1 :
おれ:
この板ではヘーゲルはどう捉えられてるんだろ?
みんなのヘーゲルについての意見を聞かせてチョ。
2 :
回答:2000/08/24(木) 18:33
ヘーゲル=屁ー下痢
壮大な宮殿を建てて自分はその隣の犬小屋で暮らしてるって感じじゃないの?
4 :
名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 22:09
>3
受け売り!
5 :
名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 22:27
F・フクヤマとかの言い分じゃないけど、いま実は一番存在理由を
問うべき人だと思いませんか?
ほんとに歴史は終わったのか? とか、
じゃ、ほんとにもう弁証法は無しなのか、とか。
6 :
名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 23:14
>5
フクヤマは共産主義が最終的に敗北したとして、資本主義の永遠性を
宣言した。
・・・これが歴史の終わり@
カール・ポパーは共産主義者の説く「歴史主義的な運命論」を否定して、
科学による開かれた未来を宣言した。
・・・これが歴史(主義)の終わりA
どちらも共産主義に反対するからこそ、歴史(主義)の終わりを説く。
現体制(資本主義体制)を守れという、単なる保守主義であり、改良
主義である。
では、歴史(主義)と弁証法の関係如何。
そのためには、ヘーゲルがドイツ帝国をもって歴史の終わりとしたその
理由と、現実に彼の観念に逆らって歴史が続いたのは何故かという理由
とを共に明らかにする事が鍵になる。
これには次の言葉が導きの糸となる。
「人間は歴史を作る。しかし、その事を知らない。」(誰かさん)
7 :
ごーる :2000/08/25(金) 09:51
ヘーゲルを理解するためには、ある程度、イデオロギーというも
のへの肯定的理解が必要ではないでしょうか。
マルクスやキルケゴールからの批判は意味がありますが、どちらも
ヘーゲル弁証法を前提にした広い意味でのヘーゲル主義者ですから、
ヘーゲル哲学の有意義性を否定するものではありません。
その他のヘーゲル批判は、単にヘーゲル哲学を理解できなかっただ
けのレベルが多いように思います。
「歴史の終わり」とは弁証法的意味で使われているのであって、そ
れを単純に「終わったものがなぜ続くのか?」と問いかけるのはど
うなのでしょうか?
まあ、このあたりは人それぞれの理解があるところだとは思います
が・・・・。
8 :
名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 16:59
なんで弁証法って忌み嫌われることがあるの?
>8
全体主義につながるからでしょう。
10 :
6 :2000/08/25(金) 20:27
>9
違います。逆に全体主義は非弁証法的なもので、たとえばアドルノの
「否定の弁証法」はまさにファシズムおよびスターリン主義が荒れ狂った
時代を身をもって生きた経験の上に書かれたものです。
弁証法が忌み嫌われるのは、端的に言えばそれが「革命的な」精神を
育てるからであり、現状維持を望む知識人および為政者等は何としても
非弁証法的な思考を押し付けようとやっきになるでしょう。
11 :
名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 00:12
/ ̄ ̄ ̄
・e・< 保守/革新という二分法だけで弁証法を考えるなんて、ヘーゲルがあんまりかわいそうだ。
\___
12 :
6 :2000/08/26(土) 00:41
>7
>「歴史の終わり」とは弁証法的意味で使われているのであって・・・
意味がよく分かりませんが、私の言いたい事は「歴史の終わり」という
主張は非弁証法的だという事です。
>11
そうではなく、8さんの「何故弁証法が忌み嫌われるのか?」と言う
質問に対して、9さんが「全体主義につながるから」と政治的な理由を
挙げられたので、政治的な点に絞って嫌われている理由を言ったのです。
勿論「難解だから嫌われている。」「形式論理に反するから嫌われている。」
と言う答えも有り得ます。
当然、二分法で「あれかこれか」はヘーゲル弁証法とは無縁ですね。
13 :
名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 00:43
日本語の『革新』とはもともと
軍人や、親軍的な官僚に右翼結社のこと
指していたからね(笑)
14 :
名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 01:05
弁証法 = 革命的?
なんかすごく前−近代的なアイデアだな。
正・反というさまざまな対立軸が止揚されて、一つの全体に
綜合されるという考え方は、ファシズム以外の何物でもないと思うが?
そいつは存在するもののいろいろな差異を消し去ってしまう。
アドルノの『否定弁証法』というのはむしろ「弁証法」
の持つこうした同一化作用の否定、いわば非同一性を
保ったまま行なう「限定否定」の方に力点が置かれて
いたはずだと思うのだが。
15 :
名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 01:54
>14 それは弁証法を全体化と勘違いしてるんではないですか?
あくまで、ある固有のテーゼがあって、それへの反論があって、
それを止揚するっていう、「進化」の必要性を言ってるんであって。
あ、だから、「止揚」を「統合」って考えた時点でダメなのよ、たぶん。
フクヤマの誤謬の正体もそれかしら?
>15
んにゃ、アドルノの『否定弁証法』をよく読んでもらえば
分かるが、彼が攻撃しているのは「観念論的」弁証法の
持つ究極的な目的である絶対的な同一性であって、彼が目
指していたものは非絶対的な、特殊なものたちの分散され
た統一性、つまり「非同一的なものの相互連関性」(=
不協和音)です。
と、言ってもこのことは現代においてヘーゲル哲学を
どう再=評価するか、といった問題とは若干ズレるけど。
17 :
名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 02:49
│ ̄ ̄ ̄
/ 止揚だの統一だの相互連関だのって概念を政治的文脈で使うと、
・e・< どうしたってファジズム的な意味づけのそしりを免れ得ないんだ。
\ だからリクールやアドルノの議論はテクスト解釈や社会理論てゆう
│「マイルド」な方向を目指さしているわけだね。
│___
18 :
6 :2000/08/26(土) 02:59
(目が覚めてしまった)
15、16は全体化、同一性に対するアンチとして弁証法があるという
点でそれ程異なった意見ではないと思う。
私がアドルノを持ち出したのも、ヘーゲルのジンテーゼ(総合)という
契機は狭い意味では非弁証法的で、彼自身も「思弁的」契機と呼んで
いるという点を、全体主義=弁証法という「余りにも」な見解に対して
言いたかったからです。
19 :
むむむ :2000/08/26(土) 04:44
東洋から見ると、ヘーゲルは、井の中の蛙の西洋至上主義者としか思えません。
20 :
名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 06:24
・e・< 都合のいい時に東洋を持ち出すバカ発見!
21 :
6 :2000/08/26(土) 15:15
と言う事で、ヘーゲルは弁証法を近世において復活させたが、その(遅れたドイツ
に媚びを売った)政治イデオロギーによって自らを裏切った。
・・・これが歴史の終わりB
逆に言えば、(マルクスが言っているが、)政治的に遅れたドイツだったからこそ、
却って哲学的には弁証法という革新的な思考が生まれ得た。
・・・これが歴史の弁証法的な進行例@
さらに言えば、遅れた帝政ロシアにおいて社会主義革命が成功した理由は何か?
そして、成功したのもつかの間、結局スターリン主義という国家資本主義体制の
下での似非弁証法(例:不均等発展の法則)が公認のものとなった理由は何か?
・・・要するに、現実の世界史の中ではどのような停滞、反動も結局
許されず、虚偽の体制はやがて没落の時を迎え、新しい主役に
道を譲らざるを得ないと言う事、これが弁証法的な意味での
必然性の洞察でしょう。つまり、歴史の真理と人類の解放に向かう
媒介的・批判的・現実的な運動、これが弁証法と呼ばれる実践的・
主体的・類的な働きと言えるのではないでしょうか。無論、「歴史の
真理」などという抽象観念は具体的分析と主体的実践の契機を忘れる
と、つまらない「最後の審判」論あるいは非弁証法的な観念論に堕し
てしまうが。
アドルノの場合、弁証法を余りにも観念的なものに止め、批判を全体主義
イデオロギーにだけ限定し過ぎた。唯物論的な根拠(人間の自然史)について
無理解であり、プロレタリア的ではなく、小ブル的な抽象論議に堕している。
そのため、その論述は論理的と言うより、個人の主体性を守れという倫理的な
色彩が強い。
22 :
むむむ :2000/08/26(土) 15:45
>20
都合がいいか? 東洋を持ち出すことのどこがどういう風に都合がいいのかわからん。
ヘーゲルは東洋についての知識のないまま歴史哲学を論じた。
そこがあまりにも痛々しい。
23 :
名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 19:05
16さんの見解が最up to dateなんじゃないですかね。
弁証法=ファシズムとか、東洋がどうのとか…は、ひどいですね。お子さんかしら?
24 :
16 :2000/08/26(土) 20:02
>23
あんまり持ち上げないでね。おれはべつにアドルノの専門家
とかじゃないから、あまり多くのことは語れないので。
>6
6さんが最初から執拗に繰り返してる主張は、現代における
ヘーゲル弁証法の救済、ということだと思うけれども、やは
り現代においてはヘーゲルはかなり旗色が悪い。これを救う
ためには、@ ヘーゲルの言っていることの解釈を変える。
A(例えばアドルノのように)弁証法という概念の内容を
少し改変して用いる、 しかないと思う。
あるいはヘーゲル哲学の別の面を強調するとか。
意志や主体といったものの価値を強力に押し出すヘーゲル哲学
は、主体性批判のつづく現代においては明らかに不利だけど、
翻って彼が主張した“人倫”とか“良心”とか“共同性”とか
“家族”とか“愛による赦し”とか・・・いわゆるヘーゲル
たちが持った「近代の夢」は未だに完全に実現されてないし、
その意味では歴史はまだ終わってないんだよ!! それなのに
どうして言葉遊びとしか思えない哲学風言説が巷を跋扈して
いるんだろう?「哲学」というものが持つ“責任”を忘れて
いるんじゃないかなぁ。いま一度ヘーゲルが主張した「普遍性」
という概念を、「全体性」に置き換えないで考え直してみる
必要がマジであると思う。ヘーゲルはそんな“分からず屋”な
哲学者じゃないでしょ。
25 :
6 :2000/08/26(土) 20:11
さてしかし、このスレのテーマであるヘーゲルの評価について言えば、アドルノ
あるいはデリダが称揚する不協和あるいは差異性(差延性)といったそれ自体
あまり役に立たない直接的な表象をもって反発するだけでは、余りにも安易と言える。
それらは、現実の歴史を規定してきたものがヘーゲルのもたらしたパラダイムだと
言わんばかりである。20世紀の思想的閉塞状況あるいはファシズムの原因が
ヘーゲルの絶対的観念論(あるいはそれに代表される何物か)にあると錯覚する程、
ばかげた事はない。そんな考えは小ブル的な知性の脆弱さを示すだけであり、彼ら
の属する中産階級固有の肯定かつ否定の両義性をごまかしているだけである。
「全体主義には反対、しかし共産主義にも反対。」これが、決して団結しない
不協和あるいは決して階級として統一されない差異性を後生大事にしたい否定的
かつ肯定的な弁証法(むしろ反弁証法)の正体である。
ヘーゲルならば、そのような退廃的・逃避的な小精神を大いに哄笑するであろう。
>25
>そんな考えは小ブル的な知性の脆弱さを示すだけであり、・・・
うーん、あなたいつも同じことを繰り返してるなあ...
ヘーゲルではなくてあなたの言ってることこそ「全体主義的」
で、「分からず屋」なんだよな...
27 :
6 :2000/08/26(土) 20:34
>26
どうもスミマセン。ちょっとヘーゲルぶりをしてみたかったので・・・。
私がヘーゲルを評価するのは、弁証法論理において反省(反照)規定をそれと
して明確に取り出したという事ですね。私の論理的思考はそれによって大いに
鍛えられました。
特に現代の科学や哲学において相対主義や主観主義が蔓延しているのは、
本質論をしっかりやるという姿勢がなくなったためで、本質論に関しては
ヘーゲルを参照せずには論理的な裏付けは得られないと思っています。
28 :
名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 20:45
ってことで、ヘーゲルは真面目だから素晴らしい、と。
と、もともこもない中間総括。
29 :
名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 10:02
ところで、池田晶子の『睥睨するヘーゲル』って、どんな内容なの?
買う気にならないので、読んだ人の感想きぼーん。
30 :
名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 13:36
池田さんはすごくパーなので読む必要ないと思いまーす。
31 :
名無しさん@1周年 :2000/08/28(月) 03:18
『睥睨する・・』は読まんでいいけど
『口伝西洋哲学史』と『メタフィジカルパンチ』
は良いよ。
32 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 13:57
弁証法って結局どういうモノなの?
いろんな本にチャレンジしたけど、どうもよくわからん。
ドキュソの俺にもわかるように簡単な言葉で説明するのは難しいのかニャ?
>30
そう?
かなり素人にもわかりやすく書いてると思うんだけど・・・。
池田晶子がキライな人ってどういう人なんだろ?
>29
「睥睨する・・・」は哲学雑記のような感じです。
あと彼女の「事象そのものへ!」は最高です。
ちょっとわかりづらいかも知れんけど、おそらくあの人の言いたいことの
かなりの部分が書かれてると思う。
33 :
6 :2000/08/29(火) 20:50
>32
>弁証法って結局どういうモノなの?
一言で言えば、「事物を生成発展の相で捉える見方」かな。
勿論これでは、具体的な内容はまったく分からないので、もっと
説明が必要ですが。
>いろんな本にチャレンジしたけど、どうもよくわからん。
確かにロクな解説本はないようです。ヘーゲル『小論理学』を読むしか
ない。でも、これは古今東西の書物の中でも難解と言う点ではトップ
クラスの本です。(いやー苦労した。)
34 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 00:12
簡単に言えばテーゼとアンチテーゼとジンテーゼ…簡単すぎか…
アドルノの『否定弁証法』とか読むほうがわかるかも。
池田さん嫌いなのは、あれ系の存在論は全部ナシだろーっていう、
デリダ系の人間だからです、私が。
35 :
ドキュソ=32 :2000/08/30(水) 11:16
>>33 やはり学問に王道なしといったところでしょうか。
「小論理学」は難しいんだよなー。読んでて半分も分かればいい方だ。
やはりドキュソにはムリ?
>>34 『否定弁証法』ですか。うーむ、本屋で探してみようかな。
池田晶子の哲学がデリダを受け入れないのは分かりますが、
デリダ哲学の側から見た場合、池田晶子的な哲学はどう受け
取られているのでしょうか?
よろしければ、デリダの哲学のおおまかな部分を説明していただき
たいのですが(ここの板でもデリダは大分人気あるよね。非常に興味がある)
どうでしょう?
できるだけ、「エクリチュール」とか「パロール」とかデリダ語を使わずに
説明していただけるとありがたいです。
36 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 11:46
それ、デリダとか浅田彰とか東浩紀のスレ全部読むに挑戦してからね。
37 :
6 :2000/08/30(水) 21:23
ヘーゲル論理学の難解さの一つの原因はその独特な用語のせいでもある
が、通常の形式論理学とは違い、論理形式とその対象との間に内在的な
関連を認めているからです。
通常の論理学で「xxは真である。」と言う場合、xxの位置に来る
のはなんらかの命題(判断を言い表したもの)であり、既に主語−述語
の関係が成り立っている(対象は主語として言語化(表象)されている
)。後は判断の形式だけを論じるだけで、元々の主語が正しいか(実在
にかなっているかどうか)などは全く議論されない。
しかし、ヘーゲル論理学では概念とその対象との関係を巡って、その
真偽が云々される。つまり、「xxは真である。」と言う場合、xxの
位置に来るのは第一義的には「概念」なのです。たとえば、「質の真理
は量である。」などとは形式論理学では絶対に出てこない言い方であり、
「ヘーゲルは馬鹿か?」と言われても良い筈なのだが、さすがにそこま
で言う人が出てこないのも不思議な事です。
つまり、ヘーゲル論理学とは既に認識論(認識はどこまで実在を捉えら
れるかを問う、カント的に言えば「超越論的」論理学)でもある訳です。
38 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 22:47
>>32さん
弁証法の例としてはビリヤードの玉なんかはどうですか。
わかりやすいと思うんですが。
39 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 01:07
なんとかはナニナニだってことを証明しようと弁舌をふるっているうちに
いつのまにか なんとかはナニナニではない、という主張になっちゃってる
のが言論における弁証法で、
ヘーゲルはそれを存在一般の領域にまで押し広げたということですな。
AイコールAかつ非A という矛盾律が弁証法の基本原理です。
40 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 01:40
>32
うーんと簡単な例で「性善説」と「性悪説」なんかどうですかね。
いずれが正しいと思いますか?
>39
>AイコールAかつ非A という矛盾律が弁証法の基本原理です。
ちょっと違うんじゃないかな。それより37にあるような
「それは認識論である」という言い方のほうがマトをゐている。
我々の認識は止揚を通して成長し得るわけだしぃ。
宗教屋は常に本質論から始まるため(もうこれは絶対!)、
「我々の知覚は完全ではない」→「我々の世界認識は完全ではない」という
前提から議論をやられると非常にムカつくらしい。
41 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 02:01
・e・<ぶっちゃけた話、認識論だと不可知論に行きつくし、存在論だとイデオロギーか
宗教ドッキュンになっちゃうんだよね。
42 :
40 :2000/08/31(木) 02:21
>41
あんまり現実的じゃない人間は確実にそうなると思う。
弁証法は、本質と認識の間にあるギャップを調整していくための
かなり上等なテクニックだと言うのが、私の意見です。
43 :
ドキュソ=32 :2000/08/31(木) 10:30
>38,39,40
いろいろとご説明ありがとうございます。
考え方としては39さんの言っている「AイコールAかつ非Aという矛盾律」というのが
自分にとってはわかりやすかったです。
37さんの説明も核心に触れている内容だと思うのですが、ちょいムズいかも。
要は「弁証法=色即是空,空即是色」っちゅうことなんかなぁ?
あー、またアタマがこんがらがってきた・・・。スマソ。
44 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 15:36
>39
>AイコールAかつ非A という矛盾律が弁証法の基本原理です。
補足しよう。非A ってそもそも何かというと、Aじゃない全て
ってことだから、これは「個は個であり かつ全体である」
ということでもある。
だから弁証法が全体主義につながるというのは
あながち見当はずれとも言えないね。
45 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 15:54
>44 おススメ解説にアドルノ揚げるのって間違いじゃないっしょ。
46 :
6 :2000/08/31(木) 21:14
弁証法とは一方で世界がどう在るのかという存在論でもある。
弁証法的世界観というのは非常に古く、よく例に出されるヘラクレイ
トスの「パンタレイ」(万物は流転する。)は弁証法の精神(スピリ
ット)を表現したようなものです。
つまり、そこでは一切の存在は生成・変化の内にあるという根本的な
直観がすべての認識を貫いている。
それは釈迦(仏陀)が(人間を含め)森羅万象至るところに「燃える
火」を直観した事にも通じる。
また、マスクスも言う、「人間の思考は常に生成の言葉を存在の言葉
に翻訳する。」と。
弁証法の論理は動的、過程的、立体的なものであり、生成・変化を
捉え、実在の内奥に迫ろうとする。それは形式論理の静的、結果的、
平面的な、実在に触れない抽象的思考を超えているのです。
否定、矛盾、媒介、止揚といった弁証法の特徴とされる論理形式も
根本的にはそこから出てくるのです。
W.ベンヤミンの言葉、「弁証法とは歴史という風を受けて進む帆の
ようなものです。」
その事はヘーゲルが一番理解していたと言ってよいでしょう。
47 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 01:19
民主主義のあるべき過程というのは、弁証法の世界でもあるのだね。
形式論理でいけば「意見が正反対の両者を話し合わせたところで
対立が明らかになるだけでどうしようもない」ということになってしまうんだが、
弁証法(dialecticの語源は「対話篇」というような意味じゃなかったかな)
でいくと、対話を通してより高度の結論に止揚されうる可能性があるわけでね。
民主主義は永久革命論とかなり近い(だって完全な社会などないから、
よりよき社会を民主主義は求めつづけるであろう)けど、
全体主義にとっては弁証法は一種のポイズン・ピルじゃないかな?
48 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 02:03
弁証法が無意味なのは、無内容だからでは?
49 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 05:59
おはようす
ヘーゲルも新聞記者として世俗にまみれながら思索したのだ
人間関係のイザコザに苦しんだことが彼の哲学大系を強固にした。
50 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 07:30
ヘーゲルなんて、全体主義の走りじゃないのか?
民主主義と全体主義なんて、愛称抜群だぞ。
ルーソーなどを見るまでもなく。
51 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 07:31
愛称→相性
ルーソー→ルソー
52 :
6 :2000/09/01(金) 10:19
(今日は夏休みだ!)
>46 誤:マスクス 正:マルクス
弁証法論理を理解する上で、私が最も基本的だと思うことは、ヘーゲ
ルも繰り返し言っていますが、
「具体的なものはそれ自身の規定性とその否定との統一である。」
という事です。これはどういう事かと言えば、実在する存在者がそれ
として存在しているのは、その規定性とその否定とを合わせ持つが故
に具体的な存在者である、という事です。それは39さんのように
>AイコールAかつ非A という矛盾律が弁証法の基本原理です。
と言うと少しミス・リーディング(誤解を招き易いもの)になるでし
ょう。Aと言う記号は抽象的な規定性自体を指すから私が言う具体的
存在者ではないし。また、イコールという数式記号の喩えだと数的
相等性を思い浮かべるから、統一(より正確には不可分離性)という
内容が消えてしまう。さらに矛盾律というのは元々アリストテレス
論理学(形式論理学)用語であり、
「あるものは同時に同一の観点からその否定であることはできない。」
という格律を指すから、上記で言われた事の正反対です。
前にも書いたように、弁証法では単に思考形式だけを議論の対象にせ
ず、思考対象がそれに合っているか(真の対象か否か)を吟味します。
「対象Aが規定性Aをもって存在(実在)しているのは真実か?」
という問いを発し、それに対して
「対象Aは変化し、Bに成る。故に、対象Aは既にその否定(第一の
否定)を内在している。」つまり、すべての存在者はその没落・消滅
の根拠を自らの内に含んでいる、という認識に至る。
この過程的な思考の運動(真の対象への媒介運動)を弁証法と呼ぶの
です。
53 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 19:17
>52
>矛盾律というのは元々アリストテレス 論理学(形式論理学)用語であり、 「あるものは同時に同一の観点からその否定であることはできない。」
という格律を指すから、上記で言われた事の正反対です。
そうだ!そうなんですよ。俺も永年これを疑問に思っていました。
AはAであると同時に非Aである、という二律背反律のことを
「矛盾律」と言っている論者がじつに多い。たぶん毛沢東の「矛盾論」が
弁証法論理学の基本的なテキストとして読まれまくった60年代に定着した
用語だと思うけど。まぎらわしいんですよ。どっちかに統一してほしいなあ。
でも矛盾律ということばの感じが好きなので使いました。39=44です
しかし6さんのいっていることは徹頭徹尾まちがっちゃいないけど解りにくいねー
しかしひどいスレのタイトルだね
55 :
6 :2000/09/01(金) 20:40
解りにくいのは私の説明が悪いためでしょうから、更に突っ込みます。
「対象Aは変化し、Bに成る。」
という事態について、弁証法論者が
「対象AはAであると同時に非Aである。」@
と言う場合、形式論理学者はそれを非難して言うでしょう、
「ある対象xはある時点ではAであり、他の時点ではBである。」A
と言うのが正しいのだと。確かに通常の思考(表象)ではそのほうが
自然であり、弁証法論者は逆説を弄んでいるだけの様に見えます。
しかし少し考えて見ると、Aは「変化の結果」を表現してはいるが、
「変化自体」を表現していない事に気づきます。確かに現在進行形
の変化とは直覚されるべきものであり、判断あるいは推論されるもの
ではない。それは<変化>と言う概念として定着されるしかない。
それを命題の形で表現する(分析する)と、@のような一見矛盾した
言い表し方にせざるを得ない。今ここにあり、次の瞬間にはそこにない。
その変化自体を静止的な存在の用語で表現すると「矛盾」となります。
@は緊張に満ちた「変化そのもの」を分析して、矛盾した契機の統一と
して表現しているのです。つまり、「矛盾」は存在するのです。
「直接的な存在は生成に媒介された結果として見られるべきである。」
−例:永遠と見える資本主義も歴史的生成の結果であり、
その胎内に自らの滅亡の根拠を抱えている。
(やっぱまだ解りにくいかな。見方の転換が要求されているので。)
56 :
47>50 :2000/09/01(金) 22:03
民主主義などというアイマイな言葉を使った私が悪かった。
正確に言うと、ポリアーキーだね。
57 :
27=6さんへ :2000/09/02(土) 07:30
>弁証法論理において反省(反照)規定をそれと
して明確に取り出した
ごめんなさい。「反省(反照)規定」
ってどういうことですか?
58 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 09:23
共同体主義者はヘーゲルの系列だよね。
自由主義がカント。
59 :
6 :2000/09/02(土) 11:24
>57
(だんだん深みにはまって来た。)
前にも書いたように、ヘーゲル論理学に関してまともな解説書は(少
なくとも)日本には無いのではないでしょうか。古くは武市健人から
近くは広松渉まで(さすがに遠慮して)完全な的はずれとまでは言わ
ないまでも、読んで理解できると言うより、更に訳の分からなくなる
事になる。更に言えば、件のスターリン主義的な自称「弁証法的唯物
論者」(日本○産党も含め)の説く弁証法は、エンゲルスの無理解に
もよるが、バカバカしくて話にもならない。
どうせ分からないなら、原著を読んだ方が良いと思うのも自然でしょ
う。と言う訳で、『小論理学』(松村一人訳、岩波文庫)を久しぶり
に埋もれた本の山の中から探し出してきました。(埃だらけ!)
手元にあるのは下巻のみですが、その「第二部 本質論」全体が反省
規定の展開です。目次を見ると、
A現存在の根拠としての本質
a純粋な反省規定
イ同一性 ロ区別 ハ根拠
b現存在
c物
B現象
・・・
C現実性
・・・
となっています。これら全部が反省規定です。
(因みに「反省」というと道徳的なニュアンスが出るし、ヘーゲルの
概念=主体の絶対的観念論に添う形にもなってしまうので、私は余り
好きではなく、反照(或いは反射)(英語でReflection)と言う訳語
の方が良いと思っています。)
この位で宜しいでしょうか?私は先生ではありませんので。
ヘーゲル哲学の立場に立つとすると、ヘーゲル哲学自身も否定されなければいけないと思いますが、その否定するものは何でしょうか?
61 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 17:05
>60
ヘーゲルは最終的には弁証法を放棄して観念論に堕しちゃったんです。ドイツ
帝国を絶対視して、自己完結しちゃった。だからもはやその中に否定の契機は
ないな。マルクス=エンゲルスらに継承され発展されていっていますよ。
>59
6さんエンゲルスの無理解って何?例の「自然弁証法」の水が水蒸気になって
どうたらこうたら・・・っていう変てこな比喩のことかな。
あと日共が弁証法とは縁もゆかりもない修正主義醜団だってことは俺も強調し
ときます。
弁証法の入門書おせ〜て!
「弁証法とはどんな科学か?」いがいで。
63 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 18:42
>62
『弁証法の論理 変革の武器としての理論』
山崎謙・著 (三一新書)
図書館で借りるときは殺されないように気をつけて下さい。
64 :
6 :2000/09/02(土) 19:45
>61
エンゲルスの高潔さは好きですが、こと弁証法については余り感心
しない。特に『自然の弁証法』で弁証法を科学と同一視しているの
は、その後のソ連官製哲学から現在の日共にまで至る誤解の原因を
作った。不破委員長までが相変わらず、「我々は科学的社会主義に
基づいているのだから云々」などと言うのを聞くと、「ダメだ、こ
りゃ。」と思わざるを得ない。もっとも、教条主義はエンゲルスの
せいではなく、非弁証法的スターリン主義のせいでしょうが。
65 :
60 :2000/09/02(土) 21:26
回答ありがとうございます>61
おおざっぱなことをお聞きしたいのですが、ヘーゲル哲学に関心のある方はヘーゲル以後から現代までの哲学をどのように捉えているんですか?再びヘーゲル的な体系を目指しているんでしょうか?
それとも現在のある哲学を立脚点としているのでしょうか?
66 :
57>6 :2000/09/02(土) 21:37
ありがとうございます。読んでみます。
67 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 21:41
ヘーゲルにはカント信者に対する反発があったんじゃないかな。
「物自体」を振り回して喜んじゃうようなのに対する。
調べたわけじゃないんだけど、そんな気がするんだけどな。
68 :
名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 05:34
>65
「ヘーゲル以後」に限ってしまうと連関が見えなくなるな。西洋哲学は古代か
ら連綿と続く巨大な流れだから、ヘーゲル哲学といえども以前の文化遺産を無
視していきなり出てきたわけじゃない。で、古代からヘーゲルもひっくるめて
近世、近代までの哲学を要領よくダイジェストしたのがマルクス主義だ。ダイ
ジェストと言うより継承発展させたという方がいいのかもしらんが。再びヘー
ゲル的な体系を目指すまでもなくすでにマルクス主義は精密かつ膨大な哲学大
系という点では史上類をみないよ。批判のしやすさも含めて生産的だな。まあ
おおざっぱにいってヘーゲル以後にもかかわらず弁証法を前提していないよう
な哲学はロクなもんじゃないんじゃないかなあ。あんまり答えになってなくて
すまん。
69 :
6 :2000/09/03(日) 10:44
現代においてヘーゲル弁証法の再評価が重要だと考えられるのは、
繰り返しになりますが、「本質論」の持つ認識論的な意義です。
特にマルクス『資本論』において商品・貨幣・資本の本質を理論
的に説いた冒頭部分の理解は、明らかにヘーゲル弁証法を必要と
します。戦後日本の「マルクス(主義)経済学」で繰り返された
不毛な論争および最近のくだらない(ポストモダン的?)「貨幣
論」の流行は「本質とは何か」を見失った現代科学、哲学の主観
主義の典型です。レーニンも言いました、「ヘーゲルをもっと
研究せよ。」と。
70 :
名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 12:15
ヘーゲルをコテンパンに批判した著書があったら教えて
71 :
名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 19:41
>69
それで、「哲学のレーニン的段階」の登場だ!
あーれー。
72 :
6 :2000/09/03(日) 20:14
>71
レーニンを持ち出したのは失敗でした。しかし「哲学のレーニン的
段階」などとはスターリン主義的御用学者が言った言葉ですよ。
権威主義は弁証法とは無縁です。自らの生み出した資本という幽霊
に日夜苦しめられている労働者こそが最大の権威でしょう。
73 :
名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 20:52
>70
『全体性と無限』
74 :
名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 21:25
『「異」と「無限」としての宇宙』
75 :
71 :2000/09/03(日) 22:25
>6さん
ごめん。皮肉で言ったつもりじゃないんだ。許して。
ま、個人的にはレーニンが『哲学ノート』で、
ヘーゲルをどう読んでるのか、興味があるんです。
76 :
名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 22:25
>74
知ったか?
77 :
名無しさん@1周年 :2000/09/04(月) 01:58
ん?
78 :
名無しさん@1周年 :2000/09/04(月) 12:29
>73,74
ありがとう
>『全体性と無限』
国文社の合田訳で斜め読みしたけど難しそうだ。ポイントを教えて。
>『「異」と「無限」としての宇宙』
これは何だかわからなかった。著者名を教えて。
79 :
6 :2000/09/04(月) 23:06
>75
レーニンの『哲学ノート』はどこに行ったか見つからないので、正確に引用は
できませんが、ヘーゲルを非常に高く評価しているのは確かです。確か「殆ど
唯物論に近付いている。」とか、「弁証法はおよそ17、18くらいの格律に
まとめる事ができる。」とかのメモを書いていたと記憶している。
昔、『哲学ノート』を読んで初めて弁証法が何となく理解できた、と言ってい
た人もいたな。
80 :
考える名無しさん :2000/09/05(火) 00:47
いまだに神秘主義だと思われてるよーだな弁証法は。
まあ存在と無(死)が表裏一体だといってるんだからな。
「見方」が解れば子供でも理解できるんだけどねー
81 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 02:17
「違和感がもたらすダイナミズムとともに生きる」というあり方は
特に日本では理解されづらいだろうなあ。
違和感とか異物感とか、この国では徹底的に嫌われるものね。
今村仁司著『排除の構造』(ちくま学芸文庫)は徹底した
弁証法批判の書、とも読める。
83 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 02:29
>81
ちょっと違う。
違和感や異物感は好きだよ日本人。
異物が嫌いなんだろうね。
84 :
>83 :2000/09/05(火) 02:45
>違和感や異物感は好きだよ日本人。
言葉どおりの趣味のレベルではそうだね。
生きるための知恵になっているかというとそうじゃない。
85 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 03:51
2ちゃんねる=弁証法
86 :
考える名無しさん :2000/09/05(火) 11:28
広末涼子=弁証法
87 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 14:13
>86
調子に乗るな。
88 :
考える名無しさん :2000/09/05(火) 16:47
>80 >>「見方」が解れば子供でも理解できる
本当ですか?たとえばヘ−ゲルの大論理学をちゃんと読み通した(翻訳でもよい)人間がどれくらいいますか?
哲学の専門家でない私には無駄に難解なだけであるように思われるのです。
ヘ−ゲル研究家の方々は彼の「弁証法」を理解し、それを使いこなしているのですか?
89 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 20:23
動かしようのないような認識なら「小論理学」だけでも役に立つでしょ。
ここで歪んだままその後の認識論でどんな展開を経てもダメだと思う。
90 :
>89 :2000/09/05(火) 23:03
貴方は小論理学を「読んだ」のですね。
わたしはペ−ジをめくって眺めただけです。内容は理解できませんでした。
あの本には何かに役立てられるような「論理」が説かれてますか?
91 :
考える名無しさん :2000/09/06(水) 04:58
>88
「見方」が解れば子供でも理解できる、 というのは本当です。中世
ヨーロッパ人にとって神は存在そのものであると同時に<無>のよ
うな超越者でしたが、そのことを実感するために超越と内在に関す
る難解な思考を展開する必要が全く無かったようなものですね。
存在と無が表裏一体だということをすんなり納得するには、
神様を信仰して、その<無>に帰依しながら生きるのが近道なんでしょうが、
現代のような信仰心のない人間が多数を占める時代では、
論理的に納得するのがいいと思いますよ。
俺はヘーゲル研究家なんかじゃないけど、毎日の生活実践の中で
弁証法を使って現実に対決しているつもりです。
92 :
考える名無しさん :2000/09/06(水) 20:54
弁証法スレッド!
93 :
6 :2000/09/07(木) 23:25
実在は移行し、本質は反照し、事柄は発展する。
これらが弁証法的な運動形態である。
と言う事で、特に「本質」という概念を捉える事は
ヘーゲル抜きには無理でしょう。
移行する実在は仮象であり、認識は仮象を去ってその根拠、始源(自体)
に溯る。自己同一的本質は対立の統一(非同一の同一性)であり、現存在
の根拠として捉えられるが、直接的に現存在する根拠すなわち「物」と
して向自化される。それは現象、すなわち仮象(見かけ)の全体として
外化する。・・・
こんな禅問答のような文章でも、マルクスは商品および貨幣の本質を
分析するために「大いに役に立った。」と書いている。
新機動戦士おちんこTTH+α@グロいガンダム
新機動戦士おちんこTTH+α@グロいガンダム
新機動戦士おちんこTTH+α@グロいガンダム
新機動戦士おちんこTTH+α@グロいガンダム
新機動戦士おちんこTTH+α@グロいガンダム
HUNDERT!
HUNDERT!
ドイツ語で99はNeunundneumnzig.
102 :
真機動戦士おっちんこTTH+β@グロい三連星 :2000/09/08(金) 03:21
HUNDERT=フンデールではなく、フンダート
Neunundneumnzig=ノイン・ウント・ノインツィヒ
故にバーニングBurning(周防郁雄=すほういくお)は
仏風ならブルニンとかベル二ワンとかかな?(自信ない)
独風ならバルニンヒやらバーニンヒ。
なるほどバルニンヒ・プロダクスィオン帝国ね。
103 :
ごーる :2000/09/08(金) 22:40
ヘーゲル哲学は、彼の本を読み出すと分からなくなるが、解説書を読んで自分で考えると分かってくる・・そういうものでですね。
弁証法も同じことで、正・反・合という基本的なところと、それを運動(変化)の理解の仕方と考えれば、ごく当然のことが説かれているように思えます。
ヘーゲルを読んだかどうかに拘っている人がいますが、「木を見て森を見ざる」の誤りに陥らないようにしてくださいね。
>103
おすすめの解説書はありますか?とくに「弁証法」に関して。
前質問したら茶化されちゃったもので。
105 :
考える名無しさん :2000/09/08(金) 22:46
ヘーゲルの原著の読みにくさといったらたまったもんじゃないね。
結局、挫折してしまったけど。
ヘーゲル自身、後の解釈者のような考えはしてなかったんじゃないかと思ってしまう。
ヘーゲル解釈者はえらいよ。
106 :
吾輩は名無しである :2000/09/08(金) 23:07
>存在と無が表裏一体だということをすんなり納得するには、
>神様を信仰して、その<無>に帰依しながら生きるのが近道なんでしょうが、
違うなあ。
信仰は基本的に静的なものだが、弁証法は動学だよ。
ツリー対リゾームという対比に似てなくもない。
107 :
考える名無しさん :2000/09/09(土) 03:54
103さんじゃないけど
>前質問したら茶化されちゃったもので。
>>63 これのことか? べつに茶化してないぞ。
岩波文庫かなんかで復刻してほしい。
108 :
104 :2000/09/09(土) 03:58
そうですか。これは失礼いたしました。
コメントが過激だったもので・・・
図書館で探して見ます。ありがとうございました。
109 :
考える名無しさん :2000/09/09(土) 04:11
>103
>信仰は基本的に静的なものだが、弁証法は動学だよ
しかし正直言って俺には弁証法論者の生活と
敬虔な信者のそれとのあいだに、一体どういう違いがあるのかよく
わからない。
どちらも<時間>を越えて永遠の中に生きているしな。
110 :
考える名無しさん :2000/09/09(土) 04:13
>108
でもくれぐれも殺されないようにね。
111 :
104 :2000/09/09(土) 04:20
ハイッ!昼間の明るいうちに借りにいこうと思います(笑
112 :
6 :2000/09/09(土) 15:05
弁証法は科学だと言う人がいるが、通常の意味での科学ではない。
むしろ科学批判であり、形式論理の限界を明らかにする思考です。
それは変革の論理と言えるが、それも実在に迫る思考の否定力に
基づくからです。「すべての規定はその否定を内在し、それとの
反照関係において成立している。例えば全体は部分であり、内容
は形式であり、実体は関係であり、必然性は自由である。すべて
の固定した規定性の内にある真理に迫れ。」とそれは要求する。
113 :
考える名無しさん :2000/09/09(土) 16:24
日本人は普段、論理的思考で動いているとは思えないんですよ。
だから「形式論理の限界を明らかにする」実践としての弁証法って
言われても、もともとないものを批判することになって、それは
形式論理よりもさらに無意味だと思うんですけど・・・
114 :
6 :2000/09/09(土) 17:11
>113
なるほど。(また謝らなくてはいけないかな・・・。)しかし、
>日本人は普段、論理的思考で動いているとは思えないんですよ。
確かに自覚的に論理的に動いてはいませんが、先の「全体と部分」
に関連して言えば、例えば、
A:「君、会社は今窮状にある。会社全体のためにこの際君は止めて
くれ。」
B:「いや、社員が集まって会社がある。社員がいなくては会社は
存在しない。」
A:「それは違う。会社という全体あっての社員で、個々の社員は
部分でしかない。ごたごたへ理屈を言わずに止めなさい。」
と言った現実的な問題はどうでしょう。論理的に筋を通す事が求められ
ています。この場合、どちらが正しいと思われますか?
これは全体主義と個人主義という「厄介な」問題です。形式論理では
カタがつかないでしょう。
115 :
考える名無しさん :2000/09/09(土) 17:44
>114
うーんと、論理的な論争の上では、そのトピックでは
「形式論理」では決着がつかないことは「何となく」分かり
ますが、論争でどちらが正しいか決着がついたところで、
実際にその結論に応じた采配が取られるとは思えないのですが・・・
問題は論理的な空間における決着ではなくて、実際にどんな
判断が下されるかでしょ。普段、われわれは必ずしも論理的
帰着と相応するような判断を下してはいない。問題なのは
そうした論理と実際の乖離ではないですか?
116 :
6 :2000/09/09(土) 18:54
>115
(更に弁証法は進む)と言う事で既に論点が移行してくる事が非形式
論理的だと言う事です。形式論理は問題を抽象的・一般的に論じます
から、事柄の形式性にだけ捕われます。ところが、弁証法論者は事柄
を具体的に考え、「真の問題は何か。」と捉えようとします。
例題が理論的ではなく、実践的な性格を持つ本性である事はまさに
弁証法的な思考によってのみ解明されるのです。因みに例題の場合、
事柄の本質は資本主義自体の階級対立にまで進む事があり得ます。
その場合、単なる論争は実践的な「判断」として、「首切り反対」と
いう闘争的局面に移行します。論理的な思考を通して実践的に現実に
関わる事が弁証法なのです。私の議論の対象も既に「全体と部分」と
いう機械的対立からその真理である「力と発現」という力学的対立、
更に「形式と内容」という記号論的対立に移行している訳です。
117 :
考える名無しさん :2000/09/09(土) 19:47
>116
あ、別に僕はヘーゲルの弁証法を批判しようと思ってる
わけじゃなくて、自分の素朴な疑問をぶつけてるだけなんで、
そのつもりで。だけど素朴な疑問にも対応できなければ、
その思想の有効性も怪しくなってくるでしょ。
で、あとは社会学的、具体政治的な問題になりますかね。
その都度、その段階に応じて弁証法的な思考を続けていく
ことは可能でしょうけど、実際には現実的な要素が加わってきて、
泣き寝入りしたり、思考を停止しなければならなくなると
思うんですよ。具体的な現実的要素っていうのは形式論理は
もちろん、弁証法も超越してると思うんですよね。
弁証法をも内破させてしまうような突発的要素とかね。
それらをすべて弁証法で取り込んで思考できるかというと
到底そうは思えない。
例えば権力構造を変化させようと思っても、何十年かかるか
分からないから、生活のかかっている普通の人はどこかで
妥協してその構造に従ってしまう。弁証法が単に論理を弄ぶ
ものではないことは分かるけど、こうした現実的要素まで
思考できるとは思えないなぁ。よっぽどの超人的人物じゃないとね。
118 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 20:47
>117
以前、あなたのような考えだったけど、
退屈してくるんだよね、そのうち。それで再び
論理をどう使うかということを考え始めました。
119 :
6 :2000/09/09(土) 20:49
(対話は更に続く)
>117
私は116でまさにヘーゲルの森羅万象を弁証法論理で思考しようと
ことを否定したつもりですが。それは「絶対的観念論」と呼ばれまし
た。何故なら、「現実的要素」をすべて思考可能としたからです。彼
が「現実的なものは理性的である」と言った時(これはこれで含蓄あ
ある洞察を含んでいるが)、轟々たる批判が巻き起こったそうです。
マルクス(「武器の(による)批判は批判の(という)武器にとって
代わる事はできない。」)およびキルケゴール(「ヘーゲルの弁証法
は現実を止揚(観念化)してしまうが、現実自体は止揚されずに残る。
」)但し、マルクスはその中にある真に弁証法的な核は保存しました。
「現実は観念ではない。しかし、観念が現実を捉える時、それは物質
的な力になる。」弁証法の力とはその現実批判およびイデオロギー批
判によって、「結局だめさ。」という諦め(これも宗教的イデオロギ
ーにつながる)から人間の実践的・主体的な力を取り戻すことにある
のです。それは共同的な行為であり、ニーチェ流の超人のなせる業で
はないでしょう。そして「人間は自然の一部である」とは唯物論の基
本であり、そこには自然に対する畏敬と信頼が基本にあるのです。
120 :
考える名無しさん :2000/09/09(土) 20:56
117>118
あ、あなたは6さんじゃないのね。
いきなり「退屈してくる」って言われてもねえ...
何に「退屈してくる」んですか? もう少し説明を。
別に面白おかしい議論をしてるわけじゃないんだけどね...
121 :
>117 :2000/09/09(土) 20:59
「現実」をなんらかの論理形式に取りこまない限り
我々は「現実」について思考することなどできないのだけど、
論理と言うのは常に一面的なものの見方しかしないという欠点がある。
当たり前なんだけど、有限のサイズの論理で無限の「現実」をとらまえることは
不可能なんだよね(これが可能だと言い張るのがいわゆる「信者」で、
論理には「聖書」とか「セントラルドグマ」とかの名前がついてる)。
で、「現実」をみながら、現在有力な現実の見方(「論理形式」!)について
あれこれ模索すること、神話と化した論理に立ち向かうこと、
これが弁証法の実践なんじゃないかな。
でも日本ではこういう態度は忌み嫌われるんだよね。
ちょっと前まで「官僚ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という神話があったけど
誰も立ち向かわなかっただろ。
別に難しいことでもなんでもない。
ただ、日常の「あ、これ変だな」という疑問なりなんなりを
神話で納得し思考停止するか、それともひつこく疑問を持ちつづけるか。
そういうことだと思うんだけど。
122 :
6 :2000/09/09(土) 21:07
>119 誤:しようとことを 正:しようとした事を
その他おかしな表現(116含め)がいくつかあり、失礼。
123 :
117 :2000/09/09(土) 21:30
なんか確かに疲れてきた。
121さんはどなたでしょうか? 118さんですか?
もし121さんの言うことが当たっているとすれば「なあんだ」
ということで、それほど目新しいことではないですよねえ。
ただ弁証法にはもっと何かがあるかと思った。119さんの
おっしゃっていることも、結局、弁証法には限界がある、
ということでいいんですか? 「現実的要素」を取り込めな
ければ、思考の「方法論」としては有効でも、実際的問題の
「解決法」にはならないでしょう?
124 :
121 :2000/09/09(土) 21:53
私は118ではありません。
ただ、弁証法をなんらかの「思想」ととらえるのがそもそも間違いで
現実と形式論理の遊離を調整するための方法ないし基礎的態度に過ぎんと
考えているのです。だから、「なあんだ」といわれても
「そんなもんだよ」としか答えようがないですね。
117で、なにか特別の「思想」だと考えてませんか?
ついでに
>119さんの
>おっしゃっていることも、結局、弁証法には限界がある、
>ということでいいんですか? 「現実的要素」を取り込めな
>ければ、思考の「方法論」としては有効でも、実際的問題の
>「解決法」にはならないでしょう?
限界があるのは形式論理のほうです。
弁証法は形式論理の欠点を補正するものですね。
ただそれだけならいいけど、現実の世の中は法律をはじめ
そういう不完全な形式論理が現実を制御していることが
ものすごくたくさんあるので
(だから、113のような、日本で形式論理が存在しないかのような不見識は論外です)
形式論理に対する補正は、そのまま現実の不完全さや欠陥に対する
補正となりうると。こんなところでどうですか。
125 :
121 :2000/09/09(土) 22:01
失礼。
>形式論理に対する補正は、そのまま現実の不完全さや欠陥に対する
>補正となりうると。こんなところでどうですか。
こっちに訂正します。
「形式論理に対する補正は、そのまま形式論理によって制御されている
現状に対する補正ないし批判たりうると。」
「現実」に対して「完全」とか不完全」とかという判断をくだすのは
ちょっとエバリ過ぎですね。
126 :
6 :2000/09/09(土) 22:10
(では、・・・)
>117
>弁証法には限界がある、ということでいいんですか?
「限界」とは何でしょう?「あるものがそれで無くなる所、地点」と
一応言えますが、すべてのものがそれであるのはその限界「内」にあ
るからであり、同時に限界においてはそのものが消滅する以上、すべ
てのものは限界の「外」に在ることになります。ではあるものの限界
とは、そしてあるものはどこに存在するのでしょうか?
>「現実的要素」を取り込めなければ、思考の「方法論」としては有効
>でも、実際的問題の「解決法」にはならないでしょう?
「現実的」とは何でしょう?「本質自体の現象」と一応言えますが、
本質および現象とは思考の対象でしかありません。あるいは「感性的
現実こそが現実的だ。」と言えば、たちまちデカルトの批判を受ける
所まで戻ってしまいます。現実の現実性を捉えるのは、例えば資本主
義社会の現実性とその幻想性を捉えるという「実際的問題」にとって
重要事ではないでしょうか?
127 :
考える名無しさん :2000/09/09(土) 23:09
(なぜか二人を相手にしなければならなくなった123)
>124
113で言いたかったことは、当然日本に論理性がまったくない
ということではなくて、日本ではその形式論理ですら十分には
徹底されていない、ということですから別に124さんの言って
いることとは矛盾しないと思いますが。
あなたの弁証法解釈(「不完全な形式論理によって制御され
ている現実に対する補正、ないし批判である」これでいい
のかな)も、それはそれで「ふーん」という感じです。
(あ、性急な判断を下す前に、僕の言いたいこと(あるいは
6さんの言いたいことも)をもっとよく汲んでくださいよ)
>126
126さんの「限界」や「現実的」という言葉の語釈はそれこそ
論理の弄びじゃないですか? 僕が言っている「実際的問題」
というのは例えばあなたが例に出した、リストラに直面した
会社員が実際に会社をやめなくてはならないかどうか、という
レベルの話ですよ。
(お二人いっぺんに相手にするのはたいへんです。
発言はどちらか一方にしてくれませんか)
(独言:またどっちゃり書いてくるんだろうなあ。
もう今日は手に負えないかも)
129 :
6 :2000/09/09(土) 23:56
>128
では今日は発言は控えます。
一遍に話すと、本当に「下痢気味」になってしまいますから。
但し、弁証法が言葉の弄びではない事は私のレスを良く読んでみて
貰えれば、分かると思って書いたのです。
130 :
121>127 :2000/09/10(日) 03:11
>あ、性急な判断を下す前に、僕の言いたいこと(あるいは
>6さんの言いたいことも)をもっとよく汲んでくださいよ
これは私もあなたに言いたいことです。
よく汲んでないようなので(笑)あとで私の解釈を書きましょう。
それから、日本では形式論理が貫徹されていないというのは明らかな誤りです。
もっとも簡単な例をあげれば、戦前の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」は
極端なまでに徹底・拡張された形式論理の一例で、その現実への適合性の薄さゆえに
数々の悲劇を生みました。
戦後の「会社ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とか「官僚神話」もまあ、
似たようなものですが。
多分6氏は私のいわんとすることは理解していると思いますよ。
131 :
考える名無しさん :2000/09/10(日) 03:27
127>130
なんか、話が合いそうにないですね。
あなたのような人とだと、議論が泥沼化しそうで、
こちらも消耗しますから、もう話には乗りません。
もともと僕の目的は6さんの話を聞くことだったので、
あなたの話は無視します。
132 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 05:05
>119
>マルクスはその中にある真に弁証法的な核は保存しました。
>「現実は観念ではない。しかし、観念が現実を捉える時、それは物質的な力になる。」
うぉ、マルクス、こんなこと言ってたんですか!
お手数ですが、どの著作か教示願えませんか?
よかったら、どの辺か(前のほうとか、後ろのほうとか)も教えていただけたら幸いです。
弁証法って具体的な方法論なのでしょうか?
これはヘーゲル自身ではなく別の解釈者の意見だったと思いますが
既存の知識から新しい知識体系を生み出す過程とか何とか・・という意見がありましたが・・・
134 :
121>131 :2000/09/10(日) 08:43
別にかまいませんよ。
弁証法の現実との関わりに話を振っておきながら
いざ実例が出た途端に話を打ちきる人間の態度が
笑われるだけです。
弁証法は論理と現実のはざまに必要とされるものだから
実体験なしには理解が難しいでしょう。
135 :
6 :2000/09/10(日) 10:18
(お早ようございます。下痢も治った(嘘)。)
>131、134
まあそう喧嘩せずに。ソクラテスは弁証法を対話法として実践しまし
たが、彼の対話は産婆術とも言われ、相手の主張に沿って問答をしな
がら、その無根拠性を自覚させてより高次の認識に導くというもので
す。それは基本的に2者間のやりとりで、今回3すくみ状態になった
ので私が引いた訳です。
>132
人一倍記憶力のない私で、何十年も前に読んだうちのどれかは急に出
てこない。多分『ドイツ・イデオロギー』前後の若い時期のものです。
ただ有名な言葉ですので回りの人に聞いてみて下さい。
>133
私は116および126で具体的に弁証法的論述を弁証法的に行いま
した(余り成功していないようですが)。前提とする論理の枠組みに
含まれる矛盾を通してより高い立場への飛躍を計るという方法は特に
限界的な状況において威力を発揮します。固定した存在を生成・消滅
の中に突き落とすことと言っても良い。
>135
116と126のレスは読みました。
で、とあるところから引っ張ってきた文章ですが
これは弁証法が現実と接する一例と言えるでしょうかね?
>普遍主義を装った帝国主義に対抗するには、
>より高次の普遍主義を提示して見せるしかないのだ。
>強者の帝国主義に弱者の帝国主義を持ち出しても、
>それは単に力関係で負けるだけ。
>仮にヤードポンド法がグローバルスタンダードになっていたとして、
>それがけしからんと考えるならば、尺貫法を持ち出すのは間違いだ。
>力関係では最初から負けてるわけだから、
>抽象的正しさの点で対等だったら、負けということ。
>メートル法みたいに高次の抽象的正しさを持った代替案だけが、
>力を持ったデファクトスタンダードに対抗できるのだな。
勝手に引用してすみませんね>誰だか知らないけど
137 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 12:18
>135
調べたら「ヘーゲル法哲学批判序説」に載ってました。
「理論も、それが民衆をつかめば、たちまち物質的な力になる。」
どうもこの引用は、物質に対する観念の独立性をマルクスが仄めかしていると、多くの人にしばしば理解されているみたいね。
観念 --> 物質 --> 社会
でも、こうした理解は正確じゃないと思う。
このセリフだけ読むと
たしかに一番根源に観念がきているように読める。
しかし、マルクスの理論全体から理解しようとすれば、このセリフは
物質 --> 観念 --> 物質 --> 社会
ってとこだろう。
マルクスにとっては、極端に言えば、批判(批評)という作業が無くても、
基本的には、物理的な条件の必然的な結果として、革命は起きるはず。
ただ、批判がプロレタリアのアソシエーションを加速したりする「限定的な役割」は果たしうると。
ただ、それは物質的に動かされている歴史的必然を変えるわけではなく、加速しているだけでなんだよね。
またそのように、補助的な力を持つようになる観念も、基本的には物質的に規定されてる。
物理的条件から独立に、観念がポっと存在しているわけじゃない。
つまりマルクスは、やっぱり
物質 --> 社会
だね。。
138 :
考える名無しさん :2000/09/10(日) 13:48
>137
うわ! そりゃ、全て、唯物論のイロハだ!
そんなことをわざわざ説くなんて、ここに来ている人たちをバカだと思ってないか?
(実際そうなのかなあ)
139 :
6 :2000/09/10(日) 15:54
>135
引用された文章の出典が分からないので、へたなことを言うとまた
(ネット上の著作権も含め)謝らなくてはいけなくなるかも知れない
けれど、余り弁証法的な思考ではないと思います。
>>普遍主義を装った帝国主義に対抗するには、
>>より高次の普遍主義を提示して見せるしかないのだ
私なら、「現在の『グローバルスタンダードを!』という普遍主義の
掛け声の正体はアメリカを中心とした政治経済的な帝国主義であり、
事柄の本質は単なる技術的標準云々の位相にはない。帝国主義に対抗
する真の普遍主義すなわち具体的な地域性・民族性・歴史性を考慮
した多様な個性を持つ普遍主義とはプロレタリアの普遍性に根差した
社会主義の上にしか花開かないであろう。」とでも言いますね。
ヤードポンド法ではなくメートル法にすれば良いなどという矮小な
(抽象的かつ個別的な)話ではない。本質論が無い。
140 :
6 :2000/09/10(日) 16:01
>139
誤:>135 正:>136
(最近乱れていて失礼。あと以前の引用も正確な引用ではなく、
パラフレーズ(記憶違いも含め?)として理解してください。謝々)
>139
レスありがとうございます。
上記の引用はここ哲学板のとあるスレからの引用なんで大丈夫かなと・・・
では具体的に弁証法を用いた現実問題に対する解決法としてはどういう例が挙げられるでしょう?
例えば
>>114にてあげられたような会社における全体と部分においての問題で、
弁証法的に第三段階はどのようなものになるのでしょう?
>138
そうですか。では私がバカでした。
ただ、だったら、その「イロハ」を誤解してるような書き込みは、なんだったの?・・・
それから、あなたにとって「イロハ」でも、
2chを観てる人の中には、それが分からない人もたくさんいると思うけどね。。
「イロハ」って言葉も、いやらしいな、しかし。
間接的に、自分はそんなこと余裕で知ってる、って自慢してるみたいで。。
まぁいいや。
正直、もう何にも書く気無くなった。
それから、ついでに「イロハ」じゃない唯物論もぜひ教授してくれ。
なに言っても「そんなのあたりまえだ」って言われるのはイヤなので、
「あたりまえ」じゃないレベルをちょっと確認しときたいから。
144 :
6 :2000/09/10(日) 21:02
>141
『小論理学』では、「全体と部分」の相関についてそれが最初の規定された相関
であり、実在的諸部分から全体が構成されるにも拘らず、全体は部分の総括とし
てその否定であり、両者の関係は真実でないものと言われています。つまり、
まず全体とは実在しない観念に過ぎないという事であり、実在するのは常に部分
なのです。それが何らかの全体を「代表する」とされる部分に実現されていると
思い込まれる時、すべての全体主義が生まれます。「国家あっての国民」、
「国会は全国民の代表から構成される」など全て虚偽、真実でないものです。
しかし、全体を抽象的に否定して、全体無しの部分に分解された場合は、逆に
部分は部分で無くなり、その実在すら無くなる。個人主義は社会の中でこそ成立
できる。全体主義と個人主義は共に抽象的であり、第3のものとしての両者の
総合がそれらの真理でしょう。それは如何なるものか。ヘーゲルはそれを「具体
的普遍」という概念で表現しました。しかし、プロシャ帝国と言う特定の実在に
それを夢見たために、失敗した。したがって、社会が諸個人間の開かれた関係
(相関)として共同的な精神が全ての個人においてその自由な個性の形態によっ
て表現される時に、第3のものは初めて現実のものとして地上に現れて来るでし
ょう。共産主義はそれを目指すものと考えますが、「前衛党物神」は同じ反弁証
法的な全体主義に陥ってしまった。やはり、個人の内に客観的精神を根づかせる
啓蒙を同時に推し進めるしかないと思います。
ですから24さんの言われるように、ヘーゲルの「人倫と国家の弁証法的止揚」
という「未完の近代」の問題は未だ決着がついていないと言える。ましてやポス
トモダニズムなどは、127さんの言われるように、近代合理主義すら満足に根
づいていない日本ではお話にもならないでしょう。また、会社でのリストラに
対する最も弁証法的な対抗策は「団結と闘争」しかないし、「認識は闘争の中で
最も良く鍛えられる。」のも本当でしょう。(但し、偉そうに言っても今の私は
所詮日和見ですが。)
(また長文になってしまった。スミマセン。そろそろ引き時でしょうか。)
>144
とりあえず簡易レス
確かに全体と部分に関しては極めて弁証法的ですが、
会社でのリストラがいまいち弁証法っぽくなく感じます。
というか
>>114の例からすでに弁証法の第一、第二形態にあてはめれないんですよね。
どうしても弁証法が現実的な場で使用されるというのは想像がつかないんです。
熟読せずに失礼しました。
(かもしれませんね)
146 :
考える名無しさん :2000/09/11(月) 02:15
>142
弱い!弱すぎるわ!
>137
> どうもこの引用は、物質に対する観念の独立性をマルクスが仄めかしていると、多くの人にしばしば理解されているみたい
いくら何でもこんなことあるかい。
>146
結局私は、
2chのバカでもみんな知ってるようなことをわざわざ述べたバカ野郎
ということですか。
はい、よくわかりました。
「ヘーゲル法哲学批判序説」の一節を誤解するようなバカはいない、
2chのレベルの高い皆様方に囲まれて幸せでございます。
(月曜日に入水自殺)
148 :
考える名無しさん :2000/09/11(月) 09:49
>147
ほんとに弱いなあ。
そして陰湿。
イロハの次のニホヘ程度の唯物論を教授してやろうと思ったのに。
入水なら人の迷惑にならないとこでしとけよ。
>教授してやろうと
してして。
150 :
6 :2000/09/11(月) 22:59
>145
113さんもそうですが、「現実問題に弁証法をあてはめる」あるいは「弁証法
を利用して現実問題を解決する」という言い方自体がおかしい。弁証法は便利な
道具・手段ではなく、真実に向かうための方法であり、誤謬を通して真理に至る
運動が作る軌跡のようなものです。確かに、リストラの例を「全体と部分」の矛
盾という概念の客観的説明に使ったのは質問の意図に沿うものではなかったよう
です。むしろ、「主体と客体」あるいは「理論と実践」といった、より高次の弁
証法の例とすべきだったでしょう。(と言う事で、説明のやり直しをしよう。)
毎日勤勉に働いていた人が、突然上司からクビを言い渡される。「会社の窮状」
と言う理由は本当か。「窮状=困窮した状態」とは一見客観的な事柄のようだが
実は相対的な概念です。ヘーゲルは「状態とは質の外面性である」という内容の
定義をしている。状態性とは「あるものに固有と見える質は回りとの関係の中に
おいてのみそれである」と言う真理を直接的に表現しているのです。関係性の中
で異なる主体によっては困窮した状態=喜ばしい状態かも知れない(例:ライバ
ル会社)。「会社の窮状」=「社員の窮状」という等式が成り立つのは、会社=
社員である場合だけでしょう。論理的にはこれは会社と自己との「実体的同一視」
と呼ばれます。会社と一体化していた社員が会社の窮状を救うために自分の窮状
をもってするとは何たる矛盾でしょう。ですから、リストラを告げられた社員に
は実体(客体)の主体化こそが求められています。これはエンゲルスも言うよう
に、最高度の弁証法です。日常的・没主体的なあり方から、非日常的(限界的・
危機的(困窮的)・状況的)で主体的なあり方への転換(弁証法的転化)が必要
となります。(ハイデガーなら「状況の開示性」とでも言うだろう社会への本質
洞察(運命の声)がこの瞬間に起きるかも知れない)ただし、ここから実存主義
的な主体性論者と別れるのは、「状況の本質」を捉えるには対象の理論的・科学
的な分析と本質の概念的把握が必要だと言う事です。「俺をクビにする会社と今
の社会とは一体何なのだ。」と言う哲学的反省は、「今の社会の本質が生産者と
非生産者との階級対立に基づき」、「資本とは過去の労働の物象化の事であり」
(労働価値説)、「階級対立という矛盾を闘争(矛と盾との最終戦)なくしては、
否定(階級という否定的存在)の否定(反撃あるいは否定の本質)としての真の
肯定(階級そのものの消滅)は得られない。」と言った、多くの媒介的知識によ
る客観的・概念的認識を成立させる事で、真に「現実的な」展望を持てるし、真
理と正義なくして自らの窮状を真に救えない事を確信できる様になるでしょう。
(「矛盾は世界に満ち満ちている。矛盾を笑え。」)
151 :
考える名無しさん :2000/09/12(火) 00:06
・e・<このスレッド迫力あるね。
早く「ニホヘの唯物論」を教授しろよ、おまえ。
帰納から、腰まで水につかって、まってんだから。
「2chに書いてもいい最低レベル」をクリアしてるやつ。
2chに書くんだったら、これくらいは理解していて欲しい、というレベルの。
かなり期待してるぞ。
153 :
名無しさん@1周年 :2000/09/12(火) 06:06
いまさら、必死に勉強とかしないでね。
頼むから。
154 :
フィロゾファッカー :2000/09/12(火) 09:43
>150=6
150を読んで再度114と116を読みましたが、
114にてリストラの例を出した理由を理解できた気がしました。
>、「現実問題に弁証法をあてはめる」あるいは「弁証法
> を利用して現実問題を解決する」という言い方自体がおかしい。弁証法は便利な
> 道具・手段ではなく、真実に向かうための方法であり、誤謬を通して真理に至る
> 運動が作る軌跡のようなものです。
この言葉はだいたい理解できます。
弁証法は結局、固定された認識とそれを否定的に捉える理性から生じる
本質を理解しようとする肯定的な昇華といったとこでしょうか。(言葉足らずなもので)
それにしても前半はなんとなく分かるのですが
>、「今の社会の本質が生産者と
>非生産者との階級対立に基づき」、「資本とは過去の労働の物象化の事であり」
>(労働価値説)、「階級対立という矛盾を闘争(矛と盾との最終戦)なくしては、
>否定(階級という否定的存在)の否定(反撃あるいは否定の本質)としての真の
>肯定(階級そのものの消滅)は得られない。」と言った、多くの媒介的知識によ
>る客観的・概念的認識を成立させる事
がいまいち理解しきれません。
マルクスの「資本論」でも読んで現状の資本主義システムを理解するということなのか?
さらには唯物、機械的な認識を得る必要があるといったところでしょうか?
それにしても、軌跡とありましたが
昔からヘーゲルが人間の足跡を見てそこに神を見出してるような姿が拭えないでいます。
155 :
考える名無しさん :2000/09/12(火) 14:45
>帰納から、腰まで水につかって、まってんだから。
お待たせ。悪かったね。でも君のIMはかしこいぞ。唯物論とくりゃ帰納と演繹、
分析と綜合、とくるのが理の当然だな。
弁証法的唯物論において観念と物質が切り離せないのは、ちょうど帰納と
演繹が切り離せないようなものだな。物質の正体なんてそう簡単にとらえられるもんじゃない。
帰納と演繹を同時に動的にやって初めてちょっと見えてくる程度だ。
演繹ってのは世界の根元を<神>に期してしまう態度だと思えばいいと思う。
そして帰納ってのは「AはAである」という自同律の枠内でものごとを見、
分析していく、まさに近代の態度だ。
中世ヨーロッパの人間は「AはAである」とは決して思わなかったと思うよ。
そういう見方を知らなかったし考えもしなかった。Aは単独でAなんじゃなく、
基盤としての神様があって初めてAだという考え。この考えは現代人には解りにくいから、
落合仁司『地中海の無限者』(勁草書房)の一読をすすめる。神学書にしては
坊主臭くなくていいぞ。
以上が唯物論の初歩から一歩踏み込んだ考察なんだけど、解っただろうか。
俺は39=44=49=53=61=63=68=80=91です。これを機会に以前の書き込みにもツッコミをくれると嬉しいなあ。
156 :
考える名無しさん :2000/09/12(火) 14:51
あと155を読めば一目瞭然だと思うけど、
俺が影響を受けたのは花田清輝です。
157 :
考える名無しさん :2000/09/12(火) 17:38
147どーだね?まだレスくれないかね?
まあ俺は弁証法的唯物論に関する事なら何でも教えるし文献も紹介する。
根付いてほしい思想だからな。
最初は解らないかも知れないが、そのうちハッと解ると思う。(俺も親切だなー)
158 :
名無しさん@1周年 :2000/09/12(火) 19:03
俺はこんなバカと話していたのか。
ショックでかいので、レスを書く気もしない。
1.アナロジーの意義が不明
帰納と演繹の関係が「弁証法的唯物論において観念と物質が切り離せない」関係に似ている、と。
はい、そのアナロジーをする意義が不明。
切り離せないことが似てるから?そんなこといったら、他にも切り離せないものも沢山あるだろう。
似てると指摘だけして、即ご満悦じゃこまるわけ。
他の関係ではなく、わざわざ「演繹と帰納」を使うことが、
なぜ「唯物論の理解」を深める上で大切なのか、ちゃんと説明してね。
2.考察が無意味
演繹=世界の根元を<神>に期してしまう態度
帰納=「AはAである」という自同律の枠内でものごとを見る態度
(この特徴づけも全然納得がいかないが、まぁそれは置いとくとして)
「AはAである」という前提に依存しない演繹なんてあるわけ無い。
こんな「あたりまえ」なこと言うのに、地中海のなんたらだの、
そんな本いちいち持ち出してくる必要あるのか?
こんなバカでも知ってることが「ニホヘの考察」なのか。
3.他人の考えをただリピートしてるだけ
「唯物論の初歩から一歩踏み込んだ考察」というから、おお、と期待してたら
単に、唯物論について誰か(落合だか花田だか)が書いたことを、ただリピートしてるだけ。
なのに、そこまで偉ぶれるとは大したもんだ。
4.まとめ
ホヘトのレベルというよりは、幼稚園の「あいうお」って感じだな。
これだったら、イロハの書き込みのほうが、まだ価値がある。
というか、全体的にちょっと話にならん。
159 :
考える名無しさん :2000/09/13(水) 02:18
>158
物質そのものの奇怪な姿をとらえるのに
神学の論理はすごく参考になるってのは強調しておきたいことでね。
無意味じゃねーんだ。
帰納と演繹のアナロジーについてだが、これは定説。弁証法的唯物論においては
観念と物質、帰納と演繹、時間と空間、主観と客観はわかちがたく統一されている。
俺が連想したのは当然。
あと俺を試すんじゃなくて、
君が本当に知りたいと思うことを質問してくれねーかな。
できるだけ君の生活感情に即した形でね。
でなきゃ、どうにも答えにくいんだよな。
160 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 06:01
>俺を試すんじゃなくて
だったら今後は、
「おまえの書いてることはあたりまえ。バカにしてんのか?」
見たいなことを人に軽軽しく言うのはやめておけ。
いま逆にやり返されたように、
そういうこと言いつづけてると、結局は自分に返ってくる。
どんなに「あたりまえ」な意見にも、つねに学ぶところはある。
実際、おまえのアナロジーも「あたりまえ」だけど、同時に私は面白いとも思う。
だからいくら「あたりまえ」にみえても、そういうことを人に言って、
人の発言をくじくようなことをするな。
161 :
考える名無しさん :2000/09/13(水) 08:25
>160
ありがとう。
でも悪いけど、やっぱり俺はつまんなけりゃつまんないとはっきり
いう方だな。そのことで人が傷ついてもそれをバネにして飛躍するからな。
それが弁証法。
162 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 10:01
あのね、いくら自分にとって「あたりまえ」に見えても、
テキスト読んだこと無い人にとっては、情報として若干は「役に立つ」わけ。
みんながみんな、マルクス読んで、ここにきてるわけじゃないの。
たとえ「自分はそれを知ってるから」といって、
そこで「黙ってろ」みたいなこといったら、発言がしづらくなるわけ。
お互いに批判しないともちろん意味はないのだが、
「ばかにしてんのか?」と言うよりは、より建設的に話を対立・発展させる仕方があるだろう。
たとえば、「それは唯物論の基礎だと思うけど、若干それを発展させると、こういう見解もある・・」など。
しかし、喧嘩売るような物言いで「人を飛躍させてあげよう」とする、あんたの「教育方針」には恐れ入るな。
「罵ったのは相手のため」って自己正当化が、どうにも鼻持ちなら無い。
まぁ、それはともかく、
そういうのは議論を発展させる上で、あまり効果的ではないことを、学習してください。
はい、おじゃましました。
ヘーゲルだのなんだのに、どうでもいい観念論に話を戻してください。
163 :
考える名無しさん :2000/09/13(水) 15:44
>161
ごめん。
訂正
>162
165 :
考える名無しさん :2000/09/13(水) 18:37
弁証法のひとって違う考えの人とも同一性にいたらなきゃならないから大変だなあ。
このスレって弁証法批判としては上出来かもっていうのは理解が浅い?
166 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/14(木) 09:22
揚棄しよう。あげあげ
167 :
> :2000/09/14(木) 11:56
ヘーゲル論理学の入門書としては『ヘーゲル論理学入門』がよいのではないでしょうか。
監修が鯵坂真なので少し敬遠しがちの人もいるかもしれませんが、内容は
とてもよいと思います。私はこの本を読んで目からうろこでしたよ。これ読んでから
小論理学読んだらなんとなくわかるような気がしてきました。
ちなみに有斐閣新書から出てます。
168 :
考える名無しさん :2000/09/14(木) 18:46
ヘーゲルなしに今の哲学は語れないので揚げ
169 :
6 :2000/09/14(木) 22:45
>154
>昔からヘーゲルが人間の足跡を見てそこに神を見出してるような姿が拭えないで
>います。
とても良い(Nice?Good?Phylosophical?)指摘で、対話を続ける契機として
相応しいポイントだと思います。
ヘーゲルの全哲学体系は、前にも書きましたが、「絶対的観念論」と呼ばれてい
ます。「絶対的」とは「他に比較できるものの無い」という事であり、例えば
カントの主張する「最高、最善、最強と言った相対性」を超越しているという事
です。ヘーゲルの初発の疑問は多分「何故に神はこの世界を創造したのか?」と
いう事では無かったのかと(勝手に)想像できます。神様は人間等を遥かに超え
た存在なのだから、「この矛盾、苦悩、不合理に満ちた世界」など必要としな
かった筈だと考えるのは自然です。そしてヘーゲルはその事を若い時から大真面
目に考えて死ぬまで続けたのだと思います。時代的にも西欧近世が近代に移行し
ようとする18世紀末の事ですから、歴史的激動期(確かにどんな時代でも激動
期と言える訳ですが)にあってそれまでの総括を余儀なくされていました。そし
てその結果、あの森羅万象を論理的に語り尽くした「哲学体系という弁神論」
が出来たのです。「観念論はヘーゲルをもって完成し、同時に本質的に終わった
。」、これは確かな事です。。(「ミネルヴァの梟」とはヘーゲルの事です。)
19世紀の人ニーチェは言いました、「神は死んだ、余りに人間を愛したが故に
。」と。
そして、20世紀はまさに「神無き時代」であり、モノとカネを神とする人間が
殺戮と暴虐を繰り広げた(そして今なお繰り広げつつある)時代でした。
(”Heil,Hitler!”は辞書では”Hegel”の近くにありますが、何と遠い事か)
21世紀を間近にした現在、改めて人類の歴史を総括すべきかも知れません。
そのためにも、ヘーゲルが到達しようとして果たし得なかった、しかしマルクス
が確実に継承したものが何か、を考えるのは有益でしょう。
哲学の定義が何であれ、すべての哲学者に共通している事は「存在の根拠、始源
、本質を内省的に問い、言葉によってそれを表現し万人に伝えようする営為」を
自らに課していた事でしょう。
「尋ねよ、さらば門は開かれん。」(これもパラフレーズですよ。)
170 :
6 :2000/09/16(土) 06:14
>154(続き)
>マルクスの「資本論」でも読んで現状の資本主義システムを理解するというこ
>となのか? さらには唯物、機械的な認識を得る必要があるといったところで
>しょうか?
リストラの例に沿った私の説明はそうなっているのですが、一挙にすべてを言
おうとしたため、非常に乱暴になっています。そこでもう少し話しを戻すと、
まず「社会の本質」という言葉で何を理解するかという点です。
まず「本質」という言葉の定義について、ヘーゲルはまず「現存在の根拠」と
言っています。「現存在」(Existence)は単に「存在」と訳される事もある
が本来「現れたもの」という事であり、何かが現れたその何かの事をその「根
拠(理由、基盤)」と呼びます。感覚される存在はみな「これ」とか「あれ」
とか指差せるものであり、個別的なものですが、それらは生成・変化します。
それは仮象(見かけ)に過ぎないというのが哲学的認識(反照的認識)の第一
歩です。その本体は何かと問い、それを本質という言葉で表現します。それは
直接的な存在と見なされると、変化しない、自己同一的な「それ自体」と呼ば
れます。それは「これ」「あれ」という個物ではなく、「すべてのxx」とい
った全体を対象とする(マクロ的と言っても良いかな)概念です。したがって
「本質とは何か」を問う本質論ではすべての概念は二重化され、相互反照的あ
るいは相関的になります。自己の反対(対立物)においてその概念内容が表わ
されるという事です。たとえば「同一性の何たるは対立において現れ、本質の
何たるかは非本質的な現象において現れる」という事です。
科学者でも、何らかの存在の本質を理解するためにはまず「存在の起源(始源)
」を求めることから始めるでしょう。何故なら「すべての存在者は生成の結果」
であり生成の源に遡及することがそのものの「何」を明らかにするからです。
たとえば、「貨幣はその生成の秘密を商品において表現している」と言った具合
です。貨幣は元々は商品の一つに過ぎなかった。金色に光り輝くその衣装の端か
ら透けて見えるのは卑しいその出生の秘密だと言う訳です。(これはマルクス流
でヘーゲルは観念論者としての気高さからそんな言い方をしないでしょう。)
と言ったように社会の本質を唯物論的に探っていくことが、アホな経済学とこの
資本主義体制を根底から転倒させるための哲学的・弁証法的なやり方でしょう。
171 :
6 :2000/09/17(日) 11:47
>169
誤:Phylosophical 正:Philosophical
(かなり酔って書いていた。偉そうにして失礼)
172 :
考える名無しさん :2000/09/18(月) 10:00
6さん晦渋。
173 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/18(月) 13:41
紀平正美のヘーゲルの訳はすげーぞ。
174 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/18(月) 13:42
>713
「なるほどの論理学」の人だな。
今生きていたら「逝ってよしの論理学」を書いてくれたかも。
175 :
6 :2000/09/18(月) 22:20
>172
やはり、そうかなぁ。掲示板でできるだけ分かり易く説明しようとしても
限界があるな。しかし、ヘーゲル論理学を解説する学者は必ずその観念論の
罠にはまってしまう。173で言われている紀平正美教授も絶対観念を称揚
しているらしいし、下記サイトの人もそうだ。
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/MOKUZI.html 繰り返しになるが、ヘーゲル弁証法は唯物論的に把握し返さなくては何の
価値もない。もっとも鯵坂真を始めとするスターリン主義型似非唯物論者
の言う「最高の科学としての弁証法」など何の役にも立たないが。
(と言う事で少し、話のテーマを変えた方が良いかな。)
176 :
考える名無しさん :2000/09/18(月) 23:16
>ヘーゲル弁証法は唯物論的に把握し返さなくては何の価値もない
そうです。まったくそのとおり。
177 :
6 :2000/09/19(火) 21:57
「観念と物質は違う」とは決して晦渋な言葉ではないが、その違いは何かと
考えると結構難しい。「すべては観念に過ぎず、各自の主観的な考えが絶対
である」とされる20世紀では特に難しい。
「本質は現象とは異なる」とは決して晦渋な言葉ではないが、その違いは何か
と考えるとかなり難しい。本質を学問の対象から消去した20世紀では特に難
しい。
ヘーゲルは言った、事物の違い(差異、区別)を知ることがその本質を知る
始まりであると。差異、不等、対立、矛盾と深まる区別を知ることで対象の
本質に迫ることができる。
(ポストモダニスト達は差異という第一の否定(抽象的否定)ばかりを強調し
たが、差異を言う時、実際に対象にしているのはむしろ同一性なのです。否定
の否定こそが具体的な認識をもたらしてくれる。)
「すべては鏡、反射、反照のうちに現れる。」、この場合の主語「すべて」
とは「『すべて』という概念」のことです。「すべての存在」などは存在しない。
それは区別された実在に反照する本質存在をいうのです。
結局、ヘーゲルは「概念的認識」の重要性を弁証法的に明らかにした事で、
ソクラテスやアリストテレスと同様に、永遠に歴史に残る事になるでしょう。
しかし、F.フクヤマといったチンピラ保守反動のヘーゲル誤読者とは違い、
歴史は未だ終わってなどいないのです。
(と言う事で、一旦引くことにします。活発な議論を!)
>170=6
レスありがとうございます。
ヘーゲルの現存在については再度読み込んでるのですが
時間の都合でちょっと・・・論文に追われてて
もうちょっと待ってください。
179 :
考える名無しさん :2000/09/21(木) 19:14
オーソドクシーばんざい
弁証法を知らないってのは
ようするに世界の半分がごっそり抜け落ちてるっていうこと。
それが近代。
180 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/21(木) 23:12
チェスタトン?
181 :
考える名無しさん :2000/09/22(金) 13:43
おーすばらしい やはりそうか
感激です。
「木曜の男」は現実の弁証法的発展をテーマにした哲学小説の大傑作
182 :
180 :2000/09/22(金) 23:14
>181
おれも「木曜の男」は凄いと思った。
183 :
考える名無しさん :2000/09/23(土) 01:17
創元推理文庫の翻訳も最高
ヘーゲルの現存在についての資料が見当たりませんので
もうちょっと待ってください。
185 :
考える名無しさん :2000/10/01(日) 01:30
age
186 :
無断引用はいかんよ :2000/10/04(水) 22:26
カントもヘーゲルもあんまり賢くなかったみたいだね。
---------某所よりコピペ----------
そもそも、“形式的論理(学)”という用語は、論理学を まるで理解していなかった
Immanuel Kant (1724-1804) が(マヌケにも!)使い出したものであり、Kant よりも
更に一層、輪をかけて マヌケだった Hegel (1770-1831) が(身の程 知らずにも!)
アリストテレス流の論理学への“蔑称”として 盛んに用いたものである。 因みに、
Hegel は “Wissenschaft der Logik”--- 『大論理学』 の名で邦訳されている ---
なる題名でありながら、およそ 論理学 とは縁の無い、ガラクタだらけの、馬鹿デカイ
“愚書” を残して、論理学史に その 恥 をば 晒(さら)している。
# Hegel の愚かさを象徴している「事件」として、次が在る:−
彼(Hegel)が [太陽系には 惑星は7個しか存在しえない] などというアホなことを
“証明” した、丁度 その年に 8番目の惑星(海王星)が発見された!
187 :
考える名無しさん :2000/10/05(木) 01:17
>186
ははは。あんたほんとにそう思うの?
・・・なるほどね。
188 :
考える名無しさん :2000/10/05(木) 01:31
>>186 なんか非常になじみのある文体だと思ったら、そりはあの人の文章じゃないか(^^;;;;
189 :
考える名無しさん:2000/10/24(火) 23:38
これもアゲ
ヘーゲリアンさんもいる
190 :
考える名無しさん:2000/10/28(土) 12:29
age
..
192 :
考える名無しさん:2000/11/15(水) 11:55
屁ー出る
193 :
考える名無しさん:2000/11/16(木) 09:57
↑
久しぶりにあがってるからみたら、こんなのが。
さらしあげ
194 :
考える名無しさん:2000/12/26(火) 03:44
age
195 :
考える名無しさん:2000/12/30(土) 16:07
楊棄あげ
196 :
考える名無しさん:2000/12/30(土) 18:47
たーだいま。今神保町で『大論理学』を買ってきました。
正月に読みきれるかな?
age
197 :
6=OFW:2000/12/30(土) 21:10
お久しぶりです。私、固定HNにしました。
ヘーゲルが結構読まれているようなので、意外かつ心強い、です。
しかし、私のカキコもあちこちで晦渋、難解と言われ、困っています。
具体的にどの辺(全部?)が難しいか、教えてもらえると助かります。
21世紀には、ますます弁証法が必要になる、ってか。
198 :
歴史はもうすぐ止まる:2000/12/30(土) 21:45
柄谷も最近は(というよりもともとか?)ヘーゲル論理学に
ついてしゃべらなくなった。2世紀に渡るブルジョワ革命後
の運動の総括をヘーゲル使って誰かやってくれ。
おれには辛いな(藁
199 :
考える名無しさん:2000/12/30(土) 21:45
スペンサーブラウンの代数と弁証法の関係はどうよ?
大澤真幸『行為の代数学』なんかじゃ、スペンサーブラウン
の代数はヘーゲル的と評されてるが。
つーか知ってる人いる、スペンサーブラウンって。
200 :
考える名無しさん:2000/12/30(土) 22:27
ついでに、資本主義と弁証法の関係はどうよ?
マルクスは『資本論』で弁証法を活用したわけだが、
資本の動きは弁証法的に記述できるなら、弁証法の称揚は
資本の単なる肯定になりはしないのか?
それとも、そんな心配は無用?
201 :
考える名無しさん:2000/12/30(土) 23:06
@@『資本論』序盤チャート@@
(1)反対概念・・具体的有用労働(対)抽象的人間労働
・・使用価値(対)価値
(2)商品A(使用価値+価値)−商品B(使用価値+価値)・・反対概念の「統一」=矛盾の発生
(3)商品からの価値規定の抽象・・商品の使用価値としての一元化
(4)商品から抽象された価値規定のある一商品への集中・・その一商品の価値としての一元化
(5)=(2)'商品A(使用価値規定のみ)−商品X(価値規定のみ)・・反対概念の「非統一」=矛盾の廃棄
(6)商品Xは「貨幣」となる。
(7)商品A−貨幣X・・「貨幣=交換経済」の誕生
202 :
OFW:2000/12/31(日) 22:02
>>200 >マルクスは『資本論』で弁証法を活用したわけだが、
マルクスは商品、貨幣、資本価値について、「労働」をそれらの実体的
本質だと見た訳ですが、そのこと自体はアダムスミスやリカードが既に発
見していた。マルクスの独自性はその「必然性」を解明しようとしたこと
であり、そのためにはむしろ「価値形態」に着目して、その展開を行う必
要があったのです。そして、それは、特に『資本論』の最初に出てくる
「教科書的」な説明に要約されているように、価値なるものの弁証法的な
矛盾とその発展、そしてその止揚として捉えられた訳です。。
>資本の動きは弁証法的に記述できるなら、弁証法の称揚は資本の単なる肯
>定になりはしないのか?
内在的本質における矛盾は現実の事態として現象せざるを得ない、と言う
のが弁証法的な記述と言えるなら、資本自体の矛盾を記述するとは、それ
を肯定することではなく、否定の否定(他ではあり得ない必然的なもの)
として捉える事です。それは例えば、価値自体に内在している「使用価値
と交換価値の矛盾」という抽象的な本質が価値法則として展開されており、
それは資本形態においても実体として、”最終的には”恐慌を引き起こす
原因になっている、という認識であり、法則の根拠である根本的矛盾
(資本と賃労働の対立)を止揚しない場合、自己を否定して、無法則な
事態に結果する、という認識です。
もちろん、「実体の真理は主体である」とは実践的な命題ですから、現実
の矛盾は記述によってではなく、実践的変革によってのみ止揚できる。
そのためには、労働者階級の組識的団結と現実における必然性の洞察
(主体的かつ客観的な世界認識)が必要です。「必然(運命)を自由
(未来)に変える」事は労働者の共同的な事業としてのみ達成可能です。
203 :
考える名無しさん:2001/01/27(土) 16:23
さてしかし、このスレのテーマであるヘーゲルの評価について言えば、アドルノ
あるいはデリダが称揚する不協和あるいは差異性(差延性)といったそれ自体
あまり役に立たない直接的な表象をもって反発するだけでは、余りにも安易と言える。
それらは、現実の歴史を規定してきたものがヘーゲルのもたらしたパラダイムだと
言わんばかりである。20世紀の思想的閉塞状況あるいはファシズムの原因が
ヘーゲルの絶対的観念論(あるいはそれに代表される何物か)にあると錯覚する程、
ばかげた事はない。そんな考えは小ブル的な知性の脆弱さを示すだけであり、彼ら
の属する中産階級固有の肯定かつ否定の両義性をごまかしているだけである。
「全体主義には反対、しかし共産主義にも反対。」これが、決して団結しない
不協和あるいは決して階級として統一されない差異性を後生大事にしたい否定的
かつ肯定的な弁証法(むしろ反弁証法)の正体である。
ヘーゲルならば、そのような退廃的・逃避的な小精神を大いに哄笑するであろう。
204 :
考える名無しさん:2001/01/31(水) 18:26
karage
205 :
考える名無しさん:2001/02/18(日) 11:42
あがれ
206 :
考える名無しさん:2001/03/18(日) 01:38
あがれ
208 :
考える名無しさん:2001/03/18(日) 23:42
今、スラヴォイ・ジジェクの「為すところを知らざればなり」を
再読(邦訳は96年初版)してますが、3分の1読み終わって、
ヘーゲルだらけです。ラカンよりヘーゲルの文字のほうが多いです。
デリダが攻撃していたヘーゲルは全然ヘーゲルじゃなくて、
デリダ自体はヘーゲル的、というか、脱構築で苦労して、
やっとヘーゲルに追いついたみたいに書かれています。
このスレ上げてたヘーゲリアン諸氏で、ジジェクも読まれてる方がいらっしゃったら、
感想なんか伺って見たいもんですが、もう、いませんかねえ、
このスレ盛り上がってたの、半年も前みたいですし…
209 :
考える名無しさん:2001/04/17(火) 14:09
ageざるを得まい。
210 :
世界@名無史さん:2001/04/25(水) 09:05
カントのアンチノミーとヘーゲルの弁証法の関係について教えてください。
211 :
考える名無しさん:2001/05/07(月) 03:17
学としての哲學を今こそ語れ!
なんちて、、、
212 :
考える名無しさん:2001/05/08(火) 23:52
moriage
213 :
考える名無しさん:2001/05/09(水) 02:40
おれ長谷川宏だけどなんか質問ある?
ネット上で無料で公開でもいいです、売れそうにないんだったら。
いや、買って読んでちょ。
作品社も今大変だからさ。
218 :
名無しさん:2001/05/09(水) 05:23
ヘーゲル思想を現代科学に矛盾しない形にリファインしたら、
どういう感じになるんだろうな?
219 :
名無し:2001/05/09(水) 05:53
ヘーゲルは理解されてないようです。
論壇教授にも。
ヘーゲルについては、
昔から(本人生存中からも)
理解したか否かが、
いつも問題になるよなぁ。
それも、なんだかなぁ(ワラ
ヘーゲル本人が執筆した論文は多分ヘーゲル自身も分からないだろうね。
今日のヘーゲルの地位があるのはそれを解釈してくれた哲学者のおかげ。
222 :
名無しさん:2001/05/09(水) 18:02
「すべて現実的なものは理性的である」
223 :
考える名無しさん:2001/05/09(水) 20:24
age
224 :
考える名無し:2001/05/11(金) 23:50
age
225 :
長谷川宏:2001/05/11(金) 23:57
>>221 いいえ、ヘーゲルが難解に見えるのは、今までの翻訳が悪かったんだと思います。
226 :
考える名無しさん:2001/05/12(土) 00:53
岩波書店はカント全集が完結したら新訳のヘーゲル全集を出して欲しいな。
227 :
長谷川宏:2001/05/12(土) 00:58
>>226 いや、だから、作品社もいろいろ大変だからさ。
228 :
考える名無し:2001/05/13(日) 02:17
o
229 :
考える名無しさん:2001/05/15(火) 17:58
age
230 :
考える名無しさん:2001/05/30(水) 08:29
age
231 :
へーゲリアン:2001/06/01(金) 11:29
長谷川さん、講談社メチエの「ヘーゲル精神現象学入門」すばらしすぎです。
サラリーマン兼研究者というのは、頭が下がります。
232 :
考える名無しさん:2001/06/15(金) 23:47
あげ
233 :
考える名無しさん:2001/06/17(日) 02:01
藝術は終わったとかって、まだ続いてんじゃん
age
235 :
考える名無しさん:2001/07/13(金) 14:12
age
236 :
長谷川宏:2001/08/02(木) 02:51
学生の皆さん、夏休みですね。 『精神現象学』を読みましょう。
237 :
考える名無しさん:2001/08/14(火) 00:21
長谷川訳、読んだYO!
238 :
考える名無しさん:01/08/28 03:32 ID:N4K1rxf6
239 :
考える名無しさん:01/09/19 21:05
age
岩波から出てる(はずの)『法哲学』が欲しいんだけど
どっかに売ってないかな?やっぱり次の版刷るまで手に入らないかな?
241 :
考える名無しさん:01/10/09 08:46
242 :
考える名無しさん :01/10/15 12:27
んーn、なかなかレスがつかないですね。
ヘーゲルなんてきょうびはやんないんでしょうか?
243 :
考える名無しさん:01/10/21 02:00
『法の哲学』を読むことになりました。
中公の世界の名著で読みはじめました。
これっは読んどけっていう関連書はあるんでしょうか?
……加藤尚武以外で。
>>237 樫山訳がいいという噂です。古すぎる噂でしょうか。
244 :
考える名無しさん:01/10/21 04:06
へー
245 :
考える名無しさん:01/10/21 17:47
ここまで読んだ。すごく勉強になった。
6改めOFWさん、ありがとう。and復活希望。
ヘーゲルを学ぶことで「人生の意味?」が分かりましたか?
247 :
考える名無しさん:01/11/10 14:53
保守age
248 :
弁証法的理性批判放棄:01/11/10 16:11
ヘーゲル難しい・・・
249 :
考える名無しさん:01/11/28 18:59
ところで、みなさんホントにヘーゲル読んだことあるの?
大論理学くらいよんでるんでしょ?
>249
精神現象学と法哲学講義と歴史哲学講義と哲学史講義くらいしか
読んでないYO!論理学、勉強したいね。
>248
あなた、かわいいね。
251 :
名無しさん:01/11/29 19:14
「歴史の終わり」で話題になったフランシス・フクヤマは、ヘーゲルを誤読しているとはよく聞く批判です。
フクヤマはヘーゲルの歴史観を
「自由主義的民主主義が自己の正当性を証明してゆく過程」ととらえていますが、
本当のところはどう解釈すればいいのでしょうか?
ヘーゲルは歴史をどのようにとらえていたのでしょうか?
くわしいかた、教えていただけませんか?
ヘーゲルは難しくないよ〜。
小論理学とか読んでみてよ。わかりやすいから。
絶対精神の躍動を感じよう〜。
karage
「人間の現実と定在は人間の頭蓋骨である」『精神現象学』
>>251 >「自由主義的民主主義が自己の正当性を証明してゆく過程」
とは近代ブルジョア自由主義に基づく平板な進歩主義史観の主張であり、
現在も某国大統領がその“証明”のために「不朽の自由」作戦を敢行し
ている所ですね。
ヘーゲル自身は歴史を客観的精神の発展過程として捉えており、その一
段階としての政治的国家の最高形態を立憲君主制に見ていた。若きマル
クスは『ヘーゲル法哲学批判(序説)』において、その反動性を見事に
(弁証法的に)批判しています。
256 :
考える名無しさん:01/12/23 14:48
結局ヘーゲルがやったのは資本主義神学とでもいうべきものの完成ではないのか
257 :
考える名無しさん:01/12/27 03:34
弁証法的なソナタ形式を持つ、「音楽というもの」を嫌っていたカント
258 :
考える名無しさん:01/12/27 03:44
>>255 OFWさん、近代ブルジョワ自由主義を批判しておいて、
ヘーゲルの安直な歴史理性にふれないとは、人がわるいぜ。
正直、ヘーゲルの歴史観はおきらくな西洋中心主義だよ。
ヘーゲルの哲学は、すばらしいところもあるが、
歴史観はクソです。これ断言。
259 :
考える名無しさん:01/12/27 04:59
↑
安直だとか、西洋中心主義だとか言うのはもちろん!
西洋から輸入されたものをあなたが読み、現在至上
主義におちいったからですよ
>>259 時代的制約を考慮しろって?
それなら、OFWさんの主張自体が
ナンセンスでしょ?
261 :
考える名無しさん:01/12/27 05:42
>>251 フクヤマのヘーゲル読解はコジェーヴの解釈に拠っているんじゃないの?
262 :
イポリットの方が好き:01/12/27 05:47
>>259 これいいだしたらまあほとんどナンセンスだが
>>261 でも今ふりかえってみると拠っているとすら言えるかどうか。
例えば「終わり」のp47。主君は殺されることはあっても
教育されることはない、なんてコジェーヴはマジではなかろう。
263 :
考える名無しさん:01/12/27 11:11
フクヤマはヘーゲルを誤読したにあらず。
コジェーヴを誤読したもの。
264 :
考える名無しさん:01/12/27 19:51
長谷川さんの次の邦訳は「宗教哲学講義」だというのは本当ですか。
266 :
考える名無しさん:01/12/28 00:58
ヘーゲルの弁証法は、根源的な差異を限定化し、1つの全体的、包括的な
概念へと「止揚」することによって、「同一者」を生み出す
と言われますが、それは違うのではないのか、と思います。
そうではなくて、ヘーゲルの止揚というものは、矛盾や差異
を自己の存立条件と認める主体の立場の転換だと思います。
それは、自己の内部に「他者」を発見することであり、まさ
に自己の内部に「他者」を発見することで、主体を成立させて
いた象徴的ネットワークが破壊されるとともに、新しい象徴的
ネットワークが生成してゆく過程こそが「弁証法」なのだと思います。
267 :
考える名無しさん:02/01/01 02:03
精神現象学を読もうと思っている初心者ですが、どの翻訳がいいのか教えて下さい。
やっぱり長谷川さんのがいいのでしょうか。でも前に知人に聞くと分かり易いけどいい加減
だと言われてました。最初は何でもいい加減でいいから易しいものを読むべきでしょうか。
268 :
考える名無しさん:
ヘーゲルは読むと頭がおかしくなるので読まない方がいいよ。
読むのなら大論理学がおすすめ。岩波に邦訳あり。