この哲学板において実在論がどのように認知されてるか知りたい。
素朴実在論が馬鹿にされるけど考えれば一番常識的なんだよね。
こんなこと考えるのも哲学だけとは思うけど
1素朴実在論
2反省的実在論
3新実在論
4先験的実在論
5批判的実在論
6観念的実在論
7その他貴方のオリジナル
8実在論のみで考えるのは無意味
9自分は宗教に興味があってこういうのは嫌い
のいずれかか発言してなぜそう考えるようになったか
教えていただけないでしょうか。
特に素朴実在論を叩く人は要必須。
1外界は認識主観とは独立に存在する。
外界は自分の感性に映ったとおりに存在し永久不変。
2素朴実在論で我々の感性を信じず科学的な手法で埋めてく。
主観の外に対象を信ずる。
3関係外在説の立場をとり、対象は認識されても観念化されない。
認識の主観と独立に対象を捉える。
4カントの思想を汲む
認識できなくても確かにそこに存在するという対象が実在する。
5物自体のような実在に科学の力を借りて接近しようとする。
6ニコライ・ハルトマンだったかな
形而上学的なアプローチをするやつ。
こんな感じかな
間違えてたり、さらに説明がいりそうなやつは補完しといてください。
3 :
考える名無しさん :2000/10/01(日) 03:18
これらってどう違うの?
例えば、1と2なら、1ならこうなるはずだがが2ならこうなるはず、という風に、
何らか結果が異なる状況ってありますか?
違いが無ければ同じってことです。
同じなら考えても意味が無いでしょう。
4 :
おれは8 :2000/10/01(日) 03:23
かな。認識論とか認知科学とか絡まないと意味ない。てゆうか面白くない。
5 :
フィロゾファッカー :2000/10/01(日) 06:00
ありがとうございます。
>3プラグマティズムですね。
>4なるほど・・・
引き続き哲学板の方の意見を募集します。
6 :
フィロゾファッカー :2000/10/01(日) 06:09
できれば素朴実在論に対する感想なども付記していただくと大変うれしいです。
あとおそらくは無理でしょうがレスが100を超えたら集計して結果を発表したいと思います。
7 :
微熱症患者 :2000/10/02(月) 01:47
私は、自分の外にさまざまな事物が存在することを信じます。
それらの大部分は私が生まれる前からあり、私の死後にもあり続けると
信じます。
私を取り巻く事物の大部分は、私がそれらについてどのような接し方を
するかにかかわらず、同様にあり続けると信じます。
私はそれらの事物について多くの場合正しい知識をもっていると信じま
す。
しかし、すべてが正しいわけではないこと、すなわち間違った信念をも
つこともあるということを信じます。
私の考えをおおまかにいえば以上です。
上の分類でどの項目にあたるのかはよくわからないのですが……。
やはり素朴実在論でしょうか?
8 :
考える名無しさん :2000/10/02(月) 23:23
とても哲学プロパーなスレですが、強いて言えば、私も8ですね。
と言うより実在論の系譜には詳しくないので、下記の整理でOKかな?。
中世スコラ哲学では、 実在論(実念論) vs 唯名論
近世の認識論では、ロックの表現的実在論 vs カントの超越論的観念論
その後の認識論では、英米哲学の新実在論 vs 新カント派科学哲学?、
論理実証主義
更に認識論として、新実在論から批判的実在論、心の科学
vs 言語論的実在論
存在論として、ハルトマンの形而上学的実在論 vs 現代現象学?
私の考えでは、実在に対する実践的な(反省的・解釈的でない)認識の
発展形式としてはバシュラール『否定の哲学』にある
経験的な素朴実在論→科学的合理主義的実在論→弁証法的唯物論
が宜しかろうと思います。バシュラールはもっと読まれてしかるべきだ!
9 :
あー!幸せだ。有り難う! :2000/10/03(火) 00:42
10 自分は宗教に興味ないのでこういうのは嫌い。
外部世界の実在を説くのは哲学的に行われたとしても
宗教だと思います。
どれもこれも悪臭を放つ・・。
誤解なきように言い添えれば、外部世界の非実在を説くのも同様に宗教だと考えます。
10 :
微熱症患者 :2000/10/03(火) 01:22
>>9 >どれもこれも悪臭を放つ・・。
その悪臭の源は外部世界にあるのでしょうか。
それともあなたの心の中?
11 :
あー!幸せだ。有り難う! :2000/10/03(火) 03:50
>10
おおっ!油断なりませんねぇ。
比喩ですよ?
どういう問いなんでしょうか?
12 :
フィロゾファッカー :2000/10/03(火) 08:06
皆様レスありがとうございます。
>7微熱症患者さん
素朴実在論ではないと思います。
外界に主観とは独立して認識する対象が存在すると言う点で実在論と言えそうですが
>しかし、すべてが正しいわけではないこと、すなわち間違った信念をも
>つこともあるということを信じます。
の文章より微熱症患者さんが自分の感性を絶対視してないことが伺えますので
素朴実在論ではないと思います。
そこで微熱症患者さんが認識する対象にどのようなアプローチをとるかで
分類されると思います。
模写説の立場をとるなら1と言えそうですし、
対象との関係を重要視するなら3と言えると思います。
またその対象に認識論とは別に科学、形而上学の発展からタッチするなら5、6と言えると思います。
ただ私が見る限りにおいては2の反省的実在論に近いように感じます。
13 :
フィロゾファッカー :2000/10/03(火) 08:23
>8さん
私も細かい系譜は駄目な人間でしてよく分かりませんが
近世まではだいたい同じ認識です。それ以降はよく分かりません。
>実在に対する実践的な(反省的・解釈的でない)認識の
>発展形式としてはバシュラール『否定の哲学』にある
>経験的な素朴実在論→科学的合理主義的実在論→弁証法的唯物論
これが8さんの実在論に対する捉え方だと思いますが、
私はバシュラールを知りませんので、よく分かりませんし、
科学的合理主義的実在論について勉強してからレスを返したいと重います。
分類としましては7その他にさせていただきます。
14 :
フィロゾファッカー :2000/10/03(火) 08:35
>9あー!幸せだ。有り難う! さん
思うのですが、実在論に絞ってスレをたてたのは失敗だったかなと反省してます。
9さんの意見はよく分からないのですが、
バークリの主観的観念論を基礎と考えてよろしいでしょうか。
仮にそうだとするなら我々の認識の普遍性についてどのように考えてるのかお聞かせいただきたいと思います。
15 :
微熱症患者 :2000/10/04(水) 07:43
>>11 いえ、たいした意味はないのですが、「悪臭」というたとえがちょっと気になったもので……。
16 :
電波猫 :2000/10/04(水) 18:21
普段使うのは1と2と8かな
その時によって使い別けますね
17 :
考える名無しさん :2000/10/06(金) 14:22
面白いスレですね。
意味をよく分かっているかどうか不安なのですが、僕は2ですかね。というか、むしろ1よりも2の方が一般的な考え方のような気がします。でも場合によって、いろいろ(1〜9)に変化してますね。
どういう考え方が正しいのか、ということにさえも確証はもてないけど、普段生活するにあたっては2が一番なじむという感じがする。3〜6はあくまで学者が信念として持つもののような気が。
18 :
電波猫 :2000/10/06(金) 21:11
えーと、リンゴは本当に赤いんだ
ってのは1ですか2ですか?
道徳的なものは人間の主観とは無関係に存在し得ないは認めますが
何らかの理由で意見を変える時には、前の道徳的意見を「間違っていた」と判断する
また、道徳について論争する時には「正しいか誤りか」で議論する
→道徳的な事柄に関して誤りうる→道徳的事柄に正否がある
道徳はあるレベルにおいては外在的であると言う立場は何らかの実在論に入るのでしょうか?
19 :
電波猫 :2000/10/06(金) 21:16
御免なさい、読みにくいですね
20 :
考える名無しさん :2000/10/06(金) 21:27
まんまるお月様をとるには相当長い柄を持つ網が必要だが
これさえあればばっちりだし、どうもうまくいきそうだな。
これは
1ですかね。月が宇宙にあることを知らないし、宇宙がなんであるかもどんな規模かさえも知らない。
一般的には天体の動きを数学を駆使して統計的に把握するまでにまだ数百年かかる時期でしょう。
天体とか、宇宙とかしらず、自分の主観において主観は
目に映る月に対して、目の前の林檎と同様の関係しか設定してないので
こうした素朴なことをいいうると思います。
21 :
フィロゾファッカー :2000/10/06(金) 22:06
>>16−20
レスありがとうございます。
それぞれがどの実在論に分類されるかは分かりません。
これはひとえに私の認識不足でした。
私はこの板で素朴実在論が素朴という批判を受ける傾向を見て
(私が言われたわけではない)、
実在論でどういう認識が主流かか知りたかったのですが
どうも実在論自体が素朴と言われるようですね。
というわけで大きく分類します。
1実在論
認識の主観から独立して客観的に存在する対象がある。
2観念論
対象は主観によって認識されてはじめてあると言えて
主観をはずれて独立して存在する対象はない。
3現象論
実在は不可知で我々が主観として認識できる現象があり
それを対象と呼んでるだけである。
と分類できるようです。
さらにそれぞれが分類でき、その中で実在論に的を絞った私が浅はかでした。
続きます。
22 :
フィロゾファッカー :2000/10/06(金) 22:23
という訳でアンケートは以下のように改良しました。
1素朴実在論
2反省的実在論
3新実在論
4カントの流れを汲んだ先験主義
5批判的実在論
6観念的実在論
7その他
8実在論のみで考えるのは無意味
9興味ない
10観念論
11現象論
12実用主義
13あなたのオリジナル
後で追加変更するかもしれません。
とりあえずどの立場か答えて頂きたいと思います。
あと実在論に対する意見もお聞かせください。
レスが100を超えたら集計結果を出したいと思います。
素朴実在論と実用主義を同じく並べてあっておかしいと思いますが
ご容赦ください。
23 :
考える名無しさん :2000/10/06(金) 22:25
素朴ってのは
なんかあれなんだ
批判以前吟味以前てな
感じなんだよね。ある種の用例では
24 :
フィロゾファッカー :2000/10/06(金) 22:28
>哲学板コテハンの方々
さらには頭のいい「名無しさん」
私はよく理解してないのでアドバイス、訂正、お願いします。
>>18、
>>20のレスに特に返答をお願いします。
・e・さん (名指しですが)お願いします。
25 :
考える名無しさん :2000/10/07(土) 06:02
・e・<微力ながらレスさせていただきます。
・・・と言いながら疑問がわくのは「何をもって素朴と考えるか」ということ。
例えば20の例で言えば、ちょっと長いサヲを用いれば月にとどくとか、月はチ〜ズで出来てるという態度を
「素朴」というのは、科学的知見による反省的立場を経てのこと。ところがハイデガー的な現象学だと、質量規定や
科学的規定によって月を捉えるのは、逆に(主観に端を発する)科学的知見を月に投影することによって、本来
人間に都合のいい尺度≠月の本質だと見なすことである。ここでは科学それ自体が「素朴」なもの見なされる。
(→時間や空間を「実在」と捉えることの不可能性についての議論がありましたね)
結局「素朴」であるとは、何らかの実在を盲信したり、或いは逆に、何らかの理論的前提を盲信すること、と言える。
だから「素朴でない」というのは、自分が立っている哲学的先入見にたいする反省や批判が要求される。こういう自己反省によって、
逆に対象の在り方や見え方も変化するだろう。従って、実在か観念か、という2項対立ではなく、常に訂正可能な仕方で対象を捉えること、
こういう弁証法的な手続きを私は支持します。(上のどれに当てはまるんだろう・・)
26 :
考える名無しさん :2000/10/07(土) 06:18
ちなみに上の分類は、ワタクシ流で言うと
1実在論
客観的に存在する対象の性質や意味内容≠ェ、認識の主観から独立してある。
2観念論
対象の性質や意味内容≠ヘ主観によって認識されてはじめてあると言えて
主観をはずれて独立して存在するのではない。
3現象論
存在≠ヘ不可知で、我々が主観として認識できる現象を、
我々が実在と呼んでるだけである。
こんな感じになりますが、いかがでしょう。
27 :
考える名無しさん :2000/10/07(土) 06:20
・e・<ズレまくりだぁ〜
28 :
微熱症患者 :2000/10/07(土) 06:40
電波猫さんの書き込み(
>>18)を読んで思ったのですが、「道徳的実在論」
も考慮に入れるとすれば、「科学的実在論」「数学的実在論」などという
ものも考える必要があると思います。
近代の文脈で「実在論」ということばを説明抜きに使えば、ふつうは外界
の事物や世界についての実在論のことを指します。フィロゾファッカーさ
んの分類(
>>1 >>22)もその話題領域を前提としたものだと思います。
その場合、実在論と並び立つのが観念論と現象論である(
>>21)というの
も妥当な考えです(ただしマルクス主義の枠組みでは唯物論と観念論が対
置され、さらに観念論の陣営のなかに主観的観念論と客観的観念論がある
という分け方になるので、やや注意が必要)。
ところで、実在論と反実在論の対立が生じる場面は何も外界の事物の場合
に限りません。たとえば数学の領域で取り扱われる対象(数)は実在する
のかどうか、という問題は数学の哲学の主要問題です。この場合に実在論
(数学的実在論)と対置される有力な立場には心理主義、論理主義、物理
主義などがあります。
科学理論(とそれに含まれる理論的存在者)について科学的実在論と道具
主義が激しく対立していることは、科学哲学に通じた方ならご存じでしょ
う。
道徳哲学についてはあまり私はよく知らないのですが、道徳的実在論に対
して、情緒主義という立場があるという話をきいたことがあります。
ここで蛇足ながら「〜的実在論」という用語法について補足します。
「反省的実在論」「批判的実在論」「観念的実在論」などは、実在論の主
張の仕方や論の組み立て方についての用語ですが「道徳的実在論」「数学
的実在論」「科学的実在論」などは実在論を主張する領域についての用語
です。だから「科学的反省的実在論」とか「数学的批判的実在論」などと
いう立場もあるかもしれません(たぶんそんなことばを使う人は現実には
いないと思いますが)。
外部世界の実在についてはデュエム=クワインテーゼに基づいた科学的実在論
の考え方が妥当なのでは?
30 :
あげとく :2000/10/09(月) 02:01
か。
31 :
考える名無しさん :2000/10/09(月) 10:11
>>28 数学的概念が”実在”するってどういうことですか?
人間が概念を直接感知しているということですか?
感知したものを分析して概念をつくるのではないということですか?
32 :
考える名無しさん :2000/10/09(月) 15:32
>>31 けっこう科学者の中には数学的実在を信じている人がいそうだけどね。
今のところまでは数学で自然を表現するのがすごく成功しているから。
数学は人間の概念には違いないけど、自然が数学的法則に従っているとしたら、人間が直接それそのものを感知できなかったとしても、実在そのものはあることになる。
33 :
電波猫 :2000/10/10(火) 19:14
2chは実在すると思いまーす。運動量も日本も実在するし、バブル経済も実在したと思います。(万有引力はしないような気がする)
という訳でアンケートの集計は素朴実在論でお願いします(応援してます)。(物事が政治的にどう意味付けられるかには関心があるんで実は8かも)
>30−31
単に実在と言う単語をどう定義するかの問題かも(18で言いたかったのは、そもそもこれは実在論に分類されるかどうかです)
ある意味では実在、あるレベルでは違うんで実際には色々使い分けですね
34 :
考える名無しさん :2000/10/10(火) 20:31
2です
35 :
考える名無しさん :2000/10/10(火) 20:36
>2chは実在すると思いまーす。運動量も日本も実在するし、バブル経済も実在したと思います。
全部実在しないと思いまーす
36 :
フィロゾファッカー :2000/10/10(火) 21:43
>25
・e・さん レスありがとうございます。
つまりは実在論における素朴とは真理を追究する時の態度である模写説の立場が
哲学の緻密性についていけない素朴なものであるということですね?
逆に反省的にとらえていけば素朴だと笑われるものではないのですね?
>28 微熱症患者さん
薄学な私にわざわざご教授いただき本当にありがとうございます。
私は数学的実在や道徳的実在など、そのような多岐に渡った論議の存在すら知らなかったですから。
もう一度最初から勉強しなおそうと思います。助言、ありがとうございました。
>29さん
科学的実在論についてできれば概要をご教授ください。
>33 電波猫さん
学の浅い人間ですので文章の本意は分かりません。
が万有引力に関してはアイニーが否定したという話しを聞いたことがあります。
>哲学板のかたがた
>>22でアンケート改を実施中です。できれば書き込んでいってください。
説明に関しては
>>2 >>26 を参照して下さい。100を超えたら集計します。
37 :
考える名無しさん :2000/10/11(水) 23:49
31です。
ですから、”実在する”ってなんですか。
実在するのと実在しないのは何が違うのですか。
それを理解しないうちに、
○○は実在するか?って考えるのは、
ちょっと理解に苦しみます。
>37=31
我々の認識主観から全く独立して客観的に対象が存在する事です。
26のレスを参考にすれば
>客観的に存在する対象の性質や意味内容≠ェ、認識の主観から独立してある。
ということを意味すると言えるのではないでしょうか?
そして実在しないということは独立してないということではないのでしょうか?
39 :
微熱症患者 :2000/10/12(木) 07:39
>>37 ある領域の事柄について実在論を主張するということは、その領域の事柄について、
「○○は存在する」という言明が真であるか偽であるかのどちらかであることを認め
ることだ、という説明はどうでしょう?
言語論的な説明なので、まわりくどくてわかりにくいかもしれませんが。
逆に、ある領域の事柄について反実在論を主張するということは、その領域の事柄に
ついて、「○○は存在する」という言明が場合によっては真理値を持たないと考える
こと、となります。
極端な反実在論は、当該領域について語ることはすべてナンセンスだと考えます。
たとえば「霊魂は存在するか?」という問いに対して、「そのような問いは無意味で
あり、存在するともしないともいえない」と答えるような場合。
穏健な反実在論は、当該領域について語ることは有意義だが、それらの語りは実は別
の領域についての語りが姿を変えたものだと考えます。つまり、ある領域についての
語りは別の領域についての語りに還元できるというわけです。
たとえば「霊魂とは身体のある種の機能のことである。よって、生体には霊魂がある
といってよく、死体には霊魂がないといてよい。しかし、岩石や鉱物にはそもそも
"身体的機能"がないのだから、それらに霊魂があるとかないとかいうのは無意味だ」
と考える場合。
ここであげた例は、いくらでも突っ込みを入れることができると思いますが、ただの
思いつきなので勘弁してください。
英国の哲学者ダメットの論文を読めば、もっとちゃんと書いてあります。
邦訳は『真理という謎』(勁草書房)に入っています。
40 :
31 :2000/10/12(木) 11:26
>>37 認識できないことについて考えるのは最初から不可能のはずです。
ですから、議論そのものが無意味になるのでは。
それから、”性質や意味内容”って、例えば何?
りんごだったら、赤さや味のことですか?
質量や運動量もはいるの?
>>38 答えになってないような気がします。
結局、存在するとはどう言う意味がはっきりさせないと、
真か偽かわかるわけがありません。
>31
まず君が「存在」についてどう思っているのか、書きなさい。
君がまず、何が存在し、何が存在しない、と思っているかについて書きなさい。
そんな問題について確実な答えを持っている者など、どこにもいないのだよ。
42 :
考える名無しさん :2000/10/12(木) 17:23
・e・<私は微熱症患者さんに基本的に賛成だ。
こ魔界ツッコミは夜にまた。
43 :
・e・ :2000/10/13(金) 04:23
基本的に賛成なのは
素朴実在論というか、何かについてそれが実在していると素朴に仮定したり信じたりすること
こうした先入見を言語論的に言うなら
「「○○は存在する」という言明が真であるか偽であるかのどちらかであることを認め
ることだ」
ということになりはしないか、と私が思うから。
ところで、この真偽の基準は(途中の煩瑣な議論を度外視しちゃいます)結局、個々の信念の問題に帰着し、
なおかつ言語行為の一般的、公共的性格からみて、ある信念を共有する者たちの党派性の問題に行きつくのかなぁ。
ちなみに数学に関して教えて欲しいのだが、とりわけ形式主義と直観主義の問題がこの実在論の問題と関係してるのかな。
形式主義・・数学を内容的に無意味な記号の矛盾のない演算体系と見なす。
直観主義・・数学の基本的な直観を基礎として(つまりその存在が表象可能なものとして)構成するもの
典拠はヒミツだよ。
44 :
考える名無しさん :2000/10/13(金) 18:43
>>43 しろうとだけど理系だから答えてみるけど、数学が単に意味がないが矛盾のない演算体系だったら、物理や化学がここまで数学に従うというのは腑に落ちないのだけど・・・。人間が頭の中で究極的に抽象化した概念・体系(数学)が、自然界を言い当ててしまうのはすごいことじゃないだろうか。
場違いな発現だったらゴメン。
45 :
考える名無しさん :2000/10/13(金) 19:48
「はつげん」が すぐに?候補としてすぐに?発現と変換されるところなんか
理系、とくに生物学っぽいかも
>>44
では人間が経験的に創りきれない概念・体系は・・・
47 :
8 :2000/10/14(土) 17:46
>>43 >真偽の基準は(途中の煩瑣な議論を度外視しちゃいます)結局、個々の信念の
>問題に帰着し、なおかつ言語行為の一般的、公共的性格からみて、ある信念を
>共有する者たちの党派性の問題に行きつくのかなぁ。
「言語行為の公共的性格」と「信念の党派性」とは矛盾していません?
あと戦前の唯物論哲学者戸坂潤が唱えた「真理の階級性」というのがある。
>>44 世界の客観性は科学的に明らかにされ、それは素朴実在論者の感性的な確信
を現象として説明するのです。実在は量的に測定され、相互に関係付けられ
る事で互いに相互作用するものである事が認識され、それは客観的世界の定立
と呼ばれます。概念・体系とは実在世界から観念的に抽出されたその本質であ
り、世界を再構成したものです。勝手に頭の中で考え付いたのではない。
>>46 経験的に創りきれないものを(狭義の)概念と呼び、その対象は本質存在で
す。それは観念がもつ実在の否定作用を源泉とします。しかし経験的実在から
遊離した抽象的観念は虚偽と呼ばれ、真なるものではない。
48 :
44 :2000/10/14(土) 23:01
>8
やっぱり哲学の人は言葉が難しいなあ。もっと分かりやすく言ってくれると嬉しいのだけど。
僕も数学が単に人間の頭の中だけで作られるとは思わないけど、世界が数学的に矛盾のないように存在しているとしたら、
1・世界は確かにそれそのもので存在して、
2・世界は数学(として人間に理解されるもの)を根本的な実在とする
ということが言えるのでしょうか?
哲学人の意見が聞きたい。
49 :
44 :2000/10/14(土) 23:05
今気付いたけど、
「世界は数学を根本的実在とする」のではなく、「世界という実在は、数学的論理に従うという性格を持っている(実在そのものの正体は別でもよい)」でもよいね。
50 :
発言者Ω :2000/10/15(日) 02:06
・e・< >44
ちょっと誤解を与える書き方をしちゃいました。無内容というのは、それぞれの数学記号に対応する
実在的内容やその表象というものが、それ自体としては存在しない、という具合の意味だと思います。
>8
言語の公共的性格と信念の党派性については、僕はこう考えたわけです。つまり信念の表明というものは
言葉を媒介にして展開され、なおかつ言葉の持つ公共的、公開的からして、そうした表明は、或る信念を共有する
集団というものを(いわば自然発生的に)形成してゆくのではないか、と。
言葉は万人にとって等距離にありニュートラルなものではなく、それを共有し日々行使している集団の、
言わば歴史的、地理的条件と大きく連関していると思います。家族、友人、同僚、科学者集団、国民、世代・・・・と、
その振幅や範囲については様々考えられまずが、
そうした集団が持つ共通した志向性を、党派性といってみたわけです。
51 :
31 :2000/10/16(月) 04:19
実在=感知だとおもうんです。
机の上にりんごがあったら、りんごは実在します。
りんごを感知しているからです。
数学や道徳など直接感知しているわけではないものに対する”実在”という概念は
意味不明です。ですから聞いて見たわけです。
>31
まずあなたが使っている「感知」という言葉の意味を説明しなさい。
なぜ君はきちんと定義されるべき言葉を、いい加減なやり方で使うのですか?
まず最初に「自分の主張」を、もっと緻密に整理された言葉で言い表しなさい。
そうでなければ、よりハイレベルな議論の中では取るに足らないものとして
無視されてしまいますよ。
53 :
微熱症患者 :2000/10/16(月) 23:45
>>52 「感知」というのは、「感覚的に知る」という程度の意味では?
ところで
>机の上にりんごがあったら、りんごは実在します。
>りんごを感知しているからです。
という素朴な主張に対しては、次のような反論ないし疑問点が考えられ
ます。いずれも実在論を巡る議論では有名なものなので、いまさら、と
思われる方も多いでしょうが、念のために挙げておきます。
1.りんご自体は感知されない。感知されるのは赤い色とかまるっこい形
とか甘酸っぱいにおいなどであって、りんごそのものではない。
2.りんごが感知されたからといって実在するとは限らない。なぜなら、
錯覚や幻覚の可能性があるから。
3.机の上から目を逸らして、りんごを感知するのをやめたら、りんごは
実在しなくなるのか?
4.感知したものの規定の仕方にはさまざまな方法がある。たとえば「ふ
じりんご」「果物」「静物」等々。感知することによって実在すると
主張されるのはどのレベルで規定されたものなのか?
>53(微熱症患者 さま)
初めて書き込みいたします。
53の書き込みを読んでおりまして、ちょうど自分がいまラッセルの
「哲学入門」を読んでいたことを思い出しました。
英米系哲学を基礎から押さえるためには、他にどんな著者、書物を
読めばよろしいでしょうか? ご教示お願いします。
>>54 このスレッドの趣旨から外れるので、簡単に書きます。
原典は邦訳があるものに限っても膨大なので、入門書を二点だけ挙げます。
『はじめての分析哲学』(大庭健/産業図書)
『言語哲学大全』(飯田隆/勁草書房)
あとは、これらの本で言及されている人物や論文で興味をひかれたものを
中心に追っていくのがいいでしょう。
>>55(微熱症患者 さま)
おお、迅速なレスありがとうございます。
また何かあったらよろしくお願いします。
57 :
31 :2000/10/20(金) 15:21
”○○は実在するか”という疑問に答える前に、
実在するというのは(この場合)どのような意味かわからないといけないでしょう。
そうしないと答えに意味がなくなります。
これは明らかですね。
意味を明確にするには2つ方法があって、
一つは文脈や状況による方法、
2つ目は、(数学のように)言葉で記述して説明する方法です。
例えば、”机の上にりんごがあるかどうか見てきてくれる?”と頼まれた場合、
”ある”の意味は大体想像できます。
また、”ネッシーが実在する。”とか、”孫悟空は実在した。”とか言われた場合でも、
”実在”がどういう意味なのか理解できます。
けれど、”数学が実在する”とか、”日本経済が実在する”とか、
”万有引力が実在する”とか言われた場合、
それがどういう意味なのかわからなかったのです、
それで質問したということです。
58 :
31 :2000/10/20(金) 15:28
>>53 1
”りんご”という表現が意味をもつのは性質が相関するからだと思います。
例えば、
りんごの色、りんごの形、りんごの匂いをしているものが、
みかんの味がすることはまずありませんし、
りんごの形、りんごの色をしているものが、
みかんの匂いがすることはありません。
性質がランダムになる世界があったら、
”りんご”や”みかん”などの表現は無意味になるでしょう。
59 :
電波猫>フィロゾファッカー3 :2000/10/20(金) 17:07
>学の浅い人間ですので文章の本意は分かりません。
実をいうと文章の本意は質問ばかりでアンケートに答えていないことに気付いただけだったりします(汗
ただ自分がどれに当てはまるかハッキリしないんで相手任せにしようとした結果ああなりました
議論もいいけどアンケートにも答えようよ>ALL
>31(51)
「実在」と言えるかどうかわからないので質問したんです。客観的なもの=実在かどうか?ということです。英語で実在って何だろ?
>31(57)
林檎は原子の集合ですが林檎が実在するのでしょうか?
俗流ペリパトス主義者としてはシステムとしてでも個物として存在すれば実在すると考えています。
一応
>>33は過去形にしてあります。バブル経済一般のイデアは存在しないんじゃないでしょうか?
60 :
電波猫 :2000/10/20(金) 17:08
存在しないんじゃないでしょうか? →存在しないんじゃないでしょうかね
61 :
考える名無しさん :2000/10/21(土) 15:28
あげ
このままでは議論だけで100いってしまう
62 :
8 :2000/10/22(日) 22:40
(アンケートに答えるのが、どうしても議論になってしまう。)
>>50(発言者Ωさん)
了解しました。
>>57(31)
>”数学が実在する”とか、”日本経済が実在する”とか、”万有引力が実
>在する”とか言われた場合、それがどういう意味なのかわからなかった
>のです
やはりこういう質問が出ると思っていました(何ちゃって!)結局それは
用語の定義がその概念内容と混同されており、更にその対象についての真
偽判断とごっちゃになっているための混乱と言えます。その上、「xx論」
という言葉は「xxを信奉する」と「xxについて論じる」という二つの
用法を持っていますので、混乱は増すばかり。
>>39(微熱症患者さん)
の論理学的な定義も厳密なようで良く分からないのは、
「では『存在する』、『真』、『偽』と言う言葉をどういう意味で使ってい
るのか?」、さらに「『意味』とはどういうことを言っているのか」と言
う点にまで溯らないと、「問われている意味が理解できた!」と納得でき
ないのではないでしょうか。
「実在」「存在」「真」「偽」「意味」等は哲学の中心的概念の主なもの
ですから、その用法はまさに哲学者および学派によって大きく異なります。
異なる主義の哲学者同志ではその用語を使って会話が成り立たない程です。
日常的な使用法も様々ですから、更に議論が錯綜する原因となり得ます。
特に「実在論」とは「カント哲学」「論理実証主義」といった特定の学派
を指しているというより、「xxは確かに実在する。」と主張する立場を
一般的に言う用語ですから、定義をまず明確にしないといけないと思いま
す。
63 :
8 :2000/10/22(日) 22:47
(続き)
まず「存在」という用語と「実在」という用語は区別すべきでしょう。
「存在」(英語でBeing)と言う言葉で何らかの対象的なモノすべてを
呼ぶことにしましょう。現に知覚されているのも空想されただけのものも
考えられたもの何らかの点で存在します。
たとえば「幽霊は存在するか?」との質問には少なくともそれを空想(表
象)できる以上、「はい、但し私の空想としてね。」と答え得ます。
次に問題の「実在」(英語でReality)という用語ですが、それは
「何らかの場所を指定できる存在」と定義しましょう。「幽霊は実在する
か?」との質問には、それを信じていなければ私の頭の中にしかないので
あり、この世に占めるべき場所をもたないという点で、「いいえ。」と答
える事ができます。では「数学的対象(数量)は実在するか?」とはどう
でしょう。まずそれは概念として頭の中にある事は確かでしょうが、数自
体がどこかに場所を占めて存在しているでしょうか?「二匹の犬」は目の
前にいても、「二」が(プラトンの巧みな表現で)「離れて存在している」
事はないでしょう。この場合、「二匹の犬は実在するが、数量二は観念に
過ぎない。」と言えるでしょう。それが離れてそれ自体で存在すると主張
する立場が数学的実在論です。素朴実在論vs観念論とは別の文脈での対
立です。観念論とは
>>53に言われるように、「感覚的実在は真に実在
しない。それは仮象である。」と言い、観念自体の自立的存在性を認める
反省的な立場です。「日本経済は実在するか?」とはその存在性格を考え
れば、「経済」とは現実の活動総体を指す言葉ですから、それは直接的実
在の領域に属する対象ではなく、反省的・本質的認識の対象です。それは
実在するのではなく、本質存在するのです。「全体は実在しない」という
唯物論(質料主義)から言えばそれは観念に過ぎないし、観念論から言え
ばそれこそが真に実在すると言う事になる。存在領域(カテゴリー)を明
確にすることです。万有引力についても同様です。第一義的に実在する
(離れてある)と呼べるものは知覚の対象、「物」でしょう。「このりん
ごは実在し、赤いというその色は感じられる性質でしかない。」しかしそ
れは思い込みか観念か。そうなると実在vs仮象と言う対立が出てくる。
64 :
伍長 :2000/10/23(月) 03:48
哲学音痴にもようやく議論の内容が少しわかってきたので・・・(^^;
(1)事物に対して弁別的に反応できる。
→すなわち「事物は実在する」。と考えることはできるでしょうか?
31さんは「感知する」という言い方をしていますが、「弁別的に反応できる」とは、異なる特性の刺激に対して別個に反応できるというような意味で、「単に何らかの単純な弁別反応をする」から「知る」「認識する」まで、幅は広い。
(2)二個の事物と三個の事物に対して、それぞれ「2」、「3」と弁別的に反応できる。
→すなわち「数は実在する」。というのはどうでしょうか?
ただし、この場合の「2」、「3」は、“二個の事物”、“三個の事物”という刺激の物理的な特性(=数)に対する弁別反応である(チンパンジーのアイちゃんも、ある程度までの数は弁別できる)。
(3)事物が幻覚である場合。
以前に事物に対する弁別反応を学習していなければ、「幻覚事物」を事物として弁別することは出来ない。
→「幻覚事物」はその瞬間には実在しないかもしれないが、(1)により、事物は実在する。
また、「幻覚事物」がたとえ実在しない事物(例えばペガサス)であったとしても、(1)により、“鳥の翼”や“馬”は実在する。
(4)ただし、弁別は完全なものではないという意味で、実在する事物を完全に「知る」ことはできない。
以上のようなのがアリだとすると、どういう実在論でしょうか? 素朴実在論?
65 :
伍長 :2000/10/23(月) 03:54
素朴実在論だとして、
>53
1は当然。それらは実在する事物の物理的な刺激特性。
2は上の(3)。
3は無意味。もしくは(3)の過去学習があればよい。
4(1もそうですが)は「概念形成」の実験がある。概念のレベルが違うだけで、学習によって「ふじりんご」や「くだもの」とラベリングされるようになる事物は実在する。要するに(1)。そして(4)。
だめですか? 単純すぎる?
66 :
微熱症患者:2000/10/25(水) 01:00
>>58 私が53の1で提示した「感知=実在」説への反論は、個別の感覚的知覚は形や
色や匂いであり、物体を知覚するわけではない、というものです。
いんごの形、色、匂い、そして味といった諸性質が相関することが、数々の
経験から確認されたとしても、それらの性質の背後に「りんごそのもの」が
実在するということを確認したことになるわけではありません。
(なお、諸性質の相関が法則的または必然的なものなのか、それとも経験則
的または偶然的なものなのか、という問いを立てることも出来ますが、その
問題と上の議論は独立です)
>>62 39で紹介した実在論の分析はそこでも述べたとおりダメットに負うものです
が、おそらく彼は実在論の厳密な定義を提案する意図はなかったと思います。
それはともかく、同じ用語を使っていても学派によっては用法が異なるため、
話がかみ合わないことが多いのは仰る通りです。
>>64,
>>65 事物から刺激を受けて、それに対して反応する、という枠組みで物事を考え
るなら、外界の事物の存在を前提としているので、実在論だと言えそうです
が……。しかし、「素朴」実在論ではないような気がします。
もし、刺激と反応のパターンのみを基礎的な事実として取り扱うならば、実
在論的な見地に立たなくてもいいような気がしますが、そのような方針が貫
徹できるかどうかは甚だ疑問です。
67 :
伍長:2000/10/25(水) 02:14
横レスですが、
>いんごの形、色、匂い、そして味といった諸性質が相関することが、数々の
>経験から確認されたとしても、それらの性質の背後に「りんごそのもの」が
>実在するということを確認したことになるわけではありません。
64の(1)(4)および65の4で、「とりあえず不完全ながらも確認できたと見なす」というのはダメでしょうか?
ダメそうだとは思うんですが、それでいいじゃんという気もするんだな。
それと、
>もし、刺激と反応のパターンのみを基礎的な事実として取り扱うならば、実
>在論的な見地に立たなくてもいいような気がしますが、・・・
どういうことなのかよくわからないので、教えて下さると嬉しい。
68 :
微熱症患者:2000/10/26(木) 00:55
>>67 >「とりあえず不完全ながらも確認できたと見なす」というのはダメでしょうか?
別にダメではないと思います。
というか、ふつう私たちが行っている認知活動はそういうものでしょう。
問題は、哲学の領域で「実在するということは感知されるということと
同じである」というラディカルな主張をした場合に「不完全ながら……」
という選択肢を捨ててしまうところにあります。
ただし、難点があるからダメ、というわけでもなくて、むしろ難点の一
つや二つあるほうが哲学的主張としては意義があるのではないか、とい
う気もします。穏健な主張は目に付く難点が少ないので、難点を克服し
てより洗練された理論を構築する動機づけが弱いからです。
>>もし、刺激と反応のパターンのみを基礎的な事実として取り扱うならば、実
>>在論的な見地に立たなくてもいいような気がしますが、・・・
>どういうことなのかよくわからないので、教えて下さると嬉しい。
あまりまとまった考えがあるわけではないのですが……。
要するに、存在するのはそれぞれの主体が刺激を受けて、それに対して
何らかの反応をするということだけだ、という切りつめた存在論のもと
で、刺激−反応のパターンを整理して説明するための方便として外界の
事物を構成することができるかもしれない、と言いたかったのです。
……う〜ん、うまく説明できない。
おれ、ナニゲに微熱症患者 のファンなんだけど。
70 :
伍長:2000/10/27(金) 00:48
>68
私は(スキナーも)決して刺激-反応(S-R)論者ではない(刺激以外の独立変数は存在するから)のですが、
論理学スレを含めた貴兄の御説明で私自身の立場が少しずつ分かってきつつあるのかな?という状況です。Thanks.
私も貴兄のファンになってしまった。
68の後半部分は、「弁別(本当は「刺激性制御」という術語の方が正確なのですが)は完全なものではないので、
その意味で実在する事物を完全に「知る」ことはできない」という64の書き込みに繋がると解釈しましたが。。。
つまり、「実在する事物と写像との不完全な関係」というようなことなのかな?
もっとも、これだと「実在論的な見地に立たなくても・・・」ということにはならないような・・・
71 :
8:2000/10/28(土) 16:07
>>68 >刺激−反応のパターンを整理して説明するための方便として外界の
>事物を構成することができるかもしれない
>>70 >「実在する事物と写像との不完全な関係」というようなことなのかな?
外界の実在に対する写像(模写)説と構成説という古くからの(そして
未だ満足できる決着に至っていない)対立ですね。
構成説:認識により外界を構成する。写像説:認識は外界の実在を写す。
主観−客観の関係の説明として必ず出てくるこの対立が何故未だに解決さ
れないのか。それはどちらもが実践(行動)の契機を忘れている観想的な
解釈論に過ぎないからだと言えるでしょう。
「外界を構成する」のではなく「外界を<再>構成する」のです。
また、「実在する事物の写像」とはそのままの写しではなく、行動の脈絡
に沿って抽象された事物のエッセンス(本質)としての事物形相でしょう。
「何を対象存在(実在)としているのか?」という本スレのテーマにも
関係するこの問いは、刺激→解釈(刺激の制御)→反応の中間項である
生体の「合目的的行動」による外界の再構成=直接的実在を超えた主体的
世界(可能的、条件的世界)の定立という事情を抜きには正しく答えられ
ない。認知−行動−学習の過程は、認識の対象がより本質的・関係的な対
象に移行するという、認識の発展過程でしょう。「認識が本質的になる程、
世界は実在的・客観的になる。」
72 :
伍長:2000/10/29(日) 04:44
>71
その構成説と写像説がなぜ対立するのか、どうもよく分かりません。
同じもののように見えますが・・・
それはともかく、
>「何を対象存在(実在)としているのか?」という本スレのテーマにも
>関係するこの問いは、刺激→解釈(刺激の制御)→反応の中間項である
>生体の「合目的的行動」による外界の再構成=直接的実在を超えた主体的
>世界(可能的、条件的世界)の定立という事情を抜きには正しく答えられ
>ない。認知−行動−学習の過程は、認識の対象がより本質的・関係的な対
>象に移行するという、認識の発展過程でしょう。
おっしゃりたいことは何とか分かりますが、どうしても用語法が引っ掛かる。。。
>「認識が本質的になる程、世界は実在的・客観的になる。」
単に、「弁別(だけではないだろうが)が精妙になる」=「世界の記述がより精妙になる」で良いと思う。
新生児の諸知覚が、感覚器官の成熟・分化や弁別学習その他によって、次第に精妙になっていくように。
こうして記述あるいは認識された世界は、不完全に「再」構成された世界とも言えるし、不完全に写像された世界であるとも言える。
ということですよね?
73 :
8:2000/10/29(日) 08:24
>>72 >その構成説と写像説がなぜ対立するのか、どうもよく分かりません。
私も何で昔の(今も)哲学者達があんなに対立していた(いる)のか、
よく分からなかった(今も真の理由はよく分からない)のです。
「世界は私が感覚要素あるいは先験的形式から作り出した主観的な表象で
あり、それがそれ自体で客観的に実在するなどとは哲学を知らない素朴な
信念に過ぎない。」
「何を言うか。世界は客観的に実在し、主観はその物理的作用を受動的に
受けて、写真機(真を写す機械)のように『ありのままに』その像を心に
焼き付けているだけだ。」
まさに喧嘩をして、口も効かなくなったようです。対話をしよう!
>新生児の諸知覚が、感覚器官の成熟・分化や弁別学習その他によって、次
>第に精妙になっていくように。
この辺がポイントでしょうね。認識の発達を未分化→分化と捉えるのは
ホーリズム(全体論)的でしょうが、刺激の構成要素(弁別単位)から
全体的な対象を構成すると捉えるのは要素(還元)論的です。
「精妙になっていく」という言葉がうまくそれを言い表している。
実際の事態はどのようなものでしょう。
生まれたての新生児は光と影、明と暗の区別しかできないとすれば、彼ま
たは彼女は全体的な対象(正確に言えば非対象的な広がり)しか感知して
いない訳ですが、弁別単位としての「光」を最も<抽象的に>対象として
いるとも言える。その世界は(哲学者のいう)主客未分の状態です。
次にある音刺激を聞いてそれとある影の視覚とを関連付けて、それを「母
親の呼び声」だと認知する段階になれば、彼または彼女の対象は分化して
世界はより<具体的・実在的>になる訳です。しかし、それは与えられた
刺激(素材)から世界の形を「より精妙・複雑に記述している」とも解釈
できるでしょう。(続く)
74 :
8:2000/10/29(日) 08:27
(続き)
無定形なものがくっきりとした形をとって姿を現すというのは、非対象的
であったものが対象として現前するようになるということです。
それは初めには単に潜在的な可能性(質料)として刺激に含まれていたも
のが、顕在化(形相化)したということであり、同時に対象を分析するこ
とでより総合的な対象として(より完全なものとして)世界を再構成した
ということでもある。
直接的な実在が他のものと関係付けられ、媒介されたものとしてより実在
的になるとは行動に媒介されてその対象(目標)を焦点として世界の地図
をより俯瞰的に描くということです。「精妙な記述」は「実在的全体の再
構成」と一体です。
(例:セザンヌの絵画技法、フッサールのいう「移行的総合」概念、
トラン・デュク・タオの「行動の下図としての現象する世界」概念)
(疲れたからこのへんで止めます。)
75 :
おでん屋:2000/10/30(月) 00:18
ってことはよ、やっぱ「不完全(再)構成説」=「不完全写像説」ってことみてえじゃねえか。
こんなことは「当たり前のこと」であると思えるが・・・
一体全体、何が問題なんだ? orなっていたんだ?
ちなみに、最近の俺は、もっぱら「不完全交接説」=「不完全射精説」の方をとらざるを得ないんだが・・・
(ボケは無視していいぞ)
・e・<おでん屋さん・・俺カミングアウトしちゃったよ。
そういや最近フィロゾファッカーさん見えないな。
77 :
ふにゃねこ:2000/10/30(月) 00:31
わーい!!おでん屋さんだー
ちくわぶ
ちくわぶちょーだい。
たまごと はんぺんもー
「俺が煮たおでん」は確かに実在すると思ふ。
しかし気になる・・・
79 :
8:2000/10/30(月) 09:18
>>75(おでん屋さん)
有名人のご登場ですね。
>ってことはよ、やっぱ「不完全(再)構成説」=「不完全写像説」ってこと
>みてえじゃねえか。
私もそう言いたいのですが、
「外界は実在するか?」でYES(写像)、NO(構成)と意見が割れるので。
また、完全/不完全というのは程度問題じゃんかと言えば済む問題も、
完全=完成された実在、不完全=非実在的なもの という対立として捉えると
観念(イメージ、形、理念)は完全、外界(形のないもの、変化するもの)は
不完全であるとして逆の意味になってしまう。
そして、「イデアの世界こそ真の世界」(プラトン)、
「世界は私の表象である」(ショーペンハウアー)、
「私と同時に世界が自覚する。」(西田幾太郎)、
「世界は現れであり、それだけだ。」(大森荘蔵)、
などという主張が出てくる。
「表現(Representation)」が「再現前」と「自己表出」という二つの意味を
持ったり、「現れ(Existence)」が「ありのまま」と「何かの現れ」という
二つの意味を持ったりするために起きる、言葉の使い方(正確には概念)の混乱
かと思います。哲学的な問題って言葉の用法の問題に過ぎないことがとても多い。
80 :
一石:2000/10/31(火) 17:04
読んでいて面白かったので@`初めて書き込みます。一石(ein Stein)と申します;
どうぞよろしく。
まず、数学的実在について:──
例えば、「全体」という概念は自然数の1に相当し、実在です。全体を適当に2分
することができるでしょう;そうすれば2という数そのものが実在することになり
ます。分割ではなく、個物を数え上げることでもいいでしょう。ということで、自然数
の実在性は明瞭でしょう。有理数についても、自然数の比ですから実在性は問題ないで
しょう。通常の無理数についても古代ギリシア人的に幾何学的に推論していけば、任意
の辺や陵を持つ正方形の対角線の長さの実在性を信ずれば、よいでしょう。n次元空間
を考えれば、n乗根まで拡張できます。なに?n>4は空想であって実在でない?
それなら、n次方程式の根として少なくとも一つの実根が存在するというのでは如何?
超越数については、円周率πや自然対数の底eの実在性を疑う人は今やいないでしょう。
複素関数論はまさに、eやπの実在性の上に成立しているといってもよいかと思います。
ちょっと時間がないので続編は後日に。
81 :
おでん屋:2000/10/31(火) 18:07
「外界は実在するか?」に対して、本気でNoって答えるヤツが本当にいるのか?
82 :
8:2000/11/03(金) 17:39
>>80(一石さん)
>例えば、「全体」という概念は自然数の1に相当し、実在です。
いきなり断定されると、「何が実在するか?」という議論ができない。
「実在」という言葉でどういう事柄を考えているのか、をまず明確に
しないと、「xxは実在する。」「いや、それは実在しない。」と
議論しても、両者で全然別のことを「実在」と呼んでいることになりがちです。
古代ギリシャ哲学では、「何が存在するか」という対象的な議論が、「存在する
とはどういうことか」という定義論に発展した。そしてそれはアリストテレス
の実体概念(本質形相と個体概念)により本質論(形而上学と呼ばれています
が)に高まったのです。概念と実在を取り違えてはいけない。
83 :
考える名無しさん:2000/11/07(火) 21:55
age
84 :
考える名無しさん:2000/11/08(水) 13:09
仏教の「空」って、「固定的実在をもたない」という意味だよね。では、「一切皆空」ってどういう意味なんだろう。固定的実在はないけど、変動する実在はあるという意味なのかな。
誰か詳しい人いない?
85 :
考える名無しさん:2000/11/09(木) 10:33
音って実在するの?
86 :
考える名無しさん:2000/11/09(木) 15:23
87 :
名無しさん@1周年:2000/11/09(木) 20:31
音は観測事実だから実在します。
88 :
考える名無しさん:2000/11/09(木) 20:38
つか1はどこへ…
もうすぐ100だよ
89 :
化学屋:2000/11/09(木) 20:44
>5物自体のような実在に科学の力を借りて接近しようとする。
たぶんこれだな。
経験上、あらゆる現象を一つの理論で説明するのは無理。
場面(分野)ごとに理論で捉えて法則化するのが今の科学の実体。
化学は物質現象を理論で捕らえて法則化させます。
物質で捕らえられない範囲は観測できません。だから5。
あなたの分野ではどうですか?
90 :
考える名無しさん:2000/11/11(土) 16:53
ageage
91 :
考える名無しさん:2000/11/13(月) 14:28
実在論と観念論は表裏一体の関係にある
92 :
猫電波:2000/11/13(月) 14:54
フィロゾファッカーさん、カムバーック
って俺のせいか?ひょっとして
93 :
猫電波:2000/11/13(月) 14:54
って俺のせいか?→俺のせいでもあるのか?
>>88、
>>92 すいません
実生活が忙しくてなかなかネットに繋げなくて
誰のせいでもありません。
おいらの心はいつでも2ちゃんの哲学板とともにあるよ。
哲学板マイラブフォーエバー
最近、本を読む時間がつくれなくて哲学板のレベルについていけないと思う。
本を買うばっかりで全然読まないし・・。
勉強したいのに勉強できないってとても心苦しい。
こうして哲学から抜けて一般ピープルになっていくのかなと思ってしまう。
あぁ、また疲れてこんな駄文をダラダラと書いてしまった。
責任を持ってレスが100を超えたら集計して発表します。
95 :
考える名無しさん:2000/11/28(火) 01:28
懐古あげ
96 :
考える名無しさん:2000/11/28(火) 23:21
とっても面白い掲示板だと思う。8さんか微熱症患者さんかその他誰でもいいが、ひとつ教えて欲しいことがある。観念論的実在論を唱えている人たちは自分の死後はこの世界は消滅すると信じているのか。それとも自分の精神の表象は何らかの形で永続するのか。あるいは自分の意思は永遠不滅であると考えているのか。誰か教えてくれ。
97 :
考える名無しさん:2000/12/17(日) 00:04
だれか答えてageなよ。
98 :
考える名無しさん:2000/12/31(日) 18:42
年末(世紀末)で且つそろそろ約束の100レスだが、
ここに書いてた面々はもういないのだろうか・・・
寂しい。
微かな期待を抱いて、age.
99 :
8=OFW:2000/12/31(日) 19:59
久しぶりに上がっている。私固定HNにしました。
>96
>観念論的実在論を唱えている人たちは自分の死後はこの世界は消滅すると
>信じているのか。
1の分類で言う「観念的実在論」のことでしょうが、ハルトマン始め、実在論
は何らかの点で世界の客観的実在を主張する立場ですから、個人の死後も世界
は存続すると考えている点では共通するのではないかな。
>それとも自分の精神の表象は何らかの形で永続するのか。
「実在は精神的なものを内在させている」あるいは「永遠不滅の価値的存在」
といった、客観的かつ観念的な存在が実在するとするならば、個人の主観的
表象が死後も永続するとは考えていないでしょう。それは主観的観念論です。
>あるいは自分の意思は永遠不滅であると考えているのか。
意思自体ではなく、意思の対象(善、美、真理といった価値的な存在)が
永遠不滅であると考えているのでしょう。
・・・ということで、あと一つ寝るいやレスると、お正月いや100レスだぁ。
100 :
考える名無しさん:2001/01/01(月) 00:09
100!&新世紀あけましておめでとうございます
101 :
考える名無しさん:2001/01/01(月) 11:26
102 :
>100:2001/01/01(月) 21:30
氏ね
103 :
>1:2001/01/02(火) 02:26
>9自分は宗教に興味があってこういうのは嫌い
実在論はむしろ宗教が主張するもの。
個人を超越する神という絶対的実在を想定するのはむしろ宗教のほうだ。
104 :
考える名無しさん:2001/01/02(火) 02:30
>>103 > 個人を超越する神という絶対的実在を想定するのはむしろ宗教のほうだ。
たしかに、個人の意思の外部が実在すると主張することは、パーソンの主観を超える普遍法則的な意思の実在を説くのと同じだからね
105 :
?:2001/01/02(火) 02:38
>104
>パーソンの主観を超える普遍法則的な意思の実在
その場合には、主観と無関係な、というべきでしょう。主体と無関係な、つまり人間と無関係な神の実在を想定するですね。
主観と無関係な純粋な自然の法則が外部に存在しているという素朴な実在論ではだめでしょうね。
106 :
考える名無しさん:2001/01/02(火) 02:45
パトナム
107 :
考える名無しさん:2001/01/02(火) 02:47
ひらひらヒラリ〜
108 :
ひらりーパトナム:2001/01/02(火) 05:47
真理を理想化された正当化状態とみるパトナムの内在的実在論は?
でも、所詮カントのぱくりだと思うんだけどね。んでもって最近は
プラグマティック実在論とかいって、ローティと対抗しようとして
いるけど・・・。
写像説と構成説の対立が何でヨーロッパで深刻だった/現在も深刻な理由は、宗教的なものがあるのではないでしょうか。
完全写像説を支持した人々は、それが成功すれば、人間は理想状態へ到達できるという期待があったように思われます。最近読んでるヒルベルトの宗教的確信はすごいです。素朴集合論を「楽園」て呼んでます。
この人たちは、「対象―概念(言葉)」のプラトン的構図を前提にしていると思うのですが、イデアは「抽象的な概念」という中立的な意味のほかに、「理想」という価値判断も入る言葉のはずですよね。
そういう人たちにとって、「人間の能力は所詮有限なんだよ。理想状態なんて到達できないんだよ」という悲観的な構成説は死んでも受け入れられないかもしれないです。
20世紀の前半に、写像説から構成説への大転換が、あっちこっちの分野で起きたようです。
このスレにも出た数学でも形式主義―直観主義、僕のやってる歴史学でも実証主義―アナール学派とかね。粗雑な展望ですが、外していない気がします。
でも、直観主義のブラウワーは熱心なプラトニストだったりするんだ。わけわかめ。
110 :
ミック:2001/01/03(水) 03:32
age忘れ。あげさせて。勉強になるスレだし。
111 :
考える名無しさん:2001/01/04(木) 13:11
クリプキ!
112 :
考える名無しさん:2001/01/04(木) 13:36
何が人に「プラトン的構図」を強いているのか?
数学か?
113 :
考える名無しさん:2001/01/04(木) 14:34
>>109 プラトンのイデアは「抽象的な概念」じゃないでしょ。
逆に真の実在。
したがって低い感覚的な世界から見るとより高いレベルということに
なる。
114 :
考える名無しさん:2001/01/04(木) 14:36
>でも、直観主義のブラウワーは熱心なプラトニストだったりするんだ。
初めて聞いた。出典は?
115 :
ミック:2001/01/04(木) 23:16
>プラトンのイデアは「抽象的な概念」じゃないでしょ。
>逆に真の実在
イデアって実在するものなんですか?
>でも、直観主義のブラウワーは熱心なプラトニストだったりするんだ。
>初めて聞いた。出典は?
忘れました。ゴメソ。記憶違いかも。記憶違いの方が話は簡単になるけど。
116 :
考える名無しさん:2001/01/04(木) 23:37
「イデアとは現実を理解する為の抽象的なモデル」というのが普通の解釈なのでしょうが、
イデアという時には経験に先立って存在するそいつを指すのでは。数覚みたいなものかも。
117 :
考える名無しさん:2001/01/05(金) 01:45
マルクスが観念論は唯物論の中世的な表現だみたいなことを述べていたらしいのですが。
そのあたりに詳しい方いませんか?
118 :
考える名無しさん:2001/01/07(日) 04:02
OFWさんありがとう
119 :
猫電波:2001/01/17(水) 18:24
ageてみます
119はレスが100を超えたので集計の催促ですね。
はい集計します。
プラグマティズム1名
認識論と関係性を持って語らねば面白くない1名
他・・・不明
よく分かりませんが、
傾向として素朴実在論ではないが実在を信じるという人は多いように思います。
すみません、もう私の手に負えません。土下座ということで許してください。
裸踊りでもビルから飛び降りるパフォーマンスでも何でもします。
↑は冗談ですが、本当に脳が拒否反応を示してるのですよ。
というわけで、もちっと自分の思考が整理できたら再度・・ということで
こんな投げ出したような結果になってすみませんでした。
121 :
考える名無しさん:2001/01/19(金) 02:10
裸踊りの刑を実行する。
各自尻に青薔薇を挿して渋谷に集合する事。
なおおやつは500円まで。
122 :
いちご姫:2001/01/19(金) 02:36
>115
プラトーンにとってはイデアーは非物質的・永遠的な真存在(オントース・オン)です。
目の前の机は仮の実在で、全ての机が共通に分け与えられている非可感なもののほうが真っ当な実在だ、と考えたヘンな人です。
(ま、運動の存在を否定した人もいる文化圏だから、いいけど)
なお、私は、存在する、と日常言語で述語付けられるものが存在する、という言語ゲーム一元論に基づく素朴実在論者です。
123 :
精神物理学者:2001/01/19(金) 04:18
イデアは脳の物理的生化学的な現象として客観的に実在します。
124 :
考える名無しさん:2001/01/19(金) 05:50
age
125 :
考える名無しさん:2001/01/20(土) 15:46
イデアは脳の作り出した現象ではなく、ほんとのほんとに認識とは
独立して実在する「もの」です。
126 :
代理いぬ:2001/01/20(土) 16:13
>123(精神物理学者)
>イデアは脳の物理的生化学的な現象として客観的に実在します。
興味深いが、それはもはやイデアとは呼べないな。
127 :
ミック:2001/01/21(日) 00:00
>>122(いちご姫さん)
>プラトーンにとってはイデアーは非物質的・永遠的な真存在(オントース・オン)です。
>目の前の机は仮の実在で、全ての机が共通に分け与えられている非可感なもののほうが真っ当な実在だ、と考えたヘンな人です。
Wが『青本』で攻撃している「一般観念」は、イデアのようですね。
しかし、このイデアという概念を設定することがおかしなものなら、何故こうも多数の人を惹きつけたのだろう。そこには何か必然はないのだろうか。単に「我々には一般性を渇望する傾向が(どうしてかわからないけど)ある」と納得してればいいのかな。
128 :
あげ:2001/01/24(水) 15:50
あげときます
129 :
あげ:2001/01/29(月) 15:58
age
130 :
あげお:2001/01/30(火) 16:29
時間は実在するのか?
131 :
考える名無しさん:2001/01/30(火) 16:36
しないしない。
132 :
考える名無しさん:2001/01/30(火) 19:09
時間、空間、言語、数字、論理、イデア、哲学その他諸々が実に
人間による発明品であります。
もちろん自然科学全般もふくまれます。
133 :
考える名無しさん:2001/01/31(水) 06:12
光の速さのみ実在します
134 :
考える名無しさん:2001/03/10(土) 04:10
age
速度って実在するようなもんか?
速度と光の速さは違いますよ。
相対論を勉強してください。
137 :
考える名無しさん:
>>1 スコラ哲学の中世実在論はアンケートの対象外ですか?