■ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 15 ■

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952考える名無しさん:2014/02/15(土) 04:30:55.59 0
なお、Kritik der Politischen Ökonomie

にしても「経済学批評」と訳して間違いではない。

カント、マルクス、ともに、批評家、言いかえれば、評論家、
でいいわけだ。
953考える名無しさん:2014/02/15(土) 07:40:21.53 0
>>931
これは「理念」の在り方だな。「カテゴリー」ではない。せまくそうとると
p4222
954考える名無しさん:2014/02/15(土) 07:57:23.17 0
カントが提示している理念は3個ないし4個しかなくてね。大違いなんだ。ドゥルーズ
とカント。カテゴリー批判は2pしかない。すでに主要な議論を済ませた後。
955考える名無しさん:2014/02/15(土) 08:04:08.00 0
「幻想的基礎概念」がドゥルーズにおけるカテゴリーに相当する。カントの
カテゴリー表はほとんど触れられないや。
956考える名無しさん:2014/02/15(土) 08:10:42.37 0
「諸カテゴリーは表象=代理現前に属しているからであり」というところで
終わってしまうけどね。
957考える名無しさん:2014/02/15(土) 09:34:51.33 0
>>926
>生成としての存在(なる、としての、ある)を
>純粋に発生的な観点から、定式化しようとした

同義反復というか、なにも言ってないというか。
経験と発生の違いに根拠がないというか。
超越概念の境界があいまいのままというか。

ま、横からだかららどうでもいいんだけど、現象学全体がそうだよね。
ドゥルーズの重心はそういうところにはないんじゃないのかな。
958考える名無しさん:2014/02/15(土) 09:54:07.53 0
それフッサール・スレで現象学のステルス・ネガティブ・キャンペーンやってたやつと同一人物だから。
959考える名無しさん:2014/02/15(土) 09:59:59.73 0
>>958
>>926のこと?
>>957のこと?
960考える名無しさん:2014/02/15(土) 10:34:20.62 0
926は、かまわないほうがいい人なんだ。
いちおう、ふつうに話がしたければ、ここはその方お一人用にして、
ほかにスレをたてるべきだろうな。
961考える名無しさん:2014/02/15(土) 10:49:08.45 0
電波ブロガーによるネガキャンが酷いな。批判を甘受できないならそう言えよ。
962考える名無しさん:2014/02/15(土) 10:53:00.17 0
これだけでも電波ブロガーの負けだろ。馬鹿馬鹿しい。
927 :考える名無しさん:2014/02/14(金) 18:52:28.67 0
「認識は経験から生まれる、とする理論として、経験論を定義することは不可能であるように思われる」
(ドゥルーズ『経験論と主体性』)
⇔「経験を通じて認識が超越論的に発生する機序を論じる」(Blogジル・ドゥルーズ研究)
963考える名無しさん:2014/02/15(土) 11:11:19.74 0
國分功一郎によるドゥルーズの基礎の要約。
「超越論的なものとは、経験領域を基礎づけるものである。カントは、それを定義するに
あたって、いくつもの不純物を混入させていた。自我や意識といった経験的領野で発見される
形象を超越論的領野に密輸していた。経験的領野を「引き写す」ことで超越論的領野を描いてきた。
それを批判するドゥルーズは、純粋に超越論的な領域の理論化を目指している」
964考える名無しさん:2014/02/15(土) 11:27:39.17 0
存在の外に当為はなく、
自由の外に自由意思はない、

もいいんだけれど、しかし、たいして面白くはないな。
965バカ:2014/02/15(土) 14:27:01.52 0
>「超越論的なものとは、経験領域を基礎づけるものである。カントは、それを定義するに
>あたって、いくつもの不純物を混入させていた。自我や意識といった経験的領野で発見される
>形象を超越論的領野に密輸していた。

それは『純粋理性批判』を読めば誰でもわかることであって、ことさら指摘することでもない気がする。
カントが重要なのは、あるいはフーコーが注目したのは、経験的なるものと超越論的なるものが
入れ子状になっているということ、身体の内と外との関係が奇妙にねじれていることを論じたことではないだろうか。
だから、「不純物を混入させていた」というのは事実であるけれど、それを取り払ったら、
そもそもカントを読む必要もないし、カントが何を問題にしていたのかすら、実はとり逃すと思う。
966バカ:2014/02/15(土) 14:43:10.84 0
ヒュームより前の時代は、現実の存在者というのは統一的なものであって、
その表象を受容して、それを切ったり焼いたりバラバラにするのが悟性のすることだと考えられていたけれど、
ヒュームにおいて、現実の存在者の方が実はもともとバラバラであるということが主張されて、それを受けて
カントは、現実はバラバラなのに、なぜ私は統一されたものとして認識するのか?と問う。それでカントが与えた回答が、
「統覚の超越論的統一は、直観において与えられたすべての多様なものが、それによって
客観についての一つの概念において合一されるところの、そのものである」というものだ。
超越論的統覚を考えるのに、本当はバラバラなものをまとめて認識している意識のことを前提にしていなければ、
そもそも超越論的統覚を考えることすら無理でしょう。
967バカ:2014/02/15(土) 14:49:01.56 0
「自我や意識といった経験的領野で発見される形象を超越論的領野に密輸していた」って、
「密輸」していたなんて言うけれど、カント自身は、経験的なものと超越論的なものが折り重なっている、密輸されている、
その認識の構造自体を問うているのだから、「密輸」しているからカントは駄目だって、カントの意図を理解しようとしないお前が駄目なんだ、という話。
968バカ:2014/02/15(土) 15:05:53.37 0
ドゥルーズが、カントについて、こんな阿呆なことを言うはずがないから、國分さんの整理が間違っているのではないか。
969考える名無しさん:2014/02/15(土) 16:09:21.38 0
哲学者の研究って生物学でいえば、細胞や生物を研究する代わりに山中教授や小保方さんの研究するようなものか。
970考える名無しさん:2014/02/15(土) 16:34:31.05 0
>>968
めんどうな奴だな。そんなに自分の「独走的」解釈に自信があるなら、
『表象』の公募論文にでも投稿してみればいいじゃん。
971考える名無しさん:2014/02/15(土) 17:00:17.45 0
>>968
「ドゥルーズが、カントについて、こんな阿呆なことを言」っているよ。ソース。

「『純粋理性批判』の第一版で、彼は思考能力のそれぞれの寄与を表す三つの総合を詳細に
記述している。それらの能力は、第三の総合、すなわち再認の総合において絶頂に達する。
明らかにカントは、そのようにして、先験的(超越論的)と呼ばれる諸構造を、心理学的な意識の
経験的諸行為を引き写すことによって描いている。たとえば、覚知の先験的総合は、等々。
カントは、第一版の当該箇所を第二版では削除しているが、それはかくも見えすいたそのやり方を
隠すためである。けれども、そうした引き写しの方法は、もっとうまく隠されていたとしてもなお、
おのれの「心理主義」をそのまま伴って存続しているのである」差異と反復邦訳212頁
972考える名無しさん:2014/02/15(土) 17:18:17.14 0
ジル・ドゥルーズ研究というブログは以前検索で見つけたことがある。
そのとき一読して、これではだめだ、役に立たないと思った。
Wikipediaのドゥルーズの項目もひどいが、どっこいどっこいだ。
最近ではネットでドゥルーズなどを検索するときは必ずPDFを検索ワードに入れる。
するとたまにいい論文がある。
973考える名無しさん:2014/02/15(土) 17:26:42.12 0
さすがに「バカ」というハンドルネームだけに、カントとヒュームだけしか出てこない。
では逆に問うと「経験的初行為を引き写すことでなく、純粋に超越論的な領野を
画定したとして、それはいったいいかなるものなのだ?
974ZEEK:2014/02/15(土) 17:31:09.73 0
>>972
5年前に書いた文言が載っているが、専門家が論文にするようなもの
をネタ探しで、ネットから拾おうとするさもしい魂胆なら、
それは私のHPから得られなくてもいいよ
975考える名無しさん:2014/02/15(土) 17:34:22.49 0
>>973
経験的諸行為のミス
976考える名無しさん:2014/02/15(土) 17:39:40.62 0
私のHPなんかじゃなく「国分」「千葉」をよめばいい。
もう書かれちゃったから他の使えるネタを探す、なんて
ネットでやるもんじゃない。
977考える名無しさん:2014/02/15(土) 17:42:31.22 0
捨てゼリフ、か。
978ZEEK:2014/02/15(土) 18:40:46.82 0
>>973
私は791だよ。すでに語った。
979ZEEK:2014/02/15(土) 18:44:37.84 0
830もそうだよ。
980考える名無しさん:2014/02/15(土) 18:46:46.44 0
>>971
なんだ、ドゥルーズって、阿呆だったのかw
981972:2014/02/15(土) 19:05:34.54 0
>>974
君のHPはドゥルーズを理解するためには全く役に立たない、ということだよ。
君のよくないところは、ドゥルーズの論述を精確に辿らずに、用語の字面だけで
性急な判断を下してしまうところだ。超越論的経験論という字面だから、経験を
通じて認識が超越論的に発生する機序を論じているのだと君は考える。
しかし、それではドゥルーズの超越論的経験論を誤解することにしかならない。
ポスト・モダンの思想家とドゥルーズを紹介しているが、リオタールは読んだかね。
「ポスト・モダンの条件」を読んでいれば、そんな風にドゥルーズを紹介することはできないはずだ。

君が友人たちからドゥルーズに詳しい奴だと評価されることと、実際にドゥルーズを
理解していることとは、全く別の問題だ。熱意は認めるが、君が表象文化学会などに
論文を投稿したとしても、今のままでは到底認められないよ。謙虚にテキストを読むことをお薦めする。
982972:2014/02/15(土) 19:25:23.00 0
>>974
ついでだから、君の思考の理路を分析してみようか。
君は、ドゥルーズの哲学が超越論的経験論としてもっともしばしば総括される
ことを知っていた。そして、超越論的経験論という字面から、それは「超越論的な経験論」
だと考えた。そして君の経験論の理解は、「経験を通じて認識が発生すること」だった。

ここで既にドゥルーズの経験論理解と乖離している。ドゥルーズは「認識は経験から発生する、
と経験論を定義することは不可能」だと述べているからだ。

次に君は、超越論的という形容詞をどこかに入れないといけないと考えた。
そこで「超越論的」に「経験を通じて認識が発生する」と形容した。
すると「経験を通じて認識が超越論的に発生する機序」という文になる。
だが、それはドゥルーズの超越論的経験論とは全く異なるものだ。
外部から見れば、君の文章の理路は、例えばこのように見えるということだ。
983考える名無しさん:2014/02/15(土) 19:42:44.11 0
カントが「心理主義」だというのは、
普通に読めばそのとおりなわけね。
普通の読み、だから、とっくに多くがそういっていた。

まあ、おおむねは、
ウィトゲンシュタイン曰く、

これまで哲学と呼んできたものは、心理学のことである。

ということなんだろうが、違う読み方(柄谷・蓮實曰く「可能性の中心で読む」)をすればいいだけの話しでもあるし、
その前に、心理主義でとくに悪い、ということもない。

なお、ほんとうに(いちおうでも)徹底したい、というならば、いわゆる「哲学学」なんかやめて、一例を挙げれば、
グロテンディークのトポスみたいな、
数学的形式化を試みるべきだろうな。ただ、そんな頭があるわけないからテツガクーなんぞというものを
やって、わかった気になっている人に、云うだけばからしいことであろう。
984考える名無しさん:2014/02/15(土) 20:01:28.15 0
>>982
ヒューム論も読んだよ。人間的自然は所与の自然から「超出」することによって
人間は自己の人間的自然を獲得する、という。その「超出」はなぜ起こるかわからない
という不可知論だった。表象文化学会には関係がないんだけど。
よく知らない。

こういうことは言えないかね。人間の生得性としての自然を「超出」するのなら、
先天的アプリオリを人間は「超出」するだろう。(自明のロジックだと思う)
985考える名無しさん:2014/02/15(土) 20:03:52.10 0
生得性としてのアプリオリに対してアルトーは生殖性と言っているよ。何度も言うが。
986考える名無しさん:2014/02/15(土) 20:07:48.88 0
表象文化学会というものを「立てる」という「建前」がある限り、「表象=代理現前」
の批判もうまくかわさなきゃならんのだろう。「千葉」みたいなパスティーシュの話だね。
987考える名無しさん:2014/02/15(土) 20:14:17.78 0
東が浅田が絶賛というのも、あの二人にいじられる世界、というのも
ひねりを利かした芸としてだろう。あんなのが博論か?最後のほうが
SMだっていうのが(蓮見?)愚にもつかないよ。
988考える名無しさん:2014/02/15(土) 20:14:33.65 0
グロテンディーク→グロタンディーク
989984:2014/02/15(土) 20:28:54.71 0
982の即答はないか。考え付かないか?
990考える名無しさん:2014/02/15(土) 20:34:41.51 0
982は馬鹿か?
991972:2014/02/15(土) 20:35:03.69 0
>>984
「経験論と主体性」の冒頭には「いかにして精神は人間的自然(人間の本性)へと生成するのか」
とあるでしょう。この場合、精神は所与であって、バラバラな諸観念のことを指す。
人間的自然(人間本性)は、このバラバラな諸観念が連合という構成作用を通じて、諸観念の連合という
状態になったあとで、現れるものなわけだ。

順序はこうなる。@所与としての精神(バラバラな諸観念)→連合という構成作用→A諸観念の連合の形成→B人間本性の生成。
「超出」とはAとBの過程を指す。だから超出は連合という構成作用によって準備される。
これは人間本性の発生の過程を描いているでしょう。ドゥルーズが重視するのはこの発生の観点だよ。

要するに「人間」という形象を前提しないことがポイント。
だから「>先天的アプリオリを人間は「超出」する」、という言い方は「人間」を前提しているから、
理解が逆になる。あえて君の言う事をドゥルーズ風に書き換えるなら、
「先天的アプリオリを「超出」することによって人間が構成される」となる。
もちろん、こう書き換えてもおかしいけどね。
992考える名無しさん:2014/02/15(土) 20:35:19.95 0
うん馬鹿だな
993972:2014/02/15(土) 20:39:11.67 0
>>989
本当に失礼な人だね、君は。十分に応えたと思うので、もう対話は
やめにするよ。さようなら。
994考える名無しさん:2014/02/15(土) 20:40:57.60 0
俺もそう思う、馬鹿だ。
995考える名無しさん:2014/02/15(土) 20:43:14.70 0
こいつが東大だったら、右翼みたいに駒場をつぶしたい、という心を抑える。
996995:2014/02/15(土) 20:47:33.18 0
私は791です。もう一回超越論的な場をどういったか考えてよ。
997考える名無しさん:2014/02/15(土) 20:53:05.51 0
横だが、ウィキペディアによれば、アプリオリの和訳は「先験的、先天的、超越的など」だそうだ。
先天的アプリオリはだから、先天的先天性といった意味になるはずだ。とりあえず、この無意味な重複用語を
自己解決してくれまいか?
998考える名無しさん:2014/02/15(土) 21:08:22.31 0
バルトが言っているが「モード」を消費するのが、ポスト・モダン少なくとも
消費社会であるという。そうすると一過性のモードとして「ポ・モ」などと言って
かつてのフランス現代思想が、モードとして消費され、もっと新しいものが欲しい、
もう古いという「記号消費」になるはずだ。私は交換価値としての、
ドゥルーズという観点を持たない。
999考える名無しさん:2014/02/15(土) 21:11:27.91 0
>>997
アプリオリとは、スコラ哲学における言葉で、順序の上で先に来るもの
というのが語源。
1000考える名無しさん:2014/02/15(土) 21:13:14.52 0
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