【存在】ハイデガー【有】

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276考える名無しさん
客:竹田青嗣の名前が出たついでに竹田の『ハイデガー入門』についても一言やってみよう。単刀
直入に言って『入門』は違うだろう、っていう感想がある。竹田の思想に引き寄せてるのが露骨に
出てる箇所の1つは、『存在と時間』にある個体の欲望相関的哲学を発展し、「普通の生活から人間
的価値(本当・良い・美しい)の必然性を根拠付ける」ことが出来ればよかったが、後期になるに
従い主体性の批判、存在を贈る彼岸、になる。それがせっかくの思想の可能性を奪った。しかし
そういう竹田の思想を読んでいると、他人から承認されてるもの、ないし社会の承認、公共的に
通用しなきゃならないことが価値の前提条件にあり、竹田の思想としては解るがハイデガーの思
想、問題、「〈有る〉とは何か」とは違うしハイデガーから見ると公共的承認に偏り、かつ主体性の
哲学であり、いわばリベラリズムへの溶かし込みに過ぎないのではないか、という批判が来そう
に思えるんだな。換骨奪胎してはいかん、と。
主:後半に『存在と時間』の要旨を纏めてる箇所があるんだけど、1番に「人間の実存は個的な実存
ではなく、根源的な共存在である」というのが来る。で、「本来的な実存とは、歴史の中での善きこと
を自覚しつつ、しかも共存在として(共同体・民族の一員として)「善きこと」のあり得るをめがけ
て生きることである」となる。実は共存在っていうのは実存範疇としての世界に於て「我」や「汝」が、
意味付けられることでもある。単に他人と共生することではなく、それさえ実存領域と言っていい
。因みに主観や客観が意味付けられるのも実存範疇としての世界になる。どうも竹田の読み方は
共存在でさえが実存範疇ってことを読めてない。実存ではあるが社会的、という意味付けでのみ
読んでいる。共に有ることであるが、それさえが世界に内存在することとい意味付けされる。