精神分析学と臨床 in哲学板

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自己は常に自己が何者であるかという自我同一性を失っている。
自己は他者の目に映った自分を常に探り、「私の存在を、存在すべき
必然性をもったものとして構成できる」かを他者の言語から見いだそう
としているのである。
 人間は自分が何者であり、他人は自分を受け入れてくれるのだろうか
という不安を常に持って生きている。不安は常に私という存在をぐらつかせる
他者の発する言葉は私を象徴界に誘う。

自分が言葉を発すると言葉のなかに象徴と欲動が現れる。
精神分析はこの象徴と欲動から意味を紡ぎ出す。
それを主体に告げることにより主体は存在を乗り越えるのであるが
ラカンによれば主体とは常に不安定に存在を固持している。

主体は自分のエスが快へ向かう方向を模索している。
エスは不安定に不快から快へ向かうのだが人間は無意識の抑圧によって
エスが単純に快へ向かうことを拒んでいる。
人間が単純に不快から快へ向かうのではなく、常に複雑に絡まった無意識
に自我が支配され、それを精神分析は観察し、意味を与え、自我に
第三の目を与えることにより、知でもって治療していく

鉄板なので臨床をフロイト−ラカンでみていくことにします。
それではまた来週