◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない190◆
機械は何らかの期待される結果を出してくれる。
脳やDNA、RNAは精密機械なのか。
954 :
ゲーム:2012/07/26(木) 10:16:08.91 0
>>941 アブサロム氏の文章は例によって難解であり、辛うじて「わかった」箇所についてのみレスします。
まず「“理”なしに…」事象を感覚できるのだろうか、という疑問。これは事象に「“理”があるや
なしや」を云々しているのではなく「感覚は無規則なのか」という問いである。
敷衍すれば、感性はなんらの規定もされず“恣”なのか…という疑念。
たぶん、それを踏まえて君は「混沌は身のうちにある」とも述べている。
この“身”は身体という意味だろう。これは「身体は“混沌”」といいかえてもいい?
もしそうなら身体は無秩序、無規則に“動いている”ことになる。
これと反対なのが
>>953(カラス君は脳などに限定しているが)の「精密機械」説。
これは身体には秩序があり、規則的に“働く”というものだろう。
他人の意識内容の自己報告によってクオリアは確認できる。
これ以上何の問題があるのだろう
956 :
考える名無しさん:2012/07/26(木) 21:30:49.08 0
>>952 >947で主観的認識(精神)と類としての存在(客観的存在)との反復が行われるもの
としての「物質」と述べている。ここで述べている主観的認識とは、「精神」のことであり、
二元論の立場に於いて「物質」の概念が二通りあると言う事です。
仮に機械的唯物論が正しいにしても疑問は終わらない。
物理法則はなぜこうなのか?
初期値はどのようにして決まったのか?
因果律は無限にさかのぼれてしまうがゆえに永久に疑問は無くならない。
これが物理学的アプローチの限界ではあるが、無限にさかのぼれる
という所に真理に迫る何らかのヒントはありそうな気がする。
958 :
考える名無しさん:2012/07/26(木) 21:41:01.01 O
あ・・けんちゃん・・・ごりごりする
>>955 報告がクオリアなのかね?
人が痛いと言うのとテープレコーダーが痛いと言うのは同じクオリアかな?
>>956 二元論なら唯○○論では無いですが。
>>957 永久に疑問を辿るのは物と物の関係を辿るようなこと。
初期値や物理法則が根拠なく与えられたものと考える。
さぁここで何か疑問が生まれるだろうか。
すべてが説明できている状態で、もはや新しい説明体系など不要なのである。
961 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/26(木) 23:52:03.29 0
>>954 時間感覚というものが、“理”感を生むのだと考えたのです。時間が止まった世界は、
なにごとも起こらないので、時間のなかで捉えられた存在が、意味を持たない。
時間的発展が、物理法則のすべてに関わることだ。時間は単位を持ちだして、
整然と表象される(長方形の面積が、単位面積の数を数えることによって求められる
ように)。時間の単位はある。混沌(カオス)というものは、分解されるべき法則を
持たない。それを考えれば、分解して基礎的法則に還元される事象が物理モデルである。
微積は大学時に挫折したけど、微分と積分の双方向性が“理”感覚が数学的に説明
される一番の原因だと考えます。微積によって説明されない事象こそが
混沌である(と妄想する)。微積の教科書を読んで、後ほどもう少ししっかりとした
意見になおしたいと思います。
逆に先に理があるからこそ時間が流れると考えたらどうだ?
963 :
ゲーム:2012/07/27(金) 10:17:53.92 0
>>961 質問は、こうです。
「身体は“混沌”なのか」
>>941には、そういうニュアンスがあったので。
それとも「身体は構造化されていて、規則に従うシステムなのか」
>>959 しかし君の「機械」説も、自ずと二元論を構成してしまうでしょう。
機械氏が健在だった当時、何度もそう突っ込んだことがある。
“制作”されたものなら例外なく、それは「知(理)」と「素材」の二元的“結晶”だからである。
その“本質”は知(理)にあり、それによって素材の布置と機能は規定される。
唯物論では、この二元論的呪縛を解き放つのは難しいのでは? w
>>963 すべての事象は物質から成るという前提ならば物質を分けて意味を与えるのは
理でも知でもいくらあっても構わない。意味がいくつあっても物質というひとつの
前提に立つのが唯物論。
機能は入出力さえ合っていれば過程は問わないもの。
意識も機能なら過程が脳である必要は無い。
人生すべてが夢だったら「人生という夢が存在していたことは事実」なのかな。
967 :
ゲーム:2012/07/27(金) 12:16:54.39 0
>>964 その前提が怪しいのである。
コップでも机でもクルマでもいいが、それらは君のいう“物質”の塊ではあるまい。
また自ずと凝って、そのような“道具”になったのでもなかろう。
知(理)は、単に意味を与えるのではなく「素材」に構造と機能を植えつけ、コップや
机やクルマとして現成せしめる“力”を有している。それらの差異は、呼称や意味の
それではなく、それらが付与されたのは“存在者”としての差異である。違う?
>>967 > コップでも机でもクルマでもいいが、それらは君のいう“物質”の塊ではあるまい。
物質ですが?
> 知(理)は、単に意味を与えるのではなく「素材」に構造と機能を植えつけ、コップや
> 机やクルマとして現成せしめる“力”を有している。それらの差異は、呼称や意味の
> それではなく、それらが付与されたのは“存在者”としての差異である。違う?
物質に差異がある。物質は世界の構成要素。
唯物論では物質の関係として説明する。
唯物論は物質の関係として説明しないことに反対する論。
970 :
ゲーム:2012/07/27(金) 13:22:25.06 0
>>969 君のいう“物質”に「差異」「関係」を生じさせているのが知(理)。
物質が“意志”をもっていて、主体的に様々な関係を産出するのなら別だが。
ただし、その場合は
>>968 とは異なり、つまり「物質は世界の構成要素」では
なく、物質は世界を構成する“主体”ということになる。これなら字義どおり
の唯物論である。
レスがあれば、のちほど返します。
971 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/27(金) 17:28:40.87 0
>>963 身体の全体像を捉えることは不可能だ。言い換えると、身体を全体としてみる眼差し自体が
硬直したまなざしによっている。つまり、ある場合には足を意識し、ある場合には手を意識する。
心臓や内蔵、目や顔、etc...身体が自己のものであるかどうかも不確定だ。ある場合には
他人のもの(他人の表象の対象)であり、ある部分は自己のコントロール内だ。こういう見地
に立った場合、身体は“混沌”であるのか。私の考える答えは、身体は眼差しと自意識
次第によって混沌になりうるというものだ。混沌の表象として科学のカオス理論、意識の
中に潜む混沌の意識的表象(つまり、もやもやとした気分)、絵画の複雑な模様等がある。
そのどれに従った規則を、混沌のモデルの規範として考えるかによって、混沌という表象の
具体的現れ、つまり、混沌の内実の充実がちがってくる。身体という場における混沌の表象
とは、そのような可能性を、原則的には持っている。ゲームさんの理論によれば、混沌という画布に
“理”という絵画を書くということだが、それを全く裏返しにしたことが身体では起こっている。
つまり、タブロラサなる身体を、徐々に混沌の色に染めていくのである。それは慣習という、
時間的な行為が元になっているため、「身体の構造化」とあなたのおっしゃったことを考えれば、
身体はいかなる構造のもとにあるかを解き明かすことによって、どのような規則に従う
システムの元にあるかが、はっきりとわかるはずである。つまり、身体とはひとつの歴史
の現れであり、ひとつの観点、ひとつの主観の現れである。
感じることで分かることを知ることと混同しているのがいるね。
それは定義できない存在なのに気が付いていない。
どうしても対象を割り切り、その根幹分部だけを合理化したものが
対象だと信仰してしまっている。
例え努力によって部分的に定義し仕組みを明らかにしたとしても
現実を四捨五入しただけの模倣であり明らかに機械的な捕らえ方で
滑稽としかいえない。
973 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/28(土) 10:03:41.16 0
>>972 あなたが“それ”についてそんなに詳しいんなら、ぜひご高説を賜りたい。
ひとの意見を糞味噌にけなすなら、具体的にあなたの意見を
見せることが当然できるよね。
自分の意見が言えないのに人を非難するだけっていうのは最低ですよ。
NG推奨
>あなたが“それ”についてそんなに詳しいんなら、ぜひご高説を賜りたい。
理解できない奴が理解できるわけがない、その矛盾に気が付かない時点で
煽りであることに気が付け。
精神病院スレ
977 :
抄録 ◆xOLbFG9QNU :2012/07/28(土) 12:59:21.05 0
>>972オカルトくん
「感じることで分かること」から「知ること」を除くと
そこに何が残ると思ってるのかね。
「定義できない存在」に気が付く“状況”とはいかなる状況かね。
もし「それは説明できない」のだとするなら、それは貴方の説明能力、理解が不足しているからでは?
との批判にどう答えるかね。w
もうレスの残りがちょっとしか無いがねw
また工場で出稼ぎをしてまいりましたばい。
キーボードを打つのは久しぶりでなんだか緊張しますな
強度の腱鞘炎になりましたが、タイピングには影響ないようで一安心。
おーいスモー、いや元スモー
いたらなんか書いてぇ
タイピングリハビリスレ
カラスくんに加勢するばいw
>ゲームさん
ゲームさんは知(or理?)の「力」に過剰な信頼を置いているように思う。
そのような(物質に機能を与える)意味での「知」はあるとしてもいいわけですが、
しかしその力は、言ってしまえば、見せかけなんです。
それを「力」と認める範囲内で力としての意味がある。マッチポンプですよ。
以前にも言ったかもしれんですが、そのような意味での「ヒトの知」の為し得ることといえば、
「自然(物質でもいいですが)の振る舞いを利用することだけ」なんです。
知はオールマイティーの魔法じゃあないんです。
コップに相当する物体があるとして、それをコップとして使うとするなら
それを構成する物質(とりあえず粘土でもいいし、二酸化珪素でもいいですが)
と構造(粒径とか組成とか組織とか大きさとか)によってコップとしての可能性は決まってしまうじゃないですか。
コップになってしまったら、どう魔法を掛けたってその物体の持つ可能性からはみ出せない。
「知」なんぞはトライ&エラーの挙げ句のラッキーマンの言い訳です。
実際に有効な機能を体現するのは物質なんです。
981 :
ゲーム:2012/07/29(日) 02:41:18.14 0
>>980 抄録さん、久しぶり。お元気のようですね。
少し、いや、かなり誤解がある。
ここで「理」といっているのは、ヒトのそれではない。
ヒトを含めて存在者は「理」に規定されて「その可能性の上を辿るのではないか」と申しあげているのである。
コップは「知」によって現成せしめられ、その可能性の上を歩む。
存在者を現出せしめ、その可能性を決定づける“働き”を「理」と称しているのである。
抄録さんの言葉を借りれば、自然(あるいは物質)の振る舞いは「理」によって規定されており、
「ヒトの知のなしうること」は、その“理”を剽窃し、模倣することだけである…
機械氏と抄録氏のかくも長き不在のため、私がかわりに“動的秩序”派の立場で語ってきたつもりである。w
982 :
ゲーム:2012/07/29(日) 03:23:21.72 0
>>980 カラス君は機械氏の衣鉢を継ぐ「すべては物質である」という立場。
「世界は物質でできており、その外部は存在しない」らしい。
ただし差異、関係、変化、運動は否定していない。
では何が、この世界に差異、関係、変化、運動を生じさせるのか。
これが私の質問だが、答えはもらっていない。私は、それを“力”と呼び、
その働きは無規則ではなく“理”があるのでは、とやんわり主張している。w
カラス君にかわって抄録氏が答えてくださってもかまいません。
ああなるほど。少し分かりました
しばし待たれよ。
カラス君、私など気にせず先にどうぞ
スレ立ててみる
>>970 これまで唯意味論など様々なキーワードがありましたが、いくら増えても、唯物論からみれば
理でも知でも物質に意味付けして呼んでいるのだと思うわけです。
物質と関係を持つのも影響を与えるのも物質なのです。
ある物質の「それらしさ」「個性」などは絶対的なものです。
一方「知る」「認識する」などで得られるのは相対的なものです。
未来からみた過去は実際には勝手に過去だと思っているだけなのかな。
だとしたら片思いだな。あるいはその逆かな。
単に物質の定義が違う人に反論する気にはなれない。
呼び名が違うだけで翻訳の問題。
990 :
考える名無しさん:2012/07/29(日) 12:19:21.20 0
>>989
「物質」の概念には、カントの「物自体」、フォイエルバッハ「類としての物質」と、
エンゲルス的な「唯物論」の概念がある。その違いは、どこから生じるのかと言うと、
客観的存在である「物質」に対して、主観的存在(自我)が、「反復」という活動を
「物質」が受け入れるか、受け入れないかにより、「物質」の概念が異なってくる。
つまり、主観と客観との「差異」の状況に於ける「反復」の在りようによって「物質」が
変様していくものであると思う。
量子の概念も無かった時代のどっかの誰かの言葉じゃなくて自分の言葉で語れ
>>977 錯覚の領域と知識の領域に差があるってこと。同一ではない。
理解できない具体例は未来で起こること。それを理解が足りないと
主張する人はいないと思う。決定論では未来で起こることすら確定している
のかもしれないけど。
>>990 唯物論はすべてを物質で説明しなければならない。
主観的存在や反復という活動が物質で無いなら唯物論における物質では
無いことになります。
994 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/29(日) 13:44:26.73 0
>>992 feelとthinkが違うってだけ、わかりやすいね。知識偏重主義ですか。
貴方程度の頭で何かにトライしたって、どうせろくなことは出来ないって自覚したほうがいいよ。
実際そんなこと見えてるか。
995 :
考える名無しさん:2012/07/29(日) 13:55:11.00 0
「唯物論」が客観的存在であることは、誰しも疑わないと思う。そうであれば、
唯物論での「物質」とは、客観的存在としての「物質」と定義される。
客観的存在としての「物質」は、主観的存在との様々な関係に於いて成立している。
「類としての物質」の概念も客観的存在に対する、主観的存在(コギタチオ)の関わり
の中から生じたものです。
唯物論ではその主観的存在というのも客観的存在である「物質」から成立してるわけだ
主観的存在の本質は錯覚、だよ
>>995 唯物論における物質は必ずしも客観的存在と同じ意味では無いと思う。
客観とは主観(視点)によって見られる側。
続きは次スレで
999 :
考える名無しさん:2012/07/29(日) 14:34:45.90 0
「客観的存在」が実体として認識されるのは、その対極にある「主観的存在」が
あるからです。従って、「主観的存在」がなければ、「客観的存在」もないのです。
だから、「主観的存在」と「客観的存在」は、対極にあって互いに独立した存在としてある。
西洋哲学の流れのなかで、デカルトが、精神と物質の連関において「主観的存在」と「客観的存在」の
分離と言う形態で、明確化している。
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