ウィトゲンシュタインがわからない

1名無しさん
論理哲学論考をよんでみても頭がいたくなったり眠くなったりします
もう少しカンタンに飲みこみたいのですがウィトゲンシュタイン余裕
という方ぜひご教授願いたいです
彼は何がいいたいんですか?完全に理解するには記号論理学の知識が
必要らしいですけど。とにかく知りたい
2名無しさん:2000/04/02(日) 01:36
初期;言葉とは社会的な文脈で使われる
----放浪-----
後期;社会とは文脈によって立ちあらわれる


とかいいつつ反対だったらごめん(苦笑)

ルードヴィッヒ・ヴィドゲンシュタイン、
彼の兄たち、片腕の名ピアニストであるパウル・ヴィドゲンシュタインを除いて
全員自殺、ルードヴィッヒも常に自殺への恐怖につきまとわれた。
3名無しさん:2000/04/02(日) 03:45
一言で言うなら
正しい世界の記述の仕方マニュアル
か?>論理哲学論考
4オッカム:2000/04/02(日) 22:28
 永井均さんの『ヴィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)が
お手ごろな入門書でしょうか。記号論理学については初歩的な知識が
あるといいかも。
5トミケン:2000/04/04(火) 12:34
それはヴィトゲンシュタインが全てを「言語ゲーム」という抽象的な
概念に表白したからである。
この書き込みにはすごい反響があるのだろうが。過信なのか・・・。
6芸術系:2000/04/04(火) 18:08
だれかここで講義してください
7青リンゴ:2000/04/05(水) 07:01
「リンゴを食べた」という言葉は、
「リンゴを食べた」ということ以外になにも語ってはいない。
とかいうのが、前期「論理哲学論考」。

「リンゴを食べる」という言葉をちゃんとした場面で使える人は、
「リンゴを食べる」の意味が分かっている人である。
これが、後期の「哲学探究」。

素人の感想というか印象にすぎませんが、
少なくとも私はウィトゲンシュタインにうんとはまっています。
8名無しさん:2000/04/05(水) 18:03
講義できるほど「ウィトゲンシュタイン余裕」という人はいないだろうから、
物理板みたいに、みんなでゼミやりませんか?
9名無しさん:2000/04/05(水) 19:28
7さんへ。
 前期では、「りんごを食べた」は「りんごを食べた」しか
意味しない、とのことでしたが、そこには、「りんごを食べな
かったのではない」(へりくつっぽいですが)は含まれていない
と、ウィトゲンシュタインは考えていたのでしょうか?

「リンゴを食べる」という言葉をちゃんとした場面で使える人は、
「リンゴを食べる」の意味が分かっている人である。
というのは、わかる気がするのですが、ただ「ちゃんとした場面で」
というのがちょっとひっかかります。
 そもそも、それがりんごを食べたと言える、『ちゃんとした場面」
であるか、どうかということはどうやって解るのでしょうか?
それについては、ウィトゲンシュタインは何かいっていますでしょうか?
10どしろーと:2000/04/05(水) 20:01
逆のような気がする。
「ちゃんとした場面」(生活用式)こそが言語を成り立たせる基盤であって、
その「ちゃんとした場面」を「ちゃんとした場面」として語ることは、既に別の言語ゲームになる。
ということだったような気がする。

「意味」については前期は語りえぬものとして退けられ、
(「りんごを食べる」の意味は既に鉤括弧の中で示されてしまっているゆえ)
後期では・・・
どうなったんだっけ。
11:2000/04/05(水) 22:30
 10さんへ。
 つまり『ちゃんとした場面』について語る言語ゲーム(それと、
そもそも、その言語ゲームというのは、なんなんですか?)
 はすでに「ちゃんとした場面」を前提にしている(ゆえに、
結局『ちゃんとした場面』については語れない)というふうに
理解していいんでしょうか?
 とすると、ある人(例えばわたし)が「りんごを食べる」という
言葉の意味がわかっているかどうかは、どう判断すれば
いいんでしょう?
 
12伍長:2000/04/06(木) 00:25
詳しい人が一人でもいてくれるとありがたいんですけどね・・・
ワタクシ、前期はまるでわからんので、後期のみに言及しますが、

>9
>そもそも、それがりんごを食べたと言える、『ちゃんとした場面」
>であるか、どうかということはどうやって解るのでしょうか?

>11
>とすると、ある人(例えばわたし)が「りんごを食べる」という
>言葉の意味がわかっているかどうかは、どう判断すれば
>いいんでしょう?

この二つは、同じ疑問ですよね。
答:その人の行為や発言を見たり聞いたりして、同じ生活様式を共有する誰かが判断する。
形式論理的に判断するのではなく、判断する側も同じ生活様式の中で同じレベルの「言語ゲーム」を演じているのだから、おのずから判断は為される。
そもそも、「判断する」というのも、同じ生活様式を共有する誰かが行う一つの行為にすぎない。
すなわち、
A:(1)ある状況の下で、(2)「りんごを食べた」と発言すると、(3)これこれの結果がもたらされる。
B:(1)Aの状況の下で、(2)「ちゃんとした場面だ」と判断すると、(3)しかじかの結果がもたらされる。
AとBは異なる言語ゲームですが、いわば同レベルの言語ゲームであって、BがAの「メタ」ゲームであるわけではない(?)。Bにおける(2)のような行為のことを、一般に「判断」と呼んでいるだけ。
違うかな? 
13伍長:2000/04/06(木) 00:51
>11
>つまり『ちゃんとした場面』について語る言語ゲーム(それと、
>そもそも、その言語ゲームというのは、なんなんですか?)
>はすでに「ちゃんとした場面」を前提にしている(ゆえに、
>結局『ちゃんとした場面』については語れない)というふうに
>理解していいんでしょうか?

前半のカッコ内:
「その言語ゲーム」とは、「それはちゃんとした場面か」という発言の言語ゲーム(上の12のB)。
後半のカッコ内:
「ちゃんとした場面」については語れるし、人々は実際に語っている。
おおすじ:
「『ちゃんとした場面』を前提にしている」と言ってしまうと、「ちゃんとした場面」がいわば「絶対的に」与えられているというような気持ちになってしまいますが、一応宜しいのではないでしょうか。私としては、「ある場面を『ちゃんとした場面』と見なすような生活様式を前提にしている」と言った方がいいと思う。
誰か専門家の人はいませんか?
14:2000/04/06(木) 01:24
 12さんへ。
 とすると、言語ゲームというのは、メタレベルの審判のない日常
会話といった意味に理解していいんでしょうか?

 あと、生活様式を共有しているか、どうかという点も、
また、言語ゲーム内の営みであって、その外からの判断は
できない、ということになるんですね。
とすると、結局わたしが「りんごを食べる」という言葉を正しく使って
いるかどうか、という判断基準は、わたしの周囲の人達が、わたしが
その言葉を使う際にしめす反応に依存するというわけなんですね。
う~ん、なんとなく違和感がのこるんだが、それがなんなのかわからない
なぁ~。
それと、「生活様式の共有」というのは、どういう意味なんで
しょうか?
 同じ言葉をしゃべっているとか、同じ習慣を持っているとか、そうい
うことなんでしょうか?
例えば、わたし(一応人間に属しているつもりですが)とサルたちとは
生活様式を共有しているのでしょうか?

15伍長>14:2000/04/06(木) 03:20
ええと、私はド素人ですので、あまり信用しないで下さい。詳しい人が適否を判断してくれると嬉しいと思って書き込んでます。。

>とすると、言語ゲームというのは、メタレベルの審判のない日常
>会話といった意味に理解していいんでしょうか?
そうだと思います。ただし、「日常会話」を文字どおりの意味で使うと、違います。数学の論文を書いたりすることなども含めた人間の言語活動すべてです。

>とすると、結局わたしが「りんごを食べる」という言葉を正しく使って
>いるかどうか、という判断基準は、わたしの周囲の人達が、わたしが
>その言葉を使う際にしめす反応に依存するというわけなんですね。
概ねそういうことになると思います。そして、そのあなたの反応は、周囲の状況や、個々人の生育歴、共同体の歴史などに依存しています。
16伍長>14(続き):2000/04/06(木) 03:26
>それと、「生活様式の共有」というのは、どういう意味なんで
>しょうか?
> 同じ言葉をしゃべっているとか、同じ習慣を持っているとか、そうい
>うことなんでしょうか?
下世話に言えばそうだと思いますし、下世話な言い方をするべきだと思います。
ただ、「共有」という言い方をしてしまいましたが、「ちょっと待った」と言われそうです。
例えば、すべての人が共通に持つ生活様式など無いというのが後期ウィトゲンの考え方だと思いますので。
正しくは、生活様式の「家族的類似」があるだけということになると思います。

>例えば、わたし(一応人間に属しているつもりですが)とサルたちとは
>生活様式を共有しているのでしょうか?
私たちの生活様式とサルの生活様式には「家族的類似」があるということだと思います。
ただし、ある種の「物理的」な属性が、絶対的な類似性(または共通性)であるかどうかは分かりません。にもかかわらず、我々は「心理的」に、「類似性あり」と見なしたり見なさなかったりするのです。
つまり、「類似性あり」と見なすのは我々の「判断」ですから、その「判断」行為は、ある言語ゲームの中で行われるわけです。
(なお、私が昔かじった行動分析学では、「家族的類似性」の問題は、刺激の機能的な等価性といった問題に相当しているはずです。)

(で、私の理解はどの程度のものなのでしょうか? 間違いを指摘してくれると嬉しい。>詳しい人)
17:2000/04/06(木) 18:43
 伍長どの、返答ありがとうございました。
 もうすこし、質問させてください。

 たとえば、サルは物を食べて排泄する、とわれわれは理解する。
その理解の内にすでにサルとわれわれの生活様式の「家族的類似性」
を読み取ってしまっているけれど、それは物理的なデータに根拠をもつ
ものではなく、むしろそのような物理的データに根拠を与えるのも
言語ゲーム(そのデータが根拠になるかどうかという言語ゲーム)で
ある、ということなんですね。

とすると、あらゆる面でわれわれとまったく類似性を持たない
生活様式なるものを想像することは、できないのでしょうか?

 あと、何を語ろうと、すべては言語ゲームの内部の出来事になる
とすれば、「語りえぬもの」についても、また「語りえぬものに
ついての語り」という言語ゲームとして十分語れることになるわけです
から、前期の「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
という有名な言葉は、後期の言語ゲームという概念によって完全に
否定されたわけですね。
18伍長:2000/04/07(金) 02:41
>とすると、あらゆる面でわれわれとまったく類似性を持たない
>生活様式なるものを想像することは、できないのでしょうか?
こうした疑問は、「類似性」なるものが我々の判断とは無関係に絶対的に存在するはずだという前提に立って為されるはずです。
ところが実際には、「類似性あり」(または「類似性なし」)と見なすのは我々なのです。

例えば、「類似性」の有無についての言語ゲームA・Bを考えましょう。単純化すると、
A:(1)ある状況のもとで、(2)甲・乙に「類似性あり」と判断すると、(3)何かと都合の良い結果がもたらされる。
B:(1)ある状況のもとで、(2)甲・乙に「類似性無し」と判断すると、(3)色々と都合の良い結果がもたらされる。

ついでに、次のような言語ゲームC・Dは?
C:(1)ある状況の下で、(2)「あらゆる面でわれわれとまったく類似性を持たない生活様式なるものを想像することは、できないのでしょうか?」という疑問を発すると、(3)これこれの結果がもたらされる。
D:(1)ある状況の下で、(2)上記の疑問に対して「想像できる」(または「想像できない」)と答えると、(3)しかじかの結果がもたらされる。


物事を「形式的に」(つまり、それを考える我々自身とは無関係なものとして切り離して)考えがちな我々からすると、後期ウィトゲンの言い分は、一見「身も蓋もない」もののように感じられる。
どうでしょうか?

なお、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という前期の言葉が、後期において否定されたのかどうかについては、私には分かりません(多分そうだとは思うのですが)。
そもそも、「語り得ぬもの」という語で彼が何を言おうとしていたのかがどうしても分からんのです。
19芸術系:2000/04/07(金) 03:07
ちゃんと聞いてますから。
20名無しさん:2000/04/07(金) 05:30
「言語ゲーム」って結局、言葉ではなんとでも言えるってこと?
言葉の意味ってのは、共同幻想に過ぎないと。
まぁ、そう言われればそのとうりだけど、別段目新しくは無いですよね。
21名無しさん:2000/04/07(金) 06:14
つーことはあれか、つまりよく出てくる「OOとは何か?」みたいな
命題は無意味だよーンてことかな。定義できるわけねーんだから考える
だけ無駄無駄無駄。っつーやつか。
なんか青臭い奴がさあ、「文学」とはなんだ!とかいって語りだしても
さー、いくら議論しあってもそりゃ結局不毛な言葉遊びだろ~ってこと
だにゃ?

22名無しさん:2000/04/07(金) 06:24
およそ言いうるものは明瞭に言いえ、語り得ざるものについては沈黙せねばならない。この語り得ざるものとは思考され得ぬもの。意味と思考内容は切り離せませんよね。なんらかの思考をするとは、何らかの意味を想起すること。なんらかの意味として成り立つには、その意味が指し示す実在の対象がなければならない。その実在の対象を正確に意味する記号使用の原理とは何か?が論考には書かれてるんですか?他の事実から合成されたのではないような事実、が事態と書かれてますけどよくわからない。事実として成り立つ文というのは、実在の対象を正確に意味したということですか?
23伍長:2000/04/07(金) 17:00
>22
>その実在の対象を正確に意味する記号使用の原理とは何か?が論考には書かれてるんですか?
>事実として成り立つ文というのは、実在の対象を正確に意味したということですか?
なんかそうみたいですね。解説書なんかを見るとそんなようなことが書かれているみたいですが、アタシには前期の「論考」は意味不明でわかりましぇん。

対して後期の「探究」の方なんですが、こっちの方はついて行ける(ような気がする)。だいいち、日常語で平易に書かれているから(ただし、「ああ言えば上祐」的でヒジョーにウザイ。イライラします)。
で、
>20@`21
多分大抵の人はそう読むんじゃないかと。だから「身も蓋もない」わけ。
ところが書店へ行くと、ウィトゲン(特に後期)関連の本は小難しいのが何冊も並んでるでしょ? 論ずる価値有りと考える哲学者がたくさんいるわけで、それは何故か?と愚考すると、
(1)「身も蓋もない」と考える読者の側の読解力不足か、さもなくば、(2)哲学者たちが浮世離れしすぎていて常識を忘れているか。
たぶん両方だと思う。
私の場合は、別スレでも書いたように、「探究」の内容がスキナーという心理学者(行動分析学者)の言語行動論とよく似てるので、そっちの方の興味から、注釈のつもりで読みました。
そういう読み方でよければ、ゼミを続けてよろしい? 特に「私的言語」とその周辺の心身問題についてなら、「身も蓋もない」とは言えなくなってくる。実は私の興味はその辺りに集中しております。
24:2000/04/07(金) 22:57
 参加者も増えてきたみたいでいい感じですね。

18でのABCDの言語ゲームに関してなんですが、ABの対話で交わ
される、類似性があるか否かという言語ゲームは、類似性の程度を
問うている対話と、考えることができると思うんです.

 例えば、自分と両親は類似点が多いから、似ていると言いたくなるが、
遠くの親戚とは類似点がすくないから、似ているとは言わない、と
いった具合。(もちろん、類似点が多いかどうかを決めるのも、
われわれの言語ゲーム内部での行為である)
 しかし、どんなに遠い親戚でも親族であることには変わりないのと
同じように、類似しているかどうかを判断するときも、対象の根本的
類似性は前提されているのではないでしょうか。
 例えば、鯨は魚(に似ている)か哺乳類(に似ている)かといった
議論のとき、魚も哺乳類も生物であることを前提としている。
 
25:2000/04/07(金) 22:59
 これは、前にでた『ちゃんとした場面』の考察をそのまま「類似
性」にあてはめてみたものです。
わたしは、10さんの書いたのが分かりやすいと思ったので、
引用します。
>ちゃんとした場面」(生活用式)こそが言語を成り立たせる基盤
であって、その「ちゃんとした場面」を「ちゃんとした場面」とし
て語ることは、既に別の言語ゲームになる。<

ここで最初に出てくる、ちゃんとした場面(言語ゲームの基盤)を
「 」でくくって「ちゃんとした場面」と記述します。そして、
最後(三番目)に出てくる、ちゃんとした場面(可能な言語ゲーム
の一つ)を『 』でくくって『ちゃんとした場面』とします。
とすると、ここで言われていることは次のようになると思います。

1、「ちゃんとした場面」(=「生活様式」)が言語ゲームを成り立
たせる(根拠づける)基盤である。したがって、可能などのよう
な言語ゲームもこの基盤を前提にして語らえることになる。
2、その基盤「ちゃんとした場面」を主題として言語ゲームの俎上
に載せようとすると、(そのような言語ゲームもまた「ちゃんとし
た場面」を前提とするために)『ちゃんとした場面』についての
言語ゲームにかわってしまう。
3、ゆえに、いつまでたっても、「ちゃんとした場面」そのもの
を主題とするとこはできない。
類似についてもこれと同型の展開ができるのではないでしょうか。
26:2000/04/07(金) 23:06
 あるものとあるものとが類似しているか否か
という言語ゲームは根本的な「類似性」を前提にして
いる。そしてそのような根本的「類似性」について語る
言語ゲームをはじめようとすると、いつのまにか、
根本的「類似性」を前提とした『類似性』についての
言語ゲームになってしまう。というものです。
したがって、いつまでたっても、根本的「類似性」に
ついては語ることができない。
以上の考察をC@`Dの議論に当てはめてみると、例えば
次のような会話ができるとおもいます。CさんとDさん
の議論です。
27:2000/04/07(金) 23:11
C:わたしは、われわれとあらゆる面で家族的類似性をもたない
生活様式を想像できる。

D:きみが言っていることが本当だと仮定しよう。すると
君はわれわれとまったく類似性を持たない生活様式を想像したこと
になるわけだが、それはわれわれが使う「生活様式」という概念の
範疇に属するわけだね。とするなら、われわれが使う「生活様式」と
いう範疇に属するという点において、われわれの生活様式と類似して
いることにはならないだろうか?

これに対してもしCが反論して。「いや、われわれの使う生活様式と
いう概念の範疇とまったく違う生活様式なのだ」、と語るとすれば、D
は次のようにきりかえせるわけです。

『きみが、何を想像したにしろ、それが、生活様式であるなら、それが
生活様式であるという点でわれわれの「生活様式」と類似している。
そして、もしそれがわれわれとどのような面でも類似点を持たないもの
であるとするなら、そのようなものを「生活様式」とわれわれが見なす
ことはできないのではないか。そのようなものについては、それが何で
あるかさえわれわれにはわからないだろう』と。

289:2000/04/07(金) 23:24
C:わたしは、われわれとあらゆる面で家族的類似性をもたない
生活様式を想像できる。
D:きみが言っていることが本当だと仮定しよう。すると
君はわれわれとまったく類似性を持たない生活様式を想像したこと
になるわけだが、それはわれわれが使う「生活様式」という概念の
範疇に属するわけだね。とするなら、われわれが使う「生活様式」と
いう範疇に属するという点において、われわれの生活様式と類似して
いることにはならないだろうか?
これに対してもしCが反論して。「いや、われわれの使う生活様式と
いう概念の範疇とまったく違う生活様式なのだ」、と語るとすれば、D
は次のようにきりかえせるわけです。
『きみが、何を想像したにしろ、それが、生活様式であるなら、それが
生活様式であるという点でわれわれの「生活様式」と類似している。
そして、もしそれがわれわれとどのような面でも類似点を持たないもの
であるとするなら、そのようなものを「生活様式」とわれわれが見なす
ことはできないのではないか。そのようなものについては、それが何で
あるかさえわれわれにはわからないだろう』と。
29:2000/04/07(金) 23:33
26の続き。
C:わたしは、われわれとあらゆる面で家族的類似性をもたない
生活様式を想像できる。
D:きみが言っていることが本当だと仮定しよう。すると
君はわれわれとまったく類似性を持たない生活様式を想像したこと
になるわけだが、それはわれわれが使う「生活様式」という概念の
範疇に属するわけだね。とするなら、われわれが使う「生活様式」と
いう範疇に属するという点において、われわれの生活様式と類似して
いることにはならないだろうか?
これに対してもしCが反論して。「いや、われわれの使う生活様式と
いう概念の範疇とまったく違う生活様式なのだ」、と語るとすれば、D
は次のようにきりかえせるわけです。
『きみが、何を想像したにしろ、それが、生活様式であるなら、それが
生活様式であるという点でわれわれの「生活様式」と類似している。
そして、もしそれがわれわれとどのような面でも類似点を持たないもの
であるとするなら、そのようなものを「生活様式」とわれわれが見なす
ことはできないのではないか。そのようなものについては、それが何で
あるかさえわれわれにはわからないだろう』と。


30:2000/04/07(金) 23:36
 すいません、三重の書きこみになってしまったようです。
なぜか書きこみボタンを押してもエラーの文章が出てくるので、
掲示できていないとおもったもので。なんか掲示板の具合がよくないです。
31:2000/04/08(土) 00:13
 あのー、なんか掲示板の様子(というか自分のPCのほうか?)が
おかしいんですけど、なんなんでしょうか。文章かきこんだんですが、
27,28,29、(三重書きこみしてしまったんですが、)それが
表示されてない!、なんでなんだろう?

32:2000/04/08(土) 00:30
 27の続きです。
17の>われわれとあらゆる面で家族的類似性をもたない生活様式
を想像することはできないのでしょうか?<という文はこういう事
を言わんとしたものなんですが、こういう考えはどうなんでしょうか。
(やっぱり、何らかの意味で客観性(言語ゲームの外部)が、われわれ
の議論を支えている、という発想が含まれているんでしょうか。自分で
もはっきりと分からないので、誰か整理してくれるとありがたいんです
けど)

それと、20さんの言語ゲームっているのは、結局なんでもありって
ことか?という問いなんですが、確かに言語ゲームが、メタレベルの
審判を持たないわれわれ内部の対話という定義が正しいとすれば、
究極的にはなんでもありってことになるとは思うんですけど。ただ、
言葉の意味とは、共同幻想に過ぎない、って言うのはちょっと、違って
いる気がします。
 あるものを幻想というためには、幻想でないもの、リアルなものを
一方に想定しなければならないわけですが、言語ゲーム内部での言語
のやり取りを幻想と断定できるような言語ゲーム外部の視点は
ありえない。
33:2000/04/08(土) 00:45
32の続き。
 いいかえれば、言語ゲームの外から、言語ゲーム内部のやり取りの
正誤を判断するような視点を拒否するのが、言語ゲームの概念なの
だろうから、幻想という表現を使うのなら、幻想かどうかという議論
それ自体もまた言語ゲーム内部でのやり取りになるのであって、言語
ゲームそれ自体は幻想ではない。それを幻想と言えるようなリアルな
ものは想定できない、っていうことになるんじゃないかな?

 それと、これに関連して21さんの「~とは何か?」という問いは
無意味になるんじゃないか?というのも、究極的には、無意味(何と
でも言える)ということになるんでしょうが、一応確立した言語
(例えば日本語)での普通の会話においては、「~とは何か」という
問いは別段無意味なものではないでしょうし、国語辞典を引いて言葉
の意味を求める行為も十分意味のある行為になると、思います。

 わたしが思うには、ウィトゲンシュタインは、「前期」では「会話が、
可能になるには、どのようなメカニズムでなければならないのか?」
といった発想を持っていたような気がします。
それに対して「後期」では、「どのようなメカニズムであれ、既に
会話が成立しているじゃないか、という事実」から考察を始めた
ような気がします。単なる勘ですけど。
34伍長:2000/04/08(土) 01:07
>9さん
丹念に読んで下さって非常に嬉しいです。
ええと、まず、26の「あるものとあるものとが類似しているか否かという言語ゲームは根本的な「類似性」を前提にしている」の部分が違うと思います。
私はこの点は重要だと考えます。「類似性」とは「機能的等価性」であって、それが生じるのは、個人の生育歴(さらには言語共同体の歴史、あるいは人類の進化の過程)においてです。二つの事柄に対して似たような反応が生じるときに、初めて「両者は類似している」と言えるのです。学習の結果かもしれないし、系統発生的進化の過程でそのような反応が淘汰されたのかもしれない(だからといって、それが「根本的な類似性」というわけではない)。

ですから、会話の部分は概ね宜しいのではないかと思いますが、末尾の「そのようなものについては、それが何であるかさえわれわれにはわからないだろう」は違うと思います。二つの事柄に対して類似した反応が生じなければ「類似性無し」と見なされるだけであって、だからといって一方についての理解が不可能ということはありません。
同様に、「ちゃんとした場面そのもの」について語ることは可能ですし、実際に語っています。25のように抽象化して「形式的に」考えると、「身も蓋もない」ことになってしまいがちです。なるべく抽象化せずに、事実に即して言語ゲーム(=随伴性。下記参照)を考えるべきで、後期ウィトゲンも不器用ながらそうしています。

また、たった今読んだ32@`33は、細かい点で違うんじゃないかなと思えるところもありますが、成程!と思えるところが多いです。特に33の最後の後期についての言及は絶対に正しいと思う。そこが出発点のはずです。

投稿するつもりで書いたものがありますので、とりあえず以下を参考にして下さい(スッゴク長いけど)。
35伍長:2000/04/08(土) 01:12
「意味」について。
後期ウィトゲンによると、語の「意味」とは、その「指示対象」ではなく、頭に浮かぶその「イメージ」でもない。
語の「意味」とは、言語ゲームにおけるその「使用」である(訳語では「使用」「慣用」「用法」など)。あるいは、語の「意味」を問うということは、その「使用」を問うということである、とされます。

これまで私は、「言語ゲーム」を単純化して、
(1)ある状況の下で、(2)これこれの言語を発すると、(3)しかじかの結果がもたらされる。
というモデルを盛んに使っていますが、これは行動分析学で言うところの「随伴性」(「三項強化随伴性」などとも言う)を下世話な言い方で述べたものです。
後期ウィトゲンの「言語ゲーム」の最小単位と言ってもいいかもしれません。
なお、この「随伴性」を成立させるための前提条件として、(0)「確立操作」という操作が必要になることがあります。
二つの例をあげます。
36伍長(:2000/04/08(土) 01:26
例1。
(0)前提
 a:空腹状態=しばらくミルクを飲んでない(確立操作)。
(1)状況
 b:ミルク(指示対象)無し。
 c:母親の姿(弁別刺激)。
(2)行動
 d:「オッパイ」と言う(言語オペラントAの自発)。
(3)結果
 e:母親がミルクを与える(他者の非言語オペラント)
 f:ミルク有り(確立操作に対応した強化)。

例2。
(0)前提
 a:確立操作は不明?
(1)状況
 b:ミルク(指示対象)有り(弁別刺激)
 c:母親の姿
(2)行動
 d:「オッパイ」と言う(言語オペラントBの自発)。
(3)結果
 e:母親が褒める(他者の言語オペラント)。
 f:母親に褒められる(般性強化)

例1と2では、「オッパイ」という言語反応の「形」は同じですが、「機能」は違います(つまり、確立操作も弁別刺激も強化も違います)。行動分析学では、これを、「トポグラフィー」は同じだが、異なる「オペラント」である、という言い方をします。
例1の言語オペラントAを「マンド」(demandのmand)と呼び、例2の言語オペラントBを「タクト」(contactのtact)と呼びます。
後期ウィトゲン風に言うと、二つの「オッパイ」という語の「言語ゲームにおける使用」が違う、つまり「意味」が違う、ということになろうかと思います。
(なお、言語ゲームも意味も決して幻想などではないということは上記2例でお判りかと思います)。
37伍長(たしかに重い。金曜夜のテレホタイムですからね):2000/04/08(土) 01:41
「指示対象」について。
分析哲学(あるいは言語哲学)関係の解説書などを読んでも、私にはその7割は理解できず、理解できたと思える3割の大半は、著者が混乱しているように思えてしまいます。「なーんか見当違いなんだよなぁ」って感じ?
例えば、「意味≠指示対象」に賛成するにせよ反対するにせよ、「指示対象」の問題にこだわりすぎているような気がしてなりません。
私に言わせれば、「指示対象」というものは、「弁別刺激」の一つにすぎず、その制御力は、語によって、あるいは状況によって様々である。
しかも「指示対象」は、場合によっては「弁別刺激」ですらなく、「強化子」か、さもなくば、当面の言語行動とは大して関係のない単なる物事か、はたまた存在しないか、でしかない。

モネの「印象・日の出」とドビッシーの「海」に対して、ともに「印象主義」という「タクト」が為されるのは何故か?(9さんの「類似性」の問題に繋がります)
弁別刺激としての前者の絵と後者の音楽には、物理的等価性は無いと思われます。が、共に「印象主義」とタクトされるような機能的等価性を持っている、と言うしかない。(ちなみに、これを「両者には家族的類似がある」と言っただけでは単なる言い換え(それも素朴な。私には後退に思える)です)。
「印象主義」という語の「指示対象」を云々するよりも、「印象主義」という言語反応を制御する弁別刺激(ここでは絵や音楽)の機能的な特性について問うべきである。あるいは、随伴性(=言語ゲーム)を分析するべきである。
後期ウィトゲンの「指示対象」批判を私なりにさらに広げると、いまだに多くの哲学者たちは、「語の意味とはその指示対象である」(or「指示対象ではない」)という発想から抜け出すのに失敗しているように思える。
38おでん屋:2000/04/08(土) 02:03
そうか。ドビッシーの「海」は大好きだが、
オッパイにも色々あるわけだな。
赤ん坊の言う「オッパイ」と俺の言う「オッパイ」とでは、
同じカアチャンのオッパイでも意味が違うわけだ。
39>38:2000/04/08(土) 03:13
例3。
(0)前提
 a:欲求不満状態=しばらくオッパイを揉んでない(確立操作)。
(1)状況
 b:オッパイ(指示対象)の存在は曖昧。
 c:カアチャンの姿(弁別刺激)。
(2)行動
 d:「オッパイ」と言う(言語オペラントAの自発)。
(3)結果
 e:カアチャンが服を脱ぐ(他者の非言語オペラント)
 f:オッパイを揉む(確立操作に対応した強化)。

確かに意味が違うみたい。
4039(訂正):2000/04/08(土) 03:17
(言語オペラントAの自発)
 ↓
(言語オペラントCの自発)
41芸術系:2000/04/08(土) 07:37
わーい、おでん屋さんが来てくれた!
「印象主義」「カアチャンのオッパイ」
分かり易いです。
42名無しさん:2000/04/09(日) 05:25
弁別刺激って?
43:2000/04/09(日) 07:45
 伍長さんへ。
わたしは、行動分析学について何もしらないので、行動
分析学の前提というか、基本的な発想のようなものについ
て簡単に説明してもらえるとたすかるんですけど。
 それと、はっきり言って36の説明はよく理解できま
せんでした。もう少し、説明を加えてほしいです。

 で、いくつか質問なんですが、
1、弁別刺激と指示対象とを別なものとして扱っていま
すが、その二つの違いがよく分かりません。
2、弁別刺激とは、例1で言えば、オッパイという発言
を誘発する原因となった(赤ん坊が受け取った)刺激の
こと、と理解していいんでしょうか?
3、例2では、ミルクが指示対象となっていますが、
母親は指示対象にはならないのでしょうか?
4、確立操作はなぜ、そのような表現が用いられるので
しょうか?(何か確立で、何が操作なの?)
5、随伴性を成立させるための前提条件として、確立操作
が必要になる場合がある、と書いていましたが、確立操作
が必要にならないで、成立する随伴性のモデルはどうい
ったものになるのでしょうか?
44:2000/04/09(日) 07:49
6、行動分析学でいう「機能」という概念についてもう少し
詳しく説明して下さい。
7「強化」という概念がよくわかりません。
すべての質問にお答えしていただければうれしいのですが、
大変な場合は、とりあえず、行動分析学の発想について
簡単な説明だけでもしてほしいですぅ。
で、とりあえず理解できないなりに自分が
理解したと思える範囲内で疑問に思った点について
指摘したいと思います。(理解できている自信がない
ので、トンチンカンなことを言うことになるかも
しれませんが、それはそれでおおめにみてくれ)

まずわたしの理解の前提。
[前提1]
言語オペラントの機能の等価性は、随伴性の中に現れる
個別要素(確立操作、弁別刺激、強化)の類似性によっ
て判断される。
根拠 36>『例1と2では「オッパイ」という言語反応
の「形」は同じですが「機能」は違います。(つまり、確立
操作も弁別機能も強化も違います)』
[前提2]
弁別刺激という概念は、ある発言を誘発する原因となる(発話
主体に与えられた)刺激のことである。
根拠>例1と2での使われ方から。
[前提3]
強化については無視する。
根拠>だってわからないんだもん


45:2000/04/09(日) 07:53
44の続き。
例4
(0) 前提
a:確立操作は不明
(1) 状況
b:ミルク(指示対象?)無し
c:母親の姿(弁別刺激)有り
(2) 行動
d:「オッパイ」と泣く(言語オペラントDの自発)
(3)結果
e:母親が乳房を与える(他者の言語オペラント)
f:母親に乳房を与えられて泣き止む(強化不明?)

赤ん坊が「オッパイ」と泣いて
いる(変わった泣きかた?)ごく普通の場面です。
関係ないけど、最近オッパイモミモミしてないなぁ~、。
まず第一に赤ん坊がなぜ泣いているのかは母親には分からない
(おそらく赤ん坊自身も分からない)という点を挙げておきます
(考察1)
つまり(赤ん坊の場合)、確立操作は不明であるのが普通の
状況である。
そこで、母親はおそらく、お腹を空かせているのだろうと、
推測して自分の乳房を与えます。すると赤ん坊は乳首を口に含
み泣き止んだとという設定になります。
泣いていた赤ん坊におっぱいをやったら泣き止んだという3の
結果をもって、われわれは例4の随伴性の前提(確立操作)
を空腹状態であったと事後的に判断することができます。
つまり、確立操作は随伴性の前にではなく、結果が明らかに
なった後に初めて決定できるのではないか、という点も挙げて
おきます。(考察2)
 「考察2」が正しいとすると、確立操作を導き出す解釈には
論理的には複数可能であることになる。
46:2000/04/09(日) 07:57
45の続き。
 普通に考えれば,赤ん坊がお腹を空かせていたからという
のが自然な解釈となるが、母親の乳首をしゃぶりたかったか
ら(別にお腹を空かせていたわけではない)という解釈も可
能である。
 あるいは、母親のミルクの中にはまだ発見されていない物
質が含まれており、赤ん坊はそれをむしょうに欲していた
(その物質は空腹を満たすような効果はもたない)という
解釈も論理的には可能である。
したがって、「オッパイ」という言語オペラントの機能の
同一性を判断する要素の一つである、確立操作の類似性は
実は、(可能的にはいくらでも解釈することができる)
(考察3)

では、弁別刺激の類似性についてはどうでしょうか。
これは実験によってある程度詳しく判別することが可
能かもしれません。
(例えば,対象を交互に赤ん坊に見せ、その反応をみ
るといった方法で)
47:2000/04/09(日) 08:03
 46の続き。
 しかし、仮に赤ちゃんが母親が目の前に現れたとき
だけ、「ママ」といい、父親が現れたときは「ママ」
と言わない場合、「ママ」の弁別刺激は母親であると
いえるでしょうが、母親もまたいろいろな要素から構
成されている存在者である。つまり、赤ん坊が母親
の何に反応しているのかについてはなお複数の解釈が
可能となる。
 例えば、母親の肌の色に反応しているのかもしれな
い、あるいは、母親の匂いに反応しているのかもしれ
ないし、あるいは、母親がいつもきている服の色に反
応しているのかもしれない。
どのような対象も複数の要素から構成されている(つ
まり複数に分割できうる)のだから、弁別対象は複数
の解釈を可能とする。(考察4)
 理解の前提1と考察3と4から、言語オペラントの
機能の類似性を判断する解釈は複数可能である、と
結論できる。
48:2000/04/09(日) 08:16
あと、とりあえず思いついた疑問点
があるので、書いとときます。

 34>『「類似性」とは「機能的等価性」であ』る。
 と同34>『二つの事柄に対して似たような反応が生じる
ときに、初めて「両者は類似している」と言えるのです。』
という類似性に関する考察についてですが、わたしの疑問
は素朴なものです。
「類似性」の意味を「機能的等価性」という言葉で定義しよ
うとするとき、実は「等価性」という言葉によって「類似性」
の意味が先取りされてしまっているのではないか、というも
のです。
『二つの事柄に対して似たような反応が生じるときに』と書
いていますが、ウィトゲンシュタインなら、そもそも「ど
うして反応が似ているとわかるのか?」
という疑問を提出するでしょう。もしこの疑問に
「~の(反応)が似ているから」と答えるなら、ウィトゲン
は「その~が似ているとなぜわかるのか?」と問い続ければ
いいことになる。このやり取りは、回答者が回答を止めるま
で永遠に続くことになる。

49:2000/04/09(日) 08:18

 >34の『「類似性」とは「機能的等価性」であって、
それが生じるのは、個人の生育歴(さらには言語共同体
の歴史、あるいは人類の進化の過程)においてです』

だとすれば、わたしの疑問はこうです。
類似性は人類の進化の過程(歴史的生成)によって生
じたものであるなら、そもそも進化の過程を共有しな
い生命体(例えば宇宙人)とは類似性を共有すべき
土台を持たない可能性がありうるということにはなら
ないだろうか?
もし、わたしの上の理解が正しいとすれば、そのよう
な存在者との間にこそ、根源的(以前は根本的と書い
たが根源的のほうがニュアンスが出ているような
気がするので変更します)類似性がないという関係が生
じることになるのではないだろうか。そしてそのような
存在者とわれわれを対比することによって、初めて
われわれ(人間以外も含む地球上の全生物)が共有して
いる根源的類似性を可視的に観察対象として扱うことが
(つまり根源的類似性を主題として扱うことが)
可能になるのではないか。
50伍長:2000/04/10(月) 01:06
>43~49
あわわわわわわっ!
余計なこと書くんじゃなかったとヒジョーに狼狽しております。凄いツッコミです。しばらく時間を下さい(本当は、このあと「規則」や「私的言語」について書こうと思っていました)。
昨夜は寝ないで夜中過ぎにfishingに出かけ、今夜9時過ぎに帰ってきました。いま頭と体がボーっとして妙に気持ちいいです。これからバタンキューしようと思っていたところです。

9さん、アナタ大変スルドイです。45@`46@`47の考察は「実験屋」さんの素質有りだと思います。私などよりも、プロの先生に訊くべき。
興味がおありなら、ぜひ行動分析の勉強をしてください。
「行動分析学入門」(産業図書)←自画自賛的な文章が気になりますが、労作です。貴方なら読めると思います。
いや、別に認知心理学でもいいです。哲学も心理学も食えないことに変わりないでしょうから、それならいっそのこと、哲学の素養のある実験心理学者になって欲しい(逆でもいいけど)。
51伍長:2000/04/10(月) 01:14
細かな実験的事実を色々と例示すればいいのでしょうが、上記の本もありますので、とりあえず今は一点だけ。
弁別刺激は、
>「ある発言を誘発する原因となる(発話主体に与えられた)刺激」
ではありません。
「弁別刺激」は、簡単に言うと、言語オペラントや非言語オペラントが自発される機会を提供する刺激です。
光が点灯したときだけネズミがバーを押せばエサが出るが、点灯しないときに押してもエサが出ないとします。多分ネズミは光刺激があるときにバーを押すことを学習するでしょうが、光刺激がバー押し反応を「誘発」するわけではありません。(まあ、押すかどうかはネズミの勝手。ある意味では。)
このとき、光刺激を「弁別刺激」、バーを「オペランダム(操作体?)」と呼びます。
また、片足で押そうが両足で押そうが、あるいはどんな力で押そうが(つまり、バー押しの「トポグラフィー」は異なるが)、バー押しの「オペラント」は同じです。
これに対して、反応を「誘発」するのは、パブロフの条件反射の実験における「肉片」や「ブザー音」のような刺激です。前者は「無条件刺激」で後者が「条件刺激」ですね。両方合わせて「誘発刺激」と言ってもいいでしょう。
ただし、ある刺激を本当に「弁別刺激」と呼べるかどうか、あるいは上記の分類の適否など、理論的な問題が色々あるようです(よく知らない)。

クタクタなので寝ますです。
52:2000/04/10(月) 23:08
伍長さんへ。
 魚は釣れたんでしょうか?

 確かに、いくつか質問を、とかいいながら、沢山質問しす
ぎた気もします。別に全てに答えてくれなくてもいいですよ。
一応自分がわからなかったところを書いただけですから。
暇なときで結構ですから。
 まあ、のんびりやっていきましょうよ。
ウィトゲンシュタインの思想について、少しでも理解が
深まればいいな、と思ってるんで。
 それと、わたし自慢ではありませんが、これまでに
数冊の哲学書を買って読んでみましたが、一度も最後まで
読み終えたことはないです、はい。今、愛読しているのは
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」という文庫本です。
これが、実に有効でして、睡眠薬として。寝る前に読むと
15分とせずに眠れます。不眠症の人は試してみる価値あり。
53伍長:2000/04/11(火) 00:24
>1、弁別刺激と指示対象とを別なものとして扱っていますが、その二つの違いがよく分かりません。
答:前者は心理学の専門用語。行動分析学では(上記入門書では)、「それがある時には、特定の反応が強化されたり、弱化されるような刺激」とあります。
後者は哲学用語?で、語「りんご」に対する‘りんごそのもの'のこと(だと思う)。
指示対象は、言語反応「りんご」の弁別刺激になったり、ならなかったりする。

>3、例2では、ミルクが指示対象となっていますが、母親は指示対象にはならないのでしょうか?
答:そうなる場合もあるでしょう。赤ん坊は間違った学習をしたことになる。母親の乳房が指示対象なら間違いじゃない。

>4、確立操作はなぜ、そのような表現が用いられるのでしょうか?(何か確立で、何が操作なの?)
答:簡単に言うと、確立操作とは、「好子」(強化子、強化刺激)に強化力を持たせる(確立させる)ための操作だと思います。上記入門書では、「a:ある特定の好子や嫌子の、b:行動の獲得や維持への効果に、c:影響を及ぼす操作」とあります。

>5、随伴性を成立させるための前提条件として、確立操作が必要になる場合がある、と書いていましたが、確立操作が必要にならないで、成立する随伴性のモデルはどういったものになるのでしょうか?
答:理論的にはそのような随伴性は「無い」のではないかと思いますが、よく分かりません(この言葉は以前は聞かなかった)。
54伍長:2000/04/11(火) 01:05
>6、行動分析学でいう「機能」という概念についてもう少し詳しく説明して下さい。
答:行動分析は関係ありません。「働き」でもいいです。あるいは、「構造と機能」の「機能」です。functionには「関数」という意味もありますね。

>7「強化」という概念がよくわかりません。
答:はい。行動分析の最重要概念です。色々な定義があるでしょうが・・・
ある反応に後続して何らかの刺激が「呈示」または「除去」されたことにより、その後の当該反応の「生起確率」が高まるなら、後続刺激は「好子」(強化子、強化刺激)または「嫌子」(負の強化子)であり、当該反応は「強化された」と言う。

>行動分析学の発想について簡単な説明だけでもしてほしいですぅ。
答:「行動がその関数であるところの変数」(創始者スキナーの言)を環境側に見出して、行動の予測と制御と説明を提供しようという発想です。
基礎心理学と臨床が完全に対応しているのは、歴史上行動分析学だけではないかと・・・。
また、実験的事実を外挿して、さまざまな事柄の行動分析的解釈も行います。スキナーの言語行動論がそうです(よく分かってないチョムスキーが糞味噌に貶したおかげで、スキナーへの否定的評価が定着してしまい、言語学や哲学、そして心理学内部でも、言語行動論が取り上げられることはほとんどありませんでした。不幸なことです)。

P.S. 魚はあまり釣れませんでした。
55伍長:2000/04/11(火) 01:35
45の例4では複数の随伴性が同居しているようです。
「オッパイ」という言語行動と、泣く行動は区別しましょう。さらに、泣く行動すべてがオペラントかどうか不明です。生得的な反射かもしれない。
一応、泣く行動がオペラントだとすると、
例4(修正)
(0) 前提
 a:しばらくミルク(または乳房)を与えられていない(確立操作)
(1) 状況
 b:母親の姿(弁別刺激)有り(無くてもよさそう)
(2) 行動
 c:泣く(非言語オペラントDの自発。言語オペラントかな?)
(3)結果
 d:母親がミルク(または乳房)を与える(他者の非言語オペラント)
 e:ミルク(または乳房)有り(強化)
この場合、(泣き止む行動ではなくて)泣く行動がミルク(または乳房)によって強化されていることになります。
なお、泣き止む行動?とは、泣く行動が生起しなくなっただけですので、行動とはいえない?

ついでですが、
例5
(0) 前提
 a:赤ん坊が泣いている(確立操作?)
(1) 状況
 b::赤ん坊の泣く姿(弁別刺激)有り
(2) 行動
 c:ミルクを赤ん坊に与える(非言語オペラントFの自発)
(3)結果
 d:赤ん坊が泣きやむ(嫌子の除去による強化)
ここでは、赤ん坊が泣き止むことによって、母親がミルクを与える行動が強化されています。
56伍長:2000/04/11(火) 01:49
ですから、
>そこで、母親はおそらく、お腹を空かせているのだろうと、
>推測して自分の乳房を与えます。すると赤ん坊は乳首を口に含
>み泣き止んだとという設定になります。
についてですが、
「推測」することと「乳房(ミルク)を与える」ことの因果関係は不明です。今のところ明らかなのは、例5の随伴性だけです。

46@`47はほぼその通りだと思います。実験で明らかにできることは多々あるでしょう。臨床場面ではそのような「解釈」(行動分析)が重要になります。「解釈」を間違えると失敗する。

>48
まず、
例6
(0)前提
 a:確立操作は不明
(1)状況
 b:家族的類似性のモデルとして、二つの刺激が存在していて、
 c:両者に対して同一の反応が生じる(弁別刺激)。
(2)行動
 d:「二つの刺激には機能的等価性あり」と判断する(言語オペラントGの自発)
(3)結果
 e:同僚が同意する(強化)。
 f:研究活動がさらに進展する(強化?)。
57伍長:2000/04/11(火) 01:53
さらに遡ると、
例7
(0)前提
 a:確立操作は不明
(1)状況
 b:言語共同体の中に「同一」という語彙が存在している(これが確立操作かな?)。
 c:いくつかの反応が存在する(弁別刺激)
(2)行動
 c:それらの反応を「同一の反応である」と見なす(言語オペラントHの自発)
(3)結果
 d:言語共同体の中で受け入れられる(強化)。

さらに遡るなら、「同一」という語の成立過程まで遡ればよいが、それはここでは必要ない。
したがって、
>もしこの疑問に「~の(反応)が似ているから」と答えるなら、・・・
についてですが、そう答えずに、
例7=「言語共同体が、しかるべき時にはこういう語(「似ている」)を使うということを成員に教えるからである」
と答えれば、循環はここで終わり。後期ウィトゲンもそう考えていた(と思う)。
58伍長:2000/04/11(火) 03:29
>49
9さんは、「根元的類似性」という言葉によって、“その言葉の使用者とは全く無関係に”(つまり「絶対的に」)、そのような「類似性」が存在する筈だという仮定を受け入れていると思います。
後期ウィトゲンは、「そうではないのだ」と考えたのだと思いますし、私もそう思います。

「家族的類似」というのは、AからZまでの事例すべてに共通した要素は存在しないにもかかわらず、全26個は「類似」していると見なされるということです(3つ以上の事例を考えた方が分かり易い)。
「それらは類似しているな」という反応を“我々が”示すのです。
そして、「それは、そのように訓練された結果なのだ」というのが後期ウィトゲンの答え。私も同意します。

なお、2つの事例においても同様だと思います。両者の「絶対的な共通要素」ゆえに同一の反応が生じるわけではない。
「青」という色はどこまでが青なのか?
様々な明度、色相、彩度の青刺激に対して同一の反応「青い」が生じるのは、訓練(「概念学習」と言います)の結果です(厳密に言うと、訓練無しでも同じ反応が生じる。「刺激般化」と言います)。
しかし、訓練次第では、2種類の青刺激に対して、一方だけに反応させて、もう一方には反応しないように学習させることもできる(「刺激弁別」と言います)。そのとき、2つの青刺激には「機能的等価性」は無い。
逆に、緑刺激にも同じ反応が生じるように訓練されていれば、青と緑には「機能的等価性」が有る。実際に、信号機の緑は、青と同様の「意味」を持っている。(ただし、青から緑へは「般化」し易いでしょうが)
59:2000/04/12(水) 00:46
伍長さんへ。
 魚は残念でしたね。
 それと、いろいろ返答ありがとうございました。
 理解するのに時間がかかりそうなので、とりあえず
要点だけ指摘しておこうとおもいます。

 >51
 ネズミの例で言えば、実験による学習の結果、ネズミがバー
を押すときには必ず光が点灯しているが、光が点灯したときに
必ずバーを押すわけではない、ということなんですね。

 
60:2000/04/12(水) 00:49
>58.
 9さんは、「根元的類似性」という言葉によって、
“その言葉の使用者とは全く無関係に”(つまり「絶対的に」)
、そのような「類似性」が存在する筈だという仮定を受け入れて
いると思います。

 そうかもしれません。一応わたしも、言語ゲームにはそのよう
な(言語共同体の成員と無関係に存在する)客観的事実
はない、そのような客観性を判断するのもまた言語ゲームである
、という考え方は理解してきているんですが、一方でまだ言語ゲ
ームの外部に客観性を求める発想も残っているようです。それで
それらをどう解消していったらいいのか、よくわからんのですよ。
で、混乱しています。
61:2000/04/12(水) 00:54
それで、混乱したままの考察です。

「類似性」をめぐる問題で、循環は終わるという57の
指摘ですが、わたしには循環が終わるとは思えません。
「~の(反応)が似ているから」のかわりに「言語共同体が
しかるべき時にはこういう語(「似ている」)を使うということ
を成員に教えるから」と回答すればよい、とのことですがその
ような回答に対してはウィトゲンは次のように質問することが
できます。
「あなたが習った、(「似ている」)という言葉を使うべき
時(場面)と、今あなたが(「似ている」)という
言葉を使っている、この「場面」が同じ
「しかるべき時(場面)」であると、なぜわかるのか?」
もしこの問いに「~が似ているから」と回答するなら、
「~が似ているとなぜわかるのか」と問いつづければいいこ
とになる。
 また「そのように習ったから」との回答だったら、
「そのように習った(「しかるべき場面」)と今のこの場面
が同じ(「しかるべき場面」)であるとなぜわかるのか」
と問いつづければいいことになる。
いずれにしても決して循環は終わらない。
62:2000/04/12(水) 01:00
ひょっとして二重書きこみになっているかもしれん。
>58.
 9さんは、「根元的類似性」という言葉によって、
“その言葉の使用者とは全く無関係に”(つまり「絶対的に」)
、そのような「類似性」が存在する筈だという仮定を受け入れて
いると思います。
 そうかもしれません。一応わたしも、言語ゲームというのは
そのような(言語共同体の成員と無関係に存在する)客観的事実
はない、そのような客観性を判断するのもまた言語ゲームである
、という考え方は理解してきているんですが、一方でまだ言語ゲ
ームの外部に客観性を求める発想も残っているんです。それで
それらをどう解消していったらいいのか、よくわからんのですよ。
で、混乱しています。
63:2000/04/12(水) 01:05
 61の続き。
 だから、わたしが思うには、循環には終わりがあると
ウィトゲンが考えていたというより、むしろ逆で、循環
には終わりがない、にもかかわらず、われわれは「類似」
についての会話を既に交わしている(交わすことができる!)
という方がウィトゲンの発想に近い気がします。

循環に終わりがあるから、会話が可能になるのではない。
循環は終わらないにもかかわらず、会話は既に成立している。
では、それはなぜか?
おそらく、言語ゲームという発想には、そのようなモチーフ
が含まれていたと思うんです。
「生活様式」という概念もそういった発想から考えるべきだ
と、思います。(自分でもはっきりとはわかりませんけど)

 したがって、例6,7の随伴性は、「類似」についての
言語ゲームが可能であるということを確認しているに
過ぎない、と思います。


64:2000/04/12(水) 01:14
 63の続き。
 具体的に考えてみましょう。
例えば58で、「様々な明度、色相、彩度の青刺激に対して~」
と書いていますが、このときすでに比較している対象が「青刺激」
に属するものであるという点で類似しているということを前提に
していることになる。
 そうではない、とにかく何らかの刺激なのだ、と返答するなら、
とにかくそれらが「刺激」に属するものであるという点で類似し
ていることを前提にしていることになる。
 いや、刺激ではない、とにかく何らかの現象なのだ、
というのなら、
 それらが、とにかく「現象」に属するという点で類似して
いることを前提にしていることになる。
 おそらく、何かを比較するためには、既にわれわれは
それらの類似性を前提にしていなければならないのでは
ないだろうか。
違いがわかるためにも、われわれはそれらがどこかで類似
していることを認識していなければならない。
したがって、あらゆる面において類似性を持たないものに
対してはわれわれはそれらを比較の対象にすることさえ、
思いいたらないのではないか。
(わたし、この問題にこだわりますです。)
65伍長:2000/04/12(水) 04:33
前の方(34)でも書きましたが、私もこの問題は重要だと考えます。ただ、私はそれほどこだわってない。
重要だと思う理由は、哲学者の混乱の大きな原因の一つだと思うから。
あまりこだわっていないという理由は、私には何故か自明のことのように思えるので。
(げっ、我ながら偉そうな物言い・・・)

>おそらく、何かを比較するためには、既にわれわれは
>それらの類似性を前提にしていなければならないのでは
>ないだろうか。
>違いがわかるためにも、われわれはそれらがどこかで類似
>していることを認識していなければならない。
9さんだけでなく、多くの人がそう考えると思います。
でも、そうではありません。
我々は、「違い」に対して反応し、「類似」に対して別の反応をしているだけです。
「比較する」「わかる」「認識する」というのは、それぞれがさらに別の反応です。

以下の2つを分けて考えてみます。
A:「なぜ~したのか?」=観察者が観察している行動的事実についての疑問。
B:「なぜ~したと判るのか?」=観察者がどのように上記の行動的事実を認識するかについての疑問。

ちなみに、学問的には、
Aの回答は実験や観察や教科書の解説から得ようとする。哲学や行動分析、他の心理学、生理学、生態学等からの回答。
Bの回答は哲学onlyからと考える人がいるでしょうが、私はそうは思わない。
66伍長:2000/04/12(水) 04:38
さて、一見、BがAの「メタ疑問」になっているように思えるが、そうではない。そう思ってしまうと、

C:別の観察者がどのように上記の観察者の認識を認識するかという疑問。

というものが生じ、さらには、D、E、F・・・と永遠に続くように思える。
これを「循環」と言ったわけです(「形式論理」と言い換えてもいい)が、実際はABで終わっており、さらに言うならば「Aレベルだけ」で終わっている。
なぜなら、AとBとCは別の事例ですが、B@`Cもまた、Aに属する現象(行動的事実)なわけだから。
「循環が終わる」というよりも、「初めから循環は存在しない」と言った方がいいかもしれない。循環(形式論理)は我々が勝手に作り出すのです。
AもBも、あるいはCもDもEもFも、単なる事実として生じる現象であって、我々は反応しているだけです。
「我々が循環を作り出す」というのも反応であって、Aレベルの現象(行動的事実)です。
67伍長:2000/04/12(水) 04:49
で、「なぜそのように反応したのか」に対して、「そのように訓練されたからだ」と答えると、「ではなぜ今回の事例が、訓練どおりに反応すべき事例だと判ったのか」と訊くことができる、と9さんは(そして多くの人は)考える。そして、「循環」が始まると言う。
しかし、これは「循環」ではないと思います。
いわば「同一平面上の」別個の反応だと考えられませんか?
また、くどいようですが、「そのような事例だと判ったから反応した」のではなくて、単に反応したのです。「判る」というのは別の反応です。

・~する。
・~するのは何故かが判る。
・~を疑問に思う。
・二者を比較する。
・違いを認識する。
・類似していると判断する。
・循環していると見なす。
・様々な青刺激に対して「青い」と言う。
etc.
は、すべて人間の反応です。後期ウィトゲンも「探究」の中で色々な例をあげていますね。
彼は、すべてを「言語ゲーム」という形而下の同一平面上へ引きずり下ろしてしまった。
人間行動とは無関係の形式論理は存在しない。

(うーむ。素人の分際で、自信もないくせに偉そうに断定してしまいましたが、実際のところはどうなんでしょうか? 専門家や専門家の卵は来てないの? 誰か訊いてみてくれー! アタシの理解はどの程度正しいの? 知りたい!)
68冷やし中華はじめました:2000/04/12(水) 19:08
>2
|初期;言葉とは社会的な文脈で使われる
|----放浪-----
|後期;社会とは文脈によって立ちあらわれる(^_^;)解説本もちゃんと読んでいないのがバレバレです...

>10
|「ちゃんとした場面」(生活用式)こそが言語を成り立たせる基盤であって、「生活用式」は「生活様式」の誤記なのでしょうが、

>12
|答:その人の行為や発言を見たり聞いたりして、同じ生活様式を共有する
|誰かが判断する。藤本隆志にならって"Lebensform"の訳語として「生活様式」を使うのは
やめて下さい。見るたびに頭が痛くなります。(;_;)
#"Lebensstyl"じゃないんだから...
(13以下も同じ。)

>16
|ただし、ある種の「物理的」な属性が、絶対的な類似性(または共通性)
|であるかどうかは分かりません。にもかかわらず、我々は「心理的」に、
|「類似性あり」と見なしたり見なさなかったりするのです。

いろんなものがあって、そいつらが類似してるぞ、というときに、
その類似が見られているものの側にあるのか、それとも見ているもの側に
あるのか、という問題は、おもしろいとは思いますが、
「家族的類似」でウィトゲンシュタインが言ったこととは*関係ない*
ですね。まあそれはどうでもいいですが。(^_^)

>33
|わたしが思うには、ウィトゲンシュタインは、「前期」では「会話が、
|可能になるには、どのようなメカニズムでなければならないのか?」
|といった発想を持っていたような気がします。そんな発想を持っていたヒトが「独我論の言わんとすることはまったく正しい」
なんて言うのは奇怪ではないですか?(^_^)
69冷やし中華はじめました:2000/04/12(水) 19:09
こっちも長すぎかも。

>58
|「家族的類似」というのは、AからZまでの事例すべてに共通した要素は
|存在しないにもかかわらず、全26個は「類似」していると見なされると
|いうことです(3つ以上の事例を考えた方が分かり易い)。違います。
「家族的類似」という言葉でウィトゲンシュタインが言っているのは、
(家族の間にあるいろいろな類似がそうなっているような)
*重なったり交わったりしているいろいろな類似*です。
すべてに共通したものがないにもかかわらず、
*ひとつの家族のようにまとまってみえること*ではありません。
(すべてに共通したものがない、というところはいいです。)

もひとつ言えば「家族的類似」は「すべてに共通した何か」の
代わりにやってきてそういうまとまりを可能にする超-類似性みたいな
ものでもないです。

誤った解釈の方は、「家族的類似」を単数と見た場合にありがちですが、
ウィトゲンシュタインは"Familienaehnlichkeiten"、"Family likenesses"と
複数形で書いてます。

「哲学探究」のアンスコームによる英訳でも"Family resemblances"とちゃんと
複数形になっていたのに、どこかで誰かが"Family resemblance"と
単数形にして、それが英語圏ではすっかり広まってしまったみたいです。
あんまり広まったのでもう訂正するのは無理でしょう(泣笑)。

日本語では、もともと訳語で単数複数をはっきりさせていない上、
大森荘蔵は「家族的類似」の原語表記を"Family likeness"とわざわざ
単数形にしてくれるは(原文は複数形)、永井均は
『ウィトゲンシュタイン入門』の「家族的類似」のところで
しっかり誤った解釈を書いてくれるはで、
もううれしくて涙が止まりません。(T_T)

#ちゃんとしろよ!→大森、永井
#         ↓
#         もう死んでます
70伍長:2000/04/13(木) 00:23
おお! ついに専門家の方が来て下さったみたいですぞ!
でも、皆素人ですので、もう少し親切丁寧に書いていただけると嬉しい。
例えば、「生活様式」ではなくて、何と訳せばよろしいのでしょうか?

それから、
>|「家族的類似」というのは、AからZまでの事例すべてに共通した要素は
>|存在しないにもかかわらず、全26個は「類似」していると見なされると
>|いうことです(3つ以上の事例を考えた方が分かり易い)。違います。
「違います」というのは「ということです」の部分?
なら、「全26個が「類似」していると見なされるような類似のこと」でよろしい?

>*ひとつの家族のようにまとまってみえること*ではありません。
がよくわからない。そういう考え方をしたことがないので・・・
「まとまってみえること」を「まとまってみえるような類似のこと」と直せばいいのかな?
でも、そうすると間違ってるような気がしないでもないな・・・
私は、刺激般化や刺激の等価性の実験(概念学習の実験)との類推で理解しております。
また、「類似」は本来複数形だというのはよく分かりますが、正確には、複数形だとしても説明としてはまだ不十分なんでしょう? 単数だろうが複数だろうが、普通は「類似」部分とそうでない部分との境界線がはっきりしているという発想になりそうだが、「そうではない」というのが後期ウィトゲンの考えの筈。

これまでの私の書き込みは、大筋ではどうなのでしょうか? かなり見当違い?

とりあえず、勝手にゼミを続けますので、適宜突っ込んで下さい。よろしくお願いします。専門家の意見を長年?待ちわびてたんです。そのうち一杯奢りますから(本気)。
71:2000/04/13(木) 01:16
72:2000/04/13(木) 01:17
伍長さん。よかったすね。
 ばしばし質問しちゃって下さい。
わたしもしちゃいます。

 で英文を見る限り、単純に言って
生活形式が正しい訳ということになるんじゃ
ないでしょうか?でもそうだと、様式と形式
では、本質的にどう違うんでしょうか。

 それと家族的類似のところはこういうことなんじゃ
ないでしょうか。
 A@`B、Cの対象があるとき、
 Aはある点でBと類似している。
 Bはまた別のある点でCと類似している。
 Cはまた別のある点でAと類似している。
 そしてAとBは、また別のある点でCと類似している。
といった、それぞれの別個の類似が折り重なって対象間
に一つのまとまりを与えているが、A@`B@`Cの間に共通の
類似点が存在しているわけではない、ということなんじゃ
ないかなあ、でもそうだとすると、伍長さんとあまり変わって
ないような気がするが。

あと、69の「家族の間にあるいろいろな類似がそうなって
いるような」という表現をしちゃうと、では、それらは
人間という点で共通項をもつことになるといった、解釈
が出てくるから、よくない気がする。

あと、大森さんは亡くなっていたのか、好きだったのに。
残念
73:2000/04/13(木) 01:40

 確かにウィトゲンシュタインは「独我論が言わんとすることは
まったく正しい」と言っていますが、同じ論考の中で
「独我論を貫徹すると実在論になる」というようなことも
言っていたと思うんです。
 わたしはウィトゲンが独我論で何を言いたかったのか
まったく分からないんですけど(私の学習方その1、まったくわから
ないことは無視する)

 単純な疑問として、独我論を貫徹するとなんで、実在論
になっちゃうんだろう?と。
 それと、独我論が実在論になるということは、結局の
ところ、独我論が否定されたことになるじゃないだろか、と。
だって、実在論というのは、当然他者の存在を保証する
でしょうから。(存在するのはわたし独りではなくなる)
74伍長:2000/04/13(木) 01:55
家族的類似のところは、多分そういうことなんでしょうね。
私も、そんなに変わってないと思った。
たしか、AとB、BとCは類似しているが、AとCは類似していないとき、それでもA@`B@`Cは類似していると言える時がある。そんなようなことを「探究」か何かで読んだ気がする。

先に進んでよろしいですか?
と訊いておきながら、勝手に進んでしまおう。
75伍長:2000/04/13(木) 02:05
「規則」について。
別スレでも書きましたが、「規則」とは、「道しるべ」が示すようなものでした。
つまり、「道しるべ」とは、
(1)どちらへ行っていいか分からない状況の時に、(2)右の道を行けば、(3)村へ着くことが出来ますよ。
という「規則」(随伴性)を表現したものである(「道しるべ」=「規則の表現」)。
(オイオイ、お前は「言語ゲーム」=「随伴性」と言ったのではなかったのか、と言われそうですが、この問題は後回しにします。)
この「規則」は我々の生活形式?の中で育まれたものであり、「言語を操る」というのは、このような「規則」に従って、いわば「言語ゲームを演じる」ようなものである。

1:まず、「規則」と「規則の表現」を区別しましょう。「道しるべそのもの」は後者です(ウィトゲンは時々両者を混同しているように思う)。

次に、「道しるべを作り出す」行為と「道しるべに従う」行為とを区別したい。
(なお、「道しるべを作り出す」行為は言語行動ですが、「道しるべに従う」行為は非言語行動です。)
ですから、これを一般化して、
2:「規則の表現を作り出す」行為と「規則の表現に従う」行為を区別したい。

さらに、
3:「規則に従う」行為と「規則の表現に従う」行為も区別したい。

もう一つおまけに、
4:「規則の表現を作り出す」行為と「規則そのものを作り出す」行為も区別したい。

困ったことに、「規則の表現に従う」行為も「規則の表現を作り出す」行為も「規則そのものを作り出す」行為も、いずれも「規則に従う」行為の一種です。

ヒジョーに分かりにくいですが、これは私のせいではありません。ウィトゲンの説明が錯綜としていて不器用であるせいです。(^^;
76伍長:2000/04/13(木) 02:10
まとめると、
 A:「規則」に従う行為
 B:「規則の表現」に従う行為(「規則」に従う行為の一種)
 C:「規則の表現」を作り出す行為(「規則」に従う行為の一種)
 D:「規則」そのものを作り出す行為(「規則」に従う行為の一種)

この辺りの説明は、行動分析学の用語を使うと実にスッキリします。
「規則」を「随伴性」に、「規則の表現」を「ルール」に直して読み替えましょう。
そうすると、
 A':随伴性に従う行動
 B':ルールに従う行動(随伴性に従う行動の一種)
 C':ルールを作り出す行動(随伴性に従う行動の一種)
 D':随伴性そのものを作り出す行動(随伴性に従う行動の一種)

なお、行動分析学で言うところの「ルール」とは、「随伴性を記述したもの」です(前記入門書では「a:行動随伴性を記述したタクトが生み出す b:言語刺激」となっています)。
“rule”の定義としてはこの方が日常用法に近いはずです。後期ウィトゲンの「規則」と混同しやすいので、以後カタカナで表記します。
したがって、
後期ウィトゲンの   行動分析学の
  「規  則」  ≒ 「随伴性」
 「規則の表現」 ≒ 「ルール」
ちなみに、
  「言語ゲーム」 ≒ 関連する「随伴性」の総体?

注:そうなると、「言語ゲーム」≒関連する「規則」の総体 となりそうだが、これも私のせいじゃない。ウィトゲンのせいです(ホントか?)。
77:2000/04/14(金) 00:23
>75.
 「規則と「規則の表現」を区別する?
う~む。もう少し説明ほしいぞ。
 なんかそれって、プラトニズム(善なる行為とは別に
善が在る)みたいた感じがしないでもないが。
 う~ん。えーと、規則とその規則の表現は違うってこ
とだから、規則を表現したものは、その当の規則それ自
体ではないってこと?よくわかんないっす。

「道しるべを作り出す」行為と「道しるべに従う」行為
も区別する。
 これは分かる気がするが、「道しるべに従う」行為は
非言語行為である、と断言できるかどうか。
 「道しるべ」というのは、規則の比喩だったよね。例え
ば、「わたしがこれから言う言葉の後に『和平会談』と
いう言葉を続けなさい。」という規則があったとして、
それに従う行為(「立松?」「和平会談!」)
 は立派な言語行為となる。

「規則に従う」行為と「規則の表現に従う」行為も区別
する。これも説明ほしい。
 1~4のいずれも「規則に従う」行為の一種である。
なるほど、これは納得。
78:2000/04/14(金) 01:02
ざっとみたところ、どうやら、規則の問題は前に議論した
「類似」の問題をさらに一般化した問題のような気がしますね。
だから、今まで通りにやると、おそらく「類似」のところで
した議論を再生することになっちゃいますね。
そうならないためにも、第三者に入ってきてほしいです。

でまず、今までの議論をちょこっとまとめておきます。
 ある現象or行為(アクション)に対し、なぜかある反
応(リアクション)をしてしまう、それが言語ゲームの
端緒であって、そのリアクション(仮に根源的リアクシ
ョンと呼んでおく)のなぜを問うとき、循環(矛盾)が
生じるが、それは根源的リアクションの根拠を求めたと
きに遡行的に作られる(捏造される)ものに過ぎない、
というのが伍長さんの主張でした。
(それでいいんですよね?)
 だから、循環(矛盾)は存在していない、と言うべき
だと伍長さんは言うわけですが、作られる(捏造)以上
やはり、循環はあるというべきだろうと、わたしは思う
わけです。
 しかし、循環があることとは無関係に、言語ゲームは
営まれていくと。
 
79:2000/04/14(金) 01:27
 >75。
 『~(1~4)いずれも「規則に従う」行為の一種です。』
 というとき、おそらくこの「規則に従う」という行為そのも
のもまた、規則に従うための(「従い方」の規則)に従っている
という点で「規則に従う」という行為の一種になってしまう。
 つまり、いわゆる無限後退です。
 
80伍長:2000/04/14(金) 02:25
>77
「規則」と「規則の表現」(または「明記された規則」)という用語法が分かりにくいのであって、これはウィトゲンのせい。プラト二ズムを連想してしまうというのはよく分かりますが、プラトニズムではありません。
「随伴性」と、それを記述した「ルール」、という行動分析学の用語法の方がはるかに宜しいと思います。
ルールは言語刺激ですが、随伴性は言語刺激ではなく、状況・行動・結果の随伴関係のことです。決してイデアの世界の事柄ではありません。
したがって、
>規則を表現したものは、その当の規則それ自体ではないってこと?
言い換えると、
「随伴性を記述したもの(=ルール)は、その当の随伴性それ自体ではないってこと?」
その通りです。

>「道しるべに従う」行為は非言語行為である、と断言できるかどうか。
> 「道しるべ」というのは、規則の比喩だったよね。例えば、
>「わたしがこれから言う言葉の後に『和平会談』という言葉を続けなさい。」
>という規則があったとして、それに従う行為(「立松?」「和平会談!」)
> は立派な言語行為となる。
その場合はそうですが、「道しるべ」に限定した場合は、「道しるべに従う」行為は非言語行動です。
ただし、2行目は「規則の比喩」ではなく、「規則の表現」(=「ルール」)です。
また、4行目も、「規則」ではなく「規則の表現」(=「ルール」)です(紛らわしいでしょう? だから行動分析の用語法の方がいいのです)。

とにかく、
>後期ウィトゲンの   行動分析学の
>  「規  則」  ⇒ 「随伴性」
> 「規則の表現」 ⇒ 「ルール」
こうした方が絶対にいいです。
81伍長:2000/04/14(金) 02:53
>「規則に従う」行為と「規則の表現に従う」行為も区別する。
>これも説明ほしい。
言い換えると、
「随伴性に従う」行為と「ルールに従う」行為との区別です。
前掲の入門書では、「随伴性形成行動」と「ルール支配行動」という用語法になります。
この違いは極めて重要とされます。
36の例1や例2では、「ミルクと言ってごらん」のようなルールが当初は必要でしょうから、当初は「ルール支配行動」。やがて、自然の社会的随伴性の中に置かれる。
人間社会では、純粋の「随伴性形成行動」は目立たない。例えば、「寒いときに、日陰から日なたに移動すると、暖かくなる」という随伴性なら、「日なたに移動する行動」は純粋の「随伴性形成行動」だと思います。

>1~4のいずれも「規則に従う」行為の一種である。
>なるほど、これは納得。
本当ですか!?
私は100%の自信はなかったりする。
82伍長:2000/04/14(金) 03:16
>78
>どうやら、規則の問題は前に議論した
>「類似」の問題をさらに一般化した問題のような気がしますね。
いや、関係はあるけれど・・・

>79
ちゃうちゃう!
循環ではなく、単に別の随伴性に従っているだけです! いや、この場合は違うか?
(たしかに、「類似」の問題と同様の展開になりそうですが・・・)
形式論理ではなくて、具体的事例に即して考えるべきだと思うので、ただ今そういう事例を考え中。
しばしお待ちを。

とにかく、「規則」を「随伴性」と考えていただけませんか?
ウィトゲンの「規則」を使うと確実に混乱します。少なくとも私はそうでした。
規則⇒随伴性、規則の表現⇒ルール、ということに気がついて初めて、スッキリと理解できるようになりました。
きっかけは、「道しるべ」を例に挙げて、「規則」と「規則の表現」を区別しろと書いてあった解説書を読んだときです。なーんだ、「随伴性」と「ルール」のことではないか、って感じ。
スキナー(行動分析の始祖)もどこかで「道しるべ」の例を挙げていたのです。
両者の説明は見事に対応していました。しかし、両者の“rule”の用語法にズレがあるのです。
そして、スキナーの“rule”の用語法の方が日常用法に近く、しかも明確に定義されていて、混乱しない。
83:2000/04/15(土) 06:53
>73

「論考」では、「独我論」は
「語ることができず、ただ示されるだけ」といっています。
「私しかいない」と語ることは実在論と矛盾しますが、
彼がいいたいことはそうではない。

ふつうの意味では、私は世界の登場人物のひとりに過ぎません。
ですから、私が死んでも、登場人物がひとり欠けるだけで、世界は存続します。
しかし、同時に私が死んだら、いま私の見ている世界(あるいは、私にとっての世界)
について語ることはできなくなり、ある意味でなくなります。
その意味では、私は世界の登場人物ではなく、私と世界は1対1に向き合っています。
第一の意味では私は世界を成り立たせるのにほとんど必要ではありませんが、
後者の意味では世界を成り立たせるのに私の存在は不可欠です。

しかしそうした「私」について語ることはできません。
というのは「私」は世界の登場人物ではないからです。
たとえばわたしの名前「か」と述べても、「私」を名指すことはできません。
このことは「私」が朝起きたら森首相になっている場合を想定すればよいと思います。
このとき「私」は森首相ですが、「か」は「私」ではありません。

しかし、「私」にとって「私」はただひとりだけしかいません(独我論)。

ということで、「独我論は示すことはできるが、語ることはできない」ことを語ってみました。
84おでん屋:2000/04/15(土) 15:16
よくわからねえ。
85伍長:2000/04/15(土) 19:09
例A:道しるべ(=規則の表現=ルール)無しの場合
(0)前提
 a:確立操作は不明
(1)状況
 b:2つの道。(弁別刺激ではないような気がする。オペランダム?)
(2)行動
 c:右の道へ行く。(非言語オペラント)
(3)結果
 d:目的地へ到着する(強化モドキ?)
しかし、強化モドキ?は遅延するので、このままでは行動は形成されない筈。
また、「2つの道」が無いような随伴性は無いのでは?(だから弁別刺激ではない?)
「2つの道」は2つのレバーのようなものなのでは?(レバーを押す=道の上を歩く?)

例B:道しるべ(=規則の表現=ルール)有りの場合
(0)前提
 a:「右へ行けば村に着く」というルール(道しるべ)有り。(確立操作)
(1)状況
 b:2つの道。(弁別刺激ではないような気がする。オペランダム?)
 c:ルール(道しるべ)有り(弁別刺激にもなるのでは?)
(2)行動
 d:ルールに従う=右の道へ行く。(非言語オペラント)
(3)結果
 e:ルールに従わないという嫌悪的事態を避ける。(嫌子除去による強化)
 f:目的地へ到着する。(強化モドキ?)
長年、ルールは弁別刺激だと思っていましたが、確立操作と考えた方がスッキリする(「入門」より。まさに目からウロコ)。
でも、ここでは同時に弁別刺激としても機能しているのでは?
「道しるべ」は、好子の確立をする(確立操作)し、強化の可能性も示す(弁別刺激)のでは?

とりあえず上記のように考えたのですが、自信がないので、プロの先生に訊いてみました。
86伍長:2000/04/15(土) 19:15
勝手に転載

>基本的に、あやゆる刺激・条件・出来事は2つ以上の機能を持ち得ます。たとえば、自分にとって焼き鳥は好子として強化の機能を持つだけでなく、唾液を分泌させる無条件刺激でもあります。隣の席に運ばれてきた焼き鳥を見て注文する場合は弁別刺激かもしれません。
>道しるべも複数の機能があると考えられますが、自分なら下のように考えます。

>もし分岐が来てから(迷ってから)看板をみつけたなら、次のように弁別刺激っぽく分析する。
例B:道しるべ(=規則の表現=ルール)有りの場合(修正その1)
>(0)前提
> a0:早く目的地に着かなくてはならない諸事情
> a  :2つの道(どちらへ行けばいいか分からない状態)
> a’:不安(迷ったらどうしよう...遅れたらどうしよう...)
>(1)状況
> b:道しるべ(弁別刺激)
>(2)行動
> c:右の道へ行く(非言語オペラント)
>(3)結果
> d :目的地へ到着する(強化モドキ)
> d’:不安の減少(こっちで大丈夫のはず)

>逆に、看板が最初で(高速道路の出口案内のように)分岐が後なら、伍長さんのように分析する。
例B:道しるべ(=規則の表現=ルール)有りの場合(修正その2)
>(0)前提
> a0:早く目的地に着かなくてはならない諸事情
> a  :道しるべ
> a’:不安(間違ったらたいへん....)
>(1)状況
> b:分かれ道+「右へいかなくちゃ」(ルールを自分で繰り返す= self-echoic)
>(2)行動
> c:右の道へ行く(非言語オペラント)
>(3)結果
> d :目的地へ到着する(強化モドキ)
> d’:不安の減少(こっちで大丈夫のはず)

なーるほど、2つの場合に分けた方がよさそう。
87伍長:2000/04/15(土) 19:36
少なくとも、Bの「ルールに従う」行為(「規則の表現に従う」行為)もまた、Aの「随伴性に従う」行為(「規則に従う」行為)の一種である。
88伍長:2000/04/16(日) 04:36
>79
やはり循環は生じていないと思います。

>『~(1~4)いずれも「規則に従う」行為の一種です。』
> というとき、おそらくこの「規則に従う」という行為そのも
>のもまた、規則に従うための(「従い方」の規則)に従っている
>という点で「規則に従う」という行為の一種になってしまう。
> つまり、いわゆる無限後退です。

わかりにくいし、違うと思います。
物事を抽象化して、形式的あるいは合理的に再構成しようとしたために、事実から離れて言葉が一人歩きしているような気がする。抽象化せずに、事実レベルで考えたい。
それに、やはり「規則」という言葉が混乱の一因だと思います。本来「規則」という言葉は事実レベルの言葉だと思いますが、時に抽象的意味合いで使う場合がある。哲学論議では後者の用法が不自然に増えてしまうのかもしれない。
やはり、くどいようですが、
 後期ウィトゲンの   行動分析学の
   「規  則」  ⇒ 「随伴性」
  「規則の表現」 ⇒ 「ルール」(随伴性を記述したもの)
としたい。
89伍長:2000/04/16(日) 04:40
そこで、79を行動分析学的用語で書き換えると
「『~(1~4)いずれも「随伴性に従う」行動の一種です。』
 というとき、おそらくこの「随伴性に従う」という行動そのも
のもまた、随伴性に従うための(「従い方」の随伴性)に従っている
という点で「随伴性に従う」という行動の一種になってしまう。
 つまり、いわゆる無限後退です。」

この方が分かり易い。すなわち、
もしも「随伴性に従うための(「従い方」の)随伴性」というものを考えるなら、
それは「系統発生的な淘汰の随伴性」のことだと思います。
学習して行動を形成できるのは、それを可能にするような生物学的進化を種が経たからであって、行動を形成できない種は生き残れなかった。
1:「進化の結果による淘汰」。多分それだけの話。
90伍長:2000/04/16(日) 04:43
「類似」の問題も同様。
2つの弁別刺激A・Bに対して、2つの「類似した反応」C・Dで反応できる動物が淘汰されて生き残った。
人間は、その2つの反応C・Dを弁別刺激として、「類似しているぞ」反応をすることができるが、これは言語共同体の中で学習されたからであり、学習が可能なのは、そのように系統発生的に淘汰された種であるから。

行動の形成というのは、言わば、行動の「個体発生的な淘汰」の産物です。
ある行動が「結果」的に強化されれば、その行動のその後の生起頻度は高まる。つまり、系統発生的淘汰と同様に、「結果が淘汰する」。
2:「行動の結果による淘汰」。こうして淘汰された行動を「随伴性に従う行動」と呼んだわけ。

事実は、「行動の結果による淘汰が、その行動を、ある随伴性の下に置いた」ということです。
こう書くとまた「循環」だと言われそうですが、字面だけならそう見えます。
そもそも随伴性の下に置かれる前の行動が自発されたのは何故か? 無限後退? 違うと思います。
言葉の論理的循環(後退)ではなく、単なる行動の連鎖、事実の連鎖です(実際に「行動連鎖」と言います)。この連鎖は、いわば同一平面上で起こっており、分離して分析できます。連鎖の始まりは特定できるかもしれないし、特定できないかもしれない。特定する(orしない)のは我々です。それだけの話であって、言葉の論理的循環(後退)ではない。

類似反応を示すというのは、系統発生的淘汰(進化の結果による淘汰)を背景に、個体発生的淘汰(行動の結果による淘汰)が行われたことの産物。
「類似しているぞ」反応を示すのも、同様の産物。
91伍長:2000/04/16(日) 04:49
そして、これらの個体発生的淘汰の随伴性、例えば、85@`86の随伴性、あるいは、これまで例示した随伴性には、色々な要素が含まれていました。また、特定できない要素もあるでしょう。
それらの要素は、86で引用した某先生のおっしゃるように、
>基本的に、あらゆる刺激・条件・出来事は2つ以上の機能を持ち得ます。
だから、一つの随伴性に他の随伴性の一部の要素が関係して、それがしばしば別の機能・役割を持っていることでしょう。
まったく独立の要素が加わっていることもあるでしょう。
これが随伴性(=ウィトゲンの言う「規則」)の有り様であって、事実なのです。
我々の行動世界は、このような随伴性が複雑に絡み合っている。
(ちなみに、このように絡み合った諸々の随伴性(複数形)の有り様を、後期ウィトゲンは「言語ゲーム」と呼んだのだと思う。)
これは循環でしょうか?

循環あるいは無限後退は生じていないと思います。
いや、それを「循環」と呼ぶのだというのなら、もう解釈の相違ですが、そういう解釈はマズイと思う。
どうでっしゃろか?
うーん、丸一晩苦労した割には、うまい説明じゃないないか・・・・
92伍長:2000/04/16(日) 05:10
えーと、90の
>(実際に「行動連鎖」と言います)
の部分はカットして下さい。「行動連鎖」のことじゃないや。
93名無しさん:2000/04/17(月) 03:47
私的言語は?
94名無しさん:2000/04/17(月) 05:21
ゼミ中だから私語はだめ。
でも、面白い私語なら許可されていいと思う。
959改めて「く」:2000/04/17(月) 05:55
 わたし9から、くに名前変えます。数字は嫌じゃ。
「早起きは三文の徳」みなさんたまには早起きをし
ましょうね。
 ええと、伍長さん。今回のはやけに力作ですね。
わたし、おかげでかなり自分の考えをまとめること
ができました。
 しかし、「プロの先生に訊いてみました。」なんて、
そんなホットラインを持っていたんですね。今まで
隠していたなんて、人が悪い。
 いろいろとまた質問したいことがでてきたのですが、
その前にこれまでのやり取りで自分が理解できた
と思える部分をまとめておきます。
(ひょっとした夜になるかも)
それと、94までいきましたね。
ずいぶん書きこんだんですね。で、100番目
のレスはわたくしがいただいちゃいます。
フォフォフォ。あしからず。


  
96:2000/04/17(月) 06:19
>83.
 「わたしが死んでも、登場人物がひとり欠けるだけで、
世界は存続します。しかし、同じに私が死んだら、いま私
の見ている世界(あるいは、私にとっての世界)について語
ることはできなくなり、ある意味でなくなります。」

ええと、少し混乱があるように思えます。
まず、「語ることはできなくなり」の主語は「私が」
ということでいいんでしょうか。そうだとすると、
私は死んでしまったのだから、死んだ私が語れなく
なるのは当然で、語れなくなるのはなにも、
私の見ている(というか見ていた世界)だけでなく、
一切のことが語れなくなってしまうわけで、
まさしく死人に口なしということになりませんか。

あるいは、私が死んだ後に残っている他人たちが、
「私の見ている世界」を語れなくなるという意味で
しょうか。しかしそれなら、その世界は私のみによ
って見られていた世界であるから、私が生きている
ときから、他人はそれについて語ることはできないはず。

97:2000/04/17(月) 06:25
続く「その意味では」、というのは、(私にとって
の世界は私の死とともに終わるという意味で)、
ということでいいんですね。

 「私は世界の登場人物ではなく、私と世界は1対1
で向き合っています。」

 これは単純に考えて独我論の主張ととらえていい
んですよね。
 つまり、他者を含む外部世界はすべて私の認識の中
に存在するという主張であると。
ただそう理解していいのなら、1対1で向き合っている
というより、世界はわたしの中にある、と言うべきでは
ないでしょうか。
いずれにせよ、それゆえに(世界はわたしの中にあるから)
、その世界(私によって認識された世界)を成り立たせる
ためには私の存在は不可欠となると。
ここまでは一応分かります。こういう理解でいいんすか?

98:2000/04/17(月) 06:35
 >83『しかし、そうした「私」について語ることは
できません。というのは「私」は世界の登場人物ではな
いからです。』

(そうした「私」)というのは、世界を認識している
私=「認識主体」のことですよね。
ええと、他者を含む外部世界(その中には当然自分の
身体も含まれることになる?)を知覚している
(認識主体としての)「私」はその「私」が認識して
いる世界の中には現れない、ということですね。
(比喩的に言えば眼球がその眼球自身を見ることが
できないのと同じ?)
しかし、世界の中に「私」が現れないことと、
その「私」(認識主体)について語れないということ
は、必ずしも結びつかないのではないでしょうか?
というか、以上の記述は「私」について述べていること
にはならないでしょうか。
 「私」は世界の中には現れない、などの記述は「私」
について述べているのではないでしょうか?

99:2000/04/17(月) 06:41
 >83.『たとえばわたしの名前「か」と述べても、
「私」を名指すことはできません。このことは「私」
が朝起きたら森首相になっている場合を想定すればよ
いと思います。このとき「私」は森首相ですが、「か」
は「私」ではありません』

まず、素朴な疑問として、「私」という表記は認識主体を
指す記号というわたしの理解が正しいとするなら、
認識主体=「私」が森首相になる、という事態は意味を成さ
ないのではないかと思うのですが。私(く)の認識主体である
「私」と、森首相にとっての自身の認識主体である「私」は
いわば一種の形式的な存在で、いわばカント的な超越論的主観
のようなもので、それ自身は自我ではないのではないか?
いわば、森首相を森首相たらしめ、く、をく、たらしめている
差異こそが自我なのであってそうではない形式的な認識主体
だけが森首相に移ったとしても、実は何も変化したこと
にはならないのではないだろうか?

 したがって、そのような変化がおこったところで、
森首相は森首相のまま何の変化もないし、また、く、もくの
まま何の変化もないと思うのですが(あるいは、くは認識
主体を失う?しかしそれはどういう状態なんだ?)
 それゆえ「しかし、「私」にとって「私」はただ独りだ
けしかいません」という記述は端的にいって間違っている
きがします。
 「私」は認識主体であるから、そのような認識主体はい
わば、(人間に限定するとして)存在する人間の数だけある
わけです。しかし、そのような認識主体からは、自我
「私を私たらしめるもの」は生じないのではないでしょうか。


100:2000/04/17(月) 06:45
100番めだぜ、フォフォフォ。
101:2000/04/17(月) 08:25
>96
 「わたしが死んでも、登場人物がひとり欠けるだけで、
世界は存続します。しかし、同じに私が死んだら、いま私
の見ている世界(あるいは、私にとっての世界)について語
ることはできなくなり、ある意味でなくなります。」(83)

>まず、「語ることはできなくなり」の主語は「私が」
>ということでいいんでしょうか。

それでいいです。でも、

>そうだとすると、
>私は死んでしまったのだから、死んだ私が語れなく
>なるのは当然で、語れなくなるのはなにも、
>私の見ている(というか見ていた世界)だけでなく、
>一切のことが語れなくなってしまうわけで、
>まさしく死人に口なしということになりませんか。

というところは分かりません。「死人に口なし」
ということでどういうことを問題にしているのでしょうか。
102:2000/04/17(月) 08:59
>98
>しかし、世界の中に「私」が現れないことと、
>その「私」(認識主体)について語れないということ
>は、必ずしも結びつかないのではないでしょうか?

どうしてですか?

>というか、以上の記述は「私」について述べていること
>にはならないでしょうか。
> 「私」は世界の中には現れない、などの記述は「私」
>について述べているのではないでしょうか?

それはその通りです。しかし、83の末尾で、

>「独我論は示すことはできるが、語ることはできない」
>ことを語ってみました。

と書いたように、その部分で矛盾があることは承知しています。
また"く"さんのここでの主張は上記引用文(83)の「」内と矛盾は
していないと思いますが。
103:2000/04/17(月) 09:37
>99

>私(く)の認識主体である
>「私」と、森首相にとっての自身の認識主体である「私」は
>いわば一種の形式的な存在で、いわばカント的な超越論的主観
>のようなもので、それ自身は自我ではないのではないか?

「私」以外の他人に認識主体がある、というのは論点先取ではないですか?
104:2000/04/17(月) 09:56
>99(すみません。レスをばらばらにしてしまいました)

> 「私」は認識主体であるから、そのような認識主体はい
>わば、(人間に限定するとして)存在する人間の数だけある
>わけです。

そうすると、ヒトであることの方が認識主体であることより
根源的であることになりませんか? そうなると、超越的なものが
超越論的なものより根源的であることになってしまいます。
105:2000/04/18(火) 01:42
わたしはどちらかというと、抽象的(
形式的)に考えて、具体例に適応してみるといった
方があっているようで、その意味でわたしは
よきウィトゲンシュタインの徒にはなれないのかも
しれない。
さて、伍長さんは、ウィトゲンの「規則」と「規則の
表現」を「随伴性」と「随伴性の表現」に置き換えた
ほうが分かりやすいと提案していますが、わたしはむしろ
「随伴性の表現」と「随伴性」をともに「随伴性の表現」と
し、それに対し「随伴性の従い方」(=随伴性)をおく方
がよいと思うのですよ。

で、わたし、考えまして。カップラーメンを食べなが
ら考えることしばし、規則の問題は暗号とその暗号の
解読文の喩えで考えると分かりやすいのではな
いかと思いついたのです。
106:2000/04/18(火) 01:44
暗号   暗号解読文    原暗号解読文
(コード)  (デコード)    (原デコード)
__ __ __ __ __ __ __
随伴性の表現」 「随伴性」 「原随伴性」
     ┗┻━┛    (随伴性の従い方)
       ↓         ↓
   「随伴性の表現」   「随伴性」
107:2000/04/18(火) 01:47
 ちょっと見ずらくなってしもうた。
んで、もう一丁。ほれ。
暗号   暗号解読文      原暗号解読文
(コード)  (デコード)     (原デコード)
__ __ __ __ __ __ __
随伴性の表現」 「随伴性」   「原随伴性」
      ┗┻━┛      (随伴性の従い方)
       ↓           ↓
   「随伴性の表現」      「随伴性」


108:2000/04/18(火) 01:51
さて、まず用語の解説として、原暗号解読文(原デコード)
というのは、暗号解読文の解釈の仕方のことで、
言いかえれば(「規則」の従い方そのもの)のこと
である。

さて、われわれが、暗号文(暗号解読文を参照する
ことによって解読できる)をつくり利用することが
できるのは、われわれが解読文の解釈の仕方で一致
している(いいかれば、原デコードを共有しているから)
であると言える。(まずはそう仮定して下さい)

そして、原デコードとは伍長さんの考えをかりれば、
「個体発生的淘汰」によって形成された行動パターン
(原初的反応)ということになる。

さて、われわれはこの原デコード(「随伴性」)
がどのような規則なのかを表現・記述していく事ができる。

109:2000/04/18(火) 01:56
暗号文A
(18、21、12,5)
暗号解読文A’
1 → A、
2 → B
3 → C
4 → D
以下順にいって
26→ Z

これに対して原デコードを記述すると
次のようになる。
原デコート(A+)
1番があったら、Aと置き換える
2番があったら、Bと置き換える
3番があったら、Cと置き換える
以下順に置き換えていき
26番があったら、Zと置き換える。
110:2000/04/18(火) 01:59
これは一見暗号解読文A’を文章化しただけに
すぎないように思われるが、そうではない。
暗号解読文A’を文章化するためにはその解読文
の従い方を解釈しなければならないのである。
たとえば、A’は次のようにも解釈できる。
デコードA’        デコードA’の解釈
1 → A     1 → B
2 → B  解釈→ 2 → C
3 → C      3 → D
4 → D      4 → E
  以下順に      以下順にいって
           26 → A

という解釈することもできる。もちろんわれわれ
はそのような解釈を普通行わない。しかしそのような
解釈は行わないということはA’の解読文からは導けない
のである。A’から導かれる解釈は論理的には無数にありえる
111:2000/04/18(火) 02:02
ではそのような解釈はしないということは
どこから導かれるのか、それは原デコード
(「随伴性」)からである。、

ではその解読文A’のかわりに初めから原デコート
(A+)の記述を解読文として提示すればいいで
はないかという意見がでるかもしれない。
しかしそれでもやはりだめなのである。
暗号文B
(18、21、12,5)
解読文B’
1番があったら、Aと置き換える
2番があったら、Bと置き換える
3番があったら、Cと置き換える
以下順に置き換えていって
26番があったら、Zと置き換える

こうすればわれわれはもはや原デコードを必要としない
ように思われる。
112:2000/04/18(火) 02:06
しかし、ここで記述された
「1番があったら」という文をどう解釈するか、
あるいは「~に置き換える」という文をどう
解釈すべきなのかは。この解読文B’からは導
くことはできない。
解読文B’から導ける解釈は論理的には無数に
ありうるからである。

ではこの暗号文B’の原デコード(暗号文の従い方)
を記述すればいいのだろうか?むろん、それを記述
することはできる。しかしそれは上記の行為を
繰り返すことにしかならない。

ではここから、なにが言えるだろうか。
1、 原デコードにおいてわれわれは解釈をしていない。
そこではわれわれは理由なく反応している。
(なぜかそうしてしまう)
2、原デコードを記述したものは、記述された
(それを明示的に思考された)瞬間にデコード
(解読文)へと変化してしまう。
3、従って、原デコードを記述(思考)すること
はできない。
113:2000/04/18(火) 02:10
随伴性と随伴性を記述したものとを分けて考えると伍長
さんが言ったとき、おそらくこのようなことを考えて
いたのだと思う.

しかし原デコードを記述したものはデコード(解読文)
になるとはどういうことだろうか。
それはいいかれば、(規則の「解釈の仕方」)
を記述しようとすると(「解釈の仕方」を提示する
「別の規則」)を作り出すことになる
ということである。
そして、規則(暗号)に対して、われわれは常に
解読(解釈)することが可能なのである。

そしてこの「従い方そのもの」=
「随伴性」=「原デコード」こそ言語ゲームを成り
立たせている端緒(生活形式)なのである。

114:2000/04/18(火) 02:16

では循環とはなんであったのか。

循環とは、原デコードをデコード化する作業に
他ならない。
われわれは可能的にはいくらでも、原デコード
から別の解読文を作り出していくことができる。
つまり、「解釈の仕方」を「こう解釈するべし」
という「新しい規則」として打ち立てていくことができる。
言いかえると、循環とは「随伴性」を記述する行為
を徹底させようとしたときに発生する
言語ゲームなのである。

115:2000/04/18(火) 02:19
しかし、原デコードから新しいデコードが作られること、
つまりデコード、デコードのデコード、
デコードのデコードのデコードと続けていける
ことは、われわれが暗号を解読する上で何の
問題にもならない。
なぜならば、くり返しいえば、原デコードにおいて
われわれは解釈していないからである。
われわれはたんにそう行動する。
そこには理由がない。理由はなぜかわれわれが
そう行動するという事実からしか導けないからである。

したがって、循環があるという表現は、
原デコードから新しい別のデコードを無限に
作り出していけるという事実を述べたに過ぎない。


116伍長:2000/04/18(火) 17:33
よくわからない。(^^;
そもそも、後期ウィトゲンの考察は「事実」についての具体的な考察です。
事実がどうなっているのか、経験科学の手法を用いずに、ああだこうだと具体的に考察しようとしています。
「言語ゲーム」も「規則」も、事実についての記述ですので、そのまま考えればよろしい。
ただ私は、ウィトゲンの用語法が分かりにくいので、より明快な行動分析の用語法に書き換えたわけです。
決して抽象化したわけではありません。
くさん(書きにくいので「九」さんにしてくれると嬉しい)の暗号文からの類推は、せっかくの労作なのに恐縮ですが、かえって分かりにくくしているように思えます。

まず、
>105
>さて、伍長さんは、ウィトゲンの「規則」と「規則の
>表現」を「随伴性」と「随伴性の表現」に置き換えた
>ほうが分かりやすいと提案していますが、わたしはむしろ
>「随伴性の表現」と「随伴性」をともに「随伴性の表現」と
>し、それに対し「随伴性の従い方」(=随伴性)をおく方
>がよいと思うのですよ。
これはダメです。あくまで後期ウィトゲンのいう「規則」と「規則の表現」の書き換えです。
「随伴性」は「随伴性の表現」ではありません。前者は事象間の事実関係(随伴関係)のこと。後者は言語刺激です。全然別物です。この区別は重要事項ですのでよろしくお願いします。
117伍長:2000/04/18(火) 19:10
>108
>そして、原デコードとは伍長さんの考えをかりれば、
>「個体発生的淘汰」によって形成された・・・・
違うようです。「系統発生的淘汰」の方です。これが「く」さんの言う「随伴性の従い方」のことでしょうか。

A:「系統発生的淘汰(進化)の随伴性」がまずあって、それを前提として、B:「個体発生的淘汰の随伴性」(=規則)が生じます。C:後者を記述したものが「ルール」(=規則の表現)です。
Aを前提とした上での、BとCについての議論ですので、とりあえずはAは考えなくてもいいと思います。
これを、原デコード、デコード、コードに振り分けたわけですか? うーーん。変だと思います。

109以降の暗号文の表は、『探究』の86の事例や、『ウィトゲンシュタイン小辞典』(大修館)の「規則」の項にある表とよく似ていますが、私は、これらが適切な例だとは思いません。
いま見たら、『小辞典』の方には「規則の解釈」や「無限後退」の事も説明されていました。なんだかヘンテコな説明ですが、まあ大筋ではよろしいかとも思います(「規則」を「解釈」するしないは、この場合は大して関係ありません)。
この件について、あとで書き込みします。
118伍長:2000/04/19(水) 00:42
暗号文の話についてコメントしようと思ったのですが、私にはムズカシイということと、どうも違うんじゃないかという気がしてならないということから、やめました。ごめんなさい。
私は、やはり用語の問題が大きいと思います。くさんは、「規則」や「解釈」という語を、時には正しく、時には間違って使用していると思う。

ウィトゲンの、
「私は規則に盲目的に従っている」(『探究』219)
という一文がよく引用されますよね。そしてこの文の解釈のためにいろいろと説明が為されています。『小辞典』の説明もそうです。
でもね、この文の意味なんて簡単なんですよ。「私の行動は随伴性の制御の下にある」という当たり前のこと(行動分析学の観点からすれば)を述べているだけです。

「規則に従う」(随伴性に従う)という行為は、「規則」(随伴性)を「解釈」した結果として生じる行為なのではありません。両者はまったく別の行為です。
どうもこの辺のところが普通の読者には分かりにくいらしく、解説書などでも詳しく(しかし不器用に)説明されています。

なお、「規則」(随伴性)を「解釈する」という行為は、あえて言えば、「規則の表現」(ルール)を作り出す行為です(異論もあるでしょうが)。
これは、元の「規則」(随伴性)に従う行為とは、もはや別の話題なんです。
だから、「規則に従う行為」を云々する時には、「解釈」の問題は切り離して別に論じた方がいいです。うーん、分かりにくいですか?
119伍長:2000/04/19(水) 00:52
例をあげます。
スキナーボックスという実験箱にネズミを入れて、バーを押すと餌が出てきて、やがてネズミはバー押し行動を学習します。これが「規則」(随伴性)です。つまり、諸事実の関係です。
これを「解釈」して、

A:「(0)空腹。(1)バー有り。(2)バーを押す。(3)餌が出る。バー押しを学習する。」

と記述したとします。この記述文が「規則の表現」(ルール)です。
「規則」(随伴性)に従う行為をしたのはネズミで、「規則の表現」(ルール)を作り出す行為をしたのは研究者です。ネズミは(そして今のところは研究者も)、この「規則の表現」(ルール)には従っていません。
さて、当面の課題はネズミの行動であって、研究者の行動ではありません。
研究者の行動は別個に論じられるべき課題です(それなのに一緒くたに論じていることがある。事実から離れて抽象化してしまうためだと思います)。

さらに、
スキナーボックスに人間の被験者が入ったと仮定しましょう。
彼はこの箱に設定されている「規則」(随伴性)を、上記のAのように「解釈」して、バー押しを学習できる。
被験者の解釈と研究者の解釈とでは、同じAであっても、意味合いが違いますよね(つまり、2つの「解釈」問題があるようだ。これも一緒くたにされがち)。
さて、被験者は、自ら「規則の表現」(ルール)を作り出す行為(「解釈する」行為)を行い、それを元にして、今度は別の行為(バー押し)を行った。ネズミよりも行動レパートリーが豊富だったということです。最終的に、実験箱の「規則」(随伴性)に従ったことに変わりはない。
(後期ウィトゲンは、この種の「解釈」行為をそれほど重視していないようです。重視しているように見える事例がたくさん出てきますが、これは人間はネズミとは違うからです。彼がとにかく論じようとしたのは、最終的なバー押し行動だった。これを「規則に従う」行動と呼んだ。少なくともその原型と考えた。)
120伍長:2000/04/19(水) 01:02
119で、ネズミ(または被験者)の行動と、研究者の行動は、別個に論じられるべき課題だと述べました。
では、後者の行動を、一応、別個に論じてみましょう。
ただ困ったことに、「規則」(随伴性)を解釈する行為と、「規則の表現」(ルール)を解釈する行為とをゴッチャにしがちです。くさんもこれを一緒くたにしているように見えます。
後者の、「規則の表現」(ルール)を解釈する行為とは、ある「規則の表現」(ルール)から、別の「規則の表現」(ルール)を導き出す行為です(ちなみに、いわゆる「演繹」とはこのような行為のこと)。

上の実験でいえば、両者とも研究者の行為ですね。
前者の行為は、例えば上記のAの記述文を作り出す行為でした。

後者の行為は、例えば、Aの記述文=「規則の表現」(ルール)を、

B:「(0)確立操作。(1)弁別刺激は不明(バーはオペランダム)。(2)オペラント。(3)強化。」
とか、あるいは、
C:「ネズミの行動は随伴性の制御の下に置かれた」

などという「別の」記述文=「規則の表現」(ルール)に記述し直したりすることです。
Aや、BCのような記述文=「規則の表現」(ルール)を作り出す行為のことを、我々は、時に「解釈」などと呼んでいるわけ。
『探究』201の最後の部分では、

「それゆえ、規則に従うそれぞれの行動は解釈である、と言いたくなる傾向が生ずる。しかし、規則のある表現を別のある表現でおきかえたもののみを『解釈』と呼ぶべきであろう。」

とあります。不十分です。上記に即して、そして一般常識に即して言うと、
(1)「規則」(随伴性)の解釈 = 「規則の表現」(ルール)を作り出す行為。
(2)「規則の表現」(ルール)の解釈 = ある「規則の表現」(ルール)から、別の「規則の表現」(ルール)を導き出す行為(上記のウィトゲンの定義)

さらに、(1)(2)それぞれにおいて、当の行為者による解釈なのか、第三者による解釈なのか、を確認した方がよい。
121伍長:2000/04/19(水) 01:24
繰り返しますが、「規則」という言葉を使って考えるから解りにくい。「規則」を「解釈」して行為する、という発想になりがちです(ひどいときには、ネズミの行動を論じていたのに、いつの間にか研究者の行動を論じていた、というレベルの話になることがある)。
ウィトゲンの言う「規則」とは、解釈されるものではなく、ただ単に従うべきモノです(ネズミは従っただけ。多分解釈したわけではないし、「解釈」論を持ち出す必要もない)。
だから、ウィトゲンの「規則」とは、行動を制御する「随伴性」のことだ、と考えれば、この問題はほとんど解決。次の、より重要な議論に進める。

「規則」という語には、「人為的に作られたモノ」というイメージがある(後期ウィトゲンはそんなことは言ってないのだが、時々混乱しているように見えることがある)。でも、違います。そういう「規則」もある、というだけの話。

そもそも、自然発生的に生じた「規則」(随伴性)であるか、人為的に作られた「規則」(随伴性)であるかは、当面はどうでもいいことです。どちらも同じ「規則」(随伴性)なんです。
両者を、人為的に作られた「規則の表現」(ルール)と混同しないことが重要(くどいが、何度でも言う)。
a:自然発生的に生じた「規則」。 b:人為的に作られた「規則」。 c:人為的に作られた「規則の表現」。
a と bc とに分けて考えていませんか? 違います。ab と c とに分けて下さい。(なお、自然発生的に作られた「規則の表現」というモノも考えられますが、無視して構わない。)

私の結論。
後期ウィトゲンの用語「規則」については、
「随伴性」(←規則)と、それを記述した言語刺激である「ルール」(←規則の表現)
という用語法に統一することを哲学界に強く要請する!!(←素人の遠吠えですが、本気です。決してトンデモではありませんです。)
解説書もウィトゲン自身も、「規則」(に限らずだが)を巡って右往左往している。その先(「私的言語」や「心身問題」)が大事なのに。
(言い切ってしまったが、専門家はどう思うか?)
122伍長:2000/04/19(水) 03:22
ええと、書き忘れましたが、くさん(「九さん」にして!)の暗号文について。
暗号(コード)、暗号解読文(デコード)、原暗号解読文(原デコード)
の3つですが、「文」や「記号」であるなら、すべて「規則の表現」(ルール)となり得ます。
少なくとも、決して「規則」(随伴性)ではありません。
で、もしも、
原暗号解読文(原デコード) →暗号解読文(デコード)→暗号(コード)。
ということであるなら、2つの矢印「→」は、共に、
ある「規則の表現」(ルール)を、別の「規則の表現」(ルール)に書き換える「解釈」行為
を表現しているということになります。
ただ、私には、「原暗号解読文(原デコード)」の意味が判りかねる。
よって、よくわかりましぇん。「文」なんですか?
やはり、こういう例(『探究』86の例や『小辞典』の「規則」の項の例を含めて)は、宜しくないと思います。
123あくまで断じてく:2000/04/20(木) 00:12
いろいろ、後で書きますが、とりあえず重要な部分を
先に書いてしまいます。
 後の文といろいろ重複する部分があるかもしれません
が、ひらにごようしゃあれ。

でまず、次の一点において,わたしと伍長さんは同意で
きると思います。
 伍長さんがかねてからくり返し言っているように、
ウィトゲンの「規則」と「規則の表現」の分割は廃止すべき
である。伍長さんがそう呼びかけていたはずですから、
ここでは廃止しましょう。以後使用禁止にしたいと思います。
 そして次の点にも同意してもらえるかもしれません。
われわれは学校の規則と言うが、同じことを指して学校の規則
の表現とは普通使いません。したがって、ウィトゲンが使って
いた「規則の表現」をはっきりと「規則」(表現可能なもの)
と言いかえるべきと思います。
われわれが普通そう使っています。
で、残念ながら、かわりに「随伴性」と「随伴性の表現」
という言葉を使うべきという意見には同意できません。
まず第一には随伴性という表現は必ずしも日常的に使われな
い、こなれていない言葉だからです。
第二にその分割には欠けているものがあると思うからです。
それについてこれからのべます。

それと83さん。
明日(正確には今日)の早朝か、明日の夜に返答を
かきますから。

124:2000/04/20(木) 00:33
>a:自然発生的に生じた「規則」。
>b:人為的に作られた「規則」。
>c:人為的に作られた「規則の表現」。
>a と bc とに分けて考えていませんか?
>違います。ab と c とに分けて下さい

 まずここでおそらくわたしと伍長さんの「規則」
の問題に対する見解がはっきりと分かれるところでしょう。
わたしはその分割はウィトゲンの「規則」の問題における大事な
点を見逃してしまうようなきがします。

わたしなら、
cを規則(表現可能なもの・例えば野球のルールブック)
abを「規則に従う」実践的行為、
そしてそれらに対して「従い方そのもの」
の三分割をおこないます。
例えばウィトゲンが「盲目的に従う」というときの
「盲目的な従いかたそのもの」が「従い方そのもの」
になりますが、これではよくわかりませんね。

まず、わたしからすると伍長さんのab とcの分割は
「規則に従う」という実践的行為
(a赤ん坊が言葉を覚えるb犬にお手を教える)
と規則(表現可能なもの)の分割だとおもいます。

 しかし、ウィトゲンはそこにもう一つの要素、
「従い方そのもの」をおいたのだとおもいます。
 つまり
 ①「規則」(表現可能なもの)
 ② - 規則に従う(実践)
 ③ -「従い方そのもの」
という関係になります。
 そして「従い方そのもの」は表現不可能なものであり、
それは規則に従っている場面(実践)の中で示される
「解釈ではない規則の把握しかたそのもの」のことです。

規則に従う行為(実践)を人為的に教え込ませることは可能
です。犬に何かを教え込ませるなど
 しかしその実践の中に示される「解釈ではない規則
の把握のしかたそのもの」は人為的に作ったり教えたりする
ことはできません。
わたしはこの三分割が必要であると考えます。


125伍長:2000/04/20(木) 00:59
>123
>ウィトゲンの「規則」と「規則の表現」の分割は廃止すべき
>である。
「分割」ではなく「用語(法)」ね。

>われわれは学校の規則と言うが、同じことを指して学校の規則
>の表現とは普通使いません。したがって、ウィトゲンが使って
>いた「規則の表現」をはっきりと「規則」(表現可能なもの)
>と言いかえるべきと思います。
そうそう! そうなんです!
ただ、
>(表現可能なもの)
ではなくて、
(表現されたもの=言語刺激)
です。
とにかく、混乱しそうだから、「規則の表現」を「ルール」と呼ぼうと提案しているわけです。

>で、残念ながら、かわりに「随伴性」と「随伴性の表現」
>という言葉を使うべきという意見には同意できません。
>まず第一には随伴性という表現は必ずしも日常的に使われな
>い、こなれていない言葉だからです。
提案しているのは、「随伴性の表現」ではなく、「ルール」です。
で、「随伴性」の代わりになるべき日常語が思いつきません。
だったら、すでに存在する術語を使った方がいい。
「随伴性」と、それを記述した「ルール」です。
126伍長:2000/04/20(木) 01:49
私の書き方が悪かったようで、「く」さん(せめてカギかっこを使わせてほしい)を混乱させているようです。

>124
>cを規則(表現可能なもの・例えば野球のルールブック)
どうも混乱します。「規則(表現可能なもの)」がやはりよく分かりません。

1)この「規則」が、ウィトゲンの言う「規則の表現」のことであるなら、
野球のルールブックは、ウィトゲンの「規則の表現」であり、行動分析の「ルール」です。
つまり、記述された文であり、言語刺激です。
だとしたら、これを「(表現可能なもの)」とするのは変です。すでに表現されているのだから。
「規則(表現されたもの)」なら正しい。

2)この「規則」が、ウィトゲンの言う「規則」のことなら、
野球のルールブックは「規則」の事例ではありません。
127伍長:2000/04/20(木) 02:00
>まず、わたしからすると伍長さんのab とcの分割は
>「規則に従う」という実践的行為
>(a赤ん坊が言葉を覚えるb犬にお手を教える)
>と規則(表現可能なもの)の分割だとおもいます。
違います。まず、ここでいう
 「規則に従う」
の「規則」は、ウィトゲンの「規則」のこと? 「規則の表現」のこと?
多分前者のようですが、では、
 「規則(表現可能なもの)」
の「規則」はどちらでしょうか? これも前者なのでしょうか?
だとしたら、「(表現可能なもの)」という但し書きは不要だと思います。

それから、a も b も「行為」になっていますが、私はこの分割で、「行為」のことを述べたのではありません。
私が挙げた3分割は、
a:自然発生的な随伴性。 b:人為的に作られた随伴性。 c:ルール。
の3分割です。
で、当面は、a と b は分割する必要はない。どちらも随伴性なのだから、ab と c の2分割でよろしいということです。
要するに、「随伴性」と「ルール」(つまり、「規則」と「規則の表現」)を明確に区別して欲しいという主旨の分割例でした。それだけですので、「く」さんの分割例とは主旨が違うようです。

注:
ウィトゲンの「規則」 → 「随伴性」:行動に影響を及ぼす諸事実と行動との間の、関係(随伴関係)。
同じく「規則の表現」 → 「ルール」:特定の随伴性を記述したモノ(言語刺激)。
128伍長:2000/04/20(木) 02:49
また、「く」さんのおっしゃる「従い方そのもの」という言葉の意味がわかりません。
「系統発生的淘汰の随伴性」のことだと思っていたのですが、違うようです。

さらに、「解釈ではない規則の把握しかたそのもの」(=「従い方そのもの」)というのも分からない。
(ちなみに、この「規則」は、どっちの意味でしょうか? 「随伴性」? 「ルール」?)
ウィトゲンのどの辺りの記述でしょうか? 『探究』の番号などで指摘していただけると嬉しい。探すのが大変でしょうが。

それと、「く」さんの3分割が、何のための3分割なのかが分かりません。どういう主旨?


私の勘違いかもしれませんが、やはり「く」さんは、ウィトゲンの言う「規則」と「規則の表現」を時折混同してお使いになっておられるように思えます。
解説書類においても同様で、私は長年そう思ってきました。
諸悪の根元は、ウィトゲン自身の用語法にあり、
  本来「規則」と呼ぶべきでない(かもしれない)事柄を「規則」と呼び、
  本来「規則」と呼ぶべき事柄の方を「規則の表現」と呼んでしまった。
読者が混乱するのは当然だと思います。
「随伴性」と「ルール」にしていただけるわけにはいかないでしょうか? (泣)
129名無しさん:2000/04/20(木) 06:36
『探究』(藤本訳)では、例えば、
(198の真ん中では)道しるべ=規則の表現=記号
(53の最後では)表=規則の表現

ところが、
(85の始めでは)道しるべ=規則
(86全体では)表=規則

確かにヴィトゲンシュタイン本人も混乱している。
それとも、もともと区別していないのか?
130129:2000/04/20(木) 07:13
他の解説本もパラパラと見てみたが、どうもヴィトゲンシュタインだけでなく、どいつもこいつも区別したり混同したりで、一貫してないみたいだ。
そもそもはヴィトゲンシュタインのせいか・・・。
だから、128の、

>諸悪の根元は、ウィトゲンシュタイン自身の用語法にあり、
>  本来「規則」と呼ぶべきでない(かもしれない)事柄を「規則」と呼び、
>  本来「規則」と呼ぶべき事柄の方を「規則の表現」と呼んでしまった。

は、次のような修正が必要みたいだ。

  諸悪の根元は、ウィトゲン自身の用語法にあり、
    本来「規則」と呼ぶべきでない(かもしれない)事柄を「規則」と呼んだり、
    本来「規則」と呼ぶべき事柄の方を、「規則」と呼んだり、「規則の表現」と呼んだりしている。
    本人が両者を混同して使っている。
131129:2000/04/20(木) 07:19
大発見だったりして。
132名無しさん:2000/04/20(木) 10:20
纏めて発表したら別刷50部送って下さい。
133129二等兵:2000/04/20(木) 17:56
残念ながら専門家ではない。
探す気はなかったのだが、偶然下記の記述を見つけた。
アンソニー・ケニーの『ウィトゲンシュタイン』法政大学出版、1982(野本和幸訳)に、

「図表とか道標は恐らく、規則自体としてよりはむしろ規則の表現と考えられる方が自然であろう。」(p.226)

と書いてある。
そう言っておきながら、実際にはあまり厳密には区別していないようだ。
専門家出てこい!
もしもこの問題をこれまでいい加減に放置していたのだとしたら怠慢だぞ!
論文にするときは、参考文献にこのスレッドと伍長殿の名(ついでに俺の名も)を明記すること。
134伍長:2000/04/20(木) 20:29
助かった。>129@`130@`133
ケニーの本は持っています。確認しました。ちゃんと傍線が書き込んであった。(^^;
ただ、他にも、『規則』と『規則の表現』を区別せよ、と「明確に」書かれていた本があったように思えるのです。黒崎宏の本だと思ったのですが、その部分が見つからない(詳しく調べてないけど)。私の錯覚かな?
128後半を別の表現でもう1回まとめ直すと、

(1)「東京方面へ行きたければ右へ、名古屋方面へ行きたければ左へ行け」という記述表現が可能な「事実関係」があったとして、これが『規則』(=随伴性)。
(2)「東京方面へ行きたければ右へ、名古屋方面へ行きたければ左へ行け」という記述自体は『規則の表現』(=ルール)。
(3)「道路標識図」は、(1)の「事実関係」を、(2)とは別の形で「表現」したもの。だからこれも『規則の表現』(=ルール)。

ウィトゲン本人も解説書も、この3つをすべて一緒くたにして『規則』と呼ぶことがある。ただし、(3)を『規則の表現』と正しく呼ぶこともある。(2)はどうかな。

このとき、(1)を、
(×)「東京方面へ行きたければ右へ、名古屋方面へ行きたければ左へ行け」という記述表現が可能な「概念」があったとして、これが『規則』。

と考えてはいけない。
(1)はあくまで「事実関係」(行動と、状況・結果との随伴関係)であって、何らかの「概念」ではない。

>133
誰かがどこかで指摘している筈。現にケニーが控え目に指摘している。
ただ、確かに専門家には出てきて欲しい。多くの人は、これが重要な区別だとは思っていないのかも。
行動分析学を学ぶ者なら、この区別の重要性は学部学生のときに教わる筈だと思いますけど。
135あのクリプキも混同しております!:2000/04/21(金) 01:34
伍長殿に報告。
目下クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス―規則・私的言語・他人の心―』産業図書、1983(黒崎宏訳)を調査中。
やはり彼も、134の(1)と(2)(3)を区別できていないようであります。
軍曹殿や小隊長殿はどこかにおられるのでありますか?
136マジで大発見かも・・・・:2000/04/21(金) 01:41
129二等兵より伍長殿へ。
哲学界への攻撃命令はまだでありますか?
137<く<:2000/04/21(金) 06:39
お、伍長に二等兵だ、じゃオレは「足軽」とかにし
ようかな。
しかし、なんかもりあがってますね。ぜひ専門家の人に
聞いてみたいですね。
で、なんかわかってないのはわし一人だけみたい
だから、伍長さんゼミ先に進めてください。

で、わたしが参考にしたところは、
探求の201と202の一行目のところで、
そこでウィトゲンは規則(ルール)と規則(ルール)
に従う(実践)とそして、実践の中に示される、
解釈なしの規則の把握のしかたそのものの関係について
述べているとおもうんですよ。
そこに出てくる「規則」はルールの意味で理解できるし、
「規則に従う」は「ルールに従う」と理解しても違和
感ないようなきがするんだが。
「このことによって~規則の解釈ではなく、応用の場
合場合に応じ、われわれが「規則に従う」と呼び、
「規則にそむく」と呼ぶことがらのうちにおのずから
現れてくるような、規則の把握[のしかた]が存在する
ことを示すのである」がわたしのいう解釈なしの規則
の把握の仕方そのもののことなんです。
ここで、ウィトゲンは
 規則(ルール)
 規則に従う(実践)
 実践の中に示される規則の把握そのもの
の三分割を行っているようにおもうのですが。
 で、しつこくこだわると、
 随伴性は実践の現場と言いかえられるんでは
ないかと思うんですよ。
138<く<:2000/04/21(金) 06:43
随伴性とは現象と行動の時間的推移関係だから
 本来はそこには規則はないわけですよん。
 言いかえれば@`ただ実践の現場があると。
で、その現場を観察者が観察をすると、
その現場の中の人々が従っている規範のような
ものがあるかのように見える。それを表記した
ものが規則であると。
わたし規則について二つのモデルが
あると思うんです.
一つ、規則先行モデル
① まず規則(ルール)を先に作る。
~すべし。
~すべし。
~するべからず。
規則(るーる)集

② その規則に従う(実践)

二、規則後発モデル
①実践の現場
②観察者が観察
③観察者が①から規則を作り出す。
われわれの世界はもともとは
規則後発モデルなわけです。
まず最初に規則があったわけではなく
ただ実践があったわけです。
でも、それを規則先行モデルで捉えようとする
実践の前に規範があるかのように見えてしまう。
しかし、わしってなんかできのわるい小学生みたい。
139<く<:2000/04/21(金) 06:44
 83さん。
遅くなってすまん。今日の夜返答します。
ああ、もうすぐ休みだ。
140伍長:2000/04/21(金) 17:13
>135
はい、クリプキは何年か前に読みました(珍しく最後まで)。「規則」の問題を正面切って取り上げているのは大変良い。
なお、私の上官の元軍曹殿は、数ヶ月前に575板にて自刃しております。私が介錯いたしました。たまにあの世から舞い戻っていましたが。

>136
偵察が先です。おまけに、我が軍は圧倒的に戦力不足です。

>137
『探究』の§201後半と202の「規則」は、《ルール》ではなく《随伴性》のことだとも解釈できます。
それに、「く」さんの分割って何を分割したもの?

>138
> 言いかえれば@`ただ実践の現場があると。
>で、その現場を観察者が観察をすると、
>その現場の中の人々が従っている規範のような
>ものがあるかのように見える。それを表記した
>ものが規則であると。
おお! だいたいその通りです。「規範のようなもの」という表現は悪くないかもしれない。これが《随伴性》のことで、「規則」が《ルール》の意味。
141伍長:2000/04/21(金) 17:16
なお、「く」さんの言う「規則先行モデル」と「規則後発モデル」については、私の76の書き込み参照。
 > A:「規則」に従う行為
 > B:「規則の表現」に従う行為(「規則」に従う行為の一種)
 > C:「規則の表現」を作り出す行為(「規則」に従う行為の一種)
 > D:「規則」そのものを作り出す行為(「規則」に従う行為の一種)
「規則」を《随伴性》に、「規則の表現」を《ルール》に直して読み替えると、
 > A':随伴性に従う行動
 > B':ルールに従う行動(随伴性に従う行動の一種)
 > C':ルールを作り出す行動(随伴性に従う行動の一種)
 > D':随伴性そのものを作り出す行動(随伴性に従う行動の一種)

「く」さんの言う「規則先行モデル」の①はC'、②はB'です。「規則後発モデル」の方は、①がA'、②がA'またはB'、③はC'。
「く」さんの2+3=5分類よりも、上の4分類の方が正確だと思いません?

また、
>われわれの世界はもともとは
>規則後発モデルなわけです。
>まず最初に規則があったわけではなく
>ただ実践があったわけです。
>でも、それを規則先行モデルで捉えようとする。
>実践の前に規範があるかのように見えてしまう。
おお! その通りです! よくぞまとめて下さいました!
特に、「規範があるかのように見えてしまう」ことが問題なのです。ウィトゲンも解説書も、それを「規則」と呼んでしまったことに問題があるのです。それは「規則」じゃないはずなんです。《随伴性》が正解。
やっとわかってくれた!(感涙)

#専門家出てこい!
142伍長:2000/04/21(金) 17:24
129二等兵さんにならって、『探究』の索引で「規則」のところを探して拾い読みしてみました。
やはり、ウィトゲンは、基本的に、私の134の(1)(2)(3)すべてを「規則」と呼んでいたみたい。要するに区別が出来ていない。
ところが、(3)を「規則の表現」とも見なして、区別しようともしている。その場合の、表現された当の「規則」自体が(1)なのか(2)なのか、本人の考えがはっきりしません。(1)のつもりだと思うのですが。

大抵の節では、(1)(2)(3)が混在しつつも、本人が「ひときわ一生懸命に」説明しようとしている「規則」が、(1)の事例であるらしい場合が目に付く。だから、本人は(1)の「規則」を、読者が理解しにくいモノだと考えていたはず。「く」さんの言う「規範のようにみえるもの」のことです。つまり、《随伴性》のこと。
本人は上手く説明できずに、結局、[§219]の最後の2文のような「象徴的な」言い方をしてしまう(この「規則」は、完全に(1)の事例だと思います)。

またしても繰り返しますが、
(1)の「規則」は、行動分析学で言うところの《随伴性》(状況-行動-結果の随伴関係)であり、
(2)(3)の「規則」または「規則の表現」は、行動分析学で言うところの《ルール》(《随伴性》を記述したモノ)です。
例えば、
[§82]の原文の最後の3つの「規則」を、行動分析学の上記の用語《 》に書き換えてみると、

「すると、わたくしは、かれが事を進めるときに従う《随伴性》をどのように規定するべきなのか。かれ自身は《そんな随伴性を記述したルール》を知らないのである。――さらに正確に問い直せば、『かれが事を進めるときに従う《随伴性》』という表現は、この場合まだ何ごとかを述べているはずなのか。」
(注:真ん中のは、「《そんな随伴性》」だけにした方が正しいかもしれない。)

この《随伴性》が、「く」さんの言う、「規範であるかのようにみえるモノ」、なわけです。これを「規則」と呼ぶから混乱するのです。

専門家の意見を希望する!
143<く<:2000/04/22(土) 02:00
かさんへ。
>「死人に口なし」
>ということでどういうことを問題にしているのでしょうか

 確かにわたしが死ねば、わたしが今見ているこの世界
(わたしの前にのみ立ち現れてくる世界)=(わたしの世界)
について語れなくなります。
しかし、そもそもそのような(わたしの世界)についての
語れなさはその世界がわたしの前にのみ立ち現れて決して
他人の目の前には立ち現れないことからくる、語れなさで
はないだろうか。
 例えて言えば、わたしが今見ている青の青さをそれとし
て、他人に示せないのと同じレベルの語れなさであって、
自分が死んでしまうことによって物理的に語れなくなる、
「語れなさ」(これが死人に口なし)とは語れなさの質が
違うのではないのかと。

「しかし、世界の中に「私」が現れないことと、
>その「私」(認識主体)について語れないということ
>は、必ずしも結びつかないのではないでしょうか?」
>どうしてですか?

超越論的主観によって構成され認識される世界の中には
その超越論的主体自身は立ち現れてきません。しかし、
われわれは超越論的主体についてはいくらでも語ることが
できるわけです。

144<く<:2000/04/22(土) 02:06
 >ここでの主張は上記引用文(83)の「」内と矛盾は
>していないと思いますが。

そこは自分でもよくわからないところでして。
83の文章はわたしが理解するには少し説明が欠けている
ように思うので、もう説明を加えてくれるとありがたいの
ですが。つまり、かさんが主張している「私」について、
もう少し説明がほしいと。

>私」以外の他人に認識主体がある、というのは論点先取
>ではないですか?

 わたしは、かさんの表記「私」を超越論的主観のようなも
のと「ようなもの」つけて表現したわけですが、それは一つ
には、かさんの言っている「私」が何を意味しているのか、
いまいちつかめなかったのと、超越論的主観について
自分があまり理解していないこと(つまりカントやフッサー
ルについてかじった程度なので)の二つの意味合いを込めた
ので、あまり突っ込まれると弱いんですが。
 ただ、もしわたしたちが自己の超越論的主観からいかに
して他人の超越論的主体の存在を導出できるか、という証明
について論じているのなら、素朴に他人に超越論的主観を読
みこもうとすることは論的先取りとなるだろう。
 しかしそのような証明の文脈に立っているわけではないの
だから、他人に超越論的主観を見とめることは別に論点を先
取りすることにはならないのではないか。
 数学の基礎論において1+1が2になることを論理的に
基礎づけられていないからといって、算数で1+1を2と答え
る人に対してそれは論点先取りだと言うわけにはいかない。
145<く<:2000/04/22(土) 02:14
 >そうすると、ヒトであることの方が認識主体で
>あることより根源的であることになりませんか?

 私が思うには、超越論的主体は世界を認識構成
していく上で根源的(経験に先立つ)な認識装置
ではあるが、別に人間(ヒト)が超越論的主体から
造られていくわけではない。
 超越論的主体とは、(話を人間に限定すると)人間
であるならだれもが持っているべき認識装置なのでは
ないだろうか。

 かさんにとっての自分の世界を構成している認識
主体は一つだけである。
 しかし、それは<く<にとっての自分の世界を構
成している認識主体は一つであるという主張を否定
することにはならないのではないか。

それと前にもどって、
83の「しかし、「私」にとって「私」はただ独りだ
けしかいません」
 という文章で超越論的主体に人称を与えているが
むしろ一人ではなく、一つというべきではないか
かりに、人体から独立に遊離した超越論的主体に
私がと通りでばったり出会ったとしても私はそれを
人間だとは思わないだろう。


146<く<:2000/04/22(土) 02:18
 おそらくここでわたしと かさんの主張が異なってくる
のであろうが、かさんは超越論的主体に自分が自分である
ことの根拠をおいているように思う。

 しかし、わたしの理解では超越論的主体とは@`純粋な
(内容のない)単に自分自身という自己意識をもった
形式的な認識装置であるから、そこからは他人ではない
自分という自我は出てこないと思う。
そのような固有性をもった自我が生じるのは
他者との関係の中のような経験的なレベルにおいてでは
ないだろうか。
147「規則」関連の用語を整理すると 1:2000/04/22(土) 17:07
「くvsか」はよくわからん。
「規則」関連は、以下のようなことでいいですか?
(分かりにくいので、括弧や句読点を補った。一部勝手にカット、勝手に改行した。)

>134(by伍長殿)
>(1)「東京方面へ行きたければ右へ行け」という記述表現が可能な「事実関係」があったとして、
>これが『規則』(=伍長殿の言う《随伴性》)(=138のく殿の言う「規範のようにみえるもの」)。
>(2)「東京方面へ行きたければ右へ行け」という記述自体は『規則の表現』(=伍長殿の言う《ルール》)。
>(3)「道路標識図」は、(1)の「事実関係」(=伍長殿の言う《随伴性》)を、
>(2)とは別の形で「表現」したもの。だから
>これも『規則の表現』(=伍長殿の言う《ルール》)。

>138(byく殿)
>随伴性とは現象と行動の時間的推移関係(=伍長殿の言う《状況-行動-結果の随伴関係》)だから、
>本来はそこには規則(=伍長殿の言う《ルール》)はないわけですよん。
>言いかえれば、ただ実践(=伍長殿の言う《随伴性に従う行動》)の現場があると。
>で、その現場を観察者が観察をすると、その現場の中の人々が従っている規範のような
>もの(=伍長殿の言う《随伴性》)があるかのように見える。
>それを表記したものが、規則(=伍長殿の言う《ルール》)であると。
148「規則」関連の用語を整理すると 2:2000/04/22(土) 17:10
>138(byく殿)
>一・・・規則(=伍長殿の言う《ルール》)先行モデル。
>①まず規則(=伍長殿の言う《ルール》)を先に作る。(=伍長殿の言う《ルールを作り出す行動》)
>②その規則(=伍長殿の言う《ルール》)に従う(実践)。(=伍長殿の言う《ルールに従う行動》)

>二・・・規則(=伍長殿の言う《ルール》)後発モデル
>①実践(=伍長殿の言う《随伴性に従う行動》なので上の②の実践とは全然違う)の現場。
>②観察者が観察。(=伍長殿の言う《随伴性に従う行動》または《ルールに従う行動》)
>③観察者が①から規則(=伍長殿の言う《ルール》)を作り出す。(=伍長殿の言う《ルールを作り出す行動」)

>われわれの世界は、もともとは、規則(=伍長殿の言う《ルール》)後発モデルなわけです。
>まず最初に規則(=伍長殿の言う《ルール》)があったわけではなく、
>ただ実践(=伍長殿の言う《随伴性に従う行動》)があったわけです。
>でも、それを規則(=伍長殿の言う《ルール》)先行モデルで捉えようとする。
>実践(=伍長殿の言う《随伴性に従う行動》)の前に、規範(=伍長殿の言う《ルール》)が
>あるかのように見えてしまう。

>141(by伍長殿)
>おお! その通りです! よくぞまとめて下さいました!
>特に、「規範(=伍長殿の言う《ルール》)があるかのように見えてしまう」ことが問題なのです。
>ウィトゲンも解説書も、それを(も)「規則」と呼んでしまったこと(=伍長殿の言う《随伴性》と
>《ルール》とを混同したこと)に問題があるのです。
>それは、「規則」(=伍長殿の言う《ルール》)じゃないはずなんです。《随伴性》が正解。

以上でよろしいですか? >御両人。
149「規則」関連の用語を整理すると 3:2000/04/22(土) 17:22
伍長殿の主張をまとめると、
要するに、134の(1)は《随伴性》で、(2)(3)は《ルール》だから、まったく別の物だと。
ヴィトゲンシュタインを始め、みんなはこれらを全部ひっくるめて「規則」と呼んでいる。だから混乱していると。
(2)や(3)を「規則の表現」と言いかえても、「規則の表現」≒「規則」のような気がしてしまうから、たぶん混乱は収まらないだろうと。
だから、この際「規則」という用語は思い切って捨ててしまい、《随伴性》と《ルール》という行動分析学の用語に統一して両者をハッキリと区別しろと。

そこで、二等兵より伍長殿へ質問。
その一。
《随伴性》と「規則」という用語ではだめなのだろうか?
(1)を《随伴性》と明確に定義することで(2)(3)と区別できれば、「規則」を(2)(3)に残しても別に良いのではないかと思うが・・・・
その二。
(1)と(2)の間に、「明示されない『前ルール』」みたいなものは想定しないのだろうか?
もしかして、ヴィトゲンシュタインも他の哲学者もそれを想定していて、(1)は始めから想定していないのではないだろうか? だとしてもそれは大問題なのか?
その三。
伍長殿の言う区別をみんなが実行したとして、その結果どういうことが分かるのか?
確かに混乱は大幅に減少するであろうという気は大いにするが、だから何だという気もしないではない。新たな混乱が始まるとか・・・・
その四。
行動分析学でもこういう議論をしているのか? それを哲学関係者は知っているのか?
150「規則」関連の用語を整理すると 4:2000/04/22(土) 17:39
どうも、「く」殿の言われる「実践の背景にあって、あたかも規範のように見えるもの」がポイントのようだ。
それは実際に「規範」なのか。
「規範」なら、それは伍長殿の言う《ルール》だ。
「規範」のように見えてしまった段階で、はじめて《ルール》になるということか。
「規範」でなければ、あるいは「規範」のように見えなければ、それは《随伴性》か。
ややこしいが、わかるような気はする。

こういうことを指摘している解説書や論文って本当にないのか? >専門家
151伍長:2000/04/23(日) 00:46
>二等兵殿。
御理解に感謝感謝。

>149
>《随伴性》と「規則」という用語ではだめなのだろうか?
混乱さえしなければ、それでかまいません。

>(1)と(2)の間に、「明示されない『前ルール』」みたいなものは想定しないのだろうか?
それは「漠然とした概念」のようなもの? だったら、とりあえずはそれも(2)(3)の《ルール》と見なしてよいかと・・・。

>伍長殿の言う区別をみんなが実行したとして、その結果どういうことが分かるのか?
色々なことがハッキリすると思います。行動分析学者も議論に参加し易くなるし。

>行動分析学でもこういう議論をしているのか? それを哲学関係者は知っているのか?
行動分析学独自の議論は、スキナー他がやっています。《ルール》は重要語ですから。
が、ウィトゲン関連ではあまりしていないようです。先日、行動分析学で最も権威あるアメリカの学術誌のHPで検索してみたら、Wittgensteinで引っ掛かった論文はたったの3編でした(そのうちの1編は、ウィトゲンとスキナーの類似点を10項目指摘した論文で、学生時代の私は、これを読んでこの問題に目覚めた)。
当然、哲学者はこのことをほとんど知らないでしょう。
次の本は例外的存在でしょうか(著者は哲学者ではないそうですが)。
  ブルア@`D.『ウィトゲンシュタイン:知識の社会理論』戸田山和久訳@` 勁草書房@` 1988.
第四章での「私的言語」をめぐる議論で、スキナーの言語行動論が援用されています。
以後の章は私には概して理解不能ですが、少なくとも第四章での著者のスキナー理解は、いくつかの細部を除けば、けっこう正確だと思う(珍しいことです)。
ただし、今回の、「規則」≠「規則の表現」問題については触れられていなかったはず。
152伍長:2000/04/23(日) 00:53
>150
>「規範」のように見えてしまった段階で、はじめて《ルール》になるということか。
そのとおりです。ただし、《随伴性》が《ルール》に変化したわけではありません。
“りんごそのもの”が、「りんご」という語や 「このりんごは赤い」という言語表現に変化したわけではないのと同様。
より正確に言うと、
「『規範』のように見えてしまった」ということは、「(その人が)《ルール》を作ってしまった」ということと同義でしょう。
なお、134(1)の《随伴性》は、《ルール》成立以前に存在し、《ルール》成立後も存在する。ただし、《随伴性》も《ルール》も、不変のものではない。無常なるものである。
153おでん屋:2000/04/24(月) 02:02
そうか。桜はもう散っちまったが、フランケンシュタインもそ-ゆーのに無常観を感じていたわけか。
ヤツも方丈記や平家や小林秀雄を読んでたってことか?

それにしても、やたらと「規則」ばかり出てくるが、物理板のビッグボインスレッドよりややこしいじゃねえか。
あっちでは「婆さん」と「桃」と「光速犬」の話からロレックス変態則をマスターしたが、
こっちでは「規則(1)」と「規則(2)」と「規則(3)」かよ。
いったい俺は何をマスターすりゃいいんだ? うー、イライラする。

カアチャンがオッパイを差し出すのも、赤ん坊の場合と俺の場合とでは「規則」が違うんだろ?
で、この辺の「規則」は、どっちも「規則(1)」の「随伴性」の方か?
それとも、
赤ん坊がカアチャンに向かって 「オッパイ」って言ったり、
俺がカアチャンに 「オッパイを出してくれたら嬉しいんだな」(あくまでお世辞だが)って言ったら、
カアチャンにとって、赤ん坊や俺の発言は、「規則(2)(3)」の「ルール」の方だってことか?
一体カアチャンは、「規則(1)」に従ってるのか、「規則(2)(3)」に従ってるのか、どっちだ?

くそー、頭がこんがらがっているのは俺だけか?

ロレックス変態則や速度の阿呆則も、物理屋にとって、多分 「規則(2)(3)」の「ルール」かな?
この場合の「ルールに従う行動」ってのは、宇宙船の行動?じゃなくて、物理屋の研究活動のことか?
例えば、ロレックス変態則という「ルール」に従って数式をいじくると、
色々と面白いことが分かったり、宇宙戦艦ヤマトが出来たりする。
ついでに、速度の阿呆則という新しい「ルール」も出てくる。
わははは。
・・・違うのか?
154>153:2000/04/24(月) 02:21
>くそー、頭がこんがらがっているのは俺だけか?

安心しろ。フランケンシュタイン自身を含め、全員が混乱していると思う。
155伍長:2000/04/25(火) 01:25
>一体カアチャンは、「規則(1)」に従ってるのか、「規則(2)(3)」に従ってるのか、どっちだ?
わからなくなってきた。どっちだろう?

>ロレックス変態則や速度の阿呆則も、物理屋にとって、多分 「規則(2)(3)」の「ルール」かな?
そのとおりです。法則や公式というものは、現象を記述したものであったり、他の法則や公理から演繹されたものであったりしますが、
同時に、「研究者や学生などの『人間』の行動随伴性を記述したもの」(=《ルール》)でもある。
どういうことかというと・・・、

例えば、「底辺×高さ」という公式は、平行四辺形の面積を記述したものですが、
同時に、平方四辺形の面積を「求める」という人間行動の随伴性を記述したものでもあります。
つまり、「底辺×高さ」という公式は、
A:「(1)ある状況で、(2)この公式に数値を代入すると、(3)平行四辺形の面積が出て嬉しい」
という随伴性(状況-行動-結果の随伴関係)の記述でもあるわけ。
さらに、この「底辺×高さ」という公式は、さらなる行動随伴性を記述したものでもある。
例えば、
B:「(1)ある状況で、(2)この数式を元にして変形を行えば、(3)色々と新しい事が判って嬉しい」
といった随伴性の記述とも言える。
要するに、我々は、この公式(=《ルール》)に従って、平行四辺形の面積や、新しく三角形や台形の面積を求めたりできる。

一方、科学者は、例えば「ロレンツ変換則」(=《ルール》)に従う行動(= 様々な研究活動)を行うでしょう(ヤマトが建造できるかどうかまでは私には不明ですが)。
「規則に従うということは一つの実践である」というウィトゲンの「言明」や、
「随伴性を記述したものをルールと呼ぶ」という行動分析学の「定義」も、
研究者や我々にとって、《ルール》となります。その結果、論文を書いたり、掲示板で素人議論をしたりする。

以上は、行動分析学の考え方(多分)。後期ウィトゲンがそう考えていたかどうかは知らない(似たような事は考えていたと思う)。
156伍長:2000/04/25(火) 02:13
後期ウィトゲンの「規則」概念は混乱していると思います。他の本の著者も同様です。
週末に、グレーリング著『ウィトゲンシュタイン』(講談社選書メチエ)という一般向け入門書を読みました。
素人にも分かり易く書いてあるのは良いのですが、やはり、「規則」についての記述は他と同様です。
《ルール》の話をしていたのが、いつのまにか《随伴性》の話をしていたりする。

そろそろ「私的言語」の話題に入りたいのですが・・・・・
「規則」論議についての疑念は私が長年抱いていたもので、気になるのです。
今回の皆さんとの議論でかなり整理されてきました(少し修正することが出来ました)。
147~150(by二等兵さん)と152(by伍長)が現段階でのまとめになっていると思います。

「冷やし中華はじめました」さんは何処へいかれたのか?
専門家とまではいかなくとも、ウィトゲンを勉強しておられる哲学科の学部生や院生の方は他にもおられるのでは?
コメントをいただけるとヒジョーに嬉しい。
157名無しさん:2000/04/26(水) 18:32
私的言語って何?
158<く<:2000/04/26(水) 21:49
 >157さん。
 伍長さんが問題提起をしてくれると思うのであせらず
待ちましょう。(わしは他力本願野郎だ)

 >ヤツも方丈記や平家や小林秀雄を読んでたってことか?
読んでないでしょ。だってフランケンは日本語を知らない
はずだから。でも、創造されたばかりのフランケンが誰の助けも
借りずに自分一人で、言語を作り出したとしたらそれがウィトゲ
ンで言われている「私的言語」のひとつになるのかもね。

しかしおでん屋さんって、物理板の住人だったのか。物理板は恐
ろしくて一度も行ったことはないが、ロレックスの変態則に、速
度の阿呆則……、う~む。なにやら楽しそうな…、でもやっぱり
怖いから行くのはやめとこう。

159<く<:2000/04/26(水) 22:02
 「オッパイ」は随伴性なのかルールなのかってことだけど、
「オッパイ」は随伴性でしょうね。
 宇宙人が日本原住民の生態を調べるために、おでん屋
一家の日常をこっそり観察するという場面を考えてみましょう。
 日曜日毎、家でのんびりしているときに、おでん屋さんが
「オッパイもみたいんだけどな~」とつぶやいていると、三週間
に一回の割合で、かあちゃんがオッパイを2分間だけもましてく
れるという随伴性が見出されたとする。
 そこから宇宙人は日本原住民の生態(ルール)として、日曜日
に家でくつろいでいる状況で、「オッパイもみたいな」と発言す
ると、三週間に一回の割合でオッパイがもめてうれしいぞ、とい
う規則を作り出すことができる。
 これらの観察の結果を母星に報告する際に、「日本原住民はこ
れこれの規則に従って日常を営んでいます」と報告することにな
るのだが、本当はそういってはだめなのであって、「オッパイ」
ルールがあって、それに従う行為があるという(規則後発モデル)
で捉えるのは本来は間違いで、規範を前提としない行為の実践がま
ずあって、それを宇宙人が観察するという行為によって規則(日本
原住民の生態)が作られたと考えるべきなんじゃないかな。
 だから、「オッパイ」発言に反応するかあちゃんは随伴性に従っ
ていると理解すべきでしょう。
 
160<く<:2000/04/26(水) 22:07
>158 訂正(規則後発モデル)→規則先行モデル

 ただし、もしおでん屋さんがおでん屋一家のルールとして、
自分が「オッパイ」と発言したときは、それから三週間以内に
最低一回はオッパイをもませてくれること、という決まりを作っ
ていたとしたら、これは随伴性ではなく、ルールとなる。


161<く<:2000/04/26(水) 22:37
>つまり、「底辺×高さ」という公式は、
>A:「(1)ある状況で、(2)この公式に数値を代入すると、
>(3)平行四辺形の面積が出て嬉しい」
>という随伴性(状況-行動-結果の随伴関係)の記述でもあるわけ

というのはちょっと疑問があります。
例えばAは次のような記述でもべつにいいように思うのですが。
A’ (1)ある状況で、(2)この公式に数式を代入すると(3)
平行四辺形の面積がでるのだが、簡単すぎてつまらない。
でもいいし、
A’’ (1)ある状況で (2)この公式を元にして変形を行
うと(3)いろいろ新しいことがわかるのだが、別段興味が
ないので眠くなる。
でもかまわないと思うので、「底辺×高さ」という公式がAやBの
随伴性の記述でもあるという言い方は少し違うんじゃないでしょう
か。
むしろ、「底辺×高さ」というルールに従った人たちを観察
することによって観察者が作り出したルールがAやBであるという
べきでは。

162伍長:2000/04/27(木) 00:30
「オッパイ」発言は、行動分析学の分類では「マンド」(「要求」と考えて構いません)です。
ただ、これが聞き手(カアチャン)にとって「ルール」として機能しているような気もして、定義違反になりそう(「ルール」になるのは「タクト」(「命名」や「記述」など)の方なのです)なので、プロの先生に質問してみました。(「マンド」と「タクト」については、36を御覧下さい。)
結果、私の考え違いでした(159の「く」さんが正しいようです)。
以下に勝手に転載します。

> マンド、タクトなど、スキナーの言語行動の分析は、あくまで
>『機能』の分類です。それも、話し手の言語行動を制御する変数
>に関しての分析です(彼の著書 Verbal Behavior はそのほとんど
>を話し手の行動の分析にあてています。スキナーは聞き手の行動
>の大半は他の行動と同様に分析可能であり、特別な分析を必要と
>しないと考えていたのです)。
> それから各機能は、一応、独立した機能であるという前提があ
>ます(もちろん、この独立性は十分に実証されてはいませんが)。

>つまり:
> 話し手の言語行動が聞き手にどのような機能を持つかという話
>は、それが話し手の行動に影響を与える主要因でない限り、この
>分類基準には無関連ということになります。

> たとえば、マンドの場合、聞き手が話し手にマンドされた好子
>を出現させる(あるいは嫌子を消失させる)ことが主要因であっ
>て、聞き手がどうやってマンドに従うかは定義には入ってきませ
>ん。
> 聞き手は、「ここでオッパイをだしたら、トウチャン嬉しいの
>ね」とルール(タクト)を自発して、それに従うかもしれないし、
>そんなルールなしでオッパイをだすかもしれません。この場合、
>随伴性が直接効果的随伴性ですからルールなしでも十分オッパイを
>だせます(^^)。
(続く)
163伍長:2000/04/27(木) 00:38
(転載の続き)
> さらに、マンド以外でも聞き手は話し手の言語行動からルールを
>自発できます。たとえば、こんなふうに。

>話し手:「おれのカアチャンのオッパイは大きいぜ」(タクト)
>聞き手:(今度、これをお世辞に使えば、この人は喜ぶだろう)(タクト:ルール)

> ただし、注意すべきなのは、ルール(タクト)はあくまで
>言語行動です。「意味」ではありません。
> トウチャンの発言から、実際に、「ここでオッパイをだしたら、
>トウチャン嬉しいのね」とカアチャンが発言し(内言でも)、それ
>が服を脱ぐ行動を制御していない限り、ルールとは言えません。
> 第三者から見て、トウチャンの発言にはそういう「意味」があっ
>て、カアチャンはそれを“察して”行動しているに違いない。よ
>ってルールである、というのはナイーブな分析です。

素人相手になんて親切丁寧な! シビレました。
また、「法則」や「公式」についての私の偉そうな講釈も自信がなくなった(大嘘こいてた可能性あり)ので、質問中です。
なお、「く」さんの161のA'@` A''は、ともに(3)で「強化」されないとみなせるので、随伴性は形成されない(と思う)ので、ここでA'@` A''を想定するのは無意味(と思う)。
ただ、
>むしろ、「底辺×高さ」というルールに従った人たちを観察
>することによって観察者が作り出したルールがAやBであるという
>べきでは。
これはスルドイ。私も、「オッパイ」問題で先生に質問した際に、それをやってしまったようです。そのときの御回答が上記転載文です。
ウィトゲン自身も解説書の著者たちも、時々これをやってしまっているような気がする(話し手、聞き手、観察者の三者の行動を明確に区別すべき)。
164名無しさん:2000/04/27(木) 19:59
>159
>日曜日毎、家でのんびりしているときに、おでん屋さんが
>「オッパイもみたいんだけどな~」とつぶやいていると、三週間
>に一回の割合で、かあちゃんがオッパイを2分間だけもましてく
>れるという随伴性が見出されたとする。

多分FIスケジュールでんな。スキャロップが発生しそうです。
あ、人間の場合はスキャロップなしの低反応率だったかいな?
それともFTスケジュールでっか? なら迷信行動が形成されそうです。

>160
> ただし、もしおでん屋さんがおでん屋一家のルールとして、
>自分が「オッパイ」と発言したときは、それから三週間以内に
>最低一回はオッパイをもませてくれること、という決まりを作っ
>ていたとしたら、これは随伴性ではなく、ルールとなる。

159の随伴性とは違いまんねん。
でも、それを記述した「決まり」はルールでんな。合うてると思います。
165おでん屋:2000/04/28(金) 00:39
そんなルールが必要であるなら、俺は潔く男をやめようと思ふ。
すでに必要なのかもしれないが・・・
166伍長:2000/05/01(月) 19:56
スキナリアンらしき方が現れたのは嬉しいのですが、「規則」についてウィトゲンの専門家(の卵)諸兄に御意見を伺いたかった・・・・(いつまでもお待ちしてますので宜しく)。
とりあえず、以上のこれまですべてを踏まえて、「私的言語」や「心」の問題に進みましょうか。

「私的言語」について1(前提)。
(1):後期ウィトゲンによれば、
語の「意味」とは、「言語ゲームにおけるその使用」のことであって、指示対象のことでもなければ、心の中に浮かぶイメージのようなモノでもない。
語の意味を理解するということは、何らかの心的な作用ではなく、言語共同体の中でその使用法を学んで正しく使えるということでした。
例えば、「ミルク」という語の意味を理解するということは、語「ミルク」の使用法を学習して正しく使えるということであり、それは言語共同体による訓練によって為される。

(2):しかし、そうなると、「歯が痛い」「嬉しい」のような、内的で私的な体験を表すような語使用についてはどうか?
(1)が正しければ、
「心」「意識」「思考」「喜び」 などの語(注)の意味を理解するということも、その言葉の使用法を「訓練されて」正しく使えるということである筈。
でも、ミルクは本人も他人も触れることの出来る「公的な」物質だが、歯痛や喜びは、本人しか経験し得ない「私的な」出来事です。
個人の「歯痛体験」や「喜び体験」に他人は接触?できないのだから、そのような私的な体験は、いわば「公的な言語ゲームの中から抜け落ちている」はず。
そうなると、私的な語の使用法を学習するということは、(1)とはどこか違うのではないか。
ここから、いわゆる「私的言語」や「心」の問題に発展するわけ。

ここまでは一応よろしいですよね? >ALL
(注:他の行動主義心理学と同様に、行動分析学は、これらの語(「心」「意識」「思考」「喜び」など)と関連がある人間的現象を否定している? とんでもない誤解です。馬鹿馬鹿しい。行動分析学は、これらの語がどのように心理学的に認識されるべきなのかを考えているだけ)。
167伍長:2000/05/01(月) 19:59
「私的言語」について2(粗筋)。
(3):天才坊やA君が、純粋な内観によって、
自分の何らかの感覚に対して「E」と名付けたとする。これを、「私的な直示的定義」というらしい。
彼は天才なので、その感覚に対して、訓練(学習)無しに、内観だけを頼りに、自力で「E」と命名することができた。
A君はいつもどおり平然としているので、他人は何も気付かない。
このとき、A君がいくら天才でも、自分の感覚「E」を他人に説明することはできないし、他人はその「E」を理解できないのではないか。
なぜなら、A君と他人が共通の理解を得るための「基準」(「規準」)がどこにも存在しない(ように思える)から。
このように、
「本人だけは理解している(ように見える)が、他人には理解できない音声」
のことを、「私的言語」と呼ぶ。

(4):後期ウィトゲンは、そのような「私的言語」の存在の可能性を否定した。
なぜなら、純粋な内観によって、私的な直示的定義を行うことなどできないから。
そして、共通の理解を得るための基準は実は存在しているから。
(簡単に言うとこういうこと? だとしたらあまりにも安易なので、詳しい人の補強を希望)。

(5):「心」に関する人々の一般常識も、従来のほとんどの哲学も(そして心理学も)、このような「私的言語」の存在を暗黙の内に認めた上で成り立っており、後期ウィトゲンがそれを覆したことによって、哲学史は新たな展開を見せることになった、ということらしい(ホント?)。


「規則」のところは結構自信があるんですが、この辺は弱気です。大嘘こいてる可能性あり。変なところは指摘して下さい。
補強を宜しく。>ALL
168>166:2000/05/02(火) 03:08
>言語共同体の中でその使用法を学んで正しく使えるということでした

言語共同体が根拠となって言語ゲームが遂行されるではなく、言語ゲームの
使用の一致が言語共同体(生活形式の一致)を帰結させるということですね。
ここの所、よく誤解している人がいるので。
169名無し:2000/05/02(火) 12:39
ウィトゲンシュタインは思った事を書いたのだ。  (謎)
170伍長:2000/05/02(火) 23:55
>168
専門の方ですか? 宜しければ、しばらくお相手して下さい(「規則」論議についてのコメントもお願い)。

さて、お言葉ですが、言語共同体と言語ゲームは不可分のものですから、どちらが一方の根拠(あるいは帰結)か、というのはあまり意味がないように思われます。
こういうことは大学の授業などでは問題になっているんでしょうか?
「一致」が言語共同体を帰結させるとしても、成立した共同体内では、成員同士による言語ゲームが遂行されるわけだし。
171伍長:2000/05/03(水) 00:26
そもそも、「言語ゲーム」という用語は意味が曖昧です。解説書などでは3つに分類しているようですが、それだけでは全然足りないと思います。

まず、『探究』7節を素直に読めば、少なくとも4つ。
(1):「子供がそれを介して自分の母国語を学びとる」全過程。すなわち、母国語の教授-学習過程。
(2):「石を名ざしたり、あらかじめ言われた語を後から発音するような過程」。すなわち、特定の言語行動(単数形?)の教授-学習過程。
(3):「ある原初的な言語」。すなわち、(1)の初期過程において学習された言語。
(4):「言語と言語の織り込まれた諸活動との総体」。すなわち、複雑に絡み合った関連する随伴性(複数形)に制御された諸々の行動(言語行動+非言語行動)の総体。

また、23節を見れば、
(5):「命令する、そして命令にしたがって行為する。etc.」。すなわち、特定の随伴性(単数形)に制御された特定の言語行動(単数形)、又はそれに関連する特定の非言語行動(単数形)。

さらに、全体を通して読むと、例えば、41節、42節、44節などでは、
(6):複雑に絡み合った関連する随伴性(複数形)の総体、もしくはその有り様。
(7):その中の特定の随伴性(単数形?)。

しかも、
(8):(7)の随伴性が形成される過程 ≧(2)。
のような意味合いで読めるところがあったりする(場所は忘れた)。

(1)(2)(8)は、教授-学習行動の随伴性の連鎖が設定される「過程」のことです。
(3)(4)(5)は、「行動」のことです。
(6)(7)は、「随伴性」のことです。
ちなみに、くどいようですが、ウィトゲンは、(7)の「随伴性」を「規則」と呼ぶこともあるようだ。(泣)
172129二等兵:2000/05/03(水) 01:51
確かに「言語ゲーム」が多義的な(ってゆーか、いい加減な)概念だということは前から気になってたな。
「言語ゲーム」という用語はあまり使わない方がいいかもね。
この言葉を使うと、何となく分かったような気分にさせられる。
「生活形式」や「家族的類似」もそう。
伍長殿に言わせれば「規則」もそうなるな。
飯田隆も、『ウィトゲンシュタイン』(講談社)の中の「キーワード解説」で、
「言語ゲーム」「生活形式」「家族的類似」の三つ(「規則」は含まれない)について、
主旨は違うみたいだけど、「極力使いたくない」って言ってる。
単なる「比喩」なのに、「基礎概念」であるかのように誤解されてしまうって。

だいたいさあ、これらの用語に限らず、入門書によくありがちな解説は何とかならんもんかね。
もってまわった解説の後で、結論の代わりに、
「すなわち、『・・・・・』というわけである。」
なんて具合に、ヴィトゲンからの引用『・・・・・』で締めくくるのが常套手段。
特に黒崎宏センセー。
読みやすい入門書(『生涯と哲学』)には世話になったし、
便利な『小辞典』の著者だからあんまり悪く言いたくないけどさあ、
こういうのってゴマカシだと思うのは俺だけ?
173168:2000/05/03(水) 04:20
>170

帰結と根拠とは違うと思いますが、帰結=根拠とされるのであれば、
その通りだと思います。

>171

最広義に(4)として考えてよいと思います。(4)が「行動behavior」
というのは用語法として違う、むしろ「行為action」が妥当だと思いますが。

>172

言語ゲームという概念が単なる比喩であるとは私は思いませんが、基礎概念
(を他の基礎的な概念と同列なものとして取れば)ではないでしょうね。
ウィトゲンシュタインが断章の形式を用いているのは、私には必然的に思われ
ます。言語ゲームという概念は、実在論的な定義、根拠付けとは別の位相に
おける理解を要求しているように思います(>171)。言語ゲームという概念
の指し示すものが曖昧に見えたり、矛盾しているように見えたりするのは、
言語ゲームというコトを実在論的に理解しようとしているからに他ならない
と思います。
174168:2000/05/03(水) 04:34
>170

>「一致」が言語共同体を帰結させるとしても、成立した共同体内では、
>成員同士による言語ゲームが遂行されるわけだし。

共同体「内」ということではなく、単に帰結としての共同体ということ
だと思います。「内」や「外」といったコトを言うのは誤解でしょう。
いわば地平線のようなものとして考えるとよい、と思います。あと、一
致しているというコトは一致しているから一致しているとしか言いよう
がない、つまり行為の一致ということを「説明」しようと思えばその瞬
間に自己言及を招く、つまり行為の一致は「説明」されるべきものでは
ない、ということだと思います。
175伍長:2000/05/04(木) 17:32
>173
>帰結=根拠
ってのは変です・・・

>「行動behavior」と「行為action」
これは私の説明不足。行動分析学の用語法では一般に「行動behavior」です。
哲学の用語法は知らないが、ここでは「行為」でも構いません。

>言語ゲームという概念は、実在論的な定義、根拠付けとは別の位相に
>おける理解を要求しているように思います。
「別の位相における理解」とはどういうこと?
「言語ゲーム」という語は、少なくとも172の(1)~(8)の8通りの「使用法」がありそうです。曖昧というよりも、二等兵さんの言うように、多義的(またはいい加減)であるのは事実。
『探究』がパッチワークになっているのは、具体的事例の考察を優先したから。その意味では必然かもしれないが、現代なら必ずしも必然ではないと思う。実験心理学の成果を利用できます。

>174
前半はよくわからないが、後半は異論があります(以前の議論の蒸し返しですので、遡って見て下さると嬉しい)。

>一致しているから一致しているとしか言いようがない
ウィトゲンが言っているのは、「行為者にとっては」ということだと思いますよ。
しかし「観察者(映画を観ている観客のような存在)にとっては」違う。
「行為の一致」ということは、我々観察者が「2つの行為は一致しているぞ」という「判断」行為を行うということです。
また、「なぜそのような一致が生じたのか」という「説明」行為も我々は行います。
a:行為者の「一致」行為、b:観察者の「判断」行為、c:観察者の「説明」行為は、みな別の行為です。
そんなこと分かってると言われそうですが・・・
176伍長:2000/05/04(木) 17:36
以前にも例をあげましたが、別の例をあげます。
人間にとって、ハトやスズメだけでなく、ニワトリやダチョウも「鳥」です(人によってはコウモリも)。前者を「中心例」、後者を「周辺例」というらしい。
あるいは、一本のカエデの木だけでなく、木の一部、雪に埋もれた葉のない若木、etc. も「木」です。
これを「自然概念」といい、人間以外でこのような自然概念の形成が可能かどうかという実験があります(「人間」、「魚」、「水」、「人工物」などでも追試)。

一本の木、複数の木、木の一部、等々、が写っている40枚の「正」スライドがあります。それらが写っていない同数の「負」スライドもあります。
ハトはたった数セッションで正スライドの弁別学習を終えました。
しかも、見たことのない全く新しい正・負スライドも正しく弁別できるようになっていた。
いわば、ハトは2次元の(写真の)「木」の概念形成を行った?(3次元の実物との対応も可能だという報告もあります)。

また、ハトがモネの絵とピカソの絵を弁別して、それぞれの概念形成を行ったという実験もあります。
数枚ずつのモネとピカソで弁別学習したハトは、他のモネと他のピカソだけでなく、ルノワールandセザンヌと、マチスandブラックとをそれぞれ正しくカテゴリー化できた。

さて、これらが自然概念形成と呼べるかどうかはともかく、「家族的類似」の一例、もしくは比喩にはなり得る。
ハトのこれらの「一致」行為は、観察者によって、「一致」かどうかが「判断」されました。
ハトにしてみれば、“ただ単に” 「一致」行為を行っただけ。
A:「一致しているから一致しているとしか言いようがない」(ハトにとっては)
というのは、こういうことなのでは?
なお、観察者の「判断」行為は、別個に分析されるべき行為です。もし、これをも、
B:「一致しているから一致しているとしか言いようがない」(観察者から見て)
と言うのであれば、そりゃ無茶だと思いますけど(科学的研究は不可能になる)。
177伍長:2000/05/04(木) 17:48
ですから、

>つまり行為の一致ということを「説明」しようと思えばその瞬
>間に自己言及を招く、つまり行為の一致は「説明」されるべきものでは
>ない、ということだと思います。
解説書でもこのような論調がたまに見受けられますが、文字通りには受け取れない。
文字通りに受け取るなら、著者の発想が見当違い。あるいは混乱している。このことを間接的に指摘している解説書もある。
「家族的類似」関連で「く」さんとさんざん議論したことですが、具体的事例に則して考えるべきで、抽象化して形式的に考えてはいけない。
それよりも問題なのは、行為者の「一致」行為と、観察者の「判断」行為や「説明」行為を区別できていないということ。
行為者自身の「判断」行為や「説明」行為も分離できずにいる(当面は考えない方がいいのに、なぜか重要視してしまう)。
行為者の「行為の一致」なり「使用の一致」は、観察者の側で説明すべき事柄で、ウィトゲンも不器用に説明しているではありませんか。
我々は、ウィトゲン以後の実験心理学50年?の成果を少しは知るべきで、ウィトゲンはそれをかなり先取りしているのだということを理解した方がいいと思います。
彼は、行為と環境との相互作用の有り様を説明しようとした。現代の実験心理学の知見があれば、もっと上手く説明できたはず。
そして、結局のところ「行為」というのは、行動分析学でいうところの「随伴性」に制御されているのだ、ということを言おうとした。
と、私は思う。
178168:2000/05/04(木) 19:17
「伍長」さんのウィトゲンシュタイン解釈は、かなり独自だと思います。
もちろん、独自であるから間違っている、などとは言いません。
ただ、実験心理の成果云々という書き込みから察するに、こういう議論と
後期ウィトゲンシュタインの議論とを接続することは、私には異様に思え
ます。繰り返し言いますが、言語ゲームについてのウィトゲンシュタイン
の議論は実在論的に理解しようとすれば「曖昧」で「多義的」な代物に
写るでしょう。

帰結と根拠のあたりの理解が双方で異なる、ということからしてすでに
理解の違いが見えていますよね。これは決定的だと思われます。行為と
行動の違いについても、同様だと思います。

このスレッドの書き込みを時々ざっと見ていたのですが、やはり、枚挙
や(帰納的)説明といった方法で言語ゲームと捉えるのは方法的にどう
かと思われます。むしろ、そのような方法で把捉できないコトとして、
言語ゲームは理解されるのではないでしょうか?

実験心理学や認知心理学を先取りしていた、というより、これらを先取
りして批判していた、と私は見ています。Krikensteinなどと揶揄され
ることもあるKripkeなどの議論も同様です。

すみません、このまま言っても議論の溝が出来るばかりだと思うので、
しばらくはROMしています。ただ、伍長さんのような非専門家の方が、
これほどまでに熱心に色々と考察を加えてひとつひとつ検討されてい
るという姿勢それ自体には、私は敬意を表したいと思います。

以上、舌足らずで申し訳ありません。
179168:2000/05/04(木) 19:25
訂正
kripkensteinです(178)。

伍長さんの議論は多岐に亘っていますが、行為の一致のカテゴリー化
など、ひとつひとつ取り出して順に議論して行けばおもしろいと思い
ます。
180伍長:2000/05/04(木) 19:48
まあ、たしかに私の場合は、行動分析学的な注釈としての理解ですから、哲学畑の人から見れば異様なのかもしれない。
逆に、わたしからすれば、解説書の記述が異様に見えることが多いですから。

ところで、哲学では、行動と行為はどのように区別しているのですか?

ただ、
>実験心理学や認知心理学を先取りしていた、というより、これらを先取
>りして批判していた、と私は見ています。
うん、そうです。ウィトゲンが認知心理学を先取りして批判していた、というのは大賛成です。
両者は相容れないはずです。
だからこそ、行動分析学なら相容れられるはず。

ROMしてるなんて冷たいこと言わないで、どんどん突っ込んでください。長年待ってたんだから。
お願い。
181伍長:2000/05/04(木) 19:55
ちなみに、私が言う「実験心理学の成果」というのは、
理論的成果ではなく、明らかになった諸々の実験的事実のことです。
これなら、ウィトゲンの挙げる具体例の不備を補うものとして、大いに利用できる。
182伍長:2000/05/07(日) 18:08
167の続き。
心的用語の起源。あるいは、「私的出来事」を命名したり報告したりすること。

「スキナーの議論を辿ることで、我々は、ウィトゲンシュタインの着想がより完全な表現を与えられていたなら、一体どのようなものになっていたかを理解することができる。」(ブルワ『ウィトゲンシュタイン:知識の社会理論』第四章)
私も全く同感ですが、ここではブルワなる人物とは別に説明してみます。
(実験心理学の成果を利用した事例でもあります。 >178の168さん)

スキナーによると、「私的出来事」に関しては、2つの困難な問題がある。

1:私的出来事に関わる用語を説明する場合、私的出来事を「指摘」することによってその用語を説明することは出来ない。
せいぜい出来るのは、私的出来事を「推測」することぐらいである。
むろん、将来の技術的進歩によって、私的出来事の同定がある程度まで可能になるかもしれない。
しかし、そうなったとしても、それが私的なものであることに変わりはない。つまり、話し手の発言を聞く「聞き手」は、話し手の私的出来事を共有できない。
それにも関わらず、私的出来事についての用語は存在し、意味なり使用法なりの一致が見られる。
そこで、

2:言語共同体は、私的出来事に関わる用語をどのようにして形成できるのか?
言い換えれば、どのようにして言語共同体は、言語反応を私的出来事の制御下に置くのか?

これが、ウィトゲンの「私的言語は可能か否か」という問題に直接関係するわけ。
1は166の(2)に、2は167の(4)に対応する。
で、2についてのスキナーの考えは以下の通り。
183伍長:2000/05/07(日) 18:14
私的出来事が言語反応を制御できるようになる仕組みは4通り考えられる。

(1):私的出来事(痛み)と公的出来事(ケガ)とが併存する場合。
[強化]
私的出来事に対応した公的出来事が存在する場合、言語共同体は、このような「公的相伴物」のもとで話し手が自発する言語反応を強化できる。
[例]
ケガをしている(公的出来事)ときに、「痛い」という言語反応が自発されれば、言語共同体はそれを強化できるので、やがて話し手は、痛み(私的出来事)があるときに「痛い」と言えるようになる。
スキナーは、盲人が教師から物の名を教わる際の「触覚刺激」と、教師にとっての「視覚刺激」との結びつきを、比喩として用いている。
両者は異なった刺激に対して反応している。前者が「痛み」、後者が「ケガ」の比喩でしょう。
ブルワによると、これはウィトゲンの「色眼鏡」の事例(『個人的経験および感覚与件について』)と酷似しているらしい。

(2):私的出来事(歯痛)と公的付随反応(頬を押さえるetc.)とが併存する場合。
[強化]
私的出来事に対する公的な付随反応が生じる場合、言語共同体は、そのような公的付随反応が生じるときに自発される言語反応を強化できる。
[例]
歯が痛いときに、頬を押さえたり呻いたりする(公的な付随反応)ときに、「歯が痛い」という言語反応が自発されれば、言語共同体はそれを強化できるので、話し手は、歯痛(私的出来事)があるときに「歯が痛い」と言えるようになる。
これが、『探究』におけるウィトゲン自身の回りくどい「歯痛」論議(244節他多数)の、少なくとも基本でしょう。

以上の2つまでは、ウィトゲンも考察していた。
184伍長:2000/05/07(日) 18:30
ウィトゲンが気が付かなかった(と思われる)他の2つの可能性がまだ残っている。

(3):ある出来事の公的部分(赤面)が消失して(他者には見えなくなって)私的部分だけになる場合。
(注:1945年の論文では、このタイプにはあと二つの場合があるとしているが、分かりにくいのでカット)
[強化]
私的出来事の強度が高まって公的反応(赤面)が生じる場合、言語共同体は、そのような公的反応が生じたときに自発される言語反応(「恥ずかしい」)を強化できる。
[例]
話し手の赤面時に、「恥ずかしい」という言語反応が自発されれば、言語共同体はそれを強化できるので、赤面が生じない程度の状態(私的出来事)のときでも、刺激般化により、話し手は「恥ずかしい」と言えるようになる。(これを「総称的拡張タクト」と言う)。

(4):公的相伴物ではない公的出来事が、私的出来事と機能的等価性を持つ場合。
[強化]
公的出来事に対する言語反応(「(物が)弾む」)なら、言語共同体は強化できる。
[例]
ある公的出来事(物が弾む)に対する「(物が)弾む」という言語反応が、言語共同体によって強化されていれば、何らかの機能的等価性を持つ私的出来事(心が弾む)に対しても、話し手は、刺激般化により、「(心が)弾む」と言えるようになる。(これを「隠喩的拡張タクト」と言う)。

以上(1)~(4)のように、心的用語の起源、すなわち、話し手が心的用語を用いる際に従う随伴性(134の(1)の「規則」)は、言語共同体が何らかの公的出来事を介して行う強化活動(面倒な「分化強化」という細かい手続きが必要である)の中で形成される。さもなければ随伴性は形成されない。
よって、「私的言語」なるものは存在し得ない。

(スキナーが1945年の論文でこの問題を正面から扱う以前に、34年には言語オペラントの分類は終わっていた。主著の“Verbal behavior”は41年に完成予定だったが、戦争のため中断、44~45年に草稿がほぼ完成したものの、他の主著の執筆等のために再び中断。ようやく57年に出版。20年以上かかった。後期ウィトゲンの活動とほぼパラレルなのが興味深い。)
185名無し:2000/05/07(日) 20:30
哲学者に好意を寄せることだ。哲学者を理解したいと思う事だ。
186名無し:2000/05/07(日) 20:36
Kalas   ICQ#7361711この人に聞いてみては?
187伍長:2000/05/08(月) 23:46
好意というか、少なくとも悪意は持ってない。イライラは感じる。
理解したいが、思考スタイルが違いすぎて難しいんだな。イライラはそのせい。
Kalasってどなた?
188<く<:2000/05/09(火) 00:16

伍長さんと168さんのやり取りは、とても刺激的です。
ぜひもっと続けてほしいです。

 で、問題の私的言語ですけど、はっきり言ってわたしには
よくわかりません。というか何がわからないんだか、わからない
って感じです。
 ので、他の人たちに参加してほしいです。
あと、ウィトゲンのスレット分裂しましたね。まあ前期と後期
で分けた方がいいんでしょうね。

 とりあえず、気がついたところを指摘しておきます。質問の意味
も込めて.


 
189<く<:2000/05/09(火) 00:22
>166
>ミルクは本人も他人も触れることの出来る「公的な」物質だが、
>歯痛や喜びは、本人しか経験し得ない「私的な」出来事です。
>個人の「歯痛体験」や「喜び体験」に他人は接触?できないのだ
>から、そのような私的>な体験は、いわば「公的な言語ゲームの
>中から抜け落ちている」はず。

 ここで伍長さんは、歯痛や喜びなどの出来事(感覚)は、
私的であり、本人にしか直接感じることができないもの
という認識を、客観的な事実として把握しているような気がし
ますが、ウィトゲンの場合は、感覚が私的なものであり他人は
直接接触できないということは客観的事実ではなく、われわれが
そのようにみなすという「文法」によって定められた真理である
という立場だったと思う。

 例えば「探求」の246で
>「感覚は私的なものである」という命題は「ひとはペイシャンスを
>ひとりでする」という命題と比較できる。
という文章や
続く247の文章での内容からそのように理解するのが
正しいと思う。
 それが私的言語の問題と関係するのかしないのかは
わかりませんが。
 ああ、しかし今日はとても重い。
190<く<:2000/05/09(火) 01:26
訂正246と247ではなく247と248の間違い。

 伍長さんの提示した私的言語に関する解説は次の三つに
分けることができるとおもいます。

 >語の意味を理解するということは、何らかの心的な作用では
>なく、言語共同体の中でその使用法を学んで正しく使えるとい
>うことでした。

(1) 共同体から完全に孤立している人は言語をもつことが
   できない。
 これは言語の成立には共同体が不可欠(つまり必要条件)である
と言い換えていいのだろうか?
 この(1)を仮に共同体テーゼと呼ぶとする。

>「本人だけは理解している(ように見える)が、他人には
理解できない音声」のことを、「私的言語」と呼ぶ。
>後期ウィトゲンは、そのような「私的言語」の存在の可能性
を否定した。

(2) 自分だけが理解でき、他人には理解できないような言葉を
   用いることはできない
この(2)を孤立言語テーゼと仮に呼んでおく。

>純粋な内観によって、私的な直示的定義を行うことなどできない。

(3)人は純粋な内観によって、私的な直示的定義(指示)を行う
   ことはできない。
 この(3)を仮に私的感覚テーゼと呼んでおく。

 このうち、伍長さんが提示したのは。(3)私的感覚テーゼ
を根拠として(2)の孤立言語テーゼを主張するというもの
でした。
191名無しさん:2000/05/11(木) 13:20
                           ( ̄ー ̄)
192伍長:2000/05/13(土) 02:09
>189
歯痛のような私的出来事(皮膚の内側の出来事)が客観的事実であろうということと、「歯痛」という言葉が話し手・聞き手双方にとっての「文法」に則っているということとは別の問題だと思います。
通常は、話し手の「歯が痛い」という“言語反応”が、何らかの私的出来事(皮膚の内側の出来事)に関係していることは間違いないでしょう。
だからといって、「歯が痛い」=「皮膚の内側である種の神経生理的変化が生じている」(=客観的事実の報告)ということではないわけですよね(素朴な物理主義)。
「嬉しい」とか「僕は君を愛してる」といった“言語反応”を考えればいい。
何らかの神経生理的変化が生じていることは間違いなかろうが、それが「嬉しい」の意味ではないわけです。
この種の言語反応を制御しているのは、神経生理的な内的変数だけではない。むしろ外的な変数の役割の方が大きかったりする。
「喜び」や「愛」という言葉の「文法」は、それら外的な変数との関係の中にあるのだと。

ウィトゲンは、話し手や聞き手の立場で考えていることが多いので、その限りにおいては、「く」さんの言われるようなことでいいと思います。

>190
この部分は、ウィトゲンはこういうことを言いたかったらしい、ということを、解説書などを参考にして私がでっちあげたものですので、浅薄な理解になっていると思います。
193名無しさん:2000/05/15(月) 17:27
ああ、マイクテスト
194名無しさん:2000/05/24(水) 07:22
age
195(´ー`):2000/07/16(日) 11:08
ホラヨ(´ー`)ノ⌒o
196(●´ー`●):2000/07/17(月) 23:12
ビタミンだ(´ー`)ノ⌒θ
197( ●´ー`● ) :2000/07/18(火) 06:35
ありがたく受けとリナ(´ー`)ノ⌒⌒⌒◎



198名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 16:12
将来哲学を専攻しようと思っている中学生だけど、
かなり難しそう。本を読む事は好きなんだけどね。
哲学を学んでいる人、学んだ人に質問です。
みなさんはどうして哲学を専攻しようと思ったのですか
199名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 16:31
>198
スレッドの趣旨を全く無視したこのようなレスは、論外。
高校受験の勉強でもしてろ。
200名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 16:36
それを言うなら、194~197および199と200も

>スレッドの趣旨を全く無視したこのようなレスは、論外。
に当てはまると思うのですが・・・・・
こういう時は単にオマエモナーとだけ書くべきなんでしょうか。
201>199:2000/07/18(火) 17:21
スレッドの趣旨を無視した内容でごめんなさい。
私の学校はエスカレーターなので受験はないけれど
行きたい大学があるので大学は受験します。
あなたのような人間にならないよう一生懸命勉強します。
202>201:2000/07/18(火) 19:40
安心してください、自称哲学者なんていう連中どもは、自分が何で哲学やってるか分かってないんですよ。
彼らは現実に何も手を出さないことで、自分たちが「高尚」だと思ってる連中なんです。
そのくせ、負けるのがすごく嫌いな連中です。だから、会話ではきちんと考える前によく喋ります。目先の相手のセリフに煽られてしまうんですね。でも生産的な議論はほとんどない。
彼らに出来ることと言ったら、他人の考えや言葉の使い方が自分の知っている狭い世界観にしっくり合わないと、その言葉の使い方は間違っていると言って揚げ足を取ることくらいんなんですよ。ププ。
彼らの言葉に対する料簡の浅さと言ったら…ププ。
彼らをいくら説得しようとしても、無駄ですよ。彼ら一流のレトリックで会話の趣旨を彼らのテリトリーに限定されて、同じところをぐるぐる回ってるだけです。
要するに、同じような主義を持っている人たちが自分たちの考えを正当化する帰属コンプレックスのかたまりなわけです。
まあ、ババぬきやポーカーに飽きたら、彼らと会話してみるのもいいかもしれません。暇つぶしに。
203伍長:2000/07/18(火) 22:38
せっかく上がっているので・・・
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1373/index1.html
Q&Aで食い下がったんですが、噛み合いません。私はトンデモなんでしょうか?
204名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 00:32
「ウィトゲンシュタイン」と「ヴィトゲンシュタイン」程度には噛み合ってないみたいね。
205伍長:2000/07/19(水) 22:30
>「ウィトゲンシュタイン」と「ヴィトゲンシュタイン」程度には噛み合ってないみたいね。
「ウ」と「ヴ」程度の違いだからもう少しで噛み合いそうだ、ということなのか、
英語とドイツ語で会話してるみたいなのでほとんど噛み合ってない、ということなのか、
どっちでしょう?
206名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 23:53
ところで、「ウィトゲンシュタイン」と「ヴィトゲンシュタイン」って
どっちが正しいの?
オーストラリアではWの発音が柔らかくてほとんど無声音に近い、とい
う話をきいたことがあるけど(だからWienは「ヴィーン」ではなく「ウ
ィーン」でいいのだそうな)
207名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 00:27
英語圏のオーストラリアでは(ここもポストモダンが
それなりにさかんで、反フェビアン的な愛国的風土が
強い分、知識人がしばしば良識左派的にすぎるところがある)

ドイツ語圏のエスタライヒ(オーストリア)ではウィーンは
ヴィエナです(笑)

WやVの発音が地域によって違うことはあります。
たとえば:ベートヴェン/ベートフェン
南北で違うんだったかな?


あとヴィトゲンシュタインはケンブリッジ大だから
英語風に発音されることが多いのでしょう。
208しまった!:2000/07/20(木) 00:39
206の「オーストラリア」は「オーストリア」の間違い
209悩める伍長:2000/07/20(木) 03:03
ということは、
Wittgenはウィーン人だから「ウィトゲン」に近く、
しかもケンブリッジにいたから英語風に「ウィトゲン」になることが多いと。
よって204氏の真意は、「もう少しで噛み合いそうだね」ということであると。
そう思って安心していいですか?
210名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 03:18
うーんと、伍長さんの
211特に興味があるわけではないんだが、気になる。:2000/07/25(火) 03:37
まだか?>210
212名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 03:42
居眠りしてたりして。>210
213名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 04:10
「ウィットゲンシュタイン」という風に、「ッ」をいれるのは間違っているのですか?
耳できいたときには「ッ」が入っているようにきこえていたので、前はそのように表記していたのですが、そういう風に書かれているのはみたことがないですね。
214>213:2000/07/25(火) 12:34
そういや、「ウィットゲンシュタイン」と発音する人はわりといるね。
イギリス帰りの教授がそんな発音していたのを覚えている。
215名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 14:21
梯子を捨てろ
216名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 18:33
梯子を捨てたら下に降りることができない。
217名無しさん@1周年:2000/07/26(水) 02:39
梯子を捨てる勇気が欲しい。
218名無しさん@1周年:2000/07/26(水) 11:15
梯子がなければ生きていけないよう改造された。
219名無しさん@1周年:2000/07/26(水) 16:54
梯子がない?
220名無しさん@1周年:2000/07/26(水) 18:59
「我々は語り得ない事柄については語り得ないのであり、口笛で吹くこともできない」
(F.ラムジー)
221名無しさん@1周年:2000/07/26(水) 19:32
↑当たり前の事やんけぇ!
222>221:2000/07/26(水) 23:52
その当たり前のことがウィトゲンシュタインにはわかっていない、とラムジーは言いたかったんだと思う。
223>222:2000/07/27(木) 01:08
ウィトちゃんは、そげん事しっとったとよ。
言語ゲームってのがそうじゃなかと?
224>223:2000/07/27(木) 01:22
えっと、ラムジーは確か1930年に死んでいるから、220で引用した言葉は1920年代のものだ。
当然、言語ゲーム論よりも前の話。
ラムジーはウィトゲンシュタインよりも10歳以上年下だったけど対等に渡り合えた天才で、
一説では、ウィトゲンシュタインの中期の哲学にも影響を与えたと言われている。
長生きしていたらその後の哲学と経済学の歴史は変わっていたもしれない。

225>224:2000/07/27(木) 02:19
ウィトとラムジーってのは親交があったのかな?


226>225:2000/07/27(木) 12:51
同時期にケンブリッジのトリニティ・カレッジ(ラッセル、ムーア、
ケインズなどがいたところ)にいたから、直に面識があったはずです。
227名無しさん@1周年:2000/07/27(木) 13:09
ラムジーは博士論文としての「論考」の指導教官だし
「論考」の訳者でもあるから会ってしゃべってるよ
わざわざケンブリッジからウィーンまで来てるって
228名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 03:26
もちage
229考える名無しさん:2000/10/24(火) 16:30
wea
230ビトゲンシュタイン:2000/10/25(水) 00:58
みんな、語り得ぬものを語りすぎて時間を無駄にしてないか?
ただ、なかなか勉強になるので、
適度に語っていて下さい。
あほな僕にも分かるように優しい言葉を使って下さい。
みなさんと、生活の形式が違うわたしには
言語がむつかしすぎます。
とにかく、分かるように、僕は彼女の乳もんでます。
なかなか気持いいです。
これは語り得ぬ快感です。
231ミック:2000/10/25(水) 01:18
ほお・・・・・・こんなスレあったんだ。でも僕のテーマとは関係ない議論が多い。残念。
232伍長:2000/10/25(水) 01:40
>231
もっと早く来てくださればよかったのにぃー。
233ミック:2000/10/25(水) 02:56
もっと前に来ても、僕はWの思想と歴史的文脈・伝記的背景の方に関心があって、
著作はあんまり読んでないけど、手紙は読んで『Wのウィーン』や『Wと同性愛』を読んでる人間だから、
あんまり細かい議論にはついてけなかったですよ。
234考える名無しさん:2000/11/12(日) 12:20
.
235色彩論:2000/11/19(日) 00:24
ウィトゲンシュタインの色彩論について
教えて下さい。
236考える名無しさん:2000/11/19(日) 00:26
マルカムはおホモだち。
237考える名無しさん:2000/11/19(日) 00:27
そんな大したこといってないだろ? ヴィト君は。
238考える名無しさん:2000/11/19(日) 00:45
いや、哲学者はどいつもこいつも
たいしたことは言ってない。
これはまちがいない

問題は、彼らが実に器用に言葉を、言葉と言葉の関係を描き
思考の輪郭というものを明確に描ききる
その能力じゃないか。
誰もが思ってはいたが
ああまできちっと言葉でいいつくせないし
明確に ある形態を用いて描ききるその態度こそ
尊重できる点だと思うが。
239生茶:2000/11/19(日) 02:29
>>238
たいしたことを言っていないというならば
反対もできない。
というのも哲学的に優れている人ほど
社会的には全く無用の人が多いから。

しかし、あなたが後半部分で言うように、
哲学的なセンスというものが備わっている人は
不思議な感動を呼ぶものだ。
誰もが思いもしなかったところに問題を見つける能力は
哲学をやる上でもっとも重要視されるべきだと思う。
240考える名無しさん:2000/11/19(日) 02:42
もちろん 問題を見つけることは誰にでもできる。
いいがかり、ね。
大切なことは
それが思考さるべき問題である!ってひとり言ってのけたあとで
不思議な説得力でもって読者に考えることを強いるんだよな
通常、これはありえない。
なんとなれば「なんでそんなものをかんがえなくてやいけないんだ ぼけ!」
ですまされちゃうからね
かんがえてみれば、批評空間でも現代思想でもいいが
あそこに載ってる論文てば そんなところの境界に位置してるかな
なかなかむずかしいけどね
貨幣の哲学?んなことよりも今日の飯!てなことで
止めを刺される日々なわけでね。そういいつつも
ついつい気になる問題提起って、あると思うなあ
241考える名無しさん:2000/11/19(日) 03:07
ヴィトゲンシュタインを20世紀のソクラテスとみなした人多数?
242考える名無しさん:2000/11/19(日) 03:18
>241
Wはソクラテスを名指しで批判している。
243考える名無しさん:2000/11/19(日) 03:21
>242
そういう意味ではなくて。
244考える名無しさん:2000/11/19(日) 03:22
>243
245考える名無しさん:2000/11/19(日) 05:21
GGのバッハ演奏でいいんだけどね
楽譜を読むものからすると、許せないことで
たいていの一致をみるわけ。
(類例では 山形が麻だのクラインの壷の使い方=演奏を許せないのなんてどうかな)

だけど、ひとたび演奏録音を
聞いてしまうとそこには不思議な説得力があってね

みんな困った顔してるわけ。
246ミック:2000/11/19(日) 05:35
関係ないけど僕は『論考』をプラトン的二元論と考えていいのか迷いっぱなし。
そう考えたいけど、でも「Wの反プラトニズム」なんて論文まであるし・・・・・・困っちまう。
247ミック:2000/11/19(日) 07:00
結論:基本的に「対象―写像」のプラトニズムだが、細かい点で後のゲーム1元論への脱却を匂わせる箇所もある。(論理の自律性を重視するあたり)

こんなとこか。今は。

『論考』とか『探究』読むのなら、大学にアクセスできる人なら論文と一緒に読むと良いと思う。
おい川さんとか黒崎さんとか奥さんとか萩原さんとか大森さんとか、解説うまいし、短いし、色々新しい視点も提供してくれてるし、お薦め。
あと現代思想の26号(W特集)も良いと思う。
248ミック
谷口郁生さんの「「論考」に見る実在論」とういう論文を読んだ。
おもしろい。やはり上の僕の結論もそう外してないみたいだ。
でもこの人プラトン主義とデカルト主義を取り違えてる気がする。

プラトン主義「現実ー理想」
デカルト主義「現実ー概念(写像)」

の対比だと僕は思ってるんですが、あってますか?
この二つの図式があってるなら、前期Wはプラトン主義を受け入れて、デカルト主義から半分脱却しかかってることになる。

で、後期になると完全に黒崎さんが言うみたいに「言語ゲーム一元論」になってデカルト主義を完全に捨てるんだ。
でもプラトン主義は?

どーなんだろうね。捨ててない気もするし、「理想言語は諦めた」発言も散見するし、本人も揺れ動いてたみたいだ。