183 :
考える名無しさん:
つまり、俺の言う、「美しさ」の問題がつきまとう「戦い」というものは、
自分と同格、
(喩え相手が子供であれ大人であれ、教師であれ司祭であれ、同じ人間、社会的・知能的・技能的・経験的・身体的な優劣は格の違いとは考えない)
自分と同格、即ち、あるいは自分自身との対峙、終わり方は必ずどちらかが息絶える、といったものだ。
この俺の限定する「戦い」というものは、「同種間によるうち消し合い」または、「血族における間引き行為」に値するのだろうか。
ところで、相手が自分と、俺の言う同格でないと。俺の言う「残」念は生まれないということには理由がある。
戦いの中で、相手を自分と同じだけ気遣う配慮が生まれているという事後的な状態が、そのわだかまりを存在させる。
もし相手が自分が徒歩中に道路に転がる葉虫であったりしたら、
相手を相手と認識している間もなく、戦いは相手を殺すことで終結し、相手を認識していないのだから
相手への配慮も生まれずに、勝利したことへの胸くそ悪さも憶えることなく非戦闘状態、日常へと戻るわけだ。
仮に、踏み殺された葉虫の存在に後から気づき、技術的に、死んだ葉虫に共感を試みるとする。
それでも、「仕方がない」程度の結論しか出せないだろう。相手と心を繋ぐ手順が省かれていたからだ。
本題とは無関係だが、この手順が、ペットと、その他の器物・食料と見なされる動物を認識し分ける違いである点は言い残しておこう。
一旦、整理する。
戦いに美しさを求めることはできるのだろうか。
そもそも戦いが美しくあって良いのだろうか。
なぜ、殺しまでの戦いの過程での、その解き方の美しさが、戦後の残念への慰めとなるのだろうか。
同格の人間との戦いの意味は意義は何なのか。
その戦いは避け覆い隠すべきなのか。それとも見るべきものとして美しく魅せるべきなのか。
ここまで。