682 :
霊姑浮 ◆5JB5Td0w.M :
■武士により虐げられた悲惨な農民像は西洋サヨ史観により作られた
武士は営利を嫌う禁欲的な支配者
武士は不思議な支配者層で自ら倫理的に営利を抑止していた。領地をもちそこから上がる税を収
入とした。しかし領地の直接の運営には関わらずそこに住む農民、商人に任せる。農民は自治運
営し、自ら学び生産性を向上させ、また日本は流通が発達していることから商売の副業にも勤し
んでいた。税は基本、土地の広さに比例したので、効率向上や副業までは管理されない。
武士は支配者層ではあるが、土地の管理を任された行政の面が強かった。すなわち一つの役職だ
った。正式にも実質の支配者であった将軍でさえ、天皇から任命された役職である。このような
傾向の理由の一つが元々、武士が下級貴族、あるいは農民であったからかもしれない。平安時代
には貴族の護衛する下級貴族であり、また農民からの成り上がりである。特に江戸時代に入り、
戦がなくなった中で、武士層を管理するために家康は大々的に儒教を取り入れた。質素で節制な
生活、高い禁欲的自己管理、管理者としての人民のための徳ある振舞い。
683 :
霊姑浮 ◆5JB5Td0w.M :2013/10/28(月) 19:34:31.57 0
日本の悲惨な農民像は西洋史観により作られた
江戸時代に江戸は世界有数の大都市であった。経済活動も活動で、物価連動するマクロ経済もあ
り、インフレ対策などの経済製作も行われていた。このような市場を活用していたのが商人など
で、武士はそこから利益をとることに熱心ではなかった。商人は身分は低かったが、市場の発達
とともに、大きな富を得ることができた。また農民の多くが副業により収入を得ていた。これら
の富に対する武士の管理は甘いものだった。
たとえば定期的に飢饉が起こり、厳しい武士から税の取り立てにより食べるものもなく、飢餓に
あえぐ、農民像が語られるが、実際はそう単純ではなく、マクロ経済の影響が大きかったと言わ
れる。飢饉になると、市場での米の買い占めが起こり、市場に出回らなくなり、一部の人々に出
回らなくなる。マクロ政策が不十分な時代に経済のコントロールは不十分であった。
支配者がすべてを自らの所有物として実質的にも支配していた西洋と、支配者が職として任され
た管理していた日本ではかなり異なる。日本で武士支配により農民があえぐ悲惨な像は、多くに
おいて、明治以降に西洋文化が入り、西洋のサヨ的に史観を日本にも投影したものである。実際
に一揆などのピークは明治に入ってからである。
684 :
霊姑浮 ◆5JB5Td0w.M :2013/10/28(月) 19:35:12.62 0
村の知的コンサルタントとしてのお坊さん
農民による自治は当然、幕府の法のもと運営されていた。農民は法に基づき話し合い、方針を決
め、武士と文書のやり取りを行った。また民事的な裁判も活発であった。また農民は農業書を読
み、みずから学び、改良を行った。
これらの知識理解に重要な役割を果たしたのが坊さんである。村に寺をたて、坊さんを囲い、知
識を学んだ。特に坊さんは全国的なネットワークをもっていて、各地の情報も入ってくる。坊さ
んは村のコンサルタント的な位置付けにあった。それとともに、坊さんは商業ネットワークを持
っていた。流動性が高い坊さんは商業を行い、活動の収入源にしていた。村を越えた大きな一揆
が坊さんのネットワークをもとに起こっていることは有名である。
685 :
霊姑浮 ◆5JB5Td0w.M :2013/10/28(月) 19:36:01.76 0
仏教の現世利益にしかない興味がない日本人
仏教は聖徳太子の時代に中国から伝来したわけだが、当初は新しい高度な文化として上流階層を
中心に需要された。特に仏教に求められた高度な超越論的体系ではなく、天災などの祈祷として
ある。空海のエピソードにしても祈祷の成功により認められる。
その後、平安末期、鎌倉時代と、仏教は民衆に受け入れられていくが、そこでも日本人が求めた
のは現世ご利益である。本質的に仏教な救いの教えよりも、祈ればなんか良いことがあるのか。
このような宗教に対する日本人の軽さは現代までかわらない。
このような日本人だから、親鸞にしろ、ただ唱えれば救われると、ある意味簡単な方法に至った
のだろう。このような環境の中で、仏教は全国的なネットワークを利用して、情報提供、語学教
育、商業の手伝いなど、様々なサービスを提供することで、庶民に溶け込んでいった。
再度いえば、日本人は宗教によらずとも、家業主義、すなわち社会的な役割としての家業により、
集団とつながることで、精神面、経済面が支えられる。仏教は日本人に浸透していくために、家
業主義を補完するところが入っていったと言えるだろう。