●○● Aquirax: 浅田彰 part75●○●
SPA抜粋 2/11・18合併号 前
浅田彰
東浩紀さんなんてとても優秀な人だと思うし、柄谷行人さんと僕で編集していた『批評空間』でデリダ論(『存在論的,郵便的』)を
書いてくれたことはありがたいですよ。あれは単行本で一万部くらい出て、15年たった今でも本屋で売れている。それが最大の承認でしょ?
ところが、例えばアニメについてツイートしたら、すぐにレスポンスが来る。それが承認だと思っちゃったんじゃないか−そんなの、翌日にはなかったも同然なのに。
そういう即時的レスポンスを求めて、彼は情報社会論とおたく文化論に行った。彼の時代認識に基づく決断だったから反対はしないけど、
何十年も読まれる本を書ける人なのにもったいない気がするんだな。やっぱり、反時代的な孤高の姿勢を、演技でもいいから貫かないと、思想や文学なんて不可能じゃないですか。
ツイッターなんかでの評価を気にしすぎなんですよ。千葉さんのドゥルーズ論『動きすぎてはいけない』について、僕は「不良の思想であるところが面白い」と褒めたけれど、
不良なんだからもっと偉そうにしてりゃいいじゃないですか。もっとも、東浩紀がオタクをデータベース的動物として評価したのに対し、単に動物的なものとして切り捨てられた
ヤンキーの一部であるギャル男も実はデータベース消費をしてるってのが千葉さんの論点なんで、どうしてもネットでのコミュニケーションを過剰に意識しちゃうのかもしれない。
NHKの討論番組に若手論客と呼ばれう人たちがよく出てくるじゃないですか。2、3分しか見ないけれど、情報の整理も討論もなかなか上手だと思いますよ。
しかし、あれではほとんど学級会でしょう。「良心的」な「優等生」が、ネットも駆使してマイノリティの声を取り入れましょう、民主主義をヴァージョン・アップしましょう、と。
僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。
福田和也
「それ、本気で言ってんの?」という。最初はジョークかと思ってたけれど。
浅田彰
代議制の可能性と限界については昔からいやというほど論じられてきた。そういう記憶が失われているのかもしれない・・・。
SPA 2/11・18合併号 後
浅田彰
京大の人文研にいる、東浩紀の同級生でディドロ研究者の王寺賢太が、國分を呼んでスピノザ論を聞いたことがあるんです。
僕は昔から、先行研究を踏まえた手堅い優等生研究ってのは好きじゃなかったんだけど、國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、
古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ−腐っても人文研の研究会で。
思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった。
もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように
生まれるわけですよ。哲学の理論体系はだいたいヘーゲルで完成されており、それと現実とのずれの中でヘーゲル的な円環を突き破るようにして
マルクスの意味での批判=批評というのが始まり、我々もその前提の上でやってきた。ところが、國分なんかは自前の哲学を語りたいらしい。
じゃあ何を言うのかと思えば、住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、
何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。
ともかく國分のような「似非優等生」よりは千葉のような「不良」のほうが面白い。
ただ、自己批判しておくと、僕はガキのアナーキーをあえて肯定する立場だったんだけど、その前提をもっと強調しておくべきだったかもしれない。
ドゥルーズ&ガタリの概念に「マイナーになる」−女性に、子供に、動物に、知覚不能になる、というのがありますね。
しかし、子供に「なる」のと、子供で「ある」ことに居直るのは、全然別のことです。
大江健三郎がアドルノやサイードを踏まえて言う「晩年様式」じゃないけれど、老人が子供に「なる」ときに
新鮮な驚きを感じたりするのであって、子供で「ある」ことに居直ったままでは子供に「なる」ことはできない。
というわけで、死にそびれたことでもあり、ここは潔く転向して・・・。福田さんは昔から一貫して、「成熟が必要だ」と。
僕は僕で、子供に「なる」ためにこそ成熟が必要である、という当たり前のことを言っておかざるをえない、と。