哲学っぽいことを語ろう

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150考える名無しさん
「高級レトリックを披露するはずのバカ」とかが、一向に成果をあげていない。
有能・無能、好調・不調、コンディションの違いが色々あるけど、そんなものを凌駕する力っているのがあるわけで、それが必要なのよ。

俺はこれから妄想を語るのだけど、
裏を取っていないから妄想としているわけで、本当の事なんて誰も知らないしどうでも良いんだけど、これが初期化の宣言部分ね。

「もしエネルギーが情報だとしたら?」という命題を仮定の上に走らせ始めるんだよ、これから。

太陽光を得て成長をする植物が育つのは、太陽光が光合成を…っていう、一般的な解釈を一旦ぶち壊して、
植物の遺伝子が太陽光という情報をデコードしていくと、植物として育つのだとしたら?
と俺は妄想するわけだよ。
何しろ太陽光にはとんでもない量の情報が詰まっている直感を持っているからね。

この地球上で太陽光よりも大きなエネルギーに触れることってできるのだろうか?
この地球上で地球一大規模な仕事をするには、絶対に太陽光が関わっているのではないか?

俺の妄想はあまり妄想ではないのだけれども、有であるように永遠に続くわけだ。

だから、こまめに変える。焦点を。

かつて、「電波」「電波系」と呼ばれる人たち、ジャンル、現象があった。
当たらずも遠からず、近くとも当たらず。人間を「アンテナ」とか「受信機」にする発想を、一般的な頑張ってる人たちは好むんだよ。

今では無線で電力供給もできる技術がある。この電力をエネルギーとするのか情報とするのか、
「専門分野のほう」では「勝手に定義して」その「知」を「自分のもの扱い」していってくれて一向に構わないが、
(全部間違えている可能性があったとしても、どうせ止められないだけの速度で文明を走らせているのだから)

もし、エネルギー(太陽光)が情報と無関係だとしたら、
例えば俺が特殊能力を持っているとする。この特殊能力は「俺」という「物質的な身体」に付属しているものであり、
エネルギーはその「俺の物質的な身体」を動かすための燃料でしかない。
俺はそうは思っていない。だから、人間外部に理性的本能情報があると言った。そうでないと辻褄が合わない。任意の個体が独立して飛び抜けて優れていることは異常な事態だ。また字数行数ぎりぎり。
151考える名無しさん:2013/09/13(金) 18:01:27.87 0
例えば暑い夏の日差し。
「どうにもとまらない状況」っていうのは拒否権無しの押し売りエネルギー量が、その受信者が受け取れる規定値を超えている状態を、
内面から描写してみた「そこに今見えている運動の状態」なんだと思う。

物質的な身体が疲れて、物質的な身体が休んでくれるよう働いていくと、とても助かる。
自己の外部に落とされた意識が外れて、自己の物質的肉体を意識してそこの有をみるという、
全体にとっての自己というものにおいて、自己が下す意識操作の中での数少ない状況のひとつだと思う。

逆もある。例えば鬱屈とした心境を抱え続けていたとして、そこで激痛を伴う病気になったりすると、
その落ち込み方面の心境の方は消されるか、リセットされるか、どうでもいいものとして処理される。
激痛が引いた頃には、生還した喜びを満喫しており、その鬱屈心境を塗り替えている。

俺は精神異常者でもなく統合失調症でもなく幻聴も聞こえたりしないが、
例えば幻聴を聞き続けている人が、幻聴に意識を寄せずにいられる状況というものが、どれだけ限られた状況なのか、
というのを考えたりする。
幻聴や糖質の聞く声は、限りなく俺の言っていた意識を下ろした時から有がある構造に近くみえたりするが、どこか違う。

俺の確信している人間外部にある理性的本能情報は、「縁起」で言う、もとからそこにある自然法なのだろうか。
でも、太陽光がなくても存在しているその法とでもいうものは、本当にいかなる条件下でも所在が確認できるのだろうか。

また、俺の仮定として、太陽光という「全情報」を持った力が、
受信者の持ち前の(おそらく物質的な)その受信者たらせる限定的デコード解禁範囲が、
その受信者に、その「全情報」をその受信者なりに「受け取った意味(内容)」として、確立した送受信処理の完了の合意として、接続が絶たれるのだと思う。

話は戻るべきだ。人間外部に理性的本能情報があると言った。任意の個体が独立して飛び抜けて優れていることは異常な事態だ。
任意ではない。特定の、だ。だが、どれが特定の、かは任意で決まるのか。
いや、俺が言った「自己=自分を演じさせている唯一の環境」この観点だけは外せない。窮鼠猫を噛むのもこの定義で成り立つ。
そこで、能力開発torturing実験収容所施設が出てくるのか。
152考える名無しさん:2013/09/16(月) 06:44:42.82 0
「順序などより比が初めからある。」ということを信じないと、現実が真実の欠片を君の目の前に持ってくる。
なぜそのような構造になっているのかは、俺にはわからない。

なぜか、いつもそういうことになっている。
という、懐疑の対象外、そのように在る、というのを当たり前に受け入れている。
物体に光が当たると、光が遮断された部分を「物体の影」と人々が当たり前に思ってしまうのと同じように。

俺は自分の物質的な身体をあるがままに信じ、人間の外部から入り込む光をあるがままに見て感じ、
実際的には「思考」などする隙も無く考えがその2者(2物)によって打ち出され、俺の意識は既に有を見ている。

厄介な人達が居る。

とりあえず「縁起」にも触れたことだし「自然法」みたいな外界を構成するルールの束みたいなものがあるとして、
(それを俺が人間外部にある本能情報と呼ぼうが関わらず)

「初めから在る『もの』」を「絶対に守らなくてはいけない『こと』」と勘違いしている人達が多くいる。

絶対に在るのだから、それを信じて、守ろうとする「必要」がないのだ。
だが、彼ら彼女らはそれを信じ切れず、だが、「絶対であるべきだ」というのは薄々感じているようで、
その使命感・義務感、信じなかったときの背徳感・罪悪感から、
初めから在るその「ルール」に、人為的に他人を従わせようと、彼らの人体を「活動」させている。
必要以上に(絶対に覆らないルール)を「途切れなく在らせようと」と緊張状態を維持しているのだ。彼ら彼女らは。

そんなに自分の手で握りしめなくても(むしろ自分が嫌だと言っても)離れていかない「その初めから在るもの」を、
失わんと「意図的に=無意識的に」握り続ける「彼ら彼女ら」は、何を本当は見ているのだろう。

初めから在るもののうえで何かを在らせる人と違い、初めから在るものに従うことで終わる人に成り果てている。
「生き字引き」に似たその「己を法そのもので在らせようと欲望する者共」は、
何もかにもが有るこの世界から、(自分では知らないうちに)あらゆる可能性を奪い取ろうとしている。
その者共が守りたかったものは、「法」ではなく、変わらない「己」であったわけであり、周りの人々を、その欲望成就の犠牲にする。
自分=犠牲となって消えていった環境だ。