客:人間が判断する、確信する、〈有る〉とする事象を分解する作法をハイデガーはフッサールから
学んだ、そして自らの有論に生かしたと思うけど、自然的態度や感性や判断や気がかりやを幻想と
することでね。そして幻想には根底にハイデガーが目測したのと酷似する時性の領域が置かれて
いた。そういう思考の積み方、人間の掴み方は両者に共通した物だ。因みに吉本の語法自体、かつて
浅田彰に「詩的・我流・あれが読まれた理由が分からない」とこっぴどく批判されたことがある。
「吉本先生は何が客観的かを絶えず心掛け」とする意見は滅多に読まない。余程の読者なんだろう
がこの人みたいな話の方がマイナーじゃないかね。
主:因みに「本当の考えと嘘の考え」という違いには固執はしていた。だけどそれは幅のある考え
で、史的唯物論に全存在や倫理や個体幻想までを収斂させるマルクス主義に否定的だったのも
客観的であることの複数性、重層性に注意していたからだし、客観性が成立し難い領域として
幻想を見ていたのでは、と思えるところがある。例えば三島に対しても思い込みを批判しながら
も変死に向かう根底にまさに母型論的問題を見ていたし、それはハイデガー的に言えば世界の原
像=先像の問題になるだろうけど、客観的と称する思想がいかに自らの生の歴史に拘束されてる
か、死ぬ迄拘束するかも見ていたよ。また、だからといって思い込みの思想を抱いて死んだ人間に
否定的なだけでなく、不可避を見ていた。吉本にとって、「本当」ってことと「不可避」ってことは実
は近かったんじゃないかとも思えるんだけど。少なくとも全てに於て客観的でさえあればいい、
等とは考えてはいなかったと思うね。
客:もうひとつ?と思うのは、「本人が自覚もせず認めてもいないことをそうだと言う等とは
何事か。思想を分かっていないのではないか」とか言ってるところで、自覚も認識もしていない
問題を探り突っ込むことを否定してたら思想の進化などないよ。どこまで「教科書鵜呑み」してる
のだ。
主: