1 :
考える名無しさん :
2000/09/12(火) 16:09 常に想定されてるのかしら?
2 :
ネオ生茶 :2000/09/12(火) 16:14
常に他者とあります
3 :
考える名無しさん :2000/09/12(火) 16:14
他者の他者性に関しての異化をもって我々は日常生活を送っている
4 :
考える名無しさん :2000/09/12(火) 22:36
哲学にはこれまで「他者」が想定されてこなかったって言う人も居ますが・・・。
5 :
考える名無しさん :2000/09/12(火) 23:57
宇野邦一をお読みなさい。
スレッドたてた方、 もうちっとたたき台になるようなこと 書いてちょーだいな。 野矢茂樹さんの『心と他者』読んだけど 「あれはどこどこがおかしい」とかさ。
7 :
名無しささん@1周年 :2000/09/15(金) 16:35
他者とは常に殺したいと思い、殺せない者である。
他者は地獄だ!!
9 :
1 :2000/09/16(土) 05:21
1です。 何故か上手いことこのページに繋がらなくて、 久し振りに見たら、あんまり話は広がってないと・・・。 という訳で、非常に個人的な話で申し訳ないんですが、 私は自己完結が過ぎるようなんです、多分。 バフチンとか読んでも、「そうだよなぁー。」とか読んでる時は思うんですが、 結局モノローグがやっぱり多い。 てな訳で、バフチンのモノローグ批判についてあれこれして頂けますか? って、これちゃんと書き込めてるのかしらん?
う〜〜〜ん、 日本語で他者の問題をやっている人は外部も他者も内部も自己も ない人が多いのかも、、、
日本では身内と他所者との区別は実にはっきり意識しており、 差別や馴れ合いの文化は家庭、学校、職場、地域、国家、外交 の至る所で幅を効かせている。日本精神の基底にある他者意識 と言える。これは西欧流個人主義には存在しない全く異質な 原理であり、西欧哲学研究者の言行不一致にも現れている。
12 :
11 :2000/09/16(土) 12:19
誤:意識しており 正:意識されており
う〜〜〜〜ん、日本での身内と他所モノの分別こそ 外部も他者も内部も自己もない査証
14 :
考える名無しさん :2000/09/17(日) 16:27
日本ってのがそもそも問題なの?
15 :
考える名無しさん :2000/09/17(日) 18:12
オマエらの頭の構造がそもそもの問題。
16 :
考える名無しさん :2000/09/18(月) 03:30
多謝
17 :
考える名無しさん :2000/09/18(月) 03:47
謝々
18 :
# :2000/09/18(月) 13:35
1さんは柄谷の『探求』シリーズを読んで バフチンの著作を手にとるようになったのですか?
19 :
1 :2000/09/18(月) 21:37
>18 答えは、「いいえ」。 私はそもそもロシア語科でしたんで、 柄谷の『探求』は読みましたが、そことは違う所からバフチンを始めました。 フォルマリズムとかもやりましたしね。
20 :
# :2000/09/19(火) 17:49
わたしは不勉強ゆえにバフチン自身の著作はもちろん、 『探求』以外でバフチンについて書かれたものを 読んだことがありません。したがって 『探求』とは違う観点からバフチン・テキストに取り組む ということについて具体的に説明してもらえると嬉しいです。
21 :
# :2000/09/19(火) 17:52
あと7のレビナスさんや8のサルトルさんも そのように語るわけを教えてもらえると ありがたいですね。
22 :
考える名無しさん :2000/09/20(水) 17:46
初めはやっぱりフォルマリズムの批判者なんだ程度から入ったけども、 それってのは間違いだった訳ですね。 そんな簡単に矢印やらなんやらで図式化できる存在じゃなかった。 そんで、まあウィトゲンシュタインの私的言語否定とかとの関係とか、 ああ、あとはやっぱり私がラブレーが好きだったこともあるんかな? と言うよりも、ラブレーを授業でやる女の先生が好きだったのかな? って、♯さんが仰ってるのって、そういう話じゃないんですよね、やっぱり。
23 :
# :2000/09/20(水) 18:00
いえいえ、そういうとこから語っていただたほうが面白いですよ。 わたしはラブレーについてもよく知らないのですが 他者論とのつながりがあるのでしょうか?
24 :
他者 :2000/09/20(水) 18:18
他者はいない 自分だけがこの世の全て
25 :
# :2000/09/20(水) 18:28
永井均氏でさえ、<他者>の存在を認めてますけどねぇ。 「他者」とはどういう定義づけがされるのでしょう? むずかしくてわかりません。
26 :
考える名無しさん :2000/09/20(水) 20:17
ラブレーはどちらかと言うとバフチンのカーニバル論っていうのがありますね。 他者の定義ってのは、理解可能ではあるけども、到達不可能な存在、ってとこでしょうか? 柄谷は相容れない言語ゲームって言ってましたっけ? その相容れない言語ゲーム間でこそ対話が行われ得ると。
27 :
# :2000/09/21(木) 03:25
定義づけ、ありがとうございます。 理解可能性→相対的他者、 到達不可能性→絶対的他者ということでしょうか。 「カーニバル論」というのはどのようなものなのでしょう。 わたしは不勉強で知りません。 他者論とのつながりを教えていただけると ありがたいですね。
28 :
考える名無しさん :2000/09/21(木) 19:33
バフチンのカーニヴァル論と他者論の間には直接的な繋がりは私は見出してませんねぇ。 例えば、巨人ガルガンチュアの子供時代といえば、「その国の幼い子供たちと同じ」、 つまり「飲んだり・食べたり・眠ったり、食べたり・眠ったり・飲んだり、眠ったり・飲んだり・食べたりしていた」。 って、眠った食べた飲んだと、1行で済んじゃう内容を3倍に膨らませて、水増しの筈なのに、逆に濃厚になってるとか、 その他基本的には、尿の洪水、肉の壁となって立ちはだかる女性器、60万14匹以上の牡犬が貴婦人のドレスに立ちション、などなど、 まあ、所謂エロ・グロ・ナンセンスって奴を、バフチンは広場、祝祭、カーニヴァルとかいった概念で語ると。 バフチンのモノローグ批判、言語を他者へと向けられたものとして捉えることに関しては、 もっと個人的な、9でも言ったような私自身がモノローグ的であるといったような所から興味を抱いたんですよ。 まあ、だからカーニヴァル論はここでは無視して頂いても結構ですよ。
29 :
考える名無しさん :2000/09/21(木) 21:54
って書いておいて何ですが、 カーニヴァルっていうのは、人の肉体や存在の自律性、 個人の自閉っていうのが許されないんですから、 確かに他者論との関連で語ることもできますね。 いやいや、勉強不足でした。
30 :
# :2000/09/22(金) 20:44
「個人の自閉」が成り立っていない場合、つまり 個人=自己が開かれているといった場合、 自己に何に対して開かれているのでしょう。 (1)他者に対してでしょうか。それとも (2)間主観性・間主体性に対してでしょうか。
31 :
# :2000/09/22(金) 20:53
具体的に言い換えます。 まず(1)についてです。 あるブラジル人が「命がけの飛躍」によって あるスロバキア人に言葉が通じさせることができたとき これは自己と相対的他者の関係が 間主観性・間主体性的関係に変化しています。 噛み砕けば さっきまで「わたし」と「あなた」は言葉が通じなかったが いま「わたし達」は言葉が通じているわけです。
32 :
# :2000/09/22(金) 21:02
次に(2)についてです。 日本語を話す人が2人、 中田さんと中村さんはおしゃべりしています。 「わたし達」は始めから言葉が通じている という状態です。 とすると自己は他者に開かれる以前に すでに間主観性・間主体性に開かれている と言えます。
33 :
# :2000/09/22(金) 21:06
上述した例がうまくいっているのか、自信がありません。 伺いたかったことを簡単に言えば わたしとあなたのカーニヴァルなのか←(1) わたし達のカーニヴァルなのか←(2) ということだと思います。
34 :
考える名無しさん :2000/09/23(土) 10:58
うーん。 そうか、考えたこともなかったなぁ。 けど私の印象としては、印象で申し訳ないですが、まあ、取り敢えず、 バフチンの想定する他者ってウィトゲンシュタインの他者より、 と言うよりも、ウィトゲンシュタインから柄谷が導き出す他者よりも徹底されてないように思います。 1も2もひっくるめてカーニヴァルぐらいじゃないでしょうか? 他者(同一でない存在)というよりも、他人(私以外の人間存在)という感じで・・・。 カーニヴァルにおける「陽気な相対化」というのが基本になってますから。 勉強不足申し訳御座いません。
35 :
# :2000/09/23(土) 18:48
「陽気な相対化」! 面白そうですね。 どんな意味なのでしょうか。
36 :
考える名無しさん :2000/09/24(日) 02:07
バフチンもいいのだが、そうやって解釈/読解した途端 勝手な内部化のみが横行してしまう。
37 :
# :2000/09/24(日) 03:32
他者について「わたし」が語ることで 「わたし」の内部に他者は取り込まれ 他者が他者であることを決定的に損なってしまう。 大雑把に言い換えると以上のようなことを 36氏は言っているのでしょうか。 「勝手な内部化」をしてみました。 他者について語り出すことで生じてしまう内部化を つねに壊していく概念装置を備えている言説は たとえば誰の哲学でしょう? 他者が他者であることを取り逃がさずに 他者について語りうる言語があるとしたら それはどのようなものでしょうね。 ここら辺りの話になってくると わたしにはよく分かりません。
38 :
# :2000/09/26(火) 18:47
2chでは「他者」論にあまり関心がもたれないようですね。 しばしお別れです。
39 :
考える名無しさん :2000/09/27(水) 14:09
ラディカルな他者の稀薄性については如何ですか? 全く相容れない言語ゲームを有する者を想定し得ますか?
40 :
ミック :2000/09/27(水) 16:08
「他者」を想定する思想って、亡命者の方々から出てくる場合が多いよね。 デカルト、ウィト、レヴィナス、シュッツ・・・ やっぱり言語を初めとする、生きて行く上で欠かせないコードが通じない!という 原体験が強烈なんだろうね。
41 :
# :2000/09/27(水) 18:16
これまでのようにパソコンを頻繁にいじることができない状況にあるので しり切れトンボになることが懸念されますが、少しだけ・・・。 >39. 「ラディカルな他者の稀薄性」とは 絶対的他者の他性と言い換えてもよいのでしょうか? よいのだとすれば、そのような他性は 決して相容れうることのない言語ゲームを想定することで 定義づけられるように思われます。 >40. シュッツについて具体的に書いていただけるとありがたいですね。
42 :
ミック :2000/09/27(水) 18:24
>シュッツについて具体的に書いていただけるとありがたいですね。 ラじゃ。家帰ったらシュッツの「異人」の概念の説明を投稿します。
43 :
考える名無しさん :2000/09/27(水) 20:20
>41 いや、その全くもって相容れない言語ゲームっていうのを想定できますか?ってお伺いしてるんですが。 時に自身と同じ言語ゲームを共有し、時に自身とは相容れない言語ゲームを有する他人を他者と呼び、 時に共有する規則に従ってゲームに興じ、時にそんな規則など全くない場所へと「命がけの飛躍」をするように思えますが。 その辺が余り実感がわきません。
44 :
名無しささん@1周年 :2000/09/28(木) 01:09
おもろいからあげ。
45 :
ミック :2000/09/28(木) 02:44
「命がけの飛躍」ってよくわからない。マルクスが言い出しっぺ? 柄谷サンも使ってたけど。 『探求』読んだ限りでは「別々のコードAとBがある。この2つはそれぞれ規則を共有することは不可能だ。 しかしそれにもかかわらずわれわれは現に言語というコードを習得してしまっている。なんと不思議なことよ。どうなってんだいったい。」 ぐらいの内容でいいのかな?
46 :
# :2000/09/28(木) 04:50
予告どおりしり切れトンボとなりました。 いちおう39氏の問いの順序を尊重して 1番目の問いに対する私なりの考えを述べてみました。 引き続き2番目の問いについて私なりの考えを述べてみれば 可能無限的なものとして「全くもって相容れない言語ゲーム」を 想定することができるのではないでしょうか。 いきなり「可能無限的なもの」と言って こむずかしそうな用語を持ち出すのは良くないのですが 具体例については こんどパソコンを使えるときまでの宿題にさせてください。 もし共通理解を得うるような説明ができれば、 相対的他者と絶対的他者の違いを明らかできるかもしれません。 また、私が2chを開いてみたら、別の方がすっきり説明しちゃっている というのはなお良いですね。 ちなみに43.に書かれていることは私が見るところ 相対的他者の例のように思われ、 39.の問いは絶対的他者に関係するように 私は理解していました。 私の理解は合っていたのでしょうか? また39氏に「ラディカルな他者の稀薄性」について 自説を展開していただけるとありがたく思います。 「命がけの飛躍」については45.のミック氏の説明で 良いように私には思われます。私もよく知りませんが 「飛躍」の元ネタはクリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドクス』のように 思われます。 シュッツの「異人」概念、楽しみです。
47 :
考える名無しさん :2000/09/28(木) 06:35
私としては、ああ、私ってのは39=43=47ですが、 全く相容れない言語ゲームを有する二者の対話って、 平行線を辿るような気がします。 ラディカルな他者の稀薄化っていうのは、昔だったらそうは言えなかったのかもしれませんが、 今現在を考えると、ひとつの大きな言語ゲーム、それは普遍的っていうのじゃなくて、 互いに手探りではあるけども、相互了解的な、っていう感じです。 そういったのを想定する方が今だったら解り易そうに思えるんです。 つまりは、「地球が文字通り一個のボールとなって、「旅」が終わりを告げ、 「観光旅行tourism」が始まる時代である。つまり、既知の土地への 「ツアー(周遊)」しかできない時代である。」って奴ですね。 あと、因みに、「命がけの飛躍」はマルクスで、 クリプキは「暗闇の中での跳躍」だったように記憶します。
48 :
考える名無しさん :2000/09/28(木) 06:37
ラディカルな他者がいなくなったから、 隣にいる兄ちゃんに他者性を付与すると。
49 :
考える名無しさん :2000/09/28(木) 07:45
そうです。概念として、例えば、柄谷が言うように、相容れない言語ゲームを有する者として 絶対的な(ラディカルな)他者は理解しますが、果してそれを実際に想定するとなると・・・、って感じです。 子供っていう例えがありますが、子供は全く言語ゲームを有しないじゃないですか。 それは相容れないじゃないように思えます。 外国人っていう例えもありましたが、確かに日本語と英語などの違いはあれども、 それ以外のところでその二者が何らかの言語ゲームを共有しない限り、 全く対話は不可能なんじゃないでしょうか? 「教える―習う」でしたっけ? 「教える」にしても、何らかの取っ掛かりがなかったら教えられないのでは?
50 :
ミック :2000/09/29(金) 04:36
>のところでその二者が何らかの言語ゲームを共有しない限り、 >全く対話は不可能なんじゃないでしょうか? >「教える」にしても、何らかの取っ掛かりがなかったら教えられないのでは? 普通考えたらそう思うよねえ。でも「既に」僕らはその不可能なことをやってのけている(傍点つけたいとこだな)ことに対して 柄谷以下クリプキ、ウィト、マルクス・・・の面々は驚き悩んでいるのではないですか。 マルクスが、貨幣が価値形態を取ることにその「不可能なはずの」跳躍を見て取ったことが発端でしょうか。 柄谷は『差異としての場所』でもジャック・モノーの文章を引いて、生命の誕生にも同じ不思議を感じてますね。 センセイの意見によると、 1.生命の誕生 3.世界史の成立 2.貨幣の誕生 3.言語の習得 はそれぞれ一回的な「偶然」の出来事であり、われわれはその「結果」だけを手に立ち尽くしている。これらの出来事は科学的な因果 関係では説明しきれない。なぜなら科学は「繰り返し」しか扱えない。一回的な固有な事件は科学の実証主義の守備範囲外。 というところでしょうか。でもこれが出発点なはずで、その後の思索については僕は知りません。カラタニ 以外まともによんでいませんわほほほほほ。 古いけど、ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」に矛盾を感じたことを思い出しましたよ。「頭の中白紙だったら、そもそも最初の 一手はどう成立すんだよ。」という他愛ない矛盾でしたが。でもいまだに解決できてない。 しゅっつは、もうちょっと待ってください。今の文脈からはちょっとズレる気がするので。
51 :
考える名無しさん :2000/09/29(金) 07:33
ああ、なるほど。 そこが「驚き」なんですね。 私はずっと、柄谷が言うように言えば、 言語ゲームを同じくする者との対話において、 って、柄谷はこれはモノローグであって、対話とは言わないって言いますが、 まあ、それはさて置き、「意味」の決定権は全て相手にあるにも関らず、 つまりは、全く相手を読み違えてもおかしくない筈なのに、 二者の「意味」が、勿論、多少のズレはあれども、 偶然にも一致するということが「驚き」なんだと思ってました。 未だその偶然以外を私達が知らないという「驚き」。 となると、他者が持つ何とも言えない魅力っていうのは、その「驚き」ってことなんでしょうか?
52 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/29(金) 08:13
・e・<他者がもつナンとも言えない魅力?う〜ん、ずいぶん思弁的だな。 そんなことにいちいち驚いてちゃ〜せわしい日常生活もままなるまいに。 読み違え、誤解、意見の不一致はおろか、 そういう他者との「ズレ」を誘引し、創造するところに本当の他者経験がある。 相互了解が常に成り立っている人間関係なんかオモシロイはずがない。 ・・・・という気がするが続きはまた今度。
53 :
名無しささん@1周年 :2000/09/30(土) 12:23
シュッツはどげんした。
54 :
考える名無しさん :2000/09/30(土) 17:28
>52 それってただの差異じゃん。
55 :
ミック :2000/09/30(土) 17:45
じゃあシュッツについて。まず有斐閣の『新社会学辞典』からちょっと引用。胡散臭い文章だけど、導入として。 「オーストリアのウィーンに生まれた社会学者、現象学者、哲学者、音楽学者。現代の現象学的社会学の基礎を築き、日常生活の社会学、生活世界の社会学、エスノメソドロジーにも道を開いた。音楽やゲーテに親しみながらハイスクールで学び、卒業後第一世界大戦に従軍し、帰国後、母親のすすめでウィーン大学で法律を学ぶ。(中略)はじめウェーバーの業績に強い関心を抱き、20年代半ばにはベルクソンの仕事に目を向け、さらにフッサールの現象学とアプローチにも注目しながら、32年には『社会的世界の意味構成』を世に送ったのである。ナチによってオーストリアが占領された38年春、仕事でパリに行き、39年にはアメリカへ亡命した。(以下略)」 で、ここで問題にすべきStrangerという概念は、“The Stranger”, in: The American Journal of Sociology, XLIX(6)に、多分初めて出てくる言葉です。日本語の訳語は、柄谷さんが「異人」、シュッツ専門家の森元孝さんが「よそ者」と言ってます。どっちでもよいけど「異人」のがカッコいいので僕はこっちを使います。またこれと似通った術語でHomecomer「帰郷者」というのがあります。互いにリンクしあってるので、以下できれば両方の関係も含めて書いてみ・・・・たいんだけど、この人の思想も改めて難物だな。まあいいや。とにかくまとめてみます。
56 :
ミック :2000/09/30(土) 18:33
まず「異人」の定義について。僕はこのシュッツの論文読んでないので、上のお二人のまた引きになります。ご勘弁。 「われわれの生きている時代と文明を形成している(成人した)個人で、自分が接近する集団に受容されようとしているか、少なくともその集団に容認されようと試みる者」(森さん) 「偶像破壊者、瀆聖者、或いは共同体のメンバーの誰一人にとっても互いに理解しあい理解しうる正当な機会を与えるには十分な一貫性、明証性、まとりといった外観を保証する“相対的・自然的世界観”を次第に突き崩すもの。共同体内のメンバーが疑問に付さないあらゆるものに疑問符を付するもの」(カラ谷) 柄谷の解釈はどぎついですが、異人概念をウィトゲンシュタインの他者概念に引き付けた解釈へ持っていこうとすれば、まあ無理ないです。別に方向としてずれてはいません。 1.異人は大人でなくてはなならない。彼はすでにある共同体においてその文化の形成にかかわり、集団生活を成り立たせるような生活の仕方を習得している。 2.共同体のメンバーが持っている世界観は、自然的世界観であって、科学的世界観ではない。彼にとってその世界観は「一貫的」で「明証的」ではあっても、科学体系との関連性によって組織されるものではない。それは自らの行為との関連性(レリバンス)によって組織される。つまり、メンバーにとって到達可能なごく限られた断片的世界にだけ関心を持つというやり方で、世界観が構成される(たとえば、僕らは今使っているパソコンについて工学的知識をほとんどもっていませんよね)。 3.しかし「異人」がある共同体に受容されようとする場合、彼は故郷で見につけた準拠図式を用いても通じないことを知る。そこで彼は仕方なく観察者の態度をとって知識を得、集団の将来の一員になろうとして自分自身の行ない方や世界観を変化させていく。
57 :
ミック :2000/10/01(日) 03:21
4.このような集団への同化は、「ゆっくりと」おこなわれる。なぜならわれわれが用いるコード(単語や文が典型的なので、これを例にとる)は、その直示的な意味を知るだけでは使い物にならないから。すなわち、その用い方にはコンテクストがあるし、その集団に固有の私的・史的なコードにのっとらなくてはならない。シュッツは、こうした「口で表現できない」情緒的要素や非合理的な意味からなる、われわれの言葉を取り巻いている光輪のようなものを「フリンジ」と呼んだ(もとはジェームズの術語。邦訳は「縁暈」) 駆け足だけど、「異人」概念をまとめてみました。 柄谷やウィトはおそらく3.のフェイズを徹底的に突き詰めようとしているのだと思う。それに対してシュッツは社会学者だから、とにかく異人が最終的にはある集団に受容されることを前提において(この楽観さをウィトが聞いたら「欺瞞だ不徹底だ鬱だ死のう」と怒るかもね)、そのメカニズムを説明しようとすることに重点が置かれています。つまりシュッツの「異人」というのは、方法論上の一つの「道具立て」だと思います。その証拠に、「異人」概念は誰にでも結構納得いくし、誰でも分析の道具立てとして有効利用できるところがあるんじゃない?「同じ問題を共有する人にしかこの書物は理解されない」と啖呵を切ったウィトとはスタンスが大きく違う。 あと、「フリンジ」の術語は、ウィトの「語りえぬもの」と似てるよね。僕も両者には重なる部分があると思います。ウィトが「語りえぬもの」と名づけたものは、二つのタイプに分類されたよね。つまり @先験的なもの(論理形式) A超越論的なもの(倫理) のふたつ。フリンジは多分、@論理形式と関係すると見た。でもまだ思いつきなので、今はここまで。
ふむふむ
59 :
ミック :2000/10/03(火) 14:35
シュッツとウィトの他者理論を比較している論文がすでに雑誌(図書館情報大研究報告)に出ているではないか。 ちっ、先こされたか。 でも内容は凡庸そのもの。すぐ追い越してやる。
60 :
考える名無しさん :2000/10/05(木) 13:11
その後を期待して、あげ。
61 :
考える名無しさん :2000/10/25(水) 10:12
あげ
62 :
# :2000/10/26(木) 02:29
60さん、61さん、 また他のスレッドでも活躍しているミックさん、 何でもいいので書いてほしいですね。 書きたいことはいくつかあるのですが わたしはまだ書ける状況にありません。 期待しておりますし 楽しみにしております。
63 :
考える名無しさん :2000/10/26(木) 22:31
私はあなたに見られている。けれども、私があなたを見たとたん、あなたはは現象になる。
64 :
考える名無しさん :2000/10/26(木) 22:33
私はあなたに見られている。そしてあなたは存在する。 けれども、私があなたを見たとたん、あなたはたちまち現象となる。 お久し振りです、♯さん。
65 :
64 :2000/10/26(木) 22:34
63は無視して下さい。
66 :
ミック :2000/10/26(木) 23:47
最近本職の歴史の方の卒論が山場なんで・・・・・・ 他者理論発展させるより、Wの亡命者としての伝記的背景が他者理論の胚胎とどう連関してるかを調べないといけないので、Wの書簡を訳す毎日でございます。 レヴィナスやサルトルの他者理論をダイジェストで解説してくれる人いません?あわよくば卒論に・・・・・・
67 :
考える名無しさん :2000/10/27(金) 05:19
ずいぶんと面白そうな研究をされてるようですね。 「亡命者」という切り口、興味をそそられます。 (空間的だけでなく)理論的に越境(trans)する哲学者に注目する 柄谷氏の影響もあったりするのでしょうか? #もレヴィナスやサルトルの他者論にについての書き込みを希望します。 とくにサルトルの『倫理学ノート』なんて興味深いです。
68 :
考える名無しさん :2000/10/27(金) 05:43
64さんはポンティなどを好んで読まれているのでしょうか? #は64に書かれていたことの成り立ちを教えていただけると ありがたいです。
69 :
64 :2000/10/27(金) 16:53
64は完全にサルトルですよ。 他者の視線って奴ですか。
70 :
ミック :2000/10/27(金) 23:14
「他者の視線が私を凝固させる」の有名なテーゼですね。 柄谷さんが「なぜ猫の視線では凝固しないのだろうか」ともっともな批判を提出していましたね。 「結局サルが言ってる他者ってのは、同じ言語ゲーム(共同体)に属しちまってるんだから、独我論とちいともかわんねええんだよ。 やっぱ亡命を経験してない奴は考えが浅いよね。W(と俺様)とじゃあレベルが違うぜ、サル。 他者ってのはよ、共同体の外部に存在する理解不能な、不気味なコードの破壊者のことなんだぜ、サル。 さすがW(と俺様)はいいこと言うぜ」 ・・・・・・この人の主張って、煽り調子で書くとしっくり来るなあ。なんでだろ?別に本人に含むものはないんだけど。 サル。
71 :
ミック :2000/10/27(金) 23:23
>(空間的だけでなく)理論的に越境(trans)する哲学者に注目する >柄谷氏の影響もあったりするのでしょうか? 柄谷さんの『探求T』や「形式化について」は、とても参考になりますね。 読見始めたのが夏休み(まだ2ちゃんも知らない頃)だったから、テーマ決めてからでしたけど、「日本人でも亡命に焦点を当ててる人がいるんだ。ふ〜ん」と思いました。 テーマ決めに直接影響したのは、柄谷さんも読んでるS・ヒューズや、M・ジェイ、今橋映子さんの本を読んだことですね。 でも柄谷さんて、ある人物の思想を歴史的・伝記的要素に還元する「歴史主義」は嫌いみたいです。 ヒューズやジャニク/トゥールミンは読んでるけど、「勉強にはなるのだがごにょごにょ・・・・・・」と納得いかないみたいですから。 Wも伝記的な詮索を嫌ったそうですから、(因果関係を否定する彼の信条から言えば当然だけど)僕はまあ、不肖のファンてとこですね。 しかしなぜシュッツの書簡集は邦訳があるのに、Wの書簡は邦訳ないんだろう。結構たくさんの研究者が使ってるから訳せばいいのに。
72 :
ミック :2000/10/27(金) 23:28
「亡命」をテーマにしてる日本人の研究者は、少なくとも歴史畑では一人も知らない。 おかげで僕の卒論は暗中模索だ。欧米ではメジャーなテーマなのに何でだ。(独文には立派な研究やってる人がいる) やっぱ隔離的閉鎖的島国日本人根性にとっては、「亡命」とか「他者」とかって、切迫性がない問題なのだろうか。 このスレも人気ないし。
73 :
ミック :2000/10/28(土) 01:53
「カルナップがいつも粘りづよく、厳密で丹念な論理学者であるのに対して、ヴィトゲンシュタインは、深い直観力の持主でありながら、少なくとも会話をする際には、必ずしも弁舌さわやかな人間ではなかった。そのため、あるときカルナップが悪意なく、あれやこれやの点を「もう少しくわしく説明」してほしいと言うと、ヴィトゲンシュタインは我慢できなくなって、憤激せんばかりに怒った。「かれにこれを味わう鼻がないのだったら、わたくしがかれを教えることなどできるわけがない。かれにはまさに匂いをかげる鼻がないのだ」とヴィトゲンシュタインはわたくしに向って悪口を言った。実際、一時はヴィトゲンシュタインとの哲学的な議論に入れるようになるまでは、わたくしは長いことカルナップに対するかれの毒舌に悩まされなくてはならなかったのである。」 まさに他者が立ち現れる現場! 言語ゲームも、実際の場面に適用したらこんなもんかもね。2ちゃんもそうか。 みんな仲良く喧嘩しよう。
74 :
考える名無しさん :2000/10/28(土) 02:32
ウィトゲンシュタインは、わがままなおぼっちゃんやからねえ。カルナップは苦労人やねえ。
75 :
微熱症患者 :2000/10/28(土) 03:56
>>73 これ、誰の文章の引用ですか?
ところで、カルナップも亡命者でしたね。
ウィトゲンシュタインは……あれ? 亡命はしていなかったような……。
76 :
ミック :2000/10/28(土) 04:23
これ、誰の文章の引用ですか? ヘルベルト・ファイグル「アメリカのウィーン学団」『亡命の現代史5――人文科学者、芸術家』みすず書房 1973 ファイグルが意図していないところで結構笑えます。 カルナップも亡命者です。Wは1929年からケンブリッジに滞在していますので、「帰るに帰れなくなった」人です。T・マンとかと同じタイプ。 「されど我が心はウィーんにありき・・・・・」って何度も言ってます。
77 :
# :2000/10/29(日) 02:32
>69番。そうでしたか。 フランス現象学的な語り口でしたから、 「ポンティなど」と話をふってみました。 今でも現象学としてのサルトル・テクストを読まれる方がいるのですね。 ふた時代ぐらい前はずいぶん流行していたという印象です。 現代フランス現象学(非現象学的現象学)における他者論への傾斜を踏まえて サルトルを読み返すという作業が今求められているのかもしれませんね。 政治的な事柄を考える手がかりとして読まれることが 最近は多いようですが・・・。
78 :
# :2000/10/29(日) 02:43
>ミックさん。確かにこのスレッドも人気ないですね。 わずかならもしかし着実にレスの数が増えており、 他者論関連でいろいろな話が読めるのは楽しいです。 私は史学の世界は分かりませんが、欧米での「亡命者」研究が盛んであるなら 研究成果を欧米から輸入することを重視する日本のアカデミズムでも いずれ定着するような気がします。
79 :
# :2000/10/29(日) 02:56
私はまえに宿題を残しているので それをやらずに書き込むのは多少はばかられるのですが ひとつ質問させてください。 「私はあなたに見られている。 そしてあなたは存在する。 けれども、私があなたを見たとたん、 あなたはたちまち現象となる。」(64さん)は 「他者の視線が私を凝固させる」(サルトル)という一文についての 64さんの解釈なのでしょうか? 私はサルトルの著作をちゃんと読んだことがないのです。
80 :
# :2000/10/29(日) 03:12
すみませんが、あとひとつ。 ミックさんはM・ジェイを読まれるのですね。 私もアドルノやジェイを読もうと 著作は手もとに用意したのですが 「つん読」状態です。 「非同一性」をめぐるアドルノの議論を ヘーゲル・スレッドの方などが紹介してくれるといいですね。 お願いばかりですが・・・。
81 :
64 :2000/11/01(水) 03:04
私も実はサルトルの著作を真面目に読んだことはないです。 「私はあなたに見られている。そしてあなたは存在する。 けれども、私があなたを見たとたん、あなたはたちまち現象となる。」は、 「他者の視線が私を凝固させる」(サルトル)に対する私の解釈ではなくて、 皆さんの一般的な解釈だと私は思ってましたが・・・。 ああ、それと、♯さんが宿題云々って仰ってたので白状しますが、 私は以前バフチンに関して勉強不足のくせして書き込みをさせて頂いてた者です。 バフチンに関して♯さんに質問されたままほったらかしにした・・・。 その節は申し訳ございませんでした。 白状ついでに、その後ミックさんと言語ゲームに関して云々したのも私です。 不束者ですが、これからもお願いします。 って、こんな所で私は何を書き込んでるんだろ?
82 :
64 :2000/11/01(水) 08:02
他者の視線っていうのは、ウィトゲンシュタインで言うなら、ある言語ゲームの「規則」、 それはその言語ゲームを有する者でも説明することはできなくて、事後的なものなんだけども、 その「規則」にちゃんと沿ってるかどうかをチェックする他者という気がします。 それと、以前に指摘があったけども、他者を他者として語ろうとすればする程、 他者は内面化されてしまって・・・ってのも上手く表してるように思いますが。
>やっぱ隔離的閉鎖的島国日本人根性にとっては、「亡命」とか「他者」とかって、 切迫性がない問題なのだろうか。 このスレも人気ないし。 まあ、確かにこのスレは人気ないですが、 日本に居ても、もう、周りは他者だらけですよ。 本当に全く相容れない言語ゲームを持つ人達ばっかり。 すんごい差し迫った問題、って、それが一生続くんだろうけども、 として常に実感してますけども、私は。 もう周りは外人だらけ、ってか。
84 :
# :2000/11/02(木) 04:27
64さん、こちらこそよろしくお願いします。 2chにはどういうバランスで書けばよいのか いまだによく分かりません。 このスレッドには いろいろ面白いことが書かれているので 感想もわきやすいのですが、 うまく書ける自信がなくて つい書き込むのはためらいがちです。 ちなみに私がsage書きしているのは 使用パソコンに#とsageが残っているのを そのまま放置しているだけであって 深い意味はありません。
85 :
# :2000/11/02(木) 04:43
「私はあなたに見られている。 そしてあなたは存在する。 けれども、私があなたを見たとたん、 あなたはたちまち現象となる。」についてですが、 簡単に書けば、他者は現象しないことによってすぐれて他者である、 というような意味なのかなと、読んだときに思いました。 つまり「現象」という観点から他者の他性について指摘していると思いました。 それで『存在と無』の羞恥の話でしたっけ(?)、 あそこは他者の他性とか、相対的他者と絶対的他者の区別とかを 踏まえていたか、分からなくなりました。
86 :
# :2000/11/02(木) 04:57
それで「ポンティなど」と表現をあいまいにしてみたわけです。 私たちは毎日の生活でじっさい他人と接しているわけですが、 そのような経験的レベルでの他人は相対的他者であって 「私」の現象として内部化されるのでしょう。 絶対的他者とは経験的レベルにおいて 表立って出会われるものではなく、 「私」の現象として内部化された相対的他者が 「私」のもとから再び去っていく要素なのかもしれません。
87 :
64 :2000/11/02(木) 13:34
ちょっと話はずれますが、バフチンについて。 まあ、バフチンは、ご存知の通り、他者との対話というのを全面に押し出すんですが、 そこで言われる他者というのは、自分以外の人間存在という程度で、 ミックさんに言わせれば、それは、 「同じ言語ゲーム(共同体)に属しちまってるんだから、独我論とちいともかわんねええんだよ。」 ってことになるんでしょうが(笑)、まあ、兎に角も、バフチンだけを見れば、 間主観性云々の問題との関わりは結構等閑にされてたりします。 バフチンは哲学的な厳密さに基づく議論と言うよりも、 もっと具体的で、生々しい、例えば、如何に生きるかみたいな、もののような気がします。 それをウィトゲンシュタインの厳密さの中に取り入れて語るというのは、 まあ、柄谷のひとつの手腕ってことになるんでしょう、多分。 確かにバフチンは、ドイツからの影響をもろに受けてますし、 それこそ、ウィトゲンシュタインに関して言うなら、 バフチンの兄貴、ニコライは、ウィトゲンシュタインの友人でしたしね。
88 :
64 :2000/11/02(木) 21:13
間主観性に関してハイデガーなんかは如何なんでしょうか? そういえば、ハイデガーに関しては私は全くノータッチなんですよね。 誰か教えて頂けると有り難いのですが。 という訳で、あげておきましょう。
89 :
ミック :2000/11/03(金) 00:05
実はこのスレって#さんと64さんと・・・・・・三人だけでやってる? 「間主観性」って何ですか。現象学関係で時々みかける用語ですが。 初歩的な質問ですいません。 ニコライさんについて興味あります。Wとどういう関係があったのでせうか。 Wってすごいんですけど、でもよく言われることなのかもしれませんが、彼は発生論的な局面については全然論じてくれないのが、困りもんです。たとえば、子供がどうやって言語を習得するのか、というプロセスについては「調教だ」「慣れだ」の一言で終ってるような気がする。 その「調教」のメカニズムは?って聞きたくなるけど、でもそんなこときくと「君はまだ因果論に囚われているのか。なんということだ。」とか怒られそうだし。 でもやっぱり、Wは「人間がどうやって言語ゲームを習得するのか」という疑問にはきちんと答えてない(答える必要性を感じていなかったようにも見える)と思います。
私も64が使っている「間主観性」という言葉使いに???と思った。 一体どういう意味で使っているんですか?
91 :
# :2000/11/03(金) 09:26
とっても乱暴に言ってしまえば 「わたし」とは「認識する主観subject」 もしくは「行為する主体subject」でしょう。 それが語られる哲学の分野(分析哲学・認識論・実践哲学など) によって訳し方は変わります。 「われわれ」に相当するのは「間主観性=相互主観性=共同主観性」と 「間主体性etc.」でしょう。
92 :
# :2000/11/03(金) 09:40
これまた乱暴に言ってしまえば ハイデガーに「わたし(=現存在)」に関する積極的な話はありますが 「われわれ」や「あなた」に関する積極的な話はないでしょう。 ハイデガーの存在論との影響関係を多かれ少なかれもちつつ 「われわれ」について積極的な議論をしたのは ポンティおよびレーヴィットでしょう。
93 :
ぱん"どら" :2000/11/03(金) 10:04
> 「他者」について >常に想定されてるのかしら? すみません、ちょっと練習します。 事実世界に他者を見出す,というのは事物との対応においてなされます。 ルネッサンス以降の歴史において人類は事実世界を因果論で解釈することを 旨としてきました。 これはすなわち、前件肯定式A、 A⊃BよりBを導出してよい、の適応にほか なりません。そしてこの式は「いつでもどこでも、だれにでも」という普遍性を 持っていることを前提としています。 さて事実世界の他者について認識するときは、こうした前件肯定式とは異なっ たモジュールを与えています。 このことは次の例で明らかでしょう。 たとえば貴方の行く手を何かがふさいだとしましょう。 @それが風によって木が倒れたとかの自然の偶然性によって起こったとすると 原因を確認した後、所定の手続きによりそれを取り除く作業にかかるでしょう。 Aそれが他者によって故意に妨害されたとしたら、まず非難が起こり、その理由 を問いただそうとするでしょう。其の他者のエゴが原因だとしたら怒り心頭です。 事実世界の展開において対象を前件肯定式で解釈する限り対応は同様の因果 律にしたがって行われます。 しかして他者を想定した場合は目的論が起動します。 目的論の基本命題は「Aはよい、わるい」といった価値命題によってなされます。 前者の因果論が普遍を議論領域にしているの対して目的論は主観を其の領域 します。ここには「おまえは妨害をすべきでない」という当為の価値命題が設定 されるのです。 この二つの解釈は事実世界のひとつの感覚に対して行われる二つの知覚、 アスペクトにほかなりません。 あなたはルビンの図形に酒盃をみますか?それとも他者? う〜む、ちょっと迫力欠いたかしら・・・。オジャマー♪
94 :
# :2000/11/03(金) 10:04
ウィトゲンシュタインは 発達心理学的に明らかにされるような「言語ゲームの習得プロセス」を 考察することはありませんよね。 ここで少し思うのは 何歳児では空間的区別(ここ・あそこetc.)に関する言葉が習得され 何歳児では人称的区別(わたし・あなたetc.)に関する言葉が習得され ・・・という発達心理学的考察が 言語の限界に迫りその周辺で思索したウィトゲンシュタインにとって 必要であったのか、ということです。 赤いカードを見せて赤いものを持ってこさせる例などで 「言葉はいかに学ばれるか」について明らかになっている、 つまり、何歳になろうと学ばれ方の基本は一緒である、 という姿勢であった、ということでしょうか・・・。 相変わらずよく分からないですが、ちょっぴり書いてみました。
95 :
# :2000/11/03(金) 10:55
私たちは毎日の生活で経験的に 1.自然現象に対する命題集合と 2.他人に対する命題集合とを蓄積しています。 倒れた木を見たときに 1.の集合に適っていれば「さかずき」をみますし 2.の集合に適っていれば「他者」をみるでしょう。 もちろん台風で木が倒れたのか 他人が木を倒したのか、分からないままの場合もあるでしょう。 新しい方に来ていただけてうれしいです。 私は書いたり書かなかったりの不精者ですが、よろしく。
96 :
# :2000/11/03(金) 11:00
すみません、 91&92>64さんほか 94>ミックさん 95> ぱん"どら" さんです。 64さん、何か名前があると覚えやすいのですが・・・。 どうも数字が覚えられなくて・・・。
97 :
11 :2000/11/03(金) 12:26
(久しぶりに来たら、あまり盛り上がっていないのは、「和を尊ぶ日本」
では他者というテーマに関心が低いのかな?まさに自分が他者なのに)
>>80 (#さん)
>「非同一性」をめぐるアドルノの議論を
>ヘーゲル・スレッドの方などが紹介してくれるといいですね。
(ドキッ!)アドルノ『否定弁証法』ではヘーゲルの「同一性と非同一性
の同一性」という主張に対して、「絶対的非同一性」を主張している。
しかしそれは実存主義的ではなく、異なる他者が形成する星座(コンステ
レーション)としての(ベンヤミン的?)世界といったものに仮託して
いるため、結局相対主義を出ていない、と私は見ました。ホロコースト
を経験した哲学者として対話の可能性に絶望しているきらいがある。
(人一倍記憶力が悪いので、詳しい内容は読んで下さい。)
>>93 (ぱん"どら"さん)
>Aそれが他者によって故意に妨害されたとしたら、まず非難が起こり、
>その理由を問いただそうとするでしょう。其の他者のエゴが原因だと
>したら怒り心頭です。
なぜそれが妨害であり、そしてエゴが原因だと分かるのかな?
「目的論的解釈」と「因果論的説明」を混同してません?
事実命題の真理「価値」と価値命題の真理「価値」の違いは?
「ある事実が自然的文脈では説明できない(と判断された)場合、他者の
意志をそこに想定する」とは日本人の迷信深さ(神さまが他者です)にも
表れている普通の事象でしょう。それは論理的でしょうか?
98 :
吾輩は名無しである :2000/11/03(金) 19:00
うーん、社会学部生で「他者とのコミュニケーション」の勉強をしていますが その一歩前、他者をどのように規定するかまでは追求してきませんでした。 興味深いですあげ。
99 :
ぱん"どら" :2000/11/03(金) 19:08
??わたしの名前って「ぱんどら」なのにどうしても首と胴体が切はなされちゃう。 Yahoo哲で 斬首刑にあった後遺症かしら・・・。 もう、ろくろくび〜。 >97 いれぶんさま > なぜそれが妨害であり、そしてエゴが原因だと分かるのかな? 基本的に他者の価値命題は判定できません。 価値命題の議論領域は主観です。 > 事実命題の真理「価値」と価値命題の真理「価値」の違いは? 論理学は言葉の持つ普遍的真理を探究する学問ですが、価値は本来倫理学 に属すると思われています。 わたしの場合・・・、 真偽判定は「AはBである」の命題に対して普遍者が決定します。 一方「Aはよい」の命題は良悪であり、「他者」でなく「自我」において決定します。 「他者」がどう判定しているかは状況から類推することしかできません。 >「ある事実が自然的文脈では説明できない(と判断された)場合、他者の > 意志をそこに想定する」とは日本人の迷信深さ(神さまが他者です)にも > 表れている普通の事象でしょう。それは論理的でしょうか? 議論領域を主観にすれば自らをモデルとして無矛盾な体系ができる、と 信じております。
100 :
11 :2000/11/03(金) 22:19
>>99 (ぱんどらさん)
「いれぶん」は固定ハンにしたくないな。赤き痴のイレブンなんちゃって
>「論理学は言葉の持つ普遍的真理を探究する学問です」
これは事実命題あるいは価値命題のどちらなのでしょうか?
1. 現存する論理学についての命題だから、事実命題?
2.普遍的に妥当すべき論理学についての命題だから、価値命題?
つまり、世界には(正しい探求をしている)「良い論理学」と
(間違った探求をしている)「悪い論理学」があって、ぱんどらさんが
「そうあるべきだ」と考えている論理学に関する価値命題?
3. 現存する論理学はどうあれ、「論理学という学問」についての真なる
命題だから、(それは証明されるべきだとしても)事実命題?
4. 万人が認めるべき論理学の定義だから、価値命題?
つまり、世界には論理学の「正しい定義」と「間違った定義」
(およびその信奉者)があって、ぱんどらさんが「そうあるべきだ」
と考えている論理学の定義に関する価値命題?
結局、論理学とは規範的学問なのか、「普遍的真理」を探しだそうという
事実的学問なのか、(はたまたどちらでもない第三の道か)が問題でしょう。
普遍者が他者として「そうすべし」と命令するのか、普遍的法則に従って
他者も私も「そうしている」のか。どちらにせよ、さしあたり固有の私
(他者ならぬこの私)と固有の他者(私にとっての他者)は出てこない
ような…。「私にとって真でも、あなたにとっては真でない。」は真かな?
101 :
# :2000/11/03(金) 22:20
>11さん。ありがとうござます。 いくつか伺いたい点があるのですが 「詳しい内容は読んで下さい」ということは 質問はダメッ!ということでしょうか。残念です。
102 :
# :2000/11/03(金) 22:31
>99.ぱん"どら"さん。 カント以上のしつこさで主観性という領域にこだわっていただき その領域の成り立ちを判断論的・古典論理学的に 解き明かしていただければ 付随的にすぐれた他者論が後ろ姿を見せる可能性が あるように思われます。もしくは 「普遍者」(これこそ超越の可能性が問われる端的な他者でありえます)と 主観の関係の仕方を克明にしていただくと 他者論にとって参考になるように思われます。 さしあたりHPを立ち上げていただくなり これまでのYahoo哲のリンク先を貼っていただくなり 2chに別スレッドを立てていただくなりして 持論を展開されてからの方が私個人としては コメントしやすいです。
103 :
# :2000/11/03(金) 22:35
>11さん。 捨てハンでも何かあるとありがたいのですが・・・。
わ〜なんかちょっとにぎやかに・・・・・・ 最近「抽象文学」スレもちょっと活発だし・・・・・・卒論いいんか? >アドルノ『否定弁証法』ではヘーゲルの「同一性と非同一性 >の同一性」という主張に対して、「絶対的非同一性」を主張している。 >しかしそれは実存主義的ではなく、異なる他者が形成する星座(コンステ >レーション)としての(ベンヤミン的?)世界といったものに仮託して >いるため、結局相対主義を出ていない、と私は見ました。 な、何ゆってるのかわかりません。「絶対的非同一性」「他者の星座」とは・・・・・・ ベンヤミンにとって「星座(コンステラツィオーン)」は「物が納まるべき正当な場所」という肯定的に使われているような気がするのですが。 そもそもこれが「他者」という概念と関係あるのでしょうか。 「間主観性」とは、結局「共通主観を前提すること」の理解でよいのでしょうか。これってとても危険な独断的前提の気がするのですが。それこそWから総攻撃を食らいそうだ。 でも「間主観性」を前提することで、その上に面白い理論を構築できるのかな。それなら道具としての価値はありそうですが。 >98 社会学の方なら、是非シュッツを読んで解説してください。 最近ついに「他所者」「帰郷者」が入っている『現象学的社会学の応用』を読みましたが、面白かったですよ。 レスが増えると読むのが大変。
105 :
# :2000/11/04(土) 07:32
>104.ミックさん。 「共通主観」という言葉についてかみくだいて説明していただけると 何かレスがつけられるかもしれません。 たたき台になるかもしれないので少し書きますと たとえばカントにおける「間主観性」論として読まれるものに 美をめぐる判断の話があります。 Aさんの「この花は美しい」という判断がみんなに受け入れられるのは 私たちみんなが「共通感覚」をそなえているからだ、となります。 柄谷氏の『トランス・クリティーク』による説明では 共通感覚は「歴史的・社会的に形成される慣習」となっています。 したがって「みんな」と言っても 歴史的・社会的に限定された「みんな」になります。
106 :
♯ :2000/11/04(土) 10:11
「間主観性」という次元の位置づけが ポイントだと思います。 たとえば言語など端的に間主観的、 つまり「われわれ」的です。 言語の「われわれ」性については ウィトゲンシュタインによる privete language と public language の考察を 考えていただいてもいいし、 <私>を public language で「語る」ことの 原理的不可能性を指摘する永井均氏の議論を 裏から考えていただいてもいいもしれません。 「われわれ」という次元を その「われわれ」という次元におさまらない <私>や「絶対的他者」といったものを踏まえて とらえ返してみたのちに、 最終的な根拠もしくは始まりとなる根拠として 「われわれ」の次元を捉えうるのか、を 考えてみる必要があるように思われます。
107 :
11改めOFW :2000/11/04(土) 10:33
>>101 (#さん)
>質問はダメッ!ということでしょうか。
別に良いですが、正確な答えは期待しないで下さい。
>>103 (#さん)
>捨てハンでも何かあるとありがたいのですが・・・。
わかりました。今後はOFW(Old-Fashioned-Well)で逝きます。
>>104 (ミックさん)
>何ゆってるのかわかりません。「絶対的非同一性」「他者の星座」とは
私の説明が言葉足らずですみません。アドルノについては
「ハイデッガー/ユンガー対アドルノ/ベンヤミン 」スレの・e・氏の
論評がとても参考になると思う。(以下勝手に引用、勝手に改行)
「全体よりも部分、規律よりも逸脱、一般的なものよりも個別的なもの、
形式より具体へと向かい、」
「肯定よりも否定、再構成(Rekonstruktion)よりも解体(Dekonstruktion)
を志向しなければならないという、転倒したヘーゲル主義を貫徹する必要
があるのは、アドルノによれば…全体とか統一や規範といった、近代社会
の形成に大きな役割を果たした概念の意味が変化したからであり、彼は
ここに近代ブルジョア社会の理想と現代消費社会の現実との拭いがたい
亀裂を見て取るのだが…」
(自分の言葉でなくてすみませんが、私のつまらない説明より余程優れて
いると思ったので)。あと、「星座」概念については、話すと長くなり
そうですので、別の機会に…。
>そもそもこれが「他者」という概念と関係あるのでしょうか。
(また上記論評から勝手に引用します)
「産業社会が際限なく排出する代替可能な消費物とみなし、それを生産
する社会構造とそれと提携している現代人の精神構造」
資本主義社会は市場という疎外され物象化された世界における、「他者」
達しかいない社会だと言っていると解釈します。
108 :
64=quelq'un :2000/11/04(土) 10:42
わあぁー!! 書きっぱなしで1日見なかったら、えらいことになってますね。 そんでもって、ちょっと着いて行けない・・・。 ミックさん。 ニコライ・バフチンについては詳しいことは解りませんでした。 ウィトゲンシュタインはロシアへの移住を目論んでいたらしいので、その辺で知り合ったのかも。 それにしても、私はどこでそんなことを読んだんだろうか?自分でも覚えていないです。 ♯さん。 「歴史的・社会的に限定された「みんな」」っていうのは、 また初めに戻って、同じ言語ゲームを有する者たちってことなんでしょうか? 後、コテハンに関しては突っ込まないで下さい。
109 :
考える名無しさん :2000/11/04(土) 13:14
#>108.quelq'un さん。 「歴史的・社会的に限定されたみんな」っていうのは 「同じ言語ゲームを有する者たち」ってことだと思われます。
110 :
考える名無しさん :2000/11/04(土) 13:19
#>107.OFW さん。 アドルノをしっかりと読まなければ、 と強く思いました。
111 :
ぱん"どら" :2000/11/04(土) 20:54
>>102 #さま
>さしあたりHPを立ち上げていただくなり・・・
>持論を展開されてからの方が私個人としてはコメントしやすいです。
むほ、耳が痛いです。やりたいと思ってついつい皆さんとのお話のほうにさそわ
れてしまう。
ちょっとまとめてみま〜す。
う〜む、言葉に誘われてしまう。我慢できな〜い。
102#さまへ、わたしのものまとめるだけの意味があるって言ってくださるなら
まとめてみたい。
赤き痴のイレブンさまへのちょっと回答見てお言葉いただけますか?
>赤き痴のイレブンさま
>1. 現存する論理学についての命題だから、事実命題?
わたしは存在について以下に考えています。
述語論理をおやりになっていれば∃xFx(Fであるようなxがある)の真偽判定を
するにあたって議論領域Dを宣言しなければならないことは常識だと思います。
Dimension宣言
宣言なしの論理空間を考えてしまえば素数のような抽象的概念とわたしの車
のような具体的事物が同等の場面を持つことになり、「車の隣に素数がある」
のような命題も意味を持たなければならなくなるからです。
事実という術語は真偽と混同される場合もあります。
わたしは事実を時空という議論領域における対象を記述した命題と思ってます。
数論におけるようなものは事実命題という術語は使用してません。
>(他者ならぬこの私)と固有の他者(私にとっての他者)は出てこない
ような…。「私にとって真でも、あなたにとっては真でない。」は真かな?
えっとですね、事実世界において私とあなたが一緒にいるとして
@「わたしと貴方はドライブしている」は感覚を持って真偽判定可能。
イレブンさま運転お願い♪
貴方とわたしの判断は一致するでしょう。もししないとしたらいずれかが偽。
(イレブン様がわたしにドラックのませて意識朦朧とかの場合。←イヤッ)
ところでわたしがAもしかして車が激突するかもしれないら、と思ったとします。
(だってイレブンさまらんぼうなんだもん)
これは可能命題、ここでこの命題は主観的なものです。
(なぜってイレブンさまは自信たっぷり・・・)
さらにイレブンさまはBここ湘南街道を今日こそ,200Km/Hでぶっ飛ばそうと
おもっています。今日こそ出せる,確信してます。
以上の設定で分析。
命題 判断
----------------------------------------------------------------
@イレブンさま ・二人はドライブしている 真
ぱんどら 真
Aイレブンさま ・車はぶつかるかもしれない 偽
ぱんどら 真
Bイレブンさま ・200Km/hでぶっとばすはよい 真
ぱんどら 偽
@は事実命題 Aは可能命題 Bは価値命題
ABはともに主観を議論領域とするとしてそこ普遍的意味をもたせるとしたら・・
●「車がぶつかる」を対象命題gとして「車がぶつかるかもしれない」をPg
「車がぶつかるのはいやだ」をVgとすると
以下の式が成立する。
(Pg∧Vg)⊃Vs (Vsはわたしが不安か安心かのレベル・価値領域で
の自己否定,または自己肯定)
わたしはいまおっかな〜い。
●「200Km/Hで走行する」を対象命題gとして「200Km/Hで走行するのはよい」
をVg、「俺は200Km/Hで走行できそうだ」をPgとすると
イレブンさまの状態
・おりゃー今夜は最高だぜい!!!<--ほんと?
>102#さま
間主観性のほうが意味があるとおっしゃるなら退散します。
しつれいしました。
イレブンさま、またね。
112 :
ミック :2000/11/04(土) 23:43
>Aさんの「この花は美しい」という判断がみんなに受け入れられるのは >私たちみんなが「共通感覚」をそなえているからだ、となります。 「共通主観」ってやはり「同一言語ゲーム内」「共同体」のことになるかなあ。 Wの文脈で読めば、ですけど。ただ、永井さんも言ってるけど、Wの哲学は、どんな現象どんな思想もとりこめてしまう(それを、決して否定してるわけではないと思いますが)特徴があるので、(何しろ人間の全ての活動は言語ゲーム、ひいては生活の形式ですから)Wに頼る限りここで「ジ・エンド」の危険があるように思います。 「われわれ」を一旦かたってしまえば、即座に言語ゲームが誕生しますからね。 卑俗なたとえですけど「正体見たり、枯れ尾花」と同じで、「われわれ」が最初から(カントなら「超越論的」って言うんでしょうか)存在するのではなくて、「われわれ」という語り出しをした時点から、存在するようになる、という考えはいかかでしょう。 ちょっと思いつきで混乱してますが。こうすると、Wがいった「存在の無根拠性」も含めて、破綻ない説明のように思います。 「他者」という存在があるのかどうか、ということは不問に付して、とにかく「他者を語る言語ゲーム」を創ることはできるわけです。僕らがやってるのもそうか。 「道具としての利用価値があるかな」って言ったのは、そういう意味です。 モンク『ウィトゲンシュタイン』の中に「ニコラス・バフチン」なる人物が出てきているのを見つけました。 きっとこれが「ニコライ」と同一人物ですね。やっぱりソ連訪問のくだりで出てきました。ありがとうございます。いやあ歴史潜行のくせに面目ないはっはっはっ アドルノは、齧るというのは不可能ですね。やるんなら全部読むつもりでとりかからないと無理そうだ。
113 :
11=OFW :2000/11/05(日) 09:04
>>111 (ぱんどらさん)
何と、まだ「可能命題」なんちゅうもんがあったのか!
普遍的規則は「可能な事態が同時に望ましい事態ならば、充足が導かれる。」
ということでしょうが、例を分析すると以下のような命題が出てくる。
「『200km/hで走る』のは可能だ」
「『200Km/hで走る』のは『車が激突する』ことを結果する」
「『200Km/hで走る』と『車が激突しない』とは両立不可能だ」
「『200km/hで走る』は『乱暴な運転』を含意している」
「『車が激突する』のは良くない」
「『200Km/hで走る』のは良くない」
間主観性に関して言えば、命題を言明にすることにより、相手の主観領域
が私にとっても対象的(共顕示的)になることから、いわゆる「言語ゲーム」
が始まるということでしょうか?
「おりゃー今夜は最高だぜい!!!」
「わたしはいまおっかな〜い。」
「えっ?何でやねん?」
「あなたの真は私の偽だからぁよ!」
「なぬ?(俺が嫌いなのか???)」
なんだか、大澤”真幸”流の『恋愛の不可能性』みたいな話になりそう…。
114 :
ハニバル・レクター :2000/11/05(日) 10:23
間主観性という現象学の概念について、かなり酷い誤解が柄谷行人 などによって蔓延しているようなので、少しだけ言わせて下さい。 間主観とは決して「われわれ」などということとは違います。 また、ある一定の文化や言語を共有している共同体ということとも 違います。 間主観とは、実はハイデガーの「世界内存在」という概念ときれいに重なって います。柄谷氏は意図的に共同主観という言い方をしますが、 A(私)がいて、B(あなた)がいる。で、間主観とはA・B(われわれという 共同体)であるというような子供みたいなことを言っています。 その上で、間主観には「他者」は存在しない、といって批判します。 ところで間主観という概念は現象学の文脈で語られるので、当然、 現象学の基本的な考え方が分かっていないと、決して理解できませ んし、説明するのも骨が折れますが、間主観性とは何ぞやということを ひとことで言えば、それは、B(あなた)の「視線」が、A(私)の「視線」 の触媒となるということです。 明確に言えば、B(あなた)は「他我」という概念に置き換えられますし、 「私」と「主観(主体」)の区別をしっかりする必要があります。 言い出しっぺはフッサールなので、興味のある方は『デカルト的省察』 の第五省察を。 失礼しました。
115 :
# :2000/11/05(日) 10:30
みなさんへの返答になります。 1.「わたし」を最終的にして始原的な根拠にすえた場合、 「他者」はどのように考えられるのか、もしくは考えられないのか。 2.「われわれ」を最終的にして始原的な根拠にすえた場合、 「他者」はどのように考えられるのか、もしくは考えられないのか。 3.「他者」を最終的にして始原的な根拠にすえた場合、 「他者」はどのように考えられるのか、もしくは考えられないのか。 それぞれについて私は知りたいですね。 どれにいちばん関心があるのか、と問われると あえて書けば3.ですかね。 どれかを選べるほど私はどれも分かっていない というのが正直なとこです。
116 :
11=OFW :2000/11/05(日) 10:44
>>114 (ハニバル・レクターさん)
>柄谷氏は意図的に共同主観という言い方をしますが、
>A(私)がいて、B(あなた)がいる。で、間主観とはA・B
>(われわれという共同体)であるというような子供みたいなことを
>言っています。
それは本当でしょうか?いくら何でもそんなバカげたことを言う
とは思えない。
117 :
# :2000/11/05(日) 10:49
>112。ミックさん。 「『正体見たり、枯れ尾花』と同じで 『われわれ』が最初から存在するのではなくて 『われわれ』という語り出しをした時点から 存在するようになる、という考え」(ミックさん)のように 「語ること」と「存在すること」の関係を捉えることに 私も関心があります。たとえば大森荘蔵さんの考え方など たいへん面白く思います。
118 :
# :2000/11/05(日) 11:18
>114.ハニバル・レクターさん。 2chというスペース、 つまり、読み手も多様でしかも短い文章しか書けないスペースで 書くことは私にとってはなかなか大変なことです。 異なる諸々の立場に「あえて」つながりをつけつつ 書くと、取り逃がす部分も多くなってしまいます。 さて「間主観とは実はハイデガーの『世界内存在』という概念と きれいに重なっています」という一文はたいへん興味深いですね。 くわしく説明してもらえるとありがたく思います。 最後のほうで「あなた」を「他我 alter ego」に置き換える と書いてありますが そのように述べるフッサール現象学から 積極的に取り出せる他者論について レクターさんに論じてもらえるとありがたいですね。
ああ、最近眺めてるだけで、全然着いてけないなぁ・・・。 ♯さん。 その、例えば、大森・・・を少し教えて頂けますか?
120 :
# :2000/11/05(日) 11:45
>119.quelq'un さん。 私もよく理解しているわけではありませんので 少しぐらいで良ければ所用を済ませたのち書いてみます。 つきましては大森さんの他者論ですか、 「語り存在」(あってるかな?)についてですか?
121 :
ネオ生茶 :2000/11/05(日) 12:18
他者は存在できない。
122 :
考える名無しさん :2000/11/06(月) 00:31
「他者」なるものが(本質的に)存在する/しないは実はあまり問題でない。 <私>の中にはつねに、<私>ならざるものが居着いてしまう。 <私>とは<私>が<私>と規定する以上・以外のなにものか をいつも抱え込んでいる。 それを<私>自身はどうにもできない。 (因みに、「私」の語を内部、社会、システム(系)等に置き換えるも可。) それが問題。
123 :
ネオ生茶 :2000/11/06(月) 01:20
>122 確かに他者が存在するかどうかは対した問題ではありません。 ところで<私>についてですが、存在者一般に当てはまるように思えます。 私に限定することに意味はあるのでしょうか?
124 :
122 :2000/11/06(月) 02:12
>ネオ生茶 好きな答えを選んで下さい 答え・1 わたしは、わたしの<私>について述べている。他の<私>(他の 存在者)については関知しない。 答え・2 限定はしていない。一般論から<私>という個別論に帰納して みせただけ。因みにわたしの<私>は永井均の<私>とは、 わたしの私と永井の私が違う程度に、違う。
125 :
ネオ生茶 :2000/11/06(月) 02:51
>>124 答え・3
「xはxならざるものを常に内部に抱えている」
のxは存在するものならばどんな値でも取りうる。
いわばトートロジーであり、従ってスレの趣旨にかなっているとも
そうでないとも言えない。
123の発言が読みにくいようでその結果誤解が生じています。
申し訳無い。
何を主眼としているのか明記せよとあなたは言っているのでしょうが、
今のところは永井均の<私>にかわる論を求めて考察中としか言えません。
確かに議論がかみ合わなくなってきてるから、この辺で今までの粗筋をまとめますか。
127 :
このスレの前半 :2000/11/06(月) 10:21
1〜40 かなり死にかけてます。まともな話題は、バフチンの「陽気なカーニバル」論が提出されたこと。でもこれについても、結局あまり詳しい内容説明や議論はなし。 ウィトゲンシュタインとバフチンの<他者>を比較しては、という意見も。 41〜49 ウィトゲンシュタインの他者理論における「命懸けの飛躍/暗闇の跳躍」についての説明と議論。 「言語ゲーム=共同体」とする柄谷の他者理論も登場。 なお、49ですでに「Wは発生論について論じていない」という指摘が出てます。 50〜61 僕が一人でシュッツについてモノローグしてます(笑)。完全に浮いてます。 64〜80 サルトル「他者の視線が私を凝固させる」のテーゼ登場。 それにたいして、柄谷他者理論から「サルトルの他者は結局同一言語ゲーム(共同体)内のモノローグ」という批判がなされる。 なお、67で初めて「間主観性」の用語が登場(「バフチンは間主観性を等閑にふした」)。この時は「われわれ、共通主観」という意味と同義で使われた。 後半のレスはややこしいから、また今度。
128 :
? :2000/11/11(土) 17:25
新たな展開を期待して、あげ。
後半まとめきらんのですけど。
130 :
OFW :2000/11/12(日) 04:41
「あなた(固有の他者)」と「他なる私」と「一般的な他者」とは相互 に区別すべきでしょう。個体発生的な自我意識はたとえばまず、 ア.「ソフィー」、「ママ」(固有名での応答) があり、それが イ.「あなたソフィー−私ママ」(直接的な指示関係) になり、次にその外化である ウ.「あなたソフィーの私−私ママの私」(自我の分裂、他我の成立) によって不安定になり、 エ.「あなた達ソフィの私−多く(ママ、パパ、くまのプーさん)の私」 (主観の複数性、他我の汎化) を経て、ようやく反省(反転)としての オ.「私にとっての私」(自我の同一性) カ.「(一般的)他者としての私」 という自我同一性と自我の客観化(社会的自己)が成立するのではないか。 いや、ちょっとした思い付き(マルクス価値形態論の応用?)ですが。
131 :
考える名無しさん :2000/11/13(月) 06:30
ネオ生茶とミックに期待してage
132 :
考える名無しさん :2000/11/15(水) 12:11
あげます
133 :
る :2000/11/15(水) 13:47
1:シュッツの「よそ者」が出るなら、 他者に関連して「多元的現実論」だの「ドン・キホーテ」が出てもいいような。 2:亡命者だのよそものうんぬんであればジンメルも是非。 「異郷人に関する補説(節だったか?)」が「社会学」のなかにあります。 この補説自体は短いです。本は厚くて嫌になります。 3:発生論(というか発達)なら、ミードはどうでしょ? レスをみる限り名前が出て無いようなので。 それっぽい話しはありますが。 このスレ面白いのでちょくちょくみてます。 お邪魔しました。
134 :
生茶 :2000/11/15(水) 21:56
なんかずっと下がっているので下げたままにしておきます。 私と他者というのは対の表現であり、 他者とは私ならざるものとして規定しても良いと思われます。 その前提のもとに様々なレベルが考えられます。 1.特定の人格、自我を指すのに使う。 他人が私と言うのを聞いて、個人名に置き換えることができる 2.特定の人格、自我とは無縁の私 自分のことを私と呼ぶとき、それは個有名で置き換えられない 私と他者が対を成すからには、特定の人格と結びついた他者、 結びつかない他者が想定できることを示しています。 これらは一般化されうる、つまり日常の言語使用において 適当な位置を占めている。 ここで話を少しだけそらしますが、 同一性の基準には二つある。一つは同じ種類ならば同一と言っても良いとする基準 もう一つは、何かが二つあるならば、それが同じであることはありえないとする基準。 自分のクローンが生成された時、それはある意味では自分と同じだが、 ある意味では違うと言いたくなると思います。 柄谷がいいことを言っていたはずなのだが、手元に著書が無いのが無念。 3.この私、「この」性(this-ness)に注目 私の固有性に注目すると、世界でただ一つ意識を持った存在として 私を規定しうる。世界の基盤であり、それなくしては世界が存在できないような存在者。 このレベルでは私の意識が問題にされることが多いようです。 事実として世界は独我論的であり、他人の心のなかも知り得ない。 この見解ではこの私は一般化されないはずなのだが、誰もが この私という表現を理解できると言うことによって、誰もがこの私なる存在になりうる。 そこから独我論、多主観論が生じます。 4.永井均のいう<私> この見解は純粋に構造論的です。 彼は<私>なる存在について語っているのではなく、 私という表現はどこまでも一般化されうるということしか語っていない。 <>はその一般化を無限に拒否するという機能を持つ記号でしかない。 従ってこのレベルでは他者の存在は無意味になる。具体的には「私の世界」の一部となる。 3までは有効な議論ができますが、4は無意味な議論しかできない。 ウィトゲンシュタインも青本の最後1/5ほどをこの議論に費やしていますが、 結局のところ、<私>という表現は言語内において確固たる位置を占めることができない ということしか語っていない。 「語り得ないことは沈黙しなければならない」という彼の信念のためか、 哲学探究においてこの議論は省略されているように見えます。
135 :
生茶 :2000/11/16(木) 12:14
訂正 l.4: その前提の下に様々な → その前提の下に私-他者に関して様々な 3.以下は自分でも読みづらいのですが、 読めないことも無いと思います。 あまり長くなるのも心苦しいので・・・。
136 :
OFW :2000/11/16(木) 21:42
>>130 の訂正
誤: エ.「あなた達ソフィの私−多く(ママ、パパ、くまのプーさん)の私」
正: エ.「あなたソフィの私達−多く(ママ、パパ、くまのプーさん)の私」
反射は相互的ですが、不等な相等性でしょう。
>>133 (るさん)
>発生論(というか発達)なら、ミードはどうでしょ?
「IからMeへ」という他者のパースペクティブへの転換の視点はその中間の
「我−汝」という対関係をどう取り扱っていたのか思い出せない。
議論が盛り上がってきたら、再検討してみよう・・・。
(とりあえず、何故か下げたままで)
>136 サゲるつもりがアゲてしまった。
さがってませんよ。
139 :
考える名無しさん :2000/11/20(月) 03:25
あげ。
140 :
OFW :2000/11/20(月) 06:27
>>134 (生茶さん)
>私と他者というのは対の表現であり、
>他者とは私ならざるものとして規定しても良いと思われます。
対というと、相対的存在という1次的な関係性ですが、それは相互的
(二重の同等な対)と補完的(二重の不等な対)に反照する、相互補完性
に発展するものでしょう。
「私−あなた」「あなた−私」は同等な不等性
「この私−そのあなた」「その私−このあなた」は不等な同等性(相当性)
>自分のことを私と呼ぶとき、それは個有名で置き換えられない
匿名性はプライバシー(私秘性)の原点であり、自分(個人)の「真の
名前」は特別な相手(結婚相手とか?)だけにしか教えないという民族も
あったそうですね。また、前の方のスレに出てきた、サルトルの「私の
視線は他者を凝固させる」とは主観(対自)と対象存在(即自)の関係で、
>柄谷さんが「なぜ猫の視線では凝固しないのだろうか」ともっともな批判
>を提出していましたね。
で言われている「言語ゲーム」(語ること)についてではないでしょう。
場合によって、人は猫の視線で凝固することもある。「猫が見ていた殺人」
なんてね。自己の内心を猫の目に反射させる訳。
>同一性の基準には二つある。一つは同じ種類ならば同一と言っても良い
本質的同一性(類種的同一性と言う人もいた)ですね。それは実体的同一
性になる。
>もう一つは、何かが二つあるならば、それが同じであることはありえない
個体的同一性ですね。それは主体的同一性になる。
><>はその一般化を無限に拒否するという機能を持つ記号でしかない。
どっかで聞いたような話だなぁ。永井氏ってひょっとして、…。
>ウィトゲンシュタインも…結局のところ、<私>という表現は言語内に
>おいて確固たる位置を占めることができないということしか語っていない。
だから、彼の哲学はかえってモノローグ的なのかな。私が語るのであり、
私を語ることはできない。が、語ることは何らかの形で自己を表わすこと。
141 :
生茶 :2000/11/20(月) 13:57
>>140 (OFWさん)
前言を全面的に撤回してしまいます。
今朝電車の中で考えていたことの方がよっぽど相応しいような気がするので。
>><>はその一般化を無限に拒否するという機能を持つ記号でしかない。
> どっかで聞いたような話だなぁ。永井氏ってひょっとして、…
永井氏がどうかしましたか?<私>が存在を示すのではなく、
一つの思考形式を示すものであるというのは、ウィトゲンシュタインの
著作からヒントを得たことです。たしか永井も言っていたかな?
我々は定義によって生じた思考形式と存在物とを混同しがちな気がします。
√2を例に挙げると、これは一つの数ではなく、2の平方根を求める数式だとみなすべきです。
(この辺数学を知らないので自信が無いのですが)
しかし一端√2という表記が定着すると、それは一つの数としてみなされるようになる。
哲学にはこの種の混乱があまりにも多いような気がします。
>だから、彼の哲学はかえってモノローグ的なのかな。私が語るのであり、
>私を語ることはできない。が、語ることは何らかの形で自己を表わすこと。
ある発言がモノローグかダイアローグかを決めるのは
発言者の意志によるものではなく、周囲の状況でしょうね。
その点ウィトゲンシュタインの発言がモノローグであることは無いと思います。
なぜなら彼の周囲には理解即賛成という軟弱な人物はいられなかっただろうし、
それ以前に彼の発言を理解しない人が多くて、
いちでも上手く説明する術を考えていただろうから。
ちなみにこのようなことを電車の中で考えていたわけではない
142 :
OFW :2000/11/20(月) 21:30
>>141 (生茶さん)
><私>が存在を示すのではなく、一つの思考形式を示すものであるという
>のは、ウィトゲンシュタインの著作からヒントを得たことです。
そうでしたか。誤解して失礼しました。私は別のことを考えていたようで
す。ただ、<>が一般化されることを無限に拒否する記号だというのは、
卓見でしょう。かってそれを実践した人がいた。
>我々は定義によって生じた思考形式と存在物とを混同しがちな気がします。
そうですね。つまり、「私」と言うだけで「私は存在する」のは自明だと
思い込んでしまう。
>発言者の意志によるものではなく、周囲の状況でしょうね。
なるほど。それも良く分かる。「聴く耳を持ち、見る目を持った人」には
彼の言葉が伝わり、その真意が理解できる、かな。
そういう点では、「他者に出会う」というのも難しいことになります。
「一人よがり」とは良く言った言葉であり、他者を知らない訳ですね。
ここでも、自己を知るには他者が必要だ、と言う真理が現れている。
しかし、どうして間主観性=共同主観性などと言う思想家がいるのか?
彼(ら)は多分、「一人よがり」なのでしょうか?
143 :
考える名無しさん :2000/11/22(水) 01:04
age
144 :
生茶 :2000/11/22(水) 12:25
先日柄谷の「探究」を買ってしまった。給料日前の貧乏学生には辛い出費だったが。 しかし、探究T・第一章「他者とはなにか」からして随所随所に誤訳があり、 全体として議論が錯綜している感じがする。 探究Tの前半における主題は「話す-聞く」関係から「教える-学ぶ」関係への移行だと言えるだろう。 その前段階として、同じ共同体に属する者との間では対話は成り立たず、 「共同体を同じくしない者=他者」に対してのみ「教える-学ぶ」関係として対話が成り立つ という考察がなされる。しかし、結果として彼の他者論は失敗している。 まず他者の例として出された外国人に対して、私は柄谷が期待するような他者性を 見出せなかった。外国人に対してしか「教える-学ぶ」関係が成り立たないというのに反して、 目の前の友人に対しても同様の関係が成り立つからである。 そもそも「話す-聞く」関係と「教える-学ぶ」関係との態度変更は話者が行うものではなく、 その場の状況に応じて変化していくものである。 友人との間に理解のずれが生じることなどよくあることである。 その際には友人との間で「教える-学ぶ」関係が成り立っているというべきであろう。 名も知らぬ外国人の発する音声に何らかの意味を求めてしまう限りにおいて、 同じ共同体に住むものとそうでないものの差は程度の問題でしかない。 そこに質的な差異はない。 共同体を同じくしない他者を想定するならば、植物くらいを持ち出さなくてはならないだろう。 草木が風にそよぐ様を見て、何かを訴えようとしている等と考えるものはいない。 外国人に対しては、翻訳の可能性が存在する。それはつまり、 既に「話す-聞く」関係が成り立っていることを示している。 植物のことを考えるならば、柄谷的な意味での他者が存在できない、 あるいは無意味な表現であることがわかるであろう。
145 :
生茶 :2000/11/22(水) 12:28
思いっきり既出でした。 なぜ、柄谷が失敗したかの考察に入るか・・・。 言語ゲームを所与のものとみなした点が元凶だとおもうが。
146 :
考える名無しさん :2000/11/23(木) 00:43
・e・<参加しま〜す!
147 :
考える名無しさん :2000/11/23(木) 03:28
・e・<自分の死、他人の死は他者論のキーワードではないのかなぁ・・・
148 :
ミック :2000/11/23(木) 06:28
>そもそも「話す-聞く」関係と「教える-学ぶ」関係との態度変更は話者が行うものではなく、 >その場の状況に応じて変化していくものである。 >友人との間に理解のずれが生じることなどよくあることである。 >その際には友人との間で「教える-学ぶ」関係が成り立っているというべきであろう。 外国人と友人は、「程度の差」でいいと思いますよ。 ただ外国人や子供みたいに思い切り規則が共有されていない例のがわかりやすいだけでしょう。単純化が柄谷さんの信条ですから。 Wは別に「外国人や子供しか他者ではない」とは言ってないと思います。ケンブリッジの彼の周囲はみんな多かれ少なかれ「他者」だったことでしょう。 >共同体を同じくしない他者を想定するならば、植物くらいを持ち出さなくてはならないだろう。 上のを敷衍すると、植物でさえ共同体に取り込めませんか。アニミズムでしたか?昔の人は植物や鉱物にも生命や人格(植格?) を認めていたと思います。アニミズムあやふやな理解で不安ですが。 大森さんも『流れとよどみ』の中で「ロボットを共同体に取り込んではいけないなどという理由は見つからない」と言ってましたね。 あるいは、精神病的なご婦人で、人形を自分の子供と思って服を着せたり、料理を作って食べさせてやったり(食べさせる振りですが)していた場合、 その人形は彼女の世界(共同体)の立派な一市民と言えないでしょうか。彼女が話し掛ければ、人形はちゃんと返事をするのです。昔高校の参考書で、そういうご婦人についての文章を読みました。 Wはこういうアニミズムを認めるかな。認めそうだな。 あと、『探求』の誤訳ってどこですか。
149 :
ミック :2000/11/23(木) 06:32
>√2を例に挙げると、これは一つの数ではなく、2の平方根を求める数式だとみなすべきです。 これは生茶さんが自分で考えたんですか? すごいですね。形式主義と直観主義の対比ではないですか。 野矢さんの『無限論の教室』(講談社現代新書) 佐々木さんの 『科学革命の歴史構造 下巻』(講談社学術文庫) に、この二つの主義が詳しく解説されてます。Wとも縁が深い主義です。両方とも。 入りやすさで野矢さん、正確さで佐々木さんです。ぜひどうぞ。
150 :
考える名無しさん :2000/11/23(木) 07:30
>自分の死、他人の死は他者論のキーワードではないのかなぁ・・・ 是非それをキーワードにして語ってくだされ。
151 :
# :2000/11/24(金) 00:14
>147. ・e・さん、なかなか興味深いテーマです。 さて・e・さんが他者論と書かれるとき 例えばひと・もの・ことなどなど 何に対する他者を想定されているのでしょうか?
152 :
# :2000/11/24(金) 00:15
>147. ・e・さん、なかなか興味深いテーマです。 さて・e・さんが他者論と書かれるとき 例えばひと・もの・ことなどなど 何に対する他者を想定されているのでしょうか?
153 :
生茶 :2000/11/24(金) 03:01
>>147 (・e・)
私は、私の死、他人の死の違いから永井に入りました。
>>148 -149(ミック)
ご指摘の、植物さえも言語ゲームに取り入れられるかどうかは
ウィト的な文脈ではありえないことです。
初期の言語ゲームの概念は、日常言語を単純化したものとされていた。
あたかも単純な言語を複雑化すれば日常言語に至るかのように。
探究においては、単純だが、それ自体で完結した言語体系として想定されている。
それで様々な考察の結果、「言語にはどんな規則もありえない」
という結論が提出される。
問題なのは、何の根拠も無いのになぜ人々の言語はその使用において
一致しているのかということだ。
それに対して、生活様式が共有されているからだという回答が出され、
それが言語ゲームだと呼ばれる。
注意しなければならないのは、ここで生活様式(言語ゲーム)なる規則が提出されたと
勘違いしてはならないということである。
生活様式という概念は、何の根拠も無いのに根拠付けられているかのように見える
言語行為を、何とか説明しようというぎりぎりの倫理的要求から出されたもの。
生活様式と言う概念はその曖昧さから様々な誤解が生じている。
言語にはどのような根拠もありえないというのは
ありとあらゆる無意味な根拠付けが為されうるというのと同義である。
規則と、それを共有しない他者といった文脈で語られる以上そこには誤解が見られる。
どのような行為も根拠付けられるとウィトがいうのも、決して偶然では無い。
√2の例は、√2は有理数か無理数かという問題を解く際に思いついたものです。
それ以前にウィトの、科学者は新たな定義付けをしたことによって
新たな発見をしたと思いこんでいるという批判を読んだことがあったからです。
野矢さんの「心と他者」は読みました。(哲学の謎も)
論旨が明快で、その上高度な考察が為されているので、
アスペクト論など興奮しながら読んだのを覚えております。
ただ、論理的な躓きが一箇所見られたような気がする。
(永井が批判しそうな種類の)
うーむ、結局柄谷の犯した誤訳について語れなかった。
また後ほど。
154 :
ミック :2000/11/24(金) 06:32
なるほど、Wは確かに我々が普通使う日常言語を主として頭において『探求・・・・・・ちゃう探究』の議論を進めているのは事実です。 でも彼は身振りとか書かれた文書もその日常言語の中に入れて考えているのでは。 W自身の文章では、ちょっと僕もそれを示す例がわかりませんが、わりと多くの研究者がそう解釈していたようです。 という前提を受け入れてもらえば、動物の身振りや鳴き声を私の言語ゲーム内に翻訳することもできるでしょう。 植物が風にそよぐ様子も、(以下同文) と、説得したら、Wは納得しませんかね。 それとも、アニミズム信仰や、ロボットに人格を認めるか、という問題は言語ゲームとは別個の問題と考えるべきなのか。 生茶さん自身はどう考えますか?やはり植物や鉱物は、言語ゲーム内に取り込めない「他者」でありつづけると思いますか? だとすれば、アニミズムやロボット問題をどう考えますか。 もし動物には、言語ゲーム内への翻訳可能性があって、植物や鉱物に翻訳可能性がないのなら、その違いはどこに存するのでしょう。 (と、強引に生命の問題に結び付けてみる。) 僕は、人間にはそれこそ森羅万象を(人でも動物でも人形でも植物でも鉱物でも)内面化する力(まさに生きていくための能力と呼んでいい気がします)があると思います。
155 :
ミック :2000/11/24(金) 06:34
読みづらいですね。寝ぼけたまま書いたので。 すいません。
156 :
生茶 :2000/11/24(金) 11:39
>>154 まず、柄谷の失敗とは何か、それがなぜ失敗といえるかについての
私の見解だけを簡単に述べます。
彼の失敗は
1.任意の共同体を設定した事(任意の他者の設定でもある)
2.日常言語を言語ゲームの例として挙げている。
の二点である。
これのどこがおかしいか。
2.については、言語ゲームはその定義上、閉じたものであるのに
日常言語を任意の例として挙げていることである。
ただしこの点については、彼の不注意によるものだと言えば十分であろう。
生活様式という表現から、容易に日常言語が思い浮かぶから。
しかし1に関しては、ウィトが批判した当のものを
柄谷は主張していると言える。
ここでウィトの文脈において、言語ゲームがどのような性質を
持っているかを確認しておこう。(この言い方は矛盾している)
結論だけを簡潔に纏めるが、
1.特定の言語ゲーム内において、その言語ゲームを根拠付ける
規則は存在しない。
2.特定の規則によって根拠付けられる言語ゲームは存在しない。
となる。
あらゆる規則が存在しないという異常な状況においては、先の結論は次のように言い換えられる。
1'.言語ゲームの根拠付けは、あらゆる仕方でなされうる。
(それらの試みは全て無意味である)
2'.あらゆる任意の言語ゲームが想定されうる。
(それらの試みは全て無意味である)
ウィトの提出したこの結論から、柄谷の言語ゲーム=共同体を見ると、
任意の言語ゲームを設定している点において矛盾している。
ウィトの結論ではあらゆる言語ゲームが想定されるのであり、
実際に柄谷が設定する言語ゲーム内において、
別の言語ゲームが(原理的には無際限に)設定されうる。
従って「規則を同じくする共同体」は、どこにも存在できないのである。
(その規則の中にあらゆる規則を設定できるから)
以上で終わり。
ただしこのスレは他者についてのものだから
他者は存在できないという結論を出すのはやめて、
柄谷が他者論の前提として提出する「同一の共同体に属さないもの=他者」
という観点について少しだけ書こう。
私は、<他者>論に陥らずに他者論を展開する可能性を
ここに見出している。どういう事か。
日常言語のなかに「我々」という表現があるが、
この表現を使用する際、その使用において仮想の共同体が
設定されていると言えないだろうか。(我々が誰を指すのかは
明らかでないとしても。そして、その場限りの共同体でしかないとしても)
つまり私は、我々に対する「彼ら」という表現から他者論を展開できないか
と考えているのである。
誰かこの観点から語ってくれぬか・・・。
157 :
ミック :2000/11/24(金) 19:11
ふむふむ。 いくつか質問が浮かびますが、とにかく続きをどうぞ。
158 :
ぱん"どら" :2000/11/24(金) 21:01
>>149 ミックさま、お話中失礼します。
お話を拝聴してついお聞きしたくなりました。
無限の解釈について、それは無限に分割する処理をさして直感主義といい、
無限に分割された実体を認めるのが形式主義とすれば、例の自然数論は
不完全であるという議論の証明において
対象数の可能関数が証明できる、かつできない、ゆえに不完全である、
という導出式は直感主義において「D∧¬Dは恒偽である」とはなるのでしょ
うか?
2の平方根をもとめる、とどうなるという可能命題は結果を実体として
捉えてはないように見受けられます。
なれば矛盾律は成立せず背理法は使えないのでは、といった訴えがございます。
何卒、ご感想を・・・。
159 :
・e・ :2000/11/25(土) 01:40
議論の先行きがちょっと不透明になってきたので 改めて問題提起をしたいと思う。 つまり 「なぜ他者が問題となるのか?」 「他者論の必然性とは何か?」 「他者を問題にすることによって、何の問題の処理が目されているのか?」 などなど。 ちなみにハッキリと他者論を哲学的な問題にしたのはヘーゲルでしょうが 英米系の倫理学、というか功利主義では他者問題は前から問題になっていたように思う。 ホッブズあたりがそうだろうが、これは政治的な脈絡もあるので詳しいひとお願い。 でまぁホッブズやヘーゲルすっとばかしてフッサールの話をすると、 彼が相互主観性とか他者とか問題にしたのは、主観なり自我による超越論的な道具だての限界の自覚から。 要するに「私」だけじゃダメだと。でも相互主観性の話は失敗するんだよね。原−自我とかなんとか ワケ分からん方向いっちゃって。
誰かレヴィナスの話してよ・・・
161 :
・e・ :2000/11/25(土) 01:52
このあたりから言わば存在論的なレベルでのコミュニケーション論から 他者が問題となってきたんだろう。代表格はハイデガーと後期ヴィトゲンシュタインで どっちも或る共同体内での言語行為を問題とした。 結局両者において他者は、或るコンセンサスの成立、という問題を巡ってるように思う。 レヴィナス、デリダにせよハバーマスにせよ、 このコンセンサスの成立条件に的を絞るわけだけど、 背後には政治的、倫理的な必然性がプンプンしている。 ハバーマスのコミュニケーション論の背後に東西ドイツの冷戦構造があったのはよく知られているよね。
162 :
・e・ :2000/11/25(土) 01:58
で、今なぜ他者論なんだろう。 ちなみに僕が他者の死に注目するのは、異なった共同体以上に 異なった「世代」の問題から。要するに「過去」や「歴史」をどう扱うかということ。 で、死と再生、忘却と回顧という対向概念をある種弁証法的に運動させることによって いろんなインタージェネレイションの問題が処理できないかな、と思ってるけど、 まだまだ妄想段階なのでお忘れ下され。
163 :
生茶 :2000/11/25(土) 02:26
>>162 私が他者に注目するのは、意識的な解釈を行う事こそが
自-他関係の根源では無いかと考えているからです。
これも妄想段階ですが。
164 :
考える名無しさん :2000/11/25(土) 02:51
>これも妄想段階ですが。 永遠に妄想です。実験をしなければ話になりません。 とりあえず物理を知らずに世界を語るのは現実離れした空論です。 無限の仮定、思考より湧きでる概念に踊らされるだけです。 実際に何千年も同じ事を議論しているだけではありませんか。
>>158 (ぱんどら)
え〜、「自然数論は 不完全である」「対象数の可能関数」
・・・・・・僕にはわけわかめな言葉です。数学疎いです。ごめんなさい。
ただ、直観主義(直感ではないです。)は、可能無限を選択することで、排中律(Aかまたは notA)を放棄します。
このことと「D∧¬Dは恒偽である」という矛盾律と何か関係があるあかもしれないですが、僕にはなんとも。
お役に立てずすいません。
>実際に何千年も同じ事を議論しているだけではありませんか。 見てきたようなこと言いなさんな。・e・ さんの書き込み読んだだけでも他者論にかなりの変転があることがわかるだろうが。 物理が世界の全てを描き尽くしても人生の問題は手付かずに残る、とWに倣って言っておこう。 脳に電極嵌め込んで人生の問題も全部解決、楽園回帰できるなら物理まんせーだけど。オウムになるなよ。
167 :
ミック :2000/11/25(土) 07:38
>>162 (・e・)
>で、今なぜ他者論なんだろう。
今って他者論は注目集めてるのすか?僕は哲学や社会学や心理学の流行には詳しくないので申し訳ないです。
少なくともここでは人気ないですね。
>で、死と再生、忘却と回顧という対向概念をある種弁証法的に運動させることによって
>いろんなインタージェネレイションの問題が処理できないかな
あえて、「死と再生、忘却と回顧」を材料に選ぶ理由は何だろう、と考えてみて、ほとんど共通の経験のない世代の間でも、この二つは絶対に共通する経験だからだろうか、と思いました。
違ってますかね?
あと「弁証法的」というのは、僕はヘーゲル全然な人間(註:それ以外の哲学も全然です)ですが、これは・e・さんが、どこかに到達すべき理想状態を想定している、と受け取って良いのでしょうか。ヘーゲルでいうと「正反合」の「合」の部分でしょうか。
「問題が解決できれば」という表現を見ても、やはりそう受け取れます。
あとまあ、蛇足というか極私的なことなので、読み流してくれればよいのですが、僕がWに惹かれた理由を。
一言で言えば「なぜ人間はわかりあえないのか(わかりあえていないように思うのか)」の疑問です。なんだか引きこもりやオタクみたいでアレですが。でもこの板に来る人ならある程度わかる感覚ではない?
その意味では、後期よりも前期Wや論理実証主義やヒルベルトやヒトラーのように、腕力でもって理想状態を創出しようとした人たちに親近性を感じます。
もちろん全員失敗したのですが、でもそこに救済への意志があったことを認めるのに吝かではないです。
僕は、基本的に後期Wも、救済(理想言語)への意志が通奏低音に流れていると考えて読んでいます。彼は写像理論は放棄しても理想言語への志向は放棄しなかった、というのが僕のスタンスです。
長くなりました。
168 :
OFW :2000/11/25(土) 08:28
>>162 (・e・さん)
>死と再生、忘却と回顧という対向概念をある種弁証法的に運動させることに
>よっていろんなインタージェネレイションの問題が処理できないかな
人は誰も自己(個体)の死を体験できない。他者の死を目の当りにして自己
も仮死的そして必死的存在であることを知る。それは有限者としての個人の
自覚になる。それは実存的問いになる。一方、子は親になり、他の子を生む。
それは自然的かつ社会的な歴史を形成するが、記憶は直接伝達されない。
人間が単なる種ではなく、類であるのは、個人が過去に囚われずに全く新し
く生を始めることのできる自由な主体であるからだが、それは忘却(ヘーゲ
ルは忘恩的と言う)による。しかし、実体的な歴史は運命として個人を襲う。
たとえば、「ヒットラーなんて知らないよ」と言っていたアバンギャルドの
世代も、その子供の世代になって「民族浄化」と言う言葉に、かってのホロ
コーストの記憶を呼び覚まされる。そうなると、「問題を処理する」ために
は、忘却ではなく、唯物論的な社会認識が必要になる。
「人間は歴史を作る。しかしそれを知らない。」人間が真に類的な主体
(共同的かつ個体的)として生成するまでは、社会は実体としていつまでも
背後にとどまったままでしょう。
・・・妄想につられて妄想の追加。
しかし、「ベンヤミンの自死」「ハーバーマスの裏切り」は何故なのか?
>>168 誤:仮死的 正:可死的 (ゴメソ。いや、ママでも良いかな)
170 :
生茶 :2000/11/25(土) 09:26
長々と書いてしまいましたが、柄谷への批判は結局のところ、 1.議論の空間として日常言語を持ち出すのはあまりにも不用意である 2.「言語ゲーム」が誤訳されている という事に尽きます。 この辺りは実際に「哲学探究」(ウィトの)を読んでもらえばすぐ明らかになるところだが、 彼は『哲学探究』の20における外国人の地位を誤解している。 決して「規則を同じくしないもの=他者」という図式を否定するものでは無い。余談になるが、規則が無い事に対する驚きとか、規則を共有しない他者なる 存在への驚きとかは、ウィトには皆無である。 われわれがウィトの議論から読み取りがちなこの種の驚きは、 ウィトにとっては、無意識的な実践と意識的な理論を混同してきた 従来の哲学への不信でしかない。
171 :
怒素人 :2000/11/25(土) 09:30
>168 >人は誰も自己(個体)の死を体験できない これが気になる 常識的にはそう思われてるが果たしてそうでしょうか? 確かに死んだ人の体験談などないのでなんともいえない ですが、少なくとも死んでみるまでわからないんじゃ ないでしょうか? 電波だ厨房だ言われそうですが
172 :
生茶 :2000/11/25(土) 09:47
>>171 臨死体験の事を言っておられるのでしょうが、
臨死体験は死の体験とは違うでしょう。
173 :
164 :2000/11/25(土) 12:19
>ミック つまり、物理学で解決できない問題であると認識しているのですな? 物理学で解決できないということは、実証不可能という事です。 永遠に机上の空論の域を出ないのです。つまり永遠に妄想です。 >見てきたようなこと言いなさんな 哲学やる人は自分が新しいことをしていると思い込みがちだが 分かっているだけで三千年はある哲学の歴史であなたは本当に 過去の議論とは違う話をしているのでしょうか? それはあなたの傲慢であると考えられます。
174 :
ミック :2000/11/25(土) 12:46
なるほど、その通りだね。馬鹿なこと言ってこめんよ。許しておくれ。
175 :
生茶 :2000/11/25(土) 12:47
>173 >物理学で解決できないということは、実証不可能という事です。 この部分が理解不可能。 164の発言を読む限り、 実験と、それに対する物理学的解釈とを同義としてみているように思えるのだが。 実験というものを理論の検証方法として考えならば、 理論に適した実験の方法というものを考慮しなければならないはず。 哲学理論が常に物理学的実験によって実証されなければならないというのは 実用的ではない信念ではないか。>哲学やる人は自分が新しいことをしていると思い込みがちだが >分かっているだけで三千年はある哲学の歴史であなたは本当に >過去の議論とは違う話をしているのでしょうか? ミックサンは実例を挙げて反論しているのだから、 あなたも具体的な例を挙げてみてください。 そうしなければあなたの主張が実証されたとみなすわけにはいきませんから。
176 :
考える名無しさん :2000/11/25(土) 12:53
およ?
177 :
164 :2000/11/25(土) 13:13
>物理学的実験 これは実証的な実験という意味です。 >実験というものを理論の検証方法として すなわち哲学理論が検証(実証)不可能であるということです。 以上のことが何を意味するかといえば、実証主義が全てであるとは 言いませんが、何をもって進歩したのかという基準がない、 ということです。あなたはどうして、ある議論を幼稚であるとか より高度であるとか言えるでしょうか? >あなたも具体的な例を挙げてみてください。 これはあなたが探してください。仏教哲学、インド哲学で 見つからない議論はほとんどありません。 >ミックサンは実例を挙げて反論している どれが実例なのか分かりませんが。 “・e・ さんの書き込み”でしたら、それが新しいあるいは 進歩した議論であるという証明は(私には)できません。
178 :
ミック :2000/11/25(土) 13:54
まあまあ、ご両人熱くならずに。 え〜生茶さんは、170でかき終わられたようですね。 まだ「植物や鉱物はどうすんだ」質問の答えを書かれるつもりかもしれませんが、ここまででちょっと質問をまとめました。
179 :
ミック :2000/11/25(土) 14:10
まず
>>156 の生茶さんのレスへの質問。
ささいなことかもしれませんが、語句説明してもらえますか。
1.「任意の」と「あらゆる」はどう異なるのでしょう。Wは「あらゆる」言語ゲームを設定し、柄谷は「任意の」言語ゲームを設定した。
それによって柄谷とWとの見解は大きくかけ離れてしまうなら、この二つの語句の差は非常にデカイと思われます。
2.「定義上言語ゲームは閉じたもの」と生茶さんが言う時の「閉じた」の意味は何でしょう。もう少し他の言葉で置き換えるか、具体例を出して説明していただきたいです。
僕は最初「言語ゲームに関与する人間の数が有限」の意味なのかと思ったのですが、でも「言語ゲームの例に日常言語を挙げるのは不適切」というその後の生茶さんの文章を見ると、
むしろ「言語ゲームは一回のプレイ毎に終了がある」の意味かと思い直しました。20節の「赤いリンゴを5つ買ってこい」の例で言えば、命令を受けた人が八百屋でリンゴもらって、命令した人に渡せばめでたくゲーム終了になるわけです。
大森さんなら、「言語劇」第一幕の終了、では引き続き第二幕・・・・・・と言うところです。こっちの意味でしょうか?
180 :
ミック :2000/11/25(土) 14:40
今度は >>170 の生茶さんのレスへの質問。 「余談になるが、規則が無い事に対する驚きとか、規則を共有しない他者なる 存在への驚きとかは、ウィトには皆無である。」 このように断言できる理由は何でしょうか。存在の無根拠性への驚きがWの哲学の動機という論は数多く聞くように思うのですが(最近ではWとハイデギャを結びつける人も珍しくないようです)、それに真っ向から反対するこの意見の「根拠」はどこでしょう。(自分の哲学の根拠を問われていると聞いたら草葉の陰のWは・・・・いやいや考えないようにしましょう) 「神秘的なのは世界がいかにあるかではなく、世界があるということなのである」(論考6・44) 「或るものが存在する、という驚きについて考えてみよ」(学団 97p) という言葉をどう考えますか。『論考』や『学団』といった書物と、『探究』は断絶していると考えますか? 確かにWは『探究』で「私は行為するときに根拠なんか気にしない」と放言するようになりますが、それは彼の思索の「結果」だったと僕は思っています。 やっぱり最初は世界や存在の無規則性に驚いていたんではないでしょうか。 訂正;先の書き込み。 『探究』の20節は、「赤いリンゴ」ではなく「石版」の例でした。ま、含意は同じなのでいいでしょう。
181 :
171 :2000/11/25(土) 18:07
>172 臨死体験ではないつもりです あまりにも素朴な考えですいません
182 :
・e・ :2000/11/26(日) 00:04
>ミックさん >あえて、「死と再生、忘却と回顧」を材料に選ぶ理由は何だろう、と考えてみて、ほとんど共通の経験のない世代の間でも、この二つは絶対に 共通する経験だからだろうか、と思いました。 違ってますかね? あと「弁証法的」というのは、僕はヘーゲル全然な人間(註:それ以外の哲学も全然です)ですが、これは・e・さんが、どこかに到達すべき理想 状態を想定している、と受け取って良いのでしょうか。ヘーゲルでいうと「正反合」の「合」の部分でしょうか。 「問題が解決できれば」という表現を見ても、やはりそう受け取れます。 説明ありがとうございます。僕の言いたいコトが簡明に書かれてて、ちょっとビックリ(笑)。 でも僕にも分からない、というより、この場合はあまり早急に理解しないほうがいいんだろう。 何をかというと、自分や他者の死について、だね。 人間はあまりに個人的に死んでいく。それは相互に共有し得ないものだ。 だから死や再生にまつわる「理想」や「イデオロギー」など笑止!!敢えてそれを語るのであれば、 ミニマムに表現するしかない。 じゃあこれは世代間の共有事項に決してなり得ないかというと、僕はそうは思わない。 絶対的な距離の自覚は、これはこれでリッパな共有の在り方だと思うんだけど、詳しくはまだ分からんね。 人間関係にしても、僕らは互いに別離の可能性を背後に抱えたまま、そういう関係を持ってる。 というより、事務的で機械的なツルツルベッタリの関係性よりも、そういうフラジルな関わりのほうが よっぽど人間的、あまりに人間的な表情を持ってるような気がする。 ・・・・・はて、俺は何を言ってるのか。
183 :
生茶 :2000/11/26(日) 03:29
>>179 -180
「閉じた」の説明をせよと言われるのは予想していましたが、
まさか「あらゆる」と「任意の」の説明を求められるとは思いもしませんでした。
ここでの「あらゆる」、「任意の」は日常的な用法で書いたつもりです。
即ち、「考えられる限りすべての」、「その例が成り立つならば、その他の例も
例外無く成り立つような」という風によんでもらえればよいです。
ウィトは、言語に規則など無いという事から、逆説的にどんな規則も想定できる
と言ったのであり、柄谷は、考えられる限りの規則体系の寄せ集めから、
議論の材料として日常言語を取り出したということ。
ウィトと柄谷の見解の相違は、彼らの為した事に起因するのではなく、
言語ゲームと言う概念に対する態度の違いから生じたものです。
私が以前141で書いた、思考形式と存在物を混同するという
過ちを柄谷は犯しているように思えます。
(これも以前書きましたが、探究の議論が錯綜しているように感じるというのは
この誤った態度が第三章「命がけの飛躍」において訂正されているからです)
「閉じた」は、ある言語ゲームに関わる人間が有限であるというよりは、
その言語ゲーム内で使用される言語が有限であるというような意味です。
一義的な規則によって解釈されるというのを「閉じた」と書きました。
ここで謝っておかなければなりませんが、
ウィトが言語ゲームと言う概念を提唱した時と、
様々な考察を終えた時とにおいて言語ゲームの性格が変化しているにも関わらず、
それに無頓着な発言がなされているようです。
(今のところ議論の流れに影響無いようですが)
根拠が無い事に対する驚きをウィトも持っていたはずだと言われるならば、
それに反対はしません。私が言いたいのは、
ウィトがそうした驚きから哲学を始めたのだとすれば、
後期の哲学においてそうした驚きは語られないであろうということです。
後期においてと私は言いましたが、(前記の著作は目を通す程度にしか読んでいないので
それについての発言は避けますが)中期の代表作とされる『青本』から
『哲学探究』までの間に、ウィトの哲学は洗練されてきています。
具体的に(しかし簡単に)言おう。
中期における、言語をその使用から考察するという姿勢は
普段自動的に発せられているかのように見える言語だけを取り扱おうとするものであり、
(この態度変更によって、様々な「哲学的困惑」が取り除かれる)
実践と理論を厳しく分別する後期の哲学に通じるものが見られる。
後期においてはその態度は極度に洗練され、
もはや日常言語だけを問題にしようとする呼びかけさえも語られなくなっている。
そうした態度をとる限り、何らかの理論に対する驚きは持つことさえ
許されない。(「何の規則も無い」という理論に対して驚くのは不自然な行為である)
これを読んでも理解するものはいないはずだから、また今度書きます。
読みづらいのお
185 :
# :2000/11/26(日) 23:51
すいません、・e・さん、ここをもうちょっとくわしく語っていただけませんか? >死や再生にまつわる「理想」や「イデオロギー」などを >語るのであれば、 ミニマムに表現するしかない。
186 :
ミック :2000/11/27(月) 23:54
・e・さんへ >死や再生にまつわる「理想」や「イデオロギー」などを >語るのであれば、 ミニマムに表現するしかない。 僕もここは詳しく聞きたいです。 生茶さんへ ご解答ありがとうございました。 1番目の「任意」「あらゆる」についての解答 >ウィトは、言語に規則など無いという事から、逆説的にどんな規則も想定できる >と言ったのであり、柄谷は、考えられる限りの規則体系の寄せ集めから、 >議論の材料として日常言語を取り出したということ。 >思考形式と存在物を混同するという 過ちを柄谷は犯しているように思えます。 は、せっかく説明してもらったのですが、僕にはそれでもわかりませんでした。「思考形式」って何でしょう。Wは前期では「論理形式は語りえない」と言いますが、その「形式」とは別物ですか。 後期でWが形式について言及している文章を、僕は知らないのでそのせいかもしれませんが。 2番目の質問の「閉じている」の意味はよくわかりました。ですが、僕は少しこの表現は誤解を招く「ヤバイ」表現の気がします。 確かにWは、言語数が限定された単純なモデルを言語ゲームの例として議論しますが、しかしその言語ゲームは、最終的には我々が用いる言語の、果てしない大海へ通じているものだと思うからです。 大昔、人類が言葉を使いはじめてから、ある時点において数えれば、それまで使用された言語の数、ひいてはプレイされたゲームの数も必ず有限です。 でも、それは人類の使う言語が有限ということを即意味しません。どの時点においても、可能性としての無限が想定されてよいでしょう。可能無限です。人類が絶滅したらジ・エンドですが、あくまで可能性として。 だから、僕は言語ゲームも、Wが転換期に影響を受けた可能無限の概念を下敷きにしていると考えたいのです。数学の無限についてあれこれ考えたWが、言語については有限主義を無批判に受け入れたと考えるよりも、説得力があるように思えるのです。 そのようなわけで、柄谷さんのように言語ゲームを共同体の類似性によって語ることは、生茶さんとは違う理由で僕には二つの点でヤバイと思うのです。 1.共同体という言葉が「規則の前提された社会」を連想させる(まあ、これは僕の共同体についての思い込みのせいかもしれない) 2.共同体は、本当に「閉じて」しまう。事実柄谷さんは「共同体=言語ゲームは閉じた領域」と言明している。 誰だったか忘れましたが、「Wは言語の大海へ漕ぎ出すことよりは、敢えて戦略的に浅瀬をボートでこぎまわることを選んだ」みたいなこと言った人がいましたが、Wの言語ゲームへの態度を説明したものとしては、これが一番妥当だろうと、今は思っています。 うーん、スレッドの主旨をかなり外れてしまいました。ちょっと迷惑ですね。Wスレをageて書いたほうがよかったですね。ま、いいや。
何も省略されていないので「ここ」は押さなくていいです。
言語について有限という場合は、「数が有限」の意味だけでなく、その他の含意も入れたほうがよいかもしれない。でもまだよくわからない。 スレの主旨からかなり外れてすいません。
189 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/11/28(火) 00:41
・e・<ごめん、今超忙しいので、水曜日移行まで待って(涙)・・
190 :
考える名無しさん :2000/11/28(火) 02:01
>閉じている 系に外が無い、あるいは外から独立だから閉じている、 といってんではないかい?
191 :
ミック :2000/11/28(火) 08:53
そういう意味だとすれば勘違いですねえ。それは言語ゲームが無根拠という方の意味ですか。 「外から独立」っていうか、言語ゲーム(生活様式)に「外」はないのだと思いますが。一元論みたいなものですから。
待ちの姿勢
193 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/12/01(金) 02:22
・e・<死のイデオロギーの典型は例のホロコーストだと思う。 関係ないけど今日テレビ見てると、映画「バトルロワイヤル」の話をしていて、 どうやら最近の中、高校生は他人の死の意味が分からないから、敢えて啓蒙(?)の意味で 残酷な内容を映画として公表したとか何とか、そういう発言が耳に入った。 ずいぶん余計な御世話だなぁと感じたわけ。んなもん分からないし「理解」するようなものかなぁと。 死は平等に訪れるもんだから。 そう、ミニマムに語りたいてのは、大げさに表明すべきもんじゃないっってことかな。 ヒトラーは要するに、ヨダヤ人は今こそ「死すべき時期にある」ってイデオロギーをぶったんだ。 随分余計な御世話だな、って感じるわけ。 まぁ、「死」については他のスレッドで話するからこの辺で(笑) 言語ゲームに限らず「閉じてる」とか「内と外」というのは微妙な問題ですね。
194 :
考える名無しさん :2000/12/01(金) 16:56
他者を具体的に想定できますか?
195 :
考える名無しさん :2000/12/01(金) 16:57
そんでもって、他者を云々しようとする時、主体ってのはどうなりますか? 他者と主体は常に一緒の問題なような気がしますが。
196 :
考える名無しさん :2000/12/01(金) 17:18
>他者と主体は常に一緒の問題なような気がしますが。 なぜ、どのように他者と主体が一緒の問題になるかを詳しく書いてもらえるとありがたい。
197 :
考える名無しさん :2000/12/01(金) 22:30
(1)自己は他者から見れば他者。 (2)自己は自己から見れば自己。 (3)他者は他者から見れば自己。 (4)他者は自己から見れば他者。 (1)(2)は成立するが、(3)(4)は成立しない。 なぜなら、他者は「主語」にはなりえないから。 (1)はパースペクティブが他者の側にある。 (2)はパースペクティブだ自己の側にある。 (2)には当然、他者は出てこない。ゆえに問題外。 だから、(1)しか残らない。 だから、他者が現れるのは、自己が他者にとって見られる 存在(被視存在)であるときだけである。自己が他者に視線 を向けた途端、他者は消失する。
198 :
考える名無しさん :2000/12/02(土) 17:23
他者は主語になりえないのはなぜか? そのことによって他者を欠いているのでは? また、ここの文脈では他者そのものより他者性こそが問題なのでは? それはとなりの人にもあるし、自己のうちにもある。
199 :
考える名無しさん :2000/12/02(土) 19:45
独我論の完全性のため他者は主語にはなりえない。主語になっている他者とは その実、自己にすぎない。だから、主語になるのは自己のみである。勿論、 単なる文法上の表現では自己以外のものでも主語になれる。 ここでの主語とは、「主体」のことである。独我論は自己以外に主体がない ことを告げる。 (1)のように、視線の権利を自己から他者に譲渡する限り、他者は現れる。 他者性とは、他者の属性(異和性)である。ゆえに、他者性は他者そのものの問題でもある。 自己は自己にとって異和的ではない。ゆえに、異和性は他者そのものの到来なしにはありえない。
200 :
考える名無しさん :2000/12/02(土) 23:42
自分しか存在しないと言う人が、なぜ他者について語れるんでしょうね。 独我論には他者という概念は存在しないはずでしょう。
201 :
考える名無しさん :2000/12/02(土) 23:43
自分しか存在しないと言う人が、なぜ他者について語れるんでしょうね。 独我論には他者という概念は存在しないはずでしょう。
202 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 00:09
>201 誰もが「自分」だろ。だから、独我論は完全。 自分とは違う自分を他者とすれば、独我論と他者論は 矛盾しない。 自分しか存在しないならば、「誰もが自分」とすればよし。
203 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 00:12
独ガロンには何種類かあるんだよね。
204 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 00:14
独我論に閉じ籠もってないで出ておいでよ。なかにはやさしい人だっているんだから、さあ。
205 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 00:24
>誰もが「自分」だろ。 そういうのは「独我論」ではなく「世間の常識」というのよ。 「独我論」には複数の「我」が登場してはいけないのよ。 だから結局、矛盾に陥るわけよ。
206 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 00:55
>205 なら独我論自体が複数あれば、我は複数化されるわけだ。 人口ぶんだけ独我論があれば、複数の「我」は可能。 各個人が独我論的前提をそれぞれもてば、独我論とは矛盾せず、 複数の自我は成立するだろ? もっともその際、独我論的前提が災いして、複数の自我の間の「交通」 は遮断されるだろう。しかし、もともと「他者」とはそういう「交通」の 不可能性を指す概念ではなかっただろうか?
207 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 00:59
まず他者ありき。他者がなければ自己はない。幼児が自分のことをまるで他人のように何々ちゃんと呼ぶことがあるが、これは自己が内面化されてないせいである。自己は経験的に獲得されるものであり、またそれは他者と未だ自己となってない自分との相対化によって生じるのである。そしてその過程は忘れ去られいつしか自明のものとなる。ためしに自分以外に誰もいない世界を想像してみるとよい。そこでは自己という概念はもちろん、言葉すら発生できないのである。
208 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 01:27
>207 >幼児が自分のことをまるで他人のように何々ちゃんと呼ぶことが >あるが、これは自己が内面化されてないせいである 本当か? 他人(親など)の使う自分の呼称をそのまま自称に 使っているだけではないのか?
209 :
何の役にも立たない横やり :2000/12/03(日) 01:38
発達心理学では幼児に所謂「自我」はないとされています。
210 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 01:47
自他混融の世界なんて、原始共産制社会みたいに単に遡及的に見いだされる 仮説なんじゃないの? 幼児期の記憶などは、親や児童心理学者によって遡及的に見いだされるもので、 幼児本人にとっては「記憶」などは実のところは存在しない。 だから、幼児本人にしてみれば、記憶がない以上、他者が存在したかさえ不明である。 それゆえ、不明である以上、幼児を主語にとって「はじめに他者ありき」とは言えない。
211 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 01:48
自他混融の世界なんて、原始共産制社会みたいに単に遡及的に見いだされる 仮説なんじゃないの? 幼児期の記憶などは、親や児童心理学者によって遡及的に見いだされるもので、 幼児本人にとっては「記憶」などは実のところは存在しない。 だから、幼児本人にしてみれば、記憶がない以上、他者が存在したかさえ不明である。 それゆえ、不明である以上、幼児を主語にとって「はじめに他者ありき」とは言えない。
212 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 01:51
>208さんへ それが自己がないってことの証明になってますよ。
>>206 >なら独我論自体が複数あれば、我は複数化されるわけだ。
>人口ぶんだけ独我論があれば、複数の「我」は可能。
>各個人が独我論的前提をそれぞれもてば、独我論とは矛盾せず、
>複数の自我は成立するだろ?
「複数の「我」は可能」とか「複数の自我は成立するだろ?」という
言い方自体が「独我論」を否定しているわけよ。
214 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 02:09
>210、211さんへ 忘れないでください、この幼児とはわたしでもあり、あなたでもあるのですよ。そしてそれは仮説ではなく、より身近な経験です。
215 :
208 :2000/12/03(日) 02:14
>209 それは知っている。私の理解では「自己がない」のではなく、 「自己と他者の区別がない故に自己という概念を持たない」だったが。 私の体であっても「自分」である部分とそうでない部分の区別は 曖昧であるから、世界のどこまでが自分でどこからがそうでないかの 区別の高度さは順当だろう。と思う。 >212 「私」という自称も誰かが教えることによって使うように なるとすれば、どちらも他人から与えられた自称であって 「私」という言葉を使うようになったからといって自己が 確立したということにはならないのではないか?
216 :
212 :2000/12/03(日) 03:34
>208=215さんへ 答えないのも失礼なのでもう一度くり返しますが、あなたのいってることと私のいってることは反しないのです。ただし私が問題にしてるのは、自己の確立についてではなく、自己が他者に支えられているということです。
217 :
考える名無しさん :2000/12/03(日) 06:56
他者=SEXの相手
218 :
考える名無しさん :2000/12/04(月) 04:36
・e・<議論の行方があやしくなってきたな。 ループしないでもうちょっと原理的に考えよう。 なぜ「他者論」なのか。 この問題の想定によって何の解決が目されているのか。
219 :
考える名無しさん :2000/12/07(木) 04:45
解決というよりは、問いが深まるっつうことだよね。
卒論あとひとふんだばりじゃ・・・・・・
221 :
OFW :2000/12/09(土) 14:01
>>218 (・e・さん)
>なぜ「他者論」なのか。
他者を巡る問題圏としては、
1.自己は他者と切り離せない以上、「私とは何か」を知るために
「他者とは何か」を知らなければならない、という点。
本来の社会的自己の存在論の視点。
2.自己のアイデンティティが他者を排斥すること(排他的)に
結びついていることが実に多いのは何故か、という点。
たとえば、民族差別による自己(自国)の存在価値の確認。
あるいは、劣等意識を更に弱いものに対するいじめで補償しよう
とする風潮。
3.たとえばミードの社会的自我に決定的に欠けているのは、
「疎外された社会(人間)」の視点であり、一般的他者でしかない
近現代の個人の疎外の根拠は何か、という点。
日本でも、「(他)人並みの生活、幸福」と言うように、他人を
目指し、自己を目指さない没主体的な生き方が流行る。
「標準的人間」などは、自己としての他者ではなく、他者としての
自己(自己疎外)でしょう。
と言った所でしょうか。
222 :
なべさん :2000/12/09(土) 21:06
動機は何であれ議論はできるのでは。学問としての哲学ならば。
223 :
考える名無しさん :2000/12/09(土) 23:34
武藤香織タン、、、ハァハァハァ、、、
224 :
・e・ :2000/12/10(日) 06:05
なるほど。1はどうも生産的ではなさそうだけど、2、3は面白そうだ。 いじめ問題だと教育学、民族差別だと政治的な文脈、自己疎外だと・・・何だろ。 マルクス主義というより、最近の生命論理や環境哲学における新型の功利主義かな。 まぁいずれにしても「他者」概念をあれこれイジるより、 ここの差し迫った問題を具体的に解き分けていく中で、質感をもった他者について考えるべきだな。
225 :
考える名無しさん :2000/12/10(日) 12:38
その流れに抗して、ひとつ質問。 言葉に内包されてしまう他者に関しては如何お考えですか? 言葉というのは基本的には他者を排除する動きですが、 紡げば紡ぐほどそこに他者が生じてくる。
226 :
・・・ :2000/12/10(日) 13:16
言葉の限界、その範外にある何かがあることは確かだと思います。 言葉によって他者を規定する事、そのこと事態が自らにその表像を 与えてくれる…。 言葉に限界は、人の限界となるのでしょうか…。
227 :
考える名無しさん :2000/12/10(日) 18:23
言葉もまた他者なのだ。
いきなりラカンまで入ってきたか。
229 :
考える名無しさん :2000/12/11(月) 05:27
・e・<すいません225−227理解できないんですが(笑)
230 :
考える名無しさん :2000/12/11(月) 05:56
和田アキ子は他者じゃねーってのか、ゴルァ!
231 :
考える名無しさん :2000/12/12(火) 05:44
232 :
考える名無しさん :2000/12/15(金) 16:45
さようなら。
233 :
考える名無しさん :2000/12/15(金) 18:59
三段論法(理性推理)は以下のような推理である。 すべての人間は死ぬ。 ソクラテスは人間だ。 ゆえに、ソクラテスは死ぬ。 ここではソクラテスは「個」であり、人間は「種」であり、 死ぬものは「類」である。 つまり三段論法とは「個」「種」「類」の相互媒介過程である。 ところで、レヴィナスがいうように、他者性とは「種・類的同一性」 に還元されない個体性を指す。 しかし、今見たように、三段論法では、「個」は「種・類」のうちに 還元されている。つまり、三段論法は「個」の他者性を消去してしまう。 だから、やはりこういう点からもわかるように、他者性の擁護は 形而上学(理性推理=三段論法)批判としてしか果たされないことが わかる。 以上は当たり前のことの確認であった。失礼。
234 :
考える名無しさん :2000/12/18(月) 09:41
こんにちわ。
235 :
ナナシ :2000/12/18(月) 15:30
言葉の他者性ってのも確かに面白そうですね。発達論で言うと、自分の言語は他者(父、母、etc...)の言語の模倣の結果獲得される、というのがありますね。ここからラカンにつながる。 東のデリダ論なんかによれば、そもそも言語の媒体である音声や文字もまた主体の制御を超えたある実体であり、その意味で他者である、という感じになってますが。
236 :
理系19才 :2000/12/19(火) 11:19
「他者の心」は論理的に存在しない。しかし、われわれ人は 現実には「他者の心」を認識してしまうようにできている。 論理的にありえないものを、どのようにわれわれは認識しているのか? また、どうして「『他者の心』という観念をもつ個体」が進化の上で淘汰を免れる 有利さを持ったのか? その有利さは、これからの生命進化の過程でどのように 発展していくのか? それは何に向かって進んでいるのか? などと考えてみる。
237 :
吾輩は名無しである :2000/12/19(火) 17:19
>「他者の心」は論理的に存在しない。 こんなの初めて聞いた。ほんとにそうなの?! おれが無知なのか。 手数だけどちょっと「他者に心がないこと」を論理的に証明してみせて。 「他者に心がないという主張を論理的に反証することはできない」なら外出だよ。
238 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 17:28
森喜朗にも心はないのか?
239 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 17:31
無くは無いが名無しさんに関心はないだろ。
240 :
毒蛾論者 :2000/12/19(火) 17:53
>>236 あなたの主張はむしろ逆では?
「理系19才」さんは少なくとも「他者の心は存在しない」
と主張する自分自身は存在していることを
前提していますよね?(でなきゃ自己矛盾)
では、その「自分」という言葉は、「自分でないもの」が
存在しなければ、そもそも有意味な単位ではないでしょう?
論理的には、もし「私」が存在するのなら、
その「私」という人称代名詞は「あなた」や「彼女」
といった「他者」を前提としなければ
そもそも何の意味作用もありません。
独我論スレにもありますが、「他者の心が存在しない」
という主張は、本当に信じるなら、そもそもその
主張を「論」としてカキコすること自体がナンセンスになる。
だからむしろあなたの主張をちょうど逆転させて
「論理的には心ある他者を想定せざるをえない。
しかし現実には必ずしも自分の心(内的経験)を
認識するようには他人の心(内的経験)を認識できない」
というのが日常的にわれわれが経験していることですよね。
ただし個人的には、この事態もなんら「問題」ではなく、
「疑似問題」にすぎない気がします・・。
241 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 18:20
向井まきおは宇宙へいって「他者」 になったと夢想したそうな。
242 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 18:37
向井さんぶさいく過ぎ
243 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 18:43
向井夫婦の無重力SEXはすごそ〜〜
244 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 18:44
普通テレビにでないというだけであの程度の不細工はごまんといるぞ。
245 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 18:51
向井亜紀はどうよ?
246 :
理系19才 :2000/12/19(火) 21:23
えと、理系19歳です。こんばんは。 236のレスの前半3行は、金沢 創「他者の心は存在するか」P23 からの引用です。彼の主張は次レスで引用します。 何分理系なもので、哲学は疎いです。彼の本読んで、なるほどそのとおりだなあ と思ったんですけど、なんかダメなんですかね。ご教示ください。 ところで236の後半が僕のレスの要点だったのですが、皆さんどう思われますか。 けっこう面白い観点だと思ったんだけどな。興味ない?
247 :
金沢 創「他者の心は存在するか」P4より引用 :2000/12/19(火) 21:26
仮に今、私の脳とある他人の脳をつないでみたとしよう。どのようにつなぐ のか、という大問題が存在するが、この点はクリアーされたと仮定する。一 見すると、この状態で、まさに私は他人の痛みを感じることができるように 思われる。しかしよく考えてもらいたい。「他人の痛み」を私が感じた、と いった瞬間、それはすでに「私の痛み」なのだ。その痛みの出発点がどこで あろうと、「痛み」を感じているのはやはり私である。私は、単に、他人の 体のどこかに痛みを感じているにすぎない。 ここに、「痛み」を含めたあらゆる感覚とは、私が感じるものであり、私が 感じていないものは、感覚とは呼ぶことができないという、単純な定義の問 題が理解される。「他者」は私ではない。感覚とは私のことである。よって 「他者の感覚」つまり「他者の心」とは、概念の定義上、矛盾している言語 表現であることがわかるだろう。「他者」とは、「私」にとって、その感覚 世界を定義上感じることができない存在であるということだ。
248 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 22:15
>21 「ある行為は善である」といったとき、それは善は普遍的に存在するものだ という想定がなされています。ヘーゲルの弁証法はそのような絶対性を 打ち砕く可能性を開いたと解釈すれば良いでしょう。
249 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 22:17
>248 これは「悪の善なる目的への利用は善か」 へのスレ違いでは?
250 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 22:18
あんた、すれ違いだよ!
すんまそ
252 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 23:08
>>247 「私が感じていないものは感覚とは言えない・・」
誤謬だな。
むしろ逆でしょ?
他者に正当化しえなければ「私的感覚」は存在しない。
253 :
理系19才 :2000/12/19(火) 23:14
>252 え、なんで?わからないです。 素人にわかるように噛み砕いてほしい、、、
254 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 23:23
>253 えーと、噛み砕いて・・は難しいですが 私が「感覚」することが可能なのは そもそもある言語ゲームに参入して はじめて可能ですよね。 その言語においては「私」にしろ「感覚」にしろ 発話状況によって相互に相手と立場を交換可能 なものです。 その相互変換が不可能ならいくら「私には しかじかの独特の感覚がある」といっても それを確かめたりする独立の基準が無いので 結局無意味な主張になります。
255 :
考える名無しさん :2000/12/19(火) 23:31
254はよさげ。 わたしにはおっけだった。 だけど、 どんなわからずやにも 忍耐してがんばるのが哲学者のつとめ。 がんばってね
256 :
理系19才 :2000/12/20(水) 00:30
ふむう、なるほどなあ。 どうもありがとうです、254さん。 なんとなく(アホなんで未だなんとなく)わかりました。 で、「何故『他者の心』という概念を得た生物が生命淘汰を勝ち抜けたのか」 はどう思われますか?興味ないでしたらもう口閉じますけど。 アメーバには他者も自己もないですよね。 進化は本能や走性から思考へと発展してきたわけですが、他者と言う概念は あきらかに思考(というか、より高次なもの)の産物です。 未来、より進化を遂げた生物はさらに高次の概念を獲得するのでしょうか。 それはどんな概念なんだろう。知り得ないけど知りたいなあ。
257 :
考える名無しさん :2000/12/20(水) 00:39
19さい!!! ほれ だまされてるよ がんばってつっこみな! 哲学板のれんちゅうは ばかばかりだってこと ちゃんと ゆってやんな!
「私的言語が不可能」は僕も、254さんの説明でOKだと思うけど、 でも「私的『感覚』がないのか」と言われたら、断定できないと思うんだな。 「私の中には他人と互換できない感覚Xがある」という命題も偽と証明できるかな?
259 :
考える名無しさん :2000/12/20(水) 01:03
私的言語は 他人に正当化というか、それと認知されなければ 詩的言語たりえないだって??? だけど、それじゃあ、他人に正当化されてしまえば、 そのとたん私的でなくなるぞ?? たんなる一般言語の特殊例になるぞ?? とはいえ、私的言語はただ個人的に、内的に存在する とはいいにくい、、、そうであることの確証の手立てがみつからないと いうべきか。。。
260 :
ミック :2000/12/20(水) 01:16
>>256 理系さんの説は随分多くの仮定を必要とするように思うのですが、とりあえず質問の答えとしては「協働ができるから」ではダメですか。
これは生き残るためには大きな利点では。
261 :
考える名無しさん :2000/12/20(水) 01:19
>だけど、それじゃあ、他人に正当化されてしまえば、 そのとたん私的でなくなるぞ まさにその通り。だから私的言語はない。 正当化という言葉は不適切。ゲームが成立するという点が重要。
262 :
理系19才 :2000/12/20(水) 01:33
>ミック そうですね。それは大きな利点ですね。 しかし、こうして進化して、哲学を生み、他者の存在を懐疑するに至る。 この流れは協働に反しますよね。哲学は生命淘汰においてどう作用するのだろう。 他者を懐疑する思想は今後どう発展していくのでしょうね。わかりませんね。 お邪魔しました。
263 :
考える名無しさん :2000/12/20(水) 01:39
たぶん、他のもの との協働または協働可能性の中でナイト 他のものへの懐疑、他のものとの懐疑、他のものに関わる懐疑を もつ意味がない。
264 :
考える名無しさん :2000/12/20(水) 02:31
>>258 「他人と言語によって互換できない感覚」は、もはや「語りえないもの」に属してしまいますね。
ですがウィトゲンシュタインならそれこそを価値あるものと評価したかもしれません。
265 :
考える名無しさん :2000/12/20(水) 02:41
>ですがウィトゲンシュタインならそれこそを価値あるものと評価したかもしれません。 ここごめ なんで?ヴィトたんはそうおもの?しってる?
266 :
考える名無しさん :2000/12/21(木) 02:59
あげ
267 :
生茶 :2000/12/22(金) 16:57
理系19才さんの論点はおそらく
「他者はその定義上存在できない」という事、
及び、それにも関わらず他者という観念が生じるのは何故か
ということですよね。
>>247 で挙げられている文章は奇妙なことに、
私が独我論を目指すきっかけになった思想そのものです。
他者は存在できない、だとしたら何故他者という観念が生じるか?
この問題を解くためには、規則とその実践というウィトの哲学の
主要部分が関わっているのではないかと考え始めています。
独我論を説く永井が、ウィトの規則の問題にも言及するのは決して
偶然ではない。
うまくいくかどうか不明ですが、その九割方が無意識的に実践されている
日常生活の中で、規則というものを設定したくなるのはなぜなのか、
ということをこの場で考えてみたいです。
268 :
生茶 :2000/12/22(金) 16:59
うまくいけば、「他者とは何か」という問いが 問われてはならない問いであるということが示せると思う。
訂正:他者は存在できない→他者の存在は日常生活においては、まったく問題にならない
270 :
考える名無しさん :2000/12/22(金) 17:13
生茶言葉使いが丁寧になってるぼ どうしたん?
271 :
生茶 :2000/12/22(金) 17:15
? 普段と変わりませんが?
272 :
ミック :2000/12/22(金) 23:42
お、生茶さんだ。 理系さん、まだ見てるかどうかわからないけど、「生命淘汰」仮説に沿って、もう少し答えてみます。 まず。今までの流れ。 仮定A「この世界では、環境によりよく適応できる生物が勝ち残る」。 仮定B「今、勝ち残っている人間は、『他人の心を想定する』という能力を持つ」。 仮定A、Bより、定理a「『他人の心』を想定する能力は、環境適応に有利な機能である。」が導かれる。 しかし、一体、この能力は生存競争の中でどのような役に立ったのか? これが、一番最初の理系さんの質問だったと思います。合ってますか? でもこの推論の時点で一つ妙な気がします。『他人の心想定能力』は別に役に立たないトマソン的能力である可能性が、上の推論からは否定できないと思うからです。 もし否定するならここで 仮定C「生物は、生命淘汰を勝ち抜くための能力「のみ」を身に付けている」という仮定も導入する必要があると思います。 で、この3つの仮定を受け入れたところで、僕は「『他人の心』能力は、『協働する』能力を生み、生命淘汰の武器となる」という答えを返しました。 それに対して理系さんが、「しかしこの能力は逆に人間同士の不和を招く結果にも陥っているのではないか。これは生命保存の目的に反するのではないか」という疑問を出しました。 ここまでは、合ってるでしょうか?
273 :
ミック :2000/12/23(土) 00:01
訂正:最後から4行目で「人間同士の不和」ってかいてますが、理系さんはそこまで強く言ってないですね。「人間同士を懐疑的にさせる」か。 この最後の質問に対する答え方は、いくつかあるように思います。 1.仮定Aをハード・コア(核心)にするなら、「いや、人間懐疑的になるのも、結局生命保存に有利に働くんだよ」と、全て「生命淘汰」説でくるみこむやり方。ややうさんくさい。心理学によくあるドグマ的解決。反証不可能。 2.仮定Cを誤りとするやり方。こちらの方がまっとうかと。 2.つまり、「人間には生命保存を目的としない能力も持っている」ことを認める。なぜまっとうと思うか、というと、現実がそうだからです。 人間個体は、生命保存だけを目的に活動していないというのが、実際の現実だと思います。そうでなければ自殺に美を見出したり、SMに走ったり、タバコすったり、毒のある植物を「妖しい美しさ」とか称えたりしないと思います。 要するに、人間の価値判断や、物事にたいする意味付与を支える根拠(ベクトル)は、無数にある(裏を返せば無根拠)というのが現実だと思います。 浅田さんぽく言うと「人間は意味の過剰を病む動物」(他の人の言葉かもしれない)ということです。 理系さんは、どうも、人間も他の動物と同じように、価値判断の基準は一つ(生に有利であるか否か)と想定しているみたいですが、そこの仮定が違うのではないか、と。 長くなりましたが、いかがでしょうか。
274 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/12/23(土) 01:52
定義そのものが言葉であり その言葉からどうしても漏れ出てくるものという意味で「他者」を使う。 しかし、その言葉の限界?を示すことでしか「他者」は表し得ない。
275 :
理系19才@トマソンってなに? :2000/12/23(土) 14:24
>ミック(272)さん 毎日見てますよー。 えと、たぶんその流れで間違いないと思います。 とりあえず「人類が最も適応能力の高く、進化した生命体である」というのを前提にしときましょう。 もちろん一概には言い切れませんが、議論してく上ではとくに問題ないと思いますので。 勝ち残る=適応能力が高い でいいですね? 定義づけしときましょう。 で。僕は、『他人の心想定能力』は仮定Cを導入しなくても『適応能力』であると言えると考えます。 『他人の心想定能力』は予想能力であり、それは捕食者と対峙する被食者の・厳冬に備える蟻さんの、 本能や学習の高次なものであると思うので。 というか、走性→本能→学習→思考という進化の流れがあって、他者想定は少なくとも学習より 高次段階の所産ですよね。だから。というのは単純すぎるかもしれませんが。 長いスパンをとれば人間が進化の袋小路であるかもしれないのだけど(暗鬱)。
276 :
273 :2000/12/23(土) 14:26
>ミック(273)さん 1ですね。上記の理由から、他者想定が懐疑に発展し協働に反する(前提)のも 何がしかの適応能力ではないか、が、例えば? というのが僕の立場です。反証不可なところを何とか発展につなげたい。 >人間個体は、生命保存だけを目的に活動していないというのが、実際の現実だと思います。 種として見れば、発展・繁栄を基本的には追っていると言えるのではないでしょうか。 自殺は劣等個体、SMは愛情表現の一形態(殺さないし)、と言えなくもないでしょう。 煙草は致死性低すぎますし。最後の例示はよくわからない。 そもそも個体単位での行動は議論にあたいしないのでは? 問題は人間という「種」が 生存本能を持っているのに何故? という点です。 進化に迷走はつきものですし、現状は種全体が自爆気味なので 「ホントにそうなのか?」という気にはなりますが(もう一度暗鬱)。 ああ、なんか自家撞着おこしてそうだなあ。視点の移動が一番論点をずれさせますからね。 ロジカルな思考に弱い未成年に倦むことなく、引き続き御教示くださいませ。ではまた。
275は理系19才です。失敬。
>理系さんへ このスレの流れからずれたので、新スレ建てました。
279 :
考える名無しさん :2000/12/29(金) 20:39
久し振りあげ
生茶さんの書き込みが、あれから気になって「任意の」と「すべての」を数学の教科書で調べたけど、やっぱり「両方とも同じ意味」だった。うーん。
281 :
Kunt=Cunt :2001/01/07(日) 18:10
age
遂に地下スレ化
283 :
いいよ、このひと。 :2001/01/11(木) 21:31
284 :
OFW :2001/01/16(火) 02:03
お久しぶりです。このスレも地下入りになったりして、飽きられてきたのか な? 他者に関する思索が自己に関する思索に比べて流行らないのは、やは り、自我の確立が弱いためかな。それは、日本特有の事情か、あるいは大衆 の時代(マスとしての人間)である20世紀以降の事情か。「他者を知る」 ことは「自己を知る」必然的な契機でしょうから、より議論を深める必要が ありそうですね。このスレでも他者に関するさまざまな視角、論点が飛び 出してきたが、それは、文学的、論理的、倫理的、言語論的、生物進化的、 社会存在論的等々に亘って「他者とは何か」について哲学的な反省が求めら れていること、しかし関心がとかく拡散しがちであることを示している。 と言うことで、まだまだ続けるのが宜しかろうと…。レスにはレスを。
285 :
考える名無しさん :2001/01/16(火) 23:30
>>284 OFW さんが他者論についての啓蒙をしつつ
また新しい人材の発掘を兼ねて
しばらくホスト役をすれば
安定したレスが見込めるのでは?
「他者を知る」ことは「自己を知る」ための
必然的な契機であることを
ヘーゲルのロジックを借りて
具体的に論じてみるのも面白そうですね。
286 :
生茶 :2001/01/18(木) 14:14
完全に死んでいた…。 しかし復活。 どうやら私が書こうとしている事は他者論とは言い難い事が判明。 ウィトゲンシュタインの規則論を勉強し直した後、 もう一度書いてみようかとは思うのだが。 ただし現時点で結論は出ている。 それは、永井が主張するように、他者は<私>の存在を足がかりにしてしか到達できないといったような事だ。 しかし、永井はこれ以上の事を別の箇所で書いていた。 こいつを考えないと、結論を出せない…。
このスレで得た教訓:「Wをきちんと読まないとダメだ」(笑 というわけで、遠回りですが、Wスレを立てました。他者と共同体のテーマは捨てませんよ。
>>286 >>287 ふたりの姿勢に共感をおぼえます。
他者とは語りうるものであるというよりはむしろ
語りえないことで他者は他者たりうるのならば、
自己(的なもの)を「足がかり」にし「遠回り」することでのみ
いえ、自己を「足がかり」にし「遠回り」することによってこそ
他者が他者たる理由を浮き彫りにできるように思われます。
これからの展開が楽しみです。
289 :
生茶 :2001/01/19(金) 03:30
ただし、このスレで途中まで進んでいた議論については
細々と続けていくつもり。
さすがに寿命の尽き掛けたスレを上げる気にはならないが、
地下スレででもやっていくだけの価値はあると思われ
>>288 全くその通り。あなたの語り方では他者論に何の価値があるのか、
と言った議論に発展する可能性があるが、
他者論は哲学の生み出した一つの誤解であるといった結論に私は達しつつあります。
>>287 「共同体を同じくしない者=他者」を批判しようとしたのが、私の誤りだった。
というのも、上の表現は既に何らかの他者観を持っている者に対してしか有効に機能しない観念であり、
それ故に、上の表現は意識的に新たな問題を設定しようとする試みだったと断定すべきところであったから。
「それ故に」以下を言い換えるならば、
上の表現は既に持っている観念をこれまでとは違った用い方で使うことによって
これまで気付かれなかった問題があるかのように見せているに過ぎないからである。
他者論の本当の問題は、他者という言葉を使用できると言う事実から、
他者なる者が存在するという結論を容易に引き出してしまう我々の言語行為の中に在る。
>>289 ウィトゲンシュタイン風に言うならば、
他者論という「ハエ」に「ハエ取りツボ」からの「出口」を
教えてあげるというアプローチをするということでしょうか。
ベルクソンならば、「錯覚」を取り除く
と言うのかもしれません。
「他者論に何の価値もない」について
よく吟味された考え方があるとするならば、
その考え方を追思考し、さらに追い抜くことができれば
「他者論に価値がある」ことがかえって際立つかもしれません。
もしかしたら、このような追思考こそ
西洋哲学の古典を読んでいくことなのかもしれません・・・?
言語は社会的なもの(公共的なもの)であり、 このような言語の<他>として 「純粋持続」(ベルクソンが本来的な時間とみなすもの)は 論じられています。 純粋持続について論じるベルクソンの思考を 「言語にとっての他者論」という切り口から 読み直していくのも面白そうです。
「廃墟はこの花咲く子供たちの母親で、 この彩り豊かな生き生きとしたものは、 過去の瓦礫から養分を得ているのです」 (ノヴァーリス『青い花』岩波文庫)。 廃墟スレッドというのも あんがい良いものかもしれません。
もちろんこの物語で母親(たち)は死んでいるのですが・・・。 「それにしても子供たちがちゃんと成長するのに、 母は死ななければいけないのでしょうか。 そして父親は母の墓のそばで永遠の涙に暮れて、 ひとり坐っているのでしょうか。」(同上)。
294 :
生茶 :2001/01/23(火) 18:11
>>289 で、「共同体を同じくしない者=他者」の観念は、すでに何らかの他者観を持つ者に対してしか機能しないと書いた。
言い換えるならば、「共同体外部の他者」観は、すでに成立している他者観をわざわざ言葉で表してみようという試みの一つである。
他者についての議論は、既に知っている事を新たに定義しようという試みに過ぎない。
次のように言う人もいるだろう。
「既に他者観が成立しているというならば、それは言葉で説明出来るはずである。
誰もが満足のいく他者論が今まで存在しなかったということから、我々の他者観がしっかりしたものでない事は明らかだ」
ここには、ある観念を持つということ、何かを考えること、知っているということについての二通りの解釈の混同があるように思える。
他者についての議論はひとまず置いて、その二通りの解釈の違いとやらをまず明らかにしよう。
ここに足し算だけならばどんな複雑な計算でもできる幼稚園児がいたとする。
ただし彼は他の演算が出来ないため、自分のやっていることを相対化できない(足し算のやり方を説明できない)
そいつの算術の知識に対する態度は二通りに別れるはずである。
1.彼は確かに足し算の知識を持っている。でなければ計算は出来ない。
2.彼は足し算の知識を持ってはいない。自分に対してさえ説明できないのであれば、
自分の演算結果が正しいかどうかさえも彼には不明なのだから。
295 :
生茶 :2001/01/24(水) 02:09
296 :
生茶 :2001/01/25(木) 00:04
今は他者との関わりについては触れないことにします。 まずは、何かについての知識を持つ、観念を持つということを扱っていき、 ウィトの議論も活用しながらある知識観をうち立てることを目的としています。 このスレでの最終目標は、他者と私の間には何らの相違点も存在しないこと、 それにも関わらず、<私>だけが特別な存在であることを考察することです。 その際、ウィトの議論の一部、私的な規則についての部分と、感覚言語についての部分を 評価できる足場がないといけないと感じたので(あくまでも直感ですが) その足場作りとして今は知識論っぽい議論を扱うわけです。
297 :
考える名無しさん :2001/03/10(土) 04:02
age
まだあるじゃん。
299 :
考える名無しさん :2001/04/28(土) 02:30
まだまだ
もういいよ
301 :
考える名無しさん :2001/04/28(土) 05:55
いまさら他者もなあ
電通大・中島義道の講義「他者理解の哲学」の聴講をお勧めしますよ。
303 :
1 :2001/05/03(木) 22:00
宇野邦一『他者論序説』なんかは、私としては良かったんですが。
304 :
無礼講 :2001/05/03(木) 23:15
題名だけ書くな
305 :
考える名無しさん :2001/05/09(水) 02:13
306 :
考える名無しさん :2001/05/09(水) 23:39
他者は達者か?
>>302 くわしく知りてぇぇぇ。どこにあんの、電通大。
308 :
考える名無しさん :2001/06/21(木) 11:14
309 :
考える名無しさん :2001/07/19(木) 14:04
age
310 :
WIZARD’S筆頭WIZ :2001/07/19(木) 15:10
哲学にもならないなら喋るな
311 :
考える名無しさん :
2001/07/21(土) 17:15 「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」