ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 17
うえ〜ん伝統のスレなのに表題に■忘れた。ごめんよ〜。
4 :
考える名無しさん:2014/10/18(土) 19:41:33.32 0
前スレ1000の訂正
995→996
6 :
考える名無しさん:2014/10/25(土) 01:30:14.90 0
nibuya @cbfn · 24時間 24時間前
タイトに考えれば、原則上現在「職業欄」に「哲学者」と書くのを許されるの
は米系論理哲学系の人に限られると敢えて考えてます。ディシプリンの性格規
定上の話。ですから例えば「現代フランス系」という範疇の日本人の学者(?)
が「哲学者」を「名乗る」のを信じないことにしています。
政治だろ。
8 :
考える名無しさん:2014/10/29(水) 11:46:45.24 0
2014年11月25日発行予定
リトルネロ
[著者] フェリックス・ガタリ [訳者] 宇野邦一 [訳者] 松本潤一郎
A5判 タテ210mm×ヨコ148mm/176頁
定価 (本体4,800円+税) ISBN 978-4-622-07825-8 C1010
9 :
考える名無しさん:2014/10/29(水) 11:54:59.61 0
10 :
反撃の戦争機械分子:2014/10/30(木) 03:33:31.01 0
ドゥルーズは読んで学ぶものではない。実践すべきものなのだ。
11 :
反撃の戦争機械分子:2014/10/30(木) 03:36:44.01 0
機械に服従するくらいなら機械になったほうがましだ。
12 :
考える名無しさん:2014/10/30(木) 08:27:58.14 0
>>8 音楽の素養がないからイメージが湧かないんだけど、リトルネロって
たとえば具体的にどういう曲なの?「リトルネロ 」でYoutubeを検索して
ヒットする曲聴いてもまるでピンとこない。
13 :
考える名無しさん:2014/10/30(木) 11:52:05.75 0
数学的理論は、その内部ではふつう矛盾がない。だから実際の役に立たないことが多い。実際とは矛盾の塊だからである。▼『まともな人』 養老孟司(中公新書2003)p031
14 :
なんとなく思ったななしさん:2014/10/30(木) 12:36:12.62 0
よーろー 顕微鏡の中で妄想を想像妊娠させそうw
古典ってゆえば 古典ですけど
15 :
考える名無しさん:2014/10/30(木) 17:29:01.32 0
考えが混乱してるんじゃない?
数学が役に立たない場合、それは数学モデルに内部で矛盾がないからではなくて、
現実を反映しない公理を採用してモデルを組み立ててるからですよ。公理から
矛盾なく結論が導かれることで、現実を反映していない公理を採用している
ことを正当化するという倒錯により、数学モデルが何の役にも立たなくなる。
公理が現実を反映する限りで、そこから内部の矛盾なく組み立てられたモデル
は、当然、現実を理解するのに役立つ。
16 :
考える名無しさん:2014/10/30(木) 17:40:02.61 0
数学モデルばかり扱っている連中を相手にしていたことがあるが、
とにかく連中は現実の理解がとてつもなく浅い。現実を記述しようと
取り組むことによって、役に立つ公理を見出そうという意識が皆無。
まず、単純な数学モデルを信仰して、そのモデルが前提とする
公理を絶対の真実として受け入れ、モデルに合わせて現実を解釈
しようとする。当然、都合のいい事例ばかり選ぶことになり、
結果として表面的な解釈の成功により、信仰するモデルへの帰依が
さらに強化される。
>>15 >>13と違うことを言ってるとも思えないが。
養老孟司という人は東大医学部出身だそうだから、専門家ではなくても数学には詳しいだろう。
18 :
考える名無しさん:2014/10/30(木) 19:17:06.29 O
即興と逃走、道化と陶酔
自己崇拝と自己処罰
アーティステックな夢想的マゾヒスト
>専門家ではなくても数学には詳しいだろう。
数学に詳しいかどうかは問題ではない。
むしろ、数学に詳しい人間の方が現実と数学の関係に全く関心がなかったりする。
歴史の細かい事実を大量に知っている人間が、歴史記述の意味に全く関心がない
のと似たようなものか。
>>19 >実際とは矛盾の塊
現実と数学の関係を言ってると思うんだが。
小学校の国語からやり直してもダメだろうな。
22 :
考える名無しさん:2014/11/01(土) 12:40:30.43 0
小泉 義之
出来事(事象)としての人生 : ドゥルーズ『意味の論理学』における (情報とリスク : ポスト3.11の哲学)
哲学雑誌 128(800), 56-74, 2013
脳表面の動的発生--ドゥルーズ『意味の論理学』に即して (特集=脳科学の未来)
現代思想 34(11), 198-209, 2006-10
直観空間と脳空間--戸坂潤とジル・ドゥルーズ (特集=幾何学の思考) -- (生成)
現代思想 34(8), 158-171, 2006-07
ドゥル-ズにおける普遍数学--「差異と反復」を読む (特集 20世紀の数学--無限・連続・パラドクス)
現代思想 25(9), 162-188, 1997-08
ドゥルーズにおける意味と表現 批評空間 2期 (23), 176-191, 1999-10
ドゥルーズにおける意味と表現(2)表面の言葉 批評空間 2期 (25), 221-235, 2000-04
ドゥルーズにおける意味と表現(3)器官なき身体の娘たち 批評空間 第3期 (1), 139-149, 2001
23 :
考える名無しさん:2014/11/02(日) 03:10:12.30 0
養老先生のお説を批判した名無しさんの考え方が、
あきらかに正当である。
「数学モデルへの倒錯的信仰」については、新古典派経済学などが最も分かりやすい例だろう。
養老先生よりも、はるかに数学ができるであろうノーベル賞級の経済学者に、
これに関しては、「自己批判」している人もたくさんいる。
フューチャー・オブ・エコノミックス - 21世紀への展望
例えば、だいぶ前の本ではあるが、これに掲載の大御所学者たちの論考のいくつかが、
15名無しさんと同様の「数学モデル批判」をしている。
24 :
なんとなく思ったななしさん:2014/11/02(日) 03:19:18.66 0
猿の木のぼり 蟹の横歩き
25 :
考える名無しさん:2014/11/02(日) 03:26:27.85 0
引用のあった養老孟司の文は、とくに深読みしなければ、
あまり考えず何の気なく書いた、あるいは、筆が滑った類いのことだろう。
それを、東大医学部での医者だから、とか、そんなことで、
ごく常識的な批判にまでケチをつけるような心理が、むしろ理解しがたい。
ところで、ドゥルーズは、ノルマリアンじゃないだろう。わたしが(ひじょうに短期間だが)フランス語を教わった先生は、
知識人としては取るに足りない人だったが、いちおうノルマリアンだから、学歴はドゥルーズよりも「上」だった。
26 :
なんとなく思ったななしさん:2014/11/02(日) 04:59:46.82 0
舞台上に配列される時空間と
疑似遠近法により構成される客観的視点と現実
Teatro : 座
>>23>>25 なんにしても、数学の素人が一般的な数学のイメージ以上のことで批判するのは無理だよ。
一般的な数学のイメージという点では、
>>13の指摘はまとも。
中途半端な数学の知識で否定しようとするのはみっともない。
28 :
考える名無しさん:2014/11/02(日) 14:11:39.26 0
数理経済学の大家など玄人の受け売りなんだが。
だいたい医者は数学の素人じゃないのか。
数理論理的な矛盾、これは普通の言い方だ。
現実の矛盾、これは何を意味する。
弁証法的な意味ですか?
29 :
考える名無しさん:2014/11/02(日) 14:25:54.79 0
ゲーデルやヒューム以上にタルコフスキーが正確に語っている。
《人類をとらえた多くの不幸の原因はわれわれが容赦しがたいぐらい、罪深いほどに、
絶望的に物質的になったからなのだということをわれわれは認めようとしない。つま
り、自分を学問の支持者と考え、いわゆるわれわれの学問的な目論見の、いわば駄目
を押そうとして、われわれは、分かつことのできようはずのない人間の、唯一のプロ
セスを縦に分割し、その一方の、目に見えるばねを明らかにし、それをすべての事柄
の唯一の原因とみなし、そのばねを過去の誤りを説明するために使うばかりではなく、
われわれの未来の青写真をつくるためにも使っているのだ。》
タルコフスキー『映像のポエジア』p356
>>28 みっともないから、数学を持ち出すのはやめとけよ。
いまさら数理経済学とか数理論理とか、惨めすぎる。
31 :
∴ヴォルデモート卿:2014/11/03(月) 10:35:18.49 0
>>12 わたし音楽もやってる人なんですが、リトルネロってね、
変奏曲ってしってるかな?ロンドーとかエスタンピーとかも、そうなんだけど
おんなじ主題を色々な演奏で繰り返し違う技法にてんかいするんだけど、
ニ短調とかキーはかわらないんですよね。でも音楽家もリスナーも、
それでも飽きてくるで、クラシック、ジャズでもそうだけど、
転調するんですよ。普通だったらまたニ調にもどってきて終わりなんだけど。
リトルネロは別のキーで終わるんです。だからあれ?って思う。
まだ続きがあるのかな?とかね。。そういう意味なんです。
なのでリトルネロは終わってしまった音楽じゃないとも言えるんですよ。
32 :
∴ヴォルデモート卿:2014/11/03(月) 10:36:23.18 0
西洋音楽で芸術作品は終わるように作るのが基本なんです。
33 :
∴ヴォルデモート卿:2014/11/03(月) 10:43:21.39 0
クラシック音楽ってハ長調とかト長調とか、形式の後ろにつけてあるのが
多いでしょ。
>>31 リトルネロにはtuttiの意味もあるんじゃなかったっけ?
それから、リトルネロ形式といわれてるのは、調を途中で変化はさせるけど終わりははじめの調に戻るのが普通だったような?
ドゥルーズがどういう意味で使ったかは別として。
具体的な曲名が知りたい。Youtubeで検索すると変なポップ曲だけヒットする。
今、Ritornelloで検索したら、これがヒットした。
L'Orfeo - Choro Ninfe e Ritornello (subtítulos)
37 :
考える名無しさん:2014/11/03(月) 13:50:41.56 0
古賀
それでは、今日の本題である「リトルネロ」の話に入りたいと思います。そもそも、「リトルネロ」
というのは、リフレイン、つまり曲のはじまりや終わりで何度も繰り返される印象的な旋律のこと
です。ちょっと前に松任谷由美の『リフレインが叫んでる』という曲がありましたが…あれ、みな
さんご存知ないですか(笑)。
まあ、その話はいいとして、ドゥルーズは、「リトルネロ」の冒頭でこんな話をしています。幼子
がひとり、暗くて怖い森を歩いている。そこで子供は歌を口ずさむ。小声で何度も同じフレーズを
反復する。小さな自分のうちに森の夜が浸透してきて、自分が圧倒されそうなときに、自分の領域
を無力ながらもなんとか保とうとする最初の行為、これがリトルネロだと言うわけです。つまり、
一定の秩序を持った歌をまわりに鳴り響かせ、しかもそれを反復して持続させる、これが秩序の原
初的な形態なのです。真っ暗でどこにも差異が見いだせないような夜のうちに、こうしてささやか
な中心が定まる。「小声で歌を歌えば安心だ」というわけです。
38 :
∴ヴォルデモート卿:2014/11/03(月) 14:17:08.71 0
うちの父が、いい歳なのに、始終鼻歌を歌ってるんですよ。
元々父は田舎者でしてね。
だから37さんの言う事を簡単に言うと。音楽とかメロディーって
元々その人のテリトリーだとおもうんですよね。
ドゥルーズは、
そういう意味でリトルネロという言葉を使ったんじゃないかな。
わけのわからない歌をいつも歌ってるので、
うるさくてしかたないんですけどね^^;
39 :
∴ヴォルデモート卿:2014/11/03(月) 14:23:09.27 0
わたしも、作曲してたとき、どういう時にメロディーが出来たかと言うと
通学時に誰もいない道を、徒歩や自転車で行き来してたときなんですよね
ベートーベンの交響曲なんかも、ドイツの森を毎日決まった時間に、
出来たフレーズを集めて作ったものらしい。
40 :
∴ヴォルデモート卿:2014/11/03(月) 14:24:14.88 0
決まった時間に散歩してね。。
夜道を一人歩いていると、いつ、オバケとであうか、
わかんないわけですよw
なんだろうね、夜道を一人歩きするようになるまえに、朝になったら
陽の光で目を覚まされ、夜になったら暗くなって眠くなるリトルネロに
取り込まれてるわけで、夜泣きしても放っておかれるようになるでしょ。
すると、自分を周りのリズムに合わせるしかなくなる。ようやく
周りのリズムに合わせることができて快適だなと感じているうちに、
つぎつぎに新しいことが起きて、最初のうちはその新しい出来事に
不意をつかれるけど、それが繰り返されるにつれ、いままでのリズムの
中に取り込むことができるようになり、新たなより複雑なリズムが
生まれる。その繰り返しではないのかな。
夜道を一人歩きするのが不安であると同時に興奮させられることであるのは、
その行為が、日中に人目のあるなかを歩くという慣習から外れた、新しい
チャレンジ(肝試しだったり、独り立ちだったり)だからでしょ。
都会の中を、歩いてても作曲なんかできない。すでに音楽で
溢れてるからね。
ジョンケージの4分33秒なんていうのは、初演が街中でなかったかな。
あれは、それが表現したかった作品だと思います。
ラッパーなんて、曲、作れないじゃないですか。。
リトルネロで想起されるのが、素数だ。
任意の単位は円周と見なすことができる。円周を1回転するごとに
1単位ずつ数えることになり、1、2と数えた後に3で素数が現れ、
3が倍数の因数として取り込まれて、4は2の倍数なので予期される
慣習化された数であり、次に5という素数が現れて、また倍数の
因数として取り込まれ、以下同様といった感じだ。
数学はあまりわからないので
音楽家として、拍子、リズムについては、音楽好きな人にしか
中々説明しにくいものなんだけど、
1拍子でメロディが発生するかと言うと、まず、無いと思う。
一つのリズムに周回するテンポは作れない。
2拍子にになって歩行のリズムができるので、
メロディを作る事が出来る。
3拍子はダンスに二よる跳躍的なものができてくるので
歩行と言う、日常動作を離れる。
4拍子以降は皆さんが普通に聴く音楽なので、
説明は割愛する。
、
48 :
考える名無しさん:2014/11/05(水) 19:31:00.37 0
2014-11-04Add Star
●「ユリイカ」の西川アサキのテキストで参照されている「時計としての時間、
または過去・現在・未来の起源」(郡司ペギオ幸夫)が掲載されている「現代思
想」99年4月号が届いたので、パラパラみてみると、前半はともかく、後半はがっ
つりカテゴリー論(圏論)による展開で、どうにも歯が立ちそうにない。
(西川さんも、「これは郡司さんの書いたもののなかでも最も難しいものの一
つで、でも、それを避けて通るわけにはいかなかった」と言っていた。)
タイトルからして、後に『時間の正体』に発展してゆくものの原型のような感じ
なのだろうか。『時間の正体』でも、「射」とか、カテゴリー論的な操作概念が
出てくるところで、どうしても(何度読んでも)分からなくなってしまう。
とはいえ、そこにはとても重要なことが書かれているように思えて仕方がない。
要するにすごく「それを知りたい」のだけど、そのためにはカテゴリー論を勉
強するしかないのだろうか。だが、高校の数学さえ途中で放棄しているのに、
今からそんなこと可能なのだろうか。
「共同幻想論」について。
共同体がその固有の幻想の領域を持つとして、
その共同性の最高水準は「国家」だという。
共同幻想をどうしようか、というう答えが
「如何ともしがたい」という答えである。国家の廃絶など無理だ
とうなら、人間が社会を作って必ず国家を要件とするなら、
どうせ社会主義を標榜しても「ソ連」になるだけだ。
そういう意味ではsの時代と合わせ鏡だった。
「埴谷雄高がカントに震撼した」、と言うのを、私はヘーゲルだ
と述べる吉本は「共同体の復古」を目指したヘーゲルの
ポリシーに乗っかっているのだ。
どうしてもヘーゲル流から抜けられなかった。
どういうて定義か分からない自分つくった概念を使っていた。
「とうなら」
「sの」は「その」
「自分作った」
「自分で作った」
もミスタイプ
>>49 もう少し、文章を推敲してから、書き込むほうがいいと思う。
ついでに、なぜドゥルーズスレに書くのかも教えてもらえるといいな。
前スレより
537 :考える名無しさん:2014/07/24(木) 12:23:10.87 0.net
吉本隆明
「「アンチ・オイディプス」論―ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ批判」
(『吉本隆明全集撰 政治思想』)
「ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』」(『新・書物の解体学』)
特に前者は自分を唯心論、D&Gを唯物論と率直に位置付けていて興味深い。
後者は文庫化されたはずだが前者は入手困難なのが残念。
また吉本の話題で済まないが、自分は世界史的水準の知性である、
と言って憚らなかった。それなら政界に売り込みに行けばいいのにと
思い、結局日本ローカラルだった。
フランス語で東工大で銀時計をもらい、ドイツの特許事務所で働いていた
のだから語学はバリバリ。先生になってもいのに、新左翼にものすごくコミット
して、教祖みたいになった。
ただ世界に対してたった一人で拮抗してやる、という物凄い覚悟で書かれている
こと、読む者にもただならぬものが必要だった。
「新・書物の解体学」はある意味で吉本が良書を紹介、手引きしている本なので
G.Dを日本で読むわれわれには有用。「意味」については比較的好意的
な評だった。
ミスタイプ
「政界」でなく「世界」でした。
>>52 >自分を唯心論、D&Gを唯物論と率直に位置付けていて興味深い。
− 「一切は機械をなしている」というD−Gの実在理念とは逆に、「一切は幻想をなしている」とかんがえ
こういった記述から唯物論と唯心論と受け止めたのだろうが、「唯物論」も「唯心論」も注釈をつけておく必要があるだろう。
少し幅が広すぎる概念だから。
『新・書物の解体学』はまだ絶版のままじゃないかな?
文庫になったのは『書物の解体学』だけのようだ。
>>53 ずいぶん吉本に詳しいんだね。
>世界にに売り込みに行けばいい
その発想はよくわからないな。
なんで売り込まなきゃならないと思うんだろう?
>先生になってもいのに
どこかで読んだ雑文に「自分はよほど食いはぐれないかぎり教師はやらない」といったようなことを書いていた記憶があるな。
食いはぐれそうになったのか、晩年には大学の特任教授かなんかをやっていた。
先生というのは学生を教えなきゃならないし、試験問題を考えたり採点もしなきゃならない。
くだらない論文だって読まなきゃならない。
とんでもない時間のロスじゃないのかな?
生活費を自分で賄えるなら、そんなことまでして先生になんかなりたくないというのが本音じゃないのかな。
>>56 >世界にに売り込みに行けばいい
フランスは実際よく自国のものを売りにくる。バルト・ストロース・フーコー
デリダ・ガタリ全員訪日している。サルトル以来。
吉本もアメリカなり、フランスなりに注目されりゃいいのに。逆説だが、
非常に愛国的な人だった。
いいとこの上級教授の年収は1千万を超えるんだが。
楽だし、好きな時に休講してるし。
>>57 売り込んでるんじゃなくて、日本が買い込んで招待してるんじゃないかい?
日本人は西欧崇拝が強いから、相手からすれば、崇拝されて招待されたから日本に来た、ということじゃないかな。
欧米から見れば日本は文化の後進国だから、いくら自分たちの文化が行き詰っても日本の近現代文化に興味を持つ人なんかいない。
日本語の翻訳する人の層はおそらく非常に薄いし、そうした層はせいぜい日本の小説どまりなんじゃないかと思う。
フランスの哲学者と対談してもどこまで通訳が伝えられたかも疑問だし。
蓮實氏にしても、対談後の吉本から相手にあてた書簡を翻訳して実際に渡したかどうか。
蓮實氏からすれば、そんな無料奉仕までする義務もないだろうし。
先生の話にしても、生活に困窮しなければ、先生やったりして、いくらかのお金と自分の貴重な時間を引きかえにはしたくないだろう。
>>58 あれだけ強い政治色では講壇哲学者にはなるまい。
それは結構。
>日本人は西欧崇拝が強い
それがバカバカしい。寿司・和食・アニメ等日本発信の独自文化
がこれだけ大流行しており、先進国の大国なのに、
哲学が独自の発展をいてないだけだ。
吉本さん、ばななさんの大成功で思い残すところなかったんじゃないかな。
wikiより
1996年 - イタリアのフェンディッシメ文学賞(35歳以下部門)を受賞。
1999年 - イタリアのマスケラダルジェント賞文学部門を受賞。
2000年 - 『不倫と南米』でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。
2003年 - 筆名をよしもとばななに改名
2011年 - イタリアのカプリ賞を受賞。
>>59 寿司・和食・アニメ等を文化と思え、といわれると、ちょっとな。
それに食べ物は中国に、アニメはアメリカに遠く及ばないんじゃないかい?
どっちにしても、サブカルにもならない印象しかないな。
それから、吉本の政治色って、どんな色?
>>61 君は、大学に行ってないの?
もちろん行ってなくても構わないけど、「寿司・和食・アニメ等日本発信の独自文化」だなんて恥ずかしいことは海外に向かって言わないでね。
じゃ日本車にするよ。販売台数世界一TOYOTA.どう?
>>63 車は文化じゃない。
寿司・和食・アニメ等をサブカルであるとして文化の領域に入れるとしても、それほど日本はのものが世界に受け入れられているかどうかは疑問だ。
たとえば、中国人街は世界各地にあって、中華食を提供いているのは今やだれも話題にしないほど当たり前の状況。
寿司にしても和食にしても、それとはくらべようがない。
アニメについてはちょっとネットで調べてみたら、アナと雪が1300億円ほどの興行収入に対して千と千尋が300億円ほど。
アメリカの20位クラスでも600億近いようだ。
アメリカのアニメだから、アメリカ国内での収入も多いだろうが、さすがに世界規模でもまだまだアメリカに遠く及ばない。
これが世界の現状だから、なんでも日本はすごい、みたいな変な文化の発信のしかたは、ただ恥ずかしいだけじゃなくて、日本文化の掘り下げの妨げにもなりかねない。
この香具師やろ〜う、怒ったぞ。ググったよ。
「千と千尋」が300億円というのは日本国内成績じゃないか。
日本国内で「アナ」は260億円しか上がってないぞ。
こういう虚言癖のある人物が2chに多い。
もう絶対相手にしないぞ。
>楽だし、好きな時に休講してるし。
これだけで今の大学をしらないホラ話だと良く分かるw
>>66 母校は慶応だが、在学中は当時灰皿が校内にたくさん置いてあった。18歳でもタバコOK。
慶応の理事会に入れる年功の教授は、俺の年収と証券会社の支店長とどっこいだと言っていた。
他の大会社の理事と変わんないよ。
たぶん今でも。
後輩に聞いたら、だれも煙草を吸わないと言っていた。
>>64 食も車も文化じゃないなんて、全然違う。ハイブリッド車に対するリスぺクトは浸透してるよ。
>楽だし、好きな時に休講してるし。
それが何?
あるいは東大にだってサヴァティカルがあるでしょうに。
昔の大学しか知らないかわいそうなひと
>>65 「千と千尋」は日本国内だけの興行収入なのか?
世界の話しているからアナの日本と比べても意味はないが。
>>68 そりゃ、日本の産業にだっていくつかの優れたところはあるよ。
先進国なら、どの国にもいくつかの優秀と思われる産業はある。
そんなことを探し出して、日本は世界一だとかいいたがる愚かな精神が惨めなんだということぐらいは自覚しないといけない。
まさに、アジア的な精神性ということかも知れない。
今日本景気沈滞してるしね。
>>74 なんでこの人いつも説教くさいの?
どこがアジア的なんだ?
吉本隆明信者の特徴
リトルネロ
買う奴いんのかね?
ドラマ的展開ならいいんだろ?
>>76 中国でも韓国でも、自分の国が世界一、てよく言ってるみたいだ。
日本もいつの間にか同じになっちゃったよね。
ちなみに、アジア的、というのはアジア的生産様式とか、アジア的専制、とかいう意味での遅れた地域性といった意味だよ。
西欧の歴史観の一部だよ。
>>52 吉本のアンチオイディプス評は、率直な読みとしてこの本のもっとも優れた批評だと思う。
スターリン的云々というのが唐突だが、哲学史的な知識と無関係に独立して読める。
《…わたしが『共同幻想論』でやったことは、この
本でD—Gのやったのと、まったく反対のことだった。国家や社会体は「共同幻想」であり、家族は「対幻想」
であり、個人は「個人幻想」であり、この三つはまったく異なる次元の幻想として扱われなければならない。こ
の著者たちか「一切は機械をなしている」と述べているのになぞらえていえば「一切は幻想をなしている」とい
うのがわたしの理念の生産であった。この本の著者たちがいうように「一切は機械をなしている」というのが唯
物論的だとすれば、わたしは極度の観念論的だということになるし、著者たちからわたしの「対幻想」の分離と
設定が反勤的にみえるとすれば、その度合に応じて、わたしの方からはD—Gたちはスターリン的マルクス主義
のラジカルな変種にみえることになる。
D—Gが人体機械が欲望を生産するというとき「機械」も「欲望」も実在理念としてかんがえられている。ま
た「無意識」が欲望を生産する機械だというときに、この無意識は父ー母—子のオイディプスに育まれたのでは
なく孤児的なものだと主張されている。
こどもは、その最も幼いころからまるまる欲望するひとつの生命である。つまり、家庭的でない仕方で欲望の
諸対象や諸機械との間に結ばれた、ひとまとまりの関係そのものである。…
…無意識は孤児であり〔両親をもたず〕、無意識自身は自
然と人間とが一体であるところに生産されるものである…。》
「『アンチ・オイディブス』論」(『吉本隆明全集撰3 政治思想』590-1頁より)
>>80 アジア的な国は世界一を云々するという法則が有るわけですか?
アジア的生産様式とは要するに、マルクス理論で説明できないその他全てを放り込んだカテゴリー
ってマルクス主義者のジジェクが書いてた
>>82 おくれた社会は、背伸びをしたがる、ということさ。
>>83 アジア的生産様式というのは専制王政の成立をもたらす農業生産を軸にした共同体的生産様式、ということだよ。
60年代からずっと「アジア的」ということをエンゲルス・ウイットフォーゲル等に依拠して、論難してきた吉本は、
確か80年代に、アジア地域の、世界的な経済等や貿易が盛んになり、かつてNIESと呼ばれた東南アジアを含めた
「産業化」(近代化)を経た諸国(中国を含む)を「現代アジア」という概念で考えるべきだと言っていた。
アジアはずっと長い間社会経済史的に停滞している歴史のない地域(アジア的)
と考えられていた定義とは現代では異なるという認識も持っていた。
「世界的な」は「対世界的な」としてください。
私は「戦後」という時代、戦後思想というのもは、冷戦終結後には性格を変える
のだと思っています。通産省のいうのとは、とは別の意味で「もはや戦後ではない」時代にはいって
はや四半世紀たっています。ベルリンの壁崩壊の年に吉本は「わが転向」を書き、
新々左翼を標榜することになりました。(労働価値学説も放棄しました
ミスタッチすっません。「とは」のぞいて、文末かっことじ、です。
リオタールがぶち上げて「ポスト・モダン」という言葉が聞かれるようになり
浅田彰がたいしたことないと言っていたレポート的文献の中に、その起源
があるわけですが、私なりに「ポスト・モダン」を考えるとしたら、
17世紀から「啓蒙」を経て「近代化」「民主化」を実際に実現し、成熟した市民社会を
到達した結果としてのモダンな状況を所与の前提として、それにどのような対応が可能なのか
をかんがえるもの、
ということです。
成熟したモダンな社会というのは、資本主義的な成熟
即ち経済成長率が10%未満の低成長化し始めていること(今の中国)、
さらに、産業人口動態における第三次産業の相対的比率が
過半数になっているような社会です。(消費社会)
さらに冷戦後に成長したグローバル資本に関与していることなどです。
日本はそうなのですが、資本主義史上の椿事と言われた
デフレなど今は世界上どこでも先進国はそうなっています。
リアルタイムのポスト・モダンを我々はかみしめていると思います。
>>86-88 アジア的、というのはヘーゲルの歴史、つまり精神の発展のひとつの段階としての概念。
マルクスは、それを農業的な生産の段階と関連付けた。
吉本はアジア的共同体の構造を分析して、ソ連矢中国がアジア的専制の政権となった根拠を提示した。
吉本の指摘によれば、レーニンがロシアのアジア的共同体の構造を捉えそこなったことによって、ソ連と中国にアジア的専制をもたらしたと考えている。
>アジアはずっと長い間社会経済史的に停滞している歴史のない地域
>労働価値学説も放棄しました
吉本がそういう定義を考察の対象として考えていたとか、労働価値説を放棄したとかいうことは知らない。
吉本にとってのアジア的というのは、あくまでも、地域性であると同時に歴史段階としての概念。
スレ違いにも程がある
吉本隆明信者がどうして疎まれ、衰退していったのかがよくわかるサンプル
>>93-94 そうは言っても、吉本以上にドゥルーズを理解した人はいそうもないから、しょうがないだろ?
誰もそんなこと思ってないよ
>>96 思ってないのは、吉本のドゥルーズ評読んだことがない人じゃない?
誰の解説が一番いいと思うの?
三浦つとむがどうのしか言えない信者は頭悪すぎると思うんだわ
ドゥルーズ本人のテクスト読めばいいだろ
>>98 ドゥルーズも読んだけど、たいしたこと書いてるわけじゃないからね。
問いかけはあるけど、解答は見当違い。
フロイトになんか恨みでもあるのかな?
晩年にはマルクス礼賛の発言をしているらしいけど、なんでだと思う?
吉本信者はなぜ吉本に同一化をはかり、かつ吉本存命中のテクストしか参照しないのか
この怠惰がマジで理解不能
どうせこいつも老人なんだろうな
>>100 >吉本存命中のテクストしか参照しない
意味がよくわからないが、ドゥルーズは1995年、吉本は2012年だぞ?
生まれたのは、1925年1月と1924年11月。
ドゥルーズ読むのが若くて、吉本読むのが年寄りなのかい?
基本的に時代のとらえかたが間違ってるんじゃないの?
そもそも、年寄だとか若年だとかいうことが、正当性の根拠になると思ってるの?
一般的には、怠惰なのは若年層かも知れないけどねw
102 :
考える名無しさん:2014/11/16(日) 22:03:18.68 0
吉本が依拠したヘーゲルをドゥルーズは越えたのか?
(吉本は退行したのではなくマルクス唯物論の行き過ぎにブレーキを掛けたのだ。
党派性だけが理由ではない。これはヘーゲルを持ち上げるジジェクと似ている。)
ミニマルミュージックがベートーヴェンを駆逐したわけではないように、
ヘーゲルは依然重要だ。
柄谷行人だけがヘーゲルの代替物を創り上げたが、やはり賛否がある。
ドゥルーズをヘーゲルに対置した場合、むしろドゥルーズを
スピノチスト、ライプニッツ研究者とみなす必要があるだろう。
103 :
考える名無しさん:2014/11/17(月) 02:31:02.06 0
なるほど
ドゥルーズはイポリットの直弟子だからヘーゲルに取り組んでるだろ
吉本とドゥルーズの訳書しか読まないとそういうのわからないかもしれないが
そして柄谷がヘーゲルの代替物を云々は、
日本の論壇しか追ってない奴の典型としか思えないわ
>>104 なるほど。
原書を読んだ君の解説を聞かせてくれ。
>>104 マジレスしてみる。
たしかに翻訳というのは、やはり翻訳者の解釈を含めて書かれていると思う。
一方で原書を読めという人も、自分の語学力と理解力の域を出るわけではないだろう。
学者でれ在野であれ専門の翻訳者のほうが、語学の得意なそれ以外の人より、文化的な歴史に対する造詣を含めた語学力と理解力は上だと見るのが普通だろう。
素人が専門家の解釈を否定するのはもちろん自由だし、それは必要なことだとも思う。
しかし、自分の見方に専門家の理解が届いていない、と断言するには相当な根拠が必要だ。
「直弟子だから」「取り組んでる」程度の理解力では、その根拠に信頼は置けない。
日本の大学なら「弟子だから」という理由でなにかを研究することもあるだろうが、西欧ではどうだろう?
もともと関心が深い内容だからその師を選んだとか、そのポストがあいているから、とかいう理由でなにかを研究することはあるようだが。
>>107 論文集『無人島』(これは翻訳が出てますね)を丹念に読めば、
『差異と反復』がヘーゲルに取り組んでいないなどという断言がただの妄言であることは明らかだと思う
イポリットの『論理と実存』へのレビュー論文があって、そこで差異と反復のモチーフを提示している。
要するに、ドゥルーズを経年的に読んでいくだけでも色々なことがわかるわけですよ。
吉本みたいな読解はやはり批評家的な直感ベースだし、
その信者はさらに吉本の発言に感じ入って彼の言葉を反復するだけだ
私はそれにたいして「ちゃんと読めばわかるのでは?」といったわけだが、
理想はフランス語とはいえ、少なくとも日本語で出ている著作を色々読むだけでも、
変な誤解の一部は解消するはずだと信じる。
>>108 >『差異と反復』がヘーゲルに取り組んでいないなどという断言
誰が断言しているのか知らないが、それはともかく、ドゥルーズがどうヘーゲルに取り組んでいるのかを指摘しないと意味がない。
>吉本みたいな読解
どういう読解のことなのか、なにも書いてないからまったく不明。
>変な誤解
どこが変でどこが誤解であるのか、なにも書いてない。
君のレスには具体的なことが書いてないので、君が「ちゃんと読」んでる、のかどうかまったくわからない。
110 :
考える名無しさん:2014/11/18(火) 11:56:49.17 0
横からだけど吉本隆明による『アンチ・オイデゥプス』論というのは『吉本
隆明全集撰 3 政治思想』(大和書房)にもありますが、もう一つ、1987年
9月に行われた24時間連続講演イベントで、そこで宇野邦一が講演者として
出てて、当時はまだ無名に近かったと思うんだけど、講演してその後吉本と
壇上で公開対談してるんですね。『アンチ・オイディプス』をめぐって。
そのイベントはその後本にもなって『いま、吉本隆明25時』という本になっ
てる。その本で宇野と吉本の対談が読めます。231-242頁にわたり、かなり
色んなことを二人で喋ってます。amazonで1円からこの本は出てるので入手
するのも手でしょう。大和書房の方も700円台からamazonでは出てます。
ちなみにそのイベントで宇野と吉本が喋った場面は私は会場でリアルタイ
ムでみていた人間で、吉本が客席から見て右に宇野が左に坐っていました。
吉本の批判が鋭利で根底的であり、宇野は客席から見ててちょっと不快さが
出ていた気がしましたね。本になった文面からはそこでの宇野の様子までは
伺えないけども。ドゥルーズ門下生からすればここまで根底的な批判は
受けたことはなかったろうし、自分の半生を根こそぎ批判されるような
もので、吉本というのは原理的な批判ではそこまでやっちゃうから、
宇野にとって空前前後の強烈な体験だったろうと思います。
ちなみに宇野邦一との公開対談で語った『アンチ・オイディプス』批判の
要旨をいくつか抜き出すと次のようになると思います。
・D=Gにある分裂病の考え方として、病気とか正常とかの垣根をなくしてしま
えばいい。病人を許容できる社会を作ればいいというのがある。病人を開放
してしまえばそうすれば社会そのものが病人の庭になる。そこで病気だとか
いうこと自体が無意味になる。分裂病が治る治らないという悩みや問題も
無意味になる。そういう社会ができればそれは理想的な社会であるといえる
。
これは見事な概念だがそれほど立派な説得力を持っているようには見えない
。
D=Gにあるのはフロイトの無意識概念・分裂病概念への強烈な否定である。
そしてその否定は結局かつてのライヒのような、性的欲求不満の解消と革命
エネルギーとをパラレルに考える考え−社会体に無意識を解消させる−に、また
人間性が充分に開化させられないときに人間は神経症になる、また自己不全
の代わりとしての権威や権力に接近するのだというフロムの考えに近くなる。
どちらも無意識の病気を社会体の病気に置き換えて解釈してしまう考え方で、
それは自分にはよくない考え方に思える。
111つづき
・欲望を生産する機械としての人間にとって欲望の無数の連結だけが重要で
、そこで家族とかは全部異和感を催すものになってしまう。フロイトの無意識
だって家族から起因するものとすれば全部ウソだとなってしまう。論理の
矛盾を外へ外へ押し出して拡大させていく手法にみえる。
・欲望を無限に自己生産する機械として人間をとらえ、そこでオイディプス
が無意識の型をつくる家族とかは邪魔になり分裂病も治癒も無意味な問題に
してしまうあの思想にとって、実は人間の等身大には対応できていない、
身の丈に合っていない、むしろ縮小させてしまっている。自分自身の
身体像にたいし、もっと緩やかに包括させていくものでなければならない
と思う。あまりにも自分自身の身体像にたいし、凝縮させてしまっている。
凝縮させてしまう。身の丈に合わない像を理想であるかのように提示して
いくところで、マルクス主義や市民主義や、あまりよくない哲学に相似して
いく。ガタリが来日して会ったときに第三世界との連帯が必要だとか
言っていた。ああいうことを言いだす要素はあの本の中にあるんだと思う。
113つづき
少々補遺すれば、ライヒの考え方とは性的に委縮して解放できない人間は
革命にたいしても委縮して解放できないとする。そういうパラレルさをもっ
ている。フロムも自己実現の阻害が権威や権力への従属を起こすとした。
しかし社会体での自己と家族や個人での自己を混同はできない別個に
考えるべきだとする吉本にはD=Gの哲学はそれらの先達と共通する欠陥を抱
えていると思えた。
で一方宇野の方では、吉本とは違ってD=Gにはマルクス主義にはない広がり
が、吉本とは正反対にあると思えた。吉本さんのD=Gはスターリン主義という
評価を読んで相当な皮肉だなと思えた。吉本さんが家族の問題にこだわる
部分は分かっており吉本さんもD=Gも読む自分は彼らほどにフロイトの考えを
棄てるというところまでは行かない。そこは彼らにそこまで同行している
訳ではない。欲望と言うところで言えばD=Gはライヒやフロムほどは欲望
肯定ではない。欲望が革命にもファシズムにも結び付くところも見ている。
彼らは欲望の両義性というところにもっと注意深い。また、
哲学的・芸術的気質であるドゥルーズとやんちゃな闘争家で社会学者ガタリ
が共振して緩やかなモデルを作ったところに開かれた可能性があると思えた。
僕としては吉本さんとD=Gとのコミュニケーションが成立するのではないか
というところで吉本さんに是非聴いてみたかった。こういうことは言っていた
と思います。
114 :
考える名無しさん:2014/11/18(火) 17:49:15.53 0
吉本のスターリン主義云々という批判はソ連が崩壊する前は有効だったし、
吉本のフロムや特にライヒへの再評価は正しいと思う。
ただ「分裂病」も「スターリン主義」も同一性を外部の定義に借りたタームで
否定神学的にそれらに頼った吉本と違い、D&Gはそれらの抑圧をうまく解放した。
ガタリのいう分子革命は外在的な同一性に頼らない。
吉本の対幻想という概念には非常に可能性があったが、結局家族に帰着するので
欲望というエネルギーを活用出来なかった。
柄谷行人のタームで言えば、交換様式Aにあたる対幻想は、
実は交換様式D=アソシエーションをもたらす可能性があると思う。
D&Gはそうした再構成の前段階に当たる解体を成し遂げたと思う。
そこにグランドデザインを求めると吉本のように失望するしかない。
吉本に欠けているのはD&Gの社会学ではなく、フーコーの歴史学だから両者が
すれ違うのは当然だが。
最後に一言だけ。
吉本が、日本が「アジア的」であることを免れないとしたらどうすればよいか、
という事に対して出した結論、は「アジア的国家」は絶大な権力者層
は除いて、それ以外の大部分の被支配者同士の間の「配分」が
かなり平等であったことを理由に、それを「保存」「再生」すればよい、
ということだった。
その傍証が「一億総中流」だったわけです。
それから、ただちにいえることは、その吉本の観点は「格差社会」と言われる
現在においては、あてはまらないということです。
もう一点吉本が考えた「資本主義における消費の自由」
が、最大限にライフスタイルの選択として可能となる、
事を重視したのに、
日本が大衆消費社会の構築に失敗した、
ということを、晩年大変に不満だと漏らしていた。
以上吉本の晩年の日本への処方というのは
思った風にはいかなかったわけです。
>>114>>115 そうですね。D=Gへの評価として、身体像が凝縮されており、閉じている。
その閉じ方がかつてのマルクス主義に似ているじゃないか、あれでは付いて
行く気は失せますよ、という吉本の批判というか率直な言明はD=Gにたいする
批評としてはいまだに有効だと思えますね。彼らの本を読んでいて、自由奔放
な論理と同時に感じる一抹の異和感の正体を吉本は適確に掴んで提出している
。あそこを言われるとちょっと返す言葉がなかったのじゃないかと思える。
一番の特徴であると同時にまた欠陥でもあるとすれば。
それから私の身近に精神科通院していた人間がいたわけですが、本人は
顔つきも変わるし周囲はもう暗澹たるものであるし、とてもD=Gが匂わせる
ような、むしろ分裂病は外部性の証なのであるかのような、そういう
気持には到底なれませんよね。D=Gみたいな前向きな(?)気持ちになれた
人がいたのか聴いてみたい気がするわけですが。そこで彼らの言うことは
あまりにも絵空事を言ってるという気があるし、無理があると言うしかない。
また自身の変革の理論にするのは余りにもアレは過酷である。というのは
言えそうに思います。
116つづき
吉本が言っていたと思いますが日本の西欧化は思っていた以上に急激に
進行した。そこで吉本という存在がどこか古臭くなっていった。アジア的な
感性が彼にはありましたから。そこは否めない、しかし今読み返して按堵
を覚えるのはそこであるのも事実なんですね。
ただそのことと、彼の批評がもう有効性を失ったかは別で、現にD=G批判
はいまだにその度外れな腕力を失ってはいない。それもまた思想状況をみて
明らかだと思えるんですがね。
それと格差社会となった現代日本において、じゃあ何を基準に考えたら
いいかというときに、彼の言っていた大衆の原像はいまだに指標になる。
社会によって認められるか、社会的存在としてはどうかを全部にする考え方
では息苦しいし、そういう考え方に対する空隙を大衆の原像は(これは昔か
ら言ってたことだけど)提出していた。そこは捨てなくてもいいと私は
思ってます。
>>110-115 丁寧に書いていて面白いし好感が持てる。
ただ、残念なのは、どれがD-Gの考えで、どれが吉本の考えで、どれが宇野の考えで、そしてどれがレス人の考えなのかがはっきりしていないところかな。
わからないこともないけど、やっぱり、きちんと分けて書く方がいいと思う。
でも、本の紹介を含めて、とてもいいレスだね。
>>114 吉本は「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろう。」で終わる、
フーコーの「言葉ともの」を吉本は嚆矢として、「あれを読まなければ
もぐりだ」、と言って憚らなかった、ですよ。
70年代の構造主義によせる吉本の関心は甚大であって、
「フーコー」も実は分かっていたんだ、ということです。
ドゥルーズはフーコーの無二の親友であって、吉本は「意味の論理学」を
評しても、紳士的な書き方だったと思います。(新書物の解体学)
>110〜>113さん、引用ありがとうございます。
ペン一本で文壇で生きしのぐ、玄人渡世人の吉本に、
駆け出しの宇野さんが気おされて、なかなか
「なめんなよ」なんて言えそうもなく小さくなっているような絵柄ですね。
閑話休題、自分の思考実験は、A・Oを自己分析に適擁してみて
整合性があるか考えることです。(すごいことが書いてある)
適用の間違えです。
A・Oが最初に邦訳されたときは、全く分からなかったことだが、A・Oの中に「差異と反復」のモティーフが出てくるよ。
考えてみると
A・Oって、1972年発刊なのな
それがいまだアクチュアルな話題になってるところが
哲学書のいいところかも
大量消費文化の反駁になってる
まあ、ドゥルーズとガタリが「アンチ・オイディプス」で言っている
「分裂者=スキゾ」というのは、臨床実体(要するに現実の患者)としての
スキゾのことではないんだけどね。そうではなくて「プロセス」としてのスキゾ。
要するに哲学的概念。「アンチ・オイディプス」を読んだ人には
周知のことだけどね。吉本さんはその辺読み違えているように思える。
>>125 ほんとに「アンチ・オイディプス」読んでそういってるの?
D-Gは「患者」も「哲学的概念」も地続きだよ?
スキゾイドを指すとすれば解決
シゾイド人間
DGのスキゾを発達障害に置き換えるとイイという風潮
あれ何なんだろ
>>126もちろん「アンチ・オイディプス」を読んでいるから言っているんだよ。
前スレでも書いたけど、同じことを繰り返さざるを得ないな。
引用1.臨床実体としてのスキゾとプロセスとしてのスキゾの明確な区別
「私たちは、革命家が分裂症者であるとか、あるいは逆に、分裂症者が革命家であるとか、
少しも思っていない。反対に私たちは、臨床実体としての分裂症者と、プロセスとしての
分裂症をたえず区別してきた」下p.304
引用2.プロセスとしてのスキゾとは何か
「プロセスとしての分裂症こそ、唯一の普遍性なのである」上p.261
「革命家たち、芸術家たち、そして見者たちは、単に客体的であることでみちたりている。
つまり、彼らは、欲望が生産的な力能によって生を抱擁していること、欲望が欲求をほとんど
必要としていないからこそ、より強度な仕方で生を再生産することを知っている」上p.60
>>130 botから拾い上げたんじゃあるまいなw
フレーズを取り上げて区別を強調しても無意味だよ。
「プロセスとしての分裂症」は「臨床実体としての分裂症者」からしか導き出せない。
現実を離れた妄想の分裂概念など「哲学的概念」になどなりえない。
なにか「哲学的概念」なるものが空から降ってくるとでも思ってるようだが、DもGも、現実に対する「処方箋」をもとめて相手に出会ったことを忘れちゃいけない。
D-Gを現実から遊離させれば、お伽噺の哲学になるだけだ。
>>131 人がせっかく原典から引用してやったのに、失礼な態度だな。
君はまずテキストの正確な読解から始めるべきだ。二次文献や評論家の言葉じゃなくてね。
ドゥルーズとガタリが臨床実体のスキゾに何の可能性も見ていなかったことは
このほかにも無数の引用で実証できる。問題はスピノザやニーチェの描いた超人に関わる。
簡単に言えば「ルサンチマン=神経症」抜きで「いかに各能力を人格に統合せずに(分裂的に)、
力能の及ぶ限り発揮させるか」なんだよ。これが「プロセスとしてのスキゾ」だ。
まずはドゥルーズ=ガタリの根底にあるスピノザ主義を理解すべきだ。
「器官なき身体とはスピノザの内在的実体である」(AO)
まあ君とはあまり相互理解はできない気がするが、別に構わない。
物事の理解はそのまま生の様態に関わるからね。
>>131 「分裂症というプロセス」なるものが、経験からの超越論的発生でない
としたらドゥルーズの哲学の概念にはならないことになる。
私は分裂病者でないから、そのプロセスには関係がないというものがいるだろう。
そこでそのプロセスの普遍性は誰でもが経験できるものではなくては成立しない。そこで
「レインは分裂プロセスを通過儀礼の旅として、エゴの消滅という超越論的経験として
定義しているが、これは全く正しい。」その超越論的経験とは、
「この場合,質料的実在はあらゆる外延を離脱したのであり、同じく内的な旅は
あらゆる形式や質を捨てていしまったのである。こうして外においても内においても
結合された強度をきらめかせるだけである。ほとんど耐え難いこの純粋強度を
ある遊牧的主体が通過していくのだ。これは幻覚的経験でもなければ
錯乱的思考でもなく、一つの感情である。」(上p164〜165A.・O)
要するに「純粋強度の経験のプロセス」なのだ、と規定している。
「エゴの消滅」「潰滅したエゴ」というのが嫌だ、というのは
未分化な意識の暗黒に落ち込むという「不安感」によって
自我の弱い若年の方に多くに感じられるものだと思う。
「差異と反復」におけるニーチェの位置は
ドゥルーズによれば「病気」と「健康」の間に成立した
間主観性によってはじめて、哲学の概念となった「永劫回帰」
として「変身の時間」である「第三の時間的総合」に
おいて、すでに重点的に述べられている。
レインが「通過儀礼」という例を挙げているが
若い方(10代)が学校の卒業式・入学式で感じる
アイデンティティが変化する感情であり、恐れるべきものでもはないですよ。
>>132 >ドゥルーズ=ガタリの根底にあるスピノザ主義
これ、笑うところだよね?
ニーチェを研究すればニーチェにかぶれ、スピノザを研究すればスピノザにかぶれる、かな?
ドゥルーズを読んでドゥルーズにかぶれちゃった日本の研究者みたいだ。
>物事の理解はそのまま生の様態に関わる
これだけは、同意するよw
136 :
考える名無しさん:2014/11/21(金) 20:59:40.18 0
ドゥルーズは多元的なスピノチストだが、
ガタリの思考は実はカントに近い。本人は無自覚だが。
汎神論=唯物論という図式が両者をつなげている。
>>135 なんだか謙虚さに欠ける無知な人に無料で初歩的な授業をしているような気分だが、
以下の2つの引用は基本的知識に属するものなので、よく覚えておくように。
(正直、ドゥルーズ(とガタリ)について云々するなら、この『記号と事件』という
入門書的なインタビュー集くらいは読んでおいてほしいものだが、それも過度な期待なのかも
しれない)
「『アンチ・オイディプス』は、現実界の一義性を追究し、いわば無意識に
かんするスピノザ哲学を実践した本です」ドゥルーズ『記号と事件』p.292
「私たちはプロセスとしての精神分裂病と、病院向けの臨床的実体としての
スキゾの生産を区別する。このふたつはどちらかというと反比例の関係にある
からです。病院のスキゾとは、何かをこころみてそれに失敗し、身をもちくずした
人間のことです。私たちは革命的なものがスキゾだと主張しているわけではありません。
脱コード化と脱領土化によって成り立つスキゾのプロセスがある、そしてこの
プロセスが精神分裂病の生産に変質するのをさまたげることができるものは、
革命につながる活動をおいてほかにない、そう言いたいのです」ドゥルーズ『記号と事件』p.54
話をぶった切って悪いけどみんな電子書籍ってどーよ?
オレは一年前までは蔵書に埋もれなくていいとよろこんでたけど
『批評と臨床』、Kindleで読んでもピン、とこないんだよね
何より線引きするのも、付箋つけるのも、ページ数把握するのも面倒
今は暇つぶしの小説さえも文庫本で買うに戻ってる
>>138 今のところは、だけど、電子書籍では読み捨てのものしか買わない。
(軽いエンタメ、コミックスなど)
理論的な著作は紙の本で買わないと使いものにならない。
読解のために文章にシャーペンで細かく区切りを入れながら読むし、
再読のときその区切り方がおかしければ直すし、余白にメモ書きをするし、
場合によっては必要なところをコピーしたりするからね。
>>139 だよね
だから自炊で蔵書のほとんどを処分できたってよろこんでる奴らの気が知れない
>今のところは
と言うとおり、技術の進歩でどんどん変わるのかもしれないけどね
このスレはドゥルーズを凄くよく分かっている人(『差異と反復』を読む、を
やっていた頃の人たちなど)と、全く分かっていない人と両極端なんだよね。
例えば、「ドゥルーズとガタリの根底にあるスピノザ主義」と言った場合、
基本的にはこれは間違いようなく正しいんだよ。それを認めたうえで、問題に
すべきことは、『差異と反復』から『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』に
かけて提起されている「実体と様態のステータスの逆転」をどう解釈するか、なんだよね。
つまり、ドゥルーズという人がかなり徹底したスピノザ主義者だったということは
まず認めたうえで、スピノザ哲学の「どこ」を「どんなふうに」変形して、自身の哲学を
作っていったかという問題を取り上げなくてはならない。
(ドゥルーズが『アベセデール』で、「自分は本を書くとき必要な知識だったことは、
本を書き終えると忘れてしまう。ただしスピノザだけは例外で、すべて暗記している」と
述べていることなどに留意)
142 :
考える名無しさん:2014/11/21(金) 22:57:36.55 0
なにげに勉強になった。
141氏の言ってることは小泉が「Dと狂気」でもいってましたね。
>>141 そこのところ実はどうなっているか、お聞きしたいね。
「資本主義と分列症」について、例えば江川隆男先生は、器官なき身体にこだわりを見せ、スピノザ的「存立平面」に対して
「器官なき身体」が先行しているかのようなDGの記述になっていて、、確かにそういう風に見えるそこのところをどう考えるか、
ということについて、結論が出ていないような。
「差異と反復」で実体の表現は「属性」についてではなく、「様態」について言われるべきである、とドゥルーズの変更があったが、
A・Oいおいてはまだ単数形の「実体」がM・Pで複数形になっているとかいうことなどの論点について教えてください。
>>143 いや、この問題は自分自身考えているところで、明快な解釈はできていないんです。
大元は『差異と反復』の「一義的なものが純粋肯定の対象へと生成するために
スピノザ哲学にただひとつ欠けていたのは、実体を諸様態のまわりで回らせること、
すなわち一義性を永遠回帰における反復として実現すること、これであった」という記述なんだよね。
同書で先行する記述は「実体は、それ自体、諸様態について言われ、しかも諸様態についてのみ言われる
という条件が必要となるだろう」だね。この「実体と様態のステータスの逆転」が、ドゥルーズによる
スピノザ哲学の「変形」。
そしてこの変形のヴァリエーションが『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』で変奏されていく。
スピノザ哲学を知っている人なら、この変形はなかなか受け入れ難いところがある。
正直言って、非常に難解です。この問題については、やっぱり江川隆男さんが『アンチ・モラリア』で
一番徹底して追究していると思います。
144の補足。
ドゥルーズは『スピノザと表現の問題』で明確にしたスピノザ解釈、
すなわち「実在的区別は数的区別ではない(諸属性は実在的区別だが、
それらの区別は唯一の実体について言われるので、数的区別ではない)」
を『差異と反復』で、スピノザによる一義性の大きな進歩として称揚している。
そしてこの実在的区別という属性の特性を『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』で
様々に活用している。この点については江川隆男さんが『アンチ・モラリア』で
詳細に追究している。ただし、先述の「実体と様態のステータスの逆転」が
あまりに根本的な「変形」なので、両者を総合的に理解するのは難しい。
ドゥルーズ晩年の『哲学とは何か』では、内在性という点でスピノザは哲学者の王である、
とまで称揚しているので、なおさら解釈が難しくなる。
>>137 デリダとは違う方向で言葉と格闘するD−Gの言葉尻をピックアップしても何もわからないよ。
インタビューものを読むなら、海外のインタビュアーの突っ込みも見ておくことだね。
日本のモミ手インタビュアーやどっかの先生と、少しは違う。
もっとも君の理解のレベルでは、なにをどう読んでもお笑いお伽噺しか出てこないだろうなw
>>146 『記号と事件』はまさに「海外のインタビュー集」なんだが、君は何を言っているんだね。
ドゥルーズは来日したことがないから「日本のモミ手インタビュアーやどっかの先生」
の出番は一切無かったんだが。例外は弟子の宇野邦一に宛てた公開書簡くらいかな。
悪いがこちらは『無人島』も『狂人の二つの体制』も読んでいるし、『交差的伝記』も読んでいる。
君に「無知を隠蔽してくれる避難場所」は無いよ。
そいつは「我が吉本隆明センセイだけがドゥルーズを理解している」と考えている
>>147 君の読解力は底なしの低レベルだな。
「海外のインタビュー集」に「日本のモミ手インタビュアーやどっかの先生」の出番があるわけないだろ。
個別の話と一般的な話の区別すらできないのかよw
だから、君がなにをどう読んでもお笑いお伽噺しか出てこない、と書いたんだよ。
>>149 ドゥルーズもドゥルーズ=ガタリも読んでいない人はお引取り下さい。
吉本隆明読めば十分でしょw
>>147 >悪いがこちらは『無人島』も『狂人の二つの体制』も読んでいるし、『交差的伝記』も読んでいる。
>君に「無知を隠蔽してくれる避難場所」は無いよ。
これだけ読んだって言って、イキガれるよなもんかね。
いずれも小品集だし、ドッスは哲学書じゃない。
なんで「差異と反復」「資本主義と分裂症」等主著とみなされる本から
引用しないんだろうか。読んでないか、理解できないか、どちらか
ということなんだろ?
154 :
153:2014/11/22(土) 14:48:09.65 0
155 :
153:2014/11/22(土) 14:57:28.71 0
>>152 なお、誤解があるようだが、
>悪いがこちらは『無人島』も『狂人の二つの体制』も読んでいるし、『交差的伝記』も読んでいる。
>君に「無知を隠蔽してくれる避難場所」は無いよ。
と書いた意図は、ドゥルーズ(ドゥルーズ=ガタリ)の著作は全て読んだ上で、
死後出版の『無人島』『狂人の二つの体制』、及び伝記的事実を纏めた『交差的伝記』も
読んでいる、ということを言いたかったものだ。レスには文脈があるから、上述のレス番の
流れを汲み取ってもらえると幸甚。
ガタリの単著は数冊しか読んでいないけどね。
156 :
153:2014/11/22(土) 15:11:51.02 0
追記:もし仮に
>>133と
>>152のレス主が同一人物であった場合、
ドゥルーズの超越論的経験論に対する無理解から、
「ジル・ドゥルーズ研究」なる無益で混乱したブログ主かも知れない。
そうであった場合、対話は無駄なので打ち切ります。
レス主が全然分かんないので、変なことを言ったかもしれない。
いったい何人の人が書き込んでいるのか?
153番赤い字になってんな。
いいんだけど、プロセスとしての分裂症が「哲学的概念」であるためには、
ドゥルーズの場合、実在的経験から発生し、総合された初期条件としての経験の再現性が
なければ「概念」にならないという立場でね。
「分裂症患者」と一緒にしてもrsっては困る、みたいなつまらんことが、ちらほら見える。
rsでなく「ら」です。
勘違いしたかな。挑発してるのは146が発端と分かった。
私は「ジル・ドゥルーズ研究」というHPを持っていますが、かつて、ドゥルーズに関するHPがほとんどなくて、
修士号をいただいたことの、社会還元でボランティアで作りました。ブログではないので、私のものではなさそうです。
「ジル・ドゥルーズ研究」のHPはこのぐらい書けばいいか
いうところで、止めてますし、メンテもしてないです。
ブログではないのですが、この機会にのご意見ありましたら、この場をお借りしてお受します。
超越論的経験論についてはこの前の前のスレに展開していますので、解決済みなんですが
カント主義にの勉強をなさたかたに異論が多い(アプリオリ)ので、
それに関してもお答えします。
その人文学板で記号論のタームに触れたレスに対して
IT用語を乱用して文学理論もどきをやるとソーカル事件になるとか頓珍漢なレスをしてた人と思われる
真剣に相手するだけ無駄
吉本隆明信者とかソーカル振り回し厨とか、わかりやすい厨房が沸きすぎ
>>165 それでは、振り回されドゥルーズ信奉者の登場に期待しよう。
ところで、ドゥルーズ研究して現実を変えたり、そこまでいかなくても現実を説明できた人って、いるの?
まず実際に分裂病として現れる症状と、D=Gが書いている分裂病の理念は
見分けはつきません。そこでドゥルーズが「分裂病礼賛ではない」と言っている
としても、それは、じゃああの言説は何か。あれは少々読めば誰にでも分かる
分裂病礼賛でしかない。ちょっとおちょくってる、でなければ読者を舐めている
としか思えませんね。D=Gの最大の特徴であり、そこについて批判があがった
(であろう)ことへのあからさまな言い訳に思えます。
人間が理性的であろうとして硬直していくメカニズムが、あの哲学で
変わって行くのか、疑問に思えますね。現実適応として縮小していくのが
現代人の存在だとしたら、D=Gの場合、逸脱を試みて知的にならなければ
ならず、知的にならなければならない分、余分な意志が供給され、無理が
生ずる。無限な存在という知的な枠に嵌めこもうとして分裂病者の妄想
にまで依存せざるをえなくなった。
ドゥルーズと言う人はサルトルに魅せられていたらしいけども、サルトル
にあった、存在を進歩的な枠に嵌めこもうとして窮屈になっていく悪しき傾向
がドゥルーズには継承されているようにも思えます。だからあれは新しい
進歩主義、実際の人間存在に飽き足らなくなって実際とは違う勝手な像を作
り上げるというのは進歩主義の特徴ですが、その轍を踏んでるように見える
訳です。
20世紀的な哲学的アポリアの殆ど全てに回答を用意したという点で
ドゥルーズによって世界(現実)に関する哲学的パースペクティブ
が与えられたと、思っています。
解釈と説明・実存と構造・存在論と認識論等のテーマーを網羅的
に体系に中に盛り込んでいるため、どのような生き方をしてもいいが
何かを考える際に体系を用いてすることによってのみ得られるメリットが
ドゥルーズにもあてはります。
社会改革というのを、個人の立場からできる範囲で、
自分で選んだ選択肢において「実践しろ」というのが
「資本主義と分裂症」です。条理化した政治制度自体が
批判されているのだから、党派なんかあえて作らないよ、
という立場での発言はしているように思います。
>>168 >社会改革というのを、個人の立場からできる範囲で、
>自分で選んだ選択肢において「実践しろ」
それだと、新自由主義者のように金儲けが一番大切、という考え方には対抗できないんじゃない?
彼らは十分に社会改革的な立場だし、分裂症と十分に無縁でいられるよ?
>>169 >金儲けが一番大切
というのは、資本主義の自然現象です。
「リゾーム」に対して吉本が「そんたこというならお前らに党派性など得られないぞと言いたい。」
と評していましたが、そうしたもの自体も当然織り込み済みです。
なんかまた詰まらんレスが増えてきたな、ついていけんわ。
まあできればドゥルーズ(&ガタリ)の著作からの引用を付して、
それについてコメンタリーする、という形式の方がいいんじゃないか。
167,168みたいなMYドゥルーズ感想文を書かれても、どうしようもないから。
>>170 本筋とは無関係だが、吉本が党派性を求めるなんてことがあるのか?
>>171 詰まらんレス、と思うのも君の自由だし、著作からの引用、が大切だと思うのも君の自由だ。
読んだ人間にとっては、そっちのほうがほとんど無意味な感想文だけどね。
>>168 >社会改革というのを、個人の立場からできる範囲で、自分で選んだ選択肢に
>おいて「実践しろ」というのが「資本主義と分裂症」です。
『千のプラトー』のどこでも任意に開いて読むと、特有な概念によって
ではあるけども、〈順列的な集列体-不規則に運動し脱していく分子〉との
対比があらゆる角度から描かれて行く。リゾームとか脱領土化とか傍層とか、
とにかくそういうものですね。でサルトルが『弁証法的理性批判』で、あれ
は絶版だしほとんど読まれないだろうけど、書いているのはもっとマルクス
主義的ではあるけど、やっぱり同じ主題です。D=Gのやっている上記の
対比や概念ってどっかで無論語彙は違うけど、見たモノだという気がした。
サルトルの先の著作での主題も生産体制で規則に従う集列体が緩やかな
集団となりやがて制度的な集団となる。中断したまま放棄された著作だけど、
革命集団の発生と発展を集列体からのそれこそ脱領土化として描いていく。
そこから見返すと、D=Gにはサルトルの影はけっこう落ちていて、意識もして
いたのじゃないかと思えてくる。彼らが分子運動みたいに書いているとき
の文体、滑って行く思考の感触がそっくりなんですね。
だから
>>168氏が「実践」というけど、サルトルが書いたのも構成されていく
立場から構成する立場への逆転であり物質の支配を脱して行く自由の実践です
。
>>168氏が「社会改革の実践」を読みとったというというのなら余計に根底
に流れているのはサルトルだというところも納得はいく。サルトルというのは
自己を条件づけるものとしての歴史や無意識やが拘束すること自体を疎外だと
して否定してしまう。D=Gがオイディプスを否定する手つきとやっぱり似て
いる。そういうところもサルトルの影響が垣間見える。人間の本質を否定
するのがサルトルの本領だけど、それも同じでかつ理想形にすぎるのでは
ないかというところまでにていますね。
174ですが。話は変わってサルトルと言う人は元々右目を幼少期に失明し
それはあの有名な斜視-やぶにらみ-になった。で彼は左目だけで生活していた
が、1970年代前半に左目に眼底出血がありおぼろげにしか見えなくなった。
彼の自力での読書や執筆はこの時点で終わった。加えて体力全体も晩年には
衰え一時的な記憶喪失になったり排泄が制御できなくなたったりもした。
身の回りの世話を他人に任せ、1980年まで生きた。ちなみに彼は1970年代
半ばのインタビューでは「老いとは私にとって他者なのさ」と言った。
ドゥルーズの最期に付いて他人の言説を引用している人を見つけました。
《我々はむしろバロウズがヘミングウェイについて述べた言葉を真似て、
こんなふうに言ってみたくなる。色々言いたいのは分かる、しかし、あれを
やるにはガッツがいるんだ。》
《ひっそりと独りだけで行われた一度限りのアスレティズム。記録もなけれ
ば、観客もおらず、競技名さえないが、一度だけ実施された動作の内に何度
となく試されたプロセスのすべてが反復されている。少なからぬ人々がドゥ
ルーズの死に清々しささえ感じることが出来たのは、彼の自殺が本性におい
てスポーティだったからに違いない。》
(澤野雅樹『死と自由 フーコー、ドゥルーズ、そしてバロウズ』(青土社
) p.205-209)
この澤野という人が「清々しい」と言っているのを読んで、なんでそう
無理して締めくくろうとするのか。疑問を感じないわけにはいかなかった。
私などは飛び降り自殺というとアイドル岡田由紀子の自殺、あの直後の
脳漿や脳味噌があたりに飛散した写真を連想するわけですが、あれをみて
「清々しい」とは一度も思えたことはない。ただ悲惨。それだけしか
なかった。
175つづき
また、D=Gの著書というのが、本人たちにとって何だったのか。何らかの
力を与えたのか、それとも無力だったのか。少なくとも闘病で苦しむ
Gilles Deleuzeにとって無力ではなかったのか。そもそも個人の生と死や病
というものをどうとらえていたのか。あるいはそういうところには思考を
伸ばさなかったのか。彼が愛読したというサルトルは「老いとは他者なのさ」
と言いながら衰えて他人の世話になりながら死んだ。欠如の乗り越えを
哲学し、対他存在を引き受けてきた彼の哲学にふさわしいと言えなくもない。
サルトルはドゥルーズのように自己を放棄は最後までしなかった。ドゥルーズ
の哲学とはでは自己放棄を許すものだったのか。そういう疑問を持っていた
ところへ澤野雅樹と言う人のあの文章を知り、ああいういたずらな美化は
一時代を築いた哲学者の死にたいし不誠実ではないかと思えた。少なくとも
投身自殺するならば、ああいう論争的な本を書いた人間は、あの威勢の良い
哲学に比べてなんと弱気で逃げ腰で情けない。そういう見方をされることは
覚悟しなければならないし自分の闘病生活や自殺が自分の哲学にとって何な
のか、位置づけるくらいのことは考えておかなきゃ仕様がない。でないと
ああいう美辞麗句でまとめる人間がでてきてしまう。また反対に、ああいう
美辞麗句でいいのか、と疑問を投げる人間が出てくることは避けられない。
そういうところがどうも迂闊だし理論が自身を捉えてはいなかったのでは
ないか。そういう理論をばらまいていたのではないか。そういう疑いを持っ
てしまう訳です。
177 :
考える名無しさん:2014/11/23(日) 20:51:30.66 0
邦訳『分裂分析的地図作製法』(ガタリ、Felix Guattari. Cartographies Schizoanalytiques)
50頁の図をわかりやすく改変するなら、以下になる。
実在的
|
現実的__|__潜在的
|
|
可能的
これはカントのカテゴリー論の構図と同じだ。
柄谷とも近いが柄谷は右下をX、空白にすることで神秘主義を避ける
ドゥルーズはこの図を別方向から見る
内部から、斜めから
内部から見る時はベルクソンに
斜めから見るときはスピノザに依拠する
細部を見る時はライプニッツか?
色んな哲学者の名を引用し語ることと、その言説が何を捉えているのか
或いは実はただの衒学であって何ももたらしてはいないのか。
この問いをドゥルーズと言う人は、或いはドゥルーズに影響されたであろう
書き手は思い出させてくれたとは言えそうです。しかし実はこの問いこそが
哲学が絶えず思い起こさなければならないものであって、哲学者の死にざま
や老い方というのはそこに生前に書かれた言説がどう影を落としているのか、
実は自己の現実を捉えそこなった言説しか残さなかったのかもしれない
そこを見て行く素材にはなるのだろうと思います。
自己の現実とは縁のない衒学をしか書けないならば、哲学は無でしかない。
そういう無が書かれて行くことにも鈍感になってしまえばもう付ける薬はない
。ドゥルーズと言う人はその問いを思い出させてくれています。最後に
自己の現実から逃げるように死んでいった哲学者にとって哲学とは逃げを
正当化してくれる処方箋でしかなかったのだろうか。或いは死とは彼にとって
生成変化の一種だったのだろうか。そこで地面にたたきつけられて脳漿を
脳味噌を飛散させ、多量の血を地面に流している、手足を骨折させ奇妙に
折れ曲がらせている自己が。疑問は尽きません。
「ああ、私の健康状態はよくない、呼吸機能にあまりにも障害をかかえている
ので、ひとの訪問に応じることさえできない。しかし、それでもなお、よき人生
であります。しかも私は、毎日仕事をすることができるのです」
(ジル・ドゥルーズから財津理への93年1月付の手紙、『哲学とは何か』訳者あとがきより)
ドゥルーズはこの約3年後の95年11月に自宅のアパルトマンから投身自殺をする。
また、別の書簡でドゥルーズは呼吸補助機のことを「この地獄の機械」と呼んでいた。
私は単純に、ドゥルーズは苦痛が限界に達したから、そして仕事をすることが出来なく
なったから、投身自殺をしたのだと思う。延命治療が発達していなければ、ドゥルーズは
とっくに死んでいたのだ。17世紀、肺の病で静かに亡くなったスピノザのように。
>>179 ドゥルーズの使う概念を使って彼の投身自殺を描いてみると、不謹慎かも
しれないけども彼の想像した概念なわけだから許してもらえると思ってますが。
自分の生を身体を脱する行為は脱領土化、脳漿が飛散し全身骨折で手足は
折れ曲がり、内蔵破裂したその身体は器官なき身体、モノと生命の中間である
死体とはカテゴリー化不可能な存立平面といったところでしょうか。
こうしてみると彼の想像した諸概念が、どうも最期の彼の投身自殺遺体を
暗示しているようにも思えるんですね。ドゥルーズには自殺願望が終生
付き纏っていたのではないですか?そういう感じがしてくるわけですが。
私が思いつきで書いた彼の諸概念と投身自殺遺体との照合が異常に
嵌まり過ぎているいる。それはどういうことなのか。
ドゥルーズの中には自死への憧れが終生あったのでしょうか。そう考え
れば彼の諸概念の源が、ぼんやりと見えてくる。いわば遺体こそが人間
にとって本来の姿なのだ。そう考えていた人間としてドゥルーズを再構成
することはできるだろう。モノと人間とをごっちゃにしている方法は
D=Gの本を読むものにとって必ず訪れる異和感であるし、例の「機械」という
タームからしてそうですね。モノとしての人間とは死体が最も典型的な
例証であるはずです。
ドゥルーズの哲学とは死体となった人間を基にして哲学していた人だとは
言えないでしょうか。
ばかばかしい
180つづき
機械とは動いている。しかし死体は動かない。そこで考え直すと、死体と
なった人間が再度動き出した。それは冗談めかせばゾンビになりますが。
ゾンビがあの哲学の主題なのか(笑)しかし本気でそう考えていたのなら冗談
にはならない。ゾンビとはたしか不死ですね。で、人間か物かも分からない
怪物。
怪物といえばD=Gは狼男とか、怪物への人間の変身を称揚し、こういうこと
は即自的にみるべきであって、これを精神分析したがるフロイトを分かっ
いないとしていた。これも怪物への変身をまともに受け取るべきであり
人間をもとに考えるべきではないとしていた彼らの哲学。要するに
「生きている理性を備えた人間」とは脱領土化されるべきとしか言うことは
ない。それが彼らの哲学だった。
そこから考えれば投身自殺するドゥルーズの姿は何ら、彼の哲学と矛盾
するものではない。そういうことになるでしょうか。
>>182 グロ仮面で挑発的だけど、面白いな。
それだと、ドゥルーズは、あれだけ敵意を剥き出しにしていたフロイトに負けたってことになるかな。
>>182 >怪物といえばD=Gは狼男とか、怪物への人間の変身を称揚し
事実誤認。症例「狼男」の呼称の由来は、「不安夢の中に多数の狼がでてきた」
ところからであって、いわゆる「半人半獣の怪物狼男」とは何の関係もない。
当該箇所のドゥルーズ=ガタリの論旨は、「不安夢の中に登場した狼は群れで
あったにも関わらず、フロイトは一匹の狼(父)に還元してしまう、これは誤りである」
というもの。(MP、第二プラトー表題参照)
あなたの立論は、大きな事実誤認に基いているので、全く無意味なものです。
マイ・哲学を語るのは自由ですが、ドゥルーズと関連させるなら、テキストをちゃんと読むことですね。
>>184 >事実誤認。症例「狼男」の呼称の由来は、「不安夢の中に多数の狼がでてき
>た」ところからであって、いわゆる「半人半獣の怪物狼男」とは何の関係も
>ない。
>当該箇所のドゥルーズ=ガタリの論旨は、「不安夢の中に登場した狼は群れ
>で あったにも関わらず、フロイトは一匹の狼(父)に還元してしまう、こ
>れは誤りである」というもの。(MP、第二プラトー表題参照)
>>184さんの読みが実は誤りであると思いますね。というのは以下にあげる
テキストを読めば分かります。
歯科医によって「あなたは強く神すぎるのです」と言われた〈狼男〉の
エピソード、またその歯茎が狼に特有な小さな孔に覆われていたこと。が
例示された後、こう続いて行きます。
185つづき
《卓越した強度としての顎、尖った強度としての歯、そしてゼロへの接近
にほかならぬ膿胞に覆われた歯茎、このような領域における一つの多様体の
瞬間的な把握としての狼。それは表象するもの。代理物ではない。それは
一つの‘私は感じる’なのだ。私は自分が狼になるのを感じる。(中略)
問題は表象ではない−自分が狼であると思いこむとか、狼として自分を表象
するとかいったことでは全然ないのだ。狼、狼たち、それはもろもろの強度、
速度、温度、可変的で分解不能な隔たりである。それは蟻集であり、狼瘡化
である。》
《脱領土化された強度が非人間的なものになること、孔になること、それは
錯綜した、互いに異なるさまざまな線にしたがって自己を脱領土化すること
なのだ。》
『千のプラトー』2008年5月10日第12刷 U狼はただ一匹か数匹か?
D=Gは単に分裂病者における夢想を症例として取り上げているのではありま
せんね。夢想という限度を超えた変身がそこでの主題です。
であるからこそ「表象が問題なのではない」「人は狼瘡化する(すなわち
狼のような荒れた肌になる)」「脱領土化された強度が非人間的なものになる
こと」と書かれるわけです。あれが単なる分裂病者の夢想に止まらず夢想
を超えた変身を意味し、それが強度や脱領土化という彼らの概念に結びつい
ているから問題になる訳です。。言い換えればあれは単なる不安夢ではなく
実際に変身すること、そういう可変性、分子的多様体を意味する。
>>184さん
の言うようないわば保守的な世界観ではない。D=Gの哲学はそこが過激であり
読むものを「?」と訝らせるのもそこにある。
>>184さんの言うようなものな
らつまり単に妄想だけの話なら問題はないしかしそうじゃない訳です。
失礼。書き間違い。
>>185中
>歯科医によって「あなたは強く神すぎるのです」と言われた〈狼男〉の
は
歯科医によって「あなたは強く咬みすぎるのです」と言われた〈狼男〉の
の誤りです。
>>185 まず、
>怪物といえばD=Gは狼男とか、怪物への人間の変身を称揚し、
という読解が端的に間違っていることを認めて頂きたい。
当該プラトーには<狼(の群れの一員に)なること>については触れているが、
<狼男>や<怪物>になることなど全く書かれていないのですから。
(<狼男>と<狼(の群れ)>は全く別のものです)
次に、「なること=生成変化」は「変身」などではありません。
つまり、物質的(延長量的)な変化ではないのです。
「動物への生成変化は、動物を真似したり模倣したりするにではないにせよ、
かといって人間が「現実に」動物になったり、動物が「現実に」ほかのもに
なったりするわけでもないことは明らかだからである」(MP河出文庫(中)p.158)
ここから生成変化は、
>実際に変身すること、そういう可変性
ではないということが明白になります。
では、生成変化とは具体的に何か、ということについては、私もまだ十分に理解
できているとは言えません。個体の本質をなす強度、強度に基く関係=比、関係=比に
基く微粒子群の構成、そして分割による強度(内包量)の性質の変化、その変化に基く
関係=比の変化、関係=比の変化に基く微粒子群の(部分的)変化=<生成変化>という
見通しはついていますが、まだ勉強の途中です。
189 :
188:2014/11/24(月) 17:03:57.92 0
追記:『千のプラトー』における「なること=生成変化」論について、
いくつかの傾向性を挙げておきます。
1.生成変化はマイナーなものへ向けてあり、メジャーなものには向かわない。
2.生成変化は規範的な規定からの分子状の部分的逸脱である。
3.生成変化の極限は<知覚しえぬものになること>である。
>>188 まずあの本の2と10での生成変化には違いがあるように思えますね。2では
自己を脱領土化する強度として書かれる。また、実際に狼に形態は変化する
ように書かれている。そうですね。
一方10では異なる群れに感染したり分子が流入し合ったり、あるいは
魅惑されていくこととして〈なる〉が考えられる。
そこで書き方として、両方に取れる余地が
ある。私や貴方を混乱させるダメな書き方がされている訳です(笑)
10でも、アレクサンドル・デュマの『狼の首領』を引用し説明するところ
で形態上の生成変化とおぼしき記述がある。これは記述上の失敗や矛盾では
なければ、生成変化でもモノによっては形態上の変化にも及ぶ、というふう
に取らざるを得ない。また、形態上の変化はまったく考えられない生成変化
とは、それでは情動的な一体化とどこが違うのか、訳が分からない。一言で
言えば下手ではないか(笑)そう思います。
それと、個体が何かに生成変化すると言う場合、じゃあその〈それ〉は
どのように選択されるのかという問題が挟まってくる。その選択は無限な
ものではないし、可能性は実は限られている。彼らの言うように異種の群れ
との遭遇によって生成変化していくにせよ、自己が感染を拒否する場合も
ある。その場合の可能性は無限ではないことについて、やっぱり一言すべき
ではないかと思うし、そう何にでも生成変化は起こる訳ではない。そこが
リアリティの面で稀薄なところ、あまりに内的歴史がなきものであるかの
ようであるところであの理論のリアリティが稀薄になっているところはある
と思います。
あとあの情動の交換としての生成変化の理論とは、ひどく単純なことな
ようにも思え、その単純なところを大袈裟に挙げているような、大仰なもの
にも思えましたね。体系的理論で説明すればあのようなものになるだろうけ
ども。
191 :
188:2014/11/25(火) 01:14:33.62 0
>>190 ドゥルーズ=ガタリが生成変化を積極的に規定している箇所を挙げておきます。
「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、
みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから
微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を
確立することなのである。
そうした関係〔微粒子のあいだの運動と静止、速さと遅さの関係〕は、自分がいま
<なろう>としているものに最も近いものであり、これによってこそ生成変化が
達成されるのである」(MP中p.234)
ここで言及されている「微粒子のあいだの運動と静止、速さと遅さの関係」は、
ドゥルーズが『スピノザ−実践の哲学』で、スピノザの『エチカ』の個体化論を
解釈したものです。その背景には『スピノザと表現の問題』の精緻なスピノザ読解が
あります。MPは非常に複雑に入り組んだコラージュのように書かれており、その読解は
私には楽しいものです。
>>191 >複雑に入り組んだコラージュのように書かれており
君の解釈なんだろうが、入門書にも同じフレーズが書かれているのが残念だ。
>>192 そもそも『差異と反復』の時点でドゥルーズ自身が「哲学史は絵画における
コラージュの役割にかなり似た役割を演じるべきだ」と宣言しているんだけどね。
あとは、実際にそのコラージュ的な構成を実感できるかどうかでしょう。
入門書じゃ実感できないよ。
>>193 ドゥルーズの著作に勝る文体の「入門書」なんて、お目にかかれないし。
哲学のコラージュ(笑)
さすがpoetは違うね
>>193 入門書がいいか悪いかじゃなくて、入門書と同じフレーズを使う理由はどうしてかな、ってことを言いたかったんだけどね。
ちょっと真似したくなるカッコいいフレーズだと思ったんだろうなってこと。
そういう感じ方が残念だと思ったんだ。
「入門書がー」と偉そうに突っ込んでおいて
ドゥルーズ自身の文章を自分が読んでいなかったことがばれたので
必死ですねw
>>196 旧版しかないんだけれど、「差異と反復」はじめに(P17)に
ドゥルーズ自身が「「哲学史は絵画におけるコラージュの役割にかなり似た役割を演じるべきだt、私たちには思われる。」
という一節があり、入門書がこれを引用しているだけなんだけどね。
ミスタッチ
「ドゥルーズ自身の」
「演じるべきだと」
見苦しくて失礼。
>>197>>198 そんなに必死になるなよw
>複雑に入り組んだコラージュ
他人の入門書のフレーズを真似してるのは間違いないんだから、これ以上恥を晒すなよw
ドゥルーズの思想の根幹に『スピノザと表現の問題』
があるという指摘は身に染みる
オレが唯一、読み通せなかったドゥルーズ本だ
それに気づかせてくれたのには感謝してるし所見をもっと書いてほしい
202 :
考える名無しさん:2014/11/28(金) 13:30:36.82 0
コラージュはガタリの言う外在的な脱領土化、モジュールと同義。
内在的な脱領土化もあり、ガタリはそれをフラクタルと呼ぶ
無論ドゥルーズもフラクタルを導入している
204 :
考える名無しさん:2014/11/28(金) 17:49:01.52 0
これまでのまとめ
>>191 「入り組んだコラージュ」というフレーズ
実は『差異と反復の引用』
>>198 それに対して
>>192 >君の解釈なんだろうが、
この段階で「君の解釈」と言い、
ドゥルーズの引用だと気付いていないことを自白
>入門書にも同じフレーズが書かれているのが残念だ。
入門書の引用じゃないのか?と当てこすっている
ここから導かれる妥当な結論
・192自身がドゥルーズを読んでおらず入門書しかしらない
>>205 ひとつだけ教えてあげる。
>哲学史は、絵画におけるコラージュの役割にかなり似た役割を演じるべきだ
これはフーコーへの挨拶だよ。
フランスには「ディドロ」以来、哲学者は一生一度は絵画論を論jじる
伝統があり、ドゥルーズ自身「ベーコン」論があって、「プリ」にはマニエリスム
が論じられている。
フーコーにはラスメニナスのほか、モネ、マルグリュット・デュラスを論いているし
デリダもご多分に漏れずよくしr知らないが「絵画における真理」という本がある。
セールなんかも当然たくさん書いてる。
絵画に切り口をつける哲学者はフーコーだけとは限らない。
最近増えた分析哲学の連中はやらんよ
>>201 迂遠なようですが、まずスピノザの『エチカ』を読んで、
スピノザの用語法に慣れてから、『スピノザと表現の問題』に
取り掛かると、かなり分かりやすいと思います。
『エチカ』の邦訳は岩波文庫版と中公クラシック版とがあって、
訳の精確さでは岩波がいいですが、『スピノザと表現の問題』の監訳者が
中公クラシック版の『エチカ』の訳者なので、『スピノザと表現の問題』を
読むためには中公版がいいかもしれません(訳語が統一されるので)。
『スピノザと表現の問題』では、様態の本質は「強度量(内包量)である」という
ドゥルーズの解釈が斬新ですし、「実在的区別は数的区別ではなく、数的区別は
実在的区別ではない」という、後に器官なき身体の規定で決定的に重要な考え方が
登場しますから、お読みになって損は無いです。
>>210 丁寧なレスありがとう
中公版はもっているけど、興味あって今日岩波版を買ってきました
とりあえず『エチカ』を何度も読み返して何とか咀嚼してから、例のモノに取りかかります
老いや病にせよ個人が個人として担う以外にはない。また何かに感化された
り魅惑されたり惹かれる、一体化していく過程にせよ、個人における自然の
磁力や反発、というものがある。ここで「個人的な言表などない」という言い
方は、無論個人というものの構造を考えることは必要だけども、該当しえない
と思いますね。個人という概念を一掃したがってるところがいかにもポスト
モダン思想と言う感じだけど。無理がある。個人というものが異なる力や分子
やの交差するだけの場であるという考え方には無理があると思う。D=Gには
地層という概念があってそこでその辺の歴史の堆積をやってるのかと思ったら
これまた歴史という概念は注意深く避けて歴史は混合し攪散するように
なっている。攪散や混合しないことをコード化・領土化とし、しかしたえず
これは攪乱されていく、というふうに自分達の論理に都合のいいように
書かれている。
論理では上手くやれば可能で、歴史も個人もない、となるわけだけど。
では老いや病やという最も歴史や個人性が熾烈に迫る部分はどういうふう
に考えるのか見えない。そこが上手い訳だけど、人間的事実というのは
いやがおうにも迫ってくる訳で、ドゥルーズが最後に自分から逃げるよう
に自殺した、老いと病から逃げるように自殺したことが彼の哲学と照合する
と彼の哲学が人間的事実を見ないように仕組んだ巧妙さの上に成立してた
のではないかという疑いを持たざるを得ませんね。
>>212 サルトルの「弁証法的理性批判」に対するレヴィ=ストロースの批判は
知ってますか。サルトルの歴史概念の杜撰さを批判したものです。
サルトルの凋落を決定的なものにした、といえるでしょう。
>>213 横だけど、レヴィ=ストロースの批判が正当であると思う理由はなに?
>>214 サルトルの歴史認識は時間のスケールの違い(年単位、百年単位、千年単位等)
に無頓着であり、杜撰だというのがレヴィ=ストロースの批判の主旨のひとつ。
これは当たり前すぎるほど当たり前な批判でしょう。
現代史、近代史、近世史、中世史、古代史では、時間の目盛が全く異なるにも
かかわらず、ひとしく近現代的な歴史=物語に回収するのは、単純に間違っているでしょう。
『野生の思考』最終章「歴史と弁証法」にて厳密に批判を展開しています。
>>213 そうですか。サルトルのことを何でも擁護する気は毛頭ないわけですが。
ただこと『弁証法的理性批判』に関する限り、あれは人間と物質との相互な
加工性や物資の稀少性やに人間が集列性としての無力化に支配されて行き
実践的=惰性態というモノ化に陥って行くところから始まる。そこからなの
で社会構造と個人というのが主題。一個の人間における行為や意識やを主
にした『存在と無』からがらりと変わったもの。であの既刊部
に付けられた表題からして「弁証法的理性批判 第1巻 実践的総体の理論」
であり、物質性に支配されていくことで〈他者〉化していく惰性態から
の回復。生存の中で物質と関わり自身が惰性化・集列化していくことからの
回復。それも18世紀フランス革命を念頭においた革命集団の暴動の出現を
仮想している。生産体制における個人の疎外と回復が主題です。なので
サルトルなりの歴史の変革の見取り図を描いている。当然といおうか、
社会体としての群衆や集合体の描写が多い。レヴィ・ストロースが主体偏重
と批判したそうだけど、生産体制に拘束される個人を設定している。生産
体制−物質との相互加工性−
においては人間は自由ではないというのが前提にある。『存在と無』に
比べると主体偏重は感じませんね。またマルクス思想に生産体制での具体的
実践とそこからの解放の見取り図を付加してるわけだけど、革命のきっかけ
は恐慌や物質の稀少性において、自然なものとして書かれて行く。新左翼
などのような硬直性もないしよくやったなと思えますけどね。惜しむらく
は途中放棄されて未完成なままだけど。レヴィ・ストロースの批判は当たっ
てないと思いますね。
絶版になってるので他人の報告を鵜呑みにするしかないんだろうけど、
amazonや哲学書の多い古書店に行けば取り扱っているので実際に読んでみる
ことを勧めます。
あと、ドゥルーズのスレなんでドゥルーズとの関連で書くと、ドゥルーズ
はサルトルの愛読者だったようですね。彼が死んだときの『批評空間』1996
U-9 特集 ドゥルーズと哲学 巻頭にドゥルーズの未発表インタビュー
『思い出すこと』が掲載されており、そこでドゥルーズは若いころからの
サルトル愛読者であり魅せられていたことを述べている。こんなことはここ
のスレの住人にはとうに周知のことで、今更という感じだろうけども。
どうも相当な愛読者だったようで「サルトルは私にとってすべてでした」と
まで言っている。ここまで称賛している人間はポストモダンではドゥルーズ
だけでしょうね。ただ、ドゥルーズからのラブ・コールは私などからすると
あんまり嬉しくはないんだけど(笑)
前期サルトルにある無化と自由の理論がD=Gと被さるところがあって、
そこは前記サルトルの欠陥だと思ってるので。
そこはレヴィ=ストロース読もうよ
護教論めくから
>>215 ヘーゲルもマルクスもそのくらいの歴史時間だよ。
歴史は均一の時間で刻むわけじゃないから。
>>218 ドゥルーズスレだから、ドゥルーズを読めというならわかるし当然だ。
レヴィ=ストロースなんて、趣味の旅行記と局地的で普遍性のない親族分析だからなあ、と煽りたくなるねw
>>218 今手元にはないので貴方がお持ちでしたら抜粋してもらえたらありがたい
ですね。
あと、レヴィストロースとの論争の後サルトルが構造主義について語った
インタビューから彼の考えがよく出ている箇所を抜き書きしておきましょう。
《たしかに構造的分析は、血縁関係の複雑な組織や古代社会における神話のん
意味をよりよく理解することを可能にします。しかしながら、レヴィ=スト
ロースが考え、実行している構造主義とは、たとえば神話のように、すでに
構成済みの体系にしか適用されないという意味で、現在みられる歴史への
不信に大いに与って力があったのです。》
《人々は、たびたび私の〈歴史主義〉について非難します。ある人々の言う
ところによれば、私は人間と主体とを何の媒介もなしに歴史の広大で不分明
な動きの中に投じているということになります。しかし私はけっしてそんな
ことを言ったことはありません。人間とは、私にとって構造の産物ではあ
りますが、しかし同じ程度に構造を乗り越えるものなのです。こう言った
ほうが良ければ、歴史の停止の相があり、それが構造なのです。人間は諸構
造を受け取ります。−そしてこの意味で諸構造は、人間を作るということが
できるのです。しかし、人間は自分が歴史に参加している限りにおいて、
それらのものを受け取るので、その参加の仕方の結果、彼はそれらを破壊
して新しい構造を作り出し、今度はそれが彼を条件づける、というふうに
ならざるをえないのです。》「構造主義について」1964年
「実存主義のなかに開花しようとしていた思想の動向についていえば、
それが、主観性の幻影に対して示している好意的な態度のために、
この動向は、有効な思考のまさに正反対であるように私には思われた。
個人の心意にかかわることがらを、哲学の問題と呼ぶに値するものにまで
このように昇格させることは、結局哲学の問題を、オフィス・ガールの
昼食時のおしゃべりにふさわしいような形而上学に終わらせてしまう危険を
あまりに多くはらんでいる」レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
レヴィ=ストロースみたいな旅行記作家にサルトルを理解しろというほうが無理、じゃない?
人みな平等、みたいな女子学生レベルの感想出されてもね。
実存の大元の「ニーチェ全集」の新版改訳の監修
をしたドゥルーズが「実存」について無関心であったとは言えないですよ、確かに。
ただ歴史性といのは、、ヘーゲルが言い出しマルクスに引き継がれたもので、
個の生を、人類史に接合して論じる仕方がサルトル流マルクス流の核心で
実は個々人の主観的な内面性における、究極における「救済の物語に」関与しているのです。
「大きな物語」の終焉ののちの話としては、終始歴史物語の私小説的ナラティブに
なってまっても、しかたないでしょう。
人間は何故生まれ、生き、死ぬということを繰り返しているのか
「歴史に意味はあるのか」と問うた時、歴史は進歩しているのであり、
その人類の未来のために自分は貢献しているのだ、ということが
明日の企投につながっているんだ、という考えかただとうことです。
226 :
考える名無しさん:2014/12/03(水) 01:39:54.70 0
フランス図書 @frbooks1 3時間3時間前
世界の研究者達によるドゥルーズ論集。来年1月刊行。
Gilles Deleuze : politiques de la philosophie / dir. Adnen Jdey. [MetisPresses]. EUR26.00
>>226 語学ができる人はうらやましいな。
翻訳されても読まないかもしれないけどw
228 :
考える名無しさん:2014/12/04(木) 00:36:45.19 0
千野 帽子
@chinoboshka
「自己啓発本(恋愛本、ライフハック本、俗流心理学本、宗教の本)なんか読まない俺」
という自己像を壊せないプライドのせいで、いったいどれくらいの人が自殺を思いとどまれずに逝ってしまったことか。
おそらく注釈にジャンプしたらワンタッチで戻れない仕様と思うからイラネ
キンドル本はたいていワンタッチで本文に戻れたと思うけど
233 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/14(日) 03:48:21.27 0
プラトー @19650113 2012年9月16日
「哲学の歴史12」(中央公論新社)の鈴木泉さんによるドゥルーズ。システムと
してのドゥルーズ哲学の大枠が気持ちいいくらいすっきりとまとまっている。
ドゥルーズの森の中で道に迷って途方に暮れたら、ここに戻るといい。余力の
あるうちは、敢えて迷っていたいのだが(笑)。
レヴィ・ストロースの引用をしてくれているので分かったが、「個人の心意」
「主観性の幻影」が実存主義であると。
サルトルの思考を読めばたちどころだが冷徹な客観性をもって事象を解析する
のが彼の方法であり、この点は終始変わらなかったとも言える。
なのでレヴィ・ストロースは本当にサルトルを読んだことがあるのか
むしろ疑問ですね。勝手なイメージで批判するだけなら2ch.と変わらない
わけで。
『弁証法的理性批判』にかんして言えば、あの難解な言説を本当に読み説いた
というならそこでは驚異だし、(なにしろ若かった頃に柄谷行人がアレを読
んで「さっぱり分からなかった」と回想しているくらいだから)凄いと
思うが、意外にアレの具体的な言説は読んでも分からなかったのではないか、
とも思えるんだけど。リアルタイムで読んで分かったと言う人はほとんど
原著や邦訳ふくめていなかったと思う。
今改めて読むと、マルクス思想をどうやって具体的な人間に置き直せる
のか、具体的な人間においてはどういうことになるのか、それがアレの
テーマだったことは間違いないと思う。そこで加工する物質・実践的=惰性態
・集列体・他者といった概念の発明によって具体的な人間によって生き直さ
れるマルクス、疎外と回復というテーマに挑んでいた。それはサルトルの
力技で、読みごたえがある。また、社会体の分析であるこの本が「個人の心
意」「主観性の幻影」といった呼び名、あるいは
>>224の言うような「個々
人の主観的な内面性における、究極における「救済の物語」」といった呼称
にあるような主観的・内面的な代物ではないことも明らかなことだ。
マルクス思想が、または『資本論』がひとまず「内面的な救済物語」という
言葉でくくれるものではないし、それはマルクスを実存の場面に甦らせよう
とするサルトルにも言えることである。
234つづき
ドゥルーズとのつながりで言うならば、『弁証法的理性批判』において、
サルトルは実存が蒙る疎外をあらわすためにいくつかの新しい概念を発明
している。加工する物質・実践的=惰性態・集列体・他者。で、疎外という
概念を具体化するためにこういった概念を総動員させている。新しい概念
でもって記述は進んでいく。新しい概念で記述が進んでいくという点で
アレはD=Gに継承されていると読めないことはない。彼らの方法にここ
は継承されたと見えないこともない。新しい概念を発明しそれで書かれる
というのはD=Gを読めばすぐに分かる特徴だから。D=Gの場合は人間本質
にたいする呼び名として概念の発明が必須になることで発明されていく。
そこは概念のもつ意味は違うけれども、ただ概念でもって記述が進んでいく
方法が同じだとも言える。
いずれにしても古書店では割合出回っているので(読んでも分からなかった
ために結局売り飛ばされるケースが多かったと思われる)実際に読んでみれば
分かるはずです。
236 :
考える名無しさん:2014/12/15(月) 10:44:40.92 0
内藤慧 @butanukiponpoko 8 時間8 時間前
篠原資明の『ドゥルーズ ノマドロジー』いまさらのように読み返しているが、これは入門書としてはとても良いと思う。
今柄谷行人の昔の言説を確認しましたが、「『弁証法的理性批判』は
さっぱり分からなかった」とは言ってはおらず、「『存在と無』の頃
がよかった。マルクス主義的になってつまらなくなった」という
意味のことは言ってますね。『ダイアローグU』所収笠井潔との対談
で。なので訂正します。
ちなみに私の見方は柄谷とは反対に『存在と無』での考えというのは
責任や自己や自由や意識について無限としか言えない考え方だと読めて
、そこは実存のリアリティに欠けている。また自由の強迫観念に
なる。そこは実際の生身の人間としては成立しがたいのではないかと
しか言えない。
どっかで言ってた気がしたんですが見つかってないので先に訂正して
おきます。宜しく。
238 :
考える名無しさん:2014/12/15(月) 15:26:06.85 0
「『弁証法的理性批判』におけるサルトルの分析によれば、階級の自発性とい
うものは存在せず、ただ『集団』の自発性のみが存在するにすぎないというこ
とであるが、この分析はわれわれには極めて正当であるように思われる」
(「アンチ・オイディプス・第三章・第十節・資本主義の表象」)
239 :
考える名無しさん:2014/12/15(月) 20:31:47.04 0
国文学解釈と鑑賞 別冊『柄谷行人』 編集 関井光男
1995.12.10 至文堂
対談
批評のジャンルと知の基盤をめぐって 柄谷行人、関井光男
p13
「大学の頃、《略》僕は『存在と無』というのは自分なりにわかったが、
『弁証法的理性批判』は全然わからなかった。」
>>238>>239 どうも他の方が探してくれていたようで、D=Gが『弁証法的理性批判』
を引用した部分、あと柄谷行人が「『弁証法的理性批判』は全然
分からなかった」と語っている部分まで探してくれていたようです。
やはり言ってたのですねえ。記憶間違いではなかったので安心しまし
た(笑)。あの本は昔手元にあったんだけど、今手元にないので探せ
なかった。かたじけない。
レヴィ=ストロースによるサルトル批判は『野生の思考』第九章「歴史と弁証法」で
展開されているので、それを読まないと何を批判したのか分からないはず。
サルトル無双も結構だが、我田引水も過ぎると意味を失くす。
サルトルは、歴史ある社会の弁証法を真の弁証法とし、未開社会における反復的で短期の弁証法と区別する。
あるいは、歴史ある人類が、意味を欠いていた歴史なき人類に意味の祝福を与えるものとする。
いずれにせよ、風俗、信仰、慣習の驚くべき多様性は捉えられないし、
人間の生の意味と尊厳は西欧社会の中に凝縮されていることになる。
しかし、「それらの社会にせよわれわれの社会にせよ、歴史的地理的にさまざまな数多の存在様式の
どれかただ一つだけに人間のすべてがひそんでいるのだと信じるには、よほどの自己中心主義と
素朴単純さが必要である。人間についての真実は、これらいろいろな存在様式の間の差異と共通性
とで構成される体系の中に存在するのである」(p.299)
>>242 『野生の思考』は取り寄せ中なのでいずれ読むつもりですが。ただ引用
された部分を読んだだけでも「?」というのは出てきますね。というのは
近代社会において人間が集列化されてしまい、その意味でモノ化され、
惰性態と化していく、その部分を描き尽したのがあの本の白眉だとも言える
訳で。近代西欧社会の閉塞はあの部分に最も現れている。つまり西欧中心
主義というのはその意味で妥当しないだろうと思いますね。近代西欧社会を
熾烈に批判したのがアレだとも言える。近代西欧社会の閉塞をあそこまで緻
密に描いた本はそうないはず。貴方の引用する部分ではそこは何故か飛ばして
るのね(笑)だからそこがダメだと思いますね。
243つづき
私自身がサルトルを全部良かったと言ってる訳ではない。前レスに書いた
ように、意識や責任や自由に個体性の課す留保が付けられていない前期の
哲学はダメではないかとこれはどぅしても言わざるを得ない。しかし、
一般によく分からないし読まれていない後期の作品に、今読むと与えてくれる
ものがある。前期の哲学にあったリアリティの欠如も補正されてきてる。
今読むと結構いいと思える。D=Gの方法−概念の発明−との共通性も見える。
その意味で提出しているので。
サルトルなら何でもいいと言ってる訳ではない。かといって全部つまらない
と言ってる訳でもない。何よりも『弁証法的理性批判』など今頃読んでる
人間などいないだろう。でも結構面白いし、現代日本批判として読んでも
妥当する分析とかかなりある。モノや財の稀少性に左右される現代人を
こまかに分析もしている。棄てるにはもったいないとしか思えないので。
サルトルスレでやってほしいんだけど
>>245 ドゥルーズを本棚から取り出すために必要だし、いい議論だと思うよ。
実態
サルトル擁護のレス → サルトル読者「いい議論だ!」
吉本擁護のレス → 吉本信者「いい議論だ!」
248 :
考える名無しさん:2014/12/16(火) 18:51:39.84 0
歴史的には主体か構造かという論争はラカンが一人二役で引き継いだ。
(ドゥルーズは初期サルトルを絶賛してはいるが、)
ドゥルーズの構造主義論でもラカンが中心であり、
ドゥルーズにとってはラカンがより重要だ。
ちなみに柄谷は初期サルトルをデリダと対応するものとしている(ダイアローグ2)。
(ドゥルーズにとって表象の問題はさほど重要ではない。欲望は機会的仕組み
であり、表象のなかに閉じ込められない(AO4:3冒頭参照))
>>248 >ドゥルーズにとってはラカンがより重要
ドゥルーズにとって誰が重要か、じゃなくて、現代にとってドゥルーズは重要なのか、だろ?
250 :
考える名無しさん:2014/12/17(水) 16:10:20.82 0
主体か構造かの問いを一身に受け継いだラカンは、精神分析の組織に飲み込まれた。
同じ課題をラカンからさらに受け継いだドゥルーズはどうしたか?
ドゥルーズの解決策は特異で、汎神論的唯物論、独我論的唯物論といったものだった。
主体と構造(他者と言い換えられる)はSF小説のように肥大化することで一致するのだ。
ただし、主体「と」構造とを共に形成する最小単位である分子は常に流動的であり、
誰とでも何とでも接続する。
くだらん
>>251 くだラ(ン)カンがえだ、と言いたかった?
253 :
考える名無しさん:2014/12/21(日) 05:16:35.94 0
器官なき身体とつながる身体なき器官、かな?
255 :
考える名無しさん:2014/12/21(日) 16:34:02.16 0
ed. azert @editions_azert · 12月20日
アンドレ・バザン『映画とは何か(上)』野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳、岩波文庫、2015年2月刊行。「岩波文庫 メールニュース/2014年12月号」より。
岩波が本格的にKindleに参戦したみたいだから
いずれバザンの本も電子書籍で出るかな
257 :
考える名無しさん:2014/12/22(月) 19:11:17.18 0
258 :
考える名無しさん:2014/12/24(水) 14:28:01.10 0
永井均 @hitoshinagai1 · 19時間 19時間前
哲学に関しては、そもそも他人の哲学なんて気にするに値しないように思うの
だが、どういうわけか気にする人が多いようだ。何か根本的な誤解が働いてい
るのではないだろうか。
他人のやっていることを気にしなくてもいいような営みを「学」と呼んでいいものだろうか
260 :
考える名無しさん:2014/12/24(水) 14:33:59.26 0
永井均 @hitoshinagai1 · 19時間 19時間前
フィロソフィーに関しては、そもそも他人のフィロソフィーなんて気にするに値しないように思うの
だが、どういうわけか気にする人が多いようだ。何か根本的な誤解が働いてい
るのではないだろうか。
他人にとってどうでもいいような対象はsophiaと呼べないと思う
永井均が挫折したデリディアンと知ったのでこういう発言全部笑えるw
使えないとデリダにあっさり見切りをつけただけ
永井均を振り回すことで「大陸哲学()」や「哲学学()」を潰せると思う奴は永井均が批判する連中未満のクズ
十年以上前からそういう馬鹿が後を絶たないが、
結局ドゥルーズよりしょぼいやつしかいなかったわけだ
ところで、永井均て、だれ?
「哲学の歴史12」(中央公論新社)鈴木泉さんのドゥルーズ論。発売後5年も経って読んだ。
いい本だ。シリーズ全巻ほしい。(中公120周記念刊行本)
浅田彰のチャート式が実現したのかも知れないが、全貌を俯瞰したわけもでなく
ドゥルーズの創造した概念のまとめという位置づけ。ゆっくり読んだ見ます。
ミスタイプ「読んでみます。」
269 :
考える名無しさん:2014/12/25(木) 08:47:33.97 0
2月に再販!!
2014-12-24 09:57:31NEW !
テーマ:新刊情報
『ドゥルーズ キーワード89』 芳川泰久・堀 千晶
46判 272ページ 定価2000円+税
「欲望」「戦争機械」「器官なき身体」「ノマド」「リゾーム」「マイナー
文学」「リトルネロ」など哲学・文学批評・美学・倫理学・政治哲学の諸領
域を横断しながら、ドゥルーズの思想の体系を構成するキーワード89の基本
概念を簡潔・明快に解説する。ドゥルーズ哲学の核心に触れるためのユニー
クな入門書。巻末に詳細なビブリオグラフィを付す。
2月中旬〜下旬出来です。
270 :
考える名無しさん:2014/12/25(木) 08:49:40.39 0
単行本: 263ページ 出版社: せりか書房 (2008/07)
↓
272ページ
ページ増えてる
272 :
考える名無しさん:2014/12/28(日) 11:54:35.65 0
日居月諸 @das_unheimliche 12月25日
佐々木中が古井由吉自撰作品の解説で日本語(ひいては古井由吉)を読むこと
のできないドゥルーズ=ガタリに対して「可哀想」と言っていたが、今からで
も彼らを生き返らせるなり、古井を黄泉の国へ行かせるなりして、無理矢理に
でも「読ませる」のが批評家の仕事じゃないのか。
273 :
考える名無しさん:2015/01/02(金) 02:37:10.80 0
山内志朗 @yamauchishiro · 3時間 3時間前
日本であれ、故郷であれ、京都であれ東京であれ母校であれ、そういったもの
を帰るべき、帰りたい、そして帰って歓迎されるべき場所として持っている者
は、源、「父」、「母」を求める。そういう「失うもの」を持っている人々の
思想と、失うものを持たない人とでは考えは異なってくる。
山内志朗
@yamauchishiro
柳田国男、和辻哲郎、アリストテレス、トマス・アクィナス、こういった人々
を読んでいると思うのは、「失うもの」を持っている人々なのだ、という感じ
だ。私は偶然なのか必然なのか、フランシスコ会にこだわっているのは、失う
ものを持たな人たちのための思想だからだ。
山内志朗 @yamauchishiro · 3時間 3時間前
オッカムの倫理学も存在論も、失うものを持たない人たちのためのものだった
と考えると、心にすとんと落ちてくる。持たない者の力の弱さを、「持てる者
」に対して破壊的に宣伝するしかない。持たないことを武器として。
山内志朗 @yamauchishiro · 12月27日
唯名論は哲学的断捨離であるけれども、それだけではない。何を残そうとした
のか、見極めないと、何でもかんでも唯名論になってしまう。
山内志朗とかなついな
正月早々教えて君で何ですが、『差異と反復』は、サルトルの『存在と無』やフーコーの『言葉と物』の強い影響があるんですか?
それとも、その時代の人たちは、みんな似たようなことを考えてたんですか?
まったく影響はない
むしろ逆影響
吉本隆明だけ好きな人がダラダラ書いてるけど、ドゥルーズにはごく初期のサルトルの影響はあるが、主著のほうはそんなに関係ない。
また、吉本隆明のドゥルーズ論は特に鋭くない、アフリカ的段階の話は面白いかもね。ただしドゥルーズとは別の話。
フーコーについては、そのものずばり『フーコー』を書いているから読めばいい。
>>278-279 『差異と反復』というのは、存在者を時間的にも空間的にも同一のものと捉えることができないから、その差異を「微分的」に分解してそのその存在者を反復として鼎立しようとする試み。
サルトルの『存在と無』は、存在者をその関係のあり方の構造として捉える試み。
そんな風に読んでいるので、ドゥルーズはサルトルの影響下にあるのか、それともゲシュタルト的なものの捉え方の一つとしての、時代的な風潮なのかを知りたいわけです。
フーコーの『言葉と物』についても、サルトルと同様の試みだと読みました。
ドゥルーズの場合は『差異と反復』以前に、
哲学者を対象としたモノグラフをいくつも書いているので、
その仕事の総合という面が強いと思う
280さんの問題意識から探ると、どこか強引な切り詰めになりそう
「影響」の切り取り方が恣意的に思える
>>281 >「影響」の切り取り方が恣意的
存在者の捉えかた、という面から切り取っています。
恣意的といえばそうかも知れませんが、存在者の捉え方が『差異と反復』の大きなテーマだと読んだのです。
その読み方は不適切ということになりますか?
吉本信者というけれど、30年前に吉本を卒業した俺の立場でも甘いと思うな。
吉本はサルトル追悼の文で「サルトルはおそらく絶望して死んだと思う」と書いている。
一方吉本は大衆の原像の中に希望を見ていた。
ドゥルーズにしてもサルトルにしてもハイデガーにしてもその差異をはっきりと批判できないと
その哲学の核心はつかめないものだ。ちなみにドゥルーズのテクストに存在者という概念はない。
サルトルは時代の舞台で踊ってしまったひとであり、
吉本は踊らせようとしたひとであちり、ある意味クロだ。
晩年吉本はその部分を反省している発言をしている。
「あちり」「はあり」ミスタイプ。
>>283 >ドゥルーズのテクストに存在者という概念はない
『差異と反復』の冒頭にはこう書いてあります。
「本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気のなかにある。
その雰囲気のしるしとして、つぎの〔四つの〕点をあげてよいだろう。
まず、ハイデガーが、存在論的《差異》の哲学にますます強く定位しようとしていること。」
存在論を考察するときには、存在者の扱い方が大きなテーマとなるのは当然じゃないでしょうか?
吉本隆明については、特にコメントはありません。
ドゥルーズは「個体」を好むので、サルトル&現象学路線から考察すると焦点がぼやける
289 :
考える名無しさん:2015/01/03(土) 21:08:28.23 0
ドゥルーズ
「私は矛盾に敏感なたちではないし、自分の立場がもつ悲劇性を身をもって生きるような善人ではないんだよ」
「存在と虚無」で本来的自由を言ったはずなのに、倫理学でその範囲を狭め、状況倫理で
「マルクスは乗り越え不可能である」という風に、マルクスが当為の選択肢であると、自分でストーリー
を作り、自分で演じたのがサルトルだ、という風に見ることはある部分真実のように思える。
このようにドゥルーズに興味ない人が常駐すると荒れます
サルトルスレでやってほしい話題
>>291 荒れてるようには見えないけど?
ドゥルーズだけの話題じゃ、内容に踏み込んだレスが出てこないし。
サルトルでもマルクスでも、比較の対象があった方がいいんじゃない?
吉本隆明にしか興味ない人は黙ってほしい
>>293 出たね。
ドゥルージアンの無内容レスw
悔しかったら、『差異と反復』の社会的な存在価値についてでも、書いてごらん。
肯定だろ。
ここでドゥルージアンからかうとか意味不明すぎる
団塊爺さんだろうに…
>>296 なんで?
ドゥルージアンなんて、からかわれるほかに存在意義なんかないじゃないかw
ほんの少しでも、社会的に意味のあるドゥルージアンなんてのがいたらお目にかかりたいもんだ。
団塊爺さんにも負けちゃうドゥルージアンなんて、存在価値があるんだろうか?
>>297 要約
団塊爺さん=弁証法=否定性=マルクス(≒吉本)→社会的意義=一昔前的左翼
>>298 ドゥルージアン的アホの要約?
>弁証法=否定性
これだけで、ドゥルージアンが無知でアホだということがわかるな。
>社会的意義=一昔前的左翼
一昔前的左翼に社会的意義があることまで認めちゃうのか?
>マルクス(≒吉本)→社会的意義
この矢印の意味は分からんw
301 :
考える名無しさん:2015/01/05(月) 23:02:13.69 0
吉本隆明はマルクス主義の行き詰まりをヘーゲルに遡行することで打開しよう
としたわけだから、比較すべきはドゥルーズではなくて同様の試みをしている
ジジェクだ。反反核などは戦前の科学観への回帰だが、ジジェクのレトリック
と同種で、政治主義的な倒錯なのだ。ヘーゲルからは保守も革新もとり出せる
という一例だ。
ドゥルーズは68年の敗北を哲学的に回収したと言えるが、実は本人的には第二
次大戦が大きい(だから『シネマ』が主著と言える)。吉本も同じだが、日本
にはコジェーヴにあたる人がいないから状況的には孤立して、哲学的な深化は
無理だった。吉本の思考は最近の柄谷が受け継いでいてこちらは倒錯ではない。
>>300 ドゥルージアンて、ほんとにアホなんだなw
>>301 >『シネマ』が主著と言える
へえ、そうなのか。
てっきり、『差異と反復』『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』だけ読んどけばいいのかと思ってた。
おまけとして『意味の論理学』読んで完璧、じゃだめ?
305 :
考える名無しさん:2015/01/06(火) 01:28:41.69 0
ドゥルーズと柄谷にあって吉本にないもの、それはカントへの遡行である。
「カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について」(ドゥルーズ『批評と臨床』より)
1「〈時間〉の蝶番がはずれている……」──シェイクスピア『ハムレット』第一幕第五場
《…『純粋理性批判』とは、北方の王子たるハムレットの本なのだ。カントは、この逆転の
全射程を把握することを可能にする歴史的状況の中にいる。…》
2「〈私〉とは他者である……」──ランボー書簡。
《…概念─対象関係はカントにおいても存続しているが、それは、もはや鋳造[moulage]
ではなく変調[modulation]を構成するような〈私─自我〉関係によって二重化されて
いるのである。…》
3「認識できぬ法の数々によって支配されるのは、何たる刑苦であることか!
……というのも、それらの法の性質はかくしてその内容について秘密を要求する
からである」──カフカ『万里の長城』
《…『実践理性批判』において、カントは法と〈善〉の関係の逆転を行なっており、かくして、
純粋にして空虚な単一性にまで法を押し上げている。〈法〉の告げることが善であり、善は
法に従属するのであって、その逆ではない。…》
3「あらゆる感覚の錯乱によって未知なるものへ
到達すること、……それも、長く、広大で、熟慮にもとづいた、
あらゆる感覚の錯乱によって」──ランボー、前掲書簡。
《…不協和音の解放、不調和な調和──これこそが、『判断力批判』の偉大なる発見であり、
カントの最後の転倒である。…》
この場合、カントはアソシエーションと同義だ。カントは自律性を模索した。吉本の自立に自律性はなかった。
306 :
考える名無しさん:2015/01/06(火) 01:35:33.30 0
繰り返すと、柄谷にあって吉本にないのはカントへの遡行だ(この場合のカントは
アソシエーションと同義だ)。ドゥルーズもカントやハイデガーなど一見敵側に思
える哲学者に関する論考が優れている。敵の歌を歌うのが上手いのだ(柄谷のカント
賛美は本気だが)。ベルグソンとは資質的に異質だ…方向が違うと言うべきか?
連続ではなく離散的なのだ。ドゥルーズのカント論稿はレトリカルな部分もあるが
哲学史を押さえているので筋が通っている。
307 :
考える名無しさん:2015/01/06(火) 01:44:45.91 0
ドゥルーズと柄谷にあって吉本にないもの、それはスピノザへの遡行である。
>>305-307 >ドゥルーズと柄谷にあって吉本にないもの
いらないものばかり、じゃないの?
ちなみに、法は宗教性を核とする、という吉本の考え方のほうが好きだな。
>>308 >法は宗教性を核とする
吉本はそんなこと言ってないよ。
無神論だから。
311 :
考える名無しさん:2015/01/06(火) 23:35:20.52 0
柄谷がドゥルーズの哲学にスピノザを見たのは正しい。観念と概念を十字に見たのだが、
スピノザの場合これは観念を頂点とする三角形になる。概念は観念(頂点)と向かい合う辺
になる(バーバラ・ミント流のピラミッドになる)。こうしてできた「レンズ」に光を通す
写像は次の段階である。吉本はスピノザにヘーゲル以前の神学を見出すが(ハイイメージ論2)
これはネグリ以前の認識で起成原因に着目した柄谷に及ばない。吉本はヘーゲルのスピノザ
論を真に受けただけかもしれないが。
参考:
《…証明三〇*は、一種の崇高な三角形を──だが点描で──描いている。その頂点が光の形象
(私、〈世界〉、そして神)であり、距離としてのその辺が、今度は最大のものとして開示さ
れる絶対的速度で踏破される、そんな崇高な三角形を。第五部の特殊な性質、先行する部の
方法を乗り越えるそのやり方が差し向けるのはつねにここだ。すなわち、光の諸形象の絶対的速度。》
(「スピノザと三つの『エチカ』」ドゥルーズ『批評と臨床』より)
*《定理三〇 我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識する限り、
必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る。》
312 :
考える名無しさん:2015/01/06(火) 23:39:41.59 0
《証明 永遠性とは神の本質が必然的存在を含む限り神の本質そのものである
(第一部定義八により)。ゆえに物を永遠の相のもとに考えるとは、物を神の本質
を通して実在的有として考えること、すなわち物をその存在が神の本質の中に含まれ
ているとして考えることである。したがって我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠
の相のもとに考える限り必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り云々。
Q・E・D・》
313 :
考える名無しさん:2015/01/06(火) 23:43:01.39 0
《『エチカ』は三つの要素を呈示している。それらは内容であるのみならず、表現の形式で
もある。すなわち、〈記号〉あるいは情動[affect]、〈概念〉あるいはコンセプト[conc
ept]、〈本質〉あるいは知覚対象[percept]がそれである。これらは認識の三つのジャンル
に対応しており、このジャンルとは、実存および表現の様態でもある。》
《様態とは投影=射影のことである。…
光の投影としての様態は、同様にして色彩であり、色彩を与える原因である。さまざまな
色彩は補完性とコントラストの関係に入り、この関係は、一つひとつの色彩が限界において
は全体を構成し、またすべての色彩が組み合わせの秩序にしたがって、あるいは、そこから
分解の秩序へと抜け出すことによって、白(無限の様態)のうちに再び結び合うようにするのである。》
(「スピノザと三つの『エチカ』」ドゥルーズ『批評と臨床』より)
吉本とスピノザってほとんど同じこと言ってると思うのだが。吉本はヘーゲル
を通してしてか理解しなかったのがもったいない。
>>309 それが言ってるんだなぁ。
スレチだから、これ以上は自分で調べてね。
>>314 スピノザなんかのことで、無関係な吉本を引き合いに出してどうするのw
ま、スレチだからここまでにするけど。
爺が居着いたからこうなる
>>316 若いのが無能だからじゃない?
現実でも学問でも、役に立たないみたいだよ。
吉本信者の爺さんはなんで他のスレでまで吉本隆明の宣伝しかしないのか
しかも「吉本の素晴らしさ」で「若い無能なやつ」を蹴散らしたつもりって、
ガキの中二病バトルよりしょぼいだろ
>>319 そう思ったら、自分で若い力を出してみなさいね。
現実にも学問にも、なんの寄与もできなければ、現実と学問にわずかな寄与をした吉本とそのエピゴーネンを非難しても無意味だよ。
せめて、ドゥルーズが現実と学問にわずかな寄与をしていることでも提示できないと、蹴散らされるのはしかたがない。
吉本崇拝者に対抗したければ、ドゥルージアンとしてドゥルーズの現実と学問への寄与について業績を提示するか、自分自身の寄与を提出するしかないんじゃないか?
ま、現実に対して無能であるのは、日本の若いのもドゥルーズも、そして吉本も変わりがないけどね。
いくらかでも現実に対応できているのは、ドゥルーズが最後に頼ったといわれる、ロシア的マルクス主義だけだな。
俺が言ってるのはお前自身のこと
〜エピゴーネンをボロクソに言うあんた自身が吉本エピゴーネンだった
なんかサルトルとか吉本とか懐古的な読者の書き込み多いね
でも、(オレの場合)読んでないのは事実なので判断を下せない
吉本の著作はKindleで安価に出回ってるので読んでみようかな
そう思わせる現況のスレの流れ
吉本好きのおじいちゃんが二人(ここポイント)居着いたから、
この板ちょっとムードが変わってる
東スレが廃墟になったのも一因
>>322 そんなことはどうでもいいから、若いドゥルージアンとしての矜持を見せてごらんよ。
矜持ってのは、自尊心のことな。
若いドゥルージアンは、日本語に難があるから説明しといてあげるw
なにしろ僕は、「エピゴーネンをボロクソに」なんか言っていない。
エピゴーネンこそが、思想を現実化する大切な人間たちだと思ってるぐらいだ。
さあ、君は、日本のドゥルージアンが、現実と学問にどう貢献したかを書いてみるんだ。
吉本隆明って、本人の著作は興味深いけど、
こういうふうに、
信者が無意味に学者を侮るやつだらけになって、高齢化して衰退したんだと思う
こういう爺と関係なく読む時代にならないと、
真価はわからないと思った
>>324 おじいちゃんだの団塊だのと言ってる間は、そのおじいちゃんや団塊に逆立ちしても勝てないよ。
なにしろ、知識はおじいちゃんや団塊の方が多いんだから。
おまけに社会経験も豊かで、自分をバカにすることも人をからかうこともできる。
自分を客観視することすらできない若い人が、どうやったらおじいちゃんや団塊に勝てるのか、一生懸命考えた方がいいよ。
>>326 そんな泣き言並べてないで、吉本のエピゴーネンを論理でねじ伏せてごらんよ。
吉本本人は無理でも、そのエピゴーネンぐらいは軽いだろ?
そうしないと、学者なんてやっぱり解釈しかできないんだな、とか、哲学科が廃止されるのは無理もないな、とか、みんなに納得されちゃうんじゃないかい?
ドゥルーズのエピゴーネンを自認してるドゥルージアンなら、そんな風潮に少しは反撃してみなよ。
言われっぱなしじゃ悔しいから言い返しているだけの子どもみたいな煽りは見苦しい
逆に聞くとヘーゲル弁証法の社会的意義というのはなんだ?
>>329 なに言ってるかわからないけど、若い君にとっては、相手をお爺さん認定すると勝ったことになるのかい?
アンカーつけることすら怖がってる臆病者の君には、ふさわしい勝ち方だねw
いや、臆病者をバカにはしてないよ。
臆病さは、人間に備わったとても大切な自己防衛本能だから。
>>330 誰がヘーゲルの話をしているの?
僕が出してる名前は、吉本とそのエピゴーネン。
そして、ドゥルーズとそのエピゴーネンである日本のドゥルージアン、だ。
日本のドゥルージアンは日本語に難がある、って僕の指摘どおりのレスになっちゃってるのかな?
>>331 ドゥルーズは反ヘーゲル、吉本はヘーゲリアンというのは常識。はっきりと違う立場の両者を、ことさらにこのドゥルーズスレで
同時に批判するとして、あなたはヘーゲルについてどのような社会的意義があると考えているか、という意見を聞いた。
>>332 >吉本はヘーゲリアンというのは常識
誰の常識か知らないけど、まず、その根拠を提示してからじゃないと話が進まない。
吉本本人は、常々、自分はマルクスの信奉者であると公言してはばからなかった。
ヘーゲルについては、自分の考察を進めるために、さらに研究を深めたい、という趣旨のことを言っていただけじゃないかな。
根拠A)
吉本「世界認識の方法」('80)
「<マルクス主義>の真理性という問題にはほとんど絶望的な意味合いしかない。」(p58)
「マルクスに遡行するとさらにヘーゲルだというように遡行してどこまでゆくか分からない。」(p80)
根拠B)
ドゥルーズ「差異と反復」1章「否定的なものの錯覚」(旧版p93)
ヘーゲル以降「哲学の終焉」がうたわれていたが、初めてヘーゲル弁証法との決別の上に哲学を「再開した」というのも、ドゥルーズの社会的意義。
哲学的ディスクルスがどのくらい社会的意義があるかなどということは
ヘーゲルもマルクスもドゥルーズも「学に関心ある人」以外読まれやしないし、
少々名前が知られるだけで、大方の社会に影響なんかないよ。
>>334 吉本にとって、<マルクス主義>とマルクスの思想は違うんだよ。
ま、吉本エピゴーネンにとっては、イロハのイ。
ヘーゲルについては、それがまさに「自分の考察を進めるために、さらに研究を深めたい」という趣旨。
ちなみに、ヘーゲルをただの否定性と捉えるのは、まったくの誤読だよ。
ヘーゲルの根幹は、動態としての現実の捉えかた。
ヘーゲルの弁証法は、マルクスの疎外概念と同じ。
>>335 君のヘーゲルの捉えかたが間違っているということ。
ドゥルーズは、ほんとうに「ヘーゲル弁証法との決別」なんかを目指したと思うのか?
>>336 マルクスは、実践者こそ、よく読んでるよw
あまり無知を晒すな。
>>336 そもそも、ヘーゲルもマルクスもドゥルーズも「学」に関心もあっただろうが、なにより、現実に対して自分がどう対峙するかということが一番大切だった。
学問だから現実とは無関係、なんて言いたがってる君は、自分の愚かさを自覚しなさいね。
340 :
考える名無しさん:2015/01/08(木) 03:26:05.51 0
「(略)彼(引用者注:ドゥルーズ)の遺書を哲学の使命として引き受けるとともに、近代哲学
〜その大部分は、新たな意味での「生の哲学」である〜を内在の線と超越の線ではっきり区別す
るような系譜図を遡及的に再構成してゆくという仕事も、その一端として必然的に課されるので
ある。それはたとえば、このような概略的な系統図が目安になるだろう。」
(アガンベン「絶対的内在」邦訳『現代思想2002.8』邦訳改訂版『思考の潜勢力』再録)
TRASCENDENZA IMMANENZA
Kant Spinoza
| |
Husserl Nietzsche
\ / |
Heidegger |
/ \ |
Levinas, Derrida Foucault, Deleuze
http://www.tecalibri.info/A/AGAMBEN-G_potenza.htm
学の敵視とか意味不明
>>341 学の敵視、じゃなくて、日本のドゥルージアンの軽視、な。
そんなことも読み取れないから、日本のドゥルージアンは日本語に難がある、と指摘してるんだ。
このスレから出てけや
後出しで「勝利宣言」するまで延々粘着する
これが吉本信者のやばさ
>>343>>344 泣き言並べてないで、自分でドゥルーズの価値を提示したらどうなんだ?
なに一つ提示できずに、吉本と吉本エピゴーネンの悪口を言ってても、「お前のカーちゃんでーべそー」くらいにしか見えないよ?
勝つだの負けるだのと、くだらないことに拘泥してないで、せめて、
>>337-339への反論ぐらいしてみろよ。
アンチオイディプス以降ドゥルーズは変な奴に絡まれることが多くなったのか
「スキゾなんてうんざり。パラノに転向したいくらいだわ」とこぼすほどでした
このスレは時々基地外さんが訪れるので、そういう意味でとてもドゥルーズ的なスレだなって思います
>>337-
>>339 「世界認識の方法」を読んでいないのは明らか。(p80)以降。
「差異と反復」も読めていないの明らか。(否定性だけではない。)
ヘーゲルを理解しているかどうかも危うい。
>>346 ふむふむ。
スキゾは変でパラノはまとも、っと φ(・ω・ )メモメモ
>>337-339 何かの根拠になりそうな書物のページを示してよ。
議論になってない。
そんなことで、哲学の現実であるディスクールへの対峙の態度
が何かあるというわけでもないね。
>>347 >「世界認識の方法」を読んでいないのは明らか
君にとっては、吉本がヘーゲルを高く評価していることが、吉本をヘーゲリアンだとする根拠だということかな?
君は、ヘーゲリアンとは、どういう考え方のことだと思ってるのかな?
>「差異と反復」も読めていない
そんなこと宣言しても意味ないだろw
なにがどう読めてないのか、ヘーゲルについて具体的に指摘してくれよ。
>ヘーゲルを理解しているかどうかも危うい
ヘーゲリアンの定義とともに、君のヘーゲル理解も書いてみてくれ。
吉本スレでやってくれ
>>349 吉本については、多くの本で、自分がマルクスの崇拝者であるということが書いてある。
代表的なものとして『カール・マルクス』という著作がある。
ヘーゲルの弁証法と現実への対峙については、『法の哲学』が一番読みやすいと思う。
ドゥルーズとヘーゲルについては、議論の最中だから、その後にする。
マルクスが実践者に読まれていることについては、レーニンをあげておけば十分だと思う。
ヘーゲルは国家のあり方について現実に対峙していたし、マルクスと現実についてはいうまでもない。
ドゥルーズの『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』は、いうまでもなく現実の統合失調症を現実の社会の中で位置づけることを試みたもの。
ページをあげるほど細かく説明したらきりがないし面倒くさいから、このくらいでいいかな?
違うと思う。
現実の統合失調症を現実の社会に位置付けたのではなく、潜勢的な統合失調症を理念的な社会に位置付けたんだと思う。
現実に受肉した個別性を顕揚する事で逃してしまう理念的な潜勢態、言い換えれば、微分的で特異的なものを繊細かつ大胆な手つきで取り扱ったのが、ドゥルーズなのではないでしょうか?
>>353 読み方の問題は別にして、現実の統合失調症も「潜勢的な統合失調症」も現実社会とのかかわりの中から生じるというのが、D=Gの考え方だ。
フロイトを強硬に否定しているのは、そのためだ。
だから、社会もまた、現実であるほかはない。
ドゥルーズに「手つき」があるとすれば、それは、現実に近づくための言語の格闘だと思う。
ラカンやアルチュセールとの格闘を踏まえずに、
吉本オンリーでドゥルーズ
を「超える」のは無理があるよ
ドゥルーズのフロイトやマルクスとのかかわりにおける重要なポイント
「現実」にしても”réalité”と”le réel””を区別した上で、
ラカンの発想をさらに超えていくことが問われている
>>355 その「格闘」の経路や「重要なポイント」を具体的に提示できなければ、威勢のいいことを書いてもなんの意味もないだろ?
何回も言っているが、具体的に内容を書いてみなよ。
君のラカン理解やアルチュセール理解が適切かどうかもわからない。
なにより、フロイトもマルクスも理解していないドゥルーズが、ラカンやアルチュセールと「格闘」する意味があるのかどうか、ということもあるよ。
現実とリアルが違うというなら、その違いを説明することだよ。
日本語としてなら、客観的な現実そのものと、その現実の「反復」としてのリアルというドゥルーズ的な捉えかたなのかとは思うが。
現実と訳したりリアルと外来語に移したりするのが不適切だと思うなら、君の理解を提示しないといけない。
とはいえ、フランス語の解説をされても困るがw
ドゥルーズスレに戻そうとするたびにこれだから困るわ
多分日常でもまともに応答できない病気の人が集まってるからね
359 :
考える名無しさん:2015/01/09(金) 12:00:32.22 0
《 (1)諸強度〔差異〕がそこで組織される、深さ、スパティウム〔強度的空間〕。
(2)諸強度によって形成される、齟齬する諸セリー、諸強度によって描き出さ
れる、個体化のもろもろの場(個体化の諸ファクター)。
(3)諸強度を連絡の状態に置く、「暗き先触れ」。【ライプニッツ】
(4)カップリング、内的共鳴、そこから生じる強制運動。【スピノザ】
(5)そのシステムにおける受動的自我と幼生の主体との構成、および、時−空的純粋
力動の形成。【デカルト】
(6)そのシステムの二重の異化=分化を形成し、それらのファクターを覆っ
てくる、質と広がり、種と部分。【ヘーゲル】
(7)質と延長が展開された世界において、それでもなおその諸ファクター
の執拗な持続を証示する、包み込みの中心。【ニーチェ】
見せかけ(シュミラクル)のシステムは、発散〔分岐〕と脱中心化を肯定する。》
(邦訳単行本『差異と反復』412~3頁、結論、見せかけ、より)
【】内には引用者が恣意的に哲学者名を入れた。間違っているかもしれないが、『差異と反復』を哲学史として読む試みの一環である。数字は時系列ではない。
遡行した後再び流れ出す。この哲学史は思考のモデルになる。《…まずは(1)と(2)
の概念が創造の母胎、(3)の概念が媒介者、(4)から(7)が生起のメカニズムという点
を押さえればよい》(鈴木泉、哲学の歴史、639~640頁)。
アガンベンの図
>>340も参考になる。
丸写しだが。
アベセデールの日本語版DVDが出るらしいね。
貧乏人の私にも手が届く値段であればいいが。
>>361 マジネタ?
いろいろ検索したり、販売しそうなところ検索してみたけど見あたらない
國分功一郎@lethal_notion
そのドゥルーズ没後20年に合わせて、大きなものを出します。ドゥルーズが死後発表を条件に収録したインタビュー映像『アベセデール』のDVD(全三枚)、その日本語版を僕の監修で発売します。最高のチームが翻訳を進めています。作業は終盤に入っています。
発売日も近いうちに発表されるでしょう。
>>363-364 おーありがとう
Twitterやらないから、分からなかった
ただDVD三枚というのが不吉な値段を予感させるw
でも買う
1万ちょっとくらいならいいんだけどね。
あとは絶版になってる『無人島』と『狂人の二つの体制』が文庫化すれば終わりかぁ
デリダやフーコーに比べて寡作な哲学者なんだよな
>>364 >最高のチームが翻訳を
高く売る気満々だなw
ネットで久々にアベセデール見たけど、やっぱ素晴らしい。
DVD待ち遠しいわ。
ところでドゥルーズがどっかで、無神論者ヴォルテールが私だって神様に挨拶くらいするさ、と言ってたエピソードを紹介してたと思うんだけど、どの本かわかります?
無人島と狂人の二つの体制
いずれ文庫化されるんだろうが、
我慢出来ないから単行本買ったわ。
高くついたけど
哲学の歴史12巻「ドゥルーズ」(鈴木泉)拝読いたしました。いい本だと思う。面白く読める。
p644「ドゥルーズの概念マッピング」はたいしたもんだな、と思ったが、脚注にあるM・DELANDAの本を読んでみると、
付録の「ドゥルーズの言葉」の丸写しだった。手抜きでうまくやっている、やっつけの感あり。
哲学の歴史って
あの赤いヤツか?
読んでみようかな
375 :
考える名無しさん:2015/02/13(金) 06:06:57.25 0
山内志朗 @yamauchishiro 8時間8時間前
ドゥルーズで博士論文を書くというのは正しい理性に基づいているか分かりません。ドゥルーズ研究はとても重要です。
しかし、ドゥルーズ研究者は、歯医者と同じで過剰な状態になっています。ドゥルーズ研究は飯の種にならないのです。
研究したいものを研究するということは陥穽が潜んでいます。
チロリアン @tiroryu 8時間8時間前
やっぱりドゥルーズ人気あるんだなw
横浜 県 @yp_tech16 8時間8時間前
ドゥルーズ人気だねぇ。
嘘つきクレタ人 @HomoAmbulans 7時間7時間前
ドゥルーズ研究者の供給過剰、結構なことではないか
千葉雅也 Masaya CHIBA @masayachiba 7時間7時間前
ドゥルーズ研究者は「歯医者と同じ」で供給過剰とのこと。最近は確かにそういう観がありますね。
千葉雅也 Masaya CHIBA @masayachiba 7時間7時間前
僕がドゥルーズで博論までやると決めた2006-7年くらいには、今ほどは他にいなかったと思うんだけど。
千葉雅也 Masaya CHIBA @masayachiba 7時間7時間前
今僕がアドバイスを求められたら、ドゥルーズで博論はやめなさいと言うなあ、間違いなくそう言う。
しんかい37(山川賢一) @shinkai35 7時間7時間前
そんなにたくさんいるの?ドゥルーズ研究内藤慧 @butanukiponpoko 7時間7時間前
それでも俺はドゥルーズで飯を食いたいので、とりあえずがんばろう
内藤慧 @butanukiponpoko 7時間7時間前
ドゥルーズで博論が書きづらい時代に学部生でよかった。俺が院で勉強できるころにはほどほどに空白が出来てるといいな。
千葉雅也 Masaya CHIBA @masayachiba 7時間7時間前
今僕がアドバイスを求められたら、ドゥルーズで博論はやめなさいと言うなあ、間違いなくそう言う。
出禁・ソド・ザビ @mashitsu 6時間6時間前
果たして溢れ返るほどの数を誇るドゥルーズ研究者の中でどれほどの人間がその価値を理解し表現し得るのか
K, K @K10_01K 6時間6時間前
ドゥルーズ研究者が供給過剰というのも、それはそれで贅沢な情況という気はするけどね。それにマイナー狙いなら良いという訳でもないし
えらい人気
みんな國分と千葉にあこがれてるんか
ドゥルーズ学会日本支部ができるのも時間の問題。
会長は佐々木中で副会長千葉
現象学華やかなりし頃のメルロポンチ研究者の数を考えたら
ドゥルーズ研究者の数なんてまだまだ足りないぐらいじゃないの?
>>378 ドゥルーズを研究する必要があるの?
というか、なんでドゥルーズを研究したいの?
みなさんオレンジレンジというバンド好きですか?危機感感じますね。
音楽シーンってフェードアウトしてません?
どうみてもガキが歌ってんだけど、裏にいっぱいいますね。
ボーカリストという自覚がない奴のうたは聞きたくないです。
椎名林檎は見事ですね。紅白で見ました。
アニメとゲームとテレビ(と映画)の主題歌ばかりですね。
年間ランキングでTOP10のうち7曲が秋元康ですね。
YOUTUBEで”J-POP has died”って書きこまれれているのを見ましたが、本当に死んでしまったように思います。なんで?
WIKIに「AKB48は従来的なモデルでは経済復興が困難な日本でいかに楽しむか、というテーマを先取りしていたのだ」なんて書いてあります。
ほんとにおわってますね。なんで日本経済はこけてるんだろうか?小泉長期政権のちょうど後ぐらいからですね。あの人は何をした人なんだろうか。
>>386 そうだね。
原理的な資本主義は格差を拡大するだけで国民を貧しくする、というピケティ教授の指摘が当たってるね。
>>387 日本経済新聞でピケティを扱った紹介記事で、その所得配分の算出方法が優れている
と言いつつ、だからって資本主義が悪いとなるのが恐ろしいと書いてあった。
日本は2006年頃から(小泉政権)デフレに入っているが、現在ではヨーロッパもデフレになっている。
アメリカが今年財緊縮に入るはずだが、今の物価上昇率では金利が上がるとデフレになる。
これをどのように切り抜けるかがアメリカの今後を占うことになる。
CIAの副長官に経済アナリストを起用したアメリカのお手並み拝見。
>>388 彼の理想は修正資本主義。
企業、資本家が搾取した分を税金に集めて福祉国家を建設する。
かつての日本やアメリカのように。
>>389 資本主義は、搾取した分の十分な再配分をしないと格差が拡大して全体としては縮小する、というのがピケティ教授の研究結果。
インフレもデフレも、基本的には金融政策によるものではなく、原理的な資本主義経済の波ということになる。
つーかさ、格差がないと、借金をしていない働く側が常に経営側に労働を貸している状態で、
経営側が働く側に債務を負い、働く側は経営側に対する債権だけを手に入れるわけだ。
それで経営の命令指揮系統が機能するかどうか考えて見れば、資本主義とはどういう
システムであるか分る。
>>392 その考えを国家運営に読みかえれば、国民主権は国家が機能せずに、独裁国家が機能するということになるな。
ピケティはフランス社会党政権の賜物だな。
>>394 ピケティがフランス社会党政権の賜物じゃなくて、社会党政権の理論的支柱がピケティということだろう。
近経の統計学の強みと比肩するシェマだな。
でも例によって浅田彰みたいなやつからみたら「しょせんはマルクス未満」ってなるよな
浅田彰が経済分析できるとも思えないけど
ドゥルーズはマルクスじゃないけどな。そうだったら意味ないじゃん。
しかし
フランスは哲学や思想の人材が途切れないな
ドゥルーズがマルクスのおまけ(付属品)じゃない、ということを言わないとな。
おまけ未満ってこと?
マルエン全集読まないとマルクスがわからない、なんて下手なことを言うと、
よっぽど暇があって余裕がある、といういいご身分だ。と私でも思う。金があるんだよな。
絶対のの真実なのだが、プロレタリアートはマルエンを読む時間などないはず。
>>402 プロレタリアートというのは個別の労働者のことじゃないよ。
資本主義経済の中での、経済学上の概念。
>国民主権は国家が機能せずに、独裁国家が機能するということになるな。
プロレタリアート独裁?
国家を前提にしてしか国家について考えることができないのが幼稚なんだよ?
人文・社会科学を徹底的に内部から破壊してきた結果がこれだ。
音楽シーンがフェードアウしている理由。トメディアが硬直化しているのは、いつのころからか、民放のテレビの役員職が官僚の天下り先ポスト
になってしまったせい、というのはどうでしょう。
>>409 嫌儲板の哲学スレで北朝鮮が民主主義国家と言ってる人がいたよ
>>411 ドゥルーズスレだから北鮮の記号体制はパラノイア的極の専制君主シニフィアンという分析はどう?
413 :
考える名無しさん:2015/02/15(日) 21:14:56.71 0
北朝鮮は村
戦争社会の暴走が中国に吸収されるのをクラストル的に防いでいる
ミサイルは脱領土化への憧れだが
いずれにせよ自国に落ちてくる
北朝鮮が村なら
日本は島々
中国も大きな島だが
「シニフィアン的パラノイア的な専制的記号体制」(千のプラトー:単行本p142)が当てはまりそうだが。
>>413 ポエムでも比喩でもなく、ドゥルーズ的概念として考えてみてちょ。
416 :
考える名無しさん:2015/02/15(日) 22:03:29.63 0
ドゥルーズはインチキくさいんだよね。こじつけようとしてるだけにしかみえない。
だから知の欺瞞で批判されたんじゃないの?
>>416 あなたは「ソーカル」に頼るしか他にないのか?
北朝鮮に限らず、権力機構のあり方を分析するのはドゥルーズでは無理。
権力についてはどうしても幻想の共同性(共同幻想)の解明が必要。
>>418 馬脚だな。吉本の信者か。「権力機構のあり方を分析する」ためには、共同幻想論は具体性に欠ける。
現代日本の実在の権力機構を「共同幻想論」で具体的に解明してくれ。(できるなら)
ドゥルーズにA・Oの論では「対幻想論」の足元を解体するので、ドゥルーズとは相いれない。
吉本スレでやってくれ。
>>419 幻想の共同性というのはマルクス。
マルクスはヘーゲルの国家論を幻想の共同性という一言で表現した。
これを日本の権力機構のあり方の分析として具体化したのが吉本の「共同幻想論」。
もちろん、こんなことは知ってるよね?
>>416 かつて「ニューアカ」の頃、ポストモダン的に文章を作るマニュアル(青土社製?)が、アングラで出回っていたことがあり、
本当に無責任な論説が跋扈した。ソーカルでなくても駄目なものだった。その頃有頂天だった数多くのデマゴーグは
バブルとともに消えた。
>>420 マルクスの書いたなんという本が出典か書名を書いてください。
だから反ドゥルーズ吉本信者の話なんかしてねえって
424 :
考える名無しさん:2015/02/16(月) 00:44:10.33 0
人文書院 @jimbunshoin · 2月14日
日仏哲学会春季大会(3/21@大阪大学豊中キャンパス)プログラムが公開
http://sfjp-web.net/ 清水高志 @omnivalence · 5時間 5時間前
本当にドゥルーズ研究ばっかりなんだな、日仏。。歯医者のように云々というのも頷ける。
清水高志 @omnivalence · 5時間 5時間前
もっと変わったことやってもいいんじゃないか。学部生の就活スーツが昔よりもみんな一緒になってるみたいな不思議な光景だ。
永観堂雁琳(えいかんどうがんりん) @ganrim_ 6時間6時間前
山内先生が言ってたことは確かだなぁ。半分くらいがドゥルーズの発表やん、日仏……
千葉雅也 Masaya CHIBA @masayachiba 5時間5時間前
確かに日仏、ドゥルーズ多すぎ。僕もその一パネルで司会をやるんだけどね。
>>425 なんだこれw
「ドイツ・イデオロギー」だなw
427 :
考える名無しさん:2015/02/16(月) 00:48:41.68 0
日仏哲学会春季大会
平田公威:把握的表象から動詞的表象へ―『意味の論理学』における表象概念の射程について
鹿野祐嗣:ドゥルーズの『意味の論理学』におけるエディプス・コンプレックスをめぐって
小谷弥生:「反時代的哲学」としてのジル・ドゥルーズ ―精神分析の意義とニーチェ―
多田雅彦:思考のイマージュと存在論――ドゥルーズ『差異と反復』から
安藤勝哉: ドゥルーズ哲学における速度の概念――「ルクレティウスとシミュラクル」を中心と
して
黒木萬代:サディストでもなくマゾヒストでもなく―ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』に
おける母親―
西川 耕平:ドゥルーズにおける<法解釈>と人権
Evgeny Blinov, «La déterritorialisation du signe : l’origine de langue et l’origine de la société
dans l'Anti-Œdipe»
高井寛:E.レヴィナスにおける 真理と他者
松葉 類:レヴィナスと社会契約論――責任の律法とは何か
Akiko Kagaya, «L’inteprétation du visage de la femme dans l’éros et une reconsidération
d’éthique de la substitution»
立花達也:スピノザ『エチカ』における変化の問題
大野岳史:デカルトにおける「観念」と「命名(denominatio)」について
川崎唯史:「私は私自身に与えられている」――メルロ=ポンティにおける誕生の問題
八幡恵一:不可逆の老い シャルル・ペギーと歴史の哲学
佐藤愛:ウジェーヌ・ミンコフスキーの『生きられる時間』における浸透あるいは分有の原理
中原 真祐子:ベルクソンにおける伝達の問題
長坂真澄:存在と存在者の彼方―デリダのハイデガー『カントと形而上学の問題』読解より―
428 :
考える名無しさん:2015/02/16(月) 01:00:47.45 0
ドゥルーズ8
レヴィナス3
スピノザ1
デカルト1
メルロ=ポンティ1
シャルル・ペギー1
ミンコフスキー1
ベルクソン1
デリダ1
日仏の事務局が法政から昨年「大阪大学人間科学研究科 檜垣研究室」に変わったんだな。
桧垣さんだからドゥルーズOKなのかな。かつて日仏で若いころの桧垣さんのドゥルーズの発表見たことあるよ。
財津さんも来てた。法政だったな、開催場所。
430 :
考える名無しさん:2015/02/16(月) 01:33:41.48 0
なるほど
ドイツが戦後、哲学者研究以外はやらなくなったのと引き換えに、フランスが
ドイツの哲学をある程度引き継いで紹介することで、思想哲学業界を商業的に
牽引してきたが、もう完全に行き詰ってる感じでしょ。本当の意味で時代と
取り組まないと哲学は生きない。ドゥルーズ辺りに滞留してるのは、その先の
見通しがなく、ドゥルーズが安全パイだからだろう。フランスの哲学業界が、
戦後体制維持のための装置ではなく、本当に反省する能力があるなら、いくらでも
やるべきことはあるはずだが。
どう見ても日仏哲学会ではなくドゥルーズ学会w
>>431 ドゥルーズが安全パイなのは日本だけだって聞いたことあるんだけど、どうなの?
海外では、ドゥルーズの社会改革への視点について議論されることが多いんだって?
ドゥルーズの著作がほとんど翻訳されたせいだろうか。ドゥルーズのCINEMAを出すのに10年かかった。
安全パイといっても、ドゥルーズの全体像が評価されるまですごく時間かかった。地道な努力あり。フーコーも全部翻訳がある。
それに比して早稲田の文学部で猖獗を極めたのがデリダなのに、グラの翻訳でないまま。根性のなさに腹が立つ。
現実を見据え云々とかいう吉本教の呪文を唱える気はないけど
ドスの評伝で「日本では主に美学的に受容された」的に説明された状況はどうなのって思うよ
>>434 フーコーもデリダも、日本では「研究対象」になっちゃうって聞いたことがある。
ピケティも、そうなるのかな?
マルクスならドゥルーズよりアルチュセールのほうが良いんじゃないの?
ドゥルーズもマルクス論を書こうとはしたけれど
吉本隆明好きじいさんは、
アルチュセールとラカンをハナから馬鹿にして読まない
単に構造主義についていけなかっただけなんだけど、
「弁証法でいける」という万能感が色々邪魔をした
ハイデガーやフッサールも吉本あればいらないという傲慢さが見られる
ようするに「ヘーゲル・マルクス・吉本」で知は全部制覇したと考えるメガロマニア
>>438 あのぉ、アルチュセールって、実践的な前衛主義者なんだけど、なんで歴史的な経緯の検討を捨てた構造主義といわれることがあるんだろう?
ラカンも、フロイトと同じように実践的な心理学者だよね?
いや、構造主義っていうのをどういう意味で使ってるのか知らないんだけどさ。
なにを読んでも読まなくてもかまわないと思うけど、もう少しレッテルで判断するのはひかえたほうがいいんじゃないのかな?
>「ヘーゲル・マルクス・吉本」で知は全部制覇したと考える
そういう人はめったにいないと思うけど、やっぱり、国家や共同的な精神を考えるときには、その3人は外せないと思うな。
ドゥルーズから共同体論を導き出すのは無理だと思うけど、どうだろうね?
精神としての共同体論は、現代でも最重要課題だと思うんだよね。
>>439 レッテルで全部処理してきた吉本信者にはふさわしい返しですよ
「ドゥルーズから共同体論を導き出すのは無理」
こういうの全部ブーメラン
ドゥルーズのテクスト本文読む意思が皆無なのに、
ここで吉本のプロパガンダだけやってるとかマジで邪魔なんですが
ちゃんと吉本スレで「ドゥルーズはだめだよ」とか言ってほしいわ
テクスト(笑)
> アルチュセールって、実践的な前衛主義者
どういう意味」?
>>440 >こういうの全部ブーメラン
ヘーゲルには立派な共同体論があるのは知ってるよね?
吉本の共同体論もたくさんある。
なにがブーメランなの?
>>444 そのままだけど?
マルクス主義革命を起こすためにはレーニン的な前衛党の確立が必要、ということ。
>>446 そんなこと書いてたの?
しらなかったは
>>441 テクストおじさんは、映画でも見ていれば良いんじゃないだろうか?
>>447 うん、多少の曲折はあるけどアルチュセールの基本理念。
>>450 適当に読めばあっちこっちに出てくる。
タイトルは忘れたw
>>451 マルクスのためにを今読んでる途中
晩年の哲学についてが面白くて興味が出たんだ
ありがとう 参考にします。
フロイトとマルクスの扱い方がドゥルーズに似てる、という点でアルチュセールとドゥルーズの関係を言う、のはありだが、人によりけりだ。
アルチュセールは「イデオロギーとは、人間が主体として既存の社会関係に与するための保証を与えているものである」
というところが構造主義的の基本原則に沿うものになる。
ドゥルーズは主体の構成の条件を常に考えているので、共同体的主観性自体がどうであるかは、問題にしてない。
「逆超越論的」に欲望する諸機械が社会野を集合的に備給する仕方、の中に可能性を見ている。
>>449 以下WIKI丸写し。
>70年代後半は、マルクス主義の危機というテーマが、アルチュセールにとり憑いていた。
>ところで、再生産論において、己が共産党の「国家のイデオロギー装置」としての性格について、彼はすでに考察している。
>「大衆の前衛」のはずの政党が、支配構造を維持するためのイデオロギー装置となっているということが、
>いよいよリアリティをもってきたことについて、えもいわれぬ焦燥感を掻き立てていたのかもしれない。
こんなんでレーニン的前衛の可能性などない、という単純なことをアルチュセールが気が付かぬはずがないだろう。
でも相変わらずレーニン的前衛論唱えるやつ多くね?
ジジェクとか
「国家のイデオロギー装置」
そうそうこれが目について興味出たんだよな
再生産についても面白そうだけど、まだ読んでないや
>>455 ソビエトの結果を見れば「レーニン的前衛党」なんて、今更だ。さんざんやってもううんざりじゃないか。
ご存知のとおり、中国でも党大会で「毛沢東主義」という看板をとっくにオミットしており、かわりに「ケ小平路線」を掲げている。
>>457 と俺は思うけど、それこそ「ドゥルーズを美学化してはならない」と思ってる左翼は、
バディウあたりの毛沢東主義を再生させる気あるんじゃないですかね
ドゥルーズが美学化してしまった、という嘆きって、
ようは新左翼に役に立つドゥルーズであってほしい、というバイアスでしょう?
廣瀬純のような威勢のいい論客はそんな感じだと思います
>>459 バディウの「ドゥルーズ」という本を読んが、多様体の話を社会の多様性に置き換えようなどという点が変だ。
ドゥルーズの話が分かってないよ。原書買って損した感じがする。パリ六月革命の頃にはマオイストがフランスにも多かったんだね。
ドゥルーズを美学化(?)なんかしたら、一番嘆くのはドゥルーズ本人だろw
ドゥルーズだって現実社会をなんとか変革したくて、最後にはマルクスに縋ろうとしたくらいだ。
美学と社会変革が排他的と考えるのはかなり頭が悪い
資本主義社会を否定するとすれば、アジア的後進性の中に現在でも必要なのはレーニン的前衛論だろうな。
先進社会では武力による革命は革命たり得ないが、さて、選挙での現実の変革もまた日本では困難だ。
レーニン的(知識人を中心とした)前衛集団の確立が求められる所以ということだろうな。
日本のように、個を確立できない国民が現在のような全体主義を否定できるようになるには、年月が必要なのか、外的な状況変化が必要なのか。
こういう日本では、ドゥルーズもまた、図書館の装飾品になるのも当然だ。
ドゥルーズの現実への焦燥を沈殿させた上澄みの研究などに、どれほどの意味があるというのだろう。
>>464 では、頭の良い君が、美学と社会変革の関係を提出して見せればいいと思う。
>>466 現在の日本人は個が確立していると?
安倍政権の支持率に見えるように、個が衰退して全体主義が日本を席巻し始めているが?
469 :
考える名無しさん:2015/02/17(火) 00:12:12.16 0
ドゥルーズの系列の哲学はプルードンの後継に位置づけなければならない
ドゥルーズ自身も間違ったが決してマルクスの後ではない
その系譜が日本にはない
>>467 左翼が論敵を「美学的」と言えばやっつけられるイージーゲームが続きすぎた
そういう発想の革命って
文革やポル・ポトのような「文化抹殺」に陥るだけでないの
>>470 あのぉ、あまりに通俗的な反応過ぎない?
わずかにでも哲学に関心を持ってる人間が、左翼といえば反美学とか、ただの反共宣伝に乗ってたんじゃ惨め過ぎるだろ。
左翼というくくりだって、特に意味があるとも思えないし、もう少し自分の目で見て、自分の頭で考える習慣をつけたほうがいいと思う。
ドゥルーズをどう読んだら、そんなに単純な安倍自民の擁護者になれるんだろう?
おいおい
なんで文革とポル・ポトを嫌ったら安倍擁護になるんだよw
>>471 >自分の目で見て、自分の頭で考える
これまさに高卒の吉本信者が大学での「頭でっかち坊や」を叩くレトリックだな
大衆は目で見たものを、自分で触れることなしに信じるものであり、
直接に触れる機会のある少数の者は、大多数である大衆が信じている
ことに逆らおうとはしないとマキアヴェッリは指摘している。
>>472 左翼といえば反美学というところを、ものすごく通俗的といってるんだぜ?
文革やポルポトがマルクス主義と関係あると思ってる知識の度合いからは、安倍信奉者かと思ったのさ。
>>473 それなら、高卒の吉本信者は世界標準ということだな。
世界中の誰から見ても、自分の目で見て、自分の頭で考えるというのは、哲学のイロハのイだからな。
>哲学のイロハのイだからな。
哲学のイロハのロは、自分の目に見えるものを疑えということ
哲学のイロハのハまで進まなければ、哲学は始まらない
>>476 得意顔でくだらないことを言わないようにね。
あんまりドルーズ愛好者の評価を下げないように。
お上りさんのプライドですね
ドゥルーズ好きのやつって、こんな程度のしかいないのかよ?
これじゃあ、高卒の吉本信者にも馬鹿にされるのは無理もないな。
481 :
考える名無しさん:2015/02/17(火) 06:29:25.73 0
増補・新装
2015-02-12 10:38:17
テーマ:日常
『ドゥルーズ・キーワード89』が品切れとなり、しばらく経っておりましたので再販を考えておりました。
再販の編集作業を進めているうちにページ数がかなり増える事等ありましたので、増補・新装として新たに刊行させていただきます。
3月上旬予定となります。
営業部より
お上りさんの言うこと=下らない話
合理的な説明には、まず仮説がある。
そのことが理解できなければ、いくら自分が根拠に基づいている
つもりでも、説明はこじつけばかりになる。
美しさは、仮説と経験の調和にある
一見、なんの根拠もないように思われる仮説から導かれる結論に
現実の経験がみごとに従うことに美が体感される
一見見事と思われる仮説から
予想外の錯乱した結論が見出されるというのが
ドゥルーズの哲学の肝心なところじゃなかったっけ?
>>482 お上りさん = 高卒の吉本信者 = 下らない > ドゥルーズ愛好家
こんな感じ?
488 :
考える名無しさん:2015/02/17(火) 12:00:30.16 0
バカの説明の基本には仮説がない。乏しい経験の印象に基づく自分の信念が
あるだけである。だから、その信念を確認させてくれる事実だけをさがし、
矛盾が目についても、こじつけの説明に固執する。事実との矛盾があまりにも
酷くなり、収拾がつかなくなると、自分が傷つかないように問題に無関心になるだけ。
逆に仮説に基づく説明は、みずからの脆さを自覚しているため、つねに
矛盾を事実を探すのだ。見つかった矛盾は仮説の修正を迫ることも、むしろ、
その矛盾に付随する明白な例外が見つかることによって仮説を強化することもある。
美しい仮説は、柔軟で粘り強い思考を必要とする。
489 :
考える名無しさん:2015/02/17(火) 12:02:05.68 0
矛盾を事実を×
矛盾する事実を○
>>487 岩波の古語辞典で調べたら、女の話すことは下らないという意味の例文が出ていた。
ひどいな。
>文革やポルポトがマルクス主義と関係あると思ってる知識の度合いからは、安倍信奉者かと思ったのさ。
キチガイかよこいつは
>>491 無知の度合いが安倍信奉者の無知の度合いと同じ、という意味だから、極めて適切な類推じゃないかい?
たしかに共産主義の真理を学べば、ああいう歪曲された反動と真の革命を区別できますが
美学化批判はジジェク・バディウの極左サイドだけじゃなくて
ローティみたいなのもあるでしょ
ローティはマルクス主義は締め出せって主張ですよね
美学としてなら許すけど、みたいな
それって批判されてるんだと思ってたよ
フーコーデリダが美学である限りでよいなんて
美しいとはどういうことか?
ローティはニーチェ好きだから、そこは批判じゃなくまさに「アイロニー」では
浅田彰の態度にそういうものを感じる
>>497 純粋精神に近づくこと。
てなことを言ってた哲学者がいたようないないような ・・・
美しとは、現実のランダム性のなかから調和が立ち現れることである。
少なくともドゥルーズは不調和を重視しているでしょう
現実には1を数えること自体に既に仮説が含まれている。
ここからそこまで一歩とそこからここまでの一歩が同じであること、
ここから踏み出す一歩と次に踏み出す一歩が同じであることは、
決して自明のことではない。ここからそこまでと、ここからそこまで
が「一歩」として同じであり、交換可能であると見なすことが既に
仮説である。歩数計をつけて開始点から100歩進み、到達地点から
反対方向に歩数を意識せずに歩いて、開始地点に戻ってきたとき、
歩数計が正確に200歩を示していたら、そこに美しさを感じるだろう。
不調和の美というのは、不調和の仮説に対する現実の不調和の調和の美である。
現実のランダム性を排除して、調和だけを追求しようとするなら、
必然的に単調に陥る。
>>503 こういうのひどいよな
擬似弁証法でなんでも語れるという勘違いの温床
調和も不調和も、そもそも存在するのだろうか?
現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である、てなことを言った哲学者がいたようないないような ・・・
[在日本朝鮮人の皆さんに重要なお知らせ]
「韓国へ必要な手続き」
・居所申告証から住民登録証への変更 :2015年1月22日〜6月30日まで
・兵役を忌避した人の個人情報を公開 :2015年7月1日〜
・居所申告証の効力 :〜2016年6月30日まで (※2016年7月1日からは無効となり、使用できません)
※住民登録証への切り替えをせず失効した場合、パスポートが無効となり永住許可の取り消し、及び、強制送還の対象となります
「日本で必要な手続き」
・外国人登録証明書から特別永住者証明書(在留カード)への変更 :〜2015年7月8日
・住民登録 :〜2015年7月8日
※特別永住者証明書への変更・住民登録をせずに外国人登録証明書が失効した場合、永住許可の取り消し、及び、強制送還の対象となります
住民登録証を持てば、韓国の社会福祉制度も受けられる様になります。
届け出はお早めに\(^o^)/
ウンベルト・エーコの「開かれた作品」くらいは読もう。
南口の紀伊国屋で2千円以下で売ってた。
いちいち反論するまでもない馬鹿がたくさんいるな。
>>488 なめてんな。カント主義みたいに見えて、最低限の論理実装主義のふりで、実は弁証法であり、そのカモフラージュの
典拠がが実毛沢東の「実践論・矛盾論」が本音であるという愚劣。
>>503 少なくともドゥルーズの「哲学徒歩何か」の美学ではないと思う。
ドゥルーズが美学であるという、ドッスのジャーナリズム
に付き合う理由はない。
それは美学と言われることが蔑称の場合に限る
別にそれ蔑称じゃないから。
>>511 そうか、いなかったか。
では、僕の記憶違いかも知れない。
美学というのは要するに文学だ、ということだろうか。
アメリカでは実際「A・O」「M・P」の読者が多い。
アベセデールを死後に放映することという条件で撮ったあと、死が近いと思ったドゥルーズが、
最後に自分の生涯の仕事がおそらく十分でないということの思いから、もはや失うものがない者が
言い残そうとしたのが「マルクスの偉大さ」を書こうと思った理由だと思う。
もっと前のインタビューで言ってることなのでそれは違う
大学教師という立場も捨てて、後世に残すもの、という意味で、終始一貫して未来の民衆のために
という観点から書き綴った「マルクス」に関してののメッセージを書きたかったんだと思う。
>ここからそこまでと、ここからそこまで×
ここからそこまでと、そこからここまで○
523 :
考える名無しさん:2015/02/18(水) 03:09:05.37 0
『アベセデール』の地図を作成する 國分功一郎×千葉雅也トークイベント
『ジル・ドゥルーズのアベセデール -”すぐそこ”の哲学-』日本語版DVD発売記念プレイベント
詳細
様々な創造的概念で読む者を魅了し続けた哲学者ジル・ドゥルーズ。
その晩年をとらえた貴重なインタビュー映像が『アベセデール』です。
AにはAminal(動物)、BにはBoisson(飲酒)と、アルファベット一つ一つにテーマを付して、ドゥルーズが順々に話をしていきます。ドゥルーズの人となり、幼い頃、そしてもちろん、哲学、哲学史…。彼の哲学に慣れ親しんでいない人でも楽しめる内容になっています。
彼の死後20年にあたる2015年、453分にも及ぶこの長大なDVD作品の日本語版が発売されることになりました。その発売に向けたプレイベントが行われます。
字幕翻訳の監修を手がけた國分功一郎さんと翻訳チームに参加されている千葉雅也さんをお招きし、まだ発売前の『アベセデール』日本語字幕付き映像を見ながら、この作品の魅力、ドゥルーズ哲学の新しさについて語り合います。皆様、ぜひ足をお運びください。
<概要>
場所:角川第二本社ビル2階 ラウンジ(102-8078 東京都千代田区富士見 2-13-3)
日時:2月28日(土) 14時から17時45分
(途中45分の休憩を設けます。13時30分から13時50分の間にお越しください)
料金:3000円 ※飲食物持ち込み自由。途中休憩中、飲食しながらの歓談を設けます。
※参加ご希望の方が多数になった場合、先着にて受付を閉め切らせていただく場合がございます。ご了承ください。
524 :
考える名無しさん:2015/02/18(水) 14:46:54.47 0
ドゥルーズはマルクスという固有名詞を資本の分析と同義で使っている
確かに差異と反復でブリュメールについて言及しているが、資本論に関しては
フーコーほど読み込んではいない
ドゥルーズの功績の一つはパゾリーニの再評価だろう
エーコもゴダールもその記号論を馬鹿にしていたが、ゴダールは改心した
525 :
考える名無しさん:2015/02/18(水) 14:48:30.35 0
ドゥルーズとピケティは家が近かったはず
映画館ですれ違っていたのではないか?
サイン会で聞けばよかった
>>525 どちらかは相手のことに触れているの?
触れていなければ、関心がなかったんだろう。
すれ違ったとしてもわからないんじゃないだろうか?
ピケティの親も、ドゥルーズには関心がなかったんだろうな。
関心があればピケティにも話すだろうし、ピケティも少しは関心も持つだろうから。
分野が違うということかな?
アルチュセールの妻絞殺あたりを機に、
ノルマリアンは英語圏の学問に傾斜していくし、
ドゥルーズのゼミって外国人が中心だったんだろ
528 :
考える名無しさん:2015/02/18(水) 15:25:10.53 0
>>526 ドゥルーズはタルドを再評価する人で統計学には批判的だった
だからピケティとは水と油なのだが、『21世紀の資本』を読むと、映画好きなのがわかる。
クリシー近辺の映画館ですれ違っていたのでは?というのは、
話題になったマルクスを介在した連想ゲームということで勘弁願いたい
>>506 カント美学なんだな。もう少し敷衍ていただきたいです。
>>528 そんなんじゃなくて、分子的なミクロの無意識のに対し「人称は逆に、モル的な無意識あるいはマクロな無意識の統計学的な分配の法則に属している。」
のであって、モル的な社会野へのリビドー備給の実相は統計数値によってしか、把握されない。
ガタリっぽくて面白い文章だなw
さらにp130(下巻)「一方の分子の領域と他方のモルの領域、一方のミクロ心理学、
あるいはミクロ論理学的領域と他方の統計学的な群居的領域という、これら二つの領域の区別」は
無意識のミクロ的とマクロ的物理学の区別である。
536 :
考える名無しさん:2015/02/18(水) 19:44:20.19 0
>>532 ひとぴとーや種々の集団や種々の機械しか存在しない。
《われわれが、一方に種々の社会機械や技術機械の無意志を、他方
に欲望する諸機械の無意識を定立するとき、問題であるのは、
複雑に結びついている次の二つの力の間の必然的な関係であ
る。そのひとつは、無意識を生みだす要素的なる諸力であり、
いまひとつは、これらの要素的なる諸力に反作用を及ぼす種
種の合力(つまり、統計学的な諸集合)である。これらの統
計学的な諸集合を通じて、無意識は自分を表象することにな
り、早くも無意識自身は自分の生産的な要素的なる諸力の抑
制抑圧を蒙ることになるわけなのである。》
(A.O邦訳単行本338頁4:2「分子的無意識」より「欲望と機械」末尾)
これはガタリの意見だろうが、狭義の統計学批判と読める。
表象ではなく抑圧がキーワードだ。
537 :
訂正:2015/02/18(水) 19:47:23.44 0
>>536 《》前の冒頭1行は消し忘れでした。失礼しました。
AOって社会構成体の話が中心なのに、なんで社会が語れないとか言ってた人がいるのか謎
読んでないんだろうな
ふたりを区別するのは愚かなことだ、とか書いてたような書いてなかったような ・・・
アンチ〜とプラトーってガタリが中心になってるイメージ
>>538 フロイトの社会論がこじつけになるのと同じ、かな?
メビウスの輪みたいなもんで。
>>541 それいってる吉本信者が依拠するヘーゲルや吉本のこじつけよりは面白いよ
例えば、サッカーで「美しいゴール」とは、どのようなゴールだろうか。
単に確率の低いゴールが決まっただけでは、美しいゴールとは呼ばない。
シュートしたボールが相手のディフェンダーに当たり、別のディフェンダーに
当たってゴールに吸い込まれれば、確率的には極めて稀なゴールではあるが、
美しいゴールではない。また、相手のチームとの力の差が開いていて、
シュートが選手の意図に沿ってきちんと決まった場合にも、特に美しいゴール
ということにはならない。「美しゴール」とは、現実の低い確率のなかで、
「このような技巧が正確に実行されたとしたならゴールが決まるかもしれない」
という仮説に、あたかも現実の方が従うかのように決まったゴールである。
そこに仮説と現実の調和が立ち現れるのだ。
>メビウスの輪みたいなもんで。
>>545 壺だと、ソーカルさんに笑われちゃうでしょ?
ソーカル気にする必要あると思ってるんだ?
そんな十数年前の話題が本当に「決定的」だとするなら、
今頃哲学研究は全部分析哲学になってるだろ
>>547 ソーカルの批判と分析哲学に、なんか関係があるの?
>>543 ヘーゲルや吉本を読まなくてもいいんだけど、フロイトくらいは読もうよ。
フロイトに突撃していったドゥルーズに敬意をはらってさ。
ところで、と。
ドゥルーズって、ドン・キホーテそのままだね、なんて書くとおこられちゃうかな?
フロイト読んでないなんていってないですわ
549がドンキホーテでは
あんたよりはドゥルーズの方がこじつけが少ないだろうしな
>>550 僕がなんかなんかこじつけたっけ?
フロイト読んでると、その妄想が君の不安の表れであることがわかるようになるよ。
君は、ドゥルーズの論考がこじつけであることを感じている。
しかし、それを認めると自分のドゥルーズ愛好家としての存在意義がなくなってしまう。
だから他者の記述をこじつけと決めつけることで、自身の不安をうち消そうとする。
不安とその解消の心理だ。
これが弁証法の心理学的展開だな、たぶん。
ドゥルーズ自身が美学的で社会性がないというよりも
日本のドゥルーズ受容が話の焦点だから
日本で実際に社会性のある受容があると示せば済むのでは
吉本おじさんは粘着し続けるだろうけど
話者の動機についての「擬似心理学」でこういう問題を煙に巻こうとするのは駄目でしょ
日本ではガタリに力点を置く伝統があって、そっちはアクティヴィストが多いでしょ
吉本おじさんとやりあってた粉川哲夫あたりが起源だろう
ガタリが最初に来日した時は粉川哲夫周辺でもてなしていて、
そこに浅田彰もいたわけだが、どうせ浅田を強調すると美学だ何だという方向に引きずられる
あと、吉本おじさんはネグリ&ハート『帝国』以降、
この界隈が左傾化したこともろくに知らないんじゃないの
>>552-554 ありゃ、吉本コンプレックスの人まで出てきちゃった。
吉本に反論はできないけど吉本を否定しなくちゃいけない。
フロイトの指摘した両義性そのままだな。
吉本に憧れているのに近づくことができない代償をドゥルーズに求めている、のかな?
>>555 日本以外では、初めから反資本主義だろ?
>>536 モル的なものと分子的なものは体制が異なっていて、分子的というものがエディプス的抑圧をモル的なもおから
受けるということが言われている。しかし逆に分子的な欲望はモル的なものを備給するのである。
「分子的な欲望機械は、それ自体として、モル的な大きな諸機械に対する備給であり、あるいは大きな機械が大きな数にしたがって
形成する布置に対する備給なのだ。」「一方には欲望機械、そして他方には、有機的、技術的、あるいは社会機械があるのだが、
これらの機械は一定の条件においては同じ機械なのである。「一定の条件とは、私たちにとって統計学的な形態のことであり、
そのなかで諸機械は安定した形態を獲得し、大きな重たい集合によって統一化し、構造化しつつ作動する。」
>>558 「モル的なもお」はものです。
A・O下巻p138
家族に対するリビドー備給は「おとり」であって、欲望は直接社会野を備給する、ということが基本。
ドゥルーズはナチスは大衆はそれを欲したから現働化したと述べており、ナチスの社会現象は大衆のの欲望の社会的備給の結果である。
>>557 AOは反資本主義と言い切れないでしょう
吉本おじさんはだいたい1970年代ぐらいまでの本で自己形成し終わっていて、
それ以降は余生
これから吉本隆明は、吉本おじさんとは無関係に読まれていくだろうと思う
ようは信者の存在が邪魔だったわけだ
こんなスレに来ないで、新たな視点で読みなおす作業に入るべき
567 :
考える名無しさん:2015/02/19(木) 13:29:29.78 0
吉本隆明の名前はよく目にするけど、読んだことがないし、
吉本隆明について書かれていることを読んでも、なんで
吉本隆明を読む必要があるのかまるで不明なんだよね。
世代の違いなんだろう。
>>564-565 吉本おじさんにもかまってもらいたがるドゥルーズ愛好家。
かまってあげるけどw
寂しくないかい?
>>567 読んでないけど、必要性がわからない。
ふむ。
新しい感性だなw
日本では柄谷行人と浅田彰が吉本隆明を一掃したから、
俺も必然性わからん
>>570 そんなに吉本が気になるなら、1冊ぐらい読んでみればいいんじゃないの?
吉本を一掃したと言ってもそれは柄谷ー浅田ー蓮實ラインの
せまーい批評空間だけの話でしょ?
必然性が無いと、他人の評価だけで下すなんて知的怠慢もいいところ
かくいうオレも吉本を読んでないから読んでみる
以上の手続きを経て、それで下らなかったら罵倒しまくってやるw
574 :
考える名無しさん:2015/02/19(木) 16:06:03.32 0
気にならない。気になる人がいるのが不思議なだけ。
読める本の数なんて限られているのだから、何を読むか選ぶ場合、
世間の評判は、ポストに投げ込まれるチラシくらいにしか思って
いない。大切なのは、フリーサンプルでしょ。どこかで見た
著者の発言や引用文になにか感じるものがあれば、その著者の
本のページをめくってみる。それ以前に、賞賛している書評を
見ても、引用されている内容が下らなければ、わざわざ本の
ページをめくってみようという気も起きない。
まさにそうやって吉本隆明はどうでもいいと判断してきました。
576 :
考える名無しさん:2015/02/19(木) 17:02:00.85 0
最近の柄谷は吉本が広げた風呂敷を閉じようとしていて、今、両者ともに読むと面白い。
吉本の最初のドゥルーズ評は自身を唯心論、ドゥルーズを唯物論と卒直に規定していて
これも面白い。全集撰3?でしか読めないかも、、、、
おすすめはフーコーとの対談が載った「世界認識の方法」でkindle,ibooksで読める。
フーコーの引き立て役になってるだけだが、フーコー論として吉本はいい指摘(ニーチェとの
類似性)もしている。
吉本はカントをちゃんと読んでなかったから柄谷に越されたが、自分を含めた下手な
ドゥルジアンよりはヘーゲルを読み込んでいる。そこは認めたい。
吉本の「わが転向」(1995)を読んでないかね。マルクス主義と決別しているよ。97年文庫化(文春)。班切れ。
要は布教だね
一人でも吉本信者を増やしたいという
ドゥルーズはクソ、吉本隆明読め、といいたいわけか
無駄だろ
>>528 実のところドゥルーズは「差異と反復」において、微分的イデーに関して「数的」なものを排除していない。
同様にA.・Oにおいても量的もしくは数的なものを分裂者分析に関して、「統計的」にしかとらえれないもの
(モル的なもの)を積極的に認める以外ない、と思っている。
ニーチェと哲学における量の考察は重要ですな
>>576 柄谷と吉本を結びつけるのは無理じゃないかな?
柄谷は資本論理解に、カントを持ち込み、プルードンを持ち込んで論理を失って支離滅裂になった。
プルードンの論理のなさはマルクスに批判されているが、柄谷にもやはり論理がない。
吉本は弁証法の論理は失っていない。
ちなみに、ドゥルーズが唯物論だというのは、エンゲルスの唯物論を踏襲しているという意味。
ドゥルーズはエンゲルスを読んでいるかどうかわからないが、AOなどの論理はエンゲルスの「起源」と変わらない。
差異と反復読んでないのまるわかりだな
清水高志 @omnivalence · 3時間 3時間前
ドゥルーズ=ガタリの翻訳で、「××機械」っていう訳もどうかな〜と思う。。「機構」くらいでいいような所でそう訳すかなぁ。。
いまどきドゥルーズてw
589 :
考える名無しさん:2015/02/19(木) 22:48:24.02 0
>>584 前にも指摘したが、弁証法は修辞学・レトリックであって論理学ではない。
また、柄谷『世界史の構造』第一部は吉本が料理し切れなかつた素材を扱っている。
柄谷の交換図は自由と平等のベクトルを交差させてつくられる。
初歩的な論理学だが極めて強力だ。
590 :
考える名無しさん:2015/02/19(木) 22:52:52.55 0
>>589 弁証法をレトリックだと思ってるんなら、確かに吉本は不要だろうな。
吉本だけじゃなくてマルクスもヘーゲルも、あるいはサルトルもメルロ=ポンティも、かな?
>柄谷の交換図は自由と平等のベクトルを交差させてつくられる。
本気で書いてるとも思えないんだが、もし本気なら、論理学云々以前に、自由とか平等とかはそれ自体では論理の根拠を構成できない、定義のない概念だということをどう考えるのかな?
>>591 哲学の歴史12巻で「20世紀フランス哲は19世紀ドイツ観念論に匹敵する哲学思潮だった」と書いてあった。
弁証法と現象学をドイツからミックスで輸入することから始まっており、その幼年期は
それらを踏み台にして何とかしようとしていr多時期があっつた、
ドゥルーズのキャリアのうちの長い沈黙の時代はその二つの前提の充分な咀嚼の時期だったといえる。
そのうえで独自な観点から「差異と反復」が書かれる。
>>591 平等も自由も古い言い方では理念だった。
(ヘーゲルは「歴史は自由のの意識における進歩である」と言った。)
ドゥルーズにおkる理念(イデー)論は、元来曖昧かつ判明なものである。
定義上はっきりしなくても、ある観念を抱くことは無意味だなんて
いうことは日常経験に照らしても心理学的に違うと思う。
ロジシズムの分哲の先生でも、
AIによる記号処理が「自由」「平等」という記号を処理できることに
口をはさめない位に自明だ。
理念もなきゃイデーもないとすれば、すべて操作的定義を要する名目的概念になり、大事なはずの「本質論」なるものが成り立たたない。
それがいい、というなら好きにやってください。
>>595 ヘーゲル哲学を真理としないかぎりその指摘は無意味だな
>>592-593 ヘーゲルは自由そのものを明確に定義してるよ。
その論理を生かして方向を逆転させたのがエンゲルス。
「自由」をそんなにいい加減な概念で使ったりしてない。
>>596 「哲学とは何か」の中でドイツ観念論とへーゲルに言及しつつ、「哲学は概念を用いてする仕事」として、
古典近代哲学から「概念」という考えをリアレンジりして生かしているよ。
ヘーゲル=マルクス主義の真理を前提として、他を蹴散らすゲームとは別の手段でマルクスを考えたのがドゥルーズ。
この吉本じいさんはドゥルーズの本を読まずに、
既存の「弁証法ディベート」を繰り返しているだけ。
何か言われたら「ヘーゲルはそんなこと言ってないし、マルクス=エンゲルスはさらにその先を行く」という論法でやり過ごす。
相手が割と正確なヘーゲル理解を示した場合、
でもマルクスはヘーゲルを「逆立」させたよね?と恫喝して問い詰める
マルクスから攻めてきた場合は、
「そのマルクス理解はヘーゲルを踏まえていない」と却下する
理性という語はドイツ語ではVERNUNFT、合理的はRATIONAL。しかるに英語では合理的も理性的も同一語でRATIONAL。
604 :
考える名無しさん:2015/02/20(金) 22:41:30.56 0
マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた。
「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に
叙述された形式 とはまったく違っている」
(マルクス、ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。
(例えば、マルクスが前提とした複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。
スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。〜エチカ1:a6〜)
マルクスは『神学政治論』の抜き書きをしているが、参照するべきは『エチカ』だ。
ヘーゲル、マルクスを読む際にもスピノザに立ち返る必要がある。そこからやり直すしかない。
ドゥルーズもスピノザ、ライプニッツ研究者であり続けた(この三者はともに並行論者だが、
ヘーゲル、マルクスは彼らとは違って弁証法信奉者だった)。
>>604 >「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に
>叙述された形式 とはまったく違っている」
>(マルクス、ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁
フランスではスピノザ研究はゲルーによって再発見され、ドゥルーズもそれに倣っている。
上述のことは今更だが「スピノザと表現の問題」でドゥルーズがやっている。
スピノザの思考のイマージュを読み取るルことで、内的構造に届くように読み込まれている。
ヘーゲル=マルクス主義からドゥルーズを裁断する人は、
アルチュセールだけでなく、ゲルー=ドゥルーズのスピノザを知らなさすぎる
>>598 「法の哲学」だったように記憶しているけど、記憶違いかな?
エンゲルスは「反デューリング論」だったと思うけど。
スピノザ萌えの人って、スピノザのどういうところに萌えているの?
吉本隆明信者こそスピノザに萌えるべき
彼は在野哲学者の星でしょ
ヘーゲリアンだと「しょせん実体の人で、精神を知らない」とかいって終わらせそうだが
>>609 どこに萌えたらいいのかわからないよう \(^◇^)/
僕も吉本隆明信者になれるかな? V(=⌒▽⌒=)V
ドゥルーズのスピノザ実践の哲学とか、講談社メチエの知の教科書あたりで入門すれば?
>>611 「スピノザ実践の哲学」とか「知の教科書」とか読むと吉本隆明信者になれるの?
エチカ読んだだけじゃダメ?
ドゥルーズは「エチカ」を全文暗記していたらしい。
>>607 うちの店ではもう扱わないようにした品物がありましてね。
味がよくないんで。
>>591 なるほどおっしゃるとおり、格差社会と言われる今日、「平等」なんてないし、
自民党は変身して、ソビエト並みの圧政を行っているので「自由」なんてものはない、かもしれぬ。
平等と自由とは人間が1人だけとなった世界でしか実感しないんじゃね?
>>617 ピケティの統計計算式にのっとた日本の所得格差は戦前に比して戦後非常に小さかった。
シャウプ税制のせいだという。(日経)平成になってどうかは、わからない。
所得格差の指標はジニ係数位しかなかったんだけどね。
もっと稼いで贅沢したい人、そこそこで稼げればいい人、明日の食費を稼ぎたい人等
人間の経済的欲求自体マチマチだからなぁ
私は古いから、昭和の頃の平等感はありましたよ。
よくないことが多いいんだけど、今の若い人は人口が少ないから、企業が必死で人材確保だそうで、
やっと就職氷河期状況を抜けるようですよ。
>>617 無人島でしょうか。知覚自体が出来上がらないよ。
>>621 マンデヴィルの「蜂の巣の寓話」だったかそんな設定の物語を読んだことがある。
トゥルニエの『フライデー』はロビンソン・クルーソーへのラディカルな批評であり、
ドゥルーズのトゥルニエ論は他者なき世界を通じて社会の発生条件を問うもの
>>623 こういっちゃなんだけど、スキマ哲学だね。
本人もそのつもりなんだろうけど。
>>607 「法の哲学」と「反デューリング論」が何故同列に置かれているか分からない。
キチガイだと思う。
マルクスは「ヘーゲル国法論批判」でヘーゲル批判をしており、
「この論考はマルクスに依拠している」とエンゲルスが総論ではっきり書いてある
「反デューリング論」がなぜ同じになるのか。
ヘーゲルとエンゲルスの明らかな差異を無視できるなんてことはありえない。
本当のキチガイだ。
触れたくもない。
>>625 まあ、興味があったら読んでみれば?
どっちも結構おもしろいから。
マルクス自体があまり弁証法的ということを
「資本論」で言ってない。
自然弁証法なるものを追ってしまった
エンゲルスが間抜けだ。レーニンも
ヘーゲル研究している。
そうすんとヘーゲルとエンゲルの間に奇妙な親近性が合うことになる。
そういうことはどうでもいいんだ。
>>627 エンゲルスというのは天才だから、天才にありがちな早飲み込みなところがあるな。
でもやっぱり天才の論考は読むものをひきつける力がある。
エンゲルスをしのぐ理論家は、確かにマルクスぐらいかも。
エンゲルスの論考はわかりやすいから肩が凝らなくていい。
ドゥルーズは読みにくいかもね。
何を考えてそんななのか、と思うが、エンゲルスは個別に其々独立に発展してきた
当時の科学を「弁証法」を用いて解釈しなおそうとしている。自然科学を弁証法化する
という試みは全然今の世の中に残っていない。ダメな理由になっている。
ポエムだからね
633 :
考える名無しさん:2015/02/24(火) 22:45:11.67 0
以下、タルコフスキー『映像のポエジア』より
詩について言うならば、私はそれをジャンルとは考えていない。詩、それは世界感覚である。
現実にたいする関係の、特別な方法なのだ。その場合詩は、生涯人を導く哲学になる。
…
このような詩的論理に従う道程で、きわめて多くの妨害に出会うことになる。一歩あゆむたびに、
敵に待ち伏せされるのである。詩の論理が、文学の論理や演劇のドラマトゥルギー上の論理と同
じように、正当であるにもかかわらずである。構成の原理は同じである、ただその構成要素が変
わるだけなのだ。このことに関して、ヘルマン・ヘッセの憂欝なことばが思い出されてくる。
「詩人は、そうであることは許されるが、そうなることは許されないなにかなのだ。」まさに
そのとおりである。
634 :
考える名無しさん:2015/02/24(火) 22:46:37.59 0
ふたたび、タルコフスキー『映像のポエジア』より
マルクスとエンゲルスは、あるところで、歴史が自分の発展のために選択したのはその最悪の
バリエーションであった、と指摘している。この問題を存在の物質的側面からのみ見るならば、
確かにその通りである。歴史が観念論の最後の一滴をしばりとり、個人の精神的意味が、歴史
のプロセスのなかでどんな意味も持ちえなくなったとき、彼らはこのような結論に達した。
彼らはその原因を分析することなしに、こうした事態を確認したのだ。ところで、その原因は、
人間がその精神的原理にたいする責任を忘却したことにあったのである。はじめは人間が、
歴史を精神の存在しない孤立したシステムのようなものに変えたのだけれども、やがて歴史の
機械は、動き続けるために、人間の命を歯車として必要とするようになったのだ。
この結果、人間はなによりも社会的に有用な動物と見なされるようになる。問題はただ、
どこに社会的有用性を見るかということなのだ。ある人の活動の社会的有用性に固執するあまり、
その人個人の利益のことを忘れているとするならば、人間の悲劇のためのあらゆる前提を作ると
いう、許しがたい誤りを犯していることになる。
635 :
訂正:2015/02/24(火) 22:48:59.74 0
訂正:
歴史が観念論の最後の一滴をしぼりとり、個人の精神的意味が、
歴史のプロセスのなかでどんな意味も持ちえなくなったとき、彼らは
このような結論に達した。
636 :
考える名無しさん:2015/02/25(水) 00:13:53.08 0
fujita hiroshi 藤田 博史 @foujita_hiroshi · 4時間 4時間前
ラカンがダメな最大の理由は「限られた系のなかでしか成立し得ない超越論的な視座を提供している」という点にある。
例えば、ラカン信奉者が必ず引っかかる「欠如」の上に「逆説的に」構築される「象徴界」という虚構も、多世界や観測される以前の未決定の世界では全く成立しなくなってしまうのだ。
637 :
考える名無しさん:2015/02/25(水) 00:14:39.93 0
fujita hiroshi 藤田 博史 @foujita_hiroshi · 1月2日
ジャック・ラカンの精神分析から学ぶべきものがあると未だに信じている人たちの、その呪縛が早く解けますように。
638 :
考える名無しさん:2015/02/25(水) 00:38:46.89 0
藤田ってラカン信者の権化だった人だろwww
なにをいまさら批判してんだろね
>>631 マルクスが何を言っていたか、分からない。資本論の第一巻だけがマルクスの生前に出たもの。
後はエンゲルスの編集。あてにはならない。読む気が起らない。
ドゥルーズひついてエンゲルス役がガタリだとしも言えるかも。DGのA・Oで言うマルクスの脚注が多いのに
比して、M・Pではフーコの脚注の方が多くなる。マルクスがわからないままでも、DGを読んでも構わないつもり。
マル・エンがらみで血がたくさん流れているので、とりわけこの話題は論じたくない。
この話題をこじって何とかなるなんてことはない。
原注でA・Oではマルクスへの言及37箇所、M・Pでは9箇所。フーコーの言及はは両署とも5箇所。(単行本人名索引)
署でなく著。また失礼。
A・Oのマルエンの典拠を示した注は17か所、M・Pでは8か所。
数え違いご容赦、
645 :
考える名無しさん:2015/02/25(水) 14:05:10.03 0
マルクスを崇拝する人間はマルクスを理解していないし、
馬鹿にする人間は読んでない
だから状況は絶望的なのだが例外もある*
ドゥルーズA.Oでマルクスについての原注をめくってみると、
なぜかフーコー『言葉と物』について書いてある。
これはドゥルーズ/ガタリがフーコー経由でマルクスを理解したということだ
フーコーのマルクス理解は本物で、例えば、資本論第二部について「複数の権力」が
あることを示していると指摘するなど、的確だ。
リカードとの関係性の把握も正しい。吉本との対談でもわかるように、
経済学の歴史性をわかっている。
基本的にドゥルーズはアナーキストであり、マルクスとは資質的に逆だ。
晩年、資本の分析が足りないという意味でマルクスの偉大さについて語ったが、
本を仕上げるつもりはなかったと思う。
マルクス及びその後のマルクス主義の問題点は柄谷『世界史の構造』に引用された
プルードンとの往復書簡にすべて書きつくされている
*
カレツキは数少ない例外だ
ケインズは?
647 :
考える名無しさん:2015/02/25(水) 18:26:42.79 0
西村賢太bot @nkenta_bot · 2月21日
その私が選ぶベストとなれば、何をおいてもまず私小説が挙がってくる。しかし、私小説ならば何んでもいいと云う訳ではない。
結句、藤澤清造を別格とし、葛西善蔵、田中英光、北條民雄、川崎長太郎がその種の四天王であり、この五人の作のみが、私にとっての私小説なのである。(「私小説五人男」)
西村賢太bot @nkenta_bot · 2月21日
信じているのは、藤澤清造だけである。清造がらみでなかったら、わざわざ高い運賃を払って、はるばる能登くんだりまで来やしない。
第一、私は石川県の人間と云うのが、おおむね嫌いなのである。清造に関わりがなければ、本当は線香の匂いなぞ、嗅ぎたくもないのだ。(「一日」)
西村賢太bot @nkenta_bot · 2月22日
そして葛西善蔵や川崎長太郎の私小説を繰り返し繰り返し読むことで、女もなく友人もいない毎日を、さして無聊とも感じずにやり過ごすことができていた。
彼にとって友人なぞは、実生活上で何んの役にも立たないし、女は結句体だけが欲しいのだから、これは買淫で充分に事足りる。(「棺に跨がる」) 👀
648 :
考える名無しさん:2015/02/25(水) 20:03:08.06 0
TSUBAMOTO,Mitsutoshi @shinobu_red4123 · 21時間 21時間前
ゲンロンカフェへ行ってきた。きょうはデリディアンの集い。
後半のわけわからん精神状態になったところで発せられた「ドゥルーズの『強度』はヤバイ、あれは『気合い』と同じ」ということばが、きょう一番のヒットだった。
A・Oは原書463Pで註は295個、M・Pは原書で645Pで註が546個。前者は0.64Pに註ひとつ、個後者は0・85Pに註ひとつ。
註のうちマル・エンの典拠を示している註は前者5%、後者は2%。
ドッス評伝のとおり、前者がいかに性急にマルクスに依拠して書かれていたかがわかる。
それに比して、後者がさまざまなテクストの織物として練り上げられて、書かれていることがわかる。
だいたい本を読んでみての内容の感じと変わらない数値だと思う。
651 :
考える名無しさん:2015/02/25(水) 23:33:14.37 0
貧困・飢餓問題の原因は資本主義、ドイツの3人に1人が回答
2015年 02月 25日 13:45
[ベルリン 24日 ロイター] - ドイツで24日公表された世論調査で、資本主義が貧困や飢餓問題を引き起こしているとの回答の割合が3分の1近くに上った。
そうした経済システムでは、真の民主主義が実現できないと大半が感じているという。
ベルリン自由大学が委託し、調査会社エムニドが手掛けた調査で、対象は1400人。
調査によると、元共産圏のドイツ東部では、共産主義者や社会主義者の理念は社会にとって有益だとした回答が59%となった。
西部ではその割合は37%だった。
また、ドイツでは産業界の影響力が強すぎ、有権者は副次的な役割しか果たしていないため、本来の意味での民主主義は実現されていないとの回答が60%を超えた。
>>645 柄谷について語りたいなら、やってみてよ。
プルードンのお説を聞きたいよ。
また吉本じいさんか
芸風一緒だな
今はエンゲルス最強論に執心
656 :
考える名無しさん:2015/02/26(木) 12:48:11.68 0
エンゲルスはデューリングを真似て弁証法を作り上げた
マルクスもプルードンを真似て経済決定論を展開した
対してドゥルーズは影響を受けた先達やライバルに対してフェアだ
少なくとも盗んでおいてその相手を批判するようなことはしていない
(プラトンやカントなど敵とみなされる人の扱いがうまい。敵の歌を歌うことが出来るのだ。)
生前精神分析を受けたことがないと言っていたが、その必要がなかった
657 :
考える名無しさん:2015/02/26(木) 12:55:16.25 0
無人島上に収録された「彼は私の師だった」も、
サルトルに対して実にフェアだ
『記号と事件』冒頭の若いストーカーへの対応もフェアといえばフェアだ
最近浅田彰が言った言葉「素直が一番」が想起される
658 :
考える名無しさん:2015/02/26(木) 12:56:18.81 0
ヘーゲルやハイデガーは先達にとてもアンフェアだね
理解できなかったといわれるが、極めて疑わしい
659 :
考える名無しさん:2015/02/26(木) 12:56:36.92 0
ただし、ウィトゲンシュタインに対してだけは、、、、、、、
今度ABCを見て確認したい
660 :
考える名無しさん:2015/02/26(木) 13:06:25.75 0
「このような才能が、すべての人間に大して、いかに少しずつしか与えら
れていないかは、当代フランスの多くの書き手を見れば一目瞭然である。
- 中略 - そこに見られるのは、奇をてらった、みじめなわざとらしさ
だけだ。- 中略 - とにかく彼らときたら、新奇さに悦に入ることさえ
できれば、その効果などはどうでもいいのだ。新しいことばをつかまえる
ためとあらば、彼らはしばしば、もっとも力強く、内実もある、ふつうの
単語を捨ててしまうのである。」
モンテーニュ 宮下志朗訳「エセー 6」p.177-178
「大して(ママ)」は、「対して」の誤植でしょうね。
モンテーニュって、インテリが厨二病を患って大衆批判するときのツールにされすぎ。ニーチェ以後はその地位から脱落したが。
>>656 >エンゲルスはデューリングを真似て
>マルクスもプルードンを真似て
デューリングの本は読んだことがないから、エンゲルスの引用なんかで想像するだけだけど、プルードンは「貧困の哲学」読んだからわかる。
マルクスとプルードンを同列に見る人は、どちらもまったく理解していないか、どちらも読んだことがない人なんだろう。
どこをどう読んでも論理のかけらもないプルードンの論考と、厳しい論理の積み重ねであるマルクスの「資本論」では、真似どころか影響もまったくないと言い切れる。
プルードンのなにを高く評価しているんだろう?
マキァヴェッリとモンテーニュの区別すらつかない人がいるようだw
教養崩壊
666 :
考える名無しさん:2015/02/26(木) 15:21:49.73 0
>>649 649につきまして。
M・Pにはマルエン以外ににもアルチュセール・ローザルクセンブルグ等の
マルクス主義者の名前がいくらがある。生一本のマルクスではないので、
計算から外してあります、
>>645 >ドゥルーズA.Oでマルクスについての原注をめくってみると、
>なぜかフーコー『言葉と物』について書いてある。
その註はどこにあんの?
お返事待ってます。
669 :
考える名無しさん:2015/02/27(金) 17:26:21.44 0
>>668 市倉訳邦訳単行本508頁、原注第四章(22)。
対応する本文は同360頁、第四章第3節「精神分析と資本主義」(単行本352~,文庫版下152~)内の、
「いかなる(文庫版:どんな)意味で、精神分析は表象を破壊し、どんな意味でそれを再建するのか。
資本主義の要求」の項のラスト=
「神話的表象。悲劇的表象。精神分析的表象(神話的、悲劇的、精神分析的表象)」の項の直前。
670 :
考える名無しさん:2015/02/27(金) 17:27:07.78 0
《…換言すれば、資本主義は、たしかに、普遍的内的本質としての
生産というものを確立するために、規定されたー定の大きな
客観的表象の崩壊をもたらしたわけであるが、しかしこの資
本主義は、そのために、表象の世界から逃れでたというわけ
なのではない。この資本主義は、この世界に無限の主観的表
象という新しい形態を与えて、この世界のー大変換を操作し
ているだけのことなのである。(22)》(A.O市倉訳単行本360頁)
直前の同段落内において、マルクスの言葉が自由間接話法的に紹介
されていた(《マルクスは、次のようにいって一切を要約している…
「かつては、人間は自分自身の外に外在し、人間の状態はじっさいに
疎外された状態であった。いまやこの状態が、疎外され没収されてゆく
働きに変わったのだ」…》同359頁)。
これに対する原注が、
《(22)フーコーが指摘していることは、次のことである。「人文
諸科学」はその原理を生産の中に見いだし、表象が破綻した
ところに構築されたものであるが、しかし、これらの人文諸
科学は、無意識の表象といったものとして新しい型の表象を
再建しているのだ、ということである。(Les Mots et les
choses, pp. 363-378).》(同508頁)
直前のマルクスの言葉に対しての原注はない。また本文の一連の流れの
なかにはフーコーの名前はない。表象と資本主義とを同時に批判してい
るのだが、『言葉と物』におけるフーコーのマルクス理解に関しては、
『世界認識の方法』等に所収された吉本との対談がやはり参考になる。
671 :
考える名無しさん:2015/02/27(金) 18:08:20.05 0
>《「かつては、人間は自分自身の外に外在し、人間の状態はじっさいに
>疎外された状態であった。いまやこの状態が、疎外され没収されてゆく
>働きに変わったのだ」…》(A.O第四章第3節内邦訳単行本359頁)。
参考:
《生産物の形を取った労働者の外化は、かれの労働が対象となり外的存在となるという意味をもつ
だけでなく、それがかれの外に、かれから独立した疎遠なものとして存在し、独立した力としてかれ
に立ちむかうようになることを、いいかえれば、かれが対象に投入した生命が疎遠なものとしてかれ
に敵対することを意味する。》(長谷川宏訳、マルクス『経済・哲学草稿』「疎外された労働」より)
ただし、ここでドゥルーズ/ガタリはマルクスの名を出す際に、『経哲草稿』ではなく『資本論』
(とその体系)を念頭に置いているように読める(『差異と反復』では『ブリュメール〜』が言及される)。
お返事ありがとうございます。
ドゥルーズの「マルクスによれば、、、云々。」というアバウトな引用が多く、そこの処は本当は嫌だ。典拠の註がない。
マルエンを全部読んだ人にしかわからんだろうから、ほっぽっておくしかない。(できる人が検討してください。
>>671 実は私は人間主義マルクスの「経哲草稿」にあまり思い入れがない。
当該引用箇所が、マルクスと「フロイト」を論じた箇所であり、一方的にマルクスの話ではない。
構造主義的フロイトすなわちラカンに関連して、別の道として「(構造的に条件づけられている)資本主義における主観性」を検討する
にあたっって、フーコーを引用している、ドゥルーズにおいてかなり重要な部分であることが分かる。
あえてマルクスは「精神」を控除して唯物論を論じているので、こころや魂を論じるときには「ヘーゲル」に戻るという
大前提が「吉本マルクス」のいいぶんである。「世界認識の方法」p12(吉本隆明)フーコー対談所収。
「差異と反復」で受動的総合に関連して、ドゥルーズは「霊魂」^ameと書いているので、自分で唯物論的というのは、いまいちすぎる。
質料論的と言い換えられる理由。(稚拙なドゥルーズ=ガタリ)
リビドー抽象量と貨幣がパラレルであると言いたい。
677 :
考える名無しさん:2015/02/27(金) 21:41:53.54 0
『差異と反復』の時点ではドゥルーズのマルクス理解はアルチュセール経由だったが、
A.Oではフーコー経由になった。
それは共に構造主義以降の思考だが、より脱政治主義的な歴史観に基づくものになった。
という見たてができる。
>>670 フロイトとマルクスにおいて分離されている「抽象的主観的労働の発見」と「抽象的主観的リビドー」は同一の事態であり、
二度置き換えられた各々の表象のテリトリーから脱コード化されうる、と言いたい。(単行本p357〜p360)
>>677 >より脱政治主義的な歴史観
こういう雑な理解の根拠が知りたい
どういう奴が「政治主義的」なのか
アベセデールの発売日の情報とか出たかい?
ロシア語っていいな。
ダイハードの最終作みた。全く知らない世界だ。
684 :
考える名無しさん:2015/03/03(火) 19:12:32.84 0
【書評】
ポスト構造主義におけるニヒリズムの徹底:ドゥルーズの多孔質的判断力論を開く──千葉雅也『動きすぎてはいけない――ドゥルーズと生成変化の哲学』書評(江川隆男)
江川の「アンチモラリア」がっかりだった。千葉は話がうまかった。俺の感想。
>>684 表象09だな。才能ないな。馬鹿ばかり。
細々とやってんだからいいにするよ。
688 :
考える名無しさん:2015/03/04(水) 14:27:14.17 0
またキムさんですか
691 :
考える名無しさん:2015/03/06(金) 13:43:44.93 0
フランス図書 @frbooks1 15 時間15 時間前
クセジュ文庫よりドゥルーズの概説、4月刊行予定。
Krtolica, Igor - Gilles Deleuze. [PUF]. (Que sais-je?). EUR9.00
>>670 >直前のマルクスの言葉に対しての原注はない。また本文の一連の流れの
>なかにはフーコーの名前はない。表象と資本主義とを同時に批判してい
>るのだが、『言葉と物』におけるフーコーのマルクス理解に関しては、
>『世界認識の方法』等に所収された吉本との対談がやはり参考になる。
なかなかのデマゴギーだ。
>本文の一連の流れの>なかにはフーコーの名前はない。
というのは全然嘘。注22が現れる前の4p前(単行本)の節の冒頭が「ミッシェル・フーコーによれば」から始まっており、「構造と表象」につての文脈として
マルクスというよりフーコーに関連した議論をしている。さらに原注18はミッシェル・フーコの「言葉ともの」のの引用のフランス語版の典拠である。
新潮社版ではp229〜p232「欲望と表象」および「リカドー」p272〜p275の箇所が該当する。
註22は新潮社版ではp373〜p388「人文諸科学についての人間は」から始まる。
「本文」はこの場合、原注が振ってある段落を意味する。
本来なら『経哲草稿』の出典が示されるべきところでフーコーの
『言葉と物』の要約が示される。
マルクスの出典は何なのだろう?と原注頁をめくってみたら
フーコーの解説だった、ということだ。
ちなみにこの『言葉と物』の解説はよくできている。
フーコーにとってはスミスとリカードがメインでマルクスはつけたしなのだが、
資本論理解としても正しいものになっている。
さらに述べれば以下のようなドゥルーズのテクスト観が細部の引用論争以上に、
マルクスの資本論に対応している
「一冊の本を読むには二通りの読み方がある。一つは本を箱のようなものと考
え、箱だから内部があると思い込む立場、これだとどうしても本のシニフィエ
を追い求めることになる。・・・こうして注釈が行われ、解釈が加えられ、説
明を求めて本についての本を書き、そんなことが際限なくつづけられるわけだ。
もう一つの読み方では、本を小型の非意味機械と考える。そこで問題になる
のは『これは機械だろうか。機械ならどんな風に機能するのだろうか』と問う
ことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、
何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。・・・説明すべきこ
とは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続
するような読み方だと考えていい。」
記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)のp.21
>>670 >『言葉と物』におけるフーコーのマルクス理解に関しては、
>『世界認識の方法』等に所収された吉本との対談がやはり参考になる。
対談の中でフーコーはこういう。
「正しい真実のマルクスは何かといった、いわば真実の効果といったようなものと、
この国家的な哲学(社会主義国)のマルクス主義というものをいかに結びつけていか、
いないかといった視点が我々の思考を貧しくしているのです。」
それに応えて吉本は
「フーコーさんが包括的に言われたことは
ただしいマルクスの理解はどうなんだという問い自体がすでに現在の政治的イマジネーション
を貧困にすることに加担していて、とっくに終わった問題ではないか、つまり全部片付いてているのではないか
ということではないかということです。そこには異論がありのでついていけないように思えます。」
そののち「主体性マルクス主義」でヘーゲルの体系を意志論として総括するのが、日本流だという
お手盛りをだらだらやり始める。
いかは「いるか」です。
ありのは「あるので」です。
>>693 どうも「疎外論的マルクス」らしいが、門外漢である上、ドゥルーズの引用や註のつけ方もいい加減だ、
ということを強く感じます、
吉本がたぶん「新・書物の解体学」の中で、「A・Oの作者は「何かわからない理由で」オイディプスが嫌いである。」と言っている。
おとぼけである。対幻想(家族)を留保なしにD=Gは認めていない。逆に言えば「対幻想」こそが吉本のただ一つ「人間的でありうる領域」
なので、「マルクスとフロイトをともに脱領域化する」という主旨は、牧歌的すぎる「家族このよきもの」の心棒をぶち破ってしまうターゲットなのだ。
>>700-702 他人の熱心な書き込みに一言のレスは失礼だと思うよ。
賛否はともかく、まるで自分はなんでもわかってる、みたいな思い上がりが透けて見える。
反論するなら根拠を示すこと。
いい議論になっているのに、議論に参加できない人間の妬みみたいで惨めだよ。
テキスト解釈は箱から隠れていた中身を取り出すような作業じゃないというのは、
ポスト構造主義の典型的な発想だろう
>>704 もう少し自分で理解して書いたらどうかと思う。
雰囲気の言葉では、自分を優位に見立てたいだけの惨めさが表れるだけだよ。
そもそも、ポスト構造主義などという分類に典型的な発想といえるものがあるのかどうか。
誰かが思いついた分類自体を疑ってみることを忘れているんじゃないだろうか?
自分の頭で云々、自立が云々というレトリックもかなりオートマティックだと思うよ
>>706 自分への批判を相手や他人にすり替えるのは、とても惨めに見えるよ。
手練手管の段取りは見えているので、先に答えを出すと、ドゥルーズのA・OとM・Pは「イデオロギーとして」収束しない。
その理由は「民衆の」哲学でありたいのであって、「国家の」哲学には抗したいから。
別の言い方では、「捕獲」するのではなく、「解放」することを目指しているから。解毒剤とか中和剤になっている。
ノーアンサー。次のいい手は?
まあ、「愛」なるものが対幻想であるとしたら、「愛は地球を救う」という安物電通コピーの如く大人しく聞いておいてもいい。
対幻想に可能性を見てしまう吉本はどうもなあ
吉本信者のジジイが娘のばななを認めるとも思えない
そうやって電通揶揄してるんだから
電通安物コピーすら肯定してみせろや
大ら人しくそれもいいだろう、というだけ。
誰もがお子様向けコピーということは知ってる。
「機械が生産する」というやつですか。
産業資本みたいですね。
この割り算、掛け算で実際の経済的数量が算出できますか。
やっぱりロシア語やめる、。英語勉強する。要人暗殺まだやってる。