→長原豊→

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1考える名無しさん
「情況」「批評空間」とかに書いていて
法政の先生ってぐらいしか知りません
どんな人なんすか
2考える名無しさん :2000/10/04(水) 09:08
age
3考える名無しさん :2000/10/10(火) 20:31
poke
4考える名無しさん :2000/10/21(土) 12:58
まじめにおこたえします。長原豊は真正な電波です。彼の文章は、何を読んでもまったく
理解不能です。彼の論文がフツウの雑誌に載っていること自体、驚異です。ちなみに、彼
は翻訳もいくつか手がけていますが、あれは翻訳とは呼べません。まともな大学院生レヴ
ェルで、そのことはわかると思います。理論左翼の水準が彼の仕事で誤解されるのは非常
に残念です。ちなみに、鈴木創士も真正電波です。おふたりとも、ご本人は存じあげない
ため、以上の記述は私怨ではありません。念のため。
54 :2000/10/21(土) 13:00
翻訳能力批評スレ作ってもいいかも。ちと怖いけど
61 :2000/10/22(日) 00:19
>4
私もそんな感じを受けたのですが肯定的な評価の方はいないんでしょうか?
宇野派?でもないんですか?
7考える名無しさん :2000/10/22(日) 02:13
長原ではないけれど、フロイトのテクストも知らずに
でたらめな訳をしている教授がいます。
フランス語のmot d’espritがいわゆる「機知」をさすことも知らないようです。
「エスプリのことば」と直訳です。
ラカンのセミナーに出席しているヘーゲル学者のジャン・イポリットを
「イポリットス。ギリシャの哲学者」なんて知ったかぶりの注までつけてます。
開いた口がふさがりません。わからないもの、興味のもてない本の翻訳をなぜ引き受けるのでしょう?
わたしにはわかりません。適任者はほかにおおぜいいると思います。
編集者はそのへんのところ(肩書きだけでなく訳者の語学力・理解力)がわからないのでしょうか?
こんな本を出版するなんて詐欺行為に等しいです。
院生程度の語学力もない教授は翻訳を遠慮してほしい。
しかし、自分が興味ももてない訳書を彼らはなぜひきうけるのでしょう?
8考える名無しさん :2000/10/22(日) 03:03
>しかし、自分が興味ももてない訳書を彼らはなぜひきうけるのでしょう?
そりゃー、
 1)若手の場合:業績が欲しいから
 2)中堅の場合:断りにくい人に頼まれたから
 3)老体の場合:ボケてるから


92 :2000/10/22(日) 05:54
たとえば、大西雅一郎も、ヒドいです。彼の『共同‐体』なんて、読めません、本当に。京都の
松ライ(竹かんむり頼)社には、非常に志の高い編集者の人がいるようなのですが、どうも残念
ながら翻訳者の資質を見抜けないようです。本の選択は間違ってないのに……。だいたい、なん
で Corpus が「共同‐体」になるわけ? もし、ここ数年で語学力が増したなら、大西さん、こ
の翻訳、撤回して修正してほしいです。じゃないと、ナンシーがかわいそう。そういえば、同じ
出版社から出た『声の分割』(加藤恵介訳)も、意味不明だった。まあ、後者はもともと難しい
本だということもあるけど、『Corpus』のほうは、言葉遊びとかは多いけど、ニュアンスを取
るのがそんなに難しいわけではない。話し言葉ふうに思いつくままに書かれているので、その波
に乗れれば(つまりフランス語の口語的ニュアンスがわかれば)、極端に言えば、下訳は誰でも
できます。あとは、哲学や精神分析の用語を知っている人が手を入れればできあがり。

デリダ新刊のナンシー論『触れること』(すでにもう1冊出たけど)は誰がやるんだろう? 怖
いです。

ナンシーついでに、ラクー‐ラバルトについていえば、彼の『藝術家の肖像、一般』は非常にわ
かりにくかった。守中高明という人のせいだと思います。師匠筋にあたる豊崎光一については、
みなさんいろんなご意見があるでしょうが(念のため記しておけば、単に文体の問題だけではな
く誤訳もあります)、その悪いところだけを継承してしまったようなところがあります。豊崎は、
単に豊崎的なものを広めたという以上の功績があると、(誤訳うんぬんを考慮に入れたうえでも)
言えると思いますが、守中高明にはそれはないと思います。

この人はいいな!と思う人についても書いておきます。安川慶治、合田正人。おふたりともフラ
ンス系ですが、もとの文を非常に尊重しながらも、読める文章を作っていると思います。翻訳を
試みたい人は、彼らのものを原文とつきあわせて読んでみることをおすすめします。そうすれば、
凡百の翻訳と称する仕事が児戯にひとしいものであることがわかるでしょう。(もちろん、ここ
に名を挙げていない人にもすばらしい人がいらっしゃることは言うまでもありません。)

あ、鵜飼哲さんも素晴らしい。

> 7
その翻訳者は、誰ですか? あなたを特定しようとはしませんので、教えてください。

> 8
自分ができるような気がしている、という前提条件もありますね。言語意識とは基本的に思いこ
みのうえに(というか思いこみとして)成立しているものなので、この条件を排除するのは非常
に難しいです。第一言語(母語)については、国民主義が浸透しているところであれば、批判が
容易ですが(たとえば、日本語が第一言語であるところであれば(そして日本語という言語がす
でに成立していることが必要)、「そんな言い方は日本語ではしない」と言われておわりです)、
地理的・意識的な水準で遠い言語を扱っている時に、そうした「思いこみ」という言語意識を検
討するのは非常に難しいです。たとえばの話、インド‐ヨーロッパ母語について、そのような語
の言語意識を云々できるのは、あきらかに「思いこみ」がなければ不可能なことです。翻訳は、
そうした言語意識を否定してしまっては不可能なものになってしまうので、あとは、「誰がチェ
ックできるのか?」という、現実の問題だけが残ります。編集者(出版の共同体)? アカデミ
ズム? 読者? いずれにしても、その批判能力をもつ人は少数にならざるをえず、したがって
悪い翻訳が姿を完全に消すことはないのでしょう。それに、その批判能力をもつ人が多数であれ
ば、もともと翻訳などという制度は必要ではないのです。ここに、翻訳の矛盾があります。
102 :2000/10/22(日) 05:56
省略されたところは、念のため、こうでした。-----------------------------

> 7
その翻訳者は、誰ですか? あなたを特定しようとはしませんので、教えてください。

> 8
自分ができるような気がしている、という前提条件もありますね。言語意識とは基本的に思いこ
みのうえに(というか思いこみとして)成立しているものなので、この条件を排除するのは非常
に難しいです。第一言語(母語)については、国民主義が浸透しているところであれば、批判が
容易ですが(たとえば、日本語が第一言語であるところであれば(そして日本語という言語がす
でに成立していることが必要)、「そんな言い方は日本語ではしない」と言われておわりです)、
地理的・意識的な水準で遠い言語を扱っている時に、そうした「思いこみ」という言語意識を検
討するのは非常に難しいです。たとえばの話、インド‐ヨーロッパ母語について、そのような語
の言語意識を云々できるのは、あきらかに「思いこみ」がなければ不可能なことです。翻訳は、
そうした言語意識を否定してしまっては不可能なものになってしまうので、あとは、「誰がチェ
ックできるのか?」という、現実の問題だけが残ります。編集者(出版の共同体)? アカデミ
ズム? 読者? いずれにしても、その批判能力をもつ人は少数にならざるをえず、したがって
悪い翻訳が姿を完全に消すことはないのでしょう。それに、その批判能力をもつ人が多数であれ
ば、もともと翻訳などという制度は必要ではないのです。ここに、翻訳の矛盾があります。

11考える名無しさん :2000/10/22(日) 06:30
合田正人の訳ねぇ・・・。
『存在するとは別の仕方で』(レヴィナス)は、
半ば「超訳」になっとるよ。
訳しづらい本であることは認めるけど、
原書と突き合わして読んでみると、
「おいおいそこまで訳すか?」って箇所が多いゾ。
12考える名無しさん :2000/10/22(日) 10:18
鈴木創士「編者のことば」(現代思潮新社「エートル叢書」):

 「文学」の言葉は、それ固有の形式において、そして他の諸ジャンルとの錯綜または未知の混淆
 において、ひとつの特異性を構成する。それはフーガの生み出す対位法のように、時間の実在、
 すなわち時間の形式であり、時間の否定、すなわち時間の反形式である。
  かくしてポスト‐バベルの言葉の大海に、言語の大混乱をとおして、ひとつの渦が、無数の渦
 の中心が姿を現すだろう。カオスはわれわれの場所ではない。賭けられているのは、まさにこの
 出現のさまざまな様式、古くて新しい言葉の「存在」の様相である。
  来るべき諸々の文学形式と他の諸ジャンルとを空無の上に架橋する新シリーズを贈る!

……壮絶ですね。『知の欺瞞』とか、そんなことよりも前に、日本ではやるべきことが他にあるこ
とがよくわかります。
131 :2000/10/22(日) 22:11
トンデモ翻訳スレになりつつあるんですが(それはそれで興味深いんですが)
長原豊氏についての情報をもう少し
14考える名無しさん:2000/11/03(金) 12:47
.
15考える名無しさん:2000/11/04(土) 13:28
どんな論文があるんだ?
1616:2000/11/05(日) 04:42
当方の手許にあるのは、

『現代思想』1998年3月号
『現代思想』1998年10月号

だけ。あとは自分で探すこと。

上のほうで誰かが言ってるとおり、
『現代思想』
『批評空間』
『思想』
などの過去数年ぶんに目を通せば、
ヤツのクサった論文のありったけが見つかるだろう。


しかし、やっぱりヤツの翻訳もヒドイな。

なお、長原は無意味な長い注
(デリダみたいに、意味のある長い注ではない)
をたくさん付ける。読みたくもないが。
だが、その注に、自分の論文のことなども書いてあるので、
そこらへんからもヤツの論文探しができるだろう。

もし、本当に興味があるなら、だが。

正直、時間のムダだと思う。黙殺すべし。
(というか、言われなくても皆がおこなっているのがこれだ。
 偉いぞ、哲学板の住人たち!
 私は長原に恨みでもあるのだろうか?
 いや、こんなヤツの論文が一般思想誌に載る状況がくだらないと
 思っているだけだ……。)

蛇足だが、
高校生、学部生くらいで迷っているのかもしれない人がこのスレの読者なら、
以下に注意してほしい。

長原のような文章を読んで、
「ああ、現代思想って難しいなあ」
なんて思うな! コンプレックスをもつな!
努力して読もうとするな!
繰り返すが、
現代思想=難解
ではない!
難解な現代思想もあるだろう。努力して読まれるべきものも数多い。
だが、難解さを装っていることは、読まれるべき現代思想の資格ではない。
このことは、だからといって、
簡単なものに真理が宿っているなどということを帰結しないが、
とにかく、とんちんかんな文章で人をケムにまいているような文章は、
鼻で嗤ってすませればよい。
わざわざ難しいところから入る必要はない。
デリダがわからなくても、とりあえずは問題ない。
問題の追求とともに、デリダが必要となり、デリダが理解できるときが来るはずだ。
すぐれたものとは、そういうもののことをいうのだ。

鵜飼哲のような人のデリダの読みかたを参考にしてほしい。
(ここでのデリダはあくまでも一例だが。)

さらに言えば、現代思想それ自体には意味はない。
現代思想のコアなど存在しない。
思想とは、そこを通過して、新たな世界(ものごとの配置の新たなとらえかた)
へと至る、トンネルや扉のようなものにほかならない。
くれぐれも、難解さの虜になって、
トンネルそれ自体に住みついてしまうことのないように、注意してほしい。
余計なお世話かもしれないが、それは私自身のためにもなるのだ。
私は新たな長原豊に出会いたくなどない、ということだ。
17考える名無しさん:2000/11/05(日) 05:41
批評空間での翻訳の訳文は
浅田が原書と照合しつつ監査しているはず。
浅田批判どうぞ。
といってもいいんだろうけど

俺の印象では
日本語訳はだれがやってもどう違ってどう言い換えて翻訳されようとも
形式的には同じ批判が出てくるんだろうとおもうけどね。
同世代からの批判はなくて、異世代からの(下からも上からも)批判は来るんだろうね
長谷川のヘーゲル日本語訳への評価はおもしろくて
浅田はどんなに言い換えてもややこしくなるだけだから
伝統的な訳語を、つまりお堅い熟語でいいじゃないか、
識別が可能なら短い語句でいいじゃないか(即自存在、対他存在を例にとって)
とかいってたな
これだって、まあ、浅田への批判の矛先の一つだな

マックとウィンドウズの使い勝手、翻訳ソフト、メイラー、ブラウザなどの
UIの「よさ」でよく議論があるけど(どれだ!最強のこれこれは!)
それと同じ感じがしていてね
ようは 慣れ てしまえばどうでもいいんじゃないかな、と
いったん、我慢して使ってみてる内に読んでいるうちに慣れてしまえば違和感がなくなるから
そもそも問題にもならないのかも、とかおもうけどね。ファッション、流行の問題ではあるけど、
それ以上の重要さがあるのかないのか わからないんだな
だから、批判の言い分はわかるものの、あまり気にならないし、
訳語をその都度自分なりに好きなように
(意味が通るように、その理論が整合性あるように、その理論が自分の思考に刺激あるように)
置き換えて読めばいいや とかしか思わないんだ。ただ、このスレは読む分にはおもしろい。労作
18考える名無しさん:2000/11/05(日) 05:53

そろそろ
東じゃないけど
浅田柄谷らの仕事批判が
幅を利かすころあいではあるんだな
1916:2000/11/05(日) 10:51
4=9=12=16

途中で文体が変わってるけど気にしないこと。本人だ。

>17
翻訳について。
完全に同意する。

そのうえで言っておけば、
私が問題にしていたのは、
たとえば長谷川宏について言われるような

くだきすぎの翻訳

ではなく、
長原豊や大西雅一郎のような人々が生産しつづけている

単なる誤訳

なのだ。
長谷川宏において問題なのは誤訳ではない。
(もちろん、人間なので、誤訳を完全に排除することはできないだろうが、
 それは別問題だ。)
微妙なのは、丹生谷貴志のような事例だ。
丹生谷の場合、意味を汲んで適当に翻訳している、
と本人は思っているのだが、
そして、それがうまくいっていることもないわけではないが、
まったく勘違いの意訳になっていることも少なくない。
いや、むしろそのほうが多いかもしれない。
長原豊や大西雅一郎は、
意訳にふみきるほどのことはあまりしていないだろうが
(意味を取れていないので、意訳さえできない
 ――意味不明箇所を適当に訳すということは多々あるだろうが、
 それはまた別問題)
とはいえ、誤訳だらけなので、
いずれにせよダメだ。
どちらが罪が重いのかは一概に言えないし、
そもそも、そのような議論には意味がないだろう。
問題なのは、長原にも丹生谷にも誤訳が
少なからず含まれているということだからだ。

したがって、問題の水準が
大雑把に言って2つあることになる。

長谷川タイプの問題
長原タイプの問題

これから、もしこの種の議論や批判を続けるなら、
少なくともこの2種は区別しなければならないだろう。
基本的なことなので、問題の所在さえ理解してくれれば、
同意してもらえるものと思う。
2016:2000/11/05(日) 10:52
>18
東浩紀と浅田彰の関係について、私は多くを知らない。
だが、浅田に関して批判すべきは、
おそらく、上記のようなことではないのだろう。
17はそのように思っているのだろうし、私もそうだ。
そして、アズマも、その点は批判していないはずだ。
なにより、アズマは翻訳に関して議論を展開できるほど翻訳能力がない。
もう消えてしまったが、
彼のサイトにあった『郵便葉書』冒頭の試訳
(と称するもの)
を見たことがあるだろうか?
そういうことだ。
アズマ/浅田については、他のスレッドですでに議論が展開されているので
ここには多くを書かないが……。
唯一、問題に絡むところがあるとすれば、
「ポップ」をめぐる奇妙なねじれが、
この問題にどう絡むかだろう。

(浅田は当初「ポップ」を標榜していた
 ――人民主義の80年代的な代補として。
 「ぼくは時代の感性を信じている。[……]
 繰り返すが、ぼくは時代の感性を信じている」――
 が、時代の感性は彼を裏切りつづけ、
 気がついてみれば、彼はその反対側にいた。
 そして、かつて自分のいた場所(のパロディのような場所)に
 アズマがいることになった。
 それが「スーパーフラット」というやつだ。
 80年代的な「ポップ」に染まった人々
 ――いとうせいこう、香山リカなど――
 は、ぽつねんと取り残され、
 もちろん、彼らがアズマへと移行するということはない。
 かといって、
 浅田に追随するわけでもない。
 ポップというのは、このように錯綜しているのだ。
 もちろん、「J」的なものについての
 浅田の批判は正当だが、
 ポップが多層なものであり、
 自分もそこに巻き込まれているということを
 認識する必要はあるだろう……)

だが、アズマは、翻訳に関しては、
この種の「ポップ」へのすりよりを見せていないはずだ。
なお、あらかじめ言っておけば、
彼の文章自体が、デリダの一種の「翻訳」だ、
と言うことはできるだろうが、
それは別問題だ。

あと、これは個人を非難したくて書くのではないのだが、
18の語り口からは、
「知のモード」
の観客にとどまろうという気持ちが感じられる。
たかが「2ちゃんねる」のスレッドではあるが、
要するに、観客にとどまることが、
「ポップ」をダメなものに(擁護できないものに)
してきたのではないだろうか?
東が、あるいは浅田が、
どのように正当でありどのように間違っているのか
(もちろんそれは状況と絡んだ話でもかまわない)
ということが問われなければならないのであり、
重要なのは覇権争いの問題ではない。
「知のモード」など、すでに失墜している。
つまり、
スペクタクルは今までなかったほどつまらなくなっている
ということだ。
(たいていのスペクタクルはそのようなものだが
 ――歴史にそった堕落のイデオロギーに
 汚染されていないスペクタクルは存在しない。)
その時に、
それをおもしろがったり
それがつまらないと言ったり
するのは、ムダなことだ。

観客であることをやめればいいだけの話だ。
そのためには、
自分がそこにすでに巻き込まれている、
ということを認識するだけでいい。
2115:2000/11/05(日) 14:40
>16
>観客であることをやめればいいだけの話だ。

むしろ浅田や東がいままさに観客席に転落しようと
してるんじゃない?そしてそこで待っているのは
彼ら自身が招いてきたロクでもない状況・・・・。
22考える名無しさん:2000/11/05(日) 14:55
いや、長原など批評空間掲載訳文を
浅田が原書と比較対照しながら吟味してるんだよ

だから、単純な誤訳とされる奴を
浅田がそれと指摘せずに世に出してるってことになるよ
つまりだ、浅田は翻訳能力がないってことで
このスレでは批判されてるわけですじゃ。
2316:2000/11/05(日) 15:17
>21
うーん、ちょっとわからない。彼らはもうなすすべがない、という意味?

>22
手許には『批評空間』第1期第7号があるが、
ラクー‐ラバルト&ナンシー『ナチ神話』前半(守中高明訳)
デリダ『法の力』第2部(丹生谷貴志訳)
のいずれも、浅田が目を通したとは思えない誤訳が散見される。
おそらく、浅田は、目を通した、と言っているにしてもそんなに見ていないんだろう。
浅田の語学力は疑う必要がない。
だいたい、フランス語が喋れるし、日本語も書けるからだ。
あるいは、ありうるのは、
浅田が目を通して、いろいろと注文をつけても、
各翻訳者がその注文の意味をわからなかったり、
注文されるということ自体が気に入らなかったりして、
せっかくの忠告を無視してしまう、ということだ。
浅田の雑誌だとはいえ、翻訳は翻訳者の名前で出るので、
浅田といえども、翻訳者に修正を拒否されたら、
強引に修正する、ということはできない。
24考える名無しさん:2000/11/05(日) 15:30
23さん、そかな
目を通してないってことはありうるね
目を通した上で見逃したばあいと
見逃してない場合で掲載された場合だね、問題は
見逃したなら、編集責任者の責任だし
誤訳を知りながら掲載したらやはり編集責任者の責任だな
ちがうかい
浅田はそこまでして翻訳をその時期に掲載しようとしたわけか。
確かに、あそこくらいしか、翻訳をよめないものね
でもなー翻訳とは別に、日本語で書く人の執筆した原稿を
わりと拒否してるよ。浅田は。
編集方針に従わないという理由で。
従う形の内容に改めるなら掲載するというらしい
翻訳者にもこれくらい強い態度ができそうなものだが。どうなんだろうね
2516:2000/11/05(日) 16:15
>24
うーん……。
一般に言って、
監修者として名を明記する場合には、
翻訳に無限に介入する権利が得られるのと同時に、責任も生ずる。
そうでない場合は、権利も責任もない。
「浅田、チェックしてるってよ」という噂レベルでは、
責任を問うのはちょっと難しいな……。
じゃあ、監修者として名前を出せばいいではないかという話になるが、
依頼の段階でそういう話になっていないと、
契約と違うことになるので、これはダメ。

しかし、編集者としての資質を問うことはできるだろう。
良質の翻訳者を揃えられる、ということも資質のひとつだ。
ただ、これは責任という問題には移行させることができない。

けっきょく、浅田の欠点は、
浅田みたいな編集者が日本に他にほとんどいない、ということだ。
彼がそれをつぶしている、ということもなくはないだろうが、
ああした雑誌が他にいくつもあれば、
もっと健全な市場が形成されたはずだ。

結論として言えることは、
翻訳者名というのは、
翻訳に最終的な責任を取るということのしるしだ、
ということだ。

論文でも同じ。
浅田が論文を直させる、という話だが、
仮にそういうことがあるにしても(それは不思議なことではない)、
浅田が勝手に直してしまうというようなことは絶対にない。
その一線を越えてはならないのが、編集者なのだ。
と私は思う。
26考える名無しさん:2000/11/05(日) 16:29
それはないよ。
掲載したいのだけど、
ここを直してくれたらいいんだけど?
て感じらしい。
だから、浅田が勝手に直すことはありえない。たぶん
271:2000/11/05(日) 17:29
やっぱ浅田さんへの転移は凄まじいのですね長原氏の誤訳だけではなく議論の内容についても
28考える名無しさん:2000/11/05(日) 19:44
しかし、転移をもちだすことによってしか
批判文をかけないというのなら
それはそれで問題だなあ
29考える名無しさん:2000/11/05(日) 20:35
今は「私は転移していません、あれもこれも食べてみましたし、
その問題点と可能性を熟知していますし、それらの形式化を経ての
今後の展望を他に一歩せんじて提出しましょう」
といった身振りじゃないといけないという
オブセッションがあり、
そのオブセッションを身にまとわないと
読まれもせず、議論にも入れてもらえない
そういう共同体が形成された。わけ。

だけど、どんな奴だって、文学が好きなら
転移とかすると思うし、
それぞれの転移している論者の長所と短所を
すり合わせて議論すればおのずと今後の展望が
開かれるかもしれないわけで
転移以前の、特定対象にはまりもしてない奴が距離を置くべきだ!
とかいってもしゃあないとおもうぞ。
もっとも、この場合の転移って言葉は精神分析で意味をもってるような位置と役割とを
必ずしも持っていないような用法だが。
かつてサルトルにみんなはまった時代があり、フーコーにはまった時代があり、
翻訳天国の日本ではもはや読者の関心は分散してしまい、
そのような固有名はありえズ、そのような固有名をまとめて面倒をみている浅田がいるわけだ。
浅田はちゃんと柄谷にはまっていることを隠そうともせず、しばしばジッドのように正しいとか
理論的に正しいものをつかんでいる!などと恥ずかしげもなく言ってのける。ドゥルーズへの態度もそう。
そのうえで、彼らへの批判も惜しみなく言う。
比較対照のためにいうと、宮台はhttp://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=sociology&key=973228563
の20さんが取り出したような「防波堤」を重視している点で、転移を回避したいらしい。
どちらがどうと私にはいえない。それぞれにおいて、必然性があるだろうから
知性に接するやり方あり方のタイプの違いだろうと思うし
そのどちらがいいかは一概に言えない気もする。
それぞれのタイプを、それぞれの個人において、生かせればいいんじゃないかと思う。

まあ、あまり些細なことで喧嘩するなや。
30考える名無しさん:2000/11/05(日) 22:12
精神分析のモデルに従った説明をするなら
宮台は幼児モデルに対応し、対象との密着とその末にある空虚とに
ついついしがみつかざるを得ない。
また、その執着の態度をついつい問題化、重要化せざるをえない。
防波堤が重要だ、とか。
そのこと自体が、防波堤の確保不可能を指示してしまうことも宮台は知っている。
アドルノにもそういうところがあるか。
浅田は大人モデルに対応し、対象との炸裂的な出会いを
経て炸裂と別のものへのワープを繰り返していくものの、
そこには何ら執着がない。ある意味で、そっけない。
これら2つのどちらのモデルがいいとか悪いとかの問題ではない。
似たような分析を東らが「オタクの心理・精神・態度」に対して行っているかもしれない。
お宅はこうだ、ゆえにだめだ、ゆえによい、などと。
これらの説明は
じつにどうでもよいことのように思えてならない。
何かの参考になるなら、いったい何の参考になるのだろう。
311(本物):2000/11/05(日) 23:41
あの長原氏について・・・
32考える名無しさん:2000/11/10(金) 17:41
.
33考える名無しさん:2000/11/14(火) 17:42
*
34考える名無しさん:2000/11/14(火) 19:00
いまだに精神分析を持ち出すのが馬鹿げてる。
35考える名無しさん:2000/12/15(金) 23:52
36 
こみ゛けろろ