ベトナム戦争の気だるさ。
なにも始まらないしなにも終わらないという感覚がポストモダンの感覚だとしたら、大きな物語は生まれにくい。
地獄の黙示録(1979)は気だるい。
ミイラとりがミイラになる話。
非常にポストモダン的。
戦後の物語は「ゴッドファザー」と「地獄の黙示録」に収斂するかもしれない。
前者は家庭の話、後者は大義の没落の話。
日本の評論家でいうと、江藤淳と柄谷行人か。
そう考えると戦後左翼は自らの破産宣告をする事しかできない。
保守になるかそれとも形式に徹するか。
これが二十世紀の後半か。
地獄の黙示録
妻と離婚しアジアに戻るウィラード
暴走しカンボジアに独立王国を築くカーツ
ウィラードはカーツを暗殺し王国を継ぐ
村上龍のテニスボーイの憂鬱は良かった
良かったが、未来に希望は持てない
村上龍は快楽に体が耐えられないと実感し作風を変えた
960 :
考える名無しさん:2013/08/05(月) 00:26:47.08 0
物語りも駄目、快楽も駄目となった後の村上龍は外部としての希望に向かった
が、常に外部を希望として求め続けるというのは詐術だ
ある年齢を超えて外部に希望を見出せるわけがない
961 :
考える名無しさん:2013/08/05(月) 00:29:36.78 0
その頃の村上の小説の主人公は若い女、フリーター、風俗嬢、主婦等、生活の足場のない若い女だ
その後に半島を出でよが来る訳だけど、これの主人公も十代の男
962 :
考える名無しさん:2013/08/05(月) 00:31:23.82 0
そして最近作が55歳のハロ−ワーク。生活の足場のある中高年が主人公の物語。
そこには救いはない、絶望もない。
日常を受け入れるだけ。
ふと自分の腕を見ていると、何かが巻きついている
よく見てみると薄い黒皮であった
薄皮のあいだに円くひらぺったい小さな器がついていた
そのガラスのふたのなかで何かが動いていた。それは針であった
その針は面に対して水平に動いていた
ようやく気づいた。それは腕時計であった
>>943 ポストモダンは、大体はモダニズムの反動(合理・機能主義への懐疑)
そして、環境問題や貧困問題への言及が大きくなりつつある
大きな物語とは、漫画で例えると、天下一武闘会や海賊王になる、ずっと俺のターンといった厨二病
個人分業が徹底化した社会(生産手段と個人が切り離された社会)においては、個人が個人の枠を超えることができない社会
965 :
943:2013/08/05(月) 08:13:00.35 0
>>964 なるほど。
革命も戦争もない代わりに夢(野望?)もない時代ということでしょうか。
個人的には厨二病は好きなんですが、厨二病に価値がなくなったあるいはネガティブな価値を持つようになったということでしょうか。
>>965 人間を超越しようとして、テロ行為に走ったカルトがあるよ
宗教は個人に残された最後の楽園なのかもしれないが
物語りは窮屈だからいらない
認識だけあればいい
物語は物語るものだからコミュニケーション欲求がないと成立しない
969 :
考える名無しさん:2013/08/05(月) 12:54:33.78 0
その理論でいくと
コミュニケーション欲求がないと本を読んでも身にならないということ?
認識欲求があれば身になるんじゃないですか
物語(は小説)には三種類あるような気がする
@保守小説
日常の断片を肯定的に描く(ギッシング、保坂和志)
A認識小説
作者の社会観を一方的にぶつける(ドストエフスキー、漱石)
B啓蒙小説
コミュニケーション欲求がないと三つ目が読めなくなる
物語=小説という捉え方は不当かもしれない
コミュニケーション欲求先行の物語Bと理性的認識欲求先行の物語Aと感覚的認識欲求先行の物語@という感じか
@は詩的Aは哲学、科学的Bは、なんだろう
コミュニケーション欲求がないと成立しないのは成立しないのはBの物語だ
訂正
コミュニケーション欲求だけで成立する物語は読めない
975 :
考える名無しさん:2013/08/05(月) 13:24:22.90 0
男が、半年も一目惚れしていて、会う度に声をかけ続けていて
食事に誘って、2回目も誘って承諾貰って行ったけど
自分の好意が薄れているのに気づいた場合というのは
よっぽどの事でしょうか?
よっぽどこんなんじゃないです
大きな物語や高度成長期が終わり個人の物語すら見失われつつある中で
現在の保守的な雰囲気に人々が追従するのは必然的なことなのかもしれない
大きな物語があるから苦痛に耐えられる人はいるのだろうし物語自体は全否定できるものではない
その在り方や、過去にあった個別の事柄を批判し、「物語=全否定」みたいになるのが今の日本(ネット上)にありがちな風潮だと思う
「私は何も信じていないし、私だけは自由に考え行動できている」と思い込んでる日本人が多いせいなのかもしれない
そういう人にとって結局は善悪の基準が不明瞭でミーイズムしか残らないので、自分で小さな物語を構築できない人に残るのは「ニヒリズム」しかない
非正規雇用や結婚できない人が増えていくなかでそういう人が増えていくのは避けられないだろう
しかし、日本においてはそういった「大きな物語」にすら善悪の基準や良心的なものが希薄なのが少々不気味なところではある
そもそもそういった感情を共有できる公共空間や、場所がほとんどないようにも思える
>>977 個人主義と集団主義の間で揺れ動いてるよ
お盆の季節だしなw
距離のパトスか
俺ニーチェ嫌いだわ
貴族に言葉は必要ないだろ
ニーチェで語る、というのは間違ってると思う
言葉によって社会化されたニーチェは面倒くさい
ニーチェに取って他人て何なんだろう?
しゃくふくすべき相手?叩き台?
ニーチェは他人を、社会を必要とするのかしないのか?
しゃくふくすべきなのは依存しているからだろう。
依存しながら軽蔑するのは違うと思う。
>>966 文化としては重要だが破壊力ショボすぎて下手にガス抜いただけになったがな
ニーチェはあくまで思想家で実践家ではないんじゃないの?
ニーチェに取って社会とは何なのか
ニーチェは世捨て人だから社会とかどうでもいい
もっと具体的に、ニーチェにとって民主主義とは?という問いでもいい
そういうニーチェが他人に生の価値を説くというのは何か違うような気がするをだよね
これ面白そう
今電車なので(スマホでは見づらい)家に着いたら読みます
有難う
ルソーの私生活がいくら糞でも彼の影響力は認めるだろ
人格を否定するのは非生産的だと思う
もちろん、実践家不在の状況を嘆いたりそこに焦点をあてることは必要な場合もあるけど
993 :
992:2013/08/05(月) 20:16:51.70 0
まあ、実践家不在ってのが全てだということも否定しない
そして今の日本社会じゃそういった実践家が育ちにくいような気もする
悲劇がカオスとしての生の実相を明らかにする、という所までは分かる
disるの止めようと思う
取り返しがつかないから
>>984 俺は、ガスが醸成されていたことに注目したい
発火点はきっかけに過ぎないが、平凡に暮らす事や歴史に埋没する一市民として人生を終えることに嫌気がさすのも人間なのかもしれない
つまり、究極的に便利で豊かな社会ですら、人間が満足しないという業の深さ、変化への熱望(大きな物語への回帰)が根源に内在してるのではないかと
神秘的なものにアクセスする手段がなかったから悪用されたともいえる
伝統宗教の怠慢と、日本社会の神秘的なものに対する無知が引き起こした事件ともいえる
だから信者は麻原を過度に神格化してしまいあのようなことが起こった
ロボトミー手術でも施さない限り物語を欲する人間の傾向性を排除しようとしても無理だよね
そういうものを欲している人は一定程度いるんだからどのような基準で安全性を担保するか考えたほうがいいかも
仏教だったら「戒律」が世間と出世間を円滑に繋ぐための役割を果たしていたが、
オウムの場合は伝統的な仏教の戒律を逸脱したから世間との折り合いがつけられなくなったという批判がある
999 :
考える名無しさん:2013/08/06(火) 01:10:28.64 0
うんこ
1000なら俺は人生の勝者
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。