「謙虚さ」を考える

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181考える名無しさん
かつて俺は正しい傲慢さというものを説いていたが、
戦いに美を求める残念が、
戦後の場は、勝者を憎まれ者として葬るという、決め定められた状況の様式に不服を訴え疑問を投げかける自己と共に、
胸の中に生まれてきて、
何かないかと心の中で探し回ると、
「謙虚さ」という戦闘上の「手段」が、もしかすると「戦い」を「美しいもの」にできるかもしれないひとつの希望として見えてくる。

仲間のための戦い、自分のための戦い、他人のための戦い、それぞれあるが、
戦いは度合いの違いはあれど「殺し合い」なわけであり、
勝ったときに「うれしく思う」「誇りに思う」「平和を感じる」、そんな終わらせ方のできる「戦い」などあり得ない、と思ってしまう。
なんだかんだで、いつも頻繁に戦いに参じ、まぐれであれ当然であれ、勝つのだが、
とにかく言いたいことは
「勝っても胸くそ悪い。」

激闘の末、焼き尽くされ静寂の温度に凍り付いた戦場を目にして、俺は勝ってほんとに良かったと思える節は、あまりない。
この残念さ、無念さ、心残りが、ひとつの行き所のない「力」となり、その問題を解決するであろう目標や標的を探して手元に持ってくる。
それはもう、放し飼いにしていた犬が何かを加えて走り戻ってくるかのように。

戦い方、それは解き方。勝利という解は決定しているが、そこまでの過程をできるだけ美しくしたい。
無駄を省き、上品に、余計に不必要な要素を穢すことなく、対象だけを綺麗に射止める。
だが、殺し合う「戦い」が「美しく」あって良いものなのだろうか。
戦いが発生すること自体が、既に美しくない事態なのではないのか。
それとも、娯楽として、見物対象として、状況の構成物、外野の人間達によって、見世物とされる「殺し合い」は「美しさ」を宿して良いのだろうか。

謙虚さという手段を、まず直感的に見てみると、
それら「戦い」という事態が発生しないように自己の挙動を事前に(あるいは平常時もあわせ常に)制御する「手段」だ。
争い、小競り合い、啀み合い、それら「戦い」の発生自体を防ごうとする「謙虚さ」は、
「戦い」というものは「美しくない」ということを前提として持っている。
だが、戦場の戦う人と同じく、状況という「場」の「求めている主筋」のようなものを強化するようだ。字数限界か。
182考える名無しさん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN 0
このような、俺の持つような迷いや躊躇、わだかまりや「残」念を感じることなく、
「戦い」「勝つ」ことで(美しいかは知らないが)「気分は快晴」である者達もいる。

どのような前提状況や前提立場があると、
そのような気持ちの良い勝利を重ね続けることに、更なる快楽を得ていくことになるのかというと、
戦う相手を敵、敵どころか、害虫、害虫どころか、風呂場のタイルの掃除中に見つけたこびりついた黒カビ、
そのような類いとして相手を認識しているケースだ。

人を人とも思わない。人にされたくないことは人にするな。
相手も自分と同じ人間。俺が痛みを感じるように、相手も痛みを感じる。
そういった、つまりは、相手を自分と同格と見なした上で「戦い」を開始するか否かの問題が横にある。

相手が自分より弱いものでさえあればこの条件に満たないわけではない。
権力に立ち向かう者、弱い者いじめをする強者を標的にする者、自分より強い相手だけに殺しにかかる者、
これら相手を自分より格上だと認識したうえで戦いを開始する場合にも、
「戦後」の「「残」念」を感じない「戦い」が繰り広げられることになる。

負けた場合の話はしていないが、負けて悔しさを憶えたり、そういうのは「残」念ではなく、沸き上がった念だ。
そちら(負けた場合)の方には、残念の残る勝ち方ほどの問題、危機感を感じていない。

「戦闘」が「行為」ではなく「手段」である場合、戦闘よりも抽象的な目標や志が存在しているわけであり、
「戦闘」自体の内部、つまり戦場の現場の気持ちは、平面的に、蔑ろに扱われる。
目的を達成するために必要な数々の勝利というものは、ここに示した精神状態で通過されるものであり、
「戦い」自体を省みる立場になく、「戦った」事による心と身体の傷を、、なんというか、ここで視点を少し持ち上げるが、
この人の視点は目標完遂の司令室の中にあり、数々の戦いによる損失や痛手、影響や経験、変化は、
戦い全てが終わった後に、この司令室の中で、あとから、帳尻あわせしながらうまいこと心が捻れないように整形しようではないか、
というような形となっている。故に、そんな人たちが実際に参加している「戦い」の最中、直後には、
今俺が描いているようなもどかしさ、「残」念を感じることはないであろう、ということだ。
183考える名無しさん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN 0
つまり、俺の言う、「美しさ」の問題がつきまとう「戦い」というものは、
自分と同格、
(喩え相手が子供であれ大人であれ、教師であれ司祭であれ、同じ人間、社会的・知能的・技能的・経験的・身体的な優劣は格の違いとは考えない)
自分と同格、即ち、あるいは自分自身との対峙、終わり方は必ずどちらかが息絶える、といったものだ。

この俺の限定する「戦い」というものは、「同種間によるうち消し合い」または、「血族における間引き行為」に値するのだろうか。

ところで、相手が自分と、俺の言う同格でないと。俺の言う「残」念は生まれないということには理由がある。
戦いの中で、相手を自分と同じだけ気遣う配慮が生まれているという事後的な状態が、そのわだかまりを存在させる。

もし相手が自分が徒歩中に道路に転がる葉虫であったりしたら、
相手を相手と認識している間もなく、戦いは相手を殺すことで終結し、相手を認識していないのだから
相手への配慮も生まれずに、勝利したことへの胸くそ悪さも憶えることなく非戦闘状態、日常へと戻るわけだ。
仮に、踏み殺された葉虫の存在に後から気づき、技術的に、死んだ葉虫に共感を試みるとする。
それでも、「仕方がない」程度の結論しか出せないだろう。相手と心を繋ぐ手順が省かれていたからだ。
本題とは無関係だが、この手順が、ペットと、その他の器物・食料と見なされる動物を認識し分ける違いである点は言い残しておこう。

一旦、整理する。
戦いに美しさを求めることはできるのだろうか。
そもそも戦いが美しくあって良いのだろうか。
なぜ、殺しまでの戦いの過程での、その解き方の美しさが、戦後の残念への慰めとなるのだろうか。
同格の人間との戦いの意味は意義は何なのか。
その戦いは避け覆い隠すべきなのか。それとも見るべきものとして美しく魅せるべきなのか。

ここまで。