1 :
梅木ひろみ:
保守思想家一覧
エドマンド・バーク アレクシス・トックヴィル
ヤコブ・ブルクハルト ギルバート・チェスタトン
ヨハン・ホイジンガ カール・ヤスパース
トーマス・エリオット フリードリッヒ・ハイエク
ホセ・オルテガ ハンナ・アレント
ジョゼフ・ド・メーストル ジョン・グレイ
フランソワ・シャトーブリアン ベンジャミン・ディズレーリ
ギュスターヴ・ル・ボン シャルル・モーラス
オスヴァルト・シュペングラー カール・シュミット
マイケル・オークショット ラッセル・カーク
レオ・シュトラウス ロバート・ニスベット
小林秀雄 福田恆存
江藤淳 西部邁
佐伯啓思 長谷川三千子
中川八洋 福田和也
http://seiga.nicovideo.jp/watch/sg20838
2 :
考える名無しさん:2013/02/20(水) 02:44:28.50 0
保守
小林秀雄が保守思想家のひとりとしてあげられてるから
保守思想と小林秀雄について語っちゃう。
小林は保守思想家の重鎮というように、世間一般では
みなされてるが、本人が保守思想家であると自称したことは
一度も無いんだね。少なくとも書かれたものの中では。
小林は「伝統」については何度か語っているね。伝統について
語ったなかで、一番まとまった文章はこれかな。
…私は、普通の意味での伝統を少し注意して考えたので、どんな伝統主義も
考えているのではない。宣長のような天才的な伝統主義となれば、これは
格別な理解を必要とするかも知れないが、古いものから新しいものに赴くのは
歴史の鉄則なのだから、一般には伝統主義なぞ、或るパラドックスだ、と
簡単に見なして置けば、それでいいように思われる。
実際、文化の趨勢は、一本筋にはいかず、動反動、その他の波があり
伝統主義が機を捉えて発言するのがみられる。だが、声高なだけで
思想的表現力を欠くこの発言は、やがて消え去る。これは伝統を
伝統主義などによって捕らえることが、先ず不可能なことを称して
いるのではあるまいか。常に見られる進歩派と保守派の対立は、伝統の
問題には、恐らく何の関係もあるまい。両者が争っている対象は、伝統という
よりむしろ怠惰な精神にも自明な習慣というものだ、といった方がいいだろう。
伝統とはそれほど空漠として捕らえ難いものか。私はそうだろうと思う。
そういう実在だと思う。これは否定的には誰でも知っている事で
記憶喪失が病気であることを知っているように、過去の根を失った文化が
狂う事は誰もよく知っているのだ。ただ、過去の根という形のない力を
何処でどう?まえるかとなると、怪しくなるだけの話だ。
小林は以上の文章で「伝統」について定義はしてないけれど、「伝統」に
ついてどのように考えていたかについて、おおまかな概略はつかめるね。
「伝統」は「伝統主義」とは違い、「保守」とも無関係だという
通常の「伝統主義」「保守主義」についての理解とは、非常に
異なる特異な代物と認識してるわけだな、「伝統」なるものを。
「伝統主義」「保守主義」という言葉を小林が嫌ってるのは
小林のイデオロギー嫌いのあらわれかもしれないね。
意識的なイデオロギー、思想に対立するものとして、「伝統」に
親和性があるのは「記憶」「思い出」であるというわけだ。
しかしまあ、伝統は伝統主義でない、伝統は定義しがたいのだと
いってしまえば、もはやそれ以上伝統について語ることはできなく
なるという、そういうパラドックスがこれらの発言にも常につきまとって
いるね。
全ての歴史的諸関係を認識することは人間には不可能なのだから、
もし、伝統が歴史的諸関係の総体ならば、伝統を人間が把握することは不可能だ。
だから、伝統とは作り話だ。俺は伝統と呼ばずに伝説と呼ぶべきだと考えている。
権力者は権威の根拠や血統の正統性が厳しく問われる。
庶民とは別次元の高貴な作り話の登場人物として、自分の身体を使って演技することで、
権力者は伝説を生きる。
そのような生き方が伝説(伝統?)を保守していると呼ばれるのだと思う。
俺は今の日本の保守主義者が嫌いだ。
奴等は庶民に文句をつけていればよいと勘違いしている。
7 :
考える名無しさん:2013/02/20(水) 07:39:00.41 O
やまとごころ=もののあはれ=諸行無常=日本の伝統=津波と地震
オークショット()
日本島とイギリス島じゃ土人の性質は似て非なるもの。
人工的感覚や理屈臭さが苦手。
小林秀雄は否定神学論者なのか
12 :
考える名無しさん:2013/02/20(水) 08:07:22.87 O
>伝統的なキリスト教価値観を「保守」する観点から唱えたバークら
>旧来の保守主義の思想家と異なり、オークショットは懐疑主義の立場
>から「合理主義」による急激な社会改革(ソーシャルエンジニアリング)
>や革命を批判した。
反近代じゃん。
ニシベ
日本に近代主義は存在しない
村社会だけだ
15 :
考える名無しさん:2013/02/20(水) 10:55:54.06 0
>>15 法制度を例にしよう。
この場合、「近代主義」は法道具主義に対立する思想というくらいの意味ね。
法はそれ自体として社会の規範や慣習に優越する権利を持つ、
(また、法の権利が社会に優越していること自体にも価値がある)という考え方。
前近代社会には中間集団だけがある。
なかでも中間集団が「村社会」と言い換えられるのは、
公的なルールを立てて徹底することをせず、集団内の強者がルールを破ってしまうようなケース。
どこの社会でも人は法を破ることができるし、それに対する罰があるかは偶然的。
犯罪に対する刑罰の「抑止力」とかも本質的な議論ではない。
まず法は守らなければならないものだという思想的な「建前」が必要になる。
法は「自由」や「平等」の手段だから必要、というのではなく、法はそれらと並ぶ価値を持つのだと。
この考え方は他の価値についても応用できる。
「自由」や「平等」は幸福の為に必要なのではなく、それ自体に目的とされるべき価値があると。
17 :
梅木ひろみ:2013/02/20(水) 15:06:11.82 0
>>6 伝統というのは、慣習が実行される時に現象する精神の型のようなものであって、
それは慣習を行うのに少し意識的であれば、誰にでも感じることができるものだよ。
伝説でも作り話でもない。
18 :
梅木ひろみ:2013/02/20(水) 15:16:29.86 0
>>14 近代とは何かと言えば、
・法による統治。その理念として自由・平等・民主主義・個人の人権の尊重。
・資本主義の支配。その基礎原理として伝統共同体的な規範からの個人の欲望の解放。
・学問における実証主義、客観主義、自然科学的唯物論の支配。
・伝統宗教のドグマの否定。科学技術への信頼。
・都市社会、情報社会、世界均一性(グローバリゼーション)志向。
これらの諸条件を兼ね備えていれば大筋において近代だと言える。
現代日本も紛れもなく近代社会だ。
資本主義や民主主義や法の支配のあり方には、国柄によって多少のバリエーションはあるだろうが、
それは大きな問題ではない。
西欧的な個人主義的自我は、キリスト教文明の特産品であって、
それがムラ社会的な日本に確立されてないからといって、日本が近代ではないとは言えない。
>>17 君の書き込みは、自分で意味が分かっていて書いているの疑わしいね。
精神の型の現象化とは作り話の効果によるものなんだよ。
アレクシ・ド・トクヴィルじゃね?
21 :
考える名無しさん:
保守思想家の思想エッセンス一覧
エドマンド・バーク
経験の知恵の蓄積と熟成としての「時間の効果」を重視せねばならない。
法の正当性の根拠は伝統的な道徳による基礎付けに求められる。
伝統を保守するために、革新主義を排して漸進主義を目指すべき。
伝統を蔑ろにするアホな大衆による衆愚民主主義を排して、伝統の知恵を有する存在としての国民による民主主義を!
アレクシス・ド・トックヴィル
民主主義はアホな大衆による「多数者に専制」に陥りがちである。
民主主義が衆愚政治に嵌まり込まないためには、伝統に基づいた道徳・法律・宗教などによる秩序が不可欠である。
ヤコブ・ブルクハルト
進歩史観を排した冷静な歴史研究により、人類の歴史は必ずしも進歩して来ていないということを論証。
歴史に進歩があり得るとすれば、歴史の英知としての伝統が破壊されずに、
きちんと保守され蓄積され続けている限りにおいてである。
現在や未来を至上の時代と自惚れて、歴史の英知を破壊しまくる近代は進歩とは程遠い。
ギュスターヴ・ル・ボン
現代社会において、空疎なスローガンやパフォーマンスなどによってでっち上げられた「イメージ」に
容易く踊らされる群集が大量発生していることに警鐘を鳴らす。
イメージに乗せられた群集の熱狂は凄まじい勢いで感染していくからヤバい。