哲学っぽいことを語ろう

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101考える名無しさん
今回俺の下ろした意識の元に現れたことは、直接的な対話の繋がりからは浮いたものかもしれない。
だが、ここではさまれるべき内容なのだと、俺は従うほかない。
会話の延長ではないので即時返答できる言葉などは必要としない。

ある限られた分野内では例えばアプリオリなどと呼ばれたりするものについて、
そして、それらと俺の言っている「俺」の「外部」にある「光」というものの持つ「特性だか力」について、
俺が言わなければならないことがあり、それがまた「最初には有(全部)がある」ということとの関連を深めるようであるからだ。

知る前からわかっている。
教わる前から知っている。
故に、教わる必要がない。
必要がないどころか、
教わる必要があった場合には、
教わる過程のほうから、わかっている人へ、自動的に訪れる。
故に、教わる意志を持つ必要がない。

君の知り合いが自己を神と呼んだように、俺には上記の様な回路が作動している。

ところで、経験する前から知っているものの代表的なもののなかに、
動物的な、時に本能と呼ばれる、生存を行なうために必要な行動の情報セットがある。
この情報セットのことを(今、仮に)「動物的本能」と呼ぶが、この動物的本能には、時に略奪することや殺害すること、陥れることや盗むこと、
そういった事に関しての良し悪し判断を含まない状態での「行動すべき内容情報」が多いようであり、
それらの情報は、どうも生命体の体内、人体の物理的な脳みその中の最深部、一番古いとされるようなところに貯蔵されているらしい。
その真偽については俺は知らない。が、単に、これから言うことの土台として演出したまでだ。

人体内部に「本能」とでも呼ぶべき「動物的生存」を実行するための「情報」がある。とする。
俺が「光」と呼んだものは、その文字通りの、眼球に明るさを与えてくれる光のことだが、
人体外部に「本能」とでも呼ぶべき「情報」があり、その中身は、動物的ではなく、「理性的な生存」を実行させるものである。
という仮定を俺は持っているようだ。

「本能」が「内部」にも「外部」にもあり、「内部」のものは「動物的」、「外部」のものは「理性的」行為を実行させる情報セットであり、
人は(意図が)無である時、それに従って行動する。ようである。
102考える名無しさん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN 0
ここまでを踏まえて、>>88に立ち戻るが、
>「すべては本当だ。というより、すべては嘘と言った方が、説明しやすいから・・・」
俺は、このようには自分の姿勢を決めないが、その効率重視のやり方はわかる。

俺が、「意識を下ろす」などと言う言葉を多用することに疑問を抱かない人がいるのならば、
その人は、俺と同じように、物事、人をありのままに見る事ができる方向で進んでいるのだと思う。

そうではない人たちもいて、そういう時には時として、俺は言い回しを変える。。
「俺には意識を下ろした瞬間からわかっており、それを説明できる。」
と告げる代わりに、
「俺は霊視みたいなことができるから、見てあげるよ。」
と嘘をつき、
「問答を行なうセッションの完遂」という
当初、本来からやるべきと決めてあった事だけを完了するために、
まるで、手術中に麻酔をかけるかのように、問答中には相手の世界観には夢を見てもらっている間に、事を済ます、ことはよくある。

だが、俺は、「すべては嘘だと言った方が」などと、嘘を嘘という言葉にだして嘘の存在を肯定するようなことはしない。
俺の嘘は嘘という字を持ち要らずになされる。
だが、その過程が本当に嘘であったのかは、単に、「相手が知るべき必要のないこと」であるという一点だけが事態の複雑化を招いた原因であり、
その君の知り合いの「効率重視が故に行動過程に省略部分を含むという行動計画の立案」において一致している。

俺の嘘行為の中で言及された「霊視」という語に囚われる必要はない。
俺は既に前レスで、「光」という人体「外部」にある「理性的本能」の存在の提示・提案・推論発表により、
その(囚われる内容部分の)実態は明らかにしてあるのだから。