■1■ニーチェ超人論と奥崎謙三■1■ [転載禁止]©2ch.net
1 :
ちゅん太郎:
諸君、私は皆さんにここで事実のみを伝える。それはニーチェ先生の仰る
超人論の本質とも言うべきものである。ニーチェ先生は人類を愛し、そして
ついに人々を未来永劫幸せにするような一つの真理を打ち出された。私は
ニーチェ先生の気持ちに共感し、そして神様の使徒であるこの私は、このこと
を万人に伝える使命を持つのである。ここで語るのは誤認・誤訳・歪曲される
警句家ニーチェ先生の主張の本質という事実を示すものであり、反論質問
その他は自由であるがその結果事実は一つであるということを告げる神スレ
であるということを付け加えておく。
2 :
ちゅん太郎:2015/02/12(木) 06:54:51.08 0
まず第一に言いうることは、例えば戦争時ニューギニアにおいて土着民が
住んでいた。彼らの多くは牧歌的であり、そうであるがゆえに彼らは人格(演技)
を持たなかった。人格に依存することは弱さの兆候であり、逆に見れば
人格に依存しなくても生きられたのである。彼らは悩まないし、自殺しないし、
考えない。それを彼らの頭の弱さとして侮辱する発想もあるが、それ自体が
自らの人格依存を示すものであり、自らの立ち位置である現代の社会を前提に、
自らの高等さを主張するものであるが、事実は高等どころか人格依存しなければ
ならない社会構造に振り回され、その結果悩み自殺し考えているということを、
多くの人々は自覚していない。それは到底高等さといえない。
3 :
ちゅん太郎:2015/02/12(木) 07:05:50.55 0
社会を回すことに振り回されて主体性を放棄した結果が、人格依存であり、その
人格依存を通じた共同体的価値である道徳への信仰である。人格に依存する
限り、国家と国法に則る限り、人類は無限に苦しむものである。個人は価値定立
の主体でなければならない。自己自身を生の中心に据え置き、そして自己を中心に
解釈されるものが真理なのだ。ニーチェ先生はそれを見抜き、警句家として警鐘
を鳴らし続けたのである。自己自身をパースペクティブに全てを解釈する生の
遠近法によってのみ真理は規定されるにもかかわらず、逆に道徳という振ってわいた
恣意的なある種の似非真理によって自己の生を規定するのは逆さまではないか。
最近のスズメは、あまり人を恐れないよね。
ハトに近づきつつある親和性を会得したのかもしれんねえ。
5 :
ちゅん太郎:2015/02/12(木) 23:07:54.70 0
この様に主体者としての究極的体現とは何か。それは神を確保するというような
自己完成などではない。神の確保ではなく大地の主になること、人格に依存する
のではなく、逆に人格から解脱し古へと還ること、これこそが人類の迷妄を打ち砕き
人々が超人として永遠の福祉を得るということである。ニーチェ先生は言っている、
「私の哲学が目指したものは位階であって、個人主義的道徳などではない」そう、
個人の道徳など蟻のひと噛みである。位階へと入り階段を見据え、その最上位に
こそ超人はあるのである。
6 :
考える名無しさん:2015/02/12(木) 23:16:32.86 0
>1
奥崎謙三は?
奥崎謙三は、ど、どうなの??
7 :
考える名無しさん:2015/02/13(金) 00:59:59.27 0
奥崎は確かに天皇という神を超越したのだから、ニーチェのいう超人には違いない
8 :
ちゅん太郎:2015/02/13(金) 02:28:36.53 0
ここで奥崎謙三の全てを語ることは物事には順序があるゆえに憚られるが、少なくとも断言
できるのは、彼がニーチェの言う意味での超人であるということである。ニーチェは超人を
善の容器と呼ぶが、それと同時に道徳家にとっては悪魔であると喝破する。奥崎は老いたる
幼児と形容されるが、奥崎こそ神の視座を持った正義感の塊であり、正義を貫徹する為に
全生涯を捧げたといっていい。時には戦友ヤマザキの為に、時には国民の為に、利己ではなく
利他に基づいて振舞うのが善の容器としての奥崎である。しかし彼は前科4犯で殺人犯では
なかったか。この様な犯罪者を道徳家は悪魔と呼ぶだろう。超人をニヒリズム以降の理想として
掲げるニーチェ先生においては、奥崎こそ理想のモデルであるといえるのである。
9 :
考える名無しさん:2015/02/13(金) 04:12:40.52 0
10 :
ちゅん太郎:2015/02/13(金) 07:26:54.85 0
超人へ続く位階には3つあり、これがすなわち駱駝・獅子・小児である。
駱駝は世間的義務を引き受ける生き方であり、獅子は義務を離れて自らを
高めるものである。しかしこれらは言葉・人格から不自由であり、重荷を
背負って悩むものである。しかし小児はどうだろうか。世間的義務を履行
せず、自らを高めることもなく、その様な言葉・人格から離れて、笑顔を
絶やさないのではないか。あの戦中のニューギニアの土着民に子供も大人
もありはしない。大人は簡素な小屋に住み、精々仕事といえば芋を掘り
バナナを採ることぐらいである。現実という大地にぴったりと寄り添い、
現代人のように現実と如何にバランスを取るかなどという無知蒙昧さとは
無縁なのである。
11 :
ちゅん太郎:2015/02/13(金) 07:32:29.42 0
ニーチェ先生は言っている。「私は成育した土地に再び身を置き戻すのである」
戦中のニューギニアの土着民のように生きてきた人類は、昨今大地の主の座から
転落し、こうして大地に支配されるに至ったのである。全人類を何度も絶滅
できる兵器を自らの手で作り自らの手で怯えているのではないのか。この様な
無知蒙昧な野蛮人を生み出すのが現代社会を生み出す国家国法であり、この様な
言葉・人格から解脱し、大地の主へと還れというのがニーチェ先生なのである。
12 :
ちゅん太郎:2015/02/13(金) 07:39:28.72 0
奥崎謙三は言っている。「笑ったり泣いたりね、ね、 これが価値がある
わけですよ、笑ったり泣いたりがね。」「嬉しけりゃ嬉しがり、 がら
なきゃいかんわけです。悲しけりゃ悲しがらなきゃいかんわけですね。
おこ、腹が立ちゃ怒らなきゃいかんわけですよ。」これはどういうこと
かといえば、これはまず彼自身に二つの視座があるということを示す。
それは人格としての自己と身体的な認識主体としての自己という二つの
視座である。酒鬼薔薇聖斗が人を道具のように扱うのは、人格的な情と
しての自己を透明な存在にせざるを得ない環境があり、そうであるが故に
単に認識主体としてものを情というフィルターを通さずに物として扱う
からだ。
13 :
ちゅん太郎:2015/02/13(金) 07:43:40.84 0
奥崎謙三にとっては人格こそ大切なものである。しかし超人は人格や言葉
からはなれるものなのではないのか。ここにニーチェ主張の難解さがある
わけだが、これは次のような理論で矛盾が清算されうる。すなわち言葉・
人格・物語という体裁をとりつつ、本質的にはただ単に肯定されるという
ものである。すなわち意味・言葉・人格・物語というのは形式に過ぎず、
本質はあの古の人類史に還るということなのである。
14 :
考える名無しさん:2015/02/13(金) 11:54:50.51 0
15 :
ちゅん太郎:2015/02/13(金) 16:33:45.82 0
奥崎謙三は神様の愛い奴であると自称しており、そして彼は
自らは映画であり主役であると極言している。これを示す文を
次に引用する。
------------------------------------------------
かなり疲労している様子だったが、ただならぬオーラを放って
いることは確かだ。やがて、藤井、重松と共にようやくステージ
に登壇すると、隣にいた重松をいきなり怒り出した。机をドンドン
と叩きながら「だからあなたはダメなんだ!」と怒鳴り続ける。
観客は奥崎が何を怒っているのかさっぱり分からないがとり
あえず様子を見守った。すると今度は目の前のお客さんに
向かって話しだした。「最高の演技だと思いませんか。だめだと
思ったら、だめだと言ったらいいんだよ。なにも、付き合いなんて
必要ないんだよ。思ったらはっきり言えばいいんだ! ものごと
はっきりしないやつは俺は嫌いなんだ。どうですか? この演技は」
16 :
ちゅん太郎:2015/02/13(金) 16:35:15.57 0
唐突に奥崎から質問されたお客さんもさぞかし驚いたことだろう。
それでも一人のお客さんが「素晴らしいと思います」と答えたのは
さすがだった。 「思います? おべんちゃら言ってもだめですよ。
私、芝居しているんじゃないですよ。違うんだから。カメラ意識して
やってるんじゃないですよ。神様演出の演技をご覧下さい。これ、
金もらいたくてやってるんじゃない。とにかく、誰が何と言おうと、
これは最高の映画です。世界中の者がどうぬかそうとね、俺は
これがナンバーワンなんだ」彼は、これは最高の演技と言いながら、
芝居しているんじゃないとも言う。矛盾しているようにも思えるが、
これが奥崎を理解するためのキーワードの一つ「神様の演出」だ。
どれだけ怒鳴ったり激高しようとも、奥崎の中には常に自分をカメラ
で撮っているもう一人の奥崎がいる。自分の行動はすべて神様の
演出であり、神様監督の映画なのだ。
------------------------------------------------
ニーチェは色々間違っている
というか全部間違っている
時代が変わったから前提が違ってるんだろな
18 :
ちゅん太郎:2015/02/13(金) 23:43:14.00 0
>>17 根拠も用いずにレッテルを貼るのは無効である。貴様に何が分かる!
>隣にいた重松をいきなり怒り出した。机をドンドンと叩き
>ながら「だからあなたはダメなんだ!」と怒鳴り続ける。
なぜ奥崎は感情を前面に押し出すかといえば、これこそが
物語を紡ぐということになるからである。どういうことだろうか。
まず人間には人格としての自己と認識主体としての自己が
ある。そして社会的諸関係の総合である人間は他人と協働
関係を結ぶ。これが獣と人間の違いである。これは意識・
言語を持つということであり、極言すれば人格とは協働関係
の為に発明された装置なのだ。つまりは動物も持ちうる感性
的な認識主体としての自己、これをニーチェ先生は身体と
呼ぶが、この様な身体的な自己と装置として作られた皆が
普段物語の中で自己の根拠であると信じてやまない人格・
性格としての自己があるのである。これを踏まえて考えると
奥崎の態度の意味が分かる。
19 :
ちゅん太郎:2015/02/13(金) 23:49:27.89 0
奥崎が常に感情を剥き出しにするのは、まず人は現代社会に
おいて人格に依存せざるをえない複雑な社会に生きているからであり、
かつての田舎の農村のような、戦時中のニューギニアの土着民の
ように、人格から離れて生きることなど出来ないからだ。どこに
いても協働関係になれば人格に依拠しなければならないのは当然
のことだろう。人格を近代的自我ともいうが、複雑な社会化がその
淵源であり、今を生きる我々は人格から離れて存在知ることは困難
なのである。未開の部族においては名前すらないことも在るが、
それは如何に個人の人格に依存していないかの証左なのである。
20 :
ちゅん太郎:2015/02/14(土) 00:00:39.55 0
この様な人格は演技性である。それは当然だろう、人格は真実の自分
であると信じられているが実は人工物であり、虚構であるからだ。
そういう意味では現代人は演技の無限指定から逃れることが出来ない。
誰もがいつも演技的に振舞っているのであり、極言すれば自己とは演技
なのだ。人間が演技し続けるものであるとするなら、そこで問題に
なるのは如何に演技をするのかである。奥崎に翻れば彼は、彼は
常に感情を前面に押し出す。なぜならそれこそが演技そのものであり、
感情的であることこそ人格が人格である根拠だからである。演技とは
怒り悲しみ笑い喜ぶことではないのか。だからこそ彼は物語の中で
演技をするのであり、その過度な演技が存在値となって主役付ける
のではないか。奥崎は言う「笑ったり泣いたりね、ね、 これが価値
があるわけですよ、笑ったり泣いたりがね。」「嬉しけりゃ嬉しがり、
がらなきゃいかんわけです。悲しけりゃ悲しがらなきゃいかんわけ
ですね。おこ、腹が立ちゃ怒らなきゃいかんわけですよ。」
21 :
ちゅん太郎:2015/02/14(土) 05:51:08.43 0
奥崎は言う。
「最高の演技だと思いませんか。だめだと思ったら、だめだと言ったら
いいんだよ。なにも、付き合いなんて必要ないんだよ。思ったらはっきり
言えばいいんだ! ものごとはっきりしないやつは俺は嫌いなんだ。
どうですか? この演技は」
突然感情的なったかと思えば、他人にも感情的になることを薦め、尚且つ
感情的になりながらも突然この演技はどうかと他人に質問する。これを
先に挙げた二つの自己から説明するとこうなる。最高の演技だと思いま
せんかというのは1)認識主体としての自己の視座からみて、道具としての
協働関係の為に発明された2)人格としての自己を評価している。換言
すればゴルフにおいて「よく球が飛ぶドライバーを評価している」ことと
何も変わらない。そして憤激するのは2)の自己の評価基準から他人に
それを勧めつつ、2)の自己の評価が高まるような振る舞いをしている。
そして最後に1)の自己の立場から2)の評価を聞いているのだ。
22 :
ちゅん太郎:2015/02/14(土) 06:07:35.17 0
さらに続けて奥崎は言う。
「私、芝居しているんじゃないですよ。違うんだから。カメラ意識して
やってるんじゃないですよ。神様演出の演技をご覧下さい。これ、
金もらいたくてやってるんじゃない。とにかく、誰が何と言おうと、
これは最高の映画です。世界中の者がどうぬかそうとね、俺は
これがナンバーワンなんだ」
ここで重要なのは、人格が演技性でありそれに則って「私の
演技はどうですか」と聞いていた人間が、その直後に「私は芝居を
していない」と言及する点だ。奥崎は狂っているのであろうか。
刑務所を出たばかりの70を過ぎた老人の、衰えかそれとも拘禁
症状なのだろうか。しかしそうではない。それを理解するには先の
二つの自己の視座という文脈の際を読み取らなければならない。
すなわち2)の自己は人格的なものでありそれは虚偽の演技性
であるから、芝居をしている。しかしその演技が1)の自己に
よってある種の方向性が見出されているとしたらどうだろうか。
確かに2)の自己は芝居であるがそれは芝居であらざるを得ない
性質であるからであって、その作り手に真摯さがあれば「嘘偽りの
ない嘘」になるのだ。奥崎のいう「この芝居は芝居じゃない」と
いうのはそういう意味だ。
23 :
ちゅん太郎:2015/02/14(土) 06:26:43.40 0
ではここで問題になるのはどういうことか。それは近代社会以降落ちぶれて、
かつては強者であるがゆえに問題にすらならなかった「全てに意味がない」
というニヒリズムに絡め取られて懊悩する弱者である現代人を、古(いにしえ)
に還り強者として復帰させるニーチェ先生の超人論を、現実の超人である
奥崎謙三をサンプルに明らかにすることではないのか。その為に私はこの
スレを立てたのである。
人格が演技だと気付いたら前に出られないと思うけど
自己がフェイクだと気付いたら他人に対して自己主張できなくなる
その後に来るのは信じていないけど社会規範を信じた振りをするスノビズムじゃないですか
つまりニヒリズムによって超人になるよりは保守化するのではないかと
三島は全く知らないんだけど、保守における超越というアクロバットを目指したのが彼なのかもしれないね
豊饒の海 ラスト wikiより
翌年の3月20日の21歳の誕生日を過ぎたが、透は点字を学んで穏やかに暮らしていた。性格は一変し、狂女・絹江と結婚して彼女のなすがままに、頭に花を飾って天人五衰のようになっていた。
一方、本多は自分の死期を悟り、60年ぶりに奈良の月修寺へ、尼僧門跡となった聡子を訪ねるのであった。だが、門跡になった聡子は、清顕という人は知らないと言う。夏の日ざかりのしんとした庭を前にし、
本多は何もないところへ来てしまったと感じる。
これを書き上げて三島は自決。
気力が沸かない
もうかなり奥崎化してる気もするしね
ていうかニーチェは価値定立を否定してるという意見もあるようだ。
「すべての価値はルサンチマンによるのだから、価値はない。価値というものの価値を否定するのがニヒリズムだ。」
貫成人『哲学マップ』
ネットから孫引き
そうするとニヒリズムから脱却するために自己を価値として他者に対して立てるというのはニーチェ解釈としてどうかと思う
読むか
価値を否定するのは超人ではなくニヒリズムにかられたニヒリストか
上のは取り消し
自己と人格は別で、前者は何らかの点で真であるが後者は虚偽であるという事だけど、
その自己を疑うのが戦後思想だったと思うがそこはどうなってるのか
戦後に限定せずにも、哲学は認識論という形で、認識主体の真性、認識の真性について考えてきたはず
ニーチェの道徳批判は何となく想像が付かなくもないが、哲学をどう批判したのか
奥崎をニーチェの超人に準えて肯定してるけど、奥崎を哲学、道徳を乗り越えたものとして見て良いのかどうか
何でニーチェと奥崎じゃなくてマルクス、ハイデガーにすれば良いのに
両方知らないけど
38 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:09:53.15 0
あげ
39 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:10:53.28 0
奥崎-ニーチェコンビはちょっとまずいだろうw
40 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:12:04.80 0
勉強しないと何も分からん
41 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:13:47.79 0
しんどい
42 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:22:38.01 0
読んでないのつらいんだよ
43 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:23:37.30 0
ニーチェもマルクスもハイデガーも知らない
44 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:28:16.95 0
存在と時間読まなきゃいかんのか・・
45 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:31:07.65 0
奥崎-ニーチェで上みたいにして、後は何とかしてくれってそれは無理
46 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:39:20.93 0
ニーチェを殆ど語ってないし
47 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:40:42.75 0
「自己自身をパースペクティブに全てを解釈する生の
遠近法によってのみ真理は規定されるにもかかわらず、逆に道徳という振ってわいた
恣意的なある種の似非真理によって自己の生を規定するのは逆さまではないか。 」
強いて言えばこのあたりだろうけど、これは正直かなりナイーブだと思う。
48 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:43:19.35 0
マルクスは逆でしょ、良く分からんが、自身のパ−スペクティブは社会関係の結節点でしかないという感じだと思う
「自己自身をパースペクティブに全てを解釈する生の 遠近法によってのみ真理は規定されるにもかかわらず」という所から何らかの社会性につなげるのは無理だよ
49 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:47:03.53 0
「自己自身をパースペクティブに全てを解釈する生の 遠近法によってのみ真理」を人格に結びつける事でそうするのかもしれないけど、
そうすると個人的真理を政治的演技で実現する、という話でしかなくなってしまう。
50 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:55:33.75 0
奥崎謙三は、自己の真理を政治的演技によって実践しており、彼はニーチェの思想を体現しており、そこで近代以前の西洋哲学を克服している、
と言われるとさすがに?となる。
更に言えば、ニーチェも西洋哲学も知らない自分はただ疲弊する。
51 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:56:43.19 0
知ってたら多分連投してないし絡んでない。
52 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 09:58:26.15 0
知ったってドヤ顔で開陳したくはないし、ただ平穏のため。
53 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 10:00:32.87 0
俺は物書きになりたいわけでもないし。
54 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 10:03:10.67 0
物書きになりたいなら読むだろう。
55 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 10:15:26.43 0
自己より人格、振る舞いが大事、自己ではなく人格に喜びを見出すという事なのかもしれないが、良く分からん。
56 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 10:17:50.10 0
個人化され娯楽化された社会性-道徳というか。
57 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 11:08:26.85 0
>1
まあ、言いたいことはよくわかるよ。
ルソーとか、デュルーズ&ガタリ、相田みつをとか、も挙げたい。
社会が欺瞞に満ちた顔をして個人の人格を抑圧しようとするとき、反体制の旗振り的なことをした思想家ってたくさんいるよね。ニーチェは退廃したキリスト教道徳、奥崎は国家道徳、こうしたものは
物事の秩序に貢献する反面、生来の実存としての自然力を分散し、弱め、家畜の
ように飼い慣らされた人間の製造へと
向かわせる。家畜とは自分を社会のなかで認識づけられる自分でしか存在の意義を見いだせない哀れな人たちのことであろう。
ニーチェの思想は本物だと思うけど
嵌る人間が総じて気色悪いんだな
屁理屈で解釈するだけに留まり、なんら社会の中で実践することがない
ただ愚痴を垂れ流すだけ
哲学や現代思想に嵌る人間全般がそうなのだろうけど
59 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 11:31:57.62 0
可能性、バ−チャルか。
シェリングっていうドイツ観念論におかれる
思想家がいるけど、晩年は観念論的思考を
消極哲学と否定して、実存主義の先駆けといえる
哲学を構築したんだよね。
現代の硬直した世の中で、どう積極性を発揮するか?
恋人のいる売春婦のように金とシステムに囚われた頭脳労働は
純粋な精神の実りを汚し、腐らせることであろうな。
62 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 11:39:33.75 0
64 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 11:48:11.36 0
快楽とか悦びの導入か。
65 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 11:49:22.94 0
ドゥルーズの差異は表象可能なのか。
66 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 11:54:04.76 0
形式的な表象体系からすりぬける個性的なもの快楽。
これをどう考え、付き合うかという事もしれんな。
よくデュルーズ&ガタリが難解とかいわれてるけど
おおまかにいうと、アウトロー世界を参照すると
見えてくるものがある。
底辺であり、下の下の世界であるが泥水や土に埋まった
根っこの世界、リゾーム(地下茎)の世界。
肉体としての尊厳(部落血縁、在日、犯罪など)を根っこに戻し
生来の自然精神の尊厳を回復しようとする営み。
これは刑務所で教わるものでなく、死刑囚が牧師や坊主から
救われるものではない。
般若心経やプラトン世界に抗う肉体の創造者たる母なる大地への
回帰ではないであろうか。
>63
硬直は少子高齢化という意味では
硬直してるのと違うかなぁ。
硬直の次はなにがくるかといえば腐敗。
本能的な年寄りが若者エキスをチュパチュパ吸って
生きながらえようとする世の中。
戦後の混沌とした生の躍動はもう昔。
69 :
ちゅん太郎:2015/02/14(土) 13:11:27.45 0
>>24 >人格が演技だと気付いたら前に出られないと思うけど
>自己がフェイクだと気付いたら他人に対して自己主張できなくなる
それが太宰治の立場だね。太宰は子供の頃から人格がフェイクで
あることを自覚し、人格からは逃れられないから常に無意味な世界
で意味的に振舞わざるをえず苦しんだ。そこで彼はさらにフェイクを
重ねる。すなわち苦しみが外にばれないように笑顔でいること。笑顔
の仮面をすることで外部にばれないように内部でなやんだ。結局それ
を克服できずに自殺するに至る。太宰の克服できなかった立場に
挑戦したのがキルケゴールとニーチェだ。
>57
言い過ぎかもね。
でも選民思想とかエリート主義とか
そんなつもりで言った訳じゃない。
誰彼、第三者が人の繋がりを操作してるという
意味では畜群ではないだろうか。
人それぞれに自己の主体性をもって繋がり
を持たなければ真の人間回復は唱えない。
71 :
ちゅん太郎:2015/02/14(土) 13:22:02.29 0
>>27 >保守における超越というアクロバット
理論上不可能だからなんらアクロバットになっていない。
>>36 >奥崎を哲学、道徳を乗り越えたものとして見て良いのかどうか
よい。それを説明するスレだ。
>>46 >ニーチェを殆ど語ってないし
これから語る。
>>55 >自己ではなく人格に喜びを見出すという事なのかもしれないが
人格に依存するのは弱者であり苦しみしかないから、古(いにしえ)の
強者である名前すらない土人に還れというものであって、これは人格
からの解脱を解くものだ。人格に喜びを見出すとは逆のことだ。
72 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 13:32:18.66 0
かめんぶとうかい じゃねーんだから
それ 杉本彩のスワッピングパーティーじゃねーの
創価学会はいつまで 新宿6丁目に居座るつもりだ
はなぞのだんこ まえ(笑)
73 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 17:39:00.60 0
74 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 18:08:35.35 0
キルケゴールを読み始めたが、絶望は自意識の問題だ、という様な事をすごい形で言っていて面白い。
やはり読まないと粘着はとまらさなそう。
もう少し積極的、計画的に行こうと思う。
75 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 18:12:06.57 0
Life is not a problem to be solved, but a reality to be experienced.
76 :
ロビイスト:2015/02/14(土) 18:26:07.05 0
意識しすぎて
自分の好悪の感情を濁すと
本当にどんどん自分を貶める方向に
人間関係が向かっていくと、思うんだよねえ。
理性や観念で報われる予定された幸せって
予定されない希望の代償じゃないでしょうか?
そんなふうに思ったりしますねえ。
77 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 18:26:58.40 0
キルコゲールの自己は諸物の関係に対する関係、言い換えれば諸物の関係についてのメタ意識。
78 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 18:33:31.06 0
大学一年生レベルだろうな・・・
79 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 18:43:43.68 0
キルケゴールはコペンハーゲンの一角で、五歳の幼女に襲いかかって強姦してしまった。
この幼女は、キルケゴールや、その父以上に、敬虔なキリスト教徒だった。
キルケゴールに強姦される最中、神に必死に助けを求めた。しかし、神は助けてくれなかった。
そして爾後、レイプ目の状態で虚ろに空を見上げ、こう呟いた。
「やっぱり神様なんていなかったね」
〜 神様 について、幼女
80 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 18:46:22.03 0
そこでの絶望には二種類あり、一つには自己を自己自身が措定するような場合に、その自己を、その様な関係としての自己自身であろうとしないようにさせる絶望。
もう一つは、自己が自己以外のものに措定される場合に、自己が他者に措定されているにも関わらず、別の自己自身であろうとする絶望。
81 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 18:47:09.30 0
俺はキルケゴールとは違うわ。それはない。
82 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 18:48:15.23 0
だから普通に生きていけるだろうけど。
83 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 18:49:46.83 0
五歳を強姦してしまう自分がいるとしたらもう哲学するか自殺するしかない。
84 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 18:56:20.80 0
85 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:11:14.55 0
次の説では絶望していないという事は無意味な事であるとか、絶望は自己の内にある可能性としてあるとか、絶望はその都度その都度生じるものだという様な事が言われてる。
自分は哲学には縁が無いかもしれない。他人の言っていることが何となく分かり、時に冷静なカウンターが打てればそれでいいかもしれない。
86 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:13:31.97 0
哲学者になぜロリコンが多いのか?純粋性への憧れなのだろうか?
87 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:27:47.54 0
自己が自己を措定したとしても第一の脱自の無限循環にいたる第一の絶望に陥り、他者が自己を措定としたとしても自己を目指す無限循環にいたる第二の絶望に陥る。
つまり自己が落ち着かない。
88 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:27:51.59 0
ロリコンがたまたま哲学やってただけだろw
キル君はグロマンみて失神しそうだなw
89 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:30:05.90 0
自由になっても際限がないし、不自由を課せられた状態で自由を目指しても無駄だ。
90 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:31:25.98 0
前者においては自己が無制限に膨張するだけだし、後者においては自己が無駄に空回りするだけ。
これが自己から抜け出そうとする第一の絶望と、自己であろうとする第二の絶望だろう。
91 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:31:33.37 0
キル君ワロタw
92 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:36:21.26 0
キルケゴールが処女を奪ってしまった幼女についてだが、キルケゴールは償いの為に彼女を内縁の妻に迎えたらしい。
93 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:37:08.88 0
つまりは脱自が可能でも不可能でも、自己が消えない限り絶望するという事だ。
94 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:43:20.96 0
拓郎(23)は、私が一番可愛がっている部下です。
残業も他の社員は断るのに、拓郎だけは快く引き受けてくれるから2人だけで社に残ることも多くなりました。
実は私、拓郎と深夜の残業中にエッチ話をするのが大好きなんです。
「夢精ってどんな感じ?」「精液って何日で満タンになる?」と、質問はどんどんエスカレート。
そんなある日、「拓郎はちゃんと皮が剥けてる?」と聞いてみました。
最初の彼が真性包茎だったので、ちょっと気になったっていたんです。
「ズル剥けか包茎か…。真相が見たいですか?」
「う〜ん。見たいかな」
予想外の展開に、私は生唾をゴクリと呑み込みます。彼は素早くズボンを下ろし、「正解は仮性包茎でした」と笑いました。
ここで皮を被っていたペニスはどんどん剥けて、最後は頭がしっかり出て…。
長さは7センチほどですが、オヘソにくっつきそうなほど勃っています。
「したいでしょう? さっきノドを鳴らしていたから」
「今日は遠慮しとくわ」
「こんなに大きくした責任取ってもらわないと」
彼は下半身丸出しのまま私に詰め寄り、後ずさりした私は、ついに壁まで追いつめられました。
ここでなんと、指でペニスを弾きながら壁に押しつける「壁ドン」ならぬ「壁チン」をしたんです。
ありえないことでした。拓郎は射精してしまったのです。
一気に冷めてしまった私は拓郎に言いました。
95 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:44:53.25 0
なんなのよw
96 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:45:16.98 0
ニーチェって名前からして粘着質だよな
暗くてねちっこいヤツ
97 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:48:21.35 0
高校の頃に行ってた東京は楽しかった。
98 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:49:41.51 0
十時に原宿に着いて髪を切ってその辺をぶらぶらするだけなんだけど楽しかった。
99 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:50:40.44 0
別に良いんだけど。
100 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:54:02.75 0
子供の楽しさはもうないだろうから後は大人のやりがいかな。
101 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:55:02.82 0
キルコゲールと無関係に言ったんだがリンクするかもしれない。
102 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 19:55:36.73 0
他者への応答ですよね。
103 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 20:04:48.93 0
キルコゲールとキルケゴールが混じるな。
104 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 20:16:01.80 0
まあいいや暫く今までどおり暮らす。
105 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 20:45:37.17 0
自己への絶望とそれによる脱自への無限過程は、その都度何ものでもない宙吊りの状態でこの真空における自己のありかたが所謂「死」かもしれない。
106 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 20:47:25.84 0
自己が失われるという事が肉体的な死とは別のキルケゴールの意味での「死」だろう。
30P読んだ。
107 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 20:51:08.53 0
絶望は精神としての自己が「死」んでしまうんだという事だ。
108 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 20:53:49.20 0
自己が「食いつくさ」れないが故に「死」んでしまうという妙な事に。
109 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 20:59:04.58 0
自己が失われているから、肉体的な死を決意する事もできない。
110 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 20:59:59.73 0
肉体的な死さえ不可能な精神の自己喪失=死が、延々と続く、これが謂わば「死に至る病」としての絶望だ。
111 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 21:00:11.11 0
俺さ、昔働いた下働き職場で
見合いで結婚してガキ作って離婚して、会社辞めて腐った不良中年みたいなやつにからまれてさ。「子供のかわりにウサギ飼ってる。たまに背骨をバキバキしてる」とか仕事中、グダまいて身の上話がうざいのよ。「愛はいらね。金だ。」
とか、ほざいてね。
あんまりうざいので
「愛のあるレイプは許されると思うんですよね。」とか嫌みを言ったのよ。
そしたら
「ほのぼのレイプ〜」とか消費者金融のCMソングにひっかけて歌いやがんの。
責任もってつきあう本当の愛があれば
レイプのほうが打算の見合いより精神的にも倫理的にもマシなんじゃないかと俺は思う。
俺はキルケゴールみたいなことはできんけどな。
112 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 21:16:45.34 0
経験なんだよな。こういう事やってれば次はこれを引き出しから出せばいいだけ。
113 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 21:17:36.32 0
引き出しが増えれば新しいらしき事もできるようになるんだろう。
114 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 21:27:58.77 0
こんな適当な人はいなくて、ここからが厳しいし倫理が要求されるところでそこでやってる人が殆どだと思うんだが。
115 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 21:30:39.05 0
キルケゴールを読んでこういう感想が出る時点で違うんだろうと思う。
116 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 21:40:17.12 0
哲学者の少年愛は
美のイデアの投影を最も間近に触れることができる造形物だかららしい。
つまり、美少年のちんちんは太陽。
グロマンは地球の怪獣。
117 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 21:52:16.82 0
アグネス的にまずいもうひとつは?
118 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 22:01:08.08 0
恥丘(地球)である。
119 :
ちゅん太郎:2015/02/14(土) 22:33:14.80 0
ニーチェ先生は言う。
「すでに無限に繰り返された、また無限に戯れる円環運動に
他ならない」
自らの生で規定すべき真理を投げ出して、道徳的価値によって
自らの生を逆さまに規定することで、人は選び手に立ち目標を
持つに至ったが、それは必然とニヒリズムを招き入れた。しかし
そもそも土人にとっては、生成から目的表象はなく単に必然性
のみが見出されるのではなかったか。すなわち無意味な生の
反復があるだけである。この様な永劫回帰の世界観は、現代人
においては道徳(無)への信仰から離れることで、論理的帰結と
して必然と浮かび上がる客観的に妥当な理論である。すなわち
強者であるがゆえに永劫回帰を生き、弱者であるが故に永劫
回帰に耐えられずにニヒリズムを生きる。では今最も必要と
されるのはなんであろうか。
120 :
ちゅん太郎:2015/02/14(土) 22:38:56.28 0
>>74 >キルケゴールを読み始めたが、絶望は自意識の問題だ、という
>様な事をすごい形で言っていて面白い。
自意識とはここでいうところの人格そのもので、哲学では自己意識
とか近代的自我と言われる。そして人格を通じて生存実感を得られ
ないということから、キルケゴールは宗教Bの信仰を通じた彼岸での
アクロバットを持ち込むのであって、そういう意味では自意識に拘泥
する以上は少なくとも現世では不可避的に絶望する。
>>79 >キルケゴールはコペンハーゲンの一角で、五歳の幼女に襲い
>かかって強姦してしまった。
嘘を言うな、貴様!
121 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 22:39:08.85 0
奥崎が否定した、天皇制というのは、ニヒリズムにはそれほど悪いようには見えないのだが・・・
天皇という権力なき権威という存続は、あらゆる権力に常に限界を与えるもので、権力による価値観の絶対化を未然に防いでいるようにも思える・・・
しかし、天皇そのものには権力が無いので、その権威を否定する個人に対しては、何かを強制することはできない
簡単に言えば安倍首相や政府関係者が「オレは天皇を超えた!」とは口が裂けても言えないが、そこらの浮浪者が「天皇は死んだ!」とか叫んでも、嫌な顔する人はおるかも知れないが、別に個人の自由な訳だ
少しこじつけかな・・・
まぁ、戦前の天皇制は、名ばかりとはいえ権威と権力が合一化してしまった故の日本の悲劇だったと思うが
別にええやん>強姦
責任とって内縁の妻にしとるんだから。
123 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 22:47:52.22 0
ニーチェの最良の継承者はドゥルーズかもな
価値定立的に生きるとしてどうすればいいのか、という時にはまず「差異と反復」が挙がると思う
124 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 22:48:58.14 0
ニーチェは著作が多そうだけど具体的に何を言ったんだろうな
まず読まないとダメだ
いまの中東みたいな内容にすりかわってるんでしょ
126 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 22:56:01.37 0
ニーチェを受けてそのまま政治に行くのは違う気がする
127 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 22:57:16.16 0
それだと開き直りになってしまうので
奥崎氏どちらかというとそっちじゃないかという気がする
久々に面白い1を見たね。
チンポ太郎以来かもしれん。
しかもチンポ太郎より哲学のセンスはありそうだ。
チンポ太郎は哲学知識を飾るだけの不敬な文芸の輩だったが
この1は知識を咀嚼したうえで奇異な持論を展開している。
129 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 23:16:47.72 0
ショーペンハウアーとかもそうだけど
実存主義の人って健全な生を訴えながら、当人は精神が病んでたりするのって皮肉だよね。
130 :
考える名無しさん:2015/02/14(土) 23:22:50.95 0
価値定立するもの、されるものとしての単位=indivisualとは何かという事も考えないといけない
外から与えられる単位は否定される訳だから
道徳的な法則、regulalityも否定される
その辺りについて細かく考えたのはドゥルーズかという気がする
ここで自分がニーチェを読んでないという事に非常にイライラする
道徳的な法則性のないところでindivisualな価値がどう関係するのか考えないと。
135 :
ちゅん太郎:2015/02/15(日) 00:08:21.33 0
強者によって論理必然的に帰結したに過ぎない客観的な
法則としての永劫回帰の世界観は、全ての存在を永遠の
必然性と捉えた。この様な単に示された世界を取り込む
決断こそが運命愛である。
「これが生だったのか。よし!それならもう一度」
しかしそれは選び手としての決断では断じてない。そもそも
選びうるという態度が意味を経由するというニヒルそのもの
である。土人はけして選択などしはしないし、そもそも選択
することによって世界を取り込むことは出来ない。三島
由紀夫がいくら保守を貫こうとも、キリーロフがいくら人神に
なるとも、結局それは理論上挫折するのだ。前提として自ら
の世界にすでに取り込まれていること、こうして人は次の
ステージへと歩みを進めることが出来る。
136 :
ちゅん太郎:2015/02/15(日) 00:16:56.07 0
>>128 >この1は知識を咀嚼したうえで奇異な持論を展開している。
どちらが奇異なのかをはっきりさせようとは思うが、少なくとも
現状のこちらの立ち位置を理解されているようだ。
>>122 >別にええやん>強姦
>責任とって内縁の妻にしとるんだから。
父ミカエルとごっちゃになってないか?しかも5歳とか何の話か。
願望を書き込むんじゃない、貴様!
137 :
考える名無しさん:2015/02/15(日) 00:40:30.69 0
つうか
あんたチンポ太郎だろ>1
確かニーチェについても言及してた記憶が。
レスを読んだが、太郎が御用達の
シェリングの「人間的自由の本質」に思想が似通ってる。
138 :
考える名無しさん:2015/02/15(日) 00:53:15.56 0
しかし
なんか事件をやらかすやつは
なんで、〜太郎が多いのかね。
清水健太郎、山本太郎、禊健太郎(ぴかぁ改名)
桃太郎侍とかさあ。
問題児に多いっすよね。
139 :
考える名無しさん:2015/02/15(日) 01:00:40.71 0
>> 129
それは、平和主義者が実は最低なDV野郎だったり、冷酷無比なナチスの親衛隊が家庭ではよき夫であり父親だったりする矛盾と通じるね
人間は自分に本質的に欠けているものを理想化して、追究するからなのかもしれない・・・
三島由紀夫も幼少期は、溺愛する祖母から女の子として育てられ、青年期は非常に繊細だったらしいからね
ニーチェ自身もキリスト教の神学校からスタートし、散々にルサンチマンを罵倒しなが、最もルサンチマン的な最期を迎えているのが哀しい
140 :
考える名無しさん:2015/02/15(日) 02:21:35.40 0
自然を欲しながら自然を成り立たせる基盤みたいなものの完全な構築をまず訴えようとする。自然とか獣の世界はある意味、
全体主義的で機械的。
ルソーもニーチェも、こういった世界の
構築に一役買っている思想家だということをご存知か?
ナチス、ソ連邦、等。
141 :
ちゅん太郎:2015/02/15(日) 04:48:29.69 0
運命愛による世界受容すなわち存在全てを然りとすることは、
意識における対象の受容ではけしてない。対象を受容しようと
しても結局どこまで行っても自我がついて回るので自我が温存
されるからである。この様な受容とは意識よりももっと根源的な
ものなのである。ここでの確信とは永劫回帰の世界観はすでに
そう在ったのであり、逆に根源的であるからこそ意識されない
ところに前提の証がある。すなわち運命愛は我々の意識の
うかがい知れない、喩えるなら根源的なものの決断によって
のみ可能になる。根源的なものによって決断の生を生きること
こそ運命愛である。永劫回帰の世界観を運命愛によって引き
受けた者は、絶対的な自由を手に入れてニヒリズムの病気は
快癒される。快癒者は哄笑し世界を手に入れる。ニーチェは
いう。
「今まで地上のどんな人間が笑ったことが無いほどに高らかに
哄笑した」
こうして一切の不幸に対しても然りと言う。
「苦痛は一つの快楽なのだ。呪いは一つの祝福なのだ。夜は
一つの太陽なのだ」
142 :
ちゅん太郎:2015/02/15(日) 05:06:51.68 0
神様の愛い奴であり神の使いである神軍平等兵であると自称する
奥崎は、自らに神の視座を持っている。認識主体としての自己の
裏側には常に神の視座が存在する。そもそも何某かの神への信仰
とは、対象としての神が外部の存在だからこそそれに向けて行われる
という構制でなければならない。しかし奥崎にとっては神は常に来訪
しているものでありこの様な者にとって信仰などという陳腐なものは
無意味だろう。我々が例えば月の存在を疑うことがあるだろうか。
例えば空気の存在を疑うことがあるだろうか。そして神様の愛い奴
(ゴッドフェイバリット)と自称する奥崎にとって、来訪している神
を月と空気と同様に前提とするのは当然のことである。根源的なもの
による決断が自信と神を結びつけ、こうして奥崎は強者に復帰した
数少ないであろう人類の一人となった。
143 :
ちゅん太郎:2015/02/15(日) 05:11:44.37 0
ここにロフトプラスワンで講演をする奥崎の態度を引用する。
------------------------------------------------
唐突に奥崎ら質問されたお客さんもさぞかし驚いたことだろう。
それでも一人のお客さんが「素晴らしいと思います」と答えたのは
さすがだった。 「思います? おべんちゃら言ってもだめですよ。
私、芝居しているんじゃないですよ。違うんだから。カメラ意識して
やってるんじゃないですよ。神様演出の演技をご覧下さい。これ、
金もらいたくてやってるんじゃない。とにかく、誰が何と言おうと、
これは最高の映画です。世界中の者がどうぬかそうとね、俺は
これがナンバーワンなんだ」彼は、これは最高の演技と言いながら、
芝居しているんじゃないとも言う。矛盾しているようにも思えるが、
これが奥崎を理解するためのキーワードの一つ「神様の演出」だ。
どれだけ怒鳴ったり激高しようとも、奥崎の中には常に自分をカメラ
で撮っているもう一人の奥崎がいる。自分の行動はすべて神様の
演出であり、神様監督の映画なのだ。
------------------------------------------------
144 :
ちゅん太郎:2015/02/15(日) 05:29:42.89 0
> 私、芝居しているんじゃないですよ。違うんだから。カメラ
>意識してやってるんじゃないですよ。
感情をあらわにし怒りながら「どうです私の演技」と自らの演技の
評価を求めた直後に「私は芝居なんてしていない」と喝破する奥崎
は判断力を失っているかに見えるがそうではない。例えばプロレス
というのは虚構だ。正に演劇といえる。しかしその演劇を取り組む
ものは真剣にやっているだろう。つまりこうだ、先の「どうですこの
演技」はプロレスで言えば「どうですこのプロレスの試合」と換言する
ことができそして「私は芝居なんてしていない」は「私は振りではなく
本当に真剣にやっている」と換言できるのだ。そして
>神様演出の演技をご覧下さい。これ、金もらいたくてやってる
>んじゃない。とにかく、誰が何と言おうと、これは最高の映画です。
>世界中の者がどうぬかそうとね、俺はこれがナンバーワンなんだ」
認識主体としての自己の裏側に存在する神によって一切を肯定
する奥崎にとって、全ては然りなのだ。しかし強者に立ち還ると
言っても土人は超人などではけしてない。超人とは人類の前に
横たわる無の深淵の向こう側に存在するものであって、土人は
ニヒリズムと出会ったことは一度としてないのだ。超人が超人である
という由来はそれが意味を体裁にし今日の現実の社会を許容して
いるというところにある。
奥崎が感じてる神とは何かという事だよな
奥崎は一先ずは自らのものとしてある神を持ち、それにより世界と一体化しながら、同時に主体的人格をもって他人と演技的に関わりつつあり狂人ではない
奥崎においては確信と社会性が両立しており、ここにおいて彼はニヒリズムを克服している、という事か
所謂土人の場合は、世界と自意識とのずれがないが、人格もない
奥崎は無を知っており従って人格を獲得しているが、同時に土人においてあった世界との一体感も併せて持っていると
無を知りながらも世界と一体化しており更に人格も持っている奥崎は超人だ、と
おい・・奥崎は殺人者じゃないか。。。
しかも殆ど人生の最後まで何らかの襲撃を計画しながら生きてる
しかも77まで刑務所生活だぞ
奥崎に社会性無いんじゃないか・・・
奥崎は天寿を全うしたから社会において生ききったとも言えるのかも試練が
基本的に奥崎は攻撃性がすごい
終戦間際においては戦地で上官を暴行して食料を確保したり、逆に引き揚げ時には食料を横領しようとした上官をハサミで指したり
63の時に元上官の殺害のためにそこを訪れ、出てきた上官の長男に発砲、殺人未遂で逮捕
刑務所に入り、医療刑務所に移り、77で社会復帰
154 :
ちゅん太郎:2015/02/15(日) 06:54:58.63 0
意味とは目的を合理的に追求することであり、これは何がしかへの
意識であり、すなわちこれは言語を語るということである。前近代に
おいて世界を入手した者は無言である。なぜなら単純明快な現実の
構成の自明さが保証されているからであり、そうであるが故に言語
に依拠する必要がないからだ。言語に依拠するのは極一部であって、
全体はソクラテスでもダビンチなどではなく、多数の一般人である。
それは今日的な複雑な社会を生きる現代における強者も変わりは
しない。超人を超人ならしめるのはその様な現代の社会において
世界を入手した者は意味の体裁をとりつつも本質的には無言である
ということである。言葉を語るのは神を手にかけ全身にその血を浴び
ている罪人であって、罰として虚無という無意味の中で意味を追求
せざるを得ない。意味の獄鎖に繋がれ無限に苦しみが続くのである。
しかし神と共にあり絶対的な歓喜の境地にある超人にとってはどうだ
ろうか?
155 :
ちゅん太郎:2015/02/15(日) 06:58:35.46 0
世界を根源的に許容することは最早何がしかの対象など存在しない。
対象との距離が無くなって単にそれは在るだけで悦楽なのであり、
狂乱と陶酔の忘我の境地においては言葉の入り込む余地など無い。
内部に完全なる世界を取り込んで最早言葉を失ったのが超人である。
ニーチェ先生は言う。
「私は君たちに友を教えよう、すでに完成した世界を己の内部に持って
いる友、善の容器である友を」
人が根源的に世界を受容するということは、その存在それ自体が歓喜
になるのでなければならない。存在が生に食い込むということがその
存在が神であることの証左である。相対的な生が否定され自らと他との
等価性が排外されることで、絶対的な生が肯定され自らに神が宿る。
この様な合一する神を外部から客観的にみつめるなら各々の独自性を
もつ。超人は人類を支えるのではなく逆に一切称賛されないところにその
存在を示す。
「君が他人から称賛されているうちは君がまだ君自身の軌道に立つことが
出来ておらず、他人の軌道に立っている」
156 :
ちゅん太郎:2015/02/15(日) 07:04:42.82 0
客観的に語ろう。自らの合一すべき神は自ら自身だけを選ぶ純粋な
ものである。この様な神は自己神であり神は超人の数だけ存在する、
極言するなら個々人の数だけその根源的なものに照応する神が存在
しうるのであり、歴史的に見れば神に代わって人が超人で在る。
「俺たち自身が神々とならなければならないのではないか?これよりも
偉大な所業は未だかつて無かった、そして俺たちより後に生まれてくる
ものはこの所業の為に、これまであったどんな歴史よりもさらに一段高い
歴史に踏み込むのだ!」
社会的価値による生の制約は、生を中心のとした遠近法主義とは全くの
反対物である。自身の中の相対性を排外することで実現される超人に
とって、すなわち最高の価値定立者である超人にとって、社会的価値を
掲げることは目的と手段の価値転倒であり、それは神を断念する者たちの
強者への嫉妬という畜群道徳に基づくものである。この様に最高の価値
定立者の超人にとっては全てのことが許されている。
「一切は許されている」
157 :
ちゅん太郎:2015/02/15(日) 09:19:50.49 0
ではニーチェ先生の主張は社会において暴力の正当性を訴えるという、
新しさのないアナーキズムに過ぎないのであろうか?否、罪と罰における
ラスコーリニコフや選民としてのナチスのいう暴力の正当化とは異にする。
これは同じ社会の枠内における価値の位階などではなくて、価値全体に
おける位階なのであり弁解できる種のものではないのだ。すなわち超人の
内部における、換言すれば超人のパースペクティブであるということである。
「私の哲学は位階を目指している。個人主義的道徳を目指しているわけ
ではない」
人類史を顧みればその維持継続は何百万年と神と共にあった。そして
そこでは目的表象が取り除かれており、言語の使用は極一部の限定された
領域に過ぎなかった。そこでは目標のある直線的世界観ではなく、円環的
世界観によって世界は流転するのであり、神を享受するというそのこと自体
は定期的なものであったのである。しかし歴史は塗り替えられることになった。
近代社会に入ると国家・社会の発展という生の為の社会の規定ではなく、
社会の為の生の規定という逆立ちとなった。
158 :
考える名無しさん:2015/02/15(日) 11:25:22.30 0
ほ〜のぼ〜のと、ほのぼのと
冷たい浮き世に灯をともす
一人の男〜
>>129 ショーペンそんなに病んでたっけ?
自分の哲学に反比例する人格の持ち主じゃなかったか
160 :
考える名無しさん:2015/02/15(日) 12:42:28.58 0
心が病む人って自分の欲望に
正直に向き合わず、理性で抑圧しすぎる
人かもしれない。
かくいう俺もそう。
みんな、適当に、裏表使い分けて
下を満足させてるのにね。
それが大人。
若いうちに学者で成功したんだよな。
ニーチェって。
後々、いろいろと雑多な人生経験つむけど
そのプライドの枠を結局は捨てきれなかったんだと
思うよ。
161 :
野獣先生:2015/02/15(日) 13:04:37.67 0
>1
愛のあるレイプは許されると思いますか?
売春婦に梅毒移されたニーチェよりマシじゃないっすか。
ヘリコプターマネー
164 :
野獣先生:2015/02/15(日) 13:15:33.39 0
いや、違法でも神に許されることって
あると思いますよ。
でも愛のあるレイプって、
子供作って育てるとこまでいけば
いいんじゃない。
愛のない性交って、汚いわ。なんだか。
神様もそう思うと思う。
さっきからのレイプに関しての議論だけどさ、レイプされて泣いてる少女を横に放っておいて
自問自答しているようにしか感じられない…哲学とはそういうものと言われればそれまでだけど。
凡人レス失敬でした。
何しろ
愚民の哲学、犯罪者の哲学
ですから。
169 :
ちゅん太郎:2015/02/16(月) 00:07:27.17 0
こうして神を享受してきた構造が取り除かれて人類史上初めて意味が産出
される。意味とは目的を合理的に追求するということである。しかしそれは
涜神ではなかったか。あろうことか神を無に摩り替えて粘土の人形を敬うと
いうことではないのか。弱者の無への意志そのものではないのか。
「意味が無いから良く生きられるのではない、良く生きられないから意味に
すがるのだ」
強者としての超人は、かつて人類が何百万もそう在ったように、弱者の無
への意志で歴史を塗り替えることなく良き生であり続ける。
170 :
ちゅん太郎:2015/02/16(月) 00:10:08.74 0
超人を目指した途端にそれは無限の敷居が出来るのであり、超人に
なろうとすることそれ自体がある種の無への憧れであり偶像への
ロマンチズムである。超人を考えても考えられた超人と超人それ自体
とは全く関係が無い。この様な事態は神を対象化することではないのか。
対象にすることなく反省することなく思惟することなく過去をみることなく、
こうして神とは意識による判断ではなく根源的な判断に委ねられる。超人
は神という言葉自体しらないのだ。見たことも無ければ噂にも聞いたことが
無かった。超人にとって神とはけして客観的事物でもなければ思惟する
ものでもない、太古からそうであったように神はただ在っただけにすぎない。
この様に自ら能動的にアクセスするような神は無であり自らが思い立った
途端に神は手から滑り落ちる。
「あるがままの世界に対して差し引いたり除外したり選択したりせず、
ディオニュソス的に然りと断言することにまでそれは永遠の円環運動を
欲する」
171 :
ちゅん太郎:2015/02/16(月) 00:13:02.91 0
歴史的なものが真実であり、彼岸の神というものはけして真理を保証
しはしない。そうであるなら神はこの時間(歴史)のただ中に出現する
もので無ければならない。前近代においては神は時間的なものだった
のではないか。それは当然のことであり誰も疑っていなかったのでは
ないか。訪れる祭祀は定期的なものであって人は歴史の中で神と共に
あったのである。近代以降人は神に手をかけることによって神殺しに
なった。こうして人類の歴史上神は胡散霧消してしまう。
「神は死んだ」
そこで人々は自らの手で神を作り出そうとした。複雑化する社会の中で
人々は言葉と言葉の間に神を見出そうとし、こうして自己都合的に選び手
として様々な空間へとアクセスする。
「私はかつて何かを求めたという記憶が無い。私の生涯には奮闘努力の
痕跡が全く無い。何かを欲する何かを求める何かに励む一つの目的一つの
願望、こうした全てのものを私は経験したことがない」
しかし我々はそれを作り出した偽神であることを知っている。全一の神など
ではなく一時しのぎの慰めであることを知っている。
172 :
ちゅん太郎:2015/02/16(月) 05:21:30.82 0
超人が抱える神は独自のものであり、個人の根源的なものが生み出す
その神は超人の数だけ神がいることを示す。
「お前の内なる何らかの神」
この様な独自の神は個人の人格を無視した相対性の全人類的な出会いを
するのではなく、個々人の人格に即した絶対性の個別的な出会いしか
できない。綱を渡ることでしか合一できないのであり綱である以上は個々人
にのみ開かれる。
「動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱」
「万人向けの道など存在しない」
しかしこの神の個別性は他者からの眼差しであって、神が開かれるのが
個々人でしかないことを考えるなら問題は個人の観点にこそある。神への
光学は他者ではなく構造上自己でしかありえないのだ。ではその様な自己
が対峙する神はどのようなものなのだろうか。
173 :
ちゅん太郎:2015/02/16(月) 05:25:29.27 0
時間ではなく空間で選べるような個別的な神は偽神だ。なぜならそれは
自己都合的に作られたものであり、手軽にいつでも言葉と言葉の間に
生み出せる人工神だからだ。神は個別的に出会うのではなくて全一の
神で無ければならない。そのような神は他者からの眼差しからは独自
(個別性)でも、個人の眼差しからは一般性を担保しなければならない。
自己都合的な神ではなくその神は昔からのあの神なのだ。人類は歴史上
神と共にありそうであるがゆえに何百万年も維持継続できた。しかし社会
の発展が個人の生との乖離を生みその結果人々は神を手にかけてしまう。
そこで再び神と合一する為にはどうしたらいいのか?そこで生まれるのが
超人である。
174 :
ちゅん太郎:2015/02/16(月) 05:49:55.45 0
超人は近代以降蔓延る言葉の中でその間の薄暗い光で一時鎬を
することなく、前近代のように森羅万象の全てが光り輝ける境地で
ある。それは物語(仮象)へとアクセスするのではなく、物語自体が
生に食い込むことにより真の世界と仮の世界の境界線がなくなる
ことである。この様な物語は個々人の本質の反映でありそうであるが
ゆえにインコグニート(微行)なのだ。仮象が共同主観性として更新
されるということで人は1つの永遠の存在となる。仮象性は生に食い
込むことでそこにアクセスする立場を解消するのだ。コミットメントした
物語それ自体が永遠の立ち位置になるのである。こうして仮象、
すなわち人格は体裁となって本質的に演技性は、すなわち虚構は
真実に復帰する。この様な私神は全ての人の中の根源に眠っている
といえるだろう。誰もが超人になる可能性を孕んでいるのだ。ニーチェ
は超人を惹起する為に遠人愛を説く。
「私の道徳は人間からその一般的性格を次第に取り去り、人間を
特殊化していき結局は他人には理解できないものにすることである」
他人から強奪し冷酷さを発揮しその結果贈与の徳として、超人という
人間類型を惹起させるのがニーチェの愛だ。その結果誰にも理解
不可能な悪魔が誕生する。
「善人たちや正義の人は超人を悪魔と呼ぶだろう」
175 :
考える名無しさん:2015/02/16(月) 08:13:50.78 0
超人とは、スピード、パワー、知能、勇気、判断力、その他諸々、
これらを全てが人並を上回る者をいう。それは、俺である。
たった一つでも欠けるならば、人間である。
176 :
考える名無しさん:2015/02/16(月) 08:20:37.47 0
ニーチェは、あらんかぎりの脳細胞を酷使し狂って廃人にはなったが、
ある存在の可能性を見出した。
その存在とは俺そのものである。
またの名を器用貧乏という。
177 :
ちゅん太郎:2015/02/17(火) 00:00:07.19 0
ニーチェ先生の以上の様な主張は、罪と罰やナチス同様に
暴力の正当化として関連付けられてきた。しかしそれは果たして
正しいのだろうか。構制上何らかの意識というものは個々人に
開かれるのであり、例えば我々の万人の意識という言葉を口に
したとき、それは言葉遊び以上でも以下でもない。何故なら我々
は万人の意識を持つことは出来ないし、それを覗き見ることも
出来ないからだ。真実は精々比喩に過ぎないのであって意識
それ自体は構制上は個々人のものでしかない。ニーチェ先生の
理想としての超人のパースペクティブも同じであって、極言すれば
世界は認識主体たる個々人にのみに開かれるのみでありそれ
以外にはありえない。そう考えるなら個々人の意識から離れた
物言いは道化である。認識する主体がなくて何が宇宙だろう。
178 :
ちゅん太郎:2015/02/17(火) 00:07:57.29 0
そして個人の認識主体に来訪しうる神というのは、個々人の
神などではなく歴史的に一般的に存在していたあの神でしか
ないのだ。例えば奥崎謙三の神様はけして奥崎だけの私神
などではない。試しに奥崎に聞いてみよ「あなたの言う神様は
あなただけの恣意的な神である」とでも言えば一喝されるか
一笑に付されるだろう。何故なら奥崎の神があの神であるのは
前提だからであり、共同主観性という意識の底の根源的なものの
判断だからである。私神に過ぎないというような主張は我々が
「月は存在しない」「空気など存在しない」と言うのと同じこと
なのだ。その様な発言は無知蒙昧さとしか映らないだろう。
万人の意識に基づくという社会の構成原理それ自体は、万人
にではなく個々人の意識に開かれるしかないのであり、これと
同様に奥崎の意識上の神様もまたあの歴史上の神様である
として奥崎の意識に開かれている。個々人の感覚に基づくと
言う意味では奥崎の意識も我々の意識も変わることはない。
すなわち全一の神が来訪したという歴史的事実は当たり前の
ことなのであり、この様にニーチェ先生の主張はけして独自の
神を背景にした反社会的な暴力の正当化などでありえるはずも
なく、正に正義であり道徳的であり善であり誇らしいものであり
極言すれば社会性そのものである。
「私は君たちに友を教えよう、すでに完成した世界を己の内部に
持っている友、善の容器である友を」
179 :
ちゅん太郎:2015/02/17(火) 00:11:23.20 0
神の3条件は受動性・一般性・時間性であるということであり、1)神は
来訪し、2)神は全一の神であり、3)神は現実に現れる。前近代まで
何百万年と担保されていたこの神性を現代社会において如何にして
受け取りなおすかが全ての思想家にとって課題であったが、ニーチェ
先生は3条件を見事に充たし、超人という形で受け取りなおしたので
あった。今日的な社会と共にあるこの様な超人は、今も尚いずことなく
誕生している。一方で神様の愛い奴として、一方でバモイドオキ神として。
超人がインコグニートであるとするなら今すれ違った人間が超人でない
という保証はどこにもないのである。
>ちゅん太郎さん
概ね良好と思います。もちろん、私は奥崎という人は知らないし、
ニーチェについても知識はウィキの摘み食い程度です。念のため。
ん?と思ったのは、>極言すれば社会性そのものである
社会性を否定するわけではないが、社会性というのは、例えば、犬性のことである。
即ち主従関係、奴隷制度的縦社会の容認のことである。
単独行動を主とする猫性には、存在しない。
181 :
ちゅん太郎:2015/02/17(火) 06:26:07.19 0
>>180 社会性とは広義には反社会性という社会を前提にするものも
含まれるものであって、そうでなければ革命による社会改革
という社会の更新の余地も社会悪のレッテルを貼られてなく
なってしまいます。では奥崎の宗教はどうかといえば、これは
脱社会性の文脈を持っています。奥崎の神様だけでなく
あらゆる宗教は基準を社会の外に置いており、そしてそうで
なければ宗教とはいえないのであり、そして宗教はそういう
意味で常に危険性を孕んでいるといえます。そして今残って
いる宗教は歴史的に淘汰された結果であって、社会の外に
基準を置きながらも社会と両立していると判断されているもの
だけが維持・継続されているわけで、実は危険極まりない
ものなのです。では奥崎の宗教はどうかといえば、我々の
社会からすれば社会と両立しないわけです。
182 :
ちゅん太郎:2015/02/17(火) 06:29:49.47 0
>>180 しかし最後再三再四説明したように、彼は社会正義の為に
活動しています。彼は現在のサタンワールドである現社会を、
ゴッドワールドに作り変えようと社会改革をしていたわけです。
確かに彼は1)脱社会の文脈で2)社会と両立しない活動を
していました。しかしそれは極言するなら貴方個人の視座です。
そしてそれと同じように奥崎の視座からすれば、1)ではなく
正に社会性そのものであり、2)ではなく人道に則ったもので
あるということです。貴方の万人の意識であるとする全一の
感覚は根源的な判断、すなわち共同主観性に基づくものであり、
これは社会の中で同じ成員同士の仲で作用し合い更新される
為に全一感を伴いますが、奥崎も酒鬼もまた強烈な危機感の
中であろうと推測される体験から一人共同主観性更新という
物が為され、根源的なものから判断されているのであって、
我々同様に全一感を持っている。構造的には我々、すなわち
貴方も奥崎も何も変わりはないのです。
183 :
ちゅん太郎:2015/02/17(火) 06:34:41.36 0
では神の光学について述べる。主役であるというのは神が与えた
役どころではないのか。すなわち物語の中で全肯定される存在
なのではないのか。神様が奥崎自身を主役であると肯定すると
いうこと。人格を剥き出しにせざるを得ない現代社会において、
常に肯定され続けるということ。物語の生への食い込みとしての
運命愛の発動は、根源的なものによるのは自明であるが、その
動機付けは精神の危機であるということは酒鬼薔薇を見ても明らか
だろう。さてこの様な物語自体の引き受けという所に前近代の強者
とは異なる形式がある。しかし強者であると言うのは無限の法則で
ある。そう考えると奥崎の生き様は大地の主すなわち現代社会の
価値観と無縁どころかリンクしているのであり、同胞である戦友を
救うというものも世間的なものだろう。彼と世間は地続きでありそう
考えるなら物語は万様にもありうるのだ。
184 :
ちゅん太郎:2015/02/17(火) 06:43:26.10 0
怒るということが、泣くということが、笑うということが、喜ぶという
ことが、悲しむということが、この様な感情こそが存在値を与えて
物語を紡ぐことになる。感情がなければ物語になりえないのだ。
何も登場しない物語などありうるだろうか。感情的であるということ、
すなわち人格的であるということが物語を膨らますのであり、
こうして歴史のただ中において生存実感を更新し続ける。
この様な物語のただ中で振舞うことは、無の真ん中で無意味に
もがき続けることとは全く異にする。何故なら物語全体を神の御目
が包んでいるからであり、物語それ自体が悦楽だからである。
「これが生だったのか。よし!それならもう一度」と生に物語を
食い込ませるということ、こうして認識主体としての自己の背後に
神の眼差しを感じて、人格的なあらゆる挫折、あらゆる失敗、
あらゆる困難は然りとされ、全ては祝福となる。それはそうだろう、
最早世界は神の手のひらの上でありそうである以上はそれ以外に
あり得ないのだから。
反論
長いw
冗談だが、
感情論に関して言えば、別にあることに関して感情的になっていいし、
あることに対し非感情になってもいい。
それは全てにおいて必要性に準ずる。
故に、くだらない事には必要性が無いのであるから、
感情的にならないというのが望ましい。
それを比喩的に火を燃やさない、情熱を傾けない、ともいう。
186 :
ちゅん太郎:2015/02/17(火) 09:03:24.88 0
まず反論質問なんでもしていただきたい。拙論ではあるが大筋
では正しいのではないかと思っており、不協和を少しでも是正
していければと思っています。
>>185 >感情論に関して言えば、別にあることに関して感情的になって
>いいし、あることに対し非感情になってもいい。
>それは全てにおいて必要性に準ずる。
まず近代社会は前近代と違って近代的自我を備えるということ
です。これは人格が剥き出しになるということであり、それを回避
することは今日的な複雑な社会がそれを許さない。勿論ある種
酒鬼のように、人をキャベツ視することでストレスを回避するという
こともありうるしそれはそういう態度で臨むことは一般にも
ある。しかしそれでもそれは一時的部分的なものに過ぎない。さて
人格を剥き出しにするということは物語の中に閉じられるということ
であり、当然人格に基づいた何かしらの振る舞いが求められるのは
不可避的なことだ。そこで感情的になるということは物語が更新
されるということで、非感情的になった途端それは物語が停滞して
しまう。簡単に言えば魚は泳がないと溺れて死んでしまうわけで
常に泳ぐことを求められていると同様に、超人も物語の更新を
求められているのだ。つまり目的合理的行為(意味)だからこそ
物語は存在しうるのであり奥崎は常に行動の人であったのだ。
187 :
ちゅん太郎:2015/02/17(火) 09:07:05.69 0
仮象性の仮象たる由縁は仮象へとアクセスできる場が前提とされて
いる。しかし仮象が生に食い込むとき、すなわち永劫回帰が運命愛
の引き受けによって、絶対の福祉を得ることになった。この様な超人
奥崎の前に全ては無差別的に差別されている。刑務所に28年入り、
顔面を吐しゃ物だらけにし、時には軽く暴力でねじ伏せられ、時には
血栓溶解法を実践し嘲笑されながらも、彼は幸福であり誇りを持って
いる。奥崎の前では言語は高度には非言語なのであり、ここにニヒル
の付け入る隙などないのだ。すなわちこれは神の出来レースなので
ある。奥崎は見ているようで何も見ていない。無差別的に差別を繰り
返すのであり、最早趨勢は決しているのだ。絶対的に不動なのは彼
自身の幸福感ではないのか。あの太古の土人のように。これが新しい
人類のステージなのである。
「俺たち自身が神々とならなければならないのではないか?これより
も偉大な所業は未だかつて無かった、そして俺たちより後に生まれて
くるものはこの所業の為に、これまであったどんな歴史よりもさらに
一段高い歴史に踏み込むのだ!」
坂口安吾は?
坂口安吾は、ど、どうなの?
189 :
ちゅん太郎:2015/02/17(火) 21:49:20.63 0
奥崎の視点で見てみよう。監獄は奥崎にとって他人ではなく
自分自身とその中の神と対面できるので心が休まる場であった。
このように独房は神に最もアプローチできる場であり、真の罪で
ある神様と神様の法律を犯すことが少なくなる。右手が痛むまで
文を書くことは神/神法を犯すことになるのであるが、しかしそれは
微罪に過ぎない。この様に自らの体を傷つけることは罪であり、
それを治すことはいいことであるとされている。それゆえに神が
授けた治癒法である体重を圧し付ける体圧療法を人に教えると
いうのは、神/神法に叶っているとされるのである。奥崎は4件の
事件を犯したがその判決や内容は事実とは異なっており、承服
できるものではないが、勝ち目のないことはやらないので、自分に
正当性があっても力のない自分は勝機が訪れるまで戦略的に
服従する。そして勝機が訪れるのを待つのである。
190 :
ちゅん太郎:2015/02/17(火) 21:54:33.86 0
人間は人格を持つ以上は演技せざるを得ないのであり、そもそも
人格とは演技性そのものである。そしてその様な動物にはない、
人格を固有に持つことが人間である証左なのであり、この様な
人間は協働関係を持つ為にそれを備えた。そして今日的な複雑な
社会において人格を持たずに生存実感を無防備に持つことが
許されない今、人格を用いて如何に生きるかが課題になっている。
そんな中で認識主体としての自己と、それと共にある神が、人格
としての自己の演技が如何に為されるかを注視するのは当然の
論理的帰結である。カメラがあろうがなかろうが人格としての自己は
演技をするし、カメラの前で流す涙も独房の中で流す涙も全て演技
でこぼしたものである。刑務官に先生といい頭を下げる行為は軽蔑
されるだろうが、それは勝機をうかがう戦略である。そして奥崎の
最も得意とする涙は嬉し涙である。認識主体としての自己だけでは
なく、神様に気に入られているからこその嬉し涙であり、全ては成功
は元より失敗もまた肯定付けられている。すなわち失敗にも意味が
あるのだ。さらに自分より不幸な全ての人々に対する涙も流すこと
が出来る。しかし神様のお気に入りである奥崎は、神の使途であり
超人である奥崎は、嫌々皇軍には入ったが神軍平等兵には望んで
入った奥崎は、自らの不幸を悲しむ涙をこぼす演技だけはすること
が出来ない。何故なら肯定されているので不幸感がないからである。
それゆえに誰よりも多く幸せな果報者であるという自覚にいたる。
191 :
オニオン:2015/02/17(火) 23:29:38.13 0
あれ? しばらくこないうちにニーチェスレが増えてる?
192 :
オニオン:2015/02/17(火) 23:37:40.70 0
とりあえずここでくだらない引きこもり思想を説いているアホはマルクスでもよんどけ
193 :
ちゅん太郎:2015/02/18(水) 03:26:30.66 0
>>192 そういうと言うということはマルクスを知っているから
いえるのだろう。では貴様がマルクスを語って反論すればいい。
そうしないのは議論で傷つくのを恐れて自己を温存しようと
しているだけだ。
ニーチェ先生は権力を嫌い、それと同時に反権力を嫌う。
前者は国粋主義であり後者は社会主義である。理想国家
などというものや水平化された幸福の実現などは天才を
産出するどころかそれを阻害するのだ。あらゆる苦痛を
引き受ける逆境においてこそ独創的生は産まれるのであり、
過酷な生存条件の中でその拘束から自由になろうとする時
に超人は産出されうる。
「もしせむしからその背の瘤を取るならば、それは彼の
精神を取り去ることになる」
194 :
考える名無しさん:2015/02/18(水) 03:36:18.58 0
>>192 今時マルクスで頭が止まってる馬鹿はヘーゲルから観念論やり直せ
195 :
ちゅん太郎:2015/02/18(水) 04:34:17.12 0
人間は社会的存在でありその根源的なものがその人間を
必然としている。その意味で自由意志は存在しない。なぜなら
歴史的に集団に利益を与えて維持継続させるような慣習に
基づいてその様な環境が作られて、こうして人々はその慣習に
誇りを持ち、それを尊び、それに習うからである。こうして人は
自由意志などではなく根源的なものに必然的な生を受けた
不自由そのものでしかない。根源的なものを設定するのは時
の権力者であり、例えばカルト宗教では教祖という名の権力者
が自己都合的な宗教の利益になるように環境を整えて、信者
がその宗教の利益になるように学習させていく。では人は必然
の生に従う奴隷でしかありえないのだろうか。根源的なものを
設定するものを必然の主であるとするならば、自らが自ら自身
の必然の主になるならば、それは奴隷を克服することになりは
しないか。ツァラトゥストラにおける困苦の転機とは、必然の生
の前では自由意志がなく不自由意志でしかないというものを、
内的必然によって翻し自らが必然の主に在れるというものだ。
196 :
ちゅん太郎:2015/02/18(水) 05:15:32.69 0
困苦の転機を招くものは徹底的に自己を没落させるものである。
困苦の生をより困苦にするということ、生の必然を強い意志が
打ち破り自ら自身で生の必然を創造されること、これには徹底的
な自己没落を要する。困苦の究極的な到達点において自らの生
の必然を招いた時に、他から一切評価されえない誰の軌道にも
ない自らの軌道に降り立っているのである。
「私は愛する、没落する者として生きるほかには、生きる方法を
持たない者を。それは彼方目指して超えてゆく者だからである」
奥崎も酒鬼もまた困苦の中にあったのではないか。しかし彼らは
誰よりも強い意志を持って自らの中の神を惹起したのである。
こうして根源的なものは更新されて独創的な生の必然の地平が
拓かれるに至った。インコグニートである超人は、人知れず新たな
ステージに身を置いている。
197 :
ちゅん太郎:2015/02/18(水) 05:25:50.07 0
様々な説得力の集合が物語であり、この諸説得力=物語
とは5wsすなわちwhen/where/who/what/whyである。
しかしこのままでは物語は絵に描いた餅であって、これは
存在値を持った登場人物と相俟って初めて歴史を持つこと
になる。5wsを論理とするなら、登場人物は非論理である。
こうして存在値を持つ登場人物は、論理を背景に非論理で
ある感情によって際立つのではないか。この様に奥崎が
常に感情を剥き出しにするのは、物語を膨らませる為なので
あり、もし人物が設定に溶け込むようなものであったなら、
それは歴史上なかったことになるだろう。奥崎はいう。
「笑ったり泣いたりね、ね、 これが価値があるわけですよ、
笑ったり泣いたりがね。」
「嬉しけりゃ嬉しがり、 がらなきゃいかんわけです。悲しけ
りゃ悲しがらなきゃいかんわけですね。おこ、腹が立ちゃ
怒らなきゃいかんわけですよ。」
198 :
ちゅん太郎:2015/02/18(水) 18:02:07.35 0
この様な物語の生への食い込みとは運命愛による永劫回帰
の引き受けである。ニーチェ先生は言う。
「生成の世界の存在の世界への極限的近接である」
無から有を生み出すような生成の世界は全ては一定量の枠内
での変化に過ぎないという存在の世界とは質をことにする。しかし
近代社会が招きよせた人々による神殺しが、永遠の中に噴出
したニヒルが、すなわち無が、それをそのままの形で根源的な
ところで生の必然として噛み切ったとしたらどうだろうか。質を異
にする生成の世界を存在の世界において受け止めた時、無は
永遠となるのだ。永劫回帰である黒い蛇の頭を、ツァラトゥストラ
に促されて噛み切った時牧人は、こうして
「今まで地上のどんな人間も笑ったことがないほど高らかに
哄笑した」
のである。こうして絶対不壊の自由が獲得されることになるので
あり、こうして無の中に戯れているようで実は存在の世界に住んで
いる奥崎は、見た目は一般の社会の中で生活しているようで、
生きているステージが違うのである。
199 :
オニオン:2015/02/18(水) 18:09:20.76 0
本スレで論破されたつるじょあ氏(本名:イ・チョンナム)が逃亡したスレらしいな
懲りないやっちゃw
200 :
オニオン:2015/02/18(水) 18:21:32.31 0
お前は負けたんだよ。泣いても笑っても明確にその事実だけが残った
セルフゴッドとやらに慰めてもらうがいい
セルフシコシコでもかまわんがな!
201 :
ちゅん太郎:2015/02/19(木) 00:24:06.92 0
ニヒリズムを、意味の牢獄を、すなわちこの生成の世界を、存在の
世界として生に食い込ませそれを噛み切る時、それらは昇華されて
一つの祝福になる。こうして神と合一していたあの前近代へと再び
人類史は還るのだ。
「一滴の露か。永遠からの香りか。お前たちの耳は聞こえるか、
お前たちの鼻は嗅げないか。今まさに我々の世界は一つとなった
のだ。真夜中はまた正午なのだ。苦痛はまた一つの悦楽なのだ。
呪いは一つの祝福なのだ。夜はまた一つの太陽なのだ」
超人になる者は内的に必然性を翻して、意識されない強い生命
意志によって神を招き寄せる。最早ここに神々の戦いなどありは
しない。それは無と無の戦いであって精々生み出すのは小さな
火花ではないか。しかし絶対不壊のあの神によってそれは永遠の
存在になるのであって、全ては光り輝くのである。
202 :
ちゅん太郎:2015/02/19(木) 06:50:50.40 0
我々は我々の社会において、言葉と言葉の間に神を見出そう
とする。その光は弱弱しい光であるにもかかわらず、一時しのぎ
にすぎないのにもかかわらず、それで生存に自らを繋ぎとめよう
とするのだ。踊り、歌い、酔いしれる、しかしその後に待っている
のはなんであろうか。それは虚無ではないにか。何の為にの
答が欠けているのだ。こうして空しさに支配されるのではないか。
奥崎はいう。
「歌を歌ったり、踊りを踊ったり、歌を聴いたり、踊りを見ていたの
では、神様の世界、真実の世界、彼岸の世界を実現することは
いつまでたっても出来ない」
自ら空を飛べるのに気球に乗るものがいるだろうか。そして
それは余りにも不自由な飛翔であり小さな光なのだ。言葉と言葉
の間にではなく、言葉のそれ全体を引き受けるということ、それを
然り(イエス)という境地において受容すること、そうすることで人は
永遠に祝福を受ける。
203 :
ちゅん太郎:
ツァラトゥストラにおける困苦(必然)の転機とはどういうことかといえば、
ニーチェの天才論にあるとおり、過酷な生存条件が人間の必然性を変え得る。
すなわち
「もしせむしからその背の瘤を取るならば、それは彼の精神を取り去ることに
なる」
の言葉どおり、その人間を追い込むことによりその人の中の必然性、すなわち
共同主観性を更新するということである。たとえば右の国粋主義、左の社会
主義をニーチェは否定しているが、それは理想国家や平等国家ではどちらに
せよ安穏とした暮らしが目標なわけで、それが実現しても天才は否定されて
しまうからだ。安穏な暮らしでその人間は曖昧になるだろう。しかし困苦に
あれば人生哲学が磨かれ生き方が明確になり偶然性に高度な必然性を帯びて
くるのは明白だ。この様に人を救う隣人愛ではなく、逆に人を捨てる遠人愛
こそ実は人を救うという逆説があるのだ。この様に偶然性の隙間が全て必然性
で埋まる究極的到達点こそが超人なのである。