1 :
ぼるじょあ:
芸術とは、アポロ的なものとデュオニソス的なものとの
二重性によって進展していく。
丁度生殖が、絶えず争い続け、
僅かに周期的に仲直りする男女両性の対立のように
消滅したと思ったら、いつの間にか復活してるじゃん。
>>1乙っぱい
4 :
考える名無しさん:2014/05/14(水) 20:24:56.03 0
ニヒリズムは必要。物事の必然性も踏んだし、解った。物事の必然性の連続だ。
次は他の人が権力を握ってくれ。
5 :
考える名無しさん:2014/05/14(水) 20:36:27.54 0
ちなみにソフィーの世界を読んだから、俺は悟れた。
日本の国家権力を次の人が握ってくれ。
>>5 ソフィーの世界は読むべきかね?
悲劇の誕生は、おすすめ。
ニーチェの処女作でもある。
1日あれば読めるし、文章に引きずり込まれる感覚はさすがニーチェ
7 :
考える名無しさん:2014/05/15(木) 08:55:22.64 0
オススメはしない。
お、なんとなく哲学板開いたらニーチェスレ復活してるやんけ
>>1乙!!
9 :
考える名無しさん:2014/05/15(木) 20:25:01.55 0
先輩方、携帯CMの繋がっているとニヒリズムどっちが正しいですか?どちらが好みですか?
>>7 そう言われると読みたくなるな
休日は1日中図書館に篭もるかな
携帯で繋がっているって言われても人間の深層心理のクソ深い所ですべて繋がってるから今更携帯とか言われてもそれは・・・(呆れ)って感じやなw
それよりニヒリズム!これは素晴らしいね!
まずこの世界!なんの価値もありませんw
あらゆる情報は操作され隠蔽されまともな情報なんてほとんど入ってこないと思っていい
支配者に都合のいい情報や歴史や道徳が脳にインストールされるだけっスwそして、そのインストールされた情報により喜怒哀楽等の反応をするのが我々ダスwww
凄いですよねこれw
あ、これ機械と同じじゃん(困惑)みたいな〜
そこで出てくるのがニヒリズム
こんななんの意味の無い世界なら自分で意味を見出だしてやるという強烈な意志の現れ
面倒物質の蓄積により飽きたので就寝させて頂きます
>>11 ニヒリズムは過激な思想だよな。
超人思想には、脳味噌のロジックが書き変えられる程の衝撃力と骨太な鉄筋鉄骨コンクリートのような屈強さがある。
ワイも寝るで。おやすみ
13 :
考える名無しさん:2014/05/16(金) 00:06:31.34 0
>>10 ソフィーの世界はファンタジー小説のニヒリズムの本で
上にもあるように古い概念です。
新しい価値、社会問題、繋がってるねがどうにもなりません。
音楽でも聞いてます。
14 :
マサチューセッツ州リキ:2014/05/17(土) 20:29:41.71 0
>>11 全然違うだろ。その主張の立ち位置自体がニヒリズムの現代にあるのであって、
ニーチェの主張は立ち位置自体の成り立ちだ。例えばキリスト者に「天国へ
行きたいという我欲で信仰している」といったら笑われるぞ。
ノリで適当に書いて途中でやめた文にマジレスで返すとか真面目なロボットだw
まぁ質問の書き込みで携帯のなんやらとか書いてたんだから現代風でもいいだろうという感情が脳から浮かび上がってくるロボット人間でした
16 :
考える名無しさん:2014/05/19(月) 16:11:41.37 0
有名芸能人と繋がってしまう。友達とも繋がる。
どうしたらいいの?
17 :
考える名無しさん:2014/05/19(月) 16:21:01.05 0
昔、ロンドンブーツの田村淳が繋がって困ると言って、選挙やり直さなかった?
18 :
考える名無しさん:2014/05/19(月) 16:24:49.42 0
小渕内閣の時。
19 :
考える名無しさん:2014/05/19(月) 16:26:09.36 0
俺の元彼女も著名人との繋がりが多い。だが、元彼女自身は無名のちんちくりん。如何に海外大学計算機学科へ返還不要の奨学金もらって入学していようがな!
これは元彼女の、自身を苦しめ戒め、煩悩と戦わせるカルマのルートなのだと思う。
人生計画の立て方も、いわゆるNPC型。つまり、適当にガス抜きに旅行・散財しながら、リアルのほうには何も手を加えず死ぬまで何も成さぬまま延命しているだけ。
俺のことを才能の塊と、嫉妬を超えた差別感情で非難するが、そんな風に諦める本人の踏ん張る力が、足りない。
その至らなさが実力・才能の限界というのならば仕方がないが。
俺から見ると、人間ごときの成すことは、やりように依るだけで、才能や実力なんて本当はそんなに関係ないという真実がある。
別に偉人や著名人を目指せとは言わないが、後悔するような自分に成り果てるような人生設計は書き直せと、再三忠告している。
元彼女は俺に近い人間だ。俺を元彼女の知り合いの著名人達と比較して、「なぜ彼らのように表舞台に躍り出ない!?」と苛立つ様子を見せる。
俺にとっては金を稼ぐことと比べると、脚光を浴びることなど簡単なことだ。超速のスライダー系変化球として飛んでいる俺の人生の演出を、まだ元彼女は知らない。
「友だちの友だち*6で全員友だち」のスモールワールドネットワーク理論の対極に、「友だちの友だちは、赤の他人なんだよ」という真実もある。
何が違うのか。リソース分配のレイヤーで何か異なっている。結論ないまま文章を終わらす。
21 :
考える名無しさん:2014/05/22(木) 19:43:40.92 0
>>20 久々に携帯ハゲみたいな低能発言聞いたな。
俺のレスの中では短い部類だから、読めないようなら読み飛ばして自分の世界に引きこもってろ。
>>21 お前みたいな自惚れていて、
つまらなくて、
事物を完結に書けな奴は、
心の底から死んで欲しいと願うよ
23 :
考える名無しさん:2014/05/22(木) 20:53:03.49 0
>>22 >心の底から死んで欲しいと願うよ
完全敗者の負け犬の遠吠えだな。
呪いは自分に掛かるんだよ。お前の望み通り、低能なお前には死が待っている。
俺の人生には関係ない。
まず、俺が自惚れているとお前に見えるところが、お前のやっかみだ。俺は俺。俺について来れないバカは置いていく。俺はそういう奴。
>>23 思い込みで物事を語るな
ただただ、死んでほしい
頼むから死んでくれない?
25 :
考える名無しさん:2014/05/22(木) 21:11:35.07 0
>>24 おまえが思えば思うほど、おまえが死ぬのに近づく。
呪いの構造も知らずに我が儘発症しているお前は惨めだ。
>>1
>>25 「呪い」なんかないから
ただ俺はお前に死んで欲しいと願っている
それはまごうことなき事実
27 :
考える名無しさん:2014/05/22(木) 21:22:25.98 0
>>26 おまえの無知を理由にした無効な反論など受け付けない。
決闘だ。
この世は俺を中心に回っている。
この世はお前を中心に回っている。
どちらが真実であるかの決着がついたとき、勝敗は決定している。
この勝負に、俺がお前と言葉を交わす必要性もない。
現在から勝負開始。どちらかが死ぬまでのデスマッチ開始だ。
>>1
範馬勇次郎vsデジモン
29 :
考える名無しさん:2014/05/22(木) 23:03:46.00 0
価値観も地位も違うのに争うな。高意義が待っている。
争い自分の力を誇示したいのが人間の本質だからな
自分の中の正義と他人の中の正義のぶつかり合いだ
限りの無い力への意志は古代にあった絶滅戦争を再来させる恐れがある
そろそろ人間は病を完治させ次のステージへシフトするべきだ
31 :
考える名無しさん:2014/05/23(金) 22:41:23.82 0
病は克服しても、次の病が来る。それが人間。
32 :
考える名無しさん:2014/05/23(金) 22:56:53.02 0
1700年から、1900年の構造哲学から、抜け出す事は出来ない。
33 :
考える名無しさん:2014/05/27(火) 09:43:32.23 0
風濤社 ― ふうとうしゃ ―
【新刊情報】
『哲学者としてのニーチェ』
アーサー・ C・ ダント(著) 眞田収一郎(訳・解説)/¥4800+税//
ニーチェの名誉回復!
いまだ誤解された ナチスの御用哲学者 のイメージを払拭すべく、
分析哲学の立場から “哲学者” としてのニーチェを 体系だてて述べる。
英語圏におけるニーチェ研究の礎を築いた1965年刊、古典的名著が待望の刊行!
400頁をゆうに超える大ボリュームで、5月下旬、間もなく発売予定!
たけーよ
超訳ニーチェは楽しいけど、それ以外は怖いの?
超約は読んでないな
ニーチェ入門とこれがニーチェだは読んだ
今はツァラトゥストラを読んでるわ
上の高い本を読むんならあと3,000円出してベルゼバブの孫を先に読みたい
37 :
考える名無しさん:2014/05/28(水) 05:52:48.95 0
じえん
発狂したあとの手紙が読める本ってありますか?
39 :
マサチューセッツ州リキ:2014/05/29(木) 00:09:30.66 0
>>31 進化が終わったから虚無なんだろうが。ニヒルの病は永遠だよ。
世間といっしょにおどってたらいきなり行き場がなかった
世界といっしょにおどろう
行き場などどこにでもあるしどこにでも行ける
世界はお前の手の中だ
43 :
考える名無しさん:2014/06/09(月) 08:54:37.92 0
夢の中で働く夢見た。出番来たり。
保守
ハイデガーはニーチェの後継者にして最高レベルの解説者
46 :
考える名無しさん:2014/06/16(月) 19:08:38.79 0
47 :
考える名無しさん:2014/06/16(月) 23:09:44.05 0
ハイデカーの本は買っても、破るに限る。頭がイカレル
48 :
考える名無しさん:2014/06/17(火) 00:06:58.65 0
哲学の他に、日本の儒学、多神教を取り入れた。
毎日忙しい。
バーローそんなものより
人間的あまりに人間的 を読むべきだ
これ実は1000Pある本なわけだが、お前ら読んでるか?
読んでないだろな・・・
50 :
考える名無しさん:2014/06/20(金) 17:44:44.82 I
寧ろ逆にニーチェは楽しいだろ
他に別にニーチェは面白いだろ
当然正反対にニーチェは物凄く素晴らしいだろ
特にニーチェは魅力的だろ
51 :
考える名無しさん:2014/06/22(日) 22:53:43.82 0
ってかニーチェの間違った価値観をダメと取ったら
仏教の六道がある。日本人やったら普通に仏教になるよ、年齢的に。
しかも、同時進行で修羅界とか六つある。
あとは受け入れるだけ。不思議な事が起きる。哲学の時代終わり。
ニーチェは信仰がキライだっただけ。仏教でも神社でもお参りすれば、
儒学の哲学で生きて行ける。勿論それで困る連中もいる。
ニーチェはギリシャ神話が好きだったみたいだし仏教の影響も受けてたみたいだね
>>52 yes thats light!
ツァラ語る物語はそれらの影響をモロ受けまくって書かれたと思われます
ギリシャ神話と仏教、自由と苦行、…
共通してるのは多神教だということ
キリスト、イスラム、ヒンデゥー、サンスクリット、……、オウム、
人間として心理的に安心する為に集団へと同化するのかな
無信仰の私は芸術や趣味的な連帯は信じてますが…圧倒的に楽しいもんね
「畜群」を超えて「超人」を目指すべき、
つまり「畜群」より「超人」のほうがベター、といっている点で
ツァラトゥストラは「全ての価値を転倒」していない気がするんだが
その点どうなん?
人間自体を綱とか橋って言って超克されるものって位置づけだからベターとかそんな生易しいレベルじゃ無いんじゃね
>>59 「超人」は「ベター」ではなく、
「マスト」なんだよね
初めてのニーチェで善悪の彼岸を読んでるんですが
第1篇の4で非真理が生の条件であることを認めるべきだと書いてますが
それだとニーチェは不信の念と軽蔑の気持ちを持って眺めたいと表現している哲学者たちを
肯定するべきではないんでしょうか?
自分自身が非真理を表現する事が生の条件であって、他人の非真理は生の条件にはならないのか、
ニーチェはこのロジックを自分に当て嵌めていないのか、僕の理解の仕方がおかしいのか教えてください
詳細は解かりませんがニーチェが晩年に書いた最期のこの人を見よの中では、
「否定が全く存在しない生活をしろ」と説いています
つまり否定をする無駄な労力を使うよりも、自らを高みへ進むませる労力を費やせと言うことでしょうか
やっぱりそれが永劫回帰の正体なのだろうか
>>62 ニーチェを2,3年かじった者の意見です
他人の事物に対する、肯定も、否定も肯定する
自身は事物を肯定するよう思考する
他人の思考自体も肯定しているが、
稀に譲れない時は決して譲らない
肯定する事物を増やしていくことで、生をより豊かなものに変えることができると理解している
他人にはそれとなく肯定促すように思考を誘導している
肯定は人をハッピーにすると思うから
指摘あればどうぞ
ニーチェが批判してるのは
あくまでプラトンからヘーゲルまでのプラトニズム哲学者であって
西洋哲学史的観点から読まんと混乱するかもな
>>65 >プラトンからヘーゲルまでのプラトニズム哲学者
ずいぶんめちゃくちゃな分類だなあ。
プラトン(あるいはソクラテス)以降の形而上学を批判してたんだっけ
神秘主義的なものを批判してた感じなのかな
確かにそれって宗教に繋がる要素あるもんね
ネ申の「光あれ」も非現実だものね
99.999999999…%の確率でダーウィンの正解
でもね、実は…
大自然や人工アートの神秘感は存在すると思います、不思議です
神に見守られている…それも然り
大自然に包み込まれている…それも然り
だがしかしプラトンカントヘーゲルが
生の否定であり、ニヒリズムというのは事実である
ニーチェ「人はいかにハンマーでもって哲学するか」
心臓を打つ哲学ですね
生の肯定と否定の両極性を持つ哲学や芸術ってほんとうに不思議だと思う
太陽はあらゆる生死の根源だよね、ソフト&ハードな光を与えてくれる…
74 :
考える名無しさん:2014/07/15(火) 18:18:03.74 0
社会問題が一年前に比べてかなり減った。それは認めてくれるよね?
全然違う問題になったし。
>>74 誤爆?
そうじゃないなら、社会問題とか意味不明なんだけど?
今後、人類はどの様に収束していくのだろうか
ニーチェの言う超人という理想的状態へと100%を目指し収束し続けるのだろうか
既に始まっているのであれば、間違った方向へ進んでいないだろうか
ヒトラーの予言では人類は超人・神人のグループとロボット人間に分かれるとあるな
2039年には完全に神人のグループとロボット人間のグループに分かれるらしい
ロボット人間とは何か
現代社会で支配者層にとって都合のいい歴史と常識をインストールされマスコミやツイッター、まとめサイトの情報を受け何も自分で考えずに機械的に反応している集団
それはヒトラーの予言に影響されてこんなこと書いている俺にも適用される
結局人間は生きていたら何かしら思想を植え付けられるものだ
その初期の思想を捨てて超人になり自分の理で生きていくとしてもその理を土台にしてただただ反射と反応を繰り返しているに過ぎないのだろう
力への意思は科学的に考えてもそれなりに理があると思うけど永劫回帰は格段に扱いが難しそうだね
永劫回帰って瞬間瞬間を肯定するという世界の受け取り方程度のものなんじゃないの?
輪廻へのリアクションの質を悲観主義から楽天主義にかえる、ぐらいの意味しかないと思われ
81 :
考える名無しさん:2014/07/21(月) 00:47:44.43 0
永遠回帰にはスピノザとライプニッツ両者からの影響があると思う。
ニーチェが永遠回帰を発見したのは1881年8月だが、その直前にニーチェはスピノザを
賞賛する手紙を書いている。肯定という主題がはじめて出現したのだ。
ライプニッツに関しては、永劫回帰の発見以後の1886年、ニーチェはライプニッツに
よる「意識は表象の一偶有性にすぎない」というテーゼを賞賛している(『悦ばしい
知識』第5章「われら恐れを知らぬ者」357)。
アガンベンは「つまるところ、ツァラトゥストラの永遠回帰は、ライプニッツの『弁神論』
の無神論的な変種でしかない」とまで言っている(『バートルビー』)。
シュタイナーによれば、ニーチェはデューリングから永劫回帰のアイデアを得たと言う
(シュタイナー『ニーチェ』)。ニーチェの蔵書のなかにあるデューリングの著書には
ニーチェの書き込みが残っているのだ。
現在の一瞬を極小小粒子の特定の連関結合(Kombination)として描いている点において、
ニーチェはデューリングの『厳密な科学的世界観と生命形成論としての哲学教程』(1875年)におけ
る記述の否定的記述から永劫回帰の説をあみだしたことになる(邦訳シュタイナー『ニーチェ』p197)。
ただしデューリング自身はライプニッツの影響を受けているから、間接的にこれもライプニッツ
経由と言える。
ニーチェにはスピノザとライプニッツ両方が必要で、永遠回帰は両者の統合だったと思う。
だからこそスピノザ(一元論)とライプニッツ(多元論)を共存させたドゥルーズがニーチェを賞賛したのだ。
思えば『差異と反復』はまるまる一冊、永遠回帰に捧げられていると言っていい。
『ツァラトゥストラ』を読めば、東洋思想の重要性は明らかで、仏教からの影響も考えるべきだが、
シュタイナーの言うように、永遠回帰は最新物理学への、超人思想は最新生物学(=進化論)への
ニーチェなりの回答と取るべきかもしれない。
古代ギリシャでは、時間は円環と考えられていた
キリスト教の終末思想によって、世界に始まりと終末がある直線的時間という認識に代わってしまった
永劫回帰は、仏教の影響というより、古代ギリシャへの回帰である
なぜニーチェはギリシャ人をあんなに
崇拝していたのだろうか
84 :
考える名無しさん:2014/07/22(火) 18:41:47.72 0
7[一五六]
私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、より純粋に、よ
り美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。
1870年末−1871年4月
(ニーチェ全集第一期第一巻白水社267頁より)
>>84 いかにもポストモダンって感じだわ
キリスト教批判が有名だけどプラトン主義も批判してるんだな
ニーチェやりおる
ツァラトストラはだれの翻訳がおすすめですか?
本屋(古本だと古い漢字使ってたり活字が小さく読みにくかったりだから)行って自分で読み比べてみて好きな感じの言葉使いしてる翻訳を読むのが一番いいよ
自分の記憶では岩波文庫(新刊)のがいい感じだったかな
原文に忠実に翻訳してるかどうかはどれもそんなに変わらないと思う
中には時々恣意的な翻訳してるのもあるけどね
>>89 ありがとう。
どうせ誰かの解説を参考にしないと理解できないと思うので、原文に忠実であるかどうかは気になりません。
岩波で読んでみます。
91 :
考える名無しさん:2014/08/21(木) 01:42:03.28 0
鶏が先か卵が先かで言うと神が創造した説を信じる。
そうすると聖書が基本になる。聖書買ってくる。
世界いや、宇宙を作ったのはハヤウエーだ。
あと望みは日本の古事記の難しめの本だ。
仏教のルートとルーツの本も欲しい。それも難しめの本。
空海と最澄が中国に行って修行して、日本に持ち込んだのが最初の仏教。
あとこの世は仮の場であの世が本当。
最後に真実は哲学で編み出したが、哲学は真実ではない。
霊とかスピリチュアルリズムが真実。
但し、真実を知ったら隠すように。真実は寺、神社。
しかし、最後のどの宗派か決まらなく、近くの神社、神道形式が臨終の場と決めた。
高次元の広意義世界は地球上では世界紛争や戦争になるから議題が無くなる。
92 :
考える名無しさん:2014/08/21(木) 02:08:22.08 0
つまり、真実が寺、神社で海外で言うとキリスト教。
古事記と聖書、仏教は教えの本読んだけど、ルート、ルーツの本が無い。
あと超訳ニーチェの本はナチスの八時間労働で週五日勤務の基本体系で使える本。
しかも、これは病まない。
神社参りで、色々行くとマズイ。多神教になる。
93 :
考える名無しさん:2014/08/21(木) 02:14:44.89 0
ここまでたどり着くと、仕事に興味なんてない。
ニーチェは超人を作り出すが、世界を創造したのはハヤウエー
94 :
考える名無しさん:2014/08/21(木) 02:28:59.38 0
ぷっ
宗教だったらグノーシス主義が分かりやすいわ
支配者層が信じてるのもこれやろ
グノーシスにも超人思想的なものが存在する
叡智(グノーシス)を手に入れて根源の神(プレーローマ)へと帰還するというものだ
ニーチェは「独り生の内的な興奮」と言う意味で読むのがいいしここに書き込むのがいいと思う
だから決して「ぷっ」だなんて言わないでほしい
科学的な現実的な目で生を見詰めたって死と言う陽気さのカケラも無いものに鬱飲めされるだけだから
しかし、ニーチェには治安を乱す危険さの無いただ自己破壊を孕んだ健全な内的な生の肯定がある
98 :
考える名無しさん:2014/08/21(木) 22:08:56.82 0
ニーチェによって他の哲学者は蹴散らされた。
99 :
考える名無しさん:2014/08/22(金) 05:26:47.61 O
必ずニーチェは大好きだろ
絶対にニーチェは大好きだろ
確実にニーチェは大好きだろ
100%ニーチェは大好きだろ
十割ニーチェは大好きだろ
一応ニーチェは大人気だろ
多分ニーチェは大人気だろ
もしもニーチェは大人気だろ
仮にニーチェは大人気だろ
例えニーチェは大人気だろ
寧ろ逆にニーチェは大流行だろ
他に別にニーチェは大流行だろ
当然正反対にニーチェは大流行だろ
特にニーチェは大流行だろ
勿論ニーチェは大評判だろ
無論ニーチェは大評判だろ
確かにニーチェは大評判だろ
もっと更にニーチェは大評判だろ
100 :
考える名無しさん:2014/08/22(金) 10:19:26.64 0
力への意志と言うのは
生命とは力を強化しようとしている
力を強化しようとしているものが生命だ、というのが俺の解釈だね
進化論に関することも色々書いてるね
進化論か
微生物、ネズミ、サル、猿人類、人間、…次は一体何になるだろう
たとえ何になろうとも生物としての本能は相変わらずだろうし、知能と感性で科学と生をより充実したものにすることを願う
生命の神秘!
たとえ人類の次は無く滅びようとも、再び人体へと進化する素粒子は宇宙を漂い続ける…
104 :
考える名無しさん:2014/08/22(金) 17:05:16.31 0
永劫回帰
105 :
考える名無しさん:2014/08/22(金) 19:22:20.39 i
生物学でも生物自身が進化しようとして進化するという
専門家が増えてきてるみたいだ
まさに闘争本能だと
もしそれが存在しなければ現存在の人間の脳も身体も退化しているだろうし、全滅してただろうと
地球上、相変らずパレスチナ周辺でドンパチやってる人達もいれば火星まで行こうとしてる研究をしてるNASAの人達もいたり
そんな物質的なものから離れてただひたすらに精神世界に没頭してる人達もいて、人類模様は様々だね
実は地球から始まったのではなく、火星や水星から人類が始まった。
その後住めなくなり、地球に移住した説。
火星にも水があったって話があるみたいだな
この太陽系自体が実験場かもしれん
今現在も火星では探査機が走り回ってるみたいだよね
太陽系の解明…ワクワクしますね^^
でも知り得る可能性は現代人の寿命の先の先だから、間に合わない…
しかし恐るべきクローン技術やiPS細胞などによって寿命が延びまくるそして不老不死の時代も可能性としてはあるかも
だけど、生命体として正常な人間の状態を持続してはいないだろうと
太陽系そしてその向こう果てしなく広がる宇宙空間…
そこに人類の様なまたは未知の生命体が無限に存在する可能性は100%あると思う
その生命体(知的で善良)とコンタクトをとる楽しみが最も大きいですお
>>110 「可能性は100%ある」 っておかしくね?
可能性があるメタ可能性という意味だろう
>>112 >可能性があるメタ可能性
なんだそれw
「可能性は100%ある」がおかしいのは日本語の使い方になじんでないだけ。
「可能性は100%だ」とすれば普通の会話だ。
どうでもいいことで揚げ足を取んなwてか普通に意味は成り立ってるし
>>114 可能性は、100%未満の意
言葉の定義も十分にできない奴はROMってろ
はい。
ニーチェ的な夏を過ごせよな
つまり太陽に焼かれまくって肌を真っ黒にすることか
ツァラ物語の主人公のオッサンてヒッピーぽいよね
119 :
オニオン:2014/08/27(水) 05:25:39.34 0
『この人を見よ』の最後ではキリストvsディオニュソスと書かれているように、
彼の海賊精神のアナーキズムはキリストのアナーキズムとはちと違うのだ
人間存在の弱さを認めて宗教や信仰によって救われるのではなくて、
ディオニュソスの様な思考も言動もワイルドな個人の力を信じると言うことだろう
苦しみと死や死後の世界などを唾棄して、現存在の生のみを信じて快感と共に充実させる…
時に陶酔して夢も見る
時にバッドトリップして悪夢も見る
なにはともあれ、経済的余裕が無い生活はナンセンスです
125 :
考える名無しさん:2014/08/27(水) 21:39:58.79 0
ニーチェを読んだら他の哲学者の本が読めなくなった
ニーチェというのは、自分の好悪を正当化してるだけだと指摘する人もいる。
どうなんだろね?
目に沁みるか沁みないかが肝要な哲学
128 :
オニオン:2014/08/28(木) 07:05:05.88 0
哲学は所詮アクセサリーだからな
中の人が醜悪で無才ならニーチェにかぶれたところで結果は知れてる
自分を正当化するために陳腐な殺人鬼が勘違いして引用することもあるが、
ニーチェが賞賛する犯罪ってのは自由と美から発する衝動の結果であって教義ではない
従って犯罪を行うこと自体に自由と美が内包されていると主張する連中は相手にしてはならない
>>128 西洋国家は、かつて宗教によって成り立っていたけど、ある時から哲学によって成り立つようになった、と書いたのはドゥルーズだったかフーコーだったか。
>>128 ニーチェが賞賛する犯罪って何ですか?どの著作でそんな記述してるのかな
131 :
考える名無しさん:2014/08/28(木) 13:35:36.69 0
>>128 「自由と美から発する衝動」とは、自己の内面にある「生命(=力)への意志」のことでしょうか。
132 :
オニオン:2014/08/28(木) 21:45:15.45 0
>>129 詩人ハイネ曰く、哲学は宗教(神学)を焼きなおした同じようなものに過ぎない
(ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』)
そして宗教・哲学・思想といった観念の類が人間や社会を設計する力学と、
物質・能力・諸関係が思想を設計する唯物論の力学が人を挟んでせめぎあっている
アンバランスではない二つの強い力に挟まれることで、人は高みへと浮かび上がることができる
観念的な力だけでは、非力なドンキホーテみたいなもんで、すぐに現実に躓いて倒れてしまう
最も、どちらがより重要であるかといえば、唯物論に分があるだろう
従って思想がひとりで社会を持ち上げているような論説は相手にするべきではない
>>131 そうだ。力への意志は、秩序や法治主義といった偶像の監獄を退ける
しかし前に力への意志とその強度を、反社会性の強度をものさしに計る人がいたのでね
あの人の思想は、新左翼のように、際限の無い、より大規模なテロへと向かい続けるばかりで不毛だ
>>132 哲学と宗教を同列に扱うのは、個人の思考と共同的な幻想を同列に扱うという錯誤じゃないの?
134 :
オニオン:2014/08/29(金) 00:37:30.59 0
>>133 宗教はカトリシズムで、哲学がプロテスタントだと言いたいのかな?
ところが宗教はひとりから始まり、哲学は啓蒙思想の集団イデオロギーと化す
>>134 えーと、悪いけどまったく見当違い。
個人の思考はわかると思うけど、共同的な幻想というのは人間が集団で行動する場面での精神のあり方。
136 :
オニオン:2014/08/29(金) 01:10:30.61 0
>>132 「最も、どちらがより重要であるかといえば、唯物論に分があるだろう」
その結論に至る納得のいく説明は?
ママに聞いてみなさい
衒学を思わせるレスばかりで何も入って来ないお
コスモスのアースがエントロピーの増大でポアンカレ予想も不毛でありイデオロギーがうんたらかんたら…
こんな感じ
ママン「いい歳して何くだらないこと言ってるの?そんなことよりいい加減に真面目に働きなさい」って言われた
144 :
オニオン:2014/08/30(土) 00:20:05.64 0
ドストエフスキーの『白痴』があんまり面白くなくて読書がすすまないのだが、
ムイシュキンとロゴージンの対比からキリスト教とニーチェの掲げる理想像の差異を
抽出できると睨んで研究中
145 :
マサチューセッツ州リキ:2014/08/30(土) 06:42:30.40 0
哲学を個人の思考とするのは無理がある。個人の思考が哲学に反映されることは
あるにせよ、哲学も宗教も共同体的な幻想だろう。
146 :
マサチューセッツ州リキ:2014/08/30(土) 06:53:51.28 0
>>130 ニーチェが賞賛する犯罪とは「ニーチェがこの犯罪をしろ」といっているという
意味ではなく、自由と美から発する衝動の結果それが犯罪であってもいい、と
いうことだ。ここでタマネギがいっているのはニーチェの主張である衝動に
基づく結果としての相対的な犯罪を絶対化し、犯罪にこそ自由と美があると
摩り替えていることへの非難だ。
147 :
マサチューセッツ州リキ:2014/08/30(土) 06:59:25.28 0
>>83 それはギリシャ人が人生それ自体が悲劇である事を理解した上で、明るく
振舞っていたからだ。単に明るく振舞うのは能天気だが、明るく振舞うその
根底には不条理な苦しみがあった。
148 :
マサチューセッツ州リキ:2014/08/30(土) 07:14:38.07 0
>>64 全然違う。自己実現とニーチェ思想は全く関係がない。ニーチェを現実の
社会で役立つ形で受け取ろうとする悪い癖だ。受け入れるということは
信ずるということであり、これこそドストエフスキーの小説である悪霊の
キリーロフの人神思想だろう。全てを信じることでしか神を確保することは
できない。
149 :
考える名無しさん:2014/08/30(土) 08:35:22.95 0
ニーチェは、現実でも、役立つ
昼の理性。 夜の情熱。
(私は、毎日、実践して居ります。ハイ。)
>>143 ここが他所だ ここでやれ、てなことでどう?
>>151 ごめん、ここがロドス島だ、をもじってみただけなんだ。
153 :
オニオン:2014/08/31(日) 04:18:11.16 0
>ギリシャ人は人生それ自体が悲劇である事を理解した上で、明るく振舞っていた。
嫌な言い方をすれば、それは自己欺瞞であり、自己暗示ということでもありうる
――繰り返された虚構は真実となる
154 :
マサチューセッツ州リキ:2014/08/31(日) 14:05:20.06 0
もし自己転移が答えなら超人思想は進化思想に成り得る。しかし暗示するという
能動的な所作自体がニヒリズムだし、暗示はどこまで行っても真実との距離は
温存される。ニーチェ思想を1つの宗教と相対化する時点で、タマネギは腐って
しまった。
155 :
マサチューセッツ州リキ:2014/08/31(日) 14:19:07.44 0
キリーロフが死んだのは超人思想を1つの宗教教義と捉え、それに座礁した結果
だろう。神の能動的確保は、神の存在性格と矛盾する。そこで確保できるものは
どこまでいっても偽神だ。
156 :
考える名無しさん:2014/08/31(日) 15:32:29.00 0
>>155 >「神の能動的確保は、神の存在性格と矛盾する。」
一慨にそうとも言えないと思う。ヘ−ゲル哲学を例にすると、哲学的思考の極限(=最高到達点)に
於いて、「絶対知=神}と定義しているが、このヘ−ゲル哲学の場合の「神」概念は“受動的”であると同時に
「絶対知」としての最高次元の理性として“能動的”に捉えられている。
この理性の「能動性」が、ヘ−ゲルの「コギト」の転化としてのマルクスの弁証法的唯物論に転用されている。
157 :
オニオン:2014/08/31(日) 20:14:31.85 0
>>154 まーた宗教的な言葉遊びが始まったか
能動的ニヒリズムを否定して、神が降りてきたドンキホーテに成りたいなら
その珍説はキリスト教の焼き直しに過ぎないじゃないか
158 :
マサチューセッツ州リキ:2014/08/31(日) 22:52:41.54 0
近代社会が神を殺すことによって、人に人類史上初めて意味を与えたことが
問題になっているのに、処方箋が意味を経由するなんてどちらがキリスト教の
焼き直しなのか。彼岸主義は人々に意味を与えるニヒリズムそのものだろう。
このタマネギは芯から腐っている。
159 :
マサチューセッツ州リキ:2014/08/31(日) 23:07:31.74 0
能動的に神が確保できるのであれば、ニーチェを待つまでもなくキルケゴール
で話は終わっている。自己転移でニヒリズムを突破できるのであれば、理性を
失わせ衝動であれるならば、それは進化思想たりえる。しかしギリシャ人は
悲劇を語らずに入られないし、キルケゴールは彼岸のアクロバットを持ち込むしか
なかったし、ニーチェは結局思想を完成することは出来なかった。到達可能な
神は理論上無以外のなにものでもない。
そもそも神へアクセスするということが神への冒涜であり、無神論の余地を
与えるものだろう。神は行くものではなくそこにいるものであり、神は彼岸
などではなく現実に出現するのであり、神は意識的にではなく無意識下の
境地に開かれているものだ。
>>158 >人に人類史上初めて意味を与えた
横だけど、初めてではないだろ?
161 :
オニオン:2014/09/01(月) 00:02:01.03 0
また捏造とレッテル張りの誹謗中傷に走ったか
↓マサチューセッツ州リキの宗教を要約すると以下になるので紹介しておこう
アブラハムが息子を殺そうとして、サカキバラが殺人をオカズに自慰行為をして
旅客機をハイジャックして貿易センタービルに突っ込まないと神が飛来しないらしい
162 :
マサチューセッツ州リキ:2014/09/01(月) 03:18:46.97 0
前近代においては豊富な語彙の使用は極めて限定されており、かつて農村では
今のように言語に依存はしていなかった。また今のような直線的時間観では
なく円環的時間観であり、生存実感を弛緩させる日常が反復される中、それを
更新するような祭りが来るのを楽しみに生活を送っていた。キルケゴールの
いうあれかこれかの主体的な選択が意味を持ったのは近代社会からだ。
しかし前提だった神が意味を経由せざるを得なくなったことで、最早かつて
の農村での素朴な態度は許容されなくなってしまう。現代において神は
アクセスするものであり、神は身近には居らず、神は前提ではなくなって
しまった。このような神は同一性を欠いている偽神であり実は土人形に
過ぎない。こうして近代社会は神を殺してしまった。ここで1つのことが
暴露される、今信仰している対象は無だ。
163 :
マサチューセッツ州リキ:2014/09/01(月) 03:30:03.51 0
キルケゴールの処方箋は主体的選択に基づいた個別的な神への彼岸での再結と
いうアクロバットだった。タマネギのいうような素朴な自己転移によるニヒル
の突破はキルケゴールの段階で当然退けられており、だからこそキルケゴール
はアクロバティックに振舞わざるを得なかったのだ。この深刻さを理解
できないタマネギは、腐っているだけには飽き足らず悪臭を放つ。
あのキリスト者キルケゴールですら最後まで神を疑っていたし、疑わざるを
得なかった。アブラハムも理想の典型でしかない。能動的にニヒルを乗り
越えることで得られるのは精々無である以上、超人思想は進化思想足りえ
ない。
こいつつるじょあだな
>>162 >前近代においては豊富な語彙の使用は極めて限定されており
日本の短歌を見るだけでも、そんなのは嘘だということがわかるんじゃないかい?
また、横で悪いんだけどさ。
>>164 ,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii| < ぼるじょあ〜♪
..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii| \_________
iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
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iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》iiiiiii
超訳ニーチェいい感じ
>>164 つるじょあは、関西人だろ!いい加減にしろょ!
169 :
オニオン:2014/09/01(月) 21:19:17.62 0
>マサチューセッツ州リキ
この人はニーチェやキルケゴールを批判して自説を論じたいらしいが
その本質はキリスト教の理想である白痴になること、すなわちドンキホーテになることである
ま、せいぜい神が降りてくるまで口を開けて待っていればいんじゃないかね?w
ソクラテスは大したことない。ヘーゲル、プラトンが凄い。
171 :
マサチューセッツ州リキ:2014/09/02(火) 11:13:35.36 0
語彙の使用が限定されているというのは、短歌を詠むような人がその時代を
代表しているのではなく、多くは農村部の言葉に依存していない人たちである
ということだ。現代社会の人々と違って、当時の多くの人たちは言葉をそれ
ほど必要としていなかった。
ニーチェがイエスに親和性を感じている通り、確かに白痴は超人に掠る。
しかしニーチェがイエスを理想としないように、確かに独自の世界観を持つが
ゆえに無垢ではあるが、永遠との距離は開かれたままであり全てを受容しない。
野犬が現れ今にも噛み付かんとする時、白痴は悲しむが超人はそれを歓喜する。
172 :
考える名無しさん:2014/09/02(火) 12:29:13.61 0
>>171 農村部が言葉に依存していなかったという根拠でもあるの?
たとえば日本の場合は、農村といえども庄屋などに読み書きを習った人も多いし、次男以下は町に出たり旅回りのやくざになる場合もあった。
そうしたときに力となるのが言葉であったことを忘れてはいけない。
そして、山伏のような修行者や啖呵売のような口上を得意とする物売りが全国の農村を回っていたことも忘れてはいけない。
174 :
考える名無しさん:2014/09/02(火) 21:16:21.15 0
あなたたち、ニーチェ全集とか持ってる??
私はちくま文庫のやつをこれから集めようと思ってるけど。
175 :
考える名無しさん:2014/09/03(水) 13:56:20.79 0
昔の人は字の読み書きができなくても、問答や頓知比べなら現代人よりむしろこなれていただろ
176 :
マサチューセッツ州リキ:2014/09/03(水) 16:44:28.47 0
農村部は言葉に依存していないのではなく、それほど必要にしていなかった。
何故なら単純な社会では円環的時間観が支配するのであり、それは自明な日常
の反復が延々と続くものだ。その様な自明性に補完されているので、人々は
言葉に依拠せずに感覚に頼る。また日常の反復で生存実感を失うと、日常を
ケとしてそれを払拭する非日常としてのハレが必要になるわけだ。確かに語彙
の使用が豊富な一部の人たちがいるとはいえ、全体を見れば限定されており、
一部の人たちにとっては生存実感を更新するような祭りこそ、言語を滅殺する
ディオニュソス神を体感する機会になる。
>>176 自論を並べるのもいいけど、歴史的な状況をいいたいなら裏付けとなる記録や資料を出す必要がある。
ケだとかハレだとかという柳田国男の概念を参考にしたいなら、柳田の著作から引用してくるのもいいと思う。
僕が読んだ範囲の民俗系の学者には、農村部は言葉をそれほど必要にしていなかったと読める著作はなかった。
民俗学者などで、そう書いている人がいるなら紹介して欲しい。
もし、そうした先人の業績とは無関係に自論を書いているなら、捉えにくい過去のことではなくて、君が実感できる現在そのものを対象にして考えかたを展開すればいい。
署名付きで書く人のレスは楽しみにしているが、あまり詳しくない分野には踏み込まないほうがいいと思う。
178 :
マサチューセッツ州リキ:2014/09/03(水) 20:17:49.92 0
議論にすらならないような了解事項に異議を申し立てる山伏野郎が、それだけ
でも肛門をさらしてるようなものなのに、それを指摘せず説明してやったにも
関わらず、それに出典を求め尚且つ小ばかにするのは二度肛門を晒すような
ものだ。
鍛冶屋は代々鍛冶屋と決まっているような社会の流動性の低い社会で、言語に
依存するわけがないだろう。そもそも祭りが社会全体で行われるのは、社会の
単純さに由来するからだ。今日的な社会で神へのアクセスが一律ではなく個別性
になるのは、一度に行ったら納期や契約が駄目になってしまうからだろう。だから
こそ公開処刑で狂喜乱舞してた時代と違って、処刑は塀の向こう側で行われる
ようになった。
社会的諸関係に疎いキルケゴールですら「最近はマニュアルが流行っており
恋愛のマニュアルさえ出来てしまった」と慨嘆しているくらいだ。歴史上最も情報に
晒されている現代人がもし前近代にいったら、物知りで利発であると驚かれる
ことだろう。
179 :
マサチューセッツ州リキ:2014/09/03(水) 20:27:38.82 0
山伏はニーチェのスレに書き込んでいるのであり、ニーチェの主張する神殺しは
近代社会が行ったものであるというのを知らないのか?「神は死んでいる、俺たちが
殺した」というのは、社会の複雑化により神の確保が個別性となったことに由来する。
神の確保が個別性になった時に能動性が求められる。そしてそこに「何の為に」
の理由が欠けるんだ。これこそ無の深淵であり、それを乗り越えることが課題になる。
>>178 >議論にすらならないような了解事項
そんなものが哲学の世界にあると思ってる?
>鍛冶屋は代々鍛冶屋と決まっているような社会の流動性の低い社会
日本の場合は、意外とそうでもないんだよ。
だいたい職業の世襲と言語にどういう関係があると思ってるんだい?
仕事を教えるのに言葉はいらない、見て覚えろ、とか思ってる?
普通に言葉でていねいに教えたり、自分のメモとしての書付けを持ってる人も少なくなかった。
>今日的な社会で神へのアクセスが一律ではなく個別性になる
宗教というのは、時代と文化に関わらず共同的なものだ。
細分化されているのは、交通の発達によって他の文化との交流が増えたため。
181 :
オニオン:2014/09/03(水) 21:39:53.50 0
シンナーでも吸ってりゃ脳みそスカスカになって、あんたの神なら降りてくるよ
分別なく歓喜の電気信号が流れているだけの植物人間(奥崎etc)なんて虫にも劣る
>>179 君が自論を展開することを妨げるつもりはないよ。
ただ、あまりに歴史上の事実と異なることを書くから、それを指摘しただけ。
183 :
マサチューセッツ州リキ:2014/09/03(水) 23:05:15.02 0
肛門をさらし続ける山伏は、マゾなのか仮想現実で鍛えたいのかしらないが、
無知なのをいいことにふんぞり返るのはある意味凄い。文字通り水戸肛門
の印籠みたいなもんで、幼稚園児にむずがられたらどんな学者でもこうべを
たれるしかない。
社会の流動性が低いというのは現実構成の自明さが高いので、今日もあり
明日もあるという透明性が高い社会だ。しかし現代は不透明で、世界有数の
マクロソフト社ですら、10年後あるかどうかなんてわからない。農村部
なんて延々と農作業が続くだけで言語に頼るのはほんの少しですんだんだよ。
近代的自我なんてのが生まれたのは近代以降であって、自己の実存が問題
になるのは近代以降なんだ。山伏がどうとかメモがどうとかそんなものは
比べ物にならない。
>>183 >延々と農作業が続くだけで言語に頼るのはほんの少しですんだ
何回も指摘するが、それはあまりに無知。
少しは歴史や民俗を勉強してごらん。
醜い言葉を書き連ねる暇があるなら、1冊の読書を勧めるよ。
185 :
考える名無しさん:2014/09/04(木) 02:50:37.34 O
必ずニーチェを賛成して欲しい
絶対にニーチェを賛成して欲しい
確実にニーチェを賛成して欲しい
100%ニーチェを賛成して欲しい
十割ニーチェを賛成して欲しい
一応ニーチェを賛成して欲しい
多分ニーチェを賛成して欲しい
もしもニーチェを賛成して欲しい
仮にニーチェを賛成して欲しい
例えニーチェを賛成して欲しい
寧ろ逆にニーチェを賛成して欲しい
他に別にニーチェを賛成して欲しい
当然正反対にニーチェを賛成して欲しい
特にニーチェを賛成して欲しい
勿論ニーチェを賛成して欲しい
無論ニーチェを賛成して欲しい
確かにニーチェを賛成して欲しい
もっと更にニーチェを賛成して欲しい
超絶過疎スレなのにたまに荒らしが来るよなここ
>>187 スレの内容理解してるのか
哲学は根拠のある情報の積み重ねで新しい価値を創造する
「きっとこうに違いない」を前提にしたらどこかで破綻するんだよ
時間を無駄にする
そいつが根拠を出せと言われてるのは当然
189 :
考える名無しさん:2014/09/04(木) 21:32:26.10 0
ニーチェ読んでるなんてバカにされそう。
190 :
オニオン:2014/09/06(土) 20:33:52.27 0
文献のツギハギ哲学はマルクス主義の敗北と共に没落した
191 :
考える名無しさん:2014/09/11(木) 04:11:03.11 O
必ずニーチェは大好きだろ
絶対にニーチェは大好きだろ
確実にニーチェは大好きだろ
100%ニーチェは大好きだろ
十割ニーチェは大好きだろ
超訳いいよ、単純に人生が好きになれる
>>192 あれはいいね
昔、3日間籠って、必死で理解した
ノート1冊纏めた覚えがある
194 :
考える名無しさん:2014/09/11(木) 23:20:14.67 O
必ずニーチェは大盛況だろ
絶対にニーチェは大盛況だろ
確実にニーチェは大盛況だろ
100%ニーチェは大盛況だろ
十割ニーチェは大盛況だろ
昔、山伏だったのが仏教伝来して広まり、今度は哲学の時代、その次は科学その次は儒教の時代なわけだな。
今はイスラム国が話題になっとる
イスラム国はアメリカが支援したのに爆撃やらNATO介入を期待やらなんやらでマッチポンプ臭が凄いよなw
構成してる人間も外人ばっかりみたいだし
ありゃあそこを掃討したフリをしてイスラム教国を攻撃する拠点にするつもりだろ
十字軍の進攻で第三次大戦の動乱が激しくなるな
198 :
考える名無しさん:2014/09/20(土) 10:25:28.82 0
聖書を読まずにツァラトゥストラを読んでいるのですが、やはり聖書を読まないとツァラトゥストラを理解することはできないでしょうか。
また、聖書を読むのにどれくらいの時間を要しますか。
本を読むはやさは人それぞれだろ
普段からよく読むなら一日で読めるだろうけど
200 :
考える名無しさん:2014/09/20(土) 17:10:41.52 0
ニーチェの系譜学的手法が好きですねえ。表層に現れてる言説を生み出すその動機が一体何なのか?
っていう考え方でほとんど分析してる。俺は経済も実は良くわからん。ただ系譜学的手法でその根源動機を推測して物事を考えてるだけ。
あらゆる言説は考えを表すために存在してるのだろうか?むしろ隠すために存在してるのではないだろうか?
っていう言葉が好き。
201 :
考える名無しさん:2014/09/22(月) 15:27:35.41 I
ニーチェは無用
ニーチェは不要
ニーチェは入らないだろ
芸術親分子分と破門のはなし
203 :
オニオン:2014/09/22(月) 21:53:43.31 0
世界に意味がないことを自覚しながら意味を見出すというのは自己欺瞞に過ぎん
能動的ニヒリズムはオーウェルの『1984』に出てくる"二重思考"とは同根にあたるのだよ
204 :
考える名無しさん:2014/09/23(火) 01:19:12.87 0
解釈は力に奉仕する
最近、ちょっとニーチェ読んだけど「永劫回帰」っていいね。なんか幸せの定義が変わるわ
東洋的超人思想と言えば修行によって仙人になることを目的とした道教だよな
脱俗隠遁の清貧生活か
瞑想ばかりしてるイメージ
普通に生きてても生物学的な意味で超人にはなれないから修行して仙人になりたいって気持ちは力への意思だと言えるだろう
>>208 あなたは超人をどう解釈、定義されてますか?
私は全てにおいて超人であるからこそ超人となり得ると考えています
精神的な超人は世界中を敵に回しても余裕でいられるくらいメンタルが強い人かな
そこまでメンタルが強い人ってなかなかいないですよね
生物学的な超人はやっぱり超能力者だと思うけどそういう超人になる方法を知ってる人は多分いないよね
>>210 ちょっと横道にそれるけど、世界中を敵に回すなんてことが本当にできるんだろうか?
どんな人間でも、ごく少数の味方はいそうだけど。
>>211 210ではないけど、実際に世界中を敵に回すことはないと思うが、人生のあるときにまるで世界中が敵になったように勝手に「思い込んで」しまうことはあるのかなと思う。人によっては
個人的には世界中を敵に回すよりも、自分自身が自分の無慈悲な批判者になることの方が怖い
>>212 それは己の真実を受け入れられない臆病者の至る末路では?
大いなる正午は訪れていないのか?
>>213 >>それは己の真実を受け入れられない臆病者の至る末路では?
そうだね。ただ「己の真実」なんてものは結局、自分じゃわからないと考える方なので、自分の場合、受け入れられないのは「己の過去」とか、「それを選択して今にいたる自分」といった方がよいのかもしれない。
人によって受験就活、キャリアの挫折、健康問題とかいろいろだろうけど
>>大いなる正午は訪れていないのか?
最近ニーチェを読んだのでアレなんだけど、「なんどでもこの同じ人生が繰り返されるんだから、あれさえなかったらなんて言ってないで、さっさと腹くくろーぜ」という虚構の薬は苦いけどジワジワ効いてきてると思う
>>214 大いなる正午を履き違えてるな、
全世界の影が全て無くなる衝撃に見舞われなければならんのだぞ
>>210 超人グルジエフ
オカルトを極めつくした魔術師
あらゆる秘教を極めチベットの秘教集団で奥義を授かり生物学的にも超人になったと言われている
死後はニューエイジ系の宗教の教祖に祭り上げられているみたいだが
217 :
マサチューセッツ州リキ:2014/09/30(火) 22:13:03.37 0
>>212 冠する神が異なるということが神々の戦いなのであって、前提が異なれば
ある種相容れることが無いのは当然のことだろう。
>>206-210 「汝為すべしより高いのは我欲す、我欲すより高いのは我在り」
欲しているのは低い証拠だろ。超人とは我在りの境地だ。
>>215 指摘ありがとう。頭悪くてごめん
>>全世界の影が全て無くなる衝撃
価値観はその人にとって外界を照らす光源のようなものだと思うのだけど、そうとするなら「大いなる正午」は今までの価値観が崩壊するような体験といってもいいのだろうか、もしくは精神的な死のような?
自分の価値観が実は単なる損得勘定や世間一般の「〜ランキング」に毛が生えた程度のものでしかないことに気づいてしまったときとか…
>>218 「価値」を実体的に考えることを否定するのが「ニヒリズム」。
全ての価値は道徳が裏付け、道徳は弱者が作り出すもの、とした。
よって「善悪」とは「強弱」という第一の差異に基づく第二の差異。
ニヒリズム世界における「価値」とは「差異の二乗」なのです。
そこで大いなる正午は訪れる。
大いなる正午においては影と光、つまり善悪の差異が消える。
これは全てが善あるいは悪になるということではない。
そもそも善を可能とする悪とのコントラスト、「差異そのもの」の消滅。
差違の消滅したこの世界を指して永劫回帰と呼ぶ。
あんだすたん?
補足
つまりそれまで存在した「ニヒリズム」という考え方に対して
ニーチェが新たに提示した「永劫回帰」思想。
どちらも「価値」を破壊するものだけど
後者にはポジティブな展望がある。
「大いなる正午」はこの議論に「差異」を持ち込むために
ニーチェが使った比喩なのです。
>>219 丁寧な説明ありがとう
難しくてよく飲み込めないが、
自分がいろいろとわかってないということはわかったよw
とりあえずじっくり読み直してみるよ
ぐっ、わからんか…
なんか悔しいからどこがわからんのか言っていけ
>>222 申し訳ないorz
>>なんか悔しいからどこがわからんのか言っていけ
「善悪の差異の消滅」というのは、善悪という考え方自体が無意味だという主張があるのかな?
あと「善悪」というのは「固定的な価値」のメタファと広く捉えてよいだろうか。たとえば教育ママが「いい大学にさえいけば幸せになれる」というようなステレオタイプな幸せの定義も、ここいう「善悪」にはいるのだろうか
まず「善悪」はもっと広く「価値の根拠」と考えていい。
なぜなら「価値」とは「より善い/悪い」という人間の判断のことだから。
そしてこの「善悪」という「道徳」は
弱者が独善的に作ったものだから無価値。
だから全ての価値は無価値である、とするのが「ニヒリズム」。
「差違の消滅=大いなる正午」は
ニーチェなりにこの絶望的な「ニヒリズム」を
ポジティヴに捉え直した言葉。
すごくざっくり言うとこんな感じ。
223の続き
>>差違の消滅したこの世界を指して永劫回帰と呼ぶ
永劫回帰というのは、自分は「同じ人生が何度でも繰り返される」と考えればどうだろうかというニーチェの提案と理解しているんだけど、「善悪の差異」が消滅することと、同じ人生が何度も繰り返される世界が創出することが、なぜつながるのかよくわからない
自分の永劫回帰の理解が間違っているのだろうか、それとも文脈によって複数の意味があるんだろうか
急いで書いたのでわかりにくい文章ごめんなさい
今日はとりあえず寝ます…
・なぜ「善悪」が無価値かと言うと、ニーチェによれば
「善悪」という概念が生まれるまで、世界は「強弱」が支配していた。
そこで力で勝てない弱者が強者に「道徳的に」勝つために、
ルサンチマン(妬み・怨念)をもって「善悪」という「価値」を発明した。
だからこんな奴隷の道徳は無価値だとニーチェは言ってる。
・「永劫回帰」とは全てが繰り返しで、何も「変化」しないということ。
「変化」とは「より良いorより悪い」ものになるということ。
「善悪は無価値である」から「変化」はない。よって世界は「永劫回帰」する。
228 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/01(水) 07:22:09.47 0
人類は存在との距離が担保されなければ維持存続することはできない。距離がなくなる
ことで起こるのは嘔吐することでしかない。そこで言語を滅殺するような体験を通じて神と
合一し、こうして人類は神と共に何百万年もあった。しかし社会の発展と共に神は引き
裂かれてしまった。時間性は空間性に、受動性は能動性に、一般性は個別性に転ずる
ことで神は死に絶えたのだ。では現代における神の担保とはどのようなものなのだろうか。
現代において神を担保するものこそ超人である。超人とは目的を持たず言葉を語らず
全てを受容する、常に独自の神と共にある歓喜の境地だ。あれかこれかの空間性は、
意味を経由する能動性は、光を鈍らせる個別性は、ニヒリズムの一形態であり、無への
信仰であり、神を殺すことに過ぎない。
229 :
考える名無しさん:2014/10/01(水) 07:42:53.47 0
>>227 ニーチェやヘーゲルはソフィストだから読まなくてよろしい。
道徳とは強者の法則である。神の法則であり、悪魔の法則でないということ。
社会的強者とは個人的には弱者である。虚弱体質なのである。
ニーチェの目は節穴なのである。故に隅から隅まで間違いなのである。
230 :
考える名無しさん:2014/10/01(水) 08:00:30.63 0
だいたいにおいてニーチェ説を唱えたニーチェ自身が
虚弱体質故に、統合失調症を患って死んだのは事実であり、
その哲学自体が虚弱体質の証明でもある。
2chには虚弱体質をいじめるやつしかいない上に愛知なんだよ
>>230 「ニーチェが虚弱」だからと言って、
「ニーチェの哲学が虚弱」だという証明にはならない
横レスだけど、ニーチェ自身が「身体とは大いなる理性である」や身体とは
意識されているような自我ではなくそれを支配している自己と同じものであるとツァラトゥストラに語らせているし、
身体の虚弱性をもって思想に潜むルサンチマンを批判している
従って、ニーチェの言い分が正しいのであれば、ニーチェの哲学が虚弱であると言える
虚弱体質と統合失調症の間に相関関係はない
哲学以前の誤謬
語り得ぬものについては沈黙しましょう
>>233 なんで濁点の前に隙間があるの?
その理由ほうに興味がわいた。
ヒント:末尾i
濁音入力の仕方を知らなくて
清音+濁点で入力してる機械音痴もしもし野郎
>>233 断片を繋げただけの言葉遊びだな
国語を勉強した方がいい
>>226 なんだかこの感じ、早っぽいな
違うかな?
>>227 ・なぜ「善悪」が無価値かと言うと、ニーチェによれば
「善悪」という概念が生まれるまで、世界は「強弱」が支配していた。
そこで力で勝てない弱者が強者に「道徳的に」勝つために、
ルサンチマン(妬み・怨念)をもって「善悪」という「価値」を発明した。
だからこんな奴隷の道徳は無価値だとニーチェは言ってる。
→これは異論無し
・「永劫回帰」とは全てが繰り返しで、何も「変化」しないということ。
→「永劫回帰」について辞書やwikipediaにも、「変化」について述べられた記載はなく説明は公議的でないと判断した
よって、個人的解釈または曲解と認識せざるを得ない
「変化」とは「より良いorより悪い」ものになるということ。
→上記前提が崩壊しているため、まるで意味を持たない
「善悪は無価値である」から「変化」はない。よって世界は「永劫回帰」する。
→同上
>>239 ニーチェの永劫回帰とは、世界の可能性が、人間にとっては実質的に「数え切れない」ものだとしても、
宇宙レベルでは無限回反復されるという意味。だから、世界そのものは変化せず、永劫にそのままである
ただ、
>「変化」とは「より良いorより悪い」ものになるということ。
これには俺も違和感を覚えた
変化したからといって、そこに「より良いorより悪い」という価値評価を加えるかは別問題
まあ、世界は永劫にありのまま繰り返されるだけで、良くも悪くもならないというか、
良い悪いという価値判断をする存在者の生成と、それらが行なう価値判断そのものも、永劫回帰する事象の一部に過ぎない、
という意味では、永劫回帰する世界は善悪の彼岸にある、と言える
キリスト教的に、神の最終審判という、世界の究極目的・道徳的秩序が到来するわけではないと
>>219 ドゥルーズの解釈による永劫回帰では、差異が生滅したりなどせず、むしろ差異だけが反復される
これが実際、ニーチェの思想そのものとどれほど合致してるのかは微妙な感じもするけど
ただ、ニーチェにとって強者とは、社会的強者(いわゆる「権力者」)ではなく、より豊かな差異を内包しうる存在
その豊穣さと引き換えに、支離滅裂になったり、自らの矛盾に嘔吐を覚える危険も指摘している
つまり病的なものを抱え込むことは、強者の定義に反してはいない
強者は、世界の遺産を継承し発展させる存在であるわけで、だからこそ、脆い存在であろうとも価値がある
清濁合わす飲む心が広い奴が超人に近いメンタリティーの持ち主なのかな
漢の初代皇帝の劉邦みたいな奴がそんな感じだね
244 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/03(金) 03:49:33.48 0
それだと能動的ニヒリズムを過度に賞賛する玉ねぎと同じになってしまうぞ。
俺は劉邦ではなくてキリーロフに託しているが、キリーロフは超人を意識し
全てを受容しようと振舞う。しかしそれは論理的に座礁し、結果死に至った。
これは作者ドストエフスキーが超人は意識的に到達できないことを理解して
いるからであり、またキルケゴールもそれが無理だからこそ彼岸での再結と
いうアクロバットを持ち出したのであり、だからこそニーチェの思想は破綻
するんだ。
全ての受容とは対象を受容しようとする物象化などではけしてない。それは
無への信仰でありロマン以外の何ものでもないだろう。永劫回帰の世界観
とはそれがそれ以外ではありえないという一つのアトムであるということであり、
それは足すことも出来なければ引くことも出来ないものだ。それを無意識下
において根源的に在るとすることは、時間的・一般的・受動的に神を担保
することであり、その境地ではたとえ身が裂かれようともそのことには意味が
あるからこそ受容されるのだ。
>>242 >>豊穣さと引き換えに、支離滅裂になったり、自らの矛盾に嘔吐を覚える
今は自由な意志とか選択が大事とかいわれるけど、
自由な意志による選択なんてミスドのトングみたいなもんでさ
握ったときは高揚感があるけど、おわってみれば後悔だけがのこる
まぁ選択もいいんだけど、心の天秤のもう一方の皿には
永劫回帰をのせてバランスとるぐらいがいいとおもう
といっても矛盾した概念をお手玉のようにまわし続けるなんて
知的体力は現代人にはないからね。矛盾=誤謬みたいな人も多いし
ニーチェには神だけなく、ついでに自由な意志や選択も死んだって
いってほしかったね
最後に一応いっておくが、ミスドをディスってるわけじゃないぞ
今、期間限定でやってるクロワッサンドーナツとかマジうまいから
終わりなき円環のクオリティとしては、ニーチェの永劫回帰にも負けてない
つづき
あと本屋にいって思ったが
ニーチェの思想を広める本自体が、末人化してるわ
分かり易いけりゃいーてんもんじゃねーぞ
自分の歯で噛み切って飲み込むから肉の本当の味がわるんであって
サンがアシタカにしたように、専門家が口のなかで噛み砕いて
ぐちゃぐちゃなったもんを口移しで食っても本当の味なんてわからんから
それに言うまでないが哲学の解説書を書くような専門家は
サンみたいにかわいくないからな
かわいそうなニーチェw
馬車馬抱いて発狂!
これについてぶっちゃけみんなはどう思ってる?宗教との一切の決別は、およそ人間の精神では耐え切れないと思うんだ
248 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/04(土) 09:02:22.38 0
超人の寛容さとは劉邦のような寛容さとは異なる。例えるなら未開の部族の
割礼の儀式は我々からすると野蛮だが、彼らからすれば当然のことだ。また
アブラハムが神の命令に従って愛すべき子供を生贄にしようとしたのも同じ
ことだろう。つまりそれは当然のことであって、対象を意識するのではなく
無意識的にそれはただあるものなのだ。
文化の差異とは神々の戦いだ。冠する神が異なるもの同士での対立が全てを
敵に回すということであり、超人とは独自の神を戴いているという意味で、
誰とも根源的に分かりあうことはできない。そしてその神が慣習だとか神話
の神であるというような非人格関係の相対的なものではなく、人格関係である
絶対的なものであることが究極的な意味を持つ。
249 :
考える名無しさん:2014/10/04(土) 10:33:15.90 0
>>247 宗教と決別したわけじゃないでしょ
ある種のキリスト教と決別しただけ
そもそも発狂の原因にニーチェの思想を直結する発想が途方もなく下劣
250 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/04(土) 21:57:54.59 0
超人が独自の神と共にあるということは、これは直ちに反社会性を意味する訳ではない。
根源的に理解しがたい分かり合えないというのは対立することもあるにせよ、むしろ超人は
インコグニートであるといえる。つまりこれは文脈としては反社会性などではなく脱社会的
であるということだ。例えば道ですれ違った人間が超人でありうるのだ。超人は今も人知れず
誕生しうるし、そして人知れず消えうる。
超人の寛容さは全てを受容するものであり、喩え顔が吐しゃ物まみれになろうとも、身を
裂かれようとも、それに歓喜するということだ。それは神による全面的な承認だからであり、
神の命令は当然のことあるがゆえにいかなる理由付けもされえない。そして非人格的な
相対的な解釈可能性としての仮象が絶対的になったとき、仮象は仮象であることをやめて、
すなわち前提である解釈の立ち位置が仮象それ自体になることで仮象性は消失して、
アトムとなって彼岸ではないこの現世において永遠の福祉が実現される。
>>248 そういった先人の野蛮な行為を心理学者や精神分析学者などは「彼らは病んでいた」と
解釈するのですか?
>>249 下劣?なにが?
短絡的と言われればそうかもしれないが、思想と生き様を併せて考えることが蔑まれるとは思わなんだ
>>252 249の人かな?
>>馬車馬抱いて発狂!
>>これについてぶっちゃけみんなはどう思ってる?
個人的にはニーチェが発狂したことは「うわぁ」と思うけど、ニーチェの永劫回帰的にいえば、何度でも同じ45歳で発狂するんだから、良かった悪かったじゃなくて、何回目の回帰でそれを受け入れて、気に病むことがなくなるかっていうだけの話だと思う
>>宗教との一切の決別は、およそ人間の精神では耐え切れないと思うんだ
249の宗教の定義にもよると思うけど、人間とは別に神様みたいな偉い存在がいてどうのこうのみたいな意味なら、そういうのはなくても大丈夫という人は一杯いると思う
もう少し広くとらえて、現状正しいかどうか確かめようがないが、とりあえずそうであると「信じて」行動しますぐらいの意味なら、だれでもそういうのはあると思う。むしろそういうのがないと何一つ行動できないと思う
× 249の人かな?
○ 247の人かな?
間違えたorz
>>253 永劫回帰は、寸分狂わずリピートされるものだと理解している
つまり、発狂しないニーチェはニーチェではない
>>256 >何度でも同じ45歳で発狂するんだから、良かった悪かったじゃなくて、何回目の回帰でそれを受け入れて、気に病むことがなくなるかっていうだけの話だと思う
>257
「気に病む」と「気を病む」を勘違いしてないか?
>>258 何回目の回帰でそれを受け入れて
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
お前頭大丈夫か
>何回目の回帰でそれを受け入れて
そこに変化があるということか
>発狂しないニーチェはニーチェではない
ただ、俺は発狂を受け入れるといっただけで発狂しないとは一言もいってないがな
最初からそこだけ引用しろよ
お前こそ頭大丈夫か?
>>260 「寸分狂わず繰り返す」
って意味わかってるか?
日本語わかってんのか?
何回目の回帰でそれを受け入れて
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
と書いたなら
「寸分狂わず繰り返す」
の定義と矛盾するんだよ
阿呆ですか?
ニーチェってのは、要するに、普通の人間はバカだから、優れた指導者が現われたら黙って従え、と言ってるんだろ?
全ての道徳や歴史は時の権力者よって作られた価値の無いモノだから其れを投げ捨て自分の世界を打ち建ててその中で神になれと言っている
精神的な話だよ
誰かが生み出した胡散臭いモノに依存するより自分で何か生み出して行こうってスタンス
精神の三段の変化貼ろうと思ったが長すぎるからやめだ
>>265 ものの見方に過ぎないということ?
ただの主観の問題に解消しちゃうの?
新しいイデアが永遠に作り続けられるとすれば、寸分狂わず繰り返す永劫回帰もまた存在しないことになる
ニーチェが寸分違わず発狂する永劫回帰も存在するしニーチェがイケメンで発狂せずに暮らす世界も永遠に回帰する
元始の宇宙での粒子の振動数によりその後の宇宙の崩壊までの運命は決まっている
時間が無限(時間自体が存在しない)なのであれば発狂する振動数とイケメン振動数は無限に回帰するしその他の可能性も無限に回帰する
エヴェレットの多世界解釈とかM理論とかも考慮したらもう意味が分からん領域だな
>>268 人間という創造主が永遠に存続し続けるのであれば、全く新しいイデアを創出し続けるため、全く同じ世界はあり得ないと考えられる。
‥‥
それとは別に、貴方の言うif物語も理論的にはあり得るだろう
宇宙を持ち出すと、更に奇々怪々なカオスワールドだが、
ニーチェの考え方は至ってシンプルで、
永劫回帰は寸分狂わずと言っていた以上if物語は否定される
ニーチェから考え方を引用しなければまさにカオスである
精神の弱い畜群にとっては辛いだろう
ある意味、ニーチェの哲学は生半可な科学で作られた理論であるやもしれない
しかし、
シンプルに考えられるからこそポスト宗教にもなり得るのではないか
>>243 超人を志向するというのは、人間の色々な可能性を担いつつ、
それらを総合して更に新しい高みに達するということ
清濁併せ呑む、というと、「様々な個性をうまく治める統治者、指導者」という、
単なる管理能力どまりの奴にも当てはまるからな
そもそも、「清濁」を自ら内的に生き、主観を構成する要素として血肉化しなくても、
対人術という外的な面での器用さで、「清濁併せ呑む君主」は務まるだろうしね
>>262 「優れた」、つまり有能性というのが、何に対する有能さか、という根本の価値観そのものを問うている
>>263 「時の権力者よって作られた価値の無いモノ」とか言ってしまったら、価値の有る無しを決めている基準は何か、という話になる
ニーチェの言う権力って、世俗的なそれというより、芸術的、肉体的な高揚感、創造性と結びついた概念だし
>>266 より創造性を有しているということは、それだけ世界の可能性とその存在者とが近しいということ
より包括的な存在者の主観こそが支配すべき、という考え方かと。認識し解釈する主観から離れた世界そのもの、を認めていない
アナーキストには反対している。その辺の有象無象が自由に結びつく社会に価値を見出していない
272 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/07(火) 06:45:47.38 0
>>270 超人を志向するなんてニーチェとはまったくの反対物だ。超人とは為すもの
ではなく在るものであって、それでは正午の哲学どころか無の影を踏んでいる。
意識的に高みを目指して神を確保することは涜神であって、それこそ偽神の
崇拝だろう。
また清濁併せ呑むというのではなく、もっと根源的な生それ自体を許容する
ということが超人だ。言語を滅殺するどころか言語を弄するのは、ソクラテス
のヴァリエーションに過ぎない。それ以前のギリシア悲劇に回帰しないと
いけない。
273 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/07(火) 06:59:07.62 0
>>265 本当に生み出そうとしたのか?駱駝から獅子へそして小児へが三段階の変化
だが、むしろ生み出そうとしたのはキルケゴールだ。ニーチェの言葉を借り
ればキルケゴールは小児から駱駝へそして獅子へと三段階を説いた。
キルケゴールにとって小児とは人生に時には必要なものでもそれは精精気休め
であり現実逃避でしかない。しかしニーチェにとっては小児こそ最高の段階だ。
小児は無垢であるからこそ何ものも目指さない。生み出すのではなくそれは
ただ在るものであり、そうであるがゆえに己の世界を獲得してるのだ。
274 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/07(火) 07:11:04.36 0
>>263 全く違う。それではニヒリズムにニヒリズムで対抗するようなものだ。ニーチェ
は人類を何百万年も維持させてきた原始に曙光を見出したのであって、ギリシア
悲劇にこそ正午の哲学を見ている。自己を滅殺させるはずが自分の世界を打ち
建てその中で神になれなんて、無の影を踏んだままだろう。それはまた別の
宗教に過ぎないのであって、そのような偶像は黄昏でしかない。
つるじょあは能動的ニヒリズムを敵視し過ぎやな
そんなに生の哲学が嫌いかw
>>275 つるじょあは発狂して死んだんじゃなかったの?
神のような形而上的存在を原因とする世界観を放棄し、
すべては力の戯れとその組み合わせ、というのがニーチェの世界観
いわゆる「世界」は、それぞれの主体を構成する諸力、身体による創造物
大地の主人としての超人は、より高次の身体を目指す自己超克の先に仄見えるもの
「すべては私の作品」という自己肯定と、自らの生存条件を越え出ようとする自己否定、
これが、『ツァラトゥストラ』が「万人に与える書、何人にも与えぬ書」と題された意味だろう
「あせることはない! 超人は私たちの次の段階なのだ!(略)
目標。単に脳だけではなくて、全身体を、より高く形成すること!」
(『生成の無垢(下)』1217)
「人類はおのれの目標をおのれを超え出たところに置かなくてはならない
――しかし、或るまやかしの世界のうちにではなくて、
人類自身の継続のうちに置かなくてはならない。」(同 1268)
キリスト教みたいなニーチェが言うところの奴隷道徳のない地域は夜這いみたいなレイプ的な風習が多いよね
ニーチェの好きなギリシャ神話もレイプの話が多い
ニーチェにとってはレイプも力への意思の一形態の過ぎないのかもしれない
ニーチェはキリスト教を批判している
ではキリスト教みたいな品行方正な道徳がない状態での人間とはいかなるものか?
その結果、文化人類学がより盛んになったわけだが、結果として数多くの奇異な文化が報告されている
その答えの一つが津山30人殺しの岡山県苫田郡西加茂村だ
それらの結果をもとに、人間とは人類とはいかなる生き物なのかを考えていきたい・・・というのが現代哲学みたいですね
>>280 そんなのが現代哲学だという考えなど寡聞にして聞いたことがないので例を挙げてくれ
ニーチェのキリスト教批判は、『権力への意志』第二書などを読むと分かるが、単純じゃない
弱い人間を従順にさせ、その弱さから救うものとしては有効だが、強者の徳を否定する教えとしては唾棄すべき、という姿勢
それぞれの人間の力に応じた、その人間が耐えられる徳というのがあるという思想
それと、既存のキリスト教に反対し、本来のキリスト教は、国家や社会の価値を拒む、私的で非政治的な思想と考えている
キリスト教が品行方正とかギャグかよw
>>281 綺麗なニーチェの理想はなんか儒教的な気がしてきた
キリスト教 人間は神が作ったものだから、本来的に品行方正
ニーチェ 人間が品行方正になったのは、残酷な刑罰の歴史のおかげ
>>283 どの辺が儒教的なんだよ。意味不明な思いつきでテキトーなこと書きすぎだろ
何が「綺麗」なんだ。綺麗の一言で済まされるような単純なことを主張してるんじゃないよニーチェは
>>279 例えば『善悪の彼岸』194節を読め。長いし面倒なので引用はしない
『善悪の彼岸』といえば、188節にあるように、ニーチェは、一概に道徳そのものを否定しているわけではない
何か価値あるものが生み出されるには、一定の方向性や規律(つまりは道徳)に従うことが条件、
「汝は久しく何ものかに従うべし、さもなくば汝は破滅し、汝の最後の尊厳すら失うだろう」
ヨーロッパが、あらゆる事柄をキリスト教的に思考することを強いられていたのも、鍛錬の道具になっていたと評価
ただし、そのことによって圧迫され腐敗されられたものも多い、と両面を見ている
ニーチェは思ってたよりキリスト教に肯定的だったんだな
早世した父親が牧師だったし、
少年期には聖書を読んで聞かせて周囲を感動させ、「小さな牧師さん」と呼ばれてたとか
288 :
考える名無しさん:2014/10/09(木) 00:04:17.10 0
ニーチェの同時代人にもニーチェを支持する神父はいた
心あるキリスト教徒にもニーチェのキリスト教批判は受容されていた
289 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/09(木) 01:09:05.68 0
ニーチェがキリスト教に肯定的なわけがないだろう。精々木を見て森を見ていないのではないか。
そもそもニーチェはギリシア民族の偉大さ、すなわちディオニュソス神的なるものとしての生存エネルギー
に基づいて、生存の不条理という懊悩に立ち向かうアポロン的なものをギリシア悲劇に見出して、
これを行き詰まった人類に当てはめようとするのが思想家としてのニーチェだ。そのギリシア悲劇を
皮相に捉えたエウリピデスや、それに繋がるソクラテス、プラトンを生存の現実から遊離してると非難し、
キリスト教はその延長線上にある厭世主義に過ぎないとしている。それなのに、キリスト教を肯定して
いるという事はありえない。
290 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/09(木) 01:31:08.04 0
キリスト教は文化といわれるが、ニーチェの言う意味での真の文化とは異なる。なぜならそれは
生存との関わりがないからだ。生に食い込むようなものが文化といわれるのであって、それは本来
根本的には汗をかき鼻水をたらすような野蛮なことではないか。生存の現実を見つめる誠実さは
超越宗教には無く、彼岸という現時逃避によってまったく失われている。
俺も今道徳の系譜読み直してるけど
キリスト教のことボロッカスに貶しまくってるよなやっぱ
奴隷の狡智としては昆虫よりはマシ、って程度の評価
292 :
∴ヴォルデモート卿:2014/10/09(木) 03:09:50.24 0
超人ってスーパーマンなんですか?
293 :
考える名無しさん:2014/10/09(木) 03:18:38.95 0
わたしのもっている英訳「ツァラトゥストラ」では、「スーパーマン」となっているね。
>>286に「思ってたより」と書いてあるのに何ムキになって反論してんだか・・・
反キリスト教ってのは分かりきった話で、ただ、斜め読み程度の連中が思うほど単純な否定じゃないっていう補足だろ
「キリスト教徒は、イエスが彼らに命じておいた行為をいちどとして実践したことがなく、」(『権力への意志』191)
「『キリスト教』は、その開祖が実践し意欲したものとは何か根本的に異なったものとなってしまった」(同195)
「真の生に入るとは――普遍的生を生きることによって、おのれの個人的生を死から死を救うことである――」(同194)
で、170節の説くところでは、その「真の生」を、後の、キリスト教徒と称する連中は、「彼岸の生」「個人の不死」「復活」へと勝手に解釈し、
最底辺の人間も含めたあらゆる人間と神との関係としての「神の子」の概念は捻じ曲げられ、
信仰による救いは、イエスが為したとされる何か不思議な奇跡への信仰へと置き換えられてしまった、と
ニーチェはイエスをデカダンスの一種と考えていたから、全肯定するわけではないが、
世俗的な権威、万人に強いられる道徳としてのキリスト教に対抗して、
むしろニーチェこそがイエスと真摯に向き合っている、と自負していたようには思える
「おのれの個人的生を死から死を救うことである」⇒「おのれの個人的生を死から救うことである」
296 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/09(木) 06:36:55.90 0
思ってたよりの程度をどうやってこちらは理解すればいいんだ?いちいち
どれぐらいの思いのことか聞き返さないといけないのか?またそれに払う
対価に見合う人物かも匿名掲示板では分からない。そうなると思ってたより
は抜きにして読まれるのは匿名掲示板として当たり前のことだろう。あんたは
ニーチェがキリスト教を肯定していると書いたんだよ。思ってたよりの言葉
は無効だ。つまらん言い訳をするな。
>>296 馬鹿に言っても分かる訳がない
省みない故に馬鹿なのだから
>>283 儒教の特徴
輪廻転生の影響は最小限
退廃・デカダンスを好まない
支配者の統治のための道徳(ニーチェはヨーロッパを支配したナポレオン信者)
封建主義的
個別な要素を列挙していくと儒教はニーチェ的だと思わざるをえないんだよな
儒教のニーチェ的じゃない部分を考察することで儒教がニーチェ的かどうかが分かるだろう
封建的支配者のための道徳を高いレベルで実行できたのはアリストテレスや孔子
中国の法家は戦国時代の征服者のための法体系としては機能したけど平和な時代の支配者のための法体系として挫折したのは皆が知るとおりだ
確かに支配者のための哲学のアポロ的部分としては孔子やアリストテレスが優れていたのは実績が示している
だがデュオニソス的にはどうなのよって話にならないだろうか
デュオニソス的な部分は道徳や哲学の役目ではないと言われえればそれまでかもしれないが
>>296 「思ってたより」と書いた
>>286は俺じゃない
だから、「思ってたより」の思ってた程度がどれくらいか俺が知るわけもないが、
程度の差はどうあれ、「キリスト教を全否定というわけではないんだな」という意味の文章であるくらいは分かる
反論するなら、その点に関してのみするべきだろう
第一、「それに払う 対価に見合う人物かも匿名掲示板では分からない」のはあんたも同様
>>298 >輪廻転生の影響は最小限
>退廃・デカダンスを好まない
例えばキリスト教にも当てはまるな
後の部分は、
>>300の言う通り
ニーチェ的な身体論とか権力意志論とか永劫回帰説に該当するようなものが儒教にあるんだろうか
気についての教説とか俺は詳しくないんだが、そこ説明してくれないと、ニーチェに似てるとまではまだ言えないな
ニーチェにとって、支配は、創造者と呼ばれるに値する強者が弱者を支配する、という点が肝心
支配被支配の関係が道徳として固定されることで社会秩序が保たれる、ということ自体が目的ではないし、
何らかの徳が守られるということ自体に価値を置いているわけでもない
徳そのものは自然に対する暴虐、強制であり、ただしそのことで文化が生み出される、という思想
303 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/09(木) 21:59:49.08 0
>「思ってたより」と書いた
>>286は俺じゃない
いいやお前だよ。お前じゃないと証明できないしまたする必要も無い。だからお前だ(笑)。
意味分かるか?何がいいたいのかというと、そういうことを書き込んでも無効だと言って
いるんだ。こちらの言っていることがまだ分からないのか?
>程度の差はどうあれ、「キリスト教を全否定というわけではないんだな」という意味
毛筋ほどの肯定かもしれないしほぼ全部を肯定しているのかもしれないのにどうやって
それを理解するんだ?主張の幅がありすぎて話しにならないだろ。だから無効なんだよ。
>第一、「それに払う 対価に見合う人物かも匿名掲示板では分からない」のはあんたも同様
俺が俺は対価に見合う人物だっていったか?俺が思ったよりみたいな思わせぶりなことを
書いたのか?お前は「俺じゃない」みたいな思わせぶりなことを書いているがな(笑)。
304 :
考える名無しさん:2014/10/09(木) 22:26:27.69 0
ニーチェのキリスト教批判は生粋のキリスト教徒であるニーチェがやるから意味がある
異教徒の日本人がニーチェのアンチキリストから学べることは実はあまりない
305 :
∴ヴォルデモート卿:2014/10/09(木) 23:17:13.78 0
わたしは、新約を全部読み終えたばかりでクリスチャンになろうと
している人ですが。
ニーチェはイエスを批判していたのですか?
それとも、ニーチェの時代のキリスト教を批判していたのですか?
306 :
考える名無しさん:2014/10/09(木) 23:52:22.14 0
ニーチェとしては、イエスさんご本人は好きだったのじゃないの。
晩年には、「十字架にかけられた者」などと自称して、
なにやら自分とイエスを同一視していたかのような
ところもあるし。
>>303 なんだか、針でちょっとつついた程度の異論にやたら過剰反応してるけど、
コテハンにしてるところからして、何か自分は特別な人間で、
2ちゃんに生息している俺らのような下等な存在に、有り難い教えを説いてやってる、
っていう自尊心で頭パンパンになってるんだろうな
だから、俺如き虫ケラは些かも反論をするなとw そうですかw
確かに、匿名なんだし、「思ってたより」と書いたのが俺でないとは証明できないし、するつもりも無い
んで、いずれにせよ俺は、「思ってたより」という一言が、あんたに言わせりゃデカイ誤差を孕んだ言葉だというのを気にしてない
だから、あんたからすりゃ、俺自身が「思ってたより」と書いたのと同様だというわけだな
それならそれでいいよ、もうw
ただ、気になってるのは、
>>272の「超人を志向するなんてニーチェとはまったくの反対物だ」
あんたは、ニーチェ自身の言葉である
>>278にどう答えるの?
>>305 >>294にあるように、両方を批判
「ナザレのイエスは悪人たちを愛しはしたが、しかし善人たちを愛しはしなかった。
善人たちの道徳的憤激を目の当たりにして彼ですら呪詛せざるをえなかったのだ。
裁きが行なわれるいたるところで、彼は裁く者たちに敵対した。
彼は道徳の絶滅者であろうと欲したのだ。」(『生成の無垢(下)』491)
イエスは人類に同情して十字架に。ニーチェは、同情を超克することで人類を更なる高みに
共に道徳への批判者だったとしても、方向性は真逆
309 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/10(金) 04:20:22.47 0
>なんだか、針でちょっとつついた程度の異論にやたら過剰反応してる
俺はちょっとつついた程度とは思っていない。意識的であれ無意識的であれ荒らしを
野放しにするとスレが停滞するのは経験しているから、そういう奴は徹底的に論破して
粉微塵にしている。そうすると最初は態度が大きかったのがどんどん声が小さくなって
消える。これも何十回と経験していることだ。また敢えてこう宣言してもやはり消える。
匿名でも論破されると萎えるらしい。
>コテハンにしてるところからして、何か自分は特別な人間
俺としてはコテハンでも所詮は世間的には匿名だが、立ち位置を明らかにしないと議論
しにくいのでそうしてるだけだ。俺がコテハンを名乗ってもお前の馬鹿さ加減は変わらない
のに、対抗するために俺が人を見下しているとケチつけたいのは良く分かったよ(笑)。
>だから、俺如き虫ケラは些かも反論をするなとw そうですかw
虫けら云々本当につまらない書き込みで、それが余計なんだよ。俺が誰とかお前が誰とか
糞つまらん。分かんないだろ?俺は威張ってるんじゃなくて荒らしを排外する時に攻撃性を
みせたり、また議論を活発にしようと心で謝りつつ時に戦略的に挑発するだけ。
>あんたからすりゃ、俺自身が「思ってたより」と書いたのと同様だというわけだな
>それならそれでいいよ、もうw
完全に理解して認めたわけだろ?それなのにそれでいいよ、なんていう思わせぶりな物言い
こそパンパンな自尊心を温存しようとしてることだと気づかないのか?
>あんたは、ニーチェ自身の言葉である
>>278にどう答えるの?
議論に負けたがパンパンの自尊心を守るために、勝てると踏んだ別の議論を持ち出してやり
込めようとする浅ましさ。しかもお前が荒らしかが争点なのに突然話題を変えるのがどれだけ
筋違いのことが分かっていない。それにはもちろん答えたいが少なくともここでは回答するわけ
にはいかない。すぐに答えたら荒らしを認めることになるからだ。分かるか?
310 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/10(金) 05:15:15.04 0
ドストエフスキーもそうだがニーチェも同様に、イエスを認めていた。それは超人を
掠めているからだ。イエスから生み出されたキリスト教は否定してるが、イエス自体
はある程度ではあるが認めていた。なぜならイエスは白痴であるがゆえにその人生
が祝福されているからだ。しかしそれは答えじゃない。もちろん理由は彼が超人では
なかったからだ。ドストエフスキーは白痴で美しい人を描き、続いて悪霊で美しくあろう
とした人を描いた。そして両者の答えはこうだ、美しいものは為るものではなく在るもの
であるということだ。超人=人神はただ示される。
>>309 横だけど、見るに見かねてレスしとくよ。
>荒らしを野放しに
荒らしは自分勝手な妄想を書き連ねてる君のほうだと思うよ。
>論破して粉微塵に
>議論に負けたが
君が間違ってるのに、なんで論破できるんだ?
勝ち負けを言いたければ、議論に負けたのは君だぜ?
>ドストエフスキーもそうだが
ドストエフスキーを引き合いに出すこともないだろう。
ニーチェがドストエフスキーに影響を受けたかどうかは知らないが、ドストエフスキーの方はニーチェの影響なんか、まあ、まったくない。
>両者の答えはこうだ、美しいものは為るものではなく在るもの
>であるということだ。超人=人神はただ示される。
要するに、ドストエフスキーとニーチェは同じ思想を持っていた、といいたいんだね?
>>311 コテハンの論理は筋が通っている
感情に従い言い訳をする為に頭を使うなんて時間の無駄だと気づかないのか
>>312 言い訳ってw
君も自演妄想のとりこなんだね。
リキ君の論理というのは、ドストがこうだからニーチェもこうだ、ということだよ?
どこに筋の通った論理があるの?
>>313 今まで言い訳してた人が書き込んだと勘違いした
冒頭が稚拙だったので、そろそろ退場願おうと思って記載したが、2つ前までのレスを良く読んでいなかった
>君も自演妄想のとりこなんだね。
それはない
> リキ君の論理というのは、ドストがこうだからニーチェもこうだ、ということだよ?
>どこに筋の通った論理があるの?
確かに筋が通っているとは言えないな
「超人=人神」
については、説明不足である
315 :
考える名無しさん:2014/10/10(金) 20:54:15.80 0
わたしとしては、超人というのは、valueとして測れないものの創造者、
くらいに思っている。言いかえれば、ratioに基づかない、あるいは、属さない行為者、
ということであろうが、
しかし、〜でない、ということでは、意外と否定的な一面がある。
316 :
考える名無しさん:2014/10/10(金) 22:56:52.59 0
>>309 別の議論だろうとなんだろうと、答えない限りは「論破して粉微塵に」できてない
「俺が誰とかお前が誰とか糞つまらん」にしても、ここはニーチェについてのスレなわけで、
己のニーチェ解釈に整合性があるのかどうか説明しないままに、延々と主張を書き連ねるのは、それこそ荒らし行為
匿名の誰が誰かなんて「糞つまらん」にしても、ニーチェ自身の言葉には答えるべきだろう
リキだか力石だか知らんが、その主張するところは、『人と思想22 ニーチェ』みたいな入門書レベルでも書けそう
論拠としてニーチェ自身の著書から引用して説明することができないから、一方的に相手を罵倒する以外のことができない
第一、「最初は態度が大きかったのがどんどん声が小さくなって 消える。」って、レスが無くなったら勝った、と思い込むのは幼稚
あなたが、ニーチェ自身の言葉を無視して一方的に喋り続けるのに呆れて、議論する気が失せたのかも知れないし
レスが無いのは答えられないからだ、というのなら、それは今、まさにあなた自身に適用されるだろう
317 :
考える名無しさん:2014/10/11(土) 14:57:57.57 0
入門書レベルでないあなたは、
関係個所のドイツ語原文と和訳を並べて貼り付けて、
それについて逐語解釈をしたらどうか。
318 :
考える名無しさん:2014/10/11(土) 18:24:59.53 0
それをやるべきなのは、むしろリキ氏
単なる和訳引用すらできないのに、己の主張に向けられた質問に対しては、
論拠を示すかわりに、傲慢な態度を示すのみ、なんだから
319 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/12(日) 04:58:51.46 0
>別の議論だろうとなんだろうと、答えない限りは「論破して粉微塵に」
>できてない
なんだお前話が分かってたんじゃないのか。俺が言っているのは前議論的な
問題なんよ。ニーチェ云々は抜きにして、スレの書き込みの作法を守れと
いっている。お前と俺がここで交わした議論はお前が荒らしかどうかであって、
そしてお前は自尊心を守る形とはいえそれを認めたと思ったんだが。ここで
それを咎めずに議論を続けると言うことは、荒らしを認めたことになる。
お前は貶められた腹いせにバランスを取とうとして、浅はかにも勝てると踏んで
その議論を続けたいのかどうか知らないが、そういう理由でニーチェ云々の議論
なんてできるわけがない。分かるか?と聞いたが分かってないようだな。もちろん
ニーチェスレでニーチェの主張に対する議論はしたいが、それについての解答
は直ちにはできない。分かるか?
こういう議論が続くと邪魔と思う人もいるかもしれないが、こういうことは大事な
ことだ。スレ自治のための税金みたいなものだと思ってくれ。
320 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/12(日) 05:13:30.07 0
>己のニーチェ解釈に整合性があるのかどうか説明しないまま
引用箇所は少ないが、それもある種の戦略だし、当然すべきときはする。
その結果支持されなければそれはそれでまた俺が判断することだろ。少なく
とも今のやり方を変えるつもりは無い。そもそもニーチェスレとはいえ解釈学
的方法と言うことは自らに即した言葉で語らないといけないんじゃないのか?
逆に引用せずニーチェの言葉に依存せず語れたらたいしたもんだ。もう1度
いうが引用するときはするが出来るだけ自分に即して語ることにしている。
俺は俺自身の主張がニーチェ思想と一致している自信はあるぜ。
>匿名の誰が誰かなんて「糞つまらん」にしても、ニーチェ自身の言葉には
>答えるべきだろう
スレの成立を考えればルール無視はいただけない。お前とはスレの存立に
関する議論はできても、ニーチェの主張に関してはそれに値しない。ルール
に関する議論で粉微塵といったのに全然俺の話し分かっていないのか。
>レスが無くなったら勝った、と思い込むのは幼稚
あのな、そりゃ人の心に客観性はないさ。でもな、何度も繰り返せばその
行間にある心の機微をある程度読み取れるといっているだけだ。そもそも
お前はどうしようもないと思うんだが、嘘だと思うんならどちらにせよ論理
的にお互い明らかにすることの出来ないことにレスつけることはないだろ。
とにかく何にでもバランスをとろうとしてどんだけ自尊心パンパンなんだ(笑)。
321 :
考える名無しさん:2014/10/12(日) 06:03:58.18 0
まず、リキ氏が誰かのレスについて「このスレを荒らした」と判断する基準が分かり難い
「荒らし」という批難は
>>309で出てくるが、これを読んだ限りでは、
・「あんたはニーチェがキリスト教を肯定していると書いたんだよ」という誤読・曲解
・
>>294の、「
>>286に「思ってたより」と書いてあるのに何ムキになって反論してんだか・・・」とdisられたことへの激怒
・その怒りに任せて、
>>301の「「思ってたより」と書いた
>>286は俺じゃない」を異常に攻撃
要は、「俺はちょっとつついた程度とは思っていない」という、自分に異を唱える者に対する過敏な興奮以外の理由が感じられない
故に、そもそも何を「議論」するのか不明
まぁ、ひたすら吠えることしかできなくても、相手が「どんどん声が小さくなって消える」ことで勝利が確信できるんだから、
最初から、リキ氏の中では自分の勝ちが予め決定されているんだろう
322 :
考える名無しさん:2014/10/12(日) 06:05:03.84 0
>スレの書き込みの作法
>こういうことは大事なことだ。スレ自治のための税金
このスレを自分の庭か何かと思ってないか。ルールルールと言うが、完全なる俺ルール
>自らに即した言葉で語らないといけない
>逆に引用せずニーチェの言葉に依存せず語れたらたいしたもんだ
>俺は俺自身の主張がニーチェ思想と一致している自信はあるぜ
自信は自分の中にあればいいというわけではなく、自信の根拠を示さないと、他人には何も分からない
リキ氏の中では、ニーチェの思想と自身の主張が一致しているのは自明で、完全に血肉化しているから、
個々の文章を抜き出して「論拠はこれだ」なんていう作業など煩わしいのかも知れないが、主観的感情でしかないからな
「すぐに答えたら荒らしを認めることになる」という奇妙な主張で時間稼ぎをするのは構わないし、
ひょっとしたら、ニーチェ全集を注文して届いて読み込むまで待ってほしいのならそれも構わないが、
「最初は態度が大きかったのがどんどん声が小さくなって消える」のだけは、なんか曖昧な終焉でつまらないから勘弁
こちらの暇が無くなるまでに、何か論拠が示されたら俺も嬉しいんだが・・・、
「やろうと思えば今すぐできるが、お前の都合に合わせるつもりは無い」とか言って、
>>309の「荒らしを野放しにするとスレが停滞する」を自ら実践しそうな予感しかしない
323 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/12(日) 08:48:39.03 0
>>321 「思ったより」という言葉の意味の幅がありすぎてそれを無視したら、それに
対して亜羅氏が的外れの反論をしたことが発端となっているのに、どう読んだら
俺が憤激してることになるんだ?こちらは粛々と荒らしを排外しようとしてる
だけなのに。しかも勝利の確信に対しても、議論にならないことを指摘した
ばかりなのに早速議論の皿にのせるのは、何が書いてあるのか理解できて
ないのか?
>これを読んだ限りでは
何を読んだんだ。ジャンプ?(笑)
324 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/12(日) 09:09:22.35 0
>>322 >このスレを自分の庭か何かと思ってないか。ルールルールと言うが、完全
>なる俺ルール
ルールというのは集団がある一定の方向性を見出したときに生まれるものだ。
そういう意味でニーチェの主張への理解を深めようとする為のスレであると
いうのが一般的だと踏まえた上で、その方向でルールに則った振る舞いを追求
している。もちろん俺の庭じゃないから柔らかいもので、少なくとも議論に
参加し、その上でそれを阻害しているとみなすものに対してのみ、気づきを
供給しているに過ぎない。基本は何書いてもいいに決まってる。
>自信の根拠を示さないと、他人には何も分からない
いいか亜羅氏、それはニーチェの主張にかかわる議論の話であって、お前に
対しては前議論的な、ルールにかかわる話をしているんだぞ。何度も言ってる
よな。話の階序は逆にならないからな。そこをお前はいつも混同するから。
「思ったより」で俺に的外れな反論したけど、くだらないのはお前だったよな?
議論に勝てるとバランスを取ろうとして階序を無視しても、ルール遵守を願う
俺が荒らしに付き合うと思うか?
>「すぐに答えたら荒らしを認めることになる」という奇妙な主張で時間稼ぎ
>をするのは構わない
あのな、荒らしてるやつを注意するのはニーチェの主張にかかわる議論を円滑に
行いたいからだ。ここまでは分かるな?だからそこを正してもらわないと
共に先へ進むわけにはいかない訳だ。なぜなら自覚しているであれ無自覚であれ
荒らしてるやつと一緒に議論したらまた荒らしてもいいと認めることになって
しまうだろ?奇妙な時間稼ぎじゃなくてお前が順番を間違えているんだよ。
非常に明快なロジックを奇妙って。世にも奇妙なのはお前だ(笑)。
325 :
考える名無しさん:2014/10/12(日) 09:48:41.50 0
神とは一つの推測である
ってのは非常に共感できる
>>323 >>311だけど、答えがないので催促しとくよ。
僕をも荒らしのひとりと思っても思わなくてもかまわないが、君の自分の正当性に対する思い込みが強すぎると指摘してる。
>ルールというのは集団がある一定の方向性を見出したときに生まれる
この掲示板に参加する人間に一定の方向などあるわけもないし、あっったらむしろ、もっとも思考の自由を妨げる参加者の幼稚化しか招かない。
ましてその定義もルールも君が決める根拠は皆無だ。
柔らかいも堅いもない。
>ルール遵守を願う俺
君が自分で決めたルールに君が従うのはもちろん自由だが、他人はそんなルールを配慮しない。
>ニーチェの主張にかかわる議論を円滑に行いたい
君に対する一つ一つの指摘に丁寧に答えることが議論を円滑に進めることであって、根拠のない荒らし認定で相手を否定するのは議論を阻害することになる。
君は指摘になにも答えていないから、君自身が荒らしになっている。
同じやり取りの繰り返しになっている事から、どちらもわかりあえない
どちらかが、個別の論争において説得(どちらかと言うと理解)出来ないのは解った
人の意見を聞かず、
無意味な長文で罵り合うのは、
どちらも荒しではないか?
>>325 ああなんかわかるわ
ギャンブルをしたくなるのは神(どっちかというと運命に近い気もするが)に触れていたいからなのかもね
でも負けると凄い悔しいけど勝っても何故か思ってたほど嬉しくないのよねw
>>327 まず、君が自省することからすべては始まる。
この際もう引用の有無とかどうでもいいから、「勝てると踏んだ別の議論」というやつに応えたらどうかな
「俺自身の主張がニーチェ思想と一致している自信」を、自分の言葉で証明すればいいんだよ
でないと、話が堂々巡りにしかならない
331 :
考える名無しさん:2014/10/13(月) 04:19:13.21 0
ニーチェの絶望とトマス・アクィナスが投げ出した事って関連ある?
>>332 >無意味な長文で罵り合うのは、どちらも荒し
無意味かどうかを判断するのは君ではない。
長文であることは荒らしの根拠にならない。
罵り合っているのか普通の議論なのかは君の主観の問題。
ニーチェ哲学に於いては、道徳的判断の規定にあるとされる肉体の段階で既に、広義の「政治」が行なわれている。
個人の主観の中に、既に複数の主観間の政治がある。
《それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。
支配権をにぎっている「諸細胞」の一種の貴族政治?》
(『権力への意志』490番)
所謂「政治」的な段階で支配権を握る存在の在り方については以下のような像。
《労働者はいつかは現今のブルジョワのごとき生活をいとなむべきである。――しかしこの労働者の上方には、
無欲によって秀でつつ、それゆえ、より貧困でより簡素でありながらも、権力を掌握している高級階級があるべきである。》
(『権力への意志』764番)
そして低級な者には「徳」を植えつけてやり、彼らの、偉大な人間への依存を、恰も「原理」への依存のように信じさせることで、
彼らの虚栄心を満足させてやる、という統治の術を説く。
高級な者をニーチェが「強者」と呼んでいることは周知のことだが、この言葉の一般的なニュアンスとは必ずしも一致しないかもしれない。
《高級類型は比類なく大きな複雑性を、――並存する諸要素のより大きな総計を示しているからであり、
このことで解体の見込みも比類なく大きいのである。》
(『権力への意志』684番)
この解体の危険を耐え得るからこその「強者」。
そうした、貴重な存在である反面、脆くもある高級な者が、支配者に相応しい理由は、
《偉大な人間が偉大となったのは、それだけの対価が支払われたからであって、
奇蹟のごとくに、天上や「偶然」の賜物として出現するからではない。――『遺伝』とは誤った概念である。
私たちが現にどういう者であるかに対しては、私たちの祖先がその代価を支払ってきたのである。》
(『権力への意志』969番)
《崇高な人間は、たとえまったくかよわく脆くあっても、最高の価値をもっている。
というのは、まったく重厚で稀有な事物が、豊富に、多くの世代をつうじて育成され、いっしょに保存されているからである。》
(『権力への意志』996番)
高級な者とは、人類が積み上げてきた遺産の継承者である。
単なる個人的な、一種の宗教的熱狂に駆られているだけの人間は、ニーチェ的な階序の上方に置かれることはない。
《なぜ哲学者の出現は稀であるかの問題。
哲学者たるの諸条件には、ふつう人間を徹底的没落に向かわせるような諸固有性が属している。すなわち、
1)固有性の物すごい多様さ。哲学者は、人間の要約、高級低級を問わず人間のすべての欲望の要約でなければならない。
すなわち、対立の危険、またおのれにもよおす嘔吐の危険。》
(『権力への意志』976番)
《新しい哲学者は、支配階級と結びついて、その最高の精神化としてのみ発生することができる。》
(『権力への意志』978番)
>>333 言葉を省略したらわからないだろ?
はじめから人に伝わるように書け
それと、言葉尻だけ引用するなよ
「同じやり取りの繰り返し」は無意味だと言っているわかるか?
337 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/13(月) 21:03:58.79 0
>>326 >この掲示板に参加する人間に一定の方向などあるわけもない
なければ会話は成り立たないだろう。我々のこの前議論的な議論もまた不文律があって
成立している。ニーチェスレなのに無関係な、例えば昨日何食ったとか書けば、チラシの
裏にでも書いとけということになる。当然集団を規制するわけだから差別(村八分)という
形のある程度の圧力が加わる。あらゆるスレにおいてまったく無関係に昨日何食ったとか
AKBのメンバーの誰が好きとか次の楽天監督は誰がいいとかスレ主旨を無視して書かれて
いるか?確かに無関係な書き込みもあるが一般的にはスレ趣旨に即した形で書き込みが
行われる。俺の書き込みも荒らしに対する村八分だ。
>定義もルールも君が決める根拠は皆無だ。柔らかいも堅いもない。
俺が決めたことじゃない、一般的なことだろ。
>君が自分で決めたルールに君が従うのはもちろん自由だが、他人はそんなルールを
>配慮しない。
お前は自由に書き込んでいるつもりなだけで、スレの存立構造に無自覚なだけ。
>同じやり取りの繰り返しになっている事から、どちらもわかりあえない
確かに一方が感情的になって相手を受け入れる民度が無いとか、また知的レベルが
ひど過ぎて理解できないということなら分かり合えないが、前に亜羅氏が多少なりとも
理解力を示したのでわかってもらえると思って会話している。
まず言えることは「思ったより」で代表される亜羅氏の議論を阻害する振る舞いに対して、
その行為が荒らしであることを認めさせることだと思う。そうでないと荒らしをのさばら
せることになる。
338 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/13(月) 21:14:08.54 0
>>330 >この際もう引用の有無とかどうでもいいから、「勝てると踏んだ別の議論」というやつに
>応えたらどうかな
それがどうでも良かったらスレの秩序もどうでもいいことになる。だったら「ニーチェスレに
秩序はいらない、荒らしが横行してもかまわない」と宣言してくれ。荒らしのお前にレスを
つけることはやめるよ。
例えば対立する二人がいて、チェスで勝負をつけようということになったとする。そうなると
必要になるのがチェスのルールだ。知らなければルールに逸脱した駒の動きをしてしまう
だろうし、それでは勝負にならないだろう。だから勝負をする前にルールを理解することが
必要だ。さて、ニーチェスレにおける書き込みにおいても同じことが言える。ルールなどない
ということであれば最早議論の前提が欠けているのでそういう人間は参加する必要は無い。
少なくとも何十と重ねてきたこのスレはニーチェの主張を理解しようという合意に基づいて
議論を重ねてきたわけで、綿々とルールがあったから継続してきた。そんな中で無駄で
あったり無意味な書き込みは窘められて当然なんだ。それに対して「ルールなんて無かった」
というのは、スレの存立に無自覚であっただけといわざるを得ない。
>>337-338 ↑
ニーチェに関係のない長文レスによる荒らし行為。
そう見えない人はいるんだろうか、リキ氏本人以外に。
いるなら理由を説明してくれ。
340 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/14(火) 07:50:06.32 0
「誰が解釈するのか?私どもの欲情である」
遠近法で考えるなら、ニーチェはまさしくそれを表現した人だ。そして彼はまさしく
歩き続けてその都度自己を探求し自己を超克した。いかなる認識も自己の生の
発展のために営まれるものであって、自己から遊離した真理というものは存在
しない。真理とはそもそも生に制約され生に相対的に決定される。生の観点・中心
から真理というものは決定する。
>>339みたいなこういうのが、村八分による制約というものだ。分かるかね?
341 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/14(火) 07:56:45.22 0
ニーチェの解釈学的方法によって齎されるのは、ニーチェの読者がニーチェのその
時の生に制約されたものが自体的真理であると思い込むことだ。ニーチェは歩いた
人であって、家にいて本を様々な角度からつついていたわけではない。永劫回帰で
あれなんであれそれは彼が歩いているさなかで生じたものだ。そこでの確信が
それ自体で成立しているような真理であるということではなく、その時の生によって
制約されただけに過ぎない。彼にとってそれが自己自身であり同時に克服すべき
壁であったに過ぎない。そういう意味で読者はその都度相対的に決定するものを
永遠の真理であると誤読する危険がある。
342 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/14(火) 08:04:46.55 0
ニーチェの社会主義批判や超越宗教批判は、それらが生の遠近法から遊離している
からだ。すなわち自己探求し自己超克すべきものを、一律に解決し理想へと駆け上が
ろうとしている。社会主義や超越宗教は個別的生の結果として制約されたものではなく、
まるで全体を理想へと押し上げようとしている。しかしそれは真理とはまったく関係が
ない。
343 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/14(火) 08:08:44.36 0
ニーチェの立脚する遠近法的思考の中心は自我であるが、これは近代的自我という
自己中心的なものではなく、すなわち自己完成を目指すような自己の中に神を確保
しようとするものではなく、むしろ偏狭な主観の枠を廃棄して、充溢した自然の生と
合体することである。
我欲から自己探求をし、自己超克するも、自然の生と合体する為に自己没落を理想
とする。自己没落とは自我の滅殺であり体感することである。
344 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/14(火) 09:17:32.60 0
>>334 ニーチェの説く歴史主義に対する態度の一つに非歴史性の態度があるわけだが、
これこそ共同主観性におけるイニシアチブの取り方というニーチェなりの社会分析だね。
個人の存立を共同体とするなら、共同主観性における覇権というべきものに対して、
生命主義を持つ者は個人の自己探求や自己超克ではなく、共同体全体を省みなければ
ならない。
>>336 >言葉を省略したらわからないだろ?
なにを省略していると?
>>332で「意味不明」とだけ書いたやつのいうセリフか?
そんなあたまだから、自省を求められてる意味がわからないんだろうな。
またつるじょあが荒らしてるのか
くっさ
>>345 意味が正しく伝われば良いのだ
「意味不明」を読んで
お前は結果として意味が分かるように書き直しただろ
それが俺の意図だ
文章の長い短いなど頭の良し悪しの基準にならない
むしろ、お前の 低俗なレスの内容の方が頭の悪さを露呈している
348 :
考える名無しさん:2014/10/14(火) 12:25:59.94 0
高校の頃夜の仕事の準備で彼女と街を歩いていたときに
中学の頃から付き合っていた女の子に見つかって
友達に慰められながらずっと泣いてたけどあんなかんじ?
>>337 >俺の書き込みも荒らしに対する村八分だ。
一人じゃ村八分にはできないよw
あたま、大丈夫か?
このスレを荒らしてるのは君一人だ。
>俺が決めたことじゃない、一般的なことだろ。
一般的だと思う根拠をあげてみな。
>スレの存立構造
なんだそれw
>そうでないと荒らしをのさばらせることになる。
のさばってるのは君一人だよ。
少しは自分を振り返れ。
>>340-
>>344 愚にもつかない自己流解釈のたれ流しはやめろ。
頭の悪さと見栄っ張りの性格を晒しているだけに見えるぞw
村八分と称して、くだらない見栄でひたすら根拠のない思い付きを書き込む。
それを荒らしというんだ。
マサチューセッツ州氏がコテハンで「立ち位置を明らかに」してくれてるから、過去レスも見てみた限りでは、
社会学的というか、共同体論的な視点から、外堀を埋める感じでニーチェ思想に迫っている印象。
社会の変遷についての、彼なりの歴史観から、ニーチェ思想が出てきた必然性を論じている。
その段階では、極端にヘンなことは言ってない。
が、その社会学的視点に囚われるあまり、脱社会的な個人の恍惚感がそのまま、
「神の担保」、「超人とは独自の神を戴いている」、「超人が独自の神と共にある」、
といった主張へ転じた時点で、ニーチェからは無限に遠のいた。
なぜなら、
>>334-335の引用に見られるような、ニーチェ自身が明言した前提から外れた主張だから。
支持者の
>>314にとってさえ、超人観については説明不足らしいし。
三島と東大全共闘の討論記録を読んだことがあって、
学生の、抽象概念を情念で掻き回すような言葉遣いに付き合うのがなかなか厄介だったが、
マサチューセッツ州氏の論にも、似たような印象を抱く。
>>344は、ニーチェの言う「諸主観」を共同主観性やら共同体やらに限定しているのかな、という印象だが、
《道徳の解体は、実際上の必然的帰結として、原子論的個人へと、
次いでさらに個人を多数性に分解することへと行きつく――絶対的な流動。》
(『生成の無垢(下)』1264番)
《人間は何か流動的で造形しやすいものである――人間は、望み通りのものに仕立てあげられうるのだ。》
(同1271番)
諸個人の主観の話をしているのではなく、個人を、もっと言えば人間を分解し分析し、人間という存在形態を実験体にすること。
だからニーチェは、健康や衛生や、天才が生まれる条件等々についての社会的、栄養学的な思考を働かせていた。
352 :
考える名無しさん:2014/10/14(火) 16:41:46.00 0
そ誰とも異なる孤立した単独者としてのこの私が
無媒介的に普遍的なものと対峙する、あるいは、普遍そのものである、といえば、
ふつう、キルケゴール的、となるのだろうが、そういう面は、ニーチェにもある、
という理解でいいのかな。
ニーチェの場合、神のような超越者と対峙するわけではなく、
意味も目的も理性もないままに永劫回帰する世界と対峙している。
『権力への意志』でキリスト教を論じた箇所の中に、
《真の生に入るとは――普遍的生を生きることによって、おのれの個人的生を死から救うことである――》
とあるけど(194番)、一瞬一瞬が永劫回帰する、という重みを担いつつも高みへと飛翔することが、
永遠性、普遍的生を生きることなんだろう。
そして、森羅万象の回帰を肯定するには、人類史的な視点に於いては、
《哲学者は、人間の要約、高級低級を問わず人間のすべての欲望の要約でなければならない》
(『権力への意志』976番)
といっても、人間、人類が自らをそのまま肯定するというのではなく、
>>278のように、
人類の延長線上にありつつ人類を超える、つまり超人という理想、目標が永劫回帰を肯定する。
354 :
考える名無しさん:2014/10/14(火) 17:18:10.89 0
マサチューセッツさんがいったという「独自の神」についてきいたわけよ。
ハイデガーも晩年、「ある神」とかいっていたことだし、
そういう面はニーチェにもあるかな、と。
神がいないという状態は突き詰めて考えれば耐え難いらしい
357 :
考える名無しさん:2014/10/14(火) 20:35:52.20 0
>>354 それはあると思う。
「神なき世界」が「ニヒリズム」に直結するのは、ニーチェもドストエフスキーも共通しているが、
(当時の)西洋人にとっての神なき世界の耐え難さというのは、我々には想像しがたいものがある。
ニーチェは仏教にかなり共感したのだが、「空なる世界」というものをどう考えたのか・・・?
ニーチェにとっては、やはり、ディオニュソスが必要だったのだろう・・・
永劫回帰って無限かつ多様性のある体験を経験し続けるって思想なんだっけ
意外と夢がある思想なのかも
>>358 いや。組み合わせが有限だから、いつか今と同じところに戻ってくる。
そして、その繰り返し・・・と、ニーチェは考えた。
>>347 やっぱり、君には自省を求められてる意味がわからないんだな。
頭が大丈夫じゃないんだろうなw
物言いや、無教養な考え方からして
スレに見合う知性や教養を持ち合わせていないレスがみ受けられるが、こういうレスをするお馬鹿さんは無視するに限る
>>354 その点は本人氏の答えを待つべきだけど、彼の言う「独自の神」ってのが、
奥崎謙三やら酒鬼薔薇やらの話なら、ニーチェからは、病んだ者の熱病と呼ばれて終わりだろう。
《彼はおのれ向きのおのれ自身の神をもっている。しかし、私がその神を見てとって以来、
私は彼をば彼の神をまねた猿としか認めなかった。》
(『生成の無垢(下)』959番)
永井均の独我論的な解釈なんかだと、反社会性や反道徳性とは関わりなく、
「生の悦び」だけであらゆる行動を肯定する思想、ということになったりするが、
ニーチェ思想の肝である、高級低級とか権力量とかいった概念が完全無視されている。
ニーチェ自身は晩年、ブルクハルト宛の手紙(1889年1月6日)に
「結局、私は神であるよりは、はるかにバーゼル大学教授でありたいのです」と書いたりしているが、
他ならぬニーチェだからこそ発せられる言葉だと思う。
永劫回帰思想を産み落とした、世界に意味や目的を与える神なる者の殺戮者ゆえの言葉。
《神に対する畏敬とは、万物が関連し合っており、かくて人間よりも高等な存在者を確信させることに対する畏敬である。》
(同936番)
この「神」に「永劫回帰」を当て嵌めて、ほぼ間違いはないと思う。
《君たちはそれを神の自己解体と名づける。だがそれは神の脱皮にすぎないのだ、
――神がおのれの道徳的な皮を脱ぐのだ! そして君たちは神とやがて再会するだろう、善悪の彼岸で。》
(同949番)
《いまなおキリスト教徒であることをこんにち私たちに禁ずるのは、私たちのいっそう厳しく、
いっそう洗練された敬虔心そのものなのだ。》
(同992番)
363 :
考える名無しさん:2014/10/14(火) 23:15:57.58 0
殺戮 むごたらしく多くの人を殺すこと
辞書的にはこういう意味だろう。ニーチェは、たくさんの神を殺したわけではないので、
殺戮というのは、少々変なわけだ。
それはさておき、「神の殺害者」とは、昔からよくいう人がいるけれど、
ひじょうにくさい言葉だな。
そういや、プフォルタ学院時代なんていう初期も初期に既に、
《神は善でもなければ悪でもなく 人間的概念を卓越している。》なんて書いている。
筑摩のニーチェ全集14巻の付録、「キリスト教に関する初期遺稿断片」の初っ端にある文章。
結局、ニーチェの生涯にわたる思想展開は、ニーチェが己自身となり、開花していく過程だったんだろう。
365 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/15(水) 03:26:57.62 0
>>351 浪漫くん、挑発する気はないが、今までで稀に見る低劣な主張だ。何かニーチェを
人類を救うメシアだと思っているらしい。
>脱社会的な個人の恍惚感
恍惚感が脱社会的なんて浅薄な物言いで、これこそニーチェどころか人類史を
骨抜きにしてしまっている。
>
>>334-335の引用に見られるような、ニーチェ自身が明言した前提から外れた
>主張だから。
それがニーチェ自身の前提であるという思い込みが、すでに言及した危険な誤読
に繋がっている。ニーチェは歩いた人でありその道程で思いの丈を述べた人物だ。
例えば人類を俯瞰して主張することもあるが、そうした所でそれを実践するのは
論理的に不可能だ。なぜなら物事は歴史であるのであり、そうである以上摩擦が
存在するからだ。では不可能なことに言及するのは何故かといえば、それは彼が
道すがら分析して思ったことを述べたに過ぎない。
>ニーチェの場合、神のような超越者と対峙するわけではなく、意味も目的も理性
>もないままに永劫回帰する世界と対峙している。
ニーチェにとっては神とはディオニュソス神に過ぎない。そしてその神は客観的に
いえば諸共同体の数だけのパースペクティブによって見え方が異なる。共同体の
数だけ神が存在し、異なる共同体が神々の争いをしている。これが神の独自性の
所以だが、これをニーチェはディオニュソス神としている。しかしここで問題になる
のは存在と神との距離だ。
>一瞬一瞬が永劫回帰する、という重みを担いつつも高みへと飛翔することが、
>永遠性、普遍的生を生きることなんだろう。
永劫回帰というのは理論上の世界観であって、現実の人間がそれを実際に思い描く
ことではない。実際にそれをやろうとしたら非常に滑稽なことになるだろう。普遍的生
を歩むのはそれが人間が共同体的存在であるからであって、個人的生を救うには
それしかないに決まっている。
366 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/15(水) 03:28:47.97 0
>(当時の)西洋人にとっての神なき世界の耐え難さというのは、我々には想像
>しがたいものがある。
その神はキリスト教の神だ。そうではなくニーチェが言っているのは神がいなければ
人類は存続できないという事実だ。
>ニーチェは仏教にかなり共感したのだが、「空なる世界」というものをどう考えた
>のか・・・?ニーチェにとっては、やはり、ディオニュソスが必要だったのだろう・・・
浪漫くんの主張全体を見ると恥ずかしい書き込みだと思う。読書家のロマンチズム。
>彼はおのれ向きのおのれ自身の神をもっている。しかし、私がその神を見てとって
>以来、私は彼をば彼の神をまねた猿としか認めなかった。
それは神ではなく無のことだからだ。神と相対的な無人格関係ではなく、絶対的な
人格関係となったとき、人は存在との距離を永遠に保ち、神と合一することができる。
>「生の悦び」だけであらゆる行動を肯定する思想、ということになったりするが、ニーチェ
>思想の肝である
主観的に肝にしているだけだ。
367 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/15(水) 03:45:48.47 0
超人とは何か?それは目的を持たず言葉を語らず全てを受容する、常に独自の神と
共にある歓喜の境地だ。そして人神=超人を目指すキリーロフにおいては、あれか
これかの選択が重要なのではなく、あれもよしこれもよしの立場こそがすべてを受容
することに繋がる。そして目的を持たずとは永劫回帰のことであり、これこそ意味を
経由せずすべてを永遠のものとして受け入れることだ。この永遠との距離が思想家
の課題であって、こうして永遠を目的としたキリーロフは自殺することになる。
絶対的に同一な諸関係の円環運動とは、生成の永遠化を意味するのであり、その
過程においては目的表象が取り除かれている。この永遠に対する立場によっては、
無限回の苦痛に繋がって「この悪魔め!」となって永遠に潰されたり、あるいは
「これが生だったのか、よし、ならばもう一度」に繋がって超人となる。ではこの
分水嶺はいかにしてあるのか。
368 :
考える名無しさん:2014/10/15(水) 04:09:36.90 0
スターオーシャン5をセールして欲しい
スターオーシャン5を出荷して欲しい
スターオーシャン5を売却して欲しい
スターオーシャン5を市販して欲しい
スターオーシャン5を発売して欲しい
スターオーシャン5を出して欲しい
369 :
考える名無しさん:2014/10/15(水) 17:57:32.54 0
貴方は大学時代、女子高生を数人はべらせ
キャンパスメイトで色々していた有名人な訳ですが?
え、あ、formalに解釈するの?
>>367 超人は社会の中で生まれなければいけない存在であり、社会は超人を誕生させる為に存在する
そういった主旨での記載があったと記憶している
超人は神人とは異なる
神人は全てを受け入れ神を己に宿すが
超人はより高尚な存在を目指す
失礼
神人??
人神○
373 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/15(水) 20:01:15.73 0
ツァラトゥストラにある綱渡り師にみるように、人間とは超人への過渡的存在であって、
人間と超人という理想の境地の間には綱がある。文字通り綱であるということは、
多数を同時に渡らせるものではないのは明らかだ。まるでニーチェ思想が社会全体を
救うかのような発想は、道徳家のロマンチズムでしかないだろう。それは歩むことなく
引きこもって本をつつくことの所産だ。
ニーチェは最初の完全なニヒリストとして、超人を近代以降に出現したニヒリズムを
克服する理想の境地とした。そしてそれは前近代とは異なるがゆえに超人なのだ。
つまりは殺害されたディオニュソス神を現代社会に即した形で甦らそうということに
他ならない。そこで前近代の神の確保の構造を踏まえた上で、現代に即した形で
その構造を担保しなければならない。一言でいえば近代社会によって打ち破られた
人類を何百万年も存続させた伝統に立ち返るのだ。
>>372 このスレを立てたのが自身であり、
ニーチェというお題について語り合う場が有意義だと感じている
ばかばかしいとは思わない
言っても理解しないやり取りは退屈ではあるが
最近はレスが大いので移動中の暇つぶしには丁度いいと思っている
375 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/15(水) 20:21:28.73 0
永劫回帰の巨大な重荷に潰されることなくそれを逆に慈しみ全体を受け取る
ことが出来るか否かの分水嶺は、もちろん運命愛にある。この愛はいうなれば
距離があってはならない。もし距離を担保するような、すなわち愛そうなどとした
なら、天罰が下って巨大な重荷は凄まじいまでの重量となってその人を押し
つぶすだろう。
永劫回帰の世界観を運命愛によって慈しみ、こうして人は仮象性を打ち破って
神話の住人となることが出来る。
376 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/15(水) 21:07:12.99 0
神の確保には時間性・受動性・一般性の3つの条件がある。近代社会においてはそれが
担保されていた。すなわち時間性とは歴史に神が降り立つということであり、受動性とは
神は訪れるということであり、一般性とは皆の神であるということである。この3条件を破り
ディオニュソス神を殺害したのが他ならぬ我々であるのは言うまでも無いことだろう。
ではこの現代社会において、神を甦らすことは出来るのであろうか?そもそも現代社会が
神を葬ったのではないのか?人格的な時間の絶対性を誰でも機縁でありうる非人格的な
空間の相対性にし、受動性として来訪すべき神を自らが選び取る能動性にし、一般的な
神を個別性に解消してしまったのではないのか。体感されていた生存実感が、体験し
ていく生存実感になったとき、無の深淵が人々の前に現出した。しかしニーチェは近代以降
出現した深淵の向こうを信じる。超人論を説き無の深淵の向こうの神を信じるということで
ニーチェははっきりと有神論者である。
377 :
考える名無しさん:2014/10/15(水) 21:31:56.77 0
>>376 >ディオニュソス神を殺害したのが他ならぬ我々であるのは言うまでも無いことだろう。
それは「ディオニュソス神」じゃなくて、「キリスト教の神」だろう・・・
379 :
考える名無しさん:2014/10/15(水) 21:42:57.47 0
>>376 >そもそも現代社会が神を葬ったのではないのか?
キリスト教自身が育てた「誠実性」が、キリスト教の神を葬った
ということをニーチェは書いている。
つまり、「全ての偉大なものは己自身を克服する」という自己克服の論理
を、ニーチェはここにも当てはめている。
380 :
考える名無しさん:2014/10/15(水) 21:46:26.42 0
>>376 >超人論を説き無の深淵の向こうの神を信じるということで
>ニーチェははっきりと有神論者である。
そう言える根拠が不明。
そういうところこそ、そう言える根拠を示す引用が必要。
381 :
マサチューセッツ州リキ:2014/10/15(水) 21:58:49.29 0
ではこの現代社会で果たして神は確保されているのであろうか?それがなされているのが
例えば奥崎謙三である。彼ははっきりと「私は神様の愛い奴だ」といい自らが神に愛されて
いることを誇りにしている。彼は生涯にわたって貧苦の中にあったし、人をあやめたり刑務所
にも十数年入っていた。しかし彼は変わることなく生涯を貫き通し、晩年は顔面を吐しゃ物
まみれにし血栓溶解法を実践しながらも、「私は幸せだ」と言い放った。彼にとってはあらゆる
成功も、そして失敗も意味があるのであり、神に全面的に承認され祝福を受けている。
みずぼらしい奥崎を見て人々は彼が超人であるということを理解できずに躓く。あの盗賊と
一緒に十字架に掛けられて死んでいったみずぼらしいイエスを見て、キリストであると信じる
ことに、同時代の人たちが躓くのと同じである。イエスがインコグニート(微行)であったとおり、
超人もまたインコグニートである。超人は条件を満たせばいつでも生まれうるし、脱社会性
であるからこそ時には反社会性になることもあるだろうが――人知れず消ええるのだ。今街で
すれ違った人間が超人でないという保証はない。
反論は無いので恐れずに好きに書き込むといい。いくら言葉で飾ろうとも感情論でしか語れぬ
民度低き者よ。私は去ろう、実家のあるマサチューセッツ州へ!
ニーチェの永劫回帰の現実的な部分は不幸でも現実を肯定できる奴は偉いって考え方ですよね
>>377 いや、彼のおかしいのは、そこじゃないだろ・・・。
かつてのディオニュソス信仰のようなものを近代社会が不可能にしたのを、
ニーチェが再び可能にしたと言いたいんだろう彼は。
おかしいのは、
「一般性とは皆の神である」「一般的な神を個別性に解消してしまった」
とか言いながら、では「独自の神」なるものに何の価値があるのか説明していない。
奥崎のようなキチガイとニーチェに何の関係があるのか、論拠がいっさい出てこない。
「普遍的生を歩むのはそれが人間が共同体的存在であるから」だのほざいているが、
ニーチェが高級な人間に求めている認識力や創造性とは無縁のキチガイが、
自らの慰安用に胸に抱く「独自の神」とやらが、共同体と何の関係があるのかの説明もない。
>反論は無いので恐れずに好きに書き込むといい。
反論を恐れて逃げ出したのはお前自身。
>いくら言葉で飾ろうとも感情論でしか語れぬ
>民度低き者よ
それもお前自身。
ディオニュソスは、神話では最後に八つ裂きにされる、つまりは犠牲でもあって、
だからこそニーチェは、「十字架にかけられし者」と「ディオニュソス」という書名を併用したんだろう。
ニーチェの、キリスト教やイエスに対する思いは微妙かつ繊細な問題なんだが、
破綻した論理を自己愛に任せて振りまわす猿に理解できるレベルの話ではないんだろう。
>>384の「書名」→「署名」ね。手紙に書いた署名。
ニーチェのテキストそのものに沿った論拠を一個も出せないままに、
壊れた機械の如く、「奥崎顔面吐しゃ物まみれ」とお題目のように繰り返す阿呆。
「思ってたより」について異常にこだわったりと、
論拠が弱くても、同じことを何度も書いたら説得力が生まれると思い込んでるようだが、
猿の自慰と同じような狂ったループに嵌り込んでいるだけだな。
「最初は態度が大きかったのがどんどん声が小さくなって消える」のを避けて、
最後まで大声出しながら去ってったが、論破されていることに変わりはない。
スプレーかけられたゴキブリみたいに華麗に去ってみせはしたが、
どうせまた、ほとぼりが冷めた頃に別コテハンで、同一人物まる分かりのレスをするつもりなんだろう。
厚顔無恥を自分の強さと勘違いするほどに頭がイカれた御仁だからな。
>>381 145 :つるじょあ??◆OMEKO.76Go??:2013/09/10(火) 04:18:37.62 0
>>129??
そういうことですわ。ニーチェは人類を何百万年も継続さした神が死んでいる??
近代以降の社会の病巣を捉えて、それを抉り出す為にその神を再び甦らそうと??
試みたんや。神が離れていった中で再び神が担保されるように、こうして??
生まれたのが超人論や。??
そしてこの現代社会で神が担保されてるのが例えば奥崎謙三その人や。??
神の3条件を充たし、あれかこれかの立場やなしに永遠を肯定するような、??
神の存在を当然のように捉えてる、永遠との距離が無い、この様な奥崎謙三??
は正に超人やろ。彼は結局生涯にわたって貧乏な生活をおくってたけど、??
しかし彼にとって彼の人生は正に歓喜とともにあったんや。なんでか??
ゆうたらな、彼は神様のお気に入りやったからや。窮乏もまた神にとっては??
価値あるものと認められるからであり、あらゆる成功も挫折も彼にとっては??
歓喜でしかなかったのやで。??
ついでに答えると超人がテロを起こさんのは当然のことや。なんでかゆうたら??
全ては聖なる儀式やからや。テロという物言いは蓄群のパースペクティブやろ??
(笑点)。??
では私は去ろう、友人に会いにあのバイロイトへ!??
↑一致
いくら文体を変えようとも臭さは隠せねーからな
それよりそろそろこのスレから超人は誕生しないのか?
タイムリミットは2035年らしいが
やっぱり福島や北京あたりが有力候補地ですかね
そうか、ゴジラが現れるのか。
すでにあっちこっちの国ではカネゴンが溢れてるようだが。
『ウォッチメン』に登場するDr.マンハッタンを連想するが、あの無表情で、血の通わない感じのする「超人」は、
ニーチェ的な超人とは微妙に異なる気もする。元々は普通の人間だった男が、生物学的条件だけ進化した印象。
その点では、『2001年宇宙の旅』のスターチャイルドにも似た印象抱くんだよな。
既出レスにあった仙人も、錬神還虚まで到達したとして、一人仙境に遊ぶような存在は、
これまたニーチェ的超人のイメージとは、なんか齟齬がある。
これも既出のにあったグルジェフは、弟子のウスペンスキーに永劫回帰説への意見を訊かれ、
「完全かつ絶対的な真理ではないが、それでも考えうるものの中では最も真理に近いだろう。
この場合真理は言葉で表わすことはできない。」と答えつつも、
反復から逃れるための自己変革を為さなければ無意味だとも言う。(『奇蹟を求めて』p.390)
反復を肯定するのではなく、反復から逃れる、という主張がニーチェの回帰説と合致してるのかどうなのか、
その辺はなかなか微妙な問題。ニーチェの思想をグルジェフが知ってたのかどうなのかも分かんないし。
とはいえ、グルジェフを称讃していたラジニーシは、『ツァラトゥストラ』や『権力への意志』を読んで、褒めてるんだよな。
反面、グルジェフのクンダリニー理解はおかしいと批判してたりもする。
錬神還虚や大周天は、クンダリニー上昇と同じ事象を指していると言われてるな。
ニーチェは、現実政治のような俗事に関わるのは避けろと言う一方、現実政治すら動かす、価値創造の担い手になれと勧める。
「大いなる政治」というのが、色々な「超人」説とニーチェのそれを分かつ特徴なんだろうな。
391 :
考える名無しさん:2014/10/17(金) 10:36:46.79 0
超人という思想だけをとってみれば、とても荒唐無稽な感じがするが、ニーチェが書いていることは、
キリスト教的なもの(人名で言えばイエスではなくパウロ)へのアンチテーゼとして読むと、納得できることが多い。
キリスト教的な直線的時間(終末論)へのアンチテーゼとしての円環的時間(永劫回帰)。
その永劫回帰を欲することのできる超人は、キリスト教的世界観の中でどんどん小粒になっていく「末人」へのアンチテーゼ。
また、超人思想とも結びつくであろう「位階秩序」の思想は、キリスト教の「神の前での平等」という思想へのアンチテーゼ。
などなど…
>>388 今はエボラがあるからどの国でもその可能性があるね
極限まで追い詰められた人間がどうしようも無くなって肉体的な超人に進化する
精神的な超人(能動的ニヒリズム)ではエボラや後に控えている疫病を乗り越えられないでしょう
>>389 カネゴンっていい喩ですなw
パワーエリートが今後どう動くのか注目したい
ばら撒くだけばら撒いて自分は洞穴に逃げ込むのか、それとも超人を目指すのか
>>390 グルジェフは精神的な超人だけでなく肉体的な超人でもあったみたいですな
疲弊してどうしようもなくなってしまった友を瞬間的に治癒するエピソードもあった
超人を目指すグルジェフワークってのもあったみたいですが今はニューエイジ系の怪しい感じになってるみたい
仙人などは、肉体的な束縛から解放された存在、とされているけど、
グルジェフやラジニーシ的な言い方に直すと、霊的な存在と呼ばれるものも、
一般的に知られているより精妙な物質・肉体の域に達した、ということなんだよな。
なるほど
だからナポレオンに憑依した存在は人間の姿で現れたり憑依できたりしたわけなのか
ヒトラーに憑依したアイツも人間の形態があったのかな
大川隆法「よんだ?」
396 :
考える名無しさん:2014/10/19(日) 07:23:51.76 O
必ずニーチェは壮大な妄想が大好きだよ
絶対にニーチェは壮大な妄想が大好きだよ
確実にニーチェは壮大な妄想が大好きだよ
100%ニーチェは壮大な妄想が大好きだよ
十割ニーチェは壮大な妄想が大好きだよ
グルジェフはニーチェよりキン肉マンを読んだ方が
しっくりきた思う
398 :
考える名無しさん:2014/10/20(月) 06:45:20.95 0
脳は機械にすぎない
脳はホログラム
保守
>>398 意識が行動の後から浮かび上がってくるから人間自体が生体機械の可能性
その行動原理は今まで積み上げられてきた経験と知識によるものだな
僧侶や司祭にとって都合のいい道徳・知識を基盤にしてただ反応しているに過ぎない
反応した後に自分がこう思って行動したと遅れて意識が浮かび上がってくる
生長をするための快・不快の感情も時代により僧侶・司祭に書き換えられる
402 :
考える名無しさん:2014/10/22(水) 16:57:24.05 0
ニーチェの仏教理解は浅い、馬鹿だ。アンチクリスト読んで笑った。
403 :
考える名無しさん:2014/10/23(木) 16:17:07.65 0
しょうがねぇよ。キリスト教って
強烈な縛りだと思うぜ。
回復縛りでRPGやるようなもんだろ。
なにかを進行させないために意味ないプロレスはじめるのもニーチェだってファンタシースター NOVAがいってた
405 :
123:2014/10/23(木) 19:29:04.66 0
神は死んだか。否。
彼は神の一部を否定しただけのことである。
その補充として超人なるものを設定したことになる。
永劫回帰とは神の一部を表現したものである。
かれは神の理解ができなっかったのである。
宗教オタクより。
ねーよ
神の一部がどうとか言うなら、ニーチェが否定した一部が何で、
また神の全部とは何かまで言わないとな
そこに超人と永劫回帰がどう関わってるのかも含めて
でなきゃ何が言いたいのか曖昧
>>393 神聖な気分になる時が最も至高の状態かと
それは社会的な肉体的な欲望や脱糞などからは遠く離れた境地
よく宗教やドラッグや芸術や宇宙とか神秘体験などで語られることも多いが
ニーチェの芸術思想がよくわかりません
ニーチェはアポロン的、ディオニソス的などの言葉で芸術をどのようにして捉えていたのですか
>>410 根暗こそが古代ギリシャの本質
根暗文化叩く奴はニワカ
>>409 ニーチェは、肉体的高揚感とか、支配者としての権力感情を重視していて、
単なる「至高の瞬間」に浸ることを称揚していたわけじゃないよ
もちろん、ただの肉体的快楽とか、俗世間での社会的地位とかとは区別されるけど
マサチューだかつるじょあだかも同様だが、やっぱこういう解釈が多いのはバタイユの悪影響かな
ポストモダン系の連中も、生の強度がどうのという解釈を偏重しすぎてるからなー
奇怪な論理を振り回しているように見えたマサチューだかつるじょあだかも、その実、
ありがちな解釈にちょっと自己流の味つけした劣化版を披露していただけなんだよね
例えばツァラストーリーのラストの高揚感とかただ書き手や読み手の個人の内的なものに過ぎないと思うが
肉体的高揚感ならスポーツのことになるだろうし、支配者としての権力感情なら大統領系のものしか思い浮かばない
>>414 王に即位したときはもっと大きな権力への感情が起きるかな?
ヒトラーとかナポレオンも当然そうだったろうが。
競争系の欲望か
権力への意志、だろう。
てかヒトラーとかナポレオンって殺戮系じゃん、不健全
現代ではイスラム国が流行
ルサンチマン系はあかん
殺戮が悪いって思ってるのは我々だけだな
今、支配者層はマルサスの人口論に基づき世界を運営している
ヒトラーとナポレオンも超人の指示に従い動いていたんだろう
イスラム国のバックは支配者層
超人=支配者層かどうかは不明
支配者の上層部のオカルティストは超人なんだろうか・・・
>>414 >個人の内的なものに過ぎない
ニーチェの思想に沿って言えば、高等な個人の内的なものこそが価値創造の源泉だろう
ゆえに、
>支配者としての権力感情なら大統領系のものしか思い浮かばない
のは、ニーチェが拒絶した既存の社会秩序が提供する価値観に従属した価値観、つまりは奴隷道徳
社会的地位としての「権力」を持つ者がニーチェ的支配者なのではなく、
社会的権力が何を目的にしてどんな手段をとるか、の原理的な価値観を創造するのがニーチェ的支配者
>肉体的高揚感ならスポーツのことになるだろうし、
ニーチェの言う官能性とか肉体的高揚感は、芸術的なもの
筋肉的な強さも称揚されるが、スポーツによる爽快感なんかとはあんまり関係ない
イデア的、形而上的な原理を否定し、力の離合集散が世界の実相とされているから、
力の集合体かつ闘争の場である肉体が、価値の基盤になる
つか、奥崎奥崎言うバカもそうだが、ニーチェ自身の著書を一個でもまともに読んでもないのに、いい加減なこと言う奴多すぎ
イスラム国の奴隷制度復活はニーチェ的な「文化は奴隷制度を前提とする」と関係ない
ニーチェは、奴隷(-道徳に従う連中)の労働を足場に、新しい価値を創造することを目指しているわけだが、
イスラム国は、イスラム原理主義という、偏狭かつ「アッラーのしもべ」という従属意識によって、自他の命を犠牲にする
>>422 おわりの一行が余計だったね。
他人を「読んでもないのに」と非難しながら、自分が知りもしないことを書いてしまった。
なら、その知っていることを書かないと片手落ち
>>424 というより、実際の情報がなさすぎることぐらいは知っておかないとね、ということだよ。
不確かな情報しか出てきていないから。
芸術的な肉体的高揚感ってどんな感じよ
てか視覚神経や聴覚神経の高揚感のことか
感受性の高まりによって、微細な感覚までもが研ぎ澄まされるということ
「世界」は人間の身心による制作物だというのがニーチェの思想だから、
感覚的に味わう能力が増強されるということは、それだけ世界が豊穣さを増すということ
何だか観念的だ
429 :
考える名無しさん:2014/11/03(月) 18:57:43.59 0
「臆病な懸念」
普通の現代人が知覚し得ない類の特殊な認識能力を持ちたいという誘惑は
常にある。
でもそうなることで何が背後へと退いてしまうのか?
そんな風に「世界」を興味本位で調整しなおしてしまうことは危険ではないのか?
ある感覚器官の性能が粗雑であるという状態がその個体の置かれた環境に即した
生の充実と増加のために必要な要素であるのかもしれない。
我々の中に今も眠った形で埋没しているロストテクノロジーは現代においては
それを発掘するのに大量のコストを必要とする「贅沢品」ではないのか?
暗い穴倉を掘り進めて行くうちについには凡庸な人々が人生の途上で当然の
ごとく享受するような喜びを自ら放棄せざるを得ない羽目に陥りはしないか?
そもそも感受性の優劣って何ですか?感受性って言っても、何に対する感受性かって話が抜けてる気がします。
哲版でよく出てくる「天才」も然り…。
431 :
考える名無しさん:2014/11/03(月) 19:30:20.70 0
「このように議論する能力の欠落」が別の性能へと至る扉を開く場合もある。
われわれ現代人が普通に持つ社交性の能力は異質な時代にあっては殆ど理解不能な
「異常な能力」と見なされるかもしれない。
指先の先端の感覚でフラクタルに宇宙を感じ取ることのできる人間の出現は
可能性としては可能であるetc・・
ツァラツストラの合言葉に曰く、
「それがどうしたというのだ?」
現在、人類の最も高度な知能はNASAになるんじゃないかな。科学の分野だけど
433 :
考える名無しさん:2014/11/03(月) 20:40:21.56 0
どうでもよい思想的側面にとらわれ過ぎて地下の鉱脈を探り当てる嗅覚を
失うことは、ある意味安全保持のために役立っているのかもしれない。
有頂天にする好奇心ほど人を危険に飛び込ませるものはないのだから。
奇怪な謎めいたものが具体的な格好でそこにあるという事実をひとたび知れば、
誰でも一度は目が眩んで我を忘れる。
434 :
なんとなく思ったななしさん:2014/11/03(月) 20:48:12.67 0
動機がいまいちなんだな
435 :
なんとなく思ったななしさん:2014/11/03(月) 20:50:03.58 0
我なんて忘れねーよw
いちお 積み重ねだし
感受性の優劣って何ですか?とか、凡庸な人々が人生の途上で当然のごとく享受するような喜びを自ら放棄せざるを得ない、とか、
平均的な基準を求めるような発想は、凡庸な人々向きでニーチェ的じゃないんじゃないの?
ニーチェ的な思想が個々人に向いているか不向きかは、それぞれだが
NASA的な科学的知能ってのも、科学そのものが均質化への欲求ってことになってるからな
科学は利用価値はあっても価値創造とは別もん
宇宙探索なんかとってもニーチェ的なんだが
「なんだが」とか、理由を何も語らないままに断言しても無意味
宇宙に出たら人類が生物学的に進化するとか短絡的に考えてるんなら更に無意味
無意味無意味(・∀・)ニヤニヤ
宇宙桜ってのがあるだろ
宇宙線を浴びることにより遺伝子異常が生じて進化する可能性は考えられる
まあ奇跡的な確率だろうが
「人類に代わって次にあらわれるべき生物が何であるかということが、
私がこの書物で提出する問題ではない(――人間は一つの終極である――)。
そうではなくて、いかなる人間典型が、価値のより高い、生きるにより値し、
未来のより確実なものとして、育成されるべきであるか、意欲されるべきであるかということである。」
『反キリスト者』
442 :
考える名無しさん:2014/11/04(火) 20:14:01.31 0
キリストより日本の神様の方が凄い神様の数が段違いに多い。
神様の一部説は古い。
俺は神とお話したが彼らはよく間違う。仏教も間違う。人間、あまりに人間がいい。
神を降ろすと封じ込める寺に、この作業が大変。
ニーチェの超人理論は古い。
問題は気のつながりの時代にどうやって気の繋がりを消すか
やはり新たな超人を生む、作るしかない
443 :
考える名無しさん:2014/11/04(火) 20:28:36.31 0
キリスト教は間違い。ユダヤ教も間違い。カトリックが正しい。
神様の一部理論なんてどうでもいい。日本は福島に原始人が住んでいて
仏教は紀元前2500年前、キリストは紀元前0 イスラムは438年
日本の神様はキリストより前からある。
キリストはクズの集まり。唯のキシリタリアンである。
縄文人なら勾玉を作ってある。出雲の神が世界一で、ハヤウエーとは友達になるところだ
444 :
考える名無しさん:2014/11/04(火) 20:31:34.37 0
プロテンタストは静かな平和にするだけ。
445 :
考える名無しさん:2014/11/04(火) 20:37:14.95 0
日本の神様は1302年前からいる。日本の神様はとても厳しい。
仏教受け入れは日本の神様に聖徳大使が振り分けた物。
446 :
考える名無しさん:2014/11/04(火) 20:38:36.81 0
共和党による戦争の公共事業は断固反対。
アメリカ民主党を強く支持する。
447 :
考える名無しさん:2014/11/04(火) 20:41:05.86 0
超人は欲しいが神様元年は失敗に終わった。唯物論などくだらない議論だ。
448 :
考える名無しさん:2014/11/04(火) 20:45:23.51 0
唯物論は唯の哲学用語。あの世は嘘で全てこの世から始まっている
449 :
考える名無しさん:2014/11/04(火) 20:49:16.02 0
オランダの生死間は間違い。
国が金銭的援助。オランダが仏教を取り入ればいい。
450 :
考える名無しさん:2014/11/04(火) 20:51:08.10 0
ダーウィンの進化論は大きな間違い。しかも未だに学校で教える日本はクズ
なんだ、このスレ・・・
ニーチェと中2病+メンヘラは残念なことに切っても切り離せない不思議な関係があるw
453 :
考える名無しさん:2014/11/05(水) 02:21:33.49 0
アンチクライストなど昨今ありふれているが、新約聖書に対して
代替物をつくった人は歴史上ニーチェ以外にいない
ただドゥルーズくらいしかツァラトゥストラを刺激的に解釈した
人がいないから、イマイチ現代日本人にはその凄さがわからない
東洋にいるとさらにわからない
自分は
>>81を書いた者だが哲学史的に重要性を指摘してもやはり
伝わらない、と考えている
オススメはやはり以下のようなアニメになる
ニーチェ『ツァラトゥストラ』
http://youtu.be/KWHmVBhdBTs
>>81 >東洋思想の重要性は明らかで、仏教からの影響も考えるべき
ニーチェ自身、永劫回帰説について「仏教のヨーロッパ的形式」と言ってるしな(『権力への意志』55)
逆に、その「ヨーロッパ的形式」が、現代の日本人、現代世界全体に及ぼしている影響を考えなきゃいけないのかも
ちなみにこのアフォリズムには、「生には、権力の度合以外には、価値をもつものは何もない
――まさに、生自身が権力への意志であるとするなら。」という断言が含まれているが、
この種の主張はニーチェの本のあちこちに見られるわけで、ゆえに、
>>366の「主観的に肝にしているだけだ。」なんてのは、
それこそ愚鈍な主観的決めつけでしかないし、この阿呆がまともにニーチェを読んでいない証拠
リオタールのように、ヒッピーだの狂人だのを「こんにちの主人たち」などと無邪気に呼ぶニーチェ解釈の戯画に見えるが、
当人は、リオタールを読めるような脳すら持ち合わせてるように見えないし、
要はニーチェ自身に、宗教がかったキチガイ言説を呼び寄せてしまう磁場があるんだろうな
別に、ニーチェに責任はないと思うけど
必ず限界突破して欲しい
絶対に限界突破して欲しい
確実に限界突破して欲しい
100%限界突破して欲しい
十割限界突破して欲しい
勿論天元突破して欲しい
無論天元突破して欲しい
確かに天元突破して欲しい
もっと更に天元突破して欲しい
456 :
考える名無しさん:2014/11/12(水) 16:26:38.51 0
スピリュアルの時代が200年続く
457 :
考える名無しさん:2014/11/12(水) 16:28:41.62 0
本当にスピリュアルの時代が200続く
二次大戦自体が呪術戦争だって話もあるみたいだな
トルーマンを密教と神道の祈祷で呪い殺したって話もあるくらいだ
スピリチュアルの時代って言われても漠然としか分からないが一昔前に人間の精神が戻るって感じなんかな
ニーチェの哲学に興味ある奴はほぼいないんだろうな
ニーチェの名が掲げられていれば、「人類の進化」とかいった、
漠然としたテーマについて書き殴っていい、みたいな空気
は?
461 :
考える名無しさん:2014/11/16(日) 08:04:29.59 O
僕は前向きに努力して頑張る方が一番だと思う
私は積極的に困難に挑む方が一位だと思う
俺様は楽観的に試練に挑戦する方が一等賞だと思う
我は楽天的に苦労にチャレンジする方が一流だと思う
ポジティブに障害を攻略して欲しい
ポジティヴに問題を解決して欲しい
希望的観測で課題を一件落着して欲しい
462 :
考える名無しさん:2014/11/17(月) 00:18:19.58 0
知識ゼロでツァラトゥストラ読んだけどよくわかりません
解説本でオススメありますか?
463 :
考える名無しさん:2014/11/17(月) 04:26:20.16 O
ニーチェをお勧めして欲しい
ニーチェを推進して欲しい
ニーチェを推薦して欲しい
ニーチェを推奨して欲しい
ニーチェを宣伝して欲しい
ニーチェを布教して欲しい
ニーチェを扇動して欲しい
ニーチェを賛成して欲しい
ニーチェを賛美して欲しい
ニーチェを全肯定して欲しい
ニーチェを容認して欲しい
ニーチェを擁護して欲しい
465 :
考える名無しさん:2014/11/17(月) 16:26:50.76 0
善悪の彼岸および道徳の系譜を嫁
当時のドイツ哲学者がツァラトゥストラを解読出来なかったんだから分からなくて当然
2015年3月28日アメリカ人と
日本人が入れ替わる。
やっぱり30nenngo kami be
468 :
悩む哲学徒:2014/11/18(火) 14:42:16.76 0
結論
昼の理性。夜の情熱。
469 :
考える名無しさん:2014/11/19(水) 20:37:12.46 0
ニーチェって大病に罹らなければ案外ふつうに生きたのかな?
婚約破棄されたあとやっぱりLEGOでテンカイナイトばっかりつくってるの???
俺の哲学が全て政治に利用された。
地球は大気圏を突入して12月31日人類滅亡する
ばいなら〜 ばいなら〜
ニーチェは畜群本能とルサンチマンに支えられた奴隷道徳に染まった個人を非難したけど、ニーチェにおける社会性の問題はどう捉えるべきなんだろうか
ニーチェが非難したのは力への意思を失って平坦化した個人であって社会そのものではなかったけど、社会が常に個人を平坦化させるシステムであると捉える時これは非難されるべきなんだろうか
それともあくまで非難されるべきはシステムの中で主体性を喪失する個人なんだろうか
ちょっと意見を聞きたい
473 :
イ・チョンナム:2014/11/29(土) 22:36:11.57 0
猿どもに教えてやろう。
社会が常に平均化するシステムなのではなくて、
個別の社会システムにそう促すものとそうしないものとがある。
そして社会の下部構造であるとされる経済的土台は、
今人類の土台と矛盾する。
またニーチェの主体性への賞賛は相対的な評価であって、
月到達を真理とするなら地上でその場で飛び上がる者と、
そうでないもののどちらが真理に近いかに過ぎないのであって、
そもそも主体性それ自体が目標ではない。
突き詰めれば主体性は必要ではない。
二ーチェは警句家かもね。
社会性とか民族というものは、繰り返し同じ経験をした者同士の関係性だとニーチェは言っているが、
だからこそ、より高みを目指す者は、同類への同情を克服する必要があるわけだろうな
同情を失くすんじゃなくて、同情を克服することを求めている
だから、単に社会的地位(経済力、権力、等)を高めて自分の利益を増そうとする奴は超人とは別もんだし、
逆に、なにか脱社会的な個人の生を追求するのも違う
この二つのニーチェ解釈が大多数なのが現状だが、それは、その解釈が正しいからではなく、
単に、この二つの解釈が、既存の人間にとって理解しやすいとか受け入れやすいとかいうだけの話
社会は、より高い個人を形成する素材(歴史的に積み上げられてきた遺産・伝統・知識等々)を与えはするが、
社会それ自体は目的とはされない
社会と一口に言っても、日本社会とか国際社会とかいったレベル以外に、無数の細かい社会が存在するし、
社会一般について論じるより、どんなタイプの社会がどのように機能するかが問題なのかも
クロソウスキーは、最終的な下部構造というものが存在するとしたら、
それは諸々の情動と衝動能動によって構成されているだろうと言い、
道徳、宗教、認識、経済の諸規範は、その下部構造の副次構造としているけど、
ニーチェが社会を論じる視点も、そんな感じ。「距離のパトス」ね
んーあ、
「諸々の情動と衝動能動」じゃなくて「諸々の情動と衝動の運動」
『生きた貨幣』参照
478 :
イ・チョンナム:2014/12/01(月) 07:46:05.54 0
猿どもに教えてやろう。
社会性と共同性を混同しているようだが、
それは政治市民社会と経済市民社会における公共性の差異を理解していない。
共同性とは想像の共同体(アンダーソン)を含めた面識圏内における共通の体験地平だ。
近代の政治市民社会では担保できている共同性と公共性の互換性も、
現代の経済市民社会では諸共同体の間を担うのが公共性であって転換しており、
その意味で政治市民社会の文脈で社会性と共同性を互換的に扱うニーチェの主張を、
現代においてそのまま当てはめて理解するのは拙速な短絡であるといえる。
以上を踏まえていうと社会性の概念は個人の存立過程を示すもので、
その出自と個人は波及効果ではあっても絶対的関係は無い。
479 :
イ・チョンナム:2014/12/01(月) 08:01:56.23 0
猿どもに教えてやろう。
人間が共同体に淵源を持ち、
存在構造自体が関係性の束として社会的諸関係のアンサンブルであるとしても、
そこでは個別の社会性自体が問題になる。
一般的に個人は出自の共同体において相互的に作用し影響されつつ存続するが、
それは相対的なあり方であって絶対的なものではない。
一般社会からのパースペグティブからすれば、
恣意的な社会というものが存在するということだ。
波及効果としてファクターが存在するにせよ、
それは全く別の社会である。
これは超人とは個人の権威であるというのは論外であるにせよ、
個人が社会性を否定して追求するものでも全く無い。
日本人はなぜ謝罪しないのか?
480 :
イ・チョンナム:2014/12/01(月) 08:29:30.65 0
猿どもに教えてやろう。
そもそも社会性の概念が問題になるのは近代以降であって、
それを看破したのがニーチェの炯眼ではなかったか。
そしてそれは社会性、
ニーチェの時代に立脚するならば共同性との距離が問題になる。
仮象の前提となる立ち位置が仮象を仮象ならしめるのであって、
仮象との距離が無くなれば共同性の相対性は絶対化する。
この様な心理的立場が超人地平だ。
彼らが社会的なのは共同主観性に基づいて、
独自性を一般性として振舞うことからも明らかである。
我々は彼らの中で神の恩恵を見逃している。
独島に領有権問題はない!
どうせつるじょあだろ
嫌韓を煽って荒らそうとするのは荒らしのテンプレ
お前らって実は頭良かったんだな
今まで馬鹿にしててごめんなさい
意見ありがとう。ちょっと考えてみるよ
>>478-
>>480 どうせ教えてくれるなら、日本語を勉強してからにしてくれ。
485 :
イ・チョンナム:2014/12/01(月) 15:42:05.35 0
猿どもに教えてやろう。
近代社会における公共の福祉は外在制約説に基づいており、
これはソキエタス・キウィリス(政治市民社会)の公共性だ。
ソキエタス・キウィリスのルーツは古代ギリシアのポリスであるアテネの公共性で、
ここでは統治者と被治者の一致という直接民主制であり、
共同性と公共性の概念は互換的に使われてきた。
近代社会では想像の共同体という社会工学的な装置を用い、
アテネ同様に共同性と公共性は互換的に用いられ、
そのような社会では国民全体が同胞であるという意識を持つ。
この様な社会も近代化が終わると、
国家規模だった共同体が価値観の多様化で中間集団化し、
島宇宙的に散在するようになると、
諸共同体の間こそが公共性となる。
この様な社会の公共の福祉は外在制約説に基づいており、
ここでの公共性こそビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフト(経済市民社会)なのだ。
さてニーチェの時代を鑑みるならば、
ニーチェの主張する社会や民族はソキエタス・キウィリスの公共性だ。
近代のソキエタス・キウィリスの公と現代のビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフトの公を、
互換的に取り扱うことは錯誤であり、
ニーチェの社会性・民族性は我々の時代で言うならば共同性と捉えるべきである。
恨みは1000年忘れない!
似非韓国人みたいなコテハン名乗ってるが、どうせまた、
つるじょあだかマサチューセッツ州だかだろ
観念的な言葉で重装備してるが、その実体は、
ろくにニーチェを読んでいない事実を必死に隠蔽して体裁を取り繕い、
ニーチェの思想を歪曲することに精を出しているだけの害虫でしかない
今度は何だ、最後に去るのはバイロイトでもなくマサチューセッツ州でもなく、
半島のどっかにかっこつけて去ってくのか?
>>385 >どうせまた、ほとぼりが冷めた頃に別コテハンで、同一人物まる分かりのレスをするつもりなんだろう。
>厚顔無恥を自分の強さと勘違いするほどに頭がイカれた御仁だからな。
↑
この簡単な予想を丸々実現してるんじゃねぇよ、恥ずかしい奴だなー
ニーチェは、「対価が支払われうるものには価値がない」と、経済的価値を軽蔑しているが、
それはつまり、交換という行為は、或るものと他のものを等価と見做すという、同等性の論理が働いているからだね
「等しいものなど存在しない」というのが、ニーチェの科学・論理学批判の要だったし
そしてそれが、貨幣が、具体的なものの価値を代理してしまう体制を批判したマルクスと並べて論じられたりするわけだ
とはいえ、ニーチェは、いわゆるブルジョワ民主主義のみならず、社会主義やアナキズムといった、
民衆の側に価値を置くような政治思想はどれも斬り捨てている
ただし、「民主主義的ヨーロッパ」を巧く操る支配階級の登場を期待してもいる
かつてキリスト教が、社会支配に利用されたのを参考にしている感じ
とはいえ、民衆支配の巧い奴が超人だという理屈ではなく、超人が支配権を握るのが理想だ、ということ
>>488 カントの「啓蒙とはなにか」と同じ発想かな?
カントの啓蒙論は、人間がその悟性を使用できない未成年状態でいるのは、彼自らが招いた事態だ、という考えだが、
全然ニーチェ的じゃない。ニーチェは、民衆すべてに、本来発揮すべき悟性が備わっているなんて考えていないし、
だからこそ、民主主義も社会主義も無政府主義も批判した
むしろ、下等な人間は高等な人間によって、未成年状態の軛のもとに置かれるべきと主張している
>>490 カントの啓蒙論というのは、君主を対象にしたものだよ。
対象が誰だろうと、その基本思想はニーチェと相容れない
君主を対象として論じているからといって、その論がニーチェの君主道徳と一致するとは限らない
ニーチェに多少とも近いのはマキャベリの君主論辺りだろう
494 :
イ・チョンナム:2014/12/04(木) 03:48:48.15 0
猿どもに教えてやろう。
人間は関係性の束であり社会的諸関係の総体であるという意味で、
出自を共同体に持つ社会的存在である。
この様な個人が出自の共同体において、
相互作用し影響を受け続けるか否かは相対的なものである。
異なる共同体の異なる神々を冠する闘争は、
けして出自の共同体とその成員の無限の貼り付きを意味するものでなく、
諸共同体の多元的所属が可能であるのは、
個人の意思決定に依存するからである。
この様に個人にとっての社会は出自は絶対的でも、
それ以降は余所余所しい他人でしかない。
オリンピックを日本と共催するのは当然だ!
お前の考えなんて誰も訊いてないのに長々と書き込むのはスレ荒らし
ニーチェの思想についての批評という点を抜かした書き方をするな
ここはお前のラクガキ帳じゃねぇんだ
以前、偉そうに他人に「スレのルール」を説いていた当人がコレなんだから
結局、スレルールじゃなくて俺ルールを通したくて喚いてたキチガイな餓鬼でしかないな
まーた現れたか
今回は本名なのがウケるな
497 :
イ・チョンナム:2014/12/04(木) 23:49:05.07 0
猿どもに教えてやろう。
出自の共同体とは相対的であっても、
人間は社会的存在であり共同体とは絶対的関係になる。
人は共同体の被拘束性をまぬがれることは出来ない。
すなわち人間は個別的共同性とは相対的であり、
一般的共同性とは絶対的関係である。
この様な社会性・共同性と絶対的関係である人間にとって、
共同主観性こそが問題となる。
共同主観性とは共同体の成員の前提になるような共通の判断のことで、
無意識的に成員に刷り込まれているものだ。
例えば我々にとっての10円玉は未開の部族では矢じりの原料かもしれないし、
他の国ではおもちゃに見えるかもしれない。
同じ対象でも判断の根拠となる前提が異なれば別のものと判断される。
この根拠が共同主観性であり共同体各々によって異なっている。
仏像は取り返しただけだ!
498 :
イ・チョンナム:2014/12/04(木) 23:51:10.47 0
猿どもに教えてやろう。
では対象が神であった場合はどのようなことがいえるのだろうか。
我々の神も他の共同体にとっては恣意でしかないのであり、
こうして神は独自性として相対化される。
しかし同一共同体の成員にとって懐かれる神は、
前提であるからこそ絶対的な唯一の神ではないか。
それは10円玉が10円玉であることと同様に当然のことなのだ。
そしてそれは前提であるからこそ同一共同体の視座からすれば、
共同体にとどまるものではなく世界全ての共通事項だと確信する。
例えば我々は天動説が正しいと思ったときはそれが世界真理だと思うし、
また今地動説を正しいと思ったときはけしてこれを我々だけの真理だとは思わない。
そして神は無意識のうちに訪来しているのであり、
けして無から創作されたものなどではない。
他からは空間性でも自らにとっては時間性であり、
他からは個別性でも自らにとっては一般性であり、
他からは能動性でも自らにとっては受動性である。
キムジャン文化はすばらしい!
499 :
イ・チョンナム:2014/12/05(金) 00:07:08.54 0
猿どもに教えてやろう。
ニーチェは解釈学的方法に基づいて、
自らのその時の生の物差しで真理を測った。
この様な方法の問題はその時の生に制約されたニーチェの主張を、
それ自体で存在するような自体的真理として受け取ることである。
彼の超人思想は彼自身の生の最高度の物差しで計測されたものだ。
君主論や人類や民族に対する言及は、
けしてニーチェの理念ではない。
彼にとってそれらは過去その時々に越えうるべき壁だったのだ。
その都度生起する彼の主張を永遠の真理と思い込み、
誤読することはニーチェの超人思想とはまったく関係が無い。
君主に超人を据えるなどというのはニーチェとは関係が無いのだ。
歴史認識を正しく見つめてほしい!
その辺にしとけ
本当のチョンがニーチェなんか読むわけないだろ
この、イと今回は名乗ってるキチガイは、ダラダラと持論を展開しつつも、
他ならぬニーチェのテキストと対照して論じるということが全然できてない
「君主に超人を据えるなどというのはニーチェとは関係が無い」って、
そりゃ政治的地位としての君主とは必ずしも関係ないけど、
世を動かす原理を自らが握る存在者としての「君主」、
「大地の主」としての超人はニーチェが説いていたところ
そもそも、誰の何を批判しているのかよく分かんない、ヘタクソな文章だな
「永遠の真理」がどうとか、誰がどこでそんなこと言ったよ? 誤読してんのはお前だろうが
感情に任せたオナニー的文章しか書けない自らの無能を省みてほしいね
こいつの文章から漂う、全共闘世代の加齢臭にはうんざりだわ
502 :
イ・チョンナム:2014/12/05(金) 07:23:15.11 0
猿どもに教えてやろう。
超人とはなんだろうか?
それはまず目標が喪失している。
人類史上に意味が生まれたのは近代社会以降であって、
それ以前に人類の目標などはなかった。
あるのは円環的時間観であって、
そもそも人類史は何百万年と意味を懐かずに維持存続してきたのだ。
そして言語を用いない。
生存実感とは言語を滅殺する圧倒的な体感である。
ディオニュソスとは自己陶酔の神ではなかったか。
それは言語ではなく身体に迫るものである。
そして全てを受容するのだ。
永劫回帰の世界観を前に、
あれかこれかの選択ではなくあれもこれもの歓喜の境地で、
それら全てを余すことなく飲み込んでいく。
この様に超人とはなんであるかに答えるなら、
目標を持たない言語も語らない全てを受容する、
独自の神と共にある歓喜の境地であるといえる。
全ての起源は我が国にある!
503 :
イ・チョンナム:2014/12/05(金) 07:37:07.51 0
猿どもに教えてやろう。
絶対的に同一な諸関係の円環運動とは生成の永遠化を意味するのであり、
その過程においては目的表象が取り除かれている。
この永遠に対する立場によっては無限回の苦痛によって永遠に潰され、
或いは無限回の歓喜に繋がり永遠に祝福されるのだ。
ツァラトゥストラにある綱渡り師にみるように、
人間とは超人への過渡的存在であって、
人間と超人という理想の境地の間には綱がある。
文字通り綱であるということは多数を同時に渡らせるものではないのは明らかだ。
まるでニーチェ思想が社会全体を救うかのような発想は、
ニーチェを人類の君主に据えるような発想は、
道徳家のロマンチズムでしかない。
ニーチェは最初の完全なニヒリストとして、
超人を近代以降に出現したニヒリズムを克服する理想の境地とした。
そしてそれは前近代とは異なるがゆえに超人なのだ。
つまりは殺害されたディオニュソス神を現代社会に即した形で、
甦らそうということに他ならない。
そこで前近代の神の確保の構造を踏まえた上で、
現代に即した形でその構造を担保しなければならない。
一言でいえば近代社会によって打ち破られた人類を、
何百万年も存続させた伝統に立ち返るのだ。
和紙の技術は盗まれたものだ!
504 :
イ・チョンナム:2014/12/05(金) 15:46:17.10 0
猿どもに教えてやろう!
永井均は神に言及しているものの詳細に把握できていないどころか、
超人というものを明確に理解していない。
彼にとっては夢幻であって現実的なものではないのだろう。
恐らく彼は超人に、
出会ったことが無いどころか噂にも聞いたことが無いのだ。
否、
彼はどこまでいっても超人を信ずることが出来ないのだ。
超人を壁画か書割の中の神話だと思い込み、
中に入り込めるとは夢にも思っていない。
等しいものが等しいものを理解するの言葉どおり、
彼はニーチェの主張が分からない。
ニーチェがあたかも超人であろうと欲し、
志半ばで夢破れどうにか問題の輪郭を抉り出して力尽きた、
哀れなドンキホーテだと思っているのだ。
しかし輪郭を抉り出して自尊心を充たし志半ばで力尽きたのは、
彼自身ではないのか。
壁画と現実という境目が解消された時、
人は神話の住人となる。
そしてその住人は超人と呼ばれ神と戯れ永遠に祝福される。
どうしてもというなら通貨スワップをやってもいい!
505 :
パンの耳:2014/12/05(金) 15:57:03.12 0
お猿さんが芋洗ったのは 泥だらけだったから ってたら怒る?
コテハンとキャラを何度塗り直しても、言ってることは退屈な繰り言だな。同じ間違いに永遠回帰してるw
「目標が喪失している」世界の「全てを受容する」するのがニーチェ思想というのは、そこだけ見たら文字面は合ってるように見えるが、
近代以前のディオニュソス的陶酔に回帰するというのはニーチェというよりバタイユに近い(フランス思想界的な、マルクスに引きつけた解釈)。
そもそも、近代以前は円環的時間観ってね。キリスト教のような、最終審判に向かう時間観も含めて言ってるんなら、
それがどういう意味で円環的時間観なのか、きちんと説明しなさいよ。
『ツァラトゥストラ』に「千の目標と一つの目標」と掲げた章があるように、ニーチェは、
無条件に、ただ陶酔によって「全てを受容する」のではなく、
「この世界は我が創造物だ」と宣言しうるような超人の出現を目標に掲げていた。
その辺のことは、既レスに引用されたニーチェ自身の文章からも読みとれると思うんだが、この阿呆は、
ニーチェ自身の言葉を無視して持論を語ることしか興味ねえんだよな。
まあ、奥崎みたいなのを見て、超人に出会ったか噂に聞いたつもりになっているこのバカは、
ニーチェ自身の著書と向き合って超人像を読みとるって手間は、今更必要がない気になっちゃってるんだろう。
>まるでニーチェ思想が社会全体を救うかのような発想は、
>ニーチェを人類の君主に据えるような発想は、
>道徳家のロマンチズムでしかない。
これも以前からの決まり文句だが、「人類の君主に据える」のを「道徳家のロマンチズム」と呼ぶ根拠が全く示されていない。
君主とは道徳的な存在だとかいう、根拠不明な前提を置かないと成り立たない言いがかりだわ。
「社会全体を救う」なんて文言をどこから拾ってきたのかも不明で、誰の何を叩いているつもりなのか、言語不明瞭。
507 :
パンの耳:2014/12/05(金) 17:52:17.02 0
証人が 商人だからでしょう
508 :
パンの耳:2014/12/05(金) 17:54:45.48 0
お客さんが誰がなのか判っちゃうし
509 :
パンの耳:2014/12/05(金) 17:59:01.67 0
小人ってかいてコドモってよまないし
そんなあまい世界ではない
同じ思想でキャラがバレバレだから次は知的障害を起こしたか
荒らしのテンプレ過ぎて笑えるわw
こんな過疎スレくんだりまで来て荒らすとかニーチェの生の思想が都合が悪くて仕方ないんだな
日本人には従順で盲目で白痴のバカ面でテレビや新聞のクソくだらない情報に振り回されていてもらわないと困るからなw
511 :
パンの耳:2014/12/05(金) 18:04:09.60 0
何処で何やっても同じだな 占い坊
512 :
洋楽:2014/12/05(金) 18:05:37.52 0
お前に与える PANの耳 などない ・・・・・・・・
いつものパターンで、「猿ども」を嘲弄しつつ颯爽と半島に去っていくつもりが、
「いつものパターンw」とか言われそうだから、意味不明な細胞分裂に走ったか?
ますます単細胞らしい振る舞いですなw
514 :
洋楽:2014/12/05(金) 19:32:51.10 0
漢字のくせにw
515 :
洋楽:2014/12/05(金) 19:35:37.31 0
ハカイダーってゆーより グラスフィッシュみたい
516 :
イ・チョンナム:2014/12/05(金) 22:19:42.29 0
猿どもに教えてやろう。
>それがどういう意味で円環的時間観なのか、きちんと説明しなさいよ。
キリスト教が厳密な意味で成立するのは、
すなわちあれかこれかの選択肢になりうるのは近代からである。
そもそも宗教とは個人の誕生する近代の概念だ。
それまでは精々一部の人間のものでしかない。
>無条件に、ただ陶酔によって「全てを受容する」のではなく、
>「この世界は我が創造物だ」と宣言しうるような超人の出現を目標に掲げていた。
超人は独自の神を持つという意味で造物主であるといえる。
全てを受容するとは相対的世界観を前提にするということだ。
そして独自の神のおわす神話は客観的には個別的であるが、
主観的には一般的であるのはすでに述べたことだ。
猿は誹謗中傷をせずに堂々と質問なり反論なりをすればいい。
517 :
イ・チョンナム:2014/12/05(金) 22:21:29.63 0
猿どもに教えてやろう!
永劫回帰の巨大な重荷に潰されることなくそれを逆に慈しみ、
全体を受け取ることが出来るか否かの分水嶺は、
もちろん運命愛にある。
この愛はいうなれば距離があってはならない。
もし距離を担保するような、
すなわち愛そうなどとしたなら天罰が下って巨大な重荷は、
凄まじいまでの重量となってその人を押しつぶすだろう。
永劫回帰の世界観を運命愛によって慈しみ、
こうして人は仮象性を取り除き去って神話の住人となることが出来る。
仁川アジア大会は大成功だ!
518 :
イ・チョンナム:2014/12/05(金) 22:44:57.41 0
猿どもに教えてやろう。
神の確保には時間性・受動性・一般性の3つの条件がある。
近代以前の社会においてはそれが担保されていた。
すなわち時間性とは歴史に神が降り立つということであり、
受動性とは神が来訪するということであり、
一般性とは皆の神であるということである。
この3条件を破りディオニュソス神を殺害したのが、
他ならぬ我々なのだ。
社会が経済的に発展し複雑化した社会において、
近代以前の一律の祭りは行われない。
それでは納期や契約が出鱈目になるからだ。
我々は今過剰な言語に晒されなければ社会を回していけない。
そうであるがゆえに祭祀は、
都合で選択できる空間性となり、
敢えて赴く能動性となり、
自ら赴く個別性となった。
3条件は守られない。
神は殺害され偽神だけになった。
言語が個人を生み個人が虚無を生み、
こうして全ては虚無の深淵へと飲み込まれてしまう。
そこで君たちは聞いたことがあるか、
深淵を飛び越える超人の噂を!?
特権などありはしない!
過去レスで、当の自分が、勝手に「ニーチェがキリスト教を肯定していると書いた」と執拗に言いがかりをつけたり、
「思ってたより」を針小棒大に捉えてキチガイなヒステリーを起こし、散々誹謗中傷していたくせに、棚に上げてよく言うなw
それでいて、こっちの「質問なり反論なり」にはまともに答えない。
>「人類の君主に据える」のを「道徳家のロマンチズム」と呼ぶ根拠が全く示されていない。
この質問には答えられなくて都合が悪いから無視ですか、そうですか。ハイハイ。
>超人は独自の神を持つという意味で造物主であるといえる。
>全てを受容するとは相対的世界観を前提にするということだ。
>そして独自の神のおわす神話は客観的には個別的であるが、
>主観的には一般的であるのはすでに述べたことだ。
その「神」が「主観的には一般的」だから、相対的な世界をすべて受容する一般性となる、
というふうに読めるが、ニーチェは結局、永劫回帰という神の他は認めてないんだよ。
だから、「客観的には個別的」な神なんてのは、形而上的な虚妄。或いは下等な者の妄想。
奥崎の神なんてニーチェが「受容」しないよ。ただ、そういう醜い奇形の猿さえも生成する世界を、
すべてひっくるめて肯定するのが超人だとは考えたが。
ニーチェも自分の思想が永遠の真理だとか言ってはいないが、人間に可能な世界解釈、思想のうちで、
最も世界の実相に肉薄した認識形式だとは言っていた。この認識形式の、更なる上はあり得るか?
という試みとして、超人の生まれることを願っていたとも言える。
前にも
>>518とそっくり同じようなこと書いてたし、同じことを書かなくていいよ無駄だから。
繰り返し書いたからって読み手が説得されるわけじゃないんだし。内容同じなんだから。
>>520 文章が推敲されていて読みやすいですね
コテハンとは大違い
522 :
イ・チョンナム:2014/12/05(金) 23:20:57.10 0
猿どもに教えてやろう。
>それでいて、こっちの「質問なり反論なり」にはまともに答えない。
何でも聞きなさい。
>この質問には答えられなくて都合が悪いから無視ですか、そうですか。ハイハイ。
つまらない質問だったからスルーしただけだ。
質問に答えるといっても、
ポコチンから白いのが出たこれは何?、
に一々答える気はない。
>ニーチェは結局、永劫回帰という神の他は認めてないんだよ。
永劫回帰というのは個別的な神などではなく、
一般理論的な物言いに過ぎない。
ツァラにある、
これは私の道だ君の道はどこか?
万人向けの道など存在しはしない、
とあるように神は独自のものだ。
>文章が推敲されていて読みやすいですね
それほどでもあるかなあ。
ニダーッハッハッハ!
猿よ進化して人となれ。
523 :
イ・チョンナム:2014/12/06(土) 03:49:59.60 0
猿どもに教えてやろう。
ではこの現代社会において神を甦らすことは出来るのであろうか?
そもそも現代社会が神を葬ったのではないのか?
人格的な時間の絶対性を誰でも機縁でありうる非人格的な空間の相対性にし、
受動性として来訪すべき神を自らが選び取る能動性にし、
一般的な神を個別性に解消してしまったのではないのか。
体感されていた生存実感が体験していく生存実感になったとき、
無の深淵が人々の前に現出した。
ここに疑問が生まれる。
何故人は選択しなければいけないのか。
何故人は生きなければならないのか。
最善は生まれなければ良かったのではないか。
次善は今すぐ死ぬことではないか。
しかしニーチェは近代以降に出現した深淵の向こうを信じる。
超人論を説き無の深淵の向こうの神を信じるということでニーチェは有神論者だ。
ではこの現代社会で果たして神は確保されているのであろうか?
平昌共催なら東京五輪も共催にすべき!
524 :
考える名無しさん:2014/12/06(土) 04:44:33.45 0
コテだと よみにくいってさ
525 :
考える名無しさん:2014/12/06(土) 04:46:42.64 0
>>524 カタカナ2文字とひらがな10文字だと 読みやすいですね
526 :
考える名無しさん:2014/12/06(土) 04:49:05.79 0
527 :
考える名無しさん:2014/12/06(土) 04:53:50.87 0
>何でも聞きなさい。
と断言したそばから、
>つまらない質問だったからスルーしただけだ。
支離滅裂だな。
答えられない質問について、理由も告げずに「つまらない」と誹謗中傷するだけで逃げる姿勢も、以前とまったく変わらないな。
それだけにとどまらず、急に下品な言葉遣いになって、自らの品性をわざわざ貶めるのも、これまた変わらず。
喋れば喋るほど、下劣な本性が露わになる。
>とあるように神は独自のものだ。
と言いながら、ニーチェ自身の「独自の神」からしたら何ら価値が無いであろう、奥崎の神を称揚し、
自らの駄文をいちいちニーチェと関連づける。他人の道、他人の神を拾い集めてばかりいないで、
お前自身の道なり神なりを追求したらどうなのかね。もちろん、それをここで報告する必要はない。
ここはお前のスレではなくニーチェのスレ。
それならここで書くことがないというなら、まさに、お前がここに書き込む必要はないんだよ。
このスレにいつまでも縋ってないで、オノレ自身の道を行けよ。
つか、このキチガイの文章を多少なりともまともに読んでやってるのって、俺くらいだろうな。
ほとんどの人らにとっては、なんだかとっ散らかった言葉を羅列する荒らしがまた出てきたって感じだろうし。
>永劫回帰というのは個別的な神などではなく、
ニーチェが永劫回帰を神の概念とほぼ等しく見ていたことは、過去のニーチェの引用から分かるだろうから、
過去レスを検索しろよ。お前は本当にニーチェの言葉に興味ねぇんだな。
そもそもお前の神概念がどういうものなのか、が漠然としたまま感情的に書き連ねてるのが鬱陶しい。
ニーチェにとって永劫回帰は、自らが到達した高みからのみ認識し得、また、それに耐え得る境地、世界像。
当の自分が言ってた、
>独自の神のおわす神話は客観的には個別的であるが、
>主観的には一般的である
に、ニーチェの永劫回帰が当てはまらないようなことを言うのは、なんでかなー。
>一般理論的な物言いに過ぎない。
つって、ニーチェの永劫回帰が普遍妥当な客観理論みたいな言い方してますが。
ニーチェ自身が、永劫回帰も含めた自らの思想を、無限に解釈可能な世界に対する、
可能なうちで最も高い認識形式という評価をしていたのだが。
まさか、永劫回帰はそれこそ絶対的な真理であり、
その中で個別の神をそれぞれが見つけなさいって話だと思ってるのか?
ついでに言っとくと、このコテハンは以前からずっと、
『権力への意志』第三書で言えば、「社会および個人としての権力への意志」、
せいぜいが「芸術としての権力への意志」に当たる部分しかニーチェを見ていない。
「認識としての権力への意志」、「自然における権力への意志」に当たる部分はまるで見えていない。
だから、その主張も、陶酔というより自己陶酔的な似非文学的臭みばかり漂う、いい加減なもの。
そうして、奥崎の神みたいな、矮小な猿の幻想までも、まともに「神」として論じるような愚考に走る。
>>528 何かの受け売りでしか無いから
質問しても回答は帰ってこないんだよ
理解していたら、喜んで解説のレスをするはずだ。
つまり、コテハンは何も理解していないんだよ。
あまりにも動物的であって議論にならないのは今までのやりとりから証明されているしさ
良く相手してるなぁと思いつつ
君のやりとりを楽しんでいる
肩透かし、のれんに腕押し、馬の耳に念仏という言葉がこれほどしっくり来る事はない
気の済むまで続けてどうぞ
532 :
イ・チョンナム:2014/12/06(土) 19:56:54.44 0
モンキーどもに教えてやろう。
>ニーチェ自身の「独自の神」からしたら何ら価値が
>無いであろう、奥崎の神を称揚し、
奥崎というのはなんだ?
それにニーチェは独自の神なんかもっていないし、
そもそも超人の存在を嗅ぎつけただけで彼自身は超人ではない。
>ここはお前のスレではなくニーチェのスレ。
じゃあ問題はない。
>ほとんどの人らにとっては、なんだかとっ散らかった言葉を
>羅列する荒らしがまた出てきたって感じだろうし。
おそれおののいているだけだろ。
>ニーチェが永劫回帰を神の概念とほぼ等しく見ていたことは
まったく俺の言っていることを理解できていないね。
永劫回帰というのは一般理論であって、
実際に独自の神を持つ者が頭に思い浮かべるものじゃない。
まさか超人は永劫回帰の世界観を頭に思い浮かべた上で、
信仰対象にしていると思っているんじゃないんだろうな。
どこのカルトだよ。
信仰対象にした時点でキリスト教の亜種だろ。
猿よ人となれ。
533 :
イ・チョンナム:2014/12/06(土) 20:07:48.05 0
モンキーどもに教えてやろう。
>ニーチェにとって永劫回帰は自らが到達した高みからのみ認識し得、
>またそれに耐え得る境地、世界像。
永劫回帰の意識自体は超人とは無関係であり、
神を一般理論化した物言いに過ぎない。
アブラハムが信仰者として評価されるのは、
愛する息子を差し出すまでに他人に語らなかったからだ。
それは神との個別的人格的な結びつきがあったからであって、
彼は他人に語ることが出来なかったんだよ。
そしてそれを耐えうる境地は運命愛に関わるものだ。
>ニーチェ自身が、永劫回帰も含めた自らの思想を、無限に解釈可能な
>世界に対する、可能なうちで最も高い認識形式という評価をしていたのだが。
一般理論というのは出来るだけ一般化されているものが優れている。
そういう意味でニーチェの永劫回帰思想は一般化されているんじゃないか。
>その中で個別の神をそれぞれが見つけなさいって話だと思ってるのか?
見つけようと思った瞬間それはカルトになってしまう。
自らのニーチェ像の梯子が外されて、
ニーチェファンが憤慨するのは分かる。
自身をある種支えてくれていた部分があるのかもしれない。
しかしニーチェは自らのファンでいてくれることを望んでいたわけじゃない。
ニーチェはファンを裏切るぐらい誠実だったんだ。
俺はその意志を酌むよ。
猿よ人となれ。
534 :
イ・チョンナム:2014/12/06(土) 20:09:00.44 0
猿どもに教えてやろう。
超人の3条件を確保しているのが、
例えば奥崎謙三その人である。
彼ははっきりと「私は神様の愛い奴だ」と言い、
自らが神に愛されていることを誇りにしている。
彼は生涯にわたって貧苦の中にあったし、
時に人をあやめ刑務所にも十数年入っていた。
しかし彼は変わることなく生涯を貫き通し、
晩年は顔面を吐しゃ物まみれにし血栓溶解法を実践しながらも、
「私は幸せだ」と言いつつ死んでいったのだ。
ここで皆は個人の権威に左右され躓く。
あの盗賊と一緒に処刑されたみすぼらしい姿のイエスを、
キリストと信じることに躓くのと同じである。
超人に英雄の可能性を見出していた者は、
犯罪に手を染めて貧苦にあえぐ薄汚い老人を認められない。
超人に幸福感を求めていた者は、
奥崎の前提ではなく自らの前提で解釈しそこに不幸を見出す。
しかし奥崎謙三こそニーチェの言う意味での超人そのものである。
トンスルこそ英知の結晶!
もう来んなよ〜
な〜まじで頼むよ〜
536 :
イ・チョンナム:2014/12/06(土) 20:40:09.91 0
猿どもに教えてやろう。
奥崎謙三は超人である。
そして超人はニヒルが侵入し神が死んでいる現代において、
神を確保している者のことだ。
目標を持たない言語も語らない全てを受容する、
独自の神と共にある歓喜の境地こそ超人である。
この様な超人は3つの条件を充たす。
それが空間性・受動性・時間性だ。
これらを充たして初めて人は神と合一できるのであり、
一つでも欠ければそれは永遠の福祉から見放される。
超人こそが前近代まで人類史において何百万年も担保できていた、
神と共に在る伝統的な境地に還るものだ。
お前たちと私とで神の殺害者となった人が、
如何に神を甦らすかが高度な思想家のテーマになる。
では奥崎は3条件を充たしていたのだろうか?
猿よ人となれ。
537 :
考える名無しさん:2014/12/07(日) 04:23:11.54 0
>おそれおののいているだけだろ。
面倒臭い文体に読む気失くしてる人が大半で、恐れ戦くだの何だのいう以前に、まず読まれてないと思うが。
>奥崎というのはなんだ?
↓
>奥崎謙三は超人である。
キャラ変したつもりでいるから「なんだ?」とかとぼけておきながら、
すぐ「神の愛い奴」だの「」だのいう、以前書いたのをそのままコピペしたようなキモイ駄文。
よほど奥崎のファンなんだな。
>永劫回帰の意識自体は超人とは無関係であり、
>神を一般理論化した物言いに過ぎない。
お前の定義による「独自の神」って言葉には、単に一般化された世界観ではなく、
そこにプラスされる何かがあるというわけだな。では、そのプラスされるものとは何か。
そこをずーっと、ずーっと言わないままでいるから、何言ってんだか他人が読みとるのは不可能。
プラスされるものって、陶酔感情じゃないよな。それなら永劫回帰の直感体験にもあったからな。
じゃ、何。
538 :
考える名無しさん:2014/12/07(日) 04:25:06.68 0
「」ん中抜けてた。「顔面を吐しゃ物まみれ」な。
この話、もう何度読まされたか知れん。飽きた。
539 :
イ・チョンナム:2014/12/07(日) 06:13:26.52 0
猿どもに教えてやろう。
>面倒臭い文体に読む気失くしてる人が大半で、恐れ戦くだの
>何だのいう以前に、まず読まれてないと思うが。
自尊心を保つ為のメタレスはいらんよ。
間違った書き込みは正面から議論して砕き散らすのみ。
>奥崎というのはなんだ?
あの時点で俺は言及して無いわけで、
まあある種の「ゆうもあ」だな(糞笑)。
>お前の定義による「独自の神」って言葉には、
>単に一般化された世界観ではなく、
>そこにプラスされる何かがあるというわけだな。
多分ニーチェ思想の肝に当たると思うんだが、
どうしても皆が理解できていないところがあるように思われる。
まず神の独自性を個別性と換言するなら、
個別性は一般性でもありうるということ。
すなわち客観的に個別性で主観的に一般性ということだ。
猿よ人となれ。
540 :
イ・チョンナム:2014/12/07(日) 06:18:13.05 0
猿どもに教えてやろう。
例えば奥崎のセルフゴッドである「神様」は、
我々からしたら文字通り個別性で恣意に映る。
しかし奥崎からしたら独自でもなんでもなく、
太鼓から存在していた神以外のなにものでもない。
それは何故かと言えば共同主観性だからだ。
共同主観性とはある共同体で刷り込まれる前提の了解事項で、
例えば成員同士が異なる意見を持ち出して議論を戦わせても、
これは共同主観性が無いのではなく、
議論を戦わせられるということが同型の共同主観性を持つという証左となる。
共同主観性はけして意識的に思い浮かぶものではない。
前提であるからこそそれは当然の了解事項なのだ。
個別の宗教圏によってはその神が信じらられるのは、
幼少の頃から刷り込まれて了解事項になっているからだ。
しかしそれらの信仰者と奥崎とでは決定的に違う部分がある。
猿どもに教えてやろう。
541 :
イ・チョンナム:2014/12/07(日) 06:35:53.90 0
猿どもに教えてやろう。
なぜ神が降臨したかは括弧内にしまいこんでおいて、
奥崎が超人3条件を充たしているかを見てみよう。
一般性でいえば前近代がそうであったようにこれは皆の神様だ。
現代でいえばこれは共同主観性なのかどうかということに他ならない。
逆に言えば共同主観性で無い以上は神などではない。
前近代は一部のセットアッパーが、
生存実感を獲得させる祭祀を設けてきた。
未開の部族が酩酊物質を入れたキセルを吹いて、
陶酔状態に入っているように、
生贄や男女役割交換や公開処刑などによって、
人は共同体外からの感受性を調達し、
生存実感を獲得していた。
文化人類学を学べば分かるが、
人は生存実感がないと生きることが弛緩して危険な状態になる。
そこで例えば様々な部族で定期的に様々な祭祀が行われたり、
農村で言えば定期的に祭りを行うことで、
人類は何百万年も維持継続してきたわけだ。
猿よ人となれ。
542 :
イ・チョンナム:2014/12/07(日) 06:49:06.29 0
猿どもに教えてやろう。
日本の江戸時代でいえば公開処刑をすることで人々はそれに熱狂し、
感受性を更新してきた。
目の前で人を殺害し血は吹き出すし罪人は断末魔の叫びをする。
そして罪人の生首を皆の鼻先に並べる。
処刑される瞬間に人は成員全てが集まる。
そして人は処刑の際に狂喜乱舞する。
他人の死を見て自らが生きているという強烈な自覚を持つのだ。
しかし現代日本では公開処刑は行われない。
全ては秘密裏に壁の向こう側で行われる。
精々事後報告程度であって壁の向こう側はうかがうことが出来ない。
これは勿論複雑化した社会が神を殺したからであって、
社会を運営する為に過剰な言語を必要とするがゆえに、
その言語を滅殺する公開処刑を排外するのだ。
この様な生存実感を与えてくれるものが言語を滅殺し自己を更新する、
狂乱の神ディオニュソスである。
奥崎にとってのディオニュソスが「神様」であり、
ニーチェがディオニュソスに言及するのは、
ニーチェの信仰対象だからではなく一般理論だからである。
猿よ人となれ。
543 :
考える名無しさん:2014/12/07(日) 11:27:14.11 O
ニーチェを考察して欲しい
ニーチェを解釈して欲しい
ニーチェを説明して欲しい
ニーチェを相談して欲しい
ニーチェを意見して欲しい
ニーチェを分析して欲しい
イなんとかというコテは、知識も論理もないけどレスの情熱だけは凄いね。
統失患者も際限なく書き続けるけど、この人はどうなんだろうね?
バカにされたことが悔しくて、エネルギーの源泉になってるのかな?
そんなエネルギーは現実社会で使えばいいのに、とは思う。
文化人類学からの考察は幾ばくか納得できたし面白いが
コピペだったらドン引き
根性は認める
ただスレを私物化してるのは頂けない
>自尊心を保つ為のメタレスはいらんよ。
とかね。自分がバカにされているのも、「おそれおののいて」いることの表れだというナルシスティックな解釈なんだろうか。
どんな現実も、自らに都合よく解釈する(或いは逆に、現実を歪めて悪意と捉える被害妄想)のは、精神を病んだ人間のテンプレ。
根性というより、書く衝動が止められないんだろう。
他人に迷惑がられても、「素晴らしい俺の思想を『猿ども』が受け入れられないだけだ」というパラノイアに凝り固まってんだろうし。
もうホントに全共闘世代風の観念的な語彙を駆使しまくってるけど、書いてる内容を読むと(まず読んでる人あんまいないだろうし当然だがw)、
多少とも哲学なり社会学系の物を読んだことのある人なら常識レベルのことを、さも自分が発見したかのような上から目線で書いてるのが滑稽すぎる。
そして、そこから更に独自に導き出してくる思想が、感情ばかり先走って、論理的に貧相。
何か、思想家なり批評家なりで成功したかったが世間に居場所が得られなかったルサンチマンを、こんな2ちゃんのスレなんかにぶつけて煙たがられている、
団塊の世代の哀しい末路の一典型、という感じ。速やかに死ねたら、自他にとって楽なんだろうにね。
公開処刑云々て辺りなんて、完全にバタイユのヘタな剽窃。
>人は生存実感がないと生きることが弛緩して危険な状態になる
ニーチェの永劫回帰は、彼のような高みに到達した者のみが、
単に概念的把握ではなく生の実感として我がものとできる思想なんだろうけど、
そうした高みに至らない平均的、ないしは下等な人間が、「生存実感」とやらを得るために欲する神なり道徳なりは、
奴隷が奴隷として従順に社会の一員として生きるための道具に過ぎない。
馬鹿コテハンが勝手に主張する「超人3条件」なんてのは、ニーチェの言葉のどこから導き出されるのか、証明してもらいたいね。
まあ無理だろうし、また前みたいに「引用しようと思えばできるがしない」と、屁理屈こねるだけなんだろう。
繰り返すが、ニーチェは永劫回帰説を、人間が到達し得る最も高い認識形式と考えた。
だから、それ以外の「独自の神」とやらを主張するのなら、科学的、哲学的な面での認識のあり方において、
永劫回帰説を超えるものを打ち出さなきゃいけない。
その点については、以下のように既に示唆しておいた。
>『権力への意志』第三書で言えば、「社会および個人としての権力への意志」、
>せいぜいが「芸術としての権力への意志」に当たる部分しかニーチェを見ていない。
>「認識としての権力への意志」、「自然における権力への意志」に当たる部分はまるで見えていない。
ニーチェは、これら全方位的な視角から世界を思索したが、キチガイコテハンの「愛い奴」奥崎は、
コテハン同様、厳しい思索などまるでない、キチガイの自慰的な「陶酔」しか持ってない。
ニーチェは、単に「弛緩」したくないとか、「生存実感」を得たいとか、そんな理由で思索していたのではなく、
自分にとって、人間にとって、世界の実相がどうであろうと、それが実相なら引き受けようという覚悟で、
世界を哲学的に把握しようとしていたわけだ。そうした厳しい理論的格闘を抜きにして、
おのれの「生存実感」の獲得に汲々としている卑小なキチガイがニーチェを語るなど、お笑い種でしかない。
549 :
イ・チョンナム:2014/12/07(日) 23:50:19.04 0
猿どもに教えてやろう。
ニーチェの主張が誤読される危険の一つとして、
彼が理論的な物言いをしない所にある。
だから例え話をするしかないのであり、
ディオニュソスも一つの例えでしかなかった。
さて例えば個別のキリスト教圏がありそこでの独自の神が、
当然の了解事項として一般性であるということは疑いようがない。
奥崎の神様はそれ比べると規模が小さいので、
酷く皮相に思えるかもしれない。
しかし実はこれはまったく変わるものではないのだ。
奥崎の場合は「一人共同主観性状態」ともいうべき事態になっており、
これは何もセルフゴッド抜きでも論理的に成立する。
例えばキリスト教徒が一人を除いて全て死滅したとしよう。
しかしだからといって一般性が奪われたわけではなく、
最後の一人にとっては神は太古から存在するあの神であるし、
それは自らの心の中だけにいる神などではなく、
恣意でも独自でもなくみんなにとっての神だ。
こう考えると奥崎とキリスト教の違いは、
共同主観性をもつ共同体の成員の数の程度が異なっている程度だ。
もしキリスト教徒に「彼方の神は独自の神だ」といえば納得しないだろうし、
奥崎に対しても同様だろう。
猿よ人となれ。
550 :
イ・チョンナム:2014/12/08(月) 02:21:13.05 0
猿どもに教えてやろう。
共同主観性といっても所詮はどれぐらいの大規模で懐かれようとも、
所詮はそれが下敷きになっているのは個人であるに過ぎない。
集団が100人でも1万人でもそれを前提にするのは個々人に過ぎない。
神が個人に開かれるものであるなら、
何故小規模だからといって馬鹿にできるだろう。
1万人の神でも1人の神でもそれは同じように皆の神だ。
この様に皆の前提であり刷り込まれているからこそ、
すなわち共同主観性に食い込んだ神であるからこそ一般性が担保される。
神を意識的に思い浮かべて信仰対象にしたところで、
自己否定するのもまた自己である以上理論上その懐疑は解消されない。
キルケゴールは自己の信仰が現実で完結しないことを理解していたからこそ、
死後のレリジョン(再結)というアクロバットを持ち込むのだ。
しかしニーチェはその様な態度を弱さの兆候として否定するだろう。
猿よ人となれ。
551 :
考える名無しさん:2014/12/08(月) 04:32:53.91 0
>人は生存実感がないと生きることが弛緩して危険な状態になる
だからってそれを「独自の神」に求めるのは賎民の発想。
そもそもニーチェは、真理は、人類にとっての危険だとかなんとかと関係ない。
危険な状態を避けるために求められる神なんてのは、弱者の救済手段でしかない。
永劫回帰説は、そうした形而上的な価値としての神のようなものを駆逐した果ての思想だよ。
552 :
考える名無しさん:2014/12/08(月) 04:38:24.28 0
あ、ニーチェにとって真理は、ね。
簡単に言うと、奥崎には、ニーチェの権力論のようなものが無いんでしょ?
社会、自然、身体、等々を統一的に認識するための核となる概念が無い。
ニーチェは飽く迄も哲学者。世界とは何か?という大きな意識、認識欲がある。
永劫回帰は一般理論だとか言うんなら、一般理論を志向しない思想は一面的な、
個人の自己陶酔でしかないでしょ。現にコテハン氏がやってるような。
553 :
イ・チョンナム:2014/12/08(月) 05:15:31.08 0
猿どもに教えてやろう。
お前はいくらなんでも俺へのルサンチマンが酷すぎるわけ。
ナルシスティック・被害妄想・精神を病んだテンプレ・パラノイア・
キチガイ・団塊の末路の一典型・馬鹿コテハン・賤民など、
俺への憎悪が強すぎて議論が出来ない。
だからスルーしたんだが今回はいくらか増しになっている。
俺も猿どもとは言うがこれは設定上のキャラだ(糞笑)。
まあ憎しが先立つと感情論になるから、
今回みたいに真面目にやるなら相手になろう。
>だからってそれを「独自の神」に求めるのは賎民の発想。
現実に人類はニーチェ風に言えば、
ディオニュソス神によって維持継続できてたんだよ。
あらゆる社会がそれを物語っているし、
生存実感が無いということは本当に危険なんだ。
例えば小動物を殺す奴がいるが、
あれは生きてる実感が無いからだ。
殺すことで自分が生きていることを確認できるし、
何らかの理由で生きてる意味を奪われて、
そこで生存実感がなくなりそれを取り戻そうとする。
生贄の祭祀も公開処刑も結局は同じことだ。
猿よ人となれ。
554 :
イ・チョンナム:2014/12/08(月) 05:37:16.89 0
猿どもに教えてやろう。
>危険な状態を避けるために求められる神なんてのは、
>弱者の救済手段でしかない。
ニーチェは啓蒙家であろうとしたしだからこそ人に語りかける。
そして彼は弱者を救済しようとしたのではなくて、
論理的に要請されるところのあり方を示そうとしたんだ。
誠実に哲学的運動をし続けたんだよ。
>永劫回帰説は、そうした形而上的な価値としての神のような
>ものを駆逐した果ての思想だよ。
神を駆逐するなら神の死を驚く必要なんてないだろ。
無としての神は駆逐してもディオニュソス神は切り離すことは出来ない。
彼の運動は神への運動だったといえる。
>簡単に言うと、奥崎には、ニーチェの権力論のようなものが無いんでしょ?
意味が分からないんだがニーチェは超人かなんかだと思っているのか?
奥崎は超人だがニーチェは違う。
ニーチェ的には奥崎の方がステージは上だよ。
>社会、自然、身体、等々を統一的に認識するための核となる概念が無い。
奥崎は超人だから言葉なんて語るわけが無い。
射精してる人間に概念なんてあるかあ(糞笑)。
常に恍惚の中にいる奥崎こそニヒルを克服した人間の理想だといえるだろう。
猿よ人となれ。
予め言っておく
残念ながら、奥崎の活動は時間的, 時代的遠近法により、既に古典となっている
時間的にも、時代的にもあまりにも遠過ぎる
これは地球の裏側の世間話が取るに足らないものと同一である
奥崎のような人間が現代に現れたとした場合、暴力的で社会秩序を無視し自己中心的で横暴であり
インターネットを通して、犯罪は直ちに世間に広まり是正されるだろう
昭和のように二度と復活などできぬ
個人として、
奥崎の探究心や行動力は評価する
戦争の事実をすっぱ抜いた映画は
歴史的価値のあるものだ
百歩譲って、その当時(だけ)は超人だったのかもしれない
ただそれはそれ、やはり現代の見地からすると、自己中でありキチガイであり犯罪者である
また、現代で言うところの、
生存実感の代わりとなるものが、
バーチャルリアリティーである
殺人を含めた全ての犯罪や欲望をバーチャル空間の中に一纏めにされパッケージされ簡単に手に入れることができる
奥崎を賞賛するなど、時代錯誤もいいところ 時代に取り残され醜態を晒しているだけではないか
反論あればどうぞ
556 :
考える名無しさん:2014/12/08(月) 17:01:51.99 0
>現実に人類はニーチェ風に言えば、
>ディオニュソス神によって維持継続できてたんだよ。
>あらゆる社会がそれを物語っているし、
>生存実感が無いということは本当に危険なんだ。
ここがまさにニーチェの真理観に反するところ。
ニーチェは、人類にとっての危険を回避するために思索していたわけじゃない。
人類に危険が及ぼうとも、人類社会という名の生存形態によってこれまで無視され抑圧されてきた、
世界のあるがままの姿、真理があるなら、それを解放するのが、彼の謂う「未来の哲学者」。
弱者は適当な道徳なり神なりを捏造して、自らの生存が自他にとって危険でないようすればいいが、
強者はそうしたものを拒んで、自らが主体として世界に意味を与えようとするからこそ強者。
>意味が分からないんだが
意味が分からないのは、ニーチェの著書を真剣に読んだことがないからだよ。
奥崎とは真剣に向き合ってきたのかも知れんが、そんなことは、ここニーチェ・スレには本来、関係がない。
ニーチェの超人論も永劫回帰も、すべてその権力論から導き出されるもの。
だから、奥崎が超人だと言いたいのなら、ニーチェの権力論に沿って説明しないと、意味を成さない。
「ニーチェ的には奥崎の方がステージは上だよ。」とか言うのなら、まさにニーチェの哲学に沿って説明しないとね。
共同主観性とか共同性とか公共性とか、そんな話は金太郎飴的に繰り返されてきたが、
ニーチェ自身のテキストのどの部分からそんな話が出てくるのか、まったく説明がない。
>神を駆逐するなら神の死を驚く必要なんてないだろ。
順番が逆だろ。
真理の追求の果てに、自らが神を駆逐したという、神の死という衝撃があって後に永劫回帰説が出てくるんだから。
ディオニュソス的な神といっても、ニーチェのは、古代のディオニュソス信仰をそのまま復興したわけではない。
すべてが権力への意志であり、すべては永劫回帰する、という思想の詩的比喩として言ってるんだから。
557 :
考える名無しさん:2014/12/08(月) 17:13:56.88 0
つか、社会にとっての危険がどうとか、案外このコテハンのおっさん、善人だw
奥崎みたいなイカれたジジイの生存にすら意義を見出そうとするんだから御立派。
そんな老人介護的善意の人は、ニーチェを理解するには「あまりに人間的」だから向いてないよ。
ムリすんな。
558 :
考える名無しさん:2014/12/08(月) 17:29:49.00 0
・・・まぁ、もうちょっと理論的な面で言ってあげると、「独自の神」ってやつが、
>客観的に個別性で主観的に一般性
という論理によって奥崎の神を擁護するってのは、要は、
奥崎と同じ主観(共同主観)から「神様」を肯定しているのではない。
一般理論的なものの一例として肯定してやっているに過ぎない。
つまり、「奥崎にとっては一般的なんだよ」と主張するってことは、
「奥崎が言うならそうなんだろう、奥崎の中ではな」ということ。
客観的には一般的でないと言っているわけで、実は非常に反奥崎的。或いは半奥崎的?
ニーチェの思想も一つの主観だが、奥崎と違って、哲学的、科学的な思索によって到達された、
今、人類にとって最も包括的な思想としての主観。
「奥崎は超人だから言葉なんて語るわけが無い」から、理論的な面でニーチェを超克する必要は無いというなら、
そもそも彼の恍惚境について、ここで言葉を用いてコテハン氏が力説する必要もない。
560 :
イ・チョンナム:2014/12/09(火) 06:11:12.29 0
猿どもに教えてやろう。
>奥崎のような人間が現代に現れたとした場合、暴力的で社会秩序を
>無視し自己中心的で横暴でありインターネットを通して、犯罪は直ちに
>世間に広まり是正されるだろう
奥崎を暴力的であるという価値観は既に我々の社会の共同主観であって、
例えばオウムの犯罪は社会的には道徳的悪の極致だが、
オウムにとってはそれこそ最高の善であることが論理的にありうる。
そういう例は枚挙に暇が無い。
例えばキリスト教にはキリスト教のイスラム教にはイスラム教の前提があり、
各々の善と悪がある。
奥崎にも当然そういう前提があって、
これらは規模が違うだけでどれが正しいというものではないんだ。
>ニーチェは、人類にとっての危険を回避するために
>思索していたわけじゃない。
俺はそんなことを一言もいっていないし、
それどころか逆に人類に役立つ形でニーチェを取り上げるなと再三いっている。
ニーチェは人類の系譜を遡った上でいかにあるべきかを主張しただけで、
人類が滅亡すべきことが自然であると結論が出たならそう主張しただろう。
>世界のあるがままの姿、真理があるなら、それを解放するのが、
>彼の謂う「未来の哲学者」。
全くそのとおりじゃないか。
猿よ人となれ。
561 :
考える名無しさん:2014/12/09(火) 06:39:35.04 0
>俺はそんなことを一言もいっていないし、
なら、「独自の神」によって、「生存実感」を得ることを肯定する根拠として、
「ディオニュソス神によって維持継続できてた」だの、「生存実感が無いということは本当に危険」だの、
無意味な主張だな。
>それどころか逆に人類に役立つ形でニーチェを取り上げるなと再三いっている。
過去には確かにそう言っていたのにね。どうしちゃったんだろうね。
>奥崎を暴力的であるという価値観は既に我々の社会の共同主観であって、
>オウムにとってはそれこそ最高の善であることが論理的にありうる。
という論理から言えば、
>例えば小動物を殺す奴がいるが、
>あれは生きてる実感が無いからだ。
というのを「本当に危険なんだ」とか心配する必要ないんだろ?
そいつにとっては小動物を殺すことで生の実感が得られてるんなら。
更に言うと、仮に俺があんたを罵り嘲弄することで、生存実感を得られていたら、
それはそれでいいんでしょ。
562 :
イ・チョンナム:2014/12/09(火) 06:42:31.55 0
猿どもに教えてやろう。
>まさにニーチェの哲学に沿って説明しないとね。
いい加減ニーチェのテキストから離れて自分の言葉で話さないと駄目だろ。
ディオニュソスを生存実感と変更しても、
現実のニーチェから離れても真のニーチェに近づく。
しかしあんたがニーチェの言葉ばかり駆使してもそれは、
現実のニーチェに近づいても真のニーチェから離れる。
例えとしての永劫回帰とは何かディオニュソスとはなにか、
運命愛とは綱渡りとは正午の哲学とはなにかが求められているのに、
永劫回帰が神だなんてなにかを語っているようで何も語っていない。
何故なら自分がいないから。
人それぞれの解釈学に基づけば人の数だけ言葉は違うし、
高度な理解をしている者同志なら言葉は違えど会話できる。
ニーチェの言葉はその会話する際のメルクマールであって、
たまに出すだけでいいんじゃないか?
>順番が逆だろ。真理の追求の果てに、自らが神を駆逐した
ニーチェが神を駆逐って大丈夫か?(糞笑)
しかも俺の「意味が分からない」という発言をそのままの意味で取って、
「ニーチェ本を読んでないから」って嫌味も通じない(糞笑)。
別に馬鹿なのはいいんだよ。
認識のレベルは誰だって段階があるし、
俺は別にお山の大将になって威張りたいわけではまったく無い。
でもお前は馬鹿のクセに俺を中傷するから、
精神衛生上無知という事実を鼻先に突きつけるしかないんだ。
猿よ人となれ。
563 :
イ・チョンナム:2014/12/09(火) 06:48:16.63 0
猿どもに教えてやろう。
>「奥崎が言うならそうなんだろう、奥崎の中ではな」ということ。
>客観的には一般的でないと言っているわけで、実は非常に反奥崎的。或いは半奥崎的?
俺が書いたことをそのまま書いているだけだが言葉は通じているようだな(糞笑)。
でも本当に俺が言ったのはそういうことだ。
それを踏まえていうならそれこそニーチェの万人向けの道は無いとか綱渡りとかに繋がっていて、
超人っていうのはその数だけ神がいるんだよ。
でもそういうとお前みたいに
>人類にとって最も包括的な思想としての主観。
こんなことを言い出す奴が必ず出てくる。
月の存在は知っていても月へ行ったことが無いのと同じように、
超人の存在を知りつつも超人になれないニーチェは、
一般理論で語るしかなかった。
しかし逆説的にいえば小児そのものの奥崎が語ることが出来なかったように、
もしニーチェが超人であったら超人について語ることはなかっただろう。
また今回のあんたの理解を踏まえた上でさらに理解を深めるなら、
奥崎の神様を奥崎だけの神というのは徹底的に違う。
神というのは構造上かならず個人に開かれるわけで、
共同主観性という言葉を用いるなら共同主観性は必ず個人に開かれ、
かつ人間は社会的諸関係に出自を持つ以上それを備えるので、
こうして自らは全一の価値観でものをみつめる。
そう考えるなら「独自の神」という視点がすでにメタ的な視点であって、
我々の生活とは関係が無い。
猿よ人となれ。
お前らってホント無駄な所だけ無駄に能力高いよな
これだけ長文書ける奴らが揃ってて哲学板が荒廃してるのが不思議で仕方ない
統合失調症の奴が毒電波垂れ流してるだけであって
長文=賢いなんてのは大きな誤解
哲板は実りのある話になってきた所で荒らしが湧いてきて全部流しやがるからな
IDでも導入すればいいのにやらんしな
日本人は自分で物事を考えることをパワーエリート達に推奨されていないらしいw
567 :
考える名無しさん:2014/12/09(火) 16:20:25.66 0
>いい加減ニーチェのテキストから離れて自分の言葉で話さないと駄目だろ。
「いい加減…」というのは、お前さんの頭の中でそんなふうに議論が進行してるってだけで、
「主観的には一般的」なのかも知れんが、飽く迄もお前さんの主観の中でのこと。
ニーチェのテキストのどこからお前さんの主張との関連性が出てくるのか、具体的に証明しないと、
お前以外の人間から、「共同主観」的な了解を得ることなんて叶わないよ。
むしろ、「こいつは本当にニーチェをちゃんと読んでるのか?」という疑問だけが積み重なる。
>人それぞれの解釈学に基づけば人の数だけ言葉は違うし、
確かに、同じ言葉に対しても、人それぞれに解釈のズレは常にあるかも知れない。
が、だからこそ、特に言葉の微妙なニュアンスが問われる哲学においては、
ズレによる齟齬を修正しようという努力が求められる。
それは、同一性のズレとか差異とかいった概念を肯定的に語るドゥルーズやデリダ等においてさえ、そう。
ゆえに、
>高度な理解をしている者同志なら言葉は違えど会話できる。
「高度な理解」というのはつまり、端からお前と同じように感じ、考える理解ってこと。
自分が充分に説明をせず、同じような文章ばかり繰り返す足踏み運動みたいなのしかしてないくせに、
理解できない奴は高度でないとか、無責任にもほどがある。
>たまに出すだけでいいんじゃないか?
たまにでも出したことがあったか?自分は。
せめて、話の肝要な点、「超人の3条件」とやらがニーチェのテキストのどこから導き出されるのか、
ここに関してだけでも証明してみろよ。なんでも質問しろって言うから質問したのに、完全スルーだろ。
568 :
考える名無しさん:2014/12/09(火) 16:21:09.62 0
>俺は別にお山の大将になって威張りたいわけではまったく無い。
ホントにそうなら、こんな2ちゃんのスレなんかで居丈高に持論を繰り返したりしないでしょ。
まともにニーチェの話がしたいんなら、ニーチェの言葉から論理的に持論へと結びつけていけるはず。
それをしないで、「(糞笑)」という下品な言葉で相手の話を封殺した気になってるのが、見ていて虚しい。
>超人の存在を知りつつも超人になれないニーチェ
「存在を知」ってなんていない。その可能性を思い描いていたんだよ。
>神というのは構造上かならず個人に開かれるわけで
>共同主観性は必ず個人に開かれ、
これを説明しろ。
ウィトゲンシュタインの私的言語も、言語ゲームの一つのあり方として組み込まれる、みたいな話かね?
意味分かんなかったら自分でググってくれ。
>永劫回帰が神だなんてなにかを語っているようで何も語っていない。
>何故なら自分がいないから。
「自分」を挿む前にまず、ニーチェの思想を正確に理解しているかどうかが問題。
ここはお前の日記帳ではないし、俺のそれでもない。
「永劫回帰が神」云々については既に
>>362にニーチェ自身の言葉が引用されてる。
永劫回帰も、善悪の彼岸の神も、権力への意志全体の運動を指している。
超人とは、その運動そのものが「私自身だ」と言えるほどに高められた存在。
だからこそ、世界の回帰を肯定できる。
そこには、お前さんが馬鹿にする「一般理論」も含めた世界認識も含まれている。
ニーチェは認識を、対象を我が物とする一種の消化活動だと呼んでいた。
569 :
考える名無しさん:2014/12/09(火) 16:32:48.45 0
>神というのは構造上かならず個人に開かれるわけで
仮にこれが、神は脱自的陶酔、エクスタシーによって体験されるのであり、
祭祀という「共同主観性」によって「必ず個人に開かれ」る、という話なのなら、
それはニーチェじゃなくてバタイユだよ。
ニーチェは、多数者には理解もされないような孤高の先に超人を置いた。
だから、ニーチェの神、というか神的な境地は、祭祀によって「共同主観」的に開かれたものなんかではない。
奥崎みたいな、世界認識も何も無い頭のボケたジジイが理解されないのとは別の話だよw
ななしさん(大変呼びにくいので固定ハンドルを持って欲しい)の論理的思考は正しい
特に哲学を議題に上げるのであれば、
どんなに優れた哲学者間であっても、
言葉一つ一つの定義から互いに質問していき、
その一つ一つの質問にもれなく
論理的思考において自身の理論にて回答する必要がある
全ての言語の解釈の齟齬を解決しなければならない
哲学の基礎となる作業だ
つるじょあ氏の目的は自分の意見を正しく伝えることではありませんか?
ここまでやっておいて、
せっかく議論に付き合う気持ちのある
理解者となれる者をみすみす失うことになるのはもったいない
このスレの共同体である我々において、
議論をする上で一番重要なのは、
単語や文章の意味(意図)の定義化(標準化)だ
哲学を語るものであれば解ると思うが、
言葉というものは、
一つ一つの言葉や文章の意味を正しく説明さえすれば
相手に正しく意思を伝えられる力があるのだから
571 :
考える名無しさん:2014/12/10(水) 05:27:07.06 O
必ずニーチェを賛成して欲しい
絶対にニーチェを賛成して欲しい
確実にニーチェを賛成して欲しい
100%ニーチェを賛成して欲しい
十割ニーチェを賛成して欲しい
勿論ニーチェを賛美して欲しい
無論ニーチェを賛美して欲しい
確かにニーチェを賛美して欲しい
もっと更にニーチェを賛美して欲しい
572 :
イ・チョンナム:2014/12/10(水) 09:26:46.94 0
猿ども。
>ニーチェのテキストのどこからお前さんの主張との関連性が出てくるのか
ニーチェの目指した問題解決が一番の主題なのか、
それともニーチェの問題解決のための方法論が一番の主題なのか。
はっきりとニーチェの目的なのか手段なのか、
どちらが大切なのか言い訳せずに答えてくれ。
余計な言葉はいい目的か手段かどちらかだ。
>自分が充分に説明をせず、同じような文章ばかり繰り返す
お前は十分に反論もせず、
テキストに逃げているんじゃないのか?
奥崎が超人で無いというのなら、
奥崎が超人であるという根拠を崩せばいいんじゃないのか?
ニーチェを理解せずに現実のニーチェに近づき、
ニーチェの真意を知らないくせに中途半端な説明をして、
ニーチェの主張を骨抜きにしているのはお前じゃないのか?
お前のやっていることは超訳ニーチェを書いた人と何も変わらない。
どんどんニーチェと隔絶していっている。
ほらまたニーチェのテキストを上げ連ねて「永劫回帰が神」といってみろ。
世間でそれを口にすれば頭がおかしいか観念に捉われているかのどっちかだ。
お前のやってることは「お前の超訳」の垂れ流しだ。
俺に勝てないから涙目でテキストにぶら下がってるだけ。
ニーチェから離れることでしかニーチェに近づくことは出来ない。
猿よ。
573 :
イ・チョンナム:2014/12/10(水) 09:37:41.86 0
猿どもに教えてやろう。
>全ての言語の解釈の齟齬を解決しなければならない
当たり前じゃないか。
そのために議論の場が開かれているんだし、
分からなきゃ聞けばいいんだ。
そもそも意思疎通を邪魔しているのはあいつなのになんで正しい(糞笑)。
自らの程度の低さをニーチェのテキストで誤魔化そうとしているだけだ。
剥き出しの自分では背丈が低いからね。
>つるじょあ氏
誰かと間違えていないか。
猿よ人となれ。
私がななし氏を評価するのは、
哲学に対する姿勢
つまり、論理的思考においてのみ言及しているのであって
彼の発言が正であるとは言っていない
なぜ、内容についての言及がないのかと問われるのであれば、
私が今ここであなた達のレスに対して正しく吟味し回答するには、かなりの時間が掛かると見積っているからです
早計な判断をしているようでは、
今あなた達がしているやりとりのように、
無駄な時間を費やすことになる
違いますか?
議論も討論も真理にはたどり着けない、
安易なすり合わせの都合が良い結論にたどり着くからである、
真理は静的なものではなく相対的な意味であることを理解できないから
議論を繰り返せば真理にたどり着けると確信してしまうのである。
理屈で語るのは論理的思考であり、その論理など矛盾や例外を無視した
主体の過半数が成り立てば正しいという統計思考にすぎない。
いくら進んでも目的地が常に移動するものは、刹那の一瞬では辿りつけても
次の瞬間に近似となり多くの時間後には異質なものへ変貌してしまう。
凡人は目標を追いかける、だが天才は目標が好む位置へ移動し、目標そのものを
自分へと誘導する。ここに超えられない壁があり、凡人はこの壁を超えられない。
なぜなら目標は高次の抽象的存在であるからであり絶対的に指し示せるものではなく
全体と目標との関係で目標の意味が変動する類であるからである。
576 :
考える名無しさん:2014/12/10(水) 17:53:00.60 0
>余計な言葉はいい目的か手段かどちらかだ。
すまんが、今までのお前様の文章からは、「問題解決」とやらが何を指してるのか不明なのだがw
頭の悪い俺様に説明しておくれ。そしたらレスするわ。
>奥崎が超人であるという根拠を崩せばいいんじゃないのか?
↓
>>568 >超人とは、その運動そのものが「私自身だ」と言えるほどに高められた存在。
>だからこそ、世界の回帰を肯定できる。
>そこには、お前さんが馬鹿にする「一般理論」も含めた世界認識も含まれている。
>ニーチェは認識を、対象を我が物とする一種の消化活動だと呼んでいた。
>>569 >奥崎みたいな、世界認識も何も無い頭のボケたジジイが理解されないのとは別の話だよw
>>554 >奥崎は超人だから言葉なんて語るわけが無い。
のだとしても、そんな奥崎がニーチェ的な意味で超人だと断言するコテハン自身は、
言葉でもって俺らを説得しないとしょうがない。
その気が無いなら、そもそもこんなとこに書き込みする行為自体が意味不明。
奥崎が、ニーチェ的な意味での超人であるなら、共同主観とか共同体とかいったレベルのみならず、
この世界の生成と回帰のすべてを、奥崎の視点から語りえなければならない。
奥崎自身がそれを行なわなくても、そんな彼を超人だと確信しているコテハン氏は、語る義務がある。
577 :
考える名無しさん:2014/12/10(水) 17:53:37.59 0
>世間でそれを口にすれば頭がおかしいか観念に捉われているかのどっちかだ。
↓ついこないだ、以下のようなことを言っていたのに、急に「世間で」云々と言い出す矛盾よ。
>>560 >奥崎を暴力的であるという価値観は既に我々の社会の共同主観であって、
>例えばオウムの犯罪は社会的には道徳的悪の極致だが、
>オウムにとってはそれこそ最高の善であることが論理的にありうる。
>そういう例は枚挙に暇が無い。
逆に
>>553では、
>あらゆる社会がそれを物語っているし、
>生存実感が無いということは本当に危険なんだ。
と、既存の社会(と、その「危険」に対する防衛)を論拠にしていて、
いったい、社会とどう向き合ってるつもりなのか。
ほらまた自慰的な駄文を垂れ流して、「奥崎が超人」といってみろ。
世間でそれを口にすれば頭がおかしいか観念に捉われているかのどっちかだ。
超人の3条件については、ニーチェのテキストからどう関係あるのか、
説明が無いなら、説明出来ないんだと見做すしかない。
お前は十分に反論もせず、
テキストから逃げているんじゃないのか?
578 :
考える名無しさん:2014/12/10(水) 18:03:00.61 0
>>全ての言語の解釈の齟齬を解決しなければならない
>当たり前じゃないか。
>そのために議論の場が開かれているんだし、
>分からなきゃ聞けばいいんだ。
超人の3条件がニーチェのテキストのどこから出てくるのか分からないので、
教えてくださいと何度も質問させていただいているのですが、
いまだに返答がございません。
自らの程度の低さをニーチェの名で(テキストを無視して)誤魔化そうとしているだけだ。
剥き出しの自分では背丈が低いからね。
579 :
考える名無しさん:2014/12/10(水) 18:21:00.49 0
自明なことだが、大事なことを、敢えて明言しておきたい。
普通に考えれば、ニーチェのスレを覗く人らは、ニーチェに興味があって覗いている。
奇妙なコテハンが持論を並べ立てるのも、それはそれで一興だが、
飽く迄も、ニーチェを論じる、ということの一環として、だ。
ニーチェとの関連性が疑わしい持論を延々と並べ立てている印象が強まるにつれて、
読み手の方としては、スレの私物化としか思えん。
ニーチェと関連はあると言うなら、そこに対する質問には誠実に答えてもらいたい。
ここではなく、「奥崎は超人である」とかいったスレを自分で立てて書くんなら、別にかまわないんだよ。
執拗に質問する気にもならん。
580 :
イ・チョンナム:2014/12/10(水) 19:14:02.92 0
猿ども教えてやろう。
>次の瞬間に近似となり多くの時間後には異質なものへ変貌してしまう。
なんでこの程度のことを語るのに凡人とか天才の概念を持ち出すのか分からない。
知識社会学者のカール・マンハイムは伝統性に対して、
守ろうと対象化された伝統はその瞬間過去の、
反省された伝統性となりそれは伝統性とはなんら関係が無いといっている。
キルケゴールも人は実存しない、
実存しはするが実存する自己は実存とは関係が無いといっている。
真理が歴史時間性の中で自己にいわば貼付されているのであり、
切り離したらそれは真理でもなんでもなくなるのは分かっているよ。
>すまんが、今までのお前様の文章からは、「問題解決」とやらが何を指してるのか
>不明なのだがw
ニーチェは何を目的にして動いていたのだろうか?
何かしらを達成する為ではないのか。
それがここでいう問題だ。
ニーチェはその問題解決に向けて努力して、
様々な著書を通じてその解決手段を講じようとした。
>奥崎が、ニーチェ的な意味での超人であるなら、共同主観とか共同体とかいった
>レベルのみならず、この世界の生成と回帰のすべてを、奥崎の視点から語りえ
>なければならない。
超人を理解していないからそういう妄言を吐くんだよ。
昔援助交際をする女子高生の気持ちが分からないからといって、
女子高生に直接聞いた馬鹿がいたけど、
女子高生が女子高生の気持ちなんて分かるわけねーだろ(糞笑)。
お前のやってるのはそういうことなんだ。
猿よ人となれ。
581 :
イ・チョンナム:2014/12/10(水) 19:35:28.98 0
猿どもに教えてやろう。
>既存の社会(と、その「危険」に対する防衛)を論拠にしていて、
>いったい、社会とどう向き合ってるつもりなのか。
ハレについて無視したレスがあって、
それだとニーチェの登場した意味が分からなくなる。
前近代までは個人ではなく人類全体で生きてきたわけだから、
ハレを説明する上で人類全体を語るのは当然のことだ。
奥崎っているんだよ死んだけど。
でも永劫回帰なんていない。
だって一般理論でありしかも例えだからね。
ニーチェの主張自体もある種格好悪いものなんだ。
それに気付かず何か言った気になっているお前は、
ケツが破れて肛門をさらけ出しているのに無自覚だ。
>ほらまた自慰的な駄文を垂れ流して、「奥崎が超人」といってみろ。
まるでわかってないね。
俺は馬鹿を馬鹿にする気はそもそもなくて、
様々なレベルの人がいるからできるだけ受け入れて踏み台にしてもらえばと思っている。
そういう意味でお前は皆の中のお前を摘発する上で役立つのかもしれない。
でもお前自身は馬鹿である自覚が無いから成長できない。
猿よ人となれ。
582 :
イ・チョンナム:2014/12/10(水) 19:47:30.79 0
猿どもに教えてやろう。
女子高生の元は女子高生に聞けばいいのなら学問なんていらないだろ。
女子高生を知るには社会全体を見たうえで相対的に判断するしかない。
女子高生からどこから来て今どうでどこへ行くのかを考えるのに、
女子高生の意見はたかだか一つの材料でしかない。
虎が虎のことなんて知っているわけが無い。
超人を知るには超人視点で永劫回帰を語れなんて正気じゃない。
>超人の3条件については、ニーチェのテキストからどう関係あるのか、
>説明が無いなら、説明出来ないんだと見做すしかない。
今説明しているんじゃないのか?
大体俺が説明している中で横槍を入れたのはお前だ。
まだ3条件について厳密に説明していないにもかかわらずどうやってお前は理解するんだ?
例えしか語れないニーチェがそのまままったく同じ言葉で言及していると俺は言ったのか?
そもそもニーチェの手段が大切なのであるならお前はニーチェファンで、
ニーチェを理解するつもりなんて最初から無いじゃないか。
だったらニーチェを語らずに「ニーチェは最高だろ」で十分じゃん。
何故言葉を弄する?
>「奥崎は超人である」とかいったスレを自分で立てて書くんなら、別にかまわないんだよ。
ニーチェの主張を手がかりに真理迫ることは出来るが、
ニーチェの主張を真理を無視して語ることは、
今までの1〜33のニーチェスレ全てがスレ違いということになる。
そもそもファンで「ニーチェは最高だろ」をやりたいのなら、
俺の書き込みを無視して書き込めばいいじゃん。
そうやっている奴実際いるし。
お前の仲間だよ。
猿よ人となれ。
これまでのスレの経緯を知らないし、よく読んでいないからわからんが
これは文献学的立場に立つ住人と解釈学的もしくは派生的にニーチェを語ろうとする住人の対立なのか?
585 :
佐藤光:2014/12/11(木) 00:29:53.00 O
ニートの語源はニーチェ
586 :
イ・チョンナム:2014/12/11(木) 00:34:08.92 0
猿どもに教えてやろう。
ニーチェは駱駝より獅子を、
獅子よりも小児を称揚する。
駱駝は社会的義務を背負って道徳的に生きる事を指す。
地に足をつけて家族を大切にし現実に即して生きていく。
しかし自己否定をしても否定するのも自己であるから結局自己は温存されてしまう。
そして意識的であるがゆえに道徳的人間は道徳を根拠に傲慢ささえ持つ。
道徳に尊厳を置きそれを権威に時に人を見下す。
脆弱な実存ゆえに道徳という権威を身に纏う。
それに比べて獅子は違う。
獅子とは完全なる自由実現に向けて自らを彼方へと投企する。
主体性こそ真理であり不断の自己生成・自己超克によって、
平均的な相対的生から自分だけの独自の絶対的生の実現を目論む。
道徳を退けて情熱に基づいて神の確保を目論む。
しかし自己の中に神はいなかった。
では小児はどうか?
小児は無垢で言葉を語らない。
道徳的義務を履行しないし自由を志向しない。
感覚が全てであり常に歓喜と共にある。
しかし小児が言葉を覚えたとしたらどうだろうか?
かつては小児は小児であり続けられたんじゃないのか?
では今は小児であることは許されないのだろうか?
猿よ人となれ。
587 :
考える名無しさん:2014/12/11(木) 07:10:16.54 0
いつものことながら、攻められるにつれて言葉遣いの下劣さが増していくが、
自らの矛盾を指摘された部分についてはスルー、
ってことは、痛いところ(>いったい、社会とどう向き合ってるつもりなのか。)を突かれたんだろうな。
相手を口汚く罵っても、それは攻撃にもなってないんだよ。論理で反撃しないとね。
>今説明しているんじゃないのか?
「超人」という言葉を用いていても、その意味づけがニーチェのそれとは違う、
というのなら、俺の方では訊きたいことはあまり無いのだが、
飽く迄もニーチェの超人の解釈として語るのなら、ニーチェ自身の論との論理的関連性を説明してくれよ?
あと、今さらなんだが、
>>503の、
>ニーチェを人類の君主に据えるような発想は、
>道徳家のロマンチズムでしかない。
これって、
>>493に「君主道徳」と書かれてあったから、こう書いたの?
それと、
>>536 >この様な超人は3つの条件を充たす。
>それが空間性・受動性・時間性だ。
この「空間性」は「一般性」の間違いでは?
588 :
考える名無しさん:2014/12/11(木) 07:11:20.37 0
>ニーチェは何を目的にして動いていたのだろうか?
>何かしらを達成する為ではないのか。
>それがここでいう問題だ。
>でも永劫回帰なんていない。
>だって一般理論でありしかも例えだからね。
ニーチェは、意味も目的も理性もない世界の永劫回帰に耐えうる存在として超人を求めていた。
《超人の見込みがついたあとで、身の毛もよだつ仕方で回帰の回帰の教説。今や耐えうる!》
(『生成の無垢(下)』一二二三番)
超人思想と回帰説は表裏一体。ニーチェにとっては喩えなんかではなく、現実。
《科学――自然の支配を目的として自然を概念へと転化せしめること――》
(『権力への意志』六一〇番)
対象を我がものとして取り込む認識作用の至高の形式として、回帰説がある。
《権力の[行使という]点での、創造する者と愛する者と認識する者の一体化。》
(『権力への意志』一二五三番)
589 :
イ・チョンナム:2014/12/11(木) 08:06:10.56 0
猿どもに教えてやろう。
もうお前には次回からレスをつけないことにする。
これに対する書き込みは自由にすればいい。
逃げといわれてもどうでもいい。
俺はやるべきことをやろうと思う。
なぜかというならお前はニーチェファンで、
ニーチェが汚されたと思って感情的になっている。
これでは議論にならないからだ。
議論するということは自らの非論理的なニーチェへの信仰心を、
出来るだけ相対化しなければならない。
しかしお前はニーチェが好きすぎてどうにもそれが出来ていない。
>いつものことながら、攻められるにつれて言葉遣いの下劣さが
>増していく
意味の無い中傷を書き込むなよ。
お前が中傷するから中傷でやり返すに決まってるだろ。
議論する際は俺は丁寧にやってるよ。
下劣な言葉は全部お前に向けられている。
団塊の世代とかキチガイコテハンとか散々書いたろ?
俺の下劣な言葉はルサンチマンへの意趣返しに過ぎない。
猿よ人となれ。
590 :
イ・チョンナム:2014/12/11(木) 08:14:05.48 0
猿どもに教えてやろう。
>痛いところ(>いったい、社会とどう向き合ってるつもりなのか。)
>を突かれたんだろうな。
また中傷しているが今までお前の書き込みでかゆいと思ったことすらないよ。
まったく知識も何も無く出てくるのは大好きなニーチェのテキストだけ。
勿論それしか読んでないからニーチェの真意とずれてしまう。
ニーチェを知るのはまず他の学問からアプローチしないと。
神が死んだ一言をとっても神の意味が分からず踏み外してしまうぞ。
>「超人」という言葉を用いていても、その意味づけがニーチェの
>それとは違う
お前にニーチェの超人の意味が分かるわけないだろ。
小児のことは小児に聞けば分かると思っているお前だぞ。
大好きな大好きなニーチェを守りたいのは分かったけど、
そんなお前の趣味嗜好なんてしらないよ。
もっと民度を高めないと議論以前の人間性の問題になる。
>この「空間性」は「一般性」の間違いでは?
それは申し訳なかった。
その通りでもうちょっと見直しをするよ。
猿よ人となれ。
591 :
イ・チョンナム:2014/12/11(木) 08:18:29.88 0
猿どもに教えてやろう。
>対象を我がものとして取り込む認識作用の至高の形式として、
>回帰説がある。
これはその通りなんだけど、
何度もスルーしているようだがニーチェが超人なわけではないことは分かるか?
回帰説の言いたいことは人が率直に向かいいれるべき世界観は、
永劫回帰の世界観であるべきといっているだけでそれ以上でもそれ以下でもない。
現実の超人とはまったく関係が無いんだ。
好きなのは分かるが人と話す際にニーチェを余り神格化しないことだ。
このレスの最後にいうと、
俺はお前が嫌いなわけじゃなくていい話も出来たと思っている。
それにニーチェスレだからニーチェ好きの人間がいても全然いい。
お前にとってはニーチェが空間的・個別的・能動的にアクセスする、
強度を獲得する時なんだろう。
生存実感を体感する対象がなく苦しんでいる人がいる中で、
お前は幸せだと思う。
結局ニーチェの目的と手段とどちらが優先するのかの問いはスルーしたよな。
勿論手段なんだろうけど俺は目的だしニーチェもそうだった。
それはニーチェスレを否定するものではないと思う。
スレ趣旨を守るというのならお互いじゃなするべきではないな。
猿よ人となれ。
592 :
考える名無しさん:2014/12/11(木) 12:59:44.12 0
日経平均二万5声援確定
そして一般庶民は正社員でも、アルバイト、パート 派遣、好きな仕事をすれば
もしくは、企業家もしくは大学とか、漁業とか原発作業など復活すればいい
いいから働け!!!
593 :
考える名無しさん:2014/12/11(木) 16:40:17.44 0
また、リボンを付けて返させてもらうが、
お前は奥崎ファンで、
奥崎が汚されたと思って感情的になっている。
これでは議論にならないからだ。
議論するということは自らの非論理的な奥崎への信仰心を、
出来るだけ相対化しなければならない。
しかしお前は奥崎が好きすぎてどうにもそれが出来ていない。
>団塊の世代とかキチガイコテハンとか散々書いたろ?
そちらが先に、マサチューセッツ州の名で言いがかりをつけてきたからな。
まさか「マサチューセッツ州とは誰だ?」とか言うつもりか?
いいやお前だよ。お前じゃないと証明できないしまたする必要も無い。だからお前だ(笑)。
というか、言ってる内容が全然変わらないからな。
594 :
考える名無しさん:2014/12/11(木) 16:41:24.07 0
で、
>目的と手段とどちらが優先
だが、
>ニーチェは何を目的にして動いていたのだろうか?
>何かしらを達成する為ではないのか。
>それがここでいう問題だ。
という意味での問題については、
>>588の
「ニーチェは、意味も目的も理性もない世界の永劫回帰に耐えうる存在として超人を求めていた。」、
基本的に、これ以上のことをニーチェは言っていないだろう。
まぁ、ニーチェが永劫回帰という自らの結論に戦慄し、形而上的意味・目的に変わる、
この肉体的存在としてのみある生の延長線上に超人の理想を求めた感情ってのは、
キリスト教圏でもない日本人がそのまま共感するわけにもいかない話ではある。
特に、元々ニーチェ自身が、深いキリスト教的心情を持っていたからこそ、
力瘤の入った感じで超人概念を押し出した面もあるだろうし。
ただ、回帰思想も、「肉体的存在としてのみある生の延長線上」に立てられている点では超人概念と双子的。
形而上的な原理や宗教的彼岸を否定し去ったニーチェにとって、この世界に外部は無く、
世界の無化・消滅・終焉という外部さえ無い。世界に始まりも終わりも無い。
閉じられた世界の生成変化をもたらす力、エネルギーは、世界外からの供給を受けることもないので、
有限である。有限の力が無限時間内で運動するということは、有限数の事象が無限回反復される。
力は力であるが故に、静止しないし、力間の均衡という形でも静止しない。
静止がありうるとすれば、無限の過去のうちに既に世界は静止していただろう。
・・・というのがニーチェの論ではある。ただ、実体としての世界と、それを認識する人間の立場、
それをどう考えるか、という点で、ニーチェの思想の枠組み全体を、慎重かつ厳密に検討すべき余地はあるだろうとは感じる。
595 :
考える名無しさん:2014/12/11(木) 17:02:12.73 0
修正。「形而上的意味・目的に変わる、」⇒「形而上的意味・目的に代わる、」
念を押しておくと、新たな形而上的意味・目的として超人を求めるというのではなく、
この形而下の肉体的生の発展として形成され、形而下の世界をそのまま、
「これは私だ」「私がこれを求めたのだ」と肯定する存在が超人。
>>278の引用参照。
>>335では「人間の要約」というニーチェの表現を引用したが、
回帰説は、言わば、自然の諸力を認識作用によって要約した思想とも呼べるのかも。
《原則は、自然のようにあること、すなわち、人類について何ごとかを達成せんがために、
無数の者たちを犠牲に供しうるということ。いかにして事実上なんらかの偉大な人間が成就されたかが、
研究されなくてはならない。(略)倫理学は、或る種の諸行為を説明するためにではなくて、
迫害するために現存した、いわんや産出するために現存したのではないのだ。
科学は一つの危険なものである。そして、私たちが科学のために迫害されることのないうちは、
科学の「尊厳」は下らないものなのだ。》(『生成の無垢(下)』七七七番)
認識欲とは、自然の諸力と己が等しくあろうとすることだろう。
社会的要素のみならず、自然的要素も、高級低級それぞれの人間が形成される条件だから、
それをも支配しなければならない。
《最高の関係はあくまで創造者のその材料に対する関係である。》(『生成の無垢(下)』七八七番)
超人とは、支配者として社会(奴隷、被支配者)や、自然を素材にして創造を行なう者のことだろう。
己の作品として世界を創造する者であるからこそ、素材としての全世界を肯定しうる。
596 :
イ・チョンナム:2014/12/12(金) 05:43:25.77 0
猿どもに教えてやろう。
第一回:真理
道徳的価値という無への信仰ではなく、
個人は価値定立の主体とならなければならない。
すなわち遠近法に則れば自己自身の生こそが中心であり、
こうして自己を中心に解釈されたものこそが真理である。
この様に真理とは自己の生によって規定されるものであり、
自己の生から離れた価値は真理とはいえない。
すなわち無への信仰とは生の為に真理が決まるべきなのに、
逆さまとなって真理の為に生を決めるというものなのだ。
そして主体者の究極の体現とは、
神を確保するというような自己完成などではなく、
大地の主としての超人である。
「私の哲学が目指したものは位階であって、
個人主義的道徳などではない」
猿よ人となれ。
597 :
イ・チョンナム:2014/12/12(金) 07:40:25.93 0
第二回:位階
大地の主としての超人までの道程には、
3つの位階がある。
第1が駱駝でありこれは汝為すべしの命令に服従する、
社会的義務を履行する立場である。
世間的なものに価値を見出し、
義務を引き受けることで自らの偉大さを示そうとする。
第2が獅子でありこれは我欲すの意欲で自由を目指し、
ここでは義務が意欲に還元され既存の価値と闘う。
価値転換を試みて自由精神に基づき価値を創造する。
第3が小児でありこれは我在りの境地であり、
自由精神が高まることで無垢な小児に結びついて、
存在と戯れるものである。
「世界を喪失していたものが自分の世界を獲得するのだ」
猿よ人となれ。
598 :
イ・チョンナム:2014/12/12(金) 07:59:20.63 0
猿どもに教えてやろう。
第3回:神
神を信仰するものたちは実は無を信仰していた。
粘土を人型に模った像を崇拝していたのだ。
真の神とはディオニュソスで比喩される。
ミダス王は最善とは何かをディオニュソスの従者シレノスに問い、
シレノスは人の最善とは生まれぬことであり次善はまもなく死ぬことであると答える。
作り出された夢幻の世界は一時しのぎであり錯覚でしかない。
酒神密儀を通じた自己陶酔によって言語を滅殺し、
合理打算の自己を殺しつくさなければならない。
こうして人はかつて神と共にあったように、
再び神と合一するのだ。
「悲劇の誕生は私の価値転換の全てであった。
このことで私は私は成育した土地に再び身を置き戻すのである。
ディオニュソス最後の弟子であるこの私は・・・永劫回帰の今日であること私は・・・」
猿よ人となれ。
599 :
イ・チョンナム:2014/12/12(金) 15:18:34.13 0
猿どもに教えてやろう。
第4回:ニヒリズム
人はその維持継続の為にディオニュソスと共に在ったが、
社会の発展と共に人の為の社会ではなく、
社会の為の人として逆立ちをしてしまう。
その結果人は歴史上初めて個人として選び手に立ったのであり、
そして人はそこでニヒリズムという虚無の深淵に出会う。
「全ての訪問者の中で最も気味の悪い者」
こうして人は人類史上初めてニヒリズムという虚無の深淵とであった。
自らの生で規定すべき真理を真理によって自らの生を規定したのではないか。
こうして人は自らの手で神を手にかけ、
そして神は未だ死んだままなのではないか。
「至高の諸価値がその価値を剥奪されること。目標が欠けている。
何のためにへの答が欠けている」
自らの生で規定すべき真理を投げ出して、
道徳的価値によって自らの生を規定することで、
人は選び手に立ち目標を持つに至ったが、
それは必然とニヒリズムを招き入れた。
猿よ人となれ。
600 :
イ・チョンナム:2014/12/12(金) 15:35:51.31 0
猿どもに教えてやろう。
第5回:永劫回帰
無から有を生成するという論理的不確実な信仰を廃却し、
その背理を超えて世界の生成を規定するなら、
それは一定量の力を推進力とする。
こうして永劫回帰の世界観が論理必然的に浮かび上がった。
「世界を一定量の力としてまた一定数の力の中心として考えるなら、
世界は生存のサイコロを振り続けながら、
算定しうる一定数の結合関係を通過しなければならないということである」
この様な永劫回帰の世界観においては、
生成から目的表象は否定されて単に必然性のみが見出される。
すなわち無意味な生の反復があるだけである。
永劫回帰の世界観は無への信仰から離れることで、
論理的帰結として必然と浮かび上がる客観的に妥当な理論である。
「すでに無限に繰り返された、また無限に戯れる円環運動に他ならない」
猿よ人となれ。
601 :
イ・チョンナム:2014/12/12(金) 15:55:33.32 0
第6回:運命愛
論理必然的に帰結したに過ぎない冷たく客観的な法則としての永劫回帰の世界観は、
全ての存在を永遠の必然性と捉えた。
この様な単に示された世界を取り込む決断こそが運命愛である。
「これが生だったのか。よし!それならもう一度」
しかしそれは選び手としての決断ではない。
そもそも選択することによって世界を取り込むことは出来ない。
前提として自らの世界にすでに取り込まれていること、
こうして人は次のステージへと歩みを進めることが出来る。
「あるがままの世界に対して差し引いたり除外しいたり選択することなしに、
ディオニュソス的に然りと断言することによってそれは永遠の円環運動を欲する、
すなわちまったく同一の事物を、
結合のまったく同一の論理と非論理を。
哲学者の達しうる最高の状態すなわち生存へとディオニュソス的に立ち向かうということ、
このことに私が与えた定式が運命愛である」
猿よ人となれ。
602 :
考える名無しさん:2014/12/12(金) 18:18:04.40 0
>3つの位階
三様の変化における駱駝とは、荷を背負う者のことではあるが、
「社会的義務を履行」とか「世間的なものに価値」というのは、実際のニーチェの文章からすると違和感が。
むしろ、世間的な価値以上の、宗教的、伝統的、或いは学問的な摂理、義務、規範、等々のことだろう。
《最も重いものは何か、英雄たちよ、と、この重荷に堪える精神はたずねる。
わたしはそれを自分の身に担って、わたしの強さを喜びたいのだ。》
小児を単に、言語による囚われから脱することと解釈しているのだとしたら、
悪い意味で小児的、つまりは幼稚な解釈。
ニーチェが晩年に発狂したことに根拠を求めてるんだとしたら、かなりの勘違い。
「三様の変化」の章だけ読んで短絡的に解釈したのかも知れんが、そう離れていない章、
「肉体の軽侮者」を読むべき。
《「わたしは肉体であり魂である」――そう幼子は言う。なぜ、人々も幼児と同様にそう言っていけないだろう。
さらに、目ざめた者、洞察した者は言う。自分は全的に肉体であって、他の何物でもない。
そして魂とは、肉体に属するあるものを言い表すことばにすぎないのだ、と。》
そこで、「三様の変化」に戻ってみると、
《小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、
「然り」という聖なる発語である。》
「おのれの力で回る車輪」。超人は、高度の肉体的(地上的・形而下的)存在として考えられているが、
それが「大地の主」として、形而上的な外部を持たない世界の回帰を肯定する。
つまりは、肉体的存在が肉体的世界を肯定する。
超人は、「おのれの力で回る車輪」としての世界を我が物とする存在ということ。
603 :
考える名無しさん:2014/12/12(金) 18:19:08.56 0
『この人を見よ』でニーチェは、自らの体験を実例として、栄養、気候、土地、等々の影響が、
思想を左右することに注意を呼びかけている。
《新陳代謝のテンポが速いか遅いかは、精神の足がす速く動くか、
それとも思うように動かないかに正確に比例している。
「精神」そのものがじつはこの新陳代謝の一種にすぎないのだからこれまた当然である。
(略)
天才の成立は乾燥した空気や澄み切った空を条件としていること――
迅速な新陳代謝を、いいかえれば法外とさえいえる大量の力を繰り返しわが身に取り込み得る可能性を条件としている》
獅子は、「汝なすべし」と命ずる巨大な龍と闘うが、「汝なすべし」を相手にしている点では駱駝と同様。
小児とは、「自己陶酔によって言語を滅殺」する在り方ではなく、
言語、概念以前の肉体的存在としての自身に返るということ。そこから「悦ばしき知識」も生まれる。
>永劫回帰
については、今の今迄、ろくに言及してさえいなかったのが急に出てきたが、
他人が既に説明したことを真似て鸚鵡返ししているに等しく、無駄な説明。
一応、念の為に書いておくが、必然性ということについて。
力の概念からして回帰は必然的、とは言える。
だが、ニーチェにとって、回帰する事象を生成する力の戯れは偶然的。
偶然的で、何の理性も目的も意味も無い世界の回帰を必然にする(「私がこの回帰を望んだのだ」)者として超人が求められている。
回帰する事象が、力の作用による必然ということになると、スピノザの論理や、機械論的世界観、
つまりは、ニーチェが自身の思想と対置していた立場になる。
まぁ、どっちの意味で言っているのかは、文章内容から断定できないけど。
604 :
考える名無しさん:2014/12/12(金) 18:42:08.75 0
ついでだから、ドゥルーズの『フーコー』末尾の、「人間の死と超人について」から引用。
《もし、人間における力が、外の力と関係してはじめて形態を合成することかができるなら、
いまそれはどんな新しい力と関係する可能性があり、そこから、神でも、人間でもない
どんな新しい形態が出てきうるだろうか。ニーチェは「超人」と言いながら、
このような問いの状況を正しく示したのである。》
《人間における力は、外の力と関係する。炭素にとってかわる珪素の力、有機体にとってかわる遺伝子的な要素の力、
シニフィアンにとってかわる非文法的なものの力などである。(略)
超人とはいったい何であろうか。それは、これらの新しい力と結びついた、
人間における力の組み合わせの形態である。(略)
人間は、自分自身において、生命と労働と言語を解放するのである。》
ニーチェ自身の言葉――
《飲食物、場所、大気、社会が君を変化させ規定すると、君は言うのだろう?
ところで、君の考えのほうが、いっそう多くそうしたはたらきをするのだ。
というのは、君の考えこそが、君をこの飲食物、場所、大気、社会へと規定するのだからである。
――君が思想のなかでの思想たるこの思想をわが身に同化するならば、それは君を変化させるであろう。
君がなそうと欲する一切のことにおいて、「はたして私はそれを無限回なそうと欲するであろうか?」
と問うことが、最大の重点となる。》(『生成の無垢(下)』一三三六番)
605 :
イ・チョンナム:2014/12/12(金) 22:53:20.34 0
猿どもに教えてやろう。
第7回:超人(1)許容
運命愛による世界受容すなわち存在全てを然りとすることは、
意識における対象の受容ではなくもっと根源的なものである。
永劫回帰の世界観はすでにそう在ったのであり、
この様な前提における許容とは意識的なものなどではなく、
逆に根源的であるからこそ意識されないところに前提の証がある。
すなわち運命愛は我々の意識のうかがい知れない、
根源的なものの決断によってのみ可能になる。
根源的なものによって決断の生を生きることこそ運命愛である。
永劫回帰の世界観を運命愛によって引き受けた者は、
絶対的な自由を手に入れてニヒリズムの病気は快癒される。
快癒者は哄笑し世界を手に入れる。
「今まで地上のどんな人間が笑ったことが無いほどに高らかに哄笑した」
こうして一切の苦痛に対しても然りと言う。
「苦痛は一つの快楽なのだ。
呪いは一つの祝福なのだ。
夜は一つの太陽なのだ」
猿よ人となれ。
606 :
考える名無しさん:2014/12/12(金) 23:52:08.94 0
俺に嫉妬していろいろ書いてるみたいだけど無駄だから
607 :
イ・チョンナム:2014/12/13(土) 00:06:49.68 0
猿どもに教えてやろう。
第8回:超人(2)無言
意味とは目的を合理的に追求することであり、
これは何がしかへの意識であり、
すなわちこれは言語を語るということである。
世界を入手した者は意味の体裁をとりつつも本質的には無言である。
言葉を語るのは神を手にかけ全身にその血を浴びている罪人であって、
罰として虚無という無意味の中で意味を追求せざるを得ない。
意味の獄鎖に繋がれ無限に苦しみが続く。
しかし神と共にあり絶対的な歓喜の境地にある超人にとってはどうだろうか?
世界を根源的に許容することは最早何がしかの対象など存在しない。
対象との距離が無くなって単にそれは在るだけで悦楽なのであり、
狂乱と陶酔の忘我の境地においては言葉の入り込む余地など無い。
内部に完全なる世界を取り込んで最早言葉を失ったのが超人である。
「私は君たちに友を教えよう、
すでに完成した世界を己の内部に持っている友、
善の容器である友を」
猿よ人となれ。
>>606←誰だ、これ?
>神を手にかけ全身にその血を浴びている罪人
>罰として虚無という無意味の中で意味を追求
なんか、ニーチェっていうよりドストエフスキーみたい。
まあ、ドスト氏のことをニーチェが評価していたのは事実だし、
俺はいまだきっちりと読んではいないが、『悪霊』にそれっぽいこと書いてあるけどさ。
「ゴリラから神の絶滅までと、神の絶滅から、地球と人間の肉体的な変化」とか、
「全自然界が実感されて、『然り、そは正し』と言いたくなる、永久調和の訪れ」、
「せいぜい5,6秒しか続かないが、それに全生涯を投げ出しても惜しくない」、
「10秒以上持ちこたえるには、肉体的な変化が必要だ」
「もし神がいないなら、僕が神だ」(この台詞中には、相手に対して「猿だ」「何も分からないなら黙り給え」とあるw)
ただねぇ、永劫回帰というのは、まさに「虚無という無意味」としての世界の回帰を肯定するってことだよ?
「ニヒリズムの病気は快癒される」べきなのか。
いや、受動的なニヒリズムが、能動的なものとなるのが肝要なんじゃないかね。
無意味性を「罰」と受けとめていること自体が退廃的であり、受動的ニヒリズムに属する。
これから語るつもりなのかも知れんが、そもそも、
>奥崎が超人で無いというのなら、
>奥崎が超人であるという根拠を崩せばいいんじゃないのか?
と言いつつ、「奥崎が超人である根拠」としては、
顔面吐瀉物まみれとか、自分を「神様の愛い奴」と呼んでどうのとか、
そんなことしか言ってないような。崩せるほどの砂山さえ築いていない。
共同主観性がどうとか個別性と一般性がどうとかいう話は腐るほどされてきたが、
そうした論理と、奥崎についての言及内容の乏しさを埋めるものがなんか無いのかね。
今まで出てきた話の印象としては、奥崎みたいな人間なんて、精神病院に結構な数いそうだが。
別に、世間から狂人とされている=論ずるに値しない人間、という話にはならんけど。
610 :
イ・チョンナム:2014/12/13(土) 06:12:09.23 0
猿どもに教えてやろう。
第9回:超人(3)自己神
人が根源的に世界を受容するということは、
その存在それ自体が歓喜になるのでなければならない。
存在が生に食い込むということがその存在が神であることの証左である。
相対的な生が否定され自らと他との等価性が排外されることで、
絶対的な生が肯定され自らに神が宿る。
この様な合一する神を外部から客観的にみつめるなら各々の独自性をもつ。
超人は人類を支えるのではなく逆に一切称賛されないところにその存在を示す。
「君が他人から称賛されているうちは君がまだ君自身の軌道に立つことが出来ておらず、
他人の軌道に立っている」
自らの合一すべき神は自ら自身だけを選ぶ純粋なものである。
この様な神は自己神であり神は超人の数だけ存在する。
神に代わって人が超人で在る。
「俺たち自身が神々とならなければならないのではないか?
これよりも偉大な所業は未だかつて無かった、
そして俺たちより後に生まれてくるものはこの所業の為に、
これまであったどんな歴史よりもさらに一段高い歴史に踏み込むのだ!」
猿よ人となれ。
611 :
イ・チョンナム:2014/12/13(土) 06:15:28.68 0
猿どもに教えてやろう。
第10回:超人(4)脱社会
社会的価値による生の制約は、
生を中心のとした遠近法主義とは全くの反対物である。
自身の中の相対性を排外することで実現される超人にとって、
すなわち最高の価値定立者である超人にとって、
社会的価値を掲げることは目的と手段の価値転倒であり、
それは神を断念する者たちの強者への嫉妬という畜群道徳に基づくものである。
この様に最高の価値定立者の超人にとっては全てのことが許されている。
「一切は許されている」
しかしこれは罪と罰におけるラスコーリニコフや選民としてのナチスのいう、
暴力の正当化とは異なる。
同じ社会の枠内における価値の位階などではなくて、
これは価値全体における位階なのであり弁解できる種のものではないのだ。
すなわち超人の内部における、
換言すれば超人のパースペクティブであるということである。
「私の哲学は位階を目指している。
個人主義的道徳を目指しているわけではない」
猿よ人となれ。
612 :
イ・チョンナム:2014/12/13(土) 07:56:47.79 0
猿どもに教えてやろう。
第11回:超人(5)無目的
人類史を顧みればその維持継続は何百万年と神と共にあった。
そしてそこでは目的表象が取り除かれており、
言語の使用は極一部の限定された領域に過ぎなかった。
そこでは目標のある直線的世界観ではなく、
円環的世界観によって世界は流転するのであり、
神を享受するというそのこと自体は定期的なものであったのである。
しかし歴史は塗り替えられることになった。
近代社会に入ると国家・社会の発展という生の為の社会の規定ではなく、
社会の為の生の規定という逆立ちとなった。
こうして神を享受してきた構造が取り除かれて人類史上初めて意味が生み出される。
意味とは目的を合理的に追求するということである。
しかしそれは涜神ではなかったか。
あろうことか神を無に摩り替えて粘土の人形を敬うということではないのか。
弱者の無への意志そのものではないのか。
「意味が無いから良く生きられるのではない、
良く生きられないから意味にすがるのだ」
この様な強者としての超人は、
かつて人類が何百万もそう在ったように、
弱者の無への意志で歴史を塗り替えることなく良き生であり続ける。
猿よ人となれ。
613 :
イ・チョンナム:2014/12/13(土) 08:46:27.93 0
猿どもに教えてやろう。
第12回:超人(6)受動性
超人を目指した途端にそれは無限の敷居が出来るのであり、
超人になろうとすることそれ自体がある種の無への憧れであり偶像へのロマンチズムである。
超人を考えても考えられた超人と超人それ自体とは全く関係が無い。
この様な事態とは神を対象化しないということではないのか。
対象にすることなく反省することなく思惟することなく過去をみることなく、
神とは意識による判断ではなく根源的な判断に委ねられる。
超人は神という言葉自体しらないのだ。
見たことも無ければ噂にも聞いたことが無かった。
超人にとって神とはけして客観的事物でもなければ思惟するものでもない、
太古からそうであったように神はただ在っただけにすぎない。
この様に自ら能動的にアクセスするような神は無だ。
自らが思い立った途端に神は手から滑り落ちる。
「あるがままの世界に対して差し引いたり除外したり選択したりせず、
ディオニュソス的に然りと断言することにまでそれは永遠の円環運動を欲する」
猿よ人となれ。
こんだけ「超人は」「超人にとって」等々と、超人視点で語るからには、
当のご本人もまた超人なんですかとお訊ねしたくなりますが、
猿にレスはしてくれないようだから、説明はなさそうですな。
>超人を目指した途端にそれは無限の敷居が出来るのであり、
ニーチェは、超人は私たちの次の段階なのだと言ったが、その「次」がもう来たと思ってんのかな。
「目指す」という歴史的感覚をニーチェは持っていたのだが、そこをすっ飛ばしていい理由を、
ニーチェの理論に対抗する理論として、きちんと説明しないとな。
>超人は神という言葉自体しらないのだ。
「神様の愛い奴」と自らを呼んだという奥崎は、超人じゃなかったんですかね?
>近代社会に入ると国家・社会の発展という生の為の社会の規定ではなく、
↑
これって、「目標のある直線的世界観」に当たるんじゃないの?
神と共にある円環的世界の方が、宗教的規範に支配されているって点で、
「社会の為の生」の世界だと思うんですがね。
論理の筋道や、用語の使われ方が、どうにも混濁してるな。
永劫回帰思想は、過去の円環的世界観というのとは別物だからな。
近代科学による、形而上的・宗教的な世界観の解体を経て、更に、
科学の同等化・均質化による世界観をも超えたところにある世界観。
ところで、明日の総選挙は、力への意志の観点から考えて、どこに投票すべきだろ?
いや、そもそも投票行為なんてもん自体が非ニーチェ的かな。
>>615 とりあえず選挙というのは、いま自分の生活が豊かになりつつあると思えば政権党に投票するのがいいだろうし、貧しくなりつつあったり、現在の政策に将来の不安を覚えるなら、反政権党に投票する。
これがとても普通だろうな。
ニーチェ的かどうかは、知らない。
ニーチェ的に言えば、経済的に豊かでも、生の豊かさはどうなんだ?という問いが出てくるんだろうな。
とかいう以前に、国民というカテゴリーに均一化された存在として思考することを求められる選挙って、
ニーチェ的じゃないんだろうな。
618 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/13(土) 18:37:04.74 0
超人だけの共同体ならいいんじゃない
619 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/13(土) 18:46:16.90 0
>超人だけの共同体ならいいんじゃない
まず、どう見ても独在性と「私」を混同してるようにしか見えないんだが?
そもそも仮に形而上学を超えて、倫理上の〈私〉を据えた利己主義(主義にならんがw)に立ったときでさえ、
見た目は傍若無人に見えない振る舞いになるはずなんだが?
(ただの傍若無人はただのバカだろ)
ニーチェも、「多数の超人たちが存在しなければならない。
一切の善意はただこのような者たちのあいだでのみ発達するのだ」、
つってるけどね(『生成の無垢(下)』1409番)。
そういう超人たちが、民主主義社会が前提とする道徳を巧いこと利用し、
奴隷どもを適当に幸福にしてやって操るってのが、ニーチェ的な政治観だな。
>>619 これって永井均的な倫理学を踏まえた文章かな?
いきなりそういう用語を使われても意味が分かんない人が大多数だと思うんで、
意見として聞かせたいなら、そのへん説明したほうがよろし。
>>617 確かに生の豊かさを政権に求める方が非ニーチェ的だろうな。
といって、生活を無視すれば、自分が困窮してニーチェなんかどうでもよくなるw
623 :
イ・チョンナム:2014/12/13(土) 21:56:32.80 0
>>620 超人の共同体なんてニーチェは志向していない。
多数の超人を求めるのは自己充溢によって、
超人という人間類型を贈与するからだ。
だからこそ真の徳とは隣人愛ではなく遠人愛なんだよ。
「彼は卑小なる者への同情を軽蔑してむしろ冷酷さを誇りとする。
彼は没我の献身を嘲笑してむしろ強奪を通して自己充実に努め、
自らを人間の典型たらしめる。
こうして自己充実から自然と結果する人間典型の分与としての、
贈与の徳こそが真の徳であると強調するのだ」
624 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/13(土) 23:02:30.75 0
>>623 社会の在り方ねぇ
すごく壮大なようで非常に矮小なものだと思わないのか?
なんで人間の社会は宇宙の真理と密接であるような扱いをするのに
内容としてはほぼ同様であるアリの生態学には目を向けないんだ?
人間が特別だからなのか?
>>624 自分が生きる糧だからじゃないかい?
横だし、イ・チョンナムコテのレスはばかばかしいと思うけど。
支配階級という概念をしきりに強調しているからな、ニーチェは。
それを共同体という名で呼ぶかどうかはともかく、
或る新たな階級(真の貴族)の登場に期待していたのは事実。
ツァラトゥストラの諸教説は、神に取って代わる世襲的な大地の支配者に対してのみ向けられている、
と言ってるしな。彼らは、被支配者達の無条件的な信頼を得るべきだと(『生成の無垢(下)』1414番)。
ざっくりした印象論だが、ニーチェの政治的解釈は、大抵、
左向き=一切の権威や既成の価値観への反逆と、自由の主張。
右向き=平均化された大衆への反逆。崇高な価値への回帰としての保守主義。
の、どっちかかな。
>>627 >崇高な価値への回帰
尻馬に乗って適当なこと書くけど、そこは回帰じゃなくて創造じゃないかい?
だから、それもまた左向き。
アジアの救世主、八紘一宇の盟主、神国=日本なわけだから
「回帰」でいいんじゃない?
尻馬に乗って思いつくままに書くけど
マジでテキトーすぎワロタ
>>629 >アジアの救世主、八紘一宇の盟主、神国=日本
それ、ずいぶん新しい考えだろ?
どんどん適当になっていくが。
新しい考えだが、本質的な価値への回帰という形をとって登場してくる考えだな。
ニーチェ的には、力において優っているか劣っているかという他に、「本質的な価値」なんて無いけど。
ナチスの、アーリア民族がどうのという理屈は、民族的価値への回帰というにとどまらず、
人類の文化はアーリア人種がその創造者、という規模へと拡大された。
一方、石原莞爾は『最終戦争論』で、
「ヒットラーは古代ゲルマン民族の思想信仰の復活に熱意を有すると聞くが、
ヒットラーの力を以ってしても、民族の血の中に真生命として再生せしめることは困難であろう。」
「最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は(…)天皇が世界の天皇とならせられるか、
西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定する」
どちらにも、力への意志が漲っているようにも思えるが、
或る価値観を保持し拡大するって発想だからな。
価値というものは力への意志の派生物だ、というニーチェ的な視点は無いな。
634 :
イ・チョンナム:2014/12/15(月) 09:28:40.28 0
猿どもに教えてやろう。
第13回:超人(7)時間性
歴史的なものが真実であり、
彼岸の神というものはけして真理を保証しはしない。
そうであるなら神はこの時間(歴史)のただ中に出現するもので無ければならない。
前近代においては神は時間的なものだったのではないか。
それは当然のことであり誰も疑っていなかったのではないか。
訪れる祭祀は定期的なものであって人は歴史の中で神と共にあったのである。
近代以降人は神に手をかけることによって神殺しになった。
こうして人類の歴史上神は胡散霧消してしまう。
そこで人々は自らの手で神を作り出そうとした。
複雑化する社会の中で人々は言葉と言葉の間に神を見出そうとし、
こうして自己都合的に選び手として様々な空間へとアクセスする。
「私はかつて何かを求めたという記憶が無い。
私の生涯には奮闘努力の痕跡が全く無い。
何かを欲する何かを求める何かに励む一つの目的一つの願望、
こうした全てのものを私は経験したことがない」
しかし我々はそれを作り出した偽神であることを知っている。
全一の神などではなく一時しのぎの慰めであることを知っている。
「算定できる一定数の結合関係を通過しなければならない。
無限の時間の内ではあらゆる結合関係は一度は結ばれたはずである」
猿よ人となれ。
635 :
イ・チョンナム:2014/12/15(月) 09:55:02.63 0
猿どもに教えてやろう。
第14回:超人(8)一般性
超人が抱える神は独自のものであるということは疑いようが無い。
個人の根源的なものが生み出すその神は超人の数だけ神がいることを示す。
「お前の内なる何らかの神」
「善人たちや正義の人は超人を悪魔と呼ぶだろう」
この様な独自の神は個人の人格を無視した相対性の全人類的な出会いをするのではなく、
個々人の人格に即した絶対性の個別的な出会いしかできない。
綱を渡ることでしか合一できないのであり綱である以上は個々人にのみ開かれる。
「動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱」
「万人向けの道など存在しない」
しかしこの神の個別性は他者からの眼差しであって、
神が開かれるのが個々人でしかないことを考えるなら問題は個人の観点にこそある。
神への光学は他者ではなく構造上自己でしかありえないのだ。
ではその様な自己が対峙する神はどのようなものなのだろうか。
時間ではなく空間で選べるような個別的な神は偽神だ。
なぜならそれは自己都合的に作られたものであり、
手軽にいつでも言葉と言葉の間に生み出せる人工神だからだ。
神は個別的に出会うのではなくて全一の神で無ければならない。
そのような神は他者からの眼差しからは独自(個別性)でも、
個人の眼差しからは一般性を担保しなければならない。
自己都合的な神ではなくその神は昔からのあの神なのだ。
猿よ人となれ。
ひたすらこのスレに居場所を求めるしかない生活を送っているんだろうけど、
いい加減、私物化はやめたらどうかね。
話が長い割には、既出の話を機械的に反復してるに等しい。
前近代の「昔からのあの神」とやらへの回帰を執拗に言い続けるが、
解釈があまりに民族学的、人類学的、宗教学的な方に偏ってる。
ニーチェじゃなくて、バタイユとか三島由紀夫とかエリアーデの話をしている感じ。
理屈をそれっぽく捏ね上げても、奥崎を超人とか呼んでる時点でね。
ニーチェが聞いたら、奥崎なんぞを支配階級として認めるか?と考えたらな。
概念や論理をいくら唱えても、具体的に何を高級と認めるかという感性の面でお里が知れる。
俺は実生活でキチガイ(薬を飲んでもバグってる)を相手にしたことあるんだが、
目の前に相手がいようといまいと、空疎な話を延々と喋り続けるわ、
自分は何もかもを、誰よりも理解しているんだという態度を絶対に崩さないわ、
激昂すると、こんなに口汚くなれるのかと思えるほどに下劣な言葉を吐くわ、
誰かさんとまったく同じ症状を見せる。
相手をするから喜んで書き込む
荒らしは放置でいい。むしろそうしなければならない
本人は、実際に相手がいようといまいと、素晴らしい教えを説いてやってるんだ、
という自意識で凝り固まってるんだと思うが、まぁそろそろ面倒臭いし、放っとこうかな。
>>638 本人はそれほど本気じゃないと思うよ。
書いてることがでたらめだもんw
640 :
イ・チョンナム:2014/12/16(火) 06:44:47.98 0
猿どもの教えてやろう。
第15回:私神
人類は歴史上神と共にありそうであるがゆえに何百万年も維持継続できた。
しかし社会の発展が個人の生との乖離を生みその結果人々は神を手にかけてしまう。
そこで再び神と合一する為にはどうしたらいいのか?
そこで生まれるのが超人である。
超人は近代以降蔓延る言葉の中でその間の薄暗い光で一時鎬をすることなく、
前近代のように森羅万象の全てが光り輝ける境地である。
それは物語(仮象)へとアクセスするのではなく、
物語自体が生に食い込むことにより真の世界と仮の世界の境界線がなくなることである。
この様な物語は個々人の本質の反映でありそうであるがゆえにインコグニート(微行)なのだ。
仮象が共同主観性として更新されるということで人は1つの永遠の存在となる。
私神は全ての人の中の根源に眠っている。
誰もが超人になる可能性を孕んでいるといえるだろう。
ニーチェは超人を惹起する為に遠人愛を説く。
「私の道徳は人間からその一般的性格を次第に取り去り、
人間を特殊化していき結局は他人には理解できないものにすることである」
他人から強奪し冷酷さを発揮しその結果贈与の徳として、
超人という人間類型を惹起させるのがニーチェの愛だ。
その結果誰にも理解不可能な悪魔が誕生する。
では私は去ろう、
友人に会いに北へ!
猿よ人となれ。
逃げた
「民衆は普通選挙権を自らに授けたわけではない。現在普通選挙権が行使されるところではどこでも、
民衆はそれを受けとって、さし当たり採用しただけである。
いずれにしても民衆は、それが彼らの希望を満足させないものであるときは、
それを再び返却する権利を持つ。このことは現在あらゆるところで実際にそうなっているようだ。
なぜなら、いかなる機会にしても、普通選挙権が行使されるときに、全有権者のようやく三分の二ぐらいしか、
それどころかおそらく過半数以下しか投票所にやってこないのであれば、
これはこの選挙制度全般に反対する投票を意味するからである。」
(『人間的、あまりに人間的 2』276番)
戦後最低の投票率については、例の橋本サンがまた過去の話を蒸し返してガミガミ言ってるようだが、
それはそれとして、一票の格差も含めて、いまだ、均一化された国民という単位にすら充分になれていない、
半端な状況については、考えといた方がいいんだろうな。
この一個前のアフォリズムでは、民主主義の確立期を「大自然石建築物の時代」と呼んでいたりして、
後の著作のような、民主主義へ痛罵を浴びせる語調とはかなり印象が違う。
現在の政治制度のもとで、いかにニーチェ的な思考を働かせるか。
ニーチェの系譜学的思考を継承したフーコー等々を読まなきゃならんな。
>>642 本なんか読まなくても、現実を見るだけでいろいろなことがわかると思うんだけどね。
見た現実をどう捉えるかのバリエーションを得るには、本は有効だよ。
本や理論よりも生身の現実とか、現実を見る「だけ」で充分だとか言う人間ほど、
経験則だけでしょぼい理屈唱えたり、きちんと「現実を見る」ことすらできずに、
狭い了見からの解釈しかできてなかったりするからな。
>>644 そうかも知れないが、逆もまた真、だろ?
現実をしっかり見据えた学者にお目にかかったことはないけどな。
>>645 >現実をしっかり見据えた学者にお目にかかったことはないけどな。
どこまで、学者との繋がりがあるのか知らないが、あなたの目が節穴であるからそのような見解になるのかもしれませんよ
>>646 ふむふむ。
では、現実をしっかりとらえた学者の著作を紹介してみてくれ。
>>647 横からですまないが
あなたがそのように主張するなら
まず自身が、学者が現実をとらえていないことを証明する必要があるのではないだろうか
>>648 なるほど。
証明好きのネトウヨ君みたいな感想だね。
感想として聞いておくよ。
もともと、現実を見るだけでいろいろなことがわかる、というのが自分の主張だからね。
ある一定の認識のみを
認識の全てだとして活動したとしても、一定内の認識からの結論しか生み出すことはできない
ただ、状況を正しく認識していれば、次に何を得れば良いかが解るし、人の意見を素直に理解できる
マイノリティーから発信される活動は世の中に馴れ合いをもたらすが、
哲学としての価値や芸術性とは皆無である
>>650 マイノリティーの範囲はなにを想定してる?
西洋文化に対して、日本の文化もマイノリティ?
>>649 その具体例を提示すべきではないだろうか
放置という手段が一番賢明だとは思いませんか
広い了見から推測して下さい
では別の話題でも振ろうか
現実的に超人を目指す方法でも考えよう
とりあえず金がないとどうにもならないのははっきりしている
>>652-
>>654 >>642 >ニーチェの系譜学的思考を継承したフーコー等々を読まなきゃならんな。
こう書いた人は、理由を示してないよ。
結局、逃げるだけだったのか。
学者が適当なこと言ってたのは3・11の時が酷かったなw
>>655 俺は、「読まなきゃな」と書いた通り、まだ現時点ではフーコーをちゃんと読めてない。
ただ、フーコーがニーチェの思想を自分なりに継承して理論を発展させたとか、
現実的な政治行動としても、監獄に関する情報グループを作ったり、サルトルと街頭に立ったり、
色々していたらしいというのは知ってたので、その辺への関心が湧いてきたんだよ。
とはいえ、「本なんか読まなくても」という考えの人にとって、そもそも、
ニーチェはどういう存在なんだろう?とは思った。
第一、「現実をしっかりとらえた学者の著作」とか「学者が現実をとらえていないことを証明」とかいったって、
結局、何が「現実」かについては言葉でもって議論することになるんだろうから、
本、言葉をどう用いるかの問題に収斂する。
>>657 >ニーチェはどういう存在なんだろう?
ニーチェを読んだらつまらなかった、ということだろ?
>>658 >本、言葉をどう用いるかの問題に収斂する。
そんなところに収斂させようとするから、現実が見えてないって言われるんだと思うよ。
自分の見た「現実」を他人に伝えるには、基本、言葉でしょ。
本を読んだりして、言葉の蓄積が無いと、見たものを充分に語ることすらできない。
>>660 それは違う
人の認識が言語による制約を受ける以上
全ては言語とその認識であるとする立場はそう間違っていない
第一ここはニーチェスレなんだからいい加減ニーチェについて語れ
他の話をするなら他所に行ってやれ
繰り返すがここはニーチェスレだ
「現実を見るだけでいろいろなことがわかる」とだけ言われても、
どんな現実を見て何が分かったのか、他人には窺い知れんからな。
「奥崎という人間が存在した現実を見るだけで彼が超人だということがわかる」、
といった繰り言と変わらん。
まず、ニーチェを知る以前に
源流であるショーペンハウアーを知るべきでは?
今までのくだらない論争の答えは2世紀も前に結論が出ている
「読書について」を読めばいい、
自分の頭で考えることの補助的要素に良書を読むべきだと書かれているよ
あまり教えたくは無かったがね
そもそも、常識的で誰でも考えればわかる事をわざわざ教えてる君は実に暇なのだろうね
ただ、君の思考回路はニーチェ板に相応しいと思うけど
>>662 >全ては言語とその認識である
ここはニーチェスレだが、ニーチェはそんなこと言ってるのかい?
>>663-664 「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ。大切なのは世界を変えることだ。」
これはニーチェも同意してるんじゃないかな?
『善悪の彼岸』20番では、各言語の文法が、その言語で思考される哲学を予め方向付けていると言っているし、
そもそも、事象そのものなんてのは幻想だとあちこちで言ってるんだから、
言語や概念から離れた現実なんてものを支持しないだろう、ニーチェは。
「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ。大切なのは世界を変えることだ。」
マルクスがこの言葉に込めた意味と同じような思想をニーチェが支持するというなら、その根拠は?
>>664 ショーペンハウアーがすでに答えを出していた的な言い方はどうかね。
ショーペンハウアーは良書を勧めたが、ニーチェは、
肉体が活動的なときに読書すること自体を悪徳と呼んでたからな。
ショーペンハウアーの良書の勧めなんてのは、それこそ説教臭い常識論で、
それより、「生きた人間への諷刺が禁じられるのは、解剖が禁じられるのと同じ」、
みたいな気の利いた箴言の方が面白い。
ここいつから構造主義スレになったの
>>666 >言語や概念から離れた現実なんてものを支持しないだろう
ニーチェって、そんなに単純な観念論者なの?
アイロニカルな没入はディオニュソス的精神に類似するところがあるけど
没入のために没入するのはニーチェ的にどうなのかね
悲劇の誕生には芸術への逃避がどうのこうのという記述があった気がするが
キリスト教はホンマめんどくさいのぅw
>>670 観念論者ってのは、言葉で表わされる概念や理念を現実としている人らだろ。
ニーチェは、観念を、現実の複雑さを、人間という生物の生存条件に合った形に加工したものと考えてたんだよ。
>>669 ツァラトゥストラが何だと言いたいのか・・・。
>>673 >人間という生物の生存条件に合った形に加工したものと考えてた
こんどは単純な唯物論になっちゃったのか。
>ツァラトゥストラが何だと言いたいのか
ツァラトゥストラは世界を解釈するために山を下りたわけではないだろう。
唯物論といっても、機械論的な唯物論は批判してるからなニーチェは。
すべてが力への意志の表われと考えたし、ショーペンハウアーのように、
意志と力は同じものを言い表す二語だと考えていただろう。
第一、単純単純と、単純な一行レスを繰り返すばかりのお前の世界観は何なんだ。
ツァラトゥストラは、マルクス的な意味で世界を変革しようと山を降りたわけじゃないだろうし。
ニーチェがどういう意味であの言葉に同意するのか論じるほうが先だろ。
あのどうしようもないコテハンが我がもの顔するのも仕方ないな、こんな惨状では・・・
>>675 >すべてが力への意志の表われと考えた
だから、それが単純な観念論だと言ってるんじゃないかw
>ツァラトゥストラは、マルクス的な意味で世界を変革しようと山を降りたわけじゃない
じゃあ、なにを変えようとしたと思ってるの?
解釈が単純なだけというか、そもそもニーチェを読んで喋ってるのか疑わしいな。
まあ、単純な思想だからといって、それが間違っているとは限らないので、
単純か複雑かだけを言ってもしょうがないのだが。
ニーチェ的には、観念も自然もすべてが力の離合集散と能動受動として捉えられているから、
それをもって単純だと言いたいのかね。ならそれでもいいが、そんなら、
それが間違いだとか受け入れられないと思う理由を言わなきゃ話にならん。
ツァラトゥストラというかニーチェは、マルクス的に社会体制を変えたがってたわけではなく、
社会体制を利用する支配階級の登場を願っていたわけで、労働者階級の苦境とかにも、
あんま関心なかったんだよ。
自分はろくに考えを語らず、ピーチクパーチク囀って餌を強請るように、
答えを要求してばかりいてもしょうがないんだよ。
いい加減荒らしはスルーするようにしようぜ
過疎でも平和な方がまだマシだ
>>677 >観念も自然もすべてが力の離合集散と能動受動として捉えられている
そこまで無意味な単純化をしてニーチェを語って、なんの意味がある?
>労働者階級の苦境
君はそんなところに重点を置いてしまうから、社会の変革に対する視点がうやむやになる。
>>678 ここは哲学板だ。
議論ができない奴の来るところじゃない。
基地外荒らしの妄言と議論を区別できない奴に哲学は無理だ
>>680 議論になっているならいいが
ひたすら文章の揚げ足を取って論で論に返してないやつとかスルーしろよ
議論てのは、提示された論に対し、それに拮抗する論を返すという相互性があって初めて、議論と呼ばれる。
批判の態度だけ示して、その態度の理由としての論が張れない奴は、議論ごっこしてるつもりのガキ。
短文メッセージのやり取りしてるわけでもないし、見知らぬ赤の他人がそれに付き合う謂れも無いのに、
舌足らずの短文ばかりで論拠を示さないとか、小学生かよ。
>>684 舌足らずの短文を舌足らずだと指摘されて説明も反論もできないんだから、しょうがないんじゃない?
自分で書いた文が「論」になっているかどうかを確認した方がいいと思う。
686 :
考える名無しさん:2014/12/21(日) 17:38:21.79 O
今まで日本語訳で読んでいたニーチェを、英訳で読んでみたいんですが英語とドイツ語ってほぼ1対1対応しててかなり原典に近いと考えていいでしょうか?
んなこたぁない
688 :
考える名無しさん:2014/12/29(月) 00:20:22.94 0
ニーチェを学んだが周りに気学にされた。そういう時は中二病になるといい
エヴァンゲリオンとかなんかのアニメの世界に入るといい
690 :
考える名無しさん:2015/01/15(木) 11:29:19.10 0
ニヒリズムの永遠回帰
691 :
考える名無しさん:2015/01/16(金) 23:30:46.82 0
ニーチェる
692 :
考える名無しさん:2015/01/23(金) 15:09:44.48 0
早くニヒリズムにしないとマズイ
鈴木拓とニヒリズムってどう克服するの???
694 :
考える名無しさん:2015/01/31(土) 16:18:31.76 0
マルコムX「ニーチェ、カント、ショーペンハウアー、全て読んだが尊敬できない。
彼らは、さして重要でないことを議論するのに多くの時間を使いすぎている」
695 :
考える名無しさん:2015/01/31(土) 16:24:41.87 0
さよなら
696 :
考える名無しさん:2015/02/01(日) 00:19:01.37 0
ニーチェの思想はデカダン芸術の一種なんだよ
哲学的芸術作品だ
その生き方そのものが芸術と言っても過言ではない
だから、芸術的解釈がないと理解できない
と言うよりも、彼の思想は理解するのではなく感じ取るものなのだ
ルキノ・ビスコンティのドイツ三部作を観ればよくわかる
チンチンシコリズム
698 :
考える名無しさん:2015/02/02(月) 00:24:07.17 0
ニーチェは最後のニヒリストである
現代人は既に生きる意味など必要としていない
千葉県世界市民おじさんは人工地震を起こしてます!!!
ゲオルグ『永遠回帰とは、「自分の行為は何万回も繰り返すことになるから、決して後悔しないように自分の行為をよく考えて選びなさい」という意味だ。』
田原『よくわからないけれど、ギリシャ時代は二度ときませんよ。』
ゲオルグ『ニーチェはくると言っている。』
田原『こないよ、そんなもの。』
701 :
考える名無しさん:2015/02/05(木) 18:09:15.36 0
AD『CM入ります!』
田原『(また同じCMか…)』
ニーチェ『この永劫回帰マシーンは何度でもご使用になれます』
仮定の話だよ。永劫回帰は仮定の思想だ。