主:山本哲士との『戦後55年を語るE』で〈幻想〉というタームについて、〈制度〉という意味合いにと
れるのは共同幻想だけであり、個体幻想・対幻想に関してはそういう意味合いはない、また、
幻想といっても幻覚・錯覚という意味合いはないとしていた。そう但し書きを加えている。
そこで幻想というタームは〈「有る」の発現〉とも取れるのではないか、根拠の問われる場をも
意味しうるのではないか、という含みと拡がりを感じた。如何せんハイデガーには吉本ほど
の思索の具体性に欠けるのだけど。
客:人間を掴む手付きは歴史の地層に注目するところが同じだからね。吉本の場合、幻想論は文芸
批評の拡張でもあるんだけど、ハイデガーの場合も、没-交渉的世界性に向けた超越というところ
で、芸術論として読めるところがある。
主:例の造悪論という思想も、〈悪ほど阿弥陀の本願に摂取される〉、つまり神との交渉なわけだけ
ど、ハイデガーにも人間と神が己を互いに委譲する、この時人間は〈底なしの深淵〉の発現する場
となる、というテーゼがある。そこも連想させるところだよ。してみると、造悪論でいう悪とは、
阿弥陀の規模まで拡張された悪で、人間から隔たったもの。これを市民社会の規模まで縮小させた
のが吉本バッシングの内実だった。あの当時の社会と吉本の落差はそういうことだった、と見て
いいんじゃないか。