ここまでを踏まえて、
>>88に立ち戻るが、
>「すべては本当だ。というより、すべては嘘と言った方が、説明しやすいから・・・」
俺は、このようには自分の姿勢を決めないが、その効率重視のやり方はわかる。
俺が、「意識を下ろす」などと言う言葉を多用することに疑問を抱かない人がいるのならば、
その人は、俺と同じように、物事、人をありのままに見る事ができる方向で進んでいるのだと思う。
そうではない人たちもいて、そういう時には時として、俺は言い回しを変える。。
「俺には意識を下ろした瞬間からわかっており、それを説明できる。」
と告げる代わりに、
「俺は霊視みたいなことができるから、見てあげるよ。」
と嘘をつき、
「問答を行なうセッションの完遂」という
当初、本来からやるべきと決めてあった事だけを完了するために、
まるで、手術中に麻酔をかけるかのように、問答中には相手の世界観には夢を見てもらっている間に、事を済ます、ことはよくある。
だが、俺は、「すべては嘘だと言った方が」などと、嘘を嘘という言葉にだして嘘の存在を肯定するようなことはしない。
俺の嘘は嘘という字を持ち要らずになされる。
だが、その過程が本当に嘘であったのかは、単に、「相手が知るべき必要のないこと」であるという一点だけが事態の複雑化を招いた原因であり、
その君の知り合いの「効率重視が故に行動過程に省略部分を含むという行動計画の立案」において一致している。
俺の嘘行為の中で言及された「霊視」という語に囚われる必要はない。
俺は既に前レスで、「光」という人体「外部」にある「理性的本能」の存在の提示・提案・推論発表により、
その(囚われる内容部分の)実態は明らかにしてあるのだから。