来るはずなのです。そんなものは想定出来
ないというなら、それはちょうど言語のルールは明示出来ないからそん
なものは何処にもないというのと同じです。
(かなり略)
で、この問題は、結局、共同体の「善し悪し」を解体したあと、では人間
の実存の価値の根拠をどんな形で探せるのかということです。それに
対して永井さんは徹底的な解体でいいと言われるのかな。
永井 僕はそうは言っていないんです。徹底的な解体でいいと言っている人
たちとは違う立場です。
竹田 すると永井さんは今日、十分に自分の考えを言われていないんじゃ
ないですか?
永井 ええ、そうです。だから「永遠回帰」や「超人」の話をしたかったわけ
です。そこにはまだ汲み取るべきものがあると思っています。
(かなり略)
54 :
死刑囚。:2000/11/21(火) 02:10
とまあ、こんな感じの尻切れトンボの気まずい雰囲気で終わっていく。
ちなみに竹田は「超人」概念はあまり評価していない。
それにしても対談相手が自分より小物の時の竹田は案外ツマランです。
竹田は廣松渉や江藤淳や柄谷・中沢などとも対談・鼎談してるが、それを
よめば印象かわるよ。どうでもいいことだけど。
永井について言えば、永井は『この人を見よ』の「精神がどれだけの真理
に耐えることが出来るか、どれだけの真理の危険をあえて冒すか、それが
私にとって、ますます本来の価値尺度となっていった」というようなことを
自身の価値尺度としていると言っているが、これは「決して回収されない
否定性」(バタイユ)みたいなもので、竹田が何十年も前に苦労して殺して
きたものを、永井が差し戻して議論しているという構図だった。
ま、これはオレの個人的意見。間違ってるかも。
なにしろ永井の著作はマトモに読んだこと無いんで。
55 :
考える名無しさん:2000/11/21(火) 02:38
まずは、引用(というか要点)の記載さんきゅーです。
なるほど、こんど図書館でさがしてこよう。
記載された限りでの論争の感想はあとで書こうとおもうが、
しかし、永井の独我論の主張と、それをポストモダンの
文脈で理解して無効であると批判した竹田(永井が怒ったのは
この批判のしかただったと思うが)という論点については何て
言ってんのかな?
56 :
55:2000/11/21(火) 03:17
>徹底した懐疑は必要だがそれだけでは意味がない。そこからどうするかが
>問題だという竹田。いやいや、私は懐疑論者ではないが、懐疑そのものに
>踏みとどまることが必要という永井。
確か永井はトマス・ネーゲルの本を翻訳していたと思うが
その前書きでネーゲルは、
事象の仕組みを解明したとしても、それによって世界が変革される
わけではないが、世界を解明することと、世界を変えることの
どちらがより価値のあることなのかは自明ではない、
というようなことを書いていたと思うが
(あまり覚えていないので不正確だとは思うが)、
永井と竹田の対立点もそこにあるんじゃな
かろうか。
二人の論争が不毛(論争の要点を読んだ限りでの私の感じだが)
なのは世界の仕組みの解明者にとどまる永井と、実際に世界をよりよく
変えていく原理を求める思想家としての竹田の基本的姿勢の違い
にあるのかも。
57 :
考える名無しさん:2000/11/21(火) 03:45
age
58 :
考える名無しさん:2000/11/21(火) 04:14
>死刑囚。
対談のアップどうもです。 興味深く読ませていただきました。
59 :
考える名無しさん:2000/11/21(火) 04:35
永井のセリフ
>何が受け入れられるかは、その時々の偶然的諸条件が多元的に決定するものであって、単一の根拠などはないと思います。つまり、たまたまソクラテスやプラトンが残ったのであって、我々はその世界の中に住んでいるからそちらにリアリティーを感じる、というか感じさせられる。しかし、前四世紀のギリシアでそれを感じたのはごく少数のどうしようもない連中だけだったと思います。
ここがちょっとウケた。
こういうこといわれると竹田が困ってしまう場面がかなりあるような気がするな。
60 :
考える名無しさん:2000/11/21(火) 05:24
しかし、ドイツ語も出来なくてフッサールを語る度胸も凄いね。
哲学と語学は関係ないという奴もいるが、哲学は言語と無縁ではなく、
そして言語は、つねに何語かである。つまり哲学は、使用された言語
とは無関係に存在しえない。語学上の翻訳は、辞書的な意味の置き換え
を超えられないところが多々ある。
哲学は、原書でやるものである。
最低でも、翻訳と原書を対照すべきだろう。
それもせずに日本語オンリーでやるのは、自由だが、専門家とはいえない。
竹田青嗣は、その意味では、完全に哲学愛好家にすぎない。
61 :
考える名無しさん:2000/11/21(火) 10:19
age
62 :
考える名無しさん:2000/11/21(火) 11:09
>>60 アメリカ人なんか英語訳だけで語りそうだけど。
英語とドイツ語はずいぶんというより全然違う言葉だよ。
ドイツ語のように自国語で哲学用語を作ってこなかったし、
一つの文章で複雑な関係を表現することも出来ない。
63 :
考える名無しさん:2000/11/22(水) 02:41
hage
64 :
考える名無しさん:2000/11/22(水) 03:31
>>60 翻訳ということが結局は新しく誤解のタネを作るに過ぎなくて、すごく絶望的な努力だということはバルトも言っていたことだけど、
原書で読んでないことを理由に誰かの哲学について語らせないというような風潮はなんだかいただけないように思う。
60さんを責めてるとわけではないが(原語で読んだ場合と、ヘタな日本語訳では同じ文でも意味が全然違うということが確かにある)
ご自分でも仰られたように、「哲学をする」行為の自由(自分自身を知る)と誰%8 ニ2ゥの哲学について客観的に「研究する」のとは意味が違い2ワす。
フッサールについての認識が仮に全くの誤解に過ぎないとしても、自分の主観にしか基づかないものだとしても、誰かの著書によって、またそれを自分なりに読むことによって
自分が何かに開かれてそれによって世界についての認識を新たにすれば、それは十分に哲学的な行為と言えると思います。
また、そこにしか、哲学の専門家がより厳密に誰かの哲学について研究し、深めていく意味はないと思います。
65 :
考える名無しさん:2000/11/22(水) 03:32
ちょっとこのスレと外れたかもしれない。すみません。。
66 :
60:2000/11/22(水) 03:44
>64
私は、原書を読まずに哲学を語るなとは言ってないです。
それは自由。
ただ、大学で教鞭をとるのなら、そんなわけにはいかないだろう
と言っているだけです。
67 :
考える名無しさん:2000/11/22(水) 04:00
竹田みたいなド素人は、まともな人間なら相手にしない。
68 :
64:2000/11/22(水) 04:30
>>66 すみません。64さんの意見について見る限り、確かに僕の誤解ですね^^;すみません。
ただ僕は、哲学をするということと、哲学書や誰かの哲学について研究し、言及することとがいつのまにか曖昧になって、
哲学はどこかのヒマ人がやることだと思いこんだりとか、逆に高級な人間だけがすることだと思いこんだりとか、マジメに自分を語ろうとする機会を逸しさせたり、
また逆に64さんの言う通り、思いこみを勝手に垂れ流すだけの、研究に対する不誠実を産むという風潮があるように思ったものですから。
もし誤解されたのだとしたらすみませんでした。
69 :
考える名無しさん:2000/11/22(水) 05:28
竹田は明学の人寄せパンダでしょうな。
70 :
考える名無しさん:2000/11/22(水) 13:26
竹田は西研にドイツ語教えてもらったんじゃないの?
71 :
考える名無しさん:2000/11/22(水) 13:44
まともな人間にしか竹田現象学のすばらしさは分かりません。
72 :
考える名無しさん:2000/11/22(水) 16:39
その通り!
73 :
伊藤:2000/11/22(水) 21:50
竹田青嗣氏の本を読んで最も驚いたことは、「疑う」という考
えも一つの時代の中では狂気となんら変わらないということで
でした。
従来の学問の枠組みの中では、変革の展望が全くなくこの狂気
に踊らされ続ける可能性が極めて高いものに見えたのだと思い
ます。
この時代に生きる人の苦しみの由来も、このような学問の前で
は、単に興味深い研究対象が生まれたぐらいにしか見ることが
できないのです。
竹田青嗣氏は、従来からある学門の枠に従っていても、そこに
息づく人間の姿を見る研究者(「精神分析学」においては岸田
秀氏、「言語学」には丸山圭三郎氏、「社会学」では橋爪大三
郎氏など)には深い共感を現わしています。
従来の学問の知見では、生を感じる力が永遠に置き去りにされ
てしまうという祈りが、竹田青嗣氏の言葉に「信じる」ことの
喜びへと導かれていくのだと思っています。
74 :
考える名無しさん:2000/11/23(木) 02:41
>従来の学問の知見では、生を感じる力が永遠に置き去りにされてしまうという祈りが、竹田青嗣氏の言葉に「信じる」ことの
もっともらしく書いてあるけどなんのことだかよくわからんね。
75 :
考える名無しさん:2000/11/23(木) 05:49
竹田みたいな素人が金とって講義するなんて詐欺みたいなもの。
76 :
考える名無しさん:2000/11/23(木) 06:01
金は価値を認めている人が払えば詐欺にはならんよ。
専門家の講義でも価値を認められないものだってあるさ。
そーそー、受講者が楽しめれば詐欺じゃないの。
78 :
考える名無しさん:2000/11/23(木) 06:12
あのさ、竹田の正当な批判をしてみてくれよ。
79 :
考える名無しさん:2000/11/23(木) 08:18
「ニーチェ入門」は微妙。
80 :
考える名無しさん:2000/11/23(木) 13:09
age
>78
彼らには無理。
オレもあきらめたよ(笑)
さいなら。
82 :
考える名無しさん:2000/11/24(金) 10:41
竹田批判者って、中身のあることは一つも言えないんだネ。詐欺師だインチキだレッテル貼りばっか。語学ができなかったら何がいけないの?翻訳が間違ってるから?じゃあどの翻訳本のどこがマチガイでそれが竹田の解釈にどう関係してるのか証明して見せてよ。背表紙の引用がどうこうなんて重箱のスミつつきじゃなくてサ。
83 :
考える名無しさん:2000/11/24(金) 12:14
だって竹田や天沢、加藤、笠井といった面々は現象学を
口実に自意識をひけらかしているだけでしょう、
もともと中身が無い。
彼らの言っている事の3分の1は良い事を言っているとは
思うが、そういう議論は近所のおばちゃんとも出来ること
堕からね、、、
84 :
考える名無しさん:2000/11/24(金) 15:47
じゃあ自意識をひけらかしているとひけらかしてないのと、誰がなにを基準に決めるのさ?たのむからイタイ思い込み一辺倒じゃなくて、他者にもわかる言葉で語ってみてよ。いやしくも哲学やってんでしょ?
85 :
考える名無しさん:2000/11/24(金) 19:02
竹田が書くのは入門書ばかり。
理由は、原書が読めない、外国の研究書が読めない、
専門的なことが書けない。
だから入門書になっちゃう。
しかし、プラトン入門もひどいな。ひどすぎる。
せめて翻訳だけでも、もう少し精読してほしい。
86 :
考える名無しさん:2000/11/24(金) 22:51
竹田はドイツ語はできるんじゃない?
しかも、外国語ができないと哲学できないの?
一定の文化・文明の社会では普遍的な抽象語が存在し、そして、その抽象語を使用することによっていかなる物語をも語らないで思考することが「哲学」なのじゃないだろうか。
だから外国語ができるかできないかなどそもそも重要ではない。哲「学者」ではなく「哲学」者にとってはね。
87 :
こんなん、あったよ:2000/11/25(土) 00:00
88 :
考える名無しさん:2000/11/25(土) 00:04
竹田? いいんじゃないの、別に。
入門書ばっかりなのはその通り。だけど、そういうのって実は
結構難しい仕事だし(真面目にやろうとすると)。
大したモンでもないが、目の色変えて叩くほどでもない。
89 :
考える名無しさん:2000/11/25(土) 01:19
そう、素晴らしい思想家だからね。
90 :
88:2000/11/25(土) 01:47
まあ思想>哲学って考え方もありますがね。巻き込まんでくれよ。
91 :
考える名無しさん:2000/11/25(土) 02:18
思想>哲学?
92 :
考える名無しさん:2000/11/25(土) 02:23
竹田なんてまだ読んでるやついるのか。
あれだけ間違い指摘されたにもかかわらずなー。
93 :
考える名無しさん:2000/11/25(土) 02:30
間違いってなんなの??
だーかーらー竹田の正当な批判をしてみてくれよ。
説明してもいいんだが(ほんとは説明したくてたまらないんだが)、
喧嘩を邪魔するのもね。リクエストがあるなら、折を見て・・・
こ、これが2ちゃんか……
>92
深呼吸して考えてみてください。何故貴方が一般に言う駄レスというものをしてしまったか。
目的など最初から無いでしょう。ただ現実社会から迫害されつつある貴方は、
そんな現実から居た堪れなくなりネットを利用して、他人に構ってもらおうとする。
お気持ちは判ります。そういう私もそのような行為を繰り返してきましたから。
しかしながら、そのような事を繰り返していても最後には、虚無感しか残らないのですよ。
世の中でうまく過ごしてる人達を羨むあなたは、何度も果敢にチャレンジを遂行されてました。
しかし何をやっても全て裏目に出てしまう。
泣きたくなりますよね。本当にお気持ちはよーく判ります。
ですが皆それ以上の努力を陰でコツコツと行っているのですよ。
一見馬鹿面に見える貴方の知人も、見えないところでとんでもない努力をされています。
お気づきだとは思いますが、ここにおられる2ch住民も、各々学校にも行ってますし、
仕事もきちんとこなしています。あくまで息抜きでここに来ているに過ぎません。
万が一貴方が、「ここの住民は俺と同じだ。ここに居ると安心するなあ。」
などと愚考していたならば、最大の勘違い野郎です。貴方だけが堕ちこぼれなのです。
先程にも述べましたが、そういう私も貴方と同じ愚行行為を遂行していましたが、
自ら気付き仕事を再開しました。恥ずかしながら、今付き合って8ヶ月の彼女と、
最高のお付き合いをさせてもらってます。
こんな私にも出来るのですから、過去にチャレンジ精神豊富だった貴方ならば必ず出来るでしょう。
本当に,頑張って下さい。私も陰ながら応援させて頂きます。
97 :
>92:2000/11/25(土) 04:31
君いつもいるね。いつもそんなことばかり書いているね。
気付いてるかい?はっきり言って誰も君のこと相手にしてないよ?わかってるの?
それって、自分ではおもしろいと思って書いているんだろうね。
きっと、薄ら笑い浮かべて書いているんだろうね。
でもさぁ、君以外の人には全然おもしろくないんだよ。
もしかして自分でもおもしろくないのに書いているんじゃないの?
自分でも何してるのかわからなくなってるんじゃないの?
家族からも近所からも煙たがられているんだね。
友達も彼女もいないんだね。会社でも浮いているんだね。
どこに行っても相手にされないんだね。
ネットでも無視されてここに流れ着いて来たんだね。
ここでさえ相手にされてないじゃん。
どうするの?かわいそうに。もう駄目じゃん。
生きていても何もいいことないよ?
どうせ誰からも相手にされないんだから、氏んだ方がいいんじゃない?
相手にされないから奇抜な言動で注目を浴びようと必死なんだね。
始めは少し注意を向けてもらったのだろうけど、もう飽きられて完全に無視されているね。
それって迷惑なんだよ?気付いてる?
おもしろくもないのに、意味不明な事を大量に書かれても目障りなんだよね。
さようなら。ここから消えてくれ。君いるだけで迷惑。
せめて最後ぐらい人里離れた山の中で辞擦してね。
98 :
考える名無しさん:2000/11/25(土) 04:46
こぴぺごくろうさん(w
99 :
>85:2000/11/25(土) 07:33
> 理由は、原書が読めない、外国の研究書が読めない、
> 専門的なことが書けない。
竹田はフッサールの研究専従を目的にしてないからだろ。別にいいじゃん。彼の本領はフッサールやハイデガーを土台にして構想されたエロス欲望論なんだから、問題はその整合性だよ。それとも哲学ってのは神の言ったことは一言も聞き漏らしてはならない的な原理主義宗教みたいなもんなのかい?
だいたい、語学ができなきゃ現象学は理解できないなんて誰がきめたんだ?逆にドイツ語できれば現象学分かるっていう保証はどこにあるんだろうね。フッサールはそういうドクサをエポケーしたんじゃなかったんかいな?
101 :
伊藤:2000/11/26(日) 00:45
私が、竹田氏の著作から学んだことで、近代社会や現代社会に
は歪みがあれば、これを是正する動きが生じるのが普通なので
ですが、こと哲学(近代哲学、現代思想)に関しては、現象学
を除いて皆無だったのではないかという視点があるように思え
ます。
言語や論理の不思議な性質がレトリカルな難問を生み出し、こ
のことに気づかないとニヒリズムやシニシズムといった重体に
陥ることになってしまうという視点をです。
おそらく、竹田氏の愛読者はこのニヒリズムやシニシズムとい
う病気で重体に陥る前の、予防薬として、その多くの哲学入門
書で基礎知識を固めて、「反ー根源主義」の幻想の深みにはま
らないようにしているのかと思います。
今回は、すでにあのニヒリズムやシニシズムが中度・重度にな
っていた方にとっての竹田氏の著作との出会いが、ひとつのタ
ーニング・ポイントと感じた方の意見や話をお聞きしたいので
す。
竹田氏の「根源的所与性」の共感・受容をもって、竹田氏のよ
うな人間的な温かみのある聞き手になれることを願って。
102 :
考える名無しさん:2000/11/26(日) 02:24
いちいち具体的に言われないと気付かない人に
他者なんて見えているのかね?
竹田に限らず、日本語で日本人に向けて他者他
者と連呼したがるバカは単なる他者や外部の内
部化作業を誤魔化すことでエポケーだと勘違い
してるだけなんじゃ、、、
103 :
考える名無しさん:2000/11/26(日) 05:39
>>102 この書き方では
日本語で「他者」を論じているやつらすべてに
当てはまるように見えるが、
そういう規模の批判をしたつもりかな?
104 :
>120:2000/11/26(日) 06:12
西洋崇拝者にはどんな「他者」が見えるんだい?なんか知らんが病的に転倒してるぜよ。
105 :
考える名無しさん:2000/11/26(日) 06:35
竹田の本、読んだが笑った。
どこが間違っていてインチキなのか説明しろなんて言う奴いるが、
そんな面倒なことはお断り。自分で発見しろよ。それが哲学だよ。
まあ、竹田の愚説、駄論を信じるのは自由だけど。
しかし、そこには哲学はないだろうな。
106 :
考える名無しさん:2000/11/26(日) 07:21
よーするに、批判できないってことね。(うぷぷ
107 :
考える名無しさん:2000/11/26(日) 10:20
105のどこに哲学があるんだか(藁
108 :
考える名無しさん:2000/11/26(日) 11:39
竹田批判者の言い草って思い込みバリバリで、とても哲学や現象学やってるとは思えん。そんなレベルだから竹田が売れるのに嫉妬して嫌味言うくらいしか能がないんだろう。実力の差だよ。
109 :
考える名無しさん:2000/11/26(日) 12:15
>108
うーん、むしろ「哲学」をやっているからこそ嫉妬するんじゃないだろうか。
「俺の方がアカデミックな哲学やってんのに、なんであんな奴が」って。
ここで言う「哲学」は、語学の勉強とか原書の研究のことね。
しかし原書を正確に理解できたとしても、
自分で間違っているものの批判が書けないようじゃ、研究の意味はないよなあ。
110 :
>108:2000/11/26(日) 13:12
同感。
111 :
考える名無しさん:2000/11/26(日) 13:23
いやいや西欧だってダメなんだよ。
112 :
ギャラリー:2000/11/26(日) 13:35
どうでもいいから、本格的な竹田批判、あるんだったら
はやくやってくり〜。このままじゃオモロないよ。
113 :
考える名無しさん:2000/11/26(日) 14:20
ないものねだりは気の毒だよ(笑)。
114 :
考える名無しさん:2000/11/26(日) 20:40
竹田批判ができないなら竹田の哲学の素晴らしい点についてかたるってのは?
101みたいに。
115 :
考える名無しさん:2000/11/27(月) 01:14
現象学は主客問題を解体した、というモチーフを明快に打ち出したとこが目からウロコでした。それと「人間は欲望として世界に向き合っているのに対し、世界はエロスとして人間に開かれている」っていうの、唸っちゃう。ところで竹田贔屓の人が集まって落ち着いて話せるサイトとかないんですかね?公式HPにも掲示板ないですしね。
116 :
>115:2000/11/27(月) 02:15
まさにそこですよね。
確かにここではあまり落ち付けませんもんね。
117 :
名無しさん@1周年:2000/11/27(月) 02:51
エロスの形而上学
118 :
考える名無しさん:2000/11/27(月) 06:22
エロスの形而上学?
119 :
考える名無しさん:2000/11/27(月) 10:36
「エロスの世界像」はいい本だったよ。竹田は「存在と時間」を読んで、良質の推理小説を読むようなスリリングな面白さがあったと語っていたが、オレは「エロスの世界像」に同じ様なゾクゾク感を感じた。
120 :
考える名無しさん:2000/11/27(月) 11:33
だれか竹田ファンのサイトつくって!
121 :
考える名無しさん:2000/11/27(月) 16:00
age
122 :
ほとんどギャグ つーかそのもの:2000/11/27(月) 20:20
本格的な竹田批判
目からウロコでした
唸っちゃう
ゾクゾク感
123 :
死刑囚。:2000/11/28(火) 01:23
オレは竹田をマジ尊敬してるけど、批判点も幾つかあるんだよね。
でも竹田の批判者がガキんちょばっかりだから開陳する気になれない。
>101
>今回は、すでにあのニヒリズムやシニシズムが中度・重度にな
>っていた方にとっての竹田氏の著作との出会いが、ひとつのタ
>ーニング・ポイントと感じた方の意見や話をお聞きしたいのです。
竹田現象学は、オレにとっても確かに「ターニング・ポイント」でした。
ただそれは主客の問題を「確信の成立」に置き換えたことだけに因るの
では無いッス。それだけなら行動心理学的アフォーダンスの変形だし、
ただそれを哲学の文脈で語っただけという体のものです。(勿論、それ
だけでもスゴイし、それを理解できない奴がいるってのも不思議だけど)
オレの場合は何と言っても他我から導かれる間主観性という概念だね。
「最初の他なるものは他我である!」。
竹田教典127ページ(現象学入門のことよ、勿論)から、その批判点
として自身の欲望論を匂わせるあたりも。
ま、とにかく哲学という学問が現実に生きていく上で、これほど「役に立つ」
っていうことが驚きであり、感動だった。哲学をアカデミックなものとしてしか
捉えられない人の批判など、何の痛痒も感じないね。それくらいの感動。
しかも竹田はその種の「哲学」に対する現象学的批判を徹底して行い、
彼らの「動機」を解明しているんだ。竹田に対するオレの批判点は軽視
できるものではないと自分では思っているけれど、それでも竹田は極めて
優れた思想家の一人だということに疑いはない。
124 :
死刑囚。:2000/11/28(火) 01:35
>>119 『エロスの世界像』の「時間について」の頁はどうだった?
「時間の謎、空間の謎」というガキの頃からの謎が解けたんだから、
オレはぶっ飛んだね。ベルクソンや木村敏、大森荘蔵などの時間論
を批判しつつ、それを自身の欲望論で解明していく辺り、スゴイの
一言。文庫になってるらしいから是非とも読んでもらいたいね。
125 :
考える名無しさん:2000/11/28(火) 02:58
おれが感動したのは恋愛の結晶化作用ってやつね。
126 :
考える名無しさん:2000/11/28(火) 03:02
竹田の著作を読んでいた時、おれのニヒリズムが解凍されて血の通い出す瞬間があった。
あれは電車の中でのことだったけど、おれはあの瞬間が「ターニング・ポイント」だったね。
127 :
考える名無しさん:2000/11/28(火) 03:26
ぶはっ!!
128 :
考える名無しさん:2000/11/28(火) 03:35
ha−ha−ha!!
129 :
>128:2000/11/28(火) 06:03
さーすが。外国語のお得意な哲学徒は笑い方ひとつとっても違いますな(藁
130 :
考える名無しさん:2000/11/28(火) 06:10
小説家にもなれず学者にもなれない半端モンの武田は
同じく半端な似非インテリの小僧相手に商売するのがせいぜい。
鷲田とともにせいぜい稼ぐがいいさ。
肩書き主義ってなあに?
132 :
考える名無しさん:2000/11/28(火) 08:10
>>124 時間論・身体論が圧巻だった。それと時間論のとこで、客観的時間と内的時間の矛盾を無理に合一論でまとめるのでなく両者の関係原理を明らかにすべき、というのが印象的。二者択一でどちらかを否定するっていうんじゃないんだよね。竹田の思索に共通する要素だけど、現実にも色んな場面で言えることではないかと思うね。
133 :
伊藤:2000/11/28(火) 14:18
>115>119>123>132
大変興味深い話を聞かせて頂きましてありがとうございます。
私の竹田氏の著作の理解が主観色の濃い、多分に独りよがりの
ものではないかと危惧しておりましたので、竹田氏の哲学の的
や論点の不透明と思われる箇所の指摘などは参考になりました。
人間の本性の圧殺に哲学が手を貸すことのないように思考した
別の哲学者にミシェル・フーコーを思い出すのですが、フーコ
ーはその「荒々しい資本主義」の前で、強いられずに自らの意
志で足踏みすることを教えてくれましたが、足踏みをすること
以上は教えてくれませんでした
(但し、その足踏みの轟音の凄まじさは丹生谷貴志氏の論文「
砕けやすい年」をお読み頂きたい)。
>123のように竹田氏の著作を「教典」・「聖書」のように
称賛するのは、竹田氏も気恥ずかしく思うかもしれませんが、
読後に力と元気が出る著作であることに同じように私も共感を
持っております。
134 :
考える名無しさん:2000/11/28(火) 14:43
>132
中島の時間論と比べてどう?
135 :
考える名無しさん:2000/11/28(火) 19:27
26日京大でやったらしい講演いった人レポきぼーん。
136 :
死刑囚。:2000/11/29(水) 00:25
>>132 まったくその通りだよね。現象学が科学を否定しないのと同じことで、
すごく重要な点。一つの記述の体系に過ぎない「客観的時間」でもそれに
利用可能性があるなら使っちゃえって態度。
あと竹田はいわゆる一般にオカルトと言われている事象に関しても、その
態度を崩さないんだよね。『力への思想』という対談本を読むと、竹田って
筋金入りなんだと分かる。現象学を分かったつもりでいたらしい対談相手の
小浜逸郎が驚いている(笑)
137 :
考える名無しさん:2000/11/29(水) 02:35
『力への思想』はいい本だね。小浜はルックスよし。
138 :
考える名無しさん:2000/11/29(水) 03:11
>>134 あ、ごめん、中島は読んでない。どれかの本の惹句に「哲学は役に立たない」と書いてあるのを見て、買うのをやめちゃった。押さえとくべきだろうか。
>>136 「利用可能性」は竹田思想の重要なキーワードだね。いいものはどんどん使えばいい、そういう態度でいればニヒリズムに浸る必要なんてない。竹田より若い世代のちょい保守がかった論者が「“有効性”のある思想を出さねばならんのだ」と青筋立ててがんじがらめになっているのとは全く対照的。小浜逸郎の「なぜ人を殺してはいけないのか」は現象学の応用という感じでなかなか良かったけどね。
139 :
考える名無しさん:2000/11/29(水) 04:48
竹田擁護を書いてるのは竹田本人らしいぜ。
いつもの自作自演だよ。
……哀れな奴。
擁護もなにも、批判はないような?
悪口はあっても。
142 :
考える名無しさん:2000/11/29(水) 10:27
「批判」はできないんだよな。ただ「反感」があるだけ。自称哲学者でありながらあんな情けないことしか言えないんじゃどーしようもないよな。学者の面汚し。
143 :
考える名無しさん:2000/11/29(水) 13:12
そんじょそこらの哲学徒に批判できる程竹田の思想は弱い思想ではないってことだね。
144 :
考える名無しさん:2000/11/29(水) 13:27
利用可能性なんて概念は誰にでも思いつきそうなものだが…。
言うまでも無い事だから、大物はそれについて言及しない。
小物もそれについて言及しないけどな。
その点竹田はどちらにもなりきれていない。
だから、特に反感も無いね(馬鹿にしているわけじゃないぞ)
145 :
考える名無しさん:2000/11/29(水) 15:25
>139
竹田は多分本人自らこんなところに出てくるような人間じゃないと思う
典型的な「言い逃げ型」の人間だと思うな
別に自説が有効に批判されることなど望んでもいないと思う
これだけ信奉者を魅力的な表現で痺れさせているんだから、それはそれで意味あることをしているんじゃないの?
>利用可能性なんて概念は誰にでも思いつきそうなものだが…。
思いつきそうと言えばなんだってそうだもん。要は光の当て方次第。
147 :
考える名無しさん:2000/11/30(木) 03:06
俺は竹田が知の詐欺師でもかまわない。
所詮、知にはそういう側面があるから。
148 :
考える名無しさん:2000/11/30(木) 07:34
竹田、利用可能性なんてことば使ってる?
149 :
考える名無しさん:2000/11/30(木) 17:31
age
150 :
考える名無しさん:2000/11/30(木) 17:58
151 :
考える名無しさん:2000/11/30(木) 18:53
152 :
考える名無しさん:2000/11/30(木) 18:58
池田晶子だったら竹田のほうがはるかにましだ。
153 :
考える名無しさん:2000/11/30(木) 19:33
俺も竹田は嫌いじゃないけど、
ちょっと度が過ぎた信者もいるようだな。
154 :
考える名無しさん:2000/11/30(木) 21:04
なんかキチガイっぽい人が混ざってますね。
当て推量で人格批判。こりゃマズいですよ。
155 :
考える名無しさん:2000/11/30(木) 23:18
大川隆法だの信者だの安易なレッテル貼りもイタイ。シャレとマジの区別もつかんのじゃ他人は笑えない。
156 :
考える名無しさん:2000/11/30(木) 23:37
え〜ぇ!?池田晶子って「阿呆」なんて言うの?げんめつ〜ぅ!!
157 :
考える名無しさん:2000/12/01(金) 00:28
『天皇の戦争責任』って読んだ人いる?
158 :
竹田青嗣ファンのための掲示板開設しました!:2000/12/01(金) 01:13
159 :
竹田ファンのための掲示板開設しました!:2000/12/01(金) 01:17
160 :
考える名無しさん:2000/12/01(金) 01:34
ありゃ?二重投稿になっちゃったな、ごめんなさい。
161 :
伊藤:2000/12/01(金) 12:35
竹田氏の著作と宗教家の著作の一読した際に区別が付きにくく
感じた(両者とも人間への深い洞察と知見、そして読者に共感
させる為)時、生に「一気に身を置く」ように思考する哲学者
の浅田彰氏やジル・ドゥルーズを読まれれば、宗教家や精神分
析家を「イカサマ」師と感じて彼らの言葉に耳を貸すことは、
生をドブに捨てるようなものだと思えてくるのですが、竹田氏
の場合はそのように考え抜いた後の道を示す言葉のように聞こ
えてくるのです。
162 :
名無しさん:2000/12/01(金) 17:34
俺、ダメ。
こういうノリ。
163 :
考える名無しさん:2000/12/02(土) 02:03
素人の私には竹田氏の哲学は分かりやすい。
やはり竹田氏もアマチュアだからだろうか。
164 :
考える名無しさん:2000/12/02(土) 02:31
「教えない」野郎、飽きないな。
難しいことを難しい言葉で語る−>わりと簡単
易しいことを難しい言葉で語る−>ちょっと難しい
難しいことを易しい言葉で語る−>けっこう難しい
「竹田青嗣の哲学が好き」ねぇ〜
きみら もうちっと本気で頭はたらかしてみ
好き嫌いに文句言ってもしょうがないよ。放っておけば?
167 :
考える名無しさん:2000/12/02(土) 04:16
おれ井上陽水好き〜
自分は「本気で頭はたらかして」る、と思うのが好きなんでしょうな。165は。
169 :
考える名無しさん:2000/12/02(土) 06:11
竹田青嗣はフッサールから受け継いだ「厳密な」思考によって時に常識を反転させるような洞察をおこなう。そういうところが非常に好きだ。
170 :
考える名無しさん:2000/12/03(日) 10:48
age
171 :
伊藤:2000/12/03(日) 14:41
「プラトン入門」
現代思想という映画に映し出された奇妙なプラトン像に納得さ
れなかったのは、原典をしっかり読んでいた為だと思います。
私なら、現代思想という刺激に満ちた映画を見て「イデア」と
いう奇妙な説を唱えた人物で納得してしまった筈です。
「プラトン入門」によって、現代思想の「絵空事」と古典を紐
解くことの中にしか、人間を再び考え直す糸口がない程に、私
たちは疲弊してしまっているのではないかと考えてしまいまし
た。
けれども、「確信成立の条件を基礎づける」ことで、重く苦
しい「生」に軽みと豊かさを与えることも、困難ではあります
が可能であると言うことは希望を与えてくれます。
172 :
考える名無しさん:2000/12/04(月) 02:32
竹田のプラトン観は「反対から見るとエロス論になる」ってところがポイントであり、また、そこが(理解できない人に)反感を買ってしまうしまうんすよね。
173 :
考える名無しさん:2000/12/04(月) 23:37
何が何でも竹田はすごいってのもすごいレッテル張りだが
174 :
考える名無しさん:2000/12/05(火) 00:16
知念RINA「すごーい すごーい♪」
175 :
伊藤:2000/12/05(火) 00:23
「自分を知るための哲学入門」
物事を世界の側から考えはじめるのか、人間の側から考えは
じめるのかという視点から哲学の歴史を見直すという発想に、
哲学の迷路を彷徨う体験を持ったことがある人は、突然目の前
に道が開けたように感じるのではないかと思います。
世界の側から考えはじめた哲学者は、タレスからドゥルーズ
に至るまで私たちに「あなたは世界を理解していない、その認
識の欠如は、敵を知らずに自分だけは勝者になれると誤解して
踊らされ、疲れて衰弱するだけだ。勿論、勝者になる者も稀に
いるだろうが、殆どが敗者であり、勝者になろうとして、世界
に拘泥する者ほど、その敗者そのものになってゆくのだ。また
このことに逆らっても無駄なのである。世界(=神)とは厳格
さ(=機械)そのものであるから。」と言い、自ら生のニヒリ
ズムのなかで過ごしました。
人間の側から考えはじめた哲学者たちはどのような理論化に
より湧き出る生の悦びを効果的に発揮できるのに至ったのかに
ついては、本書を読んで頂く方が良いと思います。
最後に、膨大な哲学の歴史の前に挫折せずこのような仕事を
達成されたのも、人間の側から考えることの実践からのメッセ
ージではないかと思います。
176 :
考える名無しさん:2000/12/05(火) 01:45
まだ竹田みたいなアマチュアの道化の話か(笑)
竹田信者や批判的肯定派の諸君は、せいぜい頑張れよ。
177 :
柄谷行入:2000/12/05(火) 01:46
竹田は思考が出来るのか。
178 :
考える名無しさん:2000/12/05(火) 02:36
「教えな〜い」サン、もういいじゃないですか。ネ?
179 :
考える名無しさん:2000/12/05(火) 18:10
176は「現象学は『学問の真理の基礎付け』という純ヨーロッパ的な動機が本質」とか言ってた人かな?
180 :
考える名無しさん:2000/12/06(水) 00:30
>175
>人間の側から考えること
微妙ですね
>世界の側から考えはじめた哲学者は、タレスからドゥルーズ
>に至るまで私たちに「あなたは世界を理解していない、その認
>識の欠如は、敵を知らずに自分だけは勝者になれると誤解して
>踊らされ、疲れて衰弱するだけだ。勿論、勝者になる者も稀に
>いるだろうが、殆どが敗者であり、勝者になろうとして、世界
>に拘泥する者ほど、その敗者そのものになってゆくのだ。また
>このことに逆らっても無駄なのである。世界(=神)とは厳格
>さ(=機械)そのものであるから。」と言い、自ら生のニヒリ
>ズムのなかで過ごしました。
こういってしまっていいのか私は少し疑問に思います
じゃあどうなんだってうまくいえませんが(私ごときに)
181 :
↑:2000/12/06(水) 10:36
なんだそりゃ。もちょっと考えてから書けよ。(「伊藤」という人ではないぞ)
182 :
考える名無しさん:2000/12/06(水) 14:02
age
183 :
考える名無しさん:2000/12/06(水) 18:20
ほれほれ、あまり虐めるから
> 好きなものを「好き」と言っただけで「信者」などと魔
>女狩りされたり、たちの悪い酔客にからまれるドヤ街?のような
>2ちゃんねる…
だってよ
>今まで怖くて発言できなかった
んだってさ
「何が何でも竹田はすごい」と言ってる人はいないと思うが、何が何でも竹田を否定したい人はいるようだね。(苦笑)
異常な執着ぶりだな。
185 :
伊藤:2000/12/06(水) 22:53
>180
認識されるべき対象としての「客観それ自体」が存在すると
いうテーゼは、近・現代哲学の観念であり、安易にギリシャ哲
学にまでそのイメージを適用するのは誤解を生み易いので気を
付けたいと思います。
「自分を知るための哲学入門」は、私たちが哲学に深く関わ
る際の心構えを教えてくれますが、「確信成立の条件の探究」
なしに、思考し続けるといずれは出口なしの状態になってしま
うことを特に鮮烈に感じます。
ドゥルーズのような「思考機械」が探索した思索の銀河は、
安易な人間主義に対して有効な批判を行なえるのですが、ドゥ
ルーズはその認識自体を問うことはしないので、今度は自らが
「欲望する機械」に振り回されてしまうことになるのです。
このような「悲しげ」なドゥルーズの姿に自分の生きざまを
重ねてみるだけならまだしも、ドゥルーズが自ら生を対価に試
行して幸運にも獲得した概念を並べ立てて、ここに新しい世界
像があると誘惑する人たちが80年代に出現したのです。
「自分を知るための哲学入門」は、そのような風潮に対抗す
るための思考を提示しないことは哲学者の怠慢にほかならない
ことの表明でもあると思います。
186 :
考える名無しさん:2000/12/07(木) 02:30
そして、その80年代に生れた思想が未だ色あせていない。
当時の流行思想はとっくに廃れてしまっているというのに。
187 :
考える名無しさん:2000/12/07(木) 02:32
その80年代に生れた思想 ってなにがあるの?
わりい、わからん
188 :
考える名無しさん:2000/12/07(木) 04:24
竹田のような素人の話しは笑止にたえない。
「素人の話しは笑止にたえない」という「プロ」(?)ののたまうことと言えば、「背表紙の引用が間違ってる」「原語が読めない」程度の瑣末な批判でしかない。いくら自分はプロのつもりでもそういう素人以下の言動しかできないんじゃ哲学やる意味ねーじゃん。
同感だな。哲学者が人格者でなければならんとは思わないが、にしてもあんなに幼稚な態度しかとれんのでは話に成らんよ。己がルサンチマンさえ自覚できない哲学って、一体なんなんだろうねえ。
191 :
考える名無しさん:2000/12/07(木) 20:08
まだあったのかこのスレ
>「背表紙の引用が間違ってる」「原語が読めない」程度の瑣末な批判でしかない
これって瑣末か?
>己がルサンチマンさえ自覚できない哲学って
意味分らん?「ルサンチマン=嫌悪感」じゃないでしょ?まさか?
それから、こんなところに「プロ」はこないだろ
「プロ」は完全黙殺しかしないだろ。皆暇じゃないんだから
屈折した素人コンプレックスはもうやめたら
192 :
考える名無しさん:2000/12/07(木) 20:46
瑣末でしょうね。「屈折した素人コンプレックス」てのは自分のことでしょう。
193 :
うんこ:2000/12/07(木) 20:52
中身がないんだよ、中身が。
もっと中身のある批判をしてみろよ。
194 :
考える名無しさん:2000/12/07(木) 21:07
もともと中身の無い著者と著書に対しては
中身の批判はしたくてもできないのでは?
195 :
考える名無しさん:2000/12/07(木) 23:09
それは批判者に中身がないからであろう。
196 :
考える名無しさん:2000/12/08(金) 01:10
ル・サンチマン?
ウマイの? それ?
るさんちの入ってる饅頭。
198 :
考える名無しさん:2000/12/08(金) 03:31
ニーチェ印の温泉饅頭
食べると、アンチ・キリスト教になれます
199 :
考える名無しさん:2000/12/08(金) 03:59
まともな批判も書けないなんてね。
哲学版にいるいみないじゃん。
200 :
考える名無しさん:2000/12/08(金) 04:19
ル・サンチマンは吉本印。
とっくの昔に賞味期限が過ぎているので食べると逝きます。
201 :
@@@:2000/12/08(金) 04:20
202 :
考える名無しさん:2000/12/08(金) 04:44
くだらんこと書くな〜。>ル・サンチマン
203 :
@@@:2000/12/08(金) 04:47
204 :
考える名無しさん:2000/12/08(金) 08:59
>>191 「嫌悪感」感じるのは個人の勝手だけど、それをわざわざ好きな人間集まってるスレへやって来てただ垂れ流しにするなんてのはルサンチマンな態度だろうね。手前勝手な感情を喚き散らすしかできないなんて、そこらの子供と一緒。
「ル・サンチマンな」か。
形容詞的な用法もあるんだね。
206 :
考える名無しさん:2000/12/08(金) 20:26
「何が何でも竹田はすごい」とかいう「レッテル」もあるらしい。
207 :
考える名無しさん:2000/12/09(土) 02:09
age
208 :
考える名無しさん:2000/12/09(土) 02:38
饅頭はどこだ?
アソコにある。
209 :
考える名無しさん:2000/12/09(土) 18:18
フッサールの理解はやはり竹田がずばぬけている。
ハイデガーはフッサールがわかってないと到底理解できるものではないからやはり竹田がずばぬけている。
210 :
考える名無しさん:2000/12/09(土) 23:21
「アソコ」は英語でなんという?
「ヴァギナ」!
はずれー、「ザット」です!
211 :
考える名無しさん:2000/12/10(日) 00:23
もういい!おまえら全員バカ。小西聖子でヌク。
212 :
考える名無しさん:2000/12/10(日) 04:20
213 :
考える名無しさん:2000/12/10(日) 05:44
214 :
考える名無しさん:2000/12/10(日) 05:48
饅頭をほうばる竹田
215 :
考える名無しさん:2000/12/10(日) 08:17
216 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 00:54
agr
217 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 13:53
上げ
218 :
こんな感じですか。:2000/12/12(火) 00:23
竹田はあまりにも「そのまま」過ぎる。
著作名にしても、「自分を知る為の哲学入門」とかさ。こんなの恥ずかしい。素人臭い。
内容もおんなじ。ダイレクト「過ぎる」所とか分かり易「すぎる」ところに反感を覚えるのです。だってこれじゃ誰でも分かってしまう。
どうしても「その分かり易さこそが問題なのだ」と言いたい。
だって竹田はダサいよ。それに加藤典洋つながりだし。
竹田は陽水以外はどういうの聴くか、文芸は読むのか等教えて下さい。それがかっこよかったらいいかな。
219 :
>218:2000/12/12(火) 01:12
「だってこれじゃ誰でも分かってしまう。」ってえのはどうなのか。素人に分かられると何か都合の悪いことでもあるのかな。哲学は哲学者だけで独占したいとか。
哲学プロパーは、いたずらに難解さを演出することで高邁深遠なイメージを保たせたいんではないのか?素人臭いってのもなんか一般社会への拒絶に見えるんだが。まあ一般人ダサいと言われりゃそれまでだけどさ。別に竹田を読んだからって哲学の全てが解明されて哲学者が飯の食い上げになるとは思えんし、哲学の意義が広く社会に理解されることは必要ではないのか。竹田はその意味でよい仕事をしていると思う。
220 :
死刑囚。:2000/12/12(火) 03:20
>281
なるほどね。確かに「自分を知るための」とかダサ過ぎるネ。あのタイトル見て本買うヤツって友達になりたくないもんオレσ(^◇^;)
そのあたりのことで若い学生さんが竹田を敬遠するのは決しておかしな感度じゃないと思う。
さて、もともと竹田は文芸評論家で出発点は在日文学です。
今の大学生が生まれたころ、1977年に「帰属への叛乱」という評論でデビューしました。
日本の文学には在日文学という潮流があって、竹田は金石範・金鶴泳・李恢成などの在日作家を取り上げることで評論家となったわけです。当時はまだ学生運動の名残があり、出版社の思想体質も現在とはかなり違っただろうし、竹田自身が「在日」ということもあって、ずいぶん重宝がられたのではないかと予想します。
でも当時の竹田の評論を読めばわかるけど、竹田は周囲が期待するような「在日」の特殊性だとか、虐げられた「在日」という文脈でものを語ることはしなかった。読めばわかるけどかなり骨太な評論です。
骨太ということで言えば、竹田の現象学解釈ですが、一般に知られているのはNHKブックスの「現象学入門」や「はじめての現象学」ですが、竹田には「エロスの現象学」と「意味とエロス」というかなり専門性の高い二冊の解釈本があります。「現象学入門」では飽き足らない人には是非読んでもらいたい二冊です。
そして、忘れてはならないのが、いわゆる「ポストモダニズム批判」です。80年代のニューアカブーム、薄気味悪いくらいに右へならえだったあのブームに殆ど一人で抗ったのが彼です。なかなか出来ることじゃない。
221 :
死刑囚。:2000/12/12(火) 03:21
>その分かり易さこそが問題なのだ
竹田は対抗ポストモダニズムという戦略上、「分かり易さこそ問題」だとかいう類の言い回しを腐るほど相手にしているので、何をいまさらという感もあるが、一応言っておく。
竹田はいたるところで若者に限らず「ある種」の人々が「知的権威主義」に陥る理由を明確に解き明かしている。そしてそのことによって「考えること」がどのようにスポイルされていくのかも解いている。
そしてなにより本来の思想というものは、「知的権威」に彩られた難解な事柄に抗う「力」だと言っている。
「そういう理由で、思想が一方でものごとの原理を適切に追い詰めていく力とともに、膨大かつ複雑な知識の見せかけで権威を作り出す、知的な権威主義に抗う能力を持っていることは、とても大事なのです。
この人はいろいろ難しそうなことを言っているけれど、要するに考え方の基本型はこういうものだ、ということがはっきり取り出せるようになると、どれが優れていて、どれが駄目なものか自分で判断がつくようになります。この技術は、知的な権威主義におびやかされない能力でもあります。だから、まずこの力がないと、ああ言われればそう思い、こう言われればそう思うという具合に、まったく自分で考えることができず、ただ権威に従って考えるだけのことになるわけです。」(竹田HPより)
竹田は「分かり易く」書く確信犯なので、やろうと思えばいくらでも難解に書くことは可能だとおもう。実際、難解な文章ほど書くのはスゴイ簡単。オレも2ちゃんで実験済み。
ただ、一言だけ言っておくと、竹田現象学は皆が思っているほど容易にものに出来るもんじゃないし、理解しただけではまったく意味のない思想death
222 :
考える名無しさん:2000/12/12(火) 05:23
>218
竹田自身、哲学の権威を相対化したいんだろ
簡易にすることで。
だから、「哲学の解体」という流行のモチーフからすれば、
竹田はそのモチーフにある意味忠実なわけだ。
もっともその忠実さが凡庸さに映らないわけではないが。
223 :
考える名無しさん:2000/12/12(火) 05:51
224 :
考える名無しさん:2000/12/12(火) 06:00
>223
だれだ、荒らしてるのは!ゴルァ!!
225 :
竹田批判:2000/12/12(火) 15:23
『(略)〜「権力一般を解体する思想」を見いだすこととも、哲学の営みとはまったく関係ない!
こうした社長の年頭所感のような駄文ばかり連ねている哲学研究者はほんとうに困ったものです。』
By 中島義道
226 :
考える名無しさん:2000/12/12(火) 22:10
確かに、ハイデガー・プラトン・ニーチェという、まるで天皇のような権威が控えていてその大宣誓に目配せしながらすごすごと論文を書かねばならないような分野にああいう無謀なことをやってのけたというのは偉いな
でも、あれで哲学が一般人に浸透するかと言えば、そうかな?
分りやすすぎるというのは(俺はそうは思わんが。一見分りやすそうで「何言ってんだか」ってことはよくある)「あぁ、もうこれで分った。もう××はいいや」になっちゃう気もするが
確かハイデガー入門にはその後の読書案内みたいなものもあったけど
竹田呼んだ人のどのくらいがそこまで進むか?
だからって何が問題かっていうと、べつに大したこともないのかもしれないけど
俺は大学の大先生たちってのはそう捨てたもんでもないと思うが
竹田(や他にもいるわな)のおかげで妙なアカデミズム蔑視みたいな風潮ができるのもどうかと思うな
クソ教授が困るのはそれでいいんだけど。え?誰のことだって?言えるかそんなこと!
227 :
考える名無しさん:2000/12/12(火) 22:14
大宣誓だってよ…
しかし、叩きやすい書込みがあったら途端に盛り上がるというのがここらしいというか何というか…
228 :
死刑囚。:2000/12/13(水) 01:56
>225
その文章だけ読むと、殆ど竹田が言いそうなことだよ。
「権力の解体」という大義名分のために、「思想・哲学」が
餌にされてきたわけだ。
いいこというよ、その中島って人。
229 :
考える名無しさん:2000/12/13(水) 02:38
哲学が人生論になってしまって見かけの深淵さが損なわれるのをのを恐れる奴ってくだらないよ。
230 :
考える名無しさん:2000/12/13(水) 03:28
吉本印の饅頭は?
>228
>その文章だけ読むと、殆ど竹田が言いそうなことだよ。
さすがです、私も同感。
ちなみに出所は「人生を<半分>降りる」新潮OH!文庫。
その本は暇つぶしに手にとったんだけど、哲学「学者」への罵詈雑言
がいっぱい書いてあって、ある意味おもしろかった。
中島氏は電通大のセンセイだそうだ。
232 :
>222, 225:2000/12/13(水) 13:23
哲学を一般人に利用可能なものとして紹介することと、権力を解体しようと図ることは別だと思うが。竹田が権力の解体なんて妙な野望のために入門書を書いてる?(んなアホナ)。
233 :
>226:2000/12/13(水) 13:24
哲学の意義が一般に広く共有されるってのは、誰もが「存在と時間」を読むことではないんではないか。哲学が確かに世の中に必要なものだと多くの人に認められるなら、「あぁ、ハイデガーはもういいや。あとは専門家に任せよう」でいいんじゃない?哲学的な思考を現実に生かすかどうかはその人次第なんだし。竹田が目指してるのは一般人との「哲学の共有」ではなくて、「哲学的思考の共有」ではないんだろうか。アカデミズムはそのへんの社会還元をあまり考えてなったように見えるんだが。
おれもアカデミズムはそれなりに尊敬すべきものだと思うけど、批判を受ける余地は当然あるわけで、蔑視される恐れがあるから批判するなみたいなことなら本末転倒でしょう。竹田のアカデミズム批判に不当な面があるならどこがそうかを言えばいいんで、素人だからダメとかそういう話じゃない。
235 :
考える名無しさん:2000/12/13(水) 16:39
竹田の功績はノーベル賞ものだよ。
ル・サンチマンの克服を賞して?
ジョンイルはノーベル独裁賞(byゴーダ業家)
ジョンイルはノーベル独裁賞(byゴーダ業家)
239 :
考える名無しさん:2000/12/14(木) 02:20
竹田と「ル・サンチマン」は無縁でしょ?吉本だろそりゃ。かんけーねーじゃん
240 :
考える名無しさん:2000/12/14(木) 03:38
竹田を読んでハイデガーが分かった!
241 :
考える名無しさん:2000/12/15(金) 03:26
なに??
>239
「ル・サンチマン」は竹田にしっかりと引き継がれています。
吉本って竹田のことをどう思っているのかなあ。
243 :
考える名無しさん:2000/12/15(金) 21:49
>「ル・サンチマン」は竹田にしっかりと引き継がれています。
どのように?
244 :
考える名無しさん:2000/12/15(金) 23:10
はっ
間違い方だよ・だよ・
245 :
考える名無しさん:2000/12/15(金) 23:25
アンチさんのお陰で、すっかり盛り上がってしまった竹田スレ。
なんか羨ましい。
>243
若いんだね。
247 :
考える名無しさん:2000/12/16(土) 02:07
僕は哲学のことは何も知らない青二才でしたがタケダセイジの
本はわかりやすくて内容も良かったです。おわり
248 :
吾輩は名無しである:2000/12/16(土) 03:53
実存の深い人間は経験も理論的に掘り下げるから
説得力があるのだよね
249 :
考える名無しさん:2000/12/16(土) 09:48
「深い」って言うのが竹田信者のキーワードだね。
浅いところにも色々あるんだけどね。
250 :
考える名無しさん:2000/12/16(土) 10:08
「深い」なんてのは
「読者と作者の考え方が同じで(かなり似通っていて)
深いところまで波長が共鳴した」みたいなもんで、
論の正当性とはほとんど関わりのないことだと思う。
哲学書ってのは生き方ハウツー本じゃないってことぐらい
わかるだろうに。
”善く生きる”とかは倫理学・道徳・宗教。
哲学は深く関わってるが、それじゃない、と思う。
「やさしく平明な語り口」という姿には
整地される前の土地の起伏や除去される前の堅固な大岩の影が
全く見られないんだということを考える必要はあると思う。
哲学書の翻訳がすごく読みにくいということからも
わかるんじゃないかな。
251 :
考える名無しさん:2000/12/16(土) 18:54
よんでもわかんないくせに難しい表現をありがたがるよりはいいけどねぇ・・
252 :
>251:2000/12/16(土) 19:22
そうだね。
工業製品でも人間組織でもあてはまることだけど、
間違っていたら間違いが明示される構造の方が、
意味不明のブラックボックスに隠されるより優れている。
253 :
考える名無しさん:2000/12/16(土) 20:24
「わかりやすい、わかりやすい」って何が「わかった」と言うのだろう。
とにかく自分の信じているものが他のものより「優れている」と確認したくて仕方がないようですね。
それが「普遍性」ってやつを尊ぶ人の落し穴だな。
254 :
考える名無しさん:2000/12/16(土) 23:23
竹田青嗣は余り読んだことがないが、あれが本当に
「わかりやすい」かどうか。
語り口の平明さと、内容の難しさはまた別のものだよ。
いくら易しく書こうが、哲学が根本的に抱く「難しさ」を
避けて通ることは出来ない。
肯定するにしろ否定するにしろ、
「やさしくしか読めない」
のはチト、悲しいね。
255 :
考える名無しさん:2000/12/16(土) 23:29
256 :
考える名無しさん:2000/12/17(日) 01:24
竹田の言うことは平易には書いてある物もあるけど、それでも竹田のつかう「エロス」ということばの意味がわからないってやつが必ずいる。
こういう輩が他の「哲学の難しさ避けて通れない故に用いらなければならない難しい術語で書いてあるを哲学書」を読んで果して何がわかるというのだろうか。いいや、なにもわからない。
257 :
直し:2000/12/17(日) 01:27
書いてあるを哲学書→書いてある哲学書
258 :
考える名無しさん:2000/12/17(日) 10:53
あ、俺「エロス」わかんない。
説明的な文章のどこに「エロス」が宿ると言うのだろう。
259 :
考える名無しさん:2000/12/17(日) 13:51
別に難しく考えなくても。「快苦」ってことでしょ。
260 :
考える名無しさん:2000/12/17(日) 14:37
>255
それっぽいのは時々あるが…
というか、その専用掲示板の主がここに出てきて一人で煽ってるって気もしないではない
261 :
考える名無しさん:2000/12/18(月) 04:33
竹田か・・・・・
下らないアマチュアだな。
262 :
考える名無しさん:2000/12/18(月) 04:38
でも確かどっかの大学で教えてなかったっけ?
263 :
考える名無しさん:2000/12/18(月) 05:17
またこのくりかえしか・・・
264 :
考える名無しさん:2000/12/18(月) 05:44
265 :
考える名無しさん:2000/12/18(月) 15:11
age
266 :
考える名無しさん:2000/12/18(月) 21:56
竹田の時間論を超えるものがあるのだろうか。
267 :
考える名無しさん:2000/12/18(月) 22:57
あるわけないだろう、そんなもの。
268 :
考える名無しさん:2000/12/18(月) 23:10
てゆうか竹田に時間論はない。
269 :
考える名無しさん:2000/12/18(月) 23:18
そういえば、そうだったかも。
270 :
考える名無しさん:2000/12/19(火) 02:37
え・・?あるよ、竹田のエロス論的時間論が。
271 :
考える名無しさん:2000/12/20(水) 04:35
>270
おいおい、あれが時間論なのか(笑)
↑
あれがってどれだよ。
何も知らんくせに下らん煽りすな。
273 :
270:2000/12/20(水) 07:26
ほんとだよ
274 :
270:2000/12/20(水) 23:51
竹田先生の授業出たいなぁ〜明学生いないの?
275 :
考える名無しさん:2000/12/25(月) 22:27
age
276 :
考える名無しさん:2000/12/26(火) 17:50
竹田は、まともな哲学徒なら、誰も相手にしない、
ただの素人の哲学ヲタ。
こんなの相手にすると笑われ者になるよ。
竹田のシンパの人たち、論争には応じるよ。
277 :
>276:2000/12/26(火) 21:07
ではまず「まともな哲学徒」とは何か、説明してくれ。
278 :
考える名無しさん:2000/12/27(水) 23:08
答えはどした?
279 :
考える名無しさん:2000/12/28(木) 07:01
朝日新聞2000.12.24河谷史夫氏(本社編集委員)の書評より
天皇の戦争責任について、ここにまじめな人たちがいて論じ合うこと前後二回、十数時間ずつに及んだとあ
る。
「ある/ない」でいえば対立する二人の間を「天皇論議にうんざり」の竹田青嗣が取り持ち、
うまく「思考実験」を競わせるという出来になっていて、たいへん読みごたえがある。
この本はわれわれが「考えるべきことを考えなければならない」(竹田)きっかけを作るであろう。
280 :
考える名無しさん:2000/12/28(木) 07:50
竹田青嗣は今の現代思想家の中じゃ〜珍しく正気だよね(笑)
古代ギリシャさながらに原初的な哲学の復活とは言い過ぎ?
そんななか、彼に対してどんな俗悪な誹謗がなされるか容易
に予測がつくというもんだ。竹田もよく承知してるし。
そんなもんほっときゃいい。哲学するなら。
今の現代思想家?
282 :
>280:2000/12/28(木) 18:33
「まともな哲学徒」なら俗悪な誹謗や揚げ足取り以外のものできるはず、と思ったんだが間違いだったかな。
283 :
>281:2000/12/28(木) 19:26
竹田は今の現代思想家、小林秀雄・吉本隆明はかつての現代思想家。
284 :
考える名無しさん:2000/12/28(木) 22:14
>279
なんのこっちゃ?
『不敬文学論序説』のほうがマシみたいだな。
285 :
考える名無しさん:2000/12/29(金) 05:40
ルサンチマンを口にして、対立陣営と見なす者を非難する連中って、ちゃん
とニーチェを読んだのかね。どうも熟読してないだろう。しかも、それを「外
国」である日本で適用する際の注意深さも皆無。馬鹿のひとつ覚え。
2chでルサンチマンが中傷語と機能する場合、せいぜい、アニオタやら厨房
といった後ろめたい何物か、という程度の理解しかみたことないね。
蓮實、浅田の賤民らしいデマゴギーにも達してない。
ツァラトゥストラさながらの高貴な強者がどこにいるかね?蓮實や浅田が?(笑)
小林秀雄にルサンチマンを抱いて、おフランスの概念モデルを拝借して、反逆を
企てたのが、蓮實重彦、浅田彰だ。それはそれで無意味だとは思わないがね。
竹田青嗣が、自分にとって切実な問題から出発して、社会と向き合うという
野蛮な正攻法を復活させてくれたなんて、嬉しい限りだよ。今は、そっちのが
シンドイいんだからね。
そもそも2ch投稿者の腹なんて、タチの悪いルサンチマンの塊じゃん。
あんたはツァラトゥストラか?卑怯者だろ?下種かな?
↑
なんちうキショイ文体……。
言ってることも全然わからん。
ルサンチマンの使い方がなっとらんてこと?
蓮見・浅田はルサンチマンを抱いているが無意味ではない?
竹田のやり方は野蛮だがイイってこと?
2ちゃんの投稿者はルサンチマンの塊?
あのさー、もうちっと分かり易く書いてくれ。
ちなみに何かを言いたいなら、そういう考えに至った理由・根拠も
書いてくれ。2ちゃんの書き込み自体を批判してるようだが、君の
書き込みがそれらを上回っているとは思えんぞ。
自分には正統的な知識があってお前等にはない。自分にはルサンチマンを使う資格があって、お前等にはない」285はそう言いたいんでしょ。ワカいね。(苦笑)
288 :
考える名無しさん:2000/12/29(金) 18:15
「なんて、嬉しい限りだよ。今は、そっちのがシンドイいんだからね」
それから前を見ると
「おれはあの瞬間が「ターニング・ポイント」だったね」
「竹田って筋金入りなんだと分かる。」
「そんじょそこらの哲学徒に批判できる程竹田の思想は弱い思想ではないってことだね。」
明らかに煽り的なシャレの書込みを除いてもこの手の痛い書込みが多数あって楽しい。
個人的には、この二つがすごく受けた
「俺は竹田が知の詐欺師でもかまわない。
所詮、知にはそういう側面があるから。」
「「哲学の難しさ避けて通れない故に用いらなければならない難しい術語で書いてあるを哲学書」を読んで果して何がわかるというのだろうか。いいや、なにもわからない。」
正気で書いているとしたらなかなか笑える。
あ、一人(じゃないかもしれないけど、多くはないようだ)で書き込んで盛り上げてくれているのはどうやら例の掲示板の人だったようですね。御苦労様。
俺は別に竹田が天才でもかまわないよ
「所詮、知にはそういう側面があるから」
289 :
考える名無しさん:2000/12/29(金) 18:59
例の掲示板って?
気になる。
長い割に無内容だね。なにが言いたいのやら。
>>288 >あ、一人(じゃないかもしれないけど、多くはないようだ)で書き込んで盛り上げてくれているのはどうやら例の掲示板の人だったようですね。御苦労様。
一生懸命わるぐち書いてるのも彼一人だけだったりして(ワラ
292 :
考える名無しさん:2000/12/29(金) 21:49
「なんて、嬉しい限りだよ。今は、そっちのがシンドイいんだからね」
それから前を見ると
「おれはあの瞬間が「ターニング・ポイント」だったね」
「竹田って筋金入りなんだと分かる。」
「そんじょそこらの哲学徒に批判できる程竹田の思想は弱い思想ではないってことだね。」
明らかに煽り的なシャレの書込みを除いてもこの手の痛い書込みが多数あって楽しい。
ってどうゆうこと?
293 :
考える名無しさん:2000/12/29(金) 21:50
294 :
考える名無しさん:2000/12/29(金) 21:51
竹田を叩いてもすぐ切り返されるので、
竹田ファンのなかから、くみしやすそうな人を選んで叩いてみました。
295 :
考える名無しさん:2000/12/29(金) 21:53
ああ、そういうことなたよくわかるけど、ところで288=294?
296 :
294:2000/12/29(金) 21:56
いや。カブっただけ。ただの通行人よん。
297 :
考える名無しさん:2000/12/29(金) 21:58
わかりました。
298 :
考える名無しさん:2000/12/30(土) 06:25
>286、287、288
しかし、頭悪いな〜。
なんとなくわかってきたんだけど、ちゃちゃいれて優越感に浸りたいけど、
そのくせ馬鹿だから、ターミノロジー連発のスレじゃ全然相手にされないような
輩が寄ってくるのかもな。
竹田青嗣の好きな人って、正攻法で、傍から見ると一見”愚直”にみえるから、
こうした見下げ果てたいじめ根性の標的になるのかもね。まあ、しかし、
そういう馬鹿を目の当たりにすることで、ああ〜俺はきちっとテクストと向かい
あっていこう、きちっと自分の問題を見定めていこうという戒めに繋げれば
しめたもんだ(笑)
愚直さを嘲笑えば楽に優越感に浸れると思うのがアマちゃんなんだね。アレを戒めにして地道に考えて行かなきゃな、と思いますよ。ホント。(苦笑)
300 :
考える名無しさん:2000/12/30(土) 15:56
>>299 どちらかと言うと、「愚直はなぜ愚直であるのか」を考えるのが
哲学だと思っているものですので、
「愚直な哲学家」もしくは「愚直な信者を量産する哲学家」
という存在を信頼するのに抵抗がありますです。
ちなみに私は哲学プロパーではありません。
301 :
考える名無しさん:2000/12/30(土) 16:42
愚直を全うすることで愚直を知る。これも哲学でしょう。
302 :
考える名無しさん:2000/12/30(土) 23:59
「自分の方がシンドイ」とか主張する人達ってのは愚直っていうより、単に図太いだけ。
そういう鈍感さが嫌なんだな〜、俺は。
303 :
考える名無しさん:2000/12/31(日) 00:04
誰が主張してます?
でーもねー。愚直だ信頼したくない、って情緒を情緒のまま投げ出されても、それを「哲学」として共有することはできないんだなあ。
305 :
考える名無しさん:2000/12/31(日) 15:29
age
306 :
考える名無しさん:2001/01/04(木) 05:14
竹田青嗣はいまごろ何をしているんだろ?
307 :
考える名無しさん:2001/01/04(木) 07:23
ハナクソほじってる。
308 :
考える名無しさん:2001/01/05(金) 21:34
307のレスの中でまともな竹田批判は一つもない。
309 :
痴人:2001/01/05(金) 23:25
はぁ、竹田氏の著作は好きなんだけど、評判悪いって聞いていたから
ドキドキしながらこのスレッド読んだのだけれど、論理立てて批判で
きる人っていないんだね。感情的な揚げ足取りはあるけど・・・
310 :
考える名無しさん:2001/01/06(土) 00:17
>309
やっぱ竹田がNO1ですかね?
311 :
考える名無しさん:2001/01/09(火) 01:13
竹田青嗣って・・・・
312 :
考える名無しさん:2001/01/09(火) 01:45
池田晶子、永井均は竹田嫌い。
アンチ竹田には他にどんな人がいますか?
中島義道はそこそこ評価してるみたい。
久々に来てみた。ひどいねぇ。
痛烈な批判として取上げるほどのものは皆無。つまり、竹田青嗣との
なんの関わりもない、単なる荒らだな。
こうなるともうダメだね。相手は、荒らしだからさ。理由なんかないん
だよ。とにかくムカツクとか、いじめてやりたいっつう衝動にまかせ
て、板巡回してグダグダとブーたれてるだらしのない掲示板中毒者だ。
このスレは放置して、消滅させるしかないね。しばらくは自作自演、
さらしあげとかで持つかもしれないけど、いずれ奴らも飽きるから。
竹田青嗣ファンの人はもうクソ相手にいちいち応対しないようにね。
314 :
農民ゲリラ:2001/01/09(火) 02:50
竹田の著作の中で「もし君が世界と争ったら、世界の方を支援せよ」ってくだりがあったのですが、いまいち意味がわかりません。
解る方、教えてください。
315 :
名無しさん@1周年:2001/01/09(火) 04:02
>312
中島は違うんじゃない?どっかで竹田の『ニーチェ』を引いて「哲学の本質となんの関係もない」
って言ってたよ。
>314
それは加藤典洋でしょ。
『君と世界の戦いは、世界に支援せよ』
316 :
農民ゲリラ:2001/01/09(火) 07:58
>315
ありがとう。そしてすいません。知らなんだ・・・
317 :
考える名無しさん:2001/01/09(火) 09:08
>316
そうですか、だとすると、
「思想じゃない哲学」にこだわる人たちは
大体竹田が嫌いなわけですな。
318 :
考える名無しさん:2001/01/09(火) 12:32
竹田哲学は物事の本質にすっと直で降りて行くようなところがあって、それは欲望とかエロスというものを中心にして考えるからだと思うのだけど、主客のパラドックスが二元論や一元論では解けない理由が「現存在」という実存的視点の無理解にあるということはやはり疑いようがないことであって、やっぱり竹田は見なおされるべきだと思うんだよね。
319 :
>318:2001/01/09(火) 12:59
単に退屈。
320 :
考える名無しさん:2001/01/09(火) 13:01
哲学というよりはエッセイでしょうね。
321 :
考える名無しさん:2001/01/09(火) 13:04
まあ宮台よりは無害とか、その程度。
322 :
考える名無しさん:2001/01/09(火) 13:05
いい大学に行き損ねるか、大学を卒業し損ねるかのちがいでしょうね。
>>320 ほぼそのまんまのことを田中美知太郎がある哲学者に対して言ったと言われているね
さて、ある哲学者とは誰でしょう?
324 :
>318:2001/01/09(火) 14:14
お前も文章下手
325 :
考える名無しさん:2001/01/09(火) 19:41
>>322 三木清でしょう。ちなみに言ったのは田中美知太郎ではなく
波多野精一だったような気が?
惜しい、正解は西田幾多郎
ま、同じようなことは色々な人が言っていそうですが
とsageて書く
「竹田はテツガクじゃない」のどうのと言ったって、「そりゃ単にアンタにとっての『哲学』と竹田の言う『哲学』がそれぞれ違うものを指してるだけのこってしょ」としか思えましぇん。第一竹田は伝統的ギョーカイ哲学に異議を唱えてるんだから、「タケダ!オメーはオレたち伝統的ギョーカイ哲学じゃない!」って言っても始まらんでしょーに。
>>318 >だけど、主客のパラドックスが二元論や一元論では解けない理由が「現存在」という実存的視点の無理解にあるということはやはり疑いようがないことであって、やっぱり竹田は見なおされるべきだと思うんだよね。
これ、サルにも解るくらい明瞭に説明できますかの?
328 :
考える名無しさん:2001/01/14(日) 01:24
あげ
329 :
考える名無しさん:2001/01/19(金) 01:11
海外で訳されてる日本の哲学書って
なんであんなにひとにぎりなんだ。
330 :
*・ー・*:2001/01/19(金) 01:36
西田や三木や九鬼や小林に比べれば
竹田や中島などは、雄度のレベルが違い過ぎるよね。
331 :
考える名無しさん:2001/01/19(金) 01:48
>雄度のレベルが違い過ぎるよね。
何だそれ?
>未練がましい竹田スレ煽りへ
はい。はい。そうだね。
君らは、お笑い板で、せめてギャグのセンスでも磨くしかないね。
終了。
333 :
考える名無しさん:2001/01/22(月) 07:33
竹田ってカッコイイ。
はいはい
335 :
考える名無しさん:2001/01/24(水) 03:51
<Font Size="5" Color="RED">哲学してますか?</Font>
キミはなんでそんなに懸命になって竹田否定を図るのかな?それこそギャグのつもり?あんまり笑えないけどね。
337 :
考える名無しさん:2001/01/25(木) 01:10
なんで竹田のすばらしさをみんな認めないんだろ?
時間論や存在論、竹田の説明には疑問を挟む余地はない。
↑
だから煽るなっつーの!
339 :
考える名無しさん:2001/01/26(金) 23:19
ファンもアンチもこっちに書いてくれよ〜。
他のスレに迷惑かけるな〜。
340 :
吾輩は名無しである:2001/01/27(土) 04:30
ものすごく丁寧に哲学書読んでそうだ
341 :
大マジ↓:2001/01/27(土) 04:36
なんで竹田のすばらしさをみんな認めないんだろ?
時間論や存在論、竹田の説明には疑問を挟む余地はない。
342 :
白うど:2001/01/28(日) 04:02
「現象学の基本」スレから飛んできました。
ちょっと現象学に興味がありまして
竹田青嗣さんが書いた「現象学入門」を買いました。
で、第一章まで読んだのですが
ちょっと引っ掛かるところが出てきたので
だれかお助け下さい。
第一章では近代哲学の根本問題である<主観/客観>問題と
それについてデカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、といった
哲学者達がどのような解答を与えたかということが書かれていました。
引っ掛かるところというのはカントのくだりです。
近代哲学の<主観-客観>問題に比較的納得のいく答えを与えたのは
カントである、しかしその解答はけっして十分なものではなかった。
と竹田さんは書いていますが、僕にとってみてはカントの解答で十分
だと思うのです。
また「カントは独創的な仕方でデカルトの哲学的な意図を補強しているのである」
とあるのも良く分かりません。
竹田さんによるカントの説明では
<主観>と<客観>のあいだの「一致」は論理的に存在しえない、(略)
およそ人間は物事の「本質」の認識に達することができない。これは人間の
純粋理性の能力の限界であるとされる。(略)つまり物事の「本質」を知る
ことはできず、その「現象」だけしか認識できない。
とありますが、これってまさにフッサールの現象学ではないでしょうか?
343 :
・e・:2001/01/28(日) 05:02
おまえはフッサールの本質直感という言葉を知らんのか〜
344 :
・e・:2001/01/28(日) 05:05
それと上の説明を読む限り武田の解釈はズレてるような。
本質ではなく現象しか捉えられない、というのではなく、
現象こそが物事の本質ではないのか、というのかいわゆるコペルニクス的転回では?
345 :
考える名無しさん:2001/01/28(日) 05:11
引用(の適切さ)がずれているとも考えられます。
346 :
考える名無しさん:2001/01/28(日) 05:24
たしかにもうちょっとわかりやすく引用すべきだな。
347 :
白うど:2001/01/28(日) 05:58
>・e・ さん
まあ、落ち着いて下さい。
本質直感なんて言葉、知らないから
現象学入門なんて本を買っているわけですから。
参考までに・e・ さんが理解する所の本質直感というものを
教えて下さい。
いづれこの本にも出てくると思うので照らし合わしてみます。
348 :
白うど:2001/01/28(日) 06:21
竹田さんのカント解釈
拡大引用
<主観>と<客観>のあいだの「一致」は論理的に存在しえない、
また、デカルトの考えに反して、<神>の存在証明も人間には成しえない。
さらに、およそ人間は物事の「本質」の認識に達することができない。
これは人間の純粋理性の能力の限界であるとされる。
人間は「物自体」についてはけっして認識できない。
つまり物事の「本質」を知ることはできず、その「現象」だけしか認識できない。
このようなカントの考え方は、ある意味でデカルトが企てたことをぶち壊すような考えだと
見えるかもしれない。しかしじつは、
カントは独創的な仕方でデカルトの哲学的な意図を補強しているのである。
カントによれば、およそ人間が世界にたいして問いを立てるその仕方は、
もしそれを突き詰めると三つの問いに要約される。
1.「世界」(宇宙)とは何か。
2.<私>とはなにか。
3.神とはなにか。
これらの問いにぎりぎりのところ人間は答えることができない。これらは、いずれも世界の本質そのもの
を問うような問題だからだ。人間は事物の「本質」の認識からは原理的に隔てられているのだ。
しかしでは人間は何も認識できないのか。そうではない。人間は経験的な世界(現象の世界)
の現れについては、これを正しく認識することができる。そうカントは言うわけだ。
(略)
ここでカントの言う「本質」という言葉は、いわばプラトン的な「真・善・美」と考えればわかりやすい。
真、善、美という「理想」は認識されるものではなく(それは神のみぞ知る)、ただ人間にとって
“意志”されるものなのである。
349 :
考える名無しさん:2001/01/28(日) 17:51
>・e・さん
>本質ではなく現象しか捉えられない、というのではなく、
>現象こそが物事の本質ではないのか、というのかいわゆるコペルニクス的転回では?
それだとたんなる主観主義になってカントが物自体を想定した意義がなくなるのではないですか?
経験は物自体に触発され、主観性(純粋理性)が経験に対して立法する。
経験において物自体から与えられた質料が純粋理性という主観形式によって
形相化されるというか、そうした経験の世界が現象界でしょ?
このような経験(現象)に対して命じる超越論的な主観性の発見をカントは
コペルニクス的転回と呼んだのではないでしょうか。
そして、それに応じて客観も物自体から経験的対象(現象)へと転換し
認識が主観と経験的対象との一致によって定義されるようになった。
対してフッサールは方法論的にでせよ物自体を括弧に入れるわけですよね。
それをアドルノは主観的観念論として批判したと。
ちなみに竹田によるカントの要約は、多少バイアスかかってる感じはするけど
個人的にはそれほど間違っているとは思わなかったです。
350 :
考える名無しさん:2001/01/28(日) 23:39
>343 名前: ・e・ 投稿日: 2001/01/28(日) 05:02
>おまえはフッサールの本質直感という言葉を知らんのか〜
ドイツ人が「本質直感」なんて思い切り漢字で言うワケねーだろ!(ワラ
#それに「本質直観」だべ
351 :
死刑囚。:2001/01/29(月) 02:26
>>342 >白うどさん
カントは物自体(竹田の文脈でいえば客観)を「ある」としたうえで、
人間には認識不可能といっているわけ。
「主観─客観」という図式を、無意識のうちに前提にした上で、
「一致する」「一致しない」などと考えるのは、所詮、同じ穴のムジナ
だと言ってるのが竹田現象学。
デカルトもカントもかかる「主−客」図式を前提に思考している。
デカルトを補強云々は、そういうこと。
あなたが疑問に思ったところは凄く重要。この感覚を了解する
のが一番大変だから。
もっと詳しく説明してあげたいけど、とりあえず、これで考えてみて
ちょーだい。
つーか、最後まで読むように!>現象学入門
難しいとおもったら、『はじめての現象学』へスイッチせよ。
352 :
・e・:2001/01/29(月) 02:46
>>349 なるほど、確かに僕の言い方がチョット断定的すぎた。
ただし「それに応じて客観も物自体から経験的対象(現象)へと転換し
認識が主観と経験的対象との一致によって定義されるようになった」というのはどうも・・
たしかに悟性と、それが範疇を用いて形式を与える現象との関係はそうかもしれないけど、
カントの文脈全てが主観ー客観の一致の問題に収束するわけではない・・・・
僕はカントの専門家ではないのだけど、そもそもカントは“一致”という問題にそんなにこだわてたかなぁ・・
一致って何?
353 :
・e・:2001/01/29(月) 02:49
嗚呼眠い・・・・
本質直観というのは、ようするにかの「判断停止」によって
物事のウワズミではなく、その本質が直観できる、という類のものではなかったっけ。
このあたるりは例の「還元」にも関係してくると思うので
詳しいことはまた。
354 :
白うど:2001/01/29(月) 05:28
第二章 現象学的「還元」について
を読みました。
いやもうなんていうか
ひっかかりまくりというか
わけが分からないというか、
どうなってるの現象学っていやほんと助けてくださいというか
とりあえず以下のフッサールの引用を・・・
現象学的観念論は、実在的世界の(そしてまずもっては自然の)現実的存在などを、否定したりするものではない。(略)現象学的観念論の唯一の課題と作業は、この世界の意味を解明することにあり、正確に言えば、この世界が万人にとって現実的に存在するものとして妥当しかつ現実的な権利をもって妥当しているゆえんの、ほかならぬその意味を、解明することにあるのである。世界が存在するということ、(略)このことは、完全に疑いを容れない。けれども、生と実証的学とを支えるこの不可疑性を理解し、その不可疑性の正当性の根拠を解明することは、これはこれで全く別種の事柄であろう。
(『イデーン1』「あとがき」)
なんですとー!
現象学って存在論ではないですとー!
認識論というか心理学じゃないですかー!
じゃじゃじゃあですよ
なななんでデカルトやカントやらをひっぱり出してこなければ
ならないわけなんでしょうか。
これを読む限りでは
現象学にとっては主観の不可疑性の意味が問題なのであって
<主観-客観>問題なんてまるで次元の違うはなしなんでは
ないのでしょうか????
355 :
ヨーロピアン:2001/01/29(月) 06:42
><主観>と<客観>のあいだの「一致」は論理的に存在しえない、(略)
>およそ人間は物事の「本質」の認識に達することができない。これは人間の
>純粋理性の能力の限界であるとされる。(略)つまり物事の「本質」を知る
>ことはできず、その「現象」だけしか認識できない。
>とありますが、これってまさにフッサールの現象学ではないでしょうか?
<主ー客>を前提としている時点で、フッサールの現象学とは決定的に異なるのでは?
フッサールは、【「本質」を知る ことはできず、その「現象」だけしか認識できない。】
とするのではなく、「本質=客観がある」と人が信じるその根拠は何かの答えを探ろうとし、そしてその疑問に有効な答えを与えるには、<主ー客>図式を取り払う意外には考えられないとしているわけだから。
356 :
ヨーロピアン:2001/01/29(月) 06:49
って351と同じこといってる?
>354
おまえ見込み無し。て優香素養なし。
358 :
ヨーロピアン:2001/01/29(月) 07:35
現象学的観念論は、実在的世界の(そしてまずもっては自然の)現実的存在などを、否定したりするものではない。
(略)現象学的観念論の唯一の課題と作業は、この世界の意味を解明することにあり、正確に言えば、この世界が万
人にとって現実的に存在するものとして妥当しかつ現実的な権利をもって妥当しているゆえんの、ほかならぬその意
味を、解明することにあるのである。世界が存在するということ、(略)このことは、完全に疑いを容れない。けれ
ども、生と実証的学とを支えるこの不可疑性を理解し、その不可疑性の正当性の根拠を解明することは、これはこれ
で全く別種の事柄であろう。
(『イデーン1』「あとがき」)
現象学は現実世界がないっていってるわけじゃないのよね。つまり独我論じゃないの。
それで、世界が確かにあると皆が疑っていない理由を一生懸命考えたんだけど、実存世界と実証学の間で起こるいろんな矛盾を解明するには、方法論として「客観」を取り払う必要があるんだよね。
359 :
考える名無しさん:2001/01/29(月) 16:14
匿名だからこそ自分よりも優れた人間を愚弄できる2チャンネル。 賢者の足下にも及
ばない愚劣な族は肥ダメの中でのたうち回るがよい。
ウジ虫な君らにはぴったりな場所だ。私は天上より見守っていてあげよう。氏ね2チャ
ンネラーのバカどもめ、2度と竹田・現象学掲示板に来るんじゃねー。IP抜いて実名を全世界に公開し
てやる。ぐわっはっはっはぐわっはっはっはぁ。
永井・池田・中島は人気があるみたいだが、実際はどこからみてもヲタ。
許せないのは永井が公的に保護されている分際で竹田に真剣に怒り自著で意地悪く
誹謗をやったこと。永井の読者にバカにされてたいへんな恥になった。文化
を愚弄した罪は重いんだよ。プラトン入門やハイデガー入門なんか俺が出させねーぞ。
おまえら、早く竹田の偉大さに気づいて、竹田の前にひざまづけ。
360 :
>359:2001/01/29(月) 19:44
>ウジ虫な君らにはぴったりな場所だ。私は天上より見守っていてあげよう。氏ね2チャ
>ンネラーのバカどもめ、2度と竹田・現象学掲示板に来るんじゃねー。IP抜いて実名を全世界に公開し
>てやる。ぐわっはっはっはぐわっはっはっはぁ。
その「竹田・現象学掲示板」やってる者だけど実名公表するって、あんたダレ?
361 :
考える名無しさん:2001/01/29(月) 21:25
362 :
>354白うどさん:2001/01/29(月) 21:49
う〜ん、つまり現象学が<主観-客観>問題をどう解決したか、具体的に分かりにくいということかな?
363 :
考える名無しさん:2001/01/29(月) 23:04
誰か359の本質を現象学的に直観してください。
オレは荒らしと見たね!
どこのスレでも返り討ちされてる彼でしょ。ほっときましょう。
365 :
白うど:2001/01/30(火) 04:12
>う〜ん、つまり現象学が<主観-客観>問題をどう解決したか、
>具体的に分かりにくいということかな?
とりあえずそういうことです。
だってフッサール自身が「これはこれで全く別種の事柄であろう。」
と言っているのに、どうして<主観-客観>問題を“解決”したことになるんでしょうか。
現象学は<主観-客観>問題から“解放”はされても“解決”はできないんじゃないでしょうか。
366 :
362・パンの笛:2001/01/30(火) 23:54
>365
僕も竹田さんの言い方では中々はっきり分かりにくい所があったので、疑問に感じたのはよく分かります。私は「現象学入門」最後まで読んでも分からなかったので「はじめての現象学」にスイッチしたけどやっぱり分からなかった(恥)。
参考になるかどうか分からないけど自分なりに「こうかぁ?」と思ったことを書いてみます。
<主観-客観>問題は「世界(客観)の実在は疑わしいが、思惟する“私”(主観)だけは確か」というところから始まり、「客観の認識は可能か否か」と問うている。しかしこれは論理としておかしい。なぜなら「客観の認識は可能か否か」と問うためにはまず「私の内側の主観に外側の客観が対立している」という図式を想定しなければならない。しかしそもそも「世界の実在は疑わしい」というところから始まったのだから、世界の実在も証明せずに<主観-客観>対立図式を前提にするのは誤りである。つまり一旦「せかいの実在は疑わしい」と言った論理の延長上で「世界をどうすれば認識できるか?」と言うのは論理として成立しない、という形で「解決」した、ということじゃないかと。で、その後で、「世界の実在は厳密には証明できないのに、なぜ人は世界の実在を疑えないのか?」と問う方に問題を切り替えた。そこから現象学的還元・「一切は意識に与えられた現象である」という立場が出てきたんじゃないか。フッサールのたどった順序とは違うかもしれないけど(多分違うけど)とりあえず僕はそう解釈してます。
367 :
白うど:2001/01/31(水) 06:07
>366パンの笛さん
ありがとうございます。
う〜ん、でもちょっと違うような・・・
僕はどちらかというと問題の問い方の設定変更に重きがあるんじゃ
ないかと思います。もし解決したとするのならば。
どうにも引っ掛かって第二章から先へ進めないのですが
そもそも<主観-客観>図式を前提とするのがそんなに問題なんでしょうか?
というか、それを完全にとりはずすことなんて可能なんでしょうか?
さらに言ってしまえば
僕が訳わかんなくなるのは
僕が見込み無し。て優香素養なし。
なんではなくて
竹田さん自身が<主観-客観>図式を前提とした自然的な態度から
説明しているから奇妙なねじれが生じて僕が訳が分からなくなるのだ
と逆ギレってみますか。
たとえば P42
こうしてフッサールは、認識論上の問題を解くためには<主観-客観>
の「一致」を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ
<主観>の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに
問題の核心がある、と主張するのである。
という説明がありますが
<主観>の“内部”と言った場合、必然的に“外部”というものが想定され
その外部のことをカントは物自体とよんだのでは?
という疑念が浮かんでしまうのです。
だから大ざっぱなモデル図を思い浮かべるとそれはカントのそれと重なって
しまい、あとはその図の解釈の違いなんではと思ってしまう訳です。
中に入るか、俯瞰するかの違いで。
ところでフッサールはカントを毛嫌いしていたそうですね。
なんででしょう?
368 :
死刑囚。:2001/01/31(水) 07:31
>>366 本質直観にもかかわることだけど、所謂「客観」の真偽性という問題を
意味性の問題に変えることで「解決」したわけだよね。
仰る理解で構わないと思いますよ。
ちなみにフッサールの場合は、竹田氏が何と言おうと──哲学という
学問の要請からして──「学の基礎付け」という観点から出発してい
るので、「自然主義的態度─哲学的態度」という図式が、竹田氏より
ややこしく展開されています。
>>367 白うどさん
フッサールが「全く別種の事柄であろう」といったのは、
「客観」の不可擬性を、実証主義的な、例えば科学等の
記述の体系で以て、了解させるような作業のことです。
>竹田さん自身が<主観-客観>図式を前提とした自然的な態度から
>説明しているから奇妙なねじれが生じて僕が訳が分からなくなるのだ
>と逆ギレってみますか
そもそも言語化することは、客観化作業に他ならないです。
言語が自然的態度から逃れることは出来ない。
現象学を理解するのが困難な所以です。
>>366 死刑囚さんありがとございます。ちょい安心しました。これが「間主観性」というやつかな?(笑)
>>367白うどさん
>僕はどちらかというと問題の問い方の設定変更に重きがあるんじゃ
>ないかと思います。もし解決したとするのならば。
現象学は「主客の一致」を「客観の不可疑性を確かめる」という問いに変更したと僕は解釈してますが、そうではなくて?
><主観>の“内部”と言った場合、必然的に“外部”というものが想定され
>その外部のことをカントは物自体とよんだのでは?
そうだと思うけど、「物自体」はあくまで仮説=ドクサに過ぎないということなんでは?確かに「内部」に対して「外部」は想定できるけど、実際外部が「ある」かどうかは分からない。ただ主観内部に現れた現象はあたかも外的事物の存在を告げているように見えるので、人は外部の実在を疑えないと言えるだけだ。ということではダメ?ま僕も腑に落ちるには結構時間食いましたけどね。
370 :
考える名無しさん:2001/02/01(木) 00:59
>確かに「内部」に対して「外部」は想定できるけど、実際外部が「ある」かどうかは分からない。
おいおいそれじゃー<主観-客観>を前提にしちゃっているじゃないか。
それが伝統的なフッサールのが誤解されてきたって竹田がいってるんじゃないか。しかりしてくれよ。
「主観の内部」ってのは、「(主観と客観の一致を考えるのではなく)主観の側のみで現象を捉える様」を言ってるだけなんじゃない?
371 :
白うど:2001/02/01(木) 05:18
>死刑囚。さん
いや、やっぱりおかしいですよ
>そもそも言語化することは、客観化作業に他ならないです。
というならば、現象学を記述することは不可能ということに
なりませんか?現象学は客観化を否定するんだから。
論理的に循環することになりませんか?
僕はこの問題を考えるとき
自らの肉体を自ら食べ尽くそうとする
ウロボロスを連想してしまいました。
そんなことは果たして可能でしょうか。
372 :
白うど:2001/02/01(木) 05:26
>パンの笛さん
う〜ん、ダメ(笑)
カントは外部を「ある」とは言ってないですよ。
それは分からないと言っているわけです。
「ある」といえるのは主観に現れたものに対して
のみ「ある」と言える。と言っているんだと思います。
そのことををフッサールは「あると確信している」
と言い直しただけなんではないかと思う訳です。
その間にどれだけの差があるのか
僕にはよく分からない訳です。
373 :
陰嚢梅太郎:2001/02/01(木) 06:26
>369これが「間主観性」というやつかな?
間主観って、たくさんの他者の主観が一致することだべ。
>372
フッサールは、客観はそもそも存在しないと言った点ではカントと一緒。
彼は、客観の根拠を、主観の中だけで成立する「確信」のみだと言ったのズラ。
で、確信の由来を、「他人の確信」と「自分の確信」だと考えた。
間主観性というものを持ち込んだ点で、カントとは大きく異なる。
あ〜、陰嚢痒い。
374 :
死刑囚。:2001/02/01(木) 07:26
「間主観」というのは要するに「他者という客観」についての
考察ですね>パンの笛さん 陰嚢梅太郎さん
>白うどさん
仰ることはよく分かる。現象学が「腑に落ちる」ために
は最も重要な点です。
ところで客観化自体を現象学は否定しません。なぜならそれをせずに
生きることは出来ないから。現象学が否定するのは客観化されたものを
「真理」とすることです。
言語についてはまず『現象学入門』のあとがきを読んで下さい。
キーポイントは「客観(言語)」を不可疑のものとして認めること
(あるいは認めざるを得ないということ)と、その実在を否定する
ことが両立し得るということです。現象学第一の関門といっても
いいカモ。
竹田さんは、客観とは客観像に過ぎないと言い、その客観像を
「無限大」という概念に置き換えて説明しています。「無限大」
とは、数学的概念として「存在」しているけれど、我々はそれを
経験することは出来ないという具合に……。
言語という道具は、客観化された不完全なものに過ぎないわけで、
「あとがき」で竹田さんが言うように──それがどれだけ青臭く
聞こえようと──その道具に向き合う人間の態度が重要になる。
言語を使ってパラドックスを造り出すことは容易なことです。
375 :
考える名無しさん:2001/02/01(木) 14:18
だから結局人生論に近付くんじゃないっすか?
皆さん、はじめまして。竹田哲学について、盛り上がっていますね。
哲学者を長い間、悩ませ続けている「主観-客観」問題ですが、これはおそらく、人間の実存的二分性に、その起源を持っているように思います。わかりやすく言うと、社会や自然、あるいは自分から引き離された自分自身と統一を求める自分自身との双方の緊張関係が、その動機になっているのではないかと思います。不安定な自分と言う存在を、超越したいという欲望が、客観や絶対や神を、想定させてしまうのではないかと思います。超越論的志向性とも言いますが、しかしながら、そういう志向性が人間存在に備わっているからといって、それが目指すものが、外部にあるはずだなんて、決して証明できるもではないと思います。カール・ラーナーという神学者が、同じような論理構造で、神存在の証明を行っていますが、納得できる論理ではありません。人間側に神を求める超越論的志向性がある。この事実には疑う余地がない。だから、神は存在する。-というような論理です。人間の側に何かへの志向性があるからと言って、その何かがあるはずだという論理は、成立しません。人間と何かとの結びつきは、何も保証されていないからです。一種の論理的な欺瞞です。
話が脱線しましたが、「主観-客観」問題もまったく同じことです。客観は、神を求めてきた西欧的思考の罠に他ならないと思います。人間にとって、客観や神や絶対なんて、もはや大した意味はないと思います。自分と何らかの外部との関係性を、追い求めたところで、形而上学の罠に陥るだけです。それよりも、人間にとって大切なのは、他者との関係性であり、その関係性の網の目の中で作り出される外部の意味です。外部それ事体が問題なのではありません。核心はその意味にあります。人間の紡ぎ出す社会という共同体の中で、外部の意味をどう捕らえ直して、刷新していくかという相互確信が大切です。物理学者のアインシュタインは、「人間が存在しようがしまいが、月は存在し続ける」と言いましたが、詩人のダゴールは、「私が見つめるから、月はある」と言いました。人間にとって、外部とは、ダゴールが言うように、人間にとっての意味だと思います。アインシュタインの相対性理論も、他者との関係性の中で、意味があるからこそ、その存在価値があるのであって、外部そのものだからではありません。そこで言う意味とは、宇宙の物理学的な構造をうまく説明できるということに過ぎません。その物理学理論が、多くの共同体の構成員の確信妥当の成立条件を満たしているからこそ、成立しているのです。現象学とは、そうした人間の認識構造の原理を暴き出した、画期的な考え方の原理であることを、竹田哲学は説いているわけです。
「真のヨーロッパ形而上学の内奥を究めよ」みたいな人生論とは無縁だよ。
378 :
>376:2001/02/02(金) 02:38
読みにくい。
379 :
ななーし:2001/02/02(金) 02:41
>>376 2CH初心者で持ってる知識を披瀝したいのはイタイほど分かるが
結論だけ述べてくれ。
380 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 03:45
在日って凄い奴多いよね。
381 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 06:01
日本のユダヤ人だね。
382 :
白うど:2001/02/02(金) 06:03
>死刑囚。さん
これはフェアじゃないですよ。
僕が真剣に現象学自体の論理に向き合っているときに
竹田さんのあとがきを読ませられても
なんら納得などできないですよ。
僕が指摘している問題は
「真理の否定こそが真理だ」
というような言葉上のパラドックスではないんです。
純粋に“現象学上の論理”に関するパラドックスなのです。
---------
この後、けっこう長い死刑囚さんに対する反論を書いたんですが
途中で自分でも訳がわからなくなったので
仕切りなおします。
---------
で、ひとつ質問です。
現象学が否定するのは<主観-客観>図式そのものではないんですか?
それとも<主観-客観>図式を「真理」とすることを否定するんですか?
死刑囚さん以外の人の意見もぜひ聞きたいです。
383 :
白うど:2001/02/02(金) 06:12
>>376 ogawaさん
>「私が見つめるから、月はある」
というのは現象学を説明するのには不適切だと思います。
それはまさにカント的でしょう。
現象学はもうちょっと複雑なようです。
僕と一緒に現象学を勉強しませう。
384 :
死刑囚。:2001/02/02(金) 06:58
>白うどさん
>で、ひとつ質問です。
>現象学が否定するのは<主観-客観>図式そのものではないんですか?
>それとも<主観-客観>図式を「真理」とすることを否定するんですか?
「主観─客観」図式そのものは我々に様々な恩恵を与えていて、
竹田現象学はそれを無意味なものとして排除するわけではあり
ません。仰るように、それを真理だとすることを否定しているだけ
です。
こういう具体的な質問ならオレも答えやすい(笑)
385 :
陰嚢梅太郎:2001/02/02(金) 07:08
>383
そうとも言えないんだよな〜。
物は人間にとって対象化されたものとして存在するのに対して、
あらゆる存在の中で心だけは対象化するものとして存在する。
いやぁ、しかし陰嚢は痒いなぁ〜。
386 :
死刑囚。:2001/02/02(金) 07:19
↑
病院へ生きたまえ。
>>376 ogawaさん
熱いねー(笑)
「超越論的」というタームは正確に使って欲しいケド、仰りたいことは
分かるよ。
387 :
ogawa:2001/02/02(金) 09:57
>白うどさん
「主観─客観」図式で、ものごとを考えること自体が、現象学では無意味だと言っているわけです。
そういう問いの立て方自体が、人間を永遠の袋小路へと誘ってしまうのではないでしょうか?
388 :
ogawa:2001/02/02(金) 10:06
>白うどさん
現象学は、複雑さを求めません。逆に、考え方の原理を暴き出す方法です。カントはもの自体の存在を認めてしまったことに、その思考の限界があったと、僕は理解しています。彼の神に対する信仰が、理性の論理的思考プロセスを阻害してしまったと考えています。
389 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 10:10
現象学者と呼ばれる哲学者が何かを書いたり語ったりする。だいたいは彼らの仕事 は文字で書かれる。たとえば「リアルな存在者であれ、イデア的な存在者であれ、あら ゆる種類の存在者そのものが、<まさに能作によって構成される、超越論的主観性の 形成物>として理解される」(フッサール『デカルト的省察』I、118)という文章を書く。 「物は意識によって形づくられる」という趣旨だと思う。この文章を書くときフッサールは 、物(存在者)とそれを構成する能作との関係を、もしかすると記述している積もりであ ろう。しかし、記述されると見なされている能作と構成物の関係は、フッサール自身の 経験から取られたにちがいない。すると、実際には自分が過去に経験したことを想い 出して書くか、あるいは現在フッサールが経験していることを書くかするのだろう。意識 が対象を構成する作業そのものを、われわれは足場を組み立てている鳶職の人たち を離れて眺めるようにして見ることはできない。すると、この文章は、意識の経験を直 接に記述したものとは言えないだろう。フッサールは、ひとつの物語を作り上げたので ある。その物語の内容「意識が対象を構成する」はどこにも見えない。
ヘーゲルは、このことを良く知っていた。主観と客観という二つのものを観察する反省 という構図が、作り話であることを良く知っていた。だから、この構図そのものを何か意 識に対する根源的な所与であるかのようにして、哲学的記述を組み立てることはでき ないのであって、主観と客観というような構図そのものの成立が説明されなくてはなら ない。この構図そのものは真でも偽でもないのであって、ただ意識の経験の全体を体 系的に描くことが全体として成功しているなら、その構図は真理の展開の一つの段階 に組み込まれるのである。
どんな構図でもいい。能作でも、志向性でも、構成でも。意識の構造はそれをどのよ うに描こうとも、その描かれたものは、直接的な所与ではない。現象学者の記述を裏 付ける直接の証拠(明証)が存在すると信ずる現象学者の信念は安全なのだろうか。
フッサールの新しいマヌスクリプトが発見される度ごとに、現象学者は、まるで鬼が目 をつぶっている間だけ身体を動かすことが許されている子どもの遊びを演じるようにし て、すこしずつ立場を変えていく。彼らの記述がもしも額面通りの「現象学的記述」であ るならば、フッサールの遺稿の情報に従ってその内容がジリジリと変容していくというこ とはありえない。今では現象学のなかに無い物はない。昔は断固たる独在論の方法 論的優位を語っていた現象学者が、今では他社性の根源的否定的現れについて一席 弁じ立てているだろう。昔、意識の内在領域に定位することの根源性を説いて止まな かった現象学者は、いま顕現の可能性を支える顕現性の否定の地平を説いていると いう具合である。
390 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 10:32
フッサールが晩年にアナグラムの研究をしていたところを見ると、
彼が拠り所にしていたのは人間の言語能力の普遍的な基盤、
たとえばピンカーの言う言語本能の様なものだったのかもしれませんね。
391 :
ogawa:2001/02/02(金) 11:10
>考える名無しさん
どうして「主観-客観」の思考パターンから、逃れられないのでしょうか?自分の思考プロセスを外部から見ることなんて、人間には意味がないと思います。人間の認識はにフィクションです。しかし、そこに意味がないとは思えません。意味があるからこそ、フィクションは成立しているのです。そのフィクションに、普遍的な意味があるかどうかを、他者の確信成立条件にさらし、鍛え上げていくことに、独我論を超えていく可能性があるわけです。人間は独我論から出発し、他者との関係性の中で、その独我論を超えでていくものです。そこで、普遍性を獲得するだけのフィクションです。
ソシュールだ。割り込みスマソ
393 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 12:33
フッサールの講義録には「現象学者は何よりもまず現象学的に直観することを学ば ねばならない」と書かれているそうだが、現象学らしい態度というものを抽出すると次 のようになる。
1. 現象学者は、直観の本原的な諸源泉を、内的精神的に直観し観察する。
2. 直観の中で本原的に、その生身のありありとした現実性において自らを呈示するも のをすべて、それが自らを与えているがままに、しかもそれが現に自らを与えている限 界内においてのみ、端的に受け取る。
3. その直観があらゆる理性的認識と主張の究極的な正当性の源泉であるから、哲学 研究の真の方法は現象学の直観主義である。
要するに、1.究極の根源的な源泉を、2.ありのままに正確に受けとめることが、3.あらゆる真理の源泉となるという考え方である。源泉の根源性、過程の正当性が、成り立 てば真理に達する方法となるという表象は、源泉→過程→到達型の方法と呼んでい いだろう。
問題は、第一に、何が、究極の源泉、根源的なもの、原的な所与であるかを判定す る方法があるのかどうかである。現象学者は直観によってと答える。第二に、正しい過 程で知るというときの、過程の正しさが何によって分かるかということである。これにも 現象学者は直観によってと答える。第三に、到達するとは何に到達することであるかと いう問題がある。言語によって表現され、概念・判断・推論の形式をもち、真であるす べての判断を包括することという目標を現象学者は掲げないらしい。それどころか「言 語によって表現される」という目標すらもはっきりとは掲げられていない。第三の問いに 対する現象学者の答えは、「直観的にあきらかになることが到達点だ」ということにな るのではないだろうか。
現象学は、直観的に根源的だと思われるところから出発して、生きた体験の流れを ありのままに記述したと直観的に信じられる過程を経て、理解が可能になったと直観 的に思われる境地に到達する。
現象学者は、次のような前提を認めていることになる。「どのような意識であっても、 その意識を意識する反省は、元の意識に対して直観的という関係のなかにある。」し かし、これは自明の前提であるとは言えないだろう。
次のような想定もあり得る。対象に関わる意識は、自己自身について「対象意識」と いう姿勢で関わることができない。対象意識を意識する反省意識はもはや対象意識と 直観的に関わっているわけではない。反省意識はより次元の高い意識である。第n次 元の意識の真理は第(n+1)次元の意識に知られる。ここから生み出される無限の継 起(Succesion)こそ意識の現象の場である。この無限の継起を終了させることのえき る特殊な条件をもった意識を「絶対的な知」とか「絶対的な精神」と呼ぶ。反省がいか にして可能かという問題は、無限の継起をどのようにして絶対知で終了させることがで きるかという問題と同じである。
394 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 12:38
現象学者に「貴方が根源的だと信じていることが、どうして根源的だと言えるのです か」と質問すると、たいていのばあい実証主義、心理学主義、自然主義などの批判を 展開し始める。そのどれもが二十世紀初頭の図書館の書庫で眠っているような学者 の思想であって、現象学的根源性の証明にはならないのだが、「彼らが間違っている 以上、私は正しい」と言いたいらしい。
たとえば新田さんからの引用、「現象学が同時代の他の立場に対して下した容赦な き批判、とりわけに対する批判---たとえば『論理学研究』の批判、『イデーン』期の批 判など---は、実証主義がすでに実在を特定の見方で解釈し、暗黙のうちに素朴な断 定を下していることへの批判であり、経験への還帰が十分な意味で行なわれていない ことへの批判となっている。経験の根源性ということは、単に感覚与件の直接性にある のでなく、経験のなかに知の基本構造そのものが備わっていることにある。経験が知 の全体的な組織を支える地盤性格をもっということもそこから理解さるべさである。この 意味で現象学は、次の点で、同時代の哲学に対して卓越的な洞察に達したといえる。 」(新田義弘「世界のパースペクティヴと知の最終審」新田岩波講座現代思想1、「思想 としての20世紀」9頁)
要旨は次のようにまとめられる。
1. 実証主義、自然主義は、感覚与件の直接性を根源性だと素朴な断定を下したので 間違っている。
2. 経験の根源性は、経験のなかに知の基本構造そのものが備わっていることにある。 経験が知の全体的な組織を支える地盤性格をもつことから理解される。
ここでは、「現象学だけが知の根源性を知っている」と主張されている。しかし、何が 根源的であるかということは「知の基本構造そのものが備わっている」、「知の全体的 な組織を支える地盤性格をもつ」と表現されているのであって、これは「根源的=基本 構造=地盤性格」と述べているだけで、要するに根源的=根源的というトートロジーを 述べているにすぎない。「現象学的記述に構造的に一致する直観内容を根源的と言う 。ゆえに現象学的記述は根源的な所与そのもののの記述である」と言いたいのが、現 象学者のホンネなのではないかと思う。
395 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 12:55
意識の現象を記述するということは、もともと言葉で与えられているのでない事柄(た とえば志向性や時間)を、言葉(「志向性」「時間性の構造」)で表現することであると私 は思う。しかし、この「言葉にもたらすこと」の正しさを現象学は直観的に確認するつも りでいるし、それ以外に確認の方法がないことを告白しているように思われる。
「私が認識の本質を明晰にすることができるのは、私が認識そのものを直視し、認識 自身が直観の内にありのままに私に与えられている場合に限られることは明らかであ る。私は認識を内在的に純粋直観的に純粋現象の内部、純粋意識の内部で研究しな ければならない。」『現象学の理念』(HII46)
志向性を「志向性」と表現することも、雪が白いことを「雪が白い」と表現することも、 そのただしさは、「純粋意識の内部で研究」されなければならないとフッサールは言う。
私は「認識自身が直観の内にありのままに私に与えられている」ことはあり得ない思 う。だから「認識そのものを直視」することはできない。私は自分の意識状態を直視し たような積もりになることはできる。文学者として「意識の流れの記述」をした積もりに なることはできる。「私は私の認識そのものを直視するのであって、認識という心理現 象を観察するのではない」という表現が意味を持つのは、それを理解することができる からである。しかし、理解できることとそれが真理であることとは無関係である。思いを 凝らして「意味のイデア的複合を十全に捉える」、「表現の意味を理解するとは意味を 所有する」、「意味志向の作用を具えている対象を直観する」というような表現があれ ば、それを理解することは可能である。
396 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 12:56
私が眠っている猫を見て「あの猫はエジプトのピラミッドの上でネズミと遊ぶ夢を見て いる」と述べたとすれば、それを理解することは誰にでもできる。「猫の夢の中のネズミ の大きさは猫自身と同じくらいである」とか、 「夢の中のネズミの大きさを猫が直視する」という文を理解することができるのは、私が フッサールの「私が認識の本質を明晰にすることができるのは、私が認識そのものを 直視し、認識自身が直観の内にありのままに私に与えられている場合に限られること は明らかである。」という文を理解できるのと同じ機構のためである。
「主観ー意味ー対象」という三項関係が頭に浮かぶが、「主観と意味との関係」がどう して「主観と対象との関係」(認識)となるかという認識論の定石となる疑問がでてくる。
現象学者は、おおむねつぎのようなことを述べる。
1. 表現は、意味志向の作用を具えており、意味を所有することである。
2. 表現は、その意味を介して対象に関係する。この対象的関係を実現するのが、直観 的表象に基づいて成就される意味充実化の作用である。
3. 直観によって意味志向を充実することと、対象を認識することとは、同じである。
表現には、「意味志向の作用」、「意味を所有すること」、「直観的表象に基づいて成 就される意味充実化の作用」、「直観によって意味志向を充実すること」がある。それ が結局は「対象を認識することと同じ」だというのなら、表現と認識はどこが違うのだろ う。主観と客観の関係を観察する反省する主観(哲学者)という認識論的な構図、言語 とその意味(Bedeutung)の関係を記述するメタ言語という意味論的な構図、意識内の 認識についてその主観側の契機と客観側の契機を直視する現象学的構図という三つ の構図を比べてみよう。
認識論的な構図と現象学的構図には、基本的に二つの関係がある、主観・客観、言 語・意味という対応説型の内外関係と、主観と主観、意識内の二つの契機の明証説型 の内内関係とである。問題は対応説型の内外関係を明証説型の内内関係に還元する ことができるかどうかということである。
397 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 12:58
「雪が白い」と認識することは「雪が白い」と表現することである。しかし、「烏が白い」 と表現することは、「烏が白い」と認識することではないだろう。
そんな単純なことを言ったのではなくて、「意味志向を充実すること」と「意味を通じて 対象に関係する」ことの間に、非常に深い関係があるという気持であるのだと、現象学 者は弁明するかもしれない。
「主観と意味」との内内関係は、「主観と対象」との内外関係と同じで、意味と対象は 同一であるとまでは現象学者は言わない。
現象学の立場が、次のように語られるとしよう。
1. 表現は、その意味を介して対象に関係する。
2. 認識の目的は、意味を介して対象を認識することにある。
3. .認識体験と意味と対象の相関関係こそが、認識の可能性の源泉である。
ここにいは「表現--意味--対象」とか、「認識--意味--対象」とかの三項関係が出てく る。私が知りたいのは、現象学記述に三項関係が可能かということである。記述の可 能性が、その「直観であること」にあるとするなら、直観的である限りで、三項関係は現 象学的記述に含まれないというべきだろう。三項関係は、記述とその記述された関係 への反省との混合形態であり、本来の記述を導く作業仮説の役目を終えたら、取り外 さなくてはならないと現象学者は考えているのだろうか。
398 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 13:00
私は初期のフッサールは、認識そのものを直観するという二項関係だけが真理の源 泉であると考えて、哲学の可能性はこの二項関係への還元可能性にかかっていると 信じていたのだと思う。晩年のフッサールは、この意味での二項関係への還元が不可 能であることの直観が成立するという立場をとった。二人のフッサールがいる。現象学 者は、この二人のフッサールを二枚のカードにして手に持っている。初期フッサールの 旗色が悪くなると晩年フッサールというカードを使う。晩年フッサールの形勢不利とみ るや初期フッサールというカードを使う。
399 :
ogawa:2001/02/02(金) 13:56
>考える名無しさん
「元の意識」と「その意識を反省する意識」、「主観と意味の関係」と「主観と対象の関係」、「表現」と「認識」、「対応説型の内外関係」と「明証説型の内々関係」、「意味」と「対象」、「記述」と「記述されたもの」、これらすべての二項対立は、「主観-客観構造」を単に言い換えたものに過ぎません。現象学は、そうした二項対立の思考パターンで、考えることを戒めている哲学です。現象学にとって、神のみが知りうるような絶対とか、ものそれ自体とかは、どうでもいいんです。というのは、人間とは真実の世界で生きているわけでもないし、そうした世界を望んでいるわけでもありません。それでも、望むのであれば、ファシズムの世界で生きるしかないと思います。一般の人々はお互いが了解しあえる幻影の世界で生きているだけです。それで、いいんですよ。
フッサールは哲学をプロセスとして考えた学者です。だから、その思考に発展や寄り道があるわけです。それは、すばらしいと思う。これは矛盾ではないかと思える箇所でも、底を流れるモチベーションを汲めば、彼がほんとうに言いたかったことが見えてくるはずです。そのモチベーションを見いだすことが、竹田哲学の神髄です。
400 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 14:36
加藤の現象学批判だね。
でも、引用するならその旨明記すべきだろうね。
知らない人が見たら引用だってわからんだろうに。
401 :
そのとうり引用です:2001/02/02(金) 17:44
「志向性」という概念は、意識のモデルとしては、カメラと対象のような遠隔モデル(カ ントのテキストのいくつかの場面などにみられる主観と客観の二元論)、因果的近接作 用モデル(主としてフィヒテの知識論がこだわった自我と非我が限界を形づくって相互 に関係するというモデル)に対して、遠隔的と因果的という両方の図柄を含んでいる。 遠隔モデルでは「外なる対象と内なる作用という二つの関係項」(二元論)となるのに 対して、志向性では、近接モデルのメリット「最初から両項を内に取込んでいる相関関 係」を生かすことができる。その上「方位的」ということで本質志向性(カテゴリーの作図 )とか、「場面形成的」ということで「生命的な連関」を取り込むこともできるかもしれない 。
「あるものへ向けられている」という矢印の比喩形態をどこまで都合良く拡張できるか ということが、現象学者の腐心するところである。
カント、フィヒテに対してシェリングは「超越論的観念論の体系」で、意識の基本図式 としての生命体モデルを導入し、その意識論モデルの継起的構成と、自然のなかの物 理世界、化学反応世界、有機世界という構成を対応させて「同一哲学」も目的を達成 するという構成を考える。ここで意識のモデルの多様性のメニュが出そろったと言える だろう。ヘーゲルには、シェリングのように自然の存在そのものの中に精神の自発性 の根拠を読みとることが怖かった。シェリングはこうしてショーペンハウエルの意志、実 存、フロイト的リビドへの道を開いたが、ヘーゲルはそれを閉ざそうとした。そして自然 を論理の疎外態に追いやるという戦略を立てた。そうなれば、カテゴリーは自然の継 起と精神の継起の同一性という場に成り立つのではなくて、真空になりたつ水晶宮と ならざるをえない。
402 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 17:46
それにフィヒテやシェリングと違って、ヘーゲルには意識論の基本的なモデルを常に 一貫した形式で保つという思索の一貫性が維持できなかった。彼はいつも意識が勝手 にドラマトュルギーを演じてしまうことに魅せられてしまう。主人と奴隷、男の国家意識 と女の存在感覚、不幸な自意識と絶対者などなど、最後のま とめは中身のない図式に追い込んでしまう。
だから志向性という概念を持ち出せば、意識の記述が整合的でまとまったものとなる という期待はできそうだ。ヘーゲルの意識論が取り込んだ多様な形態の中には、志向 性に該当するものがある。もちろんフィヒテたシェリングの「活動性」(Taetigkeit)の概 念にすでに意識が対象に対して能動的であるというあり方は十分にとらえれていた。 同時にそれが意識の経験の中で対象に本質を付与する機能という理解がされ、また 論理学で本質という概念がつかわれるときに、意識の活動性、能動性が対象にもたら したものという含意を汲み取ることができる。
しかし、これは厄介な問題を生み出す。対象のなかにあらかじめ措定しておいた本 質を意識が対象のなかに見いだすとしよう。意識は対象に二度かかわっていることに なる。第一回では、対象に本質を措定し、第二回では対象の中に本質を見いだす。も しも、この構造がつねに働いているのだとすると、意識は直接的に対象に係わることで 、対象の直接的なあり方を経験しているのか、あらかじめ措定したものを経験している のか分からない。だから、当の意識には、経験の文脈が見えないということになる。
403 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 17:48
ヘーゲルの現象学では、経験する意識は自己が前もって措定(前提)したものを(そ うとは知らずに)目の前に見いだす(vorfinden)する。それが先行する経験の結果であ ることは、「観察する哲学者」には分かるが、当の意識には分からない。
現象学者が、志向性という概念をまるでフッサールに固有であるか、あるいはフッサ ールの独創性が強く発揮されたものと見なすのは、非常に滑稽であるが、 志向性をもとにすると、知の多層性が見えてきて、意識作用の分類(たとえば知覚、想 起、想像、判断などの区別)が可能となると言うのは真っ赤なウソである。知の多層性 とか分類をさばくのに、志向性が顔を出すかもしれないが、もともと志向性というのは「 多層性音痴」の概念である。志向しつつある意識にとっては、対象だけが見えている のであって、その対象を現前していない他の対象と比較して分類したり、知の多層性 が見えて来る筈がない。志向性ではうまくさばききれないで困っている現象学者が、正 直に困っていると言えばいいのに、「志向性から多層性と分類が可能になればいいな あ」と空しい願望を掲げている。
ドイツ観念論では、ひとまず経験する意識と反省する意識を二つの別次元にある意 識としておいて、究極的にその二つの次元が重なる場面(絶対知)を先の方に設定し ておくのだが、現象学者はこのやり方が気に入らないらしく、経験する意識と反省する 意識のひとり二役を意識にむりやり演じさせようとする
論理学の対象はそれに相関する固有の意識作用との関係でのみ成り立つので、独 自の理念性格を実在的な心理体験に還元して説く心理学主義は誤りであるというの は、現象学のジャーゴンの典型的なもので、このジャーゴンが語れないと、現象学者の 仲間入りがさせてもらえない。ドイツ観念論の流儀だと、目くじら立てて心理学主義を 批判する必要はない。本質が実在に内在して見えるということは意識の経験の不可欠 の一契機であり、それを意識が反省的に考察することができなかったとしても、その間 違いを反省レベルでの判断の間違いと一緒にすることはできない。論理(倫理でもいい )の基礎づけの心理学主義を批判したことを、鬼の首をとったように自慢するのが現象 学者の常だが、要するに論敵におとなしく「心理学主義という誤り」という志向性の裏 番組に収まっていて欲しいという願望にすぎない。
404 :
ogawa:2001/02/02(金) 18:09
>考える名無しさん
あなたの書いている論説の文脈の流れが、まったく掴めません。まさに、独我論です。公共の場で、哲学的なマスターベーションを見せられても意味がないですよ。
405 :
考える名無しさん:2001/02/02(金) 20:02
>404
は〜あ公共の場だとしたらあなたが「哲学的なマスターベーション」と判断するのは勝手ですが「見せられても意味がない」と断定はできないんじゃないですか?これを見てなにか考えの役に立つ人がいるかもしれないんだから
407 :
考える名無しさん:2001/02/03(土) 03:51
ここにきて竹田スレが大繁盛
408 :
死刑囚。:2001/02/03(土) 04:44
>加藤尚武HPからのコピペ
いやー、糞面白くもない駄文を長々とコピペしたねー(笑)
これ理解出来た人いる? つーか読む気になる? こういう「難解」な
文章を書き殴っていられるのだから学者って楽な商売だよ。
ところで加藤尚武という御仁の発想というのは、人間の意識だの感覚
だのを「科学的に哲学」するという実証主義的なものなので、当然、
現象学とは立場が違います。
加藤が至る所で「現象学」批判を繰り返すのも当然なわけ。
たとえば、加藤が『形の哲学』という本で逝っていることは
「主観という概念が如何に使い物にならないか」という一事です。
加藤曰く、「主観を巡る哲学はすべて無意味」であり、
「どうして視覚の対象が触覚の対象と同一であるのか?」という
ことこそ「重要な問題」である、と訳の分からないことを言っている。
で、上のコピペしてくれた駄文は現象学批判というより、新田義弘批判
だね。現象学がいう「根源性」という概念を、相も変わらず「真理に達
する方法」などとする理解は、
「ええ加減にせんかいゴルァ!!!」
と言いたくなる。
409 :
白うど:2001/02/03(土) 04:48
>>384死刑囚。さん
了解しました。
でもやはり竹田さんにはこの区別はもっと厳密に
してほしかったなと思います。
やはり「<主観-客観>図式をとりのぞく」
と書かれると<主観-客観>図式=二元化=客観化そのものの否定
と受け取ってしまいますよ。僕だけなのかな・・・
しかし、そうであるならば竹田さんのカント批判は
やや正当性を欠いているのでは?
とも思いますが、キリがないのでもうやめましょう。
>>387ogawaさん
いや、まあ、そうなんでしょうけれど
僕にはその<主観-客観>図式というものが
どんなものなのだというのが分からなかったわけで・・・
その線引きのための質問と受け取ってください。
410 :
死刑囚。:2001/02/03(土) 04:49
現象学に対する加藤の誤解を解くために言っておく。
現象学というのは、物(存在者)の正確な認識条件やその構成要素
を問うたのでは断じてない。それは竹田が言うように個々の「確信成立
条件」を問うたに過ぎない。この違いを加藤は全くわかっていない。
現象学では「根源」という概念も「真理」という概念も、その内実が
変容されているということが全くわかってない。
加藤が主張する「どうして視覚の対象が触覚の対象と同一で
あるのか?」という問題に答えたとして、それが哲学的課題に
何をつけ加えるか?
竹田は加藤に対する書評で
「「……ほとんど何も」と答えるしかない。」
と言っている。
411 :
考える名無しさん:2001/02/03(土) 05:59
80年代の哲学の中で竹田の文章だけが今も読むに値する。
412 :
考える名無しさん:2001/02/03(土) 05:59
ある種の、人類学的資料として。
413 :
考える名無しさん:2001/02/03(土) 06:11
>412
敷衍してくれ。
414 :
ogawa:2001/02/03(土) 09:47
>408死刑囚さん
加藤尚武氏が、科学は真理に到達するという幻想を抱いていることの動機は、いったい何でしょうか?加藤氏の自説は、現代のスコラ哲学のようなものですね。
要約する能力もないんでしょ。なんせ永井スレの「教えない」クンだから(藁
416 :
考える名無しさん:2001/02/03(土) 12:42
分からないものは「排除」すんのね
すねるなよ(藁
418 :
亀レス:2001/02/03(土) 17:57
白うどに賛成
419 :
白うど:2001/02/04(日) 01:56
一歩前進したところで
また引っ掛かりがでてきてしまったんですが
それは「原的な直観」に関するものです。
ぼくなりにまとめてみますと
人間には「直接判断」と「間接判断」があり、
確信の基底というものを考える場合
“類推”“推論”を含む「間接判断」ではなく
それらを含まない「直接判断」の方により重きを置く。
その「直接判断」のなかで
「確信」の底板(根拠)というべきものを「原的な直観」と呼ぶ。
「原的な直観」には二種類ある
「知覚直観」と「本質直観」というものだ。
ようやく「本質直観」が出てきた訳ですが
ちょっとまてよと僕は言いたい。
ここにもウロボロスが潜んでいませんか?
僕にはどうして現象学があっさりと間接判断と
いうものを切り捨てているのかが理解できない。
ではその判断を遂行している内省というものはどうなるんだ
という疑問がどうしても沸き上がってしまう。
現象学的に考えればむしろ記憶や想起などを含む
間接判断にこそ確信の基底をおくべきであってその逆ではないような気がするんですが
みなさんはどうお考えでしょうか?
420 :
白うど:2001/02/04(日) 01:59
「本質直観」にもどうも合点がいかないのでお助け下さい。
或る個的対象は、ただ単に一般に、一つの個的対象、一つのここにあるこのもの!一つの一回かぎりの対象であるだけではなくて、それは、「それ自身において」これこれの性状においてある対象として、その特性を持ち、本質的な述語要素をそれなりに貯蔵させているものである。この本質的な述語要素は、その対象に(略)帰属しなければならず、そうしてこそ、その対象に、他の二次的で偶然的な諸規定が帰属するようになれるのである。そういうわけで、例えば、どんな音もみな、それ自体として、或る本質を持ち、そしてその最上位に、音一般もしくはむしろ聴覚的なもの一般という普遍的な本質を持つのである。
(『イデーン1 』「二節、事実と本質の不可分離性」)
竹田さんは
「要するに現象学で言う「本質」とは、言葉(それによって形成されるなんらかの理念)の意味のことだと考えていい。」
というふうに書いていましたが
僕には言葉なんていうまさに不可思議な存在がなんら無批判にブラックボックス化して
本質直観の中にに取り入れられているのか納得がいかないのです。
言葉の「意味」なんてものをとり入れた時点で必然的に「他者」や「社会」といったものが
ぞろぞろと取り込まれることになると思うのですが。
だとしたらなぜ還元というものをおこなうのか、その動機がまるで分からない。
ん、この問題は僕の還元が足りないだけなんだろうか・・・
うーん、また訳が分からなくなってきました。みなさん考えてみてください。
421 :
・e・:2001/02/04(日) 02:09
上の問題はデリダが『声と現象』で取り上げていた問題じゃないかな。
彼によれば、フッサールが念頭においていた「言葉」というのは、まさに「孤独な心的生活」
のうちに聞こえてくる「私」の声であって、私が私の声を聞く、という自同的な構造は、まさしく
プラトン的な理念そのものであり、この点で、フッサールは他者や社会や歴史なんて“手垢”にまみれた
言葉のイメージなど、そのそも考えてなかった、等々。
ようするにフッサールは「言葉」の問題に本格的に取り組んだわけではない、ということなのかな・・?
422 :
死刑囚。:2001/02/04(日) 05:09
>>414 ogawaさん。
「科学的=真理」という発想は加藤氏だけじゃなく、むしろ世の
中の「一般常識」「一般通念」でしょう。
(哲学屋は別として)、「主客二元論」でなんら不都合を感じない
人々に、現象学を無理強いする必要はないし、それは無理な
話だと思います。
オレは心理学から現象学に進んだんだけど、オレには「主客二元
論」を排して、「世界」を捉え直すそれなりの動機があった。
竹田さんにも「在日」という深い動機あって、現象学を必要とした
わけだよね。
加藤某の思想的動機に限って言えば、「超越論的」に理解する
意味はあるけれど、批判するのはどうか? 飛んでくる火の粉
は払うけど、暖かく見守るのが現象学的な「作法」だろうね。
423 :
死刑囚。:2001/02/04(日) 05:14
>>419白うどさん
「直接判断」というのは平たくいえば「感情」のことです。
「感受」とか「情動」と言ってもいいし、「欲望」と言ってもいい。
その中には「知覚」も当然含まれる。「腹が立つ感じ」とか
「何となく嬉しい感じ」。
この「〜な感じ」一般のことをフッサールは直接判断とか内在
とか言ったわけです。
ある現象の確信というものを確かめる場合、様々な資料を調べ、
専門家の意見を聞き、そして「よし、これだっ!」という「感じ」に
辿りついて初めて、その現象の真偽または優劣といった判断の
確信が、主観に生じるわけです。
この「感じ」が無ければ、その現象を疑うことすらできなくなる。
ようするに、現象学は、どのような要素によって認識が成立する
のかを考えているのでは全くないんです。
これは「主観─客観」図式を前提にした思考です。
この図式を相対化するということが、ちゃんと腑に落ちていないと
還元という作業の意味は永遠にわからないです。
本質直観に関しても同じことです。竹田さんは知覚直観と分けて
議論していますが、これはフッサールの驚異的に緻密な『イデーン』
をなんとか分かり易く書こうとした、竹田さんの苦肉の策で、混乱
を招く可能性があると言うのがオレの意見。
ちなみに「知覚直観」という言葉も竹田さんの造語です。
ところで『現象学入門』は緻密かつ、非常に丁寧に書かれた
テキストです。注意深く読めばオレが下らない解説をする必要
はないとわかる筈です。
424 :
考える名無しさん:2001/02/05(月) 05:45
竹田青嗣だゴルァ!
425 :
考える名無しさん:2001/02/05(月) 06:06
青嗣萌え
426 :
ogawa:2001/02/05(月) 09:49
>422 死刑囚さん
よくわかります。竹田哲学は、他者との間で、了解できない、通じ合わない問題が生じてきたときに、力を発揮するものであって、決して多様化された関係性を統一しようなんてことではありませんからね。
427 :
ogawa:2001/02/05(月) 10:03
知覚直感と本質直感は、事実存在と本質存在と言い換えることもできると思う。知覚直感とは、「〜がある」といったカテゴリーに入ることがらであり、それ以上、認識論的に疑っても意味がない領域であり、本質直感は「〜である」という意味論的なカテゴリーに入る領域であると思う。神の存在をどんなに本質的に突き詰めて行っても、そこから、だから神は存在するという事実存在は、導き出せないというカントの神存在の証明不可能性は、よく理解できる。
428 :
白うど:2001/02/06(火) 02:32
どうやら現象学を学ぶものにとって
『腑に落ちる』ということがもっとも重要な気がしてきました。
ここで僕の立場を説明しておきます。
僕には長いあいだ
僕はどこまでいっても僕の意識から逃れる事はできない。
僕の想像もできないような物はまさに想像すらできない。
すべては僕の意識に還元されてしまう。
という思いがありました。
まさに“主観性の謎”ですね。
そして上のことは(この言葉はあまり使いたくないのですが)
真理だと思える。
ならば自分の主観から一切を説明することも可能ではないかと考えました。
したがって僕にとって現象学へのアプローチは
すでに現象学という答えは正しいとの前提があり
あとは納得のいく証明式をみせてほしい。
という接近の仕方なのです。
ちょっと死刑囚さんやogawaさんにお聞きしたいのですが
このような僕の動機からでは
永遠に現象学が腑に落ちるということはないんでしょうか?
お二人の意見を聞いていると
どうやら現象学というものは哲学というよりも
むしろ宗教に近いもののような気がしてきたのですが
その認識は間違っていますか?
>このような僕の動機からでは
>永遠に現象学が腑に落ちるということはないんでしょうか?
んなこと無い。むしろ現象学向き。
>現象学というものは哲学というよりも
>むしろ宗教に近いもののような気がしてきたのですが
>その認識は間違っていますか?
まいったね……間違っています。現象学はあくまでものの道理を
突き詰めたものです。白うどさんが言う「主観性の謎」も論理的な
ものでしょ?
現象学は別に伊達や酔狂で主観に一切を還元するわけじゃない。
それが認識論におけて原理的なやり方だからです。
現象学が神秘的なものだという認識は全くの間違いで、
徹底して理を追求した結果が現象学なわけです。
でも現象学の考えは、今までの考え方の「習慣を変える」必要が
あるから、これが予想以上に困難なわけです。
だから、今までの考え方で何ら構わないという人たちには、還元を
する意味自体が分からないし、現象学がピンと来ないわけです。
430 :
ogawa:2001/02/07(水) 11:22
>白うどさん
人間は自分の主観を決して超越することはできません。どんなにもがいても、そこにとどまるしかありません。それが運命です。その主観の領域内で浮かび上がる知覚直感と本質観取の成立条件を、物語を述べない形で、確認することが、現象学の認識です。宗教の認識は、それ以上のことがらを真実として、信じてしまうことです。
431 :
白うど:2001/02/09(金) 02:59
もし僕が「宗教」という言葉を持ち出したことで
お二人の気分を害したのであれば謝ります。
が、僕が言いたかった事は、現象学というものは
今までの哲学とは全く異なった視点で世界を捕らえている
ということなのです。
現象学にはいくつかの態度変更が求めれるように思います。
・視点変更・価値変更・目的変更
など
今では視点変更にともなう自然的態度との議論の齟齬と
いうものはよく理解できるようになりました。
ある意味ではどちらの言い分も正しいのですよね。
まるで違う世界についてお互い語っているのだから。
ただ、僕にとってやっかいなのが価値変更と目的変更なんです。
竹田さんはこう書いていました。
問題を「解明」するというのは(これはフッサールがよく使った言葉だが)、
ある事態に一貫した合理的な説明体系を与えるということとはまったく違う。
耳が痛いお言葉です。
前に書いた通り僕が求めていたのはまさに合理的な説明体系だったわけです。
それこそが僕の動機だったわけでどうしても説明体系を欲してしまう。
でも竹田さんの言ってることが正解なような気がしてきました。
まあ、勉強し始めたばかりであんまり悟った気になってもしょうがないので
もうちょっともがいてみますか。
しかし、イデーンは僕には荷が重そうだな〜
432 :
考える名無しさん:2001/02/11(日) 02:12
竹田の現象学がわからん奴、哲学かたるべからず
433 :
考える名無しさん:2001/02/14(水) 02:27
そろそろ竹田青嗣かたろうか
434 :
考える名無しさん:2001/02/14(水) 05:03
やめようぜ、こんな素人の相手するのは。
それから本人が自作自演している書き込みもあるから(笑)
432=433=434でつか?
436 :
考える名無しさん:2001/02/16(金) 05:52
今年は竹田青嗣の年にしましょう!
437 :
考える名無しさん:2001/02/17(土) 04:59
竹田のちくび
竹田の子守唄
439 :
考える名無しさん:2001/02/18(日) 13:40
このスレッド煽っているのは竹田本人だと気づけよ。
自分の本を売るためにしている営業活動の一端だよ。
はいはい。永井スレの「教えない」クンは余程ヒマなんだな。大学に残れなかったのがそんなに心残りか?(藁
441 :
考える名無しさん:2001/02/20(火) 02:08
永井VS竹田をもう一度やってくれ!
442 :
考える名無しさん:2001/02/25(日) 12:24
age
443 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 03:45
竹田信者
444 :
考える名無しさん:2001/03/14(水) 14:48
また、竹田の自己演出かよ(笑)
そんなことより外国語の勉強しろよ、竹田。
早稲田の時の同期のMだよ。
445 :
ERROR:名前いれてちょ:2001/03/15(木) 23:46
朝日新聞上での、教科書問題に関する竹田さんの文を読まれた方いますか?
二項対立を超えて、という基本をしっかり踏襲していて読みやすい文だと思ったのですが。
444はキチガイなんでしょうか?
その通りです。その正体は「教えない」クンです(ワラ
>>444 キミは森田一義ことタモリだろ?同期ったってキミは学費未納で4ヶ月で除籍だし、外国語ったってハナモゲラ語じゃないか。逝ってよし!(藁
449 :
考える名無しさん:2001/03/28(水) 03:09
あげ
450 :
考える名無しさん:2001/03/29(木) 00:14
某カルチャーセンターで竹田青嗣の
現象学の講座に申し込んだのだが、
開講前に地方に転勤する羽目に。
欝だ、氏のう。
451 :
考える名無しさん:2001/03/29(木) 00:17
)\Λ
/ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ M |
∠ /_\ |
/ //´//___|..|\\\ |
∠ //_l/__、 \」__\\\_\_ |
( //____」 v /_____///| |
V ______________ ..| |
| /⌒ヽ |__| ´~⌒ヽ |-| / ̄`|
|(( o ノ| | 、 o ノ |..||_ |
|\  ̄∪ ノ/ \  ̄U ノ .|| || 君も福本伸行キャラを
|v  ̄ ̄ ̄/ U | . ̄ ̄ ̄ . || ̄/| AAで描いてみよう!
.|/./ ̄ / v  ̄ ̄ ̄~\\. || / /
..|| (_、 v 、) U v | ..||_/|
|(「 ̄「 ̄「 ̄「 ̄「 ̄「 ̄「 ̄「` |/ |
.|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|) ./\ |\
..|(「 ̄「 ̄「 ̄「 ̄「 ̄「 ̄「 ̄ノ ./ ..\ ..| ..\
| ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ / \| .\
.| v 、、 、、 、、v U ../ ..\ ..\
452 :
考える名無しさん:2001/03/29(木) 02:02
また竹田の自己演出再開。
竹田は素人だよ。
論ずるに足りない。
453 :
考える名無しさん:2001/03/29(木) 03:25
竹田は世界一の哲学者
>>452 教えないくん。きみの言いたいことは分かってる。プロの哲学研究者になって誰にでも尊敬されるのがきみの夢だった。だがきみが大学に残れなかったのは、きみ自身の力不足なのだ。竹田青嗣を妬んでも何にもならんぞ。自分の人生から逃げるな!現実を直視しろ!大人になれ!!
∫
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
/\ / \ |
| | (゚) (゚) | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(6-------◯⌒つ| < つまんねェスレだな
| _||||||||| | \_____________
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\____/⌒\ ノ )
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| |、_三__,| |__/ |
| | ヽ| ト' | |/^ヽ
| | | |_/ ヽ__人_ノ
⊆, っ とー⊇
∫
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
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| | (゚) (゚) | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(6-------◯⌒つ| < おわれや ココ
| _||||||||| | \_____________
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\____/⌒\ ノ )
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| |、_三__,| |__/ |
| | ヽ| ト' | |/^ヽ
| | | |_/ ヽ__人_ノ
⊆, っ とー⊇
哲学板の問題ドキュソ「教えない」が図星突かれてキレてマス(藁
457 :
考える名無しさん:2001/03/31(土) 07:55
458 :
考える名無しさん:2001/04/11(水) 03:51
あげ
459 :
考える名無しさん:2001/04/11(水) 05:25
おれ竹田以上の哲学者見たことねーよ
>456
どうも私の身振りが伝播しているようだね。
2ちゃんねるに来たのは半年ぶりくらいなんだが、
まだ「教えない」に対するバッシングが残っていて
ちょっと嬉しかったり。
でも、ここではほとんどの人が「教えない」んじゃないの?
なんといいますか、自己分析になってますよ。(いや、これ善意で言ってるのですが、伝わりませんよね、どうすりゃいいんだろ)
私は竹田は利口と思います。永井は運がいいと思います(ニヤリ...
自作自演ご苦労さん。でもきみの自分語りなんか誰も興味はないよ。勘違いすんなよな(藁
462 :
考える名無しさん:2001/04/12(木) 02:57
おれも竹田以上の哲学者見たことねーよ
463 :
考える名無しさん:2001/04/12(木) 04:08
竹田以下の哲学者も見たことないが
煽り、荒らしは放置しませう。
どーせ大学に残れなかった教えないクンの妬みですから。
466 :
考える名無しさん:2001/04/12(木) 22:34
おいおい、いいかげんに辞めようぜ、竹田のような素人のことは。
竹田なんて話題にしたら笑い者だよ。
おいおいいいかげんに辞めようぜ、竹田を妬むのは。
そんな暇あったら就職活動でもしろよ(ワラ
468 :
大学院抑留者:2001/04/17(火) 08:29
つうか、このスレで竹田を持ち上げてる人にまじで聞いてみたい
んだけど、竹田のどこを本気で評価しうるって考えてるわけ?
もちろん、哲学的な知識の一般向けな紹介者として十分に機能し
た、あれだけ消費されたという点は十分に評価されていいと思う。
また、文芸評論家として特別悪い方とも別に思わない。まあ自分の
在日アイデンティテイ丸出しなあのスタイルは殆ど見るに耐えない
けど、あの程度の見苦しさならいくらでもわけだし、たまに結構面
白いものも書くしね。
でも哲学者や思想家として評価するって…どゆこと?(藁)彼の仕
事で現象学研究の文脈(まあ現象学に限定しなくていいけど)にお
いて決定的な解釈の変更になり得た部分ってひとつでもあるのか?
とりあえずもっとずっと地味でもはるかにいい仕事してる研究者は
たくさんいると思うんだが。
ま、いいんだけどね。
>もっとずっと地味でもはるかにいい仕事
地味なのは分かるけど、いい仕事かどうかという評価基準がないからね。
470 :
考える名無しさん:2001/04/17(火) 13:43
>468
>でも哲学者や思想家として評価するって…どゆこと?
あなたの哲学者という定義は、何ですか?それが、普遍妥当性を
もつかどうか、ここに披露してみなさい。
471 :
>468:2001/04/17(火) 23:45
>でも哲学者や思想家として評価するって…どゆこと?(藁)彼の仕
>事で現象学研究の文脈(まあ現象学に限定しなくていいけど)にお
>いて決定的な解釈の変更になり得た部分ってひとつでもあるのか?
つまり竹田青嗣はアカデミズムには認められてないと言いたいんだろう。別に関係ないんじゃないの?そんなうら寂しいムラ社会の身内でしか通用しない価値基準をご大層に振りかざされてもねえ。ニーチェは当時のアカデミズムに排斥されて孤独のうちに死んだんだよね。アカデミズムなんてその程度のもんでしょ。
472 :
死刑囚。:2001/04/18(水) 01:46
>>468 >彼の仕事で現象学研究の文脈(まあ現象学に限定しなくていいけど)
>において決定的な解釈の変更になり得た部分ってひとつでもあるのか?
どちらかというと竹田は現象学の解釈を変更しすぎて批判されている。
>自分の 在日アイデンティテイ丸出しなあのスタイル
これはまったく竹田の評論を読んでない証拠だなぁー
竹田は在日の人たち特有の「北か南か」という帰属問題や、
アイデンティティーが確立しえない現代人の必然性を、
在日文学なかから見出しているに過ぎない。
イメージ批評はやめたまえ。
あと、まともにやり合う気があるなら、相手になってやらんでもない。
哲学の素養があるんなら、何ぞ書いてこいや。
哲学プロパーの竹田批判って、どーしてこう視野の狭いのばかりなんだろうねえ。本と頭の中だけで世界閉じちゃってる感じ。研究業界だけでの特殊な尺度が世間のどこでも通用するわけないのに、そんなこと考えたこともないんだろうな。そりゃ世間から隔絶もするだろうさ。
474 :
大学院抑留者:2001/04/18(水) 02:24
前回の書き方がなんか反発招いたくさいけど。
要するに俺は竹田ファンの人がどうゆう理由で竹田を評価するんかな、と
いう点に興味があるだけ。前にも書いたとおり初学者向けの紹介者として
なら評価しうると思うし、そういう理由なら納得いくわけだしね。
が、なんか竹田を肯定する理由を積極的に提示するヒトが一人としていな
いのって…激しくザソネソ。つか、これから一月くらい忙しくて2ちゃん
来れそうにないんで、最後にちょっと聞きたいこと聞いとくかと思ってた
んだが。まいっか。スマソね。とりあえずレスは返して去るか。
>469
>地味なのは分かるけど、いい仕事かどうかという評価基準がないからね。
普遍的な「いい」という基準があり得ないことは当たり前。その上で、俺は(前に
も書いたとおりだけど、より誤解を少ない形で書きなおすと)哲学的言説の文脈に
おいて、画期的な解釈の変更を行ったかどうかを「いい仕事」の基準と考えてる。
(あ、いうまでもなくこの「画期性」も文脈内で決定されるものだが)まあ、俺は
そういう基準で「いい仕事」かどうかを考えてるわけだけど、とりあえずここで
竹田を肯定的に論じてる人って、何らかの意味で「いい仕事」として、特権的に語
られるに値するものとして竹田を判断してるわけだよね。その基準はどこにあるの
か?それが興味あるわけだ。
>470
おいおい「普遍的妥当性」て…ギャグ以外で口にしていいのか?この言葉(藁)
とりあえず俺が「哲学者」なんて言葉をここで使ってもうた理由は、前に459
とかが「竹田以上の哲学者なんて見たことねー」(ギャグか?)なんて発言して
たのに合わせてなんだけど。その上で、どの程度一般性を持ちうるかはともかく
として、俺がいった「哲学者」ってのは、とりあえず上で書いた「いい仕事」を
してる人間。一応分かりやすく例を出しとくか。例えば、「哲学研究者」を「哲
学者」呼ばわりすることはあまり一般的じゃない(多分)けど、とりあえずデリ
ダやドゥルーズが「哲学者」じゃないと思う人間は殆どいない。彼らはもちろん
本来「哲学研究者」なわけだけど。それはなぜかと言えば、彼らが哲学的言説の
文脈においてまさしく画期的な変更を行い得たからだと思うわけ。いや、かなり
適当に言ってるだけなんだが(藁)
>471
>つまり竹田青嗣はアカデミズムには認められてないと言いたいんだろう。
うんにゃ。例えば柄谷行人なんかは基本的にはアカデミズムから一部を除き殆ど
認められてないけど、部分的には非常に強引な形にせよかなり画期的な解釈の
変更を行っている、と言える(良かれ悪しかれ、だし、昨今に関しては終わって
ると思うけど)。でも、思うに竹田の場合、その思想は基本的にそれこそアカデ
ミズムにおける現象学理解の凡庸な水準からはみ出すような性格を持ってはいな
いし、その点で思想としてはなんらアカデミズムの外部にありうるようなものでは
ない。「文脈において決定的な解釈の変更になり得た部分」がない、とはそうゆう
こと。あとちなみに、「ニーチェ…」以降の部分はあまりにハズイっす。いろん
な意味で。そもそもニーチェを今みたいに優れた思想家として捉え返したのも
アカデミズムであって、それ以外ではないじゃん。貴方の書き方だとあたかも普遍
的に優れた思想家があらかじめ存在してしまうかのようだけど、それって典型的な
形而上学だよね。当たり前だが、哲学の価値だって文脈において決定するものにほ
かならない。要するに、ニーチェをめぐる評価の変化とは、ひとつのパラダイムの
変化にほかならないわけ。あと、全体にルサンチ臭丸出しすぎ。ニーチェ引いとい
て、そりゃねえだろ(藁)
475 :
大学院抑留者:2001/04/18(水) 02:34
省略されとる(ガーン)
あと、書いてる間に何人かまたレスくれたみたいだが。しかも
比較的まともに。さんくすあろっと。
が、眠いので寝るわ(藁)スマソね。6月頃になったらまた来
るかも(このスレあるのか?)
6月になっても来ないに100万ペソ
名無しで書き込むに100万ウォン。
つーか肝心の死刑囚にレスをしないで逃げるところが何とも。。。
478 :
考える名無しさん :2001/04/18(水) 13:36
>474
なんだ、デリダ・ドゥルーズ派か。やっぱり。ふ〜ん。
>一応分かりやすく例を出しとくか。
これが普遍妥当性を意味する文でなくて、何であろうか?
479 :
考える名無しさん:2001/04/18(水) 13:42
>474
>デリダやドゥルーズが…画期的な変更を行い得た
どういうふうにかしら?興味あるわあ!教えて!ふふん。
480 :
考える名無しさん:2001/04/18(水) 17:43
481 :
考える名無しさん:2001/04/18(水) 18:36
つーかアンチの人は入門書出してるのが許せないんじゃない?
勝手に「竹田現象学」とか「ハイデガーを読む」とかなら勝手にやってろ
って感じでなんでもないんだろうけど、人生訓みたいなお話を
「哲学入門」とかいってだしてんのが気に入らない理由でしょ
482 :
考える名無しさん:2001/04/18(水) 23:14
>人生訓みたいなお話を「哲学入門」とかいってだしてんのが気に入らない理由でしょ
そんなんだったら、もっと酷いのいくらでもいるじゃんよ。
「生き方本」だしてる大学教授なんで枚挙にいとまがない。
>>474 >そもそもニーチェを今みたいに優れた思想家として捉え返したのも
>アカデミズムであって、それ以外ではないじゃん。
ワロタ。「ツァラ」はニーチェ最晩年にヨーロッパ知識層で評判になりだしたが、別にアカデミズムが最初に見出したわけでもない。アカデミズムの評価だけでニーチェが広く読まれていると思ってるなら、やっぱりアンタはただの世間知らずだな。それこそハズイよ。
>>474 >うんにゃ。例えば柄谷行人なんかは基本的にはアカデミズムから一部を除き殆ど
>認められてないけど、部分的には非常に強引な形にせよかなり画期的な解釈の
>変更を行っている、と言える
「竹田青嗣は基本的にはアカデミズムから一部を除き殆ど 認められてないけど、部分的には非常に強引な形にせよかなり画期的な解釈の 変更を行っている」・・・とも言えるぞ(ワラ
「どーゆうふうに?」
「まず読めや」
毎度毎度あいまいな言い方で逃げてないで、ちったあ具体的に言って見せろや。せめて一度くらいよ。
485 :
考える名無しさん:2001/04/19(木) 00:46
おれが竹田を評価するのは竹田が思考法の原理を見出したところだ。
486 :
>482:2001/04/19(木) 00:53
研究者は元々評論家に屈折したコンプレックスがあるからっしょ。「あいつら、他人のフンドシで相撲撮りやがって」って、それ言うなら自分たちも過去の偉大な哲学者のおこぼれでメシ食ってるくせに、その自覚はない。(藁
>>476-484
喚くだけ喚いてトンズラだもんね。
他の思想系掲示板でも、竹田批判するヤツって、
ちょっと突っ込んでやると、みんな逃げるんだよ。
議論する気がないなら、いっちょまえのこと抜かすな、
と言いたい。連中には。
488 :
>487:2001/04/19(木) 01:28
竹田青嗣を非難する連中がいかに幼稚かを日々証明し続ける当スレッド。ホント有意義なスレですな。(藁
今後は彼らのことを、竹田フォビア・竹田恐怖症患者とでも呼ぶことにしよう。
489 :
考える名無しさん:2001/04/19(木) 14:05
デリダ、ドゥルーズ、柄谷、彼らの思考方法は、必然的に悲劇を自ら生み出
す論理の流れの系譜にある。
490 :
考える名無しさん:2001/04/19(木) 16:22
随分情緒的な批判するもんだね。
491 :
考える名無しさん:2001/04/19(木) 18:22
竹田フォビア・竹田恐怖症患者か。
(1)まず竹田の著作を読んでるかどうかさえ怪しい。人生論だからどうこうと、「自分を知るための哲学入門」などのタイトルだけ見て言ってるんじゃないのか?どこが人生論で、だったらなぜそれが駄目なのか、具体的な理由が一つもない。ただの印象批判。(そんなに人生論を敵視するのは、何かコンプレックスでもあるのか?)
(2)哲学評論家相手に無理やり研究者の尺度を当てはめようとする。原著は読めるのか・論文は書いたのか。(「お門違い」という概念がないのか?)
(3)研究者以外の人間が入門書書いたらいけないと勝手に決めている。(哲学を自分らの占有物だと思ってるとこがハズイ。つまんねえ縄張り意識は捨てろ。)
(4)入門書を平易に書くのはいけないと思ってる。(哲学が一般人に分かってしまうと都合が悪いらしい。)
(5)竹田は平易に書き過ぎだから駄目、という割には竹田の専門向けの研究書には触れない。(難解な本は読めないのだろう。)
他にもあればプリーズ
493 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2001/04/20(金) 19:48
要するに、哲学やってる学生(院生)は使えないってことだね。(w
494 :
考える名無しさん:2001/04/21(土) 12:55
495 :
考える名無しさん:2001/04/21(土) 13:38
ニューアカ全盛のころもうすでに、ポ・モに駄目出したのは評価できる。
それくらいかな。
竹田青嗣って、何かオリジナルなことを言ってますか?
497 :
考える名無しさん:2001/04/23(月) 02:38
言ってるよ。
おいおいお前等クソスレあげんなよな頼むから。
こんなシロート礼賛しているヴァカはまとめて便器に詰まってろ。
哲学「まがい」やりたいやつだけ四度け、な?
しょせん3流。
そうそうこんなクススレに関わる時間も惜しいので
レスはしないでね。
そのくらいの礼儀は知ってるよな?な?
500 :
考える名無しさん:2001/04/23(月) 03:17
↑
イバッテルヨ、イバッチャウヨ、
マタタタカレルヨ、モットキラワレルヨ
501 :
RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY:2001/04/23(月) 03:59
彼は誰にも構ってもらえない引き篭もりなので温かい目で見守ってあげてください。
あまり突き放すと自殺しちゃうかも知れませんよ。
マスコミに利害がある奴で、しかも遺書にここの事なんて書かれたら
マスコミ連中から地獄の責め苦のような攻撃を受ける危険がありますよ。
とはいえ彼にも一応人権はあるんですし、そっとしておいてあげましょう。
499。わるいことは言わん。ヒッキー板にいけ。
503 :
考える名無しさん:2001/05/06(日) 00:00
竹田の素晴らしいとこ語って
504 :
考える名無しさん:2001/05/09(水) 02:05
竹田氏の勤務大学に通っている&授業履修者ですが・・・。
そう悪くはない&結構面白いですよ。
ただ、信者が多いというか・・・。
氏の言うことを鵜呑みにしてる人が多い感じがしました。
氏はどよーんとした感じの人ですがなかなか良い人ですよ。
・・・・・関係ない話なのでsage
506 :
考える名無しさん:2001/05/11(金) 03:51
鵜呑みで悪かったな
>>505 鵜呑みは絶対よくないね。
批判すべき所は結構あると思うしね。
あと上の方の糞長いハンドル付けとるバカのは
無視した方がいいのか? やっぱり。
とりあえず、さげとく。
508 :
考える名無しさん:2001/05/12(土) 02:16
>批判すべき所は結構あると思うしね。
こういうこと言う輩は多く存在するが、
具体的に批判する者は皆無。
509 :
名無しさん:2001/05/12(土) 03:57
栗本慎一郎に似てるルックスだけど、
その昔はグラサンに革ジャンで宇崎竜童っぽい時期もあった。
510 :
死刑囚。:2001/05/13(日) 01:27
>>508 あ、ムカちーた。
ずっと擁護派だったけど、これからはアンチでいく。
竹田のトロイなところはゴマンとあるんだけど、まずは柄谷・浅田
との「内部-外部」論争。
竹田は「主観」と「自己」が区別できないバカなので、柄谷がいう
「他者の他者性」が意味する誰もが納得できるアクチュアリティー
を原理の名のもとに一蹴してしまう。
現象学の理屈で言えば、「自己」とは客観像である。
にもかかわらず、竹田は拘るんだな、「自己」とか「自我」に。
「自己を知るための」だの「自分を活かすため」だの痛いタイトル
を付けるのはご愛敬だが、竹田はわりと本気で「自己」を重視
している。
浅田彰みたいなやつに自意識過剰だと嘲笑されるのも、故あってのこと。
「ナイーブで率直な若者」を誤らせているのは誰かと言いたい。
とりあえず、以上。
511 :
考える名無しさん:2001/05/14(月) 07:57
(゚Д゚)ジブンニヨッテナイ?
自分に酔うと気持ち(・∀・)イイ!
>511,512
アホはいいから黙ってろよ。反論できんなら。
で、それによってどういう不都合が生じるとお考えですか?
515 :
死刑囚。:2001/05/17(木) 04:28
誤解を与えるといけないので言っておくと、竹田青嗣は優れた哲学者で
彼の現象学解釈は疑問の余地が無いほど明瞭にして簡潔、スゴイと思い
ます。個人的には。
>>514 まず、「自己」に固執して考えるのは、「客観」を前提にしないという
自分の理論を自分で裏切っている。
それはさておき、「不都合」ということだけど、これを議論するのに
この掲示板が適切かどうか悩むところ。
とりあえずやってみると、自己像を成立させる自己意識というものは
竹田さんが最も嫌うメタレベルの発想を使嗾することになりやすいん
です。
例えば、いい歳こいてあらゆる社会問題を、自分のアイデンティティー
問題とリンクさせて議論してるんじゃないかっていう輩が多いでしょ。
それは端からみてるとわかりにくいんだけど、よーくその人の議論を
聞いてみると、単に権威主義的だったり、「直感補強型」だったりす
るから、その人の議論の真の目的が、不純なものだとわかる。
自己意識がメタレベルを招くというのは柄谷行人が言ったことだけど、
竹田さんもそのことに異論は無いはずなんです。
516 :
死刑囚。:2001/05/17(木) 04:29
人間は、すでに客体化されてある世界に生まれ落ちるわけだけど、
多少知的に生きたいなら、そのなかで最初にエポケーしなきゃならん
客観は、「自己」だと思うわけ。
でも竹田さんは──岸田秀なんかの影響があるのかなぁ──「自己」
や「自我」に拘って、「自分を知ることが哲学である」といって憚らない。
つまり、「自己」が客観像だという認識がないんだな。←ココ重要!!
これが竹田さんの決定的にダメな点だと思う。
恐らく竹田さんなりの文脈があるんだろうけど、その文脈は非常に危う
いし、酷い誤解を招くと思う。「自分探し肯定論」みたいにね。
フッサールはちゃんと『現象学の理念』で「認識対象性」という言葉を
つかって「認識の対象になる認識」、つまり「主観」と「自己」を違いを
いっている。
(ただ、言葉の使い方が竹田同様あいまいで、主体、自己、自我の
区別が混同している)
で、「自己」を客観像だとしない(←多分、そうだと思われ)竹田的
観念論が如何に不都合を招くかだけど……。
メタレベル、つまり超越的視点を、「自己」を契機にして成立させて
しまう不都合は、何も社会問題を論じる際にのみ生じるわけでは
なく、むしろ人間関係において大いに生じるものだと思う。
これ以上は言えない。
(・ε・)オレ、ヨッテル?
ハァ?自分を知ることが哲学?
そうか、数十年間生きてきてさんざん知識も教養も得た人間の所産が
「自分を知ること」か。
何なんだこの空しさは。自分なんて知りたくもねぇよただでさえ
過剰な自意識から逃走したいってのによ
高校で自我への問いを立ていまだにそれに固執してグズグズ思考実験してる
無為無策な俺がいるがまさに竹田はその俺のさらに十数年後の姿ってわけだ。
成長も交替もしない自分自身に恐怖するよ。
自分を知るなんてキモチノワルイことからとっととおさらばしたいが
それが出来ないってのが何よりの苦痛なんだよ。
竹田現象学?そんなもの燃やしちまえよ。
518 :
考える名無しさん:2001/05/17(木) 05:04
ヌッチョヌッチョ
519 :
考える名無しさん:2001/05/17(木) 05:05
ルサンチマンうざい
ルサンチマンのどこがいけないんだ?
今日び他人に嫉妬心をもたない人間なんぞ動物並みじゃないか。
ここから全ての人間は出発するんじゃないか?
俺は他人になってやる、いや他人を駆逐することで自己からの逃走をはかってやる。
遠慮なんかするもんか。ふざけんな。
521 :
考える名無しさん:2001/05/17(木) 05:36
ヌッチョヌッチョ
ルサンチマンうざい
523 :
考える名無しさん:2001/05/17(木) 06:04
自分を知るとは世界を知るってことなんだよ。
524 :
考える名無しさん:2001/05/17(木) 06:05
大体、竹田は自分を知ることを目標に掲げているわけではないのでそのへんよろしく。
525 :
死刑囚。:2001/05/17(木) 06:27
うわぁ、一気にレスが。
>>517 よく分かるよ。竹田はそういう誤解を招く言い方をしてんだな。
でも、「実際」は違うんだと思いたい。オレとしては。
>>523-524
竹田欲望論の骨格は
「人が価値や意味を作りだし、またそれを作りかえる構造の原理」
を探求する点にある。
自分を知るためなどでは無いはず……ダヨネ?
526 :
523-524 :2001/05/17(木) 06:34
俺はよくわからんが竹田がこの頃「原理」が大切だということを強調してるような感じがする。まぁ、「自分を〜」のあとがきと内容はかわらないんだけど。
528 :
考える名無しさん:2001/05/18(金) 02:22
んな〜こたないよ。
20世紀の小説ってものはねぇ、一種の現象学なんだよ。
現象的な記述だよ。プルーストを通しているからねぇ。
意識の流れがそのまま存在論的構造に化けちまってるからな。
作者が手品を使って舌を出すぐらい何でもないや。
出された舌に慣れるか鳴れないかの問題だ。
いまにみんな慣れちまうんだ。単なる心理的問題じゃないか。
530 :
考える名無しさん:2001/05/18(金) 03:09
もう、いいって、こんな素人。
ここは竹田本人の自作自演だと気づけよ、みんな(笑)
531 :
↑:2001/05/18(金) 03:17
アンタも進歩ないね(藁
532 :
死刑囚。:2001/05/18(金) 03:44
>>527 その掲示板……なんとも、寂しいの〜。
いっそのこと何かコンテンツをつくって本家以上に立派なHP作るとか!!
需要はある筈、キミなら出来る(笑) オレはその時にでも……
で、竹田さんが言ってることだけど、現象学って、「世界」がわけの分から
ないものになったときに、役に立つ考え方なんだよね。
「世界」ってのは既成の価値や客観像のことね。
それは、裏返せば、わけが分かって、なんの疑問も痛痒も感じなければ、
現象学的思考に意味は無いわけ。
だから「自己」という客観像に、苦しんだことの無い人には、それを疑う
〈動機〉が無いわけですよ。竹田さんは在日の問題で悩んでいたけど、
それは「自己ありき」のアイデンティティー問題で、「自己」そのものの
肥大化がもたらす苦しみとかには無縁だったんだと思う。
だから「自己」そのものを疑うことが竹田さんには出来ないんだと思うし、
その必要性を感じないんだと思う。
だからヘーキで「自己」を強調する。世代的な問題かな。
でも、若いヤツは違う。「自己」そのものがもたらす苦しみにあえいで
いると思うわけ。
>>517みたいに。
だとするなら、「自我の安定」とか「自己の確立」みたいなコノテーションが、
竹田哲学に少しでも存在するなら、それはそれは非常に危険だと。
(もちろん「自己」に苦しまない若い人もいっぱいいるわけで、彼らに
「不都合さ」を分からせることは出来ないです。それは分かる人にし
か分からない)
533 :
死刑囚。:2001/05/18(金) 03:45
オレとしては、竹田さんが若い人に人気があると聞くと、いったいどういう
読まれ方をしているのか疑問を感じるんだよね。好きという人は多くいる。
でも、本当に竹田現象学の原理を受け取っているのかと。
「自分を知るための哲学入門」をパラパラ読んで、なんとなく安心した
気持ちになっとるんちゃうかと。
竹田現象学は「いざという時」の考え方の原理であって、
それ以上でも以下でもない。まして「自己の安定」をもたらす特効薬
なんかでは断じてないんであって、もしそういう需要に応えてくれる
ものだとして受け取られているのなら、竹田現象学のエッセンスが
正確に伝わってないということです。
竹田さんが無自覚なだけに、それは十分にありえると思う。
小林よしのりと橋爪台座ブロウとの鼎談なんかをよむと、竹田さんは今、
現象学の考え方をルソーがいう「一般意思」みたいな感じで、社会の
ルール作りに貢献できるようなものとして成り立たせようと頑張っている
みたい。今後の竹田さんの仕事の中心はソレでしょう。
だから、竹田思想を学びたければ既刊の著者を読むしか無いわけで、
オレはかなり徹底的に読み込んだ。そんで、抱いた疑問が竹田さん
の「自己」の扱い方だったということです。以上。
既刊の著者→既刊の著書
「橋爪台座ブロウ」は我ながらワラタ
ついでに
>>529 意味不明。相互理解デキナイ。
535 :
考える名無しさん:2001/05/18(金) 18:01
的外れ「かもしれないけど・・・
>532で死刑囚は「「自我の安定」とか「自己の確立」ってイタイみたいなこと言うけど
世界の意味を知ったうえで、
よりよい生きかた(こうかくと胡散臭いが、例えばルサンチマンを抱かないようにするとか)
をしようってことなら別に危険性はないと思う。
>だから「自己」という客観像に、苦しんだことの無い人には、それを疑う
〈動機〉が無いわけですよ。
それ以外にも、(それと同じこと?)
例えば、失恋経験により自分にとっての世界の中心、仕組み、原理
をはじめて認識することってあると思うが
そういう時にも自己のありかたを省みる動機って
十分あるって言えると思うが。
ルサンチマンというのは、
「現実における非力が決定的である場合の悲しみや反感や嫉妬という
感情に固執すること」
を意味しているわけだけど、オレに言わせれば「固執する」ってのが
最大のミソ。
だって、悲しみという感情それ自体は恣意的なものじゃないからどう
しようもないからね。
>>535 ルサンチマンを抱かないのは大切なことよ。
「よりよい生きかたをしよう」という欲望が悪いはずはない。
そのことと「自己」とは何の関係ない。
>例えば、失恋経験により自分にとっての世界の中心、仕組み、原理
>をはじめて認識することってあると思うが
>そういう時にも自己のありかたを省みる動機って
>十分あるって言えると思うが。
自己の「あり方」を省みるってわけね。自己は存在していると。
ハッキリいおう、自己に固執するのはルサンチマンだよ。
ポストモダン思想の主体批判とごっちゃにしてもらっちゃ困るけど。
要するに、自己とは自己像でしかなく、客観像でしかないことを
認めるか認めないかだ。
537 :
考える名無しさん:2001/05/20(日) 02:56
>>536 スレいちお読んだけど、
>要するに、自己とは自己像でしかなく、客観像でしかないことを
>認めるか認めないかだ。
ってのがよくわからない厨房なんですが、わかりたいのでなんかおすすめの文章
とかあったら教えてもらえませんかー。読みやすいやつきぼんぬ。
客観像だとしたら、誰から見ても同じに見ることができる、ってこと?
フツー、自分の考える自己像と、他人から見る自分の像っていうのは、
違うんだろうなあ、と思うんではないでしょうかあ?
>537
とりあえず「現象学入門」よんだら?
539 :
考える名無しさん:2001/05/20(日) 03:08
まだ竹田なんて話題になるのか(笑
あんなに日本語の下手な奴の本をよく読むなあ
540 :
考える名無しさん:2001/05/20(日) 03:21
>>538 >>516では
>つまり、「自己」が客観像だという認識がないんだな。←ココ重要!!
>これが竹田さんの決定的にダメな点だと思う。
っつーことなのに、竹田さんの本でいいんですかあ?わし、勘違いしてる?
まあ、いちお、読み直してみますわ。
541 :
535:2001/05/20(日) 15:33
死刑囚のいうことは難しくてわかりにくいなぁ。
ようするに自意識過剰はダメってこといいたいの?
>死刑囚のいうことは難しくてわかりにくいなぁ。
そうか?
オレは、竹田の本を読んで理解しているヤツが本当にこのスレッドにいるのか
不安になってきたゾ。
>ようするに自意識過剰はダメってこといいたいの?
何故ダメなのかをいいたいの。
自意識過剰って、現象学的に背理なのよ。で、竹田がそれに気づいていないん
じゃないかと疑っているわけ。
私もようわからん(汗)
「自己」が「自己像」に過ぎない、というのは何となくわかるけど、「自意識過剰が現象学的に背理」というのは「?」。思い切り俗に言うと「こうありたい自分」なんて幻想だということでしょうか?でも自我への欲望なしには人は生きられないんじゃないかと思うんですが。
544 :
考える名無しさん:2001/05/21(月) 16:06
李登輝は自意識過剰から脱するために修行をしてたらしい。
>>543 >自我への欲望なしには人は生きられないんじゃないかと思うんですが。
意外にそうでもないのよ。
ま、オレ的には現象学の理屈を追求したいだけなんだけどネ。
竹田現象学では「主観─客観」の非対象性をいい、「客観」という概念を
主観内部で確信成立する「像」という風に変えたわけだよね。
つまりその客観像(ノエマあるいは超越)は絶対的なものではなく、常に
変容する可能性があるわけ。
で、「自己」を主観と明確に区別し、それが間主観的に生成されるノエマ
に過ぎないと考えるなら、いわゆるアイデンティティーの確立とか
「自我の安定」とかいうものは原理的にありえないことがわかる。
成立不可能だと。「自己」を先験的に存在しているものとみなすのは、
客観を前提にした自然的態度だし、あくまで成立させようと頑張るのは、
現象学的に背理です。
もちろん自己像は主観内部で確信されて、ノエマとして存在している
けれど、それは絶対的なものではないし、なにより恣意的なものじゃない。
そういえば、岸田秀も唯幻論で「自我の安定」などありえないから
「ものぐさ」で逝こうといってるよね。同じことだと思う。チョット違うけど。
546 :
zoc:2001/05/22(火) 04:57
>>545 >そういえば、岸田秀も唯幻論で「自我の安定」などありえないから
>「ものぐさ」で逝こうといってるよね。同じことだと思う。チョット違うけど。
>
んで、竹田さんもその方向だと思いますよ。
ありえないことを分かっていながら、あえて拘る。拘ってしまう。
そんなに無自覚だとは思えないんだけどなぁ。
読み手のレベル(入門用だということ)を考えて、言語使用上の流れから用語が
不統一になってるだけなのでは?
547 :
考える名無しさん:2001/05/22(火) 05:04
死刑囚は竹田青嗣の文体で書いてくれ。
548 :
考える名無しさん:2001/05/23(水) 02:42
自分でやるのか?スゲー。呉智英なんか「この年でパソコンなんか覚えるのは嫌」とか5年くらい前言ってたのに、えらい違いだ。
551 :
GO:2001/05/23(水) 04:34
GOです。お邪魔します。重大なGO報告にやってまいりました。GOはねー、このスレがねー、1000に近づくときねー、GOはねー、その時にねー、哲学板のねー、コテハンさん達全員がねー、GO!GO!GO!GO!ってねー、どんどんグルーヴしていくのねー。GO!GO!って。もうねー、24時間テレビ−愛は地球を救う−のマラソン状態。BGMはもちろんZARDの「負けないで」。GOです。凄くない?GOはねー、あらゆるコテハンさん達に応援されながら完走するの。いままでGOに批判的だった人もその時にはダンスに参加。あのハイデガー先生やいちご姫も花束を抱えて駆けつけてくれる始末。GOです。ある意味カタストロフです。GOです。そうです。GOです。GOはほとんど熱狂的な声援の中、世界最後のダンスを踊り続けるの。もちろんみんなもつられてダンス!ダンス!そこはまるでリオのカーニバル。GOです。GOはねー、耳たぶ柔らかいほう。それでねー、999でねー、パタッとカキコが止まるの。何故ってGOは思うの?何故なんだ?って。それでどうしたんだろう?って他のスレに様子を見に行くの。そしたら、あらゆるスレというスレに「GO!お前が1000にカキコするんだよ。はやく!もったいぶるんじゃないぜ!みんな待ってるんだよ。GO!おめでとう!今まで良くやったな!さあ、GO、早く!」っていうカキコを発見するの。GOです。GOは感涙にむせび泣き栄光の美酒を飲み干すのさ。リーリーリーリー。GOです。GOです。最後の乱舞が始まろうとしています。GOです。記念カキコ宜しくお願いします。GOでした。お邪魔しました。
552 :
考える名無しさん:2001/05/23(水) 05:39
553 :
考える名無しさん:2001/05/24(木) 06:09
554 :
考える名無しさん:2001/05/24(木) 06:26
>>548 メールアドレスも公開してもらいたいです。直で出すのは失礼な気がしますので。
あと、学外の読者も参加できる(講演形式ではなくて)公開講義とかあったらいいです。
論文試験ありでもいいので。
555 :
考える名無しさん:2001/05/24(木) 08:51
>554
(゚Д゚)ハァ?
548が竹田本人だと思ってる?
>554
たとえ本人でも、お願いをこんなところに書くなよ。
本気で頼みたいんだったら、キチンと自筆で手紙を書いて、
住所がわからなかったら、出版社や大学などの気付で出せば、
編集者なんかが渡してくれるよ。
557 :
考える名無しさん:2001/05/25(金) 06:26
竹田はカルチャースクールやってるよ。
558 :
考える名無しさん:2001/06/04(月) 23:36
竹田
559 :
ゼミ生:2001/06/05(火) 03:58
竹田はこのスレ知ってるよ。教えてあげた。
560 :
考える名無しさん:2001/06/05(火) 04:17
>>559 竹田の読後感想コメントをキボンヌ。
って言うか竹田が見るかもしれんのに。
人物が特定されるぞ。
561 :
考える名無しさん:2001/06/07(木) 01:33
562 :
考える名無しさん:2001/06/11(月) 02:32
青嗣
563 :
考える名無しさん:2001/06/20(水) 05:27
竹田
564 :
ほやほや:2001/06/20(水) 05:29
565 :
考える名無しさん:2001/06/26(火) 19:04
どうっすか
test
567 :
:
あげ