存在と時間講読 [転載禁止]©2ch.net

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1考える名無しさん
ハイデガー著『存在と時間』を講読するスレです
本来なら辞書を片手にでも原書を読むべきかと思いますが、労力的に辛いので熊野純彦訳を使用します
今まで読む機会のなかった方、途中で挫折してしまった方もぜひ一緒にチャレンジしましょう
2考える名無しさん:2015/01/20(火) 19:03:15.82 0
@ ハイデガーの『存在と時間』が理解できない波平
           ↓
A とりあえず『存在』と『時間』に分けてみる波平
           ↓
B 「あることだけがある」=存在、「時間とは変化である」=時間等を乱立する
3考える名無しさん:2015/01/20(火) 23:31:45.99 0
4考える名無しさん:2015/01/22(木) 08:11:01.48 0
5考える名無しさん:2015/01/22(木) 16:48:49.19 0
何で熊野訳?
6考える名無しさん:2015/01/22(木) 19:56:06.04 0
俺もなんで?ってちょっと思った
評判いいわけでもなく文庫でも全4巻の値段5kもすんのに
7考える名無しさん:2015/01/22(木) 22:36:51.44 0
ステマだろ。
8み":2015/01/23(金) 05:50:00.84 0
>>4
奥さんエロいね
9考える名無しさん:2015/01/24(土) 19:01:48.15 0
中公クラシックスの渡辺訳でいいと思う。読みづらいけど値段、
便利さの点でも熊野訳をわざわざ買い直す必要ないと思うし
10考える名無しさん:2015/01/24(土) 20:54:44.40 0
いやいや細谷訳がスタンダードだと思うよ。
木田元も一押しのね♪
11考える名無しさん:2015/03/01(日) 19:33:45.69 0
やっぱ細谷訳だよな
12考える名無しさん:2015/03/01(日) 21:35:20.53 0
 ちょっとスレ主にいちゃもんだけど。あの本、熊野氏は監訳では
ないのかな。ああいうものが大抵そうだと思うんだが、彼の弟子が訳し、
熊野氏はざっと目を通しただけではないのかね。

 木田元が出した『現象学の根本問題』も、木田は監訳で、元は彼の
弟子である平田裕之・迫田健一が訳している。木田はそこははっきり
させている。熊野氏が全部1人で訳したとは考えられないんだが?
もしや当の『存在と時間』のどこかに自分は監訳でしかない、と
書いてあるんじゃないのか?
 
 これは意外と重要な点なんだよ。というのは熊野氏はあの本をさほど
分かってない。レヴィナスの批判を真に受けているのが熊野氏で
、レヴィナス自身がよく理解してない。ハイデッガー有論は権力に
結びつく、匿名の哲学だとか、匿名の有に有るものを支配させる、
とか、匿名じゃなく個人性の成立する場所を「有と時」として
提起したのがハイデッガーだが。そこがレヴィナスでは綺麗に省かれ
ている。そこが読めないなら肝心なところで読めてないのと一緒な
訳だ。そのレヴィナスを熊野氏は真に受けている。彼の
著作である『差異と隔たり』がすでにレヴィナスの影響が全面化
している本でしょう。レヴィナスの批判が違うと言うのは『有と時』
を読めば分かるんだけど、真に受けているのね、熊野氏は。それは
本当に自分で訳してないからであり、監訳してるにしても、よく丁寧に
読んでないからじゃないの?
13考える名無しさん:2015/03/03(火) 21:51:46.32 0
>>12に疑問も書いたけど、スレ主が始めたことなので、まずスレ主から色々書
いて行ったらいいんじゃないですか?勝手に解釈を書いていけば反応もでて
くるだろうし自然に進んでいくと思うんだけど。

 前レスにレヴィナスの読みを批判したので、レヴィナスの読みを批判して
るデリダの読みを今度は取り上げると、レヴィナスほどひどくはないけど、
やっぱりさほどは読めてはいないと思います。たとえばデリダはレヴィナス
に反論しながら、《有が有るものたいし支配に立つ訳ではない》と言う。
たしかに有るもの同士で競い合うような、支配にはないけど、先行はしてる
わけです。で、〈先行している〉と言う意味で、デリダの言う次のような文言
にもズレが出てくる。デリダは《有るものの外では有は何者でもない》《有る
ものと有には通常の意味での区別はない》と言う。実際は、精神が病んでいる
人間や、薬品を使っている人間にあるように、有るものが実在しなくても現象
させ、現出させることを有は行う。実在するかどうかは有にとって問題には
ならない。それは有るものにたいし有が〈先行〉するから起こる現象である。
またある種の分裂病では外界と隔絶した内界に閉じこもってしまう場合も考
えられる。その場合、聴覚も視覚も、幻聴・幻視しかなくなってしまう。有が
有るものを作り出し、そこから逃れられなくなってしまう。ここではどうし
ても有るものと有とを区別する必要が生ずる。個体の歴史性を考察せざるを
えなくなる。どういう世界性にいるのか考察せざるをえ
なくなる。デリダの読みではハイデッガー有論のそこまでの普遍性や深さは
出てこない。
14考える名無しさん
同じ意味で、デリダが《他者をそのように存在させるのが存在》とも
書いてるけども、現有が知る他者はいつでも己の有の理解に拘束されざるをえ
ない。そこでは〈他者それ自体〉とか、最初から問題にならない。問題になる
としたら知によって解読し始めた段階で、単に〈知る〉段階では他者とは自分
を移し置くことでのみ成立する範疇で、自体は問題にはならない。なのでデ
リダがこう書いている訳ですが。
《存在の思考は、他者を、それはそうであるところのものとして、すなわち
他者として尊重することの条件である》と書いているのは聊かハイデッガー
有論における他者を持ち上げすぎな感が有るわけ。そこまで他者はあの有論
では入ってはこない、ましてや自体としては入ってはこない。でもそこが他者
論として、実存における事実性に即しているとも言える。人間の独善の根拠
をよく捉えていると思う訳です。