「謙虚さ」を考える

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191考える名無しさん
俺は正しい傲慢さの齎す勝利の生む残念について謙虚さが美しさとして綻びを繕うのではないかと語っていた奴だが、
偶然だが他スレのひとつのレスから、俺の疑問の解答がひとつ導かれた。以下がそのレスである。レス筆者の思考部分の行は筆者への関与否定の意思表示として省いた。
レスというより、その相手の問いが、単に偶然に俺に考えを与えた。
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80 :考える名無しさん:2013/09/08(日) 23:12:19.20 0
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>食べた動物に感謝しなければいけないっていう道徳もよくわからない。
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ここから俺の文脈だが、
>ところで、相手が自分と、俺の言う同格でないと俺の言う「残」念は生まれないということには理由がある。
>戦いの中で、相手を自分と同じだけ気遣う配慮が生まれているという事後的な状態が、そのわだかまりを存在させる。
「同格の人間との戦いの意味は意義は何なのか。」

「これから食べる動物に感謝せざるを得ない状況」というものが幾億もある場合・ケースの縁(へり)部分、崖っぷち部分に存在しているわけだ。

できることなら、お前を食べたくはなかった。
お前が不味いから食べたくないという話ではない。
お前には生きていて欲しかった。
俺がいるのもお前が生きていたからこそでもあるからだ。
だが、俺はお前を食べなければならない。
お前を食べると、お前は死ぬだろう。
お前を失う俺に、これ以上生きる意義などあるのだろうか?
それでも、お前以外に食べられそうなものが見当たらないんだ。
こんな時、俺はお前に何て思えば良い?
俺を生存させる糧となってくれて感謝することくらいしか
今から食べられ死んでしまうお前に俺ができることはない。
選択肢のない状況で、俺の一部であったお前を食べて俺は生き残った。
お前には感謝している。感謝しても足りないくらいだ。
だが、お前という存在は、既に存在していない。居ない「お前に」感謝するのは、俺の偽善心だ。
感謝の念も、俺の腹の中から外へは出られない。
その苦しみと悲しみと辛さともどかしさを、感謝という残念として、俺の体内に受け入れ、備蓄する。