お釈迦様の得たといわれる悟り。それに至るために、各人の経験と理論行使による
論理によって、新しい考えを積み重ねていきましょう。
論理は、透明な空間の中に存在する。つまり、空間の性質によって変化することがない。
宇宙空間の変化は、論理に従うことによって、時間的制約を発展させる。過去と現在と
未来には区別がない。論理の普遍性に従うことによって、今という瞬間に普遍性が見られる。
つまり、人間存在の認識が現在という時間をもたらすのであって、しかもそれに普遍性
があるために、宇宙は固有性と完全性、つまり普遍性を持っている。人間存在の
普遍性が、哲学の普遍性を担保する。それによって、思考は完全なものになり、
哲学の完成が常に目指されうるということ、そこに、思考の本来性の完成という
哲学の目的が設定される。
根本的なことを疑うことになるが、悪人正機というのはよくわからない。阿弥陀仏の
本心がわからない。神に頼ってしまえば人間は自立できないのだから、過去にどのような
悪行を犯した人であっても、この瞬間から善行を積むのは拒否されない、という意味に
思えてしまう。悟りを開けないということが僕は怖い。よくわからない。
死があって生があるのではなく、生があって死があるのだから、生物の本質は
生であって、いかによく生きるかを考えるべきで、極楽往生を目的とするのは
間違っているように思える。
5 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN O
まず、論理の普遍性というが間違い。
物理学というものは、世界の物理的変位を論理的に説明したものであり、
論理的とは人の思考の展開に過ぎない。
世界が在るから、人の脳髄活動が可能なのであって、
脳髄活動の一部の投影が世界を形成する事は無い。
基本的認識が誤りであるなら、社会の一部でしかない仏教の裾野の概念も当然理解出来ないだろう。
6 :
考える名無しさん:2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN O
業の浄化は糸の絡まりに例えると3年の業を浄化するのに3年の八正道の実践がいる
300年の業の絡まりを解くには300年間の八正道の実践がいる。八正道の実践とは即ち
仏道への道。自分の仏性を見つめ、一念発起して精進に向かうこと
法を理解し、他人を頼りとせず、自分を信じ、仏法を実践した時3000年の業が一瞬にして
浄化に向かう。それは完全浄化まで3000年掛かるが、この一念発起の瞬間に
即座に救われる。3000年掛かる浄化の期間は非常に苦しむ。3000年掛かるのに
一念発起した瞬間に救われている。しかし3000年間は苦しい業の浄化が続く
救われているのに救われていない状態。それこそが仏道の世界
仏教に目覚め、法を理解し、仏性を解明し探求していく最中、ずっと苦しい思いをする
しかしすでに救われている。一念発起はその時点で悟りだが悟りではない凡の世界。糸は絡まりを解いていく最中の
苦しみの世界。
7 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN O
業や功徳など、仏教には輪廻転生を前提としたかのような文言が多い。
だが、注意深く取り組めば、輪廻転生は論理的に否定されている事に気がつくはずだ。
これは当時のインドで迷信として輪廻転生が広く信じられていた為であり、
現在でも「仏教は輪廻転生が大前提」などとしたり顔で言うバカ共を見ても判るように、迷信には関わらない方が捗る為である。
岡真史は「ぼくはうちゅう人だ」と言って死んだ。
これは絶対的に正しい言説だ。
なぜなら、我々は宇宙の中に棲んでいるのだから論理的に宇宙人であることは自明の
はずだ。
しかし、宇宙に地球人以外の宇宙人が存在する確率は天文学的に低いと、以前には
いわれていた。このことは、自分が特別でありたいという差別心と恐怖心から来ているのでは
ないか。
つまり、特殊を一般に落としこむことによって、自分の特別さを普遍的と言いはり、自分の
個別性、孤独をみとめることなく、他人の他人性を認めること無く、皆最後は死ぬのだから、
同じ、極楽に行ったら同じという差別心、恐怖心が起こしたものだ。
もし、我々が自分のことを「宇宙人である」と心の底から自然に認識できるようになれば、
それは悟りに近づいたということではないか。
そういえば、仏像の顔はどことなく宇宙人的ではないだろうか。
嘘はコミュニケーションの誤理解の中にある。
コンピューターは嘘をつかないか?
どんなエラーにも理由がある。毎日繰り返し更新しますかというメッセージが表示される
のは何故だと訝しんでいたら、ハードディスクの残り容量が足りなかったため、更新に
失敗していたという理由があったのだ、という具合。
しかし、人間側にしてみればコンピューターのすべての行動を理解可能なわけではない。
つまり、人言はコンピューターにだまされうる。
人間同士が嘘をつけるのは、対象があるから、コミュニケーションの誤作動の可能性がある
からなのである。騙す=嘘。
自然にした所で、量子論の明らかにするように、不確定性はあるのであり、自然同士の
関係も、完全に理解されている(定性的である)わけではない。すなわち、自然同士も
騙し合う。
自然の神秘、と、昔から知られていたように。
10 :
考える名無しさん:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN O
業というものは絡まった糸に例えられる。仏道は絡まった糸をほどく効用を顕す
業は意識に上る煩悩のことである。意識には毎日有りとあらゆる煩雑な記憶が蘇る
それこそが煩悩である。意識に上るものは日々の行為の直接の原因になっている
意識は行為に行為が因になり結果が顕れる。十如是である。だから業は自分に訪れる運命のことである
意識に煩悩があり、意識したものが意思になり、意思が行動になり、行動が関係(相)にいたり
関係から相対した人や運命が自分の眼前に実際に顕れ結果として本末が顕れる
それこそが人間であり、人間は地獄餓鬼畜生修羅人天の六道が毎日結果として顕れてくる
その六道輪廻から脱する術が仏道であり、それの指南が仏法である
糸の絡まりを取るのが仏教であるなら自分の意識を明らかにし自分の運命を知った状態が
サティ(悟り)であるがそれは第一段階の悟りであり、それにより自分の運命から
脱し、もう一段階の覚醒が仏教の悟りである。絡まりがなくなり自分の運命を知り、他人を助ける段階から
菩薩道に入る。菩薩道はまだ悟りに至っていない。
絡まりをとって後六波羅蜜を実践することで仏道の悟りに至るのである
>>9 一人一人答えは違うのである。
定義づければ嘘になる。意味させれば世界が歪む。
言葉など事の始まりにすぎない。
何かの意を知るなら何かの反意を知るべし。
生じさせる背景を知らずに生じたものだけを認めるのは都合が良すぎる。
>>9 まず真実とは何かを知ることだ。真実が理解できるなら真理は常に真実と
共にあるということだ。誤りは拒絶したときに生じる、事を向かい合いそれぞれの
働きを受け入れたとき過去の誤りは消滅するものである。
真実を拒絶し真実を誤りとし他が評価する嘘事を聞き入れれば主体となる
体系は死に主体たる働きを誤りとして受け入れる事になる。
他に従属する物であるかぎり貴方の真実などないのである。
>>9 論理に意味を欲するなら世界は論理であって非論理を含めない。
どんな言葉にもそれを必然とする裏(背景)があり、意味ばかり
追えば捨てた非によってそれを無くす。
世界は外界にあるだけではなく内界にも同時に存在するのである、
他に言葉を欲するとき、それは自らに戻ってくる戒めと受け取り
自らの為に自らを戒める為の言葉とすることを表しておく。
14 :
考える名無しさん:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:PnfrgDIT0!
相変わらず自分の尻尾追って空中分解かね、オカルト君
「非○○」などというものは、論理ありきなのだ
まだ糞スレあったのか。変なのも集まってきているしw
悟りとは哲学書を沢山よんで理解することである。
始めに言葉ありき、聖書の最初の言葉なんだけど、
翻訳でそうなっただけで原本にはシェマ(聞け)、その元は認知しろに
対応する言葉が表記されているわけで
言葉が先にあったという論理的解釈は歪んだ解釈が繰り返された結果である。
>>18 哲学とは知識を正しく習得し、理解を高め、
論理を極めることです。
あなたのいうそれは妄想です。
>>19 http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n154448 >ほとんどの教育、哲学、宗教というものは、新皮質脳だけを強化し、その新皮質脳によって、
>霊性の部位である間脳を押さえ込み、退化させてしまうということです。
>理知的、科学的な人ほど、新皮質脳が発達し、間脳が閉ざされてしまっている傾向が強いのです。
>そういう方々は、霊的な話をすると、すぐに牙をむき出しにして、反論してきます。
>虫が好かないのでしょうが、これは、新皮質脳の本能的な欠陥です。
>新皮質脳優位の方がた、教育者、科学者、哲学者、それに宗教家まで、とにかく証明もできないのに、
>理屈、理論を付けて、霊性を排除しようとします。それこそ科学で証明もできないのに。
>>22 新皮質脳の本能的な欠陥が言わせた捨て台詞ですね。
コミュニケーションとは相互に意見をやり取りすることだ。一方関係とはお互いに
何らかの影響があることだ。関係の重なりが嘘をうみ、コミュニケーションに見られる
嘘は第三者的観察者によって確かめられるが、相互の二人称においても、察知され
得る。観察者のいない場合、嘘をついたほうが得をして、騙された方は嫌な気持ちになる。
自らを観察する自分に対して、観察する自己と観察される自己の相互には、影響関係
がないから、嘘が効果を持たない。すべて、嘘をつくまでもなく明らかだ。
因果応報ということは、自らが起点となって起きるすべての物事は、時間的な
経過に対して、平らになるようなふうに起きるのであって、例えば昔自分が立場が
上だった人にまた合えば、その時はまた違った態度で自分に敵対的な態度を
とって、復讐しようとするなどの事例がある。そして、人間の行動の原理は衝動
なのであるから、衝動の積み重ねとしての思想にたいして因果応報が起こること
によって、すべての思想はその真実の価値を試されることになるのだ。結果として
思想自体に変更、改良の余地がある場合、自らの信念を曲げて新しい理論を
作っていかねばならないのであり、感受性の程度だけ、人は責任を持つこと
になる。
復讐に対して復讐する権利や当然性があるので、何時まで経っても終わらない。
それを終わらせるのは他者や力や法であるが、自らの力で負の連鎖を終わらせる
ためには、衝動を抑える他の衝動(ラッセル:社会改革の諸原理)を見つける必要
がある。
選択という行為は2つのうちどちらを選ぶかということであり、信仰というのもそういう原理だ。
選択肢が多ければいいものではないが、選択という行為には原理的なものがあるのである。
選択という行為に背徳感がなければ、信仰というものの価値もないものになってしまう。
>>28 その選択の
原理を超えることができるものと、原理に従うものとあるが。
君は後者かね?
>>30 道が5本あるとして、時間の不可逆性から、どれかを選べば他の道に行くことは
できない。
>時間の不可逆性
誰が決めた?人がそうおもっているだけで、そういう風な観測しか
得られていないだけだろ。
観測できるものが光なら、光以外の存在はないと考える。
定義することが君の限界だろう、閉じた仕組みは人が都合のよい理屈で
説明するもので、その求める何かを自分で都合の良い理屈にして納得しては
本質どころか常に幻想である。
>>32 法則を作り従うことは限界ではない。記憶の仕組みとして、ある一定の意味を
ある一定の対象にもたせることは、限界を作ることではない。とりあえずの
固定として、脳回路にそうした理解をもたせるだけである。「時間の不可逆性」
という定理は、その他の法則を説明するために必要なものである。とりあえず
閉じた仕組みに対して、それを開いてやることはのちのち考えればいい。
求めるものがあれば、求めている自分がいることを否定することはできない。
幻想と本質の違いの区別は、どのようになされるのでしょうか。
法則は世界が存在しないかぎり成立しない。
君が勘違いしているのは世界がなくても法則が成立するという錯覚である。
例えばビックバン初期のときに物理法則が科学的に成立しないとされている根拠すら
理解できないのか?
自分が正しいという定常性において、その範囲に限定して成立する法則性は
たしかに君が思うとおりである。
常にそれが成立しえるというのは貴方の思い上がりでしかない。
人が決めたものが近似という幻想であり、神という対象でしか説明できない
世界の本質のみがその本性である。
君が理解しているのはすべて人の創った定義によるものである。
その定義も実測も検証も人の都合が良い人が観測できる範囲での経験則で
しかない。全てを見通す目があるとでも言いたいのか?
>>34 世界→法則という向きでなく、法則→世界という理解を持ってもいいのではないか。
ビッグバンについては今日三冊本を借りてきたので勉強してみる。
法則性の二次性という感覚は根拠があるような気がしないが、近似というものが
なぜあれほど物理学で広く行われているかとうことに、高校生の終わりくらい
のとき、自分の苦手な思考法だったということもあり、少し自戒をした。
経験則だから実測や検証の程度が限られているということはあるが、
経験則以外の法則の定義をするもの、すなわち、絶対的な法則性や、考え
あるいは、その考えをより有利なものと見る合理的考え方はないように
思う。
>>35 神を理解できない人は、神を実在と考える。
神は誰かが想像する存在であって、その人自身の真実であるが事実ではない。
原理というものはその要素が重要の面で確定た割合で
要素が全く違う情況では成立しえないってこと。
素粒子より大きな粒子が世界のどこにも存在しない状況下で分子レベルが引き起こす
世界の関係は成立しえない。
イスラム原理主義の中心でキリスト教の教えは成立しえない。
この成立しえないというのは割合の問題で0の極限に近くなるということ。
経験則で得た実測は過去の事例を考えればわかる、科学技術はより正しいように
過去の解釈を修正してきた。過去は嘘ではないと解釈を変えたわけだ。
科学技術は実質上は学術で間違っていたことを現実に近似するように修正を
することで発展してきたわけだ。言い改めて論理性を高めることを
無視し最初から論理性が高いと思考放棄する心理は宗教のそれを同じだ、
まさに疑うことを前提にした論理の哲学には足元にも及ばない。
微妙に間違っていても結果が確実に奏効するなら正しい。それが実証だ。
まず自分自身の確定した理解を疑え、論理を極めれば"極論"になる、
君が流されているのはその極論でどっちかわからないがどうでもよいという
中道ではない。
知識を信頼し頼れば、知識は誇張され過剰解釈される、それも解釈側の都合のよい
内容になってしまう、洗練された知識は技術としてどのような場合でも
正しく機能するだろう、だが100%ではない。それを常に常用することで100%と
という習慣ができてしまう。君が流されているのはその常用だ。
その隙間を利用し考えることを放棄したものには、言葉の誘導で合理性を導く
妥当的な結論さえ与えれば自分で何も確認せずとも有名だから、権威があるから
という不明確な根拠で論理性を判断してしまう。
常に知識に対しては中道、「ほんとうにそうか?」と曖昧に捉えるべきである。
一言一言に誘導されていないか?論理的説明に反感や好意を持った時点で、
それは流されている。
>>36 始めに言葉ありき、言葉で説明できないものはない。
言葉で説明できなければそれは存在していない。
すべては言葉が先にあり、言葉によって世界が生じている。
>>36 要素(エレメント?)が神を構成するもので、神が要素を構成するものではないという
考え方でしょうか。要素に注目するのは素晴らしいと思いますが、構成する要素の
独立性が言えないといけないでしょう。つまり、個人というものが全く違うものであれば
神の概念が各人で違うので、そういった違いが各宗教の差異を生む原因である、
ということでしょうか。
修正ということに触れておられますが、論理性を高めるということは、考えたことがなかった。
つまり、イデアに触れるということは、現実界での現実性を放り出してしまっては
本末転倒だということでしょうか。
常用について、知識と中道についての関係から述べておられるのも、面白いと思います。
完璧を思考した考え方しかできないのはなぜだろうか。
余裕がなくて、自分の首を自分でしめているような感じがする。
苦しいときが早く終わって欲しい。
40 :
1:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN 0
>>37 原始人や人間以外の生物の場合はどうなりますか?
>>40 ニセモノはシネ。
原始人などいない。神が人間を創り。
人間以外の生物は神が創造した。
進化論など完全否定されていることを悟れ。
42 :
考える名無しさん:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN 0
ここが仏教とキリスト教の決定的な溝だな
言語を最終的に捨て去られるべきものとするか、あるいは神聖なものとするか
43 :
考える名無しさん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN 0
宗教は宗教板でやれ
44 :
考える名無しさん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN 0
悟れないのが怖いということだが気になって大往生できなそうとか?
>>44 考えをすべて尽くしてから死にたい気持ちがあって、表面にとらわれている自分の
おかしさが消えるところまでとりあえず行きたい。その後で自由に思考を遊ばせる
ことをしたいのだけど、苦痛が強すぎて死ぬのが怖い。
46 :
考える名無しさん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN 0
48 :
考える名無しさん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN 0
>>47 思考の自由を奪う強迫観念とは具体的になんだ?
50 :
考える名無しさん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN 0
>>49 思考が自由になると気が狂ってしまう、若しくは、自殺してしまうかもしれないと恐れているということ?
>>50 そうじゃなくて、常に気が狂うことと自死への脅迫から、ある程度まとまった
時間の間続くような考えを展開するだけの余裕が無いということ。また、
何をやっても何を考えても結局苦しみは消えないという自暴自棄にもなる。
52 :
考える名無しさん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN 0
>>51 つまり、悟ると余裕ができるが余裕がなくて悟れない、という悪循環か
>>48 病気の症状です。強迫観念やら記憶盗聴やらの自覚があります。
>>51 苦しみを快楽に返るのを拒めば悟りへは辿り着けない。
逆境こそチャンスであると居直れないのは、自らのレッテル貼りという才能が
邪魔をする。それは明確にメタ的に捉えた何かをぼかして再定義できない能力があり
すべてのことをメタ的に誘導してしまう無意識的な能力が邪魔をする。
故に一度信じた固定観念を捨てられない。
睡眠不足などの症状がでるのは脳が常にそういう類を欲しているからだ。
死の恐怖は重力のように逃れられない克服し共存すべきものとすると
安易に「悟れば消えるんじゃね?」と信じる1が悟ることはなさそう
57 :
考える名無しさん:2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN 0
恐らく、仏陀にしろ武蔵にしろ高み至る過程で言葉では伝えきれない尋常ではない実体験による感動を通過してると思うのだよな
実体験で得た感動そのままを言葉で伝えるのは不可能だろう
快適な室内で言葉の解釈を捻り回すだけで同じ境地に至れるのか疑問である
認知が間違えれば生きることが恐怖になる、死ことを
最良と考えることもできるわけである。
なんで認知が常に正しいと言い切る?バカだから。
60 :
ゲッパリラ ◆IF4OOrSzUw :2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN 0
私は嘘つきですが、あなたも嘘をついている
結果的に嘘になるのと、はじめから嘘なのは同じではないな。
韓国人からみれば、日本のすべては嘘になる。
朝鮮の人乙。
哲学は知を愛すること。知も愛もすべて根っこは生命にある。犬が考えられない
ことを考えられるようになったからといって、それで生命の頂点にたったとは
考えない。確かに宗教的叡智には素晴らしい内容があるが、それも根っこはひとつ
であり、それを超えることはできない。犬が考えるように考えたい。
64 :
考える名無しさん:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN 0
>>63 愛するとはどういうことなのか?
生の苦しみもまた知だろう
あんたは悟りを快楽と捉えているようにも見受けられるが
苦しみすら愛するようになるのでは?
きもい
67 :
考える名無しさん:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN 0
>>65 苦しみを愛する?愛して何になるというのか…
>>67 だからモテナイ。
愛が生む意味すら理解できていない。
おまえのは単なるお前本意の理屈でしかない。
>>63 愛とは何かを悟れれば、理屈を超えた真実を掴めるだろう。
例え戦いの中にも愛は生じる。
はい、次の患者さ〜ん
持つ知識を総動員し魂という便利な玩具を加え矛盾のないストーリーをつくれ
お釈迦様は自己満する能力に長けた幸せな人だった
>>69 重度の患者さんですね、隔離される為にここで永遠に常駐してください。
>>70 魂とか何かすら説明できないお前が、使う言葉ではない。
誰も知らないから便利なんだろ
74 :
考える名無しさん:2013/08/04(日) NY:AN:NY.AN 0
犬は知を愛しているのか?
あらら、病気が悪化してるよ
>>74 知には本質などない。考える力が知である。また、犬も恋をする(発情する)。
愛は恋の変形だ。したがって犬は知も愛も知っている。知を愛さずに生きていく
犬などいない。
人間に特徴的なのは、無知の知である。自己反省能力。猿だって反省するの
だから、犬がしないとは思えない。
発情する
∴考える力と愛を認識してる
∴考える力を愛してる
意味わからんですw
意味がわかる程度では悟りとは言えない
80 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/04(日) NY:AN:NY.AN O
禅宗のせいか知らんが、意味不明な戯言が悟りと勘違いしているバカが多すぎる。
81 :
考える名無しさん:2013/08/04(日) NY:AN:NY.AN 0
>>77 犬も人間も本質に大差ないとすると犬も人間同様に苦悩してるかもしれないぞ
スレ主が反論のための反論状態だね
クソスレ終了
>>81 「苦」悩にはいつも感情が伴う。犬が「苦」と感じることは、だいたい人間
と同じだ。悩むについても、思考がエラーを起こすことがあり、吠えたりする。
魚は泡を吐くという自由があるし、犬には、動き吠え息をする自由がある。
自由の中において苦悩がされる。その自由行動の種類によって、悩むこと
の中身が決まってくる。
脳というものが共通なのだから、種によらず類似性があるということも
当然のことである。宗教的考えについても、犬が主人を信奉することが、
一種の宗教であるように思う。
ソファーに寝そべってる犬が死に怯えていないとかは人間の勝手な思い込み
85 :
考える名無しさん:2013/08/04(日) NY:AN:NY.AN 0
>>83 人間と同じように苦悩で思考が停止する犬が考えるように考えたいという願いの真意はなんだ?
>>85 犬の考え方に興味があったのです。歌にも、私頭が悪くて犬以下なの、っていうのが
あるでしょう(筋肉少女帯『香菜、頭を良くしてあげよう』)。
ここに学ぶべきものは無さそうだ
まあ要するに知はすごいものだって僕が認識した、ってだけの話だろうな。
精緻な分析はカントとかがやってるんじゃないのか。
僕は悟るっていうずるに頼ってるわけだし。
べつにカントを読むつもりがないっていうわけじゃないよ。
だんだん知識を増やしていっているだけ。
89 :
考える名無しさん:2013/08/05(月) NY:AN:NY.AN 0
犬と悟りは関係ないのか
犬が人より悟ってるみたいなロジックかと思ったぞ
>>89 なんで荒らすの?ずーと粘着しているでしょ。
3行以上の発言とかできない人でしょwwwww
>>90 ageる奴は注目されたいだけのDQNだから。無視するスルースキルを
身に着けてください。
89のなにがあらしなの?
人間の総合体は頭が悪い。生の要求するものを満たせない。頭のほうが体に
ついていっていない(進化的に)。鳥や動物の運動能力を考えると、人間は
柔らかで持久力があるタイプだと思う。哲学的思考の行くところは唯物論的に
決まっているから、信ずることという行為を間にはさまないと飛躍的思考を
行えない。決まっていることをなぞることだけでも価値がある。でもだれも
飛躍することができない。簡単なこととは繰り返し生じて、難しいこととは、
めったに起こらない。悟ることはあまり生じないから希少性が高い。価値自体が、
起こった瞬間に決まるものではないから、もう起きたことについて決まっている
価値をなぞるだけ。それでいいけど、それだけでは満足できない場面もある。
オトナの出番。その必要から分析的思考を行ったり、飛躍するための道具を使う
。その繰り返しで成長していく。それはたぶん進化の原因。社会や文化で
進化する。その環境のなかという要因で突然変異が保存される。つまり安全な
平和が特異な変異に対して寛容であるように働く。
>>95 悟ったと思うときが悟りであり、否定している間は悟りではない。
悟れたと自覚できるかは理屈ではない。
虚空を悟るという事は、心を空っぽにする事じゃない
心の空きを提示する――どんな時でも心の余裕を持つことこそ是空なのさ
>>98 心を空っぽにするには、心が満たされていなければ成しえない。
君の言うそれは前提条件が怪しいんだよ。
しかして素朴に心が満たされている時、得てして外在の本質を見抜く事は出来ぬ。
森羅万象を悟り得るには、未だ自分の認識できない世の瀬と触れ合う事が出来るよう
心の中に広がりのある素地を残しておくことが必要になるのは確かである。
101 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
死が雑念となり悟れないという
死の恐怖とは裏を返せば生への執着だ
つまりスレ主君は生への執着を捨てるしかない
同じくスレ主君は悟後の自由思考へも執着している
これも裏を返せば悟れないことに対する恐怖による雑念だ
つまり悟ろうとしている限り悟れない
自由思考への執着を捨てない限り悟れない
自由思考とはどのようなものなのか?
禅僧が到達する境地なのか?
文献によると一種のエクスタシーのようにも思える?
憧れを抱くスレ主君の気持ちがわからなくもない
102 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN O
自由思考の前に、君のいうその「悟り」とは一体なんだ?
まずは君のその「悟り」を定義付けてみてくれ。
103 :
スキゾタイパル:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
濁流の奥に隠れていつもここにあるサラサラとした水源を見つけることだ
104 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
それを見つけると、何故「悟り」になるのだ?
サラサラとしているからか?
105 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
また、何故あえて濁流に隠れているのだ?かくれんぼでもしているのか?
106 :
スキゾタイパル :2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
悟りというか落ち着いた時の方が洞察力が上がるだけじゃね
なぜ濁流なのかは 自己のモニタリング機能が落ちているからじゃね
電車で本読みながらマック食っても味があんまわからんだろ
人間のすることは全部ゲームにすぎない。相手が最強の手を指すと想定した上で
最善の思考を常に考えていくことで、局面を最後(最終目的=相手を使った利益
や勝負の名誉)まで進めていくだけの。その原理は変わらないが、人間とは一対
一だけではないし、またひとりになることもある。その時にする行動には、目的が
設定されていない。つまり自由になる。また、多のなかでは、ごちゃごちゃになった
目的がある。それに惑わされず、ひとりでもゲームを進めること、目的のない
ゲームをつづけること、囲碁なら、自分だけで石を使って囲ってみること、
そういうことがすることだし、多なら、みんなで力を合わせて囲うこと、そういった
ことがいいことだと思う。
108 :
スキゾタイパル :2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
隠れんぼは恐らく左脳だろうな
一度抽象化する過程で、リアルな感覚を落としている 言語の習得とともに人間は
109 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
つまり君は洞察力が上がることを「悟り」と定義しているのか?
モニタリング機能が落ちると濁流に隠れているようになるのか?
自分は電車で本を読みながらマックを食べたことがないからそれはよくわからないのだが、それをわかると「悟る」ことができるのか?
そんな簡単に悟れるならば明日にでも電車で本を読みながらマックを食べてみようかな。
ついでに、「マック」のどのメニューがより「悟れる」のかな?個人的にはダブルチーズバーガーが好きなのだが、それでも悟れるかな?
110 :
スキゾタイパル :2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
まあゲームも闘争も同じだろうな
DNAの隠れた支配構造、つまり自己保存欲求の影の法則を逃れることを悟りという
111 :
スキゾタイパル :2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
悟りというか気づきは向うからやって来るので
ただ僕は修行って道が好きですね〜
112 :
スキゾタイパル :2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
例えば心臓の鼓動 これは常に鳴っているが集中して座禅組むとすぐ近くに聞こえる
つまり悟ったから発生するのではなくて元々ある 何故かある
けど心臓という言葉自体に心臓はない
113 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
自己保存欲求というと、つまりどういうことかな?その影の法則とはこれまたどういうことだろう。そこから逃れると何故「悟り」になるの?その道程は?
114 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
集中して座禅を組んで心臓の音が近くに聞こえると何故それが「元々ある」ことになるの?その論拠は?
115 :
スキゾタイパル :2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
死を点滅信号と過程すると 体と心は別物なので誇大妄想的に恐怖が広がって戦いやすくしたほうが生存競争には有利なんじゃね?
生も死もなければ とこしえに楽しく生きれるだろう 人と争わずに
私という単独の感覚は最後まで残り続けるハズだ
昔、ニ歩あり将棋というのをやった。王様を一番箸に寄せて、歩を4つぐらい
重ねて、結局勝負つかなかった。あれはあれで結構面白かった。
117 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
なんで死をあえて点滅信号に仮定するの?仮定するならばその仮定をすることで得られる効用をまずは説明すべきじゃないか?
118 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
それをせずに仮定だけ放り投げるのは太平洋の真ん中で指輪を海に放り投げてそれをボンベなしの身一つで探し出せ、というようなものだよ。
バッティングの調整をするのが政治で、ずるをするのが宗教である。
120 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
いや、そんな断言はしなくてもいい。精神的な弱さを補う一つの信仰なのだから、ズルなどといってむやみにそれを軽蔑してしまうのは軽薄だ。
121 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
自分は信仰心を持てないから、むしろそういった人々を羨ましく思うこともある。また、そういった人々と接することに幸福を感じる。
122 :
スキゾタイパル :2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
ある程度全体と一体感を味わえれば、アルコール依存にならなくて済む
それだけの話だ
>>120 生の答えは死の中にしかなく、死の答えはどこにもない。すると宗教は
霊感によってしか答えを提示できないはずで、信仰というものが霊的
(≒精神的)なものであるのだから、何かの問題解決の方法として、
宗教を選ぶのは、それに適性のつよい人(宗教家)であるか、長く生きて
人生に見つけるもののなくなった人であるかであると思う。もちろん
宗教的探索に意味は大きいが、信仰の持つ強さ(と表裏一体の弱さ(感じ
やすさ))というものが持つ問題も大きいものだから、ディスってみた。
125 :
スキゾタイパル :2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
本来持っている感覚とか幼少期の記憶とか仮定はできないが
これ好きだ とういう感覚は差別化を図る過程で悟りに通じてると信じるのみである
>>100 心に完全な空などない、心を無にすれば心は無とは逆に働く。
心に何かを写し取ればそれを防ぐかのように働くのも然り。
心を空虚にするのは他の用語で情報の自然淘汰を誘導する為のもの
雑音の最適化による本質的秩序を浮かび上がらせる為の術にすぎない。
森羅万象は流転し揺らぎ形を変えてゆく、それを人の都合で計りにかけ
秩序を読み取るなど自然ではなく人の傲慢さによる意味の捏造にすぎない。
諦めることで諦めたものが寄ってくる事を悟り、追うことで追うものが逃げて
行くことを悟れない人はまだまだ極みの途中で迷子になっているだけである。
127 :
考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
いや、自分は彼らのすべてが「選択して」信仰心を抱いたとは思っていない。もちろん、中には軽蔑されてしかるべき宗教家などもいるのには違いないが、彼らのすべてがそうであるとは思わない。
中には生まれ出た所の環境によってそれを余儀なくされている人もいるだろうし、また彼ら自身の何らかの経験によって自然に信仰心が芽生えた人などもいるであろう。
そういった人々の信仰心というものをもっと尊重してもいいかと思う。
もっと簡単な言葉で説明できないのか
>>128 神を説明するのにもっとも簡単な言葉は神だ。
知能のないものに知的な説明をしても、豚に真珠で
豚には豚の残飯が似合う。
囲碁なら「読むこと」で死を回避できる。実際の死もそのように避けることが
可能な場合がある。戦争に勝つ方法を考えずに戦争するものはいない。つまり、
バカでない「読み」が必要で、必要な「読み」を(例えば言葉に)行うことは、
一種のシュミレーションであって、そういう効果があるから言語には効果が
ある。危険、無駄、死などを避ける方法が言語から読み取れる。主体的な
読みを行うことが、生きる上では肝要であり、手を指し読むことの繰り返しが
生きることであるといえよう。読むことは無意識領域に語りかけることにも
なる。
>>130 赤木しげるの名言「死ねば助かるのに」
これほど勝負の本質を表現したものはない。
勝負では相手も考える、相手と同じか或いは相手より弱い思考では
相手に勝てないぐらい空気よめそうなもの。
「自分より思考ができる相手に勝つ方法は?」
これに道を作り出せれば思考の本質にたどり着ける。
>>131 囲碁の高等テクニックでは「捨て石」なんかがありますネェ。
133 :
考える名無しさん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN 0
囲碁盤の上でも「悟り」があるのかしらん。まあ、それを求めてパチパチやっているのだろうな。
勝負の選択は「論理的決定」と「未知への可能性」の2択である。
論理的決定は優位に立つ道であり、未知への可能性はそれを崩す布石である。
人はこれを心理的な揺らぎによって選択が揺さぶられる。
機械的アルゴリズムでは心理的動揺という原理がないので勝ち負けの
パラメータのとおり勝つ為に有利な道を選ぶ、どちらとも判定できない場合に
ランダムを扱うが不利になる悪手は行わない。
天才が行う囲碁などはこの悪手をもって不利となし相手の行動に有利という選択
をさせることでその先の先にあるよな未知への可能性を選ばせない。
不利に見受ける行動で相手に有利を選ばせることで相手の行動を縛る戦略は
因果関係で計算するのではなく、相関関係でバランスを取る作業となる。
計算高い思考で論理的に物を考えるタイプの人にはこの相関関係で情況(布石)
をつくり偶然の原理で必然が成すカラクリが理解できない。
135 :
スキゾタイパル:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN 0
悟りとか言ってると意味不明な抽象的な議論に走るからクソだよな
メタファーどころかただの論理マージャンに酔ってる感あるからうぜえ
なぜ勝ち負けが問題になるのか それは生存競争から逃れられてないからだ
悟りとは程遠い 現代社会を生き延びたければそれでいい
そもそもそれが問題だといい加減気付け
136 :
スキゾタイパル:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN 0
考え抜くどころか センスじゃね 無理な奴は一生無理っぽいっし
15歳で意識の極北に飛んでく奴もいるだろうし
万人の救済は瞑想だろ 死は平等だ 悟りは99、99%に関係ない
じゃまだなぁ
抽象を扱う術を知らないアホを触らないでください。
世の中は抽象的な何かだらけなのにワラ
>>126 茶番はよせ、願望と結果の逆転などというものを受け入れてどうする?
作用と反作用を対消滅させるかのようにせめぎ合わせて自分自身を空虚な存在に回帰させたがっているだけだ。
その果てに待つ領域の愚かしさを知ったうえで求めるのならば止めはしないが、君の言う極みなど碌なものじゃない。
141 :
考える名無しさん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN 0
君らはなにか無駄に鼻息だけ荒いな。
まあ、この暑さじゃ無理もないか。
笑えるよな。自称悟りを開いたような者達同士が脅しを掛け合って足の引っ張り合いだ。
悟りも何も、片手間にやって現実を生きる道具にするぐらいが丁度良かろうに。
死や滅びほど救いになる事ってないよな
体の淀みや汚れを殺すことで癒しを得たりするものだしさ
144 :
考える名無しさん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN 0
仏陀は悟りたいという欲望をどう処理されたのか?
悟りには定義もないという
結局本人が満足したところが悟りか
であれば誰にとっても痛快だろうが
人によって到達レベル、若しくは到達地点が違うのか?
日々の気付き一つ一つが悟りという説もあるが
>>144 おまえは無知も酷すぎる、
何もしらないなら教えてくださいお願いしますだろ。
「拘わりを捨てる」「許せなかったものを許す」
このような変化そのものが悟りである。
弾問答の問も答も悟るための道具にすぎない、
問も答も悟りではない。
峰は違えど頂上は同じ。
そんなもんですかね
149 :
考える名無しさん:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN 0
150 :
考える名無しさん:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN 0
拘わりを捨てることに拘るのは悟りではないな
凡人に悟りは無理だ。我欲を減らす以外に凡人には方法がない。
しかし、凡人に我欲が無くなる好機は来ないのが実情である。
何か趣味を持って我欲をそこに集中させておけばよい。
聖書や仏典を読むことを趣味にする生活を送るとよい。
私はそういう生活によって少しの事には動じない、強力な精神を得られた。
>>146 理屈を捨てろ、理解を捨てろ、言葉は悟りから遠ざかる道具にすぎない。
理も知も悟りではない。
不要な贅肉がなくなったとき本当の体格が見えてくる。
>>150 悟りが人を苦しみから救い、
苦しみの原因がなんらかの拘りであるのなら、
そのような理論に拘る必要はない。
正しい行いへの拘りは捨てる必要がないのだ。
最低限必要な物事に拘ればいいんじゃないの。
人間にとって何が最低限必要な拘りなのかは智者が命懸けで研究して結論を出したんだし。
自分が二千年に一人出てくる大天才だというならその結論を無視してもいいけどね。
帰納とは不完全な演繹である。不完全さにその意味がある。したがって、二元的
に考える必要はなく、一元的な推論に人間の推論原理は尽くされる。このことから、
不完全さの劣性が表面的にはクローズアップされる。しかし、完全と不完全というのは
この場合新しく要請された二元であり、表面的な理解にとどまってはならない。
幻を直視することは簡単なことではなく、不完全さを完全に捉えるのは難しい。
神という人間以上の存在が認識上に要請されたのは、人間が不完全であるからである。
歴史認識により不完全さが補われるのは、ギリシャ悲劇などの物語の示すところ
だ。
完全など人が思うが故に作られる不自然の存在でしかない。
完全さを求めるからこそ完全があるわけで、完全なものを求めるほど
決定論に溺れてゆく、それは論理が決定論の道具そのもののように
決定論から逃げる術など存在しない。
そこに自由意志はない、自由意志とはもともと不完全として存在するもの。
決定論に支配されるのは自由だが、そこに自由意志を組み込むのはやめたまえ。
>>156 不完全を軸に据えれば、「無」なども完全ではないということが言えるな。
完全に無いということはなく、それは存在自体が変化する過程にしかすぎな
いと。また、同様に「有」というものも変化の過程にしか過ぎない。
悟りも不完全ということ?
>>158 不完全性を悟った場合、その悟りには完全性が付与されるのじゃないかと
思っています。人間存在に悟りがあると考えた場合、人生という過程を離れて
悟りがあるのか、そうじゃないのかとか難しい問題はまだ山ほど残されてい
ますが、悟っていない場合でも悟り得るようなきがする場合、それは可能性
として残されているのです。
希望的観測ですが。
言葉の不完全性が、人間の不完全性を救うようなところがあるんじゃないかとか。
不完全であるならそれを不完全にしている要素があるので(例えば存在と時間とか)、
それを抽出することに成功すれば、完全な存在というものが取り出せるんじゃないか
とか思います。
>>160 抽出って、不完全の要素を排除するということ?
時間は不可能じゃない?
>>161 この場合は、抽出するという言葉を、概念的に明らかにして取り出せるような
形に表すという意味で用いました。そうすれば、考えの上では排除も可能になり、
時間というものも、還元することでそれ抜きの状態を考えることが可能になる
と思います。
>>161 時間を例外にするとか決定論に支配されているだけ。
光速不変の原理は光速を元に全てを測る論理によって成り立つ、
光速を計る他の原理が存在しないから光速を原理として世界を現した
考え方にすぎない。時間も光速によっていくらでも変動する。
論理では捉えられない先を捉えることはできない、例えば決定論が
支配し誰も知ることも自由意志で変更もできない未来でさえ論理は
力となりえない。
世界の捉え方で世界の関係が変わるという考え、それは自由意志で捉えた
時点で劇的に変わるのではなく捉えた結果によってカオス発生のパラメータ
の初期値の微動が後に起こる巨大な差異となって変わるという自由意志の
表に出し難い部分である。自由意志が一瞬で世界を変えられないからという
理屈で世界は決定論に支配され人が定義した論理に反することはありえない
のように思うのは決定論の支配から抜け出せない自由意志否定論者である。
僅かな違いから起こる世界を
時間のない世界を想像するとは愚かな。
真理は既に手の中にあるのに、
その価値に気付けないでいるようだ。
時が流れるから永遠であり無常である、
故に時の流れない世界に完全なものなどないのだ。
諸行無常を知識として理解するのは凡人にもできるよな
それを悟りに飛躍させるには飛び抜けた才能だか感性が必要なんだろ
あんたには無理。
出家しなければ仏教的な生き方は不可能
俗世間にいるかぎり苦から逃れることはできない
つまり
本当の悟りに近づくためには宗教団体に入って修行しなければならない。
>>165 ×真理は既に手の中にあるのに、
○真理は自らの手の中だけにある、
若手が区別できないから注意な。
>>166 才能など崖っぷちで落下させられて生きている情況では誰にでも発現するもの。
それでも発現しない才とは、既に得ているのを気が付いていないだけ。
理屈以外の摂理で結果を出せた経験をした人のみ理屈の外の選択が見えてくる。
常識という無数の魍魎が足を引っ張っているだけ。
>>167 悟りに真実はあっても、本当などない。
万能の尺度を持つ計りがないように、本当という共通のそれは眉唾。
諸行無常を素通りして時間を止めた脳内モデルで完全を探す?
地頭が悪いんだろ。
品性が下劣なんだよ。こいつが欲しいのは悟りじゃなくて脳機能のターボスイッチ、超人願望。
>>173 ほんとうにそうかな、論理は確かに論理的に切り上げ切り下げとか
何かの型やら意味に当てはめたり要因や原因を不明なものを切り捨てて
特定の条件だけに閉じ込める性質はある。
そもそも完全というのは数学のそれで幻想にすぎないというのが正しい。
より高次の概念で定義しモデル化すれば実用的な完全には至ると思う。
有と無を完全にするために時間を止めたモデルの理論?よくわからないな?
>>176 諸行無常こそ真実だとご指摘くださった方もおられますが、有と無が変化の
一様相にすぎないということを強く感じますので、その一元をつかさどる
時間というものを取り去った場合にいかなる状態が現出するのかという
ことを観察すれば、新しい理解が得られるのじゃないかと考えました。
つまり、変化=時間であるのか、時間が変化の要因であるのか、変化が
時間の要因であるのか、存在とは静的なものでもありうるのか、存在は
時間を離れて想像可能か、といったことどもが疑問です。
>>166 諸行無常です
可能性は0ではありません
>>177 時間を超えた存在について、因果関係として存在を受け入れるのではなく
相関関係として存在を受け入れるのです。さすれば因果を超えた的を理解できます。
存在は物理的な粒子の個々の動きや位置ではありません。
電子の現象と人間が理解する熱(熱さ温度)、電子の流れと電気回路の理解を
同じと思うのようものです。
全体が大局とみて評価すべきことを末端の現象をみて評価を比較するのは
運命による必然(サイコロの目が平均的にでる)と、サイコロの出目の偶然を
同じ類だと区別しないことではないでしょうか?
比喩はできても同じ物ではありません、現象の支えとなっていてもそれではない
類で置き換えることが不可能でもありません。
粒子と模様を同じ系列にして捉えてしまえば人間は肉片でしかないという
理屈が生じてしまいます。逆に肉片でできていないものは人間ではないという
理屈を生じさせます。全身が機械に置き換わり脳だけが体細胞で残った技術が
できたとき、体は人間ではない機械という理屈にするのでしょうか?
すべての現象を未来のコンピュータで計算し模倣した中の社会の人間は
人間としての条件を満たしているのでしょうか?人間と呼べるのでしょうか?
>>180 歴史の一回性(唯一性)によって、存在が規定されるということでしょうか。
一回の観測しか行えないために因果関係が観測されず、相関関係しか観測
されないというような。結局不可知論に陥るのでしょうか。それとも論理的に
考えることによって、その2つは確かに認識されるのでしょうか。全体に
対する理解によって、必然(因果)は洞察されうるのであって、一回性
のなかで洞察され得る事実はすべて必然性があるゆえに一回性を超えた
認識がなされ得る(イデア)ということ?
いつもありがとうございます。
>>182 歴史の意味はミクロを見るのとマクロを見るのでは
恐ろしく意味が変わってくる、意味とは解釈する人の真実であって事実と表記する
べきなのか?
人は特別に意識しなければ事実と真実を混同してしまうと思う、意味を見出せない事実など、
ランダムな背景ノイズに捉えられるだろう、解釈によって高次の意味(名前)
を定義することで歴史が持つ意味は事実を誇張することによる過剰解釈と
極小表現により体験をしていない人に別の真実を与えることはないか、
論理は方程式のように具体性(変数への割り当て)が無くても成立しうる、具体性は感情論のように
働くだろう、事実を元にした真実は他者にとっても真実になりえる、
これにより事実は感情論の部分を含めた虚構モデルにも解釈されうるだろう。
必然という単語は「必ず」という部分だけを理解し「然り」という部分を
見過ごす人が多いので、詳細においても完全一致のような方程式の確定解のように
理解してしまう人が自然と思われる。必然はマクロやら大局に置いて成立するもので
偶然起こるようなミクロや細かい事実においての必然は間違った理解に
考えたいが、貴方の言う必然とは事実(観測データ)ではなく、真実(人が解釈した意味)
であると思える。因果関係はバランスによって情況が結果を成立する類
なのであろうか?… では無いのならば前後関係が連鎖した仕組みによって
論理的に機能した類を比喩した言葉と理解するほうが良いのでは?
ならば必然と因果関係は一致しない気がする。洞察される面は必然であっても
事実ではないという考え方である。
>>183 歴史のミクロを見た場合、それなりの歴史理解によって時間感覚(時間記憶)
が変わってくる。マクロを見た場合も同様。
時間が提供する変動環境は、存在同士の出会いの場であり、脱色された
記述的事実は、人間の意識の中で出会うことによって、意味が与えられる。
必然性とは、日常的な意味では、パラメーターがすべて一致した2つの
事実を指す場合に用いられると思う。存在にはとりわけての個別性がなく(皆
ヒトという種であるから)、時間という場が必然性を逃れるすべを与える。
比喩という側面は、そのように意味を与えられるパラメーターの個性が
認識される場合に用いられると思う。洞察という言葉もそのように理解
しました。
>>177 有と無が変化の一様相にすぎないことが諸行無常じゃないの?
186 :
考える名無しさん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN 0
○ 無門関 第一則 趙州狗子(じょうしゅうくし)
趙州和尚、因(ちな)ミニ僧問フ、狗子ニ還(かえ)ッテ仏性(ぶっしょう)有リヤ、也(ま)タ無シヤ。州云ク、無(む)。
把手供行(はしゅきょうこう)
さとれば 但(た)ダ親(した)シク趙州ニ見(マミ)エルノミニ非(あら)ズ、便(スナハ)チ 歴代(れきだい)ノ祖師ト手ヲ把(と)ッテ共(とも)ニ行キ、眉毛廝(アヒ)結(むす)ンデ同一眼ニ見、同一耳ニ聞(モン)ス可シ。豈慶快ナラザランヤ。
○ 門関(むもんかん) 第一則(だいいっそく) 趙州無字(じょうしゅうむじ)
真理さとり とは、
山川草木国土悉有仏性
さんせんそうもくこくど しつう ぶっしょう
このことを習いたての新参の修行僧が趙州和尚をキッと見据えて一本打ち込んでいきます。
常(つね)日頃 この寺の門前に寝そべってばかりいるあの痩せ狗にも仏性は有りましょうか。
趙州はニッコリ微笑んで答えます。
そのとおり、有るよ。
この新参の修行僧と趙州和尚の遣り取りを物陰から見ていた古参の修行僧がぽんと手を打ち、ニタリとほくそ笑み趙州和尚の前に歩み出て趙州和尚を試して問います。答えは既に分かってますよ、有、だろう、と。
門前のあの痩せ狗にも仏性はございますか。
趙州は振り返り、ジロリ、と古参の修行僧の心底を見抜きその得意げな顔を見て目から閃光を放ち、答えます。 無。
古参の修行僧
はっと飛び下がって地面にひたいを只管(ひたすら)こすり付け平伏しました。
この古参の修行僧に、省あり(さとりました)。 』
直感が働かない奴は目的を単に全数計算のような計算量にしか
置き換えられない無能者である。
スレ主にも仏性はありましょうか?
思考で知識を統合するには、まず空気を読む事
因果関係ではなく相関関係で物事を考える事
理屈は部分的に正しくても大局の働きでは成立しない事がよくある
のを理解する事
教科書の正しさは客観的ではないのを理解する事
空気読むとノイズとなる部分をなんとかしないと不味いよね。
ノイズを四捨五入すればいいんだろうけど、その計りは俺正義でいいのかな。
思考のノイズ部分を切り捨てられないで引きずると情報は統合されないと
思うがどうなんだろう。詳細な部分の明確さとかその客観性に縛られると
統合すべき全体よりも部分のほうが優先される可能性もある。
人が作った論理だから仕方が無いのかな
何の目的もない、思考というものがある。対象のない思うということ。E=mc^2を考えれば
思考は念でありエネルギーがあるので、またその過程において消費されるブドウ糖
の質量もある。つまり空は無ではなく、平穏ではあっても無いわけではない。
ハードとソフトということを考えれば、ソフトは誰にでも使用可能であり、
ハードの性能だけが思考を決めるわけではない。ハードに接続された電源の
消費量が、思考のエネルギーだ。
あらゆるハードはソフト無しでは認識(思考)ができないが、ハードのみにも
存在性はあり、ソフトに侵されていないハード性(物質性)を、還元的に
認識することが求められる。
>>191 俺の唄を聴け。
熱気バサラは唄のエネルギーだ。
途中からゴメンだけど
悟りを知るならもっと肩の力抜いたらいいと思うけどな
小難しくなると論破戦になりやすいから本質を見落とすわ
っで主は悟りたいの?
>>194 ○悟りに近づきたい
×悟りたい
君は文字を正しく読む習慣を
>小難しくなると論破戦になりやすいから本質を見落とすわ
言葉を他人にのみ向けている(投げ捨て)ならそれは正しい。
言葉は他人に向けている行為と同時に自分に返ってくることを知って
自分へも向けている言葉こそ本質と受け入れる姿勢である。
論破戦で自身が何を学ぶかが重要であって、相手を論破とか優勢になるなど
まったく価値などない。勝ちはあるかもしれないが感情的な満足であって
そんなものを求めるなら哲学板にいるべきじゃない。
何かを得る為にいるべきで、ストレスのはけ口ならそれ専用の相手がいる板へ
GO!
>>196 浸るなって。
>>197 悟りたいを悟りたいに近づきたいの語尾修正したり何が言いたい?
本質ってキーワード出してるんだから悟りに触れるようなツッコミしたらどうだろうか?
君らをひっくるめて素直になれよもっと
俺は書き方荒っぽいかもしれんけど君らが思ってる悟りのことについて純粋に聞きたいつもりで書いてる
自己レス乙。
日本語でおk
なんで悟りとかに拘るの?バカなの?
204 :
203:2013/09/09(月) 10:14:08.65 0
相手にしてくれる人がいない。
206 :
考える名無しさん:2013/09/09(月) 14:27:51.53 0
時空をこえる思考とは過去や未来を見通せる予知能力的なものですか?
真理に触れることが出来れば未来のこともわかったりするんじゃない?
>>206 そうそう、人には誰にでも超能力があるんだよ。
念力とか予知能力とか瞬間移動とか、
そのぐらい知っているよね?
悟ると物質化とか空中浮遊とか普通にできるよね
知らない人が多くて驚く
>>209 当然だろ、君が空を飛んでいたのは昨日みたが、あれは超常現象のそれに
ちがいない。
はやく宗教の教祖にでもなって。悟りとは何かを信者に伝授したまえ。
仏陀の弟子に予知能力者がいたらしいが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
信じることが悟りです
>>211 想念が邪魔して、像を捏造する悟りですか?
215 :
考える名無しさん:2013/09/14(土) 17:24:07.12 0
苦しみにはなにか理由があるはずなのだ。人間の性質として備わっていることの。
危険の察知や外敵の排除だろうか?そうなら、生きていること自体が、自己を保持
しようという恐ろしく自分勝手なものだといえるのかもしれない。それが人間の本来性
であるならば、それを可能にする条件としてある、外界とのエネルギーのやりとりが、
攻撃性の競合によって、生は闘争として存在することになる。敗れたものは死んでいく
しかない、というのが原始的生命。自然の恵みや、協力、住み分けといった、より、
生命全体を保持しようとする機構が、原始的な苦しみから離れた、新しい感覚を
生むことがあるのではないだろうか。喜びを手に入れるというのは、苦しみの中から
取り出すことが、生の有効利用である。だがそれはいかにして可能か。修行により
悟りを開いた事の、目的は、利己であり、利他でもあるはずである。
>>216 苦しみの原因が闘争本能だろうか??
闘争本能が人間の本性であるなら?
人間の生命は闘争と切り離せなず敗れたものは死んでいく?
それが原始的生命?
言いたいことはわからなくもないけけど文法が逝ってる
句読点の打ち方も異常
ヒント 統合失調症
功徳が足りない。
幼稚な文章力で凡庸な事を複雑化させて哲学者気取りだからいらっとくるんだよなわかるわかる
223 :
考える名無しさん:2013/09/17(火) 22:12:29.19 0
無理してインテリっぽく喋ろうとするからだと思う
必死に食い下がっても何もでないよ。
頭空っぽなの指摘されてるのに「何もでないよ」だってw
なんで粘着するんだろうね。スレ主に評価もされたことがない奴は見苦しい。
227 :
考える名無しさん:2013/09/18(水) 18:49:46.29 O
悟りに近づいたりすることはできない
なにかに、どこかに達することが悟りなのではない
覚悟のない奴はいいわけを考える、いつまでたっても理屈で物事を
考えて能力にできない。
頭空っぽのスレ主に評価されて喜んでんだってよw
スレ主の自作自演じゃなきゃカルト宗教だなw
芳ばしすぎるからからかいに来たくなっちゃうんだろw
>>229 そんなことよりプリキュアみようぜ!
>>220さんの言うとおり、統合失調症と診断されています。自分では典型例とは違うような
気がしていますが、少しづつ治ってきているので悲観はしていません。
意味不明なところが多少あるかもしれません。それはそのような理由からで。
理想が高いのは、一応インテリぽい環境の中にいて、薫陶を多少受けた影響が
あるせいかもしれません。皆が理想高かった、あの頃は。そして自分は病気のため
自らをその中に置くことができなくて。
それとは別に苦しみがひどくて、それに意味付けを与えるために悟りを考え始め
ました。
しらけつつも前向きに活動したいんですよ。結構恥知らずなところはありますが。
すいませんね。
他人は他人なので、貴方を理解することはできないでしょうが、でも魔法はやっぱり
あるんですよ。みんなそれを信じてるでしょ?おとなになっても。
>>229 >芳ばしすぎるからからかいに来たくなっちゃうんだろw
つまり人格障害と認めているわけか。
時空も超え、森羅万象を把握する千里眼をもたらす魔法の言葉を探してるわけね
理想高いね
高くてよかったね
そのまんまオウムだな
236 :
考える名無しさん:2013/09/21(土) 09:52:23.18 0
「無理してインテリっぽく」と「インテリっぽい」は違うよ・・・・・
インテリたのしいね。
夜になったら月を見てみろ 満月できれいだぞ
心が穏やかで静かになる瞬間があって
これって悟りかなぁと思ったりする
悟りかなぁと思ったり。
神は我々の形而下の意味に対する形而上の原理だ、
神の原理は活かすか殺すかの原理である。
殺すことで過去を美しく確定させ、活かすことで未来へ挑戦する、
過去を騙すことで確定された未来への因果関係を汚く破壊する。
神の力はどこにでもあり、どこにもない。
誰もが持っていて誰もが知っているが、誰もしらないし使い方もわからない。
神に対して行ってはいけないことが1つある、神を名づけて明確にすることだ、
神が名前を得たとき、それは既に神ではない。
原理は消滅し世界から消える。
神が機能するとき、活きに対する価値観の死はすべての現象に宿る、
死はすべての現象の優劣の結果であり、生は意思をもった可能性という
破壊者である。
生死を同時に受け入れる者よ、そなたの原理に神あるらんことを
>>240 形而上で神は表されるということでしょうか。美しい過去を作り、それに基づいた未来を
保証するということなんでしょうか。
仏教では如来蔵(蔵は胎の意味)といって、すべての人間が如来を宿し、すべての人間
が如来の子供であるといいます。
いずれにせよ、宗教的なことというのは、真実をとても求めるものですね。
>>241 いつもの俺の長文ポエムですよ。言葉には響きや轟き、そして論理ではなく
世界とのバランスで示される美しさが重要ではないか?
バランスがあるかぎり汚さもバランスには必須なのである。
考える根底を論理で割り切るな、美しく感じろ。
それは光り輝く美しさであるが、同時に闇を隠している。
論理で説明すれば与えられるのは論理的解釈である。
世界との関係で考えれば、与えられるのは世界との関係である。
神など、「カ+ミ」にすぎない。
>>242 文殊菩薩は維摩詰との「不二法門」の問答の中で、
我が意の如くんば、一切の法に於いて、言もなく、説もなく、示もなく、識もなく、
もろもろの問答を離る、これを不二法門に入ると為す。
と言っていますね。釈迦も龍樹も、詩によって教えを説いたのです。
僕はポエムの表現力とともに、その外れで沈黙を示しうるように思える
ところが好きです。
>>244 説法も人の創る物理法則も全てが論理であり、それは因果関係で世界を
語ります。
ポエムが可能なのは世界を因果関係ではない領域で語ることができるのです。
それは因果律も人のが解釈する物理法則も数学の方程式も関係ありません。
世界を語るべきそれは在るとは何かを語ることができるかであります。
全体の関係から予知すべき関係を結ぶ相関関係による語り人であります。
論理ではないので反証のように静的に続くことではなく、常に揺れ動き
常に移り行く其の場限りの関係であります。
事を成すのはその仕組みではなく、事のありようである事を表す為の主体に
対する世界であります。世界を表すことで主体を浮かびあがらせるそれは
言葉のポエムであります。
論理ではない故に論理の壁を越えることが可能とはそういう原理で考え
浮かび上がらせる物です。
言葉で表す何かを計るには、意味を問うことと哲学者のほとんどは考えるだろう。
言葉の距離を計る天秤があるとすれば、その天秤は重み形に表してくれるだろう。
言葉で示す何かを問うのに知識で説明すれば堂々巡りになるのは必然であーる。
我が使うる計りは言葉の距離を重みとして捉え形を浮かび上げる。
だがその計りを使う術は失われた伝承にしか残っていない、その計りとは
そんなもの同じ姿勢で取り組む者にしか意味がない故に説明する意味なし。
247 :
考える名無しさん:2013/09/25(水) 04:05:49.06 0
俺の悟りは、「俺が救わない人」を「俺が選び」「俺が認めた」ところにあるのだと思う。
生命体として見下しているわけだが、その差別が、逆に、相手には親切と受け取られる。
つまり、本当は皆平等でありたかったが、その感情を醒ますだけの必然性を、本当の格差の受け入れに見出したことにある。
誰も彼もを救いたい。全世界を救いたい。そういうのは、まだ自己を棚に上げたところから願っているだけ。
自分も有限であるのだから、救われる者も限られる。
行きつくところは
タントラ・ヴァジラヤーナですな
仏教の足元
250 :
し:2013/09/25(水) 05:25:27.61 O
タンドリーシッディーですよ結局
うんこらんち
仏の力をしるなら、加持力 功徳力、功徳力をまず知るべき。
254 :
考える名無しさん:2013/09/28(土) 15:55:28.56 0
「成せばなる、成さねばならぬ何事も」
吾がの心と書いて悟りと読む
悟りとは、哲学を哲学する思考のもっと奥、次なるは記憶の意識のさらに奥、無認識の意識のみのことを言う
それは時に神と呼ばれ、ときに仏性とも呼ばれ、単純に心とも呼ばれている
さて、人間が思考運動をするとき、前提条件として頭の中に自分という確たる人格があってそれが思考を行なう、と常人は勘違いしている
仏教ではその勘違いの己を末那識と呼ぶ
そしてその思考は己の記憶をもとに思考運動を始めている。記憶とは認識であり、認識も立派な知的運動なのだ。なぜならば人間の記憶は動体を捉えたものであり
静止したものをいつまでも見つめていると脳がゲシュタルト崩壊を起こすことは脳科学でも立証済みである。仏教ではこの記憶を阿頼耶識と呼ぶ
そしてこの2つの意識領域を瞑想によって完全に排除すると、悟りの領域である阿摩羅識に行きつく。これこそが人間の心そのものであり、思考どころか何も認識して分別していない意識のみの領域
五感だけが冴え渡り、意識が意識のみで生の実感を感じている領域。そこには涅槃寂静の安らぎがある。極楽浄土の心地良さがある。すべての知的運動を停止させた者だけがここにいける
さらにもう一つだけ奥に意識領域があるが、ここでは伏せておこう。先ずは悟ることで、次なる領域を存分に楽しめるのだ
>楽しめるのだ
語尾に気をつけようね
貴方の本質がそこに出ている。
>>255 これは遺伝子情報に逆らえということかな?
258 :
考える名無しさん:2013/10/03(木) 10:35:27.01 0
学者と宗教家の分岐点は証明できない仮説を真実のように語るか否かだよな
>>258 物理学の実証と数学の証明と宗教家の予知をちゃんと理解していない。
実証には必ず誤差があり、証明は常に定義を必須条件とした架空近似の設定にすぎず、
宗教家の予知は未来への布石で未来に誘い呪縛し必然と成す。
3者とも当人にとっては真実であり、現象としての結果が成されればどれも事実となる。
神の言葉を得たものは、神の力を理解できる術を得る。
神たるそれは言葉に潜む魔法を教えてくれる。
それはどんな言葉でもその根源を教えてくれる魔法の知恵だ。
神を信ずれば神の存在を真実のように語るのはあたりまえ
「神を信じて苦しみから救われた」
苦しみから救われた事が事実なら問題ない
学問とは目的が違うのだ
262 :
考える名無しさん:2013/10/04(金) 11:35:51.63 0
俗世を否定する類の所謂不思議理論は信じた奴の人生が崩壊しかねないからな
まあ俗世の出来事は夢幻だっていうだろうけど
だったら仕事も財産も投げ出して無一文になってみなよ
世界にあるのはモノと時間だけである。モノは物理法則に従った振る舞いがあり
(その物理法則は何の根源から規定されているのか、なぜ物理法則があって、
法則無しで存在することはないのか、ということは分からないが)、時間はモノ
の変化の間に存在する。モノなしの時間というのも考えうる。無であっても、
無の時間というものは存在する。だが時間はそれが存在したようにしか
存在しない。つまり、人間の認識の様式の表現によって、この世界に現象
として現れた。何もないという事態が実現するかどうかは分からないが(すなわち、
この世界が無から生まれたのか、有の変化の一様態が世界の現在なのか
ということ)、考えうるということは、ただ考えられ得る。何もない空間と、何も起こらない
時間を見つめることは、精神衛生上とても良いと思う。
>>261 おまえが神を誤解しているのは神を偶像(主体)という記号化、名前付けで
捉えているからだ。
>神を信ずれば神の存在を真実のように語るのはあたりまえ
神など信じていない、神という存在など認めていない。
故にお前の前提は完全に妄想にすぎない。
>>265 例えになっていない。
>苦しみから救われた事が事実なら問題ない
苦しみが救われた事とレッテルをはり問題がないような論法に呪縛し
そこには何の具体さもない。
>学問とは目的が違うのだ
目的は違わないというのは貴方にとっての主観にすぎない。
だめだこりゃ
未来には二種類ある
予測可能か不可能か
>>255 思うんだよね
神も、死後の世界も、六道輪廻も、仏も
総て障害でしかないって
死ねばそれで終わり、何もなくなる、自分の好きなものも嫌いなものもない
この体が蛆に食われようと、野犬に貪られようと、炎に焼かれようと関係ない
安らぎも、思い煩うことも、期待することも、絶望することもすべて無し
原始宗教すら存在する前の、何を欲するでもない獣の人に至るのがいいんじゃないかって
>>270 予測とは計ること、故に誤差が極大ならばどんな対象でもできる、
ただそれを予測というかデタラメというかの捉え方にすぎない。
言うなら予知、予見、予言といいたまえ、
>>270 予測ってのは確率による計測だが、計測制度は予測するものによってまちまち
また、未来というのも、どの程度の事象を持って未来とするのかが発言者によってまちまち
明日の天気から、今私が吐いた息の12時間後の行方まですべてが未来
そして細かく言えば、世界に何次元存在するかもわからない現在の人間には未来予測は不可能
あれ?未来が1種類に収束した。もしくは無限に増殖した。
それすらも人間にはわからない
>>273 確率ではない、予測の結果が確率というだけで予測は確率の結果ではない。
過去の要素と過去の過程と結果をデータとしそれに類似するものを当てはめ
その過去の方程式の答えを未来の答えとする計測である。
それは計算なので計算に必要な方程式のパラメータが足りない場合や
方程式そのものが変更されたとき結果が間違えるのであって
近似式は近似と答えを計算するだけである。
天気の根源となる気象観測には絶対に必要なパラメータが含まれて居ない
たとえば海中の温度分布や海の表面&深海の海流の変化、そして宇宙線などの
雲生成率の変化、また本来関与がほぼ無いといわれる成層圏より高い高度の
風の向きなど、いまだに成層圏以上の高度では風は吹かないと信じる人も
多いぐらいだ。
成層圏の高度で風向きが逆転するような現象はまだ観測が不明確で一般化
していないが、例えばgoogleの気球を高度だけの制御でアメリカの上空だけを
ループさせインターネットを行う計画などで大規模な流れの観測で明確化する観測中である。
レーダ観測で分かるという甘いものはレーダーが計れる粒子の大きさや
周波数による観測通過能力(距離)などを理解できていない。複数の周波数で
巨大なレーダーで観測する最新型マルチバンドレーダの運用は最近行われるが
それも観測周波数の数は少なく電波法の範囲内で行われている。
水蒸気が皆無で気圧が低い成層圏になれば現実に気球を上げないと観測は困難であり
部分ごとに違う流れなど地上の100分の1にも満たない気圧では遠隔観測機では
変化を確認できないのである。こういう背景があり気象庁が天気の方程式を
不完全のまま運用し力任せで出した結果が天気予報のそれである。
観測体勢の不備は物事の仕組みの根本であり原因を特定せずに分かっている
原因のみで予測してもそれはデタラメにすぎない。そのデタラメ度を君が
確率といっているだけ。
何の根拠もないものは当てずっぽうという
根拠があればそれを基にだいたいの確率を(数学的にではなく)経験則で計算して、確率が高いものから可能性として挙げる
基本的に実社会の確率論ってのは、数式にするにはパラメーターが足りなさすぎており、結果と乖離することも多々ある
どの程度のパラメーターを突っ込めるかがカギとなっているが、すべてのパラメーターを観測できない人間には完全な予測は不可能
実態を知るにつれてラプラスの悪魔が計測すべき事象は指数関数的に増えている
最初は原子の動きだけだったものが、現在では弦の振動をも観測が必要になっている
しかもそれで全てという保証もなく、一つの事柄が浮かび上がるたびに付随で計測する項目は乗算で増えていく
さて、予測とはどの程度の当てずっぽうが含まれているやら
日本語でおk
>>259 >現象としての結果が成されればどれも事実となる。
ずっこけた
それこそ誤差が凄まじいだろ
傾向すら現れない場合も誤差というのかね?
測定不能な誤差
280 :
考える名無しさん:2013/10/07(月) 14:31:53.96 0
そもそも宗教を予知に変換した意味がわからんな
正しい生き方だとか特定の状態(特定の人ではなく悟った前とか後とか)の心の構造だとか普遍的な内容でも予知なのか?
281 :
考える名無しさん:2013/10/07(月) 18:23:25.37 0
マジレスすると悟りは言葉では表現できない
なぜならそれは瞬間刹那の絶対であり同時に瞬間刹那の絶対でなく、またそのどちらでもあり、またそのどちらでもないからだ
この主張も言葉という相対に落とし込まれた以上真理ではない
282 :
考える名無しさん:2013/10/07(月) 19:45:20.20 0
物理法則の実証で誤差が生じるのは不確定要素を排除しきれてないからだよな
逆に不確定要素がどうしても存在してしまうから僅かな誤差が生じても真実である蓋然性は覆らないとも言える
つまり物理法則の実証においては予測と完全に一致する結果など不要だな
283 :
282の続き:2013/10/07(月) 19:48:23.16 0
だからって完全であることを実証できない宗教が真実なんてのは論理飛躍だぞ
物理法則の実証で僅かな誤差が許されるのは人間が不完全で万物を把握しきれないからだしな
宗教の場合これはもう敗北宣言に等しい
不完全な人間と同列にしちゃってるわけだから
「信ずるものは救われるかもしれない」なんて宗教はないだろ
284 :
283の続き:2013/10/07(月) 19:51:56.11 0
あと信じる気持ちが本物であることと信じたものが真実であるか否かは別の階層の話だな
285 :
283の続き:2013/10/07(月) 20:02:15.93 0
同列どころか物理法則の実証以下か
誤差が無視できるレベルかすら測定しない(というかできないか)で決めつけてるわけだから
まあ小さなことに拘らなくなれたとか前向きになれたとか人の生き方にフィードバックできる教えなら
目に見えた結果が出てるわけでこんなうざいこと言う必要ないかもな
支離滅裂
287 :
考える名無しさん:2013/10/07(月) 22:48:25.77 0
不確定要素で経典や予言が180度覆ったら物理法則でグダグダ言い訳する宗教なんて要らんだろ
例えば唯物論を覆す不確定要素ってあるか?
不確定要素の入り込む余地のない完成形なはずだろ
まあ証明できない部分を想像で補強してるだけだ
もちろん真実である可能性はあるだろ
想像が正しければ
不思議ちゃんにはつまらんだろうな
不思議脳
物理法則でグダグダ言う宗教、
え?
291 :
考える名無しさん:2013/10/08(火) 10:46:35.91 0
天動説は測定不能な誤差+物理の実証は真実でも誤差はでる=天動説も真実
必要十分条件を習ったの中学だっけ?
その辺りから再スタートすべきだろうな
分からないものを分かると定義し、望む態度は立派なのだが
分からないものを安易に分かってしまえば、それは妖怪の類でしかない。
オマエラを揺さぶる悪魔のささやき。
分からないものなら分からないと定義し、その矛盾に立ち向かうべきだろう。
立ち向かう姿勢があるならば、分からないものを最初に分からないと絶対に
定義しても立ち向かう姿勢に変わりは無い。
それを分からないものと定義したから分からないと理解してしまう心の弱さは
何も結果を与えてくれない。
293 :
考える名無しさん:2013/10/09(水) 09:18:13.25 0
わかった「つもり」になっている「己の事態・状態」がどんな「自分のこと・とき」なのかをまず「わかる」こと。
これが養老さんの「バカの壁」が与えてくれる処方箋だよ。
その症状を自覚できるようになったら、その後は己以外のものをわかっていける。
わかったつもりで背伸びしている人たちは、毛髪薄いハゲ頭に見えてくる。
「こいつかなり光らしてるけど、かっこわりいw」というイメージが眼中に入り込む。
だから、俺も知らなかった。
「だせえ」と言ってやると、薄らハゲはすごく傷つく。ときに憤慨する。
俺にとって「ダサいこと」なんて無意味で無価値だったから、効き目があるのをわかってから、効果的に使うようになった。
ダサい宣告されてノックアウト負けする論者は、竹馬並みのシークレットブーツを履いている。
竹馬並みのシークレットブーツを履くのが人間だろ
自己を対象化する以上無限後背は避け得ない
バカとマヌケの区別ができない奴っているよね、なんでバカな態度と
能力がバカなのを同じだとおもっちゃったんだろ。
恥ずかしくないんだろうね。
たけしの本て何?
たけこの本だろ。
失敗だけを繰り返すと人間は壊れてしまう。成功体験に支えられて人は正気を保てる。
些細な事から大きなことまであらゆる体験において予測と結果の合致がなければ、
人は壊れてしまう。他者というものが予測できない場合、それは人間であるという
認識が難しくなる。多くの違いにおいて、違いの共通項をまとめて人は概念を
形成するが、その目的は、予測を成功させることである。
つまり、常なる懐疑には脳は堪えられないということだ。信仰すること自体に快楽
が存在する。その快楽を積極的に取り入れていくことが大事だ。大きな裏切りを
消し去るような大きな信仰を生み出して。
全ての人間が信仰を必要とするわけではない。選ばれた人が信仰を作り、
また選ばれた人がそれを信じるのだ。そこにはひとつの世界が形成されるが、
人間性を抽出したような信仰こそ、多くの人間が信じるに足るものであり、
また脳の快楽を最大限に引き出すことにもなると思う。そうして、弱い人間も
強い人間も、同じように救われ、神の世界に住まうこととなるだろう。
だが、鉄壁の教義はない。間違うことは常に何に対しても存在するから、
その場合に修正をしていくことは怠ってはならない。神にしても間違うこと
はあるだろう。信仰と一般に人が考えることとは違うものが神であるかも
しれない。一般性と特殊性はどちらかを否定することはできないだろう。
305 :
考える名無しさん:2013/10/16(水) 04:55:29.90 0
悟りの定義を知っているか
悟ったものはどのように行動したか知っているか
仏教を知っているか
相続しないものは妄念でしかないぞ
無根拠なことを書かれてもね
何事も無根拠しかないだろうに
そうなのかな
>>305 定義などない、教えは常に喩えでありその喩えに至る知恵と経験こそが
定義を浮かび上がらせる。
仏教の根源は教えであり、それは解釈する側によってどのようにでも変貌する
という教えすら無知の中で無視されるのでしょう。
世界を知るのに因果関係で捉えたのではなく、相関関係で捉えた結果がその
成立の場であり、教えの答えは帰納法により無数の知と経験の積み上げによって
得た集大成であります。
後付で説明される底辺の修行者の解釈を定義と学び理解したつもりになるのは
より上位の観念が成立する起源そのものを無視し、その理解そのものの知識だけが
体系の流れも考えずに形式だけの相続とメタ化した意味だけを受け取る態度は
どうにも仏教を語る以前の問題かと思われます。
>>303 人間性とは人間が成りうる条件でしょう、人間の器たる体とそれを活かす環境
との奏効による働きが機能する条件があり、その条件として神のような対象との
関係を意識することで自身の世界に対する器の条件に秩序が生じる、そいう
巡るめく体系が宗教というひとつの考え方で各自が神というような存在を
意識する。つまり神が重要なのではなく神に対象される自己の存在のありかた
を持つことが宗教への姿勢であるはずだが、偶像信仰による形骸化が
知識信仰と共に体系を持たない習慣や形式行動や宗教解釈により
人個人と神の関係ではなく神の類を紐解く布教の中心(宣教師)となる
教祖や神や仏の言葉を伝える人の解釈で上書きされ、その形式的上書き
を宗教と考える人が一般化してしまう現在がそういう教えを俺解釈して
しまう流れに繋がるのでしょうね。
>>304 教義(教えを体系化した解釈)のほうが先行し、教義を成立させるべき条件の
始まりの教えに具体性がない故に行う(信じる)べき意味は誰かが作った
教えの説明のほうが正しいという話しになるからこそ間違いのようなことに
成りうるのでしょう。
世界との関係を因果関係だけで説明すればそういう論理にしな着地できないはずです。
個と世界の関係を万能にするには解釈しなおせる論理ではなく、世界との関係、
つまり相関関係による無数の経験や歴史による比喩を理解するのではなく感じて
善悪へ立ち向かう態度とするべきではないでしょうか?
教義などというものには前提した条件や定義や仕組みを元に結果をだすという
科学信仰を取り入れたものでしょう、現実の世界はそういう正しさでは
情況にそぐわない正しさと間違いが成立してしまうのでしょう。
どちらの選択もできないような究極の2択を選ばせるような問題で
何をもって2択の答えを選ぶのでしょうか、論理で選ぶのでしょうか、
人であるならば人の条件を満たすこと、それは自分が自分であることであり、
自分が活きるものを多数の活きる論理性(正義)に犠牲になることが
その間違いか、正しいの答えの1つでしょう。
神を形骸化したのであれば多数の犠牲になり死ねという条件にたどり着くの
でしょうか?神と自分の関係であれば自分が世界より優先される情況が
正しいという考えもあると思われます。
人間が人間たる条件を考えずに宗教の教えを安易に確信して受け入れるのは
人間の定義こそが宗教の教義という立場になるのではないのでしょうか。
条件を考えず定義する、似て非なるものだと思います。器より中身を重視するのか
器を重視するのかという考えを長々とポエムしているのです。
>>310 私の考えなどあやふやなものでしかありませんが、あなたの仰った器の条件
の秩序という考え方が、広く捉えた優れた考え方のように思えます。
やはり、神や仏が伝えたいと思ったこと、伝えるべきと思ったことがあって、
「神のような対象との関係を意識する」ような心の働きがあった場合には、
畏れ敬う神仏の、畏れる理由が各人のなかに必ず存在しているから、
内なる如来を具現化することができる人間が、おそらくこの世紀には
現れるだろうという楽観視をしています。時代が真実に近づいているという実感は
私のうちでは強いです。
私は多くの苦しみと多くの涙を抱えてきました。戦争を経験された方なども、
同様であると考えます。
>>311 器とういものは人間が持つものであるという理解は出来ますが、その中身というものは
一体何なのでしょうか。どう扱うべきでしょうか。行動の実際のことであるのかとは
思いますが、僕はまだ行動に至るような健全な教義を見つけていません。だから、
キリスト教より仏教を熱心に勉強するのです。とりあえず、自分の感覚という
社会性とはかけ離れたものについて考えていて、最近のアイデアは、
人間は意識に連続性を持たせる必要性はなく、各瞬間瞬間を参加という
意識でもって捉えることが、脳を休ませるのにいいことだと感じています。
村上春樹と比較するのは恐れ多いことだけど、考えを作るというのは、とても孤独な
作業だ。音楽やなにかの力で、ヘルプされなければ、やっていけない。
こうして哲学徒たちの考えにひたれるということはありがたい。
>>313 >器とういものは人間が持つものであるという理解は出来ますが、その中身というものは
中身とは空の中の実です。
それは形でありそれ以上分解すると意味を成さない原理としています、
その原理たる形を成すための仕組みが中身であり、
原理の捉え方でどのようにでも解釈可能です。
何かが活かされ働きを持つときの条件を考える場合の情況や原理の外側の
要因が外であり、形の中身は定義ともいえます、そして器は条件ともいえます。
人間という定義と人間を成す条件が一致していないという言い回しは
【中身】が人間を縛る原理を組み立てる仕組み(身体、遺伝子、法則、教育)
の形の部分でそれが形を成す為の「心の有様」です、つまり人の理(ことわり)です。
そして【器】が形に対する外側の形を成立しうる為の活かす為の条件です、
他にも相性や好き嫌いという表現で形の外側として人を成す情況です、
故に取り巻く条件である「事の有様」であり、人の真(まこと)という
表現になります。(つもり)
器が形の相関で説明されるものであり、中身は形の因果で説明されるもの
という表現です。
>>315 形になったものが人間の器、と考えると、人間は原始的には不定形であったと
言っていいのでしょうか。形のない人間はありえないということであって、
器の形象によって、「事の有り様」や人の真が表現、体験しうるということかな。
すると、器は人間の個性でもあり、普遍性でもあり、中身は体験である、
とまとめられるのかな、と思いました。
>>303 >選ばれた人が信仰を作り、
>また選ばれた人がそれを信じるのだ。
なんかごめん
よくできた詐欺手口と、詐欺に引っかかりやすい人
というように見えた
いや、騙されようと幸せになればいいんだろうけどさ…
信ずる者は救われるってそういうことだし…
>>305 定義なんてものに拘っていると、いつまでたっても悟れないよ
>>317 僕は金をとるつもりはありません。釈迦やキリストだってそうだったでしょう。
金欲は今のところ大きくなく、一般的な人が人生をつつがなく終えるために
必要な金で十分です。保険などに入る理由がわかるくらいのおとなになりましたが、
よくある悪質な宗教は、やる人間が腐っているのです。哲学に真面目に取り組んだ
人は、そういうことはしない傾向にあると考えます。
>>319 詐欺師は金を求めるが
宗教家は支持を求める
開祖はなにも求めていなくとも、なぜか弟子は開祖以上に求める
教えと言うのは人を経ることで腐ることが多い
結論
自分で考えるしかない
>>320 > 開祖はなにも求めていなくとも、なぜか弟子は開祖以上に求める
> 教えと言うのは人を経ることで腐ることが多い
宗教だけでなく学問でも言えるね。○○学派とか。
>>316 >形になったものが人間の器
違います、「器を条件づけるからこそ形が見えてくる」ということです。
私のそれは「形を成すものが器です」、不定形の形だからこそ器という外の
条件付けが期待されます。器と中身の間にあるものが形であり。
中に入っているものは【水】ような物で器がなければ形がどのようにでも
なりえるという不安定でつかみ所が無い前提を考えています。
基本は「形」つまり【人間の形】を考える上での定義と条件の言い回し(比喩)
の類(ポエム)であります。人の形を定義してもそれは人の形ではなく、
人の形を入れるもの器が必要になるという考えです。何故なら定義できうる範囲を
超えた類(働き)を持つのが人間の形と考えるからです。
そのような不安定で特定できない「人の形」は、@"移り行く"ものであり
A"揺れ動く"ものであり、B"生まれ死す"ものでもあります。
故にそれを定義付けるには無理があると考えるからこそ成立しうる条件を
中側の構造や仕組みという捉え方ではなく人の形が成立しえる情況をもって
人を捉えて@、A、Bのような何かを包括化する必要があると考えるのです。
>>316 人間の形を捉える条件という考えを持てば、人間が社会的に家族の1人として
また家や生活品の持ち主としての立場や人を取り巻く環境からみた【人と世界】
を対象させた関係で捉えるという方法に至ります。
それは人が世界を支配するのではなく、人が世界に活かされているという立場で
世界が人を条件づけることで人が人として機能しえるという世界との関係を
人間の形としてみることができるからです。
人が人間として活きるに必要な物はなんでしょう?活かされる為には?
その答えが人間の条件で器と比喩した言い回しです。
人と人が成す関係の世界という実に曖昧な働きを観念化した類が人と成す条件と
説明します。それはオカルトのような巡り巡って関係をもつものでその働きは
定義できるものではなく条件付けで比喩するしかないような類であります。
その「器」とは人が持つべき心、人が持つべき人間関係、人が持つべき日常生活
、人が持つべき仕事、人が持つべき愛、人がもつべき知識、人が活かされる条件のことです。
決してゴキブリが持つべき何かではないです。
人を定義するのではなく条件をつけて人を捉えることが重要と考えます。
それが人間性という見えない形を作り、そこに入る中身(定義)は常に
条件によって変化する曖昧なものでしかないという考え方です。
それは人を活かす情況こそ人に必要であり、人間性を考える視点の位置
がどこにあるかということです。人の人間性を論理で割り切り具体的に
説明してはそれ定義になり人の変化する形を許容できないという根拠です。
短く言えば人はオカルト的にしか表現するしかないという存在です、
論理で物質のように科学の考えで捉えれば、それは人間ではなく【物体】
なのでしょう。
その人間性の原理(形)を元に信仰という立場(姿勢)で神という存在を
求めるとき初めて人間が神に活かされる。神(仏)に祝福されるという立場に
なるという考えです。
そういう存在は因果関係ではなく相関関係で結びつきとバランスによって
できる秩序が人間性を正しく働かせる為にあると考えたい。
神(仏)の教義の形式論に従う奴隷であってはならないということです。
>>321 なんでそうなるか分かる?
開祖は自分で考えたものだから間違いを訂正もできるんだよ
弟子は開祖を信奉する立場になっていることがあるから、開祖の説をなかなか訂正することができない
信じることしかできないから、考えることを辞めてしまっているから、今立っている場所を守ることしかできずに腐り果てる
人が変わり、時代が変わっても、一向に変わらないことが正しいと信じている
自分に自信がないから、間違っていることに耐えられず、間違い無いと保証されるものに飛びつこうとする
釈迦は弟子に「教えとして広めるな、考え方として広めよ」と言うべきだったし、諸葛孔明は馬謖を斬るべきではなかった
発展は前任者を超える必要があり、前任者を超えるためには試行錯誤が必要であり、その途中で愚かなこともするだろう
それでも信者ばかりが増えるよりははるかにましだ
人が飛びつきやすいように保障する人間と、他人が提供するモノに飛びつく人間の関係は、詐欺師と被害者によく似ている
>>324 全く同意。宗教のことは詳しくないけど、フロイトの精神分析の運動に当てはめればよく分かる。
フロイトの弟子たちはフロイトに認められようとして、随分同僚同士で嫉妬やいがみ合いをしていたようだ。
相手の深層心理を読み合うので、きっつい批判になって頭おかしくなってしまう人が続出。
ユンクも死にそうになるまで落ち込んだが、なんとか這い上がって、立ち上がってフロイトを批判して
独自の理論を作り上げた。
それができる人は、まあ、なかなか少ないだろうね。
>>324 知らないみたいだけど釈迦は考え方として広めろって言ってるけどね
自らを灯とし、法を灯としろってね
盲信するのは誤った宗教の捉え方だよ
本当の宗教は哲学の終焉にあるものだって幾多郎も言ってるけどね
>>327 まあ大衆化するっていうのはそういう部分をどうしても含むよ
哲学も宗教も要は他に依らないことだと思うよ
で?
うんこ
信じるものを失った人が辿り着くのが宗教なんだから、妄信するのは別に間違ってないんだろうけど
332 :
考える名無しさん:2013/10/21(月) 12:00:04.57 0
逆だろ。宗教を信じる人が少なくなり科学を信じる人が増えてるのが歴史の流れ。
宗教と哲学はむしろ正反対。宗教が無条件に信じるのに対し、哲学は分析し疑い批判する。
くさい感傷が嫌になる自分が嫌になる。この嫌になるの連用は、前者が客観的
であり、後者が主観的であるから、二重否定ではなく、二連否定だ。
縮めて「臭い自分が嫌」にしちゃえばいいんじゃね?
>>333 心は鏡だ。つまり心の挙動は外界の写像にすぎない。
自分とは外界に対する自己であり、外界との接し方、外界の解釈によりどのように
でも変化しえる。心の迷いは具体性を求めているからこそ生じる。
掴み得ないものを掴もうとするな。防げないものを防ぐな。そういうこと。
逆に外界を自分の一部と受け入れるのならば、相手の疾患も自分の病気と思え。
336 :
考える名無しさん:2013/10/23(水) 21:07:25.94 0
私は鏡ではありませんが、外部に干渉することができます。
人間がなるべく避けたいと思うことに、禁止がある。禁止の程度を薄めて対象をきつくしたもの
が決めつけや命令である。禁止というものからは、否定する以外の方法では逃れられ
ない。一番きつい禁止が、死んではならないという細胞の訴える禁止である。
殺すという行為は、死の禁止を呼び起こす行動である。細胞は禁止をさせる手段として
痛みを使う。苦痛は細胞のメッセージなのである。進化的に苦痛を考えると、
意志というものを生むために、苦痛のメッセージが獲得されたのではないか
とかんがえられる。
338 :
考える名無しさん:2013/10/24(木) 22:44:20.94 0
宗教の中で意外と論理的なのがゾロアスター教。この世界を善の神と悪の神が戦っている世界と考え、善の神に従って良い行いをすれば救われると説く。
この論理だとこの世界の災害をうまく説明できる。
>>337 恐怖感情が行動に繋がるのはそんなに単純ではない。
恐怖そのものが単純であるから単純に機能しているように思い込む。
死との対面に対する恐れは学習による高度な知覚になされるもので
その死とか殺すという概念を説明している貴方がそれを一番自覚しているのでは?
>>339 恐れという「感情」は複雑な過程を含むかも知れませんが、苦痛というものに
原因を求めることによって、恐れの端緒をどうにかしたいと考えたのです。
>>340 人間なら恐れに勝てない、故に恐れに勝つ瞬間だけ人間でなくなれば良い、
恐れに勝ったという結果からしか恐れに立ち向かう力は得られない。
高次な認知を伴う恐れ、そういう恐れを情況の捏造により錯覚させるのは
それほど難しいことではない。人の認知はプログラムのような仕組みではなく
それぞれの小さい抽象化の積み上げによる統合認知によるものではないか?
意識で意味とする認知が明らかに嘘と理解できても、無意識や潜在意識下で
認知される領域の認知は意識で制御できるものではなく単純な仕掛けに騙される。
つまり意識で無意識を騙せれば自分は騙されていないと思っても、潜在意識を
騙すことは可能である。恐れを克服するなら自分の根本の認知を騙せ。
>>341 もし、そのような騙しが可能であり、実際に身につけられた場合には、無意識が
恐れを抱く場合の引き金である苦痛というものを、喜びの苦痛として認識するよう、
無意識を騙せるので、苦痛自体を喜びとするような人間になれると思いました。
このように考えられるように、人間というものは複雑であるから可能性も
あるのでしょう。まだ進化の途上(最も進化し、新しい生物である)ですし。
生存本能がありながら集団自殺する生き物もいるわけで
活きるとは微妙なバランスで世界の上に活かされていると思うべき。
釈迦は不老という境地に至ったらしい。不老不死ではない。この言葉について考える時、
当然不死不老と言い換えてもいい。不死であるとはどんなことか。それは、生物としての
人間を考えた場合、食料が必要ない(エネルギー的に自足している)ということであろう。
これは、生物には不可能なことだ。したがって、不死は説かれない。一方、老いるということは、
時間に作用されるということである。したがって、魂の永遠性を仮定するなら、不老ということ
は、達成可能な境地である。悟りが悪の殲滅であるという仮定をするなら、不死は悪であり、
不老は善である。人間という生物の本分を考えると、他者に迷惑をかけないという、エゴを
否定することが、生物にプログラムされているのではないかと考えたい。その程度の期待を
人間という生物に持ってもいいのではないか。人は、他人といるときにカリカリする。自らの
完全性を否定するのが他人であるから。不老の境地に達すれば、他者(時間)に魂が影響
されることはないから、他者と自分が合一した境地こそ悟りであるとかんがえられる。
悟りとは自由であるとかんがえるなら、自由とは他に影響されず、他に影響しないと
いうことであるから、その自由は、他「者」である、時間等からの自由である。
運命から自由になることである。歴史にかかった呪いは、悟りによって解かれる。
個人というものは一つの概念にすぎない。自らの最も親しい物が個人(我)であり、
我という概念が他者という概念と本質的に違うわけではない。自らの誇りやプライド
といったものは、間違いへの恐れ、誤解による間違いといったものから生じる。
その幻想としての我というものを抱え込む必要はない。
348 :
考える名無しさん:2013/10/28(月) 14:58:32.30 0
>>346 運命に従いたい
自然の摂理に従いたい
と思えるなら運命や時間に拘束されていたとしても自由だろ
この路線の方が現実的な気がするがな
>>348 決定論スレでも話題になりますが、自由「感」と自由は違うのです。現実的な
ものの裏に隠れている拘束を、解くこと。生物としてのプログラムを解くこと。
350 :
考える名無しさん:2013/10/28(月) 18:49:42.01 0
>>349 別路線と言ってるだろ
自由感に満たされた人生がゴールじゃ駄目?
生物としてのプログラムを解くことのなにが尊いの?
>>350 私は、身体というものは自由であると考えます。なぜなら、身体は特別の目的を組み込まれて
いない(記憶が無い)からです。でも、脳というものは、外界の影響を認識するという目的
があるため、自由ではないと思います。このような二つの器官があって、自由も不自由も
知っているという矛盾から、純粋な価値を得ることから阻害されてしまっているのでは
無いかと考えるのです。ゴールを何処に設けるかということは、生き方の問題でもあり、
生きる意味でもありますが、自由感を得ることは、難しい目的であると考えます。
そのような自遊感を広げていくことが、出来る人はいいと思いますが、私が念頭においている
のは、不幸をいかに減らすかという方向での模索であるのです。人間は生きる目的が
容易に見つからないことから、不幸にもなり、また栄光への希望を抱くのではないでしょうか。
352 :
考える名無しさん:2013/10/28(月) 22:48:19.63 0
>>351 自由とは意のままに振る舞う事だろ?
意がなければ自由もないんじゃないか?
まあ意を持つ存在や自由という観念自体も高等なものなのかわからんけど
最近は脳が腸に支配されてると言う医者がいるよな
あんたにはまだ不明瞭ながらも悟りというターゲットがあってそれが希望じゃないの?
ターゲットがないと希望も薄い気がするな
脳にも脳以外の部位にも自由がないとすると厄介だよな
身体の目的はDNAの存続
>>353 DNAの存続を目的にした場合、それがいかにして達成可能かという手段をおいておいて
考えることは出来ません。外界の影響(災害など)により、DNAが損なわれるのでしょう
から、そのために多様化、多数化という生殖、分裂等の手段を考えたのでしょう。
進化の目的は一概には言えませんが、そのようなストーリーの上に進化が可能になった
のではないでしょうか。
身体というものが、生殖、代謝などのためのエネルギーを摂取するために、身体
という外界に力で働きかけることのできるモノを進化させたのでしょう。だから、身体
はそのような目的なのだから、そのために最大の効果を上げるような仕組みが、
考えられ、身体が運動というものであるのなら、外界との調和を一番の目的と
しているというように考えられます。
記憶の基本は繰り返すことである。演算処理とメモリーのどちらが先であるかは難しいが、
演算処理と記憶の基本は、物質の状態を使って、それに再現性を持たせることであろう。
だから、わがままを言わなければ、コンピューターも水も思考しているのだといっていいのである。
そこにないのは自発性であるが。
356 :
考える名無しさん:2013/10/29(火) 19:10:22.09 0
自発性のない自由か
斬新だな
゚゚゚゚゚゚゚†「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、
あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。使徒2:15」
アジア・南米・アフリカ・中国・・広がりゆく諸外国でのイエスキリストによる奇跡、救いの御業(みわざ)..
医学で説明の出来ない奇跡の数々..ろう、盲、マヒ、ガン、精神病、様々な病気からの癒し、解放、
日本の教会では8000件に1000件がこの事を受け入れている++―
http://www.youtube.com/user/andresabm 渇く者は来なさい。命の水が欲しい者は、それを、ただで受けなさい 黙示録22:17~
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)イエス゚゚゚゚゚゚
>>354 DNAは料理に必要な器にすぎない、中身に入るべき食材ではない。
できあがる料理は器に依存しているが器が全てではないのは明らかである。
DNAが完璧ならば一卵性双生児は完全に同じ結果を生じる必要がでてくる。
器がパンの形を定義している場合に器にいれる食材がパンの原料でないならば
それはパンにはなりえない。
四角いスイカや星型のスイカが人工的に作られるようにDNAは成長過程での
環境要素との相性を定義しているのにすぎない。
ある疑惑が浮かんだとする。それは疑惑であるから、当然現実性を疑った事例である。
そういう疑念は、その存在を否定出来ない。脳の働きであるから、真否にかかわらず
状態である。疑念の中には自らの好悪が潜んでいる。全てを現実的に思う必要がない。
>>358 なるほど、DNAの限定さを言い表した文ですね。器の形のようにDNAの表現
が決まるということでしょうか。DNA自体には本当の価値は存在しないという
事を言っておられるのでしょうか。過程重視の考えに思いました。
私が思ったということ自体にまで踏み込んで意見したいなら、私を殺さねばならない
ということ。意見ではなく、認識することに対しては自由にしてほしいというのが
ややこしいところ。思ったことの内容ではなく、メモリー過程を消去することは、
どんな方法を用いたとしても出来ない。
このような理由があって、祈りに神聖さが生まれる。
形而上の、人間の創造物には、思念と論理の二つがある。
善意が思念の論理の従う規則である。思い自体には、生存の善が埋め込まれており、
悪意というものは、実は存在しない(と言っていいのか?)。存在は善である、
と言えるのかどうか。
善悪についてはっきり言えるのは、2つのものを比較した場合。どちらがより良いか
悪いかははっきりと言える。そのように、人間存在というものは、基本的価値基準を
はっきりと置くことができるため、はっきりとした価値を作り出すということになる。
>>361 >メモリー過程を消去することは、
>どんな方法を用いたとしても出来ない。
過去の事実は変えることはできなくても、その事実の価値や解釈を
変えることはできる。
人の価値観など人が社会へ貢献した関係で決まる。
消えない過去に対する未来を創れば過去は薄まり消えてゆく、
過去がなんだろうと、今の重要性のほうが大きいのは明白である。
今の積み重ねは過去より勝ることができる。
>>363 人間を形とした条件の上でしかその形而上の説明はなりたたない。
形而上と割り切らずに「形の上」と言いなおしたまえ。
「而」とは言葉と言葉を繋ぐ意味でありそれは本来発音してはいけない起き字
である。
>>364 善とは何かなら貴方にとっての善であろう、自分に対しての利こそ善という
関係になる。他者が悪と判断しても自分に対して善ならばそれでよい。
自身の存在理由の為の善は存在そのものの存在理由であり、それが否定される
ならば、否定した他者の自身の存在も否定されなければ対等ではない。
貴方は奴隷か?道具か?その辺に転がっている石ころか?
生きる為に他の生を殺して食べることを善か悪かという問答を聞いたことがないのか?
>>365 世界の基準は正しいようで完全ではありえない、常識的な平凡な場合にのみ
適用できる価値でしかない。特異な例にまで無理やり当てはめるのは人間の
判断ではない。機械が人間を取り締まるような理屈である。
人は常に機械を道具としその価値を判断する立場にいる必要があるからこそ
機械的に判断できないことを議論するのでは?
世の中は移り行くもの揺れ動くもの流転してゆくもの、変化を無視して
其の場に適合しない事を決めてしまえば、それは人の世界ではない、機械の世界だ。
>>366 過去を薄めるのが現実原則に従ったことなのだろうか。人間にとっての現実には、時間感覚の歪み
も当然含まれる。過去と現在または未来を比較して重要性の大きさを比べるのは、
現実原則という一つの妄想にすぎない。今の自由さをもたらすものは、過去に対する
現在の優越性にではなく、今という認識のクリアーさにたいする問題意識である
と思う。
>>367 >363
形而上を否定するのに、本来発音してはいけないという本来性を持ち出すのは、論として、
根拠がはっきりしない。形而上という概念の生成過程を観察する態度も必要であると
考える。禁止されているのではなく、自然にそうなったということ。
>>367 >364
身の振り方の基準として使う善悪は、すなわち価値観というものである。
存在理由が存在しないということも現実であるだろう。対等という価値観も
幻であるのでは?生きる為に他の生を殺すことは悪、食べることは善である。
>>367 >365
特異な例に基準を当てはめることは、その基準に対して常に存在せねばならないある
判断である。人間の判断のみが正しい判断であるとは限らない。思考というものは、
時間的制約を負っているという点では、機械の判断と共通性が見られる。
道具の価値を判断する主体としての責任は、常に付きまとうため重要である。
変化にたいしてどのように対処するかという考えも、その、価値判断への責任の
一つである。人間の機械性を否定するのではなく、一から作り上げるべき、判断基準
の担い手としての人間という側面を、否定するために機械と比べる必要性がわからない。
ある女性を愛する場合、その女性の性を前提とする。異性または同性。無性ということは
ありえない。好きになる理由、すなわち信仰の理由とは、その女性の特殊性への、信仰、
好悪判断への理由である。顔の特殊性であったり、性格の特殊性だったりする。
特殊性を意識する場面はそのような発端を持つ。自らの特殊性が、反省されるべき
場面である。
ほんとうにそうかな
374 :
考える名無しさん:2013/11/07(木) 16:03:00.08 0
多分、俺の世代で悟りは完成している。あとは、全人類にそれを開示する段階が残されているだけだ。
ただ、悟ると死んでしまう者も多い。
375 :
考える名無しさん:2013/11/07(木) 19:07:12.86 0
ばかじゃね
376 :
考える名無しさん:2013/11/07(木) 19:10:02.67 0
寧ろ逆に馬鹿だろ
他に別に愚かだろ
当然正反対に愚者だろ
377 :
考える名無しさん:2013/11/07(木) 19:25:03.55 0
悟ると死んでしまう者も多い。
自己愛という自己防衛システムは、自己が危険に晒されたとき、
脅威の対象を
「バカみたいで愉快な.おともだち'の姿」
で己に見せ、
己の心臓爆発を防ぐ。
天然なんだろう
379 :
考える名無しさん:2013/11/08(金) 19:41:58.53 0
晴れた晴れた
,,,.... |
く×××ヽ |
||.\×××ヽ |
|| \×× ヽ |
|| ,.-、\××i |
..|| (■,,) .\ソ ,,,⊂|
(__,,,,, ____ /~ \
`〜'''"´ ``'‐:-−''"´ \
/\__
l ゚々。/
ノl /ヽ
l/ l/
>>379 凄く低レベルの職業に就いているってことだね
382 :
考える名無しさん:2013/11/09(土) 13:40:59.95 0
「池沼杉@@@@@@@@@@@@@@@」と「池沼杉wwwwwwwwwwwwwww」ならどっちの方が不愉快?
384 :
考える名無しさん:2013/11/15(金) 21:42:44.46 0
SEXすると悟れるらしいぞ
愛のあるセックスでレベルアップすたいおー
オレはまだレベル0だ。
387 :
考える名無しさん:2013/11/16(土) 14:43:18.03 0
やはり小学生だったか
>>387 ものすごく傷ついた!ひっひっひっ、ひでぶ〜
ガキと言われて怒るのはガキの証拠
ガキと言われて反省するのは大人の証拠
ガキと言われて「なら大丈夫だね」と言って小学校に侵入するのはダメな大人の証拠
ほんとうにそうかな。
イデヨ
おまえにはイデの力がないのか?
コスモを感じろ、それこそ真理である。
イキロ
そんなこと言われても、おまえの目は死んでいるじゃん、前を見ろよ。
盲目とは俺主張をするだけではなく精密にぶれない緻密さを同時に持っていること
つまり俺正義であってもブレるとかデタラメなのは盲目ではなく思考は生きている、
「閉じた思考か」、「開いた思考か」であって拘り譲らないのとは全く違う。
最適化し合理化されるとき閉じているといえる。周りに準じても、過去の正しき
それを選んでも、俺正義でブレないければ、おまえは既に死んでいる。
ひでーーーぇ、、、、ぶぅーうーう。
>>392 死兆星はいつも明明とありました。いつも。前を見ることの難しさ。思考は生きている
という思考こそ、まさに生きているということ。そこで死兆星が意味を持ってくる。
もちろん開いた思考であらねばならず、そのためにこそ生きることが意味を持ってくる。
あべし。
死兆星が見えるんだ、本来みえないそれを見ているのはお前だ。
悟りに近づくと幻覚が見え始めます。これ事実だからメモしておいて。
そして幻覚を現実と理解する、これが悟りです。(心の成果物)
なんの解決にもならないが本人が納得できるからこそ悟りなのです。
死兆星が見えない人は、悟りに近づけない。
397 :
考える名無しさん:2013/12/09(月) 20:57:45.65 0
私は 30年ほど修行して 悟りを得たけど、
幻覚なんて見なかったなあ・・ てゆーか
そんなもの悟りとは無関係だし。
悟りは オカルトじゃないし、幻想じゃないし、
脳内麻薬で変な気持ちになることじゃないし
(ダルマさんは、脳内麻薬中毒。結果、足が壊死)
知識や、情報だけで得られるものじゃないし・・
お寺で座禅したら 得られるものでもないし・・・ だけど、
悟りは 哲学の終着点であることは間違いないから、
みんな がんばって悟るといいよ。
真理を知りたいでしょ?
>>397 >真理を知りたいでしょ?
知りたくない、だから早く消えろ、二度と来るな。
>>397 >真理を知りたいでしょ?
マーラよ去れ
>>397 真理などなんの役にすらならん。
世界を正しく関係を掴むための物事の本質を見る力ならば偏見を無くす
為に重要ではある。
401 :
考える名無しさん:2013/12/13(金) 14:24:36.15 0
どうでもいい。
他者にこうして欲しいのにしてくれない、こうして欲しくないのに
される、全てはつながっているのならば何故こんなことも起こる?
この他者と自分の間にある仕切りのようなものは何?と考えたら
何か変わったような感じがした。悟りに近づいたんだと思う。
ラマナ・マハルシの言う「この自分とは何か」という問いと同種の物ではないかと思う。
(一般的にラマナの教えは「私は誰か」という問いだと言われているが、
弟子のラメッシいわく「この自分とは何か」の方が本来の意味らしい)
正しさというものは、より集まっていくものであり、間違いというものは疎外されていく。
それは、人間の思考の方向であり、逆の世界というものは、もう構築され得ない。
その上で、脱構築といったような運動が、メインストリームになりえないということが
考えられるのだが、歴史の正しさというものが、すべての時間を包含している。つまり
時間に対する信頼として、脳内の正誤判定の機能を振り返る。間違った構築
をする必要がもうなくなっているということで、より正しさの向かう方向が、人間の
望む幸福というものであって、その何度目かのハッピームーブメントがまた試練
と希望を試されている。
>>403 世界を構築しているものが、人間の価値観であって、仕切りを作っているものも
また価値観である。価値観の汲まれる泉が現実であるので、積極的構築への
意志があれば、人間は変わりうる。それも、世界の極限までかわりうるので
あって、それが悟るということであると考える。ひとつの揺るぎない幸福が
悟りであると。
>>404 ただし、何を『正しい』とするかは人間が決めるものであり
その結果が地獄に進む集団自殺ルートと言うことはあるな
集まる阻害されるというのも範囲の限定次第でどうとでもなる
詭弁だね
>>408 内容の無い反論は見苦しいって知ってる?
しってるー ぶんぶんぶん はちががとぶ でしょお
おしりふって あしに かふんつけながら
はなのみつ あつめて じゅふんさせて
くちから わっくす だして へくさごん つくる
ふらいんぐおくたごん でしょお
>>411 ぷ
アナルにあれをねじこんで、これも無理やり押し込め、
そしてまだはいるんだろうということでマヨネーズやらケチャップやら練りワサビ
練りショウガなどどんどん入れよう。
口からもワックスだけじゃなくひらがなれいぶんには無限にいれたらおk
>>411 神がやどったようだね、そのまま朝鮮に行って修行してみては?
あなたに丁度いい
精神病的な症状というものは、治りうる可能性のある唯一の精神的現象だ。
それに立ち向かうためには、いろんな手段がなければならない。強迫性障害にせよ、
統合失調症的症状にせよ、精神はいろいろな部位がリンクを張られているのであって、
病的状態を緩和的に見た場合、日常の色々な豆知識にもなりうる。その程度の改善が、
世界で必要とされているのかも知れず、馬鹿にしたものではない。現実が人間にとっての
ものであってほしく、人間の立ち向かえない現実にはけして技術的現実を持ってしか
立ち向かえない。精神の世界には、現実と同じ程度の豊穣さがあって、それを取り戻す
ためには、あらゆる代償を払っても払いすぎることはない。このようにあらゆる回路を
開いていくことさえ、いつかは作り上げられた知能で代償されうるのであって、人間と
機械の類似性と相違点が浮き彫りにされるべきである。
どのように卑小であっても意志は意志であり、その個人的な望みは全て肯定的に人は
考えるものである。意志こそ、主観的でもあり客観的でもあるものであり、人間にとっての
宝である。意志同士の衝突こそ高いレベルの人間現象であって、奴隷と主人のような
どちらにとっても目をそらすべき現象ではない。
軽蔑されてきた人ほど称揚されるべきであり、尊敬を受ける人間はそれを他人に還元
するべきである。ニーチェのような前世紀の考える、闘争や争いを乗り越える、あるいは
それがない場所にそれがあるようにする価値の有り様を、むしろ乗り越えるような
状態を考えるべきである。現実に戦争が手段として不可能であるので、そこに、個人の
不可能性(死)の終わりを見るべきなのである。以前は現実でなかったことが、たくさん
現実に現れているのだからである。
精神に恩恵を受けなかった人間がいないのだから。精神の恩恵をしっかりと理解すること
が、より強く恩恵を認識する方法につながる。自分勝手な人間はもちろん最初から否定
されねばならない。人間こそが神であって、神は人間が作り上げたものである。
つまり、人間は人間がつくり上げる。それが人として人が生きるための方法である。
だが現実の全てを認めてはいけない。現実には個人にとって正と負の側面があり
その正負を認識して自らの価値に反映させることが必要である。つまり不断の努力
が必要なのであるが、それは人としての人間に備わった力であって、恐れることは
ない。すべての可能性が、全ての不可能性に対して開かれている。
あんまり こーゆーいいかたするのも なんなんだけど
public design 突き詰めちゃうと けっきょく
お年寄りと子供 限定の福祉枠になっちゃうんですよ これは
物理的にゆーと 社会の器なんですが それすら危うくなってる
現状のなか 固定された時間軸の中で繰り広げられているのは
競争原理とは程遠い ・・・・・ サバイバル戦争でしょお
で 夜DJやって わけもわからず 戦わせられてる若い子達や
世界中から集まって来てくれる 愛すべきギャンブラーやお客さん達に
麻酔銃で応戦して 煽ってたわけですけど(笑)
そのメッセージは決して反体制じゃないし 上からは叩かれましたが
文化 や 文明の衝突 を 避けながら
ガス抜きしていく方法は 東京のような混沌とした
コンクリートジャングル には むしろ有効手段だと思ってました
表で 商業デザインやってると 心理学と物理経済はセットだから
ポップからバブルに移行する過程で 初めて root reggae 聞いて
その sound system に「 あぁー すげーな 」って
素直におもった 名無しさんなだけで ・・・・・
基本的には 何でも掛けますよ つなぎよりストーリを重視ですから
横にした フレットレスの ハワイアンギターで スラックキーつかった
international date line ってのも 電波もすごいけど
じゃまいか は キー そのものが ぶっ飛んでんだもん
SS の トワイライトタイムゾーン ですよ (笑)
もう 現場には 出ないけど DJやってた頃には
reggae 以外にも 基本的には 何でも掛けてましたし
4打ちのつなぎより ストーリを重視した展開で
基本的には LIVEのほうが お客さんの反応も早いんです
時にはシリアスに誘導することもあるけど その答えらしきセレクトを
タイミング見計らってドロップしてあげると
音楽に身を委ねながら 哲学的な何かに気づくこともあるだろーし
そーなると たとえば 耳が聞こえない とか 目が見えないかたでも
現場の空気振動を察して 音楽を感受させてあげられるんじゃないかなー
なんて考えていて 現場の空気を通して
なにを 伝えられるのかってゆーのも
真面目に考えてました時期もありました
4打ちのつなぎで トランス主導でも 周波数やDUBWISE 駆使すれば
・・・・・ 密教的との 共存的な 落としどころもあるだろうし
実際そーゆーsystem も 現段階における
資本主義社会の修正すべき グローバル化の役目だとおもっているし
現 WHOによる 人体の退化実験と相対し 奴隷制度使った
アングラマネーとマフィアさえ絡まなければ
表現の自由と精神破壊の実験は マスコミの誘導一発で歯止めが利くので
現在世界的に加速している 文明の退化は
特に心配しなくてもいい一過性のものだとおもいます
つーか 単純に この時代 苦手なんですよね
けさは 8連投エラー まで ・・・・・
ひさしぶりに ながながと こーしゃく 垂れてみましたが
あらためて読むと
愚痴ですね(笑) ぜんぜんまとまっていません
しつれーしました
大抵のことはやってもやらなくてもいいことなのに、強迫観念が攻め寄せる。
「やりたいこと」を「やめたいこと」へ認識を変える。そうすれば、平穏な気持ちが
やってくるはず。
科学技術の立場で過去を投影する論理絶対主義に支配されているかぎり
心の病である精神病を治すのは不可能だろ、悟れよ。
統計的な外的症状を形骸化させて分類するところから一歩も進みえていないのが
その学会の現状であることもしらないようだ。
精神疾患を確率的に治せたのは科学医療では存在せず、治せたというのは自然治癒だけ。
古来からあるオカルト的治療のほうが直せた数が多いことすらしらないのね。
つまり病因の原理や仕組みは脳の欠陥や先天的遺伝だけで起きる病気じゃない
一卵性双生児でも別の環境では正常な人と酷い精神病の2つに完全に分かれたり
する事実を認めるところから始めるべき。
それは原理やら仕組みが物理的内面にあるのではなくそれを歪ませる世界と
共に働いているってことな。
>>429 あなたに相応しいことばを与えよう。
あなたは目的を勝ち取る気迫がない、
負けないように必死で現状を守っているだけ。
アカギシゲルが言う「死ねば助かるのに」
心の病んだ負け組みの思考なんてそういうもの、どんなものにもリスクがある、
リスクを恐れて目的にたどり着くとか希望がかなうとか、何かを成すとかありえません。
駄目なときは駄目なの、どんなにもがいてもくるしんでもどうにもならない、
チャンスが来たときにそういう心構えで立ち向かっていたら、必ずチャンスは
掴めない。じわじわと、どん底に落ちるだけ。
先に進むなら覚悟すべき、じゃなければ確実な奈落の底へご招待だ。
>>431 前向きな助言をくださりありがとうございます。
ちょっと趣は変わるかも知れませんが、『最強伝説黒沢』のなかでも、武士は死を覚悟して、
それ故に武装して立ち向かうのだ、というような言葉が言われていたと思います。
アカギはそういうことをいえるから天才であり、アカギの境地にまで達することができれば、
僕自身も良い方へ変わることができるのだと思います。悲しい現実に立ち向かうことができれば
いいと思います。
>>430 仰るとおり、心のことをあまり考えず、遺伝子的な欠陥と脳の機能状態のみを問題に
してきました。最近、認知行動療法をしって、エクスポージャーなども積極的に
行っています。心という柔らかなものを、知ることは、根本的な喜びであると
思います。
434 :
考える名無しさん:2013/12/25(水) 09:10:49.86 0
何もしなくても生きていけるならそれがいいが
現実不可能
だから犠牲を払って働かなくては生きていけない
精神病になって何もできなくなるのはまた別
芸能人のように遊びを仕事にできる人はいいなあ
・・・・・・・・・ 芸能人って 奴隷以下の 玩具ですよ
玩具にされない 秘密の場所はありますけど
そこは ヤクザ や 関東連合には 関係ない世界ですし
やつら 入口のドアを ノックしただけで ぶっ殺される世界
そして 不忍池 の 泥 と化す
人間というものの思い込みとは、生物としての傾向である。思い込みには快/不快、善/悪
などの傾向認知があり、認知されたものは、両方のセットを作ることで、コントロール可能
になる。それが客観的ということの根本である。生物としての傾向(の跡)があるため、
自然と一体になることは出来ないのであるが、生物としてのプログラムのすべて(傾向
の全て)を体得することにより、自然と一体化した存在ということが可能になる。そのとき、
寿命(時/瞬間)というセットをも客観的に見れるため、瞬間の認識が、存在の時と一致
することになる。その客観視こそが最終的に訪れるものであり、そのことで生死は完結
する。客観視の極みには、あらゆる往還があるので、限界を超えることになる。
>限界を超えることになる。
限界を超えるものは対価を支払ったものだけ、それこそが変わるという本質だ。
変化しないで得るなどありえない。偶然として得たことで変化もするし、得る
為の変化をすれば偶然は必然に変わる。
完全に近い密室を作ればいつかは窒息するのは確率論ではなく必然である。
隕石が落下して密室を破壊することも確率としてはあるだろうが、必然とは
変わることで世界の働きが結果を生成してしまう。
何もせずに得たいと願うだけなら、相当な対価は支払われていない。
そこにあるのは嘆きの壁であり変化なしで超えることは不可能である。
かぎ無しで扉は開かず、すべての過去が1つにまとまりすべての未来へと
続くこと、その過去こそが鍵であり対価である。
得たいなら願わずに自ら対価を支払い獲得することだ。
自らの覚悟なしでは望む未来はやってこない、世界が望む未来が来るだけである。
世界を自らの力と成した物にこそ世界の力が宿る、これが世界の真理である。
すべての世界、すべての働き、すべての意味と真の友達になれ!
真の友達ならば、すべてを与えてもそこに悔いはないはであり、真の友達なら
その逆も然り。世界の力は我の中に潜む可能性と思え。
>>437 >限界を超えるものは対価を支払ったものだけ、それこそが変わるという本質だ。
対価を何に対して支払うから変われるのかな、と思いました。真の友達の世界
には全てを支払っても構わないということはわかりました。変わるにはきっかけが
必要で、対価の支払がそれに当たるのかなと思いました。願わずに支払い獲得
する、
変化というものは、なんと豊穣なものか。変わるなら良い方へしか無い、心の問題
では、と思いました。
心というものがなくなり、頭で考えるばかりだった。でも、心は分け入っても分け入っても
尽きない、無限の広がりを持っていた。いくらでも探求できる、そして心は安心を与え
てくれる。自分の中に核ができて、それが広がっていく感じ。心を見つめるということは、
自らの力で何かを生み出し、とらわれないということだ。
心なんてものにアクセス出来ないという人もいるかもしれない。でもそれは簡単なこと。
あり瞬間に心があったと感じた時に、措定する心の空間。それを繰り返すことで、心の
ありかがだんだんとわかってくる。そのような、ムダを省くという頭の働きを使って、
心はその場所を明らかにする。そして、心こそが生きる意味である。
心というものは、空のようなもので、そこには差別という概念がない。そういう一つの空を
一人ひとりが抱いているということは、その潜在能力に、悟りというものがあるということを
示唆している。空は不滅であり、何物にも脅かされない。そして、広がりも永遠である。
そして、その属しているものといえば、ただ宇宙があるのみだ。
>>441 心の定義の1つ。それは心は定義できない。そういう類だと認めないかぎり
心の意を纏めることは不可能である。
心は存在するものであって実在するものではない、心は宿す存在の様相であって
その宿主の境界は曖昧である。絶対的な区切りがある心があるならそれを
考えればいい。外に対する心と外にある心が重なりいろいろな働きが生じる
ありさまである。心を生じさせる器が何かを知れば心は、心という示唆に
よって説明されるだろう。
人のような入れ物の器の中が空っぽであれば、心も空っぽである。
心の鏡が別の空を写像すれば心は水面に映した風景のように完全ではないが
類似したものを映す。すべてが個ではないように個が生じるにはそれを活かす
器が必要である、人が生きるには人が生きるための環境が必要であるように
心が働くには心を活かす何かが必要である。
心が他から孤立すれば心に残るそれは他を映す、それが相関関係で生じる
仕組みというものであり、因果関係で生じることではない。
曖昧な存在に仕組みを求めても定義できないのだから証明など不可能だってこと。
心ってことを考えてちょっと怖いことに気付いた
心の持ちようで世界が変わるって一見いいことのように思えるけど…
これって自分の満足する形でしか世界を見ないって宣言と同じじゃない?
逆に言えば、本来の心の持ちようを思考で強引に歪めて苦痛から逃げているだけじゃない?
苦痛から逃げることや、考えで心をゆがめるのを非難はしないけど、それを至高とするのはなんか違う気がする
じゃあどうすればいいのかなんて分からないけど、救いではあるが他人に勧められるものじゃない気がする
イメージとしてはドラッグに逃げているような感じかな?
死ぬまで酒浸りでも心はある意味幸福だと思うよ
自分自身と言う存在に、さらに酒を受け入れてしまえばいいだけ
「我思う故に我有り」ではなく「我飲む故に我有り」だよ
飲んでいない自分は、自分じゃないと切り離して考えるの
「あれは飲んでいないから自分じゃない」と、多重人格障害のように考えるの
そして飲んでいる幸福感いっぱいの自分のみ受け入れるの
これも心の持ちよう
444 :
考える名無しさん:2014/01/13(月) 22:05:49.71 0
苦痛から逃げるのは悪いことではない。ライオンが襲ってきた時に堂々と戦えば殺される。それは立派な態度ではない。逃げるのが正しい。
それに逃げるといっても色々だからな。現実の世界から逃げて心や空想の世界にしがみつく場合もあれば、心や空想の世界から逃げて現実の世界にしがみつく場合もある。
視点を変えればどっちが逃げているのかわからない。素人は現実の世界にどっぷりつかっている場合が多いから、その現実の世界が実は空想の世界のようにはかないことに気づいていない場合が多い。
で?
到達されざる観念があるとして、全体が萎み衰えた時それは全体として縮小している
のだから、膨らんだ時にそこに到達することが可能になるのではないか。
すべての感覚は一時のものだ。全体を繋がった生があると考えてはならない。
いっときのもが大事なわけはない。全てのこだわりが悪であるということ。なぜ
人間がそのように思うようになったかはわからない。しかし、自分の生に対して
何かの意味を見出すためには、いっときのものではなく、無のものに原理を
置くべきであると考える。
座禅は目を閉じる。目を開けていた時に起こる欲望、執着などが、目を閉じれば
起こらなくなる。五感の錯誤を統一した心でよく制しなければならない。
周囲の物によって変わる自己では駄目なのである。
449 :
考える名無しさん:2014/01/25(土) 20:54:07.00 0
座禅は、正しくは、完全には目を閉じない。
閉じるか閉じないかの曖昧な境目で、全てを視界に入れたまま、全てを見えていないものとする。
450 :
洋楽:2014/01/25(土) 21:12:15.00 0
ん?
>>449 それはいいことを聞きました。助けを頂いたような気がします。
452 :
考える名無しさん:2014/01/26(日) 19:29:23.72 0
結局のところ、我々が現実として見せられているものは全く現実でないって認識からスタートするのが大事なのでは?
>>452 現実と非現実の対比は面白いです。そのような両義性において、一つが表される。
どちらかを選ぶこと自体が、不遜であるというような気もします。あるがままという。
>>452 現実は事実ではなく、事実は存在せず、ただ真実のみある
ということだと思う
455 :
とむ:2014/01/27(月) 11:47:03.78 0
「事実は存在せず、ただ真実のみある。」
これはどういうことですか?
事実と真実は大体同じ「本当の事」という意味のように思いますが。
いま見ているもの(現実)は本当ではないかもしれませんが
現実が本当であるという場合もあると思います。
感じているものが本当なのか?
感じてないのに有り続けるもの(物自体とか)が本当なのか
存在とは?真実とは?
>>455 >事実と真実は大体同じ「本当の事」という意味のように思いますが。
いまの学校では習わないし、国語辞典にものっていないんだろうね。
だから同じとしか理解できない。
真実と事実は全く違うものである。
それは証明と立証と実証が違うように
存在と実在が違うように
阿保と馬鹿が違うように
それを教えられる人がいても言葉を習う姿勢が無い限り習得するのは不可能である。
言葉の具体性ばかり追いかえる世代は、観念をどのように知覚するかすら
分からないのであろう。具体性は逆に意味を形骸化させ
違う単語をすべて同じ単語のように説明してしまう。
まず「物」と「事」が完全に違うものを指すところから学んだほうがいい。
「そういう物」「そういう事」さあ何が違う?
こればかりは教えても自身で勝ち取らないと伝わらない。不親切なようだが
自分で見つけてくれ。
>>446 願わなければ得られ、願えば得られないものがある。
一見矛盾しているが、自分の願いが邪魔をして目的を掴めないということだ。
願わなければ目的にすすむこともできない、故に簡単には得られない。
願うとは希望することで強請ることである、願わなければ得られるとは
願って情況をつくり、願わないことで偶然である流れを呼び込むということ。
空気を手で使む類の事は力つかい巧妙に掴もうとすればするほどつかめなくなる
ということ。
情況が整えば自然に結果が誘導される原理において、意思や熱意や願いは
邪魔者でしかなく呼び込む何かに反発する性質があれば掴むことは
できないってこと。
>>455 大雑把に言えば
事実は「実際にあった事象」であり
真実は「個人が事象を認識した内容」が問題となる
真実の場合は、事実を誤認していたとしても本人の中ではそれが真実となる
ではなぜ事実は存在しないのか
簡単な話で、事実そのものはそれだけでは何の意味もないからである
若い女に鞭で打たれるという事実があってもそれだけでは何の意味もない
人によってそれは屈辱であり、人によってそれはご褒美である
事実に意味を持たせるのは真実であり、事実そのものに意味は存在しないのである
459 :
とむ:2014/01/28(火) 03:34:10.88 0
真実と事実が同じ言葉と言っているのでは無い、
「「真実って意味が広いですよね。本当の事って意味もあるみたいですよ。
「裁判などで、被告人に、「事実を述べなさい」という言葉は、
「真実を述べなさい」と置き換える事もできます。」らしいし。
つまりあなたのでも間違いではない、が。
見ることができるなら多面的に言ったほうが正解に近づくと思われます」」
と言うこと。
>>458 「存在しない」の意味が
「価値」と「内容」とでごっちゃになっている気がします。
「何の意味もない」と「存在しない」はまったく意味合いが違うのでは?
>>簡単な話で、事実そのものはそれだけでは何の意味もないからである
若い女に鞭で打たれるという事実があってもそれだけでは何の意味もない
それは、言葉にする上での価値の話ですよね?
>>若い女に鞭で打たれるという感覚が有り
人によってそれは屈辱であり、人によってそれはご褒美である
これはその人の
これはその人視点の内容
独我論的(正確な言葉では無いかも)な立場で見れば
世界は自分だから、事実そのものが意味(内容)なのでは?
有るのは物質だけじゃなく感情も、なのですし。
>>459 宗教において信じるとは根源的な原理であり、
その原理の上にある神とは、事実ではなく実在でもなく
神は真実であり存在なのです。
神が物体である必要はないのです。故に実在である必要性は皆無でります。
「信じる原理において成立する」そんなものは無いと貴方は言うのかもしれない。
機械的にしか物事を認知できない貴方に何をいっても無駄かもしれません。
>>459 存在とは、それ単体で存在するのではなく、それにかかわるものによって意味を与えられることによって存在が確定します
例えばあなたと友人の関係で
あなたから見た友人と、友人から見た自分は別の存在です
同一のものを見ていながら、全く違う存在です
もちろん、あなたから見たあなたのオカンと、友人から見たあなたのオカンと、オカンから見た自分は別の存在です
「同一の物体=事実」を見ながら、語れるのは「別々の実体=真実」です
もちろん事実のオカンもありますが、それを語れる人はいません
認識し語る時点でそれはあくまでオカンのイデアの影であり、自分ですら認識しえないイデアそのものを認識できる人はいないんです
認識そのものがクオリアを通した劣化認識である以上、事実は認識できず、全て真実となります
「人の視点=真実」しか無いのであれば、自分の真実はどのようにでも歪めることが可能なのではないか
これが裏読みした悟りですよ
そもそも仏教を宗教に置くこと自体が間違いなのです
宗教とは神という原理原則に基づいて救われるためのものであるのに対して
仏教は原理原則という途中経過は置いておいて、生老病死などの悩みが無くなった状態である悟りに至るためのものです
宗教が資格取得のための予備校であるなら、仏教は自己啓発セミナーです
明確にやるべきことが決まっているわけではなく、どのような方法でもいいので悩みがなくなればいいのです
極楽や地獄があること自体が変なのです
「南無阿弥陀仏=阿弥陀様の言うとおりにします」という自意識放棄でも悩みが無くて救われればいいんです
ただ、南無阿弥陀仏は、外部にある阿弥陀仏が嘘である可能性を秘めているので、完全な悟りではありません
悟りとは自己完結でしかありえません
で?
465 :
とむ:2014/01/29(水) 05:16:54.67 0
>>460 ん?そんなこといってませんよ?
「有る」のは自分が「見てるものだけ」かもだし
見てなくてもある、「物自体」が有るかもだし。
といってます、なぜ神様が出てくるのか。
>>事実ではなく実在でもなく
神は真実であり存在なのです。
なんだい?それぁ。子供がダダこねてるのと同じ
「いないけど、いるからいるのぉー」ってか。
あなたは自分の言葉の枠組みに縛られている
あなたによれば真実は主観でしかないほぼ思い込みなんでしょ?
>>461 人の「視点」ていうか、かりに、世界に自分しかいなかったら?
真実=事実なのでは?信じるって、一歩間違えば妄想。
>>464 私は名前付いてるでしょ!
466 :
とむ:2014/01/29(水) 05:24:59.20 0
>>462 自己完結っていったら、あらゆる考え全部そうなのでは?
嘘、であっても、救われていれば、良いって書いてませんか?
なぜ、ダメなのですか?どんな手段でもいいのでは?
467 :
とむ:2014/01/29(水) 05:40:52.35 0
468 :
とむ:2014/01/29(水) 06:08:44.59 0
このスレの趣向は、ノイズ(かんちがい)を
排除していくこと、でしたよね。
真の理とは、悟りとは、ノイズの無いものだと思います。
なるほど、自己完結とは
思い込みを排除した状態ってこと?
名前はいちいちうざいかも、だから消すか。
>>存在とは、それ単体で存在するのではなく
それにかかわるものによって意味を与えられることによって存在が確定します
なんにせよ、それは「実体」とは言わない。 実体っていうのは
単体で存在できるもの。他に寄りかかってでしか有り得ないもの
では無いです。したがってあなたの言う真実では無い。
貴殿は私を機械的と言ったが
それは私が精確・正確と言うことにしかならん、ですよ。
>>465 >>人の「視点」ていうか、かりに、世界に自分しかいなかったら?
>>真実=事実なのでは?信じるって、一歩間違えば妄想。
自分とはどこまでが自分?
髪の毛を切り取っても自分
手をもいでも自分
足をもいでも自分
首だけになっても自分?
脳だけになっても自分?
脳細胞一つになっても自分?
死体になっても自分?
コギトの難点は『我』を定義できていないところにある
>>466 完全に救われるのであればいい
しかし阿弥陀仏にすべてをゆだねる救済であるため、それは悟りではない
いわば苦に浸され過ぎて雑念が増えるのを回避するための、緊急避難的雑念排除法と言える
それでも救われるのならと言うあなたに聞くが、阿弥陀仏はどんな時でもどんなあなたでも絶対に救ってくれるのか?
言うなりにしかせず、考えもしないあなたに対して
いや、そもそもあなたは阿弥陀仏に救われる立場にあるのか?
ということを言えてしまう以上完全な救いではないのですが?
神と信仰とは、自己完結ではなく神という他者によって完結するものです
悟りとは自己の取りようによって外界の見え方を変容させるものであり、外部になんら影響されることのない完全な自己完結です
神に愛されたいと思えば信仰は高まりますが、悟りを得ようとする限り悟りは得られません
>>469 >>なんにせよ、それは「実体」とは言わない。 実体っていうのは
>>単体で存在できるもの。他に寄りかかってでしか有り得ないもの
>>では無いです。したがってあなたの言う真実では無い。
では実態を語れるか?
私は
>>461で実態は認識すらできないと言った
物体を構成する最小単位は、現在十数次元を持ってしないと解明できない
物質ですらその状態にあるのにあなたは実態を認識できるのか
所詮クオリアを通した劣化情報でしかないのではないか
あと、機械的と言ったのは私ではないよ
473 :
考える名無しさん:2014/01/29(水) 18:15:53.61 0
だれがだれだか。
>>470 そういうからには自分がどこかにはいる、っていうのは分かるんですね。
どこでしょうね。
>>471 なるほど、私も別に神様とかは(存在は別問題として)信じてはいないな。
>>472 >>物体を構成する最小単位は、現在十数次元を持ってしないと解明できない
何で最小単位を解明するのに、数が増えてってるのでしょうね?
*
ちなみに、仮に私が答えを知っていたとしても私は完全な答えは言えませんよ
それぞれが考えるのが大切だと思うので。野暮だから
>>470 コギト概念に発した悟り概念の描出
意識は多数の細胞のつくり上げる生体コンピューターである脳によっているのだから、
本質的に複雑なものである。思うという行為が、一のものであって、我という意識は
複雑なものである。そのように複雑な我の最小単位の行動が思うということだ。
悟りにいたった場合にはそれ以上変化、向上、会得することは必要ない。その人間は
満ち足りる。したがって、生まれ変わってもう一度とか、別の生をとか思わない。
その場、その個体(の脳)であることで、完全な可能性を達成している。悟りとは不死である
が、死というものは自らの終わり、脳の瓦解であるから、悟りとは終わることのない状態
に満足した脳の状態であるから、不死を達成する。老荘思想の「道」があるのみで、目的
、目標がない。欲がなくなる。だからとらわれず、安定している。
また、直観というものが、現象と脳機能をつなぐものであり、現象と脳機能が繋がれた悟り
状態には、ある悟り的認識が存在するので、神秘的な要求にも答えられるのが悟りである。
そのように、思想を超えた宗教としての意味を悟りは持っている。
では、どのようなことをすれば悟りに至るのか。
仏というものが、悟りの境地を得ている状態の象徴であり、人間というものが
苦悩、修行しながら悟りに至ろうとする状態であるなら、その双方向
からの近づき、すなわち悟りの境地の想定と、その実質的直観からの努力
というものが、一致した時には悟りを得たということになるはずだ。そこに至るには、
長い経験が必要とされるだろうが、病が癒える時のように、徐々に自然にその状態
へと落ち着くことができるのであって、各宗祖、修行者の方向へ近づくことで、
その状態は得られるものだと考える。
>>473 >そういうからには自分がどこかにはいる、っていうのは分かるんですね。
いいや?
>>474の言うようにデータの集合体の一出力でしかない可能性も考えるよ
正直なところ、脳細胞の何割が無くなれば高次脳機能障害に陥るのか、脳以外の神経細胞がなくなった場合はどうなるかなんて未知だよ
そのうえで重要なのは今であると言うよ
今の時間連続体が人間が認識できる世界なんだからね
>何で最小単位を解明するのに、数が増えてってるのでしょうね?
冗談で言ってます?
>ちなみに、仮に私が答えを知っていたとしても私は完全な答えは言えませんよ
不完全な答えにしかならないのでいりません
あなたにとっての完全な答えはあなたにとってのみの完全な答えであって、私にとっての完全な答えにはなりえませんから
>>474 悟りは不死ではないよ
死を含むどのような状態であっても平安であることが悟り
>>468 > このスレの趣向は、ノイズ(かんちがい)を
かんちがいではない。
ノイズ=迷い
悟理はそれの1つと理すること。つまり意思による運命の選択である。
仏教で滅するのは迷いでありそれはノイズでもある。
すべての可能性は選べるが覚悟なき選択に悟利なし。
迷いを断ち切る、合理性を得れば可能性を捨てるというリスクとの対話だ。
利あれば損も同時にある
479 :
考える名無しさん:2014/01/30(木) 12:21:01.60 0
>>476 >>いいや?
じゃ何で主張何かができるんだよ。
自分がいなきゃ、意見もくそもないんじゃないの?
何にもないっていう空論者?
>>不完全な答えにしかならないのでいりません
まあ、真実は一つだけど、答えはいくつもありますよ。
ただ我が何なのかわからないと、不完全ですね。
>>478 そうなの?
迷いってのは嘘を信じてしまうことからってみたけど?
>>あなたにとっての完全な答えはあなたにとってのみの完全な答えで
あって、私にとっての完全な答えにはなりえませんから
これは、正しいとも言えますけど。
考えがそれぞれの思い込みみたいに言っているのなら
思考停止にしかならなりません、ていうかわざわざ言うほどの事じゃ無い
ここに至るまでの、正しい道のりが有る。
我とは主観が記憶した自他の区別ってのはどう
運命は選択できない、意思(選択したい)には決定能力がない
常に選択肢と主体者の相対性の作用によって決定された先に運命が現れるのみ
この道理で解脱する。
483 :
考える名無しさん:2014/01/30(木) 16:59:00.46 0
>>479 迷いとは選べないこと、選ぶ心理が出来上がっていないこと
そういう情況では目の前の単純な合理性に簡単に飛びつき
全体を客観的に、抽象的な観念として感情を含まない流れとして見れなくなる
「選ぶことの迷い」つまり何を選べばいいのか判断できないことだよ。
全てが嘘に見えて全てが正解に見えるから迷う。
可能性を追っていては目標など掴めない、1つを得る為に可能性の
すべてを捨ててこそ悟り。多くの可能性を掴むには多くの時間が
多くの犠牲が必要なので一見として何の犠牲も対価も払わないような
諦めなど無いように見えても何かしら見えないものを犠牲にしている。
タイミングも偶然のひとつであり、対価は情況だけではなくタイミングも
時間も全体の流れでも大きく変わってくる。そういう流れを読み取る
には覚悟が重要であり、代償を考えず選ぶものには大きな良運が訪れる
勝敗の根本原理である。
統合的な思考能力がないとそういう抽象的な観念が理解できないので
流れを読み取るなどについて「具体性がない」と言い切りそれは考える
べきじゃないとして目の前の合理性だけを求める。
その思考には布石という価値観が0である。
484 :
考える名無しさん:2014/01/31(金) 06:15:52.64 0
>>483 それをいうなら
全てが正解で全てが嘘であることが「理解できるようになる」、
ことが悟りとも言えるよ。選ぶ自由ってそういうことでしょ。
合理性も抽象性もどっちも必要、って言ってんの。それのどこが単純なんだよ。
選べないっていうのは、嘘も正解も無い・忘れた、世界だ。
あなたは合理性の欠けた馬鹿なんですね。
>>1つを得る為に可能性の すべてを捨ててこそ悟り
なんか、盲目的に見える。
>>タイミング
タイミングって
「また「Chance(チャンス・好機)」が突然または
偶然おとずれた時間的瞬間をあらわすのに対し、
みずから調節・調整して得る時間的瞬間という意味合いを持つ。」
らしい、所詮wikのだけど。
>>目の前の合理性だけを求める。
何の事?私は神様についても言っているけど?
目の前にはいないですよ。
あと、遠く離れている風な事いって都合よく布石とか偉そうに言うな。
485 :
考える名無しさん:2014/01/31(金) 06:23:22.92 0
具体性とか合理的を悪く言い過ぎ。
*
具体性も抽象性も悪く思おうとすれば悪く思える。
ややこしい言葉だから、両方の意味を知らないで
多用するとはぐらかそうとするアホに見える、かもしれない。
>>意思(選択したい)には決定能力がない
え?
本当にそう思うなら意志・主(ヌシ)は存在しないとでも言えばいいですね。
決定権がないものを主体とは言いませんよ。そんなんじゃ解脱もくそも無いでしょうに。
私は世界を選ぶ自由もあると思いますよ。
世界ってどの世界?
>>486 決定論で決め待った機械的思考では、意思は世界によって決定されている
こと、つまり自由意志は存在しない。
これは簡単にいえば過去が変更できないように未来も同じ性質であると説く。
未来が変えられれば過去も同じ性質であるはずである、故に未来は変えられず、
過去も同じ仕組みだという話しである。そこに意思が決定したという仕組みなど
なくそういう風に名づけている錯覚であるってこと。
さあ否定するなら決定論を否定してくれ。
現在の選択は全て世界が生じたという根源によって支配され、変更できない
ってこと。そして決定論を否定するならば過去を変えてくれ。
それこそ自由意志の存在の証明である。
>>479 ではあなたはどこまでがあなたですか?
>自分がいなきゃ、意見もくそもないんじゃないの?
あなたには自分というものがどこまでかしっかりと分かっているようですので聞きます
>>470に沿うように答えてください
>まあ、真実は一つだけど、答えはいくつもありますよ。
だから真実は一つかもしれないですけど、それは確定された一つじゃないんですって
もたらされる情報によってあなたの真実は常に揺れ動いてるんですよ?
>>480 いいえ、悟りに至る道は全く同じではないということです
釈迦と同じ道を歩けば悟りは得やすいかもしれませんが、必ず悟れるというものではありません
同じものを見ても感じることが違うのが自然です、だから他人の悟りという答えを聞いてもそれは自分の悟りにはなりえません
>>481 同一の肉体に別の精神を作ってしまう多重人格障害がある以上、不完全な気がします
全て他の人格と言ってもいいかもしれませんが、全て主人格の一面と言ってもいいかもしれません
人格によっては他の人格を自分として受容しているものもあるようですし
>>488 決定論は否定も肯定もできないね
なんせ決定論は否定も肯定も悪魔の証明だから
「この思考が自由意志ではなくそうなるよう考えていた」ということを「思考によって証明せよ」ということが肯定的証明なんだから
逆もまた同じだよ
自由意志を証明するには世界の外から観測する必要がある
もちろん自由意志を否定するのも同じ
さあ、オッカムの剃刀の出番かな
>>492 論理を超えないかぎり決定論に収束する。
君は何もわかっていない。
論理では扱えない領域についてあまりにも無知すぎるからである。
494 :
考える名無しさん:2014/02/01(土) 00:51:07.79 0
>>417 悟りとかよくわからんけど 自分にはとても絶望的で喜劇的で悲劇的なものだと思ってた
全てが不可能になり生存本能も肯定できないような
この世で一番素晴らしいものも残酷なものも意味がなくなるような気がしてたけど
それでおわりじゃないこともたしかに言えると思う
495 :
考えてる名無しさん:2014/02/01(土) 01:28:00.75 0
えんどるふぃん って イルカ がいるらしいよ
海馬 ってゆー
にゅうくりあさぶまりん もあるしー
ぬんちゃん KUMOに らいどおん
さいぼーぐ No.008
>>493 要するに決定論は論理的ではない?
電子の軌道が確定しない時点でラプラスの悪魔は死んだと思ったんだけどな…
497 :
考えてる名無しさん:2014/02/01(土) 02:01:00.53 0
多重人格は、理性のショートなだけで、精神は崩壊してない
多重ってのがキーね。
499 :
考えてる名無しさん:2014/02/01(土) 03:03:00.49 0
多重ってゆーか 進化=積層型物理構成による知識や理性とは
その解釈をの仕方って 認知言語やイメージ通して派生させられた
パラレル状態において 抽象的に積み重ねられた 二極化の
確定理論だとおもいますし なぜ確定という概念を使うととゆーと
superstring theory における 同期振動を仮定すると
共有概念上の 物理法則を 物質経済でプレゼンすると
結局 同じ ストーリーに なるんだとおもいます
500 :
考える名無しさん:2014/02/01(土) 04:12:14.43 0
関係ないけど決定論ってあんま関係ない気がする
人間がすることが決まっていたとしても悟りをひらいたり真理を知ったりすることと
矛盾しないなら別にいいと思う 人のとった選択肢が原理的に決定論と矛盾できないから
人にとってはどうでもいい。けどそれとは別の意味でやっかいなことがある
それによって起こることが人間の本来の姿を思い出させる
それが直接の原因ではなく間接的に
501 :
考える名無しさん:2014/02/01(土) 05:40:49.55 0
とむ、ですけど。489から私は一回も書きこんでない。
完全に流れに出遅れてしまったw
過去、未来ねえ。まず・・・
世界を知覚している、ってどういうことでしょうか?ってきくよ。
言うよ、私が。。自由意志はあるよ。
説明はしないけど。あ、無いかもしれないぜ、ぐふふふ
>>489 物事が変化するってどういうことだろうか。ってことです。
変化には変化する何かが有ると思わない?
まあ「自分」というものの一側面でしかないけど。
*
もう私、見る側に入りたいよ。
あとはもう、考えてください、頼みました。
地球の輝かしい未来はあなたたちにかかっています。
この日本人どもめ。
502 :
考える名無しさん:2014/02/01(土) 07:00:41.49 0
これは受け売りだけど
もの心ついたばかりの子供が真理を知ってしまった後
そのあと何をするべきことがあるだろう?
ここから何かを始めるのが悟りみたいなものなのかなあと思う
物心がついたばかりの子供は唯我独尊という真理を生きてるから
するべきことというより、どうしつけられるかでするべきことが異なって行くんだろうね
> 自分とはどこまでが自分? 個体(自)と自意識(分)
> 髪の毛を切り取っても自分 自と分
> 手をもいでも自分 自と分
> 足をもいでも自分 自と分
> 首だけになっても自分? ノー
> 脳だけになっても自分? ノー
> 脳細胞一つになっても自分? ノー
> 死体になっても自分? 自
>>496 決定論は論理そのもの人が生み出した合理性と形骸化された意味の整合性
それは理解するのに最も正しく、ほとんどの場合と常識的な情況では矛盾が
ない説明と考え方の基本である。
つまり論理には例外やら矛盾を排除する性質がある。
過去を変更できれば現在が変わる、これこそ論理的矛盾であるから過去は
変えられないと結論される。君の思考の99%以上はその論理に支配されている
非常に起こりえないことを切り捨て99%以上の常識的な答えに従う。
論理的特異点を越えて既存知識に対しての非論理な世界を扱うことができない。
君は非常識やらデタラメ、トンデモ、精神世界、未確認の何かを思考から切り捨てるだろ?
それが論理の呪縛であり可能性が0に近く確かめようがないものを切り捨てる。
それは決して0ではなく0に近いだけであり、論理では0と同等なものは無として
しか扱うことはできない。意味になりえないものを扱うとトンデモになる。
ウンコスレ確定
>>504 なんで個体と自意識を分けて答えるの?
どこまでが自分かを考えれば、自分というものが凄まじく曖昧だって事を言っているのに、さらに曖昧にするの?
>>505 100%でない時点で決定論じゃないな、それは
コンマ1でも揺らげば、バタフライ効果で未来は無数に広がるよ
>>507 言外に匂わせてる。
理解というのは、答え(結果)をだしても掴めないことがある
>>474に納得いってないなら次には進めないと思う
もう少しわかりやすく表現するなら
直感って、捉えられるかどうかは
なんていうか周波数のようなものが共鳴してないと
働かないんだよ。
だから、こっちはもっと閉じた所に居るから
広すぎるあなたには届かない。
別にどっちが悪いとか、レベルが低いとか
そういうことじゃなくて、波長の問題、抽象的だけど。
>>512 あると知覚できるのとそれが何かを理解できているのは、天と地の差という
レベルではないほど違う。
君のその説明では何も理解できていないと自演しているようなもの。
>>513 そういうものだからしょうがないと思う
哲学的な知識があれば解る人は
学があるからそれなりに説明する
能力があるけど
無い人には自分の中でし知ってるだけで
説明のしようが無いということ。
>>514 物事を見る場合に、直接の関係がある表面から見る人と、
盲目で見えない外見の法則性から宇上上がる内面から見る人がいる、
後者の域に達していないのは明白である。
明らかなら幸い
具体的に
宇上上がるってなに?
目的は一つだけ。生き延びること。ところがそのための手段ときたら、害を与えること
ばかり。今は。他者の存在を受け入れるということこそ、共生的に作られた人間の力
である。存在は楽しいもの。生き延びるという目的をねじ曲げてはならない。
意識や思想を持つに至った人間は、その表象に囚われること無く、目的を
ねじ曲げてはならない。
我思う故に我ありとして我は救われたが、他人はどうだろうか。想像力を働かせる
ことで、他人のことを自分のことのように思うことができる。信ずることだけが人間を
救いのある存在にする。なんとなれば、我のみにて生きることは実際に劣った生き方
だからだ。
競争、奪い合い、はてには殺し合い。本来的なことから、それら全てに対する疑いの
気持ちを抱く。そのように、人間は救いある存在となる可能性を持つ。実際の、日々の
暮らしの中で、そうした意識を働かせることをしなければならない。
最初から死ぬように定められていて、しかも人以前の動物のように
人間ほど苦痛を意識できないように定められた命のほうが余程いいじゃない。
むしろ、「私」の作用なんて本当は「私」が作ってるものじゃないから
責任負う必要すらないと思う。
自由に楽に死ねるオランダやベルギーの方が余程悟ってる。
運命に従順に従って苦悩や苦痛を引きのばすのは命の無駄遣い。
生きるのも死ぬのも主体者が選択できる制度のある社会が正しい。
>>521 >苦痛を意識できないように定められた命のほうが余程いい。
そのように苦悩すること、ができるということに積極的意味を与えられないだろうか。
それは、救いという概念が存在できるのはなぜかということだ。それは、自由度
を与えるということだろう。自分の生が、虫けらのようなものでありたいと考えなければ
ならないということだと、そういう考えをする自分というものがいったん出来てしまったのだが、
苦痛を避けることが良いことであるかどうかはわからないだろう。
苦痛が無際限にやってくるのではない。それは限界がある。死でさえ、魂を損なうことは
できない。最低限、そういうことを考えられる自分というものはある。その内容が、
果たして現実的に的を射ているといえるかどうかということが問題になるのだが、
人間の歴史が神秘的なものだということを信じることでそれが証明されないだろうか。
魂や死についてときには考えて見る余裕が必要である。
たしかに苦と死のタッグは最恐であるようにも感じられる。マウスの頭を潰す時、
ものすごいストレスがかかるということを聞いた。だが、それは苦なのか恐れなのか
ということがわからない。まったくわからないことばかりだ。
自分の経験を振り返ってみると、各瞬間に起こる感覚が、バラバラになっていて、
どの自分が恐れているのかという疑問を抱くほどだった。詳しくはないが、
強いストレスにさらされると万能細胞ができるということだ。そのように
可能性はあるのだと信じつつ、仏典に当たる。
死の際の苦痛を和らげるための脳内物質が放出されるとも聞く。
苦痛は声に出すことで和らぐようにも思う。かき消すように。
>>522 苦悩することはできるできないじゃなく、人に定められた宿命。
積極的意味を与えられるか与えられないかは
優秀な能力を勝ち取れる境遇に生まれたか否かに尽きる。
命にも、知能の発達にも人間には時間的限界がある以上
人道的な死は当然の選択肢。
苦痛を避けることが良いことではないと思う者の自由は奪われないし
良いと思う人生を歩めるということは、とうに救われている。
生きている限り腹は減る(比喩)、人の苦痛は死によってしか絶たれない。
魂は死んで損なわれるような性質ではそもそもないし
作用力によって強いられるような魂はその程度でしかない。
>>525 積極的意味を与えられるかどうかが生まれた境遇にあるのだとしたら、
他者が積極的意味を見つけ出し、与えることもできるだろう。そのような
能力や境遇を持った人がいるはずだ。
>>526 生まれた境遇にあるのに、違う境遇に生まれている者の積極的意味を
押し付けられる筋合いはない。
>>527 魂は魂があると思っている人にしかない観念。
>>528 学問全般がそのようなものだということだ。知らずに救われているということが事実
なのである。だが、そこから考えなおして自分で歩きたいと思った場合の意志は、
私も尊重する。人権とはそういったものだから。
>>530 何故知らずにと断定する?
学問の恩恵を知らずに生きている人間が居ないと思うが。
尊重される義理もないだろう、当人の生きる自由は誰かが
与えるものじゃない。人権の話などしてない。
仏の教えで悟りを開こうとすると、魂というメガネをかけずには学べない
つまり自らの目では悟れないという矛盾だな
>>529 ということは要するに人の創作物ということだね
別に文芸作品ってほどのものじゃないのでは?
>>529 それは主観的な定義、客観的に言うのならば過去の魂を表現した説明を統計的に
捉え標準的な言い方をするべきな。
じゃあお前自分で標準的に言い変えて教えてやれ
最近変なのが常駐したようですな、感情むき出しにしても
なにもえられない。それは妄想を広げてコジツケ具現という脳内の錯覚にすぎない。
標準語で教えてあげることをオススメ致します
ここは宇宙人の集まるところだから、おまえは仲間はずれ
540 :
考える名無しさん:2014/02/05(水) 19:27:38.80 0
野生の勘だけで喋ってるからな
宇宙人はもっと知能が高い、して野生の直観すらない並の人間
悟りに近づくことはできても、悟ることはむずかしいな。
なんだ、大陸に渡ったルーピーか
魂だから、仏教語?でいいんじゃないですか?
火星人でも木星人でも問題ないですよ、魂はルフランです。
仏教語は仏星人が悟りますから、ちゃんと会話してくださいね。
そして
>>529にリズムは戻りましたとさ、次のリズムはどんなかな?
アフォリズムであることを願うってか
願うっていうか格言を必要としている所を生きている人がいるということだろうね。
アフォは自分がアフォと自覚できない。
親父は親父ギャグをギャグだと思ってる
「悟りをひらいた人」とは「お雑煮」である
どちらも「しるもの」だからだ。
病気は治らない。
おやじギャグは
「くだらないからやめておこう」
という自制心が加齢により衰えたためにはじまる一種の老化現象だ
なお、さらに進行すると、周りの会話に思考が追い付けなくなるのでおやじギャグは収まる
それって俺がお子様だと主張しているようなもの、20代ですでにオヤジ
扱いだからな。
このスレは妄想スレだから、まともに考えるところじゃない。
ほう、格言ですな。
うんこがしたいんだけど、ここでしてもいい?
悟りというものはすでにみんな開きまくっているのだ
あとはそれに気付くだけなのだ。しかしそれに気づいたら
悟りを空に離してあげなさい。それを自由にすることだ
それが解脱なのだ、真の悟りである。
560 :
考える名無しさん:2014/02/11(火) 23:27:36.59 0
悟りとは不動心なのだよ
にげまわるヤギは仏のこころなのか?
不動心だけではなく
受動的でもあり、能動的でもあるということ
それらを独立させたままに。
或はどちらもできなくもあるということ。
カラっぽ〜天空の様に広大な心を持つこと。
大は小を兼ねる、気付くこと、超越すること、だ。
563 :
考える名無しさん:2014/02/14(金) 19:49:09.34 0
悟りとは不動心なんだよ
病気は治らない。
565 :
エントツュケンデス ヘースライン:2014/02/16(日) 12:15:01.54 i
少年。それは過去の俺。でも俺はいま幸せだ。
少年。それはまっさらなキャンパス、画用紙。
少年。でも俺は、じぶんが少年だったことを悔いはしないだろう。
少年。それは、俺の人生で最高の瞬間だったから。
今、見えないものも、知りえないものも、いつか分かるときがくる。
なにも、その日まで、あせる必要はない。どんな紳士も昔は、少年だった。
それも、ぼうじゃくぶじんな、少年だった。
それは、誓って言える。その老人も、あの老人も。みんな忘れずに心に
とどめて、いきている。だれもかれも。青春とはそういうものだ。
こんなところで、文字で書いても説得力無いと思った。
ちゃんと自分の言葉通りにできているか?とか、みんな。
フィクションで良いのもありますが
Absalom氏、来ないかな。
エロイムエッサイム、エロイムエッサイム
べ…別に悟りたくないわけじゃ、ないんだからね!
時間の共有は、広くコミュニケーションの土台になれる。なぜなら時間の外にいる人間は
いないからだ。天気の話をしたりするのも、その裏には時間の共有ということがあるように
思う。
>こんなところで、文字で書いても説得力無いと思った。
おまえバカだろw
皆ね、たぶん
反省。
論理だけで考える奴は論理に流される。それは思考とは呼ばないから。
>論理だけで考える奴は論理に流される。それは思考とは呼ばないから。
論理で「考えてる」のに、それを「思考とは呼ばない」とか
あほだろってことだろ
578 :
考える名無しさん:2014/02/22(土) 23:17:19.32 0
悟りとは、普遍的な意識に目覚めることだ
この世のすべてが1つの意識で
成り立っているとしたらどうだろう
今座っている椅子も見ているモニタも
すべてがひとつの意識でできているとしたら・・・
もしあなたの意識がこの普遍的意識レベルに
目覚めたらこう言うだろう
あなたは私である
この世は幻想である
私はすべてのものを所有しているが
なにひとつ私のものではない
この世のものは意識が創り出したものだ
私はすべてのものごとの観照者だ
私は遍く存在し永遠に自由だ
ひとつであり静かで自由で完全だ
私は純粋な気づきだ
私はけっして死なない
私は純粋な歓喜だ
私は神だ
「私」の概念に関して「孤独」の法則が理解されて「虚偽」の行為が否定されること
釈迦のしたように段階の考察を行うならば、第一段階として、「私」の概念が実体として
存在することを漠然と悟る。第二段階として、私の「私」の概念は、他者による想念が
呪術のように「私」を害することは存在しないという確説を建てることによって、存在の
「私」はより確かに概念として確立される。
「私」の孤独について、孤独になったりそうでなくなったりする変化には、何らかの外因的
描出を行わなければならない。それは、「私」が孤独の湯船に浸かることによって、他者の
「嘘」「騙し」「否定」の垢を落とすことに、存在理由があるということだ。
そして本来的に確実である世界の中の法的「私」は、虚偽の呪術に否定されてきた過去
を振り払い、より善良に他者との関係を結び直し、虚偽に対しての抗力として、仏的
完全性を強く感得することができる。
>>577 オカルトは別の板にあるのでそこでお願いします。
どうせ死に、どうせ自由意志は大してないとわかっている哲学徒が死を望まず
生を全うしようとする意欲がどこからくるのか知りたいものだ。
哲学やってると、生きるより死ぬ方が(人権のある死、ただの自殺じゃなく)
どうみても得だと思えてこない?
なぜ死にたい者が自由に死ねる世界を作ろうとしないのか解せない。
>論理だけで考える奴は論理に流される。それは思考とは呼ばないから。
>論理だけで考える奴は論理に流される。それは思考とは呼ばないから。
>論理だけで考える奴は論理に流される。それは思考とは呼ばないから。
すがすがしいですね
はたして何と呼ぶのでしょうか
すがすがしいとか言葉を喋りだしたオカルト青年は宗教板かメンヘラ板からきたの?
脳が形骸化しているってことか。
>>578 「普遍的な意識」の探求が悟りを求めるということであれば、普遍が一であり、多ではなく、
すべて欠けるところのない真理であるということを感じることができるだろうか。
理性(reason)なき喜びとしての肉体の欲、
reasonなき苦しみとしての死を理解するには、感性(sensitivity)による細やかな気付き
が必要とされる。
そして、sensitivityの刹那性が、reasonの永遠性によって補完される時、両者の合一
が果たされ、死にも生にも意味が与えられるのではないでしょうか。
英語を付けくわえる意図はなんですか?
>>586 理由がない喜びという肉体欲への洞察を示したかったということと、
理由(理性)の外にある死という洞察を示したかったということ、
感じやすさが感性には付随するという洞察を示したかったということです。
>>587 なるほど、ありがとうございます、それを踏まえて考えます。
>>585 ずいぶん判ってきたじゃないか、
人が決めた前に世界がある前提で思考できるようになれば、あとは体系的に
纏めてゆくだけ。
だが渦中にいなければ知ることができず、部外者の他人事じゃなければ全体が見えてこない。
それを同時に扱うのは簡単なことではない。
>>589 ありがとうございます。法のことをおっしゃっているのでしょうか。
最終行の洞察のことも、記憶をしっかりとして観察しながら、実体験の神秘的なところ
を逃さないようにしたいと思います。
>590
たとえば神秘とかを具体的に重視してはいかんな、
それを観念として捉えているならいいんだけどね。
識別し意味として記憶をしなければ形造ることができず、
それが生み出す過程や中身や可能性を無視しても全体の働きは捉えられない。
全体として廻るには中身とそれを入れる器の関係のようにすべてを対照的に
両側面から見るべきであるが、知覚や理解という人間の情報処理では観念的な
抽象物を記憶したり理解するのは非常に困難である。
どうのように観念的な対象を捉えても意味の部分しか扱えない、故に対象を発生させる器と
なるものを扱うことが重要になるんです。
人と言えば人の肉体や外見を考えるが人の社会や人の条件や役割といった社会的な側面のみ
考えるからこそ魂とか心とかいう境界や形のない対象が捉えられない。
対象を考える場合に対象を見るのではなく背景とか起源や情況を考え、何故に対象が
そのように働くか意味を持つかが見えてくるはず。対象を見なければ対象を特定できなくても
それは表向きの現象にすぎない。常にそういう中と外になるような関係で物事を
見据えれば世界の見え方は恐ろしく変わってくる。
>>591 このレスでまた一つあなたの意見があきらかに理解出来ました。器を作り、そこに
観念を置いてそれについて考えるということでしょうか。困難なこと、観念を認知し
て捉えることが、全体性を捉えようとするときに、最後に重要になって、もし全体を
うまく捉えることができれば、見え方が恐ろしく変わる、ということをおっしゃっている
と思いました。
苦痛に呻いているのが第一段階、苦痛に意味を見出すのが第二段階、苦痛の原因
を掴み、止めるのが第三段階というふうに考えています。
否定に対して働く向上知とは、向上である。肯定(取)に対する向上
知とは、否定である。一切から離れた思念とは、そのように構成さ
れる。過程が意志であるなら、前者は向上の意志、後者は否定の意
志である。そのような働きが観察されるのだから、より良い意志
という観点に映るのは、前者であって、後者ではない。前者にはカ
タルシスがあり、後者は漫然としている。
良いと、良くないというのは何かという対象に対してである、
必要なのは良いというものではなく良いではなく徳である。
徳とは得でもある、徳を得るというのは我がでもなく他人がとか物がではない。
我と非我を合わせて1つの環、輪となりて働く徳である。何かだではなく
全てが合さり1つの働きになることこそ目標とし得るべき力であり徳である。
願い念じなくては働きは生じず、それが強すぎても働きはまとまらず、願い念じる
ことを捨てて無我となり初めて働きが見えてくる。だが無我だけでは願い念じる
ことは無い故に働きは生じず。このような2のの関係が1つのおおいなる関係と
なり相互に輪を描くときそれが徳を得ることである。
それは是でも非でもないのは明らかであり、是と非をあわせて新たなる世界の
創造をする第三の流れを生じさせることこそ高みの世界を目指す者の姿勢ではないだろうか。
世界を背負い、世界と共(友)になれるときそれは相生であり、世界を否定し孤立し
敵対するのが相克である。この相生と相克をあわせ1つとなせば、より大いなる
働きが生じ流れとなって潮流のように我々を誘うと思いたい。
それは知で意で力で論で働きで形で存在で、すべてに対する世界の
捉え方の姿勢である。つまり最初に戻り「良」を考えるには「悪」も合わせた
大いなる輪があるわけで、側面だけの狭い捉え方では世界そのものに笑われる
だけ、お釈迦様の手のひらの上で暴れる孫悟空のようなもの。
これは陰と陽の考えの根本原理の1つ。思考や記憶は常に情報処理や論述の
形が求められる為に抽象的な働きを選べない、故に具体的な形へ捉われて形骸化
してしまう。1つを見るなら1つ以外の全てを見るべきでそれが全、あるいは器である、
故に一は全、全は一である。器は凸凹の凹で、一は凸である、見えている凸だけで
その為に捉われるのは言葉の意味や具体的な喩えである。抽象的でつかみ所がなく
空気を掴むようなそれらにも目をむけ、世界はその両者で成り立つと知るとき
世界はさらに広く奥行きが見えてくると思うよ。
>>594 器ですか。川の流れを汲むとは、流れを止めること。その中に湛えられた水は海のような
もの。つまり何が言いたいかというと、海のような広大な世界の一部を汲むことで、
人間のための、なにか観察が可能なような、そして人間大の大きさのものへと変えられる
ような働きができるということです。海だけが偉いわけじゃなく、水たまりや池、椀の中の
水のようなものもそれで一つの一、全であるということ。そうして、椀の水もいつかは、また
新たな流れへと帰り、海に行き着く。
抽象という操作の割りと可能なものに可能性を見出されている。つまり、人間を越えた
世界に対する視点でしょうか。スッタニパータを読み終わってみて、執着しないということ
が、簡単であるようで難しいとわかりました。あなたの言うような考えを持って、抽象
的にアプローチしていけば、また新しい時代の、あらゆる方角を見通すものへとなって
行けるというような、可能性の方向を、強く感じました。
完成された考えというようなものは、もちろんまだまだ発見途上ですが、色々と考え
続けていけば、自分なりに幸せな答えへといたり、不動心や静寂な気持ちを持てるように
なるんじゃないかと思いました。
596 :
ぽえむ:2014/03/01(土) 20:33:51.40 0
そこで最大の問題にぶつかる、普通に気が付くだろう。
抽象的というのは空気のように見えず、掴めないということだ計ることもできず
比べることすらできない。
だからこそ否定され無視され必要のないものとされている。
だが、計りしえないもの、存在しえないもの、見えざるもの、掴み得ないもの
それらを発想の転換と特殊な術で扱えるとしたら?
したらではなく、する術はある。だがそれを言うべきじゃない。
なぜなら言葉で表しても扱える類ではないからである。
ぽえむとして感じよそれだけ。
真に抽象的なものを欲張らずショートカットせず真っ向から扱おうと
思えば自然とその術は見えてくる。そういう類である。
説明してはまったく無意味に帰する、どこにでもありどこにもないという
術であり事の葉である。(ポエマーが行うべきこと)
俺は2012年のある時悟りっぽいのを体験したかな。
深く深く考える中で、俺はエネルギーのようなものとなって、
部屋や家を満たし、太陽系、銀河系を満たして、宇宙も満たしていった。
その後、宇宙の外側へと向かった俺は、そこで12の構造体を見た。
その構造体の意味を知りたくて、さらに進もうとすると、
「帰りなさい」って声とも音とも付かない言葉を聞いて、
肉体のある自分の状態へと戻ってきた。
世界と一つになる感覚とでも言えばいいのか、すべてと一体化する感覚は、
陶酔するほどの幸福感、そこでは生きることのストレスも、死ぬことへの恐怖もない。
その反面で、世界と自分が一致するということは非常に不自由にも感じたよ。
仮に今の俺が仕事もなく、家族もなく、全てを捨ててしまっても構わないのなら、
一人で山の奥へと移り住み、そのまま朽ち果てるのもいいかなって思う。
世界へ還り、あの幸福感へ、永遠に身を委ねてしまいたい。
>>596 言葉から発して形成されるが言葉にならないもの(ポエム)、それは、何処に感受されるのでしょう。
言葉は人間とイコールにならないものだから、言葉以外に発した、感覚や記憶イメージなどのことを
考えるべきなのでしょう。言葉によらないコミュニケーションが、それの発端となるということ
もあるかもしれません。掴みうる範囲の物事が、ロックンロールソウル、雰囲気や勘でわかる
ということ、それに、真向から扱う(ここは大事そうだ)、無駄に終わってもいい実験を、繰り返す
ことでたどり着けるのでしょう。実際、物理法則を越えた法則が、想定可能であるからには、
そういった人工物が形成される可能性もあるでしょうね。計算機とかいい線いきそう。
>>597 それは貴重な体験をされた。バタイユの『内的体験』みたいなものかもしれませんね。
あなたも仏になってください。世界を救って下さい。
>言葉から発して形成されるが言葉にならないもの(ポエム)、それは、何処に感受されるのでしょう。
信じ感謝し慈愛するとき生じるものです、偉そうな表現ですがw
的確な説明もちゃんとあります、ただ信じていないものに何をいっても無駄だってことです。
そして言葉の裏に眠っているものを知る術も計りもあります。
単に直感で感じ取るのでは難しくても古代の先祖が残してくれた的確な計りや
現代でも活きづく表現はポエムの類や唄の中や語り部の流れに隠れています。
どこを見渡してもそれは少量ですが一定の割合で隠れています。
単にそれを見る心構えがあるなら何も説明せずとも分かるのです。
計算では計れない人の言葉の中の本質を見るにはを知りたいのであれば
漢字を一切使わない近代よりも昔の話し言葉を実践するのが良いでしょう。
1字1字信じればそこに隠れているものが見えてきます。
言葉の器となるそれが何かは、詩人となり感じ取ることで扱えるように
なります。
扱えればどのようになるかといえば、言葉が響き、轟きなどの抽象的な働き、
それは「能」と「狂言」などでも隠れているもの、現代ではロックやら演歌やら、ロック
やらのなかに、さらに言葉を一切使わない音楽の中にすらあります。
言葉が意味を扱う道具になりがちですが、器としてのそれは抽象的な存在なのです。
それを道具として扱う人が多いですが、器として道具の計りに使う術は誰も
考えようとせず、一部のオカルト的な人が秘密裏に術として伝えています。
いつも長くポエムを書きますが、結局はデタラメですから理解しないように。
600 :
597:2014/03/02(日) 16:16:02.73 0
>>598 仏になるって、どうなれば良いのか分かんないよね。
仮にだけど、俺が感じた世界が「悟り」と呼ばれるものと同じだとしても、
自分が感じた「世界」を、何らかの形で世間に伝えようとしても、
それを見たことも、聞いたこともない人たちには、
ただの妄想としか受け止めてもらえない。
見えず聞こえず、感じることもできないものを伝えることは難しいよ。
>>599 横からごめんね。
俺は難しいことは良く分からないけど、
見えず聞こえず、感じることが、特定の条件下でしか出来ないことは、
なかなか人には理解してもらえないし、伝えづらいよね。
どのように伝えれば良いのか、それを考えた時、
信頼と不信頼が混在した環境でしか、そういうことは語ることが出来ないと思うんだよね。
何が真実なのかは、今の時代は、個々が決めて行くのだと思うし。
それは、例えば2014年現在のインターネットのような環境なのかも知れない。
仮に真意や真理を見出したとしても、それを伝える術が無ければ、
自分の中で完結する物事でしかないと思うんだ。
それを伝えようとする術は第三者から見れば、まるでオカルト的なんだよね。
もっと簡便に、より面白く、そうした体験を伝える方法があればいいんだけど。
>>600 仏というのは、目覚めた者という意味です。あらゆる衆生を救いうるのだと気づいた時は、
救済行動へと結びつけていただきたいのです。それが、自らのためにもなるはずだと
思うので。
602 :
597:2014/03/02(日) 19:13:08.37 0
>>601 救済とかには気づいてないっすw
救済って何だか上から目線で、ちょっと俺には「うーん」って感覚だし。
それより、目をつぶって、じっとしていると、
自分と色々なものが自分の中に流れ込む?自分が広がって行く?という感じと共に、
すべてと一体化していくような、あの感覚の意味が知りたいって思う。
頭のてっぺんから自分と他者や他物が一つになっていく感覚と共に、
俺は、何かしらの壁と言うか膜と言うか、それを超えて、その先の世界とも一体になる。
そこに広がる場所には何の苦しみもなく、ただ幸せだけがある。
褒められているのでもなく、とにかく陶酔するほどの幸せだけが充ちている。
そこで出会う、視覚に例えるとしたら、色んな人の姿が集まっているような、
あの人たちは誰なのか、それが知りたいって思う。
>見えず聞こえず、感じることが、特定の条件下でしか出来ないことは、
>なかなか人には理解してもらえないし、伝えづらいよね。
意味が違います。見えずとは【特定の条件】であっても見えずです。
見るための能力が無いと言い換えましょう。
言うならば「見てはいけないものを見る」という意味が正しいはずです。
つまり実在しないものを見ることであり、その実在するものを見るのは
見る能力ではないのです。故に妄想、デムパ
見えたそれは、念じることで浮かび上がる自ら生じる「思い込み」を見るのです
例えば彫刻家が角材やら石材から仏を掘り出すときに心に浮かぶものが、
「見る」対象でります。見えたものが世界と重なることが無いならなんの
価値もありません、その奥底に潜む何かが抽象的世界で響き共鳴して世界との
関係を結ぶ何かを見るのが見るべき最終目的となります。
想いは重いブラックホールの底、絆が結ぶのは縁の形、何かが見えるのは
たんなる「気のせい」、幻である。
>どのように伝えれば良いのか、それを考えた時、
>信頼と不信頼が混在した環境でしか、そういうことは語ることが出来ないと思うんだよね。
>何が真実なのかは、今の時代は、個々が決めて行くのだと思うし。
>それは、例えば2014年現在のインターネットのような環境なのかも知れない。
>仮に真意や真理を見出したとしても、それを伝える術が無ければ、
「伝える術は必要ないと想う」、響かせ廻り美しき働きが生じる心構え
それがなすべき人の器の形に成る術でしょう。
誰かが考えるとか誰かの「真意や真理」ではなく、その情況が生じるありさまが
活き活きと働く循環こそが、誰かではなく何かと何かを結ぶ大いなる「真意や真理」
ではないかな。
ででんぱででんぱ、もうそうもうそう。唱えよ、妄想音頭、
>自分の中で完結する物事でしかないと思うんだ。
自分と相手の間に美しい虹の橋を作ればいいじゃないか、自分にでも相手にでもなく
そこに生じる場こそ安心安全で快い情況は1つの意味に値するはず。
>それを伝えようとする術は第三者から見れば、まるでオカルト的なんだよね。
たぶん君はオカルト的の術は現実に機能しないし働かないものと考えていないか?
その手の術はデタラメであると確信していたらオカルト的な術は完全否定されてしまう。
科学的な技術があるならば相反する逆の何かもあるはず、見えざる何かは科学の眼で
計るからこそ計れない対象ではないだろうか?科学では計ってはいけない対象、
論述や意味で計ってはいけない対象、そういう何かをオカルトという観念で考える
とき、科学技術の計りでそれを表現する、それの例えは説明せずとも明白な気がする。
長文うぜー
606 :
597:2014/03/03(月) 15:57:52.66 0
風邪ひいた・・・
>>603-604 つまる所、要約すると、
悟りと呼ばれるような一連の知覚は、妄想でしかなく、
この世界と「抽象世界」(平たく言えば自身の内面世界ってことかな?)が結びつきを持つのであれば、
それは、正しい認識であるってことだよね。
自然により生じる世界の有りよう、それらが存在する世界、
それこそが正しいのであって、悟りの感覚や、それにたどり着くための道は
「伝える術は必要ない」
確かに、そういう考え方もあるかも知れない。
しかし、それに続く「自分と相手に虹を作る」という言葉や、
「科学では計ってはいけない対象」という言葉には結びつかないように思うんだ。
>>603-604が言う「虹」や「科学では計れない対象」とは、一体何だろう?
>>606 貴方に円周率を割り切れないと言うと、貴方はそんなことはないと言い返す。
それだけの話しである。
608 :
597:2014/03/04(火) 20:42:30.94 0
>>607 円周率が現在の所は割りきれないことを、俺は否定しないよ。
しかし、もしかしたら割り切れるかも知れない。
円の大きさに限界があるのなら、円周率は割り切ることが出来る。
しかし、それは大切なことじゃない。
俺は、
>>607の言っていることを知りたいんだ。
一人の答えには、自分しかいない。
しかし、双方の心に虹を架けることが出来るなら、
お互いを自分より優れた者にできる。
609 :
考える名無しさん:2014/03/04(火) 23:59:05.11 0
>>601 目覚めた人など存在するだろうか?
君は救済されたの?
>双方の心に虹を架けることが出来るなら、
頭になにか光の輪がでていますよ、あっち側の人ですか?
>>609 おれが目覚めた人だよ、午後7時半ぐらいだけどな。
救済の青汁は毎日飲んでいる。
>>609 毎日新しい事を発見しています。そのような形で、閉ざされていた脳と器官を、目覚させた私は人です。他人との間に橋をどうやって
架けるかということを、また課題にしています。
死と狂気しかなかった僕は、たしかに救済されました。
安らぎを得られることが、目覚めたということです。そのために
必要なことは、各人により違ってきますが、だれもが生と死を
受け止めなければなりません。
各時代において、知恵と力を備えた仏、菩薩が存在せねばなりません。法を超えることは仏にもできないのだから、現代の問題は
現代の人間によって解決せねばなりません。その行為のもとになるのが智慧です。釈迦の存在によって、この世の暗い部分がすべて、
照らし出され、善が生まれた、あるいはその種が蒔かれた、と考えられます。
614 :
ぱぴこ:2014/03/05(水) 03:53:42.18 0
仏は、「ほっとけ」といます。仏仏仏は「ぶつぶつぶつ」と言い。
喩えるなら混沌の世界であるこの世のあの世の狭間に存在するものです。
それはブツですから沸でもあり、水と蒸気の間のものでもある。
荘子によれば、
「罔両、景に問いて曰く、曩には子行き、今は子止まる。曩には子坐し、今は子起つ。何ぞそれ特操なきやと。景曰く。吾は待つ有りて然る者か。吾が待つ所は又た待つ有りて然る者か。吾は蛇ふ、蜩翼を待つか。悪んぞ然る所以を識らん、云々」
影の周りにできる薄い影で、ぼんやりとした部分をいう。
このような曖昧である世界の狭間を見てきたものは理屈や論理で物事を
白黒判断するわけではなく世界を別の視点から見えるようになっている。
それは哲学的にいえば論理で示せる部分が形而下でありその曖昧な部分こそ
形而上なのである。ぶつぶつぶつ、
世界の壁の向こう側を見るとは、この世の形而下で説明できることを極めたり
いろいろな説明をするわけではなく、すべてを曖昧にした領域で捉え、
それは壮大で大きな流れの仕組みと捉える、輪廻し移り行き揺れ動くそういう
万物の流れを読み解く領域に心を鎮められる魂の到着形態のありよう。
悟りなどと語りそれを過剰に表現するから迷いが悟りを素晴らしい境地のような
つまらない現実の延長の次元で考えてしまう。
もっともっともっと、はげしくもっと超えられない壁の向こう側にあるもの、
イスラム圏では嘆きの壁※(涙の場所)の向こう側にあるものです。
※
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%86%E3%81%8D%E3%81%AE%E5%A3%81 全て吐き出した後に燃え尽きた真っ白な灰として残ったそれになること。
それは神の力、仏の力が集うところ、そして悪魔に魂を売る場所でもある。
神は奇跡、仏は心の開放、悪魔は魔法を与えてくれる。
当然として人に潜む可能性という未来を犠牲にして得られる積み重ねてきた
内容の結果にすぎない。人はその迷う根底の因縁から解き放たれ、単純な力が
開放される。乱雑した可能性は自然淘汰され力は分散から集束に転じる、
運命は乱流から潮流となり必然を呼び込む。
悟ったんなら、早く死ねよ生きてたって意味ない事悟ったんだ死ね
さあ始まりだ。
仏教とかの悟りってようは、観念は幻想だから欲求を捨てろってことで
死にたいも欲求に違いないから即身成仏とかはじめちゃうわけで
どっちつかずなんだよなぁ
まぁ、悟っても駄目ってことだよ、というかそれでは悟りにもなってないんだけどね。
さぁ反論しろ
623 :
考える名無しさん:2014/03/07(金) 20:12:24.54 0
幸せってなんだっけ?
さて。
大いなる力ってなに?
無限の力だよ、神すら従えるそれは超えてはいけない領域にある。
廻る力、それはフラクタルの図形のような力。
1をなすとき1ではなく1以上を生み出す1以外の何かと1の働きです。
さあ。
631 :
考える名無しさん:2014/03/14(金) 05:36:22.72 0
>>621 「観念は幻想だから欲求を捨てろ」これは俺の感じる悟りには反するわ。
俺からすれば、それも観念だなー。そもそも経文にそんな記述はないと思う。
敢えて言えば「観念は幻想、だから思考(言葉)を捨てて今ここに集中すれ。踊るもよし飲むもよし即身成仏もよし、禁欲もよし、なんでもござれ。」
こんなとこでねーのかなー。
632 :
考える名無しさん:2014/03/14(金) 05:43:42.57 0
>>626 今これを読んでるあなたのことでもある、You。
このレスを今読んでる、きみだよ。
それぞれの中の人がそれぞれのライフの主人公になってる状態が大いなる力。
まーでもそれはみんな一緒なんだな。これが不思議。
と、敢えて言ってみると。ただこれはその説明の一面でしかないけどな。
633 :
考える名無しさん:2014/03/14(金) 05:45:23.10 0
そんな面が無数にあるわけで、んで、それすらも一面でしかないっていうのが大いなる力のまた一面なんだよなぁ。
634 :
考える名無しさん:2014/03/14(金) 06:02:45.14 0
「大いなる力」って言うとなんか崇大なものをイメージしちゃいがちだけど、実はそれって真逆で、そこがトリックなんだなー。
とてつもなく些細なことですら大いなる力であって、ひるがえって自分も大いなる力であって、
なんもかも大いなる力であって、全部を絶対化した状態。
悪人正機って、悪人ほど報われるんじゃなくて悪い人ですら報われる(もちろん善人も悪人と全く同じ程度報われる)ってことだって俺は思う。そうじゃないって文章もるけどな。俺はそう思う
635 :
考える名無しさん:2014/03/14(金) 06:11:57.92 0
なんでも相対的に検証する、これは悟りと真逆で、本来であれば成否も優劣もないものですら相対的に見ようとしちゃうと間違っちゃって、齟齬が出る→不安になる、劣等感、迷う
逆に、全部が絶対。全部が絶対だから迷う意味というか必要がなくなってしまう。これがいわば、悟りなんかなー。
636 :
考える名無しさん:2014/03/14(金) 06:16:07.17 0
俺的に残念なのは「観念は幻想だから欲求を捨てろ」ってここのレスにもあったけど、俺からすると悟りとは逆行してることが「悟り」のイメージになってて、
「悟りはちょっといいや」みたいになってることなんだよなー。だからお節介だろうけどここに書いちゃったりしちゃったよ。
637 :
考える名無しさん:2014/03/14(金) 06:22:55.17 0
そもそも悟ってる奴が喋るってこと自体、根本的に「お節介」「出ずっぱり」な性分からきてるってことがあるんだと思う。
わざわざ喋るようなすっごいことでも無かったりするからなw 座禅で、喋ってるうちは叩かれるってのもそういうことから来てるんだろーし。そんなくだらんことはいいから、ってw だから追うもの程逃がすっていうような経文もそういうことかー。
638 :
考える名無しさん:2014/03/14(金) 06:27:57.10 0
だから悟った人の面白い話でも、どうしても「お節介さ」を感じてしまうんだよな。実家から送られてきた無駄な食品類みたいになw
老子はその点純粋だったらしいけど、歴史に残ってるってことはどっかでお節介だったのかな?
>>631 そうかもしれないね、それがいかに不自由なことか。
なんでもござれ、よしと思い描いた時点で欲求だしね。
即身成仏という結果に行きつくのは御尤もかもしれないあの時代なら。
現代なら、もっと文明的に悟った人が途中下車するように人生を繰り上げるために
死術のような感じで、全身麻酔をかけ続けて生から解脱するとかそういうふうになるだろうけど。
どうでもいいよ。
迷いがない方向へ向かい精進されている人たちが多いようなのが嬉しいです。
自分勝手な人がいないようです、おそらく日本人の中でも良いところを持った人達が
集まっているのでしょう。だれもが悟りうるという、如来蔵です。楽しく愉快な世の中に
なりたいですよね。そのためには不幸をなくすことですね。きょうはボランティアに行くの
ですが、平常心と観察眼の洞察を活かしてやってきたいと思います。
>>640 そのどうでもいいという意識は、悟りに対しての意識なので、それを完成形にしようとすれば、
悟りについての詳細な見解が必要とされます。知っていないことを完全に論破することは
不可能です。だから、あなたの感じたことについて、自分なりの意味を感じているとすれば、
あなたと悟りというものとの距離をはかって、じぶんなりの安らぎの方法を見つけ出すこと
しかないのではないでしょうか。それさえはねつけるなら、そうしなければならない自分という
ものを、冷静に観察したほうがよいかと感じます。
>>632 なにバカなこといっているの?
おおいなる力とはグレートスプリットのこと、つまり大精霊の力な。
すべてのものにそれが宿るとか言っている奴がいるが、
それぞれ個々で分離したらなんの意味もなく、世界全体で評価したときに
すべてのものと言っているにすぎない。
イキモノは生きるべきという絶対的な感覚は哲学的に正しいのか正しくないのかどちら
ナマモノは生ものという絶対的な読み方は哲学的に正しいのか正しくないのかどちら
>>643 その通り、人がそれを扱うなら念能力と同じ意でもある。
>念(ネン)とは、体からあふれ出すオーラとよばれる生命(精神)エネルギー
>を自在に操る能力のことである。生命エネルギーは誰もが微量ながら放出
>しているが、そのほとんどは垂れ流しの状態になっている。現在この能力
>を一部でも使いこなせる者はごくわずか。それゆえ「天才」「支配者」
>「超能力者」「仙人」「超人」などと呼ばれ特別視される。
念の修行には四大行というのがあり
> 「テンを知りゼツを覚え、レンを経てハツに至る」。四大行とはシンを
>高めシンを鍛える、全ての格闘技に通じる4つの段階のこと。「燃(ネン)」
>の四大行は意志を強くする過程を示し、「念(ネン)」の四大行は念能力
>の修得段階を示している。
うは
俺も念使いになりたい
649 :
考える名無しさん:2014/03/15(土) 23:21:33.50 0
>>643 グレートスプリット、大精霊って何のことか教えてちょ
ここ見て思ったのは、いろんな捉え方があるけど、それらは「面」のひとつに過ぎなくて、
語るということは面の一つを語らざるを得ないってことだな。
正しい言葉同士を「面」を忘れて排他的になると水かけ論になるわな。
「これは違う、それは違う」の、次のフェーズに行かないか?悟りってのは弁証法的にいくもんでないと俺は思うな。
650 :
考える名無しさん:2014/03/16(日) 04:48:03.53 0
>>649 >グレートスプリット、大精霊って何のことか教えてちょ
何か?世界そのものの根本原理である。それ以上でもそれ以下でもない。
どのように?仕組みなどない、働きもない、学問では表せない、論理で記述できない。
だが、貴方は何かを無視し、どのようにの部分を再び尋ねるだろう。
それは貴方が考える面はどのようにであって何かではないからである。
自作自演の流れに貴方1人が横から口を口を挟んできた現状を認識したら?
>悟りってのは弁証法的
思えばいいのでは?
悟りがそういう論理ならそれに従えばいい、呪縛されるのが希望なんだろう?
違うとか正しいとかそんなのは全く関係ない、貴方はそういう次元から抜け出せないだけ。
貴方が表現しているのが妄想表現でないのならば、自分で自分に疑問を投げつけるべき
なぜなら自作自演のそれは妄想でしかないのだから。幽霊に問いかける気分は?
ソロモンの知恵である。
運命すら操る奇跡の力である、
それは仕組みや仕掛けによって構成され形作られる機能ではない。
世界との関係により廻り廻って揺れ動き結果が成される世界の意思である。
自らを主体に考えるのではなく世界が主体なのである。
世界の力を使うには自らが世界となり、世界が成す未来を導く希望のこと。
巨大な力は何かの中や体や知識に宿るのではなく世界そのもの流れが力である、
全てを一つにし、一つを全てにできたとき、【その1歩先】にあるものがその力である。
そこに好き嫌いは存在しえない、見たくないもの否定したいこと、捉えざるもの、
そういう負の面を見ぬことで選んできた世界との関係では成りえない、うけいれ難い
負の面もその反対の得ている面も全てまとめ、すべて未来へつなげる。
それを通す扉には我々の力によって鍵がかかっており、鍵となる存在を得たとき扉は開かれる。
生を求めるものは死を受け入れたとき新たなる生を生み出せるということであります。
イデヨ
世界が得するのが好き
世界が損するのが嫌い
好き嫌いバカ
損得勘定とは戦術の類の選択である。
言語使用のしかたについての失敗に対して寛容であらねばならない。それは、意図的に
なされるケースは少ない。ただ、全体と部分を取り違えるのは、言葉の一番の陥穽なので
ある。
たとえば、「私はあの人が好き」といった場合、あの人の何が好きなのか、全部が好きなのか、
そういったことを考えないままに言葉が発される。
「わたしのまつげは長い」といった場合、長いもの全てを視野に入れつつ、わたしのまつげ
という限定を加えているわけである。
言葉とは単なるツールであるから、それを上手に使って、目的を達成しなければならない。
目的は意思を起源とするもの、選び取るもの
未来とは選ぶことで勝ち取ること、迷いは選ぶことをためらうことである。
選ぶとは他の選択を諦め捨て去るってことである、複数を選ぶこともできるが
それはどれも選んでいないのと同じ選び方であり選ばないのと同じである。
選ぶことが困難な選択もあるが必ず犠牲になるものがあるリスクとの交換である
多数を選べばその代償はより大きくなるのは必然なのである。
ちっぽけな心と魂
660 :
sage:2014/03/21(金) 22:54:18.00 0
リスクのない選択というものはない
思念はあやかしさっかくである。
それは過去ではなく未来を思い浮かべるからである、
ゆめまぼろしに過ぎない。
より強い思念は流れを生む、その流れを操る術こそ、
わがちからなり。
悟りって結局自我が幻想だったって気付くことだな
それ以上でも以下でもなさそうな気がする
自我とかで収まるような狭い言葉ではない。
具体的に説明すると穴に落ちるだけ。
じゃあ、悟りとか概念すべての観念が幻想だったと気付くに変更してみる
665 :
考える名無しさん:2014/03/22(土) 23:39:12.38 0
抽象過ぎてなにも言っていないのと同じ。
抽象的かね?観念は幻想だ、これ具体的だと思うけど?
観念が幻想と気付けば、悟りという観念に近づこうとすることもまた幻想に近づいているだけだという本質ですよ。
>>664 悟りは観念の集合体である。一種の実存である。身体と関わりがある。自我にも、
快不快との関係がある。快不快を無視した幻想という言葉が、適切には思えない。
668 :
考える名無しさん:2014/03/23(日) 11:18:38.37 0
短くまとめるのは大変だから、おすすめの著者ガイドをば。
バグワン・シュリ・ラジニーシ、ダンテス・ダイジ、阿部敏郎、雲黒斎、中山康直 etc...
>>667 快不快と自我の関係性の構造がどうなっているという話なのかが見えないんだけど
自我にも快不快との関係があり、快不快を無視した幻想が不適切だと言うから
快不快が自我に関係すると、幻想では不適切だという根拠を聞いてるんだけど?
674 :
考える名無しさん:2014/03/23(日) 18:00:20.18 0
女人禁制
>>673 つまり、快不快という感覚は、幻想ではないということです。快不快の上に立脚した現象は、
すべて必然性を伴っている。快不快原則に基づくものなら、蜃気楼のような
幻想ではなく、立脚できる確かな足場として、まず第一に考えられるべき必然性があるという
ことです。
幻想というものが、どのような現象に対しどのような解釈によって適切に言われるかはわから
ないですが、すべてが幻想であるというような意見が、価値観の立脚点に対してどのような
積極的言及を持っているのかという点がわからないため、わたしの考えにおいては
幻想が不適切であると考えられた、ということです。
>>673 なんで分からないのにしつこいの?
無視すればいいのに、分かりたいという姿勢がまったく感じられないし
俺正義の主張したいならすればいいわけで、荒らすのが目的なの?
何故産まれたのか、何故生きるのか、何故死ぬのか。
「何故」・・・人は問い続ける。
それが答えだったからだ。
その答えをどのように齎すかが人間の問いとも言える
快不快の現象は一般的に「感情」と呼ばれており、感情の全ては快不快で出来ている。
感情は幻想か真実か?
感情とは、この世の中の個我にとっての感情、のことだ
個我がないとそもそも感情はその主体を失う
では、個我と感情はイコールか?
ある意味イコールである意味違う
個我は真我と重なる部分があり、完全に分離して語ることは難しい
唯識で語ると、末那識はこの世の我を指すが、阿頼耶識はそれを超えている
でもそれらは結びついている
末那識はこの世の経験をその範囲に持っている
だから感情と関係が深い
ただ、末那識はこの命が終わると失われる幻想でもある
ただし、それと重なる部分のある阿頼耶識は幻想ではなく、全ての輪廻を貫いてある
従って感情は、この世で感情を介して末那識に作用したエッセンスしか阿頼耶識に作用しないという意味で幻想である
人間の根源に置かれるべきなのは感情ではなく、霊である末那識であり、そのコアで緩やかに繋がっている阿頼耶識、もしくは真我だと思う
absalomさんは感情からの学びを大切にしてるからそこらへんが分からないのだと思った
まず日本語で。
幻想も現象も物理法則の中に実在している世界の模様にすぎない。
自分の判断・確信が間違うことは「ありうる」
物理現象が優先であって、人間の思考はそれに従うのみ
ここまで的外れな議論を厨二病全快で繰り広げて
誰一人自分たちが超カッコわるいことに
気づかず存続できるスレも珍しい。
続けたまえ悟りからほど遠い者たちよ。
愚者の熟考ほど滑稽なものはない。
2ちゃんねるでなに言ってんだよ
>>683 そういう見方もできるんですね。でも自分が悟りから遠いからといって、近づく努力をしないのは
一番だめなことですよ。カッコが良かったら悟ったことだ、ということは無いでしょうし、
頭から否定することは意味があることだとは思えませんが。
人を否定することでカッコつけるあなたも厨二病なのでは?
>>685 反応するのがそんな挑発レスなのも未熟な証拠だと思うなぁ
>>686 あまりそういうことが身の回りになく、面白かっただけです。
>>687 言い訳があなたの悟りですか?
自分を偽って何を悟れるのでしょう
>>688 そんなふうに見えますか?悟った人間だって言い訳くらいするでしょうよ。
でも、私はなにかほっこりしました。人間らしいのはいいことだと思えました。
私が真面目にやっていることは、前のレスを読んでいただければわかっていただける
と思います。あなたにも悟りが近いことを願っています。悟りは遠い話ではないのですよ。
全身麻酔をかけられて生きている人間には快不快がない。
人間に快不快の感覚が必然だったのは、環境に対する適応力が種として劣っていたからでしょう
何故、そのような種が爆発的に世界を今のところ支配し続けていられるか。
人類が霊長類の頂で、最高の高等動物だという幻想による人類規模の自己暗示のような(宗教や
神話や自己欺瞞やetc.)膨張した人間精神を作り上げたからでしょう。
そして文化という洗脳で、社会は積極的に成立し続けているわけです。
>>691 快不快は、人間が生物に共通する感覚として、最後のもののように思います。
種の絶滅は、人間の中でさえアウシュビッツとして存在しています。種の中でさえ
このようであり、種の外に対しては全く関知していません。あらゆる間違いが、
文化の中で正当性を持たされています。
でも、人間は生物です。生物の美しさを持っています。人間的という言葉でさえ、
なにか途上国の感覚で、遅れているとさえ思うような人々がいます。
この精神性優位主義は、宗教の生み出したものだと思います。
だから、この新しい時代にあって、新たな思想が共有されねばなりません。
こころは逃げていかない。余裕が取り戻せたらまた一緒になれる。悟りはこの方向で
いいはず。不安だから逃げるという訳にはいかない。不安で死んだら、悪い例が増えていく。
このような縛りでいいなら、いくらでもできるが、限度を設ける必要もない。やはり新しい
ものとは、何時の時代にだってある。つながりが安心へと変わる。つながるものを手に入れる
ことができる。つながらないものを手に入れることはできない。だからこころは何でも
手に入れられる。こころが世界とつながっているのだから。
その心=繋がりという呪縛は悟りとは真逆の人間至上主義てき錯誤だと気付くべき
>>694 心は繋がっていないのだろうか。太陽の下で瞑想している時、他者とのつながりの
本来的意味がふっとかんじられるような気がする。弱い人間はつながりを求める。
強い人間は一人でも生きられる。自己に頼り、法に頼る。心というものが空っぽのほうが
いいのだろうか。悟りとはそのような状態のことであるようにも思える。病気が癒えてきた
ので、自然自体の語っていることに考えを至らせられるようにもなった。
たしかに、こころを高めるために認識を変えるということは不自然だ。認識を高めるために
こころを変化させるという方が自然だ。
厳しさの中に求めるべきであるようにも、自然の中で一人いるべきようにも思われる。
>>695 オンとオフじゃないよ、
こころは観念であり繋がりとは具体的と抽象的という量で示して考え直せ。
>>694 また独特の解釈だね、偉いよ君はwwwwwだからもう来なくていいさ。
>>691 > 全身麻酔をかけられて生きている人間には快不快がない。
人間ではなく、人間の組織部分には快不快はある。ただ意識として
快不快という認知が阻害されているだけです。
全身麻酔程度で心臓は止まらない。
脳と全く同じ神経細胞は脳の部位だけに存在するのではなく大脳にあるそれも
小脳や延髄にあるそれも皮膚やらまでつながる神経も完全に同じ細胞でできています。
ただ構造と伝達の密度やらつながりが違うだけであります。
それぞれの情報伝達がまともに働かないことが意識が認知できる感覚の阻害であり
それは情報のネットワークにすぎません。故に人の条件を満たす世界の肉体以外の
何かも間接的に情報が伝われば心は痛み快楽へとつながるのです。
組織部分に快不快感情を認識する機能がないからね
具体的なつながりとは、こころの場合働きかけで変えることが可能なものか。
抽象的つながりとは、こころの場合イメージが現実的なものを越えたところに
あるものか。
つながりとは、それを喜ぶこころか。あるこころがあるこころにつながり、それで関係を
持つようになる。このように保たれる関係が、「こころのつながり」であり、それを厭わない
場合に、異質なものへの寛容さという仏教の良い部分が生まれるのだろう。
具体的にはつながり、抽象的にもつながる。そうして、世界を探り、また態度を決める。
これこそ自由だ。
快不快感情とかいうのは人間が便宜上に名づけているだけなのに、それを
便宜上の呼び名から勝手に妄想するのはバカだろw
ニューラルネットワークは単なる信号の伝達の網でしかなく、それに機能を
名づけてここからそういう機能だと高次な名前をつけてもどこからどこまでなど
定義できるものではない。それを定義などできないのに定義できると思い込み
しているバカに着ける薬はないな。
>>700 定義を必要とする議論なのか。定義できないのは、単なるニューラルネットワークについてで、
ヒトについてではない。痛いこと、苦しいこと、胸が詰まること、悲しいこと、不安なこと
など、種がある事例である。生物学的にも、快不快感は実験観察、表現が可能なことだ。
ゾウリムシの細胞がニコチンから逃げていくかどうかをみればいい。
>>701 実験観察において、ゾウリムシの細胞がニコチンから逃げていくのは不快だからだ・・・
ゾウリムシじゃなく、馬がライオンから逃げるのはライオンが不快だからだと仮定して
実際に馬がライオンから逃避しているかどうか(馬の概念として)は人間には未知の領域。
超おおざっぱに例えるなら、ライオンから人間(科学的に)には認知不可能な、エネルギーが
出ていて、その力から遠ざかるように働く器官が馬にないとは言い切れない。
人にはライオンに食われないように必死に逃避しているようにしか’表現’を理解する事ができない
もしくは、そう理解することが理に叶っていると思いこんでいるだけということだってあり得る。
器官 ×
機能 ○
悪い
理解など不必要である、理解したいなら学問でも習得しな。
707 :
もうそう:2014/03/30(日) 10:45:25.76 0
悟りは物事の本質を知ることである、それは過去からの本質ではなく
未来へ続く本質である。
また人の"egoism"でもある。意思をもって悟ったものにこそ未来は与えられる。
悟らない奴は永遠に過去との対話で終わるだけである。
未来へかざす意思のない観測者には悟りは訪れない。
その本質ってのが人間か決めるだけの価値基準でしかないから・・・
この世界空間に本質というなんらかの価値がああるわけじゃなくて
価値を勝手に定義して悟ったと思う時点でただの観念。
なんでバカって必死なの?
気付かないからじゃない?w
喜びとは苦しみがないこと。苦しみとは喜びがないこと。すなわち、苦しみとは苦しみが
ないことがないこと。喜びとは喜びがないことがないこと。
このような苦しみと喜びの表現には、喜びが積極的であり、苦しみとは受動的である
ということが見て取れる。すなわち、苦しみとは否定を否定することで、喜びとは
肯定を否定することがないこと。
天翔る力を理解できないようだな。
>>711 訂正。
「苦しみとは否定を否定することがないこと」
苦しみを受動しなければならないというのがそもそも観念でしかない
苦しみを受動せず、積極的に喜びを求めないそういう選択肢を作らないのが愚か
>>714 そういう選択肢をつくることも出来そうですね。人間の行動には様々な可能性がある。
人間の強さについて考えることもしばしばです。
……じゃないことを想像するのが難しい。と言った場合、肯定だが、難しいことが出来てしまって
いるという点では、後ろ向きだ。……なことを想像するのが簡単だという意味でもあるが、
……であるという想定をスポット当てるという点で、可能性を狭めることであり、それに
積極的意味を感じるということは、思考の的確さが肯定であるということだろうか。
可能性の排除である。否定とは可能性ではないのか。
例として「性格が良い」をとってみよう。「性格がよくないことを想像するのが難しい」
という場合、性格が良いということを例証する文である。
「正確が悪くないことを想像するのが難しい」と言った場合、性格が悪いことを例証する
文である。
いずれにしても、良い悪いを積極的に認めるための文である。
「水が存在しないことを想像するのが難しい」と言った場合、わかりきったことを例証しよう
とするため、文に意味が無い。
以上より、文に意味が付与されるのは、完全に客観的な文ではないという場合のみであろう。
つまり、文の主語として重要なのがその概念の対象であり、想像するという意味を
主語に付与することによって、価値判断であるという副次的意味が働いている。
「悟らないのを想像することが難しい」という場合、想像の対象(悟り)が文の意味作用
による価値観の範疇を超えてしまっているため、意味を成さないのではないか。つまり
想像するということを慣用句として使いたくても、その意味を超える場合はあるのである。
このように、日常語には比喩的な限界があるので、複雑な文で真理を語ることができない
場合がある。
始めに言葉ありき。言葉に支配されているから全てのマクロ的行動は言葉に支配される。
718 :
考える名無しさん:2014/04/02(水) 17:07:09.97 0
人は渦中でしか物事を理解できない、他人事でそれを理解ができるなら
それは既に「人でなし」という表現が的確である。
完全なる部外的傍観者は他人事で全体を見通しできる、しかしそれでは渦中との
接点はなくなる。
お前らにこの2つを同時に行うことなどできるわけがない、常に片方だけでで
思い込みとなり知りもしない理屈を並べる。
悟りえたときこの両方をスイッチできる、同時ではなく切り替えすることである、
これを超えたら死ぬ、だがスイッチ出来る奴はスイッチしたとき、他人事である
故に死すら恐れない。それは俺じゃないから当事者に理解してもらえ。
目の前の情に訴える恐怖を防げるものは思考や感情に壁をもちこみ完全に隔離できた
場合だけである。剣で戦うとき勝利を優先してそのために相手の剣を自分の
腹に刺し攻撃を封じて敵を倒すようなことである、当然自分は勝っても死ぬ。
受け入れることができないリスクを受け入れてこそ悟り得る働きが生じる。
人は感情の生き物であり感情を押し殺せるのはパニック状態か心神喪失か
天然の超越バカの才能をもったものだけである。おまえらにそんな資質などない。
考えて行動する損得計算の段階で完全に迷走している、すべてを捨てる捨て身の
その対価こそが超えてはいけない力を与えてくれる、要旨として「超えてはいけない」
超えても良いものではないことに気が付け。
可能性を捨てたとき論理は完璧な合理性へ誘導される。目的をもったものは
魅惑を捨てることはできない、目的を得る為に目的を捨てるなど論理矛盾しているからである。
そこで超えるべきそれは論理矛盾を受け入れるってことである。オマエラ程度に
そんな選択ができるわけがない。本当の覚悟とは考えないってことだ、選んだ
からには利も徳もなく単に機械になりきり「人でなし」になるしかない。
おまえらが人の器をかぶる人間の化身であるかぎり人間を超えた1歩は踏み出せない。
自殺しようとして自殺を簡単に出きる奴がいないだけである、できるなら
サイコパス診断で隔離確定になるだろう。
>>718 部外者か渦中かという二つの立場がある、ということは、その状態の字的定義からして、
両方を選ぶことは出来ませんね。部外者なら渦中でなく、渦中にいれば部外者で
はないと。概念的ではない実際の頭の切り替えを考えても、やっぱりそういうことが
言える。切り替えの自由さで物事の本質を生き理解しようという理論でしょうか。
実存主義のある側面が行き着いたものである、ということ、すなわち、物事の
理解の理論ですね。そして、当然、理解の上での実践の方法でもある。とても
超現実性への志向、ロマンチック、ヒーロー的でもある。人間を越えた一歩、
人間的なこと(と非人間的なこと)への洞察であると思います。
実際には、ある場面では部外者であり、ある場面では渦中であるということは、
渦中の物事への関わり方が、損得勘定を抜きにした冷静な判断、意識などを
不可能にされた状態なので、難しいのですね。
では、本来的に損得勘定の存在しない出来事への参画が、なにか示唆を持つ
といった事があるのではないでしょうか。例えば、ボランティアであるとか。
因果は意外に狭いということです、ほんの少し離れれば自分ではなくなる。
肉体から外は既に自分ではない、家から外は他人の場所、会社から外は他者
国から外は外国、地球から外は宇宙でありタマネギの皮のように剥いても
入子状態になる因果の関係です。果てになるほどその因果は無になります。
身近なものであっても人生の生涯として関係しえないものは既に因果関係
の外にあるのです。我々が見ている渦中はそういうタマネギの皮の1枚である。
宇宙での仕組みや輪廻は地球には届いても国、会社、家族、肉体と内側のそれには
伝わりにくい、論理なるものはその皮の1枚の横つながりで働くものであり
内側の皮と外側の皮は土台や入れ物となっていても直接に働きが連動するものではない。
常に間接的に迂回しても対象の働きには関係が薄いということです。
世界は外側の働きでも機能しており、それは内側のその尺度で測るべきものではない
渦中は物と物との繋がりあり働きである、部外者はその器にすぎない。
この主体(主となる層)と客体(他の層)をあわせて世界が働いているわけで
どちらかからでも世界は説明できるだろう。しかし渦中からの立場ではそれ以外の
立場を見る(働き合わない)ことが困難である、戦争でいえば渦中の論理は
戦術であり渦中以外の論理が戦略と喩えれる。戦略は戦術を行う物の心や気持ちでは
それを成し得ない。上から安全な場所で命令するだけの立場の人が最前線の
兵士の心など読み取れない。その逆も然り。
世界はそういう立場による因果関係の縛りが自然に形造られ、すべてを見通す
眼があるとすればそのすべての立場を抱擁する心の姿勢であるはず。
戦争でいえば戦術、戦略よりさらに上に敵と味方がありそれを合わせて観音力の
立場で念じることで神がかりな未来を選択することも可能である。
見えている自分のそれは常に自分自身のそれであり、それは自分以外が自分のそれ(情念)を
見ている器の視点ではないのです。魂が肉体を離れ自分を他人としたとき初めて
精神に羽が与えられ、彼の所から渦中が働く本質が見えてくる。
誰の情念でもない世界の物事の働きが美しく輝くとき、そこにこそ自身へ続く美しさが
働くための器を選べるという意味になりえます。
だから妄念だといっているだろ、本気で理解しちゃ駄目。
自分と自分以外の境界、自分とは?思考をする脳だろうか?
では肉体は?義手は自分以外なのか?他人から移植した腎臓は自分以外なのだろうか?
自分が必須としているメガネは自分の一部なのだろうか?
自分の気持ちで愛情を与えている他者(人、物)は気持ちの延長であるが
それは自分の一部なのだろうか?家族はどうか、社会はどうか。
そのどっちにも付かない曖昧な境界にあるのが魍魎であります。
区切り目にある区別が困難な領域です。
困難な理由は既存で過去ならばどちらかと判断として言い切れますが、
未来へと続く可能性の場合はこれからのことであり判断が付かないのです。
未来へ通じる情念は既知ではなく未知であり、それは科学でもなく技術でもなく
希望や未来や思いであり、それを定める術は予言や予知というオカルトの術
しか存在しません。
なぜならまだ選んでいないからです。機械論的な合理的思考は形骸化され
それらを選ぶ前に選んでいます。なぜなら決定論に支配されているからです。
貴方が未来にみた可能性とやらは来ない可能性がある、故にオカルト論でしかないのです。
可能性というのは仕組みを支える原理そのものが不定で要素が特定できないからです。
不定の要素で目的の結果が正しく生じるという主張こそオカルトより酷いキチガイの発想です。
前提条件が見えてこそ未来を呪縛して情念が無数の要素から結果を選び取る
それは自己組織化のように相性だけで生じる類似秩序のような類です。
原理的性質と環境要素が決まれば100%ではないが高めの確率で成立するということ
何も決まらない場合に0%程度で、要素が決まれば10%になるという低確率であっても
それは成立へ向けた未来への確率向上であります。現実はサイコロを振る要素が
大きいわけですが、無秩序ではないのです。生命の類が稀に奇形を出し進化をする
不合理な仕組みも秩序の1つであります。神は完璧な世界を作らなかった、
唯一のその不完全さが完璧であったという完全解ではないのです。
その不完全な何かとは実態と影の合間にできる不完全な影のこと、すなわち魍魎です。
過去に対する決定的な完全な仕組みではなく、未来に対する不完全な仕組み。
それこそが高度な意思体の本質であります。
はいはい、失言だから、無視してね。
釈尊は"対機説法"をしたんだよ
そこ重要
なんでだろうね
一面にすぎない。だが722は全てと説く
全てとはそれを考えた人の全てである。それの外を扱えるわけではない
井の中の蛙、大海を知らず。人の全てが井の中にいることを自覚できないから
他人がそういう比喩を出すと上から目線と拒みだす。
一つ外から見ることはできても、さらに外があるってことだ。
そういう入れ子なのに自分は常に外側であると思いこむおろかさ。
725 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2014/04/25(金) 20:11:38.65 0
アレとコレを選んでと言われたとき、空であるという考えで対処はできない。
必然的に思考が行われなければならず、それを突き詰めたとき、考えの最上の
働きといったものが会得される。つまり、色は最上の知恵であり、全てを上手く
行うための方法である。
森田正馬の「煩悶即解脱」といった方法にも通じるが、「色即是空」とは、色すなわち
思考が、突き詰めた時に行き当たる意識の切れ目であると考える。そこから得られる
世界は広く、その広さは自らの可能性の広さである。つまり、空とは世界のことであり、
全ての人間が持っている自然的人間性という無意識的生物的感覚である。
色と空は、因=果であるという、仏教の古典的な思考法によっていて、二元的
な思考でもある。歩行のリズムが音楽のもとであるように、二本足の人間が、
二元的な思考のリズムがしっくり来るのではないだろうか。ニという数字には
特別なものがあるように思う。
ハンターハンターで蟻の王が"最上の働き"を会得し上から人間を見下して
いた。蟻の王はハンター協会会長を"個の最強の人間"と認めた、そしてそれでも
蟻の王の絶対的な優勢と力の結果による最善手からくる勝利として
勝負を詰み落とすが会長は「俺は一人じゃねー」という言葉で全否定をした。
最後の会長の攻撃で蟻の王は負傷を受けたがたいしたことはなかった。
所詮、人間は多様性でバラバラでデタラメな個にすぎない、蟻の王は絶対的な力の
頂点の能力をもち、個でしかない人間など比較できるものではない。
蟻の王はすべての能力を受け継ぐ蟻の中の最強の存在である。
"最強の個"程度であれば蟻の王は勝てる、なぜなら多様性の個であるからだ、
それは"完全な論理"の結論で正しく揺るがない事実である。
だが、、、、世界の一瞬一瞬は完全な法則秩序に従う神のみしる論理性によって支配される、
しかそれを生み出す何かは常に移り行くもの、大きな体系の上ではどうだろうか?
最上の働きとは何か?今、この一瞬に勝てば最上なのか?
もし最上を選ぶと踏んでそれが全てを対価として得られるより大きな働きへの
布石だったとしたら?最上の合理性を踏ませる為の罠だとしたら?
世の中に最上など無い、すべては神のみが知る偶然の原理がある。
偶然を否定したいなら機械的な決定論に心を漬け込むべきだ。
会長は最後の攻撃で、最後の最後まで蟻の王を誘導し、自らの心臓を破壊して
死亡した。
その会長の顔を見た蟻の王は恐怖を覚えた。
だが、既に。。。。。蟻の王が詰んだ筈の未来は、、、、、、、、、、勝利したはずだ?
ここで次回へつづく「アニメ番組の妄想でした」
728 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2014/04/26(土) 08:10:57.06 0
>>626 あなたは広い世界を知っておられるようです。無限に広がる世界を身の内とくらべて、
最上を求めること、その思考の様子は、"本物の意見"であると感じます。自分なりに
考えておられる人を僕は尊敬します。あなたの見ている対象は、常に最上のもの
ということの論理を探っておられる。僕の見てきた中でも、そういう自分なりの考え
であり、しかもそれに独自性のある心の働きは、称揚したくなります。
あなたのお仕事が認められるよう、願っています。もちろん僕自身もどこまで
いけるのか試したいとは思っています。
これは書いておきたいですが、僕は何も自分に自信がないから話の通じる人と
意見交換をしたい、という動機ではないです。ただ、自分なりに感じた、良い意見
というものを、見過ごすことが出来ないということです。僕自身なりの考えで、
あなたの意見を咀嚼しています。悟りに近づくために、僕なりの個性では、
こういう返信になるということです。本物は世の中に少ない──ということ。
729 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2014/04/26(土) 08:11:59.91 0
人間は悩む分だけ美しくもなれる。悩みや苦しみが、掬い取られた時、それらが美しい
ものだと、皆が気づき、安らぎがもたらされる。ライオンに狩られたシマウマのうめき声は、
それをシマウマはもともと知っているから、美しく死に得る。
人間というものについては、未知なものは一つもない。全てが既知である。
だから、人は悟ることが出来るのだ。本来性へと帰ることが出来るのだ。
心は外界を映す鏡、だがその鏡に映る姿は外界と完全に一致するとは限らない。
そういう歪んだ鏡である。
最大のピンチは最大のチャンスでもある。なぜならば、人生のフェーズというものは、
繰り返し現れるものだからだ。このピンチを乗り越えることができれば、次の回に
同じ事を迎えた際、ラクラクと乗り切ることが出来る。そうして人生が進んでいく。
いってみれば、野球のピッチャーが9回を投げ切るように。
ある物事に対して、諾と否を使い分けることができること。物事に目眩ましされないこと。
こうして、否の肯定性を、手に入れられる。
今したいこと、しなければならないことは存在しない。未来への不安と、過去からの不安
の挟み撃ちになっているのが人である。
存在に「安全」と言うものはない
余程経験不足なのでない限りは、きちんとした手順に従った努力
や工夫というものは、目に見える効果をもたらす。没入するのは、
そのことに対しての工夫があるべきなのである。考えることを苦痛
だと、厭うのでない自分があれば、どのようなことも、死や狂気
などもおそるるにたらない。むしろそこには狂気がない。
片手間仕事で日常を送るのは愚なのである。
空気を吸って、それに意志を加えて吐き出す。これが善の息である。
集中力とは、全ての生の可能性に、必要なものである。
意を用いる方法や、結果に満足する。この、意に対する希望が目覚めるという
ことではないか?
自らの小ささに気づかないものは豚であり、自らの大きさに気づかないものも
豚である。
この世が浄土である。全てが浄土に変わりうる。この世界に満ち足りないことは、
自らの修行不足なのであり、この世に満ち足りること、世界の広さに満足すること
こそが考えられなければならない。
長々とした惰性に長い道をのろのろと歩いた。もし此の時に変化が生じうるのだとすれば、
それは意識の働き様への洞察と、その結果であるだろう。集中することは疲れる。だから
短い時間の内に集中がなされねばならぬ。その短さを連ねたような意識が、強く、激烈な
意識であるだろう。それは意識についての捉え方の変化であり、長さはまたどのようにも変わりうる
だろう。恐るべきことがトモダチだ。
自らの恐怖と向き合わなければならぬ。俺は恐怖にやられてしまった。恐怖が
俺を押しつぶす。恐怖とは恐怖であって恐怖以外の何物でもないのだから、
この恐怖の構造を見つめなければならぬ。それが厳格や錯覚であっても、
なくても、違いはない。俺の愚かさ、だめなところ、全てを見て焼き尽くさなくては
だめだ。いつまでも救われないとは、文字通りの意味であり、いつも救われるということ
に変化させねばならない。そのマジックが意志であり、集中力である。
恐怖は恐怖を呼び暴走する、これぞ闇の魔法なり。
人は盲目に弱い、怖いものを怖いと感じなくなったとき人ではなくなる。
怖いものに打ち勝つ心を宿したとき初めて恐怖に打ち勝つ。
だけど、それは自分の意思の力じゃない、では何か?自分は1人ではないってこと
自分が活きる為に必要な部品となるとき、世界は力となり自分は道具となる。
道具に意思や恐怖なんてものはない。
他が為に活きる、それを選んだとき覚悟が生じる、背負ったそれが大きければ
大きいほど他が為の心は絶対に折れない。恐怖など個の持つ小さい心の作用に
すぎない。大きな心は大いなる力を呼び込む。
活きる為に必要なのは、恐怖の先に進み【出でる】こと、
でてこないものには何も与えられない。
勝利者は常に恐怖との戦いをし、ぎりぎりのところにいる。
大きなリスクは人を大きな人に変化させる、常に安全なところにいれば
心は小さいまま育たない、自己を活かすのではなく世界を活かせ、
世界が活きたとき、世界は貴方を祝福するだろう。なぜなら世界が活きる
為に貴方が必要であり、貴方が世界だからである。
個でありながら世界の中心となり、世界そのものになるのは世界を背負う
世界を活かす揺ぎ無き姿勢と態度にあり、大きな心は個にとどまらず、
世界の心そのものである。個が折れようが世界に必須な個であるとき、
世界は個を活かす為にその力を惜しみなく注ぐのは必然である。
悟りって結局集団幻想にすぎないわけだな
どうでもいいいなら、どうでもいいと言えばいいさ。
悟りなんてどうでもいい
745 :
考える名無しさん:2014/05/01(木) 03:38:34.20 0
>>668 ダンテス・ダイジはニルバーナのプロセスとテクニックだよね?
他の人の本は?
実際、瞑想等して、なんか変わった?
色即是空とは、物理的に考えればおかしなことだ。色は色であるし、空は空であり、その二つが
同じものであるはずがない。だが、人間の認識のなかでは、両者は一致する。つまり、
色の考えは、いつでも消し去ることが出来て、空になる。
世界と個人の結びつきの言葉によって語るのは、仏教の伝統である。
波であり粒子でもある、物理学は同じものを1つにできず別の物としてしまう。
単なる尺度の計りの問題であり、古い計りでは説明できないこの学会は
新しい計りができると学会全体で集団否定してきたという歴史をもつ。
物理学は観測者という立場から抜け出せない思想であり、人間の基本認知もその
主体から見て考える認知から反れることは困難なのである。
関係性のみで物事を計るからこそ、関係を示さない原理は否定し現実に
発見すると後付の詭弁となる。
偶然の元に必然が起きる原理を物理では説明しえない。なぜなら観測者が
必要だからだ。世界の法則から捉える現象は、世界の「律」から確定する現象を
律などない、法則によって確定したと説明してしまう。
その要素も過程も特定できないのに限定された現象の過程をもって仕組み法則と
定義してしまう。偶然起きるものを確率と言い切り未来を予言する方程式など
数学者でもそんなものはオカルトだと知っている。
問題が起こると人は萎えてしまう。問題がなければそして自分をよく理解しているなら、
人は気持ちのいいことだけを求める自由がある。苦行というのは、苦の意味を探ることが
目的だろう。苦の果てに何かは見つかるだろうか。苦を苦でなくするための方法を見つける
ことや、苦に魅入られてしまった自分を自然体へ取り戻すことができたら、そうすれば
悩みが消える。不可能なことをしたいしたいといっても、何の益もない。だから自然がいい。
法というものが、条件であって、条件下でいかに気持ちよく生きられるかということが、
自律ということだ。全ては自分がコントロールして、コントロール出来ないものはおまかせで。
いいかげんな法律や、間違った人間の使い方の法などは、簡単に人を損なうことになる。
だが、そのようなことは、不可能なことを可能に変えようとすること、例えばそれは、
金を儲けようとすることなどの間違いから来ているものだ。不可能なことを望んだりしないで、
死を見つめつつも恐れず、苦を感じつつもまたやり直す、生きることに充実して、気持ちは
健全で健常な、清浄な世界、汚れのない世界、可能なら自らを犠牲にすることも厭わず、
助け合いの精神を持ち、無理をしないこと、自足すること、人を損なわないこと、ケチに陥ら
ないことが大切だ。
体験もせずに語る、それが現代社会である。
人生は若者ほど知識が重要と考えるが歳を重ねるほど覚悟こそが重要と悟る。
「空気を読み、空気を生み出す」こんなことを言うと若者ほど拒絶してくるのは
力の所有こそ権力となり自分の主体を広げる術と思ってしまう。
必要なのは力を所有することではなく、世界に力を与えること、
自分が世界に活かされていることを感じることである。
ぼくは世界を好きです。人々が大好きです。頭がおかしくなった時は、そっとしておいて
くれたのですから。本当の人生の生き方を、芸術家として生きたいと思った時、
人に頼らず自分で切り開いていかなくてはなりません。世界に力を与えたい。
それは、ぼくが世界の一部であるからです。親を裏切るようなことはしない。自分を
裏切ることをしたとしても。訳の分からない混乱が、人々を惑わします。哲学は
それに対する処方箋を与えなければなりません。宗教は人々を慰め、真実は
その効果を十分にそのまま持っていなければなりません。人々がいかに交流するのか
ということ、田舎にいても自分ができないからといって、人に責任を転化するような
卑怯なことは好きではありません。汗を流して努力を燃焼させたいと思うのです。
いい加減に、甘えから立ち上がって、何かを創りあげなければなりません。
彫刻家が丸太や岩石を削りだして形を作るのが芸術であり、
3Dプリンターが設計されたCADデータで作るのは芸術ではなく技術である。
風景を風景のまま、人の肖像画を人のそのまま忠実に描く絵は芸術なのか?
ちゃんとそこに芸術が見えているのか?感じられるのか?
ある仏の彫刻家は、そこに仏がいるから掘るという、
それは彫りたいから掘るのではなく、掘り出して欲しいと
石材や木材に対象が隠れていると感じるのである。
それは努力して積み重ね最も正しいことをするという話しなのか?
芸術をするなら考え目標し過程の段階を経て結果にたどり着くという論理術の
領域でとどまるべきか?
行うべき情況があるからこそ、それが成立する。行いたいから行う?
いえ、そこに作られる必然性がある故に偶然は必然を呼び込む。
何ゆえに芸術をするのか?それはその情況や対象に聞くべきである。
目標を定めた時点でそれは工術や写術であり主体が考えた目的でしかない。
そこに芸術をしてほしい情況がないのに作り出されたものは必然性がない、
故に芸術ではなく技術による世界の破壊ともいえそうだ。
世界と共にあることを。世界が欲しているなら世界へささやく。故に世界は我の中にある。
世界が輝き活きるとき、我は世界の中心で輝くだろう。
芸術ってのは結果から生ずるものだよ
まず理想形があって、それを浮き出していくもの
芸術家は何かを創り上げるために存在するものじゃなくって、自分の内にあるものを表に出したいたいだけの人間
しかもそれが他者に認められなければ、表現したものが芸術とは言われない
すごく我儘な存在で、しかも運がよくなければ一食分の食事代も稼げない存在
なろうと思ってなる者じゃなく、仕方なくなってしまう存在
こういう奴が必ず発生する
>>753 稼ぐかどうかは社会的尺度でしか無いわけで、認められない芸術家というものが、過去に
何人も存在する(カフカ、ゴッホ、ディキンソン等の)。言われること、認められることは外的な
価値でしか無いわけだ。芸術家の最低限の良心として、模倣を自らの独創性とは言わない
ことがあるのではないだろうか。人の真似だけで出来た作品を、素晴らしいと感じるような
人間は芸術家ではないだろう。レベルの話はまた別だ。ひとくくりにすることが出来ないのが
芸術家だろう。
>>755 食いつくところを間違えてるよ。
私は君が「芸術家として生きたい」なんて寝ぼけたことを言っている部分を批判している。
芸術家ってのは希望してなるものじゃない、希望してなれるのは芸術屋だ。
生きようと死のうとそれをやらずにはいられないのが芸術家だ。
もし君が芸術家だというのであれば、いまさらこんな寝ぼけたことは言わないだろう
むしろ「こんなの作ったんで見てくれ」くらい言ってしかるべきだよ
才能なんて言っているうちは分からないね
才能ってのはやらない奴が自分を慰めるために吐く言葉
センスも才能、技量も才能、努力も才能、では才能でないものはあるの?
もちろん向く向かないはあるさ、ただし向かない奴はそもそもその道を歩こうとはしないし、歩いてもどうにもならない
ただしそれでもその道が好きでしょうがなければ歩くやつは歩くし、そんなやつは才能がどうのとは言わない
芸術家と言われずただの変な奴と言われるだろう、それでも創らずにはいられないのが芸術家だよ
才能がどうこうは創作物のレベルの話だよ
要するに売り物になるかどうかの話なんだからね
君が別の話といったレベルの話なんだよ
もっと没頭するべきだとは思いますね。でも、病気が治らなくてなかなかそうもいかず。
治ってきたので、そういう前向きな言葉を言ってみたくなったのです。ジレンマをかんじては
いました。僕は自分が何者かであるという確信だけはもっています。才能という言葉が
うろんであるようなきもしますが、言葉を越えたところにあるものを、過去にずいぶんと
経験してきたのですね。それを、何かの表現を使って、表したいという意志があります。
病気は言い訳にはならないよ
ゴッホは精神を病んで自分の耳をそぎ落とすような状態でも創作はしていた
ベートーヴェンは聴覚を失っても作曲を続けた
やりたいことをやるのに障害はない
やるかやらないかだけだ
とまあ、偉そうなことを言いながら自分に発破をかけてもいるんだけどね
掲示板に書き込むことも、創作修行の一つです。心配ばかりが多くて、なかなか集中
ができません。仏教はとても好きなのですが、考えのレベルが高いので、まだ勉強
が必要です。
あまねく仕組みは勉強することではない。
その仕組みの存在を信じることである。現象として認められないならば
単に高次のそれを低次元で解釈しただけのもの。
人間社会の仕組みを臓器や骨格や脳と解釈しなおして理解してしまうこと。
野生動物に経済を説明しても彼らの具体性で認知できる捉え方では
理解するのは無理である。
知らないことは信じられない。推測により知ることが必要。仕組みの理解の方法は、
推測の一つの方法である。具体性とは原始的な方法であり、総体的に捉える方法は、
ある因を真(確か)と認めることだろう。その足場の上に理論を展開する。矛盾のない
推論により、ある演繹が可能になるが、矛盾を含んだ推論とは、帰納的にたたき台
として使われるのではないだろうか。
野生動物と人間が分かり合えないのは、それぞれが信じている(常識として無意識に持っている)
ことが違うためだろうか。お互いに知っていることと信じていることが、違う存在にとって、
それぞれの違いから学ぶことが出来る。それは、異質なものを求めるという冒険心
のようなものであるだろう。
>>764 野生動物に生存や繁殖の本能はあっても、それ以上の欲求や意欲はなく
知識は、意欲的に意識上に想起して認識できる能力ですから
野生動物は知識を働かせなくても、本能に動かされている物(動物)として存在しているだけなので
「お互いに知っている」状況は飼い慣らして学習させなければ成立しないです。
人間という動物こそ知識に頼らなければ存在すら危ぶまれるからこそ、
異質なものを知ろうとする、知らなければならないという、野生動物とは別次元の
能動的な意識が芽生えたわけです。能動的な意味で冒険心とも言えるかもしれませんが
根源的に、分かり合う必要性の有無で断絶していると言っていいと思います。
>>762 信じることは仏教的ではない
納得するまで考え、その先にある物が悟り
あなたと私は別の人であり、同一の指向経路では悟りには到達できない
悟りとは苦からの解放であり、あなたの苦と私の苦はその内容もプロセスも細部は違うからだ
私が苦にすることをあなたは苦にしないかもしれない、あなたの苦は私の身に起こった場合は喜びかもしれない
信ずることでは悟りには至れない、南無阿弥陀仏では悟りには至れない
至れるのは悟りである欲や恐怖からの解放ではなく、ただの放棄だ
>>767 盲目的に他人の考えを信じられちゃう方が病的だと思うけど?
言葉が通じてるっていう前提からして盲目的なことさえあるから
これほど「スルー」力がないという証明を本人が示す。盲目だな。
だって生きてるんだもんっ人より自分優先でごめんちょ
つまり病的と思うけどに対して鏡を貰ったわけか。
さぁ?
見えるものだけを見るやつ、
見えないものを見るやつ、
どっちも駄目だよ、
ときを操る術は人の技ではない。
時を操るのは人の「行い」であっても「技」ではない、
人が仕組むものではなく、世界の成り立ちでしかない。
人が行いとして時を操るには故に神という原理に便乗するしかない。
時の曲目のときのバランスの選択、それは綱引きのバランスが均衡している
場合を見定め人の意思を加える行である。
おそらく答えを求めてはいけないのだ。それは、闘争になる。闘争の負の側面が、戦争の
火種となる。答えを振りかざしての闘争は、おそらく駄目だ。非生産的なことになる。
弱く、愚かな衆愚にとって、答えは武器にもなり、利潤にもなる。答えをだすのではなく、
ただ悟ること、これを原理とした場合が仏教だ。悟りは連帯により近づかれるものでもなく、
闘争の目的にもならない。ただそれはありがたいものである。信仰の対象としても十分
に働きうるように。答えで人を裁いたり、言い負かしたりしてはならない。現代という
時代は、もう二回の大戦により、死の恐ろしさが広く感じられるようになっている。
つまり、実験はもう終わり、実験結果が出つつある。逆行的退化は、やはり南北
格差によるのだろう。富によらない悟りというものが、二千数百年もまえに存在
したという事実は、退化する社会においても、その混沌の様子さえ退化以前の
原始的な社会での生き方に、幸福になりうる方法が見つけられていたのだという
ことを、見なければならない。
あなたは幸福ですか?
>おそらく答えを求めてはいけないのだ
答えを求めなければ答えに向かわない、答えを求めれば答えが形骸化してしまう。
問題はその手法なんです。
答えを具体的なものに結びつけて模索しなければ答えには近づけず、具体的な
ものに結び付けてしまえば答えが歪む。
この情況を作れば自然に情報の結びつきにフレーム構造ができるんです。
急ぎすぎて答えを得る積み重ねを確実に行えば、末梢では機能したそれは
大局では機能しなくなる。
負も正も全て含めて未来へつなげることが大事である。良いものだけをみて物事を
割り切れば答えは得られ一時的に良好な優勢を得られる。
そんなの分かっているはず。世の中が教えてくれる安易で目の前の成果を得られる
方法や術や知識など捨てるほどある、一時の合理性は真理にはなりえない。
極所を見るならば対極も見るべき、全てがバランスをとるのが自然であり、
科学的合理思想はその極所ばかり追い続ける。なぜなら合理的で正しいからだ。
それは負の側面を見ていない。負も正も善悪と正義と悪にすぎない。
そんな片側など常に主観的、主体的に捉える自己とそれ以外の関係を計った
だけにすぎない。
何故に俺正義が悪いのか?何故に自分が正しいと思うものが間違いなのか?
そんなことはないと思いたい。だが世界は俺を中心に回る仕組みではなかった。
例え世界の王となれど自然法則を変えられない。何故に絶対の力を得ながら
王に逆らうのだ?、王が世界の中心で正義であるはずだ。
王(我)は世界を背負わずに世界の負の面を避け、自己の意思を通すだろう
それが感情の働きによる世界の秩序に対する正しい判断だからさ。
世界は味方か?世界は敵か?、実り得て富を与えてくれる世界は正であり、
奪い破壊する世界は負であるではないか、世界を背負う人は全てを受け入れ
世界と共にあるはずだ。世界そのものである人の意思は世界の意思であり、
それは個の意思ではない。世界の意思を具現化し世界の意思を読み取るものは
世界をどう評価するか?それは簡単である、世界がよりよく美しく世界が
自然に働くことである。それこそ世界の秩序であり世界の混沌ではない。
世界の秩序が働くとはその世界の意思(力)が弱まるのではなく世界の
意思が共に協調し世界が活きる有様だろう、混沌を原理ともしている世界の一部
から秩序を奪うのは簡単だ、だが世界をそうやって個の意思でゆがめて行けば
世界はやがてその個の意思を世界の意思に反する負の力と判断するだろう。
力あれば常に反作用が生じる、反作用なしで力など得られない。
具体性を求めるのも良いだろう、だが一時的に留めそこに固執しては
何の解決にもならない、もっと自由にもっと大極に考えるべきではないか。
答えは最初に選択した時点で決まる、その選択の決意が揺らげば
曖昧な答えになり、揺ぎ無き決意は揺るぎなき結果を生む。
それが運命というものだ、
それは覚悟による対価の現れである、其の場を逃げるだけの選択では
目の前の問題を回避し選ばないだけの選択にすぎない。
選んだものが正しく、選ばないものが負である。
より強い選択をするには、より強い状況を生み出さなければならない
その選択をする決意と勇気はより強い負を正に変えるための背景が条件として
なければ選ぶことはできない。
人として差し出せる対価など極僅かなもので希望するそれを選ぶには
揺れない心であり、心を空ろにするほどの信念と闇が必要になる。
人としての器に似合う覚悟以上を得るには人であって人でなし、
人の領域を超える必要がある。
超えられない壁(超えてはいけない壁)を超えたときのみ人に得られるものもある。
だからこそ人であるべきで超えてはいけないものを望むべからず。
人間の思考方法というものは、目的をきめてそれについて考え、答えを出すという目標を
足がかりにして、思考の満足、挫折等が反省される。だから答えを求めるという思考自体
を否定することは、可能性の否定であり、自らの空気を使い果たすようなものだ。
生きることが答えから逃れられないとすれば、その吟味が必要になる。相手に刃
を向けないということは、自らに刃を向けるということだ。つまり、知っているということが
弱点にもなり、厳しい取り扱いをして、寛容な態度で比べつつ、「新しいもの」を発明
することで、平和に近づける。
実際に食物に困っている人々を救済するには、その中から地道にやる方法もあるが、
国際協力により、富める者が考えを救済の方へとあとづけ、愛という人間本来の
温かい気持ちを取り戻さなければならない。仏教の著しい成果として、異質なもの
に対する寛容性を持たねばならないといけない。自らの賛同者との協力や、争い
の中停への眼差しを、どのように取り入れられるかというと、自らの限界を突破する
ことを皆が目標にしているのだろうから、それならば異質なものとの接触にそういう
機会を見つけるべきなのである。昨日の敵は今日の友である。
人は人間である、故に理屈どおりではない。
そんなこといってないで悟れよ。
え?
壁を超えるつもりがないのに、壁を叩くな!
超えるということは変化すること、変化なしに超えられるとかお利巧さんの
希望的観測にすぎない。
何このスレw
悟った俺に質問ある?
マーラよ去れ
知能は高くても知性のかけらも無いな。浅いよ。直ぐに干上がるレベル。
また、一度救われた。自分の命というものは自分のものではない。意識というものが、
世界の認識の手段であるという進化論的な目的を持っているからだ。どこまでも
澄む空に、仏の慈悲を見た。僕は泣いてばっかりだけど、それもとても愛おしい。
静かな心は湖のようにただ景色を映すだけだ。何かを求めるなら、その不自然さ
をきちんと認識しておかないといけないのだろう。それが他者(世界)にとっての
世界の中に、空のように映るものであればいいが。そのようなつながり方をした
人間というものは、憎んだり争ったりしない。誰もが知っていること、誰の中にも
存在するものだから、誰もが感じることだ。それに気づくためには、一生懸命に
考えることだ。考えることをなくした人間というものは、おぞましいものだ。
苦しみを取り去ることを考えよう。僕の苦痛が繰り返されないように、一度透った
道をまた誰かが通れるようにしたい。そうすることで、弱い人間が、助けあうという
ことができるようになる。損なわないこと、傷つけないこと。人間か宗教かという
二択を越えたところにあるのが悟りなのであるだろうから。その希望は、
涼やかな風みたいに穏やかだ。生きることの目的の本来的なものを、知ること。
必要なのは、なんだろう。健康?知能?知識?これらは外因性のものであり、
与えられるものだ。与えられただけではだめである。そこに、悟りへの意志が
加わった時、死や幸福や、安らぎを得ることが出来るだろう。
>>789 私にはおっしゃることの当否がわかりませんが、知性というのは性質であるから、文が
言い表した価値のこと、知能というのは能力であるから、個人的な力のことである
というふうに捉えることができました。おっしゃることの意味を考えると、だれにでも
受け取れるという、形になったものがないから、たたき台に載せられるアイディアを
もっと欲しくなっているということかな、と思います。言葉遊びにしか過ぎませんが、
そういう点のみにおいては、なるほどと思いますので、より良い考えを生み出す
ために、だれもに納得されるような言葉を紡ぎ、誰もが取り入れたくなるような、
行動や思想を体得していきたいと思います。
>>791 知性は知能の反意語です。その尺度は強さや力ではなく、浅いと深いと表現するもの。
>>792 知性はちいせえ、ちいせえ、ってことなんですね(笑)。
そうそう
知能は答えのある問題を解く能力
知性は答えのない問題を問い続ける能力
>>794 なるほど、それを聞いてわかりました。知性は、知でもって言い表された、知的な性質
なのではなく、その人の知に対する態度がどんな状態か、ということを、浅い深いで計
られるような白紙に向かった時書いてしまうような、根本状態なのかなと思います。
テストを解く力が知能で、解き終わった後にテスト用紙の裏に書くことが知性
なのかな、と思いました。
月が出ておらず周りが真っ暗で敵は見えずとも星は有るさ、
真っ暗闇で全く見えない敵を捕捉するには?
我々が立ち向かうそれは闇にある、すでに見える部分はすべて完璧に
掘り起こしその先が辿れなくなっている。
見えない闇を確率的な捉え方で目測するからこそ、そこには何もないと
心に浮かんでしまう。見える範囲にないのを理解できているのに何故に
見えないものの中をこじ開けない?
既に得た知識の合理性が「それは非合理だ」と説明する強い力で縛り付けられている、
それこそ闇の力に支配された心理だろう。答えが得られないのに何故に既存の
知識に拘る、知識を破壊することが唯一の愛智への道筋。
未知なものを既知で表して割り切るからこそ見えないものは見えてこない。
身動きがとれず壁にぶつかったときこそ、既知や常識とか技術なるものこそが
立ち向かうべき壁だ。この世の働きに無駄などない、無駄は布石に変わる。
布石が機能するまで押し通さないから布石が機能しないだけである。
哲学が必要なときの壁とはそこにあるのではなく、自ら作り出した幻影の中にあるもの。
盲目だと人は溺れるんですよ、なぜって?
つかみ所がない水中で水を掴もうとするから溺れるのと同じです。
どこにも支えがないそれなのに掴もうとする。
思考や情報や知識の中で、選ぶとか具体的にするとか定義するというのは
その掴むという行為にすぎません。
どうやって掴む場所がない盲目の未知や未来を掴み我が物の手中にできるか?
掴まないことです、掴めないものに逆らわないこと。
極自然であること、正しい姿勢でいれば何もせずに溺れずに浮くことができるでしょう。
水であっても変化の無い湖水ならまだ簡単でしょう、流れの粗い急流の川の
流れの中ならどうでしょう?下手な力で何かをすればそれが活かされず流れに
乗れず泳ぎが得意であっても溺れてしまいます。
溺れずにそこから抜け出すにはどうすれば良いか、それは賭け事の運の流れに
近似しています。運を選べても運は意思や技術では確定できないのです。
運は歪んだビニール箔の鏡のようなものです、力を加えれば変形するが望んだ形には
なりえない。
方法は1つです、大きな運の流れを壊すか、流れが変わるのを待つということ。
大きな流れは変化させることはできても自分を中心に回るわけではないのです。
そして複数の意志や世界と関係しあう流れは変更できても一部分にすぎません。
強い技術や力と時間でねじ伏せようとしても歪ませた量だけ他のところが歪みに
バランスをあわせて変化してしまうのです。
そして作り出すのは難しいが破壊するのは簡単なのです、また流れに合理性を
与えれば流れは他の意思や自然の秩序によって自ら形をその方向へ変化します。
それは自ら何をしなくても世界そのものが自然にそうなるという真理があるのです。
強く自然に任せる布石をすればいいのです。さすれば力を加えずとも答えは確定
します。予測するのも合理性に任せ自然は結果をもってきます。
武道では自らを攻撃させるという合理性を敵に与えることで自然に身を切らせる
ことで敵の動きを完全予測することができます。リスクと等価な交換がそこに
生じるのです。可能性はなくなり相手や世界の合理性が高ければ高いほど
予測は確定し揺るぐことはなくなります。100%予知可能な対象と予測できない
相手の行動でぶつかれば結論は決まっています。
身を切らせて敵を絶つ、そんなこと理屈を捏ねなくても普通に武道家なら
知っているでしょう。
物事の鬩ぎあいには常にリスクがあるのです、リスクを回避して結果を得る
そんなのは既存技術や既存知識だけ、未知にはまったく通用しないってことです。
物自体としてのわたしに比べて、現象としての人間つまり、認識可能な人間つまり、
表現という形になる、現実とつながりある感覚という主体もある。それから
仮言命法の現実主義をこえた、定言命法の背景的要請が必然となるのは、認識と
存在という二様の葛藤が起こるからだ。無限と不可知についての問題領域
を知らねばならない。無限を孕んだ自己の、物自体的側面と、現象としての人間、
すなわち認識可能な現象の世界の範囲の中の自己という、現実主義を本来へと帰
す様態に問題があるということを言っているのである。形而上と言われるような、
認識されない世界。それは想像の産物であり、想像の先にある現実でもある。
個人の能力を越えた問題に対しては、人間間のやりとりにおいて、共有される
無意識という形で持たれる認識によって、自他の関わりの倫理的要請が言われる
のだし、例えば神という概念により、物自体を抱えている実体人間体を指しうる
ような言葉の概念を、自己のネハン、他者倫理の「自他不二」という形而上へと
帰らしうるし、またそれは倫理の普遍性の理由である。自己というひな形を誰もが
もつ。そして、人間を越えたものは、上に述べたように、想像によって目指しうる。
人間への強制力を持っているのは、苦痛などである。苦のなかにひな形を見て、
苦さえ経験として、抗い、求めること、これは人間文化だ。
>>796 闇は何故いつからどのような、闇であるのか。おそらくこの場合は、人間の思考の、
一番得難い、近づきがたい意味を表すのでしょう。真理は近づくほど、それも、まさに
真理であることから受ける、意味が、極楽への道のように思えるのでしょう。思考と
行動のリスクということをおっしゃってる。近づくほどに、面白いというような、生きる意味
のようなことが、見えるもの。
『往生要集』には、理を縁とする誓願について、
「無明の変じて明となるは、氷を溶かして水と成すがごとし。さらに遠き物にも非ず、
よそより来るにも非ず。ただ一念の心に普く皆具足すること、如意珠のごとし。宝ある
にも非ず。宝なきにも非ず。もし無しと謂はば、即ち、妄語なり、もし有りと謂はば、
即ち邪見なり。心を持って知るべからず。言を以って弁ずべからず。衆生は
この不思議、不縛の法の中において思想して縛を作し、無脱の法の中において
しかも脱を求む。この故に、普く法界の一切衆生において、大なる慈悲を起し、
四の弘き願を興す。これを、理に順へる発心と名づう。これ、最上の菩提心
なり」とあります。
闇の中にも法、その法に従うためには、見えないという理を、得なければならない。
闇の理を考えることは、心浮かれるほどの冒険です。仲間というものがあるなら、
一人で探求する必要もない。だれもが心に抱えた問題であるから。だれもが
死ぬ前に悟りを開き、輪廻から脱することを望むだろうから。それが誓願という
もの。
愚体性を選んだ時に愚に落ちる。
802 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2014/06/21(土) 19:21:39.94 0
>>801 法に背けば、涅槃から遠ざかるばかりだ。自らにとらわれず行為することが空である。
愚を遠ざけようとするなら、そういう心は他者にとってみれば、自らの反省における
(空のような)とらわれない行為の実践の方向として、福である。だから、人たちは
遠ざけた愚の分だけ、他者性の中において、法の実践の成果としての空を体感する
ことになり、その経験の分だけ悟りに近づいていく。一切皆空という法の原理を体得
することが得られ、間違って得られたことや苦しみや蒙昧を取り去ることが得られる。
そのような現象が身に起こった時、間違いを徹底的に取り去った清浄の気持ちが、
湧いてくるだろう。
法は所詮は主体にとっての法、観測者のいない法などない。
故に法は常に全てを支配する法ではない。
法は常に正しく背くべからず、しかし法に支配されれば法のよって滅びる。
正義、正しさが何かを知っているなら説明する必要などない。
804 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2014/06/21(土) 20:50:24.46 0
>>803 >観測者のいない法などない
これは、昔からの哲学の大問題のバリエーションのようなきがします。あまり詳しく
ないけど、観測者は、自分の頭のなかの法と、主観の、外にある法を区別する、
あるいはもっと正確に言えば、自分の頭の中の(主観に縁起した経験の)法に
従い、自他の区別を法を感覚する時にさえ用いるため、経験によって変化して
しまう法というものが、すべての法であると考えるのだろうか、という疑問が。
つまり、ここであなたが考えているのは、自然の法則ではなく、他人と自分の
法つまり、正義の概念をもたらし規定するような法ということだろうと思います。
仏教が、内法と外法(げほう)というふうに区別し、問題にしてきた事情が
あると思います。
>>804 モノとモノの因果関係が成立するには必ず観測者という対象と観測者という
関係を必須条件とする。
論理に従い物事を理解するかぎりこの関係は否定できない。
世界を認知するというのは妄想ではなく観測という現象が関係を生じさせていると
理解することです。
>>805 因果しないものが関係してもいいだろ、世界が矛盾の元にできているのも
正しい形かもしれない。
>>805 観測において、関係の影響がゴミ(ランダウのO)として無視できる程度であれば
近似的に等しい、ということはないのでしょうか。近似と等価を区別しないことが、
物理的な方法の本質だと思っているのですが……。人間にとっての法ということ
であれば、なおさらだと思います。というのは、完璧な観測の出来る人間はいないという
ことからも言えると思うのですが。数値とモノとの対応関係が、そのような
不確定性をなぜかもっており、それは例えば時間の存在の様態は、どのように
観測-記述されるのかという問題があるのではないかと僕は思います。素朴実在論
の問題点が、観測のソフィスティケイトであるなら、観測の方法によって実際の関係
が変わるという点に、現実とは、素朴かつ非実在的であるという面白い見方が
できるんじゃないかと。どこが面白いかというと、実在しないし、観測者に依存
するという滅茶苦茶が、自由度を上げて、かつ、その自由度のもとで究極的真理
の美しさがより増し、数学的な美観に理由を開くというような、少し想像力を
変な方向へ使ったような、胸のすくSF的な面白さがあるんじゃないかと思うのです。
モノとモノの因果関係が、時間と空間の関係に置き換えられることはないのでしょうか。
>>807 たとえ近似していてもそれは近似で別なもの。
似ているから同じようには正しいが同一ではない。
同一の遺伝子から生まれた一卵性双生児は近似ではなく完全に遺伝レベルで
一致しているが同一ではない。区別できないから区別するべきではないでは
区別できる対象があることを考えるな無視して否定しろということでしょう。
量子力学の不確定性でも最新の超弦理論の前ではその確率分布は紐の挙動に
過ぎないわけで不確定性に見えるだけにすぎないでしょう。
天動説が地動説に近似しているから地動説もただしいという説明では量子力学が
普及しているから新しい主流となりそれらを抱擁して置き換える理論はまだ
早すぎるからのような説明にすぎないのでは?その不確定性の説明は今後の
紐の解釈によっては過去の天動説になるべき道を示しているのです。
所詮は粒子は点であるという価値観から抜け出せないのが不確定性の説明です。
究極的真理があるとしてそれは数学的に美しいという説明ならば、
恐ろしくシンプルで今の複雑怪奇な説明を全て簡単な関係で示すはずでは?
物と物の関係を数式にしたものがすべての説明の真理だと私は想像しています。
つまり物とは何かの主体、もう一つの物の何かの主体、それぞれの因果関係が
すべての真理(意味、力、粒子、法則)の根源ということです。
人の都合で考えたそれはいくら進んでも人の主体的定義の基では人との関係で
現れる意味ではないでしょうか?
貴方の考えでは人の理解したいまの世界は、宇宙の果てに存在しているかも
しれない超科学のそこでも同一に近い答えだという確信があるのでは?
ただしい答えならば先に勧めるはずです、足踏みして壁にぶつかり超えられないのは
自ら作り出した考え方や理解や意味が作り出す壁ではないでしょうか?
物事を具体化し意味で割り切ると論理説明が可能になりますが、それが本当の
答えでしょうか?世界が無限か有限かすら分かっていないのに。
論理だけがすべてを表せる道具と考える限界は無いと確信しているのは論理を
扱う人の根底であるでしょう。近似は同一と考えて良い。ならば同一な
物を作れる技術があるならば両方とも同一で所有者が別でも同一であると
主体性の問題を無視する結果は生まないと考えるべきでしょう。
普通は物があるには物が主体と考えますが、物を活かすのはその世界であり
世界からの逆の因果関係が主体を表す意味になるとは考えないのでしょうか?
世界からの関係を軽んじて同一なら同じとすれば近似より一致する同一でも
同じだから片方が消えてもそれは複製を作れるから何の問題もないという
説明になります。完全に同一でも消えた側が世界との関係を結んだ過去は
同一ではないのです。世界にとって消えたのは世界の側の関係を表す意味であり
それは主体の意味ではないはずです。近似だから割り切る、それもいいでしょう。
生物の同一性も常に変動している故に近似で一致ではないと考えるべきでしょう。
では同一と近似とは観測者と観測対象の片方だけの精度なんでしょうか?
世界は単純に示すのが論理であり認知はその精度で割り切るべきという科学の
流れであり、人がその真理を掴んでいるわけでもないです。
人が認知する限り人の考えこそが真理であり、現実のそれも真理ではないでしょうか?
それらを分離して片側だけで考えれば観測者がいない想像物を作り出す。
それは人の想像にすぎないのでは?
切り離して考えるのは論理的で有効ですが、因果する事実をもって世界を
近似するのでは仮想世界が完全計算したシミュレーションも同じ現実である
という考えと同じに思います。
>>808,
>>809 少し、脱線したことを言うかもしれませんが、実に興味深い話でした!
それで、自分流の考えを少し。
演繹という論理、それは無限を扱える。だから脳も無限を扱える。なら、コンピューター
と比較してみたい。例えば点。点の概念を、しっかりと記述し、さらに実用的に
使える計算方法を与えるには、定義し、その定義に従った振る舞いをするように、
実際的に記述しなければならない。
マスマティカなど使ったこともないが、数学的帰納法(注意、これは名前に間違いで
演繹らしい)を考えてみたい。数列は無限を表す。(主体性とは何?)演繹をどのように
定義すればコンピューターは動くのか?では、例えば「判断」とは、同一性を
帰納的に判定することで、理論の適用不適用をそのたびに判定することだ。
つまり、判断とはそのたびのチェックだ。入力と言ってもいいに違いないと思う。
それで、帰納のルール全てをデータ内に持つことは出来ない。
こういう描像でいいだろうか。つまり、判断と定義、それぞれ、帰納と演繹なのである。
このように、無限を扱うための記述として、計算の実際をどのように組めるかという
事を考えてみた。
例えば中が埋まった円を考えます。
昔BASIC言語の図形描画に円と書きその中を点をなぞって内側を順序良く埋めてゆく
描画ができました。circle()命令とpaint()命令で論理的に座標を計算しその内部を
探りながら一定のアルゴリズム(機構)で"埋めてゆく"というものです。
これに対して円の方程式に沿い無秩序の法則(rand関数など)を利用し円の内側と
外側を判断して確率的に円の内部が"埋まってゆく"という描画方法もありました。
両者を単にアルゴリズムといえばそれまでですが、前者は一定の方法論に従い
手順や描画方法が論理的に描画されます。しかし後者は確率的に描画が行われ
完成までの繰り返し回数も不明であり、無秩序の定義が変わればいろいろな秩序によって
自然に埋め方が変動して意味のありそうな模様すら途中経過に表現されたりするかもしれません。
世界を表すのに描かれる働きや事象はこういう2つの流れがあると思います。
前者が先天的で計画的に、後者は後天的で運任せ。
人の条件となる抽象的なものはどうでしょう?前者は機械的、後者は人間的なんじゃないかな。
人という対象を描く場合なら、人という仕組みを計算によって作るのは無数のパターンにより可能な
筈です。だけど人という可能性を生じさせるには人という条件に自然(世界)との関係によって運任せ
で肉付けするものじゃないでしょうか?さらに人が扱う情報処理も似たようなものだと思います。
学校や知識として学ぶ科学技術は既存の完成した情報を元に仕掛けられた結果を計算するものに見えます、
そして人が扱う論理、論述も同じではないでしょうか。運任せ偶然を元に初期条件と環境だけ与えて結果は
偶然(必然)の結果となるのを希望する。そんな不確かなものは条件と環境が厳密な図形なら確実に見える
でしょうが、自然を環境とし遺伝子を初期条件とし、これをもって仕組みとするのは人の作り出した
設計や手順や技術では無いと思います。
別の表現をするとすれば最初の前者が『閉鎖系』の環境で要因も要素も空間も固定です、後者は要因も要素も
空間も分からない曖昧な『開放系』の環境もの、そう考えるとすれば開放系は複雑系学問のカオスの中に
秩序ができるような挙動になると思います。つまり論理では説明しきれない可能性が相互に重なることで
生じる何かは科学技術での計算可能問題にはなりえないと思うのです。
見えるものは拠り合理化したものが勝ち取る。そんな単純なことが理解できないって。
見えないものは得ることもできない。然り。
悟れないのは情念が残っているから、情念に縛られていることを知っていながら
それを否定してしまう。
人でありながら人でなしにはなりえない。
悟りって何?
悟りっていうのは、理性的に、世界の道理を説明できる意識レベルといったところだよ
うそこけ。
言葉で理性的に意味を表したとき、それは悟りではなく論文である。
ちがうー。
言葉に表せないものは悟りではありえない。はじめに言葉ありき。
>>820 言葉は物事の表層しか表せないよ
例えるなら痛みを標準化、数値化できないようにね
>>817 どんなに理性的に物事を見ても、苦悩がなくなるわけじゃない
理性的に見るのはまだ道程にすぎない
>>821 本当に痛みとかを言葉に表せないと言う点はなるほどと思いました。脳状態を意
識の感覚へとすでに翻訳されているんじゃないかな。脳状態の機能と、それをコ
ントロールする主体のための感覚が、身体の各部へと伝えられると。クオリアは、
根本ではなく、身体への感覚である。その機能を応用とすると、各種の言葉という
行為になる。人間を無視した言葉は存在するはずもなく、(ちょっと話は飛ぶけど)
イデアは認識があるから存在する。言葉に念を込めれば、本当に、すべての思考
をかけて言葉に対することもできる。言葉は人工ではなく、進化的必然だ。物事を
表層でしか表せないわけは、人間の限界があるからで、感覚と言葉が関係しあうと
いう点に、形而上からもたらされる真実も存在するのではないか。つまり、言葉は
閉じていない。
人間の行動とは、予測と不可分だ。自分の能力で、意識的に無意識的に、予測を立て
る。たとえば、からだに悪いと知りつつおやつを貪ってしまう行動に対処するのは、
「今食べなくても餓死はしない」という予測を立てることによって出来るのではないか。
よくわからない物事に立ち向かうためには、予測と予測不能を自在にあやつることだろう。
>>823 だから無理だって
生のオーケストラが光回線を通れないように、痛みを言葉にエンコードした時点でどうしても劣化が生ずる
さらに言葉を受け取った側がデコードをして理解しようとするが、そのプロトコルが完全に一致することはない
伝言ゲームで人を多く挿めば情報が変質するように、人は本質的な部分では理解しあえない
何しろ君はゾンビかもしれないんだからね
>>825 プロトコルでいえば、自らと他者が、「痛い」という感覚のプロトコルを持っていれば、
話が通じる。プロトコルが通用しない状態が、「クオリア」では?そして、僕の見方
では、個人の中の感覚と言っても、細胞同士の間で翻訳された言葉のような
情報が感覚で、それが、さっき言ったクオリアのレベルという(個人を統合する
のに役立つ)プロトコルでは?本質において理解しあえないという場合の、
本質とはどういう定義で本質と呼んでいますか?真実、完全と言った意味でしょうか。
他者問題について考える上では、あなたは重要なことを言っている感じはします、
オーケストラの例なども巧みですし。ただ、僕は人は本質的な部分では
理解し合えないという見方にあまり賛成できません。胡蝶の夢のような話で
言えば、自分がゾンビである可能性だってあるでしょう。
「痛い」を言語というプロトコルを使用して変換をかけた時点で、そこから多くの事が抜け落ちる
頭が痛いことからくる不快感、明日の仕事に差し支えないかという不安感、頭痛の原因に対する考察
何もなくなってしまう
まるで現実をJPG画像に置き換えたように、現実に見えるかもしれないが実は点の集まりでしかなくなってしまう
オーケストラを録音してMP3に変換した中に、臨場感や高揚感は入っているのかな?
当然すべて抜け落ちてしまう
どんなに言葉を尽くしても全てを伝えることはできない
この言葉についてもそうだ
あなたが上記の説明を読んで理解したとしても、それを私と同じように理解しているかどうかを知るすべはない
それどころか、記憶というプロトコルを介しての今の自分と明日の自分の感覚ですら同じにはできないだろう
今日飲んだ酒を、同じ瓶から明日また飲んでも、今日と全く同じ感覚で飲めるとは限らない
ストレスを発散させるための酒と、純粋に楽しむための酒の飲んだ時の感覚は違う
その日その時の体調や感情によって、感じ方や思考は変わってしまうものだ
自分の中でも時間経過と経験による同一性の喪失があり今とさっきは違うのに、他人との完全な理解などは不可能な話だよ
人工機械人形に痛みがあるとすれば故障やら接触不良の自己診断の結果だろう。
人間のそれと大意で近似していたとしても同じではない。
>>827 では、自己と他者の問題が完全な理解の不可能であることと事実を述べたのだと
して、「完全に理解できた」と言える知識や記憶は、どのような例があるでしょう。
僕の感じたのは、それは部分と全体の統合性であり、科学的に説明できる
事象、事実の理論であると思いました。形而上のイデアは、完全な理解という
ところへ到達できる、完全さのこと、つまり整合性を言い表した時である、など
です。この話は、科学論、知識論などと呼べそうで、闇の中を歩くには形而上
を浮かび上がらせる光(比喩です)として扱い得るもので、まだ研究の余地が
ありそうなことだと思いました。
>>829 >「完全に理解できた」と言える知識や記憶は、どのような例があるでしょう。
これを確認するすべはないよ
そんなことはクオリアを持ち出すくらいだからわかると思うんだけど?
できるのは言語や形にしての再確認を繰り返すこと
それにしたって完全な合一と言えるかと問われれば否と言わざるを得ない
「まさか〜ろう」を使って文を作りなさい、「まさかりかついだきんたろう」
これを素でやるのが人間だよ
ちなみにイデアは幻想だよ
もしあるのであれば、世界の概念には行き止まりがあることになる
終着点は決まっており、どれだけ掘り出せるか分からない枯渇する可能性のある資源になってしまう
故に希望的観測として幻想と断じる
いえいえ、あなた様の足元にも及びませんよ
悟りを述べるなら、あることを主張するのと同時に、反対のことを理解できていなくては
ならない。単なる主張ではない真実へと言葉を導きたいなら、反対も主張も両方を
同時に表す程度に、見解を構築できていなければならない。目をつぶって崖から
飛び降りるようなことは、危険だ。だから、安全ロープに繋がれた思想が悟りである
と思う。
例えばギリシャ悲劇『オイディプス王』を例にとるなら、赤ん坊時代の「受身的主体」
としての経験は、青年期の「自己克服、自己発見」のもととなり、知りすぎたために
自らの出自を知ることになる「予言」によって滅ぼされ身に受けた「盲目のさまよいびと」
としての結果を、老年における自己完成に至らなかったという悲劇であると思う。
無知の知を知るソクラテス的ポジションにあったとしたら、釈迦が何を説いたか、
考えたかということは、無知の知という知の個人の向上のための経験を、
対話への意志という点に結びつけたのではないかと推測する。
そのようにして、ドストエフスキーが『悪霊』で語ったような、
「きみは未来の永世を信じるようになったのですか」
「いや、未来の永世じゃない。この世の永世です。……」
というような言葉が、実現されるという意味をこの悟りに対して考えられる
のではないかと思う。
この世にいる間に、他人の希望を自らの希望として考えることが出来るような、
人間的に老成した優しさを持ち、与えられるような温かい気持ちになれることが、
自分を克己することの延長線上に、あることがみんなの感覚と一致する
ことが起こればいいのだが。
たとえ僕が死んだとしても、この世は永世なのだから……。
中庸を求めることですら悟りと離れていくとまず知りなさいな
六道のいずれにいても苦より解放されるのが悟りであるのです
命は流転し、昨日の栄華も今日の苦痛もすべては流れの一部でしかない
無理に流れに逆らったり、流れに飲まれないようにすることが苦であり
流れに身をゆだね、周りの流れと調和するのが悟りとなる
悟りとは、向上することでそれを得ようとする限り得られない矛盾のようなものでもある
道程の果て、ふと振り向いた時に得られるようなものである
>>838 「中六命無流悟道」ですか?(冗談ですよ)
流れというものは、変化ですから、スピードがあることに、意味が生まれますよね。
自らの生きる浪費のペースを掴むことで、余裕が生まれるものだと思います。
明日なき暴走に自分を賭けてみることも……。
>>839 変化がありその中で生老病死が生ずる
そして生老病死を避けようと流れに逆らったりする心が苦となる
流れの速度に意味などない
>>840 そうかナァ速度のない車は移動できませんよ。自らが車のように動くものであれば、
方向をさだめて主体的に時間とかかわることができますよ。つまり、相対的である
ことと、絶対的であることは、それこそ無縁では「ない」わけだと思うんですが。
つまり、変化を起こすことが必要だと思うんです。そこには、モノでないという
ロマンが生まれるのでは?
ずいぶんと言葉遊びになってしまいました……あしからず。
このようにしたい、あのようにしたい
このようにできなかった、あのようにできなかった
やったけど思ったようにはいかなかった
思ったようにできたけど、思っていた結果とは違った
思ってた結果になったけど、次も同じようにできるか不安
変化を起こそうと欲すること自体が欲ですよね
>>842 全ての欲は、否定するべきものではなく、必要性を見極めねばなりません。
欲の強い人間がピンチに陥るのは、人の中にあるという有限性のしばりが
強いからです。欲を出すべき時には欲をもって、力を行使するべきなのでは。
ニヒリズムと悟りは似て非なるものであるでしょう。
ニヒリズムについてですが、漫画版の『風の谷のナウシカ』のなかで、ニヒリズム(虚無)
さへ自らの中に受け入れるナウシカの姿が描かれていました。宮ア駿という人にしても、
結構虚無的なものにとらわれる性癖があるように思います。だから、そういう問題を
考えたのでしょう。
ニヒリズムは全てに対して敵と見る。そのような意志が虚無である。見るもの全て
が敵に見えるのだが、ならば対象を敵ではないものと再定義することで、自分の
なかの許容範囲が増えるだろう。怒りに囚われたいと思う人間は、なにかおかしい。
異質なものに対する寛容さというものが、人間を救う。誰もを救う。差別はない。
なぜなら、考えに差別や主人など無いからだ。そのようにして改心できたものは、
その負の側面における経験があるため、より素晴らしい世界への可能性を
秘めているだろう。怒りを善に変えること。その強いエネルギーで自らを
開放することもできるでしょう。
846 :
S、イマムラ:2014/07/04(金) 11:27:46.41 0
敬虔な仏教徒には、お許しを
釈迦如来は、自らの訓えに「しばり」を設けたと言う。仏教哲学では
「無記」と言う。だが、如来は、文献を残さないと言う。では、
皆様の中で、「しばり」を完全に離れ、勇気と忍耐と思索を維持し
この「無記」を無視して、半世紀を超える私の愚説の
「c点による時空論」いか14本のサイトに挑戦しませんか
「無記」を守る者は、学者生命は安泰、発言は総て正統と認められます。
c点論は一応オリジナルですが、君子は危うきに近寄らぬ者。
暴言と失礼は、多謝。
なを、サイトをお読みの上で、ご批判を。興味本位は、返答を失礼します。
老内科医 S、イマムラ 「c点による時空論」以下サイト14本 に挑戦する方は居りませんか?
「無記」を守るのが、正当な仏教哲学者。守る者は、大人であり、安泰が
保障され、総ての発言は正論です。
847 :
S、イマムラ:2014/07/04(金) 11:37:54.80 0
↑ 念のため
如来と竜樹の訓えに、かならずしも、忠実では有りません。
古代インド思想を参考にして居りますが、私にはサンスクリット語
は、分からず、雑学と殆どは、私のオリジナルです。
>>843 欲の否定と言うよりは、執着の回避です
執着があればそれを苗床として苦悩が始まる
食欲を全て捨て去れば即身仏まっしぐらですが、それに付いて改良を求めれば執着となりますね
ニヒリズムについてはWikiでも見てみることを勧めます
>>845が的外れになっている可能性に気付けますよ
>>846 教えを記さないことで歪むことを回避できる事柄もあります
例えば最近話題の憲法9条
憲法解釈の論議などが起こっています
しかし(それが現在もいいかどうかは脇に置いておくとして)当時の国民の心情としては解釈の余地などはなかったと思います
「あんな戦争はもうしたくない」これ以外にありますが?
しかし警察予備隊、自衛隊と色々進めてこれたのはあれが文章だからです
形ある文章だから抜け穴が作れ、憲法改正もせずに世界有数の軍備を持てたんです
しかし法の精神だけあって文章が無かったらどうでしょう?
恐らくまともな軍備は持てなかったでしょう
もちろんそれが良かったかどうかではありません
私個人で言えば右の頬を殴られて左の方を差し出すような人は、次には左の頬を殴られた挙句膝を入れられると思いますから
あくまで例として話しています
さて、釈迦自身が経典を記していたらどうでしょう
恐らく何があってもそれはそのまま伝えられたでしょう
記したことが時代にそぐわなくとも、状況にそぐわなくとも、全く改変されずに守られるでしょう
そして最悪な事態として狂信者が出来上がります
そこに解釈も精神もなく書いてあることさえ守ればいいという者が出るでしょう
当然釈迦の本意ではなくともです
書に記さずに本質を伝えることでのみ、その精神は歪まずに守られるのですよ
>>848 一度自ら不幸を持ち、窮地に陥ってご覧なさい。執着しないことに執着しているのです。
そんな単純過ぎる悟りなんて無いのです。あなたは、誰か一人でも幸せにできるという
自信があります?一人の人も救えないで、世間の中での過ごし方から目をそらして、
自らの思想のみを高く上げ、世界の広さに盲目である、あなたは虚無的以外の何物
でもありません。多くの人と意見を同じくする経験を持ってご覧なさい。もっとずっと
豊かな人間が、なんと多くいるものか、と感動する経験を、積極的に拾い集める
ことです。友情や慈愛といった高い価値を。
あまり説教臭いことは好きでもないですが、対機説法というやつで、僕は押し付けること
を主眼としていないということを、誤解されないよう、断っておきます。
>>850 何も知らない若造のように言われているようなので一言だけ
>>838の最後の一行を読んで、10年後ぐらいに思い出してください
私もまだ道程の途中ですがね
>>851 そうですか、悟るために悟るわけではないと思います。
現在の
>>838の最終行へ「自己満足乙」という感想が、
十年後にどのように変わるか、楽しみにしますね。
>>852 なんだ、悟りの本質が判ってるじゃないですか
他人を幸せにとかそんなことは不遜なんですよ
『他者が自らの行いで幸せになる』違います『他者が幸せなったと思われる姿を見て自らが幸せになりたい』なんですよ
それが判らないのであれば半端です
他者に幸せを押し付けて、自らが幸せになろうとする押し売りです
尊い無償の愛などないのですよ
ただ、私は偽善を全面的に支持しますがね
858 :
考える名無しさん:2014/07/04(金) 23:42:58.39 0
他人と関われば幸せもあるが、不幸もある。戦争でも殺人でもそうだが、これは人と人が関わることが原因となっている。
なので人と関わることの良い面だけを見るのでは物事の本質を見失うことになる。
よくある詭弁
糞スレあげんな
>>858 キチガイ認定されたくないならsageろよ。
神の領域へ進みだすってことだよ。
862 :
考える名無しさん:2014/07/05(土) 03:23:50.99 0
真に優れた者は次第に非社交的になり、凡人は、その逆を行く。
人と神の距離が普遍だとすれば、神に近づこうとするほど人からは離れる。
仲良しクラブで群れているうちは、たいしたことはできない。
863 :
Sイマムラ:2014/07/05(土) 05:08:17.81 0
一言のお断り
私は老内科医で、自然科学(臨床医学)に生涯をかけ、「いのち」について
半世紀以上も、感じ考え感動してきました。田舎医者ですが、今もなを、生命
の不思議に魅せられて、病む、悩む、患者と老いた今も、現場に立っています。
愚論「c点による時空論」は、そんな日々から生まれました。
「2ちゃんねる」荒らしの、公害と思う向きもあるかも知れませんが、
60年安保も、70年安保も、経験した老医師が、あえて、今の若者、若き
学徒に、訴えます。
それぞれ立場のある人々には、目を閉じていて下さい。
864 :
Sイマムラ:2014/07/05(土) 05:15:58.13 0
↑ 行く先は、自覚しております。
この世で、「死」だけは、避けられません。最新医学を以てしても。
865 :
哲人:2014/07/05(土) 09:52:35.91 0
>悟りに近づくために4
概出の情報から悟りに近づくのは大変ですが、
物事の理を悟り真理を会得する(悟りを開く)簡単な方法でしたら探してあります。
866 :
Sイマムラ:2014/07/05(土) 16:20:36.95 0
↑哲人様、この年齢になり
人間は、弱く、愚かで、悟れないことを、少しばかり理解できる
ように、成りました。
自然は、生命は、そして宇宙の真理はどこまで行っても、理解は出来ないでしょう。
内科医と言う「いのち」の現場で、常に感じて居ります。
867 :
タックル!:2014/07/05(土) 16:27:38.32 0
また、ロードス島戦記のライトノベルを読んでるんでしょ、と100万回唱えなさい
868 :
Sイマムラ:2014/07/05(土) 16:40:22.22 0
追記 ↑ 哲人様
「物事の理」を悟り真理を会得する(悟りを開く)簡単な方法
自然科学でも、人生でも、問題解決の近道は無い、と私自身は
信じて居ります。問題と対決する勇気が残っている限り、常に
「前向き」に生きたいと、願って居ります。 参考までに。
869 :
哲人:2014/07/05(土) 17:11:06.88 0
Sイマムラさん、
難しく思われる法則ほど簡単に組まれている、と言う格言がありますが、ブッダのいう悟りを開くには簡単な方法があります。
人の心は理非の二つの働きで組まれていますが、理非のいずれか強い心が全体を支配します。
そして、人類社会は総体的エゴイズムという非の心に支配されていますので非の心で支配されている人類社会で育てられた必然的に非の心を悟ってしまうのです。
人類が必然的に悟ってしまう非の心を悟性と言いますが、この悟性が人類知能の発育を妨げるのです。
理非は正誤とも言われ「非の心=悟性=誤りの心」ですので悟性を主体として生きる人類は心の正しい計算ができません。
このため、人類は過去永遠と争いを繰り返してきたのです。
この様な状況を打破するために約20年の月日を費やし、小学生でも理性を育てられる簡単な方法を探し出しました。
870 :
Sイマムラ:2014/07/05(土) 17:53:07.16 0
↑ 哲人様
難しく思われる法則ほど簡単に仕組まれている(格言)
確かにそのような事も、事実としてあることでしょう。
仏陀は、この世は色即是空で「空(竜樹)」で実態が無い。
自らを含めて「無」であり、不生不滅で「執着」することにより
苦悩が生まれると説きました。また、唯識派も、「無」を説いて
いるのは、ご存じのとうりです。しかし、だからと言って、「執着」
を捨てられるもの、ではありません。
慾だと言って、解決はしません。生きた患者と、毎日接している実感。
生きることは、大変です。
なを、
哲人様の「方法」で、取りあえず、「いじめ」が子供達から、無くなる日を
楽しみにして、待っております。
蛇足ですが、「c点論」を参考に。
>Sイマムラ
意味不明な妄想は妄想板でどうぞ。
貴方のはポエムにすらなっていない。
>悟りとは、向上することでそれを得ようとする限り得られない矛盾のようなものでもある
>道程の果て、ふと振り向いた時に得られるようなものである
すなわち覚悟である。
文字が読めない奴は覚悟と悟りが全く違うものと考えてしまう。
>>869 悟性も理性もそれは人の術、だからブッダは悟りで終わった。
根源的なものは常に人に否定される存在であることをまず知るべきだろう。
人の器をもって得たものは人の形を示す以外なく、それを超えた存在は
悟性も理性であっても得られるものではない。
意図した力は昇り積み上げて得るだけではなく、ひたすら落ち崩れて得る
こともある、それこそ単純にすればするほど見えてくる本質である。
人の限界は過去に対する現在を欲する領域どまりである、未来を支配する
領域は人の術ではない。
成るべきして成るものは結果に落ちて行く、それは人の術ではない。
廃人が最後にたどり着く場所に願って行くわけではない。
より自然である、より非人為的である、それこそ人の術ではない。
874 :
哲人:2014/07/06(日) 09:59:59.79 0
Sイマムラさん、
ブッダ氏が今を去ること約2500も前に悟りを開くことの大切さに着眼したことは素晴らしいことです。
ところが、ブッダ氏は己は経験から悟りを開いたが他の人々が悟りを開く方法を探す前に人生の終焉を迎えたと言われています。
当時としてブッダ氏は超高齢である80歳でしたのでブッダ氏は自分の未熟な思想を封印したく思い弟子たちに自分の死後、自分を奉ることはならぬと言い残したそうです。
しかし、ブッダ氏の思いはその弟子たちに裏切られ数千の仏舎利塔が建立されてブッダ氏は仏教の看板に据えられ宗教に寄与させられているのです。
従って経典の中身はブッダ氏の思想とはかけ離れたものなのです。
「執着」に関して申しますと、良きことに関する執着心は高めなければなりません。
良きことに関する執着心を高めれば必然的に悪いことに対しての執着心が消えます。
理性を育てば夢や希望が芽吹き、悟性が縮小し欲望が消え去る、つまりヒューマニティを育てれは必然的に心の中のエゴイズムは消え去ると言うことです。
従って悟性と理性の中間の心はなく、いずれか多少とも強い心が全体を支配するのです。
「物事の理」を悟り真理を会得する(悟りを開く)簡単な方法
これは「命を知る」ことで叶います。
知るとは悟ると言う意味があり、命を知るとは全ての命の尊さ美しさ素晴らしさに気づき、全ての命の儚さ終わりを感ずき、命の使い方(使命)を察知することです。
「命を知る」ことでヒューマニティ(人間愛=全てのそれぞれに対し己の持つ最高の精神にて接する心)が育ち、この人間愛が全ての論理の基礎となります。
あとは「命を知る」方法だけですね。「c点論」は何年も前に拝見していますよ。
875 :
哲人:2014/07/06(日) 10:24:38.43 0
>>873 現代に於いても人類の脳は3%しか使われていない、と言われていますが私もその様に感じます。
今日、飢えている子供たちが世界に数百万人もいるのに飢えていない者たちはゲームに明け暮れ、戦争などの争いでは平和を望めぬことを知りながら武器を集め他国との争いに勝とうとする。
経済、経済と歌いながら弱気者たちを踏み台とする奴隷制度に誰も意義を唱えない。
私は言いたい、皮をはがされ肉を食われる羊のような人生で大切な命をドブに捨てるつもりか、と。
頭は飾りではありません。正しく使えは総てを解き明かせます。
876 :
Sイマムラ:2014/07/06(日) 11:00:38.47 0
↑ 872様 生きるとは、確かに「覚悟」なのでしょう。
弱い人間ですが。
↑ 873様 ボロボロになって、初めて分かるのでしょうか。
「単純」の中にも、本質が生きていると。
↑ 874−5 哲人様 私も何とか、頑張ってみます。
877 :
Sイマムラ:2014/07/06(日) 11:50:07.79 0
お詫び
本「2ちゃんねる」の主旨は、どこまでも、本来の「仏教哲学」の
補強でした。 ↑ の皆様には、ご迷惑をお掛け致しました。
自分自身を愛してあげなさい
できない自分のできないところを認めてあげなさい
今できることはなにも否定してかかってはいけません
頭がおかしいならおかしい自分も愛しなさい
できないことがあるならそのことから目をそらさないようにしましょう
自分を愛しなさい
できないことをもっと積極的に、できない、と認めなさい
頭の悪い自分の頭の悪さこそ貴方自身であり、本当の自分なのです
苦しむことはそれだけの経験です
すべてを受け入れること
そんなことだけは、どんな人にも分け隔てなく可能な貴い
あなたのすべてなのです
そこにあるものはすべてが貴方自身なのです
自分にある可能性のすべては、どこかにあるのではなく
いま可能なこと、できることがすばらしいことなんだと
できることを認め、活用し、安らぐこと
安らぐことはできるでしょう?
じぶんにはこれっぽっちしか考えられないと思うのではなく、
これっぽっちの考えができるということを考えれば、
それはだれでもないあなたの個性ある全体だし、
否定したいという思いを否定することが大切なんだと思う
その否定こそが、すべてを肯定することになる、
人間にとっての、安楽なのだと思います。
完全な愛などなく、少しの愛がすべての愛と同じ色に染め上がります。
どんなに酷い境遇にある人も、諦めることは、無用なことです。
あなたという存在は、少しの存在にして完全であり、すべての
可能性を達成しているからです。理解できないと自分に諦めるのではなく、
この理解が自分の達成した理解であって、その理解は他の理解と同じように
人間の考えであって、
「苦」は永遠に続かず、それには、人間の存在を損なう力などないのです。
愛のなんたるかを知ってるの?
>>882 愛とは、対象と自己に、関係を保つことで、心に快楽を得ようとする試みの、
記憶だと思います。
うん、愛ってのは卑しいね
愛が肉体か精神かどちらに影響を受けたものかは本人の魂次第だね
卑しいと思う人物は自分の魂がどうか暴露してるだけだな
おや、愛は卑しくなく美しいものだという幻想をお持ち?
愛が美しいってのが幻想で卑しいが幻想でない根拠を見せるところから始めて見よう
まぁいいや、愛といっても様々ある
あなたが言ってるのはキリスト教でいうエロスで仏教でいう、渇愛や性愛を指す
でも、隣人愛やアガペーや愛知や慈悲も愛の一種だからね
だから
>>885と語ったわけ
菩薩の慈悲を否定するなら悟れる人はいなくなるね
悟りは菩薩卒業の証で、慈悲は菩薩の基本属性だから
まずは他者を利用して快楽を得ようとしているね
しかもその快楽が消えそうになると簡単に不安や悲しみ、怒りなどに転化される
これってのは一種の麻薬であり、言うほど崇高なものじゃないと思うんだよね
愛そのものだっていうどこぞの神様だって、癇癪起こして人類絶滅一歩手前にするし、その信徒も平気で宗教戦争起こすしね
>>889 それは単にあなたのことを語ってるだけだと思うな
891 :
哲人:2014/07/07(月) 08:12:23.60 0
Sイマムラさん、
命の尊さに気づいている貴方ならすぐに悟りを開ける(真理の会得)でしょう。
人は己の持つ知能を3%使えば生きられる、と申しますが実際に3%以上の知能を使われている人は見当たりません。
真理を会得し、残り97%の知能を使うことこそ究極のエコとなります。
貴方は年齢的にも私と近い方です。
私の考えは、知能を備えた人間に進化できる人として生まれてきた役目は、過去から受け取った命と言う時を使い
少しでも良い時代、世界を平和にして未来に受け渡すこと、だと。
その使命を果たすために誰でも簡単に物事の理を悟れる方法を探し、見つけたのです。
方法は違いますが、貴方と私は同じゴールを目指していると思われますので互いの意見を聞きながら進んでみませんか。
おそらく、無意識の内に多くのことをなしうるのだ。意識することは、悩み、心配、向上、
不安といったものを連れてくる。それが苦痛になる。
動物を見るがいい、すべて本能で動いているだろうが。なぜ無意識と意識という二様が
あるのか、それは悟りと日常という区別に理由を求められるだろう。悟った人間は無意識
と意識の区別をすることがなく、意識せずとも正しい行為をすることが出来る。座禅こそ
が無意識と意識の区別を失くすことの出来る体験だ。
893 :
Sイマムラ:2014/07/07(月) 12:10:52.16 0
↑ お詫び
臨床医のため、「哲学」版で勝手な事ばかり申してご迷惑
を、お掛け致しました。
不勉強を恥じて居ります。老いが無念です。
>>893 哲学は学ぶことじゃないよ、まずそれを治せないかぎり
他のモドキのそれと何の違いもない。
他人への態度がキチガイとか礼節があるとかも全く哲学とは関係ない、
対話の仕方でもない、
哲学者は哲学をすることで哲学を学ぶことではない。
それは知を得ることでもない、既知を習うなら本を読め、
過去の哲学者の文章を読めばいいだけ、
哲学者になるには知に対する姿勢が重要であり、その知とは既知ではなく
未知のことである、
勉強を恥じるなど捨ててしまえ。そういうこと、それも理解できないなら
コテハン使うなよ。
>>876 > ↑ 872様 生きるとは、確かに「覚悟」なのでしょう。
生きることは活きること、それは覚悟ともいうが選ぶこと、即ち迷わないこと。
選ぶ結果には常にリスクがありリスクを拒絶するから選べない。
人の考えでは正しく活きるという意味は常に自身を中心にした認知に流れる、
自分へ戻る小さな活かしより大きい最も活きる選べれば、世界は必ず自身へ
それを因果づける、それこそいざなわれる為の選びである。
小さくみれば"目の前の有利"を得ようとするが、大きく見れば小さい不利より
最後の結果を得ることこそ活かす為の行為と考えるべきとは思わないか?
直前の優勢より最後の優勝ということ、人生は賭け事のようなもの。
だが人は情の生き物である、優勝よりは有利を選ぶ。
心の浅さと深さの問題は感情の強さに関係しているということ。
すべての世界の真理は単なる存在と存在が関係するという事に過ぎない。
896 :
S、イマムラ:2014/07/07(月) 15:19:06.21 0
↑ 894−5様
臨床医として生きて、これからも、生きます。現場では、
「決栽」の連続で、こでは人様の「いのち」に関係することも
あり、絶えず、今でも勉強はシテオリマス。それが「医の道」
です。欲は捨て、哲学は求めません。老化が、現実処理で精いっぱい
です。分かって呉れますか。次々と新しい情報の出る世界を。
愛知=哲学である。「愛」という知恵と、「知る」という力を関連させ、意味となっているの
だから、力ある知恵が哲学である。
「愛」についてはすでに述べた。では、「知る」ということを考えてみたい。
「知る」ことの具体例が、教師と生徒であり、知識と知識欲である。「知る」ことを
積み重ねていけば、生徒もいつか教師になり、欲は新たな知識創造になる。
誰だって力がほしい。(男性的)
誰もが愛を与え与えられたい。(女性原理)
この二つが結合したら、完全となる。
女性の愛と、男性の力である。
愛なき知識と盲目な愛という陥穽を乗り越えることも、しなければならないことだ。
898 :
Sイマムラ:2014/07/07(月) 19:26:33.67 0
↑ 少しピントはずれですが
プラトンの「エロス」 人間的?
イエスの「アガペー」 神 ?
仏教の「慈悲」 仏 ?
>>897 知能や知識の高さではなく、知性の深さが哲学である。
どんなに知的な能力ができてもそれは既存の知を利用しているだけです。
『知を求める姿勢』は知識の量でも知を使う能力でもないです。
>>896 そんなことは全く関係ない、貴方が迷い苦しむか進むべき先を選ぶかの2択ってことだ。
貴方が何を正義として何を目的としてどうするか、ただ決め選ぶだけ。
その判断は常に自分自身が行う、他人(知識)任せにする甘えは卒業したほうがいい。
理屈に屈したとき、ただ他人の言葉に流されるだけになる。誰かがそういったからとか
屁理屈言うなら責任逃れもいいところ
>>899 自分で決め、自分で責任を取ることくらいやっていかないと、自らの力で何事かを
なすという、本当の知へ至ることがむずかしいですよね。その、「姿勢」といったもの
は、現象として捉えられるもので、その背後には、未知を知る(面白い言葉ですね)
という実際がある。自らの経験によって、因果の理解、予測だけではない、
「作り出すこと」という、最高のことができるようになる。僕はもう覚悟を決めました
よ。これからは、自分の力で未知を切り開いていくことを考えたいです。
自らの知っていることに対し、色んなレベルで、「それが最上である」という意見を持ちがち
である。だが、具体的には「最上」の上にも必ず「上」であるものは想定可能であり、
その限りでは自らの意志によって、自分の「最上」を越えたものを考えることが出来る。
それに対して、「最上」であるととどまるのではなく、さらなる「上」というものに対して、
自らの認識に対する不完全性(この場合は、「上」が考えられるため)を認識して、
常に新しいものが過去に対しては存在するのであるという真理を、自らのものとし、
他者にたよらないこと、完全を信じないこと、こうした態度も、柔軟な他者観として、
そして世界観として、存在することを否定してはならない。自らは、運命によって
決められるものではない。オカルトに逃げるのではなく、つねに因果を見守り、
自らの力で何処までも行けるという若々しい態度が、真実であると私は
考える。
付け足す。「真理」は幾つもあるが、「最上」は一つしか無い、概念である。
概念にはカテゴリーが有り、「最上の女」とは言いうるが、「真理の女」というのは
カテゴリーミスである。
いままでで最高ということは思うことができるが、これからも最高とは思えない。
つまり、過去が絶対になることはあっても、未来が絶対になることはない。
自らの出自に対して批判的になろう。「おれはブスが嫌い」という観念は、親が言っていた
ために自らのものとして持ってしまった。本来的には、周りと比較すること自体、赤ん坊
がすることではないのであって、偽りの嫌悪に縛られているのだ。もっと自由でありたい。
一回性を普遍性としたい。
>>902 >オカルトに逃げるのではなく、つねに因果を見守り、
科学があるなら、オカルトもある、君の間違いはそれだ。
因果があれば非因果もある。見えるものがあれば絶対に見えないものもある。
両者を対等に見える心構えがないかぎり都合によって片方に流れる。
理解するなら「理解できない」ものがあるという存在を拒絶するのか?
>>903 真理は1つだけ、ただ誰もそれを得られない(具体的に捉えられない)だけ、
真に抽象的で真に非具体的だからこそ説明したら観測した主体からの側面に
なってしまう。
真理を掴むならば「人が捉える裏側にある」と考えたほうがいい。真理を浮かび上がらせる
世界、状況、原因、因果、それの基本こそが真理ではないのか?
人がそれぞれの浮かび上がらせる前提を特定し常識とまで確信するからこそ、
具体的な真理を具現化させてしまう、それは側面にすぎない。
最上は最上となる何かが前提を変えてしまえ、最上ではなくなる。それは最上が
その時点で確定した存在だからではいのかね?
たぶん真理を掴める唯一の方法は1つ、"真理を掴まない"事だろう。
真理を掴める存在となれば必然的に真理は存在に降り宿るものではないか、
自身が真理を掴んでいなくても真理のように働く必然さは真理と呼ぶ以外になんと呼べばいいか?
自然が最終的に集束する秩序の答え、即ち必然こそ真理なり。
それを説明してもその時点の機能説明にしかなりえない。
世の中は流転するもの移り行くもの揺れ動くもの、決定できないそれに耳を塞ぐべからず。
台風の起きる必然性を素粒子物理学しか理解できない学者が熱力学や
地球のマクロ的大気の胎動を用いずに説明するのは論の次元が違いすぎる。
経済を金という概念を使わずに、物理学で説明してもなんの意味もない。
初めて乗る自転車の運転を物理学的に完璧に理解させても誰一人運転できる人はいない。
>>907 オカルトもあることをどのように私は知ることが出来るのだろう。オカルト的なものと
科学的なものは、親しい双子のようなものということかもしれない。この、近親性、
関連性といったものは、どちらが先かということとは、全く関係がないのだろう。
なぜなら、一つの「真理」にたいして接近するための解釈でしか無いから。そして、
「真理」が解明される可能性は、ゼロではない。学問史によって、いくらでも近づいて
きている。オカルトもそれに従って、発展する。だが、オカルトと科学の親しさは、
近親憎悪のような関係にあるだろう。例えば、褒めて水が美味しくなるといった
理論は、科学の隙を突いた発想であるわけだ。「真理」に近づくためには、発想
が重要となる。「理解できない」ものを拒絶することはしません。一旦意見として
持ったものであっても、見ずして否定することは、科学的態度でさえ無いからです。
裏側に真理があるという考え方は、盲点の事物を発見することであり、天動説
地動説のようなものでしょう。
必然の真理。集束する秩序の答え。
すべての物事は収束しなければならないのでしょう。その働きと現実こそが、
栄光であり、軽視するべきではない捉え直された物事の理であるということ。
間違いだらけの子供時代に対して、たどりなおさねばならない。それが、
人生を楽しむということ、人生に置いた僕なりの目標。
つまり、僕のやり方は、ある概念と別の概念の間にある、「親しさ」を計算すること
なのです。なにやら啓発セミナーみたいなことを言っているのかも知れませんが……。
いや、禅問答みたいなものかな。例えば、「馬」と「金目の物」はどんな関係にあるか、
とかんがえると、パズルを解くようで、楽しいでしょ。
>>909 見えないものに対しても見えるものと同じ量だけ取り扱わなければ
バランスが取れないのでは?
思うとか態度がとか言うのは簡単だけど、行ってもいないし知りもしないのに
何故そんなことがいえるのかな、オカルトマスターにでもなったつもりなんだろう。
科学を扱うのは大多数である故に安易でもオカルトを扱うのは恐ろしく困難で
それは失われた世界でもある、オカルトが単に怖いとかレッテルを貼るとか
隠されて見えないものとしか理解していないのならば、科学もその程度でいいのでは?
>912
バランスをとるとは、視野を広げることなんでしょうね。恥ずかしながら、今Wikipediaで
オカルトを調べてみました。技術に応用できる科学には、思想を越えた意味での
面白さと有用性があるでしょう。でも、オカルトは世界の見方に合わせたそれなりの
実質を持っているものだってわかりました。
そういう安易な考えがあるから科学オカルト、科学宗教、魔法技術、のように
分からない領域も科学であり、全てを説明できちゃうのが日常になっていないか。
見えないものは見えないまま受け取るべきだろう、それが誰でも見えてしまうなら科学であろう。
客観的に観察できないものを"見た"と言う態度は科学ではなくオカルトの領域
だったはずだ。現代は科学の末期であり、科学が暴走し始めたのだろうか。
掴み得ない謎は掴み得ない何かとして認める態度こそ科学なのであってほしい。
最先端の学派の多くが認めない理論は後に主流として認められるまではトンデモ
扱いになる、これこそオカルトの過去にある"論敵に対するレッテル貼り"にもなる
ようにも見える。
オカルトの先導者が行うことは簡単である、ほとんどが"予知"、"予言"、"奇跡"である。
それは過去を説明しているのではなく未来(未知)を説明している。
その未来を知る術として哲学に類似性があるといえば完全否定する人がほとんど
だが、哲学の歴史をみればオカルト的術こそ源流である。
未来とは分からないもの見えざるもの、これを予測し確定するように思わせる
傲慢な態度は人の叡智の結果なのであろうか?
分からないものは分からないべきであり、そこに踏み込む姿勢の違いと思う。
オカルトの予言は予言することで、未来に希望を与える、欲する希望であるなら
人々の思い込みや錯覚により、その総体の流れこそがオカルトの原理、源流に
値するとは思わないか?たとえば風評被害のような類である。
>>914 だが、未来はそのうち過去になる。そうなった時に反省してみれば、未知だったものといえ
合理的な説明ができないことは、ない。認識の限界を拡げる法則性の発見は、
貴重なものだと思う。科学理論というものは、オカルトのなかに起源をもつものも
多いだろう。
まとめると、未来の予知は、理論無くしてはできないように思えるが、理論化されていない
法則に対する知が、説明不能な脳の機能として、働き、前例となることもある。
検証にかけて、新知識のすべては科学が説明しようとする。つまり、オカルトには対象
があるが、対象を掴もうとする意識は、対象と主体を歪めるだけだということ?
法則のない物事というのは存在しないということはどう?
たぶん、オカルトというものは、絵画のようなものなのかな。現実を描いているが、
現実ではないし、またある種の現実でもあるということ。つまり、物自体という存在を、
加工して新しい知識、認識として表したものであるという点で。
916 :
哲人:2014/07/10(木) 12:39:43.35 0
>>893 不勉強を恥じて居ります。老いが無念です。
Sイマムラさん、老いは関係ありません。問題は気力、活力です。
世界平和の実現と言う目的を共用していた私の友(三木睦彦氏)も92歳まで元気一杯に活動していました。
>>893 哲学は学ぶことじゃないよ、まずそれを治せないかぎり
他のモドキのそれと何の違いもない。
ならば、治す方法を提示しなさい。
それをしなければ、他のモドキのそれと何の違いもない。
君はなぜコテハン使わない。臆病なのか?
探求する人の器の問題である。
918 :
S、イマムラ:2014/07/10(木) 14:44:19.09 0
↑ 哲人様
残りの時間が惜しい。有効に使いた。「いのち」の
神秘、魅力、感動を求め、意欲と体力のある限りは
田舎の内科医を、続けたい。田舎の友(患者)達と
伴に。生きて行きたい。そして、死を迎えたい。
哲人様 応援を、多謝。
人と向き合う姿勢、魂は不滅なり。
どうでもいい。
921 :
考える名無しさん:2014/07/10(木) 17:13:56.00 0
将来論理に昇格するのは数多ある非論理のうちほんの一握りですよ
ですからスレ主氏の非論理的直感を天動説等の成功例で正当化するのは確率的に無理があるでしょう
要するに説得力に乏しい
だからといって非論理的直感が悪いわけじゃないですよ
悪いのは論理に昇格する目処も立っていない非論理をまるで真実であるかのように語る姿勢ですね
922 :
考える名無しさん:2014/07/10(木) 18:18:28.14 0
地動説だろ
923 :
考える名無しさん:2014/07/10(木) 18:29:14.81 0
少欲知足 8億円
・宝くじ当選後は勤務中の会社は義理考慮し最短一年は勤め冷却期間後円満退職姿消す
・先ず、みずほ銀行に口座を開設しセキュリティー保険で1000万円定期預金で準備万端
・世間の好奇の目をナチュラルに隔絶する為に早速100万円位の二泊三日の人間ドッグ検査入院する
・虫歯を治療のホワイトクリーニング歯周病の下あごインプラント手術上あごザイゴマインプラント手術
・妻と投資信託を購入、俺2億、嫁2億。2億円離婚対策費
・FXで円安でレバレッジ20倍で、笑いが止まらないで更に億万長者
・インフレ、バブル到来を見越して、土地買占め三大都市圏東京名古屋大阪
・衣食住を全て海外のブランドものにする
・一千万円越えのフェラーリ、ベンツを買い運転手を雇用し日本経済に寄与
・サイドカー付き1500cc単車買うエステ通い,日サロ通い、サーファー気分
・たかた社長おすすめカシオの電子辞書月々3000円10回払い金利手数料無し送料ありを買い英会話ペラペラ
・ハワイでゴルフレッスンプロ雇用のんびり別荘生活ゴルフフィッシングヨットスキューバ乗馬生活と自炊
・世界グルメ旅行三昧、豪華客船にてワールドシークルーズ三昧
・8億円散財密着取材させテレビ公開し出演料取る
・俺の部屋は36帖床暖大の字ゴロ寝
・バスルームの冷蔵庫にシャンパンキャビアトリュフ、芋焼酎カキピー常備
・フレンチブルドックをホットドッグをエサにして飼い、喰い頃に太ったらホットドッグにして喰う
・身体に良いヘルシーフードのみを食し身体と心から毒素出しデトックスすっきり
・PM2.5は極力避ける、中国はタバコとPM2.5で肺がん死亡トップ、タバコ辞める
・包茎手術とパイプカットして避妊、こころおきなくやりまくるキッパリッ!!!
・妊娠適齢期18〜23歳女性限定で無償貸金し状況で身体での返済に応じる意思を強く持つ
・銀バエヨイショの取り巻きに豪華レストラン散財し常時ペコペコさせる
・トラブル備え弁護士契約
・JRA・WIN5賞金が6億円へとアップ、これも買う!
・宝くじはやっぱ買い続けることにしよう
・息子を東大入学させるべく腹筋腕立て伏せヒンズースクワットでビシビシ鍛える
・母ちゃんに通販の超お買い得マッサージチェアーを与える
・実家新築。屋上緑化のビアガーデン、シーサイドビューは露天風呂
>>912 それは非常に難しい問題だよ
見えない物ってのは、まだ発見されていない物と、存在しない妄想、の二つにきっちり分けなければいけない
ただしそれが非常に難しい
例えば宗教を扱うにおいて避けては通れない魂だとか霊だとかを、だれが聞いても「それで間違いない」と言わせる説明ができる?
見えないと言うよりもまず、概念すらきちんと確立していない物が多すぎるよ
その上でそれが存在する可能性があるのか、ただの妄想や願望なのかを選別する必要がある
同じ量と言う前に、質をそろえる事がそもそも困難だよ
>見えない物ってのは、まだ発見されていない物と、存在しない妄想、
>の二つにきっちり分けなければいけない
だから発想が乏しい、
2つだけしか考えられなかったの?やりなおし。
発見もなにも、計ることができない高次の概念は計れない。
形而上の概念すら知らずに哲学板にきているの?
926 :
哲人:2014/07/11(金) 06:16:14.39 0
>>925 形而上の概念すら知らずに哲学板にきているの?
君は知るという言葉の意味をご存知ですか?
知るとは物事の内容を理解することですが、理解するとは道理にて解き明かすことです。
つまり、道理を悟り知ることなく知るという行為は叶いません。
習い覚えな情報は知ったのではなくて覚えた情報と言うことです。
従って、君も形而上の概念すら知らずに哲学板にきているの?と言われる立場に置かれているのですよ。
哲学用語は哲学を理解できぬ者たちが作った言葉ですので、哲学用語を覚える必要はありません。
>知るとは物事の内容を理解することですが、理解するとは道理にて解き明かすことです。
自己中の典型的な説明ですよ、気がついていない?
物事を理詰めで考える奴っているよね。
バカ相手にするなよ。
930 :
哲人:2014/07/11(金) 19:52:07.60 0
>>927 自己中の典型的な説明ですよ、気がついていない?
君は辞書を見たことがないの?
広辞苑にて「理解・物事の道理をさとり知ること。」
意味不明ですか?
つまり、理解するとは道理にて解き明かすことです。
原因は君の脳が、物事を理解する機能を育ててないためです。
従って、君は全てを理解できているつもりでいるだけですよ。
>>925 あのさ、概念すらも思いつかない高次の物で、永遠に発見できないかもしれない物でも「まだ発見されてない物」なわけよ
でもさ、アダムとイブとか明らかに「それはないよね」という昔の人の妄想がいまだにまかり通ってるようなケースもあるわけ
例えば、もし神がいたとしても、結局それは一つの宗教以外は全て妄想ってことになるでしょ?
そこでまずやることは、どれが嘘っぱちか検証することじゃない?
何でもかんでも「ありえますから同列に扱ってください」ってのは暴論だと思うよ?
病気が発病している
ねぇ、今北産業なんだが、どの発言が糖質なのか教えてください。
何事にも動じない、それが人格の座った人の心構えな。勉強しとけよ。
935 :
考える名無しさん:2014/07/12(土) 16:05:02.08 0
哲学ごっこやって何がたのしいの?
悟れないのは覚悟ができていないから。
938 :
まさに:2014/07/14(月) 12:47:27.39 0
人は真実を信じるに非ず、目の前の現実から都合よき事を真実とするもの。
939 :
考える名無しさん:2014/07/14(月) 20:54:14.15 0
だから悟りなんて始めの1歩にすぎず、誰でも日常の中にそういう場面がある。
それを理解するみたいな理屈誘導にして知識として悟りを知ることが悟りに
いたることだと勘違いしちゃったアホ状態になっているだけな。
日頃理解できない感情はない。なぜなら日頃感情は理解されるために発されるからだ。
そして、自らの理解できない感情が生まれる。それは、感情がいけないのでは
なく、自らが幼稚なのである。それを乗り越えようとすることが、焦りを生むだろう。
だから、感情において倫理が成り立つというのは、人間の判断が必ず感情が伴う
ということといっしょであり、人の間に生きるしかない人間の、最終的な価値が
感情によって到達されるということだろう。
>感情において倫理が成り立つというのは、人間の判断が必ず感情が伴う
>ということといっしょであり、
人の状態で仏の心を得るには「成仏」することである。それこそ悟りである。
つまり思考が人間でありながらそれを正しいとするのは、成仏していない心が
悟りを拒んでいるだけである。
人の行動は感情なしで行えるものではない、だが人を超えた何かに至るには
人の感情の働きとは別次元の働きを知るべきだろう。
幼稚というのは動物的であるということである、人は聖人ではないし神や仏でもない
故に人であるかぎり幼稚は正常を示す。人間であることに自信を持ちたまえ。
安易に悟りの領域に入るべからず。
>>942 最近考えたのは、受け取ることと拒否することで世の中のやりとりが
だいたい説明できるように思います。労働などはまた別の行為でしょうが。
僕は「矛盾を抱えている人間をあざ笑うことはしない」
最近、病気が治るとともに、ややこしいことの意図や意味を感じ取れるように
なりました。そして、人間というものの行為の説明を考えられるように
なってきました。
そして、そういうこんがらがった物事に対して、自分の責任の限界を考える
ことが出来るようになってきました。
>人の感情の働きとは別次元の働き
これは、思考、考えというものですね。ぼくは、最初に小学校でわからなかった言葉が、
「考える」という言葉でした。一体どういう意味?みたいに悩んで。
まだまだ不学、混迷の状態です。
車で出かけて、車窓から対向車の人の顔をみたり、書店に行って、知らない人と
すれ違ったりすることが、とても楽しいのです。人間らしい感情と行動意味の
遣り取りをするわけで、そういう人らは、どんな人でも、魅力あるお顔を
されており、僕のことを責めるようなことは、当たり前とはいえ、ないのです。
人をばかにすることの不自然さというものがあります。だから、人間である
ことに自信を持てといわれたら、人間全体の力、潜在能力というもの
への信頼の気持ちを思い返します。
多分、どんな人も悟りへの道を無意識的であるにせよ、歩んでいるのでしょう。
2chでの交流は、賢い方が多くいらっしゃるので、また格別です。
この掲示板の中での哲学的思考、そのスタイルも、また心地良く、
考える興味の対象です。
言葉をいかなる意味に受容するかということ。何気ない言葉や、繋ぎ目の言葉
に対してだって、感情を読み取ることが出来る。読み取る範囲で、積極的に
塗り絵のように意味をつけていくことが出来る。文の大意をとることは素晴らしいが、
そのためには、現在のところからでは、感情をなくした意味が覚えられない。
>>943 >ややこしいことの意図や意味を感じ取れるように
>なりました。そして、人間というものの行為の説明を考えられるように
知識として割り切り、教科書的な意味で理解し、それを
暗記するから感じられない、人間なんてものを物理学で定義するものではないはず。
人間の人間らしい行為こそ人間の定義であり人間の条件であるはず。
人間が奴隷として道具や家畜のように扱われればそれは人間ではないのです。
人間を人間ではないように扱うのも人間です、見えている面だけが人間ではない。
人間がやってはいけないこと、人間ではできないこと、人間では知りえないこと
そういう現象は世界にあります。
人間ではない人間はなんでしょうか?
自意識過剰(主体の行動原理)で心無い合理性で動く機械のようなもの。
それは自分以外を見る心を持たない原理、悪行や善行を行ってもそれを
自覚できない心、その悪行や善行が心が無いのが問題ではなく、単に機械的に
働く仕組みが問題なんです。
人が人を憎み、悪口をいい人を貶める、それが感情を原動力に動いているなら
正常な人間です。悪も善も含めて人間なのです。
神が人を罰するのはなんの目的も欲も考えもなく行う行為です。
悪人が悪を行いそれに対する罰を受ける覚悟ならばそれは人間です。
人であっても知能が高くても、行いに責任を持たない娯楽的な悪行は、
人ではない所行であり、これこそ本当の人でなし、人間ではないのです。
人間の形をした肉の固まりです。善に対しても同じです。