1 :
考える名無しさん :
2 :
考える名無しさん :2000/10/19(木) 19:17
3 :
おかざき2 :2000/10/19(木) 19:29
伊藤忠斎 建築という領域があるというなら
ほかでもないほかジャンルと識別される領域があるなら
そこには何らかの意志・規則でで統制された様式や形式があるはずだと
ならばまずはその様式や形式の存在をみせろ
ANYの会議では
新しいモードがでてきて流産していった。
芸術特有のオブセッション(抑圧)にささえられていませんか?この会議は。
もってきたスライド上映
4 :
おかざき3 :2000/10/19(木) 19:40
スライド
・土木工事 ・広島県の中部過疎地帯山地 人口一万人。洪水調整用ダムの建設現場地図
・官民一体となった過疎化を食い止めるプロジェクト(あーすわーく?だっけ)、
実現した奴をこれから紹介していきます
説明がつづきま
5 :
おかざき4 :2000/10/19(木) 19:54
名画といわれるものの分析。だれのなんていう名の絵かわからむ。ふむう
岡崎のある意味で本領発揮。
6 :
おかざき5 :2000/10/19(木) 20:06
ペテロとキリストが出てるんだけどね。そんな絵いっぱいあるし。。。
固有名だけ
ルネサンス期の画家?
マサッチオ マゾリーニ
ブルネルスキ サンタマリア孤児院?
アルベルティ
遠近法うんぬん
幾何学的中心
理解不能把握不能
空間がフラットまたは平面的であるのか〜ではないのかが決定不能
新しいジャンルの創造と既存のジャンルでの奮闘とが一緒になって連動して
すすんでいるのでわと思う。
☆ここでのはなしは彼の論文(「モダニズムのハード・コア」所収)を
参照すればいいのかもしれません。
☆誰か画像キャプチャしておきました?
7 :
あさだ司会 :2000/10/19(木) 20:09
磯崎さんは
建築の解体と創造 またはたんなる様式スタイルの変遷流行?
石山さんは
または建築なのかそうでないのかわからんものの創造
岡崎さんは
建築それ自体絵画それ自体の概念をどう扱うのかという理論的問題を提出された
会場の設営しなおし(休憩突入)
8 :
あああ :2000/10/19(木) 20:15
録音してるやついる?休憩終わりで
浅田の司会なんだけど、メモッテナイ
9 :
いそざき :2000/10/19(木) 20:23
建築してきたです。
そしたら、柄谷さんがなにかものをかいている。
建築にkんして、形式という言葉を使われていた(隠喩としての建築?)
から谷さんには形式と建築のことで発言して欲しい
岡崎さんは伊藤の構成と構築の区別を提示してお話された
構成は不純な恣意的ないいかげんなもの、構築はコンポジション、意図ある統制された様式である、と
建築はこれまで、後者足るべきだといってきたかもわからない、後者の視点をを軸に議論をしてきたかもしrない
(既出「シンポジウムT」参照)
フィリップ・ジョンソン あるベルト・ヒチコックなどがいいたかたのは
よおろっぱの美術思想はみな国家主義的ないでおろぎーをもってた
それがアメリカに輸入されると国家主義を脱色した「思想」となった
10 :
からたに :2000/10/19(木) 20:36
ANYでデリダとアイゼンマンとしゃべった
とにかく、哲学概念を建築の場でしゃべるのはまちがい
ドゥルーズの「ひだpli」をつかうのはいかがなものか(w
概念を建築の場で使うから新しい意味があるとか言うのは間違い
磯崎さんに会ったのは88年。季刊思潮編集で。
から谷のほんがおもしろい。じつはぼくはそのころまでに
磯崎さんの本を読んでいた(w
とくにぼくは あれ具ザンダーなどの都市計画論の批判に関心をもってた
一個の建築ということではない、都市計画は社会の構築、設計だから
89年ソ連崩壊で
俺的にはディコンストラクションなどその頃の思潮は
哲学的にはどうあれ政治的には実際はマルクス主義批判ですよね
人間のすめる環境を作るというモダニストの思想
をクライアントとしてもっていたのではないか
ディコンストラクションというものも何かおしゃれな抽象的なものとしてみていくと
なんだかわからなくなりますよ
イェール大学にはじめていったときにこういいました
私はディコンストラクションの問題はたんに学問の理論の問題ではなくて
一般的な問題、だとおもっている、と。
日本の隠喩としての建築を絶版にした理由(アメリカで出版された同名のエッセイと内容は異なる)
建築は石山さんの言われたようにクライアントで変わる
ヴィトゲンシュタインがいう「my architecture」
建築家はいつもクライアントにつまり、他者にとりかこまれているし
べつにそれは建築家だけの特権的状況ではない
コンストラクション 60年だいの都市計画論者のユートピアさは
いまいみがでてきたのではないか
11 :
あさだ :2000/10/19(木) 20:38
さまざまなスタイルの社会的再生産の変遷を
も少し大きな視点からとらえ、あるべき姿を考えるべきでは?
一方で都市を上から個人が設計するのは矛盾である無理である
といって他方でんじゃあ、諸個人の自由かつ自然なものにまかせていけばいいかというと
少しずつちがうけどみな同じというものに
落ちていくではないかといわれれば確かにそうにも見える
12 :
おかざき :2000/10/19(木) 20:45
現実的には建物を作ることはクライアントに左右される
建築それ自体というもの、は暫定的にではあれあきらかにある。
ジャンルごとの様式は時代なり何かの統制された姿はやはりあって
それはクライアントに左右されてるってことと矛盾してないのでわ?
インターナショナルスタイルを前にしてしまうと、
ライトと〜との差異は意味を失うというのが本意
インターナショナルスタイルなるものがデファクトスタンダードとしてあるなら
そこには何らかのコンポジションがあるなら
それへのカウンターの抵抗運動は
構築ではなく構成のほうになるのでは?
コメント:
(規則に対しては逸脱、放恣があるように
組織立ちにたいしては自然発生重視というゆおうに
マルクス主義的統制にたいしてはディコンストラクションや遊牧をじゅうしするように?)
13 :
あさだ :2000/10/19(木) 20:45
ああここはめもられなかた
14 :
いしやま :2000/10/19(木) 20:56
建築という言葉とその用法
建築学科が名前を変えてる。環境とか情報とかメディアとか観光とかにね
計画という概念自体が日本ではバウハスス的機能主義とかとあいまって?
設計や計画はみな増改築ではなく新築としていわれる
ぼくなんかはむしろ、新築ではなく増改築としての設計とかいいたい
他人がつくたものに何か差し引いたり何かつけくわえてゆく修繕していく
日本の場合、支出の90%が新築
身の回りの空間・環境を支え作り出す技術だよ、建築って
建設産業に必ずしも依存せずにやっていくプロセスがいいのでわ
(以下は書き込み者の翻訳です(w)
インターナショナルスタイルから見れば日本はいわば僻地だろう
ぼくはその僻地ぶりに関心がある
様式とは西洋から認知されえぬものに、日本があり、
その日本を西洋は好んでないのでわという仮説をもうけている
15 :
からたに :2000/10/19(木) 21:04
ぼくが今後、建築家とは付き合わないといわれたけどそれは違う
そもそも付き合いがないから!
ぼくが言ったのは文学だよ文学とは付き合わんといった
プランを立てる人が偉くて、実際に手を動かす人が腰低い、権限もないときてる
建築と建設産業
日本に金があるから建築がさかんだっただけ
建築が終わった、芸術が終わったとかの色ニーが色ニーとして通じるのは
狭い範囲でしかない
いつの時代も単に土建屋が移動し、拡張し儲けるだけです
大きな主体大きな理念大きな倫理が死んだといわれる
ぼくはそれはそれでけっこうだといってる
しかし、小さな主体小さな理念小さな倫理はあるだろうし
何かへの実現は続く氏、続けていくだろうと思う
ぼくが文学をやめるってのは
ぼくが興味アンの破 ぼくは運動をはじめてるわけだけどさNAM
一ヵ月後にここで講演するよ なむというからって南無ではないよ
デザイナ−と作家
16 :
からたに2 :2000/10/19(木) 21:05
批評空間は終わったとか言ってる連中がいるけれど
生産協同組合をつくろうとしている
今の流通形態をかえようとしてる
うんどうはいま、どこにでもある
ぼくはそういう運動をつなげていくものとしてNAMをかんがえてる
17 :
あさだ :2000/10/19(木) 21:08
モダニズム
1945年ゼロからの新築
いま もう一度コンストラクションを思考する場合に
新築ではなく増改築 いしやま
超越的な個体がちょえつてきなプランをばーんとひろげてがんばるのではんく
小さな個体があつまってかってに接木していく
こういうことが今なのでは?
18 :
質疑応答 :2000/10/19(木) 21:21
9:トランス栗ティークのつづきは?浅田氏は対談じゃない本は?
a:から谷 〜を日米同時発売予定
あさだ
当面かかないです怠惰です
9:ANYの10年が終わり、いま、哲学と建築の対わでよかったのか?建築は
他のジャンルと対話すべきだったのでわ?もう一度、哲学を対話の相手として選びたいと思うか?
a:いそざき
70年代初頭に建築家だと自分を思うようになた
建築は安全地帯 クライアントとのショートサーキットをどうにかやってればいいから
だから、自分においては危機だった
都市計画や哲学へと?
ANYの説めい
都市なんかを考えてるとき挫折の真っ最中ん
計画概念がつぶれたのではないか
ツリー状計画性それ自体の崩壊→
ぼくが必要としたいわ相手として選んだ哲学とは
自分の置かれた立場を説明する思考を与えてくれるものだった
つまり、何かを作る際に諸工程につきそれぞれ諸選択肢があるけれど
それら選択肢から一つ選ぶ根拠や規準 土台 が失われていたか または決定不能だった事態
を説明する理論としての哲学だった
19 :
質疑応答2 :2000/10/19(木) 21:28
q:つづき
あ:意ゾ咲き
浅田
確定性と不確定性のあいだ
決定不能な場であるからこそ、決定しなきゃいけないわけで
そういう場での選択を問うわけ
岡崎
対話は他者を定義すること(「おれにとっておまえはこうだとして」)から始まる
石山
(ききとれない)
磯崎
こんな会議しても閉ざされてますね、。どうやって広げるか。
浅田(司会)
ANY会議録来年英語版ででる。日本語版も最後の3冊も早く出したい。
世紀末の10年間を振り返る意味でもおもしろい。
ゲーセン期のシニシズムの蔓延の一方で
構築新しいベクトルへの努力が生まれつつある
いろんな形で散在してる芽が今後どうなるか興味深い
おつかれさまでした
20 :
考える名無しさん :2000/10/19(木) 21:32
☆このスレ内容に関する補足・訂正・批判をよろしくですー。
21 :
名無しさん@1周年 :2000/10/19(木) 21:56
お疲れ様でした。
『どうも』
22 :
考える名無しさん :2000/10/20(金) 01:49
23 :
考える名無しさん :2000/10/20(金) 01:59
こまかいことだけど補足:
コンポジション(自然発生的なものとしての。コンストラクションの時期後の反動としては和様化と呼ぶ)
⇔コンストラクション(超越的主体による意図・意志の統制的論理的構築としての)
という用法で石山氏が話してる気がする
出席予定だった妹島 和世氏は急遽 欠席でした。
構図としては
・建築の理論と実践とANYカンファレンスの10年の概論=磯崎
・広い視野、長い時間的スパンからの今後の展望=浅田
・展望を垣間見せる先端的事例=石山 妹島(せじま とよむのか?「妹島氏の過去の活動にある意味対応することを
世界は今ごろになってやっとやてるね」くらいの誉めよう)
・運動と建築と理論との形式的にして内容・実践的な連携プレイ=柄谷
(80年代にかkれた「隠喩としての建築」「形式化の諸問題」の影響と
来るべき「形式化の諸問題2001」に向けて?このあたり、東浩紀や自分に期待してます?>ALL)
柄谷氏は文学からは離れないとも言い直してましたです
そこは微妙そうです。半ば呆れながら、半ば惹かれるようです
>>12 岡崎はこういってる:
マサッチオとかの絵画作品は絵画とはいえない
平面であるともいえない
芸術とか建築とか領域内部においてさえ
なおそのジャンルを規定しつつジャンルの指標であるよな規則・」慣習を絶えず脅かす作品であり
絵画でありながら絵画でない新しい何かを
既存のジャンル内部において
内部におけるそのジャンルの自律性をささえてるよにみえる論理を
突き詰めることではじめてその整合性をくずし自らを出現させています、いないでしょうか
>>13 ここで浅田はインターナショナルスタイル 国際様式について解説してる
それはヨーロッパから美術芸術思想をアメリカに輸入した際に社会主義などのイデオロギーを
そぎおとし、なんにでも適用可能な応用可能な使えるパッケージとして提示されたなにかであり、
または政治的だったり道徳的だったりする胡散臭い部分(意味やニュアンス)を排除してできたパッケージとして
お披露目された。
んで、ソコアkらどうやって出ていくかというのが戦後課題(モダニズム、フォルマリスムコンセプッチュアリスム)であり、
戦後課題からどうやってでていくかがAny会議(デリダ脱構築+アイゼンマン→ドゥルーズ/ベルグソン)の10年であり
その10年をいかにして乗り越えるかが今後である
まちがいました
>>28 は
>>8に対応します。
>>13 は不明
モダニズムのロジク的にもメタフォリカルにもシンタクティカルにも
組換えと乗り換えを問題としてパネラーに語らせる・・・
>>11ではないか?ここは。
30 :
考える名無しさん :2000/10/21(土) 01:13
あげ
>>3 細かいことだけどオブセッションは 抑圧というよりは
むしろ強迫観念。とりつかれて(憑依されて)どうしようもなく抱く観念
関心もたれていないAny会議。
すでに読者においては終わってたのね。NAM阿弥陀仏
34 :
考える名無しさん:2000/10/27(金) 01:54
age
35 :
考える名無しさん:2000/10/27(金) 20:56
どなたか
レム・コールハースと
ピーター・アイゼンマンとの対立について
説明簡略な説明をのべていただけませんか?
36 :
考える名無しさん:2000/10/27(金) 21:03
37 :
考える名無しさん:2000/10/27(金) 21:30
録音にすこし失敗しちゃたようね
部分的にとても速いところがあって、ききとれない
これは原版からしてそうなので、訂正できません。
レム・コールハースとピーター・アイゼンマンとの対立は
Any会議152−3分あたりの浅田によれば:
コールハースが 都市計画が好きで建築きらい
ヨーロッパの美意識がきらいで
円yとドル$とユーロe をあわせてyesと読ませた上で
すべての否定性を刻印した世界資本主義の無邪気な都市隆盛が
ヨーロッパ的美意識の建築を醜悪にぶちこわす資本主義的ニヒリズム
アイゼンマンは 建築が好きで都市がきらい
建築の自立性を信じてる
建築か都市かという二項対立、これは岡崎さんが先に言われたように概念を問えば
捏造された対立であることが明らかとなり
Anyは彼らの対立を反面教師としてそのどちらでもない立場を結論としてだそうとしました。
(クライアントなしの?自立性ばかり訴える)フォーマリズムに居直るのでもなく
かといって
とにかく世界資本主義にyesといい荒廃した都市の現実をもちだして
ヨーロッパ的美意識に対してニヒリスティックな快感を得るのでもない
立場を。
★おねがい。他の板にあるかもしれないAny会議スレをここにリンクして欲しいです。
38 :
考える名無しさん:2000/10/29(日) 13:11
http://www11.jp-net.ne.jp/BOARD/board.cgi?room=nasci コメント番号[220]Any シンポジウム in Tokyoに参加して(1)参照のこと
なお、ここを見ても経緯らしいものがわかるが、
どうやらアソシエーションKの掲示板に同じ内容を書いたら、
すぐにアソシエーションKのほむぺからの掲示板へのリンクが消された
らしい。nasciさんの書き込みがそうさせたかどうかは不明。
しかし、掲示板そのものは今でも閲覧できる。
naasciさんの書き込みが最終ログとなっていることの意味は?
http://www.ad-office.ne.jp/cgi-bin/bbs/ad1.cgi?19710219 ちなみに、ここがNAM(のほむぺからリンクされた)公式掲示板でもあった。
アソシエーションKにしても、NAMにしても
まずい対応の部類に入るだろう。
すくなくとも、おなじことがニュース板のユーザーに対しなされたら
即座に大騒ぎになり、攻撃の的になったろう。
ニュース板諸君はいつもやりすぎのきらいが否めないものの、
NAMの今回もどうかなとおもう。
NAM不信に一躍買いそうなネタです。が、誰も騒いでないし、様子見ですね。
掲示板過去ログをみると、以前にもNAMメンバーがNAM総会のことを
感想文か何か風にウェブに掲載して、クレームがNAM内部からきて
了承しウェブ掲載されたものを削除されたらしいし。前例にならったのかもしれない。
(それなら記事だけ削除すればいいか。だれかにお伺いを立てていて、回答待ちか?)