「我思う、ゆえに我あり」はデカルトが発明・作文した「閉じた「思考」の型」ではないが、
デカルトが、当時一部で氾濫していたその「思考『型』」に手を付けたので、デカルトと関連して人々に憶えられるようになった。
デカルトはその生きていた現在において、十分に蔓延している(人と人が勝手に調整し形成する)「合意」の内容として、
その「思考『型』」が、まるで野生動物のように放し飼いにされた状態で、人々の思考空間に浮遊していたのを確認したので、
白羽の矢をたてた、標的として撃ち抜くために照準を合わせたのだろうね。
そこで重要なことは、
その「思考『型』」の内容について語れていることでも、至った過程でも、主張が他者に与えた影響でもない。
(デカルトの生きていた)「現在」において、
(いくら死んでも代わりがいるような)大衆含めた知識人達に、重大な影響を与えるであろう対象を見定めたところだと、俺は思う。意識を下ろすと有を見る者として。
なぜ1個のりんごは1個なのか。誰かがそのリンゴを1個だと見定めたからだ。
この一文は
>>107の応用・発展型であるわけだが、
別スレでの俺のように一刀両断してしまうと、数や数学とは、「比」に視野の焦点を合わせた物の見方であって、
それが真実を導くだとか、万学の基礎だとか、根源的な部分、本質的な部分を勘違いしたまま人生を送っている人達がいることも事実だ。
数字が生まれる前に「比」の概念がある。「比」を表記するために仮定的に用いる説明用の駒として、数の文字というものが使われるようになった。
反対する者もいるだろうが、
意識を下ろした時からわかってる俺という人間にとって、そういう、この「現在」内に生まれてこの「現在」内で朽ち果てて死ぬ短い魂の言う言葉など、
そよ風に揺られて死ぬ蜻蛉(虫:カゲロウ)のようであり、あまり重要に思えない。
「我思うゆえに我あり」は、あまりにも文学的な言い回しだと思う。また因果関係をレトリックとしている辺りも素直に賞賛できない。
「『考えていたい俺』が居るけど、ここにあるのは『考えていたい俺の思い』だけじゃね?」
というのが俺が作り直した「全部」を「有」にする作用を過去の遺物に持たせたものだ。
意味が変わった、と思う人は、きっと、原文の文学的酔い心地を求めているのだろう。