【茂木健一郎絶賛】東浩紀590【灘tehu慶應SFC入学】
いま起こっていることが人類史に残る出来事だが、考えるほどに今後の現実の生活にとっても重大なことだ
という実感が増している。日本人はまだこの震災の意味の重大さを十分理解していないように思う。
エアコンが家庭に普及したのは90年代である。いまでは考えにくいが、エアコンがないとき夏は扇風機だ
けで、みな汗をかき暑さに耐えていた。冬の暖房は、石油ストーブの主流からエアコンの暖房へと切り替わっ
ていった。
このような電気化の最近の流れは、オール電化だろう。すでに多くが電化しているが、残りのエネルギー消
費の多くをすべて電化しようという。お風呂などの水回りのガス湯沸かし器、そしてガスコンロからIH ヒー
ターにかわる。さらに次の世代で電化が進むのが自動車である。
このように電化が進むのは、クリーンで、安全で、管理がしやすくスマートであるからだ。たとえば石油ス
トーブとエアコン暖房を考えるとよい。
さらに電気需要として、近年増加しているのがIT 製品である。PC、そしてケータイ、特に00年以降のネ
ットの普及は、常時稼働のサーバーなどのIT機器を日本中にネットワーク状に配備した。
豊かになるための高度経済成長期を経て、現在の高度資本主義社会の段階は生活環境が洗練されることが目
指され、それが絶えない消費を生み出し、経済が継続して成長し、雇用が生み出される。この潮流を影で生み
出しているのが「電化」であったと言える。
電化のために増加し続ける電力需要に対して、「まるで空気のよう」に安価で安定した電力の供給し続ける
ことが必要不可欠である。またこれからも増加し続けるだろう電力需要に対しても「まるで空気のよう」であ
ることが、人々になんの疑いもない高度資本主義社会が継続する未来を想像させた。
ただそれに不安を投げかけるのが地球温暖化問題であった。CO2を削減するためには、電力の半分以上を
支えている石油など化石燃料を燃やす火力発電所に頼ることに限界がある。
また風力や太陽電池など自然エネルギーを活用する方法は一部で注目されているほどに有用ではない。一番
は費用対効果が小さいこと、それとともに自然を相手にするために不安定であるためだ。電化社会において、
ただ電力があれば良いのではなく、「まるで空気のよう」な電力供給が必要なのだ。
原子力発電は、単にいま電力需要の1/3を共有しているだけではなく、CO2排出量を劇的に減らせ、
「まるで空気のよう」電力供給の切り札であった。原子力の危険がいくら指摘されようと、今のところ解はそ
こにしかないことは暗黙の了解だった。だから中国は数十台の建設を計画し、スリーマイル事故以後、建設が
止められていたアメリカでさえも原発の建設の見直しを計画していた。
今回のフクシマの事故はこのような背景のもと考えなければならない。なんとかいまの事態が収束されたと
しても、フクシマ原発は廃止されるだろう。それだけで電力が不足する。そして新たな原発の建設は不可能だ
ろう。それとともにすでに日本中にある50機以上の原発の存続も問題になる。だから電力不足の問題は、数
月の問題ではない。今後、長期的に不足しつづけるだろう。
このような状態は、単に発電所の不足という問題だけではなく、「まるで空気のよう」な電力供給神話が崩
壊する。そして震災ショックの中で、高まりつつある運命共同体としての「日本人」は、電力使用を互いに監
視・管理する社会への傾向が高まるだろう。そして電化に支えられた高度資本主義そのものへの懐疑へと繋が
る。
高度資本主義の大きな特徴が貨幣依存である。高度に発達した消費社会ではすべてが商品化され、貨幣と交
換することで購入できる。その主流は快適、楽しさ、快感、愛情などのサービスである。このような貨幣依存
は他者と協力するわずらわしさから人々を解放され、自由を与える。すなわち貨幣があることが幸福で、ない
ことが不幸というように、直結する。
たとえばいままでの省エネとは、省エネ商品を買うことであった。すなわち省エネはなんの努力もなくただ
貨幣と交換された。確かに省エネ商品は省エネの効果はあるだろうが、実際は次々に省エネ商品が増えて、そ
して快適故に使用時間が増え、いっこうに電力量が減っていないのが実情だ。あるいはDIYブームはDIY
サービスの消費でしかない。
今後、電化による快適から離れ、電力使用量が減る不自由をする。また貨幣依存を離れ、他者回避の個人の
自由な行為をやめて他者と協力し合って、自給自足の苦労をする必要がある。このような問題は電力圏に限定
されないだろうな。関西も経済圏としては切り離せない。
またこのような状態は経済成長を停滞させて、雇用を減らす。そして格差は確実に広がるだろう。しかしこ
れは単にリーマンショックなどの不景気ではない。単に貨幣を稼ぐことで問題は解消されない。お金と幸福の
直結は単純ではなくなる。たとえばいまも田舎では、現金収入という年収は低い。しかし都会と違い、土地や
物価が安い、また都会ほど貨幣依存が進んでおらず自給自足の基盤が残っているために、都会ほど金と幸福が
直結していない。
このようにいうと、いままでのお金と幸福の直結がおかしかった。より自然な、人間らしい生活にもどると
いう「自然主義」的な理想が語れるかもしれないが、実際にこのようなシフトはそんなのんきなものではない。
貨幣依存社会の快適さ、安全性、治安のよさなど、これまで築き上げてきた豊かな社会がすばらしいものだ。
その楽園から追い出されるのだ。そして長い時間をかけて苦悩しつつ新たな生き方を模索することになる。
だからフクシマは日本人にとって、明治維新、世界大戦敗戦に匹敵する出来事なのだ。フクシマ以後、すべ
ての日本人はいまの延長線の人生からの屈折を迫られることになるだろう。
しょーもな。これはたしかに42ダウンロードしかされないというのも
分からなくはない。