◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない192◆

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476抄録
しかしですね、「我々」が参加することで姿を現す「現に目の前に投げ出される自然」と言ったのでは
結局は「私ありき」の枠組なんですよ。いつもいつも人間、人間。その『我々』って何ですか?

「人間」なんて、「物質」よりはるかに都合の良い方便なんです。
もうオールマイティーもいいとこでね。「人間」と言えば通ると思っている。
その「人間」が参加しなきゃあ自然はありませんか?
「人間」のいない自然について考えることは端的に無意味ですか?
自然のないところに「人間」だけが存在できるんですか?

「我々が世界に投げ出されている」。サルトルやらハイデガーはそう言ったのかしら。
悪くはないが、しかしそれじゃあぬるいんです。
自然が「我々」とやらを成立させているんです。
この思惟も、感覚も、論理も、物理学も、間主観性も、そして<私>も
すべて自然なんです。