1 :
名無しさん@1周年 :
論理学って、大学の哲学科に入れば皆習うものなんですか?
僕は数多の論争に勝ちたいがために論理学をマスターしようと思って
論理学の本にあたってみたんですが、
数学の証明みたいで脳が拒否反応を示しました。
でもこれをマスターすれば、「何故人を殺してはいけないのか」みたいな
疑問にも答えられるんですよね。
ぜひ習得したいんです。何か良い本があったら教えてください。
2 :
名無しさん :2000/09/30(土) 23:33
「なぜ人を殺してはいけないか」は論理学じゃなくて、倫理学。
論理学をいくら勉強したって、そんなことに答えられるわけがない。
論理学はあくまで推論の方法を一般化したものに過ぎないでしょ。
論争に勝ちたいんなら、論理学よりはレトリックでもお勉強した方がいいんじゃない。
3 :
考える名無しさん :2000/10/01(日) 00:26
論理学とは論争の手段ではなく、真理を求めるための方法論です。
そして数学的な論理学(数理論理学)は今世紀になって集合論の
考えを一般化した形式論理学の一種ですが、真理問題を数学的な
命題の証明のように扱うあまり実践的なものではない。(コンピュ
ータに応用されたのはまさに思考を「計算」に変えたからです。)
正しい思考の筋道は対象の概念的な認識から始まります。これは
ソクラテス以来の西欧哲学の伝統であり、概念、判断、推理と
弁証法的に発展する認識形式を具体的に使用する事が本来の論理学
と呼べるでしょう。また、日本人は情緒的で論理的思考が苦手なの
は国民性とも言えるが、実際には学校でまともな論理学を教えてい
ないからであり、それは政治的な理由からだと思っています。真理
はどうも為政者にとって都合が悪いようで、日本は昔から政治的な
思惑で文化・教育・学問が規制されている。理性的なコミュニケー
ションは普遍的な論理によってのみ可能となります。
論理学の良い教科書として私はヘーゲルの『大(小)論理学』しか
知りません。
4 :
考える名無しさん :2000/10/01(日) 00:52
↑は昭和世代の発想だね。
言い分は正当だが、凡庸すぎて何ら生産的な議論は期待できない。
真理?そんなものがあるのだろうか。
5 :
ネオ生茶 :2000/10/01(日) 00:54
論理とは言葉間の関係のことに他ならず、
論理学を勉強しても議論には強くなりません。
議論の際の最低限のマナーを教えてもらえるだけです。
習得していて当然です。
論理学とは関係についての学問であって、
それは何かを生み出したりはしません。
むしろ自分の思想に形式を与えるものだということを知っておけば、
何故論理が必要とされるかもわかってくるでしょう。
余談ですが、日本人は論理的思考が全くできないということを
伊沢元彦「逆説の日本史」シリーズからみっちりと教え込まれました。
6 :
ほんの少し怒ってます。 :2000/10/01(日) 02:44
>3「数学的な論理学(数理論理学)は今世紀になって集合論の
考えを一般化した形式論理学の一種」
これは、違います。
数学基礎論としての数理哲学と記号論理学とは明らかに違うし、
学問体系は別物です。これをごっちゃにして数理論理学という
言葉は存在しません。また、これらは形式論理学ではありません。
また、現代論理学のカントールは集合論ですし、記号論理学の
エッセンスは集合論ですが、記号論理学=集合論ではありません。
数学基礎論として有名なのはラッセルやホワイトヘッド。
記号論理学をはじめたのは一応フレーゲとなっています。
「正しい思考の筋道は対象の概念的な認識から始まります。これは
ソクラテス以来の西欧哲学の伝統であり、概念、判断、推理と
弁証法的に発展する認識形式を具体的に使用する事が本来の論理学
と呼べるでしょう。」
この言明では、論理学と認識論が混同されています。
また、認識論を支えているのは論理学ですが、認識論=論理学では
ありません。「概念、判断、推理と弁証法的に発展する認識形式」
の真偽を問題とするのが論理学です。
概念の正当性を吟味するのが記号論理学、判断と推論を吟味するのが
形式論理学と一般には区別されています。
批判の対象と論旨が不明確です。
また、これに対して反論があれば、論が発展するわけで、
ちゃんと論理学は議論に役立つと思いませんか。
しかもこれが弁証法というものではなかったのではないでしょうか。
7 :
考える名無しさん :2000/10/01(日) 02:51
>4
真偽はあるよ。
8 :
考える名無しさん :2000/10/01(日) 02:55
なわけねぇだろ。
1は議論に勝ちたいけど論理学って役に立つのかってきいてるんだから。
別に論理学とは何か、ってことを議論したいわけじゃない。
学問的なうんちくを垂れたかったら他のスレでやりゃいいんだよ。
9 :
考える名無しさん :2000/10/01(日) 02:58
8のカキコは6に向けてのものね。
ふん・・・弁証法について考えること自体が弁証法てきである・・・・
こんなオナニー的な自己言及にズッポリはまって時間を無駄にするバカの何と多いこと。
10 :
名無しさん :2000/10/01(日) 03:04
>3
論理学を勉強する前に、相手が何を聞きたいのかを読みとる力を付けた方が良いのでは。
ヘーゲル読んで、論争に強くなれるわけないでしょう。
11 :
8〜10は :2000/10/01(日) 03:20
馬鹿にされたと思った1がひとりで大騒ぎ。
12 :
考える名無しさん :2000/10/01(日) 03:35
んだんだ。
13 :
>2 :2000/10/01(日) 03:38
あるいは、早稲田の雄弁会
14 :
考える名無しさん :2000/10/01(日) 04:14
中公新書の「詭弁論理学」でも買ってきて読めば、論争に強くなることと
論理学をおさめることが関係ないことが分かるだろう。
しかし、このスレッド、ヘーゲル野郎どもとは、、、英米哲学派としては
彼等が論理を語るのは片腹が痛いんですけど。
15 :
考える名無しさん :2000/10/01(日) 04:18
クソ長い駄文が続くヘーゲルスレは
まるで哲学板内での隔離板のようだ・・・・・と勝手に決めこむ厨房なボク。
16 :
3 :2000/10/01(日) 10:29
>>4 「昭和世代」!なるほどもう平成12年か・・・。平成世代は21世紀に論理
的な思考を大いに高めて欲しい。昭和は遠くなりにけり、老兵はただ消え行く
のみ。真理を見失わないようにね。
>>6 >数学基礎論としての数理哲学と記号論理学とは明らかに違うし、
>学問体系は別物です。これをごっちゃにして数理論理学という
>言葉は存在しません。また、これらは形式論理学ではありません。
正確にはそうでしょう。しかし、私は19世紀末からの論理学全体を見て、
その本質的な特徴は「論理の形式主義化・数学計算化」にある見ており、
「数理論理学」と読んだのです。対象の存在および概念内容を問わない点で
それは今世紀の学問全体に係わる形式主義化の一つでしょう。如何でしょうか。
>この言明では、論理学と認識論が混同されています。
そうでしょうか。認識論=認識の妥当性を論じる研究、論理学=正しい認識の
ための方法と区別しています。認識を論じる認識論は必然的に認識批判になり
ます。弁証法論理とは認識批判なのです。
>>10 >相手が何を聞きたいのかを読みとる力を付けた方が良いのでは
最初に「論理学とは論争の手段ではなく、真理を求めるための方法論です。」
と断って(質問の前提を否定して)あります。そして、論争よりは共同的な
真理を求めよと言うことを言ったのです。また、私はヘーゲルを読んで論争に
も強くなったが、それはあくまで副次的なものです。
>>14@`15
ラッセルなども大のヘーゲル嫌いでしたね。確かに論理学を命題計算にする
ことは一つの進歩でしょうが、論理学とはそんな狭いものではない。
17 :
10 :2000/10/01(日) 15:28
>16
>最初に「論理学とは論争の手段ではなく、真理を求めるための方法論です。」
>と断って(質問の前提を否定して)あります。そして、論争よりは共同的な
>真理を求めよと言うことを言ったのです。
1のレベルを考えてあげましょうよ。
彼にそこまで考える能力があるはず無いじゃないですか。
それから、論理学が「真理を求めるための方法論」 である
とまで言ってしまうのは、真理があるかどうかは別として、
あまりにも過大評価ではないでしょうか。
論理学は基本的に、命題の関係から導出される命題を考察する学問でしょう。
推論の基本である三段論法にしても、前提が本当に真であるかは関係ないはず。
とりあえず、真であると仮定して行っているに過ぎない。
前提が真であるかどうかを考えていけば、無限後退に陥ることは間違いない。
論理学という方法論を極めることによって、
いつか真理が求められるというのは誇大妄想です。
18 :
ほんの少し怒ってます。 :2000/10/01(日) 18:01
>16
「論理の形式主義化・数学計算化」
この言葉の意味が不明確です。
論理の形式主義化とは形式論理学の形式化ということですか。
これなら記号論理学のことをさしますが、いかがですか。
数学計算化という言葉は普遍数学の構想のことですか。
これなら、ライプニッツにだってありますよ。
「認識論=認識の妥当性を論じる研究、論理学=正しい認識のための方法」
ヘーゲル哲学の前提を知りませんが、「認識の妥当性」の意味がわかりません。
認識論は対象を把握する仕組みを明らかにするという意味ですか。
だとしたら、これは論理学の範囲ではありません。
論理学を正しく考えるための方法というように置き換えると、
考える=認識とはならないように思いますが、いかがでしょうか。
あなたのお考えでは、「概念、判断、推理」はすでに認識の範疇ということですが、
これは明らかに観念論の枠組みにだけ成立するもののように思えます。
19 :
14 :2000/10/01(日) 19:06
>>16 なんていうか、矛盾の扱いが論外と感じるっすよ。矛盾が出たら、
Omnes ex falso で、何でも導けるのは中世論理学からの常識。
それを、ああいうふうに扱われるとなあ、、
20 :
logician's red :2000/10/01(日) 21:48
厨房1「ヲタは死ぬべし」
厨房2「じゃ、オレはヲタじゃないから死ななくていいんだ」
1から2を推論することに論理的妥当性があるでしょうか?ないでしょうか?
論理学をちょっとでもかじったことがある人ならば、
自信をもって答えられるはず。
論理学を知らない人はこのような会話の流れはよくみかけるし、
論理的にも正しいのでは?と思っているか、
「どっかおかしいなぁ。ヲタじゃなくても死ぬべき人がいるかもしれんし」
と思うところまでいくものの、どこか自分の意見に自信がもてないだろう。
フツウの論争ではなによりも結論が重要視されている。結論が正しいか否か。
ある結論の正しさを論証するのには、前提の正しさ以外にも
推論の正しさが必要不可欠だ。
論理学の知識はフツウの論争をする上でも有益だと思うぞ。
詭弁に騙されんためにも。
数学的な証明に拒絶反応が出る人には
「『形式論理学』R・ジェフリー・産業図書」の6章まで読むことを薦める。
21 :
3 :2000/10/01(日) 22:53
(老いて体力なし。他のレスで余力少なし。)
>>17 >1のレベルを考えてあげましょうよ。彼にそこまで考える能力が
>あるはず無いじゃないですか。
申し訳ない!と言うしかないが、ただ「真理を求める方法論」とは
むしろ分かりやすく言おうとした訳です。真理が純粋に論理学だけ
で捉えられるのではないのは当然です。真理への方法的な態度と
言った意味です。
>論理学は基本的に、命題の関係から導出される命題を考察する学問
>でしょう。
私は弁証法も一つの論理学だという前提でレスしているので、異論
ありです。
>>18 >論理の形式主義化とは形式論理学の形式化ということですか。
>これなら記号論理学のことをさしますが、いかがですか。
同上です。私は広く(粗く)形式論理学vs弁証法論理学という
対立で考えます。無論、「弁証法は論理学ではない」という立場
の人には論理的に上記は意味のない言葉になってしまう。
>これなら、ライプニッツにだってありますよ。
そうです。まさにライブニッツが果たし得なかった事がコンピュ
ータによって実現された!しかし、それは計算しかできない。
あと、「論理」「認識」という言葉の用法(理解)が違うこと
が大きな反論を招いているようなので改めて説明します。
>>19 同上です。矛盾は弁証法の動力です。
やはり弁証法は嫌われる、か。詭弁の一種と言われたり、最高の
科学だと言われたり、結局、内容を理解しない人ばかり・・・。
22 :
logician's red :2000/10/01(日) 23:22
3はなんかあわれだなぁ。そうとう年くってそう。さらにヘーゲリアンか。
論理学の話してんのに『大論理学』をもちだすとは…。
1よ、ヘーゲル読んでも論理的な思考力はつかんぞ。(反面教師としてなら別)
>5
論争のマナーは論理学じゃなくてディベイトの本だろう。
>14
16のレスのなかで矛盾の話なんかでてきたっけ?
もし「なぜ矛盾した命題からはなんでも導けるの?」ってきかれたら
どうする?
注:“ラッセルの雄弁話”をもちだしてもいかんぞ。
論争に勝つことに対して論理学の知識は
自分あるいは他人の主張・論証が論理的に妥当であるか否か
の確実な判断の根拠をあたえて、妥当でない論証を「妥当でない」と
指摘したり、その論証の反例を挙げる際に役立つと思う。
23 :
14 :2000/10/02(月) 00:06
>>22 出てきてないけどさ、ヘーゲル的な「論理」への我々ロジシャンの
一般的な拒絶反応は、矛盾の扱いじゃんか。やっぱり、あそこがちょっといやだ
のですの、とヘーゲルがやな理由をいっただけだよん。
#3のひともそこら辺はよく言われるので、ちゃんと反応してくれてるじゃない?
「なぜ矛盾した命題からはなんでも導けるの?」っすか?
いろいろ正当化はあるけど、simplification と対偶則を認める限り
そうでなければ困ります、ってんじゃだめ?
simplification は、「A であるならば、なにがあっても A である」
ってことね。簡単に言えば。まあ、妥当そうでしょう?
ただ、日常言語における推論においては、 simplification の成立には
若干疑問があるので、そこを制限すれば Omnes Ex Falso は成り立たない
論理が生まれるね。
#あれとか、これとか。嫌われてるばかりでもないのよ> 3 さん
24 :
1です :2000/10/02(月) 00:16
なんだか僕の無知な書き込みのせいで論争(?)が起きているようですが、
もうここには書き込みませんので論理学について自由に語りあってください。
ロムに徹します。
とりあえず・・・レス下さった方、ありがとうございました。
特にlogician's redさん、感謝します。
「形式論理学」、早速さがして読んでみます。
25 :
微熱症患者 :2000/10/02(月) 01:07
ふと疑問に思ったのですが、皆さんはいわゆる「帰納論理学」を論理学の一種だと思われますか?
26 :
ほんの少しわかりません :2000/10/02(月) 01:45
やっぱりヘーゲルは論理学の範疇から抜きにしましょうよ、
わかんないよ(急に幼稚化してすいません)。
>25
「帰納論理学」なんですか、それ。
具体的に論旨を提出してください。
27 :
微熱症患者 :2000/10/02(月) 01:56
>>26 私が想定している「帰納論理学」とは、具体的なデータから一般論を抽出
したり、別の(未確認の)具体例について判断するための法則を体系化す
る作業や、その作業によって得られた理論などです。
で、どうして「帰納論理学」の話題を持ち出したかといえば、このスレッ
ドの参加者の中で「弁証法論理学」を論理学に含めるかどうかについて意
見が分かれているので、同じように「××論理学」という言い表し方がで
きるのに論理学かどうかがあやふやな分野についての意見を伺おうと思っ
たわけです。
28 :
微熱症患者 :2000/10/02(月) 02:12
ついでに、ちょっとおまけ(今思い出しました)。
数年前に私と大学の先輩とでした論争です。
私「論理学とは読んで字の如く"論"のことわりについて考える学問です。
前提から結論を導出する推論の妥当性を調べるのが論理学の仕事で
あり、前提や結論に含まれる言葉が指し示す事象そのものの法則性
を探究するのは、物理学をはじめとする個別の科学の仕事です」
先輩「いやいや、論理学の扱う範囲はもっと広い。事物が生成消滅し、
また運動する根本原理も論理学の対象だ。推論の妥当性云々は、推
論が取り扱う事象に呼応しているかどうかによって明らかになるも
のだから、推論だけを切り離して論じるのは矮小化された論理学だ」
私「矮小化ではありません。ただの分業です。事象そのものを扱うのは
別の学問領域に任せているだけです」
先輩「君と僕とではかなり論理学観が違っているようだ」
私「いいえ、違っているのは"論理学"という言葉の用法です」
結局、この論争は平行線のまま終わりました。
29 :
考える名無しさん :2000/10/02(月) 03:00
日本ほど虚偽の3段論法が大手を振って歩いてる国はないと思う。
30 :
logician's red :2000/10/02(月) 03:50
この話は“論理学”をいかに定義するかによるな。
定義如何で論理学であるとも論理学でないともいえる。
弁証法の場合注意すべきは、その定義同士が同値でないこと、
なんらかの含意関係になっていないことを確認すること。
(そして論理学の語を一義にするために片方を「論理学´」とでも
呼べばよい。)
なぜなら現代の記号論理学と弁証法は相容れぬものだから。
「弁証法は妥当な推論ではない。なぜ正と反で合になるのかわからん。
正と反で合にならない場合もあるだろう」(ラッセルの弁だったか?)
私はこの意見を支持している。ヘーゲリアンは
「ペアノの公理系において、1+1=2である」という意見と
「ペアノの公理系において、1+1≠2である」という意見を
どう止揚するというのだろう?
帰納論理は難しいなぁ。私は確率論理とか真理値集合が実数全体である
ような論理のことは知らんから。こんなのも帰納論理といえそうだし。
でもまぁ議論するだけなら区別したほうが無難だろうな。
31 :
logician's :2000/10/02(月) 05:36
>微熱症患者氏へ
28中の
>推論の妥当性云々は、推論が取り扱う事象に呼応しているかどうか
>によって明らかになるものだから、
という発言から、その先輩が「推論の妥当性」という概念を
理解していないことがわかる。
いわゆる、物事を仮定して考えることができないタイプの人か。
あと、「矮小化」という言葉はネガティブな価値感情がこもりすぎだし、
使うにしてもちゃんとした定義が必要だろう。
>「君と僕とではかなり論理学観が違っているようだ」
この発言は的を得ているのにね。
>14氏へ
simplification と対偶則だけでいけますか?
実際に示してほしいな。
32 :
14 :2000/10/02(月) 07:19
>>31 しかし、31さんのハンドル美味しいなあ。
で、導出ね。31 さんは、記号にアレルギー無いよね?
-> を「ならば」、〜を「否定」ってことにするよ。
1. A ->( 〜B -> A)
2. (〜B -> A) -> (〜 A -> B)
3. A -> ( 〜 A -> B)
ってかんじ。simplification と 対偶則をいじるのは、アウフヘーベンな
論理を作ろうと思う時の定石っす。Relevant Logic も、simplification
いじってあるでしょ?
いやね、ノートルダムにのる論文にヘーゲルの名前があったりするからねえ。
昔の確執を思うとおもしろいよなあ。
33 :
考える名無しさん :2000/10/02(月) 19:36
横からすいませんが
「AはAである」という法則と
「Aは非Aである」という法則が
現実世界を貫いて同時に働いているとするのが弁証法論理です。
「AはAである」だけを認めておいて
それをいじって弁証法論理に似た見かけをつくるなんて誤解を招くぞ。
いや俺数学ぜんぜん知らないんですけどね
34 :
考える名無しさん :2000/10/02(月) 21:36
>「AはAである」という法則と
「Aは非Aである」という法則が
現実世界を貫いて同時に働いているとするのが弁証法論理です。
これって数学的にはありえるのでしょうか?
詳しい方教えてください。
35 :
考える名無しさん :2000/10/02(月) 22:54
最近論理学が流行っているのか?
今日寄った書店には論理学コーナーが出来ていたぞ。
36 :
10 :2000/10/02(月) 23:58
>>22(logician's red氏)
>3はなんかあわれだなぁ。そうとう年くってそう。
同情ありがとう。でも最近の感覚では、何歳なら年よりなのかな?
>さらにヘーゲリアンか。
さらにマルキストでしょうかね。
>論理学の話してんのに『大論理学』をもちだすとは…。
何か変?本のタイトルが「論理学」じゃん。ヘーゲルは詭弁家?
>1よ、ヘーゲル読んでも論理的な思考力はつかんぞ。(反面教師としてなら別)
残念ながら、私はビンビンにつきました(前にも言ったかな)。
と言う事で、形式論理に沿った議論の中に適当に混ぜてもらいながら、
弁証法とは如何なるものかを説明して行く事にしよう。
37 :
36 :2000/10/03(火) 00:07
誤: 名前:10
正: 名前:3
(やはり年か。失礼。)
あと最後のは横レスでした、これも失礼。
38 :
微熱症患者 :2000/10/03(火) 01:54
>>30 >この話は“論理学”をいかに定義するかによるな。
>定義如何で論理学であるとも論理学でないともいえる。
私もそう思います。
さらに付け加えれば、どのような定義を選ぶのが便利か、という観点
もあるでしょう。
私は論理学を推論の妥当性についての一般法則について研究する学問
と捉えています。論理法則は、現にどのような推論が行われているの
かを一般的に記述するのではなく、推論の規範を打ち立てるものだと
思います。いわば、論理学は「思考の規範学」だと言えます。
ただし、現実に日常生活で人々が行っている推論の実態とまったくか
けはなれた「高み」から「かくあらねばならぬ」などと宣言しても虚
しいでしょう。論理の一般法則は日常の非形式的な推論の実態をある
程度反映している必要があると思います。
現代の標準記号論理の体系が私達の自然な推論と必ずしも呼応してい
るわけではないことはよく知られていますが、その隙間を「弁証法論
理」が埋めることができるのならば、それを論理学に含めるような定
義を行うことは(私の論理観からすれば)非常に有益だと思います。
ただ、私は弁証法に詳しくないので不確かなことしか言えませんが、
どうも弁証法は形式論理学の隙間を埋めるというより、私達の論理的
直観を形式論理学が反映している部分までをも否定しているような印
象を受けます。
記号論理学に通じた方なら、また別の論理観をお持ちだと思いますが、
簡単に説明して頂けると有り難いです。
あと、ヘーゲリアンの方も。
39 :
考える名無しさん :2000/10/03(火) 03:40
真理を英訳するとTruthって書いてあった。 真実も英訳するとTruthって
書いてあった。
40 :
ほんの少しわかりません :2000/10/03(火) 04:01
微熱症患者さま
>38おっしゃるとおりですね。
>28における貴方の論旨は正しいと思います。
少し質問ですが、そうすると貴方の先輩の方がおっしゃられた
内容は科学基礎論のようなものと思われるのですが、
いかがでしょうか。いわゆる物質の存在論をやるということであれば、
やはり個別科学ですよね。そういう意味で、「帰納論理学」を一瞬、科学と
理解してしまいました。
ところで論理学は「どのように推論が行われているのかを一般的に記述する」
(認識論)ではなく、
推論の妥当性についての一般法則(論理)が「思考の規範学」
としての論理学ということですね。
この両者には、明らかに態度の相違が認められますね。
思考を過程として捕らえるか、形式として捕らえるかということは、
学の前提にかかわる問題ですから、両者は明確に区別されるべきです。
したがって、貴方の先輩が貴方の論理学の定義を矮小化したものと
いう反論は、対象に対する態度の違いを考慮していないように思えました。
ここで論理学の定義をする際に焦点になるのは、38で論じられているように、
「日常の非形式的な推論の実態」や、私の勝手な解釈ですが、直感を
どのように捕らえるかということのように思えます。
そこで、貴方は「帰納論理学」を論理学と考えるかという
課題をご提出されたのですね。
私は、ポパーなどを読んでもいつも不満に思うのですが、
直感について論理学は何も語っていないじゃないかということです。
カントも直感について矮小化したことしかいっていないように
思えて仕方がないのですが。
これは単に哲学の問題でしょうか。
41 :
電波猫 :2000/10/03(火) 17:00
NoltとRohatynの共著『現代論理学 (マグロウヒル大学演習)』1・2(オーム社)なんかも良いかと
帰納論理や文章の組立てみたいな話も載ってます。
42 :
栗 :2000/10/03(火) 22:07
横レスすまそ。40が
>直感について論理学は何も語っていないじゃないか
と訊いているので、ついでに誰かに教えてほしい。
C・S・パースのアブダクションはその「直感」にあたるものだ
と思うのだが、しかし具体的にどのような推論形式を指している
のだろうか? また、パースはカントの影響を受けたといわれるが
どのあたりがそうなんだろうか? 上山春平とか読んだけど、
いまいちよくわからん。
43 :
10 :2000/10/03(火) 23:01
(弁証法論者、再び登場)
>>38 >いわば、論理学は「思考の規範学」だと言えます。
カントのいう、認識の規準(カノン)としての論理と言うわけですね。
彼は、現象界を超えて可想界にまで悟性範疇(カテゴリー)を使用する、つま
り論理を認識の組識者(オルガノン)と考える場合仮象の論理としての弁証論
が生じる、と言って非難しました。かの2律背反がその実例という訳です。そ
れに対してヘーゲルは「いや、まさにそれこそが弁証法の力である。」として、
カテゴリーそのものを吟味せずに孤立的に使用したカントを批判しています。
>>40 >直感について論理学は何も語っていないじゃないかということです。
その点については、同感です。論理というのはあくまで悟性形式の使用だという
ことで、カントや三木清の提起した構想力の論理(図式的論理)や感性論(美的
形象化の論理)も現代の形式論理学では省みられていない。むしろ、言語学や記
号論において、象徴・比喩・アナロジー(類比)の論理が演繹的同語反復を超え
る内容的な論理として探求されているのではないか。いずれにせよ、上記全て
が認識主体と対象との関係形式でありながら、それらを論理学的でないと切り捨
てる事は、新カント主義的あるいは数学主義的な狭量と言わざるをえないでしょ
う。
44 :
43 :2000/10/03(火) 23:04
誤: 名前:10
正: 名前:3
(同じ間違いをまたやってしまった。鬱だ、氏のう(2ch風))
45 :
logician's red :2000/10/04(水) 02:25
>「AはAである」という法則と
「Aは非Aである」という法則が
現実世界を貫いて同時に働いているとするのが弁証法論理です。
これって数学的にはありえるのでしょうか?
A (A→A)∧(A→¬A)
t ttt ft f f
f ftf tf t t
これは恒真命題(性格には論理式)ではない。
意外なことに(?)、恒偽な命題でもない。矛盾:A∧¬Aは恒偽。
>14氏へ
>1. A ->( 〜B -> A)
>2. (〜B -> A) -> (〜 A -> B)
>3. A -> ( 〜 A -> B)
すみませんが何をやっているのか分かりません。
「矛盾からはなんでも導ける」を形式化すると、
任意の論理式A,Bに対して、「A∧¬A→B」とすることで十分と思います。
意味論的には、A∧¬Aは恒偽な論理式であり、また結合子“→”の解釈の定義より、
「A∧¬A→B」は恒真な論理式であるといえます。
しかし、この論理式の証明可能性をいいたいとき、
ラッセルとかヒルベルトのふるーい公理系をもちだすと、素人には
その公理は正しいのか?とかなぜそれが公理なのか?とか思う人もいます。
そこでゲンツェンの自然演繹NKをもちだすと、
推論規則としてmodus ponensが入っていたりして初心者にも直観的にわかりやすい。
しかし、NKには「矛盾からなんでも導ける」が推論規則として入っています。
もちろんNKで「矛盾からなんでも導ける」は証明可能ですが、
なぜ矛盾からなんでも導けるのか?という疑問は残ります。
タブローは導入として非常に優秀ですが、形式主義を理解するのには不便です。
さて、私が「矛盾からなんでも導ける」を証明してくれと頼んだのは、
初学者にこれを理解させるのにもっとも優秀な体系はどれかなぁ?それとも
今のところないか?というのが真意です。どうでしょう?
あら?真理表はちぢむし、本文は省略されるし…。
鬱だ、氏のう…。
47 :
ほんの少しわかりません :2000/10/04(水) 02:53
弁証法論者殿
基本的に賛成です。おっしゃるとおりだと思います。
ヴィトゲンシュタインを持ち出すまでもないのですが、
「語りえないことについては、沈黙しなければならない」
のですから、そもそも直感については、論理学は語りえない
ということでしょうか。
しかし「我々は語りえる以上の事を知りえる」(ポランニー)
のですし、現象学の「生活世界」の領域ということになるのでしょう。
もっとも、これは「新カント主義的あるいは数学主義的な狭量」
なにですか。若干この点がわかりません。
48 :
logician's red :2000/10/04(水) 03:42
暇だから連続カキコ。すまん。
14氏の証明は3の次に4で「A∧¬A→B」と変形するつもりだったのね。
重ねてすまん。どこでなにを使ったか詳しく書いてくれるとありがたい。
でも対偶律を使うと、これが直観主義でも成り立つことが説明できんなぁ。
弁証法はなんらかの体系の定理として証明できんもんかね。
(様相論理でもなんでもいいから)
弁証法が真なる命題であるといいたいのなら、そういう方法を
とらねば形式論理学サイドの人間はなっとくしない。
アリストテレスの三段論法の研究結果はすべて述語論理の定理として
含まれている。
定理というかたちで証明されていない(哲学的な)命題に関しては
形式論理学者は、好意的にみて「仮説」、悪意的にみて「たわごと」
と思っている。私もしかり。
もちろん、弁証法が証明できたら絶賛するよ。
ここに私の論理学観があらわれているな。
論理学の結果はすべて定理という形で述べられる。
3氏などはこれを聞いて「数学主義的な狭量」と思うかも知れんが、
なぜ形式論理学が制限された範囲で展開されるのかということに
ついて考えてもらいたい。
用語の定義について無限遡行をしないように無定義術語があり、
あれもこれもというわけにはいかないから出発点を設けて、
確かな結果だけを抽出する。「分業」だな。
むしろ、定理一つもない仮説の集まりを「ナントカ学」ということに
私は抵抗がある。確からしい仮説の集まりを「ナントカ論」という
のは許す。弁証法は確からしくないなぁ、反例がいっぱいありそうだもん。
49 :
logician's red :2000/10/04(水) 04:21
>弁証法論者殿
基本的に賛成できません。
(さあ、面白くなってきたぞ。ただし反対ですとは言ってないことに注意)
>カントや三木清の提起した構想力の論理(図式的論理)や感性論
>(美的形象化の論理)も現代の形式論理学では省みられていない。
現在の科学では説明できない現象が存在するのと同様に
現在の形式論理学では証明できない論理も存在します。
将来は形式論理学が拡張されてこれらを形式化して証明できるかもしれません。
アナロジーについても同様。
もちろん形式論理学でなくてもこれらの論理が証明されればそれでOKです。
どうも私には
「偉大なヘーゲルが言ったことはすべて正しい。
よって、弁証法は正しい。」
「偉大なヴィトゲンシュタインが言ったことはすべて正しい。
よって、語りえぬものには沈黙しなければならない。」
とまあ、このような非論理的な推論がまかりとおっているように思える。
疑惑を晴らしていただくためにも、証明というスタイルでお願いしたい。
50 :
名無しサンシティ :2000/10/04(水) 05:12
それは勘繰りというものさ。
51 :
考える名無しさん :2000/10/04(水) 05:29
論理学をやっている方たちは、我々が生きている現実が論理学では
説明のつかないような矛盾だらけだ、という事実をどのように
お考えなのでしょうか?
52 :
logician's red :2000/10/04(水) 05:46
>50
ごめんね。こうでも言わないと証明してくれそうにないから。
>51
現実上の「矛盾」と論理学の「矛盾」は意味が違います。
日常言語で「矛盾」といってもその解釈は人それぞれ。
試しに現実における矛盾の具体例など挙げてくれると、
「それは論理的矛盾ではない」とか指摘できます。
53 :
名無しサンシティ :2000/10/04(水) 06:16
前から気になっていることですが、いわゆる論理学の扱う矛盾というものが
「それは論理的矛盾ではない」という仕方で日常生活における矛盾との境界を画定していくのだとすると、
それは論理学自身が、自己の学問的領域をいわば消去法的に際立たせていくこと、つまり
論理学が自身を基礎づけている作業のように思います。厳密さを旨とする以上、それはそれで結構なのですが、では論理学は
「何のための」学問なのでしょうか。自己言及的になされる学問作業は、論理学内部でのさまざまな議論やパラダイム、解釈空間においては
有効で、実りがおおく、まことに結構だと思いますが、そうした「ネタ起こし」が自家撞着的なものであるなら、
それは端に或るひとつの%}派的な議論にすぎない。つまり「論理的である」という説明や証明も、結局は「論理的であるべきだ」というひとそれぞれの好みに過ぎない。
おそらく論理学の扱う言語と日常言語との乖離の不可能性が、論理学が単なる好み(例えば・・科学的先入見)に陥ることなく、それなりの普遍妥当性を主張しうるためのキーになっているような気がします。
論理学の歴史的あゆみ自体がこういう方向に向かっている、と習いましたが、あくまで日常との距離を主張するのであれば、そうした論理学は
今現在、「何のための」学問なのでしょうか。
>52
たとえば人は平気で「言っていること」と違うことをやったり
しますね。そういうことです。
あと理屈にあわない理屈が通ったり。(これについてはわざわざ
例を挙げなくてもよろしいのでは?)日常茶飯事で起こることです。
つまり日常生活では「論理的に整合性のあること」が、かならずしも
実現していない、ということです。こういうのは確かに「論理的矛盾」
とは言わないでしょうが、日常で重要なのは「論理的整合性」では
なくて、現実における実効性なんですよね。現実はしばしば「論理的
整合性」をねじまげて実現されてゆくんですよ。だから最初から話が
合わないだろうなと思ってました。
55 :
微熱症患者 :2000/10/04(水) 07:31
>>40 >少し質問ですが、そうすると貴方の先輩の方がおっしゃられた
>内容は科学基礎論のようなものと思われるのですが、
>いかがでしょうか。
私の先輩はカントから入ってドイツ観念論や新カント主義を勉強した人でした。
現在の科学基礎論にはあまり関心はないようでしたが、たぶん「論理学」に認識論
や存在論をある程度含めて考えていたのだと思います。
>私は、ポパーなどを読んでもいつも不満に思うのですが、
>直感について論理学は何も語っていないじゃないかということです。
ここでの「直感」というのが、推論の前提となる諸命題の源泉としてのそれのこと
だとすれば、論理学が扱う領域ではないと思います。
調理学が食材の入手方法や作り方(野菜の栽培方法とか家畜の飼育方法など)につ
いて語らないのと同様ではないでしょうか?(ちょっと極論です)
ただし、実際に展開された推論について、ふつうの人が「それは正しい」「それは
筋が通っていない」などと判定する場での直観(38で「論理的直観」と書いたのは
これのことです)については論理学は無関心ではいられないでしょう。もっとも、
論理的直観について検討するのは狭義の論理学ではなく、論理学の哲学の仕事だと
思います。
56 :
14 :2000/10/04(水) 09:38
>>48 対偶は使ってるけど、直観主義でも成立するやつなので、
大丈夫だよ。
57 :
横車三吉 :2000/10/04(水) 10:15
>>54 論理的に矛盾したことを言うだけなら誰でもできるが、
「論理的に矛盾した」行動は誰にもとれないよ。
論理的に間違ったことを発言したり、自分の発言と食い違った行動
をとることは、「論理的に矛盾した」行動ではないんよ。そんな
こと混同してるようじゃ、ダメダメ。
日常生活で現われる「矛盾」っていうのは、極論すれば、単なる
「間違い」とか「勘違い」を言い換えてるだけ。矛盾を導き出し
た仮定のどこかが間違ってるだけよ。矛盾が矛盾のまま成立して
るわけじゃありまへん。
>57(横車三吉)
うん。至極単純なことだよ。
52でも言ってるけど、「現実上の矛盾」と「論理学上の矛盾」は
違う、ということだね。別に混同してないよ。ただ言葉の解釈の
仕方が異なっているだけ。だけど日常的な用法では、そういう事
も我々は「矛盾」と呼んでいるんだ。たとえば同じ人間が2時間
前に言っていたこととはまったく相反することを主張したりとか、
過去に言っていたこととはまったく相反する行動を取ったりとか。
論理学で、時間の経過によって主張内容が変わったりする内容を
「真理」として扱うかい? つまり論理学は内在的な合理性を保つ
ために言葉の定義を極度に限定して使っている、ということだね。
問題はそうやって限定された言葉の使い方で導きだされた結論が
どこまで現実的に有効なのか? ということなんだけど。現代の論
理学はそこまで考えを進めているのかな...?
さすが!論理学は楽観論ですね。
60 :
14 :2000/10/04(水) 13:51
>>58 >問題はそうやって限定された言葉の使い方で導きだされた結論が
>どこまで現実的に有効なのか? ということなんだけど。現代の論
いや、そこまで限定して出した結論だから、まず間違いなく
安全に現実に適用ができるんだけど?
61 :
横車三吉 :2000/10/04(水) 22:23
>>58 60=14さんが代わりに応えてくれたようだね。
直接的かつ具体的に何の役にたつかといえば、数学や科学の
理論体系の構築に必須であり、ひいては、科学技術を通して
現世利益にフィードバックされてるってことじゃないかな。
もちろん、日常的な議論においても活用できることはいうまで
もない。
62 :
3 :2000/10/04(水) 23:07
(弁証法論者、今日は間違えずに登場。)
今までの議論で出てきた主題は、
1.論理(学)の定義
2.弁証法の証明
3.論理学の現実に対する有効性(特に矛盾を巡って)
4.直観の論理的意義
くらいでしょうか。上記2について回答を考えて見ます。
今日は忙しかったので、議論はPASSします。では、更に議論を。
63 :
ほんの少しわかりません :2000/10/05(木) 01:24
>55
「ここでの「直感」というのが、推論の前提となる諸命題の源泉としてのそれのこと
だとすれば、論理学が扱う領域ではないと思います。」
具体的なご説明については実感としてわかったのですが、
推論の前提となる諸命題の源泉としてのそれというのが直感の定義だとすれば、
それはほかに経験でも、主観でもなんでもいいんですね。
ところが直感となると、単なる諸命題の源泉ではなく、言明されるのでは
ないままに暗に私たちの生活の中に埋没していて、
「それ」とか「あれ」と指し示すように生活の形式の中で頻繁に
使われている「沈黙した言語」と形容矛盾的に語られるとでもいうようなも
ののように思えるのです。
私には、確かに論理学は語られたものの理(ことわり)の学ということは
いえるのでしょうが、このような意味で、論理学を堅持するならば
「語りえぬものには沈黙しなければならない」(こういう意味ですよ>49)
という態度が堅持されるのですし、「それは私の生活の形式が示すのだ…」
として、そもそも言語によって語るということは(言語行為とは)
どういうことだという後期ヴィトゲンシュタインの言語哲学のようなものに
発展していくのだと考えています。
だとすると、論理学は、推論の妥当性についての一般法則を
打ち立てるとするならば、基礎理論としての一般法則が
言語哲学などに依存するということになりませんか。
だとすればさらに、言語哲学が推論の妥当性についての一般法則を
明らかにし得るということのように思えますが、いかがでしょうか。
極論を言えば、論理実証主義のようながちがちの論理学は、
無味乾燥で面白くないということになってしまうのではないですか。
64 :
微熱症患者 :2000/10/05(木) 07:18
論理学の現実に対する有効性、というテーマについては、14さんや横車
三吉さんに賛成です。
少し補足的意見を述べます。
日常生活で遭遇する「矛盾」には二種類あります。
一つは「言っていることをまとめると筋が通らない」
もう一つは「言っていることとやっていることに辻褄があわない」
前者の場合、話し手の言った内容のどこに筋が通らないところがあるのか、
どのように修正すれば筋の通った内容になるのか、などと考えるのに、論
理学は役に立つと思います。
また、直観的には筋が通っていないと思われるのに論理的矛盾がない場合
には、何か暗黙の前提が仮定されていると考えられます。その前提を明ら
かにするのにも論理学は役に立つと期待できます。
後者の場合は、単なる言行不一致ですから、通常の場合は論理学の出る幕
はないでしょう。むしろ倫理学の問題だと思います。
もちろん言行不一致を倫理的に批判する場合でも、どこがどう不一致であ
り、行為をどのように改めれば言っていることと辻褄が合うのかを指摘す
るためには論理学が役に立つでしょう。
65 :
微熱症患者 :2000/10/05(木) 07:43
>>63 言われていることの意味がちょっと掴みかねます。
私はウィトゲンシュタインにあまり通じていないので。
(ファンの人には怒られるかもしれませんが、『論考』は壮大な言行
不一致の書だと思っています。語り得ぬはずのことを延々と語って、
いったいこの人は何がやりたかったのだろう、と首を傾げるばかりで
す)
>極論を言えば、論理実証主義のようながちがちの論理学は、
>無味乾燥で面白くないということになってしまうのではないですか。
論理実証主義が無味乾燥で面白くないという点には賛成しますが、論理
実証主義自体は論理学ではなくて、論理学をさまざまな分野に応用した
一種の思想運動だと私は捉えています。
昔、カルナップはデカルトの「私は考える、故に私は存在する」を論理
学を用いて批判したそうです。すなわち「私は考える」から導き出され
る存在命題は「考えるものが存在する」であって、私の存在ではない。
よってデカルトは論理的に間違った形而上学(この場合の「形而上学」
は「ナンセンス」とほぼ同義と考えていいでしょう)に陥った、と。
どんなに便利な道具でも使い方を間違えるととんでもない結果に陥ると
いう教訓をこのエピソードから引き出すことができます。
誤解のないようにいえば、私は論理実証主義の意義を否定するわけでは
ありませんし、むしろ同時代の哲学的潮流のなかではわりと好きなほう
です。
>微熱症患者
それでも、論理実証主義と(形式)論理学は区別しておく必要があるでしょう。
67 :
ミック>65 :2000/10/05(木) 10:46
>『論考』は壮大な言行 不一致の書だと思っています。語り得ぬはずのことを延々と語って
そんなことないと思うけど。「語りえないもの」(論理形式と倫理)をひとつひとつ挙げているだけで、それに「ついて」語ったりしてないよ。
『論考』が言っているのは、「事実」(彼の術語として使うよ)の総体としての世界と完全に1対1対応する「写像」としての命題をあますところなく記述できる言語こそが理想の言語だ、ということだと思うけど。で、後期になると「実は言語は事実と一対一対応してないじゃないか(身振りや間投詞なんかのことね)」と思い直したんでしょ。
あとさ、カルナップの「わたしは考える、ゆえにわれあり」の解釈っておかしいの?僕はそういうものだと考えてんだけど。デカルトはこの世界の全てが夢幻ではないかという不安を払拭できなかった、とどこかで読んだけど、それでもその「夢幻を見ている、この状態は確かに存在している。無ではない」という
のが「コギト・エルゴ・スム」の内容と思ってたんだが。一種のエネルギー論みたいに。
68 :
栗 :2000/10/05(木) 21:16
そのうち誰か答えてくれるだろうと期待していたが甘かったようだ。
62のいうところの、4.直観の論理的意義 のひとつとして
パースのアブダクションをもう少し掘り下げてみよう。
アブダクションは次の仮言的三段論法の形で定式化される。
1)おどろくべき事実Cが発見される。
2)しかし、もしAが真ならば、Cは当然の事柄であろう。
3)ゆえにAは真でないか、と考える理由がある。
たとえば、惑星の軌道は円だと考えられていたが、そうでないことを
示す観測事実が得られた(C)。もし軌道が楕円だとする(A)と
Cの事実は説明される。ゆえに惑星の軌道は楕円だと考える理由がある、
というように、アブダクションは実際に科学的発見に際して大きな
役割を果たしてきた。しかしこの推論はいわゆる「後件肯定の誤謬」を
おかしている。つまりこの推論形式ではAがCの唯一の原因である
ことが特定されない。したがって、アブダクションは創造的であると
同時に可謬的であり、ディダクションとインダクションによって検証され
なければならない。で、オレが訊きたいのはこの推論形式とパースが
影響を受けたといわれるカント哲学との関連性だ。
あんまり期待していないが、誰か専門的に答えてくれるとありがたい。
69 :
考える名無しさん :2000/10/07(土) 05:53
証明についてだが
「首をはねると、人は死ぬ」ことを証明するには、実際はねてみるしかない。
この例が妥当かどうかわからないのですが、
ことがらの真偽を判定する唯一の手段は
現実世界に働きかけての実践的な検証だというようなテーゼがどっかにあったはず。
外的な現実ならともかく、
内的な現実については、
弁証法的な二律背反が原理として働いていることを誰もが知っているのでは。
(感情や意志のアンビバレンツとして)
70 :
3 :2000/10/07(土) 05:57
>>68(栗氏)
私は専門家ではないので、勝手に解釈しますが…。
プラグマティズム(実用主義)の創始者(の一人)パースはカントの観念
的なプラクティス(実践)に対抗して、科学的な立場を称揚した訳ですが、
アブダクション(仮説形成論理?)とカントとの関係として私が思い浮か
べるのは、例の「コペルニクス的転回」ですね。天動説が自明とされてい
た時代において惑星の軌道はどうしても数学的・幾何学的に演繹できなか
った。周天円を幾つ仮定しても、計算結果は実際とは違う。しかし、地動
説が正しいと考えるなら、何と!実に単純に惑星の軌道計算は観測結果に
一致する。その事を認識論的に逆転させたのがカントの観念論でしょう。
『純粋理性批判』の中に出てくる注釈的なエピソード(「以前は誰もが土
星自体に枝があると考えていたが、ガリレイによってそれが輪である事が
発見されて以来、『枝のある土星』など存在せずそれは見かけ(仮象)に
過ぎない事が理解されるようになった。」との話)は事の本質を突いて
いる。つまり、仮象と物自体(主観と客観)、現象と本質、仮説と定説の
逆転です。仮説的・条件的・相関的な世界観は客観的世界における普遍的
法則発見とその必然性の解明に向かう経験科学固有の認識態度ですが、カ
ントはそれを「現象と物自体」の2世界に無媒介的に分断してしまったた
めに、非「実践的」な主観哲学に落ちた。パースはそこを突いた。アブダ
クションは観測された事実−事実の一般化(法則の定立)=原理からの演
繹的説明−検証された事実という科学的発見と説明の弁証法的論理でしょ
う。経験的・個別的な事実は観測されるが、観測は既に理論に媒介された
観点に(無意識に)従っており、測定という量的な一般化と限度確定とか
ら、一般的な法則が洞察される。事実(経験の領域)から法則(本質の領
域)への飛躍のためには直観による本質把握が必要ですが、それは「物自
体」ではなく現象の全体性としての客観的世界の定立です。個別的質→測
定量→限度→一般的本質→現象→相関的世界という概念の論理的(弁証法
的)進展についてはヘーゲル参照。但しヘーゲルは限度から本質への移行
には神秘的手品を使うが実際には科学的実践と直観に媒介されている。
71 :
微熱症患者 :2000/10/07(土) 07:03
>>66 >それでも、論理実証主義と(形式)論理学は区別しておく必要があるでしょう。
仰るとおりです。
65で書いたことの繰り返しになりますが、論理実証主義は論理学そのものではな
く、一種の思想運動です。人によって主張は違いますが極端にまとめれば、
論理学→数学→物理学→その他の自然科学→社会科学
というように展開していくことによって、すべての学問を厳密な学として統合し
ようという壮大なプロジェクトをもっていたようです。
72 :
微熱症患者 :2000/10/07(土) 07:24
>>67 「論考」についての私の意見は暴論に近いと自分でも思っていますので、
あえて反論はしません。
カルナップのデカルト解釈が正しかったのか間違っていたのか、私には
わかりません。というか「私は考える、故に私は存在する」をどのよう
に解釈すればいいのかさえわからないのです。
素直に読めば「私は考える」という前提から推論によって「私は存在す
る」という結論を得たのだと考えたくなります。しかし、私の師匠(デ
カルト研究では日本有数の学者でした)曰く「これは推論ではない。そ
もそも普遍的懐疑のこの段階では論理的推論の妥当性そのものが懐疑に
さらされているのだから、推論によって知識を得るという行為は成立し
ない。デカルトは『私は存在する』と直知したのだ」云々。
ここ数年お会いしていないのですが、恩師の言葉に異議を唱えるのも失
礼なので、ここでは「デカルトは推論していなかった」と結論づけてお
きます。
さて、カルナップは明らかに「私は考える、故に私は存在する」を前提
から推論によって結論を導出するプロセスを述べたものと解釈していま
す。その上で、この推論は論理的に妥当ではない、と指摘しているわけ
です。
実はデカルトと同時代にも「これは三段論法じゃないからダメ」という
批判があった(「もし私が考えるならば私は存在する」または最低でも
「考えるものは存在する」という前提を加えないと結論が出てこない)
そうですが、さすがにカルナップはそのような野暮な批判はしません。
かわりに現代記号論理学の成果を用いて次のように論じました。
(ちょっと長くなりそうなのでここで切ります)
73 :
微熱症患者 :2000/10/07(土) 07:50
(72の続き)
以下、個別の記号はカルナップが使ったものと異なります。
「私は考える」は「私」という定項と「は考える」という一項述語に分析
できるので、
Fa ……1
と表すことができます。
定項は存在量化子に束縛された変項で置き換えることができるので、
1から、
∃xFx ……2
を導くことが可能です。
これは「ある考えるものが存在する」と翻訳できます。
しかし、これは「私は存在する」とは同じではありません。
というか、そもそも「私は存在する」を記号化することさえ不可能です。
強いて記号化すれば、
∃a ……3
となりますが、これは有意味な式ではありません。
よって、デカルトの「私は考える、故に私は存在する」は誤った推論で
あり、彼は無意味なことを述べたのだ……とカルナップは言うわけです。
しかし、デカルト本人の意図はともあり、これは本当に推論でしょうか?
もしこれが間違いだとすれば「太郎は散歩している、故に太郎は存在す
る」というのも間違っていることになりますが……。
そもそも、カルナップの論法(これは「論考」期のウィトゲンシュタイ
ンの考えをそのまま受け継いでいるせいですが)では、私達は個体の存
在について有意味に語れないことになります。
……ちょっと先走りすぎました。
存在論の領域の話に踏み込むのはやめて、推論の話に戻しましょう。
自然言語を用いた推論で、私達の常識的な論理的直観によれば明らかに有意味
かつ妥当と思われるものについて、記号化できないという理由でそれを否定す
るのは話が逆ではないか、と私は思うのです。つまり批判されるべきは論理学
の表現能力の欠如ではないか、ということです。
カルナップの弟子筋にあたるクワインにならって、定項を用いずに上の推論を
記号化してみましょう。
∃x(Fx&Gx)……4
ここでFは1と同じく「……は考える」を表します。
Gは新しく発明された述語「……は私る」です。この述語は私と同じものに適
用されたとき、かつ、そのときに限り真となるように定義されます。
4からは二つの存在命題を導出できます。一つは2ですが、もう一つは、
∃xGx ……5
です。
これを日常言語に翻訳すると「ある私るものが存在する」すなわち、「私は存
在する」となり、めでたくこの推論の妥当性を示すことができました。
74 :
3 :2000/10/07(土) 10:18
>>72,
>>73(微熱症患者氏)
デカルトのコギトについて、それが何ら推論ではないというのは同意見で
すが、あなたの師匠の言う「普遍的懐疑のこの段階では論理的推論の妥当
性そのものが懐疑にさらされている」と言う点は疑問ですね。この段階で
は存在するもの全てに対する懐疑はあってもそれを疑うことやその疑いの
形式論理(例:もしAならばXの筈だが、Yである以上、Aは違う。)は堅
持されている。そして「『疑う私』は疑い得ない。」と言うのは論理的な
言明ではなく、存在論的な言明です。論理的に解釈するなら言葉の意味論
に過ぎない。(真面目なカルナップは敢えてその道を取ったのでしょう。)
「この私デカルト」は証明(おっと、「弁証法の証明」が私の課題だった
。)できないのです。デカルトのコギトとはカントが「自我の先験的統覚」
と呼んだ直観です。「明晰かつ判明な直観(フッサールが言い直した必当
然的直観)」こそが真理の保証だと言うわけです。しかし、デカルトはそ
こで思い違いをした(直観(確信)とは形式的にはすべて思い込みであり、
思い違い可能なものです)。「私」とは個人デカルトの事ではなく、あな
たもそなたも含む一般的な「私」なのです。
また、「私る」とはイけているから女子高生に流行るかも知れないですね。
それは私が存在ではなく対象的活動の主体であることを明示している。
しかし、
>>65(ミック氏)の言われる「この状態は確かに存在してい
る。無ではない。」とは浮遊する今の女子高生に実感できていないのでは
と心配になります。
問い:「あなたは今生きているという存在感や確信がありますか?」
答え:「私って誰?」「生きている確信?そんなの分かんない。」
75 :
ミック :2000/10/07(土) 17:05
>私の師匠(デカルト研究では日本有数の学者でした)
ササOチカO?
いや別に根拠はないんだけど、何となくね、そんなこともあるかな、と。
微熱さんと3さんの具体的なレスをもうちょっと読んでからレスします。僕は量化子とかの定義も危ない人間なので。
>「論考」についての私の意見は暴論に近いと自分でも思っていますので、 あえて反論はしません。
まあそう言わずに反論してくださいよ。あるいは自説をもう少し詳しく書いてくださいよ。ウィトゲンシュタインに対してどういう批判の仕方があるのか是非知りたいです。
>「この状態は確かに存在してい る。無ではない。」とは浮遊する今の女子高生に実感できていないのでは
>と心配になります
マジで?僕と今の女子高生ってそこまで世界が違ってんのかな。
76 :
logician's red :2000/10/07(土) 19:52
4日ぶりに登場。
>14氏へ
>対偶は使ってるけど、直観主義でも成立するやつなので大丈夫だよ。
そういえば、直観主義でも(A→B)→(¬B→¬A)は成り立つんだった。失礼。
でもなんかすっきりしないなあ。矛盾則を使わないNJでの詳細な証明を希望。
>微熱症患者氏へ
「私る」はつらいなあ。a:私で、∃x(x=a)はだめなの?
これは等号付き述語計算の定理だ。
「我思う」を仮定せずに、「我(と同一のもの)あり」と主張している。
形式論理ではいとも簡単だけど、これはビミョウな解釈の問題がある。
これはaという名前、指示詞に該当するものがないのに、
その該当しないものに名前をつけるのは無意味だという主張、つまり
なにかしら名前をつけるなら、なにかその名前に該当するものが必ず
概念としてある、あるいは考えられるという主張に関連している。
これは話が意味論的レベルになっているので当たり前といえば当たり前の話。
デカルトの「実在に対する懐疑」の回答としてはどうだろう?。
これだけではなんともいえない気がする。
うーん、これ以降の話は確定記述とか分析哲学になっていく予感が。
77 :
logician's red :2000/10/07(土) 21:01
>69
>ことがらの真偽を判定する唯一の手段は
>現実世界に働きかけての実践的な検証だというようなテーゼがどっかにあったはず。
「わが思考の世界」つまり脳の思考を現実世界に含めるとうのであれば、
その主張は正しそう。ただし、唯一かどうかはわからない。
含めないのであれば、論理学や数学の証明はその主張の反例になっている。
>外的な現実ならともかく、内的な現実については、
>弁証法的な二律背反が原理として働いていることを誰もが知っているのでは。
それは唯物弁証法を否定しているのかな?まあ、唯物に関しては保留か。
ヘーゲリアン兼マルキストの3氏はなんというだろう。
弁証法が当てはまるような(気がする)例が存在することは認める。
ただし、いつでもどこでも当てはまるという主張には納得できない。
どのような制限のもとで成り立つのかには興味がある。
弁証法をガッチリ証明してもらいたいものだ。
私は、すべての学問の結果は定理という形で示すのが理想的だと思っている。
言葉を曖昧なままにしておくといくらでも反例がつくれる。
私のような論理学観について「狭量だ」というのは、
逆に、曖昧な言葉からなる仮説の集まりをくっつけた「論理学」を
私からみれば、「肥大している」と見える。
しかし、こんなやりとりはオマエモナーレベルだ。
どちらも主観的な価値観をもちこんでいる。
やはり最初からそしてその時に応じて、定義してかかるに越したことはない。
ちょっとおもしろそうなスレだね。
>微熱症患者さん
「カルナップも野暮な奴だねえ」としか言いようがないね。
カントもびっくらこいてることでしょう。
"コギト〜"は文字通りでいいじゃないか。(^_^;
>3さん
>「『疑う私』は疑い得ない。」と言うのは論理的な言明ではなく、
>存在論的な言明です。論理的に解釈するなら言葉の意味論に過ぎない。
言明は、それ自身だけではただの記号列にすぎないものでしょう。
どんな言明も、それが意味を表すには環境と解釈が必要です。
ですから、その"環境"を文化的なものに多くゆだねる日常言語を、
論理学的に分析しようという試みには、私は大いに疑問です。
言語だけをいくら分析しても、物理学のようには一般形式を得られないでしょう。
(神経生理学だけで"こころ"を理解することが出来ないのと同じですね)
その意味で、あなたが
>>3などで述べていたように、
論理学の本流は数理論理学に継承されたものだと私も考えています。
言語抜きに我々が認識することもかなわないのならば、
言語はまさに現象の単位だといえるでしょう。
もっとも、"コギト〜"がそうであったように、
どのような言明も、現象との隙間を論理で生めることはかないません。
カルナップは、誰もが納得のいく"世界の定式化"を完了することによって、
この隙間の問題を解決できると考えていたようです。
(この場合も最後は信心なわけですが)
>logician's redさん
>私は、すべての学問の結果は定理という形で示すのが理想的だと思っている。
>逆に、曖昧な言葉からなる仮説の集まりをくっつけた「論理学」を
>私からみれば、「肥大している」と見える。
肥大化した論理学と、あなたの理想の論理学ってどう違うのでしょう?
それが良くわかりません。
教えてくださいな。
79 :
3 :2000/10/08(日) 20:20
>>30(logician's red氏)
>「弁証法は妥当な推論ではない。なぜ正と反で合になるのかわからん。
>正と反で合にならない場合もあるだろう」(ラッセルの弁だったか?)
その通り。弁証法は「妥当な推論」ではない。また、フィヒテ流の『正と
反で合になる』とは事柄に外的な図式に過ぎない。弁証法は事柄に内在
する具体的な矛盾に着目してその真理を問題にします。
>「ペアノの公理系において、1+1=2である」という意見と
>「ペアノの公理系において、1+1≠2である」という意見を
>どう止揚するというのだろう?
私は数学に詳しくない(興味を余り感じない)が、数の概念については弁
証法的に興味があります。ペアノの算術論での「次の数」(successor)と
いうのが眼目でしょう。「1の次の自然数は2である。」とは何の事か?
それはヘーゲル言う所の「対象を1、2、3…と数え、数を作ること」で
す。つまり、対象を数として措定する(一定の単位と集合を規定する)こ
とから数学的計算は始まる。「1足す1が2」というのは次の段階でしょ
う。和算というのは上記の数えることに含まれていた原理(単位と集合数
の弁証法的統一)を顕在的にしたものです。それは集合数を単位に転化す
る事です。更に積算において和の真理(単位と集合数の同等性)が顕在化
します。以下、比、冪(誤ってエンゲルスが否定の否定の実例として持ち
出した件のもの)等と発展します。さて、記号論理学は自然数に含まれて
いる実在的な意味を捨象し記号一般に抽象化してしまうため、「次の数」
と言うものが何を指しているのかが全く理解できなくなり、「1足す1が
2だろうとそうでなかろうと関係ない」と言い出すのでしょう。まさに
「量とは自己に無関心となった質である」との真理を実演している。実際
の生活の中でも「1足す1が3にも4にもなる」例はいくらでもある。よ
く引き合いに出されるのは「2人の協力関係が個人の総和以上の力を発揮
する」という場合でしょう。その場合は、もはや孤立した個人(単位)は
止揚され、全体的な集合体が新たな単位として出現した事になる。
以上が弁証法の証明(一例ですが)です。
80 :
代理いぬ :2000/10/08(日) 23:52
>79
形式主義論理学では、現実と公理の造る世界は明確に区別されていますよ。
数は概念。
それだけです。
81 :
微熱症患者 :2000/10/09(月) 01:47
>>74 普遍的懐疑を遂行中のデカルトが形式論理をどのように扱っていたのか、という
問題は私の手に負えません。少しでも誤りの可能性があれば一切信じない、とい
う方針をとるなら、少なくとも形式論理の実際の運用については懐疑の対象とな
るはずです。他方、形式論理まで疑ってかかっては、そもそも何も考えられなく
なるのではないか、という疑念もあります。
>>75 残念ながら私の師匠は佐々木氏ほど有名な人ではありません。
たぶんこの板で名前があがったことは一度もないはずです。
ウィトゲンシュタイン批判もまた私の手に負える事柄ではありません。ただ、彼
の「語り得る事柄/語り得ない事柄」の区別はちょっと窮屈すぎるのではないか
と思うだけです。彼の主張を額面どおりに受け止めれば、私たちは「2は偶数で
ある」と語ることさえできないことになります。
>>76 「私る」というのは、等号を含まない体系で件の推論を記号化するための便法で
すから、もちろん、∃x(x=a)を使ってもいいと思います。というか、「私る」
を分析すれば結局、∃x(x=a)に行き着くことでしょう。
指示表現の対象の存在を巡る問題については……やはり、私の手に負いかねる、
と言っておくことにします。
なんか、逃げてばかりで申し訳ない。
どうやら私は大風呂敷を広げすぎたようです。
82 :
ほんの少しわかりません :2000/10/09(月) 02:59
私も大風呂敷を広げすぎて論理が破綻してしまったので…。
どうなんでしょうね、私の師匠は、論理学の大家といわれた
人なんですが、不肖の弟子は、まるでだめなもんで。
ところで、どなたかお聞きしたいのですが、論理学の具体的な成果
ということで、情報理論や人工知能論の詳しいレポートを上げてく
れるような人はいませんか。
ノイマンなどだったか、いわゆる人間の思考過程を一種のアルゴリズム
として捕らえて、コンピューターでそれを置き換えることによって、
人間の思考過程をある意味で実証的に明らかにするという学問がありましたよね。
この流れには、コンピューターを人間と切り離して、マシーンと考える流れと、
あくまでもアルゴリズムを作り出す人間に注目する立場の2つがあって、
哲学的・学問的な関心から、実証的に人間の知能に迫るという運動があった
と思うのですか、いかがでしょう。
それと、論理学の限界を示したという意味で、ゲーデルの仕事というのは、
けして忘れてはいけないものと思います。
こう、論理学による公理化の極致というものを見据えて、議論できたらい
いなと思うのですが。
(ほかんとこいけなんてつれないことはなしにしてくださいね。)
83 :
考える名無しさん :2000/10/09(月) 03:12
だれか、お得意の論理学で「哲学は役立たず」スレの1をハングアップさせてくれ。
84 :
考える名無しさん :2000/10/09(月) 03:20
AIでは、というかコンピューターの人はシンタックス
しか扱っていません。
彼らのいうセマンティクスは意味の領域をしぼりこむといった
程度なので、
ゲーデルを面白いとおもった人にはものすごく幼稚に見える
のではないでしょうか?
85 :
14 :2000/10/09(月) 06:53
>>76 そういうふうにやると、確定記述の問題とか、論理的固有名の問題が
でてきちゃうじゃん(^^;;;
Quine の On What There is (だっけ?)の議論ってどんなんだったっけ。
Russell と言ってることが同じだなあ、と感心したのは覚えてるけど。
86 :
飛躍を除いて表現するのは面倒だ :2000/10/09(月) 09:57
素朴な疑問。
日常的に言葉を使うということはどの程度論理的なのでしょう?
これははっきり言って論理的なのでは?
すると通常「論理的」と言われることは何か違う意味なんですよね。
結局、例の=とか〜とか⊂とか∧とか∨とかこういう記号で表される
規則を全面に持ち出すということなのでしょうか。
たぶんそういうことですよね?
論理学はなぜそういうことをするのか?
結局、「論理」で「プログラム」を組んで機械に命令できるというメリットを
追求しているわけなのですか?
おそらくはそうでしょう?
論理学は今のところ論理しか解することの出来ない機械に命令するために
あるわけですよね?
してみると、「論理的」を重視する風潮は実は「「論理」しか解さなくてよい」
「お前は機械でよい」ということを意味しますね。
ごめんなさい飛躍だらけで。
言いたいことは、「論理学」はほかにどんな応用が可能か?ということなんです。
87 :
考える名無しさん :2000/10/09(月) 13:43
>86
論理学以外の分野すべてで応用できますよ、でもそういった
分野をやるなら論理学以外もおべんきょうしなきゃね。
88 :
考える名無しさん :2000/10/09(月) 13:51
形式論理と弁証法論理は、
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学との類比で語れんかね。
あるいは、意識と、無意識を含めた内的な世界全体との。
どちらの例でも前者は後者に包摂される。静止は運動の特殊な形態にすぎん。
対立させてとらえるのは無意義。次元の高低の差があるだけ。
意識にとって弁証法は非合理なものだが、無意識領域からのメッセージに謙虚に向き合えば、
まさにそういう「非合理」こそが現実の実体なのだと思うはず。
現実に合致しない論理は修正していかねば。
>77
>それは唯物弁証法を否定しているのかな?
そうじゃない。内的な現実の二律背反は経験的に誰もが知っているから、
それを手がかりにして、外的な現実の二律背反をも実感してみようということ。
厳密な定義が問題なら、数学的にやるしかないのかなあ? という気がしますが、
33でも言ったけど俺数学全然知りません。とんちんかん言ってたら指摘して頂けるとありがたいです。
89 :
3 :2000/10/10(火) 05:50
(いつもより早く目が覚めてしまった。)
>>80(代理いぬ氏)
>形式主義論理学では、現実と公理の造る世界は明確に区別されていますよ。
確かに区別されているでしょう。では公理の造る世界は永遠に現実には触れ得
ないのでしょうか?現実を「抽象する」とは何か。それが問題です。
>数は概念。
実在論スレにもありましたが、概念と実在の関係についての概念あるいは
言葉の混乱が多くの無駄な議論を引き起こしていると思います。
私は
>>79で「対象を数として措定する(一定の単位と集合を規定する)」と
言いました。対象とは一義的に経験的な知覚の対象(実在するこれ)ですが、
それは一定の質を持ったものとして規定されます。その場合質自体は概念で
す。「実在的対象を『あるもの』として措定する」ことにより、対象は観念
化されます(表象と呼びます)。概念とは常に実在的契機(真)と観念的契
機(知)との統一ですから、「何かの概念」として対象を含みます。数は概
念ですが、数の対象は実在的なもの(質的なもの)でしょう。その限りで「
数的対象は実在する」という言い方も許される。
>>85(14氏)
「確定記述の問題」、「論理的固有名の問題」とはどういうものか教えて下
さい。(自分で調べろってか?)
>>86 >結局、「論理」で「プログラム」を組んで機械に命令できるというメリットを
>追求しているわけなのですか?
論理学者の一部はそうでしょう。ライプニッツやパスカルの「論理演算機械」
という構想を現在のコンピュータが実現したし、初期のカルナップも形式論理
を論理計算に還元しようとした。結局「論理」の定義に掛かってくる。
90 :
考える名無しさん :2000/10/10(火) 11:40
86は論理学は現代社会の悪しきイデオロギーだと言いたいのかな?
おそらく論理学の学の理念は人口にそのように膾炙しているでしょう。
しかしこんなこと言っても論理学を勉強している人は当惑するだけでしょうね。
なんか自作自演くさいんだけど(確証はない)、
86、90はまず論理学の基礎を勉強してから書き込もうよ。
分野違いの者が、頭ごなしにその分野全体について横断的な評価を
下すことほど不毛なことはない。
>おそらく論理学の学の理念は人口にそのように膾炙しているでしょう。
などと、勝手な独断的な判断をくだす前に、まず自分の理解を示して
みよう。その理解の深度によってみなさんがレスしてくれるだろうから。
なんか三流大生くさいんだけど(確証はない)、
93 :
微熱症患者 :2000/10/11(水) 00:43
>>86 あなたの言いたいことをもう一度よく考えて、なるべく飛躍のない形で述べ直してみて下さい。
そうすれば、論理的であることを尊ぶ風潮が何に由来しているのかがわかるかもしれません。
「論理的固有名」とか「確定記述」という私にとっては懐かしい言葉が出てきたので、何か
コメントしてみようと思ったのですが、自分が専攻していた分野だけにかみ砕いてわかりや
すく述べる自信がありません。
どなたか、かいつまんで説明して下さい。お願いします。
94 :
代理いぬ :2000/10/12(木) 08:07
>89
せっかくレスをいただいたのですが、いまいち、
あなたの言われることが分かりません。
果たして、私とあなたの間に争うべき論点があるのか、
それすらもピンとこないのです。
そこで、あえてこう言わせて貰いましょう。
「私は弁証法論理というものをよく知らないし、興味もありません。
特に必要性を感じないからです。
私としては、より洗練された形式論理があればそれで十分です」
さ、ご意見を伺いましょう。
>94
よく知らないものについて興味ないのは「知への愛」に欠けています。
必要性を感じないというのは貴方がそれを知らないのだから当然です。
知への愛の欠けたところは不毛でしょう。
すみません89ではないです。横やりでした。
96 :
3 :2000/10/13(金) 00:07
>>94(代理いぬ氏)
>いまいち、あなたの言われることが分かりません。
そうでしたか。むしろご質問の趣旨を確認する意味で書いたのです。
>私とあなたの間に争うべき論点があるのか、それすらもピンとこないのです。
特にないと思います。ただ形式論理と弁証法論理’にはあると思います。
>私としては、より洗練された形式論理があればそれで十分です
いわゆる形式論理学の入門書を読んでいつも最初の数ページで疑問が湧いてく
るのは、「これは数学であり、私が理解する(求める)『正しい思考の筋道』
としての論理’学ではない。」という点です。世の形式論理学で数学でないも
のを(不勉強ですが)私は知りません。数学と一般的な思考対象との違いは何
といっても、「対象は具体的な意味内容(正確には質)を持つが、数自体には
意味がない。」という点でしょう。そして具体的な意味内容を捨象して残る要
素は、別に数ではなく、対象の存在形式であり、それが(狭義の)概念(最も
抽象化された場合はカテゴリー)と呼ばれる「形式内容」でしょう。何故か論
理学では概念と対象の関係を「対象の意味」と呼んで、「意味論」などという
摩訶不思議な分野を造りますが。その点で論理学を真に形式化したのは、「質」
「量」「関係」「様相」という伝統的カテゴリーを思惟の諸形式として具体的
に扱ったヘーゲルだと言えます。「真の形式」とは内容と統一された形式とい
う事であり、世の形式論理学は量的な対象のみを扱う(むしろすべての対象を
量に還元してしまう)物象化された社会に特徴的な論理学だと考えています。
(おっと!これでは「すべては貨幣価値に換算できます」スレに移行してしま
う。)
いずれにせよ、論争は私の好む所ではありません。共同の真理に向かう対話こ
そが弁証法(対話法)でしょう。
97 :
考える名無しさん :2000/10/13(金) 01:26
我々にはわざわざ批判するような論なぞ
もはやない、訳ですよ(笑)
西欧形而上学や弁証法も批判は重ねられていますが、
その地点に立てる人間はわずかですよ。
読みの足りない人間に批判なんてものは早すぎるのです。
野球とサッカーについて同じ土台で話会おうってったって
無理ですよ
99 :
logician's red :2000/10/13(金) 04:34
3氏は記号論理の意味論を理解していないフシがある。
>摩訶不思議な分野を造りますが
(論争にもちこもうとする論争好きの私。対立する意見が止揚されて次の段階に(自爆))
単に意味抜きした形式系だけでは、記号並べゲームになってしまうので
各記号がなにを表しえいるか定めた上で論理式の真偽を確定しようっちゅうのが
意味論ですわな。
うー、弁証法論理に対して、形式論理という言葉で自分の立場をとろうとした
のはまだ甘かったか。じゃー、(意味論を含む)記号論理という言葉にしよう。
「形式論理」というと形式だけに注目してそれで終わり、という印象があるようだ。
形式系の段階では、ペアノの例で行くと、後続者関数が「後続者」を表しているわけ
ではなく、0に何個か´のついた記号にもうひとつ´を付け足す規則でしかない。
ペアノ公理系の意味論(スタンダード・モデル)の段階になってはじめて、
「1+1は2であり2以外の3とか4ではない」となるわけでんな。
>「2人の協力関係が個人の総和以上の力を発揮する」という場合でしょう。
>その場合は、もはや孤立した個人(単位)は止揚され、
>全体的な集合体が新たな単位として出現した事になる。
>以上が弁証法の証明(一例ですが)です。
3氏はご自分でものべているように、これは弁証法があてはまる一例です。
弁証法の証明ではありません。
まず弁証法とはなんなのか、明確にのべてください。
そうしないと上の一例さえも弁証法を満たしているのかどうかわかりません。
ちなみに上の例で「2人の協力関係が個人の総和以上の力を発揮する」
はなんなのことなのかはっきりしませんし内容として胡散臭いです。
(個人の力?と人数が混同されている。和の意味が混乱している)
100 :
logician's red :2000/10/13(金) 05:41
数理論理学というと、「数学のためだけの論理」という印象をもちやすい。
そのような数理論理学こそが論理学でありそれ以外はみとめない、
という極左(右?)意見もあるらしいが、
私としては、記号論理は「…。よって、ソクラテスは死ぬ。」のような論証も
は扱ってよいと思う。
日常よく出てくるような論証を扱うと、確定記述の問題がでてくる。
「現在の日本の総理大臣」とか「2chにおける初代ドキュン」のような表現を
どう記号化するかを考えた場合、これらを定項として扱うと
「現在の日本の総理大臣である」という述語と併用する場合面倒なことになる。
これらを扱う際に、これらの語が使用される文全体
を考慮して「現在の日本の総理大臣がただ1人存在して、…」
と翻訳してから、記号化しよう。そしてこのような操作が必要な
「固有名」を確定記述と呼ぼう。こんな感じか?
正式な定義は知らんので、だれか紹介希望。
以前、存在論系のスレでも似たようなことを話したなぁ。
(代理いぬ氏がそのときもいたな。私はコテハン変えたのでわからんか)
「ペガサスは存在する」とか。
私は「∃x」の解釈(自然言語との対応)としては、「頭の中で想像できる」で
十分だと思ってる。視覚も頭の中で像を結んでいることらしいし。
「∃x」の解釈を「実在する」にすると、なんだかきもち悪いし、
数学者はみんな数学的実在論者になってしまう。
(ゲーデルは仲間が増えて喜ぶかもしれん)
101 :
微熱症患者 :2000/10/13(金) 07:54
>>100 確定記述の説明をしていただき、ありがとうございます。
少し補足します。
「確定記述」「固有名」はどちらも意味論的概念であり、日常言語に見られ
るある種の表現を指します。
その機能は、何らかの対象を指示することです。
(何を「対象」とみなすかは、その言語が採用している存在論に依存します)
対象を指示する、とは、あるものを別のものから区別して選び出すというこ
とです。
確定記述の場合には、対象が備えるべき条件を提示することにより、その条
件を満たすものを選び出し、指示します。
たとえば「ノーベル賞を受賞したオルガニスト」という表現は、ノーベル賞
を受賞しているという条件と、オルガニストであるという条件を提示します。
これら二つの条件を満たす人物は一人しかいないので、その人物が「ノーベ
ル賞を受賞したオルガニスト」の指示対象となります。
(唯一性条件にかかわる問題は割愛します)
他方、固有名はそのような条件を提示することなく、直接対象を指示します。
たとえば「アルベルト・シュバイツァー」は端的にアルベルト・シュバイツ
ァーの名前であり、何らかの条件を提示して世界からある対象を切り出して
指示しているわけではありません(少なくとも一見したところでは)。
確定記述の意味論的機能についてはさほど問題がないように思われますが、
固有名について突き詰めて考えると不思議なことがいろいろとあります。
ある固有名がある対象とのみ結びついてその対象を指示し、別の対象を指
示しないのはどうしてか、とか、固有名の指示対象についての私たちの理
解はどのようなもので、その理解はいかにして得られるのか、など。
これらの疑問にこたえることは容易ではありませんが、日常言語の意味論
を構築し、ひいては私たちが暗黙のうちに受け入れている存在論や認識論
を解明するためには避けては通れません。
論理学の話題から意味論のほうに話がずれかけているので、これくらいに
しておきます。
102 :
3 :2000/10/13(金) 23:05
>>99(logician's red氏)
>形式系の段階では、ペアノの例で行くと、後続者関数が「後続者」を表し
>ているわけではなく、0に何個か´のついた記号にもうひとつ´を付け足
>す規則でしかない。
とても変です。1+1は2である事を前提にせずに、「何個か」と言う事は
できない。既に1個、2個、…、何個と数えているではないですか。あと、
非スタンダード・モデルで「付け足す」とは如何なる操作なのでしょう。
>>「2人の協力関係が個人の総和以上の力を発揮する」という場合
>これは弁証法があてはまる一例です。弁証法の証明ではありません。
勿論「弁証法の証明」ではないが、何度も証明しろと言われたので開き直
った?のです。弁証法を証明するなどは無意味(ナンセンス)だというの
が本当の所(真なる文)です。しかしまた実例でもありません。世の自称
唯物弁証法論者にこの手の説明を平気で「弁証法という法則の実例」とし
て本に書く人がいるので、皮肉でもあります(弁証法の法則などない)。
>まず弁証法とはなんなのか、明確にのべてください。
>(個人の力?と人数が混同されている。和の意味が混乱している)
確かに、「1人の力をN馬力とした場合、孤立した2人では2N馬力の合
力しか生み出せないが、互いの協力関係で2N馬力以上の力を発揮できる
場合がある。」とでも言えば分かり易かったのでしょうが、そうなると非
弁証法的な単なる計算違いでしかない。「2N馬力以上の力」が生まれる
のではなく、別の単位(例えば交換や会話や連携によるシステム力)が生
まれると言う事です。物理学などとは違い、数学ではすべて単位を無視し
てしまう(というより対象の質的無差別性を前提にしている)。弁証法と
は常に具体的な対象のうちにある抽象的な契機を捉えます。「具体的なも
のはそれ自身(実在的規定性)とその否定(観念的規定性)との統一とし
て捉えなくてはいけない。」(ヘーゲル)何故ならすべて存在するものは
生成・変化のうちにあるというのが弁証法的な認識の根本にあるからです。
逆に表象(単なる観念)は永遠であり、存在には頓着しない。しかし・・・
103 :
3 :2000/10/14(土) 11:35
>>101(微熱症患者氏)
>「確定記述」「固有名」はどちらも意味論的概念であり、日常言語に見られ
>るある種の表現を指します。その機能は、何らかの対象を指示することです。
私は言語の象徴的(代表的)機能として「対象への指示を象徴する(言語
により代表する)」と考えますのが、確定記述とはそれであるとして良い
のでしょうか?
>何を「対象」とみなすかは、その言語が採用している存在論に依存します
「存在論に依存する」というよりは、その言語が使われている「談話世界
に依存する」と言った方がより適切ではないでしょうか。
日常世界、科学的世界、価値の世界、小説の世界、宗教の世界等は対象領
域の区別でしょう。実在というのは第一義的には感性的な現実世界です。
>他方、固有名はそのような条件を提示することなく、直接対象を指示します。
名前は標識(ラベル)と言えます。個人が生まれてすぐに与えられる(額
に貼り付けられる)名とは個体識別のためのマークでしょう。
>ある固有名がある対象とのみ結びついてその対象を指示し、別の対象を
>指示しないのはどうしてか、
個体としての個体の実在(個体的な実体)は記述され得ない。それは指差
すか名指されることができるだけでしょう。ラッセルは「これ」「あれ」
という指示(代名)詞を固有名詞と区別しないそうですが、それはおかし
い。
1.「あるものを指差して、『それ』と言う。」
→「それ」が何を指しているかは状況または文脈によるしかない。
2.「あるものを指差して、『xx』と言う。」
→「xx」はそのものの名であり、以後「xx」と呼べば常にそれ
が現れる。(Call it by its true name.)
対象の本質的な名前を概念と呼びます。それは世界の中で対象が占める
位置(カテゴリー)を表示します。
104 :
logician's red :2000/10/15(日) 16:17
>102
>1+1は2である事を前提にせずに、「何個か」と言う事はできない。
では「自然数の右どなりに「´」を書け」にしておきましょう。
ん?しかし3氏にはそんな事が問題ではないようだ。
つまり、こういう方針です。
形式化された記号列の意味を考えないようにして、
メタレベルの記述は(フツウは)意味を伴った自然言語でやりましょう。
いかに形式系といえどもaとかbだけで書かれていては厳しいです。
新たな記号列を生成する規則などはなに者かに分かるように、
書かなければなりません。(コンピュータの場合も)
ただし、形式系が生成する定理はすべて記号で構成されているわけです。
極端な話、メタレベルで「ある定理の中に0´という記号列が何個あるか」
を問題にして0´に1を対応させて、(0´を1と解釈して)何個あるか数えた
としても別に問題ないと思います。
(ところで、コンピュータはこのような意味で数を数えているんでしょうか?)
あと、ノンスタンダード・モデルではその対象領域にフツウの自然数以外
のものが混じっていますが、´の解釈の話は上と同じです。
ノンスタンダードなのでお好きに解釈して結構というわけです。
>弁証法を証明するなどは無意味(ナンセンス)だというの
>が本当の所(真なる文)です。
やはりスタート地点(断裂点)にもどりましたね。
もう一度いいましょう。証明されていない命題はナンセンス(たわごと)です。
弁証法を仮定(仮説)として、そこから何が導けるのかを示しても結構です。
そして、まず弁証法のことをよく知らない私に、弁証法の定義を教えてください。
>all
最近、チマタでは以下のような本が出版されたようです。
『論理学入門』-推論のセンスとテクニックのために
三浦俊彦・著 NHKブックス
まさに議論などの応用のためにかかれた本のようなんですが、
読まれた方がいましたら感想をおきかせください。
私はまだちらっとしか見てませんが、問題の多そうな本です。
105 :
微熱症患者 :2000/10/16(月) 01:58
>>103 >私は言語の象徴的(代表的)機能として「対象への指示を象徴する(言語
>により代表する)」と考えますのが、確定記述とはそれであるとして良い
>のでしょうか?
「対象への指示を象徴する」の意味がわからないので、うまくお答えできない
のですが、代わりに確定記述の典型例をいくつか挙げておきます。
「日本でいちばん高い山」
「史上初の征夷大将軍」
「太陽系第三惑星」
「二十世紀最後の13日の金曜日」
「最小の完全数」
それぞれ、富士山、大伴弟麻呂、地球、2000年10月13日、6を指示します。
ラッセルの哲学は時期によって変化しており、意味論の分野においても大きな
転換が何度もあったようです。私は彼の思想の展開の経路をちゃんと辿ったこ
とがないので、指示詞と固有名詞の区別をしなかった時期があったかどうかは
知りません。ただ、ラッセルが「これ」「あれ」という種類の表現の状況依存
性に気づかなかったとは考えにくいので、おそらくある特定の状況や文脈のも
とで指示詞が固有名詞と似た振る舞いをもつということを言いたかったのだと
思います。
>>105 >『論理学入門』-推論のセンスとテクニックのために
>三浦俊彦・著 NHKブックス
私は現物を見たことがありませんが、著者名を見ただけで「問題の多そうな本」
という意見に同調したくなりますね。でも私はこの人の本はわりと好きです。
同じNHKブックスから出ている『可能世界の哲学』も(これが気軽に本屋で
入手できる"可能世界"についてのほぼ唯一の入門書である、という点さえ除け
ば)なかなか愉快な本でした。
小説家でありながら分析哲学の研究者(ただしアカデミズムの世界でどの程度
受け入れられているのか、やや疑問ですが)という人はめったにいないので、
頑張って活躍してほしいと思っています。
106 :
考える名無しさん :2000/10/16(月) 22:18
>104
>証明されていない命題はナンセンス(たわごと)です。
>弁証法を仮定(仮説)として、そこから何が導けるのかを示しても結構です。
>そして、まず弁証法のことをよく知らない私に、弁証法の定義を教えてください。
まず定義だが、弁証法は、simplification(AはAである)という法則を、
運動する現実の世界には妥当しないとして否定する。(部分的にしか当てはまらない
と言った方がいいか?)
かわりに二律背反律(AはAであると同時に非Aである)という法則によって、
運動する現実をあらわす。この場合の運動は生成、発展、消滅を含む広義の概念。
アリストテレスならキネーシスと呼んだもの。(うろおぼえ)
自己を主体とし、他者や事物を客体とする主体=客体関係において世界を経験する限り、
「AはAである」ということは妥当だと思える。逆に言えば、
弁証法を理解するには主体=客体関係にとらわれた世界認識の根本的な逆転が必要。
借り物の哲学用語で語ろうとしたのでハチャメチャになりかかってる。反レス求む。
あと3氏には横レス失礼。同じ弁証法論者でも俺とあなたの間には見解の相違がありそう。
107 :
3 :2000/10/17(火) 22:13
(どもです。)
>>104(Logician's red氏)
>「ある定理の中に0´という記号列が何個あるか」
私が102で言ったのは、記号列を数えることで既に算術を行っているで
はないかという事です。(論点先取のエラーというやつ?)
「自然数の右どなりに「´」を書け。」 「ハイ、書きました。」
「もう『一回』書け。」 「ハイ、書きました。」
「では聞くが、君は『全部で何回』書いたのか?」 「???」
話は逸れますが、最近、過去ログの中に後期ヴィトゲンシュタインの言語
ゲームに関する議論を発見して、その中で伍長氏が「規則」と「規則の表
現」を行動分析学の立場からそれぞれ「随伴性」と「ルール」に対応付け
て説明されているのを見ました。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=954605820 算術も一つの言語ゲームでしょう。言語は間主観的ではあるが、自然的な
行動に根をおくものです。記号論理も同様ではないでしょうか?
>>106 >弁証法は、simplification(AはAである)という法則を、
>運動する現実の世界には妥当しないとして否定する。
形式論理学者も(AはAである)が運動する現実の世界にそのまま妥当す
るとは考えていない。むしろ経験によらずに必然的に妥当する推論の規則
こそが論理学の対象でしょう。
108 :
微熱症患者 :2000/10/18(水) 00:53
私は未だに弁証法というものがよくわからないのですが、弁証法が主に
扱うのは世界や事物そのものがもっている法則性なのでしょうか、それ
ともそれについて人が語る仕方なのでしょうか?
もし前者ならば、弁証法と形式論理とは別のレベルの話なので、両者を
比較したり、優劣を論じたりすることにはあまり意味がないと思います。
もし後者だとすれば、単なる「語り方」についての法則がどうして世界
や事物そのものに妥当(したり妥当しなかったり)するのでしょうか?
109 :
さんちょ(106) :2000/10/18(水) 03:13
>108
私も実はよくわからん(爆)
議論の中で明らかにしたいと願っているので、ハンドル固定します。
>107
>必然的に妥当する推論の規則
形式(記号)論理学の公理というのは、すべて「AはAである」の変奏なのでは
ないでしょうか。これが妥当してはじめて導出できるという。
もしもそうなら、「AはAである」といえる条件を探求すれば逆に、
弁証法というものが明らかになるかも。
110 :
伍長 :2000/10/18(水) 03:58
>107
あのー、そのスレッドを引用してくださったのは嬉しいんですけど、引用の理由がよくわからないんです。
どういうことなんでしょうか?
108さんがおっしゃっているようなことでしょうか?
108の前者は「随伴性」で、後者は「ルール」が生み出されるプロセスに相当するようですが。。。。
だとすると、108さんの見解とは反対に、「別のレベルの話」にはならないということですか?
ちなみに、ワタクシ、論理学はまるでわかりません(それなのに、こっちも向こうも全部読んでしまった。2時間以上かかった・・・)。
111 :
3 :2000/10/18(水) 22:53
>>104(レスの続きです)
>弁証法の定義
私は弁証法の専門家ではありませんので、勝手な理解だと思って下さい。
弁証法とは何かを一言で言うならば、私も「事物を生成・変化・発展の相
で見る認識態度」と言うのが最も分かり易い言い方だとは思いますが、こ
れには少し補足的な説明が必要です。
第1に、上記の「生成・変化・発展の相」とは矛盾した言い方だという事
です。相(位相、形相、観点、見方)とは一定の固定した局面を表わしま
すから、生成そのものに対立し、認識者はあくまで事物の外にある事にな
る。それは生成に対して外的な認識という事です。しかしそれは不可避的
でしょう。およそ認識とは対象を何らかの「存在」として立て(弁証法で
は措定と呼びます)なければ何も理解できないからです。しかし生成と存
在は対立する以上、対象の認識はそれ自体が運動にならざるを得ないと言
う事が上記の言明には含まれています。
第2に、上記の定義ではヘーゲルが弁証法的な契機が顕在化すると言った
「反照する本質」の領域が抜けているという点です。ヘーゲル論理’学は
第1部存在論、第2部本質論、第3部概念論という構成であり、それぞれ
存在(実在)は生成・変化し、本質は反照し、事柄としての概念は発展す
ると言われている。本質の領域での対象の運動は反照(Reflection)です。
そしてその領域こそ、通常の論理学も位置している科学的世界の領域です。
本質とは対象の矛盾が現象する領域なのです。(しかし20世紀の学問は
本質論を消去してしまったので、「本質って何?」と聞かれてしまう。何
とぞ、あと3ヶ月後から始まる21世紀では復活しますように…。)
112 :
3 :2000/10/18(水) 23:00
>>110(伍長氏)
いやぁ、どもです。まさか御本人が登場されるとは思っていませんでした。
作戦大成功です。あのスレの議論はとても刺激的かつ弁証法的であり、傑作
だと思いました。内容についても重要な着眼点を含んでいると思います。
さて本題ですが、
>108の前者は「随伴性」で、後者は「ルール」が生み出されるプロセス
>に相当するようですが。。。。
やはり鋭いな。弁証法とは実践的な論理’ですから、法則(ルール)では
ない。
(人為的な規則と自然的な法則を繋ぐものが「随伴性」と「ゲーム」
(戯れ)でしょうか。)
しかし何故それを論理’と呼ぶのか。翻って問えば、論理とは何か?それ
はルールを生み出すもの(原理)が展開されてその本質的な契機間の関係
として立てられたものと言えるでしょう。では認識の原理とは何か。それ
は「否定」です。実在を否定し観念化する事(弁証法では止揚と呼びます)
が認識の原理なのです。実在と観念は否定的な関係、レベルの異なるもの
同志の関係です。「今ここにない実在、それを記号によって表わそう。」
これが言語の原理でしょう。言語とは現実的な、誰にとっても存在する観
念の事です。
113 :
さんちょ :2000/10/19(木) 01:23
なんともう21世紀か
わたしも弁証法の定義を試みます。3さんとは違う言い方で。
形式(記号)論理を「AはAである」であらわし、
弁証法論理を「AはAであり且つ非Aである」であらわし、
後者が前者と違うのは広義の運動(キネーシス)をとらえ得る
という点にあるとする。これが第一の図式。
で、運動ということになると当然、時間の要素が入ってきますよね。
じゃあ時間とは何か。それは自我意識の持続感です。
自己が自己であり続けているという自覚のないところには
時間の経過もへったくれもないです。
そして「自己は自己であり且つ自己ではない」というのが弁証法だ。
これは、苦痛だろうか? そうではない。宗教家が自分を無化して
はじめて「自由」へ至るのに似ている。
114 :
伍長 :2000/10/19(木) 02:36
>112
褒められたので素直に喜びたいのですが、「事もあろうに」ヘーゲリアンから褒めれれてしまうと、「な、な、な、なんで?!」というのが率直な想い。
その昔、ライヘンバッハの『科学哲学の形成』の始めの数ページだけ読んで、「そうか。じゃ、ヘーゲルは無視してもいいみたいね」と単純に思っていたクチですから。
111@`112の内容は、残念ながら私にはほとんど理解不能です(というよりも、このスレッドの内容自体が理解不能)。
ただ、108さんの2分法のおかげで、少しだけわかるような気もする。
レベルの高い議論に参入する能力はありませんが、3さんの引用の意図を知りたいので、場違いであることを自認しつつ、少々素朴な質問。
「随伴性」(行動随伴性)というのは、一般に、「直前条件 - 行動 - 行動の結果」の随伴関係のことで、「三項強化随伴性」などとも言いますが、状況によっては、四項、五項であったり、二項であったりもします。本来は、行動の分析のための基本的な枠組みです。
「ルール」というのは、この「行動随伴性」を記述する言語行動によって生み出されたモノで、聞き手にとっては言語刺激として機能します。
論理学というのは、「ルール」(もしくは「ルール」を含めた言語刺激全般)という言語刺激群内の構造なり言語刺激間の関係性なり(=「論理」)をより精緻なものにすることによって、より適切な行動随伴性を保証しようとする学問であると見なせるように思われます。異論もあるでしょうが。
で、「ルール」(または言語刺激全般)は大もとの「行動随伴性」あってのものですから、人間行動なしに論理は語れませんよ、というのが3さんの考え方なんでしょうか?
なお、行動分析学の創始者であるスキナー(論理実証主義者に非ず)は、「言語行動の科学の究極の達成は、経験的論理学や、あるいはまた、記述的・分析的な科学的認識論であるかもしれない」と述べていますが、何か関係ありそうですか?
いや、トンチンカンでしたら無視して議論をお続け下さい。
115 :
3 :2000/10/19(木) 23:33
>>113(さんちょ氏)
特に異論はありませんが「時間とは何か。それは自我意識の持続感です。」
という、意識から始める時間の説明には少し異論ありです。しかし論理学
がスレのテーマですので取りあえず詳細は控えます。
>>114(伍長氏)
>ヘーゲリアンから褒めれれてしまうと
私が行動分析学を買うのはヘーゲル主義のためではありません。
「人間は歴史を作る。しかしその事を知らない。」(マルクス)
これは唯物論的、実践的(行動的)、そして弁証法的な言明です。
>「ルール」というのは、この「行動随伴性」を記述する言語行動によって
>生み出されたモノで、聞き手にとっては言語刺激として機能します。
>論理学というのは、「ルール」…をより精緻なものにすることによって、
>より適切な行動随伴性を保証しようとする学問
論理学の新たな定義ですね。そこで質問。
昔、哲学者ライプニッツから
「世界の内に、同じものは存在しない。」
という講義(言語刺激)を受けた宮廷の侍女達は、庭を探し回ったあげく、
全く見分けのつかない落ち葉を見つけてライプニッツに見せたそうです。
ライプニッツ先生はその行動随伴性を記述して、「A=A」というルール
を打ち立てるのでしょうか?
(あちらのスレに家族的類似性の議論がありましたね。確かに庭の落ち葉
は皆家族とも言える。)
116 :
微熱症患者 :2000/10/19(木) 23:58
>114
「より適切な行動随伴性」というのがよくわからないのですが……。
随伴性に適切であったり適切でなかったりするものがあるのでしょうか?
もしそのような区別があるとすれば、「適切さ」の基準は何でしょう?
もともと随伴性という用語自体になじみがないので、ピントがずれた質問
になっているかもしれません。
私はスキナーは全然知らないのですが、クワインを読むと規範的な概念を
そうでない概念で置き換えて説明しようとする傾向があるので、その方針
を論理学に向けるとどのような説明になるのか、気になったのです。
117 :
伍長 :2000/10/20(金) 03:01
>115
げっ。そんなことを訊かれても論理学音痴の小生にはわかりませんですよ。
それよりも、あのスレに関心を持たれた理由がいまだにわかりません。気になって眠れない。
>116
「より適切な随伴性」は、「研究者に対して、より効果的な研究活動を保証するような随伴性」かな?
「適切さの基準」は、強いて言えば、研究者の研究活動の中におのずと現れる、かな?
研究者の研究活動(例えば、「A=Aであると同時にA≠Aでもある」といった言語行動)が、例えば研究者たちの言語共同体によって強化され、しかも他の成員の「アカデミックな言語行動」を活発にするのであれば、その研究活動を維持してきた行動随伴性は「より適切であった」と言えるかもしれない。かな?
以下はスキナーの“Verbal Behavior”(1957)の第18章「論理的、科学的な言語行動」の一節です。
「論理的、科学的な言語行動の明確な特性とは何なのだろうか。そのような行動は、いかなるときに効果的であったり妥当であったりするのだろうか。共同体の実践はどのようにしてそれを生みだし維持するのだろうか。これらの実践はどのように作用しているのだろうか。科学的、論理的な言語行動は改善されうるのだろうか。もしも可能なら、どのような実践が改善をもたらすのだろうか。
三つの段階が、この種の方法論的探究へと導くように思われる。すなわち、
(中略)
論理学における例は、(1)いくつかのイントラバーバル反応(伍長註:スキナーが分類した言語オペラントの一つ。「2+2は?」に対して「4」と答えるような、言語刺激に対する照応的な言語行動)が有益であるということを、平均的聞き手が見出す。(2)共同体は、話し手に対して、思考の法則を観察したり、三段論法の定式を採用したりすることを強いることによって、そのような行動を活発にさせる。(3)思考の法則や三段論法や他の論理的な規則や定式が、内的一貫性や妥当性を目指して、そして可能な改善を目的として、分析される。」p.430
ま、私にはチト重荷だな。
それに、こんな話がこのスレに関係あるんですか???
118 :
さんちょ :2000/10/20(金) 03:16
>115(3氏)
論理学と絡めて、時間についての異論を聞かせていただけませんか?
いや、というのは、弁証法が運動を扱う限り、こういう問題設定もありなのではないかと。
>117
>ま、私にはチト重荷だな。
>それに、こんな話がこのスレに関係あるんですか???
以前、私はこのスレッドで論理学を「思考の規範学」と特徴づけました。
これは、運動する世界のあり方や法則性などといったものとは別に、た
だ「何かを考える」という場において、どのように考える"べき"である
のかを人に指示する学問という、わりと偏狭な理解です。
この考えによれば「では、思考の規範学たる論理学そのものがどうある
"べき"か、という問題にどのように答えればいいのか?」という疑問が
生じます。事実を越えてそれを律する規範の存在を仮定すると、その規
範をさらに越えてそれを律する"規範の規範"、さらに"規範の規範の規
範"というように無限に階梯を積み重ねていくことになりはしないか、と
いう疑念です。
では、いっそのこと、論理学を規範学とみなすのをやめて、ある種の事
実の記述だと考えるのはどうかとも考えたことがあります。で、もしか
したらスキナーだったらそのような自然主義的な論理観をもっていたの
では、と思って、116で質問したのですが……。
どうやらスキナーの論理学についての言葉は私にとっても重荷のようです。
ともあれ、ご説明ありがとうございました。
121 :
3 :2000/10/20(金) 22:59
>>117(伍長氏)
>そんなことを訊かれても論理学音痴の小生にはわかりませんですよ。
変な質問でどうもすみません。むしろ論理学者に向けるべき質問でした。
>あのスレに関心を持たれた理由がいまだにわかりません。
あまり気にしないで眠って下さい。私が関心を持った理由は
1.「随伴性」と「規則」との際どい(弁証法的?)関係に焦点を当て、
それをあくまで分析的・具体的に追求している点。
(自然科学と哲学的反省との境界点に触れていると感じる。)
2.「九」氏との対話がとてもスリリングだという点。
3.伍長氏には問題の本質に迫る独特の直観力を感じるという点。
でしょうか。
>>118(さんちょ氏)
>論理学と絡めて、時間についての異論を聞かせていただけませんか?
「誰もが認めざるをえない必然的な推論」というのを例にとります。
自然現象で必然的という場合と論理学で必然的という場合では時間の
順序は逆ですね。原因→結果ではなく、結果→原因が必然的な推論の
順序です。「親から子供が生まれる」のは自然だから「子供がいるなら
必ずその親がいた。」と言える。自己意識「私は私である。」という表象
は不断の自己復帰として現実的ですが、自然的・時間的な根拠(他者)
を持たないと必然的な存在にはならない。時間は何よりまず自然的実在
の定在形式(事柄としての時間)です。
>>119(微熱症患者氏)(横レス失礼します。)
>論理学を規範学とみなすのをやめて、ある種の事実の記述だと考える
ヘーゲル(またか!)はそれを『精神現象学』において「精神の経験の
記述」として展開しました。しかし、『論理学』では主体として論理自体
に語らせたために絶対的観念論となった。実際には言語は複数の人間が
共通の世界において語り合うことから始まり、この世界を必然的なものと
して立てるために論理が存在するのではないのでしょうか。「この世には
必然的なものなどない。」「いやすべては必然なのだ。」
122 :
伍長 :2000/10/20(金) 23:49
>119
なるほど、そういうことでしたか。
無限後退の話は例のスレッドの家族的類似や規則のところで議論しました。
私には論理学的な考察はできないけど、にもかかわらず無限後退は生じないと見なしました。
大もとは行動随伴性にあるので、後退はそこで終わる。
これも「自然主義的な論理観」ということなのかな?
>もしかしたらスキナーだったらそのような自然主義的な論理観をもっていた・・・
多分そうなのだろうと思いますよ。
最近、丹波信春『クワイン ― ホーリズムの哲学』(講談社)という本を読んだのですが、例によって私にはほとんど理解困難ではあるものの、最後の第五章「認識論の自然化」の内容だけは何とかついていけました。スキナーとよく似ているような気がしたから。
>121
そういうわけですので、微熱症患者氏への3さんのレスで何となく分かりました。
また、お褒めいただいて本当に恐縮です。ヒジョーに嬉しいです。
ちなみに、
>具体的に追求している点。
具体的に考えないとダメなんです。抽象的思考はまるで苦手。
123 :
さんちょ:2000/10/23(月) 16:42
>121(3氏)
レスありがとうございます。これを手がかりに反論を試みます。
>自己意識「私は私である」という表象は不断の自己復帰として現実的ですが、
>自然的・時間的な根拠(他者)を持たないと必然的な存在にはならない。
だからこそ、弁証法的に「事物を生成・変化・発展の相で見る」限り、
(言い換えれば不断の自己否定を重ねていく限り、)
その「根拠」はなくなると言った方がいい。
どういうことか。時間を川に浮かんだ笹舟の流れにたとえると、
岸辺で静止して流れを見ている形式論理に対して、
弁証法論理はみずから川に入って笹舟と一緒に流れていくので、
その結果、流れそのものが感じられなくなるということだ。
笹舟はあたかも静止しているように見える。実は動いているんだが。
「相」とは必ずしも静的に固定した局面を表すわけではない。
動的に切り取って物を見ることだって可能だ。
この切り口に立つ者にとって、時間の流れは存在しない。
要するに時間をそのような先験的な次元に存在するかのように見なすのは、
弁証法的と言うよりカント的であるように思うのだがいかがなものか。
124 :
微熱症患者:2000/10/24(火) 23:58
数日ぶりにここに来たら、えらくこのスレッドが下がっているので、とりあえずあげ
ておきます。
>>122(伍長氏)
>これも「自然主義的な論理観」ということなのかな?
行動随伴性についての私の(漠然とした)理解が間違っていなければ、この概念は
非規範的なはずなので、行動規範性に論理学の基礎を見出そうとする論理観は「自
然主義的論理観」と言ってよいと思います。
>>121(3氏)、
>>123(さんちょ氏)の論争も興味深いのですが、議論の流れが把
握できていないので、しばらく静観します。
125 :
伍長:2000/10/25(水) 02:52
微熱症患者さん、および皆様、たびたびの素人質問で恐縮なのですが、
「自然主義的論理観」を持った論理学者なり哲学者なりにはどういう人がいるのでしょうか?
こういう伝統というか流れはあるのでしょうか? 3さんによるとヘーゲルもそうらしいですが。
また、なぜ「自然主義」という言葉を使うのかな(何となく分かるけど)? 反意語(?)は「形式主義」?
あちこちで素人が議論の腰を折り続けてばかりいるようで非常に気がひけるのですが、この数日で哲学史に少し興味が出てきましたので。
>124(微熱症患者氏)
> 議論の流れが把握できていない
それは、私が流れを無視して3氏に乱暴に質問をふっかけていった
からです。どうもすみません。
127 :
3:2000/10/25(水) 22:23
>>123(さんちょ氏)
121での私の議論は弁証法と(形式)論理学との一つの接点として「必
然的」という概念を取り上げたのです。弁証法自体の解釈はスレのテーマ
から外れそうですので遠慮します。(別スレの方が良さそう。)
因みに「必然的な推論」についてはどうお考えでしょう?
>>125(伍長氏)
「自然主義的論理観」については良く分かりませんが、ヘーゲルについて
言えば、むしろ逆に「論理主義的自然観」を持っていたと思います。
(こう言うとまた「弁証法は論理ではない!」と叱られそうですが。)
では彼の論理観はどうなのかと言えば、やはり「形而上学的論理観」とで
も言えるのでしょう。「絶対者の自己展開(疎外)および自己復帰として
の<論理的理念=思惟と存在の一致>」というおよそトンデモな理神論で
す。私が121で言いたかった事は記述と弁証(論証)との関係です。
自然主義=あるがままの事実というものを認める立場は、自然に真実性を
認める事であり、その記述によって自ずから真実が現れてくると考える事で
しょう。それに対して自然を超えた価値的・当為(なすべし)的な存在を
立てる立場とは自然に真実性(真理性)を認めない事であり、真理を一つ
の価値的なものと見ることです。形式論理学でも真偽とは価値として考え
られている。それは自然界には存在しない。それはあくまで「妥当」する
ものであり、経験的なものに依存しないとされる。それに対してヘーゲル
は「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である。」と言
って当時の人を驚かせたという事です。それは再び転倒されなければなら
ないとは言え、自然的な存在には論理性(根拠)があるというのは、科学
者なら誰でもがまず前提にする事でしょう。しかし科学者もその実践に
おいて実在論(唯物論)者であっても、対象の解釈においては現象論(観
念論)哲学者になってしまうから、「自然自体に論理性はなく、研究者が
立てた第一原理から演繹的に説明されるべき現象に過ぎない。」と言う。
それは「法則に従う」のであって、「法則を作り出す」事はないと言うの
です。彼のヴィトゲンシュタインならどう言うでしょう。
128 :
微熱症患者:2000/10/27(金) 00:04
>>125(伍長氏)
「自然主義」ということばはある程度哲学をかじった人間にとっては馴染み深いもの
で、つい何気なく使ってしまうのですが、どういう意味なのかを突き詰めて考えてみ
るとなかなか難しく、私は勉強不足なのできちんとした説明ができません。
と、いいわけしたうえで、私の理解している範囲内で自然主義について述べます。
(間違いや不正確な箇所の指摘は大歓迎です)
倫理学の領域で「自然主義」と呼ばれるのは、概ね次のような立場です。
「善」「正義」「義務」など道徳的規範や価値に関わる概念は、私たちを取り巻く自
然の中の諸事実から抽象または構成されたものである。
道徳的命題は事実命題に還元できる。
自然世界の法則や規則以外に別種の道徳法則があるわけではない。
自然界のほかに道徳の根拠となる「叡智界」その他の別世界があるわけではない。
たとえば「人を殺すことはなぜいけないことなのか?」という問いに対して、「それ
は人間社会の秩序を崩壊させるからだ」とか「それは利己的遺伝子のプログラムによ
る」などと説明するのが、自然主義の例といえると思います。
何度も述べているように、私は論理学を「思考の規範学」と特徴づけています。この
ような論理学観では、倫理学で道徳の根拠が問題になるのと同様に、論理法則の妥当
性の根拠が問題となります(他方、論理学を単なる記号列の変形規則の体系とみなす
ならば、このような問題は生じません)。
この問題に対して「論理法則とは、人類が進化の過程でさまざまな経験を通じて獲得
した処世訓のエッセンスである」などという説明が考えられますが、これは論理的規
範を事実の積み重ねによって説明しているので、自然主義的な説明です。
129 :
微熱症患者:2000/10/27(金) 00:25
(128の続き)
自然主義的論理観をストレートに表明している哲学者の代表はやはりクワイ
ンでしょう。彼は、論理法則の改訂可能性を示唆しています。
もし論理法則が永遠不滅絶対無二の存在として私たちの思考を律するのだと
すれば、論理法則の改訂可能性など論じるまでもありません。
ところで、ヘーゲルとクワインはともにホーリズム(全体論)の哲学者です。
だからといってこの二人が思想的に近いということはなくて、ほとんど両極
端といってよいほどかけ離れているというのは哲学史の常識です。
ただ、事実と価値を峻別しないという点は共通していると思います。
130 :
伍長:2000/10/27(金) 00:51
>128@`129
なるほど! 何という分かり易さ! 感謝です!
だとしたらスキナーも間違いなく自然主義者です。私もそうだ。(^^;
>127
そうなると、128@`129の微熱症患者さんの解説を介して127の説明を理解してよろしいでしょうか?
うん、よさそうだな・・・
131 :
考える名無しさん:2000/10/27(金) 19:59
>>127(3氏)
>「必然的な推論」についてはどうお考えでしょう?
いくら考えてもわからない。すみません。
たぶんわたしが推論しないからだと思う。
予期せぬ事態が出来し、顧客や現場から矢のような電話がかかってきて、
状況が刻一刻と変わっていくようなとき、
前提から出発して結論を得ようとするような悠長なことをしていては、
決して変化に対応できない。死ぬほど忙しいときには体が勝手に動く。
体が勝手に動くというのは比喩や誇張じゃないぞ!
デカルト以降、自我意識の哲学は身体性の問題を考察の外に置いたが、
それは意識の判断とは独立した自律性をもっていて、
「物」の世界の法則に従おうとするのだ。
・・・まあそれはともかく、微熱症患者氏の128@`129はおもしろかった。
と同時に、承服できないところもある。
微熱症患者さんは売られたけんかは買うほうですか?
お答えによっては、ふふふ
132 :
微熱症患者:2000/10/27(金) 23:34
>>131 >・・・まあそれはともかく、微熱症患者氏の128@`129はおもしろかった。
>と同時に、承服できないところもある。
>微熱症患者さんは売られたけんかは買うほうですか?
ぜひ「承服できないところ」を書いて下さい。
よろしくお願いします。
ただし、「売られたけんか」に必ず応じるとは確約できません。
今はちょっと疲れて頭がうまく回らないので、もしかしたらそのまま読
み流してしまうかもしれないので。
133 :
3:2000/10/28(土) 01:42
>>128,
>>129(微熱症患者氏)
(横レス失礼)
>私は論理学を「思考の規範学」と特徴づけています。
>論理法則の妥当性の根拠が問題となります
そこで初歩的な質問からやり直します。
(質問1)
論理学で同一律を表現した
A=A (1)
という論理形式をどう読む(解釈する)のか分かりません。
Aを何らかの個体的存在とすれば、たとえば
「リンゴはリンゴである。」(2)
ということであり、Aを何らかの事実とすれば、たとえば
「『今日は良い天気である』ならば『今日は良い天気である』」(3)
ということでしょうか?そして(1)は思考の規範として
「ある物事を考えたら、それを同一の存在者として考え続けよ」
という事を主張しているのでしょうか?
(質問2)
もしそうなら、何故同一律を「恒真である」と言うのか分かりません。
(「考えるべし」でしかなく、実際にはリンゴは偽物であり得る。)
「言明はそれが表現している事態が成立している場合に真と呼ばれる」
というタルスキの真理の定義は形式論理で言う真偽とは食い違っている?
結局、同一律の解釈として、
「ある命題を真(事実)と仮定すれば、それは実際に真である」(無意味)
あるいは
「ある命題が真(事実)ならば、それは事実である」(トートロジー)
あるいは
「ある事態を正しく表現するならば、その言明は真である」(記述の問題)
のいずれが正しいのでしょうか?
134 :
微熱症患者:2000/10/28(土) 02:40
>>133 (回答1)
私の理解では、同一律とはある命題を前提として、そこから同じ命題を導出し
てよい(それが「導出」の名に値するかどうかは疑問ですが)ということを述
べたものです。
従って、私は(3)のほうをとります。
(2)はそれ自体では論理法則を述べた文ではなくて、あるリンゴがそれ自体
と同一であるという事態を述べた文です。この文が真理を表していること、そ
れもたまたま真であるのではなくて必然的に真であるということは確かですが
その事が論理学の体系のなかでどのような位置を占めているのかは、私にはよ
くわかりません。
ともあれ、同一律は「ある物事を考えたら、それを同一の存在者として考え続
けよ」という義務を人に課すというより、「前提AからAを結論として推論し
てよい」と許可するものだと思います。
つづく
135 :
微熱症患者:2000/10/28(土) 02:53
134のつづき
(質問2)にはいくつかの質問が含まれていますので、それぞれ別に取り上げ
て回答しようと思います。
>何故同一律を「恒真である」と言うのか分かりません。
推論規則としての同一律はそれ自体は真であったり偽であったりするわけでは
ありません(真偽は平叙文のもつ特性であり、命令文や許可文はそのような特
性をもちません)。よって同一律は恒真ではありません。
しかし、同一律によって許可される推論を平叙文の形で述べれば、その文は常
に真です。
たとえば、(3)はそのような文ですが、もし今日が本当に良い天気だとすれ
ば、(3)の前件と後件はともに真ですから、この文全体が真となります。ま
た今日の天気が曇りだったり雨だったりすれば、(3)の前件は偽となるので
(3)全体としては真となります(これは直観的に受け入れがたいかもしれま
せんが、「ならば」と論理学の条件法の関係についてここで説明する余裕はあ
りません。すみません)。よって、どちらの場合でも(3)は真となるので、
これは恒真文です。
なお、ここでは前件と後件の真理値が食い違う可能性ははなから排除していま
す。これは、一つの文は同じ文脈の中で使われるならば必ず同じ真理値をもつ
という前提で考えているからです。この前提は論理法則というよりは、論理学
を成立させるための約束事のようなものです。
(ここからちょっと余談)
現実の言語使用の場においては、一つの文が必ず同じ真理値をもつわけではあ
りません。たとえば「今日は10月27日である」という文は、昨日なら真、今日
は偽です。そこで午後12時を跨いで「『今日は10月27日である』ならば『今日
は10月27日である』」と非常にゆっくりと発言すれば(「ならば」のあたりで
日付が変わるものとします)これは恒真どころか虚偽の言明ということになる
でしょう。
さらにつづく
136 :
微熱症患者:2000/10/28(土) 03:24
135のつづき
>実際にはリンゴは偽物であり得る。
リンゴが偽物である場合には「リンゴはリンゴである」はある解釈のもとでは
確かに偽となります。すなわち、
「(ある個別の存在者としての)リンゴ(のようなもの)はリンゴ(という種
に属するもの)である」
という読み方をすれば偽です。
これは「リンゴ」という語を二通りの仕方で使っていることによります。
まず第一の用法は、(おそらくは話者の目の前にある)特定の個物について、
それを他のものと区別するために、それがもっている特徴(リンゴのように見
えるということ)を利用して指示する、というものです。
第二の用法は、語本来の意味内容に従って、ある種(=リンゴ)に属するもの
をそれ以外のものから区別するというものです。
このように一つの語を複数の用法で使う場合には、本来論理的真理を表すべき
文がその機能を果たさないことがあります。論理学では予めそのような場合を
のけて考察することになっており、これも約束事の一つです。
>タルスキの真理の定義は形式論理で言う真偽とは食い違っている?
タルスキは記号論理学者なので、彼が扱っている真理の概念はもちろん形式論
理学の領域で話題になっているものです。食い違っているのは真理概念そのも
のではなくて、それへの関わり方だと思います。論理学では真理概念を既に了
解ずみのこととして扱います。実際には真理概念は必ずしも明瞭なものではあ
りませんが、どのような真理の定義を採用するかによって影響を受けない範囲
で考察を進めるならば、とりあえず棚上げにしておくことができます。
しかし、いつまでも真理概念の分析という課題を棚の上に放置しておくことは
できません。自己言及のパラドックスなどの問題が論理学者に真理概念の検討
を促すことになります。そこでタルスキは真理論という分野に足を踏み入れた
のだと思います。
まだまだつづく
137 :
微熱症患者:2000/10/28(土) 03:49
136のつづき
>「ある命題を真(事実)と仮定すれば、それは実際に真である」
これは間違いです。もしこんな事が許されるなら、何でも仮定さえすれば、実
現することになってしまいます。
>「ある命題が真(事実)ならば、それは事実である」
134@`135で私が述べた解釈とはニュアンスが違いますが、3つの解釈のうちで
はこれがいちばん無難だと思います。
>「ある事態を正しく表現するならば、その言明は真である」
この主張自体は正しいと思いますが、これは同一律とはあまり関係がありせん。
相当眠たくなってきたので、自分でも何を書いているのかだんだんわからなく
なってきましたが、最後に一つだけ補足します。
形式論理学は哲学の他の分野との協調によって「思考の規範学」として機能し
ます。逆に言えば、ある種の分業体制が成立していて、その一翼を担うのが形
式論理学です。
他の分野とは、認識論、存在論、真理論、意味論(論理学も意味論に含まれる
かもしれませんが……)、語用論などです。
それに対して、弁証法はこれらの領域が渾然一体となっているものだと思いま
す(もっとも私はヘーゲルに通じていないので、勝手な思い込みかもしれませ
んが)。そこで弁証法を支持する人が形式論理学のみを見ると、どうしても頼
りなく、貧弱な印象を受けてしまうのでしょう。
……眠気が頂点に達しました。尻切れトンボですが、これで終わりにします。
138 :
食いだおれさん:2000/10/28(土) 05:27
論理学ってのは考える技術だね。
それ自体に意味はないよ。
質問1に対して、
(2)(3)どちらも良いんじゃないかな
(2)あるものを「りんご」と定義した時、それはりんご以外の何物でもないね。
つまり時間は関係ない。というか、時間についてまで言及してないね。
前提条件で時間について定義すれば、時間が変われば品変わる。
(3)この場合は「今日」がキーポイントだよね。
「今日」って言葉がある一点を指すなら問題ないけど、
まあでも定義があいまいだからなんともいえないね。
間違ってるともいえるし、正しいともいえる。てところ。
質問2について、
「言明はそれが表現している事態が成立している場合に真と呼ばれる」
というのは、そのまんまの意味でとれば良いんじゃないかな。
なんか問題ある?
論理でいう「真」「偽」は、条件、式が矛盾してないかどうかだから、
実際がどうかとかは、無意味な議論だと思うよ。
139 :
3:2000/10/28(土) 20:49
>>131 >予期せぬ事態が出来し、顧客や現場から矢のような電話がかかってきて、
>状況が刻一刻と変わっていくようなとき、
>前提から出発して結論を得ようとするような悠長なことをしていては、
>決して変化に対応できない。
まさにこういう事態を必然と呼ぶのでしょう。ただし、それは「外的な
必然性」であり、現実世界では常に外的な必然性(運命)に突然に(偶然
に)襲われる。それに対して「内的な必然性」とは事柄自体の本質が現実
に現れることです。それは事柄自体の宿命とでも呼べるでしょう。
さて「必然的な推論」とは推論において保存されている事態の展開と言
えます。「何が何して何すれば、何になるのは当然(必然)だ。」と言う
推論は「何の本性から言えば何になるのは当たり前だ」という事でしょう。
たとえば(あくまで)、「『欠陥を隠して商品を販売した』のなら『顧客
クレーム』が矢のように飛んでくる」のは当たり前でしょう。確かにうまく
隠しきれる場合もあるかも知れないが、事柄の本性から言っていつかはバレ
ルというのが必然性の推論です。現実に起こった事態に対して帰納的推論の
遡及過程(結果→原因の同定)によって一つの自己同一的な実体(例:欠陥
商品)にまで到達した時に、前提→帰結の推論(例:「欠陥商品を売るなら、
顧客クレームが飛んでくる。」)は必然的なものと言われる。
形式論理で必然的な推論という場合、実際にはそれは「欠陥商品」という
実体概念には「顧客クレームを招く」という属性規定が含まているという本
質判断を前提しているのであり、「顧客クレームを招かない欠陥商品はあり
得ない」という矛盾律を演繹的に展開したものでしょう。
(最近でも、どこかの国の官房長官は必然的に辞職することになった。
これも彼の宿命でしょう。)
>>134(微熱症患者氏)
丁寧なレスありがとうございます。
140 :
logcian's red:2000/10/29(日) 13:44
久々に来ました。ずいぶんログがながれちゃって…。
形式論理学に関して、無限後退とか論点先取りという話が上の方に
あるのでそれについて発言しておきます。
まず、述語論理の体系というのは、いくら無矛盾で完全であっても、
論理の絶対的究極的な基礎を提供しているわけではありません。
述語論理の完全性はモデル理論を使って証明されていますが、
これは公理的集合論で展開可能なので、
オブジェクトレベルは完全でもメタレベルは完全ではないという事態
になっているわけです。
しかし、論理を対象に数学的にその性質を証明しているわけなので、
普通の数学と同じぐらいに信頼できるということです。
つまり、メタ数学の定理を、究極的なものだとみなすと、
それは無限退行もするし、論点先取りにもなっています。
本当は、帰納法を使える体系が自分の無矛盾性や完全性をその体系内で
証明できるとそれは究極的なものになります。
オブジェクトとメタが同じ形をしているので、
どれだけメタメタと退行してもその先々で無矛盾性や完全性はなり立ちます。
しかし、ゲーデルの定理のおかげでそうはいかんとなっています。
ところで、究極的に信頼できないのをみて、「形式論理学は信用ならん」
という意見をもつぐらいに懐疑的な人は、かなりのことを信用できない
はずです。もちろんヘーゲルのように曖昧な術語を曖昧なまま使用している学説
は信用できないはずです。そのような人は術語の定義が無限退行するのをみて、
信用できなくなるからです。
ところで、林晋先生の『パラドックス!』を読まれた方いますか?
無矛盾性のパラドックスでゲーデルの定理に危機が!(あおりすぎ)
あと、形式化のパラドックスの話で、
普通の数学の定義を形式化するときに誤って形式化してしまうという話が
ありましたが、日常言語を形式化するときに間違いやすい表現として
どれだけのものがあるんでしょう?
以前、確定記述や固有名の話がでましたが、存在措定(暗黙の存在)なんかも
含めて、他には何があるでしょう?
141 :
logician's red:2000/10/29(日) 14:42
のー、また省略されちまった。久々のカキコだったのに…。
真理概念について、まず
>138
>論理でいう「真」「偽」は、条件、式が矛盾してないかどうかだから、
>実際がどうかとかは、無意味な議論だと思うよ。
というのは誤解です。
述語論理においては、矛盾している式は「恒偽」であり、
「偽」である式が式がすべて「恒偽」ではない、ということです。
「真・偽」と「恒真・恒偽」は区別しましょう。
つまり、「論理でいう真偽は、どのようなモデルをとるかだから
実際かどうかは単なる特殊な例の話ということだ」
これが正しいと思います。
日常言語の命題についても、我々はとかく「日常スタンダード・モデル」
を採用しがちですが、日常の事実に一致するかしないかというのは
このようなモデルを前提としています。
「人間は哺乳類である」を真にするのは「日常スタンダード・モデル」
ですが、「ある精神異常者・モデル」では、
「人間は哺乳類ではなく、8次元アストラルである」に真を割り当てる
ので、このモデルでは「人間は哺乳類である」は偽になります。
つまり、「ある命題が真ならば、事実である」には
このような反例があってただちには成り立たないことと、
「ある精神異常者・モデル」は極端でしたが、
「異なる信念を持つ人・モデル」・「異なるコンテクスト・モデル」
はごくありふれていることをお知らせしておきます。
あと、同一律に関する議論に、
「任意の論理式Aに対して、A→A」と
「変数記号をxとして、∀x(x=x)」という等号の公理、
この二つに関する混同が発生しそうなので区別しましょう。
142 :
微熱症患者:2000/10/30(月) 00:16
>>141 >あと、同一律に関する議論に、
>「任意の論理式Aに対して、A→A」と
>「変数記号をxとして、∀x(x=x)」という等号の公理、
>この二つに関する混同が発生しそうなので区別しましょう。
おお、わかりやすい!
こんなのを読んでしまうと、やっぱり記号論理学に通じた人にはかなわないな〜、
と思ってしまいます。
というわけで、私が134で書いた同一律についてのあやしい説明は忘れて下さい。
143 :
おでん屋:2000/10/30(月) 00:37
くそー、俺にはわからねえぞ。
そのAがひっくり返ったのは何だ? ロシア文字か?
物理板で習ったような気はするんだが・・・
とりあえず、誰か翻訳してくれねえかな。
例えば、「俺が煮たおでんは旨い」をAとして、
「俺が煮たおでん」をxとする、ってのはどうだ?
見当違いか?
144 :
食いだおれさん:2000/10/30(月) 03:28
>実際がどうかとかは、無意味な議論だと思うよ。
については間違った書きこみでした。
書きなおし:
「実際はどうかとかは、別の話だと思うよ。」
確かに、実社会に合うように条件を考えれば「意味のある」ことにはなる。
>あと、同一律に関する議論に、
>「任意の論理式Aに対して、A→A」と
>「変数記号をxとして、∀x(x=x)」という等号の公理、
>この二つに関する混同が発生しそうなので区別しましょう。
についてだけど、たぶん「りんご」のことだろうけど、
例えばさ、
Aを「これがりんごと呼ばれる」とか言うかたちの事象にすれば、
議論できるんじゃない?
それでさ、そのあと述語論理の、∀x(x=x)を引き合いに出したけどさ、
この場合「全てのりんごという集合において(りんごはりんご)」とかになると思うけど、
これはさ、もうすでに「りんご」っていう定義されたものの集合だから、
当たり前のことなんだよね。
そうじゃなくて3さんが言ってたのは、いったん「りんご」と定義されたもの
があったとして、常にそれが「りんご」であるかってのを疑問に持ってたと思うんだ。
だからね、論理学でいう「A=A」てのはね、ここの「りんご」の例でいうと、
「(これがりんごと呼ばれる)=(これがりんごと呼ばれる)」
であってね、「A≠A」であるはずがない。すなわち、
あるものがりんごと呼ばれるのに、それと同時に、りんごと呼ばれないことはない。
てことを言いたいんだけど。
まあ、なんかわけのわかんない説明になったけど、言いたいこと伝わったかな?
あとAをひっくり返したのは「すべての」とか言う意味の、述語論理の記号ね。
ちなみにEをひっくり返したのは「少なくともひとつの」とかいうやつ。
そうだ、あとさ、「恒真」「恒偽」についていってたけど、
述語論理とかだと、細かく言うけど、ここじゃ必要ないかなって思った。
なんかそういう議論したければ、妥当性とかって言うんじゃないかな?
ちょっと違うかな?
145 :
食いだおれさん:2000/10/30(月) 03:31
(きれたので続き)
だからね、論理学でいう「A=A」てのはね、ここの「りんご」の例でいうと、
「(これがりんごと呼ばれる)=(これがりんごと呼ばれる)」
であってね、「A≠A」であるはずがない。すなわち、
あるものがりんごと呼ばれるのに、それと同時に、りんごと呼ばれないことはない。
てことを言いたいんだけど。
まあ、なんかわけのわかんない説明になったけど、言いたいこと伝わったかな?
あとAをひっくり返したのは「すべての」とか言う意味の、述語論理の記号ね。
ちなみにEをひっくり返したのは「少なくともひとつの」とかいうやつ。
そうだ、あとさ、「恒真」「恒偽」についていってたけど、
述語論理とかだと、細かく言うけど、ここじゃ必要ないかなって思った。
なんかそういう議論したければ、妥当性とかって言うんじゃないかな?
ちょっと違うかな?
146 :
3:2000/10/30(月) 06:34
>>140(logician's red氏)
>オブジェクトとメタが同じ形をしているので、
>どれだけメタメタと退行してもその先々で無矛盾性や完全性はなり立ちま
>す。
形式論理の形式的なる所以とそれが数学的な論議を出ていない所以が端的
に言われており、分かりやすいです。
(対置1)
弁証法論理’(ヘーゲル)ではオブジェクト(対象)とメタ(言及)を同
じ形(概念形式、カテゴリー)で表現することを「矛盾」と呼び、それが
形式的には無限後退(悪しき無限)として現象すると言います。そしてそ
れは両者の真の統一(真の無限)としての、その概念への飛躍(これは直観
(洞察)によるしかない)がなされるべきことを消極的に表現している、
と考える訳です。矛盾とは同一性の裏面であり、同じ事柄を言っているの
でしょう。また、内容から切り離された形式を「外的な形式」と呼び、
内的な形式(日常でも「形式内容」という言葉が時々出てきますが)を
真の形式(「形式の概念」)と呼びます。
(対置2)
「数」の概念とは、前にも書きましたが、「単位と集合数の統一」です。
既に「数」と言う言葉が両者に表れているため、これは自己言及的な定義
であり、矛盾です。そのためそれは「運動」せざるを得ない。「矛盾は存在
し得ない」からです。数(一般に量)の運動形式は「自己超出」です。
「無限に自己を超出するが、そこにあるのは常に同じもの」、これが数の
弁証法です。単位が変わった(別の存在領域に入った)にも拘らず、同じ
形式(無内容な外的形式)を保つことから、無限後退に陥ります。
勿論、数学(そして形式論理)は自己の限度(=質と量の統一)を意識
していれば、非常に強力な思想的武器ですから、十分に信用できますし、
必要不可欠なものでしょう。
…まだ、距離は遠い、接近は続く。
>>144 >それでさ、そのあと述語論理の、∀x(x=x)を引き合いに出したけどさ、
>この場合「全てのりんごという集合において(りんごはりんご)」とかになると思うけど、
>これはさ、もうすでに「りんご」っていう定義されたものの集合だから、
>当たり前のことなんだよね。
「全てのりんごという集合において(りんごはりんご)」という翻訳は正しく
ありません。ここは、単に「りんごはりんご(と同一である)」となるところ
です。
「A→A」の場合だと、「A」をそのまま命題に置き換えることができます。
よって「俺が煮たおでんは旨い=俺が煮たおでんは旨い」でも「これがりんご
と呼ばれる=これがりんごと呼ばれる」でもいいのですが、
∀x(x=x)の場合は、「x」をそのまま指示表現に置き換えることはできま
せん。
「俺が煮たおでん」とか「りんご」(どちらも指示表現の例として使うのはあ
まり適当ではありません。なぜなら、集合を抽象的実体として指示しているの
か、その集合に含まれる特定の個物を具体的実体として指示しているのかがあ
いまいであり、複数の読みが可能となるからです)の代わりとして使う記号は
たとえば「a」(アルファベットの前のほうの文字)です。
∀x(x=x)から、a=aを導いて、それを「俺が煮たおでん=俺が煮たおで
ん」とか「りんご=りんご」というように読み替えることになります。
僭越ながら、logician's red 氏にかわって……
148 :
3:2000/10/30(月) 15:13
>>141(logician's red氏)
>「ある精神異常者・モデル」では、
>「人間は哺乳類ではなく、8次元アストラルである」に真を割り当てる
>ので、このモデルでは「人間は哺乳類である」は偽になります。
確かに何らかの公理を元にして、論理体系を整合的(無矛盾的)に立てる
ことは一応可能でしょう。そして閉じた体系における整合性を「真偽」と
して論じることもできるでしょう。しかし、私はそれを「正否」(妥当/
非妥当)と呼び、真理性とはあくまで実在に対して、観念と実在との
照応関係によって決まる概念として使います(真理の一致説?)そして、
「精神○○者」(余り好きな言葉ではない)の信念体系がどういうもので
あれ、解釈によって、それが「正常者」の信念体系に翻訳可能であれば、
それは偽でも無意味でもなくなる。精神分裂病のモデルとしてベイトソン
の「ダブルバインド理論」は、ラッセルのいう「メンバーとクラスの混同」
をヒントにした独創的なものですが、ベイトソンは真偽を「精神システムと
自然システムとの整合性」として定義していた。つまり、それは純論理的
モデルではないのです。自然(実在)を参照(言及、指示、妥当)しない、
「自らに妥当する論理体系(記号体系)」というのは矛盾に陥るのは当たり
前と言えます。
モデル(仮説体系)と信念は異なるでしょうから、形式的な真(正当性)
と実質的な真(真理性)とは区別すべきでしょう。混同すると非合理にな
るし、弁証法はそこを突く。「公理論」も一つの仮説でしかなく、また、
同一律自体は仮説の定立(首尾一貫性の要求)として捉えた方が良いの
ではないでしょうか。
>>148 用語法はともかく(私は「妥当/非妥当」ということばは推論が論理法則
に従っているかどうかを論じるときのためにとっておきたいので)真偽の
概念についての意見には基本的に同意します。
論理学の探究目的にとっては、命題のもつ真理値はモデルに相対的に与え
られると考えるのが便利だというのはわかるのですが、「そんなのは本当
の真理ではない!」と言いたくなるのです。
ただ、真理の対応説(一致説)で問題となるのは、真理の担い手が命題で
あれ観念であれ言明であれ、それらが志向している実在とは全く異質なも
のだということです。
そこで興味深いのは、
>「精神○○者」(余り好きな言葉ではない)の信念体系がどういうもので
>あれ、解釈によって、それが「正常者」の信念体系に翻訳可能であれば、
>それは偽でも無意味でもなくなる。
という箇所です。
一見したところ私たちの信念体系と異質なものであっても、「解釈」「翻
訳」という過程を経て私たちの信念体系に取り込むことができれば、真理
だとみなすことができる、という意味だと解釈したのですが、もし私の解
釈が正しければ、素朴な対応説と「なんでもあり」の相対主義の中間の道
を示唆しているように思います。
150 :
微熱症患者:2000/10/30(月) 23:31
意味もなく下げてしまいましたが、意味はありません。
……変な日本語。
151 :
semanticist:2000/10/30(月) 23:37
148の発言は示唆に富んだものではあるが、この書き方は、数理論理学者が、論理体系の帰結とその帰結が現実に対して真であるということの違いに気づいてないような誤解を含んでいる。この点に関しては、1930年代にはもう決着が付いていて、論理学の統語論(推論が妥当であるか)と意味論(推論の帰結がモデルに対して真であるか)を区別することは数理論理学の最初の数時間で徹底的にたたき込まれる。この点に関する重要な成果の一つが、ゲーデルの完全性定理(と不完全性定理)なのだが3=148はゲーデルを知らないのだろうか、と勘ぐりたくなる。
152 :
微熱症患者:2000/10/30(月) 23:55
>論理学の統語論(推論が妥当であるか)と
>意味論(推論の帰結がモデルに対して真であるか)
いや、むしろ148で問題にしているのは、モデルに対して真であるかどう
か、ということと、モデルそのものが実在を反映しているかどうか、と
いうことの区別ではないでしょうか?
153 :
ぱん"どら":2000/10/31(火) 00:14
>>143 こんばんわ〜、ちょっとふらふらしてたらここへ来ちゃった。おじゃましま〜す。
論理学ってきょうの授業で勉強したわ。
うわ〜、おじさまのおでんって、おいしそ〜♪
う〜んと、復習になりますけれど「おじさまが煮たおでんは旨い」って、
Fを{おじさまが煮たおでん}Gを{うまい}ってすると〜
∀x(Fx⊃Gx)だったら@「おじさまのおでんはみんなうま〜い」ってなります。
⊃は条件法っていって「ならば」という意味です。
で、ここからどんなことがいえるかというと〜、
「AならばB」ならば「BでないならAでない」ということが絶対いえるそうです。
これ対偶っていうんだそうです。
だから、でないっていうのを¬であらわすと、∀x(¬Gx⊃¬Fx)
これは普通の言葉で言うとA「まずければおじさまのおでんでない」ってことね。
現代の論理学には命題論理と述語論理があって、命題論理だと上のこと
しかいえないんだけど〜、述語論理だと、全称量化子∀のほかに存在量化子
∃というのがあるの。
これはここでみなさんがいってたように「すべて」と「ある」をあらわしているそう
です。で∀x(Fx⊃Gx)からこんなこともいえるわけ。∃x(Gx⊃Fx)ね。
これってどういう意味でしょう?
これはB「うまいもののなかにおじ様のおでんがある」ってこと。
「あるうまいものはおじさまのおでんよ」っていってもいいわ。
さっきの対偶を考えるとC「おじ様のおでんでない物にまずいものがある」
述語論理ではひとつのことから以上の四つのことがみなほんとって言えるわ
けね。xは要素っていって、うまいもののひとつをあらわしているといっていいわ。
xはほんとは変項といって条件式を満たす可能なものが入るのね。
目の前にあるこの卵ならa、定項っていうわ。
つまり、おじさまのおでんだったらちくわとか、こんにゃくとかあるでしょう。
xにはそれらのどれかがはいるのね。
この場合、Fa⊃Gaはこのおじ様の卵のおでん、おいしいわ、ってわけ。
論理学ってけっこうおもしろいわよ。おじさまも、勉強しましょうよ。
154 :
semanticist:2000/10/31(火) 04:00
微熱症患者さん、
なるほど僕の誤解だったかもしれません。でもまず僕がなぜ誤解を
してしまったかを説明させてください。3=148さんは次のように
書いています。
>確かに何らかの公理を元にして、論理体系を整合的(無矛盾的)に立てる
>ことは一応可能でしょう。そして閉じた体系における整合性を「真偽」と
>して論じることもできるでしょう。しかし、私はそれを「正否」(妥当/
>非妥当)と呼び、真理性とはあくまで実在に対して、観念と実在との
>照応関係によって決まる概念として使います(真理の一致説?)
僕はこの中の「何らかの公理を元にして、論理体系を整合的(無矛
盾的)に立てる」という部分を僕がいう論理学の統語論として、ま
た「真理性とはあくまで実在に対して、観念と実在との照応関係に
よって決まる概念」という部分を僕がいう意味論として解釈してま
した。誤解はこの部分ということになりますよね?この後の3=148さ
んの議論はこの区別に関するものだと思いますから(これも誤
解?)。
もし微熱症患者さんがいうとおりこの部分が誤解だとしたら、僕は
まず3=148さんに向かって「ゲーデルを知らないのだろうかと、勘ぐ
りたくなる」といったことに対して謝らなければいけません。3=148
さん、どうもすいませんでした。訂正してお詫びいたします。さて
3=148さんの意見が微熱症患者さんの解釈通りだと、もっと面白いこ
とになりそうです。
ちょっと時間がなくて、尻切れトンボになります。すいません、4
時間後に続きを書きに来ます。
155 :
食いだおれさん:2000/10/31(火) 04:19
いやー、ゴメンゴメン。
またわけわかんない事書いてたね。
確かにそうだわ、
∀x(x=x)
というのは、ここではxについてなんの定義域もないから、
「全ての事物に対して、あるものは、それ自身と同一である。」
が正しい訳(またなんか違ってるかもな)
として、
例えば個体変数の内より、「りんご」を選んだとして、
「りんごは、それ自身と同一である(すなわちりんご)」
てことだね。
あ、それからxはたしかに変数だから、そのまま何かを指すのはまずいかもね。
「あるもの」とか「事物」とか、そういうほうが良いだろうと思う。
まあでも、ここでは話の流れをくんでさ、
てきとうに「りんご」を代入したと思って読んで欲しいな。
それから、なんかいかれてる人の信念を
意味が通るように翻訳しようって話だけど、
そういうの誰かがやってんじゃないかな?
156 :
semanticist:2000/10/31(火) 08:47
帰ってきました、っていっても日本は朝だから誰もいないか。154の続きを書こ
うと思ったんですが、よく考えてみたら本当に面白いかどうか分からなくなっ
ちゃいました。で4時間前に何を書こうとしたかというと、
同一律が成り立たないようなモデルについて考えることは論理学者にとって意
味があるかないか。
ということだったんです。4時間前に何でこれが面白いかもしれないと思った
かというと、人工知能を研究している人たちの中にこういった種類のモデルの
中で人工知能に推論させてみようという試みがあったと記憶しています。でも
この記憶が曖昧で、もしかしたら話が逆かもしれないんです。つまり、同一律
を推論規則として持たない人工知能にふつうのモデルの中で推論させてみよう
という試みだったかもしれません。誰か詳しい人いませんか?確か非単調推論
(non-monotonic reasoning)とかいったはずなんですが。
157 :
おでん屋:2000/10/31(火) 17:56
>153
そ、そうか。5回読んだらわかってきた。
その@〜Cはいいとして、他にもここで問題になってる同一律ってのがあるんだろ?
なぜその同一律が問題になってるのよ?
何を間抜けたこと言ってやがるって言いたくなるんだが、
あまりにも間抜けに見えるので、きっと何か裏があるに違いねえと・・・
158 :
ぱん"どら":2000/10/31(火) 23:44
う〜ん、こんなふうにいえばわかってもらえるかしら。
たとえば「1+1=2」って〜のあるでしょう。
こんなのあったりめぇ〜って思うかもしれないけれど「1+1=10」っていうのもある
でしょう。これが十進法と二進法の違いだなんてことはすぐわかるわね。
でもよくかんがえると、そんなの誰が決めたんだってなるわけ。
桁数の繰り上がりが10なのはわたしたちの指が十本あるからだろうってことだ
けどメソポタミアでは12進法60進法なんてのがあったでしょう。
で、本当のことってどういうことなんだ、ということを問題にするわけ
そして、ほんとうのことって昔からあるからそうだとか、自然とわかるということ
でなくて、基本的な約束事なんじゃないかって考え始めたわけ。
アインシュタインってしってるでしょう。空間は曲がっているなんて言った人。
そしてそれに非ユークリッド幾何学を使ってるってことも聞いたことあるでしょう?
つまり〜、平行線は交わったり交じあわなかったりするの。
まじあわないのを平行線って言うんだっていうかもしれないけど、ユークリッド
は幾何学をまとめるのに、みんなが本当だと思うことを基本的な約束・公理
として設定したわけ。
昔は公理って、絶対的なものだと思われていたわ。
でもね、もともと約束なんだから違う約束でも良いんじゃないかって考えた人
がいるの。それがロバチェフスキーとかリーマンっていうひと。
彼らが非ユークリッド幾何学を作ったわけ。実際にはユークリッドが決めた約
束、さっきの平行線の第5公理をかえちゃったわけ。
それでよ、そんなことしたら幾何学はめちゃくちゃになるんじゃないかって考える
わけ。でも約束のひとつを変えても幾何学はそれはそれで十分間に合うって
ことがわかったのね。
だから、最初に戻るけど、十進法も二進法もどちらが正しいとか正しくないとか
いうことはできないわけね。
もともと、本当とか正しいとか言うものは基本的な約束・公理が元になってるん
だというのが今の考え方なの。
で、いよいよ本題ね。
A⊃Aってなんだろう、そんなのあたりめぇってしていいんだろうかってわけね。
幾何学にはユークリッド@`数学ではペアノの公理なんてのがあるわ。
論理学の基本的約束はどんなものがあるかって言うと、公理系LPなんてのが
あります。これって、命題の結合子⊃・ならば ∧・かつ ∨・または あと結合
子ではないけれど¬・否定 のよっつをつかって基本的な論理式を設定した
ものね。数学と違って論理学では
A「おじさまのおでんはうまい」
B「女子大生が集まってくる」
なんていうの命題を単位にします。
そして命題には本当か嘘を判定しなければなりません。
これを0,1であらわすのね。 Aの命題は真とかBの命題は偽とかいうのです。
論理学ってそうした基本的判断が組み合わさったとき全体として、ほんとうか
うそかを判定する学問なんですね。
つまりAがほんとうでBがうそのときA⊃Bは本当だろうかって考えるの。
命題が二つあってA,Bとしたとき各々の組み合わせがどうなるだろうというわ
けです。
う〜ん、今日はもう眠くなっちゃった。
わたしのはなしっておもしろい?
だったら、明日もきていいわ。
それからおでんとビール、おごってくださらな〜い?
お客様のお相手、てつだっちゃいますから〜、おねがい。
159 :
ぱん"どら":2000/10/31(火) 23:46
う〜ん、こんなふうにいえばわかってもらえるかしら。
たとえば「1+1=2」って〜のあるでしょう。
こんなのあったりめぇ〜って思うかもしれないけれど「1+1=10」っていうのもある
でしょう。これが十進法と二進法の違いだなんてことはすぐわかるわね。
でもよくかんがえると、そんなの誰が決めたんだってなるわけ。
桁数の繰り上がりが10なのはわたしたちの指が十本あるからだろうってことだ
けどメソポタミアでは12進法60進法なんてのがあったでしょう。
で、本当のことってどういうことなんだ、ということを問題にするわけ
そして、ほんとうのことって昔からあるからそうだとか、自然とわかるということ
でなくて、基本的な約束事なんじゃないかって考え始めたわけ。
アインシュタインってしってるでしょう。空間は曲がっているなんて言った人。
そしてそれに非ユークリッド幾何学を使ってるってことも聞いたことあるでしょう?
つまり〜、平行線は交わったり交じあわなかったりするの。
まじあわないのを平行線って言うんだっていうかもしれないけど、ユークリッド
は幾何学をまとめるのに、みんなが本当だと思うことを基本的な約束・公理
として設定したわけ。
昔は公理って、絶対的なものだと思われていたわ。
でもね、もともと約束なんだから違う約束でも良いんじゃないかって考えた人
がいるの。それがロバチェフスキーとかリーマンっていうひと。
彼らが非ユークリッド幾何学を作ったわけ。実際にはユークリッドが決めた約
束、さっきの平行線の第5公理をかえちゃったわけ。
それでよ、そんなことしたら幾何学はめちゃくちゃになるんじゃないかって考える
わけ。でも約束のひとつを変えても幾何学はそれはそれで十分間に合うって
ことがわかったのね。
だから、最初に戻るけど、十進法も二進法もどちらが正しいとか正しくないとか
いうことはできないわけね。
もともと、本当とか正しいとか言うものは基本的な約束・公理が元になってるん
だというのが今の考え方なの。
で、いよいよ本題ね。
A⊃Aってなんだろう、そんなのあたりめぇってしていいんだろうかってわけね。
幾何学にはユークリッド@`数学ではペアノの公理なんてのがあるわ。
論理学の基本的約束はどんなものがあるかって言うと、公理系LPなんてのが
あります。これって、命題の結合子⊃・ならば ∧・かつ ∨・または あと結合
子ではないけれど¬・否定 のよっつをつかって基本的な論理式を設定した
ものね。数学と違って論理学では
A「おじさまのおでんはうまい」
B「女子大生が集まってくる」
なんていうの命題を単位にします。
そして命題には本当か嘘を判定しなければなりません。
これを0,1であらわすのね。 Aの命題は真とかBの命題は偽とかいうのです。
論理学ってそうした基本的判断が組み合わさったとき全体として、ほんとうか
うそかを判定する学問なんですね。
つまりAがほんとうでBがうそのときA⊃Bは本当だろうかって考えるの。
命題が二つあってA,Bとしたとき各々の組み合わせがどうなるだろうというわ
けです。
う〜ん、今日はもう眠くなっちゃった。
わたしのはなしっておもしろい?
だったら、明日もきていいわ。
それからおでんとビール、おごってくださらな〜い?
お客様のお相手、てつだっちゃいますから〜、おねがい。
160 :
考える名無しさん:2000/11/01(水) 05:21
とてもわかりやすいのでage。
同一律の件は?
161 :
ぱん"どら":2000/11/01(水) 08:51
びえ、わたしのおしゃべりがすぎてサーバーが消化不良になったみたいね。
礼儀知らずでごめんなさい。
あとこんなこといいました。
で、いよいよ本題ね。
A⊃Aってなんだろう、そんなのあたりめぇってしていいんだろうかってわけね。
幾何学にはユークリッド@`数学ではペアノの公理なんてのがあるわ。
論理学の基本的約束はどんなものがあるかって言うと、公理系LPなんてのが
あります。これって、命題の結合子⊃・ならば ∧・かつ ∨・または あと結合
子ではないけれど¬・否定子のよっつをつかって基本的な論理式を設定した
ものね。数学と違って論理学では
A「おじさまのおでんはうまい」
B「女子大生がたくさんいる」
なんていうの命題を単位にします。
そして命題には本当か嘘を判定しなければなりません。
これを0,1であらわすのね。 Aの命題は真とかBの命題は偽とかいうのです。
論理学ってそうした基本的判断が組み合わさったとき全体として、ほんとうか
うそかを判定する勉強なんですね。
つまりAがほんとうでBがうそのときA⊃Bは本当だろうかって考えるの。
命題が二つあってA,Bとしたとき各々の組み合わせがどうなるだろうというわ
けです。
う〜ん、今日はもう眠くなっちゃった。
わたしのはなしっておもしろい?
だったら、明日もきていいわ。それからおでんとビール、おごってくださらな〜い?
ああ〜もうあさ〜、よわいな〜。
162 :
ぱん"どら":2000/11/01(水) 09:41
話、最後まで行ってなかったからいいます。
おじい様の躾なの。最後までやりなさいって。
さて、気を取り直してひとふんばり。
A⊃Aを考えるとき、果たしてこれを基本的な約束として論理式全体のほんとう、うそを
調べるのにいい約束なんだろうかってこと。
公理系LPではこれは公理には含まれません。
公理系LPの規則.1と2はこんなふうになってます。
規則.1「演繹規則DR」Aを仮定してBが導出されるとき、Aという仮定なしに
A⊃Bを導出してよい。
規則.2「前件肯定式MP」A,A⊃BからBを導出してよい。
そしてA⊃Aはこの規則.1を使ってこれが基本的約束から言って正しいんだって
証明をしなければならないのです。
証明にはまず仮定が必要です。そして其の仮定を公理に基づいて推論していくわけです。
そして出てきた結果は定理として正しいことが保証されるわけですね。
(1)A 〔1〕DRの仮定
(2)A⊃A (1)とDR
こうして命題論理の中ではA⊃Aは正しさの保証された定理だ、といえるわけね。
163 :
3:2000/11/01(水) 22:20
>>162(ぱん"どら"さん)
>規則.1「演繹規則DR」Aを仮定してBが導出されるとき、Aという
> 仮定なしに A⊃B(AならばB)を導出してよい。
適用.1:A「おじさまのおでんはうまい」B「女子大生がたくさんいる」
言明1
「おじさまのおでんはうまい」を仮定して「女子大生がたくさんいる」が
導出されるとき、「おじさまのおでんはうまい」という仮定なしに
「『おじさまのおでんはうまい』ならば『女子大生がたくさんいる』」を
導出してよい。
言明1'(少し変形)
「おじさまのおでんはうまい」が成立する場合に常に「女子大生がたく
さんいる」が導出されるならば、無条件的に(必ず)
「『おじさまのおでんはうまい』ならば『女子大生がたくさんいる』」が
成立する。
何故ならそれは、「おじさまのおでんはうまい」ことが「女子大生が
たくさんいる」ことの「原因」であるから。
適用.2:A「おじさまのおでんはうまい」、B「おじさまのおでんはうま
い」
言明2(くどいので省略)
言明2'
「おじさまのおでんはうまい」が成立する場合に常に「おじさまのおでん
はうまい」が導出される(当たり前!)ならば、無条件的に(必ず)
「『おじさまのおでんはうまい』ならば『おじさまのおでんはうまい』」
が成立する。
何故ならそれは、「おじさまのおでんはうまい」ことが「おじさまの
おでんはうまい」ことの「原因」であるから?(そんな訳ないよ!)
何故ならそれは、おじさまがうまいおでんを「目的」にして、労働に
により、目的(観念)を「現実の事態」にしているからです。
これをライプニッツは「自己原因」という概念で表現しました。
164 :
3:2000/11/01(水) 22:25
>>162(ぱん"どら"さん)
>規則.1「演繹規則DR」Aを仮定してBが導出されるとき、Aという
> 仮定なしに A⊃B(AならばB)を導出してよい。
適用.1:A「おじさまのおでんはうまい」、B「女子大生がたくさんいる」
言明1
「おじさまのおでんはうまい」を仮定して「女子大生がたくさんいる」が
導出されるとき、「おじさまのおでんはうまい」という仮定なしに
「『おじさまのおでんはうまい』ならば『女子大生がたくさんいる』」を
導出してよい。
言明1'(少し変形)
「おじさまのおでんはうまい」が成立する場合に常に「女子大生がたく
さんいる」が導出されるならば、無条件的に(必ず)
「『おじさまのおでんはうまい』ならば『女子大生がたくさんいる』」が
成立する。
何故ならそれは、「おじさまのおでんはうまい」ことが「女子大生が
たくさんいる」ことの「原因」であるから。
適用.2:A「おじさまのおでんはうまい」、B「おじさまのおでんはうま
い」
言明2(くどいので省略)
言明2'
「おじさまのおでんはうまい」が成立する場合に常に「おじさまのおでん
はうまい」が導出される(当たり前!)ならば、無条件的に(必ず)
「『おじさまのおでんはうまい』ならば『おじさまのおでんはうまい』」
が成立する。
何故ならそれは、「おじさまのおでんはうまい」ことが「おじさまの
おでんはうまい」ことの「原因」であるから?(そんな訳ないよ!)
何故ならそれは、おじさまがうまいおでんを「目的」にして、労働に
により、目的(観念)を「現実の事態」にしているからです。
(これをライプニッツは「自己原因」という概念で表現しました。)
165 :
3:2000/11/01(水) 22:30
166 :
おでん屋:2000/11/01(水) 23:06
どうもよくわからねえんだが、
(ア):同一律ってのは単に演算上の問題か?
(イ):それとも164が言ってるようなことか?
それとも、
(ウ):(ア)と(イ)のどっちだっていうような事が問題になっているのか?
ちなみに、女子大生がいないのは俺のおでんが旨くないからか?
返答によっちゃぁ俺にも考えがあるが・・・
167 :
微熱症患者:2000/11/02(木) 00:34
>>159 十進法と二進法の話はたとえとしてはわかりやすいのですが、ユークリッド幾
何学と非ユークリッド幾何学の話とはレベルが違うように思います。
「1+1=10」という数式は二進法では真となり、十進法では偽となります
が、これは二進法と十進法が実質的に別の算術の体系をなしているからではな
く、単に表記法が違っているからです。もし、数式(文)ではなく命題のレベ
ルで考えるならば、二進法で「1+1=10」で表される命題は十進法でも真
となるでしょう。
それに対してユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の場合は、事情はよ
り複雑だと思われます。複数の幾何学の体系で同じ文の真理値が異なるとき、
「同じ文が別の体系では別の命題を表すから真理値が異なるのであって、体系
が違っていても同じ命題ならば、その言語的表現の仕方は食い違うにせよ、必
ず真理値が一致するはずである」とは言えないと思います。
……と書いて、この話題にはデリケートな問題が含まれていることに気付きま
した。言語表現と対象となる事物の間に、命題とか意味などいう中間項を想定
して話をするのでなければ……。
この問題はちょっと私の手に余るのでとりあえず棚上げにしておきます。
中途半端ですみません。
168 :
食いだおれさん:2000/11/02(木) 02:52
>164 言明2’
うーん、なんかすりかえたような・・・
言明1’で、「原因」てのを持ち出したから、おかしいんだと思うよ。
論理で「ならば」てのは、「原因」というよりも、
「A⊃B」
もしAが真ならば、それと同時にBも真。
てことだから、かならずしも「原因」てことじゃないと思うけど。
169 :
"ぱん"どら"":2000/11/02(木) 11:53
>162
> 何故ならそれは、「おじさまのおでんはうまい」ことが「おじさまの
> おでんはうまい」ことの「原因」であるから?(そんな訳ないよ!)
わたし思うんですけど,原因結果っていうのはあくまで条件法を時空に適応
したときを言うんじゃないかっておもいます。
1+1=2で2の原因が1+1ってことないでしょう。
論理学はじくうをこえているのです。チャオ♪
>166
>(ウ):(ア)と(イ)のどっちだっていうような事が問題になっているのか?
>ちなみに、女子大生がいないのは俺のおでんが旨くないからか?
>返答によっちゃぁ俺にも考えがあるが・・・
ふふふ、おじさまってほんとはしってらっしゃるのね。
わたしは演算上の問題だと思います。
A @` B @` A⊃B
@ 1 1 1
A 1 0 0
B 0 1 1
C 0 0 1
女子大生がいない、のはAとCのケース。
A女子大生が集まらないのは、うまければ集まる,がうそかCおじさまのおでん
はうまくない、でしょう。
>167
公理系が成立する原則は1.独立性 2.完全性 3.無矛盾性だったとおもいますが
最低でも無矛盾性が成立してなければ其の公理系はつかいものにならなかった
ですね。
ユークリッドとN進法の比較は意味論的には異なっているかもしれませんが
構文論的な違いという点で両者おなじものといえないでしょうか?
170 :
3:2000/11/02(木) 23:03
>>168 >「A⊃B」
>もしAが真ならば、それと同時にBも真。
>てことだから、かならずしも「原因」てことじゃないと思うけど。
AからBが「導出される」という事とAとBが「同時に真」であるという
事は異なる内容であり、あくまで「AならばB」がその他の条件によらず
「真」である、という事では?
>>161 >数学と違って論理学では
>A「おじさまのおでんはうまい」
>B「女子大生がたくさんいる」
>なんていうの命題を単位にします。
ならば、
>>169 >1+1=2で2の原因が1+1ってことないでしょう。
において何が命題なのでしょう?命題の対象は何らかの事態ですから、数で
はないのは当然でしょう。そして、「すべての事態は原因あるいは根拠を
もつ」と考えることが科学的あるいは哲学的反省です。
「事態Aがある場合、(時間をおいて)必ず事態Bがある。」からこそ
「命題Aが真の場合、(時間によらずに)必ず命題Bを導出できる。」が
形成される。何故なら「事態Aは既に事態Bを含んでいる」からです。
(論理の適用ではなく、事態の本質記述だと言うこと。)
…さて、既に「同じ文」、「同じ命題」、「同じ表現」、「同じ体系」、
「同じ真理値」、「同じ意味」と6種類もの同一律が登場している。
同一律が正しいかどうかより先に、論理学では何を同一律と呼んでいるので
しょう?
171 :
plpl:2000/11/02(木) 23:08
172 :
ぱん"どら":2000/11/04(土) 22:50
>>170 「一に一を加えた」をひとつの事態Fとする。二をひとつの事態Gとする。
要素xが一に一を加えたものならば、xは二である。
この場合,∀x(Fx⊃Gx)は真。
>「事態Aがある場合、(時間をおいて)必ず事態Bがある。」からこそ
>「命題Aが真の場合、(時間によらずに)必ず命題Bを導出できる。」
が形成される。
ある村へ行ってそこの住人の名前を聞いたら「わたしの名は佐藤です」
と返事がかえってきました。隣へ行って聞いたらまた、佐藤さんでした。
次もまた佐藤さんでした。100人目も佐藤さんでした。
これは(時間において)、確認されたことです。
きっと101人目も佐藤さん?
当然,!これは (時間によらずに)が形成されたことですから・・・。
173 :
3改めOFW:2000/11/05(日) 15:35
>>172(ぱん"どら"さん)
(固定HNに変えました。あちこちでぶつかりそうなので。)
>「一に一を加えた」をひとつの事態Fとする。二をひとつの事態Gとする。
えらい事態になってきた。どうも「事態」という言葉の用法が食い違って
いるのが齟齬の理由らしい。そして、「事態」という言葉の元に論理学者
が何を考えているのかも、何となく分かってきました。ばんどらさんが
言われる「ひとつの事態」とは私の言葉では「ひとつの表象」と呼びます。
そして、「論理的空間において真なる事態が存在している」とは、
「事態の本質(事柄)が対象的に思考されている」と言います。私の言う
事態とはあくまで時空の元にある実在的存在であり、それは変化するもの
です。つまり要素xとは「なんらかの表象された対象」ということでしょ
う。たとえば、「二」は変化しないから、表象(正確には概念)であり、
事態とは呼ばない。事柄とは「可能的な事態の集合」と言っても良いが、
時空の中で発展する統一的な存在です。
>次もまた佐藤さんでした。100人目も佐藤さんでした。
>きっと101人目も佐藤さん?
これは帰納的推論です。
>当然,!
ちょっと、待った!その前に、「何故こうも佐藤さんばかりなのか?」と
思う(反省と呼びます)でしょう。そして、「そうか。この村は昔平家の
落人である佐藤何兵衛一家が住み着いた『佐藤一族』村なのだ。」という
本質的(類種的)同一性の判断が入ります。その前提の元に、
「『佐藤村には佐藤さんばかりいる』のは当然だ」という必然的(当然的)
演繹(トートロジー)が可能になる。帰納−演繹によって、初めて
>(時間によらずに)が形成されたことですから・・・。
と言えるようになります。しかしそれも仮説に過ぎない。何故なら、
「佐藤一族など無かったし、事態は(非常に稀な)偶然に過ぎない」
という事もあり得ますから、あくまで蓋然的なものだからです。
174 :
logician's red:2000/11/05(日) 21:04
また来ました。そしてまたログが流れてる。ついていけるかな…。
ひょっとしてこのスレ結構はやってる?
>ぱん"どら"氏
体系LP?LKは有名だが…。もしや野矢の本をみて書いているのではあるまいな。
>∃x(Gx⊃Fx)ね。 これってどういう意味でしょう?
>これはB「うまいもののなかにおじ様のおでんがある」ってこと。
>「あるうまいものはおじさまのおでんよ」っていってもいいわ。
「∃x(Gx→Fx)」は
「もしそれがうまいものであればおじさんのおでんである、ようなものが存在する」
と翻訳されて、
「あるうまいものはおじさまのおでんよ」は「∃x(Gx∧Fx)」
と翻訳されるんだぞ。
そして「∀x(Gx→Fx)」から「∃x(Gx∧Fx)」を導く事はできない。
私は最初この事実を知ったとき「え!ダメじゃん」と思った。
でも解決策があった。
「∃xGx∧∀x(Gx→Fx)」から「∃x(Gx∧Fx)」を導く事は可能。
これが日常言語の省略を埋める存在措定だ。省略って便利だけど不便。
命題論理の同一律は「A→A」または「A⇔A」を指す。
「同じ体系」といったときは「同型の体系」といった意味でつかうことが多い。
「同じ表現」は、これはまったく見た目が同じ記号といったことだろう。
AとAは同じ表現。AとBは異なる表現だが論理的同値かも知れないとかね。
それと、公理は仮定だが公理論は仮説じゃないぞ。
「Aを仮定してBが導けるなら、Aという仮定なしにA→Bを導いてよい」
公理論はA→Bという形になっている。Aは公理、Bは定理。
公理の正しさを疑うのは結構だが、仮定と結論からなる全体は認めて
いただかなくてはならない。
よくA→Bの真理表が納得できないという方がいるがそのような方は
だいたい結論Bの真理値と全体A→Bの真理値を混同している。
ましてや仮定Aの真理値と全体A→Bの真理値を混同するなどということは無きように。
175 :
logician's red :2000/11/05(日) 21:47
私はよく省略されます。もうあきらめました。省略って便利だけど不便。
さてさて、同一律の話ですがよく小説とかで、
「ぼくはぼくじゃないんだ」という表現がでてきます。
仮に「a≠a」で表しましょう。(指示詞がどうのこうのは今はヤメトイテ!)
これは等号の公理に反しているので恒偽な式です。
ところが「小説の中での文は小説の中では絶対的な真理だbyエーコ」
だそうですし、OWF氏はこういったことに疑いをもっておられるようだし。
日常言語では多義的な言葉をよく用いますが、
「A→A」が偽になる場合は確実に最初のAと次のAの意味が違います。
幾らもとは多義的な言葉であっても
偽になるような場合は一義になっています。ただしそれは
同一の表現に異なる要素を割り当てたことになっているだけです。
ところで、自由変数と束縛変数を定義するのに
「記号の出現」という概念を使う方法があります。(林先生の『数理論理学』参照)
記号の出現とは「論理式の中に現れる位置よって区別された記号」
というもので、
同一の記号であっても現れる場所がことなれば出現としては違うもの
になります。
出現をはっきり取り出したいときは論理式中の「同じ記号」の出現に
左から番号を振ります。
「a≠a」だと「a1≠1a2」。
こうするとaは同じ記号だけど、左辺のaと右辺のaは
出現としては違うんだということがわかります。
このように一見、同一律が否定されるような場合も
記号を出現レベルでみたら別におかしくないということもあります。
つづく。
176 :
logician's red:2000/11/05(日) 23:17
普通の意味論では、同じ記号に、異なる要素を割り当てるなんてことは
しません。論理学は定理を生み出す理論を構成するという目的が強いので
学問の常識!大前提!である「用語の一義性」を無視するわけには
いかないのです。しかし、日常言語を相手にしようとすれば、
こういった意味論?も必要になるでしょう。
普通は定数記号にドメインの要素を割り当てますが
定数記号にその出現を割り当て、それからその出現にドメインの要素
を割り当てるような解釈といったところかな?
しかし、「a=a」は等号付き古典二値意味論においては、
確実に恒真式であるといえます。
しかし、意味論って言葉はそのような学問分野があるのか?と
誤解を招きやすいし、言語学からの借用語なのでどうも使うのに
躊躇する。やっぱり「構造」か?
「解釈系」というのも好きなんだけど、あんまりメジャーじゃないし…。
177 :
ぱん"どら":2000/11/05(日) 23:43
>「∃x(Gx→Fx)」は
>「もしそれがうまいものであればおじさんのおでんである、ようなものが存在する」
>と翻訳されて、
>「あるうまいものはおじさまのおでんよ」は「∃x(Gx∧Fx)」
>と翻訳されるんだぞ。
は〜い、ロジシャンのおじ様。
でも、わたしこう言ったの、
>> ∀x(Fx⊃Gx)だったら@「おじさまのおでんはみんなうま〜い」ってなります。
スタンダードバージョンで行きますと,「すべての人間はある哺乳類である」と
同じレベルで構成したのです。
F:人間 G:哺乳類
「∃x(Gx∧Fx)」 は「ある哺乳類であるものはある人間でもある」ってなって
しまいませんこと?
てことは人間であって,哺乳類でないものも保証するってことになってしまい
ませんこと。????
>公理の正しさを疑うのは結構だが、仮定と結論からなる全体は認めて
いただかなくてはならない。
は〜い。
>よくA→Bの真理表が納得できないという方がいるがそのような方は
>だいたい結論Bの真理値と全体A→Bの真理値を混同している。
おじさまあつくなってる。
>ましてや仮定Aの真理値と全体A→Bの真理値を混同するなどということは無きように。
わかりました〜。
ひとつお聞きしたいんですが∃xGxが真、てどんな状況でしょう。
「Gがある」でいいですか?
それからA⊃Aは具体的事例で単体しか思いつかないんですが、自己を含む集合
を考えるとき「すべてのeはEであり、Eはすべてのeである」がいえれば
いいですか?
あっ、お話中でした。すみませ〜ん。
あOFWさま、すみません。
全称汎化は定項の出所のありかを見極めなければダメですね。
Fa→∀xFxでaは限定なしの項をえらぶ、とします。
>つまり要素xとは「なんらかの表象された対象」ということでしょ
>たとえば、「二」は変化しないから、表象(正確には概念)であり、
> 事態とは呼ばない。
お話するときは気をつけるようにします。
う〜む、管理人さま雲黒歳でおこっているか・・・、しんぱい。
178 :
logician's red:2000/11/06(月) 18:29
>F:人間 G:哺乳類
>「∃x(Gx∧Fx)」 は「ある哺乳類であるものはある人間でもある」ってなって
>しまいませんこと?
「∃x(Gx∧Fx)」はまず「哺乳類でありかつ人間であるようなものが存在する」
と翻訳される。そのように存在するものは、
「ある哺乳類は人間である」といってもいい。
「ある哺乳類はある人間である」といっても意味は同じだろうからまあいいか。
逆に「ある哺乳類は人間である」のなら
「哺乳類でありかつ人間であるようなものが存在する」といってもいい。
この翻訳は同値なのだ。だって形式化したら同じ形なんだもん。
>てことは人間であって,哺乳類でないものも保証するってことになってしまい
>ませんこと。????
その主張は「∃x(Fx∧¬Gx)」と翻訳される。
試しに「∃x(Gx∧Fx)」から「∃x(Fx∧¬Gx)」が証明可能かどうか
タブローなりなんなりで確かめてみるといい。証明できないから。ゆえにそんな保証はされない。
あら?野矢の本にはタブロー出てなかったかな?
最近、『論理学をつくる』という超デカイ本がでたから、それには載ってる。
タブローの体系は「ある命題から別の命題が証明可能でない」ことを
みるには非常に便利だ。
他の体系だと、ひょっとして自分の証明作りが下手だから証明できないのでは?
という疑問が残るがタブローだとそんなことはない。
ちなみに「∃x(Gx∧Fx)」と「∃xGx∧∃xFx」は同値ではないので
気をつけよう。さらに「∃xGx∧∃xFx」から「∃x(Fx∧¬Gx)」
を導く事もできない。
>ひとつお聞きしたいんですが∃xGxが真、てどんな状況でしょう。
>「Gがある」でいいですか?
やっぱり、翻訳の規則に関する知識が不足しているようだ。補ってあげよう。
「∃xGx」は「性質Gxを満たすようなxが存在する」。
簡略して「あるxはGxを満たす」。他にも「少なくともひとつの…」といってもいい。
そして「∃xGx」が真かどうかはどのようなモデルをとるかによる。
つまりxがどのような論議領域に所属するのかとかPxの解釈を定めてやらないと
決まらない。
179 :
ぱん"どら":2000/11/06(月) 22:36
>「ある哺乳類はある人間である」といっても意味は同じだろうからまあいいか。
白状します。
わたし述語論理、まだよくわかってません。
で、おせーて。
わたしの考えって、こんなところです。
「ある哺乳類はある人間である」を分解すると、「哺乳類」「人間」は概念。
概念の区分には全称と特称がある。
でそれならばある哺乳類って言うのは哺乳類の部分なんだからこれを
a1とすると、a1+a2が「すべての哺乳類」とするわけです。
人間もある人間はb1で、b1+b2が「すべての人間」とするわけです。
とすると、上の命題はa1=b1としか言ってないのだから、もし正確にいうの
なら「ある哺乳類はすべての人間である」って言わないとだめじゃないかっ
ておもうわけ。
う〜む、やっぱり「ある哺乳類はある人間である」っておかしいわよ。
>他の体系だと、ひょっとして自分の証明作りが下手だから証明できない
>のでは?という疑問が残るがタブローだとそんなことはない。
ほんと?まがいものじゃないでしょうね。
軍団の忍びとしては下手な報告すると、上様にお手討ちにあいますので・・・。
>そして「∃xGx」が真かどうかはどのようなモデルをとるかによる。
すてき!!「存在」って議論領域をきめてやらないとだめなんでしょう?
でこれな〜に?
>「哺乳類でありかつ人間であるようなものが存在する」といってもいい。
こういったら、この命題の議論領域決まってないでしょう。
ここではxはAでありかつBであるって言ってるだけよ。
∃xGxにおいてG≡(A∧B) これはモデルが未決定である。
つまり真偽判定できないはず。それでも「人間が哺乳類である」ってのが
真実であるのは哺乳類が人間の議論領域になっているからで〜す。
つまり、「哺乳類に人間であるようなものが存在する」が正解です。
ロジシャンのおじさまのいってること、矛盾してるわ。ダメねぇ。
180 :
野次馬:2000/11/06(月) 23:12
こんなんでどう?
P(x) xはPである。
例「哺乳類(猫)」 猫は哺乳類である。
∃x〜 〜なxが存在する。
例1「∃x哺乳類(x)」 xが哺乳類であるxが存在する。
例2「∃x(哺乳類(x)∧人間(x))」 xが哺乳類かつxが人間であるxが存在する。
∀x〜 全てのxについて〜である。
例1「∀x神の創造物(x)」 全てのxについてxは神の創造物である。
例2「∀x(人間(x)⊃死ぬ(x))」 全てのxについてxが人間であればxは死ぬ。
181 :
@:2000/11/07(火) 01:03
電卓が肥った奴に関する事なら少し書けます。
>>156 >同一律が成り立たないようなモデルについて考えることは
>論理学者にとって意味があるかないか。
>確か非単調推論 (non-monotonic reasoning)とかいったはずなんですが。
意味があるかどうかは論理学の方に考えて頂くとして、
人工知能、というか定理証明機の分野においては、一階述語論理がその基盤になってます。
で、非単調に関しては、ちらっと見る限りでは、「面白い研究がなされたが、大勢に影響なし」のようです。
非単調の方がエレガントな場合もあるようですが、
まあ、一階述語論理でも不便は無いみたいですね。
コンピュータは使えてナンボなんで人工知能というか、
述語推論機方面も何とか使えるモノにならんかと苦労しているみたいです。
でも、実用性と論理学って相性悪いと思う。
だって、「である」なんて誰も実用的に見て興味無いから。
みんな興味あるのは「であれ!」だもの。
182 :
@:2000/11/07(火) 01:05
電卓が肥った奴に関する事なら少し書けます。
>>156 >同一律が成り立たないようなモデルについて考えることは
>論理学者にとって意味があるかないか。
>確か非単調推論 (non-monotonic reasoning)とかいったはずなんですが。
意味があるかどうかは論理学の方に考えて頂くとして、
人工知能、というか定理証明機の分野においては、一階述語論理がその基盤になってます。
で、非単調に関しては、ちらっと見る限りでは、「面白い研究がなされたが、大勢に影響なし」のようです。
非単調の方がエレガントな場合もあるようですが、
まあ、一階述語論理でも不便は無いみたいですね。
コンピュータは使えてナンボなんで人工知能というか、
述語推論機方面も何とか使えるモノにならんかと苦労しているみたいです。
でも、実用性と論理学って相性悪いと思う。
だって、「である」なんて誰も実用的に見て興味無いから。
みんな興味あるのは「であれ!」だもの。
183 :
食いだおれさん:2000/11/07(火) 05:10
>175
記号の出現?
いまいち勉強してないからわかんないけど、あの文を見る限り、
出てきた記号に番号を振るって事でしょ?
それって別物として考えるってこと?
それなら、最初の式と、番号を振った式が別なものになって
変なことにならないか。
184 :
ぱん"どら":2000/11/07(火) 20:35
>>180 >∃x〜 〜なxが存在する。
>例1「∃x哺乳類(x)」 xが哺乳類であるxが存在する。
>例2「∃x(哺乳類(x)∧人間(x))」 xが哺乳類かつxが人間であるxが存在する。
存在は連言ではないとおもいます。
哺乳類に0より大きな数、@`人間に√2を置換してみます。
0より大きな√2であるようなxが存在する。
一見@`自明に見えるこの命題も、議論領域を有理数に当てはめると@`偽になります。
現在のフランス国王、はげを当てはめると無意味命題のスタンダードバージョン
になってしまいます。
有効なシンタックスであればいかなる変項も適合できるはずではないでしょうか?
セマンティクスに頼らざるをえないものであるなら、どこか欠陥があると思うのは
あさはかでしょうか?
185 :
野次馬:2000/11/07(火) 21:59
>184
∃x∈R(x^2=2)は真である。
∃x∈Q(x^2=2)は偽である。
うむ、その通りである。だからどうした?
何が言いたいのだあなたは? ぜんぜん分からん。
186 :
logician's red:2000/11/07(火) 22:11
>175
>それなら、最初の式と、番号を振った式が別なものになって
>変なことにならないか。
あのー、a=aが偽になるような場合は
最初のaと次のaの意味が確実に違っているというのはよろしいか?
それをモデル論的になんとか解釈(割り当て)しようというので
こういう話をしたんだが。
実際、反例なり矛盾しているぞという証明なりを出していただくと
ありがたい。
(そもそも定数記号とそれに割り当てられるドメインの元は異なるもの。)
> 179、184
イタイね〜、君。マジかネタかしらんけどいずれにせよイタイよ。
でもまじめにおはなししてあげよっと。
>でそれならばある哺乳類って言うのは哺乳類の部分なんだからこれを
>a1とすると、a1+a2が「すべての哺乳類」とするわけです。
+とか=とかいった記号を普通の自然数論以外でつかうときには、
ちゃんと定義しようね。あと君は「AであればBである」を「A=B」と
書いてしまうような人間だからそれは気をつけよう。
単なる条件と必要十分条件を混同しないように。
>ほんと?まがいものじゃないでしょうね。
>軍団の忍びとしては下手な報告すると、上様にお手討ちにあいますので・・・。
ネット上の情報を信じるも信じないもアナタ次第。
こんなとこに忍んでないで普通の論理学の教科書に忍べばいいのに。
軍団ってひょっとしてG軍団か?だとしたらこわいな。
>こういったら、この命題の議論領域決まってないでしょう
なんだ、君がいいだしっぺの例だから生物全体の集合とかを想定してん
のかと思ったよ。
>ここではxはAでありかつBであるって言ってるだけよ。
いつのまにFとGがAとBになったんだ?
しかも「あるxは、AでありかつBである」だってーのに。
勝手に「ある」を省略しないように。∀か∃かわかんなくなるだろう。
187 :
logician's red:2000/11/07(火) 23:21
つづき
>∃xGxにおいてG≡(A∧B)
なんだこりゃ?「において」ってなんだ?
「∃xGx∧∀x(Gx⇔Ax∧Bx)」。こう書きたいの?
>つまり真偽判定できないはず。それでも「人間が哺乳類である」ってのが
>真実であるのは哺乳類が人間の議論領域になっているからで〜す。
哺乳類が人間の論議領域になっているって意味不明なんだけど。
しかも「真偽判定できないはず」のものが「真実である」のは、
えーっとなんていったけ?そういう状況を…。
そういう状況を矛盾しているといいます。
真実であると主張できれば真偽判定ができることになる。
真偽判定ができることと真偽判定ができないことは互いに矛盾する。
したがって、あなたは矛盾しているんですよ。
声高に「あなたは矛盾しているよ。」とだけいっても、無駄無駄無駄。
なぜ矛盾しているかを論証してくださいな。
>つまり、「哺乳類に人間であるようなものが存在する」が正解です。
どこがつまり?
そのように集合論風の言い回しをするならベン図でも書いてみれば?
集合論的に考えても、この場合AはBの真部分集合ではあるが、
存在が主張される範囲ははっきりとAとBの共通部分になっている。
それを述語論理風に書かけばいい。
ん?そんなことが問題じゃないな。
つまり君は「∃x(Gx∧Fx)」の翻訳が「ある哺乳類は人間である」
は間違いで「哺乳類に人間であるようなものが存在する」が正解
だと言ってるようだが、この二つは同じことをいってる?とか思わない?
なぜ「ある哺乳類は人間である」の方は間違いなんだ?説明してくれ。
さらに「ある哺乳類は人間である」をどう記号化するのかも説明してくれ。
188 :
ぱん"どら":2000/11/08(水) 00:27
>>185 原始命題はA,B二つの概念より構成されているがおのおのにセマンティクス
が与えられた時点でその記述式は固定されるのではないかと考える。
A:人間 B:哺乳類 が与えられたとき「AはBである」は正確には
「すべてのAはあるBである」の記述しかできない。
これを仮に∀A=∃Bと表現してみると,セマンティクスが与えられていない状態
でこの記述方式で可能なケースは
@∀A=∀B
A∀A=∃B
B∃A=∀B
C∃A=∃B
この場合、A、Bには内包外延の関係が前提となっている。
すなわち、A,Bが任意に選択された場合、両者のセマンティクスを無視して
原始命題を構成することはできない。
現在使用されている述語論理の記述式は、それが原始命題を扱う場合、そこに
あらわれる関数においてなんらかの宣言文が必要なのではないか?
∃x(Fx∧Gx)の記述は上記Cのケースのみ可能なのではないか?
すなわち、A:人間 B:子供 のような場合。
よってA:人間 B:哺乳類 に関しては不適当ではないかと考える。
ないし、なんらかの条件式を加えることにより、この式が成立するか否か?
以上の推論が妥当なものか否か知りたい。
189 :
微熱症患者:2000/11/09(木) 02:11
久しぶりに見に来たら、何かすごい話になっていますね。
とりあえず「ある人間は哺乳類である」という文の解釈について私の意見を書いて
おきます。
まず「ある人間」という表現は、個人を指します。ソクラテスか聖徳太子か、はた
またクレオパトラか、誰かはわからないけれど、とにかく、「人間である」という
特徴をもった誰かです。
で、その人について「哺乳類である」と主張しているわけですが、もちろん個人が
人類であれ哺乳類であれ両生類であれ「類」という言葉でひとくくりにされる集団
と同じはずはありません。ここでは、「哺乳類である」という特徴をもっている、
という意味に理解すべきでしょう。
すると、件の文は「ある(人間である、という特徴をもったもの)は、(哺乳類で
ある、という特徴をもったもの)である」と言っていることになります。要するに
二つの特徴を兼ね備えたものがあると言っているわけです。
あるものが、人間であるという特徴をもっていることをFx、哺乳類であるという
特徴をもっていることをGxと表すと、件の文は∃x(Fx∧Gx)と表せます。
190 :
食いだおれさん:2000/11/09(木) 02:37
>186
なんとなくわかった。
ただ、a=aが偽になる場合とかいわないで、
最初っから、aを区別しておけば良いんじゃないか?
a=aを偽とした時に、番号をふって考えるてのは、
なんか後付けみたいで気持ち悪い。
それで反例ていうと難しいけど、
「a≠a」っていうのと、
「a1≠a2」ていうのは同値なの?(番号のつけ方違うかも)
あきらかに違うこと言ってる気がするけどな。
191 :
考える名無しさん:2000/11/09(木) 03:07
>>156 同一律が成立しない論理体系なんて、第二次大戦前に考案されてるぜ。
レシニェフスキーの Ontology なんかは、同一律が成立しない「等号」
をもっているんじゃないか?
実際、name に一般名辞を加えるような拡張をすれば、同一律を認めるのは
苦しくなるからねえ。
192 :
野次馬:2000/11/09(木) 03:32
>188
そもそもあなたがしようとしていることを私は知らぬ。そこで
疑問点
1.なぜあなたは自然言語に論理学における二値論理を当てはめようと
しているのか。自然言語における論理は経験則や人による概念に
大きく影響され、また二値よりもむしろファジーである。
それに対し論理学自体は実世界から(ある程度)独立した体系である。
2.実世界(或は自然言語)を論理学(とくに二値論理)で分析する
ことにどのような意味があるのか? そんなことは可能なのか?
193 :
ぱん"どら":2000/11/09(木) 19:26
>189
あなたの言ってることって,残念だけど
現在のフランス国王ははげである、と区別がつきません。
194 :
ぱん"どら":2000/11/09(木) 19:30
>>192 >それに対し論理学自体は実世界から(ある程度)独立した体系である。
いまのところ、無理やり追い込んでいるのかな?と考えることもあります。
それでも、あなたのいう、自然言語とか経験則の世界とは、やはり実在
と考える事実の世界でしょう。
でも其の世界で、あなたが燃え盛る火から灰でなく一片の紙切れがでて
きたとしたら「火が燃える、ならば 紙切れがでる」という条件法を容易に
受け入れるでしょうか?
おそらく、それまで吟味した自らの規則においてトリックを見破ろうとすると
思います。やはり、矛盾律は受け入れないと思います。
むしろ、あなたにそうした非合理的サンプルをご提示いただけるでしょうか?
>2.実世界(或は自然言語)を論理学(とくに二値論理)で分析する
>ことにどのような意味があるのか? そんなことは可能なのか?
アウグスティヌスだったでしょうか?
「非合理ゆえにわれ、信ずる」とかいいました。
これはA、Bの選択において普通はAを選ぶところBを選択するような行為を
自らの意志で決定することかと思います。
このケースは一概に一言では説明できないのかもしれませんが、おそらく
Bの選択において「我良し」をめざす宣言を記したものと思います。
「我良し」は現在ある自分と可能な世界に対しての良し悪しの判定に基づくと
おもいます。しかしそれら命題は変換が可能なのです。
ゆえに、従来の体系からみると非合理と表現されるのでしょう。
ゲテモノ趣味と笑われてしまいますが、わたしが見るのは暗黒の谷間。
愛する家族が目の前で陵辱され死を与えられるさまを想像できますか?
肉体は滅びてもかの苦痛のうごめきは消えることがありません。
わたしはそんな領域に引き込まれています。
憎悪,恐怖、絶望の世界は論理で割り切られなければなりません。
ちょっと、おかたくなっちゃったけど感情論理学の世界へいらして〜♪
195 :
微熱症患者:2000/11/09(木) 23:58
>>193 >あなたの言ってることって,残念だけど
>現在のフランス国王ははげである、と区別がつきません。
「ある人間は哺乳類である」と「現在のフランス国王ははげである」には
大きな違いがあります。
前者は唯一性条件を含意しない(話題となっているのが一人とは限らない)
が後者は通常唯一性条件を含意する(「現在のフランス国王」は二人以上
はいない)ものと考えられます。
ただ、定冠詞で唯一性条件を明示できる英語とは違って、日本語はあいま
いですから、「現在のフランス国王ははげである」を唯一性条件を含意し
ないものとして読むことも可能です。
すると、「ある人間は哺乳類である」と同様に分析して、「ある(現在の
フランス国王である、という特徴をもったもの)は(はげである、という
特徴をもったもの)である」と書き換えることができます。
あるものが、現在のフランス国王である、という特徴をもっていることを
Fxと表し、はげである、という特徴をもっていることをGxと表せば、
「現在のフランス国王ははげである」は「ある人間は哺乳類である」と同
じく、∃x(Fx∧Gx)と表すことができます。
その意味で両者は確かに区別がつきません。ですが、それが残念なことだ
とは私は思いません。はげである、という特徴と、哺乳類である、という
特徴は相当異質なものです(前者は偶有的性質、後者は本質的性質と考え
られます)が、差し当たり通常の推論の場では違いを無視して取り扱うこ
とができるので。
196 :
logician's red:2000/11/10(金) 04:20
>193
>ただ、a=aが偽になる場合とかいわないで、
>最初っから、aを区別しておけば良いんじゃないか?
これについては、
「実は日常言語も十分に形式言語の性質を満たしてるのでは?」
という話と関連付けて考えた。
もちろん使う記号が日常言語の言語記号なだけで制限付きの日常言語
ではある。
つまり、日常言語といっても字面だけ見れば十分、記号列なので、
日常言語の文を論理式とみなしてみる。
「僕は僕である」といったとき、「僕」という記号は同じ記号なので
同じ意味が割り当てられるハズだが、
日常言語ではこの文が偽になる場合がある。
そこで必要な意味論、解釈は…、ということであの話になった。
具体例があるときは、先に区別しておいて方が確かに楽だが…。
それでは日常言語を形式言語とみなしたことにはならない。
先に区別した方が楽だが、区別しないことが禁止されているわけ
でもない。それにこの話はもちろんフツウの形式言語にも当てはまる。
>「a≠a」っていうのと、「a1≠a2」ていうのは同値なの?
これは前にも言ったが同値でなくて結構なのである。
「a≠a」は論理式だが、
「a1≠1a2」は論理式ではなく、論理式の解釈なのだから。
>191(横レス?)
>同一律が成立しない論理体系なんて、第二次大戦前に考案されてるぜ。
私の話は形式系はフツーのやつを使って、意味論レベルで
同一律の恒真性を成り立たなくする話なんでさしあたって関係ないな。
(レシニェフスキーの Ontologyがどんなものかは知りません。
関係あったらおせーて)
156でも、そのような「モデル」という言葉を使ってあるが、
どういう意味のモデルだろう?
197 :
Mr.18:2000/11/10(金) 05:06
>>192 >しているのか。自然言語における論理は経験則や人による概念に
> 大きく影響され、また二値よりもむしろファジーである。
真といってもいろいろあるから、そう言いたい気持ちは分かるが、
結局「真偽」のどちらかに色分けして議論する現実から目を背け
ないでほしいもんだな。不定な情報を使えないものとして省いて、
その状況下で使える情報のみをコレクションすればその中では
二値に色分けできるっつうことがわかんないのかにゃ?
そうでなく、ファジーだ、どうだかわからないと言いたきゃいいな。
それで有意義な議論や推論ができるなら、してみろや。
#まあ、出来ないことはないが、学術的な議論はできねーぜ。
198 :
OFW:2000/11/10(金) 22:17
(どもです。いやぁ、盛況になってきましたね。)
議論が錯綜する前に、私の考えを少し整理します。形式論理学(述語論理、
記号論理等の違いはこの際ご容赦)にはいくつかの問題があるが、重要な点
に絞ると
1.「あるx」と「すべてのx」を「存在量化」と呼んで単なる量的な違い
であるかのように取扱うこと。
集合論とは違い、実在と本質の区別は量的な違いではありません。
「あるx」とは実在的なもの、区別されたものを表現します。一方、
「すべてのx」は実在しない。それは「xそのもの」という本質概念を
(反照的な形で)表現しているのです。「すべて」とは「互いに異なる
すべての実在において共通なもの」であり、すなわち「自己と同一なもの」
という一者(本質的、類種的同一性)を表現しています。
2.日常的な判断形式「xxはXXである」における主語と述語の機能的
(内容的)区別を無視すること(むしろ主語を消去すること)
主語は対象を指示し、述語はその概念を表現します。たとえば、
「私は私」という場合、「この私は他の私ではない、自己同一的な存在」
ということであり、「私自身」と同義です。(個体的、主体的同一性)
単に数的等価性a=aではないのです。
3.概念(表象)と概念の対象(実在、本質、事柄)とを混同すること
>ある哺乳類って言うのは哺乳類の部分なんだからこれを
>a1とすると、a1+a2が「すべての哺乳類」とするわけです。
概念を「部分に分解する」などという恐ろしいことはできないし、分解
できるのは常に実在的なものです(物質の可分割性と観念の不可分割性)。
199 :
OFW:2000/11/10(金) 22:19
(続き)
4.存在者を記号に変えてしまうこと
平叙文の主語とは対象を指示するのであり、決して性質ないし属性では
ない。「述語論理」とは主語を消去して、表象された存在xに変えるもの
です。そしてそれはすべてを記号あるいは名前にしてしまう。記号とは
何よりも「存在の代わり」でしょう。代理品ではなく、原物を求めよう。
5.表象のみで真偽を云々すること
真理とは概念とその対象との一致のことです。指示された対象がその概念
に相応しいかどうかが真偽の吟味です。実在に係わりなく、真偽を云々す
ることはできない。実在判断を保留しながら、表象を「真なるもの」と呼
んで、こっそりと観念論を導入する。ここまで来ると、イデオロギー的な
偽造を感じさせる。「『貨幣は貨幣』は真である」といった具合です。
200 :
ぱん"どら":2000/11/10(金) 23:43
>>195 >その意味で両者は確かに区別がつきません。
でしょう。
問題はロジシャンおじ様のところで話したAとBのセマンティクスにかかわる
ことです。AとBがかかわって其の命題が真偽判定可能な対象となるには
あなたのいう、偶有的属性,本質的属性がないとだめなのです。
つまりAがBに対して∀でかかわるのが本質的、∃でかかわるのが偶有的
っていうわけ。
もち、人間は∀をもって哺乳類にかかわるのです。両者は属性というセマン
ティクスにおいて一致しています。
ところで現在のフランス国王は、まず「現在の」という連体詞をつけた時点で
おかしくなるのです。
これは丸い四角というのと同じ。xはまるく、かつ四角といえば両者は属性を
異質にしています。
「いま、フランスに王様はいますか?」って聞いたら「いません」としかいえな
いでしょう。これは時空という概念、いま、とフランスの王様が共通属性を持
ちえないといってるわけです。
論理学は此の辺のところきっちりわきまえなかったら、なにが真とか偽とか
いってるわけ?
>ですが、それが残念なことだとは私は思いません。
不摂生してるから熱が下がらなくてそんなこというのね、ダメねぇ。
201 :
考える名無しさん:2000/11/11(土) 01:27
すみません、傍観者ですが、今なにが対立点となっているか、わかりやすく教えてもらえませんでしょーか
シロートには何言ってんだかよくわからんのです
202 :
微熱症患者:2000/11/11(土) 01:37
>>198,
>>199(OFW氏)
ここで形式論理学の問題として挙げられている事柄は、私には形式論理学その
ものの問題というよりも、論理学を偏重する哲学的傾向の問題のように思われ
ます。
1から5まで全部を検討すると長くなるので2と4に絞って、少しコメントし
ておきます。
述語論理は、常に主語と述語の区別を無視するわけではなく、また主語を完全
に消去するわけでもありません。たとえば、「ソクラテスは人間である」とい
う文を「Fa」と記号化した場合、「ソクラテス」という指示表現と「人間で
ある」という述定表現の違いは保持されており、大文字と小文字で区別されて、
より明瞭に見てとれるようになっています。
記号化したときに主語が消去されてしまうのは、「人間は哺乳類である」のよ
うな場合(「∃x(Fx∧Gx)」と記号化すると、文法的主語「人間」が述
語Fで表されることになります)ですが、これは、
ソクラテスは人間である
人間は哺乳類である
ゆえに、ソクラテスは哺乳類である
という推論の妥当性を示すためには、このように記号化するのが便利だからで
す。上の推論はそのままでは二つの前提に共通項がない(第一の前提の「人間」
は「人間である」という述語の一部であり、第二の前提の「人間」は単独で主
語となっている)ので、
ソクラテスは人間であるという特徴をもつ
人間であるという特徴をもつものはみな、哺乳類であるという特徴をもつ
ゆえに、ソクラテスは哺乳類であるという特徴をもつ
と読み替えることで、二つの前提の結びつきを明らかにしようというものです。
「主語は指示表現であり、述語は述定表現であるのだから、両者はカテゴリー
を異にする」と考えて両者を峻別し続けるなら、主語「人間」と述語「人間で
ある」の関係を全く説明できなくなってしまうでしょう。
なお、上の推論を
ソクラテスは人間性を本質としてもつ
人間性は哺乳類性を本質としてもつ
ゆえに、ソクラテスは哺乳類性を本質としてもつ
と読み替え、「ソクラテス」、「人間性」、「哺乳類性」をそれぞれ「a」、
「b」、「c」と記号化し、あるものがあるものを本質としてもつことを、二
項述語「R」で表すなら、
Rab
Rbc
∴Rab
と表すことができます。関係Rが推移性を満たすことを付け加えれば、この方
法でも上の推論の妥当性を示すことができます。唯名論に好意を寄せる哲学者
は眉をひそめるかもしれませんが、論理学そのものがこのような記号化を禁じ
るわけではありません。
203 :
微熱症患者:2000/11/11(土) 02:09
>>200(ぱん"どら"氏)
どうもよくわかりません。
「セマンティクス」という言葉を私は、言語論や記号論の研究領域の一つ(言
葉や記号とそれが指示したり適用されたりする事物や対象の関係について研究
する分野)というふうに理解しているのですが???
それはともかく
>ところで現在のフランス国王は、まず「現在の」という連体詞をつけた時点で
>おかしくなるのです。
>これは丸い四角というのと同じ。xはまるく、かつ四角といえば両者は属性を
>異質にしています。
>「いま、フランスに王様はいますか?」って聞いたら「いません」としかいえな
>いでしょう。これは時空という概念、いま、とフランスの王様が共通属性を持
>ちえないといってるわけです
というのは、どういうことでしょう?
「現在のフランス国王」と「まるい四角」はどちらも指示対象が存在しないと
いう点では同じですが、指示対象が存在しない理由は全然違います。
後者が指示対象を持たないのは、まるい、という特徴と四角である、という特
徴が互いに排他的で、両者を兼ね備えた対象が存在することが不可能だからで
す(この不可能性が論理的不可能性なのか、別のレベルでの不可能性なのかは
議論の余地があると思いますが、ここでは問題にする必要はないでしょう)。
他方、前者が指示対象を持たないのは、単に現在のフランスが共和制だからで
あり、時空の概念とフランス国王であるという特徴が排他的であったり、矛盾
していたりするからではありません。
「現在のイギリス国王」は指示対象を持ちますが、時空の概念とイギリスの王
様(女王ですが……)とは共通属性を持っているのでしょうか?
さらによくわからないのは、
>つまりAがBに対して∀でかかわるのが本質的、∃でかかわるのが偶有的
>っていうわけ。
という箇所です。
量化子の使い方が独特なので意味が掴みにくいのですが、「すべてのAがBで
ある」なら、BはAにとって本質的で、「あるAがBである」なら、BはAに
とって偶有的だ、ということを仰りたいのでしょうか?
(これは誤りだと思います。必然性は普遍性を含意しますが、普遍性は必然性
を含意しないと考えるほうが自然なので)
204 :
微熱症患者:2000/11/11(土) 02:32
>>201 今、話題になっているのは、たぶん記号論理学に大きな欠陥があるのかどうか、
ということだと思います。
わかりやすく図式化すれば、OFW氏とぱん"どら"氏が記号論理学否定派で、
logician's red氏と私が記号論理学肯定派ということになりますが、それぞれ
の立場は異なっているので、必ずしも二つの陣営が真っ向から対立していると
いうわけではありません。
logician's red氏は私が見たところ論理学のかなり専門的な事柄に通じている
ようですが、私自身は大学の一般教養で論理学の講義を受講した程度で、あま
りテクニカルな議論にはついていけません。
OFW氏は弁証法的な立場から論理学批判をしているように見受けられますが、
ぱん"どら"氏の立場はよくわかりません。ただ、お二方とも、伝統的な形式論
理学についてかなりの知識をお持ちのようです。
205 :
食いだおれさん:2000/11/11(土) 02:51
>196
論理式の解釈ってのは、同値で変形しなくて良いの?
もし同値で変形しないのなら、何らかの条件式を
くっつけるのが普通だと思うけどな。
数学とか物理学とかだとそうするんじゃないか?
ああ〜、ログが増え過ぎだよ〜。
読み切れんよ〜。
取りあえずココ!
>>192(野次馬)
>1.なぜあなたは自然言語に論理学における二値論理を当てはめようと
>しているのか。自然言語における論理は経験則や人による概念に
>大きく影響され、また二値よりもむしろファジーである。
>それに対し論理学自体は実世界から(ある程度)独立した体系である。
>2.実世界(或は自然言語)を論理学(とくに二値論理)で分析する
>ことにどのような意味があるのか? そんなことは可能なのか?
この意見は、ほとんど私の信念と合致する。
ウィトゲンシュタインの忠告に素直に従うのなら、
自然言語を(現在の)形式論理学で分析しようというのは、
かなり無謀な試みといえよう。
私の場合、
「論理学を数学より強力な言葉として利用できるのではないか?」
という目で論理学を見ているわけなんだが、実際、
自然言語方面で論理学が理論化に成功したことってあるのかい?
207 :
代理いぬ:2000/11/11(土) 05:08
3さん改めOFWさん、又は201さんのようなROMの皆さんに捧ぐ、
「代理いぬの!形式主義の真髄講座」 (>_<)キャー
形式主義論理学とは、
"了承の枠組"を用いる非常に強力な推論の世界です。
この世界は、利用する者達に一定の枠組の了承を迫り、
その枠組の中では非常に強力な論証の手続きを与えてくれます。
しかし、この枠組に了承しない"不誠実な人"に対しては、
いかなる論証も用を成しません。
つまり、これを一種の道具として扱おうという人達に対してのみ、
この道具は説得的な力を及ぼすのです。
また、この論証の世界は徹底した形式の世界であって、
モデル(実世界や議論の領域)とは全くの無縁です。
形式主義論理学は、あくまで推論の道具であって、
これ自体が実世界へ何らかの解答を出すことはありません。
ゆえに、モデルとの関わりとなる意味の議論が別口なのです。
道具主義的な割り切りを踏まえて、現在の形式論理学があるわけです。
逆に言ってしまえば、伝統的論理学を進めていったその先には、
こうした非常に狭い、ストイックな論理学しか残らなかったということでしょう。
"矛盾"という壁にぶつかりながら思考錯誤を繰り返した果てに、
これだけしか利用できるものが残らなかったのです。
(あるいは、これで十分とも言えるのかもしれませんが)
私が、弁証法論理とやらをあまり信用のない目で見ているのはそういう理由からです。
208 :
代理いぬ:2000/11/11(土) 05:29
で、
ぱんどらくんが言っているような"議論の領域"というのは、
非常に重要なんだけれども、何度も言うように、
それはモデルとの関わりがあってはじめて問題になる事柄なので、
形式論理学それ自体とは別口です。
むしろ、ぱんどらくんに対して訂正を迫ったlogician's red氏の書きこみは、
どれも正しくて的確だったように思います。
209 :
ぱん"どら":2000/11/11(土) 17:56
>>198 【かめをいじめた浦島太郎問題】
赤い痴のイレブンこと
OFWさま:へ〜、浦島太郎って亀をいじめたんだってねぇ。
ぱんどら:うっそ〜、うらしまさんは亀をたすけたのよ〜。
風邪気味のおじ様:そんな話は無意味です。
>>
OFWさまの場合,浦島太郎は実在しなければならない。すなわち古代日本に
おいて実在した浦島太郎なる人物はFaである。彼は亀を助けたという事実Ga
により竜宮城でいい思いをした(が、後でいやな思いをした) Fa∧Ga。
ぱんどらの場合,
「浦島太郎は亀を助けた人物である」という命題において
其の命題が前提となり,
「亀を助けた人物のなかに浦島太郎なる人物が存在する」
がいえる。
すなわち、存在と繋辞は同値。
OFWさまのいう実在とは事実を想定していると思われますが、それらは「いつ
どこで、これこれの事象が観察された」を真とする概念の特性である。
ここでは@浦島太郎なる人物、A亀を助けた人物 二つの概念の結びつきを
語るだけで真偽判定の対象となり,B古代日本のどこそこで・・・は必ずしも
必要な条件ではない。
>記号とは 何よりも「存在の代わり」でしょう。代理品ではなく、原物を求めよう。
だったらおとぎ話の亀をいじめたウラシマって無意味ってこと?
それはやっぱり「うっそー」偽、としたほうが自然なような気がします。
210 :
ぱん"どら":2000/11/11(土) 18:13
>>208 >むしろ、ぱんどらくんに対して訂正を迫ったlogician's red氏の書きこみは、
>どれも正しくて的確だったように思います。
それって、天動説を中心とする教会の権威というモデルのなかでのおはなしでしょう?
211 :
おでん屋:2000/11/11(土) 19:36
なんだかよく分からねえが、
>>114の、
>論理学というのは、「ルール」(もしくは「ルール」を含めた言語刺激全般)という
>言語刺激群内の構造なり言語刺激間の関係性なり(=「論理」)をより精緻なものに
>することによって、より適切な行動随伴性を保証しようとする学問であると見なせる
>ように思われます。
ってあたりが鍵になってるように思えるが・・・。
違うか?
212 :
代理いぬ:2000/11/11(土) 22:46
>210(ぱんどら)
>それって、天動説を中心とする教会の権威というモデルのなかでのおはなしでしょう?
もはや、君の言わんとすることがさっぱりわからんが、
もっと単純な話だよ。
命題を論理式に通訳する段において、
logician's red氏が君に指摘したいくつかのことは全く正しかっただろ。
駄々をこねるのはよしなさい。
213 :
ぱん"どら":2000/11/11(土) 23:25
>>203 >「セマンティクス」という言葉を私は、言語論や記号論の研究領域の一つ
>というふうに理解しているのですが???
ごめんなさい、それほど厳密に定義しては使ってません。
ヒルベルトのビヤホールの幾何学における各定数・・・ぐらいの意味。
>指示対象が存在しない理由は全然違います。
指示対象というのは時空概念の特性を内包する、というそのことに過ぎないの
ではとおもってるわけ・・・。
よって存在と繋辞は同等に語られるべき。
>時空の概念とイギリスの王様(女王ですが……)とは共通属性を持っているのでしょうか?
イギリスの現在の女王はいまどこにいる、というのは問うことのできない問題でしょうか?
例えば√2を考えたとき、Xなる要素があってと考える必要はあるのでしょうか?
それを二乗したとき2になるような属性と、すべての数は自然数の比で表現される
という属性が排他的であるということ。
そのことが「それを二乗して2となる数は存在しない」という命題になるのでは?
もち、有理数という議論領域においてですね。
そもそも要素Xとはある議論領域において、そこに本質的属性を持ってかかわる
同位概念の集合にほかならず、厳密に定義すれば偶有的属性を持ってかかわる
ような要素も想定できないわけではないのでは?
まったく共通属性を持ない概念を否定子で反転させてかかわらせたのがφ
空集合ということでいかが?
>「すべてのAがBである」なら、BはAにとって本質的で、「あるAがBである」
>なら、BはAにとって偶有的だ、ということを仰りたいのでしょうか?
そうです。
>(これは誤りだと思います。必然性は普遍性を含意しますが、普遍性は必然性
を含意しないと考えるほうが自然なので)
(概念の構成のために抽出された概念の内容として欠くことのできない性質を
本質的属性、これに反して欠いても差し支えない性質を偶有的属性という。
そこから概念に内包と外延という二つの面が問題になってくる。内包とはある
概念に共通な性質を意味する。言いかえると概念の本質的属性の総和を内包
という。外延とはその性質をもつ対象の集合を意味する面である。言いかえると
内包の総括する範囲を外延と呼ぶ。)
といった定義にしたがっていると思ってます。
どこかおかしいでしょうか?おせーて、普遍性との関係って?
214 :
ぱん"どら":2000/11/11(土) 23:47
>>212 >命題を論理式に通訳する段において、
>logician's red氏が君に指摘したいくつかのことは全く正しかっただろ。
>駄々をこねるのはよしなさい。
ごめんなさい、ばかなパンドラをたすけて!!
《パンドラの説得形式》
ロジシャンのおじ様の発言: A1,A2,A3・・・
パンドラの発言 : B1,B2,B3,・・・
犬のおじ様の説得
AからCということがいえる、それはB→(D∧¬D)と同値だ。
ゆえに¬Bがいえる。
BよりCということがいえる。C→(D∧¬D)と同値だ。
ゆえに¬Bがいえる、でもいいです。
単純に「おまえのいってることはこうだ、そんなことできるといえるか」
でもいいです。
215 :
ぱん"どら":2000/11/11(土) 23:49
>>212 >命題を論理式に通訳する段において、
>logician's red氏が君に指摘したいくつかのことは全く正しかっただろ。
>駄々をこねるのはよしなさい。
ごめんなさい、ばかなパンドラをたすけて!!
《パンドラの説得形式》
ロジシャンのおじ様の発言: A1,A2,A3・・・
パンドラの発言 : B1,B2,B3,・・・
犬のおじ様の説得
AからCということがいえる、それはB→(D∧¬D)と同値だ。
ゆえに¬Bがいえる。
BよりCということがいえる。C→(D∧¬D)と同値だ。
ゆえに¬Bがいえる、でもいいです。
単純に「おまえのいってることはこうだ、そんなことできるといえるか」
でもいいです。
216 :
ぱん"どら":2000/11/11(土) 23:56
ぎえ、二重投稿ごめんなさい。
217 :
代理いぬ:2000/11/12(日) 07:21
>215
>ごめんなさい、ばかなパンドラをたすけて!!
それでは、《パンドラの説得形式》に従いまして。
ロジシャンのおじ様の発言:174
>153(ぱんどら)
>∃x(Gx⊃Fx)ね。 これってどういう意味でしょう?
>これはB「うまいもののなかにおじ様のおでんがある」ってこと。
>「あるうまいものはおじさまのおでんよ」っていってもいいわ。
「∃x(Gx→Fx)」は
「もしそれがうまいものであればおじさんのおでんである、
ようなものが存在する」と翻訳されて、
「あるうまいものはおじさまのおでんよ」は「∃x(Gx∧Fx)」
と翻訳されるんだぞ。
そして「∀x(Gx→Fx)」から「∃x(Gx∧Fx)」を導く事はできない。
パンドラの発言:177
は〜い、ロジシャンのおじ様。
でも、わたしこう言ったの、
> ∀x(Fx⊃Gx)だったら@「おじさまのおでんはみんなうま〜い」ってなります。
スタンダードバージョンで行きますと,
「すべての人間はある哺乳類である」と同じレベルで構成したのです。
F:人間 G:哺乳類
「∃x(Gx∧Fx)」 は「ある哺乳類であるものはある人間でもある」
ってなってしまいませんこと?
てことは人間であって,
哺乳類でないものも保証するってことになってしまいませんこと。????
犬のおじ様の説得
まず、logician's red氏の指摘である次の2点は正しい。
・∃x(Gx→Fx)は、「うまいものであればすべからくおじさんのおでんであるようなものが存在する」
と翻訳する方が正しいということ。
・∀x(Gx→Fx)から∃x(Gx∧Fx)は帰結しないということ。
次にぱんどら君の"スタンダードバージョン"とやらは、
実世界をモデルとすることにとらわれて、∃x(Gx∧Fx)が、
>人間であって,哺乳類でないものも保証(ぱんどら)
することを危惧しているということ。
真に形式化された手続きとしての論理学を考えるならば、
∃x(Gx∧Fx)という命題は、
「人間であって哺乳類でないものの存在」を容認できる。(保証はしないが)
現に、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない。
#無意識に実世界をモデルに捉えて、真理値を判断してしまわないように気をつけよう。
218 :
考える名無しさん:2000/11/12(日) 07:56
>>217 >現に、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない。
矛盾しないというのは、2つの命題の真偽値が異なることはないという
ことだから、上の2つの命題は矛盾してるようにしかみえないけど。
だって、Gx∧¬Gxは偽でしょ。
∃x(¬Gx∧Fx)→∃x(Gx→Fx)は真だと思うけどね。
219 :
代理いぬ:2000/11/12(日) 08:13
>218
>>現に、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない。
>上の2つの命題は矛盾してるようにしかみえないけど。
とある世界について想像してみる。
その世界には、哺乳類で人間であるもの<∃x(Gx∧Fx)>と、
哺乳類でなくて人間であるもの<∃x(¬Gx∧Fx)>がいる。
…ね、別におかしくないでしょ?
ただし、"哺乳類"という言葉の意味を考慮しちゃダメだよ。
ちなみに、
>∃x(¬Gx∧Fx)→∃x(Gx→Fx)
は確かに帰結するけど、論証としてはいまいちピンと来ないね。
「哺乳類でなくて人間であるものが存在するならば、
哺乳類であって人間であるものが存在する」
これじゃあ、
「赤が鮮やかならば、赤でないものは鮮やかである」
って言っているのと変わらない。
ま、どうでもいいけど。
220 :
218:2000/11/12(日) 09:06
>>代理いぬ
>とある世界について想像してみる。
>その世界には、哺乳類で人間であるもの<∃x(Gx∧Fx)>と、
>哺乳類でなくて人間であるもの<∃x(¬Gx∧Fx)>がいる。
>…ね、別におかしくないでしょ?
おかしいよ。
「とある世界」ではそう言えたとしても、
少なくとも<この>現実世界では偽だよね。
つまり、こういうことです。
aを任意の個体定項とすると、
∃x(Gx∧Fx)→Ga∧Fa
∃x(¬Gx∧Fx)→¬Ga∧Fa
はそれぞれ真だよね。
すると、
∃x(Gx∧Fx)∧∃x(¬Gx∧Fx)
が真ならば、
(Ga∧Fa)∧(¬Ga∧Fa)
も真だよね。
でも、明らかに、
(Ga∧Fa)∧(¬Ga∧Fa)
は偽だよね。
つまり、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)はそれぞれ、
xに特定の個体を代入することを許容しているわけだから、
それを仮にaと呼ぶと、
aがFであり、かつaがFでない、という可能世界は
存在しないでしょ。
xは変項を表すから、すべての可能世界において
上の2つの命題の真偽値が同じでなければ、
「それらは矛盾しない」とは言えないでしょ。
ついでに書くと、
∃x(Gx∧Fx)∧∃x(¬Gx∧¬Fx)は真です。
221 :
218:2000/11/12(日) 10:06
>>219 ごめんごめん。与えられた命題のEを∀と勘違いしていた。私の間違いです。
最後の∃x(Gx∧Fx)∧∃x(¬Gx∧¬Fx)はそのまま真です。
222 :
OFW:2000/11/12(日) 12:54
>>202(微熱症患者氏)
>ここで形式論理学の問題として挙げられている事柄は、私には形式論理学
>そのものの問題というよりも、論理学を偏重する哲学的傾向の問題のよう
>に思われます。
必ずしもそうではなく、形式主義という、近代の主流となっている自らの
限度を知らない思想が論理学において最も純粋に現れていると言う点です。
>たとえば、「ソクラテスは人間である」という文を「Fa」と記号化した
>場合、「ソクラテス」という指示表現と「人間である」という述定表現の
>違いは保持されており、大文字と小文字で区別されて、より明瞭に見て
>とれるようになっています。
私は指示対象と述語表現との違いと言ったのです。対象を対象の表象
(表現)に置き換えることはできないのです。「名指しによる指示」は
述定表現ではない。「ソクラテス」とは個体に張付いた名前であり、
「ある存在者がソクラテスという属性をもつ。」とは全く異なる内容です。
述語論理ではむしろすべての属性を名辞(名前)にしてしまうようだが。
>ソクラテスは人間である
を
>ソクラテスは人間であるという特徴をもつ
>と読み替える
ことは許されないのです。何故なら「…である。」という質の判断は
「…をもつ」という反省の判断とは異なるからです。ソクラテスが人間
であるのは彼が主体であり、「人間であること」は彼の本質をなす。
モノとその諸性質の関係のように、「人間性をもつ」ことはできない。
「ソクラテス、あなたはもはや人間ではない。」「えっ、神か獣か幽霊か?」
>主語「人間」と述語「人間である」の関係を全く説明できなくなってしまう
主語「人間」は本質存在を指示し、述語「人間」はその概念を表現する。
「人間は人間である」とは概念の判断です。
223 :
OFW:2000/11/12(日) 12:58
>>207(代理いぬさん)
>これを一種の道具として扱おうという人達に対してのみ、この道具
>は説得的な力を及ぼすのです。
道具(手段)の妥当性は目的と相関的であり、理性の道具主義はナチズム
を経験したホルクハイマーによって批判されています。
>>209(ぱん"どら"さん)
>風邪気味のおじ様:そんな話は無意味です。
そげな事言うとらん。お話という仮構の世界では主人公は「心理的実在」。
>「亀を助けた人物のなかに浦島太郎なる人物が存在する」
くれぐれも「今年、島根県海岸で実際に亀を助けた人」を混ぜないでね。
>>219(代理いぬさん)
(失礼ながら、横レス)
>とある世界について想像してみる。
>その世界には、哺乳類で人間であるもの<∃x(Gx∧Fx)>と、
>哺乳類でなくて人間であるもの<∃x(¬Gx∧Fx)>がいる。
>…ね、別におかしくないでしょ?
>ただし、"哺乳類"という言葉の意味を考慮しちゃダメだよ。
「"真に"形式化されると矛盾すら容認される。」、これは真だ。
たとえば、
資本家(貨幣という哺乳類でないもの)で人間であるものと
労働者(社畜動物でしかない哺乳類)で人間であるものとがいる。
形式的には同じ人間でも、内容は全然違うから、そんな世界は無くすべき
でしょうね。
224 :
218:2000/11/12(日) 14:54
>代理いぬ
>現に、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない。
よく考えたら、やはり両立しませんね。
だから、私が合ってました。
以下のとおりです。
〔反証〕
「両立し、矛盾しない」ことを「同値である」ことだとする。
∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)をそれぞれ真だとすると、
∃x(Gx∧Fx)→(∃xGx)∧(∃xFx)
∃x(¬Gx∧Fx)→(∃x¬G)∧(∃xFx)
はそれぞれ真である。ゆえに、
(∃xGx)∧(∃xFx)∧(∃x¬G)∧(∃xFx)は真となる。
ここで、(∃x¬G)≡(¬∀xGx)は真。
そして、(¬∀xGx)→(∃xGx)は偽。
なぜなら、(¬∃xGx)→(¬∀xGx)は真だから。
また、(∃xFx)→(¬∀xGx)も偽。
なぜなら、(∀xGx)→(∃xFx)は真だから。
ゆえに、(∃xGx)≡(∃x¬Gx)は偽。
ゆえに、(∃xGx)∧(∃xFx)∧(∃x¬G)∧(∃xFx)は真。
したがって、∃x(Gx∧Fx)≡∃x(¬Gx∧Fx)
は偽。(証明おわり)■
225 :
218:2000/11/12(日) 14:58
224の「G」の右に「x」が抜けているところは加入してちょうだい。
226 :
218:2000/11/12(日) 15:18
やんなっちゃうね。記入ミスばかりで。
224の下記の2行、
また、(∃xFx)→(¬∀xGx)も偽。
なぜなら、(∀xGx)→(∃xFx)は真だから。
の中の「F」は「G」に訂正。
227 :
218:2000/11/12(日) 15:57
分かりにくいので、正しい反証をもう一度書く。
〔∃x(Gx∧Fx)≡∃x(¬Gx∧Fx)の反証〕
「両立し、矛盾しない」ことを「同値である」ことだとする。
∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)をそれぞれ真だとすると、
∃x(Gx∧Fx)→(∃xGx)∧(∃xFx)
∃x(¬Gx∧Fx)→(∃x¬Gx)∧(∃xFx)
はそれぞれ真である。ゆえに、
(∃xGx)∧(∃xFx)∧(∃x¬Gx)∧(∃xFx)は真となる。
ここで、(∃x¬G)≡(¬∀xGx)は真。
そして、(¬∀xGx)→(∃xGx)は偽。
なぜなら、(¬∃xGx)→(¬∀xGx)は真だから。
また、(∃xGx)→(¬∀xGx)も偽。
なぜなら、(∀xGx)→(∃xGx)は真だから。
ゆえに、(∃xGx)≡(∃x¬Gx)は偽。
ゆえに、(∃xGx)∧(∃xFx)∧(∃x¬G)∧(∃xFx)は偽。
したがって、∃x(Gx∧Fx)≡∃x(¬Gx∧Fx)は偽。
(反証おわり)■
228 :
考える名無しさん:2000/11/12(日) 16:11
>現に、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない
もちも議論領域を決めないのならこの二つの命題が矛盾するとはいえない
にょ。
あるxはサッカー選手でありかつ女性である、あるxはサッカー選手
でありかつ女性でないという二つの文は矛盾していないにょ。
領域を人類に限定したばやい、人間という言葉の意味に
哺乳類という意味が分析的に含まれるかどうかが問題になるにょ。
もし分析的に含まれるとみなすなら、哺乳類でないかつ人間である
ようなxはどのような可能世界でも存在できないにょ。
229 :
考える名無しさん:2000/11/12(日) 16:23
「なぜ人を殺してはいけないか」のレスにいいヒントがあったにょ。
もし「人間」を生物学的定義の意味で用いるなら哺乳類であることは
分析的に含まれるにょ。つまり哺乳類であることは人間であることの
必要条件になるにょ。
一方倫理学的定義で用いるなら別に哺乳類でなくてもいいことになるにょ
230 :
ぱん"どら":2000/11/12(日) 23:32
>>223 >ソクラテスが人間であるのは彼が主体であり、「人間であること」は彼の
>本質をなす。 モノとその諸性質の関係のように、「人間性をもつ」ことはできない。
OFWさまって、やっぱり赤い痴が騒ぐのね。
これって平行線は交わらない二つの直線を言うんだ!ってこだわってる人に似てるわ。
ソクラテスって名は記号よ。
xはソクラテスという名で呼ばれるという性格を持ち、かつ紀元前アテネで生き、
毒杯を飲んで死んだ、という特性を持った人間であるってのどう?
>そげな事言うとらん。お話という仮構の世界では主人公は「心理的実在」。
あれ〜、すごくめるへんちっく♪
その〜OFWさんて、まず「名指しによる指示」である存在xをたてるでしょう。
そこにF、Gといった述語部分を立てるわけ。それが本質かどうかは別として
最初に立てるxって、それがあると言えるには述語論理の基本約束、議論領域
が何かを決めていなければならないんだけど、まずxを立てるというのはそれが
決まってない状態だと思います。
何も決まってない論理空間、絶対論理空間があるとしたらそれは、矛盾律も許
す空間です。よって実在xなんてありません。
AはBである、の「ある」繋辞はBにAがある、の「ある」存在と同じです。
ちょっとポイント捉えて反論してください。
めるへんもいいんだけど〜ここは哲学の死闘のジャングルなのです。
じゃ〜ん
231 :
食いだおれさん:2000/11/13(月) 03:01
>227
なんかおかしくないか?全体的に。
>>現に、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない
ベン図に書いてみりゃわかるけど、
xに特別な範囲がない限り、あってるよ。
それで、あんまりいうのもなんだけど、
>(¬∃xGx)→(¬∀xGx)は真だから
ちがうんじゃねーか
¬∃xGx→∀x¬Gx
だと思うよ。
232 :
OFW:2000/11/13(月) 06:26
>>228 >人間という言葉の意味に哺乳類という意味が分析的に含まれるかどうかが
>問題になるにょ。
まったくその通り。でもね。代理いぬ氏が
>ただし、"哺乳類"という言葉の意味を考慮しちゃダメだよ。
とおっしゃるのでね。「形式化のし過ぎ」ではと言ったわけです。
「論理式の真偽も概念の意味に依存する」、これは正しい。
そもそも、「分析的」「総合的」の区別はどうしてできるのかな?
「演繹的に導出できる」か否かなら、「論点先取エラー!」では?
>>230(ぱん"どら"さん)
>まずxを立てるというのはそれが決まってない状態だと思います。
>何も決まってない論理空間、絶対論理空間があるとしたらそれは、
>矛盾律も許す空間です。よって実在xなんてありません。
あなた、結構直観鋭いな(逆の意味で)。
(しかし、また「空間」か…。さっき相対論的絶対空間の有無について謝っ
てきたばかりなのに…。)
そこで質問です。「空間」って何?「実在」って何?
>AはBである、の「ある」繋辞はBにAがある、の「ある」存在と同じです。
>ちょっとポイント捉えて反論してください。
ちょっとポイント捉えられない。「BにAがある」とは「Bにおいて
Aがある」、つまり「場所」のこと?それとも繋辞=「繋ぐ」こと?
233 :
代理いぬ:2000/11/13(月) 07:34
>223(OWF)
>道具(手段)の妥当性は目的と相関的であり、
>理性の道具主義はナチズムを経験したホルクハイマーによって批判されています。
べっつに、そんな大それた話をしているわけじゃござーせん。
ある時代の人々には先験的、とまで呼ばれた数学も、
ある種の形式が生み出した公理の世界にしか過ぎなかったわけです。
「どうせ道具であるのなら、その道具は豊かであるほどいい」
このような判断があったからこそ、数学は道具として大成したのです。
虚数が生まれたとき、これは誰しもが数学的技巧に過ぎないと思ったでしょう。
神秘主義のピタゴラスなら、こんなものは"数"とも認めずに捨て去ったに違いありません。
"使える"道具であればそれで十分なんです。
言語も、数学も、論理学も。
まさか、ものを考えるのに、
生命の形式だとか宇宙の言葉などが必要なわけではありますまい?
それから、
>222
>必ずしもそうではなく、形式主義という、近代の主流となっている自らの
>限度を知らない思想が論理学において最も純粋に現れていると言う点です。
とありますが、形式主義論理学こそ己の限界を知っている論理学と言えるでしょう。
数のイデア論者たるクルト・ゲーデルが、
公理主義的手法の限界を示したのがかの有名な不完全定理なのですから。
234 :
227:2000/11/13(月) 07:35
>>231 >∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない
>ベン図に書いてみりゃわかるけど、
>xに特別な範囲がない限り、あってるよ。
おかしくないって。本当にベン図に書いてみた?
性質Gをもつ個体の集合をSg、性質Fをもつ個体の集合をSf
とすると、
SgとSfの可能な包含関係はたかだか5パターンでしょ(考えて
ください)。
そのうちSgとSfが共通部分をもたない場合は、
(¬Gx∧Fx)は真でも、(Gx∧Fx)は偽だよね。
さらに、SfがSgの部分集合になる場合は、
(Gx∧Fx)は真でも(¬Gx∧Fx)は偽だよね。
だから、「xが存在するすべての可能世界について、
∃x(Gx∧Fx)≡∃x(¬Gx∧Fx)は真」とは言えないよね。
ベン図に書いたほうがホントに分かりやすいね。
>それで、あんまりいうのもなんだけど、
>>(¬∃xGx)→(¬∀xGx)は真だから
>ちがうんじゃねーか
>¬∃xGx→∀x¬Gx
>だと思うよ。
こっちとしても「あんまり言うのもなんだけど」、
(¬∃xGx)→(∀x¬Gx)は確かに真だし、
227に書いたように(¬∃xGx)≡(∀x¬Gx)も真。
だからと言って、
(¬∃xGx)→(¬∀xGx)が偽になるわけではないんだよ。
¬A→(A∨¬A)は真だからね。
日常言語で表すと、
「Gという性質をもつxが存在しないときは必ず、『すべての
xがGという性質をもつわけではない』とは(少なくとも)言える」
ということ。
また、(¬∀xGx)≡(∃x¬Gx)は真だから、
(¬∃xGx)→(∃x¬Gx)と言い換えることもできる。
「Gという性質をもつxが存在しないならば、G以外の性質をもつ
xが存在する」。
論理学は侮れないねえ。
235 :
代理いぬ:2000/11/13(月) 07:51
全体を通してみて、
OWFさんが形式主義というものに馴染めずにいる印象があります。
お気持ちはわかるのですが、どのような方法を模索したところで、
我々の思考形式たる言語ですら蓋然的なものに過ぎないのですから、
普遍の真理など得られようはずもありません。
我々人間には、形式的真理がせいぜいなのです。
しかしこれは、知の敗北主義ではありません。
むしろ、与えられるべき分に相応の挑戦的態度といえるでしょう。
>224(218)
>「両立し、矛盾しない」ことを「同値である」ことだとする。
「両立し、矛盾しない」ことは「同値である」ことと同値でない。(なんちゃって)
で、反証の方ですが、君は、
∃x(Gx∧Fx)を(∃xGx)∧(∃xFx)と置き換えて考えようとしていますが、
これらの式は同値ではないので置き換えちゃダメです。
前者から後者は帰結しますが、その逆は帰結しません。
まあ、もう一度考えてみてよ。
236 :
ぱん"どら":2000/11/13(月) 17:58
>>犬のおじ様へ
218さまがちょっとやって頂いたみたいですが、問題は
>「人間であって哺乳類でないものの存在」を容認できる。(保証はしないが)
>現に、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない。
すなわち両立するとは 、∃x(Gx∧Fx)≡∃x(¬Gx∧Fx)ということでなく、
(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))が少なくも恒偽ではない、ということ。
しかしながら、(A∧B)∧(¬A∧B)はA,Bのいかなる値に対しても偽。
よって、その特称を捉えた各要素の式、上の式も偽、矛盾式。
218さまがいったように現実世界ではありえない。
そういうことを許しているから論理学って現実とは違うんだとか、パズルの
お遊びぐらいに思われてしまうんでしょ。
もう一回これみてくださらない。
>この記述方式で可能なケースは
@∀A=∀B
A∀A=∃B
B∃A=∀B
C∃A=∃B
これって、アリストテレスの全称肯定判断とか否定判断とは違うのよ。
@は同値を示しているの。
少なくも二つの概念の繋がり方を区分しないで真偽判定ができるものですか。
事件は現場で起こっているのです。
木星に衛星があるかどうかは望遠鏡で覗くことなんです。
237 :
ぱん"どら":2000/11/13(月) 18:53
238 :
微熱症患者:2000/11/13(月) 23:32
>>213 >どこかおかしいでしょうか?おせーて、普遍性との関係って?
まず、「本質的属性」の説明として、
>概念の構成のために抽出された概念の内容として欠くことのできない性質を
>本質的属性、これに反して欠いても差し支えない性質を偶有的属性という。
を採用することにします。
ここで「欠くことのできない」→「必要不可欠である」→「必然的に備わっている」と読み替えてい
くと、次の定義が得られます。
ある概念Cにとってある性質Pが本質的属性であるとは、CがPを必然的に備えている場合であり、
かつ、その場合に限る
要するに「本質的属性」とは「必然的属性」だということ。
たぶん、これには異存はないと思います。
では、次に「必然性とはなんぞや?」という話になるのですが、ここで「可能世界」を持ち出すのも
大げさだと思うので、必然性の概念については既に直感的に理解が得られているものとして話を進め
ます。
ところで、普遍性とは外延的な概念です。ある事柄がいつでもどこでも成り立っているなら、その事
柄は普遍的であるといえます。たとえば、いつの時代、どこの国の人でも、一人も例外なしに皆哺乳
類であるなら、「人間は哺乳類である」という事態が普遍的に成り立っていることになります。記号
論理学で「∀」という記号を使って表されるのはこのような事態です(∀は限定された領域に適用さ
れることもあるので、そのような場合を「普遍的」と呼んでいいのかどうかという疑問はあるでしょ
うが……)。
しかし、人間が哺乳類であるという事態が普遍的に成立しているということ、すなわち、すべての人
間が哺乳類であるということと、人間にとって哺乳類であるということが必然的であるということ、
すなわち、哺乳類であることが人間の本質的属性であるということは別の事柄です。
すべての人間に共通する属性はいくらでも考えられます(たとえば「江戸時代に月世界に到達してい
ない」とか)が、それらの属性のすべてが本質的属性ではないことは明らかでしょう。
なお、「ある人間は哺乳類である」という文はふつうの言語使用の場ではかなり奇妙なものとして受
け止められます。「じゃあ、哺乳類ではない人間もいる、ってこと?」と問い返したくなるのです。
一般に「あるAはBである」という主張は「すべてのAがBであるということはない」または同じこ
とですが「あるAはBではない」という含みをもちます。なぜなら、もしすべてのAがBだとしたら
素直に「すべてのAはBである」と言えばいいのであって、あえて「あるAはBである」などという
限定された言い方をする必要はないからです。
しかし、言語使用の場での”含み”と論理的な”含意”を混同してはなりません。「ある人間は哺乳
類である」は「すべての人間は哺乳類である」と両立しますし、「すべての人間は必然的に哺乳類で
ある」とも両立します。
239 :
代理いぬ:2000/11/14(火) 00:05
>236(ぱんどら)
おいおい、正気かね?
>すなわち両立するとは 、∃x(Gx∧Fx)≡∃x(¬Gx∧Fx)ということでなく、
>(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))が少なくも恒偽ではない、ということ。
ここまでは正しいが、どうしてその次で、
>しかしながら、(A∧B)∧(¬A∧B)はA,Bのいかなる値に対しても偽。
となってしまうのだ?
(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))の左右の量化子は独立しているんだから、
変項に名前をあてるなら、(Ga∧Fa)∧(¬Gb∧Fb)とでもするべきだろ。
いったいこれのどこが矛盾式なんだい?
こんなにも簡単なことをこれだけ丁寧に繰り返してやってるんだから、
もう少し注意深く考えてほしいな。
240 :
微熱症患者:2000/11/14(火) 00:49
>>222 >「名指しによる指示」は 述定表現ではない。
>「ソクラテス」とは個体に張付いた名前であり、
>「ある存在者がソクラテスという属性をもつ。」とは全く異なる内容です。
この指摘はもっともなのですが、これはやはり論理学に対する批判ではなく、
ある種の哲学(具体的にいえば中期以降のラッセルやクワインの哲学)に対
する批判だと思います。前に述べたことの繰り返しになりますが、ふつうは
「ソクラテス」という表現を述語として分析することはありません。
>ソクラテスが人間であるのは彼が主体であり、
>「人間であること」は彼の本質をなす。
>モノとその諸性質の関係のように、「人間性をもつ」ことはできない。
大きくみれば、人間もモノであり、本質も性質のうちだと思いますが?
>主語「人間」は本質存在を指示し、述語「人間」はその概念を表現する。
>「人間は人間である」とは概念の判断です。
主語となる表現(指示表現)と述語となる表現を峻別するなら、主語「人間」
と述語「人間(である)」は全くの別のカテゴリーに属する表現になってしま
います。
「人間は人間である」という文も単なるトートロジーではなく、実質的な判断
内容を含むことになります。それでも構わない、とOFWさんなら仰るかもし
れませんが、前にも挙げた
ソクラテスは人間である。
人間は哺乳類である。
ゆえに、ソクラテスは哺乳類である。
の妥当性を示すことができなくなります。
ソクラテスをa、概念としての人間をF、本質存在としての人間をb、哺乳類
をGとすると、
Fa
Gb
∴Ga
という妥当ではない式しか得られません。
もちろん、ここにFb(「人間は人間である」)を加えても妥当にはなりませ
ん。
241 :
227:2000/11/14(火) 03:28
>>代理いぬ、ぱん"どら"
>「両立し、矛盾しない」ことは「同値である」ことと同値でない。
>すなわち両立するとは 、∃x(Gx∧Fx)≡∃x(¬Gx∧Fx)という
>ことでなく、
>(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))が少なくも恒偽ではない、
>ということ。
つまり、
「(その連言が)真である場合があること」であると仰りたいのでしょうが、
それは「両立し得る」ということでしかない。
2つの式が「両立する」というのは「常に真である」ということ。だから、
それらが「両立しない」ことを示すためには、
それらの「少なくとも一方が偽」になる場合があることを示せばいいわけ。
「同値」と「連言」の真理関数の違いは、
2つの式がともに偽の場合を偽とするか真とするの違い。
両式が偽の場合を問題にするかどうかの違いでししょ。
(つづく)
242 :
227:2000/11/14(火) 03:29
(つづき)
>>代理いぬ
>∃x(Gx∧Fx)を(∃xGx)∧(∃xFx)と置き換えて考えようとして
>いますが、これらの式は同値ではないので置き換えちゃダメです。
>前者から後者は帰結しますが、その逆は帰結しません。
ちゃんと読んでね。
私が同値としたのは、最初にあなたが与えた2つの式、
∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)の間。
∃x(Gx∧Fx)と(∃xGx)∧(∃xFx)が同値でないことは
知ってます。
そもそも227の論証は次のような流れになっている。
与えられた2つの式をそれぞれ真だと仮定すると、
∃x(Gx∧Fx)→(∃xGx)∧(∃xFx)
∃x(¬Gx∧Fx)→(∃x¬Gx)∧(∃xFx)
が真となる。これらを演繹していった帰結の式、
(∃xGx)≡(∃x¬Gx)は偽になる。
((∃xGx)∧(∃x¬Gx)は偽、でもいい)
ゆえに、最初の仮定は偽。■
(∃xGx)∧(∃xFx)→∃x(Gx∧Fx)や
(∃x¬Gx)∧(∃xFx)→∃x(¬Gx∧Fx)などと
いう前提は全く置いてません。ちゃんと見ましょう。
243 :
227:2000/11/14(火) 03:31
>>239 >(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))の左右の量化子は独立
>しているんだから、変項に名前をあてるなら、
>(Ga∧Fa)∧(¬Gb∧Fb)とでもするべきだろ。
>いったいこれのどこが矛盾式なんだい?
なんでa=bとなる世界をあらかじめ排除しうるんだよ。
個体領域が全く違うなら矛盾しないのは当然じゃん(藁
あのね、
もし∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)のそれぞれの束縛変項の
値となる個体の集合(個体領域)が全く異なると言いたいのなら、
それらの式の真理値はもともと「独立」しているのであって、
それらの間の「両立」を語ることは無意味ですよ。
2つの式の量化子の作用域が違うということは、
それらの個体領域に共通部分がないことを含意しないんだよ。
244 :
ふにゃねこ:2000/11/14(火) 07:54
227、代理いぬ両氏
「両立する」の言葉の解釈がことなっているから、議論がかみ合って
いないにょ。
代理いぬ氏は
>>217
で
>∃x(Gx∧Fx)という命題は、
>「人間であって哺乳類でないものの存在」を容認できる。(保証はしないが)
とかいてあるから、227氏がいうとところの「両立しうる」の意味で
「両立する」という言葉をつかっているにょ、一方227氏は
「常に真である」の意味で「両立する」という言葉を使っているから
二人の議論はかみ合っていないように思うにょ。
245 :
微熱症患者:2000/11/14(火) 08:01
>>241@`
>>242@`
>>243 横レスですみませんが、あなたは「両立」という語を勘違いしています。
>2つの式が「両立する」というのは「常に真である」ということ。
これは間違い。2つの式が「両立する」ためには、その連言が恒真である必要
はありません。
>もし∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)のそれぞれの束縛変項の
>値となる個体の集合(個体領域)が全く異なると言いたいのなら、
>それらの式の真理値はもともと「独立」しているのであって、
>それらの間の「両立」を語ることは無意味ですよ。
2つの式が独立であるなら、当然、両者は両立します。
式Aと式Bが両立するとは、AとBの連言が恒偽ではない、というだけのこと
です。
ついでにいえば、
(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))
の左右の変項に別の個体の名前をあてて
(Ga∧Fa)∧(¬Gb∧Fb)と例化したからといって、「個体領域が全く違う」とい
うことにはなりません。
aとbは同じ個体領域に含まれる別の個体だということです。
246 :
ふにゃねこ:2000/11/14(火) 08:02
ぱんどらたん
>>236
の
>そういうことを許しているから論理学って現実とは違うんだとか、パズルの
>お遊びぐらいに思われてしまうんでしょ。
はちょっと誤解していると思うにょ。
この場合現実的に妥当かどうかは関係ないにょ。
問題になっているのは人間という言葉の意味の本質にょ。
例えばブレードランナーのレプリカントのように意識を持った
サイボーグやあるいは脳を移植したサイボーグを想定した場合、
それらは生物学上哺乳類とはみなせないが人間であるとはみなす
(もちろん異論もでてくるだろうにょ)ことが可能であるから
哺乳類であることは人間という言葉の本質にとって偶有的である
とみなせるにょ。
ここで重要なのは人間という言葉の意味から本質的要素と偶有的要素
を区分することであって、哺乳類でないような人間が現実にいるかど
うかではないにょ。
と思うにょ。
では出かける準備をするにょ。雨降りだにょ。
ふにゃは
そんなむずかしいこと
かかないよー
ふにゃぁ(ダメ板のみんなはだまされないよーに!!
あっ、ダメ板にふにゃねこって固定ハンドルがいたのかにょ。
それは知らなかったにょ。あやまるにょ。わざとじゃないにょ。
名前かえたにょ。ゆるしてにょ。
249 :
OFW:2000/11/15(水) 01:33
>>233(代理いぬさん)
>形式主義論理学こそ己の限界を知っている論理学と言えるでしょう。
私が言いたいのは自らが何であるかを知らないということです。
(限界ではなく)限度を知るとは自己の本質を知ることでしょう。
>>237(ぱん"どら"さん)
あなたの思考がだいぶ分かってきた。形式は未整理でも、筋は良さそう。
>A@`B二つの概念があるでしょう。それにはどうしても上位とか下位とか
> 同位概念と言った区分ができるでしょう。
それを「カテゴリー」(存在の区分)と呼ぶのであり、単なる「集合」で
はないでしょう。集合(数)はカテゴリーの一種ですが、カテゴリーは
まだ他にもある。
(たとえば、ヘーゲルの『論理学』全体がカテゴリーの展開です)
>>「実在」って何?
>論理空間を定めないでも真偽判定可能な対象。そんなものってないで
>しょう。
揚げ足取りをするつもりはないが、結局「実在などない」って事?
「ある存在者を指示する」だけでは真偽判定可能ではないが「そこにある」
のは実在者(あるもの)でしょう。そしてそれは「立てる」(措定)する
前に既にそこにある(前提されている)のです。それは存在者の場所的
(空間的)限定です。
次に、存在xを措定するとは、実在者を「私の中にある対象」にする
(表象空間の内に置く)ことです。それは実在の規定(否定)として、可能
的な存在x(変項)です。表象され、規定されることで、実在する「この
もの」(定有)はむしろ真ではないものとして否定され、非実在的なもの
にされるが、それは変化する質的実在者「このもの」が可能的に「この
ものならぬもの」だからです。(変化するもの自体は変化しないもの)
そして、「定項(定有するもの)は変項(変化するもの)である」という
真理が成立する。それが実在(質の)判断です。
「これは?」、「リンゴ、バナナ、…」→「これはリンゴである」(正解!)
250 :
OFW:2000/11/15(水) 01:37
>>237(ぱん"どら"さん)(つづき)
>繋辞の「ある」、存在の「ある」、特称の「ある」はみな同じではないか
「カント的悟性」とでも呼ぶのかな。「存在するとはコプラ(繋辞)に
過ぎず、概念の内容を増しはしない。」しかしカントは「真の主語X」と
して物自体(実体)は認めていた。
また特称とは「区別された対象」という実在を指している以上、決して
単なる存在措定ではなく、反省(本質)の判断なのです。
>>238(微熱症患者氏)
>大きくみれば、人間もモノであり、本質も性質のうちだと思いますが?
これは問題ありです。そう言わせしめる形式論理こそが問題でしょう。
> ソクラテスは人間である。
(個は普遍である。)
> 人間は哺乳類である。
(特殊は普遍である)
> ゆえに、ソクラテスは哺乳類である。
(個は特殊である。)
>の妥当性を示すことができなくなります。
上記の推論は妥当ではありません。
251 :
考える名無しさん:2000/11/15(水) 01:46
ふにゃねこは
ダメ板の
共有ハンドルだから
つかってちょ
252 :
227:2000/11/15(水) 02:19
>>代理ねこ
>>∃x(Gx∧Fx)という命題は、
>>「人間であって哺乳類でないものの存在」を容認できる。(保証はしないが)
>
>とかいてあるから、227氏がいうとところの「両立しうる」の意味で
>「両立する」という言葉をつかっているにょ、一方227氏は
>「常に真である」の意味で「両立する」という言葉を使っているから
>二人の議論はかみ合っていないように思うにょ。
たったそれだけのことを言いたかったの?(藁
でも「矛盾しない」と書いてるから、
「同値」と解釈せざるを得ないよねえ。
最初から「ともに真となる場合がある」という意味で書いたなら、
反証を出されたときに、はっきりそう指摘すればいい。
>>245 >(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))
>の左右の変項に別の個体の名前をあてて
>(Ga∧Fa)∧(¬Gb∧Fb)と例化したからといって、
>「個体領域が全く違う」ということにはなりません。
>aとbは同じ個体領域に含まれる別の個体だということです。
それなら、最初から
「(Ga∧Fa)と(¬Gb∧Fb)は両立し、矛盾しない」と書くべきで
しょうね。たとえ量化子の作用域が別でも、両式の束縛変項をx
と表すかぎり、その個体領域は同じと考えるのが普通でしょうね。
だいたい量化子ごとに個体領域が違うなら、たとえば
(¬∃xGx)≡(∀x¬Gx)をどう説明するつもりなんだろうね。
253 :
微熱症患者:2000/11/15(水) 07:47
>>252 >それなら、最初から
>「(Ga∧Fa)と(¬Gb∧Fb)は両立し、矛盾しない」と書くべきで
>しょうね。たとえ量化子の作用域が別でも、両式の束縛変項をx
>と表すかぎり、その個体領域は同じと考えるのが普通でしょうね。
確かに一つの式の中に同じ記号(ここでは「x」)が出てきたら、全部同じだ
と解釈されがちだから、別の記号を当てておいたほうが無難でしょうね。
たとえば
(∃x(Gx∧Fx))∧(∃y(¬Gy∧Fy))
のように。
>でも「矛盾しない」と書いてるから、
>「同値」と解釈せざるを得ないよねえ。
ふつう、そんな解釈はしないと思いますが……。
254 :
ぱん"どら":2000/11/16(木) 00:16
>>238 >ある概念Cにとってある性質Pが本質的属性であるとは、CがPを必然的に備えている場合であり、かつ、その場合に限る
むむむ、タルスキーのようなお言葉・・・。
とりあえず、風邪気味のおじ様の定義。
@「本質的属性」とは「必然的属性」だということ。
A「全称量化子:∀」とは「普遍性(いつでもどこでもだれにでも)」をあらわした
ものである。
以上のような定義で気になることがあります。
普遍性を「いつでもどこでもだれにでも」と解釈するなら、それは普遍性を持つ
といわれる命題が時空内に制限されるのではないかと感じられることです。
時空の中で展開される現象の論理的整合性を持つ命題をわたしたちは「科学」
と呼んできました。
しかしながら∀が適応される範囲はたとえば数論のような領域にも適応されます。
「xが素数ならばxは1と自身でしか約数を持たない」とかは∀が適応される
でしょう?だから普遍性とは違ったものってはおもいませんか?
では本題。
>>173でOFWさまとやりましたけれど、Atから∀xAxを導出してよい,すなわち
<全称汎化>とはいかなる処理であるかということです。
わたしがある村に行ってはじめから100人まで名前を聞いてそれが佐藤さんだ
ったからといって101人目も佐藤さんであるかどうかはわからないでしょう。
ここでは<全称汎化>できません。これが成り立つための項t の条件とは
tが仮定として限定されてはならない。
ちょっとわかりづらいですが、佐藤村のサンプルで行くと、
もし、佐藤村の住人に行政で持ってすべて佐藤姓とするとかの取り決めがあっ
たとすれば、佐藤村の住人の姓はすべて佐藤であるのはあたりまえ。
つまり<全称汎化>は定義としての意味合いを含んでいるのではないでしょうか?
ゆえに佐藤村の住人で佐藤以外の姓の住人がいるわけがないのです。
おなじく、
人間は哺乳類である、の本来の意味はもし人間であるようなものがいれば
それは哺乳類という定義をもつとしているといってよいかとおもいます。
ご存知のように条件法⊃は仮言的命題といわれています。
一方連言∧については、<存在汎化>の意味合いを含んでいるのではないで
しょうか?Atから∃xAxを導出してよい,とは個々別々の定項に関して吟味
確認していく手続きを示しています。
人間と哺乳類という二つの概念は定義としての意味合いと捉えるのが妥当,
ゆえに連言での記述は哺乳類でないものでも人間であるものを含意せざるを
えず、「佐藤村の住人はすべて佐藤である」を証明するために永久に佐藤村
の住人に名前を聞いて歩き回らなければならない、ということですね。
風邪気味のおじ様、熱下がりまして〜?
255 :
ぱん"どら":2000/11/16(木) 01:09
>>239 >>(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))が少なくも恒偽ではない、ということ。
>ここまでは正しいが、どうしてその次で、
>>しかしながら、(A∧B)∧(¬A∧B)はA,Bのいかなる値に対しても偽。
>となってしまうのだ?
述語論理の公理系をL、命題論理の公理系をLPと呼称する。
公理系Lの証明に対応して公理系LPの証明を構成する仕方を考えてみる。
いわば述語論理の証明の影を命題論理の上に落とすのである。
述語論理Lの論理式Dに対応して命題論理LPの論理式D*をつくりこれを
「影」とよぶ。
(1)Dに含まれる量化子をすべて取り去る。
(2)述語論理F@`G・・・をもつ論理式をそれぞれ命題記号A,B・・・で置き換える。
その際,定項や変項がなんであるかは無視する。
述語論理の無矛盾性の証明
(a)否定子と結合子の規則
これらは命題論理の規則であるから影をつくってもそのままである。
(b)量化子の規則
・Atから∀xAxを導出してよい。(全称汎化)
・∀xAxからAtを導出してよい。(全称例化)
・Atから∃xAxを導出してよい。(存在汎化)以上は影を作ると「A⊃A」となる。
・∃xAx、Aα⊃CからCを導出してよい。(存在例化)
これは(A,A⊃CからCを導出してよい」という前件肯定式。
以上より、述語論理の公理系Lの影は命題論理の公理系LPに同一律を
加えたものに等しい。
それゆえDの証明の影をつくると、それはLPの証明として正しいものになる。
したがってDが述語論理の公理系Lの定理ならばその影D*は命題論理の
公理系LPの定理となる。
同様に¬DがLの定理ならば(¬D)*は命題論理LPの定理となる。ここで
影の作り方より(¬D)*≡¬D*であるから¬D*もまた命題論理LPの定理
となる。
かくして述語論理Lが矛盾式D∧¬Dを定理とするならば、命題論理LPもま
た矛盾式を持つということを意味する。
しかしながらLPは矛盾式を定理として持たない。
よって述語論理の公理系LPも矛盾式を定理として持たない。
(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))の影(A∧B)∧(¬A∧B)
A ,B A∧B@` ¬A∧B (A∧B)∧(¬A∧B)
1 1 1 0 0
1 0 0 0 0
0 1 0 1 0
0 0 0 0 0
よって(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))は述語論理の公理系Lの
定理ではない。
256 :
ぱん"どら":2000/11/16(木) 01:21
>>246 >例えばブレードランナーのレプリカントのように意識を持った
>サイボーグ・・・人間という言葉の本質にとって偶有的であるとみなせるにょ。
おにゃん子会議で決めたこと、そんなにねじまげちゃだめでしょ。
めっ!!
257 :
野次馬:2000/11/16(木) 01:25
書き込むの久しぶりなんだが、まださっぱり分からん。
>ぱん"どら"殿
なぜ論理学を事実(時空の中で展開される現象)に
当てはめようとするのだ? 論理学で定義される論理は
論理学の中でのみ有効だ。数学などはさらに
定義(集合や平行線など)を付け加えることによって
論理学を拡張している。(歴史的な順序は逆だ、当然ながら)
事実まで論理学を延長することは可能か?
可能ならばどのようにしてそうしたのだ?
そのような議論なしにいきなり論理学を事実に適用するのは
横暴ではないのか?
258 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 01:53
某スレより。
>非論理的な人に対して論理的なアプローチで説得することは難しい。
>というのは、非論理的な人にとっては話の論理構造を理解し、
>核心をとらえることが難しいために、議論が論点からずれることが多く、
>また、そうした相手が何かの主張や反論をする場合、
>結局何が言いたいのかが明確でなく、理由付けも納得できるものでない
>ことが多いためです。
>また、こちらが論理的に有効な反論をした時、それを反論ととらずに、
>その人本人への攻撃と誤解して感情的に反応することも多い。
なるほど。ここにそのいい見本がいるかも(笑)
解説でもしてみようか。
解説にさきだって。
用語にふなれなので、勝手ながら次のように定義させていただきます。
ならば、かつ、などの論理語の意味(解釈)のみに基づいて(導出関
係の)真偽が決まるのを論理的真偽の議論
山、川などの個々の言葉の意味に基づいて真偽が決まるのを
意味論的真偽の議論とします。
さて、長文になるなあ。
259 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 01:58
論理的(論理語のみに基づく)真偽の議論においける論争の発端。
>>153 ぱんどら氏の主張
>∃x(Gx⊃Fx)ね。 これってどういう意味でしょう?
>これはB「うまいもののなかにおじ様のおでんがある」ってこと。
>「あるうまいものはおじさまのおでんよ」っていってもいいわ。
logician's red氏
>>174 >「∃x(Gx→Fx)」は
>「もしそれがうまいものであればおじさんのおでんである、ようなものが存在する」
>と翻訳されて、
>「あるうまいものはおじさまのおでんよ」は「∃x(Gx∧Fx)」
>と翻訳されるんだぞ。
>そして「∀x(Gx→Fx)」から「∃x(Gx∧Fx)」を導く事はできない。
この二人の議論は論理的(論理語の意味のみに基づく)真偽について行
われている。
「∀x(Gx→Fx)」から「∃x(Gx∧Fx)」が導出できるかどうか
がこの場の議論の論点であった。
しかし論理的(論理語のみに基づく)真偽をめぐる議論にぱんどら氏が
人間と哺乳類という記号を持ち出すことによってたちまち論点がずれて
いく。
260 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 02:06
>>259の続き
ぱんどら氏
>>177 > ∀x(Fx⊃Gx)だったら@「おじさまのおでんはみんなうま〜い」ってなります。
>スタンダードバージョンで行きますと,「すべての人間はある哺乳類である」と
>同じレベルで構成したのです。
>F:人間 G:哺乳類
>「∃x(Gx∧Fx)」 は「ある哺乳類であるものはある人間でもある」ってなって
>しまいませんこと?
>てことは人間であって,哺乳類でないものも保証するってことになってしまい
>ませんこと。????
ここではぱんどら氏は、「∃x(Gx∧Fx)」という命題から
「∃x(¬Gx∧Fx)」が導出(保証)できることになってしまうと
疑問を呈している。(後にわかるのだが、ぱんどら氏は哺乳類であるこ
とが人間であることの本質であるという信念をもっており、
>>200 ゆえに(ぱんどら氏にとって)哺乳類でないような人間が存在すること
はありえず、
「∃x(Gx∧Fx)」という命題は「ある哺乳類であるものは
ある人間でもある」と翻訳された場合、「人間であって、哺乳類でな
いもの」を保証することことになる(ぱんどら氏の解釈によると)
が、哺乳類であることが人間の本質である以上、(ぱんどら氏にとって)
それはありえないことなのである。
ゆえに、(ぱんどら氏にとって)∃x(Gx∧Fx)」という命題と
「∃x(¬Gx∧Fx)」という命題が両立(ともに真でありうる)
することがあってはならないのである。
261 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 02:13
>>260の続き
つまりここでぱんどら氏は意味論的真偽(個々の言葉の意味解釈)から
論理的(論理語のみに基づく)真偽関係を決定するというアクロバティ
ックな芸当を行っているのである。
(もうこの時点でぱんどら氏の頭のなかで意味論的真偽と
論理的(論理語のみに基づく)真偽が分かちがたく結び付けられ
混同されていることがわかる)
もちろんこのぱんどら氏の疑義は間違っており、
@「∃x(Gx∧Fx)」から「∃x(¬Gx∧Fx)」は導出できないし
A「∃x(Gx∧Fx)」と「∃x(¬Gx∧Fx)」が排他的関係に
あるわけではない。
これは純粋に論理的(論理語のみに基づく)真理
(ルールといってもよい)であって、個々の記号の意味は考慮する
必要はない。
さてこの後、logician's red氏は@を指摘し、
後に登場する代理いぬ氏はAを指摘することでぱんどら氏に反論する
のだが、そのような反論はここでは有効ではないことがわかる。
ここで重要なことは、ぱんどら氏が立っている前提が間違っている
ということであり、間違った前提から導出される個々の主張に反論
しても、相手を納得させることはできない。
262 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 02:18
>>261の続き
しかし、logician's red氏はこのぱんどら氏のアクロバティクな誤解をうまく
理解できず、論理的(論理語のみに基づく)真偽の議論を繰り返す。
>>178 >その主張は「∃x(Fx∧¬Gx)」と翻訳される。
>試しに「∃x(Gx∧Fx)」から「∃x(Fx∧¬Gx)」が証明可能かどう
>かタブローなりなんなりで確かめてみるといい。証明できないから。
>ゆえにそんな保証はされない。
この主張にたいしても、ぱんどら氏は
>>179 >う〜む、やっぱり「ある哺乳類はある人間である」っておかしいわよ
となおも疑義を呈し、つぎのようなトンチンカンなことを言いはじめる。
263 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 02:21
>>262の続き
>>179 >すてき!!「存在」って議論領域をきめてやらないとだめなんでしょう?
>でこれな〜に?
>>「哺乳類でありかつ人間であるようなものが存在する」といってもいい。
>こういったら、この命題の議論領域決まってないでしょう。
>ここではxはAでありかつBであるって言ってるだけよ。
>∃xGxにおいてG≡(A∧B) これはモデルが未決定である。
>つまり真偽判定できないはず。それでも「人間が哺乳類である」ってのが
>真実であるのは哺乳類が人間の議論領域になっているからで〜す。
>つまり、「哺乳類に人間であるようなものが存在する」が正解です。
>ロジシャンのおじさまのいってること、矛盾してるわ。ダメねぇ
264 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 02:26
>>263の続き
議論の流れを見ればあきらかであるが、<この議論>において人間、
哺乳類という記号を持ち出したのはぱんどら氏自身であり、人間、
哺乳類という言葉は「∃x(Gx∧Fx)」という命題を表現するた
めのたんなる記号としてつかわれているにすぎない。(すくなくとも当初は)
したがって、「ある哺乳類であるものはある人間でもある」という命題
は当然それ単独では(意味論的解釈をおこなわない限り)真偽が決定で
きない。
そしてここではだれも真偽を決定していないのだが、
>つまり真偽判定できないはず。
と誰かが真偽をすでに決定しているかのような主張をし。
>それでも「人間が哺乳類である」ってのが
>真実であるのは哺乳類が人間の議論領域になっているからで〜す。
と文脈上意味不明のことをいいだす。
したがって、
logician's red氏が>>187で
>哺乳類が人間の論議領域になっているって意味不明なんだけど。
>しかも「真偽判定できないはず」のものが「真実である」のは、
>えーっとなんていったけ?そういう状況を…。
>そういう状況を矛盾しているといいます。
と困惑を表明するのも無理はない。
265 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 02:30
>>264の続き
ただここでの logician's red氏の返答はまずい。
>つまり真偽判定できないはず。それでも「人間が哺乳類である」ってのが
>真実であるのは哺乳類が人間の議論領域になっているからで〜す。
というぱんどら氏の主張は文脈を除外すればそれ自体はまちがっておら
ず、(つまり、命題単独では真偽が決定できず、真偽を決定する場合に
は議論領域を決定しなければならないとパンドラはここでいっているが、
この主張自体はただしいのだが、持ち出す文脈がむちゃくちゃなのである)
したがってここではlogician's red氏は
自分は、
>>178で
>「∃x(Gx∧Fx)」はまず「哺乳類でありかつ人間であるようなものが存在する」
>と翻訳される。そのように存在するものは、
>「ある哺乳類は人間である」といってもいい。
>「ある哺乳類はある人間である」といっても意味は同じだろうからまあいいか。
>逆に「ある哺乳類は人間である」のなら
>「哺乳類でありかつ人間であるようなものが存在する」といってもいい。
>この翻訳は同値なのだ。だって形式化したら同じ形なんだもん。
と論理的真偽関係(論理語のみにもとづく真偽)について語ったが
あなたとの議論において「人間が哺乳類である」が意味論的に真である
なんて一言も言ってません」
と返答すればよかったのである。
266 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 02:35
>>265の続き
以後ぱんどら氏の主張は独り善がりをつよめ、
もはや議論の発端がなんであったのかが忘れ去れられ、
「人間と哺乳類」という記号を持ち出したのが、
論理的真偽(論理語のみに基づく真偽)の議論のなかであり、
∃x(Gx∧Fx)という命題の一例としてであったこと。
したがって、人間と哺乳類という言葉の意味はこの議論にとって無関係である
ことが完全に無視されてしまう。
>>188でぱんどら氏独自の論理規則がのべられ、
>原始命題はA,B二つの概念より構成されているがおのおのにセマンティクス
>が与えられた時点でその記述式は固定されるのではないかと考える。
>A:人間 B:哺乳類 が与えられたとき「AはBである」は正確には
>「すべてのAはあるBである」の記述しかできない
そしてついに
>∃x(Fx∧Gx)の記述は上記Cのケースのみ可能なのではないか?
>すなわち、A:人間 B:子供 のような場合。
>よってA:人間 B:哺乳類 に関しては不適当ではないかと考える。
>ないし、なんらかの条件式を加えることにより、この式が成立するか否か?
>以上の推論が妥当なものか否か知りたい。
と、論理的真偽(論理語のみに基づく真偽)の議論から意味論的
(個々の記号の意味に基づく)真偽へと完全に話しが移行してしまう。
267 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 02:47
>>266の続き
つぎに代理いぬ氏が登場する。
>>217 >次にぱんどら君の"スタンダードバージョン"とやらは、
>実世界をモデルとすることにとらわれて、∃x(Gx∧Fx)が、
>>人間であって,哺乳類でないものも保証(ぱんどら)
>することを危惧しているということ。
>真に形式化された手続きとしての論理学を考えるならば、
>∃x(Gx∧Fx)という命題は、
>「人間であって哺乳類でないものの存在」を容認できる。(保証はしないが)
>現に、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない。
上述したように、ここで代理いぬ氏は
>「∃x(Gx∧Fx)」 は「ある哺乳類であるものはある人間でもある」ってなって
>しまいませんこと?
>てことは人間であって,哺乳類でないものも保証するってことになってしまい
>ませんこと。????
というぱんどら氏の疑念に対して、
A「∃x(Gx∧Fx)」と「∃x(¬Gx∧Fx)」が排他的関係にない
(つまりある人間は哺乳類であるという命題と
ある人間は哺乳類でないという二つの命題はともに真であってかまわない)
という趣旨の指摘を行っている。
268 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 02:52
>>267の続き
>真に形式化された手続きとしての論理学を考えるならば、
>∃x(Gx∧Fx)という命題は、
>「人間であって哺乳類でないものの存在」を容認できる。(保証はしないが)
「保証はしないが」という言葉で明白だが、ここでは代理いぬ氏は
(∃x(Gx∧Fx)という命題と、「人間であって哺乳類でないものの存在」
という命題がともに真であることもありうるといっているのであり、
同値であると主張しているわけではない(同値を主張しているとすれ
ば<保証する>といわねばならない)ことに注意しておこう。
そして
>現に、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない。
と主張を補強する。
ここまでで代理いぬ氏の主張の意図は明らかだと思うが
ここにぱんどら氏に勝らずとも劣らない独り善がりの人物が登場し
議論はさらに混迷を深めることになる。
269 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 02:56
>>269の続き
>>218 >>現に、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない。
>矛盾しないというのは、2つの命題の真偽値が異なることはないという
>ことだから、上の2つの命題は矛盾してるようにしかみえないけど。
>だって、Gx∧¬Gxは偽でしょ。
>∃x(¬Gx∧Fx)→∃x(Gx→Fx)は真だと思うけどね。
ここで218氏は、代理いぬ氏の主張がぱんどら氏の主張に対する反論
であるという文脈を無視し、しかも
>「人間であって哺乳類でないものの存在」を容認できる。(保証はしないが)
>現に、∃x(Gx∧Fx)と∃x(¬Gx∧Fx)は両立し、矛盾しない
という文の上段をばっさり切り取り、矛盾しないという言葉だけを
取り上げ
>「矛盾しないというのは、2つの命題の真偽値が異なることはないという
>ことだから、上の2つの命題は矛盾してるようにしかみえないけど。
と主張し、
>>227において
>「両立し、矛盾しない」ことを「同値である」ことだとする。
として、同値でないことの証明をおこない@`代理いぬ氏の主張に反論する。
270 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 02:59
>>269の続き
この時点で二人の論点はすでにずれており、
その指摘をされた227氏(218氏)のコメントは
>たったそれだけのことを言いたかったの?(藁
>でも「矛盾しない」と書いてるから、
>「同値」と解釈せざるを得ないよねえ。
>最初から「ともに真となる場合がある」という意味で書いたなら、
>反証を出されたときに、はっきりそう指摘すればいい。
というものだ。(教訓、誤解されたほうがわるい)(笑)
271 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 03:15
>>270 結局、logician's red氏も代理いぬ氏もぱんどら氏を納得させる
ことはできず、ぱんどら氏の独走はつづいていく。
この論争をうけてパンドラはさらなる脱線発言をおこなう。
>>236
>すなわち両立するとは 、∃x(Gx∧Fx)≡∃x(¬Gx∧Fx)ということでなく、
>(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))が少なくも恒偽ではない、ということ。
>しかしながら、(A∧B)∧(¬A∧B)はA,Bのいかなる値に対しても偽。
>よって、その特称を捉えた各要素の式、上の式も偽、矛盾式
と主張し、もはや伝統的論理学の骨も残らぬほど無残に改定された
新論理学のルール(笑)が提示される。
ぱんどら氏によると
(A∧B)∧(¬A∧B)が矛盾式であることから、
(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))が矛盾式であることが
導出できるという。
272 :
考える名無しさん:2000/11/16(木) 03:48
>平成の暇人
だから、あんた個人は何を言いたいんだよ?
273 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 04:00
ただ議論の流れを解説してるだけ(笑)
議論を整理するのは大事でしょ?
274 :
考える名無しさん:2000/11/16(木) 04:07
>平成の暇人
整理するような話かよ(笑)
おまえ代理イヌだろ 不利なところ全部省いてるな(笑)
275 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 04:09
ちゃうちゃう。
そこも解説するから紹介してちょ。
276 :
平成の暇人:2000/11/16(木) 04:12
あと、最初に書いたけど、「非論理的な人を〜」のスレッドを読んだ
から、その一例かなとおもって(笑)
主にぱんどら氏の主張にまつわる論争をとりあげたのね。
それでぱんどら氏中心の解説になっている。
277 :
食いだおれさん:2000/11/16(木) 04:46
ああ、流されちゃった。
でも反論。
>234
ほんとにベン図に書いたか?
両立しても(どちらも真でも)、矛盾はないだろ?
あと、
>(¬∃xGx)→(¬∀xGx)が偽になるわけではないんだよ。
そりゃそうだけど、それって特別な場合じゃないか?
xに特別な範囲がなきゃ偽になる場合もある。
久しぶりに見たら、だれかがなんか整理してるとか言いながら
さらっと批評を加えてるし。
278 :
食いだおれさん:2000/11/16(木) 05:04
>234
見てたら、またなんか書きたくなった。
>(¬∃xGx)→(∃x¬Gx)と言い換えることもできる。
>「Gという性質をもつxが存在しないならば、G以外の性質をもつ
>xが存在する」。
>論理学は侮れないねえ。
それは(¬∃xGx)→(∀x¬Gx)で十分だろ?(これもベン図書いてみな)
論理学侮ってるのはおまえだろ
>ほんとにベン図に書いたか?
>両立しても(どちらも真でも)、矛盾はないだろ?
「どちら真」なら「矛盾がない」のは当たり前。
「反論」するのはいいけど、ちゃんと読んでからにしようね。
>>234にていねいに書いてあるでしょ。
>それは(¬∃xGx)→(∀x¬Gx)で十分だろ?
じゃあ、あなたの言うとおり(¬∃xGx)→(¬∀xGx)を偽としようか。
それで
>>227の論証の結論が変わりますか?
280 :
食いだおれさん:2000/11/16(木) 06:38
ごめん、またわけわかんない事書いた。ミス多いね。
277の間違い
両立し、矛盾しないってのを同値ととらえれば(両方真で、どんな場合も矛盾しない)、
前に書いてあった証明でたぶんあってる。
>>(¬∃xGx)→(¬∀xGx)が偽になるわけではないんだよ。
>そりゃそうだけど、それって特別な場合じゃないか?
>xに特別な範囲がなきゃ偽になる場合もある。
これは嘘、上のは双条件じゃなくて片条件だから
(¬∃xGx)→(¬∀xGx)はどんな場合も真。(ごめんね)
278の間違い
こっちもあれだ、
(¬∃xGx)→(∃x¬Gx)⇔(¬∀xGx)
てことを言いたかったようで
上の補足の意味だった。
んで、234は
>だから、「xが存在するすべての可能世界について、
>∃x(Gx∧Fx)≡∃x(¬Gx∧Fx)は真」とは言えないよね。
てことを言いたかったのか、
277で「矛盾がない」てのは言い過ぎだった。
「成り立つ時がある」というのが正しいな。
やっぱり論理学は侮れないな・・・。
281 :
OFW:2000/11/16(木) 07:09
皆様。お早ようございます。予想通り議論が錯綜して参りました。
多分このスレは20世紀中に軽く1000を超えるでしょう。
>>257(野次馬さん)
>なぜ論理学を事実(時空の中で展開される現象)に
>当てはめようとするのだ? 論理学で定義される論理は
>論理学の中でのみ有効だ。
そもそもこのスレは「論理学の定義」を巡る議論として展開されている
ので、それは論理的に実証することでしか果たせないという、すこぶる
弁証法的な場なのです。
>>258(平成の暇人さん)
>なるほど。ここにそのいい見本がいるかも(笑)
確かにぱんどらさんは論点を(半ば意識的に)ずらしているが、決して
非論理的ではない。かなり良い線を逝っている。
あと、
1.議論が進行中の時は、解説(言及)は必要な場合以外はやめま
しょう。それ自体が論点ずらしになります。
(メタ発言は動議の提出か、意図の確認に止めましょう。へたを
すると荒らしになる。)
(一貫性の原則)
2.解説するなら、全員(すべての私)の意見を無視しないように。
(民主的公平の原則、議長がいないのは掲示板の特徴。)
3.だらだらと長い発言はできるだけ避けるように。(効率性の原則)
282 :
ぱん"どら":2000/11/17(金) 00:23
は〜いOFWさま、実在の反論は明日かきま〜す。
う〜む、犬のおじ様に「影」の術を使ったから、暇人さまって犬のおじ様の「影」
かもね。
でも、ほんとうのこといいますと、これ教科書の丸写しです。
とりあえず、トレーニングで使用しました〜。
>>257 >事実まで論理学を延長することは可能か?
>可能ならばどのようにしてそうしたのだ?
そこまで確信してるわけではありませ〜ん。
ただ、今の混乱が収集してわたしがのこれるなら、
>6.42
>それゆえ倫理学の命題なるものもありえない。およそ命題はよりたかきものなどを
>表現することはできないのであるから。
え〜、うっそ〜、価値命題って可能命題との絡みで表現されるべきです。
>7
>語り得ぬことについては沈黙しなくてはならない。
そんなえらそ〜に、いってもだめよ。けっこ〜、話す気になればいけるもので
ございますよ・・・。
てなあたりで、やってみたいですね。
わたしの主張は論理式を展開するにあたって、原始命題「AはBである」
の二つの概念は意味区分の宣言が必要で、A@`B間に使用される結合子は
限定されるのではないか、というものです。
犬のおじ様、美熱のおじ様がいうような存在文は一様に∃x(Fx∧Gx)での
表現は不可能ではないかということ。
「哺乳類と人間」の全称汎化にかかわる存在文も連言であらわせば、
「佐藤村の住人はすべて佐藤さんである」の命題を真ならしめるために個々
の要素をすべてを確認していかねばならない。
これはかのミルの誤謬の原理、斉一性の原理にほかならず、全称汎化に伴う
定項が限定なしの項である、という原則に抵触するものではないか、と
思うからです。
うふふ、美熱のおじ様(むむ、すずきそのこを想像してしまう・・・)の反論がたのしみ・・・。
あっそのまえに犬のおじ様が「影」の術つきくずすかもね。
そういえばロジシャンのおじ様どうしたのかしら・・・。
283 :
考える名無しさん:2000/11/17(金) 01:43
>281
1000以上のレスを付けるとスレが消えてしまうのではなかったかな?
というわけで、このスレが1000を超えることはありえないというのは、
論理学的にどう解釈される?
284 :
平成の暇人:2000/11/17(金) 02:14
>う〜む、犬のおじ様に「影」の術を使ったから、暇人さまって犬のおじ様の「影」
>かもね。
う〜む、論争のどちらか一方を弁護するような書きこをすると
その当事者にされちゃうんだなあ(笑)
でもべつに代理いぬを弁護するつもりで書いたわけじゃないん
だけどね。
代理いぬの主張に異論があるならちゃんと反論すればいいんじゃない
まあ、なんでもいいよ。どうせ匿名ネットで証明なんてむりだしね。
>でも、ほんとうのこといいますと、これ教科書の丸写しです。
>とりあえず、トレーニングで使用しました〜。
って
>>255の証明のことですか?
でもあなたの主張は、私の理解が正しいのなら、
(A∧B)∧(¬A∧B)が矛盾式であることから、
(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))が矛盾式であることが
導出できるというものだから、
>>255が
>>236の主張の補足であるなら、
>よって(∃x(Gx∧Fx))∧(∃x(¬Gx∧Fx))は述語論理の公理系Lの
>定理ではない。
ということを証明するのは勝手ですが、
あなたの主張とは無関係ではないでしょうか?
285 :
平成の暇人:2000/11/17(金) 02:17
>わたしの主張は論理式を展開するにあたって、原始命題「AはBである」
>の二つの概念は意味区分の宣言が必要で、A@`B間に使用される結合子は
>限定されるのではないか、というものです。
意味区分の宣言というのがどういうことなのかよくわかりませんが、
命題「AはBである」 のA,Bにはどんな対象でも当てはめる
ことができます。
命題「AはBである」は真でも偽でもない単なる命題
だからです。
>哺乳類と人間」の全称汎化にかかわる存在文も連言であらわせば、
>「佐藤村の住人はすべて佐藤さんである」の命題を真ならしめるために個々
>の要素をすべてを確認していかねばならない。
>これはかのミルの誤謬の原理、斉一性の原理にほかならず、全称汎化に伴う
>定項が限定なしの項である、という原則に抵触するものではないか、と
>思うからです。
まず、斉一性の原理とは帰納法にまつわる問題ですよね。
簡単にいえば、
「これまでかならずそうであったという事実から、恒にそうである」
という結論なり一般法則を立てることですよね。
一方あなたが言っている
佐藤村の住人がすべて佐藤さんかどうかは、
あなたがいうとおり、実際に佐藤村をしらべなければ真偽がきめられ
ません。
そして佐藤村のすべての住人を調査した結果、
すべて佐藤さんであったことが確認されれば、その命題は真となります
これは端的な(確認された)事実であって、
斉一性の原理とは関係ありません。(笑)
むろん、佐藤村の住人のうち100人を調査しただけで、100がすべて
佐藤さんであったのだから、のこりのすべても佐藤さんであると
結論づけたとすれば、その場合は、誤謬推理となりますが。
以上、代理いぬの影の主張でした(笑)
286 :
平成の暇人:2000/11/17(金) 02:35
>
>確かにぱんどらさんは論点を(半ば意識的に)ずらしているが、決して
>非論理的ではない。かなり良い線を逝っている
そうですか、私の理解力がたりないだけかもしれませんね。
あと、あなたがスレッドの議論のルールを立てるのは自由ですが、
それに従うかどうかは私の自由です。
といっても、三点のルールに依存があるわけではないので、
それに従いましょう。
議論を流して失礼しました。
287 :
微熱症患者:2000/11/17(金) 02:42
えっと、議論がちょっと私の手には負えないレベルになってきました。
(もともとそうだったのかもしれませんが)
私が一般教養の授業で習った論理学では「全称例化」と「存在汎化」は
ありましたが、「全称汎化」という言葉はぱん"どら"さんの書き込みで
初めて知りました。
そこで「全称汎化」とはどのような推論規則なのか(あるいは推論規則
ではないのか)教えて頂ければ幸いです。
>暇人
掲示板の容量は限られてるんだから、コピペばっかして無駄遣いすな!ってことだよ。ネット社会の常識だよ。アホ
289 :
平成の暇人:2000/11/17(金) 02:57
単なるコピペじゃなくて、反論している相手の主張の引用
してるんだから、それを非難されてもねえ。
というかこういう引用のしかたは掲示板では普通じゃないか?
しかし、なぜそう感情的になってるんだろうねえ。
290 :
OFW:2000/11/17(金) 06:56
>>283 >というわけで、このスレが1000を超えることはありえないというのは、
>論理学的にどう解釈される?
その前にこの板の統計的なアクセス数から見て、このスレはそうならない
だろう。もっとギャラリーや参加者を増やさなければ、可能性は少ない。
論理学議論も
可能性(「1000を超え得る事」はそれ自体矛盾を含んでいない)
蓋然性(過去の統計からの予測による確度(確からしさ))
条件性(もし発言者が増えれば、確度は上がるという実在的可能性)
必然性(どんなに条件が揃っても、管理人の設定した規則は絶対的で
あり、そうならない(他であること)は不可能である。)
現実性(議論が真に本質的なものであれば、それは外的な条件によらず
自らを真理として現実化するだろう。必然的なものは条件に
媒介されている。しかし、それは無条件的(絶対的)である。
それは本質の媒介的な顕在化として内的なものの外化であり、
実体として自己に止まるものである。そうなれば、管理人の
規則はむしろ相対的なものとして、例外化を引き起こす。
本質的なものとして、自己の運命を自己の未来に変えるものが
ある。必然性の真理、それは自由である。)
について実践的な話をしよう。論理は現実に向かうものでしょう。
>>286(平成の暇人さん)
>三点のルールに依存があるわけではないので、それに従いましょう。
>議論を流して失礼しました。
ルールは自然にできる(伍長さぁん、出番だよ!)あるいは民主的に作ら
れるべきものであり、結局の所権力者が恣意的(随意的)に設定できるも
のではない(盗聴法反対!)。
どんどん参加してこのスレを盛り上げて下さい。
(言い過ぎ失礼しました。)
291 :
logician's red:2000/11/17(金) 14:12
ふぁ〜、レスつけるのがめんどうになっちゃってここのところ放置ロムでした。
近日中にまた来ます。
292 :
ぱん"どら":2000/11/17(金) 18:24
>>291 ↑ま〜、ロジシャンのおじさっまってそれだけ?
ひとのことじらすの好きなのね。ちょっといじわるっておもいませんこと?
しげきちょーだい。
おじ様の言ったとおりわたしの教科書は、のやしげきの「論理学」です。
293 :
ぱん"どら":2000/11/17(金) 18:26
>>249 >揚げ足取りをするつもりはないが、結局「実在などない」って事?
そういうこったす。
>「ある存在者を指示する」だけでは真偽判定可能ではないが「そこにある」
>のは実在者(あるもの)でしょう。そしてそれは「立てる」(措定)する
>前に既にそこにある(前提されている)のです。それは存在者の場所的
>(空間的)限定です。
繰り返しになりますけど,単純に「BにAがある」で「Aがある」だけでは議論領域
がきまってないでしょう。ゆえにそれは不完全な記述に過ぎないのであって
実在って、議論領域のない対象,つまり真偽不定ゆえに思考の対象にならない
ということです。座標軸ない対象Mからどうやって力学が記述できますか?
まあ、この件ではクオリアみたいなものも考慮しなくちゃいけないのかも
しれないけれど、それって論理式では最初の定項みたいなものでしょう?
最初の定項での記述はFaでしょう。
そしてそれは意識に最初に与えられる感覚だ。目の前のしみを文字であるとか
図形であるとするのは知覚が入り込んでいる。
初めはわたしも其の知覚以前の感覚がクオリアで実在に該当するのかなとも
思いましたけれど,それはやはり、「いまそこに、それがある」といった命題は
定立せざるをえないと思ったわけ。(代名詞でしか表現できない)
最初の議論領域「いまそこ」は時空の概念、延長とか左右とか前後、過去現在
未来といった知覚も全くない状態だけれども「そこに、それがある」はどうも
捨てきれないんですよ。
多分これがクオリア。そこからあーのこーの知覚が入り込んでいくわけですね。
これはやはり「BにAがある」の形式から抜け出てないと思います。
ゆえにわたしは「実在」という概念は無用のものとするわけ。
難しいこといって実在とはどうのこうの言えるかもしれませんが、なんとも
この基本形を崩せません。
Faでも議論領域がなくって真偽判定できないないはず,ならば実在は無用。
カントはアカント。
294 :
ぱん"どら":2000/11/17(金) 20:58
>>287 >えっと、議論がちょっと私の手には負えないレベルになってきました。
え〜、信じられません。戦線離脱なんですか?
>「全称汎化」という言葉はぱんどらさんの書き込みで初めて知りました。
これも信じられませんでした。
>そこで「全称汎化」とはどのような推論規則なのか(あるいは推論規則
ではないのか)教えて頂ければ幸いです。
試されてるのかも〜・・・がROMしてる方で参考になる方いるかもしれないから
教科書から抜粋してみます。(疑ってゴメンナサイ)
命題論理の公理系は野矢はLPといってますね。廣瀬系はLKといってるみたい。
要するに基本となる公理はトートロジーでA、Bにあたえられる真理値がいかなる
値をとっても常に真であるような形式を取らねばならない・・・ですね。
LPは⊃、¬、∧、∨の導入則と除去則、計八個から成立してます。
【公理系LP】
規則1「演繹規則DR」Aを仮定してBが導出されるとき、Aという仮定なしに
A⊃Bを導入してよい。
これって「導出」を⊃って読み替えると,(A⊃B)⊃(A⊃B)になりますから
トーとロージーってことですね。これは⊃の導入。
規則2「前件肯定式MP」A,A⊃BからBを導出してよい。
これは(A∧(A⊃B))⊃Bってこと。これは⊃の除去。
規則3「背理法」A⊃(D⊃¬D)から¬Aを導出してよい。¬の導入。
規則4「二重否定」¬¬AからAを導出してよい。
規則5「結合」A,BからA∧Bを導出してよい。
規則6「分離」(1)A∧BからAを導出してよい。
(2)A∧BからBを導出してよい。
規則7「∨入れ」(1)AからA∨Bを導出してよい。
(2)BからA∨Bを導出してよい。
規則8「∨取り」A∨B@`A⊃C@`B⊃CからCを導出してよい。
以上は命題論理ですからこれに量化子の規則を加えたものが述語論理の
【公理系L】となるということだそうです。
規則9「全称汎化」Atから∀xAxを導出してよい(ただしtは限定なしの項)
∀の導入
規則10「全称例化」∀xAxからAtを導出してよい。(tは任意の項)∀の除去。
規則11「存在汎化」Atから∃xAxを導出してよい。(tは任意の項)∃の導入。
規則12「存在例化」∃xAx、Aα⊃CからCを導出してよい。(・αは新しい
項の記号であること,Cには項αがふくまれてないこと)∃の除去。
・・・・
だそうです。
ところで規則8に関連して
((A∨B)∧A)⊃Aはトートロジーなのに「A∨B、AからAを導出してよい」は
なんで規則にならないんでしょうね?
295 :
ぱん"どら":2000/11/17(金) 23:03
>>285 >命題「AはBである」は真でも偽でもない単なる命題
だからです。
近代論理学の命題論理が原始命題の真偽に全く責任を持たないわけですが
あなたはなぜそういえるのですか?
単なる受け売りかな?
アリストテレスは概念の全称と特称の肯定と否定をやったでしょう。
無視しすぎだと思います。
単に全称といっても、掛かる述語部の全称と特称も考えてもいいでしょう。
>そして佐藤村のすべての住人を調査した結果、すべて佐藤さんであった
>ことが確認されれば、その命題は真となりますこれは端的な(確認された)
>事実であって斉一性の原理とは関係ありません。(笑)
わたしの言ってること理解しようとは思っていらっしゃらないでしょう?
例えば太陽を取り巻く空間調査をやっていて、平行に発射したはずのレーザー
光線が交わってしまった。
@これはユークリッドの第五公準がまちがっていたのだ、とするのは斉一性
のほうです。斉一性も確認して違った結果が出たらとりさげるとおもいます。
帰納法は体系における暫時的仮定ですからね。
要するに不安定を甘受しなければならない。
A公理主義ではこんな解釈、つまり太陽を取り巻く空間ではユークリッドは
適応できなかった。別に第五公準がまちがってるとかでなくてですね。
「佐藤村のすべての住人の姓は佐藤である」が
∃x(Fx∧Gx)ならば
佐藤村の住人であり、かつ佐藤姓であるようなxが存在する、は@
∃x(Fx⊃Gx)は
佐藤村の住人であるならば佐藤姓であるようなxが存在する、はA
だから行政などで一括同姓のようなもの。
江戸から明治に移るときはこんなこともあったんじゃないかと思います。
@の解釈では鈴木さんが出てきたら単に命題が否定されるだけ。
Aだったら、その後移住者があったんだとかの解釈になるでしょう。
よって
もどるけれど、「哺乳類であり,かつ人間であるようなxが存在する」が
∃x(Gx∧Fx)になるような記述はおかしい、とおもいます。.
それは一件一件の観察確認を前提としている。
ゆえに哺乳類でなくって人間であるようなxを容認せざるを得ない。
そもそも人間は哺乳類であるという命題は定義であって事実の観察では
ない、ということでした。
>むろん、佐藤村の住人のうち100人を調査しただけで、100がすべて・・・
>以上、代理いぬの影の主張でした(笑)
わたしがさきに佐藤村の件で行政のこと書いたのみてなかったでしょう?
忍者のクセにダメですねぇ(笑)
296 :
OFW:2000/11/17(金) 23:05
>>293(ぱん"どら"さん)
>繰り返しになりますけど,単純に「BにAがある」で「Aがある」だけで
>は議論領域がきまってないでしょう。
「Aがある」ではなくまず「何ものかがそこにがある」でしょう。場所は
限定、対象は未規定です。
「神は始めに『光りあれ』と言われた」時、彼はどこにいたのか?(古!)
>ゆえにそれは不完全な記述に過ぎない
記述はすべて不完全なものです。完全な記述とは如何なるものか?
議論できないものをすべて虚偽だとすることはできないでしょう。
「語り得ないものについては、沈黙しなくてはならない。」(再登場)
実体(主語になって述語にならないそれ)自体は語り得ないものだが、
主体化すれば、とてもおしゃべりになる。
>実在って、議論領域のない対象,つまり真偽不定ゆえに思考の対象になら
>ない
「何だ、これは?」「それはあなたの影よ。」
「嘘だ。おれは幽霊(非実在)だから、影も居場所も持たないはずだ。」
「本当よ。そんなこと議論無用よ。」
「実在とは何か?」…かくて、幽霊は実在(自らの影)を対象に哲学的
思考を始める。
>最初の定項での記述はFaでしょう。
最初の定項(定有)は「Da-sein」(いきなりドイツ語、そこに
あるもの)でしょう。それは、おっしゃる通り、不定な定項(指示代名詞)
です。対象を指示し実在性(質)として規定する。それが何かを巡って質
の弁証法が始まります。「赤いそれ、青くないそれ、白くないそれ、…」
(「実在するものは質として規定され、非実在性(否定性)にされる。」
あるいは「赤の表象(概念)は赤くない」)
297 :
OFW:2000/11/17(金) 23:08
>>293(ぱん"どら"さん)(つづき)
>初めはわたしも其の知覚以前の感覚がクオリアで実在に該当するのかな
>とも思いましたけれど,それはやはり、「いまそこに、それがある」とい
>った命題は定立せざるをえないと思ったわけ。(代名詞でしか表現できない
そうでしょう。「質感」は実在感であり、それは生命体と外界との間の共振
的な受容・弁別反応であり、有機体の対象措定活動自体です。
>ゆえにわたしは「実在」という概念は無用のものとするわけ。
結局、「論理的でないものは存在しない」という観念論になるわけ?
大体、言葉や記号による議論の前に、非言語的な身体的・感性的な交信・
交感があり、それは論理的な「真」には還元できない実在的な「信」を
形成している。そして、いわゆる「論理的なもの」は非論理的なもの
(実在)から生成し、それを真なるもの(真実在)として定立する運動の
ことです。つまり、真理は概念形式の発展として生成するものです。
(当面の議論の筋とは少し外れてきたかな。形式論理に戻ろうっと。)
298 :
ぱん"どら":2000/11/18(土) 00:10
>結局、「論理的でないものは存在しない」という観念論になるわけ?
そうです。もともと、「存在」という概念自体言葉と切り離せない。
>「赤いそれ、青くないそれ、白くないそれ、…」
(「実在するものは質として規定され、非実在性(否定性)にされる。」
これが知覚の始まり。当然、議論領域が前提になってます。
やはり、YahooのKIDAMASAさんみたいな考えにどうしても賛成します。
「実在」は真偽判定不能,ゆえに無意味。←これ彼の意見じゃないですけど・・・。
299 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 07:03
>ところで規則8に関連して
>((A∨B)∧A)⊃Aはトートロジーなのに「A∨B、AからAを導出してよい」は
>なんで規則にならないんでしょうね?
冗長だからです(笑)
(A∨B)は不必要だと思いませんか?
なんなら((AΛB)∧A)⊃A も規則に加えますか?(笑)
300 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 07:04
>近代論理学の命題論理が原始命題の真偽に全く責任を持たないわけですが
>あなたはなぜそういえるのですか?
命題論理が原子命題の真偽に責任をもつという表現がよくわかりませんが、
私の回答は、もともと論理学が目指したのは妥当な推論形式の発見であり、
命題論理もその流れの中にあるからです、というものです。
例えば、
@人類は哺乳類である。
A哺乳類は空を飛ぶ
ゆえに
人類は空を飛ぶ
という推論は論理的に正しい推論です。
なぜならそこで問われているのは推論形式の妥当性であり、
個々の原子命題の意味ではないからです。
そして個々の原子命題の真偽を判断するには名詞の意味を
解釈する必要がありますが、この二つは異なった作業だとは
思いませんか?
301 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 07:09
要するに命題論理学とは、ならば、かつ、またはなどの論理語の意味
に基づいて、あるいは論理語の意味さえ取り払って公理化した上で、
命題の導出関係を判断する言語に関する一つの規則(ルール)にす
ぎません。(テキトー言ってます誰かつっこんでください)
自然言語(日常言語)は論理学を含みますが、論理学が日常言語
を含むわけではないのです。
伍長さんという人が言っていた行動分析学の言葉を借りれば、
論理学とは、人が言葉を話す随伴関係を記述したある一つの解釈(ルール)に過ぎないのです。
そのルールが現在でも生き残っているのはそれが強化されてきたからということに
なるでしょう(ここのへんあってるか?)
なぜ強化されたかといえば、実社会で利用価値があったからではないでしょうか?
(ただしこういう目的論的観点は行動分析学ではただしいのだろうか?)
したがって、それ以外の論理「学」(ルール)も当然可能です。
あなたは、伝統的論理学の規則に対して疑問を持っているのですか?
もしそうなら、それはどのような論理規則がより正しいのか、
あるいは、そもそもただしい論理とはなにかといったメタレベルの
議論になります。
そのようなメタレベルの議論と、伝統的論理学の規則を前提にした上で
なされる、命題の導出関係をめぐる真偽の議論とはレベルの違う議論
です。
あなたはその二つをゴッチャにしてませんか?
302 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 07:11
>単なる受け売りかな?
そう受け取ってもらっても結構です。
私の知識なんぞたかがしれてます(しかも不正確)(笑)
私は別になにか新しい考えを持っているわけでありません。
>アリストテレスは概念の全称と特称の肯定と否定をやったでしょう。
>無視しすぎだと思います。
>単に全称といっても、掛かる述語部の全称と特称も考えてもいいでしょう。
どういうことでしょう?
もうすこし詳しく説明してもらえますか?
303 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 07:14
>わたしの言ってること理解しようとは思っていらっしゃらないでしょう
私ほどあなたの言っていることを理解しようと努めている人間は
このスレッドにはいないと思いますよ。(笑)
ちなみにあなたはこう言っていたのですよ。
>「佐藤村の住人はすべて佐藤さんである」の命題を真ならしめるために個々
>の要素をすべてを確認していかねばならない。
>これはかのミルの誤謬の原理、斉一性の原理にほかならず、全称汎化に伴う
>定項が限定なしの項である、という原則に抵触するものではないか、と
>思うからです。
もしここで「佐藤村の住人はすべて佐藤さんである」を
あなたがいう
>∃x(Fx∧Gx)ならば
>佐藤村の住人であり、かつ佐藤姓であるようなxが存在する、は@
>∃x(Fx⊃Gx)は
>佐藤村の住人であるならば佐藤姓であるようなxが存在する、はA
のどちらの意味に翻訳しても、
>「佐藤村の住人はすべて佐藤さんである」の命題を真ならしめるために個々
>の要素をすべてを確認して
いく作業は
>ミルの誤謬の原理、斉一性の原理
とは無関係だとおもいませんか?
304 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 07:17
@の場合は実際そのように個々の佐藤さんを探していくことでしか
命題の真偽はきめられないし、
Aの場合は、あなたがいうには定義文になるのだから、
個々の佐藤さんを探してくのは無意味だとしても(だって佐藤村
にいる住人をみな佐藤とすると定義したんだから)どちらであっても
ミルの誤謬の原理、斉一性の原理とは無関係です。
違いますか?
あと、
>全称汎化に伴う定項が限定なしの項である、という原則に抵触するものではないか、
という話しが 「佐藤村の住人はすべて佐藤さんである」という話しと
どう関係するのか教えてもらえませんか?
305 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 07:20
>そもそも人間は哺乳類であるという命題は定義であって事実の観察では
>ない、ということでした。
っていつ、誰が、そういうことにしたんでしょうか?(笑)
ようするにあなたは、人間は哺乳類であるという命題は定義文なのだか
ら「哺乳類でなくて、人間である」ような存在は「定義上」ありえない。
よって、あたかもそのような定義を乱す存在がいるかのように解釈でき
る命題、ある人間はある哺乳類である(∃x(Gx∧Fx)のGとF
に人間と哺乳類を代入して成立する)は正しくないといいたいのですね。
だとすれば、その主張は個々の語の意味に基づく命題の解釈の議論
であって、論理語に基づく命題の導出規則とは無関係ではないですか?
306 :
考える名無しさん:2000/11/18(土) 07:23
訂正。
(∃x(Gx∧Fx)のGとF
に人間と哺乳類を代入して成立する)
じゃなくて「∃x(Gx⊃Fx)」のほうね。
307 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 07:26
もしあなたが、命題の導出規則に、命題を構成する名詞の意味を考慮す
べきであると考えているなら、あなたが>>255で
命題の導出規則に関する公理を書いたのはなぜなのでしょうか?
そこに書かれた導出規則には個々の命題を構成する
名詞の意味はまったく考慮されていませんが、あなたは
納得されているのでしょうか?
308 :
OFW:2000/11/18(土) 10:37
>>300(平成の暇人さん)
(横レス失礼)
>もともと論理学が目指したのは妥当な推論形式の発見であり、
質問1:「妥当な」とはどういう事でしょう?下記のうちどれ?
1. 誰もが「正しい」と認めている、普遍性をもった
(正しいとは取りあえず、「容認できる」といった程度のこと)
2. 誰もが従うべきだと考えられる
3. 論理学界の中で「論理的に正しい」として認められる
4. 上記以外(具体的な説明要)
5. 質問は無意味
6. 答えたくない
7. 実際に答えない → これも回答のうち
309 :
OFW:2000/11/18(土) 10:39
>>300(平成の暇人さん)
(横レス失礼つづき)
>@人類は哺乳類である。
>A哺乳類は空を飛ぶ
>ゆえに
>人類は空を飛ぶ
>という推論は論理的に正しい推論です。
質問2:上記の大前提は
1. すべての人類は哺乳類である → 無意味
2. ある人類は哺乳類である → 無意味
3. 人類なるもの(人類という種)は哺乳類である → 無意味
4. 人類という種は哺乳類という生物学的類に属する → 種の定義
5. 人類に属するすべての個体は哺乳類に属する個体でもある
→ 定義という帰納的総合命題からの実在的個体に関する分析的言明
のいずれでしょうか?
質問3:上記の小前提は
1. すべての哺乳類は空を飛ぶ → 無意味
2. ある哺乳類は空を飛ぶ → 無意味
3. 哺乳類なるもの(哺乳類という生物学的類)は空を飛ぶ → 無意味
4. 哺乳類に属するすべての個体は空を飛ぶ
のいずれでしょうか?
質問4:上記の帰結は
1. すべての人類は空をとぶ → 無意味
2. ある人類は空をとぶ → 無意味
3. 人類なるものは空を飛ぶ → 無意味
4. すべての人類に属する個体は空を飛ぶ
のいずれでしょうか?
前の方で微熱さんにも言いましたが、
種の定義がなければ、推論は妥当ではないでしょう。
310 :
OFW:2000/11/18(土) 10:42
>>301(平成の暇人さん)
(横レス失礼つづきのつづき)
>要するに命題論理学とは、ならば、かつ、またはなどの論理語の意味
>に基づいて、
また出ましたね。
質問5:「論理語」「論理語の意味」とは何でしょう?
>あるいは論理語の意味さえ取り払って公理化した上で、
命題の意味を問わないのは良いとしても、論理語の意味を問わない
のは論理学自体が無意味だということになるのでは?
>伍長さんという人が言っていた行動分析学の言葉を借りれば、
>論理学とは、人が言葉を話す随伴関係を記述したある一つの解釈(ルール)
>に過ぎないのです。
私も「今まさに言葉を話している人」の一員でしょうから、上記の例につ
いて話す私の随伴関係を行動分析学者はどう記述するのでしょうか?
「OFWは規則の表現を見て、非論理的な反応を強化している」?
伍長さぁん、答えて下さい。
311 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 11:35
おっ反応があった。どれどれ。
>質問1:「妥当な」とはどういう事でしょう?下記のうちどれ?
>1. 誰もが「正しい」と認めている、普遍性をもった
> (正しいとは取りあえず、「容認できる」といった程度のこと)
誰もがというのはありえません。
これは後でのべますが、了解の地平の問題に関係します。
>2. 誰もが従うべきだと考えられる
アリストテレスはそう考えていたかもしれませんね。(よーしらんけど)
>3. 論理学界の中で「論理的に正しい」として認められる
これは狭すぎます。もし論理学界(それが具体的に何をいみするのかは
ともかく)のみに「妥当」するようなものならこれほど世に広まったり
しないでしょうね。
>4. 上記以外(具体的な説明要)
私の見解はこれになるでしょうね。
妥当な推論といった場合の「妥当」はここでは、一般に広く共有可能な
了解といった意味でいいと思います。
つまり、おおくの人が納得(受け入れられる)できるといった意味です。
>5. 質問は無意味
まさか(笑)
>6. 答えたくない
どうしてどうして(笑)
>7. 実際に答えない → これも回答のうち
これでは回答にならならないじゃん(笑)。
312 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 11:36
>質問2:上記の大前提は
> 1. すべての人類は哺乳類である → 無意味
>2. ある人類は哺乳類である → 無意味
> 3. 人類なるもの(人類という種)は哺乳類である → 無意味
> 4. 人類という種は哺乳類という生物学的類に属する → 種の定義
> 5. 人類に属するすべての個体は哺乳類に属する個体でもある
> → 定義という帰納的総合命題からの実在的個体に関する分析的言明
> のいずれでしょうか?
すべて誤解です。まず論題になっているのが命題論理なので(述語論理ではないので、ご確認を)
すべて、とあるはここではつかえません。
313 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 11:38
@人類は哺乳類である。
A哺乳類は空を飛ぶ
ゆえに
人類は空を飛ぶ
はたんに
@AはBである
ABはCである
@、Aが真であるなら(正しいなら)
BAはCであるが結論できる
という言葉の関係を示した(推論形式)
ものです。
A,B、C(あるいは人類、哺乳類、空を飛ぶ)などの語の意味は
この推論形式の妥当性には関係ありません。
私はこう書いてます。
>なぜならそこで問われているのは推論形式の妥当性であり、
>個々の原子命題の意味ではないからです。
>そして個々の原子命題の真偽を判断するには名詞の意味を
>解釈する必要がありますが、この二つは異なった作業だとは
>思いませんか?
了解いただけますか?
314 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 11:39
>質問3:上記の小前提は
> 1. すべての哺乳類は空を飛ぶ → 無意味
> 2. ある哺乳類は空を飛ぶ → 無意味
> 3. 哺乳類なるもの(哺乳類という生物学的類)は空を飛ぶ → 無意味
> 4. 哺乳類に属するすべての個体は空を飛ぶ
> のいずれでしょうか?
これも誤解です(笑)上記の通り、
@とAを前提するなら、Bが論理的必然的に言える
という推論形式(規則)を提示したものです。
>質問4:上記の帰結は
> 1. すべての人類は空をとぶ → 無意味
> 2. ある人類は空をとぶ → 無意味
> 3. 人類なるものは空を飛ぶ → 無意味
> 4. すべての人類に属する個体は空を飛ぶ
> のいずれでしょうか?
これはもういいと思いますが、念のために
言えば、BのAはCであるが帰結です。
315 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 11:40
> 前の方で微熱さんにも言いましたが、
> 種の定義がなければ、推論は妥当ではないでしょう
再度言いますが
AはBである
BはCである
ゆえに
AはCである
という推論形式には種も個も関係ありません。
ここで表現されているのは、純粋に形式であり、
A、B、Cの語の意味は考慮されないからです。
ところで、以上の説明でOFWさんは
この推論式が妥当だと思いますでしょうか?
316 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 11:41
>また出ましたね。
> 質問5:「論理語」「論理語の意味」とは何でしょう?
私が言っている論理語とは、「または、ならば、でない、かつ」という
言葉のことです。
論理学はこの論理語の解釈によって(真偽をどう設定するか)によって
命題の真偽や導出関係を定めます。
たとえば、
A∨(または)Bとは命題論理では
Aが真でBが真であるとき 真
Aが偽でBが真であるとき 真
Aが真でBが偽であるとき 真
Aが偽でBが偽であるとき 偽
となります。
もちろん他の解釈をすることもできます。
例えば(Aが偽でBが偽であるときも 真とするなど)
>題の意味を問わないのは良いとしても、論理語の意味を問わない
>のは論理学自体が無意味だということになるのでは?
なぜ無意味になるのでしょうか?
317 :
平成の暇人:2000/11/18(土) 11:43
>私も「今まさに言葉を話している人」の一員でしょうから、上記の例につ
>いて話す私の随伴関係を行動分析学者はどう記述するのでしょうか
日本語をしゃべっていると記述するんじゃないですか(笑)
論理学はすでに実践されている言語行為をより明確にしようという動機があります。
日常言語で「それはただしい言明である」とかそれは「正しくない言明である」とか
「その推論は正しい」といわれてきた言明の関係を形式的に明確に取り出すことで
言葉の構造をはっきりさようというわけです。
もちろん論理学が扱う範囲は日常言語の一部でしかありません。
318 :
OFW:2000/11/18(土) 13:58
>>311(平成の暇人さん)
早速のレス有り難うございます。さて、
>妥当な推論といった場合の「妥当」はここでは、一般に広く共有可能な
>了解といった意味でいいと思います。
>つまり、おおくの人が納得(受け入れられる)できるといった意味です。
回答は受入れました。しかし疑問は続きます。
質問1−1:「おおくの人」とはどこまでの人を含めるのでしょう?
妥当だと認める人迄? → トートロジー
質問1−2:「できる」とは可能態でしょう。実証の方はどうなるのか?
>>7. 実際に答えない → これも回答のうち
>これでは回答にならならないじゃん(笑)。
弁証法は無回答も回答のうちに入れる、という実践的な態度です。
「黙殺」および「ノーコメント」というディスコミュニケーションも
それぞれの機能は違うが、何らかのメッセージを伝えるということです。
>>312(平成の暇人さん)
>すべて誤解です。
では、誤解を解いて共通の理解を得るべく、努力したいと思います。
>まず論題になっているのが命題論理なので(述語論理ではないので
>すべて、とあるはここではつかえません。
何故でしょう?述語論理と命題論理の違いを良く知らないので、両者の
関係を教えて下さい。(自分で調べろと言わずに)
319 :
OFW:2000/11/18(土) 14:03
>>313(平成の暇人さん)
>たんに
>@AはBである
この言明(主張)の「意味」が不明です。
分かることは
1.「A」、「B」とは「何らかの名詞的存在」を表わした記号である。
2.「AはBである」とは日常でも使う言明(主張、記述)を記号化
したものであり、そこでは「A」は主語、「B」は述語の代わりで
ある。
しかし、「である」が全く分からない。日常ではたとえば
「これはペンである。」(This is a pen.)とは
a.まず眼の前のものを指して、それが「ペン」と呼ばれるもの
であること
b.「これ」で指されているものが確かに目の前に実在すること
の統一(結合ではない)「である」という言葉で表現します。
また、「1足す1は2である。」(1 plus 1 equals 2.)とは
a.「1足す1」(和)が2という値をもつ
を、すなわち相等性を「である」という言葉で表現します。
さらにまた、「私は大人である」とは
a.私も大人の一員(I am one of Grownups.)
という帰属関係を表現します。それは
b.私は大人と呼ばれるに値する能力、資格をもつ
という価値的関係をも表現している。
「である」とは便利ですが、それぞれの言葉(概念)に応じて関係性が
異なるから、「@Aが正しいならBは正しい」という推論が妥当かどう
かはかどうかなどは、一般的に論じられないでしょう。
それすらも問わないのが論理学でしょうか?
>@、Aが真であるなら(正しいなら)
ほらね。もう「真である」が「正しい」に推移している。
320 :
OFW:2000/11/18(土) 14:06
>>314(平成の暇人さん)
>@とAを前提するなら、Bが論理的必然的に言える
>という推論形式(規則)を提示したものです。
繰り返しますが、実際の例は妥当なものではないのです。
生物学者は怒るでしょう。それは人間が空を飛べないからではなく、
種の定義という前提なしの思弁だから。
>AはBである
>BはCである
>ゆえに
>AはCである
>この推論式が妥当だと思いますでしょうか?
要するにヘーゲルのいう「相等性にのみ基づく数学的推論」として、
それには限度があるのです。
>論理学はこの論理語の解釈によって(真偽をどう設定するか)によって
>命題の真偽や導出関係を定めます。
「真偽を設定する」(!)不思議な言葉だ。如何なることでしょう?
>なぜ無意味になるのでしょうか?
理解不能になるからです。
>>317(平成の暇人さん)
>日本語をしゃべっていると記述するんじゃないですか(笑)
意味のある日本語でしょうかねぇ?伍長氏の見解待ちです。
>形式的に明確に取り出すことで
>言葉の構造をはっきりさようというわけです。
単に外的な形式は恣意的なものであり、内容的な区別を知らない無形式
です。それは如何なる内容(矛盾すら)外部から受け入れる事ができる。
形式と内容は不可分であることは弁証法的な真理です。
あと、「(笑)」というト書きが、どうも気になる。コミュニケーション回路
として情緒的なバイアスをかけるのは、時として「誠実性の原則」に抵触
するのではないかな。
321 :
微熱症患者:2000/11/19(日) 01:05
>>294 「全称汎化」のご説明ありがとうございました。
私がわからなかったのは
>Atから∀xAxを導出してよい
というのがなぜ推論規則として認められるのかということでした。
たとえば「t」を「ソクラテス」、「A……」を「……は人間である」の代理
だと考えると、
「ソクラテスは人間である」から「すべてのものは人間である」が導出できる
ということになり、これはおかしいだろうと思ったのです。
ですが、
>(ただしtは限定なしの項)
と書かれていたので、(「限定なし」とはどういう事なのかはよくわからない
ままですが)「t」を「ソクラテス」の代理として使うような場合の推論規則
ではないらしいということが、おぼろげにわかってきました。
ただ佐藤村の例と全称汎化の規則がどのように関わっているのかはわからない
ままなので、もう少し説明していただきたいと思います。
322 :
微熱症患者:2000/11/19(日) 01:33
>>300以降の平成の暇人さんとOFWさんの議論について。
1.人類は哺乳類である
2.哺乳類は空を飛ぶ
3.ゆえに、人類は空を飛ぶ
という推論の妥当性は、平成の暇人さんが主張されるように「人類」「哺乳類」
「空を飛ぶ」などの語の意味と無関係ではなく、OFWさんのような考察(
>>309)
が必要であると思います(「種」の定義まで要求されるかどうかはともかく)。
なぜなら、上記の推論は命題論理の枠内では妥当性を示すことができないから
です。各語が定項なのか述語(の一部)なのか、また、文中で明示されていな
い量化表現をどのように補うか、といった問題は各語の意味の考察と無関係に
形式的に解決されるものではないでしょう。
(上記の推論を
AはBである
BはCである
ゆえに
AはCである
と部分的記号化を施したとき、「A」「B」「C」は命題ではなく名辞を表し
ます。名辞論理でこの式をどのように取り扱うのかは知りませんが、少なくと
も命題論理では妥当な式ではありません)
323 :
伍長:2000/11/19(日) 03:14
折角の御指名ですので、とりあえず、
>>301(平成の暇人さん)
>伍長さんという人が言っていた行動分析学の言葉を借りれば、
>論理学とは、人が言葉を話す随伴関係を記述したある一つの解釈(ルール)に過ぎない
ここはまあいいでしょう。
>そのルールが現在でも生き残っているのはそれが強化されてきたから
「ルール」ではなく、「ルールに従う行動」が強化されてきたから「ルール」が生き残った。
>なぜ強化されたかといえば、実社会で利用価値があったからではないでしょうか?
そう。そして、とりわけ論理学者の共同体で利用価値があった。
>(ただしこういう目的論的観点は行動分析学ではただしいのだろうか?)
目的論じゃないです。「行動の個体発生は、行動の結果による淘汰の産物である」ということです。
>>310(OFWさん)
>私も「今まさに言葉を話している人」の一員でしょうから、上記の例につ
>いて話す私の随伴関係を行動分析学者はどう記述するのでしょうか?
>「OFWは規則の表現を見て、非論理的な反応を強化している」?
>伍長さぁん、答えて下さい。
はいはい。「OFW氏は『規則の表現』(=ルール)を見て、一連の言語行動を自発し、このスレの成員から強化されると共に、嫌悪的結果にもさらされている」。
強化されていると言うのは、レスが付くから。社会的注目は強力な強化子である。
嫌悪的結果と言うのは、反論されるから。嫌悪的結果にさらされると、通常は当該行動の生起頻度が低下するが、随伴性次第では、逆に高まったり、他の行動(特に情動的な攻撃的行動)が発生したりと、一筋縄ではいかなかったりする。(^^;
これをもって、「OFW氏は日本語をしゃべっている」と記述するのは別に構わないが。。。
で、これらは何もOFWさんに限ったことではない。
324 :
伍長:2000/11/19(日) 03:26
>>316(平成の暇人さん)
>私が言っている論理語とは、「または、ならば、でない、かつ」という言葉
この種の言葉は、スキナーの分類によれば「オートクリティック」と呼ばれる言語オペラントです。
言語オペラント(言語行動の単位)は、その行動随伴性の違いにより、以下のように分類される。
1.マンド(demand要求・命令のmand。)
2.タクト(contact接触のtact。指示対象を指示したり、出来事を報告したりする言語行動)、
3.イントラバーバル(intraverbal。言語刺激「A=B@`かつB=C」に対して、「ゆえにA=Cである」というような、言語刺激に対する照応的な言語行動)
4.エコーイック(echoic。オウム返し)
5.テクスチャル(textual)、及びその他(dictation@` copying)
以上を「一次的言語行動」と呼び、
6.オートクリティック(autoclitic。「自らの言語行動とその制御変数」を制御変数とする言語行動)
これを「二次的言語行動」と呼びます。
いや、ここでこんな事を詳しく説明しても意味はないか。
ここで問題になっているのは、形式論理の妥当性の限界みたいなものですよね?
えーと、まず、事物・事態が記述されるとします。
上記のタクト反応が中心になって、やがて、「人間」「哺乳類」「空」「飛ぶ」といった言葉が言語共同体によって市民権を得た。
(続く)
325 :
伍長:2000/11/19(日) 03:28
(続き)
また、「人間は哺乳類である」「哺乳類は空を飛ぶ」「ゆえに人間は空を飛ぶ」の、「は」「である」「を」「ゆえに」はオートクリティック反応の一種であって、これも市民権を得ることとなった(チョムスキーが怒り狂いそうですが、無視します)
さて、「人間は哺乳類である」「哺乳類は空を飛ぶ」に対して、「ゆえに人間は空を飛ぶ」と答えるならイントラバーバル反応ということになります。
勿論、「人間は哺乳類である」反応は強化されるでしょうが、「哺乳類は空を飛ぶ」反応は普通は強化されないでしょう。
しかし、「人間は哺乳類である」&「哺乳類は空を飛ぶ」から、「ゆえに人間は空を飛ぶ」とイントラバーバル反応をすることは強化されるかもしれない。
つまり、このように反応することが必ずしも罰せられない(どころか、積極的に強化されるような)世界が形式論理学の共同体(ってのが平成の暇人さんの立場かな?)。
形式論理学の共同体は、オートクリティックを含むこの種のイントラバーバル反応をより精緻にすることによって発展した(
>>117参照)。
したがって、論理学音痴の私のサル頭では、
>>313(平成の暇人さん)
>A,B、C(あるいは人類、哺乳類、空を飛ぶ)などの語の意味は
>この推論形式の妥当性には関係ありません。
おそらく、代理いぬ氏やlogician氏もそうなのでしょうが、私も「基本的には」同意してもよい。「全く関係ない」とは決して思わないが、「関係がない」と見なしてよいという充分な確証・支持を、論理学共同体が与えているのであれば、この種の反応は充分に強化的であったはずだから(悪しき道具主義、悪しき相対主義ではない)。
なお、313には「推論形式の妥当性」と書いてある。「推論の妥当性」とは書いてないし。>OFWさん、微熱さん
326 :
伍長:2000/11/19(日) 03:38
(さらに325の続き)
ただし、言葉が言語行動として生み出される以上は、論理学という営み(だけでなく、すべての人間の営み)は、生体と環境との関係性あってのものです。言葉だけで世界が完結しているわけではない。少なくとも、言葉が不安定に浮遊したり消滅したりする領域がある。そこでは、形式論理の約束事だけでなく、言葉そのものが不安定です。
例えば、タクト反応は指示対象を弁別刺激として自発される言語行動ですが、指示対象が変化しても、あるいは指示対象が存在しなくても生じるタクト反応というものもある(「現在のフランス王」「印象主義」「心」etc.)。
あるいは、形式的に同じ反応「いぬ」は、犬一般であったり、柴犬一般であったり、隣のポチであったり、写真の犬であったり、幼児の描いた絵であったり、文字の「犬」や“dog”であったり、代理いぬ氏であったりする(家族的類似)。
ですから、指示対象が明確なタクトや、すでに市民権を得ている厳密なオートクリティック、同じく市民権を得た推論形式としてのイントラバーバル等だけでなく、他の言語行動を制御している様々な変数を考慮に入れた論理学というものが想定されてもいいのではないかと。
性質上、それは形式論理だけでは足りないので、言語行動の科学に基づいた「経験的論理学」と言うべきものになるでしょう。形式論理学はその中に包含される。
多分、スキナーやクワインはそんなことを考えているわけでしょう? 可能かどうかはともかく。
で、多分、OFWさんたちも似たようなことを考えていて、形式論理学に物足りない想いを抱いている。でも、形式論理学そのものに文句を言う必要はないでしょう。狭い範囲に限定して成立すると見なせる推論形式を探っているだけなんだから(と、私はこのスレで理解したけど、合ってる?)。
えー、ROMせざるを得なかった欲求不満のせいで、長文になってしまい失礼。例によってトンチンカンなら無視して頂戴。細かい議論はまるで分からないしぃ。
327 :
ぱん"どら":2000/11/19(日) 15:52
>>300 論理式が表現している意味や内容に基づき集合や写像などの概念を使い論理を
研究する立場をセマンティクスといい、
論理式を記号の列として捉え、其のような記号列に対する機械的記号的操作とし
ての推論や証明の構造を研究する立場をシンタクスという。
貴方の立場は近代論理学の基本方針を踏襲するもので両者が全く独立した領域
で研究を遂行できるとするものだが、わたしはそれを実際に使用するにあたって
原始命題で量化レベルでの制限を考慮する必要を感じた。
もちろんこの件は述語論理において解決済みではないかとも考えられるが設定
される概念のレベルで宣言を加えることが必要ではないかと思う。
あなたの例で言えば
>@人類は哺乳類である。
>A哺乳類は空を飛ぶ
ゆえに
>B人類は空を飛ぶ
この式系列におけるF「人類」G「哺乳類」はそれぞれ「すべての」「ある」において
「哺乳類」H「空を飛ぶ」においては「ある」「ある」が考慮されるべきである。
(蝙蝠のような対象を考慮)
この宣言の元に@は∀x(Fx⊃Gx)Aは∃x(Gx∧Hx)が常識では固定化される。
このときBは不定。
すなわち、「すべての人類が空を飛ぶ」か「ある人類が空を飛ぶ」か「すべて
の人類は空を飛ばない」かは不確定である。
この推論が妥当性をえるのはAが∀x(Gx⊃Hx)のときである。
これはHが「恒温動物である」のような場合に当てはまるが、上記のような
制限に対する無配慮が論理学に対する誤解を生んでいるのではないか?
このへんのことはアリストテレスの古典論理学でいいふるされたことではある
が近代論理学において、あまりにシンタクスのみが強調された弊害である。
328 :
ぱん"どら":2000/11/19(日) 17:22
>要するに命題論理学とは、ならば、かつ、またはなどの論理語の意味
>・・・・導出関係を判断する言語に関する一つの規則(ルール)にすぎません。
>(テキトー言ってます誰かつっこんでください)
ではご希望に添いまして・・・(^^;)
ならば⊃、かつ∧、または∨などの結合子はP、Qそれぞれ二つの概念または
論理式が真または偽のときに結合された論理式の真偽を決めるものである。
P、Qが真偽を取りうるケースは(WW、WF、FW、FF)(W・真 F・偽)であるが
5.101
与えられた数の要素命題の真理関数は以下のような種類の図表で示されよう。
其の真理変数の真理可能性のうち、其の命題を真ならしむるものを其の命題の
真理根拠と呼ぶことにしよう。
@(W@`W@`W@`W)恒心命題・PならばP、かつQならばQ ((P⊃P)∧(Q⊃Q))
A(F@`W@`W@`W)PであるとともにQであることはない。(¬(P∧Q))
B(W@`WF@`W)QならばP Q⊃P
C(W@`F@`W@`W)PならばQ P⊃Q
D(W@`W@`W@`F)PあるいはQ P∨Q
E(F@`W@`F@`W)Qではない ¬Q
F(F@`F@`W@`W)Pではない ¬P
G(F@`W@`W@`F)PあるいはQ、しかしPであるとともにQであることはない。
(P∧¬Q)∨(Q∧¬P)
H(W@`F@`F@`W)PならばQ、かつQならばP P≡Q
I(W@`W@`F@`F)Pである
J(W@`F@`W@`F)Qである
K(F@`F@`F@`W)PでもなくQでもない (P|Q)シェーファーの某記号
L(F@`W@`F@`F)Pであり、Qではない P∧¬Q
M(F@`FW@`F)Qであり、Pではない Q∧¬P
N(W@`F@`F@`F)QでありPである P∧Q
O(F@`F@`F@`F)矛盾命題 PでありPでない かつQでありQでない
(P∧¬P)∧(Q∧¬Q)
以上の16のケースが与えられたがうちCDNのみが命題論の結合子として選
ばれた理由を述べよ。
>自然言語(日常言語)は論理学を含みますが、論理学が日常言語
を含むわけではないのです。
世界はもうすぐ数台のコンピュータによって管理されることになるのですよ。
ほーほほほほほ←うそ
329 :
ぱん"どら":2000/11/19(日) 18:38
>>321 >「全称汎化」のご説明ありがとうございました。
どういたしまして
>私がわからなかったのは・・・ものは人間である」が導出できる
>ということになり、これはおかしいだろうと思ったのです。
ほんとうのこといいますと、わたしもまだ限定なしの項を理解してません。
ただ、みなさんと遣り合って苦し紛れにこうだ、とかいうと自分でもうまいこと
言ってのけたなんて思うことがあります。
やはり、自分ひとりでよりは攻撃されて防戦してるといい考えが出るみたい。
みなさんからの攻撃が理屈に合ってれば「そうか」というわけ。
ただ、議論に勝つだけって意味ないですものね。
しかし仲良くなると馴れ合いで終わってしまうこともあるんですよね。
さて
@「佐藤村の住人はすべて佐藤姓である」の命題を考えるにあたって
観察者が住人一人一人にこの命題を適応する場面で、おそらく初めは
A∃x(Fx∧Gx)F:佐藤村の住人である G:佐藤姓である
だとおもいます。しかしながら、其の状況を捉えるにこの命題を
B∀x(Fx⊃Gx)でとらえるのは観察者の任意ではないかと考えます。
もしこの全称化された状態で、対象を考えるのはこの部分が定義になるわけ
ですからひとつの無矛盾な公理系でもって事態の処理にあたっているのでは
と考えます。
観察者が前者のやりかたで@を処理しているときはtは限定付の項、というのでは
ないでしょうか?
教科書には
「証明のn行目に導入される仮定の中に項tが現れるとき〔n(t)〕と
書く。そのときtを「限定付の項」とよぶことにする」
とあります。後者のやり方で住人は限定なしの項となるのではないでしょうか?
もちろん、第一前提として、観察対象の論理的把握はアスペクトをもつ、
がありますけれど・・・。
ミルの解説書にも斉一性は∀x(Fx⊃Gx)∧∃xFxであるとの表現がありますが
これってアスペクトにほかならないって思うんです。
微熱さまは如何?
330 :
OFW:2000/11/20(月) 00:44
>>325(伍長氏)
>なお、313には「推論形式の妥当性」と書いてある。「推論の妥当性」
>とは書いてないし。
そうです。形式は妥当でも何故明らかにおかしな内容が導出され得る
のか。それが形式主義一般の問題です。それは内容に含まれる区別を
無視するためでしょう。「形式とは内容の区別(他在)のことである」
>言葉が不安定に浮遊したり消滅したりする領域がある。
とても哲学的な言葉ですね。まさに言葉の発生・変容・消滅現場を押さえ
ること。しかし、それは記号論の管轄範囲であり、形式主義論理学の対象
外として、形式的に処理されるだけでしょう。
>すでに市民権を得ている厳密なオートクリティック、(中略)だけでなく、
たとえば、自己批判的な(オートクリティック)言語行動といったものは
市民権を得られない?やっぱ、弁証法は非市民かなぁ…。
>多分、スキナーやクワインはそんなことを考えているわけでしょう?
言語行動も自然的かつ歴史的存在としての人類において生成・発展して
きたという考え方は、歴史的唯物論になりますね。共同体の歴史も含めて
考えないと、十全的な「経験的論理学」にはならないのではないか?
近代の数量的世界観は、商業と産業革命によって初めて可能になった。
まさに「人類は単なる哺乳類ではなく、平等な個人からなる共同的存在」
という発見が近代諸科学を生んだのでしょう。「記号を扱うサル」も立派
に成長した訳です。
331 :
伍長:2000/11/21(火) 04:24
>>330(OFWさん)
>それが形式主義一般の問題です。
形式主義は、当然生じる矛盾やら問題点やらを回避するために洗練されてきた。その結果、形式主義の扱う領域は広がり、その恩恵も甚大。
「妥当な推論形式」によって「おかしな内容が導出され得る」のは当然。現に「人間は空を飛ぶ」が導出された。これに文句を言っても、だから何?って言われますよ。多分。
ただし、「おかしな内容」が「妥当な推論」と言えるかどうかについては、形式論理学自体が判断できる部分もあるだろうし、あるいは、常識や意味論や語用論や自然科学や行動科学や認知科学(好みではないが)が判断すればよい。「経験的論理学」がどこまで可能かはともかく。
問題は、形式主義が行動レベルの領域(実際にはすべて行動レベルと言ってよいが)に首を突っ込みすぎたときに生じる。首を突っ込むことは構わないが、やりすぎると困る。「太陽を凝視する者はその眼を灼かれる」ってか?
ぱんどらさんの主張はよく分からないが、時々そんなようなことをしているような気もする(間違ってたらゴメンナサイ)。
>とても哲学的な言葉ですね。
こういう場では好みではないけど、ちょっと使ってみました。(^^;
>たとえば、自己批判的な(オートクリティック)言語行動といったものは
「クリティック(criticではなくclitic)」には、「寄り掛かる」といった意味があるそうです。つまり、自分自身の言語行動(プラスその制御変数)に制御される言語行動のこと。
>共同体の歴史も含めて考えないと、十全的な「経験的論理学」には
>ならないのではないか?
例えば、共同体の歴史だけでなく個人の歴史が分からなくても(分かればそれに越したことはないが)、現時点での彼の行動はそれらの歴史をふまえたものであり、彼の行動を制御している変数はある程度分析できる。だからこそ、応用行動分析が可能になり、臨床行為が行える。
まあ、「経験的論理学」が、「悪しき相対主義、悪しき社会構成主義」にならないように祈りますです。
332 :
ぱん"どら":2000/11/21(火) 20:54
>>331 >ぱんどらさんの主張はよく分からないが、時々そんなようなことをしているような気もする
めっけ!悪口言いましたね。
>(間違ってたらゴメンナサイ)。
ごめんしません。
>問題は、形式主義が行動レベルの領域(実際にはすべて行動レベルと言って
>よいが)に首を突っ込みすぎたときに生じる。首を突っ込むことは構わないが、
>やりすぎると困る。
暇人さんも
>自然言語(日常言語)は論理学を含みますが、論理学が日常言語
を含むわけではないのです。
とかおっしゃってたから、この類?
スキナー主義はですね、いわば蛸配みたいに、すべて自然言語で説明しようとして
論理語もすべて含めようとしたのですよ。
でもそれって、結局自分で自分の首しめちゃったのね。
で
暇人さんの手、いかが?
わたし、自然言語はすべて論理語って立場。
かかってらして。
333 :
伍長:2000/11/22(水) 01:26
>>332(ぱんどらさん)
>わたし、自然言語はすべて論理語って立場。
あ、だったら悪口じゃなくて、私の判断は間違ってなかったわけだ。やった!
>暇人さんも
>>自然言語(日常言語)は論理学を含みますが、論理学が日常言語
>>を含むわけではないのです。
>とかおっしゃってたから、この類?
「自然言語(日常言語)は論理学を含みます」は賛成。「論理学が日常言語を含むわけではないのです」はよく分からないので判断保留。
>スキナー主義はですね、いわば蛸配みたいに、すべて自然言語で説明しようとして
>論理語もすべて含めようとしたのですよ。
そうです。たとえ論理語でも、それは話し手によって言語行動として産出され、聞き手に対して言語刺激として機能する。少なくともこの点に関しては問答無用。
(でも、「蛸配」って「蛸足配線」? 意味がよくわからない)
>でもそれって、結局自分で自分の首しめちゃったのね。
んなこたーない(と思う)。根拠は?
ただ、言語理論の面では、首を絞めようにも絞めるに価するような理論家はまだ出ていないことは認める。基礎実験屋や臨床屋ばかりだから。
第二のスキナーの出現待ちか。(^^;
ちなみに、実践面では、例えば自閉症児の言語訓練などは、スキナーの言語行動論なしには困難と言っても過言ではない(らしい)。
334 :
OFW:2000/11/22(水) 21:03
>>328(ぱん"どら"さん)
>C(W@`F@`W@`W)PならばQ P⊃Q
この真理根拠をどう読むのか不明です。
1.Pが真、Qが真 → 「PならばQ」は真
2.Pが真、Qが偽 → 「PならばQ」は偽
は良いとしても
3.Pが偽、Qが真 → 「PならばQ」は真
4.Pが偽、Qが偽 → 「PならばQ」は真
が何故言えるのか?「偽からは何でも言える?」そもそもPおよびQは
独立だったのでは? 上記の→の向きは反対?(根拠か定義か?)
>>331(伍長さん)
>形式主義は、当然生じる矛盾やら問題点やらを回避するために洗練されて
>きた。
言葉(概念)上のことですが、「形式化」と「形式主義」とは区別すべき
でしょう。形式化とは内容に含まれる区別を顕にすることであり、それ
自体「内容の定立」の事です。それに対して、形式主義とは形式化を内容
の区別を正しく反映する限度以上に拡大して、形式自体を外的な存在と
みなす誤謬のことを言います。形式と内容という二つの概念は相関的な
ものであり、相互反照の関係にありますから、内容に応じて形式を立てる
べきなのです。(限度とは質と量の統一です)
>クリティック(criticではなくclitic)」には、「寄り掛かる」といった意味
>があるそうです。
なるほど、言葉は生き物ですね。
Clitic(寄り掛かる)、Clinic(寝台、臨床、診療)、
Critical(臨界的、危機的、批判的)
は相互に同じ根を持つのではないかな?いずれにしても、デジタル(数値
変換型)人間には、ダジャレや家族的類似のようなアナログ(類比的)
推理は我慢できないのかも知れない。図式、表といったゲシュタルト
(形態)的な記号の理解は可能かな?
335 :
ぱん"どら":2000/11/22(水) 22:16
>>333 >そうです。たとえ論理語でも、それは話し手によって言語行動として産出され、
>聞き手に対して言語刺激として機能する。少なくともこの点に関しては問答無用。
これはあちきの論説でなくってスレッドにもある木田元の引用です。
心理学は19Cの中葉にフェヒナーらの努力によって 従来のような自己自身の
意識状態を内面的に観察するいわゆる内観的方法を捨てて、自然科学に範を取
った実験的方法を導入し、いわば哲学的心理学から科学的心理学へ脱皮して以来
目覚しい発展を遂げた。たしかに人間の意識ないし心理的現象とは人間の身体
ないし生理的現象と密接に結びついているわけであるから、これを一個の自然
的事実として広い意味での自然のうちに位置付け客観的に規定していくことは
可能に思える。こうして意識の自然科学足り得ることを自負した科学的心理学は
ちょうど物理学が一切の自然科学の基礎学であるのと同じような意味で論理学や
認識論、美学、倫理学、教育学、さらには哲学といった一切の精神科学の基礎
学たらんとした。
・・・・
心理学主義は、なるほど、一切の心理的・社会的な規定を超えた真理の領域を
想定するいわゆる論理主義に対する批判的立場としては有効なものであったが
其の最大の欠点は、其の主張が自らにも跳ね返ってくることにある。
もし彼らの主張が正しいとすれば、其の彼らの主張其のものも、経験的個人とし
ての彼らの生理的、心理的機構に相対的な個人的主張に過ぎないことになり、
真理として受け入れるわけには行かないことになる。
この立場では普遍的な学問的認識というものは原理的に不可能なのである。
伍長様のはこれぴったり。はんろんして♪
できなきゃ、あなたちょっとふるいの。
蛸配とは蛸足配当、資産を食いつぶしていくようなだけの会社のこというわけ。
わたしの感想としてはそうした心理学主義がうまくいくならそれなりに成果が
出ていても良いんじゃないかと思うのよ。
頭の飛び切りの人たちが一世紀以上やってるわけだし、それでも結果は
スキナーはスキナーで終わってるでしょう?
つまり、数学だったらガウスとかヒルベルトの考えたことはそれを前提に数論は
前よりも発展してるって実感できるけど、せいぜい伍長様の雄弁の足しにしか
なってないっておもうわけ。(イヤミでごめんなさいませ)
ホーガンなどは読みましたか?物理科学は行きつくところまで行って終わりじゃ
ないかって心配してるわけ。「科学の終焉」がそれ。
一方で「続科学の終焉」では精神科学はまったく烏合の衆の集まりで、フロイト
みたいな科学であるよなないよなわからんものが超然と生き残ってるって感想
を述べてます。
336 :
OFW:2000/11/22(水) 22:39
>>332(ぱん"どら"さん)
(横レス失礼します)
>わたし、自然言語はすべて論理語って立場。
クワインがカルナップに反対して、「存在するとは論理式の変項になること」
と言ったそうですが、それに類する観点のようですね。
しかし、これにはいくつかの問題がある。
1. 論理式とは畢竟「概念」(判断、推理を含む)の記号化でしょうから、
正しい論理式とは要するに概念区分の問題になる。しかるに集合論ある
いは真理「値」なるものを援用する数学的な論理学は、「相当性」に基
づく推論であり、それは実在的でかつ「単位」が同じ対象に適用した
場合にのみ、妥当的なのです。(たとえば、貨幣の存在が初めて計量経
済学を可能にした。)前の方にでていた「斉一性」という概念も、「単
位」という質的一様性を前提した量的アスペクト(局面、観点)からの
実在の抽象であり、アスペクト自体は本質的同一性を指示している。
逆に、影とは本質の反映であり、実在に写る(戯れる)その同一性です。
2. 概念区分から言えば、実在と本質存在は次元を異にする。クワインは
「中心」vs「周縁」という表象的な差異をもって、「分析的」vs
「総合的」という伝統的対立に代えたそうですが、正しくは、「媒介的」
vs「直接的」という関係性の対立にすべきでしょう。実在性とは「在る
ものとしての概念」(表象の立場)であり、本質性とは「他在としての
概念」(反省の立場)です。本質の領域においてはすべては二重に現れま
す。「直接的なものは媒介されたものである」という事情が顕在的になる
のです。「自己同一性」も「対立(さらに矛盾)」に対してのみ、それで
あるということです。「AはAである」ではなく「AはBである」から
こそ、AとBとの同一性である「記号(論理学)」というアスペクトが
得られる。(存在の記号化という真理にして非真理)
(しかし、本質論を消し去った20世紀の科学、哲学では「本質」という
言葉すら理解不能になった。存在の根拠を見失った、反省なき現象主義は
21世紀にも続くのか。)
337 :
ぱん"どら":2000/11/22(水) 22:56
>C(W@`F@`W@`W)PならばQ P⊃Q
この真理根拠をどう読むのか不明です。
これ、なんでもないですよ。論理学は習ったんでしょ?
(左辺) (右辺)
P 、Q、 P⊃Q(条件法)
1 1 1
1 0 0
0 1 1
0 0 1
のことです。
普通は⊃、∧、∨の結合子と否定子しか使わないでしょう。
でも排反的選言なんてのあるでしょう。其の場合の選言は(0,1,1,0)です。
これはG。どちらかひとつねってやつ。
シェーファーなんかKだと、その棒記号だけですべての論理式を表現できるという
ことです。左辺のPQに対して右辺の取りうるケースは2^4で16通りあるという
こと。そのなかの3つが選ばれてるわけね。でなぜこれなのってわけ。
「論考」の5.101にあります。
むむ見直していてわからんくなりました。あちきの「論考」ではシェーファーはK
なんだけど、教科書ではAになってる、なぜ?
平成の暇人さま、あわせておせーて。
338 :
OFW:2000/11/22(水) 23:30
>>337(ぱん"どら"さん)
チャット風ですみませんが、「気になって眠れなくなり」そうで。
>これ、なんでもないですよ。論理学は習ったんでしょ?
そうですか、スミマセン。はっきり言って、習ったことない。
私の質問は、
「PならばQ」とは、Pが偽の場合にはQの真偽によらず真だ
と主張するものなのか、という点です。つまりその場合は、Pと
Qとは無関係であるという内容が含まれているのか、という点です。
何か良く分からないなぁ。
339 :
考える名無しさん:2000/11/23(木) 00:27
スレ飛んだ、復活age!
340 :
微熱症患者:2000/11/23(木) 00:58
>>338 横レスですが「ならば」について。
>私の質問は、
> 「PならばQ」とは、Pが偽の場合にはQの真偽によらず真だ
> と主張するものなのか、という点です。つまりその場合は、Pと
> Qとは無関係であるという内容が含まれているのか、という点です。
主張する、というより、定義する、と考えたほうがいいかもしれません。
自然言語の「ならば」は、それによって結びつけられる文の間になんら
かの関係(因果関係、目的-手段関係、包含関係など)があることを主張
しますが、論理学の「ならば」にはそのような含みはありません。
このギャップが、自然言語の論理的意味論を構築する際の障害の一つとな
るのですが、それはまた別の話。
341 :
伍長:2000/11/23(木) 01:43
342 :
OFW:2000/11/23(木) 17:49
>>340(微熱症患者氏)
>主張する、というより、定義する、と考えたほうがいいかもしれません。
しかし、
>>328でぱん"どら"さんは
>ならば⊃、かつ∧、または∨などの結合子はP、Qそれぞれ二つの概念
>または論理式が真または偽のときに結合された論理式の真偽を決めるもの
(つまり真理根拠)と言っています。どちらが正解なのでしょう?
定義と考えると、つまり
「P⊃Q」とは 1.Pが真かつQが真の場合、真
2.Pが真かつQが偽の場合、偽
3.Pが偽かつQが真の場合、真
4.Pが偽かつQが偽の場合、真
となる論理式を言う、と言うことでしょうが、そうなると、
a.それは論理的な推論において使用される。例えば、
「Pは真である。P⊃Qである。故にQは真である。」
の言明は意味不明に陥る。何が定義式「P⊃Q」に該当するのでしょう?
「私を神と定義する。私は神である。故にそれは真である」(???)
また、
b.「⊃」は日常語の「ならば」とは直接関係ない。特に日常語で
「PならばQ」という場合、PとQの間に何らかの関係があることを
示しているから、両者の独立性を前提にした「P⊃Q」とはまった
く異なるものである。
という事でしょうか?そうなると、推論って何?と聞きたくなります。
少なくとも、「論理語は日常語をカバーできない」が正しい?
343 :
ぱん"どら":2000/11/23(木) 21:32
>>336 何回も読んだのですが、自然言語と論理語の齟齬性と言うか、違いというか
問題として提起されている趣旨がいまいちわかりません。
どちらかといえば実在性に関する問題提起でしょうか?
そこから如何にして自然言語と論理語の違いが述べられるのでしょう。
ただし、OFWさまの記述で
実在とは「AならばAである」をまず設定するという立場かと感じました。
わたしはカントの言う物自体とかの概念が論理体系に不要なものである、と
考えるところから「実在」を不要概念としました。
しかし最初に同一律を設定する体系ならば実在論といえるのかもしれませんね。
そういえばLKは最初に同一律をもってきます。
LKとLPの違いというところでしょうか?
>>342 >a.それは論理的な推論において使用される。例えば、
> 「Pは真である。P⊃Qである。故にQは真である。」
概念の内側を、すなわち肯定する側を真といい、
概念の外側を、すなわち否定する側を偽という、としてみましょう。
条件法が成立するのはPとQにおいてQがPの上位概念である必要があります。
「東京は日本の首都である」において東京をP、日本の首都をQとしたとき
両者は同位概念ですから∀P=∀Qです。
P、Q(11、10、01、00)の3行目では「東京でなければ日本の首都である」は
成立しません。
Pを東京、Qを大都市として(∀P=∃Q)3行目:「東京でなくても大都市である」は
成立するでしょう。
>少なくとも、「論理語は日常語をカバーできない」が正しい?
別に問題なく成立してるでしょう?
344 :
logician's red:2000/11/23(木) 23:46
ちわ〜。やっぱり、きっついな〜。
もうなんの話してんのかわかんない。もう一回、平成の暇人氏に整理して欲しい。
とりあえず、今何がホットな話題なの?
ぱんどらちゃんは「あるSはPである」と「∃x(Sx∧Px)」の件は納得したの?
OWF氏はやっぱり「形式論理学」を勉強してなかったらしいし。
実在するかしないかっていうのは、形式論理学にとってあんまり関係ない、
つまり、考えなくてよいこと。(考えてもよいけど。)
気をつけておくべきことは記号がなにを表しているかということ。
∀-導入は、「任意の論理式Aのなかにxが現れないならば、∀x.Aを
結論してよい」ということ。こんな推論は日常あまり使わないので、
とまどいがちだが、
例えば、一項述語をA、定数記号をaとして、
A(a)から∀x.A(a)を結論してよいということ。
「任意のxについて、aはAである」なんていうことはフツウ言わないけど、
A(a)が証明可能なときに、
「xの値に関係なく、aはAである」といってもべつにおかしくない。
これはそのような推論を表している。フツウ言わないけど正しい。
「一部から全体への誤謬」にはならないのでご安心を。
345 :
微熱症患者:2000/11/23(木) 23:48
>>342,
>>343 「PならばQ」という場合の「P」と「Q」はそれぞれ命題を表しま
す。
「私」「神」「東京」「日本の首都」などは命題を表すことばではない
ので、例としてふさわしくありません。
たとえば
P:明日雨が降る
Q:私は会社を休む
とすると、「PならばQ」は、明日雨が降ったのに私が会社を休まなかっ
たときに限り偽となります。これは、「もし明日雨が降るなら、私は会社
を休むことにしよう」という発言が嘘になる場合と一致します。
その意味では、日常語の「ならば」とまったく無縁なものではないのです
が……。
日常語の「ならば」と大きくかけ離れる例。
「もし湾岸戦争が起こっていなかったならば、そごうのトルコ出店は失敗
していなかったはずだ」
「湾岸戦争が起こっていなかった」は偽ですから、これ全体では真、など
と判定すれば(そごうの旧経営陣は喜ぶかもしれませんが)おかしな事に
なるでしょう。
346 :
ぱん"どら":2000/11/24(金) 16:49
>>345 >日常語の「ならば」と大きくかけ離れる例。
>「もし湾岸戦争が起こっていなかったならば、・・・・・」
>「湾岸戦争が起こっていなかった」は偽ですから、これ全体では真、など
>と判定すれば(そごうの旧経営陣は喜ぶかもしれませんが)おかしな事に
なるでしょう。
OFWさまからも前件肯定式の見解がでていましたが、これは以下に解釈するもの
とおもいます。
たとえばP:「水を電気分解する」Q:「酸素と水素が発生する」
だとしましょう。ここには化学においてP⊃Qという明確な定式があります。
さて現実の場面において水とか電気分解に必要な機材はあるとしましょう。
しかしあなたが、そのような実験をやる気になっていなかったら、いつまでたっても
酸素と水素はでてきません。
MPはPかつP⊃QよりQを導出してよい、ですがこれを時空Sに適合して正確に記
すと((P∧S)∧(P⊃Q))⊃(Q∧S)であると思います。
この場合のP⊃Qは化学では全称汎化された真理として定義されているものです。
よって微熱さまの例も真かどうかは別として、前件が時空に現れなかったからP⊃Q
が偽であるということは主張できません。
P、Qが概念でなく命題だとして
真理表の二行目は「水を電気分解して酸素と水素がででこない」というのは偽。
三行目は「水を電気分解する以外の方法で酸素と水素が出る」はありうるのでは?
四行目は「水を電気分解しなければ酸素と水素はでてこない」はまとも。
条件法は概念の場合原始式で、命題の場合分子式で、どちらも成立します。
微熱さま、わたしのことひっぱたきたくなったでしょう?
キャー、暴力反対!!
347 :
ぱん"どら":2000/11/24(金) 17:23
>>344 >とりあえず、今何がホットな話題なの?
わたしがね、自然言語なんてゼ〜ンブ論理式で表せるわ,ていってるわけ。
みなさん、そんなことできるかっていってるわけ。
>ぱんどらちゃんは「あるSはPである」と「∃x(Sx∧Px)」の件は納得したの?
わたし、押し切っちゃったみたい。
というより、みなさんに愛想つかされたのかな?
348 :
OFW:2000/11/24(金) 22:20
>>343(ぱん"どら"さん)
>問題として提起されている趣旨がいまいちわかりません。
そうですか。ヘーゲル論理’学のエッセンスを29行以内で解説できる訳
もないが、「述語論理の公理系Lの影は命題論理の公理系LPに同一律を
加えたものに等しい。」とあったので、何かの反応があるかなとちょっと
サウンドしてみたのです。
>どちらかといえば実在性に関する問題提起でしょうか?
そうでもあり、そうでもなし。何度も言いますが、数学的な推論は実在的
な領域から本質的領域に至るための中間段階だということです。
プラトン大学の門にあったという標語は今でも有効でしょう。
>そこから如何にして自然言語と論理語の違いが述べられるのでしょう。
論理語とは何でしょう。自然言語と論理語なるものに違いはないでしょう。
言葉はあくまで用法によって区別されるものです。
>実在とは「AならばAである」をまず設定するという立場かと感じました。
どこからそう思われたのかな?私の説明不足でしょうが、どうも実在の中に
いる(傍らに戯れている)から、実在が見えないようですね。ジャンプしま
しょう、アインシュタインのように(無関係)。
>>344(logician's redさん)
>OWF氏はやっぱり「形式論理学」を勉強してなかったらしいし。
先生について習っていないと言っただけですが。確かに業界用語の詳細に
は疎いが、やはり数学的(初等代数的)な議論のように見える。せめて、
微分積分的な論理学はないのでしょうか?
>気をつけておくべきことは記号がなにを表しているかということ。
そうです。記号は「何か」(実在的なもの)を表わしている代替品だとい
うことに気をつけないと、「この命題は真理値を持つ」などという無意味
な主張が出てくる。記号体系(公理系)であろうと、記号自体で真偽が
決まる訳がないでしょう。
349 :
OFW:2000/11/24(金) 22:23
>>345(微熱症患者さん)
>「私」「神」…などは命題を表すことばではないので、例としてふさわし
>くありません。
不適当でしたか。でも私の疑問は定義を論証の根拠にしている?という点です。
>P:明日雨が降る
>Q:私は会社を休む
>とすると、「PならばQ」は、明日雨が降ったのに私が会社を休まなかっ
>たときに限り偽となります。
私の質問は「明日雨が降らない」(Pが偽)である場合についても、何故
「P⊃Q」を真とするか、という点です。単に「それは定義上そうだから」
でしょうか?「P⊃Q」とは条件とも言われている。それはPが成り立つ
場合におけるQの真偽ということであり、Pが成り立たない場合について
は何も言明していない。その場合、Qは真でも偽でもない、不定である、
あるいは単に可能であるだけでしょう。「明日雨が降るならば私は会社を
休む」という言明が「明日雨が降らない」という事態(言明ではない)
とどう関係するのか?明らかにここには言明と事態との(半ば意図的な)
混同がある。それに対しては、「可能的意味の世界」といったものが持ち
出されるのかも知れない。「明日雨が降る」ことが真(実際に雨降り)の
世界と、偽(雨が降らない)の世界とが想定され、共に可能であり、それ
が言明の真偽であるとされる。そして、「可能的なものは現実的なものよ
り広い」(カント)から、現実に雨が降らなくても、私は会社に行くも
行かぬも可能だから、「明日雨が降るならば私は会社を休む」という言明
は論理的に真である、と言うのでしょう。
しかし、明日雨が降る世界は決して明日雨が降らない世界とは両立しない。
「明日雨が降るならば」と想定し限定した瞬間に、それは「明日雨が降ら
ない」世界を否定し、排除している。条件とはそういうものでしょう。
「条件とは実在的可能性である」(ヘーゲル)。条件が単なる可能性を
実在的なものにし、より現実的にするのです。逆に条件は「そうならない
世界」(偽)を排除し、不可能化するのです。(否定の否定は肯定)。
350 :
微熱症患者:2000/11/25(土) 00:23
>>346 別にひっぱたきたくはなりませんが、できれば記号と用語の使い方はもう少し
正確にして頂きたいと思います。でないと、意味を読みとり損ねるおそれがあ
るので。
たとえば
>MPはPかつP⊃QよりQを導出してよい、ですがこれを時空Sに適合して正確に記
>すと((P∧S)∧(P⊃Q))⊃(Q∧S)であると思います。
>この場合のP⊃Qは化学では全称汎化された真理として定義されているものです。
は意味がよくわかりません。
時空Sというのは何のことでしょう? 少なくとも命題ではなさそうですが、
それならどうして命題Pとの連言が成り立つのでしょう?
「(ある時空点においてPであり、かつ、PならばS)ならば、当該時空点に
おいてQ」ということでしょうか?
また、ここでの「全称汎化」の意味も不明です。
(特定の個別事例だけではなく)一般に「PならばQ」が成立する、というこ
とでしょうか?
ついでにいえば、「定義」というのもよくわかりません。
水を電気分解すれば酸素と水素が発生するということは、別に化学者が決めた
ことではないので、「水を電気分解すれば酸素と水素が発生する」ということ
は定義によって真理となっているわけではありません。
351 :
微熱症患者:2000/11/25(土) 00:24
>>349 >単に「それは定義上そうだから」でしょうか?
さしあたり、そう考えておいていいと思います。
(本当のことをいえば「単なる定義ではない」と言いたいのですが、論理結合
子「⊃」が日常語の「ならば」の意味を完全に汲み取っているわけではないの
で、最初の理解としては、とりあえず「⊃」と「ならば」は別物だと考えてお
くほうが混乱が少ないということです。「条件法,条件文」についても実質的
な条件とは別物と考えるほうが無難です)
>それはPが成り立つ場合におけるQの真偽ということであり、
>Pが成り立たない場合については何も言明していない。
>その場合、Qは真でも偽でもない、不定である、
>あるいは単に可能であるだけでしょう。
確かに「PならばQ」はPが成立していない場合にはQが真とも偽とも言って
いないと考えることもできます。その点では「P⊃Q」も同じです。
〜Pと(P⊃Q)から、Qを導出することはできませんし、逆に〜Qを導出す
ることもできません。つまりQが真であるとも偽であるとも結論づけられない
わけです。
352 :
ぱん"どら":2000/11/25(土) 14:36
>・・・は意味がよくわかりません。
>時空Sというのは何のことでしょう?
あっ、そうですね。いまのところ、わたしの勝手な思考法といわれても仕方在り
ません。
たとえば、「机の上にコップがある」とかの命題でこれが真偽判定の命題である
というのはどういうことかの判断です。
もしこの命題を「人間は哺乳類である」式に変えてみると「コップはいま、机の上
である」となります。コップをPに、今机の上、を時空概念のあるものとしています。
概念区分で行くと前者は「すべて」と「ある」の結びつきですが後者は「ある」と
「ある」の結びつきです。そこにすべてのコップがあるわけでなく、たまたまそこに
知覚されるコップが出ているわけですね。
だから、あなたがいまパソコンを目の前にしていらっしゃったら、パソコンという
対象Fが時空という概念Gと重なり合った、Fa∧Gaのように捉えています。
この思考法、そういえばいままで批判を受けていませんでした。
微熱さまのご意見を伺いたく存じます。
「机の上にコップがある」はFa∧Ga、または∃x(Fx∧Gx)ですが「食器類に
コップがある」となると食器はコップの上位概念になってるため∀x(Fx⊃Gx)です。
「(すべての)コップは(ある)食器である」と解釈してます。
人間、哺乳類と同様ですね。
>・・・は定義によって真理となっているわけではありません。
わたしは定義であると思ってます。
これは化学者といわれる人たちが実験を重ね、電気分解を行い、そこに発生する
気体を水素と酸素に特定したわけです。其の場合はじめはFa∧Gaであったと思
います。そのうちに∀x(Fx⊃Gx)を前提として一定の論理関係が成立するような
化学式の理論体系を纏め上げたのではと思います。
これは佐藤村の件と同様ではないかと思ってますが、そういえば微熱さまから
反論をいただいていませんでした。
ぜひ忌憚のないご意見をお願いします。
353 :
ぱん"どら":2000/11/25(土) 14:46
>この場合のP⊃Qは化学では全称汎化された真理として定義されているものです。
は意味がよくわかりません。
時空Sというのは何のことでしょう?
ついでにいえば、「定義」というのもよくわかりません。
水を電気分解すれば酸素と水素が発生するということは、別に化学者が決めた
ことではないので、「水を電気分解すれば酸素と水素が発生する」ということ
は定義によって真理となっているわけではありません。
>何かの反応があるかなとちょっと サウンドしてみたのです。
OFWさまも〜、けっこう幻惑術お使いになりますね〜。
>そうでもあり、そうでもなし。何度も言いますが、数学的な推論は実在的
>な領域から本質的領域に至るための中間段階だということです。
これじゃ将棋の千日手でございますよ。
むむむ、いかにして揺さぶりをかけるか・・・。
> 論理語とは何でしょう。自然言語と論理語なるものに違いはないでしょう。
> 言葉はあくまで用法によって区別されるものです。
これはずる〜い、皆さん自然言語は論理式に合わないって言うからわたしは
そんなことないっていう立場で防戦しているのに〜。
ずばり、論理式ではこれが真だろう、ところで現実ではこんなことない。
実際こうだろう、とかのサンプルがあるといいですね。あるのかな?
わたしが言い返せなければわたしのまけ!!
>どうも実在の中に いる(傍らに戯れている)から、実在が見えないようですね。
みえません、OFWさまってもしかしておばけだったりして。
354 :
OFW:2000/11/25(土) 21:19
>>353(ぱん"どら"さん)
>OFWさまも〜、けっこう幻惑術お使いになりますね〜。
幻惑術とは…。むしろ、弁別刺激と言って下さいよ。ちょっとしたヒント
を与えるつもりが、弁証法の宣伝も兼ねてしまったので失敗でした。
>むむむ、いかにして揺さぶりをかけるか・・・。
自分にかけて下さい。因みに、あなたの議論はヘーゲルの『論理学』を
殆どそのまま展開しているのです。ただ、形式論理の形式に捕われている
ため、真の姿になっていない。何が問題か、それは「無限なもの」の取り
扱いでしょう。
その点では、「ぱんどら」よりむしろ「スフィンクス」のようだ。
ヘーゲルは(確か)『精神哲学(エンチュクロペディ)』の中で、古代エ
ジプト文明を評して、「人間精神が自然(実在)から自立する過渡期に
あって、謎の前に立ち尽くしている姿であり、半獣半人のスフィンクスは
ギリシャから来たオイディプスの前に敗れた」(勝手なパラフレーズ)と
言っています。(殆どホラになる程の洞察力!)
>みえません、
「傍らに戯れている」とはヘーゲルが実在的なものの在り方を表現した
言い得て妙な言葉(自然言語)です(原語では何と言うのか忘れた)。
本質の傍らにいるのに、そのサンプルとしての偶然的な在り方とでも
言えば良いのかな。前の方に出てきた「存在例化」に該当する?
また、「戯れ」とは「ゲーム」でもあるから、子供の無根拠性から大人の
根拠性(本質)に向かうための必然的なステップという含意もある。
355 :
考える名無しさん:2000/11/25(土) 23:36
『論叢に勝ちたい』
こういうやっかいな人>ソフィストを放置するために
構築されたのが論理学。
戦後になって詭弁家(ソフィスト)は認知哲学、北米フロイト派、マスメディア論で
再評価されてるけどね、、、
356 :
OFW:2000/11/25(土) 23:39
>>351(微熱症患者さん)
>〜Pと(P⊃Q)から、Qを導出することはできませんし、逆に〜Qを
>導出することもできません。つまりQが真であるとも偽であるとも結論
>づけられないわけです。
そうなると、「演繹規則DR:Pと(P⊃Q)から、Qを導出できる」
は解釈が難しい。
1.真理表(使い方がいまいち分からないが)
P P⊃Q Q
1 1 1
1 0 0
0 1 1 or 0?
0 0 ?
2.Pと〜P
「Pが偽」と「〜P」とは式の値と式との区別でしょうが、
もし「言明Pが真であるとはまさにその事態が成立していること」
という定義からすると、「言明〜PとはPではないという言明」であり、
「言明〜Pが真であるとはまさにその事態が成立していないこと」
となり、「言明Pが偽」との区別がなくなる。Pと〜Pは真偽をひっくり
返せば演繹規則DRにも通用するのでは?
また、「真とは可能であること」とすると、真偽は区別できない。何しろ
可能という点では全ては可能でしょうから。
結局の所、「トートロジーは矛盾の別名」ということではないでしょうか?
以上、如何でしょうか?
357 :
考える名無しさん:2000/11/25(土) 23:51
スレ飛んだので、復活アゲ。
358 :
ぱん"どら":2000/11/27(月) 17:20
>1.真理表(使い方がいまいち分からないが)
も〜OFWさまったら、ずっこけるから覚えて!!
P、Qは概念または命題だとしてそれぞれが真偽二つの値をとることが可能。
よって其のケースを考えると・・・。真を1偽を0とします。そのとき
P,Q で条件法 P⊃Qは
1 @`1 1
1 @`0 0
0 @`1 1
0 @`0 1 となるわけ。これは定義です。
> そうなると、「演繹規則DR:Pと(P⊃Q)から、Qを導出できる」
これは演繹規則ではありません、前件肯定式MPです。
DRはPを仮定してQがでてくるとき、Pという仮定なしにP⊃Qを出してよい。
MPは「出してよい」を⊃で、「〜と(かつ)」を∧であらわすと
(P∧(P⊃Q))⊃Qとなります。前にもいったのに聞いてなかったですね。
これは
P,Q で(P∧(P⊃Q))⊃Qは
1 @`1 1
1 @`0 1
0 @`1 1
0 @`0 1 となってトートロジーとなるのです。
>Pと〜Pは真偽をひっくり返せば演繹規則DRにも通用するのでは?
だから、前件肯定式だっちゅ〜に。
野矢の「論理学」ならわかりやすいっちゅ〜に。
>また、「真とは可能であること」とすると、真偽は区別できない。
これは可能世界意味論で微熱さま白熱してますね。
クリプキモデルは可能命題に普遍性を持たせています。
オペレータの「〜かもしれない」と「〜はずだ」に厳密な定義を与えて、そのなかで
理屈のやり取りをしているわけです。
しかし、現実の可能命題が普遍性を持つ可否かははっきりしていません。
OFWさまが「俺はほんとうに、広末涼子をくどくことができる」といったとき
わたしは「うっそ〜」とかいってけんかになるわです。
う〜む、微熱さまにこの可能命題について感想を聞きたい・・・。
359 :
logician's red:2000/11/27(月) 22:58
>347(ぱんどら)
>わたし、押し切っちゃったみたい。
それはいかんなぁ。そんなの野放しにしといたらいかん。
ところで、
質問1:「すべてのSはPである」の翻訳は「∀x(Sx→Px)」である?
質問2:¬∀xPx⇔∃x¬Pxは恒真である?
この二つの質問にYESと答えるなら次の質問に答えてみてちょうだい。
質問3:「あるSはPである」と「すべてのSがPでない、というわけではない」
は同じことを主張している?つまり、形式化すれば同値な論理式になる?
さて、この質問にYESと答えるならば、君の主張は間違っていることになる。
なぜなら、
「すべてのSがPでない、というわけではない」は「¬∀x(Sx→¬Px)」
になるし、(質問1のYESより)
これと同値なのは「∃x(Sx∧Px)」であり、(質問2のYESより)
「∃x(Sx→Px)」ではないからだ。
どれかの質問にNOと答えるなら、その理由を聞かせてちょうだい。
質問3がわかりにくければ
「あるSはPでない」と
「すべてのSがPである、というわけではない」(「¬∀x(Sx→Px)」)
に変えても可。もちろんこれと同値なのは「∃x(Sx∧¬Px)」だ。
360 :
OFW:2000/11/28(火) 00:04
>>358 (ぱん"どら"さん)
> そうなると、「演繹規則DR:Pと(P⊃Q)から、Qを導出できる」
>これは演繹規則ではありません、前件肯定式MPです。
はい、ちゃんと覚えました。前にも言ったように、特殊業界用語になじむ
には時間が必要なので。でも、条件法なるものについての無条件的な
(勝手な)規則には違いないのでは?
>DRはPを仮定してQがでてくるとき、Pという仮定なしにP⊃Qを出し
>てよい。
「もしPがあればQが矛盾無く導けるとき、Pが実際になくても、PからQ
を演繹的に導出してよい。」これは論理学者の傲慢でしょう。Pはあくまで
仮説ですから、帰結Qが確かに存在するかどうかが論理(仮説)の真偽を
決める。帰納と演繹は相互補完的です。
>MPは「出してよい」を⊃で、「〜と(かつ)」を∧であらわすと
どうしてこの読み替えができるのかな?
微熱さんは論理結合子「⊃」と自然言語「ならば」とを直接対応づけるこ
とはできないと言っていましたが…。
たとえば、「こだわりのおでん屋」で逝くと、
「『おでんがある』場合を仮定して矛盾無く『女子大生がいる』がでてくる
とき、「おでんがある」という仮定なしに、『おでんがあるなら女子大生
がいる』を出してよい」?
そうなれば、おでんは女子大生の代名詞になり、おでん屋は男子学生で
一杯でしょう。「おでん一丁!」「はぁい。広末です。」なんでやねん?
>これは…トートロジーとなるのです。
さらに、「故にトートロジーとは、条件法(仮説)を定義(定説)に変え、
自己を前提してそこから自己を無条件的に導出する、すなわち矛盾である」
と言えば百点です。前提が偽の時でも真理表では真なる命題が導出され、
定義されるとは!
(スレ違い起こしていないかなぁ)
361 :
OFW:2000/11/28(火) 00:15
>>358 (ぱん"どら"さん)(つづき)
>また、「真とは可能であること」とすると、真偽は区別できない。
>これは可能世界意味論で微熱さま白熱してますね。
そうですね。そのうち本格的に参戦しようかな。
>OFWさまが「俺はほんとうに、広末涼子をくどくことができる」と
>いったとき、わたしは「うっそ〜」とかいってけんかになるわです。
可能世界は夢の世界で、できない事はないのです(願望実現)。しかし、
「夢がまことか、まことが夢か。下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」
(真偽判別不可能)ってね。すべてを叶えられるように見えた信長にも、
不可能はあった。それは、良い部下の条件(実在的可能性)に恵まれなか
った故か、権力というディス・コミュニケーションに頼り過ぎたために、
真理の共同性に疎かったためか、はたまた、社会的生産力の歴史的制約性
が氏族制度の「お家第一主義」の矛盾(織田家か明智家か)を近世的
(絶対主義的)にアウフヘーベンすることを信長に許さなかったのか。すべ
ては運命(または宿命)と後知恵的に言えば簡単だが。論理学的には、
すべては「単なる命題」として内容の区別なく、一様に(数学的に)可能
でしょう。形式主義論理学の無限の野望こそ「夢幻」ではないの?
362 :
logician's red:2000/11/28(火) 01:09
OWF氏はP→Qの真理値定義で困ってるみたいだが
それについてはいろんな教科書で解説があったはずだ。
背理法を使った説明が多いが、
私がみたなかでいちばんわかりやすい例は
「時刻12:00から18:00までの時間帯に、この道路は駐車禁止である」
と法律で定められている道路に、
時刻0:00に駐車しても駐禁はきられないし、駐車しなくても
駐禁はきられない。つまり、この法律を破った事にはならない、
というものだ。
P⊃Qの真理値に関して、
「Pでないならば、QであるかQでないかのどちらかだ」。
このことからミョウな類推をして、Pが偽の時はP⊃Qを“?”にしろ
という主張がよくある。
しかし、Pが偽の場合に、
どちらかわからない“?”はP⊃QではなくQの真理値なのだ。
真理表はそのような場合の場合分けもちゃんとしてある。
>「もしPがあればQが矛盾無く導けるとき、Pが実際になくても、PからQ
> を演繹的に導出してよい。」これは論理学者の傲慢でしょう。
「Pが実際になくても」と言うのは、「P⊃Q」の
「P⊃」のところにPが入っているからです。
「P⊃」は「Pを仮定すると」という意味を表してるでしょ。
つまり、これは「Pを仮定してQが導ける、そういう状況を記号で表すと
P⊃Qになるね」という意味で、
これはほとんど同語反復をしている規則なんですよ。
傲慢でもなんでもなく、当たり前すぎて困っちゃう規則です。
しっかし、初心者がつまづきやすいところで全部つまづいてますね。
こりゃ先生につくどころか教科書が読めるかどうかの問題です。
363 :
ぱん"どら":2000/11/28(火) 18:20
>それはいかんなぁ。そんなの野放しにしといたらいかん。
そうで〜す。わたしをギャフンといわせてくれる人、まってるの。
>ところで、
>質問1:「すべてのSはPである」の翻訳は「∀x(Sx→Px)」である?
>質問2:¬∀xPx⇔∃x¬Pxは恒真である?
>この二つの質問にYESと答えるなら次の質問に答えてみてちょうだい。
これはYESであるとおもいます。
>質問3:「あるSはPである」と「すべてのSがPでない、というわけではない」
>は同じことを主張している?つまり、形式化すれば同値な論理式になる?
>さて、この質問にYESと答えるならば、君の主張は間違っていることになる。
>なぜなら、
>「すべてのSがPでない、というわけではない」は「¬∀x(Sx→¬Px)」
>になるし、(質問1のYESより)
>これと同値なのは「∃x(Sx∧Px)」であり、(質問2のYESより)
>「∃x(Sx→Px)」ではないからだ。
>どれかの質問にNOと答えるなら、その理由を聞かせてちょうだい。
問題は次の点かと思います。
ロジシャンのおじ様は質問1と質問3においてS@`Pは同じ概念,または命題を
前提にしています。
わたしはこの点がおかしいと思ってるわけです。
つまり、Sに人間,Pに哺乳類をあてはめると、わたしの書き方では∀S=∃P
であり、質問1が設定された時点でこれが固定化されるのです。
「∀x(Sx→Px)」においてS、Pは(∀S=∃Pないし∀S=∀P)となるわけです。
ここから「あるSはPである」(∃S=∃Pないし∃S=∀P)は表現できないのです。
すなわち、シンタックスはセマンティクスにはばまれてそれほど自由に論理式
は展開できないのです。
これを無視してるから「月がチーズでできていればジョーンズは家にいる」
とかクワインのようなわけのわからない参考書が大手を振っているのでしょう?
>しっかし、初心者がつまづきやすいところで全部つまづいてますね。
>こりゃ先生につくどころか教科書が読めるかどうかの問題です。
そうで〜す。
OFWさま、がんばって〜、赤い血が騒ぐ〜♪
364 :
logician's red:2000/11/29(水) 20:34
>363
>問題は次の点かと思います。
>ロジシャンのおじ様は質問1と質問3においてS@`Pは同じ概念,または命題を
>前提にしています。
>わたしはこの点がおかしいと思ってるわけです。
どうおかしいのだろう?フツウの形式言語では
同じ記号は同じものを表しているというルールがある。
(私は以前同じ記号をその出現で区別するという方法について言ったが、
そのときは、これは普通使わない意味論を使用していると断った。)
>つまり、Sに人間,Pに哺乳類をあてはめると、わたしの書き方では∀S=∃P
>であり、質問1が設定された時点でこれが固定化されるのです。
これがさっぱり意味不明。
オリジナルの記号法を使用するのは結構だが、
他人に理解して欲しかったら、その記号の用法について説明してからにしてくれ。
これをしないから「ひとりよがり」とか言われるんだぞ。
私が勝手に解釈すると(説明しないから勝手にいじられる)
∀S=∃Pは∀x∃y(Sx⇔Py)のことか?
だいたい、∀Sとか∃Pは二階述語論理で使う表現だ。
>「∀x(Sx→Px)」においてS、Pは(∀S=∃Pないし∀S=∀P)となるわけです。
> ここから「あるSはPである」(∃S=∃Pないし∃S=∀P)は表現できないのです。
これも同様の理由で意味不明。同意でもなく反対でもなくそれ以前に意味不明。
とりあえず言えるのは君のつかっている記号“=”は
対称性:「a=bならばb=a」を持たないので同値関係ではない。
(「すべてのSはPである」と「すべてのPはSである」は同値ではない)
君は単なる初心者よりタチが悪い。理解不能ではなく曲解していて、
かつ、「自分は正しい」と信じているからだ。私が修正してやる。
365 :
OFW:2000/11/29(水) 21:07
>>362(logician's redさん)
>OWF氏はP→Qの真理値定義で困ってるみたいだが
別に困っている訳ではない。おかしいよと言っているだけ。
>Pが偽の場合に、どちらかわからない“?”はP⊃QではなくQの真理値
それなら、
>>356の真理表の使い方は正しいという事になる。
何が言いたいのかな?
では、真理表では「Pが偽、Qが真の場合にP⊃Qは真とする」のは
何故でしょう?日常語「ならば」の論理的に厳密な定義とは?
>真理表はそのような場合の場合分けもちゃんとしてある。
それは知らなかった。どういうものでしょう?
>「P⊃」は「Pを仮定すると」という意味を表してるでしょ。
どうしてそうなるのかな?結合子⊃には真理表で定義されているだけの
意味内容しかないのでは?真理表には仮定ではなく独立なP,Qのもつ
真偽の「場合のセット」しかない。それが日常語「仮定」を表わすとする
根拠は何か?そもそも「Pを仮定する」とはいかなることか?
1.Pとは何らかの命題(事態<P>の言明「P」)である。
2.Pは真あるいは偽の真理値VPを持つ。
3.命題Pの真理値が真(VP=1)とは、言明「P」が事態<P>と
一致する場合であり、偽(VP=0)とは一致しない場合である。
ならば、「Pを仮定する」とは、「言明「P」と一致する事態<P>が成立
していると仮定する」としか解釈できない。しかしそうなると、Pが偽の
場合は始めから除外されていることになる。さらに「PからQを導出する」
となると一段と意味不明になる。
1.事態<P>が成立している場合を、事態<Q>が成立している場合
に関連づけること?
2.言明「P」を言明「Q」に、「ならば」によって連接すること?
3.VPセット(真、偽)からVQセット(真、偽)を算出すること?
これらの不自然(無内容)な言葉を何の抵抗もなく理解するのは無理でし
ょう。理解するには少なくともその対象に内容があることが必要ですから。
366 :
OFW:2000/11/29(水) 21:09
>>362(logician's redさん)(つづき)
>つまり、これは「Pを仮定してQが導ける、そういう状況を記号で表すと
>P⊃Qになるね」という意味で、
更に意味不明。そして、また言い分を変えましたね。P⊃Qは「条件」で
も、「導出」でもなく、「導ける状況の記述」とは?意味があるとすれば、
「事態<P>が成立していると仮定した場合、「同時に」事態<Q>が成立
しているという状態」以外に考えようがない。そして、事態<P>と事態
<Q>の間には関係があるのかないのかという点が、「導ける」という言葉
で言われている訳でしょう。しかし、二つの事態が同時にある場合、それ
らは独立であり、両者の間には直接的な関係はない。そのためには、本質
的(媒介的)な関係性の場を前提する必要があるのです。
>これはほとんど同語反復をしている規則なんですよ。
言葉は同じでもその意義が違う(同義反復ではない)。それは仮定された
事態を定立された事態に変えているのであり、対象の存在論的な意義が異な
るのです。それは自己関係として閉じた体系の設定です。形式主義はそこに
ある内容的な形式(区別)を無視するから、無意味に陥る。そもそも
「同語反復」など論理的な規則になり得ない。
>傲慢でもなんでもなく、当たり前すぎて困っちゃう規則です。
仮定されただけ(考えられただけ)の体系を自己から導出されたものと
して、事実との検証もなしに真と呼び、規則の根拠に対する問いを許さな
いとすれば、理性に対する傲慢と呼ばれても仕方がない。
上記で述べたように、本来命題は何らかの事態の判断であり、その導出と
はその事態が本質的・本源的な事態に媒介されたものかどうかを問うもの
です。その場合、媒介する本質は直接的な前提であり、そこから派生した
他の事態はその帰結です。そこには時間的な連関があるが、概念はそれを
無時間的な思考形式として定着する。本質:現象、物:諸性質、原因:
結果、実体:偶有等は事態の進展(発展)に応じて、自己同一的なものを
対象的に区別した概念形式(カテゴリー)です。
>しっかし、初心者がつまづきやすいところで全部つまづいてますね。
実際、初心者がつまづくのはもっともです。何故ならそれは誤りだから。
>こりゃ先生につくどころか教科書が読めるかどうかの問題です。
では再度質問します。「P⊃Q」をどう読む(理解する)のでしょう?
367 :
野次馬:2000/11/29(水) 22:39
なんで論理学で紛糾すんだ?
368 :
微熱症患者:2000/11/30(木) 01:38
久しぶりにやってきましたが「可能世界意味論」スレッドで力尽きました。
とりあえず、
>>356について。
そこの真理表で言わんとすることはわかりますが、やはり真理表の使い方
が間違っているような気がします。
PとQからP⊃Qが定義されるので、そこからDRは自ずと証明できるは
ずです。
P Q P⊃Q
1 1 1
1 0 0
0 1 1
0 0 1
PとP⊃Qの両方が真であるのは、上の真理表の1行目だけですが、その
場合はQも真となります。
Pが真でP⊃Qが偽の場合は2行目なのでQは偽。
Pが偽でP⊃Qが真の場合は3行目と4行目の両方ですが、Qの真理値は
3行目と4行目で違っていますので、一通りに決定できません。
最後にPが偽でP⊃Qが偽の場合……はありません。Pが偽だと無条件で
P⊃Qは真となります。だから「月がチーズで出来ているならば×××」
といえば「×××」の部分に何が入っても全体としては真となります。
>「Pが偽」と「〜P」とは式の値と式との区別でしょうが、
>もし「言明Pが真であるとはまさにその事態が成立していること」
>という定義からすると、「言明〜PとはPではないという言明」であり、
>「言明〜Pが真であるとはまさにその事態が成立していないこと」
>となり、「言明Pが偽」との区別がなくなる。Pと〜Pは真偽をひっくり
>返せば演繹規則DRにも通用するのでは?
通用します。その場合、DRは、
〜Pと(P⊃Q)から、Qを導出できる
ではなくて、
〜Pと(〜P⊃Q)から、Qを導出できる
となります。
>また、「真とは可能であること」とすると、真偽は区別できない。何しろ
>可能という点では全ては可能でしょうから。
その通りです。ですから、「真とは可能であること」という定義を採用した
ら大変です。やめましょう。
369 :
ぱん"どら":2000/11/30(木) 11:45
>>364 >>わたしはこの点がおかしいと思ってるわけです。
>どうおかしいのだろう?フツウの形式言語では
>同じ記号は同じものを表しているというルールがある。
う〜ん、そうですか。意味不明といわれるのは、もう少し説明必要みたい。
おじ様このようではいかが?
わたしが描いているイメージはオイラーの二つの円を使うものです。
普通はヴェンのほうが使われるのかもしれませんが、わたしはヴェンは控えて
ます。ヴェンには要素を表現するアスタリスク*があるでしょう。
わたしはこれが気に食わないのです。
図では円がなくても*があるでしょう。これって実在をあらわしていると思います。
OFWさまは気に入るかもしれない。
とにかく、わたしはオイラーの二つの円a,bで整理してます。
つまり、概念のAとBがあって、それを円a,bであらわしたとき、ありうるケースは
@aとbがかさなって同一であるというときわたしは∀A=∀Bといってます。
具体的にはたとえば固有者などはこの類。
「東京は日本の首都である」などを考えるわけ。
Aaがbに含まれてしまう場合、専門用語ではbが周延する、なんていってますね。
これは∀A=∃B。たとえば「東京は大都市である」なんていうとき、大都市は
東京だけではないでしょう。つまりaはbに囲まれてるわけね。
B今度はAの反対、bがaに囲まれてる場合。
東京は単一者だから部分がないので例を変えてみると「ある人間はすべての
日本人である」なんてもの。∃A=∀Bといってるわけ。
C最後に円が互いに部分的にかさなってるもの。∃A=∃Bでいってます。
サンプルでは「ある人間はあるオスである」のようなもの。オスという性は
動物一般の所有する性格ですからね。
>他人に理解して欲しかったら、その記号の用法について説明してからにしてくれ。
>これをしないから「ひとりよがり」とか言われるんだぞ。
ごめんなさ〜い。
∀A=∀B、この手の表現は今回わたしもはじめて使ったものだから、それが
伝統に合わないどうのいわれてもしかたないけれど、まあ、量化をあらわすのに
都合が良かったのでかく表現してみました。
基本的には古典論理学の概念図で〜す。でも@とBがちがうのね。
アリストテレスではこれ考えてないもん。
いいたいことはわかるでしょう?
で、おじさまが∀x(Sx→Px)といったとき(S:人間P:哺乳類)これはSとPの
概念関係がAをあらわしていて∃x(Sx∧Px)これはCの概念関係をあらわし
ているというわけ。ちなみに∀x(Sx⇔Px)だったら@っていうわけ。
そしてひとたび∀x(Sx→Px)とやったら、これはS、Pに人間,哺乳類のような
概念関係が設定されたことを意味して、ここから∃x(Sx∧Px)は表現できない。
「ある人間がある哺乳類である」はありえない命題となります。
よって、先の質問@Aに対してBの質問は設定自体が不可能になります。
>君は単なる初心者よりタチが悪い。理解不能ではなく曲解していて、
>かつ、「自分は正しい」と信じているからだ。私が修正してやる。
キャー、いってることあたってるかも〜。
前回よりもわかったでしょう?反論楽しみ〜。
370 :
OFW:2000/11/30(木) 21:33
>>368(微熱症患者さん)
>PとQからP⊃Qが定義される
>Pが偽だと無条件でP⊃Qは真となります。
「真となる」のではなく、「真と定義している」のでは?
>だから「月がチーズで出来ているならば×××」といえば「×××」
>の部分に何が入っても全体としては真となります。
何故「だから」なのでしょう?
>>351では「⊃」と「ならば」は別物
と考えた方が良いと言われていた。また、PおよびQは任意の命題なので
しょうから、以下の真理表はどうなるのでしょう?
P Q P⊃Q
(月がチーズで出来ている)(ジョーンズは家にいる)(月がチーズで出来て
いるならばジョーンズ
は家にいる)
真 真 真
真 偽 偽
偽 真 真
偽 偽 真
2行目では「全体として偽」になっているが、真理表の使い方は正しい?
Pは任意の命題を表わす式記号であり、「月がチーズでできている」はその
例であり式の値ではない。式記号の例としての自然言語記号は何を表わす
のか?
因みに、昔の日本では「月には兎がいる」という言明は真と考えられてい
た。論理学ができる以前には真理表に適うような論理的な言明は存在しな
かった、が正しい?
形式論理学の初心者には、いよいよ不明不可解です…。
どうでも良いですが、傍から見ていてカナリ見苦しいの一言です。
OWF氏とぱんどら氏は、自分の書き込んだことを辻褄のいいようにあとから解釈を
付け加え、反論者の批判の矛先を言語的差異を頼りに退ける典型的なドグマティストに見えます。
自分の主張に論理的正当性を求めようと躍起になる以前に、そういう‘自称哲学者’的態度
が世間からもっとも嫌悪されているものだということに早く気付いてもらいたいですが彼らには
無理なようです。
372 :
ぱん"どら":2000/12/01(金) 09:43
>>371 >どうでも良いですが、傍から見ていてカナリ見苦しいの一言です。
どうでもよくありません、自分の不利さを感情論でかたづけようとされてますね。
>OWF氏とぱんどら氏は、自分の書き込んだことを辻褄のいいようにあとから
>解釈を付け加え、反論者の批判の矛先を言語的差異を頼りに退ける典型的
>なドグマティストに見えます。
それは貴方の個人的見解です。
>自分の主張に論理的正当性を求めようと躍起になる以前に、そういう
>‘自称哲学者’的態度が世間からもっとも嫌悪されているものだということに
>早く気付いてもらいたいですが彼らには無理なようです。
新しい発見には混乱がつき物です。
別に気負ってるわけではないですがここはそうした自由な議論ができてもいい
でしょう。
ご自分の権威を擁護しようとして高飛車に出るのはガリレオ時代から権威者の
常套手段でしたね。
あるいは権威者にこびへつらう類のやからの態度です。
ロジシャンさまがかえってはずかしくなるだけです。
あなたは何を守ろうとしているのですか?
もし、反論されるなら,ハンドルを固定してぜひ議論に加わってください。
373 :
logician's red:2000/12/01(金) 20:48
>OWF氏
>それなら、
>>356の真理表の使い方は正しいという事になる。
>何が言いたいのかな?
どうしてかな?どうして「それなら」といえるのかな?
ま、それ以前に真と偽しか使わない真理表は
古典二値意味論を前提としているということをちゃんと押さえているのかな?
わかってないからこんな質問するんだよ。
>では、真理表では「Pが偽、Qが真の場合にP⊃Qは真とする」のは
>何故でしょう?
答えは簡単。P⊃Qを偽にすると矛盾するから。
なんども言ってるけどこんなことは教科書の最初の方に書いてある。
>日常語「ならば」の論理的に厳密な定義とは?
不可能ですね。様相論理の厳密含意も厳密な「ならば」の定義ではない。
そもそも日常語は条件によってどのようにも解釈可能なんだから無理無理。
だからいろんな「ならば」のモデルを考えるしかない。
日常言語のなかでは厳密含意も二値論理の「ならば」もそのひとつになる。
>結合子⊃には真理表で定義されているだけの
>意味内容しかないのでは?
意味内容じゃなくてあれは「真理値割り当て」の定義。
論理式の自然言語解釈と割り当て関数による真理値割り当てを混同しないように。
>真理表には仮定ではなく独立なP,Qのもつ
>真偽の「場合のセット」しかない。それが日常語「仮定」を表わすとする
>根拠は何か?
私は「P⊃」と書いたのに「P」しか見えてないみたいだ。
スタイルを崩して書くとかえって誤解されるし、
厳密なスタイルで書かれている教科書は読めない…。困ったもんだ。
374 :
OFW:2000/12/01(金) 21:12
>>371 どもです。
>OWF氏…は、自分の書き込んだことを辻褄のいいようにあとから解釈を
>付け加え、
具体的にどの発言か指摘していただけると助かります。説明不足なら補う
し、誤解ならその旨を説明したい。
>反論者の批判の矛先を言語的差異を頼りに退ける典型的なドグマティストに
>見えます。
同上ですが、「言語的差異」とはよく分からないので、説明して欲しいな。
「概念的区別」なら分かりますが…。また、「ドグマティスト」とは独断
論者という事ですから、少し違うのでは?
>‘自称哲学者’的態度
私は「哲学者」ではないし、自称したこともありません。「自称哲学者」
とは意味不明です。「素人哲学者」あるいは「似非哲学者」という事?
>世間からもっとも嫌悪されているものだということ
どの辺りの世間でしょう?ひょっとして学界という小世間?
>彼らには無理なようです。
急に一人で納得されてもなぁ。誰に向かって話しているのかな?
私は正当な批判はいつでも受入れます。そして、前にも書きましたが、
「共同の真理」に向かう公共的で真摯な態度こそが対話という弁証法である
と考えています。確かに真理とは厳しいものですから、時として対立的な
場面もでてくるが、決して勝ち負けを争うことではない。
(・・・今日もlogicianさんとバッティングしてしまった。)
375 :
考える名無しさん:2000/12/01(金) 21:47
「傍らから見ている」自称批評家371、氏ね。
376 :
OFW:2000/12/01(金) 22:21
>>373(logician's redさん)
>どうしてかな?どうして「それなら」といえるのかな?
>>351で私は
> P P⊃Q Q
> 0 1 1 or 0?
と書いてみた。つまり、Pが偽でP⊃Qが真の時は、Qの真偽は“?”と。
一方、
>>362であなたは
>Pが偽の場合に、どちらかわからない“?”はP⊃QではなくQの真理値
>なのだ。
と言われた。これらは同じことを言っているのと考えたから、「それなら」
と言ったのです。
>だからいろんな「ならば」のモデルを考えるしかない。
モデルは仮説ですから、現実に対する検証が必要でしょう。そもそも何の
ためのモデルなのか?現実と全く対応しないモデルとは何なのか?
>意味内容じゃなくてあれは「真理値割り当て」の定義。
新たな用語だ。「真理は値をもち、割当てられる」とは如何なることか?
値(Value)とは常に相対的であり、Aにとって真でも、Bにとって
非真になり得ることを忘れないように。
1は2に対しては0.5であり、0.5に対しては2でしょう。
多分この辺が食い違いのポイントかな。
>論理式の自然言語解釈と割り当て関数による真理値割り当てを混同しない
>ように。
ならば
>>365の
>「P⊃」は「Pを仮定すると」という意味を表してるでしょ。
との解釈はどこからくるのか?
また先の質問の繰り返しですが、「Pを仮定すると」と「Pが真であると
仮定すると」との違いは何でしょう?
また、「教科書が読める」と「教科書を正しいとする」とは同値?
…我なんぞ理解すべけんや、教科書如何に初心者に理解せしめんか。
377 :
logician's red:2000/12/01(金) 22:44
(つづき)
>ならば、「Pを仮定する」とは、「言明「P」と一致する事態<P>が成立
>していると仮定する」としか解釈できない
「Pを(真であると)仮定する」の定義を求めるのは
“哲学的に”有意義なことだと思うが、仮定の定義の中に仮定という
言葉をつかっちゃいけない。(循環定義)
(そもそもここでOWF氏は「とは何か?」と言いながら
定義を求めているのではなく、仮定に基づいて推論しているにすぎない。
だから「としか解釈できない」となるのは当然である。)
さて以下OWF氏の「意味不明だ」という主張が続くが引用するのも面倒だ。
『知の欺瞞』に「理解不能」が発生する2つのケースについて書いてあったが
3番目のケースが必要なようだ。(後述)
私が
>つまり「Pを仮定してQが導ける、そういう状況を記号で表すと
>P⊃Qになるね」
と発言したのも意味不明らしいが、
(スタイルを崩してわかりやすくしたつもりなのにこれだもんなぁ)
「⊃」で「ならば」、「よって」、「仮定すると」などを表すと
“仮定する”ことがちゃんとできてるかな?
「Pを仮定するとQを導ける」と上に書いてあるね。
さっき「(を)仮定すると」を⊃で表すと仮定したから
それにしたがって、その部分だけ「⊃」で表してみよう。
「P⊃Qを導ける」になったでしょう?
あと「導出」という言葉は形式系の用語であり「証明可能」と
同義です。すなわち、推論規則にしたがって、そのような記号列を
記述、生成してよいということです。
「1+1=2ならば私は死ぬ」のような文において
1+1=2であることと、私は死ぬこととはおよそ関係がなさそうなのに
「ならば」の語で繋がっている。そしてこれは文(命題)である。
風ふけば桶屋式に無理矢理関係づけなくても文(命題)である。
本質的な関係性の場とやらは必要ないのです。
実際の事態から独立していることがわかってますか?
378 :
logician's red:2000/12/02(土) 00:20
ところで、私logician's redはlogicianではありません。
(べつにうそついてたわけじゃないよ。redlogicianと名乗ったわけじゃない)
私のことを「ロジシャン」と呼ぶとたまたま見た人に誤解されるので一応。
単なるJOJO@荒木ファンです。(ファンってほどじゃないかも)
24番目のタロット「ロジシャン」の暗示を持つスタンド使いです。(ワルノリ)
…ハンドル変えようかな…。
371の名無しさんは「印象批評」をしただけでしょう。
このやっかいな論争に口を挟む暇などないまっとうな人です。
私も印象批評だけならもっと「言い捨て」したいなぁ。
「傲慢」などという印象を表明する発言も十分印象批評なんだけどね。
(つづき)
言語学から借用するのも気がひけるんだが、言語記号のarbitrarinessというものがある。
言語学では「恣意性」と訳されているが、arbitraryは数学では「任意の」と訳されている。
言語記号がなにを表しているかに関して必然的な理由はなにもなく、
自然言語の場合はただ社会習慣にのみ依存しており、
言語記号がなにを表すかは任意に決定(定義)できる。
この社会習慣に依存するという意味で、自然言語は相対的である。
一般言語学および記号論がこの事実を明文化できたことは高く評価する。
「当たり前」を明文化するのは案外難しい。
さてさて、論理記号がなにを表すかについての必然的な理由はなにもなく、
必要なのは「ならば」をなにかの記号で表す事だけ。ということだ。
それが偶然、論理学者社会の習慣によって「⊃」になっただけ。
我々はおよそ何にでも名前を付けられる。それを実行しただけとも言える。
「その理由は?」をおうむ返しに繰り返せばいいってもんじゃない。
ものごとを仮定することを覚えてもらいたい。
はぁ〜、今日はここまで。つづきおよびぱんどらちゃんへのレスはまた今度。
379 :
OFW:2000/12/02(土) 00:35
>>377(logician's redさん)
>仮定の定義の中に仮定という言葉をつかっちゃいけない。(循環定義)
定義しようとしているのではなく、あなた(および論理学者)によって既
に定義されている記号⊃を、私が解釈しようとしているのですよ。
コミュニケーション的言語ゲームだな、こりゃ。
>「⊃」で「ならば」、「よって」、「仮定すると」などを表すと“仮定する”
素晴らしい!形式的・記号的・外延的思考の完全な表現だ。
「記号は自己(記号)を表わす。」まさにポストモダニズム的無意味ですね。
少なくとも言えることは、論理を計算に変えようとする形式論理学では、
元々記号の意味を消去するから、それを「理解する」ことは無用なことと
して、解釈をはなから拒否するということ、これは正しい。
しかし、上記の文に現れる最初の「仮定する」は外延的(理解不能)だが、
2番目の“仮定する”は内包的(理解可能)だから、本来別の言葉でしょ
う。それを同じ記号<仮定する>で表現することは、無根拠なトリックで
すね。それは、ヴィトゲンシュタインの「無根拠」とは異なる。何故なら、
彼は非言語的な根拠として「生活世界」を前提していたから。
>すなわち、推論規則にしたがって、そのような記号列を記述、生成して
>よいということです。そしてこれは文(命題)である。
前にも書いたが、命題とは「判断された事態の言明(文)」であり、文
そのものではない。「概念(判断含む)はそれ自身とその否定(対象)と
の否定的統一である」(ヘーゲル)。
>本質的な関係性の場とやらは必要ないのです。
事態がいらない形式主義ならそうでしょう。結局の所、真理を「定義」
するから、すべては丸く治まるように見えるだけ。たとえば、
「記号『形式論理学』によって真理を表わすと仮定しよう。すると『形式
論理学は真理だ』が矛盾無く導出される。」
しかし、導出(生成)されたのは真理そのものではなく、真理の記号に
過ぎない。そもそも、真理を「規則」によって生成させる、などとは
『知の欺瞞』でしょう。
(あと、私もOWFではなくOFW(OldFashionedWell)ですので)
380 :
微熱症患者:
ちょっと横レス。
「真理値割り当て」とは「真理は値をもち、割当てられる」という意味ではあ
りません。文とか命題とかに真理値を割り当てるということです。
で、「真理値」というのは、これまでにも何度も出たことばなので、今さら説
明するのもどうかと思うのですが、真理と虚偽のことです。
真理が値を持つのではなくて、文や命題などがもつ値が真理(かまたは虚偽)
であり、それが真理値です。
一文字で表すなら「真」「偽」、
英語ふうに書けば「T」「F」、
独語ふうに書けば「W」「F」、
数字を使って表せば「1」「0」、
などなど、いろいろな書き方がありますが、同じことです。
1と0で表すと、足し算や掛け算ができるので便利ですが、本質的には他の書
き方と違いはありません。