客:上のレスで俺達の論を具体的に挙げている数少ない箇所があるのでちょっと見てみよう。こ
うある。曰く《君はハイデガーの〈有る〉そのものが吉本の言う幻想だと言う。しかし幻想とは観念
の言い換えである。では〈有る〉とは観念なのか》大体こう書いてある。
先ず「幻想とは観念の言い換え」と言ってる箇所は思い出せない。しかし幻想は上部構造だと言っ
てる箇所は『共同幻想論』附属のインタビューにあるので解る。それはいいとして、問題は吉本自身
が幻想というタームについて、後から考えれば個人幻想や対幻想については妥当ではないかもし
れない。と言ってることだ。共同幻想のような、精度的意味合いは個人幻想にはない。そう吉本は
言う。個人幻想というのは個人の精神現象だと。共同幻想という場合と個人幻想という場合とは
意味合いはかなり違うと『吉本隆明が語る戦後55年6』p.66ではっきり言ってる。つまり幻想とい
うタームにせよ吉本自身の使い方に問題はあった。というのは幻想ということで3つの幻想の
意味は全く同じと捉える向きもあっただろう。実は全く同じではない。それを95年に述べている
。観念、というのは幻想というタームに籠めた意味の一つではあっても全てではない。恐らく共同
幻想という場合には妥当だと思うけども。ハイデガーが論じたような実存は吉本では個人幻想に
なると思うけども、吉本に於ても個人の精神現象の全体を指す訳で、〈有る〉という問と無関係では
ないことは容易に掴める話だろう。しかも両者とも生が覆蔵する歴史や経歴に注意を払っている
。そこも同じな訳だ。