1 :
千葉:
ソシュール研究者の丸山圭三郎って知ってる?
2 :
名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 19:28
ここに来てる人で知らない人の方が少ないと思う
3 :
千葉:2000/08/19(土) 20:31
彼の「身分け構造」「言分け構造」の考え方について,
自分の意見がある方,聞かせてください。
4 :
名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 20:40
まず自分の意見を述べてからにしましょうね。
5 :
名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 23:57
丸山に思想なんてある?
ソシュールの焼き直しじゃないの?
欲求と欲望
7 :
千葉:2000/08/20(日) 05:50
丸山のソシュールの「読み」そのものが丸山の思想であり,
それはソシュールの思想そのものとは違う思想なのですよ。
マルクスの思想とマルクス主義とが違うようにね。
その「読み」が価値あるものであるかどうかは,
私たち一人一人が判断すべき事だよね。
8 :
小夜子:2000/08/20(日) 08:12
言語は意味を伝達するには不十分な道具です。
9 :
千葉:2000/08/20(日) 13:47
そのとおりだと思います。
でも,言語は意味伝達の道具というだけではありません。
人間は,コトバによって,森羅万象を分節することによって,
「身分け」による動物の環境世界とは違った,
自分の主観的世界(私的幻想)を構成して生活している,
というのが丸山の考えですよね。
私も,その考えには賛成です。
10 :
ネオ生茶:2000/08/20(日) 15:36
>>8 言語を意味伝達の道具と見なすことは、
言語の本質を見落とすことになります。
9のいうとおり言語によって分節化が行われていることは確かですが、
分節化されたときには既に認識という行為が終わっている。
また、分節化されなければ認識は起こらない。
だから、分節化=認識ということになります。
11 :
千葉:2000/08/20(日) 16:46
10の人はわかっていると思うのですが,
そこで重要なのは,
コトバによる分節が,恣意的なものだということです。
つまり,メルロ=ポンティのいうゲシュタルトである森羅万象を,
コトバによって恣意的に分節し,図化している,といことです。
そのような意味で,丸山は,それを「非在の現前」と呼んでいます。
そして,言語は,特定共時的文化の中で構造化されたものであり,
人間は,その構造に従って,分節しているわけです。
別の言い方をすれば,人間は,共同幻想を通して,
私的幻想を構成して生活しているのです。
12 :
名無しさん@1周年 :2000/08/20(日) 20:01
>11
>ゲシュタルトである森羅万象を,
>コトバによって恣意的に分節し,図化している,といことです。
恣意的と言うのはどうかな?現実に合わない言語は存続できないでしょう。
人間が言語を使うのは、まずそれを使って仲間と意志を伝え、自然に立ち
向かうためでしょう。
机を「机」と呼ぶか、「desk]と呼ぶのはなるほど恣意的(自然的な因果
関係はない)が、「机」が机を指さなければ人間はこの世(自然、社会)に
おいて3日と生きていけないのでは?
あと、ゲシュタルトと図化って同じ意味じゃないのでは?
13 :
千葉:2000/08/20(日) 21:22
「机」が「机」として客観的に存在しているわけではない,ということです。
ある人間が「机」として分節するが故に「机」として図化されるのです。
ただ,特定共時的文化(ノモス)内では,分節の仕方が構造化されている,
ということなのです。それが硬直化し,反転できないものになってしまう,というところが問題なのです。
老婆にも見え,同時に若い女性にも見える絵というのを見たことがあるでしょ。
その絵の全体が,ゲシュタルトであり,「地」といってもよいでしょう。
そのゲシュタルトから,老婆を分節し,図化することと,
若い女性を分節し,図化することは,
恣意的なことだと言っているのです。
そして,一旦,老婆だと分節してしまうと,若い女性とも分節可能であることが
見えにくくなってしまうというわけです。
14 :
12:2000/08/20(日) 21:53
>13
どうも分かっておられないようだ。
「机」の場合は机職人が「机を作ろう」と考えて、頭の中にある机の
イメージ(ゲシュタルト(形態))を元にして木材等の材料(物質、
質料)から自らの労働によって生産する事で、「机として客観的に」
存在するようになったのです。それは幻想ではなく、勝手に分節した
のでもなく、机として人間が利用できる様な機能と美的なセンスも
加えて、生活のために必要だからこそ、そのように形態化したのです。
木材自体には「机」に分節される必然性はない、だから恣意的だとでも
言われるのかな。世界の客観性と人間社会の現実性をもう少し認識した
方が良いでしょう。ソシュール&丸山圭三郎はトンデモな観念論者です。
前者は言語(ラング)を実体化し、後者は世界を相対化して結局世界を
恣意的なものとしている。老婆と若い女性を見誤るのは、実践的に
は不可能で、できるのは暇な学者位でしょう。
15 :
名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 00:19
言葉による分節が恣意的である、というのはどういうことでしょうか?
グッドマンの「グルー」(ある時点t以前に確認された緑色のものと、
時点tまでに確認されていない青色のものにのみ適用される述語)のよ
うな言葉もあり得るがたまたま私達は「グルー」を使わずに「グリーン」
「ブルー」を使っているという恣意性と同じことなのでしょうか?
もしそうだとすると、自然種名辞(「水」「金」「ライオン」「楡」な
ど)の指示についてのクリプキや(ある時期の)パトナムの説と対立す
ることになるのでしょうか?
16 :
雅也:2000/08/21(月) 00:31
全然関係ないけど千葉君は何故
「、」と「。」でも「@`」と「.」でもなく
「@`」と「。」を使ってるの?
不思議なんですけど。
17 :
電波猫:2000/08/21(月) 16:16
むかし、「初めての現代思想」みたいな本で
「意味は差異によって決まるのだ」と言うのを読んで
「犬が猫を追う」という文で、犬は、が、猫、を、追うとの差異によって決まる?
何じゃそりゃとかすげーバカな事を思ったのを思い出した(いや、今は理解してるかと言われると困るけど)
18 :
千葉:2000/08/21(月) 20:38
12・14の名無しさん、「老婆と若い女性を見誤る」という発想自体が、
○×式の発想法にとらわれた見方であるということに気づきませんか?
どっちも○ということもあるのですよ。
ある民族は○とし、別の民族は、他を○として分節する
ということもあるわけです。
「机」として作られたものでなくても、
あなたが「机」として分節すれば、
それは、あなたにとって机なのです。
逆に、あなたが机として分節したものを
机として分節しないこともあり得る、
ということを自覚しておくことが重要だと
丸山は言っているのだと思います。
19 :
12:2000/08/21(月) 21:16
>18
全然分かっていないようだ。
何故、「『老婆と若い女性を見誤る』という発想自体が、 ○×式の
発想法にとらわれた見方」なのかな?
@「ある対象xを始めは『若い女性』と見ていたが、良く見ると何と!『老婆』
だった。」と言う日常生活での錯覚現象と、
A「心理学テストで示された図紋xが始めは『若い女性』に見えていたが、図と
地が反転して突如『老婆』に見えるようになった。」というパターン認識
との間にある天地程もある違いに無自覚だとは、恐れ入った。
現実世界の中で老婆は決して若い女性にはならない。その場合、老婆とは年取った
女性のことを言い、「若い女性=年取った女性」という等式など絶対に成り立たない。
「・・・のように見える」という事と「・・・として存在する」という事を
「・・・として分節する」という曖昧な言葉で混同しているだけでしょう。
現象は相対的なものですが、世界は現象の総体として現実的・客観的なもの
です。丸山はそのことが全く分かっていないのです。
「あなたにとっての机が他人にとっても机だとは限らない。」とは何と無内容な
主張でしょう。「この世はすべて相対的。確かな事など何も無い。」とでも言いたい
のでしょうかね。もしそうなら、始めから本まで書いて主張する程のことも無いだろ
うに。
通りすがりなので、
めんどくさいので全然読んでないが、
良く見ると何と!『老婆』
って言葉、面白い。
21 :
千葉:2000/08/21(月) 22:03
そうです。「この世はすべて相対的。確かなことなど何も無い。」のだと、思います。
人間は、たまたま、ある特定の関係の網の目を構造化している、
ある特定の文化を持つ集団の中に生まれ、
その関係の中で、その文化を内面化しながら、
その人なりの関係の仕方を習慣化していくことにより、
自我を形成していくのです。
そして、その文化そのものが恣意的なものだということです。
それとも、なんらかの神を信じて、
特定の文化を実体的なものと、保証してもらいますか?
22 :
12:2000/08/21(月) 22:32
>21
なるほど。多分年代的にもお若いのでしょうね。
文化については表象としてはその通りです、人間は社会の子ですから。
しかし人間はまた自然の一部だと言うのも確かなことです。
ですから「文化が恣意的」と言うことは余りにも主観的な主張であり、
「人間は歴史を作る、しかしその事を知らない。」(誰かさん)
と言う唯物論的な考え方にも接する必要があると思います。
でないと、哲学をする甲斐のないニヒリズムあるいは宗教に陥ります。
どうか、真理の客観性という、今では殆ど消えかかっている哲学の初心
に返って下さい。
これは、忠告として申し上げているのです。
以上
関係ないけど、人を説得したければ言葉の勢いだけで
人を圧倒しても何の効果もないと思うけどね。
それが証拠に、千葉くんはまともに22の言葉に納得し
てるとは思えないし。
24 :
名無しさん@1周年:2000/08/22(火) 00:12
「机」という言葉によって世界を分節することが恣意的である、という主張と、ある人にとっては机であるものが別の人にとっては机ではないことがあり得る、という主張は少し意味合いが違うと思います。
日本語の「机」と英語の「table」「desk」では適用範囲が違います。
そして「机」を採用するか「table@`desk」を採用するかはある意味で恣意的です。
しかしひとたび「机」という言葉を選択したならば、すでに世界からある一定の領域が切り出されており、人によって机であったりなかったりするというような相対性はありません。
なぜなら、日本語の「机」は人に相対的に適用範囲が変化する語ではないからです。
もちろん、私が「これは机だ」と主張し、別の人が「これは机ではない」と主張することはあり得るでしょう。
その時、「私にとってはこれは机だがあなたにとってはこれは机ではない」と言うのは非常に奇妙な物言いです。
単に「私はこれを机とみなすが、あなたはこれを机とはみなさない」と言うほうが自然でしょう。
25 :
名無しさん@1周年:2000/08/22(火) 00:14
26 :
千葉:2000/08/22(火) 06:08
森羅万象の中で、ある物が
他との関係無しに、
「 〜として」独自に存在してはいない。
と、いうことことを自覚しておくことが重要なのですよ。
27 :
nanasi:2000/08/24(木) 16:24
>16
>全然関係ないけど千葉君は何故
>「、」と「。」でも「@`」と「.」でもなく
>「@`」と「。」を使ってるの?
>不思議なんですけど。
横書きの場合「,」と「。」を使うのが、一応標準的のようです。
「公用文作成の要領」(昭和27年4月4日内閣閣甲第16号依命通知)や
「文部省刊行物表記の基準」によると、“横書きでは、「,」および「。」を
用いる”ということになっています。
私は、「、」と「。」の方が好きですけど。
28 :
考える名無しさん :2000/09/07(木) 07:30
『ソシュールの思想』を読むと、丸山圭三郎は、意外にサルトル風な実存主義的プロ
ブレマティークに囚はれてゐるのを感じます。丸山としては、サルトルよりメルロ=ポ
ンティが贔屓なんだらうけれど、なほサルトル的主体性論の残滓があるやうな……。
晩年、小説もどきを書いたりしたのもその辺に発するのではないか?
29 :
語用論的転回 :2000/09/10(日) 01:48
30 :
考える名無しさん :2000/09/10(日) 08:01
>「文部省刊行物表記の基準」によると、“横書きでは、
>「,」および「。」を用いる”ということになっています。
「,」および「.」じゃないの? 横と縦のがごっちゃになってるから
不思議だと言われてるんじゃない?
gea
.
.
34 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 00:07
丸山氏の思想には、「言分け構造」(文化のゲシュタルト)が「身分け構造」(生体のゲシュタルト)を破壊するか抑圧するという概念があるんですよね。フロイト的というか。
彼は、マルクスとフロイトとニーチェとソシュールを良く似た同世代の学者に挙げている。
文化や文明といわれているものが生体のゲシュタルトを麻痺させるか変形し、それは近代の出来事ではなくて、人間の高度な言語能力の獲得に由来していると。
35 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 00:36
>>34 「自然」という概念を高度に文明的な概念だと考えたのはわからんでもない。
36 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 00:40
37 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 00:57
>36
文明病を治療する医学行為は自然的か文明的か
38 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 01:01
39 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 01:32
>38
自然=文化
文明=自然
文化=文明
ゆえに、自然=自然(トートロジー)
ゆえに、なにも言っていないのと同じ。
40 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 01:40
彼のいう言語はラングではなく、ランガージュすなわち「シンボル化能力」です。しかしこれは彼もみとめていますが、シンボル化能力は人間にかぎったことではない。ハエやバクテリアにとっても環境はシンボルとしてこそ存在し機能し得ている。ハエやバクテリアもそれぞれ独自の共同幻想の上で彼らにとっての天と地の図(客観的環境)を形成している。
「机」がなんであるか、人間にとって、蚊やハエにとって、馬や犬にとって、バクテリアにとってなんであるかは、つまりその「環境の客観性」とは、外在的なものではむしろなく、生体のゲシュタルトに属していて、そのもとで天と地の図(環境)に分節されている。だから生体と環境とを要素還元的な二元論でやっているのではだめで、生体と環境との関係がそれらの形態ないし生態を形成していると考えなくてはならない。
生体の認知能力とか神経能力の能動性というか自律性というのを指摘して、人間の認知能力すなわち言語能力においてはそれが「環境」をつくりかえる能力として顕在する。しかしその「環境」とは生体にとって外の環境というのではなくて、生体のゲシュタルトそれ自体でもある。
つまり、「机」はハエにとってもバクテリアにとっても「腰掛ける机」であるか?というのが恣意性で、わたしが思うに、彼の理論は生物学的にも適用可能だと思います。恣意性という概念は「恣意的必然」のことを言っていて、人間ほどではないにしても生命の進化(というより変化というべきかな)を能動的に説明する方法として活用できる。
41 :
40:2000/12/11(月) 01:45
>>40 「腰掛ける机」は変です。まちがえ。
「椅子」はハエにとってもバクテリアにとっても「腰掛ける椅子」であるか?
「机」はハエにとってもバクテリアにとっても「机」として客観的に機能するのか?
文明人にとって「テレビ」は未開人にとって「机」かもしれない?
42 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 02:00
観念論とかいうけど、人間に至っては夢想・観念すら物質化・実現化しちゃう能力があるからね。
43 :
考える名無しさん:2000/12/11(月) 02:04
>>34 >>40 身分け言分けの二元構造論を超えられると?
>>42 観念対物質、観念論対唯物論では解釈しきれなくなってきた
44 :
考える名無しさん:
>43
>身分け言分けの二元構造論を超えられると?
でもそれは丸山の思想から後退する危険もあるね