唯物論について

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1プレハ−ノフ
駒場の科学史の教授で元全共闘現トロツキストの佐々木力が書いた「マルクス主義科学論」を読んだ人いますか。
この本ではレ−ニンの「唯物論と経験批判論」がクソミソにけなされています。
我々の意識とは独立に自然が存在する、という健全な主張を自称哲学者の多くはバカにしますが、
では人間が生まれる前には世界は存在しなかったのですか?
2>1 :2000/09/06(水) 09:40
自称哲学者は、認識=世界だと思ってるから、そういうドキュソ
なことを言うんだよ。人間の意識とは独立な世界があるが、人間
には、それをフィルタのかかった認識を通してしか議論できない
んだということにすぎないのにね。
実質的には、どちらの見方も峻別不能なように思えるが、しかし、
人間の認識の仕方は、現実に、我々の世界観がこの数世紀で大き
く変わったように、時代と共に変化しうるわけだ。しかし、過去
の世界が現代の世界とは別物であったかというと、そうではない
わけだからね。やはり、世界は認識とは独立に存在するのだよ。

3代理いぬ :2000/09/06(水) 09:52
>2

おお、その通り。
私もそう思うよ。
4ボグダ−ノフ >all :2000/09/06(水) 11:10
>>やはり、世界は認識とは独立に存在するのだよ

これはドグマです。我々に与えられているのは意識だけなのに、
どうやって意識の外にある世界の存在を証明できるのか。
5ルナチャルスキー :2000/09/06(水) 12:06
>4

おお、その通り。
私もそう思うよ。
6:2000/09/06(水) 12:35
聞き飽きたよ、その言葉。>2
原理的に証明できないからといって、意味がないわけでは
ないよ。逆に、意識に従属して世界が「変わる」という反証
なら原理的に示すことは可能だが、実際その反証が出ないか
ぎりにおいては、俺は唯物論を信じるよ。それで、何の不都
合もないからね。(っていうか、好都合だから。)

神は存在しないという命題も、神の存在を示す反証が出る
までは、信じるしね。同じことだよ。

それとも、君は、「神の非存在」は証明できないから、神
は存在すると「信じる」のかね?(藁
7:2000/09/06(水) 12:36

聞き飽きたよ、その言葉。>4

 に訂正だ。
8河合栄治郎 :2000/09/06(水) 14:31
>2
唯物論者は証明不可能なことがらを信仰している。これは独断論に外ならず、哲学ではなく宗教である。
神の存在、世界の存在、これらは我々の経験を超越しており、肯定も否定もできない。
我々はただ「我々は世界が存在すると意識している」ということのみを知り得るに過ぎない。
9考える名無しさん :2000/09/06(水) 14:54
主張としては1=2=3=6=7 vs 4=5=8で永遠に平行線だな。
おもんないのでさげ。
10>9 :2000/09/06(水) 14:59
きみはどっちを支持するのかね。
11:2000/09/06(水) 15:41
エポケー
12ネオ生茶 :2000/09/06(水) 16:00
>>1-2
世界が人間の意識を離れて存在するというのは健全ではあるが素朴な考えといえるでしょう。
2は世界=認識の意味を誤解されているようです。
世界=認識だと考える人ならば、「世界を認識する際に色眼鏡を使用している」などとは
決して言わないでしょう。なぜなら世界=認識とは、この我々が見るものの背後に真の世界など
を捜し求めることはできないという主張だからです。従ってあなたがこの事を理解するならば、
議論の焦点は「何故我々の認識の背後の世界を想定する必要があるのか?」を問題にすべきです。

>4、5
あなたがたも全く同じ誤解をしています。世界の存在証明云々を言っている辺りからわかります。
4は意識の外の世界をどうやって証明できるかといいますが、その必要はないといいたい。
 我々が意識の外に出ることができないというのはいわば言っても言わなくても良いこと、
即ち認識という能力の定義にかかわる命題です。つまり当たり前のこと。では、そのことを自覚的に
捉えるとこの世界はどのように見えるのか?その様な方向で考えていくと面白いのでは?
13>9 :2000/09/06(水) 16:02
だったら4@`5@`8の側だ。
4や8は世界の存在を否定していない。
存在するかしないかは知りえない、と主張してるのだから。
14>12 :2000/09/06(水) 16:10
だから....

ネオ生茶さん、現代科学は宇宙は人間よりもはるかに前から存在すること
を明らかにしています。今から3億年前には恐竜の意識が世界を構成していた
とでも言うのですか?
15丸山真男 :2000/09/06(水) 16:27
「唯物論と経験批判論」は愚著である!
16ルカーチ(初期) :2000/09/06(水) 16:32
そもそもエンゲルスの科学主義に問題があったのだ。
エンゲルスの誤謬がロシア・マルクス主義に受け継がれたのだ。
17ネオ生茶 :2000/09/06(水) 16:38
>14
私が言いたいのは、そうした宇宙を想像するのは私でしかないということです。
どんなにそうした宇宙がありありと浮かんだとしても、それを見ているのは私でしょう。
もちろんこうした当たり前の事を言うのは気が進みませんが。
 このようにいえばよいでしょうか。
普通この手の議論では主観・客観のとらえかたが問題になることが多いように思えます。
人間は主観的な世界像しか得ることは出来ないというのは、おそらく誰もが一応賛同できるのでは
ないでしょうか。しかし主観的な世界像しか得られないならば、主観・客観という区別は
本来無意味なはずです。それが有意味に見えるのは、何らかの仕方で客観的な世界に
到達できるという錯覚があるからに他ならない。例えば科学とかですね。


 現代科学について言うならば、現代科学は一つの思考様式でしかないと言えます。
科学的な味方をすれば一見世界と意識は分離できるように見える。しかし科学のやっていることを
観察するならば、科学的な法則・世界観を投射しているに過ぎない。つまり、科学の実践の場では
既に主観・客観の区別は無化されている。
1814>17 :2000/09/06(水) 16:47
では恐竜の化石はどうなるんですか。
「恐竜が人類の誕生以前に地上にいた」ことも一つの思考様式に過ぎない
のでしょうか。我々の思考は確かに主観的なものですが、
客観を正しく捉えているかどうか、という基準によって優劣が付けられると
思うのですが。ネオ生茶さんは、過去の存在を認めないのでしょうか。
19ネオ生茶 :2000/09/06(水) 16:48
17の最初の部分は何を言っているのか自分でも意味不明です。
14の言う宇宙とは、宇宙像のことであるというふうに解釈して下さい。
このような当たり前のことを言うのはあほらしいから、後半で科学について
ごく簡単に述べたわけです。
20>19 :2000/09/06(水) 16:54
>>このような当たり前のこと
と言うけど、

18の化石の問題はどうなるの?
21ネオ生茶 :2000/09/06(水) 17:10
>18
過去の存在を認める事と、この世界が主観的なものでしかないというのは別のことではないでしょうか。
もちろん過去があったと思っています。
 私は、認識とはある思考形式を使用することだと考えています。こうしたことは無意識に行われるのであり、
従って認識が意識的に行われるかどうかは、認識という行為の本質的な過程ではない。
我々が採り得る思考形式は可能的には無限に存在します。傷が浅い時には血を見てその赤さに驚くかもしれない。
しかし、別の場合には流血は命を脅かす指標にもなり得る。
 この際に同じ血を見て別々の判断を下したのだというならば、それは主観・客観を区別した言い方だと
言えるかもしれない。というのは、認識以前に存在するものを見てそれについて判断を下したように見えるから。
しかし同じ血という言い方から、主観以前の何かを抽出し得たというのは浅はかです。なぜなら
同じ血という言い方そのものが、我々の思考形式の一つにすぎないのですから。
 あなたは客観を正しく捉えると言いますが、それがどのようなことか説明できるのでしょうか。
思うに客観という言葉は特定の思考形式の中でしか機能できない言葉に思えるのですが。

ところでなぜ認識について述べたかといえば、我々の思考形式が互いに相容れないものである時
にこうした哲学的な問題が発生するからです。こうした事態を整理してやれば、問題は解消されるでしょう。
22厨房 :2000/09/06(水) 17:16
>19

だから恐竜の化石は?
恐竜がいたころ、人間の「主観」はまだ現れていなかったでしょ?
2314>21 :2000/09/06(水) 17:23
「過去の存在を認める」ことと「世界は主観の構成物である」こととは
明らかに矛盾します。十億年前の地球には人間の主観など存在していなかったの
だから。
それとも貴方は人類が誕生した時点までは過去の存在を認め、それ以前の過去は
みとめないの?
24考える名無しさん :2000/09/06(水) 17:33
>化石君
恐竜の例は見当違いの質問だと思うよ。
例が何を考えて出されたかよく分からんけど、とりあえず三種の返答
1過去に恐竜が生きていた世界が実際に存在してたかどうかは分からない。
 これは科学でもそうだよね。
2現在において、何か分からない化石たるものが存在するけど
 それは我々がそう知覚するのみでしょ
3現在において我々が理解不能なものの存在が知覚できるが、
 世界が我々の意識と連動されるなら、
 我々の知覚限界を超えると想起される現象が起こりうるのはなぜか?
 ・・・こんな感じの質問だったのかな?
2514>24 :2000/09/06(水) 17:43
>>我々がそう知覚するのみでしょ
はじめから本音を言ってくれればいいのに。
この論法でいけばすべての事柄は私の妄想に過ぎないという結論を導ける。
つまり独我論です。これは論破できない。

2614>24 :2000/09/06(水) 17:46
あなたは自分の目の前にパソコンが存在することも、
 自分がそう知覚しているだけで、実際に存在するかどうかは分からない
と主張することになりますよ。
2724 :2000/09/06(水) 18:31
分かったよ24を訂正
我々が知覚するのみ→我々の知覚を抜かして考慮できない。
28考える名無しさん :2000/09/06(水) 18:32
パソコンが実際に存在という意味がわからん。
知覚するかぎりにおいてパソコンは存在するのでは。
2924 :2000/09/06(水) 18:34
しかし23は本当のあげあしとりだな
3の答えが議論が一番発展しそうな話題なんだからそこを攻めろよ。
3024 :2000/09/06(水) 18:41
29も訂正
23→25ね
疲労が!・・・
31考える名無しさん :2000/09/06(水) 18:48
佐々木力が書いた「マルクス主義科学論」について知りたい。
>この本ではレ−ニンの「唯物論と経験批判論」がクソミソにけなされています。
どういう風にけなされているのですか。
32:2000/09/06(水) 19:33
だから、この議論は神を信じるかどうかと同じなんだって。
ただ、一ひねりあるんだけどね。
つまり「神は存在する」=「認識と独立な世界は存在しない」
   「神は存在しない」=「認識と独立な世界は存在する」
っていうことだ。前者は証明可能だが、後者は証明不能。
積極的に前者を信じる者は、それを証明する必要があろう。
もちろん、不可知論的立場に立つのなら、それが最強。だけど、馬鹿。
まあ、宗教論争だと言えばその通りだが、「無神論者」も宗教かと
言われれば違うんじゃないの、としかいいようがないな。

「認識と独立な世界はない」という信念から、いったい何が生まれるのだ?
反証できないことは重々承知しつつも、あえて否定するほうがよほど利口
だよ。「神の非存在は証明できない」などと、意味のない命題を唱えるば
かりで、神を信じるわけでも、否定するわけでもないどっちつかずの馬鹿
にはなりたくないね。
3314>24 :2000/09/06(水) 20:01
あげあしとりになってしまったかも知れません。失礼しました。
24での三番目の答えについてもう少し分かりやすく説明していただけませんか。
3414>24 :2000/09/06(水) 20:24
24での一番目の答えについて
 実は太平洋戦争というものは無かったのだ。だって私はこの戦争を経験
 していないのだから。本当にあったかどうか証明できない。
と言う人についてどう思いますか。直接体験することができなくても、
証拠を積み重ねていくことで我々は過去の事実に近づけると考えてはいけませんか。
さらに言えば、耳が聞こえないひとが
 「世界には音なるものは存在しない。私はそんなものは体験していない。
  人々が私を騙そうとしているのだ」
と述べたとき、このひとは誤っていると考えてはいけませんか?
3524 :2000/09/06(水) 21:28
「ある」ではなく「我々の知覚とは独立してある」ではないわけで
「無い」ではないわけです。
太平洋戦争を人間としての観察を超えて捉える態度が観察者(科学者)として不適切とは言えると思います。

また上の耳が不自由な例をとって
「我々は霊を知る感覚を持ってないが霊の存在はあるんだ!」という人が現れたら何と答えるのですか?

我々に与えられた情報は全て自分の感覚を通して入ってきたものなのですから
考察する対象にするものも同じものであるべきだとは思いませんか?

36:2000/09/06(水) 21:30
補足:
「世界を認識と独立に議論することはできない」という命題なら
その通りだと認めるけどね。でも、そんな自明のことを論じてる
んじゃないよね。(藁
3724 :2000/09/06(水) 21:47
俺は14からしか見てないけど(24が初レス)
科学者たる者、観察者としての視点は主観的でなければならんとちゃうの?
ニュートンみたく神の視点を追求してもそれは観察者としては極めて愚かな行為だと思うよ。
要はアメンボのいるバケツは中央がへこみ周囲が盛り上がるってやつ。
38:2000/09/06(水) 22:07
>37

それって、俺が、36で認めてる命題と同じだよ。
当たり前の話。

39考える名無しさん :2000/09/06(水) 22:40
ほとんどの人間は聴覚を備えており、音を体験している。
我々は音が空気の振動であり、どういうメカニズムで人が音を感じるか
を知っている。
そしてどのような身体的欠陥がある時に人の聴覚は失われるのか知っている。
だから我々は耳が聞こえないひとに対して「音が存在する」と言える。
逆に言うと、このような論証ができないから、我々は幽霊は存在しないだろうと
考える。
40名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 02:09
認識=世界だとして、その認識の自明性を
どこに求めるかが問題です。私の意識や知覚
が私の認識する世界だとするなら、25の言う
ように独我論になってしまうでしょう。
デカルトは意識や知覚の自明性を信じられず、
最終的に「考える私」が私の意識の自明性の
根拠だとしましたが、考える私を意識するた
めにはまた別の、「考える私」を考える私、
が必要となり、メタな意識が立て続けに表れ
てくるので、どの段階が私の認識する真の世界
なのかがわからなくなります。
それらはすべて私だ、と言い切れる人は、
それでいいと思いますけど・・・
4124 :2000/09/07(木) 07:14
>2
すまん、では本題は何なの?
14の質問はもっと深いとこをついてるの?
42:2000/09/07(木) 11:17
>41
さあ、何だろうね。人間は騙されやすい機械だってことかな。唯物論的に言えば。(藁
43電波猫<36 :2000/09/07(木) 13:53
いけないの?
44:2000/09/07(木) 14:59
>40
最終的には、他人と共有できるかどうかどうかだろうね。
直接、間接的な認識から世界のモデルを構築していくしかない
わけだが、モデル=世界ではない。あくまでも、認識という
フィルタを通して見た世界の一断面にすぎない。しかし、その
モデルが他人と共有できる、あるいは、自作の過去のモデルと
整合的(仮に同じではなくてもね)であれば、やはり、そこに
客観的な「世界」が実在することは疑えないだろう。

世界と認識が不可分であり、客観的な外界の実在に拘る必要
などないという思弁も確かに成立しうるが、それでは、「世
界を知ろう」という強い欲求は生まれないだろう。だって、
私の「世界」が誰とも共有できないかもしれないんだからね。
そのうえ、幽霊を信じる電波な人と同じ穴のムジナになって
しまいかねないわけだし。そういう電波系の思想が大手を振っ
て歩くようになったら世も末だと思うよ。

45電波猫 :2000/09/07(木) 19:59
つうか、世界が実在しなきゃ「記述」と「世界」がきっちり対応しないと言い方それ自体がナンセンスじゃん
46:2000/09/07(木) 20:32
>45

そうだよ。したがって、世界を記述しようとする努力自体ナンセンス
ということになるわけで、議論も学問も意味を失うだけだよね。
電波が跳梁跋扈する所以だ。

47代理いぬ :2000/09/08(金) 04:39
>12
>世界が人間の意識を離れて存在するというのは健全ではあるが素朴な考えといえるでしょう。
>……
>従ってあなたがこの事を理解するならば、議論の焦点は
>「何故我々の認識の背後の世界を想定する必要があるのか?」を問題にすべきです。

私は、「認識論的な議論と実在論的な信念は両立する」と考えている。
なぜなら、認識論的議論においても、
我々が世界に対して能動的に影響できるにも関わらず、
認識それ自体は(相変わらず)全く受動的であることから、
認識の背後には独立した原因(すなわち外界)があると考えるのは、
ごく自然なことだと思われるからだ。

どうしてそれが「素朴だ」などと言われなければならないのか?
ご意見御拝聴。

>17
>つまり、科学の実践の場では既に主観・客観の区別は無化されている。

科学者は客観的であろうと努めるだろうし、
「我々の仕事は客観的である」と言うだろう。
科学の場面での客観性は、認識論的な議論とは別のものだ。

ましてや、現在のまともな科学者たちのほとんどは、
"何らかの仕方で客観的な世界に到達できるという錯覚"(>>17)
など持ってやいまいよ。

>21
>ところでなぜ認識について述べたかといえば、
>我々の思考形式が互いに相容れないものである時にこうした哲学的な問題が発生するからです。
>こうした事態を整理してやれば、問題は解消されるでしょう。

それを体現したのが科学ではないだろうか?
科学的学問一般が成功するもっとも大きな理由とは、
資産を共有することによる方法の統一であろうと思うのだが。

あらゆる学問の科学としての分科には、
まさに君の述べた問題解決の仕方が常にあったと思うのだが、いかが?
48考える名無しさん:2000/10/24(火) 16:53
aag
49考える名無しさん:2000/10/25(水) 11:02
唯物論は偽である。」って言った人がいたなぁ。
50考える名無しさん:2000/10/27(金) 05:44
>1
>この本ではレ−ニンの「唯物論と経験批判論」がクソミソにけなされています。
 どう言われているのか簡単に教えて下さい。(自分で読めって?)
51考える名無しさん:2000/10/28(土) 02:34
age
52考える名無しさん:2000/11/13(月) 23:23
.
53考える名無しさん:2000/11/21(火) 05:16
・e・<あげさせてもらいます!
54考える名無しさん:2000/11/21(火) 05:26
・e・<ん?一読したところ唯物論てのは
    外的対象の客観性と知覚作用の主観性との折り合いという
    カント的な知覚問題なのか?んなもん飽き飽きっちゅ〜ねん!!

    マルクス主義的な文脈で語ってくれ!!
55考える名無しさん:2000/11/21(火) 05:34
・e・<フォイエルバッハは、神の存在とは人間御都合主義的な構成物(幻想)であると看破した。
    唯物論というのはこの線で行くと、全てを主観化するのでも実在化するのでもなく、
    存在しているもの=意識されたものという擦り合わせを行いながら
    存在しているものを人間のプラグマティックな営為に合わせて解釈していくことなのかなぁ・・
56考える名無しさん:2000/11/21(火) 23:59
・e・<唯物論の猛者はおらんか!
57考える名無しさん:2001/01/07(日) 18:14
幽霊=物
58考える名無しさん:2001/01/07(日) 18:20
物一元論ですからねぇ。組み合わせや意味まで物だと言われると、
それは矛盾しているから後は勝手に何でも証明してくれといいたくなりますね。
59考える名無しさん:2001/01/07(日) 20:59
唯物論的にいうと、意識や主観は社会的諸関係から生じる結果の産物であり、ゆめゆめその原因ではない。 我々が社会を構成してるのではなく、社会こそが我々を構成するのである。
60考える名無しさん:2001/01/08(月) 12:15
唯物論はあらゆる事柄の物質的基盤を明らかにするが、そもそもそれは観念論批判として生じたのではないか。
61考える名無しさん:2001/01/17(水) 18:32
ちっともわっかんねー
62考える名無しさん:2001/01/17(水) 19:43
>55
逆じゃない?人間のプラグマティックな営為を
存在しているものに合わせて解釈していくこと。
63考える名無しさん:2001/01/17(水) 20:08
だからマルクス的な下部構造決定論を信奉していると
思っているのは「意識」や「自我」でしかないわけよ。
それはいつも「社会的」な位相からはみ出してしまう。
また、これは以前にも誰かが述べていたけど、マルク
ス主義自体が下部構造の産物であるということになって
必然的に自身が相対化されてしまう。

以上の理由から唯物論(マルクス主義)は噴飯もの
であることは明らか。
64考える名無しさん:2001/01/18(木) 00:11
63への反論聞きた〜い
65考える名無しさん:2001/01/18(木) 00:27
>>64
もちろんイデオロギーである以上いったんは相対化されるのですが、
ディスクールにとどまる以上それはたんなる上部構造の一環にすぎ
ないわけですが、いわゆる反作用、すなわち
変革の実践そのものによって、再び主客が統一されるのです。
すなわち土台のみに「矛盾」が存在するのではなく、究極的にはその反映で
ありながらも、土台と上部構造の間、上部構造内部、にも矛盾が
変化発展の動因として存在し、人間所個人の主体的実践によってのみ
揚棄されるものとして現れてくるのです。
これが「実践的唯物論」という考えで、グラムシに権著に現れています。
日本では戸坂潤の唯物論とくに「批評」という概念がこれに近いもの
だと思います。
戸坂潤「イデオロギーの論理学」とくに「『問題』に関する理論」が
参考になります。(戸坂潤全集第2巻・勁草書房)
66考える名無しさん:2001/01/18(木) 00:34
超越論的な主体というものを導入していただきたい。それは63でいってるような経験論的な主体意識の外部に位相するもので、経験的な自己を相対化できるもう一つの自己と考えられます。 デカルトの有名な考えるゆえに在る我も実はこの超越論的な自己を意味しているのではないかともいわれます。ただ超越論的主体については誰もが理解できるとは限らないらしく、それはユーモアが解からない人がいるということにも関係あるらしい。自己相対化できなければ自分を笑いとばすことが出来ないわけだから。
67考える名無しさん:2001/01/18(木) 00:36
>マルクス主義自体が下部構造の産物であるということになって
>必然的に自身が相対化されてしまう。
>以上の理由から唯物論(マルクス主義)は噴飯もの
>であることは明らか。

別に問題ないよ。真理条件が循環してるわけではないから。
「自己言及のパラドックス」にはなってないよ。


68考える名無しさん:2001/01/18(木) 01:53
>>67

詳説希望
69考える名無しさん:2001/01/18(木) 03:23

>>32
>つまり「神は存在する」=「認識と独立な世界は存在しない」
> 「神は存在しない」=「認識と独立な世界は存在する」

それは逆だろ。つまり、
「神は存在しない」=「認識と独立な世界は存在しない」
「神は存在する」=「認識と独立な世界は存在する」

神の存在を信じる人は、認識主体の外部に独立して神の意志や法則が普遍的にあると信じているんですよ。
70つまり:2001/01/18(木) 03:26
神の存在など人間の認識主体の内部に(世界内存在として)しか存在しないというのとは対立するんです。
71考える名無しさん:2001/01/18(木) 12:38
>65
「人間所個人の主体的実践」って具体的にはどのようなものですか?
またその実践によって、63のいう唯物論自体の相対化が乗り越えられる
のですか?
72代理いぬ:2001/01/18(木) 17:37
社会学における唯物論というのは、
人間社会にも自然科学と同じ唯物的な理論が通用するという立場だろ。
違うかね?


私は、社会学における唯物論の立場は間違っていると思うが、
ここの議論はどうも的外れが続いているような・・・。
73(^^)/:2001/01/19(金) 05:52
>>72
>私は、社会学における唯物論の立場は間違っていると思うが
それはどういう理由においてですか?
もう少し解説おねがいします

74名無しさん@1周年
「世界」ってのは観察者が知覚と思考を使って切り抜いたもんだろーが。
はじめっから「世界」語る時点で、切り抜かれたもんで限定的なもの。閉鎖系世界。
んじゃー、あるがままの自然ってあるかっていわれりゃ、あるんでしょうね。
でも唯物論て・・・・・限定哲学ッしょ。所轄にでは全能。あくまで理解の道具ッしょ。