哲学っぽいことを語ろう

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114考える名無しさん
「我思う、ゆえに我あり」はデカルトが発明・作文した「閉じた「思考」の型」ではないが、
デカルトが、当時一部で氾濫していたその「思考『型』」に手を付けたので、デカルトと関連して人々に憶えられるようになった。

デカルトはその生きていた現在において、十分に蔓延している(人と人が勝手に調整し形成する)「合意」の内容として、
その「思考『型』」が、まるで野生動物のように放し飼いにされた状態で、人々の思考空間に浮遊していたのを確認したので、
白羽の矢をたてた、標的として撃ち抜くために照準を合わせたのだろうね。

そこで重要なことは、
その「思考『型』」の内容について語れていることでも、至った過程でも、主張が他者に与えた影響でもない。
(デカルトの生きていた)「現在」において、
(いくら死んでも代わりがいるような)大衆含めた知識人達に、重大な影響を与えるであろう対象を見定めたところだと、俺は思う。意識を下ろすと有を見る者として。

なぜ1個のりんごは1個なのか。誰かがそのリンゴを1個だと見定めたからだ。
この一文は>>107の応用・発展型であるわけだが、
別スレでの俺のように一刀両断してしまうと、数や数学とは、「比」に視野の焦点を合わせた物の見方であって、
それが真実を導くだとか、万学の基礎だとか、根源的な部分、本質的な部分を勘違いしたまま人生を送っている人達がいることも事実だ。
数字が生まれる前に「比」の概念がある。「比」を表記するために仮定的に用いる説明用の駒として、数の文字というものが使われるようになった。

反対する者もいるだろうが、
意識を下ろした時からわかってる俺という人間にとって、そういう、この「現在」内に生まれてこの「現在」内で朽ち果てて死ぬ短い魂の言う言葉など、
そよ風に揺られて死ぬ蜻蛉(虫:カゲロウ)のようであり、あまり重要に思えない。

「我思うゆえに我あり」は、あまりにも文学的な言い回しだと思う。また因果関係をレトリックとしている辺りも素直に賞賛できない。

「『考えていたい俺』が居るけど、ここにあるのは『考えていたい俺の思い』だけじゃね?」
というのが俺が作り直した「全部」を「有」にする作用を過去の遺物に持たせたものだ。
意味が変わった、と思う人は、きっと、原文の文学的酔い心地を求めているのだろう。
115考える名無しさん:2013/09/02(月) 01:53:16.32 0
ついでに俺は、理不尽にスレ落ちさせられた別板のスレに俺が書いた仮説のレスをここに張り付けて、
そこに含んだ方向性と重大性をここでの発言にも継承したい。余計に飛ぶアンカー部分だけは消してペーストする。

しようとしたが、またしても2048byteの壁に遮られたので、まずはこの挨拶レス、そして、無言で貼り付けを行なう。
無言でペーストというのは、あまり好きではない。貼ってるだけでは会話になっていない。
116考える名無しさん:2013/09/02(月) NY:AN:NY.AN 0
216 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:GIh5Pa3a0

俺ら(君ら)が思っているほど、己等(おれら)というものは、
この現実4次元空間との間と、着実な結合点を持っていない可能性がある。

死後、まず(捨てる仮定として)生まれ変わりがあるとする。
死後、生前の自分Aが生まれ変わった先の自分Bとは違う、という認識から改める必要性を投げかける。

「生前の自分Aとは何者か?」
これを利用した悪意のある悪戯は有名だろう。「鏡に向かってお前は誰だ?と毎日聞き続ける」というものだ。自我崩壊するらしい。

生前の自分Aが何者であるのかを、自分で深く考え、
自分で「そのAたる個体識別点」を探し追い求めていくと、
そこにぼんやり見つかってくる「『己』呼べるもの」は、とても抽象的な、
または方向性や志向性だけを、または居心地の良い視野の広さとしての指向性だけを
「己」らしさと識別できる結果となる、可能性がある。
(可能性と言うのは、やりたければやってみれば良い。だが、自我が崩壊しても誰のせいにも出来ないので自己責任で。)

普段の生活活動をしている自分というのは、現在の環境に自分が自分で合わせた役回りと人格を演じているとさえ考えられる。
そう考えると、「その時その場」に唯に実在しているものは、「己」ではなく、(己を発生・保存している)「環境」のほうではないのか、と推論することができる。

この推論が正しいとされた場合において、
「自分」というものは、二度と同じものとして発生しない「自分の周りの環境の状況・設定・構成内容」を皆は直感的に指しているのだと考えられる。

そうすると、「偶然発生した遺伝子パターン」よりも適合確率の低い「偶然発生した自己周辺環境の形」=皆が言っている「自分」
というものは死後、二度と現れない。その文脈上での話としては、その「記憶」というものを持ち越さないかぎり。

しかし、俺の言う「己」は、万が一度の確率で、それでも高確率で、再発生する。
だが、「己」が「己」を知ろうとする行為に至るかは、また別問題であり、
「自分Aの己」と「自分Bの己」が「同じである」ということに気がつく「自分」という人が現れる確率はさらに低くなる、と考える。尚、霊魂の話はしていない。